以下の点にご注意を
・ 脳内設定が駄々漏れです。(秘封の二人が飛び級だったり……)
・ 萃香の話ではないです。出したかったけど。
・ キャラクターの設定や能力等に関する拡大解釈を大量に含みます。
・ ◇◆◇ を境にして過去の話と今の話を交互に、という構成ですが、OPやら幕間やらの本筋からそれる部分は * * * で囲ってあります。
・ 秘封倶楽部のネタを多々含みます。あんまり知らんよ、という方は「秘封倶楽部の時代は(たぶん)今より未来」「新たな首都となった京都では千年以上も霊的研究が続けられている」という設定を踏まえてお読みください。ではでは……
ん? ああ、あんたは『ここ』に流れ着いてから日が浅いんだね。
ここでの戦いはさ、これが一見すると本気で殺し合ってるようにも見えるんだけども、ほら、いかんせん妖怪さま等はお体が丈夫だろ? だからありゃあ詰まるところは遊びの一種なんだ。
そうさな……ほれ、お前さんが外から伝えた『さっかあ』とかいう球技。あれだってさ、蹴り合ったりぶつかり合ったりで、知らない人間からすりゃ喧嘩みたく見えるけど、知ってる奴からすりゃ遊戯だろ? それと一緒なのよ。まあスケールがとんでもないから傍目にゃすげえことやってるように見えるし、素人が首突っ込むのは危険なんだけども……ん? 遊びの割には会話が物騒だって? はは、あんたそりゃあ決闘なんだ、前口上の一つや二つ垂れなくちゃあ締まらないってもんだろ?
まあ、そういうことだからさ、ルールきちっと守ってりゃこの幻想郷で本気の暴力に出くわすなんてことはほとんどないと思うよ。
もしあるとしたら、それは、博麗が――――
* * *
――――岩手県某所
研究所の白い壁というのは、どこもかしくもちっとも装飾的でないから気が滅入るばかりだ。
偏執的に無機質で、圧迫感だの閉塞感だのしか感じられない。そうすることで何か成果が向上するとでも思っているのだろうか? ばかばかしいと思う。閉じ込められている――そう感じるばかりで、何の意味もない。
倉田弘がそんなふうに苛々している理由は二つあった。
一つはもともとここが嫌いだったからである。
もう一つは、残っていた仕事もあらかた片付いて、後は今日の結界の観測データをまとめるばかりという矢先に、新たな厄介事を背負い込まされてしまったからだった。
「友人が――消えてしまいました」
そろそろ夜更かしが体力的に辛い歳だったから倉田は早く帰宅してしまいたかったのだが、三十分ばかり前、午前2時を回った頃、突然倉田が勤める研究所に一人の女性が駆け込んで来たのである。
仕事を終えて手が空いていたから仕方なく応対にあたった倉田に対し、その女性――宇佐見蓮子はそう告げたのだった。
蓮子は警察へと通報した後、一路この場を訪れたのだそうだ。警察に通報済みであるのにわざわざ彼女がこの研究所を訪れたのには、もちろん理由があって――
「メリー、友人は空間のひずみ――結界って言うんでしょうか? それを見ることが出来て、それでその付近で消えて――」
――そんなこと、ここに持ちこまれてどうこうなるもんでもないぞ
その友人というのが希少な結界視の能力の持ち主だったそうで、つまりこれはただの遭難・失踪の類ではない可能性があるということだ。
――神隠しか……
酉京都に本部を置くこの研究機関は、前時代においては霊的な事柄として捉えられたような事象全般に対する科学的研究・観測を主として行っている。ここはその岩手支部にあたり、倉田の部署では主として結界というものを取り扱っている。
また、神隠しというのはその研究員の間で用いられているスラングのようなもので、結界の『向こう側』へと呑まれてしまう現象のことをいう。
その『向こう側』には何も無い。
真っ暗で虚無的な空間がただひたすらに、際限もなく広がるばかり――運良く神隠しから帰ってきた人間たちは皆そういう証言をしている。
蓮子の言う通り結界というのは単なる空間のひずみでしかないのだ。
幾世紀かの昔に語られたような、神の意思だ何だといった超常的な力が作用しているということではないし、またその向こうにお伽の国があるとかいうわけでもない。大体今日日そんな大層なものがこの世に存在しないということは、子どもだって知っている。
だから結界だなんだといった呼称は実のところ全く適切でない。(それが故のスラングなのだが)
結局のところ結界についての研究は、単に座標空間上に生じた余剰やひずみを日々観測し、分析しているだけに過ぎないのである。物理学が現在の水準に達する以前においては、こういった空間の歪みの類はオカルト研究の一分野として取り扱われることも多かったので、そのカテゴライズや用語・名称をそのまま受け継いだというだけのことだ。
神秘性などはかけらもないし、すでに学会でも『結界』という民俗学と混合したかのような用語そのものを改めるべきであるという声も上がっている。
異世界。桃源郷。幻想の国。
そんなものは、無い。
そういう黴臭くも魅力的な言葉たちは、一切ここには立ち入っては来ないのだ。
この科学の世紀にそういった言葉たちはその重みを失い、そして現と違えた夢たちを追い求めて発展を重ねた科学は、自身が時代の主役となったとき、その夢自体を終わらせてしまった。
抱いた夢が非科学的であったなら、科学理論と照らし合わされ切って捨てられる。よしんば科学的整合性が保たれていたとしても、やはりそれはすぐさま理論に照らし合わされ、実現可能か不可能かという実に色気のない考察の対象へと変じてしまう。夢へと思いを馳せる暇など一刻とない。
それでも人の心の内に夢はある――そんな思いもまた、心理学が発展し相対性精神学へと移り変わる過程で失われた。
夢は夢だが、それは単なる一つの現実でしかない。
そういう結論が相対性心理学により提示され、そしてその考え方があらゆる文化へ遍く浸透した結果、この国の人間はその事実をかなり幼い段階で不可避的に学習させられることとなった。
そうして現と夢はいまや一緒くたになり、空想はその価値を剥奪されただの無味乾燥なものへと成り下がってしまった。
だからだろうか、この国では心から笑うことがとても難しい。子どもも大人も知らぬ間に緩慢な虚無と厭世に蝕まれている。夢の育まれない時代なのだと思う。
無論そういったことをそのまま素直に受け入れられるかといえば、決してそういうことはなく、故に若い頃の倉田は随分と悩んだものだった。
「関係のないことを聞いて申し訳ないんですが、どうしてここを?」
物思いに耽りそうになる自分を戒めつつ、倉田は気になっていたことをたずねる。
この分野が正式に学術研究の一端として認められその産声を上げたのは、わずかに10年前のことなのだ。
たったの10年。
そんな真新しい――というと聞こえは良いが要するにマイナーな――ジャンルに関する研究機関の存在など、一般の人間は知らないはずなのである。
「私と友人は酉京大学の院生です」
「ああ、それで」
腑に落ちた。この研究は酉京大学が主導となって行われているから、そこに属する人間ならば、これは知っていてもおかしくはない。
神亀の遷都の折、旧東京大学と旧京都大学が合併して新しい大学が生まれた。それが酉京大学である。大学名については大もめにもめたらしいが、ともあれ名実ともにこの国の最高教育研究機関であることは疑いようもない。
だからその修士課程といえば最難関中の最難関というべき代物なのだが、机を挟んで倉田の前に座る蓮子はかなり華奢な体躯をしていて、背丈もそれほど高くなく、一見してそんな大仰な場所に属しているようには見えない。
聞けば、その友人ともども高校を飛ばして大学へと入学し、さらにそのまま二年足らずで大学院へと進んでしまったのだそうである。
天才というのはいるものだな――倉田はそんなどうでもいい感想を抱いた。凡人の己にはどうでもいいことだった。
大方の物理屋の例に漏れず、蓮子の顔はどことなく暗い。
友人が失踪したから、というのもあるのだろうが、たぶんこれは生来の暗さである。物理畑の人間などは、大体世界の構造が見えすぎて夢など欠片も抱いていないものなのだ。その厭世観は、恐らく倉田の比ではないだろう。自殺者も多いと聞く。
頭が良すぎるというのも考えもの、といったところだろうか。
蓮子とその友人は、旅行で蓮台野を訪れていたのだそうで、そこへ赴くのはかれこれ三度目のということだった。
一度目は蓮台野墓所。二度目は遠野三山の一つの早池峰(はやちね)山。そして今回が三度目であるそうだ。
物好きだなと思う。
だからてっきりオカルトサークルの類かと思ったのだが、そういうことではないらしい。
「主任!」
突然乱暴に扉が開かれ、倉田とともに居残っていた部下の一人が飛び込んでくる。
「どうした?――ああ、宇佐見さん、少々お待ちくださいね」
「さきほど蓮台野で大規模な結界の発生を確認しました。正式なデータは出てないんでアナログ算出ですが、モノは天幕型。規模は――蓮台野全域」
「は?」
部下の言っていることが倉田はとっさに理解できなかった。
「蓮台野全部って、お前そりゃ計器の故障じゃないのか?」
「そりゃ確認はしましたよ。いたって正常です。観測対象がでかすぎて観測しきれないっていう、実に正常な観測結果ですよ」
そう言って部下は観測データが記載された用紙を手渡す。
計測不可――そこには確かに部下の言うとおりのことが記されていた。ただ、信じられないほど巨大な結界だということだけは分かる。
「……どういうことだ?」
これまで観測した結界のうち最大規模のものでも、せいぜいが家屋一棟を覆う程度のサイズだったのだ。それがいきなり蓮台野全体とは、飛躍にもほどがある。
「故障じゃあないんだな? 本部には――」
「報告済みです。ことがことなんで他の支部にも念のため報告を入れときました」
「分かった。こんな時間でなんだが、帰った連中を呼び戻せ」
「倉田さん!」
別の部下が、先ほどと同じように喧しく入室してきた。
「今度は何だい……ああ宇佐見さん、すみませんね。もう少々お待ちください」
「ええと、長野支部からの報告です」
「長野? なんで長野なんだ?」
「はぁ、諏訪湖の湖水が消失したそうで」
「湖水が――消失?」
言っていることがよく分からない。
「送られてきた映像記録によると、ほんの数秒の内に、うまい表現が思いつかないんですが、こうぱっと消失してます――まるで最初っからなかったみたいに」
「それは長野さんの担当じゃあないのか?」
「それが湖水の消失時刻がこっちの結界の発生とほぼ同時だったらしくて」
「偶然じゃないのか?」
「消えたのは諏訪湖だけじゃないんです。今のところ確認できている範囲ではその近隣の守矢神社、鳥取の高草群竹林、那須の殺生石――海外はオカルトスポットのプリズムリバー邸にスカーレットマンション……同様に消え失せたそうです。全部が全部、こっちの結界発生と同じ時間です」
――関係しているのか? 一体何が起きている?
状況が一切把握できず、倉田は歯噛みした。
どうやら酉京都側も事態が把握できていないようで、うんともすんとも言わない。ただ各支局からの、あれが消えたこれが消えたという情報だけが次々と舞い込んできている状況だった。
蓮子は先ほどから座ったままうつむいている。その周りでは部下たちが、状況についての憶測を交わす。
そしてそんな喧騒の中、倉田は今までにない奇妙な感覚に見舞われた。
――何だ?
生まれ故郷を天災で失ったかのような、強烈な喪失感が倉田を襲う。
反面、まるでその生まれ故郷に帰ってきたかのような落着感が芽生える。
大いに異なった二つの感覚が、代わる代わるに意識の表層に立ち現れ、倉田は混乱する。
一体どちらの感覚を信じればいいのか。
いや、そもそもなぜ何の前触れもなく突然にこのような感覚に見舞われているのか。
分からない。
眩暈がした。
世界が回る。
足元が、覚束ない。
そもそも己はどこに立っていたのか。
床? 床があるというならこの浮遊感は何だ?
歌が、聞こえる。
『夢違え……』
樂しげで
『世界の…………記憶を………………歴史を…………』
ひどく古い。
『白日は、沈みゆく街に……』
忘れていた何かを倉田は思い出したような気がした。
~ 紫とメリーの神隠し ~
――――A.D.30
何処とも知れぬ丘の上に彼女はいた。
日はだいぶ陰っている。周囲に人影はなく、物悲しい風の音と、その風に草の戦ぐ音だけが妙にはっきりと彼女の耳を侵す。
前方には、彼女の背丈の倍以上はあろうかという十字架が打ち立てられていた。
――磔刑……
腰に襤褸切れを巻かれた半裸の男が磔にされていた。
男の両の手首と足首には釘が打ち据えられ、そこからゆっくりと、しかし絶え間なく血液が滴り落ち、十字架の下の大地を赤く潤している。
その首は不自然に垂れ下がっていて、男が絶命していることは明らかだった。
ただ、彼女の内に死体に対する恐怖だの忌避感だのといった感情は湧き上がらない。目の前の光景はまったく作り物じみていたし、また彼女はつい先ほどまで友人と共に蓮台野と呼ばれる場所にいたことも覚えていたから、自分は夢を見ているのだろうと思ったのだ。
ただ夢にしては血液の照りだとか、死肉の質感だとかが妙にリアルだ――そんなようにも思った。それにこれといった信仰を持たない彼女が、このような宗教的色彩の濃い夢を見るというのもどうにも解せない。
結局彼女は目の前の光景が、夢なのか現なのか判断しあぐねていた。
天球はそんな彼女の戸惑いなどには少しも構わず回っているようで、十字架の遥か後方では今まさに太陽が沈もうとしていた。その太陽の断末魔のような輝きが、あらゆる物の影をどこまでも引き伸ばして、世界には着々と闇が蓄積されていく。
「聖者は十字架に磔られました」
鈴を転がすような、それでいて嫌に無機質な声がした。
いつの間にか十字架の前に一人の少女が立っていた。目前の磔刑の真似事をするかのように、自身の体をもって十字架を描いている。
男の死を悼んでいるのか、
それとも嘲り笑っているのか、
その表情は逆光に阻まれ伺い知れない。
身を包む黒の服地は闇に溶け、反面風になびく金色の髪は陽光の消え行く宵の中、明星のように鮮やかに輝いている。
その髪の向こうに垣間見える瞳は、磔刑の血をそのまま流し込んだかのように紅く、冥く、槍のように鋭い。
人間ではない――本能的に彼女はそう理解した。
その矢先、少女のもとに辺りの闇が、まるで意思を持ったかのようにして集まって来た。
集まった闇は凝集してその密度を増し、やがては少女の背中に漆黒の、巨大な十二枚の羽を象形する。
磔刑に処された男は暗黒が凝った翼に隠され見えなくなり、それに合わせるかのようにして太陽の残光もまた、掻き消えた。
そうして夜が――妖魔夜行の刻限が降りてくる。
彼女は己の身の危険を感じるが、ただあいにくと彼女が持ち合わせていたのは友人が皮肉代わりに寄越した派手な日傘一本のみだった。
甚だ心もとない。
――ふざけ半分でセレブだなんて言うんじゃなかったわ……
かつてヒロシゲの車内で発した己の言葉を後悔する彼女は、自分でも気が付かないうちに眼前の光景は夢ではないのだと認識していた。
そうして知らぬ間に、あるべき時代への帰路は閉ざされて、
彼女は時の奔流より弾かれる。
その彼女の目は今までにない程はっきりと境界を捉えていた。
◇◆◇
「千年の幻想京を飛び出し、我らが秘封倶楽部は夜のデンデラ野を逝くのであった」
隣を歩くメリーは芝居がかった口調でそう言うと、手にした懐中電灯をぶんぶんと振り回した。人工の光が夜の森と、目的地の神社へと通ずる参道を照らす。
楽しそうである。何だか大学生とは思えないくらい無邪気だ。
一方の蓮子はといえば、懐中電灯に目が眩んで一時的に星が見えなくなり、少しそわそわとする。蓮子は己の能力を利用し、夜の時間を刻む癖があった。
「やめなさいってば。だいたいここはもう早池峰山の中よ」
早池峰山は遠野三山の内の一峰である。
この辺りを訪れるのは二度目のことで、前回のときは墓荒らし紛いのことをやって蓮子は随分とメリーから顰蹙を買ったのだった。
二人はそびえる石段を上り始める。
「山中異界」
「やめてよ、メリーったら……千年の幻想京って、京都のこと?」
「そうよ。ほら、再来年は千年学会でしょ? だからそう呼ぶの。今決めたの」
大人びたようで、その実悪戯っぽい声。蓮子はメリーのその声が嫌いではない。
千年学会というのは何ということはない、京都における霊的研究千周年を記念して催される学会の通称のことである。正式名称が無闇に長いから誰もがそう呼んではばからないでいる。
「いつから数えて千年なのかしら?」
気になっていたことをメリーにたずねてみる。いかんせん蓮子の学部はその学会とは縁遠いポジションだったので、詳細等はまるで知らなかった。
「さぁ? 西園寺公望が京都帝大を立ち上げる以前から在野ではその手の研究はもう随分と進んでて、京大はそういうあらかじめ上がっていた諸々の研究結果を引き継いで、それを正式に学問の一領域として昇華させた、ってことらしいよ。まあおかげでその手の研究については京都は一大メッカよね――そんなことより神社よ、神社。情報求ム」
「たまにはメリーが調べてよね、もう……えーと、廃社は随分前らしい――資料はほとんど残ってなくて、正確なことは全然分からなかったわ」
目的地の神社に関する事柄である。
「廃社以降も有志による維持管理は行われていたらしいんだけど、それも今ではやってないから……」
「祭神は?」
「お手上げよ。来歴もさっぱりだし、念のために地元の図書館も当たったんだけど――稗史の類に至るまで、隠蔽されたみたいにてんで見付かりゃしない」
懐中電灯を頼りに2人は暗い参道をいく。
蓮子たちの歩いている場所は、早池峰山においてもそれほど標高の高いところではない。それにも関わらず、山内の夜気は何処か下界のそれとは異なっているように感じられるから、異界というのもあながち間違いではないのかもしれない。
参道は手付かずで放置されていたようで、雑草が好き放題に伸びている。あんまり繁茂しているから、様相は獣道と大差がなかった。
「ねえねえ、蓮子」
先を行っていた蓮子の手をメリーが引く。少し冷たい手だと蓮子は思う。
「なに?」
「なんか聞こえなかった? 人の声。歌ってるみたいな」
「何も聞こえなかったけど? 気のせいじゃないの? そういえば図書館の郷土資料には、デンデラ野で歌声が聞こえたら人が消える前触れだって書いてあったわね」
「そういうことを言う……」
ぷいとメリーはそっぽを向いた。
こういう他愛もないやり取りが、しかし妙に楽しく感じられるから、蓮子はこのちっぽけなサークルの活動がやめられないのだ。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンが出会ったのは、今から一年ほど前のことだった。
当時の蓮子は大学に飛び級で合格し、一年次生ながら特例的に『ひも』の研究ゼミにも所属するという、傍から見れば実に順風満帆な大学生活を送っていたのだが、ただ当の本人はどうにも環境の変化に馴染めないでいた。
授業は(蓮子の苦手な解釈物理学を除けば)実に楽しかったし、ゼミのメンバーたちも良しなにしてくれていたのだが、何しろ周りのすべての人間が自分よりも年上なのだ。戸惑いはあった。
所属していたゼミの担当教授は、研究畑の人間にしては珍しくそうした人心の機微によく気が付く人だったようで――実に失礼な偏見だ――、それで蓮子と同年度入学の飛び級生を紹介してくれたのだった。
それがメリーである。
綺麗な子――第一印象はそんなふうだった。
人形のように整った顔立ちと、それに更なる華を添えるしなやかな金の髪。肌は白磁のようにどこまでも均一で乱れがなく、本当に蓮子と同じ時間の流れの中にいるのかどうかが疑わしい――あらゆる衰運を跳ね除け、ずっといつまでも変わらない形で存在し続けるのではないかとすら思わせる、ある種の無機的な美しさを持つ少女。
けれどもその表情は実に豊かで、次々にくるくると変化するのだ。
それはどうにも整い過ぎてややもすれば近寄りがたい容姿に、有機的な変化性を付与し、結果メリーという少女を実に魅力的な形に補完しているのだった。
『伝統というレッテル貼りは文化の保全手段としては有効だけれど、そうすると途端にその文化は大衆の手からはなれて流動性・発展性を喪失すると思うのよ。まったく、それで歌舞伎も能も俳句もあんなに素晴らしいのにみんな見向きもしなくなったわ。それでも日本人なのかしら? あ、そうだわ、今度能でも見に行きましょう。ちょうど新国立能楽堂で『西行桜』もやっていることだし。うんうん、そうしましょう』
変なやつ――第二印象はそんな感じだった。
どういう流れでそんな発言に至ったのかはよく覚えていないが、初対面でいきなり話すようなことではないし、いきなり能楽堂はないだろうとも思う。
ただ後から聞いたところによると、メリーの方も同じ印象を蓮子に対して抱いたのだそうだ。初対面でいきなり小難しい物理の話なんかされるとは思わなかったわ――そのように言われた。
しかしその時の蓮子はといえば、単に11次元宇宙理論について話をしただけである。一体どの辺りが変だったのかちっとも分からないし、そんな非常識人扱いされるいわれはなかったと思うのだが。
ともあれその後は互いにオカルト好きだったり、妙な『目』を持っていたりですぐさま意気投合したのだった。
そうしていつの間にか蓮子にとってメリーは、すっかり大切な人物となっていた。
「ねえねえ、蓮子」
「んー?」
後ろにいたメリーが横に並び立った。
蓮子とほとんど大差のない背丈。夜だというのに相変わらず肌は白いし、髪は明るい。
一方の蓮子はといえばいつも通りの黒をベースにした服装だから、たぶん傍から見ると背景に溶け込んでいるように見えるのだろう。
「腕、組もうよ」
「はあ?」
――いきなりなに言い出すのよ
「こんな足場の悪いとこでそんなことしたら危ないって」
「まあいいでしょ。転びそうになったら蓮子が支えてよ」
「メリーさ、ひょっとして怖いの?」
「……ちょっとだけ」
「しょうがないわね」
結局腕を組むことになる。自分の腕に絡まるメリーの腕は、どうにも細い。
女の子の腕だ――そんな良く分からない感想を抱く。
「8時10分」
星や月を見ると自然に時間が分かってしまう。
遠野の地にはそれらの光を妨げるようなものがないから、その気になれば小数点以下まで分かるだろう。
「時報癖? 気持ち悪い」
「む、ひどい言い草ね」
「だって空ばっかり見てるし――退屈なの?」
そんなことはない。
メリーと一緒ならおおよそ退屈とは無縁だ――そういうような内容のことを言ったら、またしてもそっぽを向かれてしまった。
参道は途中で石段に繋がり、その石段を上り詰めた先には鳥居と思しきものがひっそりと佇んでいた。
朽ちている。
朱塗りの大半は風雨に晒されて削げ落ち、材質が腐って自重に耐えられなくなったか、笠木は無残に折れて石畳の上に転がっていた。
その石畳も、雑草の生き意地に押され荒れ果てている。
そして朽ちた鳥居と荒れた石畳の先には、それらに増して壊れきった本殿があった。
「これが博麗神社……」
暗くて良くは見えないが、社殿に通じる木の階段はところどころ崩れてしまっている。
祭神を俗界より隔てるための仕切りの類は見当たらず、本殿の内部は明け晒されている。中には何もない。屋根瓦ははがれ、天井は穴だらけである。
そこから差し込む月の光が、伽藍の空間を冷たく照らしだしていた。
「荒らされたのね……」
破壊された賽銭箱を見て、蓮子はそう判じた。ただたとえ手付かずだったとしても、相当の期間放置されているのだろうから、様相に大した違いはなかったのだろうが。
雑草の侵食は屋根にまで至る。加えて周囲の木々も縦横好き勝手に伸びているから、場は既に山に呑まれ、山の一部と化している。
かつての神の社はとうの昔に聖域として終わっていた。
「これは――ひどいわ」
メリーがため息混じりで呟く。
「『ほつれ』、見える?」
「ええ。鳥居のところにあるよ」
「そう――この辺りかしら?」
探るようにして蓮子は鳥居へと近付いてみる。
そうして転がった笠木をまたいで鳥居の残骸をくぐる。
突然昼になった。
――え?
眩しい。
何が起きたかわからず、蓮子は混乱する。
ほんの数秒前までは夜の境内にいたはずだ。それが今は陽光に目を眩ませている。
――何よ、これ?
徐々に明るさに目が慣れ、そうして周囲の様相が分かってくるにつけ蓮子は更に混惑した。
鮮やかな朱塗りの鳥居。手入れの行き届いた端正な石畳。小さくも威厳のある本殿。
博麗神社が甦っていた。
復活した神社は柔らかな春の彩の内にある。
桜が満開になっているのだ。季節すら先ほどとはうって変わっている。
本殿へと伸びる石畳は、散った花びらでほど良く桜色に染まっている。夜気の中雑草をそよがせていた風は、今は満開の桜をなぜて吹いていた。
これほど見事な桜を蓮子は初めて見る。
――日本だ……
なぜかそんなふうに感じた。
しばし見惚れる。
しかしすぐに呆けている場合ではないと気付き、辺りを見回した。周囲にメリーの姿は見当たらない。
メリーはどこにいるのか、そもそも今はどういった状況なのか、それらを確かめねば――
「あなたは食べても良い人類?」
「わ!?」
背後から可愛らしい子どもの声がした。蓮子は状況の分析に没頭しかけていたからびっくりする。
振り返ると鳥居の手前に小さな女の子が立っていた。
控えめな色彩の白黒の服。赤いリボンで飾られた金の髪。いかにも少女といったふうな楚々とした装いをしている。
それまで気が付かなかったが、鳥居の向こうの石段も桜の只中にあった。
少女はほほ笑みながら蓮子のもとへと歩み寄ってくる。そしてそのまま蓮子に抱きついた。
「ちょ、ちょっと!?」
迷子だろうか――いきなりのことで面食らう。
少女はといえば、ぴったりと抱きついたまま蓮子を見上げている。顔は人形のようにかわいらしいし、柔らかそうな髪からは何だか良い匂いが漂ってくるからくすぐったくなってしまう。
子どもらしく体温が高い。おまけに流れていた風も遮られたから、とても暖かく感じる。
「驚いた? お昼だし、神社だし、今は食べないの。安心するといいよー」
少し舌足らずな口調で少女は言った。
食べるというのは何のことだろうか――蓮子は少女の言葉がいまいち理解できない。
「んー、あなたは外の人?」
「外?」
理解しがたい言葉が繰り返された。
少女は蓮子のネクタイをくいくいと引っ張っている。
そしておもむろに蓮子から身体を離す。遮られていた風が再び蓮子をなぜた。
「たしかもっと先の時代だったはずだし、まさかな――でも見かけの特徴は一致してる……あいつも『そう』だったんだし、ならそういうこともあるのかしら?」
ぶつぶつと独り言を言っている。
「私はルーミアっていうの。あなた名前は?」
「え? ああ、蓮子。宇佐見蓮子よ」
「レンコ? ……そう。そうなの」
少女は意外そうな表情をする。そして何かを見定めるかのように両の目をすうと細める。
どこか雰囲気が変わって、少し大人びたような気がした。
「おーい、ルーミアー」
「んー、橙~。こっちこっち」
途端にルーミアの表情が、もとの子どものそれへと戻る。
合わせるように空から人が降って来た。しなやかな動作でくるりと回転し、ルーミアの隣に着地する。
降って来たのは、ルーミアと同じぐらいの歳の女の子だった。
橙と呼ばれたその子は、背後の鳥居に似た色をした大陸風の装いをしている。赤茶色の髪の上には緑の帽子。髪の毛の大半が帽子からはみ出ているから、かぶるというよりはただ乗っているといった方が正しい。
さきほど一瞬で夜が昼に変わるという不思議な現象に直面していた蓮子だから、すでに人が空から振ってきたくらいではさほど驚かない。ただそれでも橙の頭に生えたものには少なからず目を見張る。
猫の耳――そうとしか見えないものが橙の頭には生えていた。
――ひょっとしてここ、メリーの……
「この人間だあれ?」
「外来人」
「そうなの? じゃあこれから食べるの?」
ここが仮に蓮子の想像通りの場所ならば、その食べるというのは――
「ひょっとして――食材は私?」
「神社では人間は食べないよ。霊夢こわいもん。それにあなたはわりと特別そうだし」
そう言ってルーミアは笑う。無邪気な笑顔だ。要するにこのルーミアという少女は人食いの類なのだろうが、しかし敵意だの何だのが一切感じられないから、状況を把握した今となってもあまり危機感が湧いてこない。
隣にいた橙がルーミアにたずねる。
「ルーミアはこの人間のこと知ってるの?」
「んー、私は分かんない。それより、橙のご主人様のご主人様、どこにいるか分かる?」
「紫さま? ん~藍さまなら知ってると思うけど」
「言づてをお願い~。神社に来ると面白いものが見られるよーって」
「? よく分かんないけど分かった」
そう言うと橙は空に飛び上がり、蓮子の視界の彼方へと飛んでいった。
「飛んだ……貴女たち、妖怪とかお化けとか、そういうモノ?」
「そうだよ。よく分かったね」
「そりゃあれだけ人間離れした動きをされたらねぇ……それに前に知り合いがここに来てたみたいでね、そいつから話を聞いてたから」
実際メリーの話を聞いていなかったら、蓮子はもっと長い間混乱していたに違いなかったし、こうも冷静ではいられなかっただろう。
「へーそーなのかー――まぁとりあえず神社に行くと良いよ。あそこは人間にとっては安全だから」
「そうなの――ありがとう」
「どういたしまして」
ふわりと浮かび上がるルーミアのもとに、得体の知れない黒いものが集まって、彼女を包み込む形で球体を象った。影が質量を持ったかのような、奇妙な光景である。
「じゃあねー」
球体の中にいると思しきルーミアは、そのまま球体ごとふよふよと飛んでいく。
何だかやたらと障害物に衝突しているがひょっとして前が見えていないのではないか、と彼女の身を案じつつ蓮子はそれを見送った。
そうして一人になった。
東風が吹く。
空は養花天。さざめく桜の音が耳に快い。
漂う芳葩は身体を撫ぜ、地に着いた花びらは風にさらわれ石畳に水彩のような桜色の濃淡を描いている。
先ほどと変わらない、見事な桜だ。
情景は閑雅として、それでいてどこか狂おしく、それを見る蓮子の心中には落ち着きとざわつきとが同時に去来する。
桜の季節はいつだってそうだ。
桜は死を想わせる。
それでいてその花は同時に春の、生の季節の象徴でもある。
そして本来ならば矛盾するはずのその二つの要素は、しかし桜の前においては少しも矛盾せず、むしろ調和してさえいるように感じられる。桜を前にしたとき蓮子はいつもそういう言葉では説明しがたいマージナルな感覚を抱くのだ。
死と生。
その並び立たないはずの二つの代物を隣り合わせ、綯い交ぜにする越境の花――この花そのものがネクロファンタジーなのだと蓮子は思う。
そしてそこまで考えて蓮子は苦笑いをする。どうにも桜を前に置かれるとああだこうだと要らないことを考えてしまうのだ。桜には恒例の、蓮子の悪い癖だった。
「先生、着いたよ~」
「おー、満開だー」
「さくら、さくら!」
やにわに背後が騒がしくなる。何かと思って振り返ると、子どもの一団が石段を上ってきているところだった。遠足か何かだろうか。
「こらこら、あまり騒ぐな」
そう言って子どもたちをいさめるのは、先頭を歩く引率と思しき女性である。蓮子に気が付いたのか、女性は歩み寄ってくる。
「こんにちは。お花見ですか? 失礼だが、里の人ではないですよね?」
どことなく古風な印象を受ける声音である。誰何されるということは不信感を抱かれているのかもしれない。
「えーと外来人? とかなんとか」
身の証の立て方が分からないので、とりあえずルーミアの用いた呼称をそのまま伝えてみた。
「ああ、外の人か」
「せんせー」
「先生はこの人と話があるから、お前たちは先に行っていなさい。賽銭を忘れるなよ?」
「はーい」
子どもたちは元気な返事とともに本殿へ向かって走っていく。もっとも遠足の例に漏れず先頭と末尾が随分離れているようで、まだまだ石段を上っている最中の子どももいるようだった。恐らく最後尾には別の引率の人間がいるのだろう。
「ここは、そうですね……何と表現したものか」
女性は悩むようなそぶりを見せる。背後の本殿の方からは、賽銭や拍手の音が聞こえてくる。
「異界、ですか?」
すでにここが『そういう』場所だと蓮子は知っている。
「――状況は大体把握できているようですね。ただここは貴女がもといた場所と、きちんと地続きな場所ですから安心を。それから神社や人間の里は安全ですが、それ以外の場所での安全は保障できません。一人にはならない方がいい」
そう言えば先ほど人食いらしきものに出くわしたばかりだった――そのことを蓮子は思い出したのだが、それでもちっとも危機感の類は募らなかった。桜にうつつをぬかしていたからか、当の人食いから一向に危ない気配が感じられなかったからか――何にせよ彼女が言う通り、もっと警戒心を持つべきなのだろうと蓮子は自戒した。
それにしても――
――綺麗な髪だなぁ
警戒心云々は脇にやって、蓮子は女性の髪に見入っている。
腰まで伸びる、青みがかった銀色の髪。目に見えて細く、それでいて傷んだ様子はなく、風にさらわれながら淡く輝いている。絹のようなという使い古された言い回しが、実にしっくりと来る髪だった。
そしてその上に――
――銀閣寺?
えらく変わったデザインの帽子が乗っかっていた。
落ち着いた物腰だったから気が付かなかったが、近くで見れば蓮子より少し年下のようだし、帽子のせいで分かりにくいが背丈も存外に低い。先生、と呼ばれるほどには周りの子どもたちと歳が離れているようには見えなかった。
ただし、あくまで外見の話である。
実際には目の前の人物は自分より遥かに長く生きている――理由は分からないが、そう思う。
「まあ、もっともここの巫女に掛け合えばすぐに外の世界に帰れるでしょう――申し遅れました。私は近間の村のもので、上白沢慧音といいます。よろしく」
「あ、宇佐見蓮子です」
「宇佐見さんか――ん?」
女性、慧音は不思議そうな顔をした。
「何だ、これは……一体どうなっている?」
食い入るように蓮子の方を見ながらそう呟く。
ただその目は蓮子自身ではなく、もう少し別の何かを見ているようにも感じられた。
「妙な按配だな……歴史が複数――いや、『上書き』されているのか?」
「あの?」
上書きとは何のことだろうか――先ほどのルーミア同様、蓮子は慧音の発する言葉の意味が理解できなかった。
「あ、失礼。じろじろと不躾だった」
我に返るようなそぶりを見せ、慧音は蓮子に詫びる。その目は、今度はちゃんと蓮子自身を見ているように思った。
そのとき最後尾と思われる一団が到着した。
「ほら、着いたわよ」
「わぁ、きれい――ありがとう、もこお姉ちゃん、輝夜お姉ちゃん」
最後尾というだけあって子どもたちは結構疲れているようだった。
ただ、桜が綺麗だったからか、それとも到着の安堵感からか、結局は最初の子どもたちと同じように元気に駆けていった。
場には後尾の引率役と思われる二人が残る。
「ぷっ、くくっ……もこお姉ちゃんだって。おーい、もこおねえちゃんっ」
片方がからかうようにして言う。
膝まで伸びた黒髪が艶をもって春日を反射している。
身を覆う衣は上は明るい薄紅梅、下は地味な蘇芳色をしていて、一見すると和装のようだが、そこかしこにリボンなどがあしらわれているから洋装のようでもあり、そしてどちらにせよやんごとない立場の人物であることを匂わせる出で立ちだった。
ただ話しぶりや浮かべた笑顔はとても人懐っこいし、居丈高な雰囲気などは微塵もないから特に相手に何かを構えさせる気配はない。
「黙れ、輝夜」
もう片方がむすりとして答える。
輝夜と呼ばれた人物と長さは同様で、色は好対照な白の髪。奇妙な紋様の記されたリボンが、いくつか房を作るようにしてそれをまとめている。
上半身は質素な灰桜色のシャツで、下半身は赤錆色のもんぺ。サイズが合っていないのかもんぺはサスペンダーで吊り下げられているし、シャツも腕回りが余っているようで、ベルトでもってその部分は引き締められている。かなり華奢な体つきなのだろう。
慧音が輝夜に話しかける。
「引率ありがとう、輝夜殿」
「いいのいいの。春なんだから外に出ないとね」
「妹紅もありがとう」
「……いいよ、別に。退屈してたし――ところでそちらはどちら様?」
輝夜が蓮子の方を見ながら言った。
「外の人だそうだ」
「宇佐見蓮子です」
「宇佐見さん、ね。私は蓬莱山輝夜。こっちの無愛想なのはもこお姉ちゃん」
「誰が無愛想よ。あともこ言うな」
「もこもこ」
「むきー!」
「ふふっ、もこもこ」
「慧音まで!?」
何となく三者の力関係が伺い知れた。
「あんたら相変わらずねぇ――賽銭箱はそこよ?」
別の、ゆるゆるとした声が本殿の方からし、会話に混ざる。
本殿の前に、紅白衣装の少女が箒を携え立っていた。
少女は博麗霊夢というのだそうだ。名前の通り、この神社の巫女らしい。
らしい、というのはその装束が蓮子の知る巫女のそれとは随分と異なっていたからで、腋部分の露出した巫女装束など蓮子は初めて見た。
ただ露出があるからといって厭らしい感じはない。健康美だと思うだけである。
その霊夢は縁側に座り閑々の体で煎茶をすすっている。蓮子と慧音も一緒である。実に時間がゆったりと流れていくような気がした。
庭先では輝夜と妹紅の二人と一緒に、子どもたちが遊んでいる。子どもたちと輝夜は笑っていて、妹紅も戸惑いこそすれ嫌がってはいないようだった。
野外で遊んだ経験があまりない蓮子には、子どもたちが何という遊びをしているのかは良く分からない。ただ男の子も女の子も皆嬉々とした笑顔を見せながら楽しそうに駆けていて、それが蓮子にはなんだか眩しかった。
こんなに笑っている子どもたちを最後に見たのは一体いつだろう――懐かしいような、寂しいような、不思議な心持になる。
同時に直感的にある一つの仮定に達し、蓮子は動揺した。
突然変化した神社の様相に、まるで図鑑で見るかのような子どもたちの服装。そして何よりこの場に漂う独特のノスタルジックな空気。
――まさか……ねぇ?
竹林にメモを落としてしまったという、いつぞやのメリーの言葉が蘇る。
あのときは与太だと思っていたが、もしかするとメリーは本当に時間を――
「で、蓮子さんだっけ? ここに出現したのは運が良かったわね。ここなら妖怪に襲われることもない」
霊夢の言葉が蓮子を思索の内から引きずり戻した。
「何を言っているんだ。すでにルーミアに遭遇したそうじゃないか。ちょっとはここが妖怪の溜まり場にならないよう努力したほうが良いぞ? まったく、守矢の神社は遠すぎるし、近い方のここはうかうか立ち寄れもしないし……早苗さんに頼んで村の中に分社でも建てようかな」
「あいつらが勝手に寄ってくるのよ。こっちだって賽銭が入らなくって困る」
言うほど困っているようには見えなかった。
霊夢の持つ雰囲気はかなり独特である。愛想が良いというわけではないが、突き放されているということでもない。近くもなく遠くもない、非常に心地の良い距離感を感じる。だから出会ってからわずかしか経っていないのに、かなり親しく話せているのだった。
暖かくもなく、冷たくもない。
春のようだと蓮子は思った。
「外、って言ったわね。ここは結界の内側、ということ?」
「あれ? 外の人が結界について知ってるなんて、珍しいわね」
「友達がね、そういうのが見えるタイプの奴なのよ」
「ふーん……まあ、お茶飲み終わったら出口を開けるわ。それで――」
「待て」
慧音が霊夢の言葉をさえぎる。
「宇佐見さん、えーと、グレゴリオ暦は分かりますか?」
「ええ」
「貴女は何年生まれです?」
先ほどの予感がフラッシュバックする。
蓮子は自分の生まれた年号を答えた。
「……ええと慧音、今年は?」
頭をかきながら霊夢が慧音にたずねた。
「巫女なら年号くらい覚えておけ……宇佐見さん、冷静に聞いてほしい――今は」
そこで慧音は少し間を置く。言い辛そうだ。
慧音が何を言おうとしているのか、蓮子は既にあらかた予測はしていた。そして仮に予測通りだったとして、もし蓮子が慧音の立場であったなら、自分も言いよどんでいただろうと思う。
車椅子の物理学者は、タイムトラベルの不可能性を論じたが――
「今は、20XX年です」
案の定慧音の言ったそれは、蓮子が生まれるより遥か以前の年号だった。
「冗談、じゃないのよねぇ……タイムトラベルか、特異点は事象の地平線の向こうにしかないんじゃなかったのかしら? まいったわ」
「冷静ですね」
それは違っている。
ある程度予測が出来ていたというだけで、蓮子は十分に焦ってはいるのだ。
ただその焦りを目に見える形で表現してみたところで状況は改善などしないと蓮子は思っているから、傍目には反応が薄く、さして動じていないように見えるというだけである。
「あー、違う時間の人か――じゃあ紫がいないと無理ねぇ。ま、しばらく神社にいると良いわ。あいつのことだからそのうちひょっこり来るだろうし、あいつならなんかよくわからない力で元の場所に返してくれるでしょ。大丈夫大丈夫」
紫――恐らくルーミアや橙の言っていたのと同じ人物なのだろうが、何者なのだろうか。
そして不思議なもので霊夢に大丈夫と言われた途端、蓮子の内からは焦燥の類がすっと退いていってしまった。
「何だ、やけに気前が良いじゃないか」
「さすがに神社に来た人間をほいと投げ出すようなことはしないわよ。まぁ賽銭もいっぱい入ったし、桜も綺麗だし」
そう言うと霊夢は盛大にあくびを一つした。
「私はお昼寝するからあんたらは適当にやってて良いわよ」
霊夢は座布団を二つに折るとそれを枕代わりにして横になった。座布団の素直な折れ方を見るに、たぶん折癖がついているのだろう。
「まったく、こんなに桜も綺麗なのに寝入るのか?」
「だってうちの桜だし、それにこうしてうつらうつらまどろみながら半目で桜の色を楽しむのが私の観桜作法なのよ」
「分かった分かった――季節の変わり目なんだから、寝冷えには気をつけるんだぞ」
「なんか先生みたいね」
「先生だからな」
「そういやそうだったわね。ではお休み~」
そう言うと霊夢は目を閉じた。
ものの数秒でくうくうという寝息が聞こえだす。驚くべき寝付きの良さである。
まどろみながら半目で楽しむのではなかったのか。
「なあに? 来客そっちのけで寝ちゃったの?」
「慧音~、交代」
子どもたちとの遊びが一段落着いたのか、輝夜と妹紅が縁側に座る。
聞けばこの二人は不老不死の身で、幾度となく殺し合いを繰り広げているそうなのだが、そういう殺伐とした気配は今はまったく感じられなかった。
「ああ、二人ともありがとう。蓮子さん、巫女も言っていたけど帰れないということはないですから、安心すると良いですよ」
そう言って慧音は微笑む。
そしてすっくと立ち上がると、庭で遊ぶ子どもたちのもとへと歩んでいった。
「それにしても綺麗な桜ねぇ。竹林は桜がまばらにしかないから、来てよかった」
桜を見上げながら、しみじみ半分のんびり半分といった体で輝夜は言った。
庭先では慧音が生徒たちに何かを教えている。
「妹紅、お茶」
「自分でやれ」
「けち」
輝夜は靴を脱いで部屋に上がると、勝手知ったる人の家と言わんばかりに付近の茶棚から、特に迷うこともなく茶碗を引き当てた。ここへはよく来るのだろうか。
茶を淹れて戻って来た彼女は、妹紅の隣に座った。蓮子と輝夜で妹紅を挟み込むような形になる。
「気が利かないな。私の分はないの?」
「自分でやりなさい――ああ、やっぱり桜は良いわねぇ」
そう言って輝夜は茶を一すすりする。
「輝夜、あんた桜好きなの?」
「好きよ。大好き」
「意外だね」
「意外だと思われているのが意外よ。花の情趣も解さない無風流だとでも思ってた?」
「違う。そういうんじゃない。ただ……」
妹紅はそこで口ごもった。
「妹紅は桜が嫌いなの?」
「嫌いじゃないさ。綺麗だとも思うよ。でも――苦手なのよ」
そう言って妹紅は庭を見る。
空に花が溢れている。
眼前の風光は時間を切り取り写し取った絵画のようで、だからその内にある花も永劫いつまでも散らずに咲き誇り続けるのではないかという気さえしてくる。
無論そんなものはほんの一時の錯覚だ。
自然の時間はいつだって無慈悲なまでに真っ直ぐと流れている。いくら拒めど、どう足掻けど――
「桜はすぐ散る。そういうのは、寂しいよ」
滅びの花の下で戯れる子等を見ながら、妹紅はそう呟いた。
「貴女も変なところで繊細よね」
「悪かったわね」
「まあ、仕方がないのかもね――貴女、精神がまったく人間だもの」
「人間?」
「私や永琳みたく、初めから永く生きることを前提とした心の在りようを持っていないのよ。イレギュラーな要因で寿命が延びたわけだから。それで別れがことさらに辛い」
「初めから永く?」
「だって貴女は普通の人間だったでしょう? で、なまじ寿命のスパンが無限大に延びただけに、それをいつまでも引きずってしまう。だから普通の人間だったら数ヶ月足らずで忘れてしまうようなことを、いつまでも覚えて――」
そこまで言って輝夜は口をつぐんだ。
そしてしまったとでも言いたげな顔をして――
「ごめんなさい、喋りすぎたわ」
そう詫びた。
「無粋よね、こういうの……」
たぶん彼女は人の心を穿つような物言いを良しとはしない人物なのだろう。
春愁とでもいうのだろうか、場はすっかり空気が沈んでしまっていた。
子どもたちは相も変わらず楽しそうだというのに。
「色見えで……」
ぽつりと輝夜が呟いた。言い方を察するに和歌か俳句の類だろうか。
「死神の歌か? うつろふものは 世の中の」
妹紅がそう続けた。そこまで聞いて蓮子はそれが誰の何の歌だったのかを思い出す。
それで何となく自然に――
「人の心の 花にぞありける」
そう詠じていた。
二人が意外そうな顔をする。
「知っているの?」
「ええ」
その歌は外の世界でも伝わっている。
詠み人は小野小町。参議小野篁の孫娘。
花は目に見えて色が移ろい行く。人の心という名の花の色は目には見えないけれど、やはりそれもまた移ろい行く――そういった歌意だったと蓮子は記憶している。
「でもね!」
そこで突然輝夜はばっと立ち上がり――
「蓬莱の人の心は移ろわない」
そしてくるりと廻って、妹紅の方へ振り返る。
スカートが風でふわりとした。
「あなたみたいな憎たらしい奴、絶対忘れてあげないわ」
庭先の子どもたちと同じ、曇りのない笑顔だった。
そして妹紅は一瞬面食らったような表情をしたが、すぐさま不敵に笑うと――
「上等よ」
短くそう言い放った。
日が傾き始める少し前、一団は参道を下って帰っていった。
この場所――幻想郷は昼と夜では危険度が段違いなのだそうだ。
「昼だったから良かったけど、夜にルーミアの奴に会ってたら危なかったわよ?」
ご飯茶碗をつつきながら霊夢は言った。少し諭すような口調である。
蓮子は結局しばらくは神社に泊めてもらうこととなった。向こう側に帰れるのがいつのことになるかは知れないが、やはりある程度の警戒心は維持しておくべきなのだろう。
霊夢は料理もお手の物のようで、供された夕飯は質素ながら健康的であり、アパートで適当なものばかり食べている蓮子からすると非常に美味しく感じられた。今は食後のお茶を飲んでいる。至れり尽くせりで――
「なんだか悪いわね」
「いいわよ、別に。賽銭はあんまりないけど、生活費は不足していないから――ま、明日掃除でも手伝ってもらおうかね」
霊夢は素っ気なく答える。そういう態度が蓮子にはえらくありがたかった。
「霊夢は結界の外のことは知っているの?」
「紫の奴の話で断片的に」
「その紫って人はどういう人?」
「人じゃなくて妖怪だけど――何考えてるのか全然分からない。信用ならないというか、胡散臭い奴よ」
ややもすれば辛辣な物言いだったが、そう答える霊夢の口調は今までと変わらなかったから、口で言うほどには嫌ってはいないのだろう。
「その友達――メリーだったかしら? たぶん『こっち』には来ていないわね」
「分かるの?」
「一応ね。結界の綻びは今日は一点しか発生していないみたいだったから、あなたがこっちに来たときに近間にいなかったのなら、少なくともここには来ていないと思う」
メリーはどうしているだろうか。
仮にメリーがそのままもとの時代に居残っていたとしたら、蓮子はメリーの目の前で消えてしまったはずなのだ。
驚いただろうと思う。他方、メリーのことだからさして動じてもいないだろうという気もした。後者だったら癪だなぁ、と蓮子は意味もなく憤慨する。以前に蓮子が交通事故で怪我をした時だって、てんでしおらしい態度など見せず、終ぞ普段通りのマイペースだったのだ。
思い出し憤るという非生産的な思考を蓮子がしている最中、霊夢は何かに気が付いたように庭先へと目をやった。
「蓮子、ちょっと」
少し神妙な顔をしている。
「しばらくこの部屋から出ないで」
「ん? なんで?」
「危険だからよ。部屋の中にいれば障壁が守ってくれる。だから絶対外には出ないで」
そう言うと霊夢は立ち上がり、縁側の障子を開け、そしてそのまま庭へと降り立った。
何かが始まる――そういう予感がした。
恐る恐る蓮子は障子の方へと歩み寄り、庭を覗く。
静かな夜がある。暖かくも冷たくもない中途半端な夜風が顔を撫ぜて吹いていった。
霊夢はため息交じりで静かな夜の空を見上げる。
瞬間、夜の神社に幾本もの光の帯が注いだ。
天から降り注いだようなそれは、神社の土を穿ち、降り積もっていた桜の花びらを再び空へと押しやる。
夜陰の静謐が一瞬で崩れ去り、蓮子は唖然とする。
他方霊夢はといえば、特に何事もなくそれをかわしたようで、面倒くさそうに頭をかきながら半月の輝く空へと舞い上がっていった。
つられて蓮子も空を見る。
――10:08:08+0900
星と月が、時を刻む。
場所は日本だ。
「こんばんは」
大人びたような悪戯っぽいような不思議な声が、宇宙へと連続する魔術的な大空に響き渡る。
空に漂うのは二つの人影。
「ご飯食べたばっかりなのよね」
一人は巫女。
「では、食後の弾幕はいかが?」
「面倒ねえ」
もう一人は月光に揺らいで、姿が判然としない。声から察するに女性なのだろうが、傘らしきものを持っているということだけが辛うじて分かる程度である。
二人は結構な高さに浮かんでいるわけだから会話など聞こえるべくもないのだが、なぜか蓮子の耳にはしっかりそれは届いている。
不思議だとは思わなかった。
月と桜と、空を飛ぶ不思議な巫女。
この場一切が劇場と化したかのような、結構と虚構を匂わせる情景が広がる。舞台劇の登場人物たちはたとえひそひそと囁き合っていたとしても、観客にはそのすべてが筒抜けだ。
魅力的な劇が始まり、劇的な何かが起こる――そう感じた。
「苦情は受け付けませんわ。では、早速」
その人物が懐から何かを取り出すような仕草をする。
「結界『光と闇の網目』」
宣言、といったふうな張りのある声。
――わぁ……
彼女を中心にして無数の光の塊が飛び出す。色は赤と青の二種類。一見すると無軌道にばら撒かれたかのように見えたが、拡散するにつれて各色ごとに大まかな軌道が設定されていることが見て取れた。
霊夢は二色の光弾の群れの間に滑り込む。そこが一番密度が薄いのだろう。
光弾群の中にはそれぞれに一つずつ、一際に大きい弾がある。それは曵光弾のように軌道上に一直線の光の帯を発生させ、今度はその帯から枝分かれする形で何本ものレーザーが派生した。
二色のレーザーは霊夢を包囲するかのように錯綜するが、それもやはり霊夢はするりとかわしてのけた。
最初に放たれ弾は流れ弾となって夜空を彩り、木を薙ぎ、地面を抉る。そしてさらに一部は蓮子のいる建物へと飛来したのだが、何かに阻まれ打ち消されたようで、そこに至ってようやく蓮子は霊夢の言った障壁という言葉の意味を理解したのだった。
空中では第二波が霊夢に向かって殺到していた。
色とりどりの弾たちが夜空に煌めく。半分の月がその荒唐無稽な狂騒を妖しく照らして――
「う~ら~め~し~や~」
「うわあ!?」
背後で突然声がしてびっくりする――という日中にも一度陥った状況に、またしても蓮子ははまった。
振り返る。二人の女性が立っていた。
「外の人かしら? 無事に神社にたどり着けてよかったわね~」
一人が、実におっとりとした口調で言った。
均整にウェーブした桜色の髪や、蝶のような帯で引き締められた淡い藤色の着物が何だか妙に女性的だ。
三角天冠をフリルで飾り付けたような珍妙な帽子をかぶっていて、そこに赤いうず巻き型の模様が描かれている。
「橙が神社に行けというから来てみましたが、特に妙な要素はなさそうですね」
もう一人は内跳ねが特徴的な金のボブヘアをしている。身にまとった藍色の服――道教における巫覡の装束を華やがせたような代物――とのコントラストが鮮やかだ。頭部には獣の耳を思わせる二股の帽子を着けている。
そして何より目を奪われるのは、妖美に輝く金色の九本の尻尾。
――九尾の狐?
もしそうなら大物中の大物だが――
「私は西行寺幽々子というの。貴女は?」
桜髪の女性がたずねる。
「宇佐見蓮子です。あの」
「ん? なあに?」
「外のアレはなんなんです?」
「決闘よ」
「決闘?」
「あら、紫ったら押され気味なのかしら?」
霊夢と決闘を繰り広げているのが件の紫という人物らしい。
幽々子と共に再び空を見やる。
圧迫感と威圧感をもって、夜空一面色とりどりの弾幕が広がる。そのただ中を舞う紫色の服とナイトキャップのような特徴的な帽子。
――あれは……
そのとき霊夢が何かを投擲する仕草を見せた。
「きゃっ!」
小さく悲鳴が聞こえた。
先ほどは突然のことで意識していなかったが、その紫という人物の声に蓮子は聞き覚えがあって――
「キレがないわね、紫!」
声高に霊夢が言う。
「まだまだ、ですわ――『人間と妖怪の境界』」
紫なる人物が再び何かを宣言したようだった。
霊夢の周りに巨大な光弾が集まり、回転を始める。それぞれの光弾からは槍のように光が伸びていて、それが中心にいる霊夢の脱出を阻んでいるようだ。
そして回転する光弾の外側にビットのようなものが配され、そこから青白い弾が一定のペースで、脈々と放出される。高い密度と、張り巡らされた網の形をもって、押し潰すように弾幕が霊夢を包囲する。
そのとき月が紫の顔を照らし出した。
蓮子はそれをはっきりと見た。その顔は――
「メリー!」
反射的にその名前を呼んでいた。
途端に霊夢を包囲していた弾幕は全て消え去り、出来すぎだった舞台空間は急にひっそりとしてただの静かな夜が戻った。
◇◆◇
――――A.D.60
いかんせん時代が時代であった。
車、鉄道、航空機――そんなものは存在せず、辛うじて発展していた船舶にしても航海術などは期待できるべくもなく、せいぜいが短い距離を航海するか、運搬目的で河川を航行する程度のことしか出来なかった。
結局馬だの駱駝だのを頼みにして、後に絹の道と呼ばれる灼熱の交易路を経、実際に日本へと行き着いたのは帰ろうと決意したときより数年を経た後のことであった。
荒涼・荒漠の砂漠。騎馬民族による襲撃。中国帝国における戦乱と政変。
その長きに渡る厳しい行程は、あの丘で黒翼の悪魔と対峙したときに芽生えた能力を進化させていた。
境界を操る能力。
皮肉なことに彼女がその力を自在に使いこなし、空を飛び、空間の連続性すらも超越するようになったのは、日本へと行き着いた後のことだった。
そして、その能力をもってしても未来へと帰ることだけは出来なかった。
「幻想の保全、ですか……」
目の前に座った人物が呟く。
四季の名を冠し、是非を曲直する十王が一人――そういう仰々しい肩書きに反して意外と素朴で話しやすく、また高位の閻魔の中では優秀ながらも若く、考え方も柔軟な人物である。だからこそこうして彼女は話をしているのだが。
「私の計画については今お話しした通りです」
「計画というより理想ね。本当に、実現可能だと思ってる?」
閻魔は彼女の瞳をじっと見る。
威圧感があるというわけではない。射竦めるような眼差しということでもない。それでもその目には人を怯ませる何かがあった。
「安請負は出来ません。ただ、やる価値はあると思います」
「そう――話の腰を折ってごめんなさい。それで、頼みというのは?」
「二つあります。一つ、幻想郷――そう呼ばれるに足る場所が完成した暁には……そこの閻魔になってもらえませんか?」
会話が途切れ緘黙が場を支配した。
閻魔の瞳は変わらずに彼女を見据えている。彼女もそこから目を逸らさず、それを見返す。
本当は彼女はすぐにでも目線を逸らしてしまいたかったのだが、先にそうしたのは閻魔の方だった。
「……それは一体いつのことになるのかしらね」
やはり荒唐無稽に過ぎただろうかと彼女は落ち込む。
「まぁでも」
少し悪戯っぽい声。
「面白そうね。いいわ、約束します。いつになるかは分かりませんが、楽園が閻魔の役割、引き受けましょう」
「本当ですか!?」
途端に彼女の表情が明るくなる。あまり色よい返事を期待していなかったが故の表情である。
「閻魔は嘘を言わない。貴女の計画、私も一枚噛ませてもらいます。文明の発展に伴う幻想の衰亡については、いずれ是非曲直庁でも対策を講じなければならないことでしょうしね」
「あ、ありがとうございますっ!」
「ただ私を焚き付けたんだから、しゃんとしなさい?」
「はい!」
厳しさと優しさの同居した笑顔を閻魔は見せる。
「それで、もう一つの頼みというのは?」
「それは……」
計画の実現には長い時間が必要になるだろう。
しかし彼女は今、人でも化物でもない曖昧な位置にいる。肉体の経年劣化こそ止まってはいるが、寿命の程は知れない。
いつ死ぬのか、分からない。
それでは余りに心許ない。だから――
「私の――人間と妖怪の境界を……白黒はっきり付けて下さい」
◇◆◇
「スペルブレイク? どうして?」
地面に降り立った霊夢が呆気にとられたように呟いた。
「メリー!」
上空に向かって蓮子が叫ぶ。
すると宙に浮かんでいた人影は闇に溶けるように消えた。
同時に蓮子の目の前の地面に赤黒い孔が現れる。中からはいくつものぎょろりとした目が覗いていて一瞬模様かと思ったが、それは瞬きを伴いながらじっと蓮子を見詰めているのであった。
生きている。
孔の中に何かがいるのではない。孔自体が生きている――そう感じた。
奇怪さが度を過ぎているのか、恐怖心などはあまり湧き上がってこない。
そしてその中からまず派手な日傘がにゅっと出る。更に一瞬前までは上空にあった人影が、頭から首、首より腰と順々に、まるで濁水から上がるかのように少しずつその姿を露わにしていった。
現れたその人物はやはり――
「メリー! あなたもこっちに来てたの!?」
孔の中から現れた人物に蓮子は駆け寄る。
その孔が何なのか、先ほどの決闘は何だったのか――そういうことはひとまずどうでも良かった。メリーの方がどう思っていたかは知らないが、少なくとも蓮子はメリーのことをかなり心配していたのだ。こうして姿が確認できて、ひどく安堵する。
一方の世にも奇妙な登場の仕方をしたメリーはといえば、どこか戸惑うような表情をしている。そして――
「どちら様?」
と言った。
――人違い?
今度は蓮子が戸惑う番だった。
――メリーじゃないの?
声や顔立ちはメリーに瓜二だが、そういえば随分と髪が長い。
「今日流れ着いた外の人。未来人らしい」
「あらあら、そうなの……私は八雲紫。妖怪です」
妖怪という言葉が蓮子に重くのしかかる。やはり彼女はメリーではないのだろうか。
束の間の安堵感は霧消して、蓮子は一気に消沈した。
「宇佐見蓮子です。貴女はマエリベリー・ハーンという名前では――」
「残念ながら私は生まれてこの方17年、ずっと八雲紫ですわ」
言葉は無下になる。
ただ、やはりそっくりだとは思う。人違いであると明言された今となっても、なおその笑みや立ち振る舞いはメリーのそれに見えた。
「紫様、なんか普段より邪気がないですね」
藍が小首を傾げながらたずねた。
「きっと冬眠が足りなかったのよ」
相も変わらずのおっとり調子で幽々子が言った。
「ん~、かも知れないわ。いったん帰って明日出直そうかしら? 面白い『目』も持っているみたいだし」
紫は蓮子の方を見てそう言った。目というのは蓮子の時間を刻む能力のことだろうか。
「目? ていうか蓮子が帰る用の出口開いていってよ。私じゃお手上げなの」
「それは出来ない相談よ。時間を弄くるのには、それこそ時間がかかるの。覚えておくことね」
「紫帰っちゃうの?」
残念そうに幽々子が言った。
「ええ。何だか調子が悪いわ。さっきもいきなりスペル壊れちゃったし」
「そう――私は夜桜を拝んでから帰るわ」
「いや、あんたも帰れ」
「お茶菓子をくれないと帰りません」
「台所に賞味期限の過ぎた大福があるからそれ持ってって良いわよ」
「大福の幽霊ね。冥界に持っていけばきちんと食べられるわ」
冥界?
「……本当に?」
「嘘よ。紫~、お茶も出ないみたいだから私も送っていって……それにしてもとんぼ返りよねぇ」
幽々子はそうぼやくと、件の孔にふわりと飛び込んだ。藍もそれに続く。
一瞬で二人の姿は見えなくなった。
「ごめんね、幽々子。藍も――そうそう、宇佐見さん」
紫は孔に半身をうずめた状態で振り返った。
「貴女のこと、気に入りました。明日また来ますわ」
そう言って紫はほほ笑んで、孔の内へと消えた。別れ際に残したその笑顔は、ただの少女の笑顔だった。
孔が閉じ、ただの地面が現れて、再び場は霊夢と蓮子だけになった。
先ほどまでの極彩色の喧騒とは打って変わって夜の神社にはほとんど色彩がなく、それで蓮子はここが浄域であることを思い出す。
「メリーそっくりなんだけどなぁ……」
思わずぼやいてしまう。
「なんだか嫌な予感がするわ」
霊夢が少し低い声でそう呟いた。
「どうしたの?」
「結界が……気のせいか?」
そのときの霊夢の顔は紫とは対照的に、表情が無かった。
能面と向かい合っているかのように一切の感情が伝わってこない。いや、そもそも伝えるべき感情自体が存在しているのかどうかが疑わしい、そういう表情だった。
冷淡――ですらない。
蓮子の目にはそれがひどく怖いもののように見えた。
「ま、いっか。そろそろ寝よう」
そう言って寝床をのべ始める霊夢の表情は、元の春めいたそれに戻っていた。
翌日は快晴だった。
博麗神社からは幻想郷が一望できるようになっているらしい。そこからの山容を見て、やはりここは遠野一帯の山間部に位置しているようだと蓮子は判断する。
ただ蓮子の知る限り20XX年といえばこの近辺もとっくに開発が入っていたはずだし、博麗神社も廃社扱いだったはずではある。
分からないことは多い。ただ――
「素敵な――ところね」
「でしょう?」
隣にいる紫は、喜色を満面に浮かべ子どものように笑った。
紫は先晩の言葉通り、朝から蓮子を迎えに来ていた。彼女の習性からするとそれは大変に珍しいことだったらしく、朝に紫を見た霊夢はえらく珍妙な顔をしたのだった。
昨日の派手な日傘は今日も持参している。それほど日差しが強いようには思えないし、昨日は夜でも差していたからそれは一種のトレードマークのようなものなのだろう。
「食べるなよ?」
霊夢が紫に念を押している。
当の蓮子はそれほど自身の身を案じてはいなかった。紫の態度は、多少ふざけた部分もあるが概して紳士的だったし、やはりメリーそっくりであるという点が蓮子の警戒心を緩めさせていた。それにこの場所をもっと見て回りたいという好奇心もある。
楽観に過ぎるとは一応思っている。
慧音にまた会うことがあれば、説教の一つも食らいそうである。
「私があんまり人間を食べないのは知っているでしょう?」
「あんたが食べなくたって、他のやつの食料として供することはあるでしょうに」
「大丈夫よ。彼女、気に入ったから。それにいったん神社で保護されたような人には危害を加えたりはしないわ――貴女と、本気では戦いたくないもの」
紫はその薄ら笑いを覆うようにして、扇子を口元へとやる。
その仕草はこれまでで一番――あの孔から現れたとき以上に――妖しかった。
「……そういう言い回し、好きじゃない」
対する霊夢は嫌そうな顔をした。
「あらあら、ごめんあそばせ――それでは蓮子さん、参りましょうか」
そう言うと紫は蓮子の方へとその手を差し伸べた。
樹木に囲まれた参道をしばらく下っていと、背の高い草が茂った獣道へと入り込んだ。参道はそこで完全に分断されている。紫の言うことには、これが神社の参拝客を減らす一因になっているのだそうだ。
鬱蒼としていて見通しが悪く、なるほど色々『出そう』だと蓮子は思う。幸いにしてその獣道を抜けるまで、何にも出くわさなかったのだが。
獣道を抜けると参道の石段が再び現れる。それを下っていくと――蓮子はもとの時代ではその石段を上っていたのだが――樹木が少しまばらになり、視界が開けた。
参道の入り口、蓮子からしてみれば出口に当たる鳥居が近付く。笠木に掲げられた額には達筆なのか拙筆なのか良く分からない筆致で『博麗神社』と書かれている。
鳥居の抜けてしばらく山道を行くと、緩やかな傾斜を描いたあぜ道へと合流した。
脇には水の張られた棚田が連なり、またそこかしこに雪かきで積み上げられたと思われる雪山が散見する。高く積んだが故に、長いこと残っているのだろう。
二人はそこを下っていく。
棚田といえばそれはまったく人口的な代物のはずなのだが、それを含む山の風景はどこまでも自然であるかのように感じられるから妙なものだと蓮子は思う。雪代で路傍の水路は水量が多く、それが間近へと迫った農繁期を予感させた(もっとも蓮子の時代では合成技術の発達により従来型の一次産業はほぼ死滅していたから、蓮子の抱いた感覚は民俗学等の書物から得た知識による部分が大きかったのだが)。
「面倒だから飛びましょう。うん、そうしましょう」
「へ?」
おもむろに紫が蓮子の手を握った。少し冷たい手である。
途端に蓮子の体がふわりと浮かび上がる。紫も同様に浮かんでいる。
「浮いた……」
二人は手の平一つで繋がっているだけだから、紫が蓮子の体重を支えているということではないのだろう。大体それなら蓮子はもっと垂れ下がるような有様になっているはずだが、実際はまるで宙に立つかのような体勢で安定している。
重力がなくなったかのようだ。
とはいえ蓮子は無重力空間での行動制御訓練などは受けたことがない。(月面ツアーに申し込めばそうした訓練を受けることになるらしいのだが、あいにく費用という名の壁に阻まれ叶っていない)
それにもかかわらず特に差し障りなく体勢を制御できているのだから、なにか特別な力が働いているのかも知れない。場所が場所なだけに、そういうこともあり得るだろう。
「では、お空の散歩と洒落込みましょう」
にっこりと紫はほほ笑んだ。
冷たく冴えた空気の中を飛んでいく。
遥か眼下には春紅葉の頃を迎えた山々が広がる。春浅い野山を染めるのは、残雪の白と、新芽の淡い赤と、新緑の萌黄。
幻想郷の山は笑っている。
地面はどこまでも遠くて、あんまり高いから逆に高度が上手く認識できない。墜ちたら一巻の終わりだということだけが分かる。
紫とつながった手に、自然と力が篭る。
「そんなに強く握らないでも大丈夫よ?」
蓮子は特に高所恐怖症ということではなかったのだが、さすがに身一つでここまで高空に浮かび上がられてはこうならざるを得なかった。どうやらここの住人たちにとって飛行と歩行は同義らしいのだが、蓮子はそうではないのだからもう少し『慣らし』のようなものがほしかったとは思う。
ただ、紫に掴まっていれば絶対に大丈夫だという根拠のない思いが蓮子の内にはあった。
「ていうか手を放しても何の問題もないんだけど」
「……遠慮します」
さすがにそれは怖い。
「ん、人間の里が見えてきた――降りるわよ」
穏やかな顔立ちをした道祖神が立っている。
蓮子の記憶が確かなら道祖神は二体で一対をなすもののはずだったが、目の前のそれは一体だけで成立しているようである。様式が違うのか、それとも何かの理由があって離れ離れになっているのかは蓮子には分からなかった。
その境界守の石像を境にして、人里が始まる。
蓮子のいた時代では人間の住居などはどこでだって結構ひしめいていたから、こうして人の住む場とそうでない場とがきちんと隔てられている様は妙に新鮮だった。
桜や土筆などで春めく小径を中心に、まばらに萱葺きの屋根が立ち並んでいる。
かつて白川の歴史資料館で見たのと同じような代物だったが、それは展示物でも保護遺産でもなく、人の住まう生きた家屋だった。
鍬に鋤。手箕。脱穀用の唐棹――軒先に様々な農具が見て取れる。
足の進みに従い、段々と建物や人の数が増えていく。
農業を生業とする人々は里の外寄りの方に住んでいるのか、里の中心部へと進んでいくにつれて農具の類はあまり見当たらなくなり、代わりに徐々にモダンな建物が目立ちだした。
中心付近の建築物の多くは、江戸末期から明治初期にかけての様式を混淆させたような代物である。人の往来はなかなかに多いし、比較的高い建造物も目立つから、小さいながらも里より町と表現する方が正しいような気もする。
春光に照らされた人里は、活気に溢れていた。
考えてみれば地理的には東北地方の、しかも山間部なのだろうから冬は長引くのだろう。ならば春は余計に待ち遠しいものなのかもしれない。
ただ身に感じる活気に反して、人々には急いでいる様子等は微塵も感じられない。卯酉両都を53分で行き来する蓮子の時代からすると考えられないほどの、実にゆったりとした歩みで闊歩している。
そのペースに合わせて歩いていくが、蓮子には早歩きの癖があったのでかえってバランスが取りにくかった。
「大体のものはここで工面できるし、妖怪にも襲われない。安全なところよ」
「妖怪――は入って来ないということですか?」
「入っては来るけどね。現にここに一人いるし――ただ暗黙の了解というようなことはあってね、ここで人間を襲ったりしたら妖怪からも干されるかも」
人々とすれ違いながら進んでいくと、ちょっとした広場のようなところに出た。
『やつめ』と銘打たれた食堂と思しき建物に、四階建てぐらいの歌舞伎座のような建物。近間には酒屋があって、その前では朝だというのに若者たちが談笑しながら酒を交わしていた。
行きかう人々の服装は、霊夢や輝夜のそれと同様で、洋の東西が錯綜したようなデザインをしている。ここではそれがスタンダードなようだ。
ところで――
「紫さん、なんか視線を感じるんだけど?」
「なぜかしら? 皆目原因に見当がつかない」
「白々しいな。真昼間からお前のような大物が来れば警戒はするさ」
慧音だった。
「ひどいわ、ひどいわ。私ほど紳士的な妖怪はそうはいなくてよ?」
紫がわざとらしく嘆いてみせている。
蓮子からすれば周囲の視線は好奇のそれであって、警戒という感じは受けなかったのだが。実際若者は相変わらず酒を呷っているし――
「おい、紫様だ。相も変わらずお麗しい」
「俺は慧音先生や門番さんの方が好きだな」
「門番さんならさっき見かけたぜ? 吸血鬼のお嬢様のお供みたいだったが」
「みすちー……うふふ」
「おーい六助~、起きろ~」
何やら好き勝手言っている。本当に警戒しているのだろうか。
「警戒されるのがお前の本懐だろう?」
「む……ふふ、白澤のセンセイは良く分かっていらっしゃる」
「そいつはどうも。で、珍しいな。藍殿や橙のやつはよく来るが」
「殿って――あんた相変わらずかたいわねぇ。今日は蓮子の案内役なの」
いつの間にか呼び捨てになっている。まるでメリーに名前を呼ばれているようだった。
「かわいそうに、貴女も変なのに目を付けられたなぁ」
良く分からないが同情された。
「けーね、失敬ね」
「韻を踏むな。ま、あんまり騒ぎを起こすんじゃないぞ?」
人里は結構色々なものが揃っていて、退屈とは縁遠そうである。妖怪たちもどうやら里内では人は襲わないらしく、買い物だの食事だの当たり前のように人間に混ざって行っている。
賑やかながら、のんびりした場所である。
慧音の言う通り紫は大物であるらしく、視線が止むことはほとんどない。
ただそれは紫を見ているというのもあるのだろうが、蓮子の正体を探っているような部分もあるのかもしれない。
「あ、紫様。これをば藍様に」
途中で豆腐屋の主人からお揚げをもらった。
藍というのは確か昨日出会った九尾の狐の名前だったはずだ。
――狐ってほんとにお揚げを食べるのかしら?
蓮子の時代では狐は数が激減していて――狐に限ったことではなかったが――その姿は3DCGくらいでしか見る機会がない。当然生態などは知る由もなかった。ただ昨日であった人物は、形が形なだけに普通の狐と同列で考えない方が良さそうではある。
「ねえねえ、蓮子」
紫がどこかで聞いたことのある口調で言った。
「何ですか?」
「腕を――いや、何でもないわ」
紫は何かを言いかけたようだったが、そのまま口をつぐんでしまった。
ある程度歩き回った後は、のんびりついでにカフェに行こうということになった。そんなものがあるということは、ここはどうやら明治期の文明開化は迎えているということだろうか。
当のカフェは歩いてすぐのところである。
蓮子は大学でもカフェを利用する機会は多かったから、内心結構楽しみにしている。
ただ、紫は少し不満げな顔をしていた。
「私は室内のカフェよりオープンなカフェテラスが好きなのよね」
――ん?
その言葉は、聞いたことがある――蓮子の記憶の琴線が音を立てた。
既視感?
いや、既視感ではない。実際に、どこかで今の台詞にそっくりな言葉を聞いている。それは一体いつのことだったか――
「誰かに作らせようかしら――こんにちは~」
記憶を手繰る蓮子を尻目に、紫はカフェの扉を開く。
「いらっしゃいませ~、って紫様ではないですか。玄関から入って来られるとは珍しい。かしこみかしこみ」
カフェのオーナーと思しき男性は紫に礼をし、二人を案内する。
「そちらはご友人ですか?」
「そんなところ」
「そうですか。ここは野菜一筋な父の野菜をもっと広めるべく建てたカフェでして」
「おすすめは南瓜のケーキ、でしょ? 早く席に案内するの」
「おお、これは失礼を。こちらでございます」
先ほどの若者といい、総じてマイペースな人間が多いようである。
店内の調度品は総じてどれも木製で、ごつごつとしている。椅子には座布団がしいてあるから不便はないが、無機的なデザインの家具しか見たことがなかった蓮子の目にはそれらが斬新に映った。
品書きを見る限り、飲み物のメインはコーヒーのようである。カウンターの向こうにはインテリアのようなコーヒーサイフォンが並んでいる。
――サイフォン?
まただ。記憶の中に何かが引っ掛かっている。
それが何かは分からなかったが、とりあえずは店主の進める南瓜のケーキとコーヒーをオーダーした。
待ち時間の間に紫にこの場所について色々とたずねてみた。紫は妙に嬉しそうに、それらの問に逐一答えていく。
そういう時間がしばし続いた。
幻想郷について語るとき、紫は何とも嬉しそうな、そして誇らしげな顔をする。ここが大好きなのだろうと蓮子は思う。
そして蓮子は自分が別の時代に来ているということを少し失念しそうになる。紫とメリーがそっくりだったからだ。
そのうちケーキとコーヒーが運ばれてきた。
「美味しい……」
錯覚なのかもしれないが、心なしか合成食品でつくられたケーキよりも味が優れているような気がした。コーヒーもきちんと抽出されているようで、ドリップ式と比べても味に遜色はないように思う。
「あれ? スキマじゃないか」
甲高い、子どもの声がした。
見れば水色の髪をした女の子が、踏ん反り返るようにしていた。背中には自身の背丈よりも大きい、蝙蝠のような羽が生えている。
座っている蓮子とその目線の位置は大して変わらない。蓮子もそれほど背の高い方ではないから、女の子はかなり小さいのである。
「珍しいわね、お前が昼から起きているなんて」
いかにもわがままなお嬢様、といったふうな尊大な態度である。
小さな身を包むドレスは、恐らく蓮子がこちらに来てから見かけた衣装の中で最もフリルが多用されていて、こちらはいかにも良いとこのお嬢様といった雰囲気を醸し出している。
幼い――嫌味ではなく、そういう言葉が良く似合う。
「良い子は起きる時間なのよ? まぁ悪い子も珍しく起きているみたいだけど」
「お前に言われたくはないな――花見よ、花見。あとパチェが桜餅がほしいっていうから」
「長明寺」
「パチェはドーミョージって言ってたわ。ていうか、そいつは誰だ?」
どうもこういう切れ切れの会話がここの主流らしい。小気味が良いといえばそうなのだが、正確な情報の伝達には一苦労しそうな会話術である。
「こちらは蓮子。私のお友達ですわ」
「友達? 貴女も厄介なのに気に入られたわねぇ」
また同情された。
「外の人? 私はレミリア。レミリア・スカーレット」
「宇佐見蓮子です」
とりあえずここで出会う人物の大半は、見かけに反して己より年上なようなので、自然と口調が丁寧なものになる。
「お嬢様ー、コーヒーの銘柄どうします?」
カウンターの方から別の声がする。
声の主はえらく大量の荷物を抱えた女性だった。しなやかに伸びた赤の髪と、緑色の中華風の装束が印象的である。
「コナっていうのは駄目ね。パチェの話だとあれは白い家というところで飲むのだそうよ。うちには合わない。それ以外なら何でも良い」
「はーい」
「さてと――ん?」
何かに気付いたかのように、レミリアは蓮子を凝視する。
「……妙ね」
先ほどまでの幼いそれとは違う、己の内の自分でも与り知らないようなところまで見透かされるような、紅の瞳。深淵から覗き返されるようなその視線に射られ、蓮子はひどく落ち着かない気分になる。
「やけに捩れた運命だな」
人の身には計り知れない何かを、その瞳は捉えている――そう感じた。
一体何が見えているのだろうか。
そういえば慧音と初めて出会ったときにも似たようなことがあった。
「それに……スキマ? いや、別人か? あぁ、あのときの――しかし、どうにも混線してるわね。分かりにくいったらない」
「へぇ、思った以上に『見える』のねぇ。意識的に行使することは出来ないと思っていたのだけど……」
感心したように、そして少し煩わしそうに紫は言った。
「疲れるし、第一つまらないから余り使わないけどね――干渉は識閾下でなければ行えないけれど、見るだけならまあどうにでもなるわ。それより、蓮子。貴方の友達はメリーという名前かしら?」
「知ってるんですか!?」
メリーについて、レミリアの前では一度も言及していなかったはずなのだが。
「以前うちに来たことがあってね、最初はそこにいる胡散臭い奴だと思ったから追い返そうとしたんだけど、どうやら別人みたいだったし。確かクッキーを渡したんだったかしら?」
それはあのときの――メリーが夢の中の代物を持ち帰ってきたときのことではないか? やはりあの時彼女は、無意識的に境界を飛び越えていたのだろうか。
「ねぇ、スキマ。貴女そのメリーって奴とは関係はないの?」
「ないわ」
つまらなそうに紫は言う。何だか先ほどまでとは違って機嫌が悪そうである。
ひょっとすると彼女はメリーと同一視されることに少なからぬ不快感を抱いているのだろうか。そうだとすればその原因は蓮子にあるわけだが――
「瓜二つなんだけどな――相変わらずお前の運命は見えないわね。ま、そのメリーってのはこの場所にはいない。たぶんもとの時代にそのままでいるだろうから、早めに帰りなさい」
「今日はやけにお節介ね」
「面白い運命の在りようを見たからね」
「お嬢様~、新作のケーキが無料サービスなのだそうです」
先ほどの中華装束の女性である。
「せっかくだから4人で食べましょうよー」
「あのねぇ美鈴、貴女食べすぎなのよ。どうせ昼寝もするんだし、太るよ?」
「操気の達人たる私に何を仰いますか。ささ、食べましょう」
女性は慣れた手つきでケーキを切り分けていく。
果物いっぱいのタルト。普段だったら間違いなく蓮子の食指は動いていたのだろうが、ただ今はそうはならない。
オープンカフェ。コーヒーサイフォン。新作のケーキ。
その三つの要素が連子の内で反復されている。
情報に刺激された意識は、関連する記憶を掘り返そうと躍起になり――
「お前はもう……そんなだから魔理沙に舐められっぱなしなのよ。ん? でもこのケーキは美味しいわね」
そのレミリアの言葉がきっかけになった。
――思い出した
先ほどの紫の台詞。
室内のカフェよりオープンなカフェテラスが好き――以前メリーと月面ツアーの愚痴を交わしたとき、メリーがそれと同じことを言っていたのだ。だからあれほどに記憶の琴線に触れるものがあったのだ。
そしてコーヒーサイフォン。
あのときの二人の話題は確か民間の宇宙旅客用に設けられた――
「衛星カフェテラス……」
がしゃんという音がした。
「紫さん!? 大丈夫?」
紫のコーヒーカップが倒れていた。
こぼれたコーヒーは机から滴り落ち、紫色のドレスに黒々とした染みを作っている。
「……大丈夫よ。ちょっと――手が滑ってしまいましたわ」
そう答える紫の顔は、ひどく辛そうだった。何か必死に痛みを堪えているかのような――一体どうしたのだろうか。
「……見えた」
その時レミリアがぼそりと呟いた。
「そう、そういうこと……はは、ややこしいわけだ」
額に手を当て、レミリアは笑っている。
「胡散臭いと思っていたけれど、全然ね。むしろとっても分かりやすいわ」
「何の――ことかしら?」
「一途ねぇ」
「からかっているの?」
「敬っている。その一途さは尊敬に値するよ――貴女のこと、少し好きになってしまいそう」
そう言ってレミリアはほほ笑む。本当に言葉通りに思っているのだろう。誇り高い――そういう笑みだと蓮子は思った。
そしてレミリアは先ほど蓮子を見つめた瞳を、今度は紫へと向ける。
「一つだけ確定している運命があるわね――別れ、かしら? ふん、なるほどね。お前がどれほど足掻こうが、殊その一点においては歴史も運命も揺るぎはしない――あるべき方へと『修正』されるわけか」
「良い趣味とは言えないわね、それ」
「そうね、ごめんなさい。見なかったことにするわ。ただ忠告を一つ」
レミリアは蓮子の方を一瞥する。そして紫の方へと向き直ると――
「その娘はお前が求めているものとは別の存在よ。そこを履き違えないことね、『八雲紫』」
静かにそう言った。
その後レミリア一行と別れて再び里を回ったのだが、不機嫌だったのか、気落ちしたのか、紫はずっと浮かない顔をしていた。
そうして夜の帳が下りる頃、紫の用意したわずかな明かりを頼りに参道に至るあぜ道を登った。
田毎に半月が揺らめく。
それは趣致深い情景だったのだが、ただ今は水面のどうにも定まらない揺らぎが心を靄らせるだけだった。
しばらくして参道とあぜ道を分かつ鳥居に到る。
参道は木々に覆われて月明かりがほとんど届かないから、一際に夜が凝って洞穴のようになっていた。その黒い空間を背後にした鳥居の朱は、逆に厭に鮮やかだ。
暗い参道へと踏み入る。
その途中で、紫は蓮子に詫びた。
「ごめんなさい。何だか嫌な思いをさせてしまったかしら?」
「そんなことないです。楽しかったです」
「そう……良かった」
少しだけ紫の表情が晴れたような気がした。
「真っ暗ですね」
「夜だもの」
風が吹き、木々がざあざあと鳴いた。
紫は蓮子の手を引いて進んでいく。
「あの孔みたいな――」
「スキマのこと?」
「使わないんですか?」
「今は歩きたい気分なのよ」
しばらくして獣道に入り込む。
その様相は鬱蒼を通り越して、もはやただの闇だ。行きに一度は下ったはずの道――そのときはしっかりと有限だったのに、今は果てなく伸びているように見える。
夜は暗い。
そういう当たり前のことを今更に蓮子は実感する。
月に見放され暗然とした空間を、紫の持つ明かりが頼りなく照らしている。そのゆらゆらとした光の向こうに
ルーミアがいた。
「こんばんは」
無邪気な声。
昼間と少しも変わっていない。
こんなに闇が深まって、何もかもがそれに呑まれそうになっているのに、ルーミアはちっとも変わっていない。
それが少し、怖かった。
「夜に出歩く人間は食べても良い……」
「……」
「冗談なの。それで、その子があの子?」
「……違う」
「そーなのかー――これ、橙にプレゼント」
ルーミアが魚篭を紫に手渡す。
「昨日の弾幕ごっこ、はぐらかしちゃたから。じゃあね~」
闇よりなお濃い漆黒がルーミアを包む。そのまま彼女は昨日と同じようにふよふよと飛んでいった。
今度は何にも衝突することなく。
神社に着くと賽銭箱の前で霊夢が空を仰いでいた。こちらに気が付き、視線を落とす。
「ああ、おかえり」
何だか安堵してしまう。
「これから迷い家で晩ごはんだから、引き続き蓮子は借りるわね。貴女も来る?」
無用になった明かりを消しながら紫は言った。
どうやらまだまだ連れ回されるようである。蓮子の意思は結構に無視されているようだが、それがちっとも嫌だと感じないのはたぶん蓮子が紫とメリーをついつい同一視してしまっているからなのだろう。
「それを言いに戻ってきたの? わざわざ歩いて?」
霊夢が不思議そうな顔をした。
「回り道をしたいときってあるでしょう?」
「ふーん……ま、私はもう済ませちゃったから遠慮しとくわ。ていうか蓮子の分のご飯も、もう作っちゃったんだけど?」
「後で取りに来ますわ」
「そっちに泊める気? まあいいけどさ……食べるなよ?」
「食べないってば、もう」
紫が頬をふくらませる。
だいぶ元気になっているようだと蓮子は思う。
ただ笑顔が少し乾いていたような気もするから、それは空元気だったのかもしれなかった。
紫がスキマと呼ぶ謎の通路を通って――正直そこに飛び込むのはかなりの抵抗感があったのだが――行き着いたのは立派な門構えをした屋敷だった。
明治から昭和にかけての山村における素封家の住いといった雰囲気である。周囲は土塀で囲ってあって、その上から美しい紅白の花をつけた枝がしな垂れている。
篝火の焚かれた門をくぐり、ビロードのあしらわれた引戸を開けると、昔めいた板張りの廊下が伸びていた。
「庭のあれ、何の花です?」
品種が分からなかったから紫にたずねてみる。
「過去の花、ですわ」
「過去の?」
「外ではもう見られないということ」
「そう――なんですか」
綺麗な花だった。
だからそれがもう外には存在しないということが、寂しく感じられる。たくさんの花が滅んで、滅んだ分だけ幻想郷は更に美しくなるのだろう。
「傘仲間に頼んで咲かせてもらったのよ」
「傘仲間?」
「プライドが高いし、そうやすやす御せる相手でもないんだけどね」
しばし廊下を進み、茶の間へと通される。
黒檀の卓袱台や檜の箪笥など、蓮子の時代では博物館に収蔵されていそうな代物が当たり前のように配されている。また畳の表替えから時間を経ていないのか、ほんのりとい草の青い香りがした。
茶の間に隣接する台所からは夕食の仕度の音が響いてくる。
取りあえずただご馳走になるのも悪い気がしたから配膳だけでも手伝おうと思ったのだが、その必要はないと紫に制された。それで座って夕餉を待つ身となるが、少し所在がなかった。
昨日出会った藍が、皿やら何やらを運んでくる。背後には橙もいっしょだ。
「紫様に気に入られるなんて、災難だったな」
やっぱり同情された。
「失礼よ、藍。貴女誰が主だか分かっているの? そろそろ再教育が必要かしら?」
「橙、今日は魚のさばき方を教えてあげよう」
「はい、藍さま」
「無視する~」
藍は厨に戻るとルーミアから差し入れられた魚をさばきにかかる。
九尾の狐といえば、日本の伝承史上でも最強と名高い妖怪の一人なのだが――
「橙、良いか。まずはこうやって鱗を剥がすんだ」
それが台所で和やかにお三どんをしているのだから実に平和である。
――あったかそう……
そして何だか物凄い勢いでふかふかしたい衝動に駆られる。
魚が気になるのか、その隣では橙が二股の尻尾をぱたぱた振っている。猫又で黒色というわりにはちっとも縁起の悪い感じがしない。魚に寄せる反応などはまるきり子どもだと思う。
ただ普段は修練のため妖怪の山というところで一人暮らしをしているらしい。
「蓮子、これ」
紫が机の上に一冊のノートを置いた。何やら数式がびっしりと書き込まれている。
「うちの藍が導き出したものよ」
「藍さんが?」
「紫様、何やってるんですか。人間にその式は」
「面白い式だわ……ここに入力されるのは――ああこれがゼロに近いと限りなく無限大に、多ければ限りなくゼロに近付くのね。何を求める式なんだろう――咫だから距離? でも入力されたデータに応じて距離が変じるって一体何かしら? まあいいか。えっとこの数値を決定するのは――なるほど、この方程式の肝はこの数値を決定するためのファクターが無限大に広がっている点ね。だからこんなに大量の数式が必要なのか」
「蓮子、それ何の式か分かる?」
「何を求めてるのかは分からないけど、これマイナスになるとやばい感じよね」
「ええそうよ」
「私はどうなんだろ? ……む、悪行の指数が意外に高い」
「あらあら」
「何よ~、飛び級であの大学行くの結構難しかったんだから。勉強時間分ぐらいはまけてくれてもいいじゃないのよ……でも凄いわねこれ。入力される数値のランダム性を是正するための補正式がいくつも組み込んであって、式自体が高い一般性回復機能を持ってる。普通の方程式だったらこれだけランダム性の高いファクターが絡んで来ればとっくの昔に破綻しているはずなのに」
「さすがね、宇佐見さん」
そこで蓮子は我に返り、赤面する。夢中になってしまっていた。
「ごめんなさい。ついついメリーと話してるような気になっちゃって」
「構いませんわ。ていうか私のことは紫、でいいわよ。敬語丁寧語も必要ないわ」
「そう? まあ、正直そうしてもらえると助かります」
どうも友人とそっくりだから、変に改まった口調だと違和感があったのだ。
口調を改めるべく、一つ咳払いをし――
「それじゃあ、紫。これ何の式?」
「三途の川の距離を求める式」
「三途の川? じゃあひょっとして生前の行いに応じて距離が伸びたり縮んだり?」
「ええ」
「そんなシステムなのか……ちなみにマイナスだと?」
「ぽちゃん」
「彼岸のくせに世知辛い……」
「凄いな、その式が分かるのか?」
感心したように藍が言う。
「凄いでしょう」
そしてなぜか紫がいばった。
「でも導出は絶対無理です。計算が出来るというだけで」
「いやいや、それだけで大した演算能力だよ。そのまま式の役割をこなせそうだ」
「……頭悪くてごめんなさい、藍さま」
橙がうな垂れる。
「え!? いや違うぞ、橙! 別にお前が駄目とかそういうことではなく……」
「藍たらいけないんだー」
「紫様は黙ってて下さい!」
「夕飯まだー?」
「ちょっと待つ! あと良い歳こいて叩き箸とかしない」
「むー」
紫はすでに箸を準備して、一人だけ食事に対し臨戦態勢に入っている。
「ほら橙、夕飯の仕上げだ」
「……藍さま、私もいつかちゃんと計算できるようになるから」
「ん? おお、よしよし。その意気だ」
「ごはん~」
「ああもう、分かりましたよ」
呆れたふうにして、藍が夕食の配膳を始める。
「そうそう、紫様。結界の件ですが」
「結界の? 博麗の結界はさっき見てきたけど特に何もなかったわよ?」
きょとんとして紫が言う。それを聞いた藍は少し意外そうな顔をした。
「そっちではなくて、もう一方のです」
「虚実の結界がどうかしたの?」
「先ほど大きく揺らいだではないですか」
「え?」
紫が大きく目を見開いた。
「いつ頃?」
「未の刻ほど」
それは紫と蓮子がカフェにいた頃合だ。
「お気づきにならなかったのですか?」
「い、いや。気付いてはいたわよ。でもほら、今は特に別状ないでしょ? だから――」
狼狽している。
「紫様……大丈夫ですか?」
藍が心配そうに主の顔を覗き込む。
その表情や言葉からは、藍が本当に紫のことを慕っているのだということが、ひしひしと伝わってくる。
「なに言ってるの、元気よ、元気。ほら、早くご飯食べましょ?」
そう言って紫は茶碗に手を伸ばす。
その笑みにはどうにも力がなく、今にも露のように消え入ってしまいそうで――
蓮子はひどく不安な気持ちになってしまった。
* * *
――――岩手県某所
今日分の資料をまとめ終え、倉田弘は屋上で紫煙をくゆらせていた。
「徹夜しちゃいましたねぇ。今寝たらかえってきつそうだし、ぼくはもう寝ませんよ」
隣で同様に煙草をふかす部下が言った。倉田に比べると随分と若い。
「一時間でもいいから寝ておけ。今は平気でも後々きついぞ?」
「大丈夫ですよ。学会も近いですし、それに倉田さんだって寝ていない」
「そういえばそうだったな」
目の下に隈をこさえ、部下と倉田は笑う。
今年酉京都では、研究の発足千周年を記念して一大規模の学会が開催される。それに合わせて倉田たちは連日遅くまで研究所に居残っているのだった。
「ああ、そうこう言ってるうちに夜が明ける。東の国の眠らない夜だ」
赤く染まっていく空を指差しながら、部下はわざとらしく嘆いてみせた。
「どうにも夜型で困ります――それにしても学会楽しみですねぇ」
「そうだな。年甲斐もなくわくわくしているよ」
「ぼくもです。いや、楽しい」
眠気こそあれ、たぶんちっとも疲れてなどいないのだろう。倉田もそうなのだから分かる。
まるで祭りを控えた童のように、楽しみで楽しみで仕方がないのだ。
「そういやあの子――いや、子って言っちゃあ失礼なのかな……」
「酉京の――宇佐見さんでしたっけ? かわいかったですねぇ。あれで統一物理学のスペシャリテってんだから凄いですよ」
「友人さん、見つかると良いな」
そのことを考えると、浮かれた気持ちが少し沈む。
「きっと見つかりますよ」
「何でそう思う?」
「根拠は特にないです。勘ですな。ぼくはハッピーエンドが好きなんです」
「奇遇だな。実は俺もそう思ってるんだ――きっと見つかるはずだ」
そのとき、山間から曙光が覗いた。
「眩しい」
「完徹だったなあ」
影絵のような山稜の彼方から明々とした光の帯が伸びて、少しずつ世界を照らしてゆく。
それを見た倉田は全てのものが胎動していくかのような不思議な躍動感を感じた。
「綺麗だなぁ」
部下が嘆息する。倉田もそう思う。
たぶん毎日変わらずに繰り返されている光景なのだろうが、ひどく美しかった。
「きっとこういう綺麗なもんを、そうとは気付かず毎日見逃してるんだろうな、俺たちは」
「なら今日は気が付けて良かったということですな」
「まったくだ……それにしても」
綺麗だなぁ――先ほどの部下と同じように、倉田も呟く。
目線の先には明々とした東方の夜明けがあった。
・ 脳内設定が駄々漏れです。(秘封の二人が飛び級だったり……)
・ 萃香の話ではないです。出したかったけど。
・ キャラクターの設定や能力等に関する拡大解釈を大量に含みます。
・ ◇◆◇ を境にして過去の話と今の話を交互に、という構成ですが、OPやら幕間やらの本筋からそれる部分は * * * で囲ってあります。
・ 秘封倶楽部のネタを多々含みます。あんまり知らんよ、という方は「秘封倶楽部の時代は(たぶん)今より未来」「新たな首都となった京都では千年以上も霊的研究が続けられている」という設定を踏まえてお読みください。ではでは……
ん? ああ、あんたは『ここ』に流れ着いてから日が浅いんだね。
ここでの戦いはさ、これが一見すると本気で殺し合ってるようにも見えるんだけども、ほら、いかんせん妖怪さま等はお体が丈夫だろ? だからありゃあ詰まるところは遊びの一種なんだ。
そうさな……ほれ、お前さんが外から伝えた『さっかあ』とかいう球技。あれだってさ、蹴り合ったりぶつかり合ったりで、知らない人間からすりゃ喧嘩みたく見えるけど、知ってる奴からすりゃ遊戯だろ? それと一緒なのよ。まあスケールがとんでもないから傍目にゃすげえことやってるように見えるし、素人が首突っ込むのは危険なんだけども……ん? 遊びの割には会話が物騒だって? はは、あんたそりゃあ決闘なんだ、前口上の一つや二つ垂れなくちゃあ締まらないってもんだろ?
まあ、そういうことだからさ、ルールきちっと守ってりゃこの幻想郷で本気の暴力に出くわすなんてことはほとんどないと思うよ。
もしあるとしたら、それは、博麗が――――
* * *
――――岩手県某所
研究所の白い壁というのは、どこもかしくもちっとも装飾的でないから気が滅入るばかりだ。
偏執的に無機質で、圧迫感だの閉塞感だのしか感じられない。そうすることで何か成果が向上するとでも思っているのだろうか? ばかばかしいと思う。閉じ込められている――そう感じるばかりで、何の意味もない。
倉田弘がそんなふうに苛々している理由は二つあった。
一つはもともとここが嫌いだったからである。
もう一つは、残っていた仕事もあらかた片付いて、後は今日の結界の観測データをまとめるばかりという矢先に、新たな厄介事を背負い込まされてしまったからだった。
「友人が――消えてしまいました」
そろそろ夜更かしが体力的に辛い歳だったから倉田は早く帰宅してしまいたかったのだが、三十分ばかり前、午前2時を回った頃、突然倉田が勤める研究所に一人の女性が駆け込んで来たのである。
仕事を終えて手が空いていたから仕方なく応対にあたった倉田に対し、その女性――宇佐見蓮子はそう告げたのだった。
蓮子は警察へと通報した後、一路この場を訪れたのだそうだ。警察に通報済みであるのにわざわざ彼女がこの研究所を訪れたのには、もちろん理由があって――
「メリー、友人は空間のひずみ――結界って言うんでしょうか? それを見ることが出来て、それでその付近で消えて――」
――そんなこと、ここに持ちこまれてどうこうなるもんでもないぞ
その友人というのが希少な結界視の能力の持ち主だったそうで、つまりこれはただの遭難・失踪の類ではない可能性があるということだ。
――神隠しか……
酉京都に本部を置くこの研究機関は、前時代においては霊的な事柄として捉えられたような事象全般に対する科学的研究・観測を主として行っている。ここはその岩手支部にあたり、倉田の部署では主として結界というものを取り扱っている。
また、神隠しというのはその研究員の間で用いられているスラングのようなもので、結界の『向こう側』へと呑まれてしまう現象のことをいう。
その『向こう側』には何も無い。
真っ暗で虚無的な空間がただひたすらに、際限もなく広がるばかり――運良く神隠しから帰ってきた人間たちは皆そういう証言をしている。
蓮子の言う通り結界というのは単なる空間のひずみでしかないのだ。
幾世紀かの昔に語られたような、神の意思だ何だといった超常的な力が作用しているということではないし、またその向こうにお伽の国があるとかいうわけでもない。大体今日日そんな大層なものがこの世に存在しないということは、子どもだって知っている。
だから結界だなんだといった呼称は実のところ全く適切でない。(それが故のスラングなのだが)
結局のところ結界についての研究は、単に座標空間上に生じた余剰やひずみを日々観測し、分析しているだけに過ぎないのである。物理学が現在の水準に達する以前においては、こういった空間の歪みの類はオカルト研究の一分野として取り扱われることも多かったので、そのカテゴライズや用語・名称をそのまま受け継いだというだけのことだ。
神秘性などはかけらもないし、すでに学会でも『結界』という民俗学と混合したかのような用語そのものを改めるべきであるという声も上がっている。
異世界。桃源郷。幻想の国。
そんなものは、無い。
そういう黴臭くも魅力的な言葉たちは、一切ここには立ち入っては来ないのだ。
この科学の世紀にそういった言葉たちはその重みを失い、そして現と違えた夢たちを追い求めて発展を重ねた科学は、自身が時代の主役となったとき、その夢自体を終わらせてしまった。
抱いた夢が非科学的であったなら、科学理論と照らし合わされ切って捨てられる。よしんば科学的整合性が保たれていたとしても、やはりそれはすぐさま理論に照らし合わされ、実現可能か不可能かという実に色気のない考察の対象へと変じてしまう。夢へと思いを馳せる暇など一刻とない。
それでも人の心の内に夢はある――そんな思いもまた、心理学が発展し相対性精神学へと移り変わる過程で失われた。
夢は夢だが、それは単なる一つの現実でしかない。
そういう結論が相対性心理学により提示され、そしてその考え方があらゆる文化へ遍く浸透した結果、この国の人間はその事実をかなり幼い段階で不可避的に学習させられることとなった。
そうして現と夢はいまや一緒くたになり、空想はその価値を剥奪されただの無味乾燥なものへと成り下がってしまった。
だからだろうか、この国では心から笑うことがとても難しい。子どもも大人も知らぬ間に緩慢な虚無と厭世に蝕まれている。夢の育まれない時代なのだと思う。
無論そういったことをそのまま素直に受け入れられるかといえば、決してそういうことはなく、故に若い頃の倉田は随分と悩んだものだった。
「関係のないことを聞いて申し訳ないんですが、どうしてここを?」
物思いに耽りそうになる自分を戒めつつ、倉田は気になっていたことをたずねる。
この分野が正式に学術研究の一端として認められその産声を上げたのは、わずかに10年前のことなのだ。
たったの10年。
そんな真新しい――というと聞こえは良いが要するにマイナーな――ジャンルに関する研究機関の存在など、一般の人間は知らないはずなのである。
「私と友人は酉京大学の院生です」
「ああ、それで」
腑に落ちた。この研究は酉京大学が主導となって行われているから、そこに属する人間ならば、これは知っていてもおかしくはない。
神亀の遷都の折、旧東京大学と旧京都大学が合併して新しい大学が生まれた。それが酉京大学である。大学名については大もめにもめたらしいが、ともあれ名実ともにこの国の最高教育研究機関であることは疑いようもない。
だからその修士課程といえば最難関中の最難関というべき代物なのだが、机を挟んで倉田の前に座る蓮子はかなり華奢な体躯をしていて、背丈もそれほど高くなく、一見してそんな大仰な場所に属しているようには見えない。
聞けば、その友人ともども高校を飛ばして大学へと入学し、さらにそのまま二年足らずで大学院へと進んでしまったのだそうである。
天才というのはいるものだな――倉田はそんなどうでもいい感想を抱いた。凡人の己にはどうでもいいことだった。
大方の物理屋の例に漏れず、蓮子の顔はどことなく暗い。
友人が失踪したから、というのもあるのだろうが、たぶんこれは生来の暗さである。物理畑の人間などは、大体世界の構造が見えすぎて夢など欠片も抱いていないものなのだ。その厭世観は、恐らく倉田の比ではないだろう。自殺者も多いと聞く。
頭が良すぎるというのも考えもの、といったところだろうか。
蓮子とその友人は、旅行で蓮台野を訪れていたのだそうで、そこへ赴くのはかれこれ三度目のということだった。
一度目は蓮台野墓所。二度目は遠野三山の一つの早池峰(はやちね)山。そして今回が三度目であるそうだ。
物好きだなと思う。
だからてっきりオカルトサークルの類かと思ったのだが、そういうことではないらしい。
「主任!」
突然乱暴に扉が開かれ、倉田とともに居残っていた部下の一人が飛び込んでくる。
「どうした?――ああ、宇佐見さん、少々お待ちくださいね」
「さきほど蓮台野で大規模な結界の発生を確認しました。正式なデータは出てないんでアナログ算出ですが、モノは天幕型。規模は――蓮台野全域」
「は?」
部下の言っていることが倉田はとっさに理解できなかった。
「蓮台野全部って、お前そりゃ計器の故障じゃないのか?」
「そりゃ確認はしましたよ。いたって正常です。観測対象がでかすぎて観測しきれないっていう、実に正常な観測結果ですよ」
そう言って部下は観測データが記載された用紙を手渡す。
計測不可――そこには確かに部下の言うとおりのことが記されていた。ただ、信じられないほど巨大な結界だということだけは分かる。
「……どういうことだ?」
これまで観測した結界のうち最大規模のものでも、せいぜいが家屋一棟を覆う程度のサイズだったのだ。それがいきなり蓮台野全体とは、飛躍にもほどがある。
「故障じゃあないんだな? 本部には――」
「報告済みです。ことがことなんで他の支部にも念のため報告を入れときました」
「分かった。こんな時間でなんだが、帰った連中を呼び戻せ」
「倉田さん!」
別の部下が、先ほどと同じように喧しく入室してきた。
「今度は何だい……ああ宇佐見さん、すみませんね。もう少々お待ちください」
「ええと、長野支部からの報告です」
「長野? なんで長野なんだ?」
「はぁ、諏訪湖の湖水が消失したそうで」
「湖水が――消失?」
言っていることがよく分からない。
「送られてきた映像記録によると、ほんの数秒の内に、うまい表現が思いつかないんですが、こうぱっと消失してます――まるで最初っからなかったみたいに」
「それは長野さんの担当じゃあないのか?」
「それが湖水の消失時刻がこっちの結界の発生とほぼ同時だったらしくて」
「偶然じゃないのか?」
「消えたのは諏訪湖だけじゃないんです。今のところ確認できている範囲ではその近隣の守矢神社、鳥取の高草群竹林、那須の殺生石――海外はオカルトスポットのプリズムリバー邸にスカーレットマンション……同様に消え失せたそうです。全部が全部、こっちの結界発生と同じ時間です」
――関係しているのか? 一体何が起きている?
状況が一切把握できず、倉田は歯噛みした。
どうやら酉京都側も事態が把握できていないようで、うんともすんとも言わない。ただ各支局からの、あれが消えたこれが消えたという情報だけが次々と舞い込んできている状況だった。
蓮子は先ほどから座ったままうつむいている。その周りでは部下たちが、状況についての憶測を交わす。
そしてそんな喧騒の中、倉田は今までにない奇妙な感覚に見舞われた。
――何だ?
生まれ故郷を天災で失ったかのような、強烈な喪失感が倉田を襲う。
反面、まるでその生まれ故郷に帰ってきたかのような落着感が芽生える。
大いに異なった二つの感覚が、代わる代わるに意識の表層に立ち現れ、倉田は混乱する。
一体どちらの感覚を信じればいいのか。
いや、そもそもなぜ何の前触れもなく突然にこのような感覚に見舞われているのか。
分からない。
眩暈がした。
世界が回る。
足元が、覚束ない。
そもそも己はどこに立っていたのか。
床? 床があるというならこの浮遊感は何だ?
歌が、聞こえる。
『夢違え……』
樂しげで
『世界の…………記憶を………………歴史を…………』
ひどく古い。
『白日は、沈みゆく街に……』
忘れていた何かを倉田は思い出したような気がした。
~ 紫とメリーの神隠し ~
――――A.D.30
何処とも知れぬ丘の上に彼女はいた。
日はだいぶ陰っている。周囲に人影はなく、物悲しい風の音と、その風に草の戦ぐ音だけが妙にはっきりと彼女の耳を侵す。
前方には、彼女の背丈の倍以上はあろうかという十字架が打ち立てられていた。
――磔刑……
腰に襤褸切れを巻かれた半裸の男が磔にされていた。
男の両の手首と足首には釘が打ち据えられ、そこからゆっくりと、しかし絶え間なく血液が滴り落ち、十字架の下の大地を赤く潤している。
その首は不自然に垂れ下がっていて、男が絶命していることは明らかだった。
ただ、彼女の内に死体に対する恐怖だの忌避感だのといった感情は湧き上がらない。目の前の光景はまったく作り物じみていたし、また彼女はつい先ほどまで友人と共に蓮台野と呼ばれる場所にいたことも覚えていたから、自分は夢を見ているのだろうと思ったのだ。
ただ夢にしては血液の照りだとか、死肉の質感だとかが妙にリアルだ――そんなようにも思った。それにこれといった信仰を持たない彼女が、このような宗教的色彩の濃い夢を見るというのもどうにも解せない。
結局彼女は目の前の光景が、夢なのか現なのか判断しあぐねていた。
天球はそんな彼女の戸惑いなどには少しも構わず回っているようで、十字架の遥か後方では今まさに太陽が沈もうとしていた。その太陽の断末魔のような輝きが、あらゆる物の影をどこまでも引き伸ばして、世界には着々と闇が蓄積されていく。
「聖者は十字架に磔られました」
鈴を転がすような、それでいて嫌に無機質な声がした。
いつの間にか十字架の前に一人の少女が立っていた。目前の磔刑の真似事をするかのように、自身の体をもって十字架を描いている。
男の死を悼んでいるのか、
それとも嘲り笑っているのか、
その表情は逆光に阻まれ伺い知れない。
身を包む黒の服地は闇に溶け、反面風になびく金色の髪は陽光の消え行く宵の中、明星のように鮮やかに輝いている。
その髪の向こうに垣間見える瞳は、磔刑の血をそのまま流し込んだかのように紅く、冥く、槍のように鋭い。
人間ではない――本能的に彼女はそう理解した。
その矢先、少女のもとに辺りの闇が、まるで意思を持ったかのようにして集まって来た。
集まった闇は凝集してその密度を増し、やがては少女の背中に漆黒の、巨大な十二枚の羽を象形する。
磔刑に処された男は暗黒が凝った翼に隠され見えなくなり、それに合わせるかのようにして太陽の残光もまた、掻き消えた。
そうして夜が――妖魔夜行の刻限が降りてくる。
彼女は己の身の危険を感じるが、ただあいにくと彼女が持ち合わせていたのは友人が皮肉代わりに寄越した派手な日傘一本のみだった。
甚だ心もとない。
――ふざけ半分でセレブだなんて言うんじゃなかったわ……
かつてヒロシゲの車内で発した己の言葉を後悔する彼女は、自分でも気が付かないうちに眼前の光景は夢ではないのだと認識していた。
そうして知らぬ間に、あるべき時代への帰路は閉ざされて、
彼女は時の奔流より弾かれる。
その彼女の目は今までにない程はっきりと境界を捉えていた。
◇◆◇
「千年の幻想京を飛び出し、我らが秘封倶楽部は夜のデンデラ野を逝くのであった」
隣を歩くメリーは芝居がかった口調でそう言うと、手にした懐中電灯をぶんぶんと振り回した。人工の光が夜の森と、目的地の神社へと通ずる参道を照らす。
楽しそうである。何だか大学生とは思えないくらい無邪気だ。
一方の蓮子はといえば、懐中電灯に目が眩んで一時的に星が見えなくなり、少しそわそわとする。蓮子は己の能力を利用し、夜の時間を刻む癖があった。
「やめなさいってば。だいたいここはもう早池峰山の中よ」
早池峰山は遠野三山の内の一峰である。
この辺りを訪れるのは二度目のことで、前回のときは墓荒らし紛いのことをやって蓮子は随分とメリーから顰蹙を買ったのだった。
二人はそびえる石段を上り始める。
「山中異界」
「やめてよ、メリーったら……千年の幻想京って、京都のこと?」
「そうよ。ほら、再来年は千年学会でしょ? だからそう呼ぶの。今決めたの」
大人びたようで、その実悪戯っぽい声。蓮子はメリーのその声が嫌いではない。
千年学会というのは何ということはない、京都における霊的研究千周年を記念して催される学会の通称のことである。正式名称が無闇に長いから誰もがそう呼んではばからないでいる。
「いつから数えて千年なのかしら?」
気になっていたことをメリーにたずねてみる。いかんせん蓮子の学部はその学会とは縁遠いポジションだったので、詳細等はまるで知らなかった。
「さぁ? 西園寺公望が京都帝大を立ち上げる以前から在野ではその手の研究はもう随分と進んでて、京大はそういうあらかじめ上がっていた諸々の研究結果を引き継いで、それを正式に学問の一領域として昇華させた、ってことらしいよ。まあおかげでその手の研究については京都は一大メッカよね――そんなことより神社よ、神社。情報求ム」
「たまにはメリーが調べてよね、もう……えーと、廃社は随分前らしい――資料はほとんど残ってなくて、正確なことは全然分からなかったわ」
目的地の神社に関する事柄である。
「廃社以降も有志による維持管理は行われていたらしいんだけど、それも今ではやってないから……」
「祭神は?」
「お手上げよ。来歴もさっぱりだし、念のために地元の図書館も当たったんだけど――稗史の類に至るまで、隠蔽されたみたいにてんで見付かりゃしない」
懐中電灯を頼りに2人は暗い参道をいく。
蓮子たちの歩いている場所は、早池峰山においてもそれほど標高の高いところではない。それにも関わらず、山内の夜気は何処か下界のそれとは異なっているように感じられるから、異界というのもあながち間違いではないのかもしれない。
参道は手付かずで放置されていたようで、雑草が好き放題に伸びている。あんまり繁茂しているから、様相は獣道と大差がなかった。
「ねえねえ、蓮子」
先を行っていた蓮子の手をメリーが引く。少し冷たい手だと蓮子は思う。
「なに?」
「なんか聞こえなかった? 人の声。歌ってるみたいな」
「何も聞こえなかったけど? 気のせいじゃないの? そういえば図書館の郷土資料には、デンデラ野で歌声が聞こえたら人が消える前触れだって書いてあったわね」
「そういうことを言う……」
ぷいとメリーはそっぽを向いた。
こういう他愛もないやり取りが、しかし妙に楽しく感じられるから、蓮子はこのちっぽけなサークルの活動がやめられないのだ。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンが出会ったのは、今から一年ほど前のことだった。
当時の蓮子は大学に飛び級で合格し、一年次生ながら特例的に『ひも』の研究ゼミにも所属するという、傍から見れば実に順風満帆な大学生活を送っていたのだが、ただ当の本人はどうにも環境の変化に馴染めないでいた。
授業は(蓮子の苦手な解釈物理学を除けば)実に楽しかったし、ゼミのメンバーたちも良しなにしてくれていたのだが、何しろ周りのすべての人間が自分よりも年上なのだ。戸惑いはあった。
所属していたゼミの担当教授は、研究畑の人間にしては珍しくそうした人心の機微によく気が付く人だったようで――実に失礼な偏見だ――、それで蓮子と同年度入学の飛び級生を紹介してくれたのだった。
それがメリーである。
綺麗な子――第一印象はそんなふうだった。
人形のように整った顔立ちと、それに更なる華を添えるしなやかな金の髪。肌は白磁のようにどこまでも均一で乱れがなく、本当に蓮子と同じ時間の流れの中にいるのかどうかが疑わしい――あらゆる衰運を跳ね除け、ずっといつまでも変わらない形で存在し続けるのではないかとすら思わせる、ある種の無機的な美しさを持つ少女。
けれどもその表情は実に豊かで、次々にくるくると変化するのだ。
それはどうにも整い過ぎてややもすれば近寄りがたい容姿に、有機的な変化性を付与し、結果メリーという少女を実に魅力的な形に補完しているのだった。
『伝統というレッテル貼りは文化の保全手段としては有効だけれど、そうすると途端にその文化は大衆の手からはなれて流動性・発展性を喪失すると思うのよ。まったく、それで歌舞伎も能も俳句もあんなに素晴らしいのにみんな見向きもしなくなったわ。それでも日本人なのかしら? あ、そうだわ、今度能でも見に行きましょう。ちょうど新国立能楽堂で『西行桜』もやっていることだし。うんうん、そうしましょう』
変なやつ――第二印象はそんな感じだった。
どういう流れでそんな発言に至ったのかはよく覚えていないが、初対面でいきなり話すようなことではないし、いきなり能楽堂はないだろうとも思う。
ただ後から聞いたところによると、メリーの方も同じ印象を蓮子に対して抱いたのだそうだ。初対面でいきなり小難しい物理の話なんかされるとは思わなかったわ――そのように言われた。
しかしその時の蓮子はといえば、単に11次元宇宙理論について話をしただけである。一体どの辺りが変だったのかちっとも分からないし、そんな非常識人扱いされるいわれはなかったと思うのだが。
ともあれその後は互いにオカルト好きだったり、妙な『目』を持っていたりですぐさま意気投合したのだった。
そうしていつの間にか蓮子にとってメリーは、すっかり大切な人物となっていた。
「ねえねえ、蓮子」
「んー?」
後ろにいたメリーが横に並び立った。
蓮子とほとんど大差のない背丈。夜だというのに相変わらず肌は白いし、髪は明るい。
一方の蓮子はといえばいつも通りの黒をベースにした服装だから、たぶん傍から見ると背景に溶け込んでいるように見えるのだろう。
「腕、組もうよ」
「はあ?」
――いきなりなに言い出すのよ
「こんな足場の悪いとこでそんなことしたら危ないって」
「まあいいでしょ。転びそうになったら蓮子が支えてよ」
「メリーさ、ひょっとして怖いの?」
「……ちょっとだけ」
「しょうがないわね」
結局腕を組むことになる。自分の腕に絡まるメリーの腕は、どうにも細い。
女の子の腕だ――そんな良く分からない感想を抱く。
「8時10分」
星や月を見ると自然に時間が分かってしまう。
遠野の地にはそれらの光を妨げるようなものがないから、その気になれば小数点以下まで分かるだろう。
「時報癖? 気持ち悪い」
「む、ひどい言い草ね」
「だって空ばっかり見てるし――退屈なの?」
そんなことはない。
メリーと一緒ならおおよそ退屈とは無縁だ――そういうような内容のことを言ったら、またしてもそっぽを向かれてしまった。
参道は途中で石段に繋がり、その石段を上り詰めた先には鳥居と思しきものがひっそりと佇んでいた。
朽ちている。
朱塗りの大半は風雨に晒されて削げ落ち、材質が腐って自重に耐えられなくなったか、笠木は無残に折れて石畳の上に転がっていた。
その石畳も、雑草の生き意地に押され荒れ果てている。
そして朽ちた鳥居と荒れた石畳の先には、それらに増して壊れきった本殿があった。
「これが博麗神社……」
暗くて良くは見えないが、社殿に通じる木の階段はところどころ崩れてしまっている。
祭神を俗界より隔てるための仕切りの類は見当たらず、本殿の内部は明け晒されている。中には何もない。屋根瓦ははがれ、天井は穴だらけである。
そこから差し込む月の光が、伽藍の空間を冷たく照らしだしていた。
「荒らされたのね……」
破壊された賽銭箱を見て、蓮子はそう判じた。ただたとえ手付かずだったとしても、相当の期間放置されているのだろうから、様相に大した違いはなかったのだろうが。
雑草の侵食は屋根にまで至る。加えて周囲の木々も縦横好き勝手に伸びているから、場は既に山に呑まれ、山の一部と化している。
かつての神の社はとうの昔に聖域として終わっていた。
「これは――ひどいわ」
メリーがため息混じりで呟く。
「『ほつれ』、見える?」
「ええ。鳥居のところにあるよ」
「そう――この辺りかしら?」
探るようにして蓮子は鳥居へと近付いてみる。
そうして転がった笠木をまたいで鳥居の残骸をくぐる。
突然昼になった。
――え?
眩しい。
何が起きたかわからず、蓮子は混乱する。
ほんの数秒前までは夜の境内にいたはずだ。それが今は陽光に目を眩ませている。
――何よ、これ?
徐々に明るさに目が慣れ、そうして周囲の様相が分かってくるにつけ蓮子は更に混惑した。
鮮やかな朱塗りの鳥居。手入れの行き届いた端正な石畳。小さくも威厳のある本殿。
博麗神社が甦っていた。
復活した神社は柔らかな春の彩の内にある。
桜が満開になっているのだ。季節すら先ほどとはうって変わっている。
本殿へと伸びる石畳は、散った花びらでほど良く桜色に染まっている。夜気の中雑草をそよがせていた風は、今は満開の桜をなぜて吹いていた。
これほど見事な桜を蓮子は初めて見る。
――日本だ……
なぜかそんなふうに感じた。
しばし見惚れる。
しかしすぐに呆けている場合ではないと気付き、辺りを見回した。周囲にメリーの姿は見当たらない。
メリーはどこにいるのか、そもそも今はどういった状況なのか、それらを確かめねば――
「あなたは食べても良い人類?」
「わ!?」
背後から可愛らしい子どもの声がした。蓮子は状況の分析に没頭しかけていたからびっくりする。
振り返ると鳥居の手前に小さな女の子が立っていた。
控えめな色彩の白黒の服。赤いリボンで飾られた金の髪。いかにも少女といったふうな楚々とした装いをしている。
それまで気が付かなかったが、鳥居の向こうの石段も桜の只中にあった。
少女はほほ笑みながら蓮子のもとへと歩み寄ってくる。そしてそのまま蓮子に抱きついた。
「ちょ、ちょっと!?」
迷子だろうか――いきなりのことで面食らう。
少女はといえば、ぴったりと抱きついたまま蓮子を見上げている。顔は人形のようにかわいらしいし、柔らかそうな髪からは何だか良い匂いが漂ってくるからくすぐったくなってしまう。
子どもらしく体温が高い。おまけに流れていた風も遮られたから、とても暖かく感じる。
「驚いた? お昼だし、神社だし、今は食べないの。安心するといいよー」
少し舌足らずな口調で少女は言った。
食べるというのは何のことだろうか――蓮子は少女の言葉がいまいち理解できない。
「んー、あなたは外の人?」
「外?」
理解しがたい言葉が繰り返された。
少女は蓮子のネクタイをくいくいと引っ張っている。
そしておもむろに蓮子から身体を離す。遮られていた風が再び蓮子をなぜた。
「たしかもっと先の時代だったはずだし、まさかな――でも見かけの特徴は一致してる……あいつも『そう』だったんだし、ならそういうこともあるのかしら?」
ぶつぶつと独り言を言っている。
「私はルーミアっていうの。あなた名前は?」
「え? ああ、蓮子。宇佐見蓮子よ」
「レンコ? ……そう。そうなの」
少女は意外そうな表情をする。そして何かを見定めるかのように両の目をすうと細める。
どこか雰囲気が変わって、少し大人びたような気がした。
「おーい、ルーミアー」
「んー、橙~。こっちこっち」
途端にルーミアの表情が、もとの子どものそれへと戻る。
合わせるように空から人が降って来た。しなやかな動作でくるりと回転し、ルーミアの隣に着地する。
降って来たのは、ルーミアと同じぐらいの歳の女の子だった。
橙と呼ばれたその子は、背後の鳥居に似た色をした大陸風の装いをしている。赤茶色の髪の上には緑の帽子。髪の毛の大半が帽子からはみ出ているから、かぶるというよりはただ乗っているといった方が正しい。
さきほど一瞬で夜が昼に変わるという不思議な現象に直面していた蓮子だから、すでに人が空から振ってきたくらいではさほど驚かない。ただそれでも橙の頭に生えたものには少なからず目を見張る。
猫の耳――そうとしか見えないものが橙の頭には生えていた。
――ひょっとしてここ、メリーの……
「この人間だあれ?」
「外来人」
「そうなの? じゃあこれから食べるの?」
ここが仮に蓮子の想像通りの場所ならば、その食べるというのは――
「ひょっとして――食材は私?」
「神社では人間は食べないよ。霊夢こわいもん。それにあなたはわりと特別そうだし」
そう言ってルーミアは笑う。無邪気な笑顔だ。要するにこのルーミアという少女は人食いの類なのだろうが、しかし敵意だの何だのが一切感じられないから、状況を把握した今となってもあまり危機感が湧いてこない。
隣にいた橙がルーミアにたずねる。
「ルーミアはこの人間のこと知ってるの?」
「んー、私は分かんない。それより、橙のご主人様のご主人様、どこにいるか分かる?」
「紫さま? ん~藍さまなら知ってると思うけど」
「言づてをお願い~。神社に来ると面白いものが見られるよーって」
「? よく分かんないけど分かった」
そう言うと橙は空に飛び上がり、蓮子の視界の彼方へと飛んでいった。
「飛んだ……貴女たち、妖怪とかお化けとか、そういうモノ?」
「そうだよ。よく分かったね」
「そりゃあれだけ人間離れした動きをされたらねぇ……それに前に知り合いがここに来てたみたいでね、そいつから話を聞いてたから」
実際メリーの話を聞いていなかったら、蓮子はもっと長い間混乱していたに違いなかったし、こうも冷静ではいられなかっただろう。
「へーそーなのかー――まぁとりあえず神社に行くと良いよ。あそこは人間にとっては安全だから」
「そうなの――ありがとう」
「どういたしまして」
ふわりと浮かび上がるルーミアのもとに、得体の知れない黒いものが集まって、彼女を包み込む形で球体を象った。影が質量を持ったかのような、奇妙な光景である。
「じゃあねー」
球体の中にいると思しきルーミアは、そのまま球体ごとふよふよと飛んでいく。
何だかやたらと障害物に衝突しているがひょっとして前が見えていないのではないか、と彼女の身を案じつつ蓮子はそれを見送った。
そうして一人になった。
東風が吹く。
空は養花天。さざめく桜の音が耳に快い。
漂う芳葩は身体を撫ぜ、地に着いた花びらは風にさらわれ石畳に水彩のような桜色の濃淡を描いている。
先ほどと変わらない、見事な桜だ。
情景は閑雅として、それでいてどこか狂おしく、それを見る蓮子の心中には落ち着きとざわつきとが同時に去来する。
桜の季節はいつだってそうだ。
桜は死を想わせる。
それでいてその花は同時に春の、生の季節の象徴でもある。
そして本来ならば矛盾するはずのその二つの要素は、しかし桜の前においては少しも矛盾せず、むしろ調和してさえいるように感じられる。桜を前にしたとき蓮子はいつもそういう言葉では説明しがたいマージナルな感覚を抱くのだ。
死と生。
その並び立たないはずの二つの代物を隣り合わせ、綯い交ぜにする越境の花――この花そのものがネクロファンタジーなのだと蓮子は思う。
そしてそこまで考えて蓮子は苦笑いをする。どうにも桜を前に置かれるとああだこうだと要らないことを考えてしまうのだ。桜には恒例の、蓮子の悪い癖だった。
「先生、着いたよ~」
「おー、満開だー」
「さくら、さくら!」
やにわに背後が騒がしくなる。何かと思って振り返ると、子どもの一団が石段を上ってきているところだった。遠足か何かだろうか。
「こらこら、あまり騒ぐな」
そう言って子どもたちをいさめるのは、先頭を歩く引率と思しき女性である。蓮子に気が付いたのか、女性は歩み寄ってくる。
「こんにちは。お花見ですか? 失礼だが、里の人ではないですよね?」
どことなく古風な印象を受ける声音である。誰何されるということは不信感を抱かれているのかもしれない。
「えーと外来人? とかなんとか」
身の証の立て方が分からないので、とりあえずルーミアの用いた呼称をそのまま伝えてみた。
「ああ、外の人か」
「せんせー」
「先生はこの人と話があるから、お前たちは先に行っていなさい。賽銭を忘れるなよ?」
「はーい」
子どもたちは元気な返事とともに本殿へ向かって走っていく。もっとも遠足の例に漏れず先頭と末尾が随分離れているようで、まだまだ石段を上っている最中の子どももいるようだった。恐らく最後尾には別の引率の人間がいるのだろう。
「ここは、そうですね……何と表現したものか」
女性は悩むようなそぶりを見せる。背後の本殿の方からは、賽銭や拍手の音が聞こえてくる。
「異界、ですか?」
すでにここが『そういう』場所だと蓮子は知っている。
「――状況は大体把握できているようですね。ただここは貴女がもといた場所と、きちんと地続きな場所ですから安心を。それから神社や人間の里は安全ですが、それ以外の場所での安全は保障できません。一人にはならない方がいい」
そう言えば先ほど人食いらしきものに出くわしたばかりだった――そのことを蓮子は思い出したのだが、それでもちっとも危機感の類は募らなかった。桜にうつつをぬかしていたからか、当の人食いから一向に危ない気配が感じられなかったからか――何にせよ彼女が言う通り、もっと警戒心を持つべきなのだろうと蓮子は自戒した。
それにしても――
――綺麗な髪だなぁ
警戒心云々は脇にやって、蓮子は女性の髪に見入っている。
腰まで伸びる、青みがかった銀色の髪。目に見えて細く、それでいて傷んだ様子はなく、風にさらわれながら淡く輝いている。絹のようなという使い古された言い回しが、実にしっくりと来る髪だった。
そしてその上に――
――銀閣寺?
えらく変わったデザインの帽子が乗っかっていた。
落ち着いた物腰だったから気が付かなかったが、近くで見れば蓮子より少し年下のようだし、帽子のせいで分かりにくいが背丈も存外に低い。先生、と呼ばれるほどには周りの子どもたちと歳が離れているようには見えなかった。
ただし、あくまで外見の話である。
実際には目の前の人物は自分より遥かに長く生きている――理由は分からないが、そう思う。
「まあ、もっともここの巫女に掛け合えばすぐに外の世界に帰れるでしょう――申し遅れました。私は近間の村のもので、上白沢慧音といいます。よろしく」
「あ、宇佐見蓮子です」
「宇佐見さんか――ん?」
女性、慧音は不思議そうな顔をした。
「何だ、これは……一体どうなっている?」
食い入るように蓮子の方を見ながらそう呟く。
ただその目は蓮子自身ではなく、もう少し別の何かを見ているようにも感じられた。
「妙な按配だな……歴史が複数――いや、『上書き』されているのか?」
「あの?」
上書きとは何のことだろうか――先ほどのルーミア同様、蓮子は慧音の発する言葉の意味が理解できなかった。
「あ、失礼。じろじろと不躾だった」
我に返るようなそぶりを見せ、慧音は蓮子に詫びる。その目は、今度はちゃんと蓮子自身を見ているように思った。
そのとき最後尾と思われる一団が到着した。
「ほら、着いたわよ」
「わぁ、きれい――ありがとう、もこお姉ちゃん、輝夜お姉ちゃん」
最後尾というだけあって子どもたちは結構疲れているようだった。
ただ、桜が綺麗だったからか、それとも到着の安堵感からか、結局は最初の子どもたちと同じように元気に駆けていった。
場には後尾の引率役と思われる二人が残る。
「ぷっ、くくっ……もこお姉ちゃんだって。おーい、もこおねえちゃんっ」
片方がからかうようにして言う。
膝まで伸びた黒髪が艶をもって春日を反射している。
身を覆う衣は上は明るい薄紅梅、下は地味な蘇芳色をしていて、一見すると和装のようだが、そこかしこにリボンなどがあしらわれているから洋装のようでもあり、そしてどちらにせよやんごとない立場の人物であることを匂わせる出で立ちだった。
ただ話しぶりや浮かべた笑顔はとても人懐っこいし、居丈高な雰囲気などは微塵もないから特に相手に何かを構えさせる気配はない。
「黙れ、輝夜」
もう片方がむすりとして答える。
輝夜と呼ばれた人物と長さは同様で、色は好対照な白の髪。奇妙な紋様の記されたリボンが、いくつか房を作るようにしてそれをまとめている。
上半身は質素な灰桜色のシャツで、下半身は赤錆色のもんぺ。サイズが合っていないのかもんぺはサスペンダーで吊り下げられているし、シャツも腕回りが余っているようで、ベルトでもってその部分は引き締められている。かなり華奢な体つきなのだろう。
慧音が輝夜に話しかける。
「引率ありがとう、輝夜殿」
「いいのいいの。春なんだから外に出ないとね」
「妹紅もありがとう」
「……いいよ、別に。退屈してたし――ところでそちらはどちら様?」
輝夜が蓮子の方を見ながら言った。
「外の人だそうだ」
「宇佐見蓮子です」
「宇佐見さん、ね。私は蓬莱山輝夜。こっちの無愛想なのはもこお姉ちゃん」
「誰が無愛想よ。あともこ言うな」
「もこもこ」
「むきー!」
「ふふっ、もこもこ」
「慧音まで!?」
何となく三者の力関係が伺い知れた。
「あんたら相変わらずねぇ――賽銭箱はそこよ?」
別の、ゆるゆるとした声が本殿の方からし、会話に混ざる。
本殿の前に、紅白衣装の少女が箒を携え立っていた。
少女は博麗霊夢というのだそうだ。名前の通り、この神社の巫女らしい。
らしい、というのはその装束が蓮子の知る巫女のそれとは随分と異なっていたからで、腋部分の露出した巫女装束など蓮子は初めて見た。
ただ露出があるからといって厭らしい感じはない。健康美だと思うだけである。
その霊夢は縁側に座り閑々の体で煎茶をすすっている。蓮子と慧音も一緒である。実に時間がゆったりと流れていくような気がした。
庭先では輝夜と妹紅の二人と一緒に、子どもたちが遊んでいる。子どもたちと輝夜は笑っていて、妹紅も戸惑いこそすれ嫌がってはいないようだった。
野外で遊んだ経験があまりない蓮子には、子どもたちが何という遊びをしているのかは良く分からない。ただ男の子も女の子も皆嬉々とした笑顔を見せながら楽しそうに駆けていて、それが蓮子にはなんだか眩しかった。
こんなに笑っている子どもたちを最後に見たのは一体いつだろう――懐かしいような、寂しいような、不思議な心持になる。
同時に直感的にある一つの仮定に達し、蓮子は動揺した。
突然変化した神社の様相に、まるで図鑑で見るかのような子どもたちの服装。そして何よりこの場に漂う独特のノスタルジックな空気。
――まさか……ねぇ?
竹林にメモを落としてしまったという、いつぞやのメリーの言葉が蘇る。
あのときは与太だと思っていたが、もしかするとメリーは本当に時間を――
「で、蓮子さんだっけ? ここに出現したのは運が良かったわね。ここなら妖怪に襲われることもない」
霊夢の言葉が蓮子を思索の内から引きずり戻した。
「何を言っているんだ。すでにルーミアに遭遇したそうじゃないか。ちょっとはここが妖怪の溜まり場にならないよう努力したほうが良いぞ? まったく、守矢の神社は遠すぎるし、近い方のここはうかうか立ち寄れもしないし……早苗さんに頼んで村の中に分社でも建てようかな」
「あいつらが勝手に寄ってくるのよ。こっちだって賽銭が入らなくって困る」
言うほど困っているようには見えなかった。
霊夢の持つ雰囲気はかなり独特である。愛想が良いというわけではないが、突き放されているということでもない。近くもなく遠くもない、非常に心地の良い距離感を感じる。だから出会ってからわずかしか経っていないのに、かなり親しく話せているのだった。
暖かくもなく、冷たくもない。
春のようだと蓮子は思った。
「外、って言ったわね。ここは結界の内側、ということ?」
「あれ? 外の人が結界について知ってるなんて、珍しいわね」
「友達がね、そういうのが見えるタイプの奴なのよ」
「ふーん……まあ、お茶飲み終わったら出口を開けるわ。それで――」
「待て」
慧音が霊夢の言葉をさえぎる。
「宇佐見さん、えーと、グレゴリオ暦は分かりますか?」
「ええ」
「貴女は何年生まれです?」
先ほどの予感がフラッシュバックする。
蓮子は自分の生まれた年号を答えた。
「……ええと慧音、今年は?」
頭をかきながら霊夢が慧音にたずねた。
「巫女なら年号くらい覚えておけ……宇佐見さん、冷静に聞いてほしい――今は」
そこで慧音は少し間を置く。言い辛そうだ。
慧音が何を言おうとしているのか、蓮子は既にあらかた予測はしていた。そして仮に予測通りだったとして、もし蓮子が慧音の立場であったなら、自分も言いよどんでいただろうと思う。
車椅子の物理学者は、タイムトラベルの不可能性を論じたが――
「今は、20XX年です」
案の定慧音の言ったそれは、蓮子が生まれるより遥か以前の年号だった。
「冗談、じゃないのよねぇ……タイムトラベルか、特異点は事象の地平線の向こうにしかないんじゃなかったのかしら? まいったわ」
「冷静ですね」
それは違っている。
ある程度予測が出来ていたというだけで、蓮子は十分に焦ってはいるのだ。
ただその焦りを目に見える形で表現してみたところで状況は改善などしないと蓮子は思っているから、傍目には反応が薄く、さして動じていないように見えるというだけである。
「あー、違う時間の人か――じゃあ紫がいないと無理ねぇ。ま、しばらく神社にいると良いわ。あいつのことだからそのうちひょっこり来るだろうし、あいつならなんかよくわからない力で元の場所に返してくれるでしょ。大丈夫大丈夫」
紫――恐らくルーミアや橙の言っていたのと同じ人物なのだろうが、何者なのだろうか。
そして不思議なもので霊夢に大丈夫と言われた途端、蓮子の内からは焦燥の類がすっと退いていってしまった。
「何だ、やけに気前が良いじゃないか」
「さすがに神社に来た人間をほいと投げ出すようなことはしないわよ。まぁ賽銭もいっぱい入ったし、桜も綺麗だし」
そう言うと霊夢は盛大にあくびを一つした。
「私はお昼寝するからあんたらは適当にやってて良いわよ」
霊夢は座布団を二つに折るとそれを枕代わりにして横になった。座布団の素直な折れ方を見るに、たぶん折癖がついているのだろう。
「まったく、こんなに桜も綺麗なのに寝入るのか?」
「だってうちの桜だし、それにこうしてうつらうつらまどろみながら半目で桜の色を楽しむのが私の観桜作法なのよ」
「分かった分かった――季節の変わり目なんだから、寝冷えには気をつけるんだぞ」
「なんか先生みたいね」
「先生だからな」
「そういやそうだったわね。ではお休み~」
そう言うと霊夢は目を閉じた。
ものの数秒でくうくうという寝息が聞こえだす。驚くべき寝付きの良さである。
まどろみながら半目で楽しむのではなかったのか。
「なあに? 来客そっちのけで寝ちゃったの?」
「慧音~、交代」
子どもたちとの遊びが一段落着いたのか、輝夜と妹紅が縁側に座る。
聞けばこの二人は不老不死の身で、幾度となく殺し合いを繰り広げているそうなのだが、そういう殺伐とした気配は今はまったく感じられなかった。
「ああ、二人ともありがとう。蓮子さん、巫女も言っていたけど帰れないということはないですから、安心すると良いですよ」
そう言って慧音は微笑む。
そしてすっくと立ち上がると、庭で遊ぶ子どもたちのもとへと歩んでいった。
「それにしても綺麗な桜ねぇ。竹林は桜がまばらにしかないから、来てよかった」
桜を見上げながら、しみじみ半分のんびり半分といった体で輝夜は言った。
庭先では慧音が生徒たちに何かを教えている。
「妹紅、お茶」
「自分でやれ」
「けち」
輝夜は靴を脱いで部屋に上がると、勝手知ったる人の家と言わんばかりに付近の茶棚から、特に迷うこともなく茶碗を引き当てた。ここへはよく来るのだろうか。
茶を淹れて戻って来た彼女は、妹紅の隣に座った。蓮子と輝夜で妹紅を挟み込むような形になる。
「気が利かないな。私の分はないの?」
「自分でやりなさい――ああ、やっぱり桜は良いわねぇ」
そう言って輝夜は茶を一すすりする。
「輝夜、あんた桜好きなの?」
「好きよ。大好き」
「意外だね」
「意外だと思われているのが意外よ。花の情趣も解さない無風流だとでも思ってた?」
「違う。そういうんじゃない。ただ……」
妹紅はそこで口ごもった。
「妹紅は桜が嫌いなの?」
「嫌いじゃないさ。綺麗だとも思うよ。でも――苦手なのよ」
そう言って妹紅は庭を見る。
空に花が溢れている。
眼前の風光は時間を切り取り写し取った絵画のようで、だからその内にある花も永劫いつまでも散らずに咲き誇り続けるのではないかという気さえしてくる。
無論そんなものはほんの一時の錯覚だ。
自然の時間はいつだって無慈悲なまでに真っ直ぐと流れている。いくら拒めど、どう足掻けど――
「桜はすぐ散る。そういうのは、寂しいよ」
滅びの花の下で戯れる子等を見ながら、妹紅はそう呟いた。
「貴女も変なところで繊細よね」
「悪かったわね」
「まあ、仕方がないのかもね――貴女、精神がまったく人間だもの」
「人間?」
「私や永琳みたく、初めから永く生きることを前提とした心の在りようを持っていないのよ。イレギュラーな要因で寿命が延びたわけだから。それで別れがことさらに辛い」
「初めから永く?」
「だって貴女は普通の人間だったでしょう? で、なまじ寿命のスパンが無限大に延びただけに、それをいつまでも引きずってしまう。だから普通の人間だったら数ヶ月足らずで忘れてしまうようなことを、いつまでも覚えて――」
そこまで言って輝夜は口をつぐんだ。
そしてしまったとでも言いたげな顔をして――
「ごめんなさい、喋りすぎたわ」
そう詫びた。
「無粋よね、こういうの……」
たぶん彼女は人の心を穿つような物言いを良しとはしない人物なのだろう。
春愁とでもいうのだろうか、場はすっかり空気が沈んでしまっていた。
子どもたちは相も変わらず楽しそうだというのに。
「色見えで……」
ぽつりと輝夜が呟いた。言い方を察するに和歌か俳句の類だろうか。
「死神の歌か? うつろふものは 世の中の」
妹紅がそう続けた。そこまで聞いて蓮子はそれが誰の何の歌だったのかを思い出す。
それで何となく自然に――
「人の心の 花にぞありける」
そう詠じていた。
二人が意外そうな顔をする。
「知っているの?」
「ええ」
その歌は外の世界でも伝わっている。
詠み人は小野小町。参議小野篁の孫娘。
花は目に見えて色が移ろい行く。人の心という名の花の色は目には見えないけれど、やはりそれもまた移ろい行く――そういった歌意だったと蓮子は記憶している。
「でもね!」
そこで突然輝夜はばっと立ち上がり――
「蓬莱の人の心は移ろわない」
そしてくるりと廻って、妹紅の方へ振り返る。
スカートが風でふわりとした。
「あなたみたいな憎たらしい奴、絶対忘れてあげないわ」
庭先の子どもたちと同じ、曇りのない笑顔だった。
そして妹紅は一瞬面食らったような表情をしたが、すぐさま不敵に笑うと――
「上等よ」
短くそう言い放った。
日が傾き始める少し前、一団は参道を下って帰っていった。
この場所――幻想郷は昼と夜では危険度が段違いなのだそうだ。
「昼だったから良かったけど、夜にルーミアの奴に会ってたら危なかったわよ?」
ご飯茶碗をつつきながら霊夢は言った。少し諭すような口調である。
蓮子は結局しばらくは神社に泊めてもらうこととなった。向こう側に帰れるのがいつのことになるかは知れないが、やはりある程度の警戒心は維持しておくべきなのだろう。
霊夢は料理もお手の物のようで、供された夕飯は質素ながら健康的であり、アパートで適当なものばかり食べている蓮子からすると非常に美味しく感じられた。今は食後のお茶を飲んでいる。至れり尽くせりで――
「なんだか悪いわね」
「いいわよ、別に。賽銭はあんまりないけど、生活費は不足していないから――ま、明日掃除でも手伝ってもらおうかね」
霊夢は素っ気なく答える。そういう態度が蓮子にはえらくありがたかった。
「霊夢は結界の外のことは知っているの?」
「紫の奴の話で断片的に」
「その紫って人はどういう人?」
「人じゃなくて妖怪だけど――何考えてるのか全然分からない。信用ならないというか、胡散臭い奴よ」
ややもすれば辛辣な物言いだったが、そう答える霊夢の口調は今までと変わらなかったから、口で言うほどには嫌ってはいないのだろう。
「その友達――メリーだったかしら? たぶん『こっち』には来ていないわね」
「分かるの?」
「一応ね。結界の綻びは今日は一点しか発生していないみたいだったから、あなたがこっちに来たときに近間にいなかったのなら、少なくともここには来ていないと思う」
メリーはどうしているだろうか。
仮にメリーがそのままもとの時代に居残っていたとしたら、蓮子はメリーの目の前で消えてしまったはずなのだ。
驚いただろうと思う。他方、メリーのことだからさして動じてもいないだろうという気もした。後者だったら癪だなぁ、と蓮子は意味もなく憤慨する。以前に蓮子が交通事故で怪我をした時だって、てんでしおらしい態度など見せず、終ぞ普段通りのマイペースだったのだ。
思い出し憤るという非生産的な思考を蓮子がしている最中、霊夢は何かに気が付いたように庭先へと目をやった。
「蓮子、ちょっと」
少し神妙な顔をしている。
「しばらくこの部屋から出ないで」
「ん? なんで?」
「危険だからよ。部屋の中にいれば障壁が守ってくれる。だから絶対外には出ないで」
そう言うと霊夢は立ち上がり、縁側の障子を開け、そしてそのまま庭へと降り立った。
何かが始まる――そういう予感がした。
恐る恐る蓮子は障子の方へと歩み寄り、庭を覗く。
静かな夜がある。暖かくも冷たくもない中途半端な夜風が顔を撫ぜて吹いていった。
霊夢はため息交じりで静かな夜の空を見上げる。
瞬間、夜の神社に幾本もの光の帯が注いだ。
天から降り注いだようなそれは、神社の土を穿ち、降り積もっていた桜の花びらを再び空へと押しやる。
夜陰の静謐が一瞬で崩れ去り、蓮子は唖然とする。
他方霊夢はといえば、特に何事もなくそれをかわしたようで、面倒くさそうに頭をかきながら半月の輝く空へと舞い上がっていった。
つられて蓮子も空を見る。
――10:08:08+0900
星と月が、時を刻む。
場所は日本だ。
「こんばんは」
大人びたような悪戯っぽいような不思議な声が、宇宙へと連続する魔術的な大空に響き渡る。
空に漂うのは二つの人影。
「ご飯食べたばっかりなのよね」
一人は巫女。
「では、食後の弾幕はいかが?」
「面倒ねえ」
もう一人は月光に揺らいで、姿が判然としない。声から察するに女性なのだろうが、傘らしきものを持っているということだけが辛うじて分かる程度である。
二人は結構な高さに浮かんでいるわけだから会話など聞こえるべくもないのだが、なぜか蓮子の耳にはしっかりそれは届いている。
不思議だとは思わなかった。
月と桜と、空を飛ぶ不思議な巫女。
この場一切が劇場と化したかのような、結構と虚構を匂わせる情景が広がる。舞台劇の登場人物たちはたとえひそひそと囁き合っていたとしても、観客にはそのすべてが筒抜けだ。
魅力的な劇が始まり、劇的な何かが起こる――そう感じた。
「苦情は受け付けませんわ。では、早速」
その人物が懐から何かを取り出すような仕草をする。
「結界『光と闇の網目』」
宣言、といったふうな張りのある声。
――わぁ……
彼女を中心にして無数の光の塊が飛び出す。色は赤と青の二種類。一見すると無軌道にばら撒かれたかのように見えたが、拡散するにつれて各色ごとに大まかな軌道が設定されていることが見て取れた。
霊夢は二色の光弾の群れの間に滑り込む。そこが一番密度が薄いのだろう。
光弾群の中にはそれぞれに一つずつ、一際に大きい弾がある。それは曵光弾のように軌道上に一直線の光の帯を発生させ、今度はその帯から枝分かれする形で何本ものレーザーが派生した。
二色のレーザーは霊夢を包囲するかのように錯綜するが、それもやはり霊夢はするりとかわしてのけた。
最初に放たれ弾は流れ弾となって夜空を彩り、木を薙ぎ、地面を抉る。そしてさらに一部は蓮子のいる建物へと飛来したのだが、何かに阻まれ打ち消されたようで、そこに至ってようやく蓮子は霊夢の言った障壁という言葉の意味を理解したのだった。
空中では第二波が霊夢に向かって殺到していた。
色とりどりの弾たちが夜空に煌めく。半分の月がその荒唐無稽な狂騒を妖しく照らして――
「う~ら~め~し~や~」
「うわあ!?」
背後で突然声がしてびっくりする――という日中にも一度陥った状況に、またしても蓮子ははまった。
振り返る。二人の女性が立っていた。
「外の人かしら? 無事に神社にたどり着けてよかったわね~」
一人が、実におっとりとした口調で言った。
均整にウェーブした桜色の髪や、蝶のような帯で引き締められた淡い藤色の着物が何だか妙に女性的だ。
三角天冠をフリルで飾り付けたような珍妙な帽子をかぶっていて、そこに赤いうず巻き型の模様が描かれている。
「橙が神社に行けというから来てみましたが、特に妙な要素はなさそうですね」
もう一人は内跳ねが特徴的な金のボブヘアをしている。身にまとった藍色の服――道教における巫覡の装束を華やがせたような代物――とのコントラストが鮮やかだ。頭部には獣の耳を思わせる二股の帽子を着けている。
そして何より目を奪われるのは、妖美に輝く金色の九本の尻尾。
――九尾の狐?
もしそうなら大物中の大物だが――
「私は西行寺幽々子というの。貴女は?」
桜髪の女性がたずねる。
「宇佐見蓮子です。あの」
「ん? なあに?」
「外のアレはなんなんです?」
「決闘よ」
「決闘?」
「あら、紫ったら押され気味なのかしら?」
霊夢と決闘を繰り広げているのが件の紫という人物らしい。
幽々子と共に再び空を見やる。
圧迫感と威圧感をもって、夜空一面色とりどりの弾幕が広がる。そのただ中を舞う紫色の服とナイトキャップのような特徴的な帽子。
――あれは……
そのとき霊夢が何かを投擲する仕草を見せた。
「きゃっ!」
小さく悲鳴が聞こえた。
先ほどは突然のことで意識していなかったが、その紫という人物の声に蓮子は聞き覚えがあって――
「キレがないわね、紫!」
声高に霊夢が言う。
「まだまだ、ですわ――『人間と妖怪の境界』」
紫なる人物が再び何かを宣言したようだった。
霊夢の周りに巨大な光弾が集まり、回転を始める。それぞれの光弾からは槍のように光が伸びていて、それが中心にいる霊夢の脱出を阻んでいるようだ。
そして回転する光弾の外側にビットのようなものが配され、そこから青白い弾が一定のペースで、脈々と放出される。高い密度と、張り巡らされた網の形をもって、押し潰すように弾幕が霊夢を包囲する。
そのとき月が紫の顔を照らし出した。
蓮子はそれをはっきりと見た。その顔は――
「メリー!」
反射的にその名前を呼んでいた。
途端に霊夢を包囲していた弾幕は全て消え去り、出来すぎだった舞台空間は急にひっそりとしてただの静かな夜が戻った。
◇◆◇
――――A.D.60
いかんせん時代が時代であった。
車、鉄道、航空機――そんなものは存在せず、辛うじて発展していた船舶にしても航海術などは期待できるべくもなく、せいぜいが短い距離を航海するか、運搬目的で河川を航行する程度のことしか出来なかった。
結局馬だの駱駝だのを頼みにして、後に絹の道と呼ばれる灼熱の交易路を経、実際に日本へと行き着いたのは帰ろうと決意したときより数年を経た後のことであった。
荒涼・荒漠の砂漠。騎馬民族による襲撃。中国帝国における戦乱と政変。
その長きに渡る厳しい行程は、あの丘で黒翼の悪魔と対峙したときに芽生えた能力を進化させていた。
境界を操る能力。
皮肉なことに彼女がその力を自在に使いこなし、空を飛び、空間の連続性すらも超越するようになったのは、日本へと行き着いた後のことだった。
そして、その能力をもってしても未来へと帰ることだけは出来なかった。
「幻想の保全、ですか……」
目の前に座った人物が呟く。
四季の名を冠し、是非を曲直する十王が一人――そういう仰々しい肩書きに反して意外と素朴で話しやすく、また高位の閻魔の中では優秀ながらも若く、考え方も柔軟な人物である。だからこそこうして彼女は話をしているのだが。
「私の計画については今お話しした通りです」
「計画というより理想ね。本当に、実現可能だと思ってる?」
閻魔は彼女の瞳をじっと見る。
威圧感があるというわけではない。射竦めるような眼差しということでもない。それでもその目には人を怯ませる何かがあった。
「安請負は出来ません。ただ、やる価値はあると思います」
「そう――話の腰を折ってごめんなさい。それで、頼みというのは?」
「二つあります。一つ、幻想郷――そう呼ばれるに足る場所が完成した暁には……そこの閻魔になってもらえませんか?」
会話が途切れ緘黙が場を支配した。
閻魔の瞳は変わらずに彼女を見据えている。彼女もそこから目を逸らさず、それを見返す。
本当は彼女はすぐにでも目線を逸らしてしまいたかったのだが、先にそうしたのは閻魔の方だった。
「……それは一体いつのことになるのかしらね」
やはり荒唐無稽に過ぎただろうかと彼女は落ち込む。
「まぁでも」
少し悪戯っぽい声。
「面白そうね。いいわ、約束します。いつになるかは分かりませんが、楽園が閻魔の役割、引き受けましょう」
「本当ですか!?」
途端に彼女の表情が明るくなる。あまり色よい返事を期待していなかったが故の表情である。
「閻魔は嘘を言わない。貴女の計画、私も一枚噛ませてもらいます。文明の発展に伴う幻想の衰亡については、いずれ是非曲直庁でも対策を講じなければならないことでしょうしね」
「あ、ありがとうございますっ!」
「ただ私を焚き付けたんだから、しゃんとしなさい?」
「はい!」
厳しさと優しさの同居した笑顔を閻魔は見せる。
「それで、もう一つの頼みというのは?」
「それは……」
計画の実現には長い時間が必要になるだろう。
しかし彼女は今、人でも化物でもない曖昧な位置にいる。肉体の経年劣化こそ止まってはいるが、寿命の程は知れない。
いつ死ぬのか、分からない。
それでは余りに心許ない。だから――
「私の――人間と妖怪の境界を……白黒はっきり付けて下さい」
◇◆◇
「スペルブレイク? どうして?」
地面に降り立った霊夢が呆気にとられたように呟いた。
「メリー!」
上空に向かって蓮子が叫ぶ。
すると宙に浮かんでいた人影は闇に溶けるように消えた。
同時に蓮子の目の前の地面に赤黒い孔が現れる。中からはいくつものぎょろりとした目が覗いていて一瞬模様かと思ったが、それは瞬きを伴いながらじっと蓮子を見詰めているのであった。
生きている。
孔の中に何かがいるのではない。孔自体が生きている――そう感じた。
奇怪さが度を過ぎているのか、恐怖心などはあまり湧き上がってこない。
そしてその中からまず派手な日傘がにゅっと出る。更に一瞬前までは上空にあった人影が、頭から首、首より腰と順々に、まるで濁水から上がるかのように少しずつその姿を露わにしていった。
現れたその人物はやはり――
「メリー! あなたもこっちに来てたの!?」
孔の中から現れた人物に蓮子は駆け寄る。
その孔が何なのか、先ほどの決闘は何だったのか――そういうことはひとまずどうでも良かった。メリーの方がどう思っていたかは知らないが、少なくとも蓮子はメリーのことをかなり心配していたのだ。こうして姿が確認できて、ひどく安堵する。
一方の世にも奇妙な登場の仕方をしたメリーはといえば、どこか戸惑うような表情をしている。そして――
「どちら様?」
と言った。
――人違い?
今度は蓮子が戸惑う番だった。
――メリーじゃないの?
声や顔立ちはメリーに瓜二だが、そういえば随分と髪が長い。
「今日流れ着いた外の人。未来人らしい」
「あらあら、そうなの……私は八雲紫。妖怪です」
妖怪という言葉が蓮子に重くのしかかる。やはり彼女はメリーではないのだろうか。
束の間の安堵感は霧消して、蓮子は一気に消沈した。
「宇佐見蓮子です。貴女はマエリベリー・ハーンという名前では――」
「残念ながら私は生まれてこの方17年、ずっと八雲紫ですわ」
言葉は無下になる。
ただ、やはりそっくりだとは思う。人違いであると明言された今となっても、なおその笑みや立ち振る舞いはメリーのそれに見えた。
「紫様、なんか普段より邪気がないですね」
藍が小首を傾げながらたずねた。
「きっと冬眠が足りなかったのよ」
相も変わらずのおっとり調子で幽々子が言った。
「ん~、かも知れないわ。いったん帰って明日出直そうかしら? 面白い『目』も持っているみたいだし」
紫は蓮子の方を見てそう言った。目というのは蓮子の時間を刻む能力のことだろうか。
「目? ていうか蓮子が帰る用の出口開いていってよ。私じゃお手上げなの」
「それは出来ない相談よ。時間を弄くるのには、それこそ時間がかかるの。覚えておくことね」
「紫帰っちゃうの?」
残念そうに幽々子が言った。
「ええ。何だか調子が悪いわ。さっきもいきなりスペル壊れちゃったし」
「そう――私は夜桜を拝んでから帰るわ」
「いや、あんたも帰れ」
「お茶菓子をくれないと帰りません」
「台所に賞味期限の過ぎた大福があるからそれ持ってって良いわよ」
「大福の幽霊ね。冥界に持っていけばきちんと食べられるわ」
冥界?
「……本当に?」
「嘘よ。紫~、お茶も出ないみたいだから私も送っていって……それにしてもとんぼ返りよねぇ」
幽々子はそうぼやくと、件の孔にふわりと飛び込んだ。藍もそれに続く。
一瞬で二人の姿は見えなくなった。
「ごめんね、幽々子。藍も――そうそう、宇佐見さん」
紫は孔に半身をうずめた状態で振り返った。
「貴女のこと、気に入りました。明日また来ますわ」
そう言って紫はほほ笑んで、孔の内へと消えた。別れ際に残したその笑顔は、ただの少女の笑顔だった。
孔が閉じ、ただの地面が現れて、再び場は霊夢と蓮子だけになった。
先ほどまでの極彩色の喧騒とは打って変わって夜の神社にはほとんど色彩がなく、それで蓮子はここが浄域であることを思い出す。
「メリーそっくりなんだけどなぁ……」
思わずぼやいてしまう。
「なんだか嫌な予感がするわ」
霊夢が少し低い声でそう呟いた。
「どうしたの?」
「結界が……気のせいか?」
そのときの霊夢の顔は紫とは対照的に、表情が無かった。
能面と向かい合っているかのように一切の感情が伝わってこない。いや、そもそも伝えるべき感情自体が存在しているのかどうかが疑わしい、そういう表情だった。
冷淡――ですらない。
蓮子の目にはそれがひどく怖いもののように見えた。
「ま、いっか。そろそろ寝よう」
そう言って寝床をのべ始める霊夢の表情は、元の春めいたそれに戻っていた。
翌日は快晴だった。
博麗神社からは幻想郷が一望できるようになっているらしい。そこからの山容を見て、やはりここは遠野一帯の山間部に位置しているようだと蓮子は判断する。
ただ蓮子の知る限り20XX年といえばこの近辺もとっくに開発が入っていたはずだし、博麗神社も廃社扱いだったはずではある。
分からないことは多い。ただ――
「素敵な――ところね」
「でしょう?」
隣にいる紫は、喜色を満面に浮かべ子どものように笑った。
紫は先晩の言葉通り、朝から蓮子を迎えに来ていた。彼女の習性からするとそれは大変に珍しいことだったらしく、朝に紫を見た霊夢はえらく珍妙な顔をしたのだった。
昨日の派手な日傘は今日も持参している。それほど日差しが強いようには思えないし、昨日は夜でも差していたからそれは一種のトレードマークのようなものなのだろう。
「食べるなよ?」
霊夢が紫に念を押している。
当の蓮子はそれほど自身の身を案じてはいなかった。紫の態度は、多少ふざけた部分もあるが概して紳士的だったし、やはりメリーそっくりであるという点が蓮子の警戒心を緩めさせていた。それにこの場所をもっと見て回りたいという好奇心もある。
楽観に過ぎるとは一応思っている。
慧音にまた会うことがあれば、説教の一つも食らいそうである。
「私があんまり人間を食べないのは知っているでしょう?」
「あんたが食べなくたって、他のやつの食料として供することはあるでしょうに」
「大丈夫よ。彼女、気に入ったから。それにいったん神社で保護されたような人には危害を加えたりはしないわ――貴女と、本気では戦いたくないもの」
紫はその薄ら笑いを覆うようにして、扇子を口元へとやる。
その仕草はこれまでで一番――あの孔から現れたとき以上に――妖しかった。
「……そういう言い回し、好きじゃない」
対する霊夢は嫌そうな顔をした。
「あらあら、ごめんあそばせ――それでは蓮子さん、参りましょうか」
そう言うと紫は蓮子の方へとその手を差し伸べた。
樹木に囲まれた参道をしばらく下っていと、背の高い草が茂った獣道へと入り込んだ。参道はそこで完全に分断されている。紫の言うことには、これが神社の参拝客を減らす一因になっているのだそうだ。
鬱蒼としていて見通しが悪く、なるほど色々『出そう』だと蓮子は思う。幸いにしてその獣道を抜けるまで、何にも出くわさなかったのだが。
獣道を抜けると参道の石段が再び現れる。それを下っていくと――蓮子はもとの時代ではその石段を上っていたのだが――樹木が少しまばらになり、視界が開けた。
参道の入り口、蓮子からしてみれば出口に当たる鳥居が近付く。笠木に掲げられた額には達筆なのか拙筆なのか良く分からない筆致で『博麗神社』と書かれている。
鳥居の抜けてしばらく山道を行くと、緩やかな傾斜を描いたあぜ道へと合流した。
脇には水の張られた棚田が連なり、またそこかしこに雪かきで積み上げられたと思われる雪山が散見する。高く積んだが故に、長いこと残っているのだろう。
二人はそこを下っていく。
棚田といえばそれはまったく人口的な代物のはずなのだが、それを含む山の風景はどこまでも自然であるかのように感じられるから妙なものだと蓮子は思う。雪代で路傍の水路は水量が多く、それが間近へと迫った農繁期を予感させた(もっとも蓮子の時代では合成技術の発達により従来型の一次産業はほぼ死滅していたから、蓮子の抱いた感覚は民俗学等の書物から得た知識による部分が大きかったのだが)。
「面倒だから飛びましょう。うん、そうしましょう」
「へ?」
おもむろに紫が蓮子の手を握った。少し冷たい手である。
途端に蓮子の体がふわりと浮かび上がる。紫も同様に浮かんでいる。
「浮いた……」
二人は手の平一つで繋がっているだけだから、紫が蓮子の体重を支えているということではないのだろう。大体それなら蓮子はもっと垂れ下がるような有様になっているはずだが、実際はまるで宙に立つかのような体勢で安定している。
重力がなくなったかのようだ。
とはいえ蓮子は無重力空間での行動制御訓練などは受けたことがない。(月面ツアーに申し込めばそうした訓練を受けることになるらしいのだが、あいにく費用という名の壁に阻まれ叶っていない)
それにもかかわらず特に差し障りなく体勢を制御できているのだから、なにか特別な力が働いているのかも知れない。場所が場所なだけに、そういうこともあり得るだろう。
「では、お空の散歩と洒落込みましょう」
にっこりと紫はほほ笑んだ。
冷たく冴えた空気の中を飛んでいく。
遥か眼下には春紅葉の頃を迎えた山々が広がる。春浅い野山を染めるのは、残雪の白と、新芽の淡い赤と、新緑の萌黄。
幻想郷の山は笑っている。
地面はどこまでも遠くて、あんまり高いから逆に高度が上手く認識できない。墜ちたら一巻の終わりだということだけが分かる。
紫とつながった手に、自然と力が篭る。
「そんなに強く握らないでも大丈夫よ?」
蓮子は特に高所恐怖症ということではなかったのだが、さすがに身一つでここまで高空に浮かび上がられてはこうならざるを得なかった。どうやらここの住人たちにとって飛行と歩行は同義らしいのだが、蓮子はそうではないのだからもう少し『慣らし』のようなものがほしかったとは思う。
ただ、紫に掴まっていれば絶対に大丈夫だという根拠のない思いが蓮子の内にはあった。
「ていうか手を放しても何の問題もないんだけど」
「……遠慮します」
さすがにそれは怖い。
「ん、人間の里が見えてきた――降りるわよ」
穏やかな顔立ちをした道祖神が立っている。
蓮子の記憶が確かなら道祖神は二体で一対をなすもののはずだったが、目の前のそれは一体だけで成立しているようである。様式が違うのか、それとも何かの理由があって離れ離れになっているのかは蓮子には分からなかった。
その境界守の石像を境にして、人里が始まる。
蓮子のいた時代では人間の住居などはどこでだって結構ひしめいていたから、こうして人の住む場とそうでない場とがきちんと隔てられている様は妙に新鮮だった。
桜や土筆などで春めく小径を中心に、まばらに萱葺きの屋根が立ち並んでいる。
かつて白川の歴史資料館で見たのと同じような代物だったが、それは展示物でも保護遺産でもなく、人の住まう生きた家屋だった。
鍬に鋤。手箕。脱穀用の唐棹――軒先に様々な農具が見て取れる。
足の進みに従い、段々と建物や人の数が増えていく。
農業を生業とする人々は里の外寄りの方に住んでいるのか、里の中心部へと進んでいくにつれて農具の類はあまり見当たらなくなり、代わりに徐々にモダンな建物が目立ちだした。
中心付近の建築物の多くは、江戸末期から明治初期にかけての様式を混淆させたような代物である。人の往来はなかなかに多いし、比較的高い建造物も目立つから、小さいながらも里より町と表現する方が正しいような気もする。
春光に照らされた人里は、活気に溢れていた。
考えてみれば地理的には東北地方の、しかも山間部なのだろうから冬は長引くのだろう。ならば春は余計に待ち遠しいものなのかもしれない。
ただ身に感じる活気に反して、人々には急いでいる様子等は微塵も感じられない。卯酉両都を53分で行き来する蓮子の時代からすると考えられないほどの、実にゆったりとした歩みで闊歩している。
そのペースに合わせて歩いていくが、蓮子には早歩きの癖があったのでかえってバランスが取りにくかった。
「大体のものはここで工面できるし、妖怪にも襲われない。安全なところよ」
「妖怪――は入って来ないということですか?」
「入っては来るけどね。現にここに一人いるし――ただ暗黙の了解というようなことはあってね、ここで人間を襲ったりしたら妖怪からも干されるかも」
人々とすれ違いながら進んでいくと、ちょっとした広場のようなところに出た。
『やつめ』と銘打たれた食堂と思しき建物に、四階建てぐらいの歌舞伎座のような建物。近間には酒屋があって、その前では朝だというのに若者たちが談笑しながら酒を交わしていた。
行きかう人々の服装は、霊夢や輝夜のそれと同様で、洋の東西が錯綜したようなデザインをしている。ここではそれがスタンダードなようだ。
ところで――
「紫さん、なんか視線を感じるんだけど?」
「なぜかしら? 皆目原因に見当がつかない」
「白々しいな。真昼間からお前のような大物が来れば警戒はするさ」
慧音だった。
「ひどいわ、ひどいわ。私ほど紳士的な妖怪はそうはいなくてよ?」
紫がわざとらしく嘆いてみせている。
蓮子からすれば周囲の視線は好奇のそれであって、警戒という感じは受けなかったのだが。実際若者は相変わらず酒を呷っているし――
「おい、紫様だ。相も変わらずお麗しい」
「俺は慧音先生や門番さんの方が好きだな」
「門番さんならさっき見かけたぜ? 吸血鬼のお嬢様のお供みたいだったが」
「みすちー……うふふ」
「おーい六助~、起きろ~」
何やら好き勝手言っている。本当に警戒しているのだろうか。
「警戒されるのがお前の本懐だろう?」
「む……ふふ、白澤のセンセイは良く分かっていらっしゃる」
「そいつはどうも。で、珍しいな。藍殿や橙のやつはよく来るが」
「殿って――あんた相変わらずかたいわねぇ。今日は蓮子の案内役なの」
いつの間にか呼び捨てになっている。まるでメリーに名前を呼ばれているようだった。
「かわいそうに、貴女も変なのに目を付けられたなぁ」
良く分からないが同情された。
「けーね、失敬ね」
「韻を踏むな。ま、あんまり騒ぎを起こすんじゃないぞ?」
人里は結構色々なものが揃っていて、退屈とは縁遠そうである。妖怪たちもどうやら里内では人は襲わないらしく、買い物だの食事だの当たり前のように人間に混ざって行っている。
賑やかながら、のんびりした場所である。
慧音の言う通り紫は大物であるらしく、視線が止むことはほとんどない。
ただそれは紫を見ているというのもあるのだろうが、蓮子の正体を探っているような部分もあるのかもしれない。
「あ、紫様。これをば藍様に」
途中で豆腐屋の主人からお揚げをもらった。
藍というのは確か昨日出会った九尾の狐の名前だったはずだ。
――狐ってほんとにお揚げを食べるのかしら?
蓮子の時代では狐は数が激減していて――狐に限ったことではなかったが――その姿は3DCGくらいでしか見る機会がない。当然生態などは知る由もなかった。ただ昨日であった人物は、形が形なだけに普通の狐と同列で考えない方が良さそうではある。
「ねえねえ、蓮子」
紫がどこかで聞いたことのある口調で言った。
「何ですか?」
「腕を――いや、何でもないわ」
紫は何かを言いかけたようだったが、そのまま口をつぐんでしまった。
ある程度歩き回った後は、のんびりついでにカフェに行こうということになった。そんなものがあるということは、ここはどうやら明治期の文明開化は迎えているということだろうか。
当のカフェは歩いてすぐのところである。
蓮子は大学でもカフェを利用する機会は多かったから、内心結構楽しみにしている。
ただ、紫は少し不満げな顔をしていた。
「私は室内のカフェよりオープンなカフェテラスが好きなのよね」
――ん?
その言葉は、聞いたことがある――蓮子の記憶の琴線が音を立てた。
既視感?
いや、既視感ではない。実際に、どこかで今の台詞にそっくりな言葉を聞いている。それは一体いつのことだったか――
「誰かに作らせようかしら――こんにちは~」
記憶を手繰る蓮子を尻目に、紫はカフェの扉を開く。
「いらっしゃいませ~、って紫様ではないですか。玄関から入って来られるとは珍しい。かしこみかしこみ」
カフェのオーナーと思しき男性は紫に礼をし、二人を案内する。
「そちらはご友人ですか?」
「そんなところ」
「そうですか。ここは野菜一筋な父の野菜をもっと広めるべく建てたカフェでして」
「おすすめは南瓜のケーキ、でしょ? 早く席に案内するの」
「おお、これは失礼を。こちらでございます」
先ほどの若者といい、総じてマイペースな人間が多いようである。
店内の調度品は総じてどれも木製で、ごつごつとしている。椅子には座布団がしいてあるから不便はないが、無機的なデザインの家具しか見たことがなかった蓮子の目にはそれらが斬新に映った。
品書きを見る限り、飲み物のメインはコーヒーのようである。カウンターの向こうにはインテリアのようなコーヒーサイフォンが並んでいる。
――サイフォン?
まただ。記憶の中に何かが引っ掛かっている。
それが何かは分からなかったが、とりあえずは店主の進める南瓜のケーキとコーヒーをオーダーした。
待ち時間の間に紫にこの場所について色々とたずねてみた。紫は妙に嬉しそうに、それらの問に逐一答えていく。
そういう時間がしばし続いた。
幻想郷について語るとき、紫は何とも嬉しそうな、そして誇らしげな顔をする。ここが大好きなのだろうと蓮子は思う。
そして蓮子は自分が別の時代に来ているということを少し失念しそうになる。紫とメリーがそっくりだったからだ。
そのうちケーキとコーヒーが運ばれてきた。
「美味しい……」
錯覚なのかもしれないが、心なしか合成食品でつくられたケーキよりも味が優れているような気がした。コーヒーもきちんと抽出されているようで、ドリップ式と比べても味に遜色はないように思う。
「あれ? スキマじゃないか」
甲高い、子どもの声がした。
見れば水色の髪をした女の子が、踏ん反り返るようにしていた。背中には自身の背丈よりも大きい、蝙蝠のような羽が生えている。
座っている蓮子とその目線の位置は大して変わらない。蓮子もそれほど背の高い方ではないから、女の子はかなり小さいのである。
「珍しいわね、お前が昼から起きているなんて」
いかにもわがままなお嬢様、といったふうな尊大な態度である。
小さな身を包むドレスは、恐らく蓮子がこちらに来てから見かけた衣装の中で最もフリルが多用されていて、こちらはいかにも良いとこのお嬢様といった雰囲気を醸し出している。
幼い――嫌味ではなく、そういう言葉が良く似合う。
「良い子は起きる時間なのよ? まぁ悪い子も珍しく起きているみたいだけど」
「お前に言われたくはないな――花見よ、花見。あとパチェが桜餅がほしいっていうから」
「長明寺」
「パチェはドーミョージって言ってたわ。ていうか、そいつは誰だ?」
どうもこういう切れ切れの会話がここの主流らしい。小気味が良いといえばそうなのだが、正確な情報の伝達には一苦労しそうな会話術である。
「こちらは蓮子。私のお友達ですわ」
「友達? 貴女も厄介なのに気に入られたわねぇ」
また同情された。
「外の人? 私はレミリア。レミリア・スカーレット」
「宇佐見蓮子です」
とりあえずここで出会う人物の大半は、見かけに反して己より年上なようなので、自然と口調が丁寧なものになる。
「お嬢様ー、コーヒーの銘柄どうします?」
カウンターの方から別の声がする。
声の主はえらく大量の荷物を抱えた女性だった。しなやかに伸びた赤の髪と、緑色の中華風の装束が印象的である。
「コナっていうのは駄目ね。パチェの話だとあれは白い家というところで飲むのだそうよ。うちには合わない。それ以外なら何でも良い」
「はーい」
「さてと――ん?」
何かに気付いたかのように、レミリアは蓮子を凝視する。
「……妙ね」
先ほどまでの幼いそれとは違う、己の内の自分でも与り知らないようなところまで見透かされるような、紅の瞳。深淵から覗き返されるようなその視線に射られ、蓮子はひどく落ち着かない気分になる。
「やけに捩れた運命だな」
人の身には計り知れない何かを、その瞳は捉えている――そう感じた。
一体何が見えているのだろうか。
そういえば慧音と初めて出会ったときにも似たようなことがあった。
「それに……スキマ? いや、別人か? あぁ、あのときの――しかし、どうにも混線してるわね。分かりにくいったらない」
「へぇ、思った以上に『見える』のねぇ。意識的に行使することは出来ないと思っていたのだけど……」
感心したように、そして少し煩わしそうに紫は言った。
「疲れるし、第一つまらないから余り使わないけどね――干渉は識閾下でなければ行えないけれど、見るだけならまあどうにでもなるわ。それより、蓮子。貴方の友達はメリーという名前かしら?」
「知ってるんですか!?」
メリーについて、レミリアの前では一度も言及していなかったはずなのだが。
「以前うちに来たことがあってね、最初はそこにいる胡散臭い奴だと思ったから追い返そうとしたんだけど、どうやら別人みたいだったし。確かクッキーを渡したんだったかしら?」
それはあのときの――メリーが夢の中の代物を持ち帰ってきたときのことではないか? やはりあの時彼女は、無意識的に境界を飛び越えていたのだろうか。
「ねぇ、スキマ。貴女そのメリーって奴とは関係はないの?」
「ないわ」
つまらなそうに紫は言う。何だか先ほどまでとは違って機嫌が悪そうである。
ひょっとすると彼女はメリーと同一視されることに少なからぬ不快感を抱いているのだろうか。そうだとすればその原因は蓮子にあるわけだが――
「瓜二つなんだけどな――相変わらずお前の運命は見えないわね。ま、そのメリーってのはこの場所にはいない。たぶんもとの時代にそのままでいるだろうから、早めに帰りなさい」
「今日はやけにお節介ね」
「面白い運命の在りようを見たからね」
「お嬢様~、新作のケーキが無料サービスなのだそうです」
先ほどの中華装束の女性である。
「せっかくだから4人で食べましょうよー」
「あのねぇ美鈴、貴女食べすぎなのよ。どうせ昼寝もするんだし、太るよ?」
「操気の達人たる私に何を仰いますか。ささ、食べましょう」
女性は慣れた手つきでケーキを切り分けていく。
果物いっぱいのタルト。普段だったら間違いなく蓮子の食指は動いていたのだろうが、ただ今はそうはならない。
オープンカフェ。コーヒーサイフォン。新作のケーキ。
その三つの要素が連子の内で反復されている。
情報に刺激された意識は、関連する記憶を掘り返そうと躍起になり――
「お前はもう……そんなだから魔理沙に舐められっぱなしなのよ。ん? でもこのケーキは美味しいわね」
そのレミリアの言葉がきっかけになった。
――思い出した
先ほどの紫の台詞。
室内のカフェよりオープンなカフェテラスが好き――以前メリーと月面ツアーの愚痴を交わしたとき、メリーがそれと同じことを言っていたのだ。だからあれほどに記憶の琴線に触れるものがあったのだ。
そしてコーヒーサイフォン。
あのときの二人の話題は確か民間の宇宙旅客用に設けられた――
「衛星カフェテラス……」
がしゃんという音がした。
「紫さん!? 大丈夫?」
紫のコーヒーカップが倒れていた。
こぼれたコーヒーは机から滴り落ち、紫色のドレスに黒々とした染みを作っている。
「……大丈夫よ。ちょっと――手が滑ってしまいましたわ」
そう答える紫の顔は、ひどく辛そうだった。何か必死に痛みを堪えているかのような――一体どうしたのだろうか。
「……見えた」
その時レミリアがぼそりと呟いた。
「そう、そういうこと……はは、ややこしいわけだ」
額に手を当て、レミリアは笑っている。
「胡散臭いと思っていたけれど、全然ね。むしろとっても分かりやすいわ」
「何の――ことかしら?」
「一途ねぇ」
「からかっているの?」
「敬っている。その一途さは尊敬に値するよ――貴女のこと、少し好きになってしまいそう」
そう言ってレミリアはほほ笑む。本当に言葉通りに思っているのだろう。誇り高い――そういう笑みだと蓮子は思った。
そしてレミリアは先ほど蓮子を見つめた瞳を、今度は紫へと向ける。
「一つだけ確定している運命があるわね――別れ、かしら? ふん、なるほどね。お前がどれほど足掻こうが、殊その一点においては歴史も運命も揺るぎはしない――あるべき方へと『修正』されるわけか」
「良い趣味とは言えないわね、それ」
「そうね、ごめんなさい。見なかったことにするわ。ただ忠告を一つ」
レミリアは蓮子の方を一瞥する。そして紫の方へと向き直ると――
「その娘はお前が求めているものとは別の存在よ。そこを履き違えないことね、『八雲紫』」
静かにそう言った。
その後レミリア一行と別れて再び里を回ったのだが、不機嫌だったのか、気落ちしたのか、紫はずっと浮かない顔をしていた。
そうして夜の帳が下りる頃、紫の用意したわずかな明かりを頼りに参道に至るあぜ道を登った。
田毎に半月が揺らめく。
それは趣致深い情景だったのだが、ただ今は水面のどうにも定まらない揺らぎが心を靄らせるだけだった。
しばらくして参道とあぜ道を分かつ鳥居に到る。
参道は木々に覆われて月明かりがほとんど届かないから、一際に夜が凝って洞穴のようになっていた。その黒い空間を背後にした鳥居の朱は、逆に厭に鮮やかだ。
暗い参道へと踏み入る。
その途中で、紫は蓮子に詫びた。
「ごめんなさい。何だか嫌な思いをさせてしまったかしら?」
「そんなことないです。楽しかったです」
「そう……良かった」
少しだけ紫の表情が晴れたような気がした。
「真っ暗ですね」
「夜だもの」
風が吹き、木々がざあざあと鳴いた。
紫は蓮子の手を引いて進んでいく。
「あの孔みたいな――」
「スキマのこと?」
「使わないんですか?」
「今は歩きたい気分なのよ」
しばらくして獣道に入り込む。
その様相は鬱蒼を通り越して、もはやただの闇だ。行きに一度は下ったはずの道――そのときはしっかりと有限だったのに、今は果てなく伸びているように見える。
夜は暗い。
そういう当たり前のことを今更に蓮子は実感する。
月に見放され暗然とした空間を、紫の持つ明かりが頼りなく照らしている。そのゆらゆらとした光の向こうに
ルーミアがいた。
「こんばんは」
無邪気な声。
昼間と少しも変わっていない。
こんなに闇が深まって、何もかもがそれに呑まれそうになっているのに、ルーミアはちっとも変わっていない。
それが少し、怖かった。
「夜に出歩く人間は食べても良い……」
「……」
「冗談なの。それで、その子があの子?」
「……違う」
「そーなのかー――これ、橙にプレゼント」
ルーミアが魚篭を紫に手渡す。
「昨日の弾幕ごっこ、はぐらかしちゃたから。じゃあね~」
闇よりなお濃い漆黒がルーミアを包む。そのまま彼女は昨日と同じようにふよふよと飛んでいった。
今度は何にも衝突することなく。
神社に着くと賽銭箱の前で霊夢が空を仰いでいた。こちらに気が付き、視線を落とす。
「ああ、おかえり」
何だか安堵してしまう。
「これから迷い家で晩ごはんだから、引き続き蓮子は借りるわね。貴女も来る?」
無用になった明かりを消しながら紫は言った。
どうやらまだまだ連れ回されるようである。蓮子の意思は結構に無視されているようだが、それがちっとも嫌だと感じないのはたぶん蓮子が紫とメリーをついつい同一視してしまっているからなのだろう。
「それを言いに戻ってきたの? わざわざ歩いて?」
霊夢が不思議そうな顔をした。
「回り道をしたいときってあるでしょう?」
「ふーん……ま、私はもう済ませちゃったから遠慮しとくわ。ていうか蓮子の分のご飯も、もう作っちゃったんだけど?」
「後で取りに来ますわ」
「そっちに泊める気? まあいいけどさ……食べるなよ?」
「食べないってば、もう」
紫が頬をふくらませる。
だいぶ元気になっているようだと蓮子は思う。
ただ笑顔が少し乾いていたような気もするから、それは空元気だったのかもしれなかった。
紫がスキマと呼ぶ謎の通路を通って――正直そこに飛び込むのはかなりの抵抗感があったのだが――行き着いたのは立派な門構えをした屋敷だった。
明治から昭和にかけての山村における素封家の住いといった雰囲気である。周囲は土塀で囲ってあって、その上から美しい紅白の花をつけた枝がしな垂れている。
篝火の焚かれた門をくぐり、ビロードのあしらわれた引戸を開けると、昔めいた板張りの廊下が伸びていた。
「庭のあれ、何の花です?」
品種が分からなかったから紫にたずねてみる。
「過去の花、ですわ」
「過去の?」
「外ではもう見られないということ」
「そう――なんですか」
綺麗な花だった。
だからそれがもう外には存在しないということが、寂しく感じられる。たくさんの花が滅んで、滅んだ分だけ幻想郷は更に美しくなるのだろう。
「傘仲間に頼んで咲かせてもらったのよ」
「傘仲間?」
「プライドが高いし、そうやすやす御せる相手でもないんだけどね」
しばし廊下を進み、茶の間へと通される。
黒檀の卓袱台や檜の箪笥など、蓮子の時代では博物館に収蔵されていそうな代物が当たり前のように配されている。また畳の表替えから時間を経ていないのか、ほんのりとい草の青い香りがした。
茶の間に隣接する台所からは夕食の仕度の音が響いてくる。
取りあえずただご馳走になるのも悪い気がしたから配膳だけでも手伝おうと思ったのだが、その必要はないと紫に制された。それで座って夕餉を待つ身となるが、少し所在がなかった。
昨日出会った藍が、皿やら何やらを運んでくる。背後には橙もいっしょだ。
「紫様に気に入られるなんて、災難だったな」
やっぱり同情された。
「失礼よ、藍。貴女誰が主だか分かっているの? そろそろ再教育が必要かしら?」
「橙、今日は魚のさばき方を教えてあげよう」
「はい、藍さま」
「無視する~」
藍は厨に戻るとルーミアから差し入れられた魚をさばきにかかる。
九尾の狐といえば、日本の伝承史上でも最強と名高い妖怪の一人なのだが――
「橙、良いか。まずはこうやって鱗を剥がすんだ」
それが台所で和やかにお三どんをしているのだから実に平和である。
――あったかそう……
そして何だか物凄い勢いでふかふかしたい衝動に駆られる。
魚が気になるのか、その隣では橙が二股の尻尾をぱたぱた振っている。猫又で黒色というわりにはちっとも縁起の悪い感じがしない。魚に寄せる反応などはまるきり子どもだと思う。
ただ普段は修練のため妖怪の山というところで一人暮らしをしているらしい。
「蓮子、これ」
紫が机の上に一冊のノートを置いた。何やら数式がびっしりと書き込まれている。
「うちの藍が導き出したものよ」
「藍さんが?」
「紫様、何やってるんですか。人間にその式は」
「面白い式だわ……ここに入力されるのは――ああこれがゼロに近いと限りなく無限大に、多ければ限りなくゼロに近付くのね。何を求める式なんだろう――咫だから距離? でも入力されたデータに応じて距離が変じるって一体何かしら? まあいいか。えっとこの数値を決定するのは――なるほど、この方程式の肝はこの数値を決定するためのファクターが無限大に広がっている点ね。だからこんなに大量の数式が必要なのか」
「蓮子、それ何の式か分かる?」
「何を求めてるのかは分からないけど、これマイナスになるとやばい感じよね」
「ええそうよ」
「私はどうなんだろ? ……む、悪行の指数が意外に高い」
「あらあら」
「何よ~、飛び級であの大学行くの結構難しかったんだから。勉強時間分ぐらいはまけてくれてもいいじゃないのよ……でも凄いわねこれ。入力される数値のランダム性を是正するための補正式がいくつも組み込んであって、式自体が高い一般性回復機能を持ってる。普通の方程式だったらこれだけランダム性の高いファクターが絡んで来ればとっくの昔に破綻しているはずなのに」
「さすがね、宇佐見さん」
そこで蓮子は我に返り、赤面する。夢中になってしまっていた。
「ごめんなさい。ついついメリーと話してるような気になっちゃって」
「構いませんわ。ていうか私のことは紫、でいいわよ。敬語丁寧語も必要ないわ」
「そう? まあ、正直そうしてもらえると助かります」
どうも友人とそっくりだから、変に改まった口調だと違和感があったのだ。
口調を改めるべく、一つ咳払いをし――
「それじゃあ、紫。これ何の式?」
「三途の川の距離を求める式」
「三途の川? じゃあひょっとして生前の行いに応じて距離が伸びたり縮んだり?」
「ええ」
「そんなシステムなのか……ちなみにマイナスだと?」
「ぽちゃん」
「彼岸のくせに世知辛い……」
「凄いな、その式が分かるのか?」
感心したように藍が言う。
「凄いでしょう」
そしてなぜか紫がいばった。
「でも導出は絶対無理です。計算が出来るというだけで」
「いやいや、それだけで大した演算能力だよ。そのまま式の役割をこなせそうだ」
「……頭悪くてごめんなさい、藍さま」
橙がうな垂れる。
「え!? いや違うぞ、橙! 別にお前が駄目とかそういうことではなく……」
「藍たらいけないんだー」
「紫様は黙ってて下さい!」
「夕飯まだー?」
「ちょっと待つ! あと良い歳こいて叩き箸とかしない」
「むー」
紫はすでに箸を準備して、一人だけ食事に対し臨戦態勢に入っている。
「ほら橙、夕飯の仕上げだ」
「……藍さま、私もいつかちゃんと計算できるようになるから」
「ん? おお、よしよし。その意気だ」
「ごはん~」
「ああもう、分かりましたよ」
呆れたふうにして、藍が夕食の配膳を始める。
「そうそう、紫様。結界の件ですが」
「結界の? 博麗の結界はさっき見てきたけど特に何もなかったわよ?」
きょとんとして紫が言う。それを聞いた藍は少し意外そうな顔をした。
「そっちではなくて、もう一方のです」
「虚実の結界がどうかしたの?」
「先ほど大きく揺らいだではないですか」
「え?」
紫が大きく目を見開いた。
「いつ頃?」
「未の刻ほど」
それは紫と蓮子がカフェにいた頃合だ。
「お気づきにならなかったのですか?」
「い、いや。気付いてはいたわよ。でもほら、今は特に別状ないでしょ? だから――」
狼狽している。
「紫様……大丈夫ですか?」
藍が心配そうに主の顔を覗き込む。
その表情や言葉からは、藍が本当に紫のことを慕っているのだということが、ひしひしと伝わってくる。
「なに言ってるの、元気よ、元気。ほら、早くご飯食べましょ?」
そう言って紫は茶碗に手を伸ばす。
その笑みにはどうにも力がなく、今にも露のように消え入ってしまいそうで――
蓮子はひどく不安な気持ちになってしまった。
* * *
――――岩手県某所
今日分の資料をまとめ終え、倉田弘は屋上で紫煙をくゆらせていた。
「徹夜しちゃいましたねぇ。今寝たらかえってきつそうだし、ぼくはもう寝ませんよ」
隣で同様に煙草をふかす部下が言った。倉田に比べると随分と若い。
「一時間でもいいから寝ておけ。今は平気でも後々きついぞ?」
「大丈夫ですよ。学会も近いですし、それに倉田さんだって寝ていない」
「そういえばそうだったな」
目の下に隈をこさえ、部下と倉田は笑う。
今年酉京都では、研究の発足千周年を記念して一大規模の学会が開催される。それに合わせて倉田たちは連日遅くまで研究所に居残っているのだった。
「ああ、そうこう言ってるうちに夜が明ける。東の国の眠らない夜だ」
赤く染まっていく空を指差しながら、部下はわざとらしく嘆いてみせた。
「どうにも夜型で困ります――それにしても学会楽しみですねぇ」
「そうだな。年甲斐もなくわくわくしているよ」
「ぼくもです。いや、楽しい」
眠気こそあれ、たぶんちっとも疲れてなどいないのだろう。倉田もそうなのだから分かる。
まるで祭りを控えた童のように、楽しみで楽しみで仕方がないのだ。
「そういやあの子――いや、子って言っちゃあ失礼なのかな……」
「酉京の――宇佐見さんでしたっけ? かわいかったですねぇ。あれで統一物理学のスペシャリテってんだから凄いですよ」
「友人さん、見つかると良いな」
そのことを考えると、浮かれた気持ちが少し沈む。
「きっと見つかりますよ」
「何でそう思う?」
「根拠は特にないです。勘ですな。ぼくはハッピーエンドが好きなんです」
「奇遇だな。実は俺もそう思ってるんだ――きっと見つかるはずだ」
そのとき、山間から曙光が覗いた。
「眩しい」
「完徹だったなあ」
影絵のような山稜の彼方から明々とした光の帯が伸びて、少しずつ世界を照らしてゆく。
それを見た倉田は全てのものが胎動していくかのような不思議な躍動感を感じた。
「綺麗だなぁ」
部下が嘆息する。倉田もそう思う。
たぶん毎日変わらずに繰り返されている光景なのだろうが、ひどく美しかった。
「きっとこういう綺麗なもんを、そうとは気付かず毎日見逃してるんだろうな、俺たちは」
「なら今日は気が付けて良かったということですな」
「まったくだ……それにしても」
綺麗だなぁ――先ほどの部下と同じように、倉田も呟く。
目線の先には明々とした東方の夜明けがあった。
続きもさっそく読ませていただきます。
さっそく続きを読んできます
発見が色々あって奥が深い物語ですね。
脇役も存在感あって素敵です。高貴なおぜうさま、のんきな里の衆、寄り添うもこてるコンビ。みんなカッコイイ。
これからどんなストーリーになるのかがたまらなく楽しみです。
あと、少し弱気なゆかりんも可愛いw
あまりにもスケールの大きさに・・・
後半行ってきますよ
ときどきワキが甘くなったり、動揺したりする紫がなんとも可愛らしいですね。
すぐに次へ行こう。
良いですね、こんな感じの空気感を持った作品は大好きです
では、続きも楽しませて頂きます
もう、ミスチー肌ですね、ハイ。
秘封倶楽部素晴らしいですね
どんな、結末になるのか、確認してきます!
とても面白かったです。早速後半を読みたいと思います。