「このお話は夢オチです」
未だ日も沈まぬ夕方の五時。
普段ならこんな時間に起きる筈も無い、それ所か寧ろ、真昼中の間ずうっとあちらこちらで何だかんだと遊び呆けて、ようやく布団に入るのが大概この時分。
そんな不健康極まりない生活を送っている友人が、夜と言うにはまだ早いこの時間に、急な用が有るとかで寝室まで来いと、そう、ベッドの上ではっきりと身を起こして言っている。それをメイドから聞いたパチュリーが、はてこれは何か大事でも起きたかと急いで部屋に向かってみれば、そこで先ず最初にかけられたのが冒頭の一言。両の眼はしかと開けられ声にも張りがある。寝惚けている様子には見えない。
「成る程、これは」
一大事かも知れない。さてこれどうしたものか。友人の頭の中身をどうにかしてあげたい所だが、そもそも彼女、吸血鬼であるレミリア・スカーレットの頭に中身なんて物があるのだろうか。ならば一体、どういう手を打つべきか。
露骨に面倒臭そうな表情でうんうんと唸り出したパチュリーを不思議そうな顔で見詰めながら、大きなベッドの上で小さく伸びを一つ。それからレミリアは言葉を続けた。
「さっき見た夢の一番最初にね、今の言葉が浮かんだのよ」
これで三日連続。そう、頬を膨らませて言う。
「急な用ってそれだけなの。そんな話をする為にわざわざ呼び出しを」
正直、だから何だという気がしなくもない話である。別に特段忙しい身という訳でもないのだが、こんな雑談をまるで非常の用であるかの様に伝えてこなくても。少々の非難を込めた視線を向けるパチュリー。
「でもね、今迄にこんな事は一度も無かったのよ。それが急に、しかも三日連続。これは紛れもない異変だわ」
「実害は」
「お話の結末が予め判ってしまう。この恐怖、本の虫である貴方に一々説明する必要があるのかしら」
夢の話で何を大げさな。言いたい事は色々と有るのだが、それを言った所で聞いてくれる相手でない事はもう数十年前から承知している。
軽く息を吐くパチュリーに、知識人なのだから少しは役に立て、と、冗談めかしてレミリアが笑う。
「単なる偶然じゃあないかしら」
「それにしては出来過ぎ。
て言うかね、パチェ」
顔には笑みを繕ったまま、けれども急激に声の調子が低く落ちた。
「誰かが私に、何かをしたんじゃないかって。そう思うんだけど」
それを聞いて、パチュリーの眉が小さく動いた。
「それが私を呼んだ理由、と」
「幻想郷全体で何かしらの厄介事が起きれば、それはあの年寄り妖怪の仕業。竹林界隈なら薬師。
そしてうちなら貴方。そういうものでしょう、常識的に考えて」
「初耳だわ、そんな常識」
表情は変えずに応えるパチュリー。けれどもそんな友人からどこかしら不満の空気を感じ取ったのか、声の調子を明るく戻すレミリア。
「ま、今のは冗談半分程度に受け取って。ただまあ、何か心当たり位なら有るかしら、と」
「うん、有るけど。
て言うか多分だけど、原因となる物が何なのかって、目星はついているし。そしてそれ、創ったの私だし」
友人の言葉を聴いて、随分あっさり、と、口を尖らせてレミリアは不満を漏らす。回りくどい言葉での腹の探り合いをじっくりと楽しもうと思っていたのに、まるで空気の読めない友人はさっさと自分の罪を認めてしまった。
これで話は終わりか。詰まらない。勢い良くベっドに倒れ込み不貞腐れた顔を毛布で隠したレミリアに向かって、けれども、と、パチュリーは続けた。
「やったのは、私じゃないよ」
◆
夜の食事ももう間も無くの午後十一時。レミリアの部屋に四人の人妖が呼び出された。
眠たそうな顔で小さくあくびをしている門番の紅美鈴。大きめの本一冊を両手で抱えている図書館の小悪魔。ワゴンを押しながら部屋に入って来たメイド長の十六夜咲夜。そして、レミリアの妹であるフランドール・スカーレット。
予め部屋に居たパチュリー・ノーレッジを含む五人の前で、紅魔館の主、レミリア・スカーレットが声高々に宣言した。
「これはミステリーではない」
どこか誇らしげにすら見える様子で小さな胸を大きく張るレミリアの前、困った顔で曖昧な笑みを見せる三人と、呆れ顔でふんと鼻を鳴らす妹。彼女ら四人に向けて、レミリアの脇に立つパチュリーが友人の身に起こった異変の説明をした。
冒頭に「夢オチです」との断りが入る夢の事と、そして、その原因となった物が何であるのかについて、既に見当がついているという事。
「馬鹿らしい」
話を聞いて、フランドールは一言を吐き捨てた。
「そんなどうでも良い事で一々異変だとか何だとか騒ぎ立てて。その上、もう原因も判ってるって。それなら万事解決めでたしめでたしじゃない。なのに何で私達を呼び出したりなんかするのよ」
不満を口にしつつ、どかりとその場に座り込む。行儀の悪い。そう姉がたしなめるが、ちゃんと敷物をしているのだからと、妹は悪びれずに応える。確かにその言葉の通り、彼女の臀部と部屋の床とは直接に接していない。間に入るのは肉の塊。人の形をした、けれども何一つ動きを見せない音も出さない、そんな物を床に横たえて、その上にフランドールは座っていた。
「あの、ところで」
何が可笑しいのか、妙ににやにやとした顔を見せているフランドールに向かって、遠慮がちに美鈴が声をかけた。
「さっきから気になっていたんですけど、何なのですか、それ」
フランドールの周りには他にも四体、物言わぬ人の身体が転がっていた。彼女が下敷きとしている物を併せて全部で五体。髪の長い若い女性の姿も在る。皆一様に、一糸纏わぬ姿で無造作に床の上に投げ捨てられていた。者と言うよりも物。そんな奇態を前に、顔をしかめる美鈴。
「これはねえ、玩具。あと御飯」
目を細め、歪な迄に口の端を高く吊り上げてフランドールが応えた。
「えっと、よく意味が」
「肉人形。私が作らせたの、パチェに。玩具兼食材」
困惑した様子の美鈴に向けて、レミリアが事の説明をする。
「牛だの豚だの羊だの、まあその他諸々の肉を適当に混ぜてね。外見は勿論、中もリアルに再現して。あ、血は流れてないけれど。勿体無いし。
まあ兎も角、妹の遊び相手よ。その子が暇になった時に、一々メイドをあてがって遊びに付き合わせていたら、それこそあっという間に人手不足に陥ってしまうから」
食べ物を粗末にして。再度顔をしかめる美鈴であったが、壊れた後は料理の材料として、と、レミリアは小さく笑う。これなら文句は無いでしょう、と。
「あ、そうそう。これね、これね」
唐突に甲高い声を上げ、そうして指をぱちりと打ち鳴らすフランドール。
「見ててね。面白いのよ」
途端、それ迄は単なる肉の塊に過ぎなかった人形達が、全身をびくりびくりと痙攣させながら声を上げ始めた。
「冗談じゃない! 皆で一緒にって、この中に殺人鬼が居るんでしょう!? 私は一人で部屋に籠もらせてもらうわ!」
「ここは俺に任せろ! 安心しな、無茶はしないさっ」
「やった、ついに見付けたぞ! こんだけのお宝がありゃあ、後は一生遊んで……」
「ふふ、流石は名探偵。ええそうです。あいつを殺したのはこの私です」
「ま……まさか……もうこれ以上殴ったりしないよね…………? 重症患者だよ、鼻も折れてるしアゴ骨も針金でつながなくちゃあ」
それぞれ口にする言葉こそ違うものの、そのどれもが、どうもこれはこの先長くはないのだろうなと、そんな不安感を抱かずにはいられない様な科白ばかり。
「意思なんかは無いのだけれどね、予め仕込んでおいた言葉を繰り返させる程度の機能は付けてあるの」
雰囲気が出て良いでしょう。得意気な笑顔を見せて言うレミリア。
「ええ、はい、そうですね、お嬢様」
引きつった顔で応える美鈴。そうして顔を背け、小さな声で一言吐き出す。趣味悪い。
「ええと、そろそろ良いかしら」
話を元に戻したいのだけれど。小さく咳払いを一つ、微妙な空気の主従の間へパチュリーが言葉を挟んだ。
「妹様がさっき言っていた言葉ですが、ちょっと違います」
一体何の話か。怪訝な顔でフランドールが首を傾げる。
「原因が判っているのなら万事解決と、そう言いましたが。
正確には原因となる物が判ったと言うだけ。その物が何故、どの様にしてレミィに干渉したのか、それがまだ判らないのです」
「それって」
おずおずと手を上げる小悪魔。
「犯人が判らない、という事ですか」
「そう」
小悪魔の言葉をレミリアが受ける。
「そうしてそれこそが正に、貴方達を呼び寄せた理由」
嬉しそうに口の端を吊り上げる、そんな主の言葉の前に、部屋に集まった一同、言葉を出さずに固まった。そうして沈黙のまま、身体も首も動かさぬまま、僅かに目線のみを左右に動かし他の面々を窺う様子を見せ始める。
「やな空気」
言葉の中身とは裏腹に、悪戯な子供の笑みを浮かべているレミリア。
「空気全体がちりちりとして、どんどんと乾いていく感じ。
ほんと嫌な空気。喉まで干されてくるわ。ねえ、咲夜」
主の言葉に無言でうなずき、自身の脇に用意してあるワゴンの上、白い陶器製のティーポットに手を伸ばすメイド。
「ああ、すみません」
何故だかどこか情けない風のある笑いを見せながら、私もちょっと、と、美鈴が声を上げた。
「良いけれど。別に。飲めるのね」
少し驚いた様な顔を見せ、けれどもその僅かに崩れた顔もすぐに綺麗に整え直し、カップに半分程、白く湯気の立つ真っ赤な紅茶を注ぎ、咲夜はゆっくりと美鈴のもとへ歩み寄る。
すみません。本日二度目のその言葉と共に軽く頭を垂れ、受け取ったカップに口を付けてその直後。
「ぶふぇ、って、こっ、な」
勢い良く咳き込み口に含んだ紅茶を吹き出す。口の周りは勿論、服の胸元にまで真っ赤な液体が飛び散り染みを成す。一瞬にして、まるで肺病にでも罹ったかの様なその風体。
「飲めないじゃないの。やっぱり」
眉をしかめ、不機嫌を隠さぬ声色で咲夜が口を尖らせる。
「何これ。鉄臭いし、凄くどろどろとしてて、とてもじゃあないけれど飲み込めたものじゃ」
「当然でしょう。お嬢様の為に淹れた紅茶なのだし」
ああ、成る程。ぽんと手を打つ美鈴。
「でも、その割りには何か、妙に甘い感じも」
「お嬢様用だから。予め沢山入れてあるの。お砂糖」
「ポットの紅茶に予め、って」
それにこれはそもそも。色々と何かを言いたそうに口を開く美鈴であったが、こほん、と一つ、パチュリーの咳払いがそれを遮った。
「そろそろ良いかしら。話を元に戻したいのだけれど」
本日二度目の科白を口にしつつ、眠たそうな、或いは不機嫌そうな眼を美鈴に向ける。
「何だかさっきから、貴方のせいで話が中断している気がするのだけれど」
「や、な、誤解ですって」
両手と首をぶんぶんと左右に振る。やけに大袈裟な仕草で否定の意思を示す美鈴から、まあ良いか、と視線を外し、そうして次は小悪魔に声をかけた。
「部屋に集まる前に言っておいたあれ、ちゃんと持って来てくれてるかしら」
「あ、はい。Q232の棚の、認識操作の、これですよね」
小悪魔の差し出した本を見て、これで良いと、満足気に頷く。けれどもそんなパチュリーに向かって、ただ、と、小悪魔は言葉を濁した。
「その、ちょっと」
「抜けてるんでしょ。ページが」
さも当然の事であるかの様にあっさりと言い放つ。それを聞いて目を丸くして固る小悪魔。そんな彼女の様子にはまるで興味を示さず、無言で受け取った本を捲り始めるパチュリー、
「一枚、か」
意思の読み難い薄い表情でぽつりと一言をこぼし、パチュリーの手が止まった。開かれた箇所、ページが一枚破かれている。
「あの、それって」
「犯行道具」
美鈴の問いに、いかにも面倒臭そうな表情で、溜め息と共に一言を吐き捨てた。
「私の創った魔導書。と言っても」
失敗作なのだけれど。そう言ってまた小さく息を吐く。
「噂を現実化する。最初に目指していたのは、まあ、そういうものだったのだけれど」
噂を現実化する。
幻想郷の人や妖怪の間で、その根拠の有る無しは関係無く、何かしらの噂が流れたとする。そうしてその噂が段々と広まっていき、やがてある一定の範囲を超える迄に浸透した時、その噂が現実のものとなる。
その内容がどれほどに荒唐無稽なものであっても、例えば、香霖堂では密かに外の世界の最新鋭銃火器が販売されているだとか、夜雀の経営する屋台で食事をすると一時的に身体能力や魔力が上昇するだとか、果ては幻想郷の地下には巨大な古代遺跡が在りそしてそれは実は太古の昔に宇宙人が隠した宇宙船で地球最期の日には幻想郷全体を乗せたまま宇宙に飛び立つだとか、そんな与太話ですらも一定の範囲を超えて広まりさえすれば現実となってしまう。
それが、本来パチュリーが創ろうとしていた新しい魔法だった。
「とは言え、流石にそこ迄の大魔法となるとそう簡単には巧くいかなくて。
で、結局できたのがこれ。ある事柄を現実とするのではなく、現実と思い込ませる魔法。」
認識変化による事象そのものの変化には失敗し、出来上がったのは事象そのものには一切干渉できず、ただ認識のみを変化させる魔法。
「ええと、それはどういう」
「これから説明する所なのだから、一々余計な口を挟まない」
首を傾げ疑問を口にしかけた美鈴を遮り、パチュリーは話を続けた。
「例えば、そうね。前後篇、二冊に分かれた推理小説が在ったとしましょう」
この小説の前篇は既に刊行されており、世に出回っている。後篇も、既にその原稿を作者は書き終えている。
さてこの小説、犯人はAという登場人物である。その事は既に執筆が完了している後篇にははっきりと書かれている事であり、また、前篇のみであっても注意深く読んでいけばAが犯人である事が判る構成となっている。
「そこでこの魔導書に、この小説の犯人はBです、と、そう書き込む。するとどうなるか」
犯人がAではなく、Bになるのである。
正確には、Bであると、人々が思い込んでしまうのである。
その効果は強力で、前篇を読んで犯人はAではないかと推理した読者は勿論の事、後篇ではっきりとAが犯人だと書いた作者本人までもが、この小説の犯人はBだと思い込んでしまうのである。
「まあ尤も、変わるのは認識だけ。現実そのものには、何の変化も起きないのだけれども」
確かに魔法の効果は強力で、本を使用した術者当人を除く世の全ての人々が、犯人をBだと思い込んでしまう。
ただそれは、そう思い込んでしまうというだけの話であって、実際にこの小説の犯人がAであるという、その事実が変わったりはしないのである。
実際に後篇が出版されてそれを最後まで読み通せば、そこにはAが犯人だとはっきりと書いてある。後篇を読まなくても、前篇を改めて注意深く読み直してみれば、結局はAが犯人だという答えに辿り着く。
そうしてAが犯人だと気付いてしまえば、Bが犯人だと思い込んでいたけれど実際はAだったんだなと、そうなって、気付いた当人から魔法の効果は消えてしまう。
「それって」
暫くは黙って話を聞いていた美鈴が、気の抜けた声を上げて口を挟んだ。
「意味、無いじゃないですか」
「そうよ。だから失敗作なんだし」
少しの気分を害した様子も見せず、表情を変えぬままでパチュリーが応える。
「ただまあ、これはこれで、一応の使い途は考えてあったのよ。レミィに対して」
「お嬢様に対して、ですか」
「そ。レミィの能力とこれが干渉したら、何か面白い事が起きるんじゃないかって」
レミリアの能力は運命を操る程度の能力。で、あるのだがこの能力、それが具体的にどうの様なものなのかが今一つはっきりとしない。彼女の周囲に在る者が数奇な運命を辿る事になる、とも言われているが、そうだとしてそれがレミリアの意思によって自由に出来るものなのか、はたまた彼女の意識するしないは無関係なのか、その辺りの事は友人であるパチュリーも詳しくは知らないし、そもそもレミリア自身がちゃんと理解しているのかどうかすら怪しい。
「レミィってほら、性格が性格だし、ただ単に格好付けで、私は運命を操れるんだーって、そう言ってる可能性も無きにしも非ずかなあと、そういう気がしなくもないし」
「あの、すみません。それでその、本の魔法とお嬢様の能力の関係がどうって」
「ああもう。一々話の腰を折らないでちょうだい。今から話す所なのだから」
門番の言葉に、少しは静かにして、と、軽く顔をしかめるパチュリー。
「若しレミィの能力が意図せずしての運命改変なのであればこの本を利用してそれを意図的なものに出来ないかと考えたの。この本の効果範囲はあくまで認識のみであって事象そのものには関与できない訳なのだけれど意図せず使用していた能力を意図して使用できるように変える事は可能かなと。思い込みの力というやつね。本の効果はレミィ自身にも及ぶ訳だから。運命操作自体はもう既に実際に可能である事として確立しているのだとしたらそこに手を加える必要は無いのだし後はレミィにそれを自身の意志で行えると思い込ませれば実際に出来る様になるのではないかとそう考えた。尤も今回の件から見るとどうもその効果は中途半端と言うか。自身の見る夢の中に於ける予知が可能になった様なのだけれど予知それ自体はある意味逆説的に考えれば自身の予知した未来になるよう運命を改変するとも取れなくも無い訳でそうした点からすれば一種の意図的運命操作が可能になったという事で成功と言えなくも無いのだけれどでも夢なんてものがそもそも基本的に天啓霊夢の類でなければ見てる当人の精神に起因するものな訳だからこの魔法によって影響が出るのは当然だと考えられるのよ。まあその事を立証するには先ずはレミィの能力が本当に運命改変であるという事とそれが意図的なものか否かを確認した上で更にこの魔法を他の者にも試してその見る夢に影響が出るのかどうかを確認する必要があったりとまあ色々面倒な下準備が必要な訳でだからこの本を利用した実験については後回しにして適当な書棚に突っ込んでおいてそのまま本の存在自体忘れてしまっていたのだけれど今回の件で思いもかけず」
「ちょっと、ちょっと待って下さい、パチュリー様」
「何よ」
今度ははっきりとした嫌悪を顔と声とに表し、パチュリーが門番を睨み付ける。
「五月蠅いわね。本当」
「いや、その、ちょっと。もう少し短くというか、判り易く話していただけないかなあと」
「良いのよ、別に」
怯えた顔で腰の引けた風を見せる美鈴を見て気が抜かれたのか、いつもの眠たそうな表情に戻り、そうして続けた。
「今話した内容は、今回の件では別に大して重要な話でもないから」
「はあ」
「この本の力とレミィの能力が干渉してああだとか、夢だの予知だのがこうだとか、そういうのは別に理解する必要、無いから。全然」
「はあ」
だったら始めから話さなければ良いのに。小声で美鈴が吐き捨てた。
「重要なのは二つだけ。この本が認識操作の魔導書であるという事と、何者かがこれを使ってレミィに悪戯を仕掛けた、と、その二点のみ」
「悪戯、ですか」
「そう、悪戯。そもそもこれ、大した実害も利益も、出せる様な物ではないしね」
そこ迄を聞き終えて、でも、だったら、と、美鈴は言った。
「犯人はパチュリー様じゃないですか」
「違うわよ」
間髪を入れずにパチュリーが反論する。
「だって動機が」
「確かに私には、この魔法をレミィに使う動機は有る。けれども、黙って使う動機は無い。はっきりとレミィに断りを入れて、その上で使用すれば良いだけの事」
そこで拒否されたら勝手に使うけれど。一瞬顔を背けて、小さくこぼすパチュリー。
「でも、そんな魔法の本なんて、そもそも扱えるのがパチュリー様くらいしか」
「ところがね」
反論を口にしかけた美鈴を遮って、そうしてパチュリーは手にしている本を広げて見せた。
「失敗作なだけあって結構簡単に使えたりするの。これ」
本は最初の一ページにその使用方法が記されているだけで、以降のページは全て何も書かれずに真白のままであった。
「効果が大したものでない分、必要な魔力も少ないのよ」
空白となっているページに文章を書き込む。魔法の発動に必要な行為はたったそれだけである。一枚の紙片に書ける事柄は一つのみだが、例え本からページが切り取られていたとしても、破れていたとしても、魔導書の魔力が充実している図書室内で書き込みさえすれば使用は可能。一度書き終えてしまえば、図書室内から紙片を持ち出しても問題無し。発動した魔法を術者が意図的に止めるには、書かれた文章の上に線を引くか、塗りつぶすか、或いは書かれている箇所を破くか、兎に角何かしらの方法で文を消してしまえばそれで終わり。
「使用方法が簡単な上に、メイドの妖精よりは魔力があるって、その程度の者でも充分に扱えてしまう。それこそ小悪魔や美鈴でも。
しかも、まあ、更に言ってしまうとね。この本、さっきも話したけれどちゃんとした実験に使用するには結構な手間が必要になるから、取り敢えずは適当な棚に放って置いたのよ。で、その棚、そうした失敗作や使えない本を押し込めておく棚だったものだから、図書室の隅、人目に付き難い所に在って、特に封印や監視も施していなかった」
「はあ。それって、また、意外と」
パチュリーの説明を聞き終えて、どこか間の抜けた声を美鈴が上げた。
「意外と、何」
「いえ、意外と簡単な話だなあ、って」
犯行に使われた道具は既に特定されている。そしてそれは、誰でも扱う事の出来る代物で、誰でも手の出せる所に在った。
「私てっきり、こんな大仰な犯人探しをする位なのだから、もっとこう、密室がどうだとかトリックがこうだとか、そんな感じの不可能犯罪みたいなものを予想していたんですけれど、話を聞いた限りじゃこれ、全然不可能な点が無いですし。可能犯罪ですし」
だから簡単な話。上に向けた人差し指をくるくると回しながら得意気に話す美鈴を前に、疲れた溜息と共にパチュリーは言葉を漏らした。
「だから面倒なんじゃない。不可能犯罪だった方がむしろ簡単な話よ」
言われている事を理解できていない顔で黙ってしまった美鈴の横、パチュリーが説明をしている間はじっと沈黙を保ったままで控えていた咲夜が、成る程、と、唐突に手を打った。
「確かに、不可能犯罪だったら簡単ですよね。それだったら犯人、私ですし」
「ちょっと。咲夜さん、いきなり何を」
「判らないの、美鈴。私の能力」
「あ」
咲夜の能力は時間を操る程度の能力。これを使えば人の目を盗むだとか、アリバイ工作だとか、そんなものは幾らでもどうにでも出来てしまう。
彼女だけではない。幻想郷に於いてそれなりの力を持つ者は殆ど全て、何かしらの特殊な能力を持っている。故に、通常では不可能と思える様な事態が起きたとしても、その場合、却って犯人の特定が容易にすらなる。
「それが今回は、誰でも可能な犯罪という事で、状況からの犯人特定が難しい。面倒って言葉の意味、判ったかしら」
溜め息混じりにそう言って、けれども、と、パチュリーは続ける。
「レミィの夢に異変が起きたのは三日前から。で、ここ一週間は外部から館に入った者はいない。そうよね、美鈴、咲夜」
「あ、はい、勿論です」
パチュリーの問いに胸を張って応える門番と、それを横目に苦笑するメイド長。
「魔理沙は勿論、いつぞやの人形遣いや光の妖精、それに永遠亭の事もありますから、ま、門番の言う事は余り信用できない気もしますけれど。
とは言え私やお嬢様達も含め、館の誰にも気付かれずに侵入というのは流石に有り得ませんし、そうですね、この一週間、館への侵入者はいない、ですね。
ただ、パチュリー様。その本って例えば、今から何日後に、だとか、そういった時間指定を加えて」
「無理。そこまで細かい設定の出来る代物じゃあないわ。文章を書き終えたその時点で発動、書かれた内容が一般認識として広まる」
本の性能からして、犯行日は三日前に確定。一週間は外部からの侵入者は無し。本からページを切り離した状態での使用は図書室内に限られる為、何者かが一週間以上前に侵入して一ページのみを切り離して、と、そうした行為も不可能。
よって犯人は、自ずから館内の者に限られる。それも、メイドの妖精よりも高い魔力を持つ者。
「そこで集められたのが貴方達。そういう事よ」
そう言ってレミリアが笑う。今のこの状況を楽しんでいる、そんな心持ちが外から見てはっきりと判る程の明るい笑顔。
「というわけで小悪魔、先ずは貴方だけれど」
「は、はひっ」
突然にレミリアから話の矛先を向けられ、素っ頓狂な声を上げる小悪魔。
「貴方は常から図書館に居る訳だし、この本と私の能力とを掛け合わせる実験についても耳にしている可能性があるのだし、一番に怪しいと言えば言えなくもない気もするけれど」
「え、いや、その」
慌てた様子で背中の羽を小さくばたつかせる小悪魔を眺めつつ、でも、と、レミリアは言葉を続けた。
「貴方は違うわね。何というか、そういうキャラクターじゃないし。
貴方、悪魔の癖に司書なんかしてて、真面目と言うか、大人しいと言うか、正直影が薄くて地味と言うか、まあ兎も角そんな感じで、こうした悪戯をするキャラとは思えないもの」
「はあ」
背中の翼が力無く萎れる。安心と、それから少々の落胆を同時に顔に出す小悪魔。
「疑いが晴れたのは嬉しいんですけれど、何だかなあ」
「気にしない気にしない。さて、お次は」
悪戯な笑みを顔に浮かべ、無駄に大きく、ゆっくりと首を振って部屋の中を見渡す。
「うちの知識人と妹とメイドだけど。
普段から今一つ何を考えているのかが判り難い連中ばかりだし、怪しいと言えば物っ凄く怪しいのだけれど」
「レミィに言われたくない」
「お姉様に言われたくない」
「お褒めに与り光栄です」
友人達の言葉に一旦気を殺がれた苦い顔を見せるも、大仰な素振りでわざとらしく大きな咳払いを一つ、再び話し始める。
「ま、まあ兎も角。
怪しい連中ではあるけれど、黙ってこそこそ、と、そういう感じでもないと思うのよ。少なくとも今の、ここ迄の状況になったら、平気な顔をして、はい私がやりましたって、そう言い出すと思うから。
だからね、この三人も違う」
容疑者五人の内、四人迄の疑いは晴れた。残るは一人。
「って、私ですかっ!?」
残り一人の声が響いた。
「こうした魔法を利用した事件に於いては、美鈴みたいなタイプは一番怪しくない、と言える気がしなくもないのだけれど」
「だったら、お嬢様っ!」
「でもね。言うでしょう? 絶対に不可能な事を一つずつ消去していって最後に残ったものは、それがどんなに有り得ないと思われる様な事であっても真実なのである、と」
「そこまで丁寧な推理なんてしてないじゃないですかっ!? 全部、お嬢様の主観のみに拠った考えばかりでっ!」
「あとほら、こうした推理物だと、一番怪しくない人物が実は犯人でしたーって、そういうのが定番かなー、と」
「そんな理由っ!?」
「て言うかぶっちゃけ、うちで何かしらのドタバタ騒ぎが起こった場合、美鈴に痛い目を見せればそれでオチがつくっていうのが常識なわけで」
「何ですかその冗談みたいな常識っ!?」
「……冗談?」
笑みが消えた。レミリアの顔が、ほんの一瞬、冷たく固まった。
「そっかあ。冗談か。冗談ねえ。あはははは」
やけに大きな笑い声を上げながら、レミリアが美鈴に向かってゆっくりと歩み出した。
「そ、そうですよね、お嬢様。冗談ですよね。冗談」
意識してなのか無意識なのか。美鈴の身体が少しずつ後ろへ下がっていく。
「冗談かあっ冗談っ。あっははははは」
「冗談ですよねえ冗談。あ、はははは、は」
美鈴の背が壁につく。もうこれ以上、後退る事も出来ない。満面の笑顔を湛えたレミリアは、ゆっくりと、けれども確実に迫って来る。
「あっははははははは」
「あ、ははっ、あはははは」
どむ、と、低く大きな音が部屋の空気を揺らした。何か非常に大きくて重たい物が勢い良くぶつかった、そんな音。
「何笑ってるんだ、お前」
先程までの笑みなんて何処にも見えない。はっきりとした憎悪の面で目前の相手を睨み付けるレミリア。彼女の握り締めた小さな拳が、美鈴の腹の真ん中に深々とめり込んでいた。
突き刺さった拳を勢い良く引き抜く。それと同時に、何が起きたのか理解できていない、そんな間の抜けた笑い顔みたいなものを顔面に貼り付けたまま、力無く美鈴の身体が崩れ床に両膝をついた。
無造作に右手を伸ばすレミリア。その先には、程好い高さまで降りてきた美鈴の顔面。ゆっくりと開かれていく掌。
次の瞬間、レミリアの右手が紅い光を放った。光は瞬く間に部屋全体を紅一色で埋め尽くしていく。
「冗談」
ぽん、と、いやに小さくて軽い音が鳴る。それが、最期の言葉を遮った。
光が消え、視界を染めていた紅色が、元の部屋の風景へと戻る。そこには最早、紅美鈴の姿は無かった。床に転がっているのは、物言わぬ単なる肉の塊。顔面は真っ赤に染められて、原形を留めているのか否か、その判別すらつき難い。
「主を嵌めておいて馬鹿笑いか。分をわきまえろ」
冷たい視線と共に目前の肉塊の腹部に足を突き刺す。その視線は、従者であった者に向けられる様なものでは決してなく、道端に落ちている汚物に対して向ける、それと全く変わりのないもの。
「うっ」
小悪魔が眼を背けた。引き抜かれたレミリアの足に、赤黒い色をした内腑が絡んでいるのを見たのだ。
「部屋が汚れてしまったわ。咲夜、これ、綺麗にしておいて」
「かしこまりました。ただ、これだけの大きさのゴミとなると、少々始末に手間が」
主の行為、言葉に何の恐れも怒りも抱かない。同僚であった者に向けるべき感情の何一つも見せはせず、ただ目の前の面倒事をどう処分するか、それのみに頭を捻って見せるメイド長。
「お姉様、お姉様」
異様に甲高い、そして奇妙に弾んだ声でフランドールが手を上げた。
「頂戴、それ」
「良いけれど、もう動かないし喋らないわよ。それ」
「良いの。良いの」
「そうね。どうせ壊す為だけに使う物なのだし」
姉の言葉に歓喜の表情を見せ、顔面を血の海とした肉塊に手を伸ばす。
「ひーとりふーたりさんにんよにん、ごーにんころがりろくにんでない」
何かの歌なのかただの独り言か、不思議な言葉を楽しそうに口にしながらフランドールは、五つの肉人形を引き摺り部屋を出て行った。
「それでは、私も。掃除道具を取って」
「ああちょっと、咲夜」
一礼をして部屋を出ようとするメイドをレミリアが呼び止める。
「喉が渇いたわ。紅茶をお願い。起きてからまだ何も飲んでいないのだし」
主の言葉を受け、ワゴンに乗せてあるティーポットを持ち上げる咲夜。そうして蓋を取り、逆様にし、上下に軽く振ってみる。中からは何も出てこない。
「少々お待ち下さい。また新しく、淹れ直して来ますので」
そう言って改めて一礼をし、ワゴンを押しながら部屋を後にする。
「あ、あの、パチュリー様」
住人が一人消えたというのに、誰も、何も動揺を見せず、いつも通りの日常をこなしていく。そんな奇妙な空間の中で一人青い顔で固まっていた小悪魔が、蚊の鳴く様な、今にも消えてなくなりそうな、そんな情けない声でパチュリーを呼んだ。
「何よ」
「あの、本当にこれ、美鈴さんが犯人だったんですか」
「さあ。だったかも知れないし、違ったかも知れないし」
さも面倒臭そうに吐き捨てられたパチュリーの言葉に、そんな、と、小悪魔の顔が泣きそうに崩れる。
「違ったかもって、それじゃあ、これ、美鈴さん、こんな、どうして」
「あのねえ、小悪魔。レミィが最初に言っていたでしょう」
取留めも無く言葉を流す小悪魔の口を片手で制し、パチュリーは言った。
「これはミステリーではない」
丁寧に証拠を集め、慎重に推理を進めていき、そうして犯人に辿り着く。そんな事は今この部屋では全く行われていなかったのだし、レミリアもパチュリーも、端からこの場でそんな事をする心算なぞ微塵も有りはしなかった。
「良いのよ、別に。犯人探しがどうだとか、そんなのはもう。レミィの鬱憤を晴らす事さえ出来るのなら、それで」
「そんな。そんな事で、美鈴さん」
「まあどうせ、居ても居なくてもどっちでも良い程度のものだったのだし」
そんな事より。そう言ってパチュリーは、手にしていた本を小悪魔の前に差し出した。
「これ、元の棚に戻しておいて。もう使う事も無いと思うけれど、捨てるのも勿体無いし」
◆
◆
薄暗い図書室の隅。見上げる程の高さ、天井まで届く大きな書棚。その陰で身を隠す様に、元々大きくはないその身体を更に小さく丸めて、そうして彼女は泣きそうな顔で、けれども声は出さない様に、誰かに今の様子を気取られぬ様に、必死に口を押さえ震えていた。
ほんの十数分ほど前までは、彼女は笑っていたというのに。
勿論、その事を表に出したりはしなかった。出してしまえばそれで全てが終わってしまうからだ。だから表面上は平静を取繕い、その実、心の中では目前で繰り広げられる頓珍漢な推理劇を笑い楽しんでいた。何て馬鹿な人達なのだろう、と。自分の予想していた筋書き通りに事が運ぶ、それがとても面白かった。
けれども事は、一瞬にして彼女の思惑を遥かに飛び越えた所に行き着いてしまった。よもや死者が出ようなどと、そんな事、彼女は全く夢にも思っていなかったというのに。
侮っていた。正直に言って、この館の主を甘く見過ぎていた。
後先を考えずに行動してしまう。そんな自分の性分を、彼女は今更ながらに呪った。
門番の妖怪には悪い事をした。彼女は本心からそう思った。けれども今は先ず、自分の身をどうするのか、それを考えなくてはならない。
懐から二枚の紙片を取り出す。これを処分しなくてはならない。燃やして土に埋めるか。けれどもこの本の創造主は生まれながらの魔法使い。強大な魔力を持っている。若しかしたら、燃やして埋める程度の事では何かしらの方法を用いて見付けてしまうかも知れない。ならばいっそ飲み込んでしまうか。そうして館から逃げ出す。そう、逃げてしまえば良い。証拠をどう始末するのかに頭を悩ませているよりも、さっさとここから逃げ出してしまった方が確実ではないか。
けれども今のこの状況で彼女が突然に居なくなれば、それは自分が犯人であると告白するも同然である。若し紅魔館が本気になって、その総力を以ってと、そんな事態になれば、幻想郷中の何処に逃げても逃げ切れるものではないのかも知れない。そうして捕まったが最後、その後は。
顔面を真っ赤に染め上げられた門番の惨状を思い出し、彼女は頭を振った。逃げるのは得策ではない。魔法の効力を維持し、自分を偽り続け、そのままで何とかここで生きていくより他は無い。紙片二枚は常に肌身離さず持って、決して他人には見せない様にして、そうして。
「何をしているの、貴方」
背後から突然の声。必死に回されていた彼女の頭の中身がぴたりと止まる。
「な、んの、御用でしょう。パチュリー様」
彼女が、小悪魔が、ゆっくりと声のする方へ振り向いた。必死になって何でもない顔を作ろうとする。けれどもその声が既に引きつっているという事に、彼女は気付いていなかった。
「どうしたの、そんな情けない声を出して」
背中で声がした。反射的に振り向くその目前、歯を見せ目を細め、気味の悪い笑顔の様なもの見せるレミリアの姿。
「お、お嬢さ」
「あっ。何、何、これ」
今度は右手から。いつの間にやらすぐ傍に現れたフランドールが、小悪魔の手中にある二枚の紙切れを指差し、はしゃいだ声を上げていた。
「これは。これ、その」
「若しかして例の本の。という事は」
そう言いながら、図書室の闇の中から咲夜が姿を現す。四方を囲まれ、最早まともな言葉を口にする事も出来ず、ただただ歪な笑いを顔に浮かべている小悪魔。
「間違いないわね。その紙切れから感じる魔力の質で判る。例の本から切り離された物よ、それ」
本の書き手が放った言葉。言い逃れの一切を許さない、決定打となるそれを前にして、けれども小悪魔は、恐怖で固まってしまいそうになる自身の頭を必死で動かし、どうにかしてこの場を逃れる方法を模索しようとしていた。だが。
「すみません、出来心だったんです。悪気なんて少しも!」
どれだけ思考を回らせてみても、良策などに行き着ける筈も無かった。今、小悪魔の周りを取り囲んでいる四人のそれぞれが、彼女を大きく上回る力を持っている。強行突破は絶対に不可能。言い逃れをしようにも証拠は自身の手の中。その辺に落ちていた物を偶々拾ったとでも言ってみるか。否、そんな稚拙な弁明が通ずる相手でも状況でもない。ならばどうするか。
「どうか、どうかご容赦を」
頭を垂れ必死に許しを請う。それしかない。それ以外の何一つ、今の小悪魔には思い付きはしなかった。
「ご容赦をって、ねえ」
泣きながら頭を床に擦り付ける小悪魔を前にして、急に困った顔になってレミリアが言った。
「そんなの、私に言われても。許しを請うのだったら、ほら」
言いながらレミリアは、小悪魔の足元を指差した。
「そっちの彼女にした方が良いんじゃないのかしら」
彼女とは誰の事か。言われた内容を理解するその前に。
「痛っ」
小悪魔の口から小さな悲鳴が漏れた。右の足首、何か強い力で締め付けられている感触がある。
嫌な予感がした。冷たく気持ちの悪い何かが背中を走った。今、自分の足に纏わり付いているものが何なのか、彼女には想像がついてしまっていた。
それ故に、自身の足元に目を向ける事は出来なかった。けれども。
「痛っ、痛い」
足首を締め付ける力は次第に強くなっていく。その痛みに身体が揺らされ、思わず視線を足元に向けてしまった。
「あ、う、やあぁ」
まともな言葉を出す事も出来ず、意味を成さない単なる声のみが口からこぼれる。
思った通りだった。彼女の足を強く掴んで離さなかったのは女の手。女の顔は夥しい量の血に塗れ、そこだけを見れば誰との判別もつかぬ有様。けれどもその長く美しい髪、緑色の民族衣装、それで充分だった。
「生きて、美鈴さん、生きてて」
「死んでるわよ。勿論」
僅かの希望を乗せた小悪魔の言葉を、けれどもレミリアがあっさりと切って捨てた。
「ただね。吸血鬼に殺された者が、普通に死ねる訳が無いでしょう」
嬉しそうに笑い、背中の羽をリズミカルに動かし、そうして言葉を続ける。
「彼女は生ける屍。自身の肉が腐り落ちていく痛みと恐怖の中で、けれどもその肉体が完全に朽ち果てる迄は死ぬ事すら許されない。そんな、素敵で可愛い私の下僕。
ただ生きてただ立っていただけの頃よりも、今の方がよっぽど役に立つわ。だって、見ていて面白いもの」
悪魔だ。本物の悪魔。目の前の少女、胸に手を当て、足は軽くステップを踏み、まるで歌い踊るかの様にして従者だった者の成れの果てを嘲るレミリアを、小悪魔は心の中でそう評するしかなかった。種族としての格の違いを感じずにはいられなかった。
「ね、え。こあ、く、ま」
足元から声がした。壊れた機械か或いは死にそうになっている獣か、そんな、人の形をした者が本来出すべきではない、低くしわがれた声。
「い、しょに。あなたも、いっしょ、に」
足首を掴む手により一層の力が込められる。
「やめて、離してっ」
こいつは自分を同じ所に引き込もうとしている。必死になって美鈴の手を振り解こうともがくが、決して筋肉質ともいえない、寧ろ細くしなやかですらあるそれは、万力の如き力を以って小悪魔の足を離そうとはしない。
「ねえ、ここは、さむくて、さびしい、の。だから、ねえ、あなたもいっしょに」
「やだ。やだっやだっやだっやだっやだっ。やだあっ!」
半狂乱になって泣き叫ぶ。何でこんな事になったのか。悪いのは自分だ。けれど、ほんの出来心だったのだ。ちょっとした悪戯の心算だったのだ。誰かを傷付けようとか、痛い目を見せようとか、そこ迄の気は全く無かったのだ。それなのに、何故。
「ぷくう」
奇妙な音だった。
焼けて膨らんだ餅から空気が抜ける。敢えて形容するのなら、それが最も近いのかも知れない。そんな奇妙な、頓狂とすら思える音が、地獄絵図の様相を呈する暗い図書室に響いた。
「ぷくう、う、くうう、ぷう」
音は止まらない。レミリアが、パチュリーが、フランドールが、音のする方向に顔を向ける。
「ここは、ぷっ、ここは、寒いって。何それ。ちょっと、やだ。おっ、可笑しい」
三者の視線が向けられる先で、常から瀟洒を言われるメイド長が、両手を腹に当て身体を折り曲げ、そうして奇妙な事を口走りながら震えていた。
「なに、が」
異常の中に突然湧いて出た、また更に異質の異状。恐怖とは違った別の何かが、小悪魔の身体と頭とを止めた。
「あーあ。もう」
足元から声。落胆の色を含んだ、けれども先程までとはまるで違う、はっきりとした意思と力の感じられる声。それが聞こえたのとほぼ同時に、足首にかけられていた力がふっと消えるのを小悪魔は感じた。
「何ですか、咲夜さん。ここ、笑う所と違うでしょ」
後頭部を掻きながら、微塵の揺れも見せぬしっかりとした動きで美鈴が立ち上がった。
「ご免なさい。判ってるけれど、でも、ここは寒いって、凄い、ちょっと、可笑しくて」
「何だか変なツボにはまっちゃったみたいね、咲夜」
溜息混じりにパチュリーが言う。
「ああもう。台無しじゃない。咲夜、今ので失格ね、失格」
少しむくれた顔になってフランドールが手を叩く。
「あれ。でもそうするとこの場合、勝ちは誰になるのかしら」
自身の顎の下に人差し指を当て、レミリアが小さく首を傾げる。
「ここから先のシナリオは考えていなかったのだし、まあ、最後迄いけたって事で良いんじゃないの。一応。
で、そうすると」
パチュリーの言葉を受けて、やったー、と、顔面を血塗れにした美鈴が両手を挙げて叫んだ。
「それじゃあ私の一人勝ちですね。身体張った甲斐があったわあ」
これで今日の朝はご馳走だ。そう言って嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねる美鈴を、はっきりと不満の色を顔に出してレミリアが睨む。
「ねえパチェ。これ、咲夜がドジ踏んで、それでばれたんだから失敗じゃあ」
「さっきも言った通り。この先が無いんだから、後は種を明かすだけしか残ってなかったんだから、ちゃんと最後迄いけたって、そう判断すべきよ。
それに彼女、この期に及んでまだ状況を理解できてないみたいだし」
床に転がりぽかんと口を開けた、そんな間の抜けた様子で固まっている小悪魔を一瞥し、パチュリーは溜息を吐いた。
「判ったわよ。ええはい、判りましたとも」
誰の目から見ても納得をしていない事がはっきり見て取れる顔で、友人からメイドに向き直る。
「ねえ咲夜」
「あっ。はい、何でしょう、お嬢様」
ようやく落ち着いた様子で、けれども未だ目尻は涙に濡らしたまま、咲夜が声を返した。
「今日の朝ご飯、さっきの肉人形を材料に使ってちょうだい」
「ああ、はい。初めからその心算でしたが」
「成る丈原型を留めた形で調理して。可能ならばちゃんと服も着せた状態で」
友人の言葉を聴いてパチェリーが一言を漏らした。意地の悪い。
「ちょっとお嬢様。酷くないですか、それ。私に自分自身を喰えと」
「いーじゃないの別に。外見は兎も角、味自体は普通の食材と何ら変わりないんだしぃ」
門番の抗議を子供じみた屁理屈で抑えようとする姉を見て、フランドールが小さく鼻を鳴らした。
「やめてよお姉さま。負け犬が下手に吼えるのって、見てて無駄に鬱陶しいから」
「何。何か言った、今」
「ううん。べっつにぃ」
妹の言葉に噛み付く姉。それを軽く受け流す妹。溜息を吐く友人。少し困った顔で笑うメイド。血塗れの顔を懐から取り出した手拭で綺麗にしていく門番。
「あ、のう」
さも当然の如く繰り広げられる夜のほのぼのとした風景に、訳も判らずにただ固まっていた小悪魔が、ここにきてようやく声を上げた。
「これって、一体」
「うん。お芝居」
溜めの一つも含まずに、極めてあっさりとパチュリーが言って捨てた。
「し、ばい」
「そ。お芝居。レミィの部屋に皆が集まってからここまで。全部」
「しば、い」
虚ろな顔でしばい、しばいと繰り返す。そんな小悪魔の前に、顔中を幼い怒りで真っ赤にしたレミリアが迫って来た。
「全部貴方のせいよ。あれだけ判り易いヒントを沢山用意してたっていうのに。貴方がこんな馬鹿だから。もうっ」
「そうではありませんよ、お嬢様」
床をがんがんと踏み鳴らして喚くレミリアの背中に、努めて優しく穏やかな声で、咲夜が話しかけた。
「頭が良いかどうかというのは、この際、余り関係ありません。
人は極度に緊張した状態ではまともな判断能力を失ってしまう。そういう事ですわ。人じゃないですけれど」
「そういう事ですよ。それに、私の迫真の演技もありましたしね。何せリアリティを出す為、一発目の拳は本気で受けたんだし。あんなの目にすれば、そりゃ誰だって冷静に物を考えるなんて出来なくなっちゃいますよ」
メイドに加え、門番まで口を挟んでくる。元より丸い頬を、更に丸く大きく膨らませるレミリア。
「ふん。貴方達みたいな弱い生き物の考えなんか理解できないわ。私みたいな強者には」
「ねえ。お姉様の負け惜しみとかはもうどうでも良いんだけど」
両手を組んで鼻を鳴らす姉の言葉を、ばっさり負け惜しみと切り捨てて、そうしてフランドールは小悪魔を指差した。
「もっとちゃんと、一から順序立てて説明してあげたら」
その言葉を受け、それもそうね、と、未だ自失の様相を捨て切れていない小悪魔の前にパチュリーが歩み立った。
「今回の件で誰がレミィに悪戯を仕掛けたかって、その事についてはね、皆を部屋に集めるよりもっと前、夕方、レミィから話を聞いた時点で既に判ってしまっていたの」
「そんな。どうして」
まさか。小悪魔が声を上げた。
未来予知。彼女が仕掛けた悪戯によって、本当にレミリアが未来予知の能力を持ってしまっていたのだったら。それならこうもあっさり、自分が犯人だとばれた事にも納得がいく。
「ううん、外れ。そんな大層な話じゃないわ」
小悪魔の考えを、けれどもあっさりとパチュリーの言葉が打ち消した。
「でも、さっき、本の説明をした時、運命改変と夢の中での予知がどうだこうだって、随分と長い話を」
「だからあれは、今回の件とは関係無いって言ったじゃない。そんな事じゃなくて、もっと簡単な事」
そう言ってパチュリーは、小悪魔の手の中から二枚の紙片を取り出した。
「認識操作なんて便利な物を、こんな状況で使わない馬鹿も有り得ないでしょう」
夕方、レミリアに起こった異変が何者かがパチュリーの魔導書を使って起こした悪戯であると思い至った時点で、二人は誰が怪しいのかを考えてみた。そうして、美鈴と小悪魔はまず違うだろうな、と、そう判断した。何となくキャラクター的に、今回の様な事件の犯人とは思えない、と。
「そしてそれ故に、怪しいと思ったのよ」
認識操作の魔法を以って悪戯を仕掛けた者が、その力を自身の隠蔽に使わぬ筈がない。であるならば、大した理由も無いのにこいつは犯人ではない、そう思える人物こそが怪しいと二人は考えた。
そうして容疑者となった美鈴と小悪魔。その内、美鈴の方は、紅魔館の門番として働いているという事、紅霧異変の折に霊夢達と戦って負けたという事、そうしたものが二人の記憶にはっきりと残っていたし、御阿礼の子の記した書物にも、美鈴が館の門番をしていると、そう書かれていたのを二人は覚えていた。それに何より、パチュリーが保存していた天狗の新聞の中に、紅魔館の門番としての美鈴が出ている記事が幾つか在ったのだ。
翻って小悪魔の方。彼女は真面目で大人しい司書。そうした認識が、確かに二人には有った。
だが、それだけなのである。それを裏付ける物が何も無い。
強大な魔力の固まりでもある図書室に、低位の悪魔が引き寄せられて住み着くという、そうした事態は充分に有り得る事ではあるのだが、けれどもそうして住み着いた小悪魔を司書とした雇ったという、その時の記憶がパチュリーにもレミリアにも無い。そんな記録も残っていない。
それにそもそも、真面目で大人しいという、その性格からしておかしい。小悪魔、力の弱い悪魔というものは、妖精にも近い、気まぐれで悪戯好きな性格をしているというのが普通である。そんな小悪魔が、図書館の司書なんて地味で面倒な仕事を真面目にこなしている。自身が五百年間悪魔として生きてきたレミリアには、それが有り得ない事であるという確信が有った。
「ま、そういう訳で」
言いながらパチュリーは、小悪魔から取り上げた二枚の紙切れを広げた。書かれている文章は一つずつ。併せて二つ。
レミリア・スカーレットは自分の意思で運命操作が出来る。
図書館の小悪魔は真面目で大人しい性格の司書である。
「一枚の紙片に書ける文章は一つ。けれど、図書室内であれば破れた紙片であっても使用可能。よって本から切り取ったのは一ページであっても、二つの事柄を書く事は出来る。
こうした小細工は、まあ、悪くはないと思うけれど。どうせやるならもっと細かな設定まで捏造しなきゃ。貴方の性格については勿論の事、いつどの様にして紅魔館に来たか、どの様な経緯で司書となったか、そして更に、そうした事柄について紅魔館外部の者が話をした事がある、何かしらの書物に載った事がある、そうした記憶まで作っておかないと」
咲夜、パチュリー、そしてフランドール。彼女らについても念の為、レミリアは自身の記憶と手元にある資料でその身元、経歴を確認してみた。結果、特に不合理の出てくる事も無く、唯一不審な点の多い小悪魔が今回の犯人だと断定するに至った。
「そこで終わってしまっても良かったのだけど。ほら、レミィってこういう性格だし」
犯人は判った。実害と言える程の事は何も起きていないのだし、小悪魔を捕まえて軽く説教をしてやればそれで良い。そう、パチュリーは言った。
けれどもレミリアはそれに頷かなかった。そんな事で終わらせてしまっては余り面白味が無い。どうせならここは、悪戯を仕掛けてきた犯人を逆に嵌めてやろうじゃあないか、と。
「そうして考えられたのが、さっき迄のお芝居」
犯人が判明したのは夕方。それから芝居の始まる夜の十一時迄の間、レミリアの部屋には小悪魔を除く面々が密かに集められ、そうして事の準備を進めた。その際レミリアは、芝居だけではまだ面白くないと、更に一つ、ゲームをする事にした。
芝居の中にわざと、ヒントとなる様な事柄を仕込む。小悪魔が途中でそれに気付いて芝居である事を看破できるか否か。それを当てる事にした。レミリア、パチュリー、フランドールの三人は、途中で気付くに賭けた。咲夜と美鈴は気付かない方へ。賭けられたのは、朝の食事に出されるおかず、それを一品。
「ま、ヒントと言っても、さっきレミィが言った程に沢山用意していた訳ではなかったのだけれど。
それでも結構、露骨で判り易いものにしたつもりだったのに、ねえ」
「は、あ」
どこか残念そうな顔を見せるパチュリーに対し、けれども小悪魔は、未だに気の抜けた声しか返せないでいた。
そんな様子を横から見ていたフランドールが、少々の苛立ちの色が含まれた声を上げる。
「ほら、ほら。
私が持たされてたあの、場違いで意味不明で唐突だったあの肉人形とかいう変なやつ。あれ、最初幾つ在ったのよ」
「え、ええと」
記憶を探りながら、ゆっくりと指を動かしていく。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
「よし。じゃあ、私が部屋を出た時は」
「五つ、のまま。確か。
何も、おかしい事も」
小悪魔の答えに、盛大な溜め息を吐くフランドール。
「本当に、本っ当におかしな点は無いのかしら。
直前の私とお姉様の遣り取り、覚えていないの」
レミリアとフランドールの遣り取り。美鈴の死体が、フランドールの手に渡って。
「あっ」
事の真相が明かされ始めて後、ここでようやく、ちゃんとした力の込められた声が小悪魔の口から発せられた。
「五つじゃあない。六つじゃなきゃあ。
という事は、若しかして」
「そ。簡単単純な代わり身」
未だ血の跡を拭い切れていない顔で、にっと白い歯を見せて笑う美鈴。
「いや、でも、あの時、そんな、入れ替わる隙なんて。私、ずっと見てたし、それなのに代わり身なんて、そんなの絶対不可能」
そこまで言って小悪魔の言葉は途切れた。絶対不可能。その単語の意味する所に思い当たったからだ。
「まあ、そういう事ね。不可能犯罪なのであればそれは、とてもとても、簡単な事なのだから。私にとっては」
美鈴の首の後ろ、本人の眼では見え難い部分についた血を拭き落としながら、咲夜が言った。
レミリアの手から放たれた紅い光が部屋を染め、視界が不確かになったその瞬間。ほんの僅かの時間ではあるが、咲夜にとっては一瞬も永遠も同じ事。時間を止め、肉人形の内の、髪の長い女性の姿をした物に予め用意しておいた門番の服を着せ、美鈴と同じ姿勢をとらせた上で入れ替え、美鈴本人は別の部屋に移し、その後、流石に人一人を運んで少し疲れたので、調理場に行って紅茶を飲みながらクッキーを三枚、それからちょっと一眠りしようかとも思ったけれども甘い物を食べた直後だし、と思い止まり、部屋に戻ってティーポットを手に最後の仕上げをし、そして時は動き出す。この間、僅かに零秒。
「あ、でも。血は、血はどうしたんですか。あの肉人形、精巧に作ってあるけれど血は流れてないって」
「ああもう。本当にお馬鹿」
小悪魔の言葉を遮って、心底呆れた風でレミリアが口を挟む。
「咲夜があれだけわざとらしく、大袈裟に、ポットの中身が空だって示して見せていたじゃあないの。
それに私、朝から何も飲んでないって、そこまで言ってやってたのに」
朝から何も飲んでいないレミリア、それなのに空になったポット。そうしてその少し前、美鈴と咲夜の遣り取り。カップ半分に注がれた紅茶、鉄臭くどろどろとした、レミリアの為に淹れられた紅茶。
肉人形の件も含めて、冷静になって考えてみれば余りにも判り易いヒントばかり。
先程までの恐怖と緊張を思い出し、そうしてそれを眺めていた者達の内心を想像し、小悪魔の心は安堵と羞恥の入り交じったものでぐるぐると掻き回されていく。
「何なのよ、これ。もう一体、何だって言うのよう」
ついには大声を上げて泣き出した小悪魔を目にして、膨れ面から次第に、悪戯な子供の笑みへと移り変わっていくレミリアの顔。
「何って言われても、まあ。最初に言った通りよ」
嬉しそうな声でレミリアは言った。
「これはミステリーではない」
答になっているようでそうでもない、そんな言葉を小悪魔に向けころころと無邪気に笑う。
「確かにミステリーではないですよね。犯人探しとかそういうの、一番最初、と言うか始まる前に終わっちゃっていたんだし」
そう言って、うんっと、身体を伸ばす美鈴。
「そうね。でもまあ、ある意味、一人を除いた全員が犯人だったと言う気も」
美鈴の顔についていた血を完全に拭き取り、そうして咲夜が言った。
「だったら全員が犯人だったって、そうも言えると思うわ。ま、何れにせよこんなの、確かにミステリーでもなんでもないけれど」
悪戯好きの姉に呆れた視線を投げかけつつ、けれども自分も意地悪な笑顔を見せるフランドール。
「強いて言うなら、そうね、スラップスティック、かしら。ちょっと違う気もするけれど」
眠そうな声でパチュリーが言った。
「で、レミィ」
そうして悪戯な笑顔の友人に向けて声をかける。
「どうするの、その子の始末」
「ん。
ああ、そうね。朝ご飯のおかずにでも加えてあげようかしら」
びくん、と、小悪魔の翼が緊張に固まった。
それを見て、冗談冗談と、また可笑しそうに笑うレミリア。
「そうね。いっその事、正式に図書室で雇ってあげたら」
「この子の性格、判ってて言っているのかしら。それ」
「判ってるから言ってるのよ。今回の件も、まあ、結構良い暇潰しになったし。ね」
◆
こうしてこの日、紅魔館に新たな顔が加わった。
役職は図書室の司書。種族は小悪魔。名前は不明。性格は真面目で大人しい、ではなく、気まぐれで悪戯好き、後先考えずに行動する。
あれだけの怖い目を見たというのにそんな事はもうすっかりと忘れ、今度はどんな悪戯を仕掛けてやろうかと、そんな事ばかりを考えている。それこそが小悪魔、と、そう彼女自身は考えて悪びれないし、それでこそ小悪魔、と、館の主もそんな彼女を咎めずに面白がっている。
そうして彼女は、今日も今日とて暗く広い図書館で、背の高い本棚の間を新しい悪戯の種を探して飛び回っているのだった。
未だ日も沈まぬ夕方の五時。
普段ならこんな時間に起きる筈も無い、それ所か寧ろ、真昼中の間ずうっとあちらこちらで何だかんだと遊び呆けて、ようやく布団に入るのが大概この時分。
そんな不健康極まりない生活を送っている友人が、夜と言うにはまだ早いこの時間に、急な用が有るとかで寝室まで来いと、そう、ベッドの上ではっきりと身を起こして言っている。それをメイドから聞いたパチュリーが、はてこれは何か大事でも起きたかと急いで部屋に向かってみれば、そこで先ず最初にかけられたのが冒頭の一言。両の眼はしかと開けられ声にも張りがある。寝惚けている様子には見えない。
「成る程、これは」
一大事かも知れない。さてこれどうしたものか。友人の頭の中身をどうにかしてあげたい所だが、そもそも彼女、吸血鬼であるレミリア・スカーレットの頭に中身なんて物があるのだろうか。ならば一体、どういう手を打つべきか。
露骨に面倒臭そうな表情でうんうんと唸り出したパチュリーを不思議そうな顔で見詰めながら、大きなベッドの上で小さく伸びを一つ。それからレミリアは言葉を続けた。
「さっき見た夢の一番最初にね、今の言葉が浮かんだのよ」
これで三日連続。そう、頬を膨らませて言う。
「急な用ってそれだけなの。そんな話をする為にわざわざ呼び出しを」
正直、だから何だという気がしなくもない話である。別に特段忙しい身という訳でもないのだが、こんな雑談をまるで非常の用であるかの様に伝えてこなくても。少々の非難を込めた視線を向けるパチュリー。
「でもね、今迄にこんな事は一度も無かったのよ。それが急に、しかも三日連続。これは紛れもない異変だわ」
「実害は」
「お話の結末が予め判ってしまう。この恐怖、本の虫である貴方に一々説明する必要があるのかしら」
夢の話で何を大げさな。言いたい事は色々と有るのだが、それを言った所で聞いてくれる相手でない事はもう数十年前から承知している。
軽く息を吐くパチュリーに、知識人なのだから少しは役に立て、と、冗談めかしてレミリアが笑う。
「単なる偶然じゃあないかしら」
「それにしては出来過ぎ。
て言うかね、パチェ」
顔には笑みを繕ったまま、けれども急激に声の調子が低く落ちた。
「誰かが私に、何かをしたんじゃないかって。そう思うんだけど」
それを聞いて、パチュリーの眉が小さく動いた。
「それが私を呼んだ理由、と」
「幻想郷全体で何かしらの厄介事が起きれば、それはあの年寄り妖怪の仕業。竹林界隈なら薬師。
そしてうちなら貴方。そういうものでしょう、常識的に考えて」
「初耳だわ、そんな常識」
表情は変えずに応えるパチュリー。けれどもそんな友人からどこかしら不満の空気を感じ取ったのか、声の調子を明るく戻すレミリア。
「ま、今のは冗談半分程度に受け取って。ただまあ、何か心当たり位なら有るかしら、と」
「うん、有るけど。
て言うか多分だけど、原因となる物が何なのかって、目星はついているし。そしてそれ、創ったの私だし」
友人の言葉を聴いて、随分あっさり、と、口を尖らせてレミリアは不満を漏らす。回りくどい言葉での腹の探り合いをじっくりと楽しもうと思っていたのに、まるで空気の読めない友人はさっさと自分の罪を認めてしまった。
これで話は終わりか。詰まらない。勢い良くベっドに倒れ込み不貞腐れた顔を毛布で隠したレミリアに向かって、けれども、と、パチュリーは続けた。
「やったのは、私じゃないよ」
◆
夜の食事ももう間も無くの午後十一時。レミリアの部屋に四人の人妖が呼び出された。
眠たそうな顔で小さくあくびをしている門番の紅美鈴。大きめの本一冊を両手で抱えている図書館の小悪魔。ワゴンを押しながら部屋に入って来たメイド長の十六夜咲夜。そして、レミリアの妹であるフランドール・スカーレット。
予め部屋に居たパチュリー・ノーレッジを含む五人の前で、紅魔館の主、レミリア・スカーレットが声高々に宣言した。
「これはミステリーではない」
どこか誇らしげにすら見える様子で小さな胸を大きく張るレミリアの前、困った顔で曖昧な笑みを見せる三人と、呆れ顔でふんと鼻を鳴らす妹。彼女ら四人に向けて、レミリアの脇に立つパチュリーが友人の身に起こった異変の説明をした。
冒頭に「夢オチです」との断りが入る夢の事と、そして、その原因となった物が何であるのかについて、既に見当がついているという事。
「馬鹿らしい」
話を聞いて、フランドールは一言を吐き捨てた。
「そんなどうでも良い事で一々異変だとか何だとか騒ぎ立てて。その上、もう原因も判ってるって。それなら万事解決めでたしめでたしじゃない。なのに何で私達を呼び出したりなんかするのよ」
不満を口にしつつ、どかりとその場に座り込む。行儀の悪い。そう姉がたしなめるが、ちゃんと敷物をしているのだからと、妹は悪びれずに応える。確かにその言葉の通り、彼女の臀部と部屋の床とは直接に接していない。間に入るのは肉の塊。人の形をした、けれども何一つ動きを見せない音も出さない、そんな物を床に横たえて、その上にフランドールは座っていた。
「あの、ところで」
何が可笑しいのか、妙ににやにやとした顔を見せているフランドールに向かって、遠慮がちに美鈴が声をかけた。
「さっきから気になっていたんですけど、何なのですか、それ」
フランドールの周りには他にも四体、物言わぬ人の身体が転がっていた。彼女が下敷きとしている物を併せて全部で五体。髪の長い若い女性の姿も在る。皆一様に、一糸纏わぬ姿で無造作に床の上に投げ捨てられていた。者と言うよりも物。そんな奇態を前に、顔をしかめる美鈴。
「これはねえ、玩具。あと御飯」
目を細め、歪な迄に口の端を高く吊り上げてフランドールが応えた。
「えっと、よく意味が」
「肉人形。私が作らせたの、パチェに。玩具兼食材」
困惑した様子の美鈴に向けて、レミリアが事の説明をする。
「牛だの豚だの羊だの、まあその他諸々の肉を適当に混ぜてね。外見は勿論、中もリアルに再現して。あ、血は流れてないけれど。勿体無いし。
まあ兎も角、妹の遊び相手よ。その子が暇になった時に、一々メイドをあてがって遊びに付き合わせていたら、それこそあっという間に人手不足に陥ってしまうから」
食べ物を粗末にして。再度顔をしかめる美鈴であったが、壊れた後は料理の材料として、と、レミリアは小さく笑う。これなら文句は無いでしょう、と。
「あ、そうそう。これね、これね」
唐突に甲高い声を上げ、そうして指をぱちりと打ち鳴らすフランドール。
「見ててね。面白いのよ」
途端、それ迄は単なる肉の塊に過ぎなかった人形達が、全身をびくりびくりと痙攣させながら声を上げ始めた。
「冗談じゃない! 皆で一緒にって、この中に殺人鬼が居るんでしょう!? 私は一人で部屋に籠もらせてもらうわ!」
「ここは俺に任せろ! 安心しな、無茶はしないさっ」
「やった、ついに見付けたぞ! こんだけのお宝がありゃあ、後は一生遊んで……」
「ふふ、流石は名探偵。ええそうです。あいつを殺したのはこの私です」
「ま……まさか……もうこれ以上殴ったりしないよね…………? 重症患者だよ、鼻も折れてるしアゴ骨も針金でつながなくちゃあ」
それぞれ口にする言葉こそ違うものの、そのどれもが、どうもこれはこの先長くはないのだろうなと、そんな不安感を抱かずにはいられない様な科白ばかり。
「意思なんかは無いのだけれどね、予め仕込んでおいた言葉を繰り返させる程度の機能は付けてあるの」
雰囲気が出て良いでしょう。得意気な笑顔を見せて言うレミリア。
「ええ、はい、そうですね、お嬢様」
引きつった顔で応える美鈴。そうして顔を背け、小さな声で一言吐き出す。趣味悪い。
「ええと、そろそろ良いかしら」
話を元に戻したいのだけれど。小さく咳払いを一つ、微妙な空気の主従の間へパチュリーが言葉を挟んだ。
「妹様がさっき言っていた言葉ですが、ちょっと違います」
一体何の話か。怪訝な顔でフランドールが首を傾げる。
「原因が判っているのなら万事解決と、そう言いましたが。
正確には原因となる物が判ったと言うだけ。その物が何故、どの様にしてレミィに干渉したのか、それがまだ判らないのです」
「それって」
おずおずと手を上げる小悪魔。
「犯人が判らない、という事ですか」
「そう」
小悪魔の言葉をレミリアが受ける。
「そうしてそれこそが正に、貴方達を呼び寄せた理由」
嬉しそうに口の端を吊り上げる、そんな主の言葉の前に、部屋に集まった一同、言葉を出さずに固まった。そうして沈黙のまま、身体も首も動かさぬまま、僅かに目線のみを左右に動かし他の面々を窺う様子を見せ始める。
「やな空気」
言葉の中身とは裏腹に、悪戯な子供の笑みを浮かべているレミリア。
「空気全体がちりちりとして、どんどんと乾いていく感じ。
ほんと嫌な空気。喉まで干されてくるわ。ねえ、咲夜」
主の言葉に無言でうなずき、自身の脇に用意してあるワゴンの上、白い陶器製のティーポットに手を伸ばすメイド。
「ああ、すみません」
何故だかどこか情けない風のある笑いを見せながら、私もちょっと、と、美鈴が声を上げた。
「良いけれど。別に。飲めるのね」
少し驚いた様な顔を見せ、けれどもその僅かに崩れた顔もすぐに綺麗に整え直し、カップに半分程、白く湯気の立つ真っ赤な紅茶を注ぎ、咲夜はゆっくりと美鈴のもとへ歩み寄る。
すみません。本日二度目のその言葉と共に軽く頭を垂れ、受け取ったカップに口を付けてその直後。
「ぶふぇ、って、こっ、な」
勢い良く咳き込み口に含んだ紅茶を吹き出す。口の周りは勿論、服の胸元にまで真っ赤な液体が飛び散り染みを成す。一瞬にして、まるで肺病にでも罹ったかの様なその風体。
「飲めないじゃないの。やっぱり」
眉をしかめ、不機嫌を隠さぬ声色で咲夜が口を尖らせる。
「何これ。鉄臭いし、凄くどろどろとしてて、とてもじゃあないけれど飲み込めたものじゃ」
「当然でしょう。お嬢様の為に淹れた紅茶なのだし」
ああ、成る程。ぽんと手を打つ美鈴。
「でも、その割りには何か、妙に甘い感じも」
「お嬢様用だから。予め沢山入れてあるの。お砂糖」
「ポットの紅茶に予め、って」
それにこれはそもそも。色々と何かを言いたそうに口を開く美鈴であったが、こほん、と一つ、パチュリーの咳払いがそれを遮った。
「そろそろ良いかしら。話を元に戻したいのだけれど」
本日二度目の科白を口にしつつ、眠たそうな、或いは不機嫌そうな眼を美鈴に向ける。
「何だかさっきから、貴方のせいで話が中断している気がするのだけれど」
「や、な、誤解ですって」
両手と首をぶんぶんと左右に振る。やけに大袈裟な仕草で否定の意思を示す美鈴から、まあ良いか、と視線を外し、そうして次は小悪魔に声をかけた。
「部屋に集まる前に言っておいたあれ、ちゃんと持って来てくれてるかしら」
「あ、はい。Q232の棚の、認識操作の、これですよね」
小悪魔の差し出した本を見て、これで良いと、満足気に頷く。けれどもそんなパチュリーに向かって、ただ、と、小悪魔は言葉を濁した。
「その、ちょっと」
「抜けてるんでしょ。ページが」
さも当然の事であるかの様にあっさりと言い放つ。それを聞いて目を丸くして固る小悪魔。そんな彼女の様子にはまるで興味を示さず、無言で受け取った本を捲り始めるパチュリー、
「一枚、か」
意思の読み難い薄い表情でぽつりと一言をこぼし、パチュリーの手が止まった。開かれた箇所、ページが一枚破かれている。
「あの、それって」
「犯行道具」
美鈴の問いに、いかにも面倒臭そうな表情で、溜め息と共に一言を吐き捨てた。
「私の創った魔導書。と言っても」
失敗作なのだけれど。そう言ってまた小さく息を吐く。
「噂を現実化する。最初に目指していたのは、まあ、そういうものだったのだけれど」
噂を現実化する。
幻想郷の人や妖怪の間で、その根拠の有る無しは関係無く、何かしらの噂が流れたとする。そうしてその噂が段々と広まっていき、やがてある一定の範囲を超える迄に浸透した時、その噂が現実のものとなる。
その内容がどれほどに荒唐無稽なものであっても、例えば、香霖堂では密かに外の世界の最新鋭銃火器が販売されているだとか、夜雀の経営する屋台で食事をすると一時的に身体能力や魔力が上昇するだとか、果ては幻想郷の地下には巨大な古代遺跡が在りそしてそれは実は太古の昔に宇宙人が隠した宇宙船で地球最期の日には幻想郷全体を乗せたまま宇宙に飛び立つだとか、そんな与太話ですらも一定の範囲を超えて広まりさえすれば現実となってしまう。
それが、本来パチュリーが創ろうとしていた新しい魔法だった。
「とは言え、流石にそこ迄の大魔法となるとそう簡単には巧くいかなくて。
で、結局できたのがこれ。ある事柄を現実とするのではなく、現実と思い込ませる魔法。」
認識変化による事象そのものの変化には失敗し、出来上がったのは事象そのものには一切干渉できず、ただ認識のみを変化させる魔法。
「ええと、それはどういう」
「これから説明する所なのだから、一々余計な口を挟まない」
首を傾げ疑問を口にしかけた美鈴を遮り、パチュリーは話を続けた。
「例えば、そうね。前後篇、二冊に分かれた推理小説が在ったとしましょう」
この小説の前篇は既に刊行されており、世に出回っている。後篇も、既にその原稿を作者は書き終えている。
さてこの小説、犯人はAという登場人物である。その事は既に執筆が完了している後篇にははっきりと書かれている事であり、また、前篇のみであっても注意深く読んでいけばAが犯人である事が判る構成となっている。
「そこでこの魔導書に、この小説の犯人はBです、と、そう書き込む。するとどうなるか」
犯人がAではなく、Bになるのである。
正確には、Bであると、人々が思い込んでしまうのである。
その効果は強力で、前篇を読んで犯人はAではないかと推理した読者は勿論の事、後篇ではっきりとAが犯人だと書いた作者本人までもが、この小説の犯人はBだと思い込んでしまうのである。
「まあ尤も、変わるのは認識だけ。現実そのものには、何の変化も起きないのだけれども」
確かに魔法の効果は強力で、本を使用した術者当人を除く世の全ての人々が、犯人をBだと思い込んでしまう。
ただそれは、そう思い込んでしまうというだけの話であって、実際にこの小説の犯人がAであるという、その事実が変わったりはしないのである。
実際に後篇が出版されてそれを最後まで読み通せば、そこにはAが犯人だとはっきりと書いてある。後篇を読まなくても、前篇を改めて注意深く読み直してみれば、結局はAが犯人だという答えに辿り着く。
そうしてAが犯人だと気付いてしまえば、Bが犯人だと思い込んでいたけれど実際はAだったんだなと、そうなって、気付いた当人から魔法の効果は消えてしまう。
「それって」
暫くは黙って話を聞いていた美鈴が、気の抜けた声を上げて口を挟んだ。
「意味、無いじゃないですか」
「そうよ。だから失敗作なんだし」
少しの気分を害した様子も見せず、表情を変えぬままでパチュリーが応える。
「ただまあ、これはこれで、一応の使い途は考えてあったのよ。レミィに対して」
「お嬢様に対して、ですか」
「そ。レミィの能力とこれが干渉したら、何か面白い事が起きるんじゃないかって」
レミリアの能力は運命を操る程度の能力。で、あるのだがこの能力、それが具体的にどうの様なものなのかが今一つはっきりとしない。彼女の周囲に在る者が数奇な運命を辿る事になる、とも言われているが、そうだとしてそれがレミリアの意思によって自由に出来るものなのか、はたまた彼女の意識するしないは無関係なのか、その辺りの事は友人であるパチュリーも詳しくは知らないし、そもそもレミリア自身がちゃんと理解しているのかどうかすら怪しい。
「レミィってほら、性格が性格だし、ただ単に格好付けで、私は運命を操れるんだーって、そう言ってる可能性も無きにしも非ずかなあと、そういう気がしなくもないし」
「あの、すみません。それでその、本の魔法とお嬢様の能力の関係がどうって」
「ああもう。一々話の腰を折らないでちょうだい。今から話す所なのだから」
門番の言葉に、少しは静かにして、と、軽く顔をしかめるパチュリー。
「若しレミィの能力が意図せずしての運命改変なのであればこの本を利用してそれを意図的なものに出来ないかと考えたの。この本の効果範囲はあくまで認識のみであって事象そのものには関与できない訳なのだけれど意図せず使用していた能力を意図して使用できるように変える事は可能かなと。思い込みの力というやつね。本の効果はレミィ自身にも及ぶ訳だから。運命操作自体はもう既に実際に可能である事として確立しているのだとしたらそこに手を加える必要は無いのだし後はレミィにそれを自身の意志で行えると思い込ませれば実際に出来る様になるのではないかとそう考えた。尤も今回の件から見るとどうもその効果は中途半端と言うか。自身の見る夢の中に於ける予知が可能になった様なのだけれど予知それ自体はある意味逆説的に考えれば自身の予知した未来になるよう運命を改変するとも取れなくも無い訳でそうした点からすれば一種の意図的運命操作が可能になったという事で成功と言えなくも無いのだけれどでも夢なんてものがそもそも基本的に天啓霊夢の類でなければ見てる当人の精神に起因するものな訳だからこの魔法によって影響が出るのは当然だと考えられるのよ。まあその事を立証するには先ずはレミィの能力が本当に運命改変であるという事とそれが意図的なものか否かを確認した上で更にこの魔法を他の者にも試してその見る夢に影響が出るのかどうかを確認する必要があったりとまあ色々面倒な下準備が必要な訳でだからこの本を利用した実験については後回しにして適当な書棚に突っ込んでおいてそのまま本の存在自体忘れてしまっていたのだけれど今回の件で思いもかけず」
「ちょっと、ちょっと待って下さい、パチュリー様」
「何よ」
今度ははっきりとした嫌悪を顔と声とに表し、パチュリーが門番を睨み付ける。
「五月蠅いわね。本当」
「いや、その、ちょっと。もう少し短くというか、判り易く話していただけないかなあと」
「良いのよ、別に」
怯えた顔で腰の引けた風を見せる美鈴を見て気が抜かれたのか、いつもの眠たそうな表情に戻り、そうして続けた。
「今話した内容は、今回の件では別に大して重要な話でもないから」
「はあ」
「この本の力とレミィの能力が干渉してああだとか、夢だの予知だのがこうだとか、そういうのは別に理解する必要、無いから。全然」
「はあ」
だったら始めから話さなければ良いのに。小声で美鈴が吐き捨てた。
「重要なのは二つだけ。この本が認識操作の魔導書であるという事と、何者かがこれを使ってレミィに悪戯を仕掛けた、と、その二点のみ」
「悪戯、ですか」
「そう、悪戯。そもそもこれ、大した実害も利益も、出せる様な物ではないしね」
そこ迄を聞き終えて、でも、だったら、と、美鈴は言った。
「犯人はパチュリー様じゃないですか」
「違うわよ」
間髪を入れずにパチュリーが反論する。
「だって動機が」
「確かに私には、この魔法をレミィに使う動機は有る。けれども、黙って使う動機は無い。はっきりとレミィに断りを入れて、その上で使用すれば良いだけの事」
そこで拒否されたら勝手に使うけれど。一瞬顔を背けて、小さくこぼすパチュリー。
「でも、そんな魔法の本なんて、そもそも扱えるのがパチュリー様くらいしか」
「ところがね」
反論を口にしかけた美鈴を遮って、そうしてパチュリーは手にしている本を広げて見せた。
「失敗作なだけあって結構簡単に使えたりするの。これ」
本は最初の一ページにその使用方法が記されているだけで、以降のページは全て何も書かれずに真白のままであった。
「効果が大したものでない分、必要な魔力も少ないのよ」
空白となっているページに文章を書き込む。魔法の発動に必要な行為はたったそれだけである。一枚の紙片に書ける事柄は一つのみだが、例え本からページが切り取られていたとしても、破れていたとしても、魔導書の魔力が充実している図書室内で書き込みさえすれば使用は可能。一度書き終えてしまえば、図書室内から紙片を持ち出しても問題無し。発動した魔法を術者が意図的に止めるには、書かれた文章の上に線を引くか、塗りつぶすか、或いは書かれている箇所を破くか、兎に角何かしらの方法で文を消してしまえばそれで終わり。
「使用方法が簡単な上に、メイドの妖精よりは魔力があるって、その程度の者でも充分に扱えてしまう。それこそ小悪魔や美鈴でも。
しかも、まあ、更に言ってしまうとね。この本、さっきも話したけれどちゃんとした実験に使用するには結構な手間が必要になるから、取り敢えずは適当な棚に放って置いたのよ。で、その棚、そうした失敗作や使えない本を押し込めておく棚だったものだから、図書室の隅、人目に付き難い所に在って、特に封印や監視も施していなかった」
「はあ。それって、また、意外と」
パチュリーの説明を聞き終えて、どこか間の抜けた声を美鈴が上げた。
「意外と、何」
「いえ、意外と簡単な話だなあ、って」
犯行に使われた道具は既に特定されている。そしてそれは、誰でも扱う事の出来る代物で、誰でも手の出せる所に在った。
「私てっきり、こんな大仰な犯人探しをする位なのだから、もっとこう、密室がどうだとかトリックがこうだとか、そんな感じの不可能犯罪みたいなものを予想していたんですけれど、話を聞いた限りじゃこれ、全然不可能な点が無いですし。可能犯罪ですし」
だから簡単な話。上に向けた人差し指をくるくると回しながら得意気に話す美鈴を前に、疲れた溜息と共にパチュリーは言葉を漏らした。
「だから面倒なんじゃない。不可能犯罪だった方がむしろ簡単な話よ」
言われている事を理解できていない顔で黙ってしまった美鈴の横、パチュリーが説明をしている間はじっと沈黙を保ったままで控えていた咲夜が、成る程、と、唐突に手を打った。
「確かに、不可能犯罪だったら簡単ですよね。それだったら犯人、私ですし」
「ちょっと。咲夜さん、いきなり何を」
「判らないの、美鈴。私の能力」
「あ」
咲夜の能力は時間を操る程度の能力。これを使えば人の目を盗むだとか、アリバイ工作だとか、そんなものは幾らでもどうにでも出来てしまう。
彼女だけではない。幻想郷に於いてそれなりの力を持つ者は殆ど全て、何かしらの特殊な能力を持っている。故に、通常では不可能と思える様な事態が起きたとしても、その場合、却って犯人の特定が容易にすらなる。
「それが今回は、誰でも可能な犯罪という事で、状況からの犯人特定が難しい。面倒って言葉の意味、判ったかしら」
溜め息混じりにそう言って、けれども、と、パチュリーは続ける。
「レミィの夢に異変が起きたのは三日前から。で、ここ一週間は外部から館に入った者はいない。そうよね、美鈴、咲夜」
「あ、はい、勿論です」
パチュリーの問いに胸を張って応える門番と、それを横目に苦笑するメイド長。
「魔理沙は勿論、いつぞやの人形遣いや光の妖精、それに永遠亭の事もありますから、ま、門番の言う事は余り信用できない気もしますけれど。
とは言え私やお嬢様達も含め、館の誰にも気付かれずに侵入というのは流石に有り得ませんし、そうですね、この一週間、館への侵入者はいない、ですね。
ただ、パチュリー様。その本って例えば、今から何日後に、だとか、そういった時間指定を加えて」
「無理。そこまで細かい設定の出来る代物じゃあないわ。文章を書き終えたその時点で発動、書かれた内容が一般認識として広まる」
本の性能からして、犯行日は三日前に確定。一週間は外部からの侵入者は無し。本からページを切り離した状態での使用は図書室内に限られる為、何者かが一週間以上前に侵入して一ページのみを切り離して、と、そうした行為も不可能。
よって犯人は、自ずから館内の者に限られる。それも、メイドの妖精よりも高い魔力を持つ者。
「そこで集められたのが貴方達。そういう事よ」
そう言ってレミリアが笑う。今のこの状況を楽しんでいる、そんな心持ちが外から見てはっきりと判る程の明るい笑顔。
「というわけで小悪魔、先ずは貴方だけれど」
「は、はひっ」
突然にレミリアから話の矛先を向けられ、素っ頓狂な声を上げる小悪魔。
「貴方は常から図書館に居る訳だし、この本と私の能力とを掛け合わせる実験についても耳にしている可能性があるのだし、一番に怪しいと言えば言えなくもない気もするけれど」
「え、いや、その」
慌てた様子で背中の羽を小さくばたつかせる小悪魔を眺めつつ、でも、と、レミリアは言葉を続けた。
「貴方は違うわね。何というか、そういうキャラクターじゃないし。
貴方、悪魔の癖に司書なんかしてて、真面目と言うか、大人しいと言うか、正直影が薄くて地味と言うか、まあ兎も角そんな感じで、こうした悪戯をするキャラとは思えないもの」
「はあ」
背中の翼が力無く萎れる。安心と、それから少々の落胆を同時に顔に出す小悪魔。
「疑いが晴れたのは嬉しいんですけれど、何だかなあ」
「気にしない気にしない。さて、お次は」
悪戯な笑みを顔に浮かべ、無駄に大きく、ゆっくりと首を振って部屋の中を見渡す。
「うちの知識人と妹とメイドだけど。
普段から今一つ何を考えているのかが判り難い連中ばかりだし、怪しいと言えば物っ凄く怪しいのだけれど」
「レミィに言われたくない」
「お姉様に言われたくない」
「お褒めに与り光栄です」
友人達の言葉に一旦気を殺がれた苦い顔を見せるも、大仰な素振りでわざとらしく大きな咳払いを一つ、再び話し始める。
「ま、まあ兎も角。
怪しい連中ではあるけれど、黙ってこそこそ、と、そういう感じでもないと思うのよ。少なくとも今の、ここ迄の状況になったら、平気な顔をして、はい私がやりましたって、そう言い出すと思うから。
だからね、この三人も違う」
容疑者五人の内、四人迄の疑いは晴れた。残るは一人。
「って、私ですかっ!?」
残り一人の声が響いた。
「こうした魔法を利用した事件に於いては、美鈴みたいなタイプは一番怪しくない、と言える気がしなくもないのだけれど」
「だったら、お嬢様っ!」
「でもね。言うでしょう? 絶対に不可能な事を一つずつ消去していって最後に残ったものは、それがどんなに有り得ないと思われる様な事であっても真実なのである、と」
「そこまで丁寧な推理なんてしてないじゃないですかっ!? 全部、お嬢様の主観のみに拠った考えばかりでっ!」
「あとほら、こうした推理物だと、一番怪しくない人物が実は犯人でしたーって、そういうのが定番かなー、と」
「そんな理由っ!?」
「て言うかぶっちゃけ、うちで何かしらのドタバタ騒ぎが起こった場合、美鈴に痛い目を見せればそれでオチがつくっていうのが常識なわけで」
「何ですかその冗談みたいな常識っ!?」
「……冗談?」
笑みが消えた。レミリアの顔が、ほんの一瞬、冷たく固まった。
「そっかあ。冗談か。冗談ねえ。あはははは」
やけに大きな笑い声を上げながら、レミリアが美鈴に向かってゆっくりと歩み出した。
「そ、そうですよね、お嬢様。冗談ですよね。冗談」
意識してなのか無意識なのか。美鈴の身体が少しずつ後ろへ下がっていく。
「冗談かあっ冗談っ。あっははははは」
「冗談ですよねえ冗談。あ、はははは、は」
美鈴の背が壁につく。もうこれ以上、後退る事も出来ない。満面の笑顔を湛えたレミリアは、ゆっくりと、けれども確実に迫って来る。
「あっははははははは」
「あ、ははっ、あはははは」
どむ、と、低く大きな音が部屋の空気を揺らした。何か非常に大きくて重たい物が勢い良くぶつかった、そんな音。
「何笑ってるんだ、お前」
先程までの笑みなんて何処にも見えない。はっきりとした憎悪の面で目前の相手を睨み付けるレミリア。彼女の握り締めた小さな拳が、美鈴の腹の真ん中に深々とめり込んでいた。
突き刺さった拳を勢い良く引き抜く。それと同時に、何が起きたのか理解できていない、そんな間の抜けた笑い顔みたいなものを顔面に貼り付けたまま、力無く美鈴の身体が崩れ床に両膝をついた。
無造作に右手を伸ばすレミリア。その先には、程好い高さまで降りてきた美鈴の顔面。ゆっくりと開かれていく掌。
次の瞬間、レミリアの右手が紅い光を放った。光は瞬く間に部屋全体を紅一色で埋め尽くしていく。
「冗談」
ぽん、と、いやに小さくて軽い音が鳴る。それが、最期の言葉を遮った。
光が消え、視界を染めていた紅色が、元の部屋の風景へと戻る。そこには最早、紅美鈴の姿は無かった。床に転がっているのは、物言わぬ単なる肉の塊。顔面は真っ赤に染められて、原形を留めているのか否か、その判別すらつき難い。
「主を嵌めておいて馬鹿笑いか。分をわきまえろ」
冷たい視線と共に目前の肉塊の腹部に足を突き刺す。その視線は、従者であった者に向けられる様なものでは決してなく、道端に落ちている汚物に対して向ける、それと全く変わりのないもの。
「うっ」
小悪魔が眼を背けた。引き抜かれたレミリアの足に、赤黒い色をした内腑が絡んでいるのを見たのだ。
「部屋が汚れてしまったわ。咲夜、これ、綺麗にしておいて」
「かしこまりました。ただ、これだけの大きさのゴミとなると、少々始末に手間が」
主の行為、言葉に何の恐れも怒りも抱かない。同僚であった者に向けるべき感情の何一つも見せはせず、ただ目の前の面倒事をどう処分するか、それのみに頭を捻って見せるメイド長。
「お姉様、お姉様」
異様に甲高い、そして奇妙に弾んだ声でフランドールが手を上げた。
「頂戴、それ」
「良いけれど、もう動かないし喋らないわよ。それ」
「良いの。良いの」
「そうね。どうせ壊す為だけに使う物なのだし」
姉の言葉に歓喜の表情を見せ、顔面を血の海とした肉塊に手を伸ばす。
「ひーとりふーたりさんにんよにん、ごーにんころがりろくにんでない」
何かの歌なのかただの独り言か、不思議な言葉を楽しそうに口にしながらフランドールは、五つの肉人形を引き摺り部屋を出て行った。
「それでは、私も。掃除道具を取って」
「ああちょっと、咲夜」
一礼をして部屋を出ようとするメイドをレミリアが呼び止める。
「喉が渇いたわ。紅茶をお願い。起きてからまだ何も飲んでいないのだし」
主の言葉を受け、ワゴンに乗せてあるティーポットを持ち上げる咲夜。そうして蓋を取り、逆様にし、上下に軽く振ってみる。中からは何も出てこない。
「少々お待ち下さい。また新しく、淹れ直して来ますので」
そう言って改めて一礼をし、ワゴンを押しながら部屋を後にする。
「あ、あの、パチュリー様」
住人が一人消えたというのに、誰も、何も動揺を見せず、いつも通りの日常をこなしていく。そんな奇妙な空間の中で一人青い顔で固まっていた小悪魔が、蚊の鳴く様な、今にも消えてなくなりそうな、そんな情けない声でパチュリーを呼んだ。
「何よ」
「あの、本当にこれ、美鈴さんが犯人だったんですか」
「さあ。だったかも知れないし、違ったかも知れないし」
さも面倒臭そうに吐き捨てられたパチュリーの言葉に、そんな、と、小悪魔の顔が泣きそうに崩れる。
「違ったかもって、それじゃあ、これ、美鈴さん、こんな、どうして」
「あのねえ、小悪魔。レミィが最初に言っていたでしょう」
取留めも無く言葉を流す小悪魔の口を片手で制し、パチュリーは言った。
「これはミステリーではない」
丁寧に証拠を集め、慎重に推理を進めていき、そうして犯人に辿り着く。そんな事は今この部屋では全く行われていなかったのだし、レミリアもパチュリーも、端からこの場でそんな事をする心算なぞ微塵も有りはしなかった。
「良いのよ、別に。犯人探しがどうだとか、そんなのはもう。レミィの鬱憤を晴らす事さえ出来るのなら、それで」
「そんな。そんな事で、美鈴さん」
「まあどうせ、居ても居なくてもどっちでも良い程度のものだったのだし」
そんな事より。そう言ってパチュリーは、手にしていた本を小悪魔の前に差し出した。
「これ、元の棚に戻しておいて。もう使う事も無いと思うけれど、捨てるのも勿体無いし」
◆
◆
薄暗い図書室の隅。見上げる程の高さ、天井まで届く大きな書棚。その陰で身を隠す様に、元々大きくはないその身体を更に小さく丸めて、そうして彼女は泣きそうな顔で、けれども声は出さない様に、誰かに今の様子を気取られぬ様に、必死に口を押さえ震えていた。
ほんの十数分ほど前までは、彼女は笑っていたというのに。
勿論、その事を表に出したりはしなかった。出してしまえばそれで全てが終わってしまうからだ。だから表面上は平静を取繕い、その実、心の中では目前で繰り広げられる頓珍漢な推理劇を笑い楽しんでいた。何て馬鹿な人達なのだろう、と。自分の予想していた筋書き通りに事が運ぶ、それがとても面白かった。
けれども事は、一瞬にして彼女の思惑を遥かに飛び越えた所に行き着いてしまった。よもや死者が出ようなどと、そんな事、彼女は全く夢にも思っていなかったというのに。
侮っていた。正直に言って、この館の主を甘く見過ぎていた。
後先を考えずに行動してしまう。そんな自分の性分を、彼女は今更ながらに呪った。
門番の妖怪には悪い事をした。彼女は本心からそう思った。けれども今は先ず、自分の身をどうするのか、それを考えなくてはならない。
懐から二枚の紙片を取り出す。これを処分しなくてはならない。燃やして土に埋めるか。けれどもこの本の創造主は生まれながらの魔法使い。強大な魔力を持っている。若しかしたら、燃やして埋める程度の事では何かしらの方法を用いて見付けてしまうかも知れない。ならばいっそ飲み込んでしまうか。そうして館から逃げ出す。そう、逃げてしまえば良い。証拠をどう始末するのかに頭を悩ませているよりも、さっさとここから逃げ出してしまった方が確実ではないか。
けれども今のこの状況で彼女が突然に居なくなれば、それは自分が犯人であると告白するも同然である。若し紅魔館が本気になって、その総力を以ってと、そんな事態になれば、幻想郷中の何処に逃げても逃げ切れるものではないのかも知れない。そうして捕まったが最後、その後は。
顔面を真っ赤に染め上げられた門番の惨状を思い出し、彼女は頭を振った。逃げるのは得策ではない。魔法の効力を維持し、自分を偽り続け、そのままで何とかここで生きていくより他は無い。紙片二枚は常に肌身離さず持って、決して他人には見せない様にして、そうして。
「何をしているの、貴方」
背後から突然の声。必死に回されていた彼女の頭の中身がぴたりと止まる。
「な、んの、御用でしょう。パチュリー様」
彼女が、小悪魔が、ゆっくりと声のする方へ振り向いた。必死になって何でもない顔を作ろうとする。けれどもその声が既に引きつっているという事に、彼女は気付いていなかった。
「どうしたの、そんな情けない声を出して」
背中で声がした。反射的に振り向くその目前、歯を見せ目を細め、気味の悪い笑顔の様なもの見せるレミリアの姿。
「お、お嬢さ」
「あっ。何、何、これ」
今度は右手から。いつの間にやらすぐ傍に現れたフランドールが、小悪魔の手中にある二枚の紙切れを指差し、はしゃいだ声を上げていた。
「これは。これ、その」
「若しかして例の本の。という事は」
そう言いながら、図書室の闇の中から咲夜が姿を現す。四方を囲まれ、最早まともな言葉を口にする事も出来ず、ただただ歪な笑いを顔に浮かべている小悪魔。
「間違いないわね。その紙切れから感じる魔力の質で判る。例の本から切り離された物よ、それ」
本の書き手が放った言葉。言い逃れの一切を許さない、決定打となるそれを前にして、けれども小悪魔は、恐怖で固まってしまいそうになる自身の頭を必死で動かし、どうにかしてこの場を逃れる方法を模索しようとしていた。だが。
「すみません、出来心だったんです。悪気なんて少しも!」
どれだけ思考を回らせてみても、良策などに行き着ける筈も無かった。今、小悪魔の周りを取り囲んでいる四人のそれぞれが、彼女を大きく上回る力を持っている。強行突破は絶対に不可能。言い逃れをしようにも証拠は自身の手の中。その辺に落ちていた物を偶々拾ったとでも言ってみるか。否、そんな稚拙な弁明が通ずる相手でも状況でもない。ならばどうするか。
「どうか、どうかご容赦を」
頭を垂れ必死に許しを請う。それしかない。それ以外の何一つ、今の小悪魔には思い付きはしなかった。
「ご容赦をって、ねえ」
泣きながら頭を床に擦り付ける小悪魔を前にして、急に困った顔になってレミリアが言った。
「そんなの、私に言われても。許しを請うのだったら、ほら」
言いながらレミリアは、小悪魔の足元を指差した。
「そっちの彼女にした方が良いんじゃないのかしら」
彼女とは誰の事か。言われた内容を理解するその前に。
「痛っ」
小悪魔の口から小さな悲鳴が漏れた。右の足首、何か強い力で締め付けられている感触がある。
嫌な予感がした。冷たく気持ちの悪い何かが背中を走った。今、自分の足に纏わり付いているものが何なのか、彼女には想像がついてしまっていた。
それ故に、自身の足元に目を向ける事は出来なかった。けれども。
「痛っ、痛い」
足首を締め付ける力は次第に強くなっていく。その痛みに身体が揺らされ、思わず視線を足元に向けてしまった。
「あ、う、やあぁ」
まともな言葉を出す事も出来ず、意味を成さない単なる声のみが口からこぼれる。
思った通りだった。彼女の足を強く掴んで離さなかったのは女の手。女の顔は夥しい量の血に塗れ、そこだけを見れば誰との判別もつかぬ有様。けれどもその長く美しい髪、緑色の民族衣装、それで充分だった。
「生きて、美鈴さん、生きてて」
「死んでるわよ。勿論」
僅かの希望を乗せた小悪魔の言葉を、けれどもレミリアがあっさりと切って捨てた。
「ただね。吸血鬼に殺された者が、普通に死ねる訳が無いでしょう」
嬉しそうに笑い、背中の羽をリズミカルに動かし、そうして言葉を続ける。
「彼女は生ける屍。自身の肉が腐り落ちていく痛みと恐怖の中で、けれどもその肉体が完全に朽ち果てる迄は死ぬ事すら許されない。そんな、素敵で可愛い私の下僕。
ただ生きてただ立っていただけの頃よりも、今の方がよっぽど役に立つわ。だって、見ていて面白いもの」
悪魔だ。本物の悪魔。目の前の少女、胸に手を当て、足は軽くステップを踏み、まるで歌い踊るかの様にして従者だった者の成れの果てを嘲るレミリアを、小悪魔は心の中でそう評するしかなかった。種族としての格の違いを感じずにはいられなかった。
「ね、え。こあ、く、ま」
足元から声がした。壊れた機械か或いは死にそうになっている獣か、そんな、人の形をした者が本来出すべきではない、低くしわがれた声。
「い、しょに。あなたも、いっしょ、に」
足首を掴む手により一層の力が込められる。
「やめて、離してっ」
こいつは自分を同じ所に引き込もうとしている。必死になって美鈴の手を振り解こうともがくが、決して筋肉質ともいえない、寧ろ細くしなやかですらあるそれは、万力の如き力を以って小悪魔の足を離そうとはしない。
「ねえ、ここは、さむくて、さびしい、の。だから、ねえ、あなたもいっしょに」
「やだ。やだっやだっやだっやだっやだっ。やだあっ!」
半狂乱になって泣き叫ぶ。何でこんな事になったのか。悪いのは自分だ。けれど、ほんの出来心だったのだ。ちょっとした悪戯の心算だったのだ。誰かを傷付けようとか、痛い目を見せようとか、そこ迄の気は全く無かったのだ。それなのに、何故。
「ぷくう」
奇妙な音だった。
焼けて膨らんだ餅から空気が抜ける。敢えて形容するのなら、それが最も近いのかも知れない。そんな奇妙な、頓狂とすら思える音が、地獄絵図の様相を呈する暗い図書室に響いた。
「ぷくう、う、くうう、ぷう」
音は止まらない。レミリアが、パチュリーが、フランドールが、音のする方向に顔を向ける。
「ここは、ぷっ、ここは、寒いって。何それ。ちょっと、やだ。おっ、可笑しい」
三者の視線が向けられる先で、常から瀟洒を言われるメイド長が、両手を腹に当て身体を折り曲げ、そうして奇妙な事を口走りながら震えていた。
「なに、が」
異常の中に突然湧いて出た、また更に異質の異状。恐怖とは違った別の何かが、小悪魔の身体と頭とを止めた。
「あーあ。もう」
足元から声。落胆の色を含んだ、けれども先程までとはまるで違う、はっきりとした意思と力の感じられる声。それが聞こえたのとほぼ同時に、足首にかけられていた力がふっと消えるのを小悪魔は感じた。
「何ですか、咲夜さん。ここ、笑う所と違うでしょ」
後頭部を掻きながら、微塵の揺れも見せぬしっかりとした動きで美鈴が立ち上がった。
「ご免なさい。判ってるけれど、でも、ここは寒いって、凄い、ちょっと、可笑しくて」
「何だか変なツボにはまっちゃったみたいね、咲夜」
溜息混じりにパチュリーが言う。
「ああもう。台無しじゃない。咲夜、今ので失格ね、失格」
少しむくれた顔になってフランドールが手を叩く。
「あれ。でもそうするとこの場合、勝ちは誰になるのかしら」
自身の顎の下に人差し指を当て、レミリアが小さく首を傾げる。
「ここから先のシナリオは考えていなかったのだし、まあ、最後迄いけたって事で良いんじゃないの。一応。
で、そうすると」
パチュリーの言葉を受けて、やったー、と、顔面を血塗れにした美鈴が両手を挙げて叫んだ。
「それじゃあ私の一人勝ちですね。身体張った甲斐があったわあ」
これで今日の朝はご馳走だ。そう言って嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねる美鈴を、はっきりと不満の色を顔に出してレミリアが睨む。
「ねえパチェ。これ、咲夜がドジ踏んで、それでばれたんだから失敗じゃあ」
「さっきも言った通り。この先が無いんだから、後は種を明かすだけしか残ってなかったんだから、ちゃんと最後迄いけたって、そう判断すべきよ。
それに彼女、この期に及んでまだ状況を理解できてないみたいだし」
床に転がりぽかんと口を開けた、そんな間の抜けた様子で固まっている小悪魔を一瞥し、パチュリーは溜息を吐いた。
「判ったわよ。ええはい、判りましたとも」
誰の目から見ても納得をしていない事がはっきり見て取れる顔で、友人からメイドに向き直る。
「ねえ咲夜」
「あっ。はい、何でしょう、お嬢様」
ようやく落ち着いた様子で、けれども未だ目尻は涙に濡らしたまま、咲夜が声を返した。
「今日の朝ご飯、さっきの肉人形を材料に使ってちょうだい」
「ああ、はい。初めからその心算でしたが」
「成る丈原型を留めた形で調理して。可能ならばちゃんと服も着せた状態で」
友人の言葉を聴いてパチェリーが一言を漏らした。意地の悪い。
「ちょっとお嬢様。酷くないですか、それ。私に自分自身を喰えと」
「いーじゃないの別に。外見は兎も角、味自体は普通の食材と何ら変わりないんだしぃ」
門番の抗議を子供じみた屁理屈で抑えようとする姉を見て、フランドールが小さく鼻を鳴らした。
「やめてよお姉さま。負け犬が下手に吼えるのって、見てて無駄に鬱陶しいから」
「何。何か言った、今」
「ううん。べっつにぃ」
妹の言葉に噛み付く姉。それを軽く受け流す妹。溜息を吐く友人。少し困った顔で笑うメイド。血塗れの顔を懐から取り出した手拭で綺麗にしていく門番。
「あ、のう」
さも当然の如く繰り広げられる夜のほのぼのとした風景に、訳も判らずにただ固まっていた小悪魔が、ここにきてようやく声を上げた。
「これって、一体」
「うん。お芝居」
溜めの一つも含まずに、極めてあっさりとパチュリーが言って捨てた。
「し、ばい」
「そ。お芝居。レミィの部屋に皆が集まってからここまで。全部」
「しば、い」
虚ろな顔でしばい、しばいと繰り返す。そんな小悪魔の前に、顔中を幼い怒りで真っ赤にしたレミリアが迫って来た。
「全部貴方のせいよ。あれだけ判り易いヒントを沢山用意してたっていうのに。貴方がこんな馬鹿だから。もうっ」
「そうではありませんよ、お嬢様」
床をがんがんと踏み鳴らして喚くレミリアの背中に、努めて優しく穏やかな声で、咲夜が話しかけた。
「頭が良いかどうかというのは、この際、余り関係ありません。
人は極度に緊張した状態ではまともな判断能力を失ってしまう。そういう事ですわ。人じゃないですけれど」
「そういう事ですよ。それに、私の迫真の演技もありましたしね。何せリアリティを出す為、一発目の拳は本気で受けたんだし。あんなの目にすれば、そりゃ誰だって冷静に物を考えるなんて出来なくなっちゃいますよ」
メイドに加え、門番まで口を挟んでくる。元より丸い頬を、更に丸く大きく膨らませるレミリア。
「ふん。貴方達みたいな弱い生き物の考えなんか理解できないわ。私みたいな強者には」
「ねえ。お姉様の負け惜しみとかはもうどうでも良いんだけど」
両手を組んで鼻を鳴らす姉の言葉を、ばっさり負け惜しみと切り捨てて、そうしてフランドールは小悪魔を指差した。
「もっとちゃんと、一から順序立てて説明してあげたら」
その言葉を受け、それもそうね、と、未だ自失の様相を捨て切れていない小悪魔の前にパチュリーが歩み立った。
「今回の件で誰がレミィに悪戯を仕掛けたかって、その事についてはね、皆を部屋に集めるよりもっと前、夕方、レミィから話を聞いた時点で既に判ってしまっていたの」
「そんな。どうして」
まさか。小悪魔が声を上げた。
未来予知。彼女が仕掛けた悪戯によって、本当にレミリアが未来予知の能力を持ってしまっていたのだったら。それならこうもあっさり、自分が犯人だとばれた事にも納得がいく。
「ううん、外れ。そんな大層な話じゃないわ」
小悪魔の考えを、けれどもあっさりとパチュリーの言葉が打ち消した。
「でも、さっき、本の説明をした時、運命改変と夢の中での予知がどうだこうだって、随分と長い話を」
「だからあれは、今回の件とは関係無いって言ったじゃない。そんな事じゃなくて、もっと簡単な事」
そう言ってパチュリーは、小悪魔の手の中から二枚の紙片を取り出した。
「認識操作なんて便利な物を、こんな状況で使わない馬鹿も有り得ないでしょう」
夕方、レミリアに起こった異変が何者かがパチュリーの魔導書を使って起こした悪戯であると思い至った時点で、二人は誰が怪しいのかを考えてみた。そうして、美鈴と小悪魔はまず違うだろうな、と、そう判断した。何となくキャラクター的に、今回の様な事件の犯人とは思えない、と。
「そしてそれ故に、怪しいと思ったのよ」
認識操作の魔法を以って悪戯を仕掛けた者が、その力を自身の隠蔽に使わぬ筈がない。であるならば、大した理由も無いのにこいつは犯人ではない、そう思える人物こそが怪しいと二人は考えた。
そうして容疑者となった美鈴と小悪魔。その内、美鈴の方は、紅魔館の門番として働いているという事、紅霧異変の折に霊夢達と戦って負けたという事、そうしたものが二人の記憶にはっきりと残っていたし、御阿礼の子の記した書物にも、美鈴が館の門番をしていると、そう書かれていたのを二人は覚えていた。それに何より、パチュリーが保存していた天狗の新聞の中に、紅魔館の門番としての美鈴が出ている記事が幾つか在ったのだ。
翻って小悪魔の方。彼女は真面目で大人しい司書。そうした認識が、確かに二人には有った。
だが、それだけなのである。それを裏付ける物が何も無い。
強大な魔力の固まりでもある図書室に、低位の悪魔が引き寄せられて住み着くという、そうした事態は充分に有り得る事ではあるのだが、けれどもそうして住み着いた小悪魔を司書とした雇ったという、その時の記憶がパチュリーにもレミリアにも無い。そんな記録も残っていない。
それにそもそも、真面目で大人しいという、その性格からしておかしい。小悪魔、力の弱い悪魔というものは、妖精にも近い、気まぐれで悪戯好きな性格をしているというのが普通である。そんな小悪魔が、図書館の司書なんて地味で面倒な仕事を真面目にこなしている。自身が五百年間悪魔として生きてきたレミリアには、それが有り得ない事であるという確信が有った。
「ま、そういう訳で」
言いながらパチュリーは、小悪魔から取り上げた二枚の紙切れを広げた。書かれている文章は一つずつ。併せて二つ。
レミリア・スカーレットは自分の意思で運命操作が出来る。
図書館の小悪魔は真面目で大人しい性格の司書である。
「一枚の紙片に書ける文章は一つ。けれど、図書室内であれば破れた紙片であっても使用可能。よって本から切り取ったのは一ページであっても、二つの事柄を書く事は出来る。
こうした小細工は、まあ、悪くはないと思うけれど。どうせやるならもっと細かな設定まで捏造しなきゃ。貴方の性格については勿論の事、いつどの様にして紅魔館に来たか、どの様な経緯で司書となったか、そして更に、そうした事柄について紅魔館外部の者が話をした事がある、何かしらの書物に載った事がある、そうした記憶まで作っておかないと」
咲夜、パチュリー、そしてフランドール。彼女らについても念の為、レミリアは自身の記憶と手元にある資料でその身元、経歴を確認してみた。結果、特に不合理の出てくる事も無く、唯一不審な点の多い小悪魔が今回の犯人だと断定するに至った。
「そこで終わってしまっても良かったのだけど。ほら、レミィってこういう性格だし」
犯人は判った。実害と言える程の事は何も起きていないのだし、小悪魔を捕まえて軽く説教をしてやればそれで良い。そう、パチュリーは言った。
けれどもレミリアはそれに頷かなかった。そんな事で終わらせてしまっては余り面白味が無い。どうせならここは、悪戯を仕掛けてきた犯人を逆に嵌めてやろうじゃあないか、と。
「そうして考えられたのが、さっき迄のお芝居」
犯人が判明したのは夕方。それから芝居の始まる夜の十一時迄の間、レミリアの部屋には小悪魔を除く面々が密かに集められ、そうして事の準備を進めた。その際レミリアは、芝居だけではまだ面白くないと、更に一つ、ゲームをする事にした。
芝居の中にわざと、ヒントとなる様な事柄を仕込む。小悪魔が途中でそれに気付いて芝居である事を看破できるか否か。それを当てる事にした。レミリア、パチュリー、フランドールの三人は、途中で気付くに賭けた。咲夜と美鈴は気付かない方へ。賭けられたのは、朝の食事に出されるおかず、それを一品。
「ま、ヒントと言っても、さっきレミィが言った程に沢山用意していた訳ではなかったのだけれど。
それでも結構、露骨で判り易いものにしたつもりだったのに、ねえ」
「は、あ」
どこか残念そうな顔を見せるパチュリーに対し、けれども小悪魔は、未だに気の抜けた声しか返せないでいた。
そんな様子を横から見ていたフランドールが、少々の苛立ちの色が含まれた声を上げる。
「ほら、ほら。
私が持たされてたあの、場違いで意味不明で唐突だったあの肉人形とかいう変なやつ。あれ、最初幾つ在ったのよ」
「え、ええと」
記憶を探りながら、ゆっくりと指を動かしていく。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
「よし。じゃあ、私が部屋を出た時は」
「五つ、のまま。確か。
何も、おかしい事も」
小悪魔の答えに、盛大な溜め息を吐くフランドール。
「本当に、本っ当におかしな点は無いのかしら。
直前の私とお姉様の遣り取り、覚えていないの」
レミリアとフランドールの遣り取り。美鈴の死体が、フランドールの手に渡って。
「あっ」
事の真相が明かされ始めて後、ここでようやく、ちゃんとした力の込められた声が小悪魔の口から発せられた。
「五つじゃあない。六つじゃなきゃあ。
という事は、若しかして」
「そ。簡単単純な代わり身」
未だ血の跡を拭い切れていない顔で、にっと白い歯を見せて笑う美鈴。
「いや、でも、あの時、そんな、入れ替わる隙なんて。私、ずっと見てたし、それなのに代わり身なんて、そんなの絶対不可能」
そこまで言って小悪魔の言葉は途切れた。絶対不可能。その単語の意味する所に思い当たったからだ。
「まあ、そういう事ね。不可能犯罪なのであればそれは、とてもとても、簡単な事なのだから。私にとっては」
美鈴の首の後ろ、本人の眼では見え難い部分についた血を拭き落としながら、咲夜が言った。
レミリアの手から放たれた紅い光が部屋を染め、視界が不確かになったその瞬間。ほんの僅かの時間ではあるが、咲夜にとっては一瞬も永遠も同じ事。時間を止め、肉人形の内の、髪の長い女性の姿をした物に予め用意しておいた門番の服を着せ、美鈴と同じ姿勢をとらせた上で入れ替え、美鈴本人は別の部屋に移し、その後、流石に人一人を運んで少し疲れたので、調理場に行って紅茶を飲みながらクッキーを三枚、それからちょっと一眠りしようかとも思ったけれども甘い物を食べた直後だし、と思い止まり、部屋に戻ってティーポットを手に最後の仕上げをし、そして時は動き出す。この間、僅かに零秒。
「あ、でも。血は、血はどうしたんですか。あの肉人形、精巧に作ってあるけれど血は流れてないって」
「ああもう。本当にお馬鹿」
小悪魔の言葉を遮って、心底呆れた風でレミリアが口を挟む。
「咲夜があれだけわざとらしく、大袈裟に、ポットの中身が空だって示して見せていたじゃあないの。
それに私、朝から何も飲んでないって、そこまで言ってやってたのに」
朝から何も飲んでいないレミリア、それなのに空になったポット。そうしてその少し前、美鈴と咲夜の遣り取り。カップ半分に注がれた紅茶、鉄臭くどろどろとした、レミリアの為に淹れられた紅茶。
肉人形の件も含めて、冷静になって考えてみれば余りにも判り易いヒントばかり。
先程までの恐怖と緊張を思い出し、そうしてそれを眺めていた者達の内心を想像し、小悪魔の心は安堵と羞恥の入り交じったものでぐるぐると掻き回されていく。
「何なのよ、これ。もう一体、何だって言うのよう」
ついには大声を上げて泣き出した小悪魔を目にして、膨れ面から次第に、悪戯な子供の笑みへと移り変わっていくレミリアの顔。
「何って言われても、まあ。最初に言った通りよ」
嬉しそうな声でレミリアは言った。
「これはミステリーではない」
答になっているようでそうでもない、そんな言葉を小悪魔に向けころころと無邪気に笑う。
「確かにミステリーではないですよね。犯人探しとかそういうの、一番最初、と言うか始まる前に終わっちゃっていたんだし」
そう言って、うんっと、身体を伸ばす美鈴。
「そうね。でもまあ、ある意味、一人を除いた全員が犯人だったと言う気も」
美鈴の顔についていた血を完全に拭き取り、そうして咲夜が言った。
「だったら全員が犯人だったって、そうも言えると思うわ。ま、何れにせよこんなの、確かにミステリーでもなんでもないけれど」
悪戯好きの姉に呆れた視線を投げかけつつ、けれども自分も意地悪な笑顔を見せるフランドール。
「強いて言うなら、そうね、スラップスティック、かしら。ちょっと違う気もするけれど」
眠そうな声でパチュリーが言った。
「で、レミィ」
そうして悪戯な笑顔の友人に向けて声をかける。
「どうするの、その子の始末」
「ん。
ああ、そうね。朝ご飯のおかずにでも加えてあげようかしら」
びくん、と、小悪魔の翼が緊張に固まった。
それを見て、冗談冗談と、また可笑しそうに笑うレミリア。
「そうね。いっその事、正式に図書室で雇ってあげたら」
「この子の性格、判ってて言っているのかしら。それ」
「判ってるから言ってるのよ。今回の件も、まあ、結構良い暇潰しになったし。ね」
◆
こうしてこの日、紅魔館に新たな顔が加わった。
役職は図書室の司書。種族は小悪魔。名前は不明。性格は真面目で大人しい、ではなく、気まぐれで悪戯好き、後先考えずに行動する。
あれだけの怖い目を見たというのにそんな事はもうすっかりと忘れ、今度はどんな悪戯を仕掛けてやろうかと、そんな事ばかりを考えている。それこそが小悪魔、と、そう彼女自身は考えて悪びれないし、それでこそ小悪魔、と、館の主もそんな彼女を咎めずに面白がっている。
そうして彼女は、今日も今日とて暗く広い図書館で、背の高い本棚の間を新しい悪戯の種を探して飛び回っているのだった。
キャラクターそれぞれの言葉回しに雰囲気もあって、なるほどそこが伏線だったとは、という感じです。
美鈴が肉塊になったときはもしかして、と予測していましたが
図書館でのシーンで「あれ?本物だったのか?」と微妙に混乱してしまい・・・
咲夜さんが笑ったところでやられたなぁと思いましたw
最後までバランスよく話が展開していたのではないかと思います。
というわけで、最初に一番の感想を述べてしまったので以上で私の感想とさせていただきます。
>何だかかんだと >数奇な運命を運命辿る事になる
>事象そのもには >一種の意図的運命作
>そうして捕まった最後
あと『天啓霊夢』は紛らわしいので霊夢を神託あたりに変えた方がいいかと。あえて使っていたのでしたら無粋をお詫びします。
・・・あんがいこれは~で続く印象深いセリフって思い付きませんね
面白かったです
ミステリーじゃないよ、って言われるほど推理したくなるんですよね。
小悪魔の使い方が面白かったです。ああ、こういう使い方が! って感じで。
良質な短編ミステリを読んだ後の心地良い満足感をまさかここで味わえるとは。
素晴らしい作品をありがとうございます。
二次創作ならではのミスリード(小悪魔の性格設定とか、どろどろとした紅茶、とか)に
いい感じに惑わされて、回答編が楽しかったですよ。
一番最初にコメントをしていただいて、どうも有難うございました。
このお話に限った事ではないのですが、投稿をした後にはいつも不安になってしまう性分なので、こうして面白いと言っていただけてとても嬉しかったです。
>コメント番号9の方
誤字脱字のご指摘、有難うございました。いや本当、お恥ずかしい限りで。
とまあ、恥じるべき場面なのですけれど、正直、ここ迄じっくりと読んで下さったんだ、と、嬉しく思う気持ちも大きかったりするのです。
>蝦蟇口咬平様
芝居オチって、まあ、どう考えてもミステリーたり得ませんよね。題名通りです。
すみません。言い訳です。逃げです。ご免なさい。
>A様
ジョーカー様を呼ぶ時はどうしましょう。自分宛の手紙でも出しましょうか。
でも幻想郷、そもそも郵便が在るのかどうか。
>コメント番号21の方
お言葉、有難く頂戴致します。励みになります。
>deso様
このお話が果たしてミステリーであるのか、否、そうではないのか。その点こそが、一番のミステリーな気がします。
個人的には、まあ、風味かなあという感じで。
>コメント番号31の方
黄色の節制は肉人形による代わり身を密かに示していた、心算だったのですが。
よく考えたらあれは、代わり身ではないのでした。変身でした。本体のハンサム顔に被り物でした。しまった。
>コメント番号33の方
八雲さんちのご主人だとか十六夜さんだとか、その辺りの人が関わったらトリックなんてやりたい放題好き放題。
そしてそれを見事に解決する主人公、博麗さん。理由。何となく勘で。こんなのミステリーじゃないですよう。
>コメント番号36の方
ミスリード。何だかとても素敵な響きです。ミスリード。格好良いです。
いつかはこんな言葉が似合う素敵な物書きさんになりたいものです。
まあ現状では、まだまだまだまだ、まーだまだ、遠かったりするのですが。大概は外してばかりですし。
その他の読んで下さった方にも。本当、有難うございました。
妹様のキャラが原作ぽくて素敵です。