湖のほとりに決して咲かない桜があるという。
見た者によれば、周囲が春を迎えて百花繚乱の中、ただ一木、その桜だけが蕾をつけた
まま決して咲かず、そうして春も半ばを過ぎた頃になると、何事もなかったように青々と
した葉をつけているというのだ。
見たところ大木ではあるが、性格がひねくれるほどの老木でもなく、土壌もそんな悪い
わけでもないので、人里では妖精の仕業だとか、死体を埋めないと咲かないとか、満月の
夜にだけ咲いて夜明けには散っていくだとか、色々な噂が流れている。
もちろん、信憑性はどれも怪しいが、、良く分からないものにはなるべく近づかないで
おくのが定石と言うことで、この辺り一帯は全く人気を失い、足跡すら残っていない。
そのため、一帯はまるで新雪がそのまま土や草になったような風情を見せていて、桜の
周囲には獣道すらなく、一面に翡翠色の絨毯が敷かれたままになっているのだ。
そこに、定石など完全に無視して、一人の人間がぶらりと立ち寄っていた。
噂を聞いて、この木の近くまで近寄ろうとする連中はそこそこ多い。が、周りの風景に
比してあまりに不気味なため、大抵は途中で帰ってしまい、木の下まで行く人間は皆無。
しかし彼女は大して臆することもなく、まるで川へ洗濯にでも行くかのような風情で、
記念すべき最初の足跡を刻み込んでいる。
「……本当に咲いてないんだなあ。面白いやつめ」
彼女の名前は藤原妹紅といった。普通の人間とはそこそこ違う人間だったが、気の良い
人間である。腕もかなり立つので、最近は自警団や案内役のようなことも始めたらしい。
見た目は銀髪紅眼の、服も上に白と下に赤を決めて、さらに炎を中心とした妖術の類を
能く扱うということでド派手もド派手な姿だが、本人の性格はむしろ、目立つのを避ける
ような節があって、自分のこともあまり話したがらない。
そのため彼女の姿を知っている人はいても、その出自がどうとか、何処から来たのかな
どの詳細を知る人物は片手で数えるほどしかいない。いつのまにかふらりと現れて、気が
つくとそのまま居ついていたような風情があった。
そんなふうに正体が雲か霞かといったようなところがあるため、噂好きの人間には格好
の的になっている。曰く禁呪に手を出してあんな姿になったとか、苛酷な修行の果てに髪
が白く染まっただとか、何処かのやんごとなき人の御落胤だとか。
信憑性の薄さはどれもどんぐりが背比べをしているようなものだが、とりあえず種類は
豊富だった。ただ、そこに悪意が混じることはほとんど無い。里の知識人との交流がある
ことと、当人がよく里の人間を色々と助けていることからか、大多数の人間には好意的に
見られているのだった。
妹紅がここを訪れたのは、別に大した理由ではなかった。川原に釣り糸を垂れ、人里で
軽く買い物を済ませ、以前永遠亭まで送っていった娘の父親に出来たばかりの清酒を貰い、
そういえばまだ花見をしていなかったことを思い出し、ついでに咲かない桜の噂を思い出
したから、ふらふらと寄ってみただけである。
そして行ってみれば本当にそこだけ咲いていない。別の木ではないかと近寄って確かめ
てみたが、蕾の色からして本当に桜の木である。なかなか雄大な枝振りの、中央あたりに
大きくうろの出来た、立派な大木だった。
「蕾はついてるんだから咲いてもおかしくなかろうに」
ごつく皺を寄せた幹を軽く撫でて、思ったことをそのまま呟いてみる。
木陰を見ても花を咲かせずに落ちている蕾は一切見当たらず、この一本だけ時間が妙に
ずれているような雰囲気だった。何か事情があって咲けないのか、それとも咲くのを我慢
しているのか、どちらにしろ理由の見当はつかなかった。
ふと、妹紅はそこで噂の一片を思い出した。
曰く、妖精の悪戯。死体を埋めないと咲かない。満月の夜にだけ咲いてすぐ散る。
さすがに死体を実践するわけには行かないが、他の二つであれば何とかなるだろう。
妹紅はしばらく桜を張ってみることにした。
桜から少し離れたところで、酒瓶やら干した魚やらの詰まった袋を枕にして横になる。
ほとんど昼寝のようなものだったが、常から気配に敏感な妹紅にとっては似たようなもの
で、誰が近寄ってきてもすぐに飛び起きることが出来るから問題はなかった。
(そういえば横になるのも久しぶりな気がするな―――)
酒瓶の固い感触を気にしながらも、妹紅はあっさり眠りに入った。
夢は見なかった。
太陽がわずかに傾いた頃、妹紅は突然なにか質量のある物体が自分の上に着陸してきた
ので慌てて飛び起きることになった。あまりに早かったので回避もままならなかった。
「ぐわっ! な、何!?」
目を白黒させながら起き上がろうとすると、
「春ですよ~」
小さな子供程度の大きさの、真っ白な服に身を包んだ妖精が、満面の笑みを浮かべて、
妹紅の上に馬乗りになっていた。
何の冗談かと思った。
「春ですよー」
「……ああ、まあ春だもんな。いてもおかしくないよな」
「はい、春です」
「まあそれはいいんだけど、とりあえずどいてくれ。起きられない」
「春なのにー」
「いや、関係ないだろそれ」
とりあえず何とか押しのけて立ち上がる。そういえば春も真っ盛りなのだから、彼女が
いても不思議ではない。というより、いないと困るし、異常でもある。
リリーホワイト。春告精と歌われた四月の申し子。白百合になぞらえられる妖精である。
なんでわざわざ昼寝してる人間の上に飛び込んでくるのかは分からなかったが、妹紅は
『妖精のやることだから』ということにして忘れることにした。無軌道な自然の力の具現
を推し量ろうなんておこがましい、というか無理だった。
「で、何やってるんだお前は。はなさか爺さんの真似事?」
「違いますよー。みんな私が通ると笑ってくれるんです」
おそらく花が咲くのを笑顔に見立てた言葉だろう。確かに彼女の行くそば、片っ端から
花が咲いていくし、大した悪戯もしないで通り過ぎていく。しかも彼女を見るのは吉兆と
も言われているので、(弾幕を撃たなければ)割と人妖問わず人気のある妖精である。
「卵と鶏の話みたいだな」
「花丸の目玉焼きっておいしいですよね」
「いや、食う話はしてないぞ?」
そういえば妖精とまともな会話をした記憶はなかった。たいてい向こうが逃げていくか、
こっちが気にも留めないという程度で、接点は想像以上に薄かった気がする。相手が弾幕
を撃ってきたら即制圧、というスタイルも要因の一つだろう。
とりあえず話は通じるようだ。やや天然っぽい雰囲気はあるが。
折角だから、妹紅は常々思っていた疑問をぶつけてみることにした。
「そういえばおまえ、夏とかはどうしてるんだ?」
「え?」
「四季から春を抜いた残り」
「寝てます」
即答だった。朗らかな笑みと共に。
「……さよか……ってどこで? 土の中でか?」
「それはセミです」
怒られた。冗談は通じないようで、ぷくーと頬を膨らませている。
悪かったと手を振って示すと、改めて聞く。
「じゃあ、どこで?」
「おとうさんのところです」
―――え、親いるの?
衝撃の事実。妖精は木の股から生まれてはいなかった。
そんなテロップが脳裏に流れる。
ぽかんとした表情を向けるが、リリーホワイトは全く気にすることなく、ぱたぱたと何
処かへ―――咲かない桜のところへと走っていく。
後を追っていく―――足元の草むらが花に覆われている。
「これ全部……百合か」
驚いたことに、この辺り一帯に生えている草は、全て百合だった。本来は夏ごろ咲く花
だが、リリーホワイトがすぐそばにいるので気合が入ったのだろう。立派な花を並べて、
そよ風に揺れている。
花を踏まないように気をつけながら桜の木の下にたどり着くと、木の幹をそっと撫でる
リリーホワイトがいた。そのすぐそばには、子供一人くらいは入れそうなうろがぽっかり
と空いている。
「私のお父さんです。春が過ぎたらここですごしてるんです」
「お父さん?」
それは、桜の木から生まれてきて、また戻るということだろうか。
もう少し深く聞いてみると、なんと桜の木だけではないという。
「他の子にもお父さんやお母さんがいます。山の方とか湖の方とか。里の方にもいます」
そこまで聞いて、妹紅はなんとなく理解した。彼女は、おそらく冬を耐えて春を迎えた
花たちの力が作る妖精なのだろう。春のときはどの妖精よりも強くなる、というのも納得
できる。何しろ冬の間ずっと力を蓄えてきた春の具現なのだから、勝てる道理がない。
ついでにいうと、父母の区別は適当なのだろう。聞いてみたところ、どっちも同じよう
なものだと考えている節があった。たぶん人間の生活を見て覚えた言葉なのかも知れない。
「……なるほどねえ。でも、なんで咲かないんだ? あんたの親父さんは」
「お父さんはみんなが咲くのを見てからゆっくり咲きます」
相変わらずにこにこしながら、リリーホワイトは答えた。妹紅には意味を図りかねたが、
続く言葉で実践されることになる。
「そろそろですよ。みんな咲いたから」
ゆっくり咲く―――つまり、どの桜の木よりも遅く、一番最後に咲く。
そして、つぼみはほころび、いきなり花開いた。
「あ、」
妹紅の目には、まるで桜が爆発したようにしか見えなかった。
頭上で、うら寂しかった茶色が雄大な桜色へと瞬く間に染まっていく。
そして咲いたそばから花びらが舞い散り始め、周囲の百合とともに百花繚乱を形成して
いった。それは花火のように豪快で、印象画のように力強く、絹のように柔らかかった。
春だった。花見そのものがいきなり出現していた。
それをただ、驚愕やら感動やらがまとめて撹拌されたような顔で見上げていると、ふと
リリーホワイトがにわかに地上を離れ、どこかへと飛び去ろうとしていくのが見えた。
「おい、これからどうするんだ?」
慌てて聞いてみると、彼女は相変わらず楽しそうな笑みを浮かべて、
「あちこち飛んでいって、夏が来そうになったら寝ます」
「さよか―――ああ、がんばれ」
手を振りながら、飛び去っていった。
それを見えなくなるまで見送ってから、妹紅はふと本来の目的を思い出した。
そうだ、花見だ。
枕にしていた袋を引っ張り出し、酒瓶と杯を手に入れる。
干魚を少し焦がしてからかじり、杯を満たしてそっと持ち上げる。
水鏡となって桜色に染まった中身に、何枚か花びらが触れ、船のように浮かんだ。
それを花ごと一気に飲み干して、
「ああ、うまいな」
桜を独り占めする贅沢を、心からの言葉で締めた。
こうして、今年の花見は終わった。
久しぶりに新作が読めて嬉しいです。
桜というかリリーを(オイ
騒ぐ花見も良いけど、一人もこれはこれで。
春が来たという感じですよね。
わんだ。