*オリキャラ
・妖精(並)
ファムイースト お酒を醸す程度の能力
序
気がつくと私はそこにいた。
部屋を眺め渡せるそこからは、何人もの人がくるくる立ち回る様子が見えた。
目の黒い人、目の青い人。
濁った暖かい言葉で話す人、透き通った言葉を話す人。
出稼ぎにここまで来たという人は、自分の故郷の座敷の神様を思い浮かべた。
海の向こうで生まれたという人は、寝ている間に仕事をする靴屋の友人を思い浮かべた。
私をそこへ連れてきたという人は、私の名前を見て何やら難しい姿を思い浮かべた。
あれこれと指示を出している人は、私は馬鹿げた旧弊だと何も思い浮かべなかった。
やがてそのどれもが私になる。
どれが私かなんて、失礼かも知れないけど言ってしまおう、
それはどの川が海になるかってぐらい馬鹿げた質問。
1
採集の途中で雨が降ってきた。霧を伴うじっとりした無音の雨。
ただでさえ歩き疲れてきたところだった。ツキのない話だぜ、なんて軽口を飛ばす気にもならない。雨をしのげる場所を探さなくては。あまり茸を濡らすとあとあと面倒なことになる。被っていた帽子を籠に載せた。
辺りを見回しても、この辺りは杉が並ぶばかりだった。杉は素っ気ない幹をしている。入り込めそうな洞もないし、たたずまいからしてこちらに何の関心も払ってくれそうにない、無表情で嫌な樹だ。だいいち私は杉の幹の、あのかさかさした皮も気に入らなければ、あの茶色に染まった枯れ枝が積み重なった場所も歩きづらくて大嫌いだ。根もとの回りにうっすらと雨の染みこんでいない領域があっても、そこに入るのはどうしてもためらわれた。
私はとりあえず杉林が抜けられる方へと歩き出した。森のこの辺りにはあまり来たことがなかったが、本当に危なくなったら飛べば済む話だ。林の奥は少し明るくなっている。広場のような開けた場所があるようだった。それから、霧をかぶった何かの大きな影が見える。近寄ってみてだんだんとその色が見えてきた。はじめ岩か何かとも思われたそれは、明らかに人の造ったたてものだ。
森にこんなものがあるとは思わなかった。そりゃあここは幻想郷だし、森と言ったらこの魔法の森が一番深い森だから、人知れず廃墟がここに幻想入りしてきたって、まあ原理的には理解できる。ほら、こうして見れば紅魔館に似ていなくもない。でも基本的なフォルムは全然違う。存在する理由が根っこから違う。これは幻想郷に異質なものだ。
――それは赤煉瓦の工場だった。
気を取り直すのにそう時間はかからなかった。
工場だろうが火葬場だろうがなんだっていい。今の私にとって屋根があればそこは雨宿りのための場所だ。そして軒先を借りるなんてケチなことは言わないのが私の役回り。なので中まで入るのも雨宿りのためである。
裏口の木のドアは拍子抜けするほど簡単に開いた。中の空気の匂いがどこかで嗅いだような匂いだったので、拍子抜けした。工場といえば、外の世界の話にしょっちゅう出てくる。小ぎれいな緑の床に、川みたいに流れながら手品か何かのようにぽん、ぽんと形を変えていく品々。匂いとかなんてものは全くないか、幻想郷にはない匂いがするんだろう。
なのにここと来たら、今にも杜氏の唄か何かが聞えてきそうな、饐えたような甘いような酒蔵の匂いがする。タイルの床はところどころ欠けて穴が開いている。もう一つ扉を開けると、酒蔵の匂いが一段と強くなった。壁に沿って、何個かは床に転がって、巨大な桶がいくつもある。私なんかは楽々とその中に入れる。清酒のそれよりも小さいが、たぶん同じ役割のものだろう。ここが酒を造っている工場だということはよく分かった。外観も西洋風だから西洋の酒だろう。そうなると私としては、工場の建築的意義だとか、そういうものは一気にどうでも良くなった。
酒。そう、酒だよ。
お酒のちょっと気の利いたのでも持って帰れれば、今日の採集では一番の収穫になりそうだ。それにここは工場跡だから、もしかしたら一人では飲みきれない量の酒がどこかにあるかも知れない。まさに宝の山というやつだ。ラム酒、ウイスキー、ブランデー、私は舌なめずりをしかねないほくほく顔で、続く部屋の扉を開けた。
そこは行き止まりの小部屋だった。職工の控え室かもしれないし、試飲や記帳やそういった作業に使われた部屋かも知れない。ここが酒蔵の匂いが一番濃い。煉瓦の圧迫感ある造りで、窓の一つもない。小さな卓と椅子があって、卓の上ではランプが今も、白々と灯っていた。それだけではなく、部屋に先客がいる。ノックもなしに部屋を開けた侵入者を驚いた顔で見ている。人の子どものようにも見えるが、こんなところに普通の人間がいるはずがない。
「妖精?」
私がつぶやくと彼女は少し考え、妖精と口に出して響きを確認するようにしてからこくんとうなずいた。栗色の髪を綺麗に肩辺りで切りそろえている。目は鋭くはない。どちらかというとおっとりした印象だ。他の妖精と同じように、品のいい子どもが身につけるような服装をしているが、不思議に和風の意匠が混じっている。羽根は服の中なのか、見えない。
「ここで何してんだ?」
そう問いたいのは向こうだろうに。気の毒なほどのんびりした彼女はまたしても少し考えるようにしてから、「さあ」とだけ答えた。
「でも、けっこう昔からいるよ?」
「昔ってどのくらい?」
「100年くらい」
つまりこいつは、あの紫もやしに劣らないほどの引きこもりらしい。妖精なのに。
「何で」
「おしごと」
二番目の驚きだ。こいつは働くらしい。妖精なのに。
「仕事って、酒造りか?お前が何を出来るって言うんだ」
「あたしがいなかったらここで造ってた麦酒だってずっと麦ジュースのまんまだ」
なるほど、つまりこいつは発酵か何かをする妖精ということか。はじめて聞く種類だ。ついでに麦酒と聞いて私は少々がっかりした。なんせ保存の利く酒ではない(冷やさなきゃならないものは概して保存が利かないものだ)。土産もなし、宝の山もなし、というわけだ。
「でも、人間たちは私がいなくてもお酒を造れるようになった」
少し沈んだ様子で妖精が話を続けた。
「私がおいしいお酒を造ろうってみんなに号令をかけなくても、人間たちは自分のために手下を増やして、それで勝手にお酒をつくるようになった。その方がいつも同じものができるからって」
腰掛けたまま、自分の膝辺りを見て喋っていた妖精が顔を上げて私を見た。
「だからそれからこの部屋にいるの。この部屋はあんまり使われないし、他にどこに行ったらいいか分からないから」
「それで、この工場はいつごろ幻想郷に来たんだ?」
「幻想郷?」
可愛らしく小首を傾げているが、そのあと壊滅的なことを言った。
「なにそれ?」
私は一つため息をついて、この妖精に説明してやった。
――――○――――○――――
設備の効率化、とかそういうもので、この妖精(自分の名前を忘れていたので、私が「ファムイースト」と勝手に名付けた)がいらなくなったのはそう最近のことではなく、もう7、80年も昔のことらしい。そのうち赤煉瓦の工場そのものも姿を消し、幻想郷に流れ着いたとかそんなところだろう。
赤煉瓦の建物が古いものだと言うことは私でも知っている。外の世界でこの建物が取り壊されるか、工場としての姿が幻想のものになるかしたのも相当に昔のことだろう。要するに、このダメな妖精は自分でも知らないうちに、何十年もの歳月を幻想郷で送っていたことになる。そんな話は当然一笑に付されたが、外に無理矢理連れ出したところ、ファムはまわりの森の深さにぎょえええええええ、と大声を出した。ファムのいた場所、もともと工場のあった場所は、北の大地にある新しい町の中だったと言う。
再び、小部屋。
「じゃあ、この工場はもう動かないの?」
「今は無人だし、これからも誰も使わないだろうな。誰かが来るには森が深すぎる」
「まりさは使わない?」
「使えない」
「そっか…」
そう言って寂しそうな顔をする。もしかすると、ファムは自分がもう一度華々しく活躍できる日を、ずっとこの小部屋で待っていたのかも知れない。
「どうしよう」
ファムはすがるような目をこちらに向けてくるわけでもない。両手で頭を抱えながら、卓の真ん中をじっと見ている。どうしたいか、事実自分でも分からないのだろう。
「外に出るのはどうだ」
「外に?」
それは考えても見なかった、と言う表情でファムがこちらをしげしげと見てくる。
「少なくとも、ここにいるよりは面白いんじゃないか?」
「面白い…」
飽きっぽい妖精のくせに100年もここにいたファムだ。愛着やら離れがたい感情も強いのだろう。しばらくぼうっと部屋を見回したあと、「行く」とぽつりと言った。私がファムを促して部屋のドアを開けた。振り返ると、ファムがちょこちょこした動作で部屋のランプを消すところだった。
私がファムに「外に出ないか」と言ったとき、こう思わなかったというと嘘になる。
こいつは何か、便利なんじゃないのか。
帰り道、タンクの並ぶあの醸造部屋の真ん中あたりに一本渡された黒ずんだ梁、その梁が壁とぶつかるところに小さな祠があるのに気づいた。お札の貼られた木の板と小さな徳利が一本お供えしてある。この工場は明治時代あたりの日本のもので、少なくとも昔、ファムはずいぶんありがたがられていたらしい。繋いだ手の先にいるファムは、立ち止まった私を不思議そうに見上げている。
ふと、ファムを連れ出すことが何か取り返しのつかないことのように思えてきて――。
――――○――――○――――
雨はもう止んでいた。廃墟を出た私は、ファムを箒の後ろに乗せて家路についた。西の空は黒い雲が切れて鈍い黄色に染まっていた。ファムは食い入るようにじっとその方角を見ている。
「ありゃ、魔理沙さん、未成年者略取は犯罪って知ってた?」
箒に落ちてくる影を確認するまでもない。天狗のブンヤだ。魔法の森の上空なんて、こんなところまで飛んでくるとは思わなかった。
「油風呂か昆布と混浴ならどっちがいい?」
「鳥は卵が美味しいんですよ。手元に置いて卵を産ませてやるってくらい言ってもらいたいなぁ。で、なんですかその子」
「拾いものだぜ。麦酒酒蔵の廃墟にいたのを見つけた。珍しい妖精だろ」
「ふぅん、妖精ですか…」
妖精と知ったとたん興味がなくなったようだ。らしいといえばらしいが、自分の発見に冷たくされるのは面白くない。文はじろじろと箒の後ろで私にしがみつくファムを観察している。ファムはきょとんとした様子だ。自分なんかをじろじろ見るなら飯が炊けるのを見ていた方が楽しいだろうに、という顔。
「魔理沙さん、私そんなに興味はないんですが、これだけは言っておきますね」
「何だよ」
「この子はたぶん貴女の思い通りには行きません。それは色々な面で言えることです。貴女が何を企んでもこの子はそれが成らない方向へ動き、貴女の献身に対しても同じことが言えます」
私は黙るほかなかった。いきなり何を言い出すのだ、この天狗は。それは予言というか、要するに不吉な予言だった。文はノリに乗って、普段よりだいぶ低いトーンでぼそぼそと喋った。
「要するにお前は何か分かったんだろ?回りくどいこと言わずに教えてくれればいいものを」
「教えません。報道者とは観察者。なのでこのヒントが精一杯です。あーダメダメ。八卦炉構えてもダメです。コメント付け加えるなら、そうですね、私個人としては、その酒蔵の麦酒を飲んでみたいものです。そこの子が醸したやつを。なので魔理沙さんがその方面では成功することを願ってます」
じゃあねー、と最後だけはにこやかに手を振って去る彼女を見ながら、私はいつファムの能力を喋ったかな、と気になった。
「まあいいや、おいファム、お前好きな食べ物とかあるか?」
「麦芽糖」
「じゃあ今日はカレーにしようか」
「うん」
2
「まあ悪くないどぶろくね」
「だろ?三日で作れた」
ふふん、と脇に座っていたファムが胸を張る。霊夢は縁側からずり落ちかねない勢いで驚いた。普通どぶろくの発酵なんて2~3週間はかかるからだ。
「三日ぁ!?…なるほどねぇ。魔理沙がわざわざその子を養う訳が分かったわ」
「今回みたいな急速発酵はそう何回も出来ないらしいけどな。普通に発酵するだけでも、雑菌退治やら発酵具合の調節が出来るそうだ。パン生地膨らますのだって種いらず。アリスがずいぶん喜んでたな」
「うちのぬか床もいけるのかしらね、この子は」
霊夢がファムの頭を撫でようとすると、ファムはうずうずした様子で首をめいっぱい伸ばした。もう四日ばかりファムと一つ屋根の下をしたが、最初の印象通りというか最初の印象以上にこいつは子どもっぽい。なんせコミュニケーションに飢えていたのだろう。頭を撫でてやるとこっちが申し訳ないくらいに喜ぶ。ちなみにカレーも大好きだ。
「…?」
霊夢がファムの頭を触った瞬間、静電気でも当たったように手を引っ込めた。
「どうした?霊夢」
声をかけると霊夢ははっとしたようにファムの頭を再び触り、今度は普通になで始めた。
「いや、この子…」
「撫で心地に問題でもあるのか?残念ながら頭は洗わせてくれないんだ。石鹸が嫌いだとかで」
「人間じゃないんだからそうそう垢なんて。って別にそう言うことじゃなくて、その、まあいいわ。気のせいかも知れないし。……ところで魔理沙はどうするの?」
「おい、ふーふー吹いてから飲めよ。熱いから。どうするって、何が?」
「この子。ずっと家に置いておくの?」
「うーん、廃墟にまた置き去りにするのも、なんだか可哀想だし。かといって家で暮らすのもいろいろと無理がある。こいつがまたずいぶんと仕事熱心でな。気づいたんだが、家にはそうそう発酵が必要なものはない。とりあえず今日はこれから紅魔館に連れて行こうと思うんだ」
「あそこで働かせる気?」
「別にマージンはもらわないぜ?」
「当たり前よ、もらったら女衒屋の人さらいね。…まあ、行くだけ行ってみたらどう?」
「そうだな。よし、ファム行くぞ。霊夢、ごちそうさん」
「うん」
ファムを片手で抱えながら、私は神社から箒で飛び立ち、箒の首を紅魔館の方角に合わせた。去りぎわ、ぱんぱんと音がする。振り返ると霊夢が鳥居の下で手を合わせて私たちの方を見ながら頭を垂れていた。音は柏手を叩いたものらしい。けったいなことをするやつだ。
あいつも御神酒とか清めの酒とかいろいろあるから、酒の妖精がそんなにありがたいのかな、と私は思った。
3
門番に取り次いで咲夜を呼んでもらった。咲夜も私にはいろいろ言いたいことがあるらしいが(例えばいま図書館でカリカリしている引きこもりの諸問題など)、用件を告げると素直に応じてくれた。私の隣でニコニコと立っているファムをちょっと見たあと、怪訝そうにこう言った。
「妖精?この子が?」
瀟洒な彼女とて時には突発性のボケにあうこともあろう。私は大海の如き広い心で説明してやった。
「この子がって、見たまんま妖精だろ。ここなら仲間が見つかるかと思ってな。本人に聞いたら、別に働くのは嫌いじゃないっていうから。お前なら仕事柄たくさん妖精見てきてるから妖精には詳しいだろ?」
「まあね。そこは任せてもらっても良いけど。ふうん………ねえ、あなた能力は?」
「お酒をつくれる」
ひとまず私が補足してやった。
「こいつは発酵が特技だな。ここって葡萄酒なんかも造ってるんだろ?それにこいつ、パンも膨らませられる。重宝するぜ」
「確かに便利な能力なんだけど…発酵……そんな妖精、私も見たことが…」
「レアだろ。何が不満なんだよ。この私の推薦だぜ」
「だからそれが不満なんだっての。羽根を見せてくれるかしら。羽根の大きさかたちでだいたいの力が分かるの」
「ないよ」
「ああ、こいつ羽根がまだないみたいなんだ」
咲夜が首を振った。やれやれ何も分かっちゃいないのね、という感じだ。
「羽根がない妖精なんていないわよ。私がこれまで見た中には一体も」
「へ?そうなのか?」
「それに100年も生きてきたって?妖精の連中は時間の概念なんてほとんど理解できないわ。少なくとも自分が何年生きてるか知ってるのはもはや並の妖精じゃないわね」
「となると、え?あれ?」
「……魔理沙、私の感じだと、この子は絶対に妖精じゃない気がする。だって発酵なんて妖精の領分じゃないもの。あんなさじ加減一つで具合の変わるような現象、妖精の手には余ると思わない?そうでしょ?妖精のやることときたら、足音を消そうとして自分以外の回り全ての音も消すような過剰なことばっかりよ」
「まあ確かに…じゃあこいつは一体何なんだ」
「とりあえず妖怪にでも分類するしか…そうするともう並の妖精メイドみたいにほいほいと雇う訳にはいかないの。力になれなくて悪いけど、そういわけで」
「ああ、わかった。仕事中に済まなかったな」
咲夜ががしゃん、と門を閉めた。次の瞬間には咲夜はもう鉄柵の向こうに影も形もない。演出好きなやつだ。それとも本当に忙しいのか。傍らにいた門番が形だけは、という感じで門の前を塞ぎ、話しかけてきた。
「この子、妖精じゃなかったんですね」
「ああ。どうもそうみたいだな。おいファム、お前自分は妖精って言ってたろーが。本当は何なんだお前」
「さあ?」
「さては私に妖精って言われて頷いただけか…」
「うん!」
「満面の笑顔で言うなよ…」
「あはは…そうだ、人里の杜氏さんのところに連れて行くのはどうでしょう」
「もう試した。何でか知らないけど、こいつ人里の酒蔵は嫌がるんだ。もともと麦酒つくってたから日本酒が嫌いなのかもな」
「まあ咲夜さんはああ言いましたけど、この子の能力はここでずいぶん役に立つと思います。ただ妖怪となると数が少ないから、お嬢様に名前を覚えられて、その、まあ、いろいろと、…大変かも知れませんが」
「目に浮かぶようだ」
「当分魔理沙さんが一緒に暮らしてあげるのがいいと思います」
と、門番はここでいったん言葉を切り、
「ずいぶん懐いているみたいですから」
4
ファムは妖精ではなく実は妖怪だった!別にそんな事実が発覚したからと言って何の影響もない。カフェオレ頼んだらカフェラテが来たようなものだ。特に波乱もなく二週間が過ぎた。
誰が広めたものやら、ちょくちょくとファム宛に仕事(らしきもの)は舞い込んでくる。まあアリスがピクルス漬けたりパン生地膨らませるのの手伝いとか、紅魔館のワインセラーの保存具合について見てもらいたいとか、その程度。アリスにそれとなくキビヤック製造を勧めてみたが、どこを見回してもアザラシはいそうにないのであきらめた。
大がかりな発酵ができないのでファムはどこか退屈そうだ。暇つぶしに、と頼んでいるうちに私の家はどぶろくだらけになってしまったので、格安で夜雀に卸してやった。
「もう一回大きな工場でお酒をつくってみたい」
お茶の時間に、アリスが持ってきたクッキーをつまみながらファムがぽつりと言った。
「とは言っても、人里で酒を造っているのはお前が嫌がったあそこの酒蔵か、紅魔館のワインセラーくらいしかないからなぁ。あとは妖怪の山か」
「あそこは外の世界より機械が発達してるって言うじゃない?」
「だよなあ。じゃあ妖怪の山に行っても、また昔みたいに…あ、悪い」
「アンタねえ…言わなくていいこと言わなきゃいいじゃない。ファム、紅魔館はどうなの?」
「れみりゃが怖い」
「なるほどな」
「…誰が愛称を先に吹き込んだのよ」
口に含んだクッキーをばりぼり噛んでごくんと飲み下してから、まあ、とファムがちょっと大人ぶった口調で言った。
「まりさといるのなら今のままでも別にいい」
「ですってよ、魔理沙」
「当然だ、こんなに良くしてやってるんだからな」
「耳赤いけど」
「日焼けだぜ」
――――○――――○――――
次の日のこと。午前中に来客があった。誰かと思って迎えると、八雲紫だった。日傘を差しながら、例によって胡散臭い笑みを顔にべたっと張り付かせている。
「霊夢から聞いてね。なんでも発酵のできる妖精さんがいるそうじゃない」
弾幕勝負で距離を取って対峙しているときはそうでもないのだが、こうして地に足を付けて向き合うと、紫の笑顔には有無を言わせぬ強制力があった。自分が小さくなってしまったような錯覚がする。そんなやついない、と言いたかった。どう考えてもこいつが来るのはまともな話ではないからだ。けれどシラを切るのも難しかった。
「こいつがそうだよ。ファムイーストだ」
「へええ、可愛らしいこと」
紫は値踏みするような嫌な目でファムを見る。ファムが怯えた様子を見せる、というのは私のひいき目かも知れないが、ファムは口をつぐんでじっとしていた。やがて紫が顔を上げる。
「うちで果実酒をつくっているの。このところ少し冷え込んだでしょう?お祝い事があるのだけど、間に合いそうにないものだから。発酵の促進、お願いできるかしら?」
「だってさ。どうする?ファム」
仕事に飢えているファムの答えは決まっている。
「行く」
やめときなよ、この女の人は怖いんだから。そう口を挟むこともできず、私は何となく下唇を咬んでそっぽを向いた。
――――○――――○――――
ファムが土間に置かれた瓶を両手で抱えるようにして持った。甘く腐った匂いがする。中の液体が何の果汁なのかは分からない。柿か林檎か桃か、そのあたりだろう。ファムが目をつぶってしばらくじっとしていると、瓶中の泡の勢いが目に見えて増した。何倍速かは分からない。なにせはじめは思い出したように泡が浮くくらいだったのだ。
「なるほどね」
扇子で口元を隠したまま、紫が言う。マヨイガの、蔵のような息苦しい建物の中だ。
「正直、霊夢の証言だけでは当てにならなかったのだけど。これでは私も信じる他ない。この子は発酵を自在に操る力がある」
「そうだよ。それがこいつの能力だ」
だからもう行っていいか、というニュアンスを言外に込めたつもりだったが、紫は涼しい顔で話を続けた。
「貴女はお酒造りにも神様がいるのってご存じかしら。目に見えない菌たちに左右される営みだもの、職人たちの信仰がどのくらい篤かったか想像がつきそうなものよね」
そんなことを言いだす。
「酒蔵ごとにちゃんと神棚を置いて、神社から神様を勧進してくる。もちろん、開化して間もない時期だったのなら、麦酒工場とはいえ神棚があったことは想像に難くない」
「何が言いたいんだよ。ファムがその神さまだってでも言うのか?」
「要点を先に言いましょう。この子は妖精なんかじゃないし、ましてやその辺りにいる妖怪でもない。れっきとした神よ」
「…れっきとしたようには見えないな。ファムは」
「この子ももとはコノハナサクヤヒメのような由緒正しい酒造の神様。もっとも、貴女が彼女を見つけたその麦酒工場では信仰のかたちがあまりはっきりしていなかったから、神と言うにはあまり強い力は持てなかったみたい。信仰といってもせいぜいが験担ぎね。西洋人も混じっていたようだし、核になったイメージがすごく曖昧な状態なの」
紫がぱちんと扇子を閉じた。
「弱小とはいえ、この子は神。それは間違いないことよ。貴女はそれなりの扱いをこの子にしなければならない」
――――○――――○――――
帰りは紫が送ってくれなかったので難儀した。私たちが家に着いたのはもう夜だ。
「おなかがすいた」
「私もだ」
家に入って、朝食の残りのスープを温め、少し固くなったパンといっしょに食べることにした。ちなみに私がいつも食べるのは食パンじゃないから、レミリアに嘘は言っていない。
私がスープでパンをふやかして食べると、ファムもそれを見て真似をした。それから、紫が帰りに持たせてくれたきんぴらごぼう(紫が作った物か藍が作った物か、ちょっと判断がつかない)を開け、それも二人で食べた。
そういえばこいつは神さまなんだよなぁ、と今さらに思い出した。神、と言われて真っ先に頭に浮かぶのは、山の上のあの2柱だ。もっともあいつらは相当に偉い神さまだから、ファムを彼女らと比べるのは酷というものだろう。続けてあの豊作姉妹ならどうか。ファムがもう少し強ければ、勝負にならなくもないという気がした。なんだ、じゃあ神さまって言っても、結局変わらないじゃないか。カフェオレ頼んだらカフェラテが来た…と思いきやカプチーノだった、とそのくらいの話だ。考えをそこで打ち切って、ファム、風呂に入ろうぜ、と声をかけたとき、ファムがけんけんと咳をした。
「なんだ風邪か?…風邪ひくのかお前?」
額に手を当てると、ちょっと冷たい。
「冷たいのも…良くはないな。働いたから疲れたんだろう、早めに寝とけ。ほら着替えた着替えた」
お風呂に入りたい、というような目でこっちを見てくるが、構わず寝室に押し込むことにした。神の体調なんてちょっと私では判断がつかない。永琳のとこにでも、いやいや、神社に聞くのが一番だろう。明日は霊夢を訪ねてみようと決め、浴室に向かった。
風呂から戻ると、ファムはもうだらしなく寝息を立てている。
「神さまとは、ちょっと信じられないなこれは」
そう呟いてから寝た。
――――○――――○――――
翌朝になってもファムの身体は少し冷たいままだった。マフラーと毛糸の帽子を被せて箒の後ろに乗せる。
「お前、気づいてたろ?」
開口一番、霊夢にそう言ってやった。霊夢はちょっと考え込んだ。二週間も前の話だからしょうがない。
「ああ、そりゃ触ればさすがに気づくわよ。その子が神ってことくらいは」
「さすが巫女だな。ぐーたらでも、サボり魔でも」
今さら霊夢は私の軽口に眉をつり上げたりはしない。「まーね」と涼しく流して、また箒を使い始める。二人で縁側に座っていると、ファムがまた例のけんけんという咳をした。
「なに?具合悪いの、その子」
「ちょっとな。風邪みたいなんだが、診てやってくれないか」
「そういうことは先に言いなさいよ、全く」
箒をかたりと倒して霊夢が駆け寄ってきた。ファムの額に手を当て、みぞおちのあたりに指先を当て、最後に両肩に手を当ててしばらく目をつむっていた。ファムは少し辛そうに霊夢から視線を外している。
「魔理沙」
「どうだ、霊夢、何か分かったか」
「やっぱりあんたはこの子を連れ出すべきじゃなかった」
とっさに何と返したらいいのか分からなくなった。霊夢の顔は真剣そのものだ。むしろ少し怒ってさえいるような、そんな表情をしていた。
「この子にはもう力が残っていない。体温が低いのはそのせい。発酵させる力どころか、自分が存在しつづける力だってもうほとんどゼロよ」
霊夢はいったんそこで言葉を区切り、はっきりとこう言った。
「あと一週間もしないうちにこの子は消える」
「何でだ?何でそんなことになるんだよ、おい!」
「あんたが、あんたがこの子をご神体から引き離したからよ」
ご神体と言われて、あの工場の梁の上の神棚を思い出した。あの札の貼られた板。ご神体というのはきっとあれのことなのだろう。
「いい?この子はもう何十年もひとりぼっちで、誰からも信仰されていない。もともと力の弱い神さまなんだから、まだ存在できるのが奇跡に近かったの。この子を長くこの世に止めたいんなら、魔理沙はそっとしておくべきだった」
「違う」
私がはじめて聞くような、きっぱりとした声でファムが言った。
「私はもういらなくなったから、あそこでじっとしていた。だけど、まりさは、私を必要としてくれた。だからそれで、十分」
ファムはふう、と一息ついて、
「短くても、面白いかったし」
と言った。
「私は面白半分にお前の力を使ったんだ。面白半分だよ。だって本当に困ってた訳じゃない、どぶろくなんていつでも飲める、飲めるのに…」
「それでも」
ファムは透き通るように笑った。本当に病気という訳ではないのに、まるで全てを悟った病人のような、透明な笑いだった。
「幸せだよ?」
「ご神体の近くにいれば、この子もあと何年かは保つと思うわ」
霊夢が独り言のようにぽつりと言った。
「ご神体のそばで、動かず、話さずにいればね。さもなければさっき言った通り、一週間。どうするのかは、二人で話し合うなりして決めるのがいいと思う」
「どこか別の場所、例えばここの神社に、ファムの居場所を移すのはできないのか?」
「力の弱い神だと、神社に移った後でも残れるかどうかが分からないの。元々いる神に飲み込まれるかも知れない。他の場所は…たぶんダメね。この子は他ならないあそこの神さまだから」
結局、二択は二択のまま、増えることはなかった。私たちは霊夢に礼を言って神社を出る。これからどうしようか、と私はファムに形ばかりの問いかけをした。
「まりさと一緒がいい」
わかりきった答えだった。
――――○――――○――――
ファムは短い方を選んだ。正直に言えば、私にはそんなの到底選べそうにもない。あとの一週間、ファムとどう過ごせばいいのか、私にはまるで想像ができなかった。私が家を越えて飛び続けているのに気づくと、ファムは不安げに、私の服を引っ張った。
「家にかえろうよ」
工場の前に降り立った。赤い煉瓦の工場は、曇り空を背に死んだように静まりかえっている。ファムは私の服を、さっきよりもいくぶん弱い力で引きながら、それでも私の後ろを律儀についてきた。顔に冷たいものが一滴当たる。雨だ。いつかと同じ雨が降ってきた。
ドアを開けて工場の中に入った。淡い蔵の匂いがする。そして醸造部屋。荒れた部屋の真ん中辺りまで来ると、ファムは転がったタンクの一つに腰を下ろした。そのまま俯いて、何も言わない。私も無言のまま、醸造部屋を後にした。これが最良だと私は思う。この他に、私は何も思いつかなかった。
「まりさ」
ファムの声を、ばんと閉めたドアで遮った。
――――○――――○――――
私は急いで箒にまたがり、なるだけ速く飛んだ。それでもファムの声は耳から離れない。
その方が都合がいい。もっと急ごうという気にさせてくれるから。
私は一つだけ、ファムを救う方法を思いついた。三つ目の選択肢だ。対価がどれほどになるかは分からない。でも、試す価値は十分にあると思う。雲は石炭のように黒く、辺りの景色は夜のように暗い。雨はざあざあ体を打つが、それでも私はマヨイガを目指して一直線に飛ぶ。案内なしに行くのだから、どれほどの距離になるのかは分からない。飛べば、着く。飛ばないと着かない。そんなことを考えながら、何刻か飛んだ。服を通じて雨がどんどん染みこんでくる。自棄になるような濡れ方だ。服を絞れば一週間分の飲み水になりそうなくらい。山をいくつか越え、見慣れない林と鳥居を越えるうちに、景色がだんだんと霧に――。
「ずいぶんな濡れ鼠ね。肺炎になるわよ」
玄関に立って私を見下ろしながら、マヨイガの主はそう言った。
「紫、お前、建物の移動って言うのはできるか?」
「建物?…ああ、そういうこと。あの麦酒工場を人里に移して、職人を募ってもう一回動かそうってとこかしら」
「話が早い。分かっているなら早速頼む」
「あそこがもう一度動き出せば、職人たちの信仰が集まるし、あの子もあの子で充実した日々を過ごせる、と。まあ非の打ち所はないわね。みんな幸せになるように思えるわ」
「だろ?誰も損なんてしないんだ。ファムだってもう一度活躍できる。あいつは何年も何十年も独りでずっと…!」
「なんで?」
一筋縄ではいかないだろうと思ったが、やっぱりだった。なんで、とこの女は言う。
「なんでって…!」
「何で無関係の私がわざわざ?」
やっぱりこの妖怪の思考は全く読めない。というより、この冷徹さが私には理解できそうもなかった。背筋がぞくっとした。
「いらない建物、いらない神、その淘汰は私にとって歓迎すべき事態よ。なのになんでわざわざ私がその子を救わなくてはいけないのかしら」
「ファムの一人くらい、工場をパッと動かすくらいお前なら簡単だろ。いちいち理由が必要なのか」
いい機会だから言っておくわ、と紫が言った。
「今回のあの子みたいな事例は、幻想郷にはごろごろしている。なんならちょっと山の奥に行ってみればいい。炭坑の跡に、忘れられた神社に、廃村。外の世界のそういった廃墟は幻想郷の人知れない場所にたくさんあるわ。そこで祀られていた神さまごとね。それは幻想郷のいわば負の部分。人妖のバランスは当然考えてあっても、神の流入までは考えていなかった。こんなに早く神が減るなんて、当時は予想できなかったもの」
紫の口調がだんだんと熱を帯び始める。言うことの冷たさとは裏腹に。ただ私には、紫の言うことが一般論すぎて、ファムを巡る出来事とそれを結びつけることがどうしてもできなかった。なんとなく、紫はあえて距離を取って話している気がした。
「幻想郷でまかなえる信仰は限りがある。有象無象の神にまで振り分けていたら、神奈子や穣子の分がなくなってしまう、バランスが失われてしまう」
「だからお前はファムを見捨てるのか」
「ファムなんて、勝手に名付けた名で呼ぶのはお止しなさい。あれは名無しのちっぽけな神よ」
私が逆らうような目で紫を睨み付けると、紫は視線を跳ね返すように、少し、声を荒げた。
「……仕方ないでしょう?一度助けたらどこで線引きをするのよ、全員助けることなんてできやしない、だったら最初から一柱も助けない方がマシだわ。私はここの維持者よ?それなりの役割がある」
「臆病者」
「何とでも言えばいいわ。ただ、だったら貴女は偽善者よ…。遠回しに自分の首を絞めることにまだ気づいていない。気づいていたらきっと、あなたはあの子を助けない」
「助けるさ」
紫がはっと息を呑む。けれど紫はすぐに私の言葉を疑い、余裕の表情を繕った。
「どうだか」
「友達だからな、ファムは」
「その名で呼ぶなと…」
「なあ、いつからだ?」
「何がよ」
「いつからお前は、そういう神さまたちを名前で呼ばなくなった?」
紫が一瞬だけ泣きそうな顔を浮かべた。けれどそれもすぐに仮面の後ろへと隠れた。
「誰に聞いたの?」
「私のカンだよ。お前も過去の多い女性らしいからな。私と似たような経験の一つや二つ、どうもありそうだと思って」
「…………」
「いいか、私は難しいことは知らないし知ったこっちゃない。ただ私はファムを助けたいだけだ。友達のファムだ。名無しの神さまなんかじゃない。もし、別の名無しの神さまが友達になるんだったら、私はそいつも助ける。何せ友達だからな。それだけの」
ぐらり、と目の前が回って、気がつくと私は玄関の土間にぶっ倒れていた。幸い頭は打っていないみたいだが、ものすごい悪寒を感じる。いつの間にか私はがたがたと震えていた。
「…あれ?」
「ちょっと貴女…ああ、もう、だから言わんこっちゃない。…すごい熱よ」
「とにかくだ、お前の主義は曲げて、今回はファムを助けろ。礼はする」
「藍、手ぬぐいを二本持ってきなさい。濡らしたのと、乾いたの。あとは着替えもね。…タダでは嫌。対価は払ってもらうわ。だって私は気が乗らないのだから」
「払うさ、いくらだって。一生かかったって」
紫の膝は不思議と柔らかい。下から覗き込むとまた違う顔に見えるから不思議だった。
「それと、忘れないで。これは特例よ。単に私が麦酒が好きだって言うだけの話。それであの子に」
「ファム」
「…ファムに目をこぼす特別な例。だから金輪際、貴女が次の神さまと友達になったって、私は一切手は貸さない」
「いや、貸すだろうな」
「貸さないって言ってるでしょう」
どうも私は熱に浮かされていたのだと思う。こんなことを面と向かって紫に言ったなんて、自分でも信じられないから。
「だって紫は、ただの偽悪者だ…。たぶん根は泣き虫の」
「莫迦ね…」
それを耳にしたあと、私の意識はふっつり途切れた。本当に突然、闇の中に落ちるように。
5
人里の真ん中の広場に立って東を見ると、見慣れた商家の低い屋根の向こうに、ずんぐりした赤い建物が見える。もう森の中にあったときのような死んだ廃墟ではない。煙突からはしきりに煙が上がっているし、物珍しさで窓から中を覗き込む人も後を絶たない。ガラスの窓から中を見ると、忙しそうに立ち働く若者が2、3人(彼らは農家の次男坊だ)と、怒鳴りつけるように指示を出す老年の男が一人(彼は進歩主義な元杜氏)。それからときどき、梁の上に腰掛けて仕事場を見ている女の子の姿――。
それ以上知りたいのなら、そこの麦酒を飲んでみると良い。
きっと笑いたくなるくらいに美味いから。
「めでたしめでたし、と。あー、私は何も得してないな」
私は自分の家のベッドにごろんと転がり、一人こぼした。あのときは肺炎になりかかっていたらしいが、幸いもうほとんど回復している。今寝ているのはただの不貞寝だ。
麦酒の評判は上々。あの年老いた元杜氏、現・ファムイーストブルワリィの麦酒職工は「こんな孫娘みてえな可愛い神さまかい」とファムを見て目を細めていたとか。霊夢はちゃっかり、神社にファムの分社を造った。天狗とつるんで意外な宣伝手腕を発揮し、あろうことかあの博麗神社に参拝客が大勢押し寄せるという、槍が降るより珍しい事態になっている。
ちらりと明かりの落ちた台所を見る。テーブルのところに忘れられたように小麦粉の壺やら、どぶろくの入った瓶やら、二人ぶんの皿やらがおいてある。私には、と言えば特に何も残っていない。ついでに紫には量の知れない負債を抱える身だ。あそこのどぶろくでも一気したい衝動に駆られる。
「下手をこいた。ああもう」
我ながら感情にまかせて軽はずみな契約をしたものだ、と後悔は汲んでも汲んでも湧いてくる。もっと上手く立ち回れなかったものか、と。紫がいくら請求してくるのかは怖くて想像もできない。財産目当てに香霖とでも結婚するほかないかな、と考えながら仰向けになった。その時、私の目の前で突然空間がパックリ裂け、スキマがにょっきりと顔を出した。
「ひどい顔ねえ」
「うるさい、取り立てか。取り立てなんだな畜生。何もないぜ」
「ご明察。ねえ、後悔してるならそうお言いなさいな。特別に勘弁してあげるから」
そう言われるとかえって別の感情がむくむくと湧いてきた。強がり、といわれればそれまでだけど。
「後悔なんてしてないさ。最初に言ったろ?誰も不幸せになんかなってない」
「そう…じゃあ、あなたは債権者の私の言うことは何でも聞いてもらうわよ」
紫はいつもの気味悪い笑みを浮かべながら、私の体をつまみ上げてひょい、とスキマの中に放り込んだ。あろうことかこいつは私の服を脱がせにかかる。必死に抵抗しながら、さっきの決意とは裏腹についつい高い声が出た。
「身体は、身体だけはー!!」
「んなことするか!この阿呆!」
紫はスキマの中で手早く私のしわのついた服を脱がすと、パリっと糊のきいたようなブラウスとスカート、エプロンに私を着替えさせ、髪に軽く櫛を入れた。
「なんの真似だ。身ぎれいにしてから売る気か。それとも食べる気か」
「そうされたい?」
「いや、お断り」
紫は身支度の調った私の耳に口を寄せ、得体の知れないことを囁いた。
「なぜか親切な子が一人いてね。あなたの債務を肩代わりしてくれるそうよ。私も喜んでそちらから受け取ることにしたわ。円建てでも弗建てでもない、麦酒建てでね」
「おい、紫、それって」
「なんたって麦酒はまだまだ貴重品ですものね」
質問する間もなく、私の体はふわりと落とされた。そのうちにパッと辺りが明るくなる。トンと軽い衝撃があって、私は畳の床に尻餅をついていた。周りを見渡すと、旅館の大広間のような宴会場。
「ここは…マヨイガ?」
それから目の前の十数席を埋め尽くす見知った顔。私の位置は、床の間を背にした上座。みんなとは席の向きが90度違う。
「遅い!魔理沙!」だの「遅いわよ」だの「咲夜ー、先に飲みたい」だのと好き勝手なことを言う連中を前に、私は状況が一向に掴めない。ただ、私は自分が報われたことを知る。それも最高の形で。
みなが一斉に麦酒瓶を開ける。しゅぽんと景気のいい音がして、しゅわしゅわ言う音が広間にいっぱいになる。ぼんやりとそれを眺めていると、脇から袖をつかまれた。
「まりさ」
ファムが待ちきれないという様子で首をめいっぱい伸ばしている。私はファムの頭に手を伸ばす。紫がなにやら透明な笑顔でもって私のグラスに、黄金色の麦酒を注いだ。
本当に、笑いたくなるほど―――。
東京23区には、実は三千以上の神社仏閣(お稲荷さん含む)があるそうですが。
意外といるような気がするんですがねぇ…
とても素晴らしかったです。
今日の仕事が終わった後の晩酌は、きっといつもと違う味になりそうです。
オリキャラを上手く話に組み込んでいると思います。
ファムかわいいよファム。
神を人が拾うってのも皮肉なものですな。
ビールは苦手だけどちょっと飲んでみようかな。
最近その気にならなかったから呑んでなかったけど、久しぶりに飲もうか。
まずは栓を開ける前に手を合わせて、と。
次にじわりとしたコクと旨み。
まさに麦酒のようなお話、ごちそうさまでした。
乾杯!
今夜はこれからビール三昧です。
ファムかわいいよファム。
日本にはまだまだこんな神様が沢山いるんだと信じたいです。
少年っぽい魔理沙を主役に据えたことで、ノスタルジックで懐かしい物語の王道になっていると思います。
紫と魔理沙の問答も、生きている時間の差、老いと若きを感じさせてとても充実しているように感じました。
この一言にのっくあうと。
魔理沙とファムの仲にほくほくした気分になれました。
・・・あぁ、良かった。幸せな終わり方で。
ちょっとだけビールも好きになれそうです。
魔理沙も「ああ、魔理沙ってこういうキャラだよなあ」と思わせるような魅力がありました。