Coolier - 新生・東方創想話

永夜 終わる時(九)

2008/04/22 09:10:07
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「………ッ……………!!」

ずっと死闘を繰り広げてきたとは到底信じられないような白く綺麗な手が導くままに輝夜は妹紅に引き込まれていき、そして地に組み伏せられてしまう。
腰元に圧し掛かられ、手で両肘を押さえつけられてしまっては輝夜は何もできなくなってしまう。
妹紅の顔を打とうにも手が届かず、どれだけ身をよじってみても圧し掛かっている妹紅の体は小揺るぎもしないのだ。

そして妹紅の背には大きな紅蓮の翼が備わっていた。だがそれはいつも以上に大きく広がり、片翼だけで妹紅の背丈ほどにもなっている。
その大きな翼の羽ばたきは辺りを一様に灼熱の風で撫であげ、妹紅だけでなく眼下の輝夜の体をも蝕んでいく。
もはや、どちらを見渡しても幾重にも折り重なった陽炎の世界。流れる汗さえその場で消えてしまうような中で輝夜は狼狽した顔を見せ、妹紅は憔悴しながらもどこか安らかな顔。同じ状況にありながら二人の表情は全く対照的なものだった。

「も…こ………!」

輝夜の口がかすかに動くが、辛うじて出た音は声の一欠片になるのが精一杯だった。
口を少しでも開ければ熱気が殺到し、喉が灼けるように熱い。結果として口を大きく開けられないから声が外に伝わっていかないのだ。


―――妹紅っ…あなた正気!?

目が、輝夜の目が。言葉よりも雄弁に彼女の思いを伝えていた。言葉で意思を伝えられず、実力行使にも出られないのならと、精一杯の想いを瞳に乗せて妹紅に叩きつける。
その瞳には妹紅への驚き、怒り、苦痛、そして何よりも妹紅の行動に対する純粋な恐怖。それら全てが入り混じり、細く引き絞られた瞳に宿る光は陽炎の中で揺らめきながらしかし満月のような確かさを持っている。


―――『正気』?…『正気』だって!?何をいまさらっ…!

妹紅もまた、己の目で思いを返す。
輝夜が瞳で何を語っているか、何となく理解できたような気がしたのだ。


―――自分だけマトモなフリして『あなたの正気は私の狂気』なんて言うつもりじゃないでしょうね?
―――千年もこんな付き合いしてきて、要するに私もアンタも昔から狂ってた…そんな事、アンタが一番解かってると思ってた!

―――本当に死ねるかどうかも分かりはしないけど…死ぬのが恐くないというの…!?

―――恐怖なんてそんな物、とうの千年前に捨ててきた…恐怖を抱いてアンタの前に立てるものか!


妹紅の瞳に宿るのはある種の諦念、そして一つの目的を成し遂げんとする強い決意。
輝夜がどれだけ強い目で訴えても、彼女の心はこれっぽっちも曲がらない。
そうだった。昔から妹紅はそうだった。
輝夜が百万の言葉を並べ立てても聞く耳を持たず、たった一つの弾幕を千万の言葉とする。
千年前にこの竹林で初めて相見えた時から妹紅は少しも変わっていない。
そんな彼女を半ば余裕を持って迎え撃ち、仮初の死を与え合う自分すらも、だ。

だが、今は違う。
『今なら本当に死ねるかも知れない』と彼女は言った。
『せめて、逝く時は一緒』とも彼女は言った。
そして、彼女は今それらの言葉を証明するかのような行動を取っている。
まさかそんな事はないだろうと思いつつも、輝夜は同じ蓬莱の薬を飲んだ者として妹紅の言動の一つ一つを気にしないわけにはいかないのだ。
妹紅の自信の根拠は置いといて、万が一、いや億が一にも満たないかも知れないが、本当に今の自分が死に至る可能性があるのだとしたら……


「………ッッ」

ならば、この状況をどうにか打破しようと輝夜はもがく。
だがどんなにもがいても大の字に磔られた体は動かず、服の裾から焦げ臭い煙が漂い始めてきた。長年弾幕によって馴らされてきたこの体が少々の火傷で屈する事はないが、それとて摂氏数百度はあろうかという高熱に取り囲まれればどうなるかは分からない。よくて大火傷、悪くしたらヒトの姿を保っていられるかどうか…命ある者を徹底的に拒絶せんとするこの領域で輝夜の努力は全て徒労に終わり、その絶望と虚無感によって輝夜の顔には焦りと恐怖がますます色濃く浮かんできていた。


―――あなただって里の人間と少しは関わりがあるんでしょう!?

―――……それがどうした?

―――竹林を通る人間を守ってるんでしょう!?

―――………それがどうした?

―――それに、あのハクタクが…あのハクタクが悲しむわ!

最早なりふり構っていられない。瞳で次々と自分の想いを妹紅に叩きつける。
だが、それは明らかに妹紅に対する説得であり、懇願であった。強い敵意を向けていた瞳の輝きはとうに消え、弾幕と共に狂気と狂喜を振りまく月の姫の面影は残っていない。
そこにいるのは死への恐怖に震えるたった一人の少女。炎の中で、生まれて初めて死に対し雀の涙ほどの抵抗を見せる一人の少女だった。


―――オマエが気安く慧音を語るなッ!

「ひ……ッ」

既に熱で相当消耗しているせいもあったが細く引き絞られた鋭い眼光はそれだけで輝夜を竦ませ、それに載せられた強い想いで輝夜の顔には明らかな怯えの色が浮かぶ。妹紅のこんな顔は千年もの間見続けてきたはずなのに、自分が徹底的に窮地に追い込まれていると感じるだけで得体の知れない悪鬼のような恐ろしさが視えてくる。

―――…アンタに私たちの何が分かる!今まで何度も死合ってきて、申し訳の立たない私を慧音がどんな顔で迎えに来てくれるか…ずっとずっと甘やかされてきたアンタなんかに分かるもんか!

―――………

―――アンタなんかに、アンタなんかにっ……!



「…うぅ……」
「…………!?」

急に妹紅との距離が縮まり、二人の顔と顔とがニアミスをする。
死闘に次ぐ死闘、そして焦熱地獄。これで今まで意識を失わなかっただけでも十分驚愕に値するのだが、いよいよ妹紅に限界が近づいて来たらしい。輝夜を押さえつけたまま上体を保持する事すらままならず、引力に従いその身を輝夜に預け伏せる。
二人の着衣は今や全て灰と化し、ちょうど裸で身を重ね合わせているようにも見えるのだが、そんな事を気にする余裕などは勿論ない。外観は同い年くらいに見えるのに、輝夜の方がほんの少しだけふくよかに見える。膨らみかけの胸にチラリと視線が行ったが、もう妹紅にはそんな事はどうでもよく感じられた。


―――……ははっ。もう…そろそろ……

―――妹紅…!?

―――言ったよね、輝夜…逝く時は一緒だって。

―――まさ、か…いや……

―――そうだよ、輝夜…輪廻の輪に還ろう。私にはうっすら見えてきた…アンタはどうよ?



呼吸に足るだけの酸素は既に燃え尽き、痛みよりも眠気に似た奇妙な感覚が妹紅の全身を支配していた。
自身の霊力を交えた炎はそうそう消える事はない。だからこの炎でこの場にある全てをすっかり燃やし尽くしてしまえればいいなと妹紅は考えていたがそれもいつまで続くか分からないし、今やその炎を制御するだけの力も自分には残されていない事を感じていた。
今できる事と言えば、いつ消えるやも知れぬ炎に身を任せるのみ。千年間表沙汰に想い続けてきた願いと、密かに想い続けてきた願いが遂に叶う……運命を共にする輝夜がここに来てほんの少しだけ愛しく思え、妹紅は輝夜に対する感情として初めて穏やかな微笑をうっすらと浮かべていた。





やがて、その微笑すらも消えていき……


















































―――慧音、ごめん……………


















































「………」

かつて竹林だった場所は荒涼とした大地と化していた。
これが元の姿を取り戻すには、普通に荒れ地を開墾する所から始めたら途方もない年月を必要とするだろう。
だが幸いな事に、彼女の傍には天才の名を冠するに相応しい者がおり、また歴史に干渉する能力を持つ者を一人知っている。
だから、彼女たちに任せておけば夜が明ける前にはこの辺り一帯は何もかもが元通りになる…そう信じ、輝夜はその場に体を落ち着けた。

「出てきなさい」
「…バレてましたか」
「それだけ近づかれれば幾らなんでも分かるわよ」

輝夜の呟きに応じ、背後からゆるりと人影が現れる。遠くで二人の殺し合いを傍観していた永琳が、いつの間にか輝夜のすぐ傍まで来ていた。
その手には蓬莱人の輝夜に対して果たしてどれほどの効き目があるのか分からないが救急箱と、何やら大きな風呂敷包み。
手と手に持ったそれを地に降ろすと、すかさず輝夜の鋭い眼光が飛んできた。

「いつから居たのか知らないけど…来るなと言っておいた筈よね?」
「ええ、でもお二人の邪魔は致しておりませんから問題はない筈ですよ。それに随分離れてましたから、姫もお気づきにならなかったでしょう?」
「詭弁を…」
「過ぎた事です。あまりお気になさらぬよう」

涼しい顔でいけしゃあしゃあと言い放つ。
しかしそんな所がいかにもいかにも永琳らしく、いつも通りの彼女だと安心して輝夜は小さく息を漏らし、永琳に向けて腕を伸ばす。その動作の意味を察していたのか、永琳は迷わず風呂敷包みを開けて輝夜の替えの服を取り出した。
業火に包まれ、輝夜の服はすっかり焼け落ちてしまっていたのだ。白い肌は月の光を受けて妖しい艶を放持つだったが、あいにく今宵の輝夜は埃まみれ。艶を持つには程遠い。
だが輝夜はそれを意に介さず、肌に張り付いた砂粒の中でも目に見える程度の物だけを軽く払って袖に腕を通した。いつもの輝夜らしからぬ行動には流石の永琳も微かに驚きの表情を作ったが、輝夜には気取られる事なく言葉を続ける。

「それにしても、よく御無事で」
「眺めてただけのあなたが言うセリフじゃあないわね……それに、無事とはとても言えなかったわ。何度危ないと思った事か」
「危ない事など今までにも数え切れないほどあったじゃないですか」
「桁が違うのよ。今回ばかりは妹紅の事を心の底から恐いと思った……ふふっ、ずっと殺し合いを続けてきた筈なのにこんな事は初めてよ」

自嘲し、足元の妹紅に視線を下ろす。当の妹紅はと言えば、まるで眠っているかのような安らかな顔で地に倒れていた。
先ほどまでの輝夜と同じく服は焼け落ちており、細身の裸体を満月の下に晒している。色白の肌はつい先ほどまで烈火の如き感情で輝夜と相対していたとは到底思えない程美しく、輝夜と比べて痩せ気味の体は月の光を受けて一層妖しく輝きだす。

「最期は私を道連れにして逝くつもりだったみたいね。でも、最後の最後で私を抱きしめる腕がほんの少し緩んだ。必死にもがいて、私はどうにか抜け出せた。妹紅は… 自分の中から生まれし炎を消す事ができなかった………いえ、最初から消すつもりなんてなかったのかも知れないけど」
「ともあれ、姫が御無事で何よりですわ」
「…疲れたから寝るわ。永琳、この辺一帯の修復はよろしく」
「この子は?」
「じきにハクタクがやって来るでしょう。妹紅の救援か、あるいはこの夜を喰いに…その時にでも返してやりなさい。ついでに竹林の修復も一緒にやってもらったらいいわ…って、アレは夜を喰うに決まってるから駄目ね。悪いけど独りで頑張って」

人形のように横たわる妹紅の頬にそっと手を添える。
首筋、鎖骨、胸、腹と、やや歪さを残すラインをくすぐるようになぞり上げるが妹紅は目覚めない。

「楽しかったわ、妹紅…縁あらば、またこの満月の下で逢いましょう」


満悦の表情を最後に贈り、音もなく満月の空へと飛び立つ輝夜。
遮る物がなくなった荒野を撫でる心地よい風と、この場に猛烈な勢いで近づく気配を同時に感じるが、残された永琳にはそのどちらも虚しい物に思えてならなかった。
この場を余す所なく照らす月明りでさえ、見るからに虚しさを覚えるこの風景を引き立てているに過ぎないように思えて、ふぅと溜め息を吐く。
倒れす伏す妹紅にも、近づく気配――慧音にも、永琳は今や何の感慨も抱いてはいなかった。


*  *  *  *  *


「妹紅殿!妹紅殿ッ!妹紅殿ぉッ!」

竹林の中に突如現れた荒野を見るや慧音はそこを目がけて急降下し、着地するや否や妹紅の変わり果てた姿を見つけて抱き起こす。
涙を流しながら何度も妹紅の名を叫び、その叫びは言葉から悲鳴に近いものへと転じていく。
…予想通りにも程がある。
目の前の光景を予測していた永琳は慧音の行動を醒めた目で見降ろし、何も言わぬまま傍らに立ち尽くしていた。

「まさか、本当にッ………止めなかったのか、永琳殿は」
「ええ。私はここに近づく事も許されなかった…あなたがもう少し早く来ていたとしても、追い返されていたでしょうね」
「くそ……ッ」

拳を固く握りしめて地を叩く。
しかしその顔は思い詰めた風ではなく、かといって余裕を感じさせるわけでもないが純粋に真剣な表情を纏いまっすぐに妹紅を見つめている。逞しい角としなやかな尾はいつの間にか消え、長い髪は風が吹く中にありながら乱暴に振り乱れる事もない。慧音の姿は凛然とした姿に知的さを伺わせる平時の物に戻っていた。

「心配ないぞ、妹紅殿…今すぐこの夜をなかった事に……」
「させないわ」
「ッ!?」

意外な言葉に振り向くと、一体どこに隠し持っていたのか永琳が慧音に向けて矢を番えていた。
相変わらず何の感情も籠っていない目で、ただ冷徹に弓を引く。

「永琳殿、何を…?」
「この夜を喰らう事は許さない…それが二人の意志よ」
「二人の、だと?…」
「その子は自らの意志でここに来た。そして…恐らくは刺し違えてでも今宵全ての決着をつける事を望んでいた。その為にあなたの制止をも振り切ってね…そしてウチの姫もそれを真っ向から受け、まさしくお互いの命をぶつけ合った。姫も本気だったのよ」
「し、しかしっ…こんなの認められるかっ……!」

慧音の全身が淡く輝く。
彼女だけが持つ、歴史を喰らい全てをなかった事にしてしまう能力。
この能力にかかれば、今宵の死闘でさえ慧音の腹の中。そしてその前とは少し違う歴史が新たに紡がれるかも知れない。


ヒュンッ!


「ッ!?」
「させない、と言ったでしょう?」

慧音の顔の脇を風が奔り去り、ややあって生温い感覚が頬を伝う。永琳が構えた矢を放ったのだ。
慧音を外した矢はそのまま慧音の背後に斜めに突き立ち、慧音の集中を強引に解く。

「えっ…永琳殿っ…!?」
「もし、そこに倒れているのがウチの姫だったとしても私は決してあなたに歴史喰いを乞うたりはしない。私だって本気なの…それなのに、あなたは私たちの気持ちを踏みにじるつもり?」
「くっ……!」
「そんなペテンは私が許さないし、彼女たちも決して許しはしない…次は当てるわよ」

今一度、矢を慧音に向けて番えて狙う。永琳の言葉や淡々とした声は、とても冗談には聞こえなかった。
慧音は永琳の真の実力を見抜いている。輝夜の手前、永琳は表向きにはそれをひけらかしたりしないのだが、その気になれば輝夜や妹紅をも圧倒できるのであろうという事を知っている。
ならば、そんな相手に対しては自分がハクタクの姿を得た所で敵うはずもない。ましてやそれが明確な敵意を持って相対しているとなれば…?
俄に逆立っていた髪が元通りに落ち付き、全身を包む淡い輝きも静かに失せていった。決して敵わぬと分かっている相手に勝負を挑むほど慧音は愚かではないし、今は頭に血が上っているわけでもない。
そして何より、妹紅が倒れているこの状況では到底弾幕を張っている場合ではなかったのだ。

「ならば…どうすればいい……」

しかし、やるせない気持ちはどうにも隠せない。
押し殺した声が慧音の心情を全て物語っている。

「受け入れるしかないわ、この現実を」
「く……ッ」
「受け入れられなければ前へ進めない。あなたはこうして生きてるんだから、全ての現実を受け入れなければならない。ハクタクならば尚更でしょう?…でも、あくまでここでその子と添い遂げようというのなら、私は止めないけど」

冷徹な女、という言葉が慧音の脳裏をよぎる。しかし永琳の覚悟も同時に感じていた。
確かに彼女は蓬莱の薬を作った張本人であるし、輝夜との付き合いも長い。しかしそれを差し引いても蓬莱人たちの事を、妹紅の事さえ、彼女は自分などより余程よく理解しているのではないか。そしてどのような現実になろうとも、彼女は全て甘んじて受け入れるのだろう。
『歴史の守護者』『人間の守護者』などと気取っている自分が情けなくさえ思えてくる。
そして、自分への言葉の何と厳しくも穏やかな事か。
これではまるで子を諭す親……最早、慧音には返す言葉は見つけられなかった。


「………」

地に叩きつけた拳にうっすら滲む血の色が生々しいが、今の慧音には全く気にならなかった。
無言で妹紅の体を抱き上げ、苦虫を噛み潰した顔で安らかな顔をそっと見降ろす。その流れで永琳にも視線を向けるが、やはり気の利いた言葉は思い浮かばなかった。軽く頭を下げ、永琳からは背を向けて庵への帰路を歩み出す。

「…姫から言伝があるわ。その子と…あなたにも」
「え?」

二、三歩ほど歩き、今まさに大地を蹴って飛び立とうとした時、背後から永琳の声が被さってきた。先ほどまでの冷たさすら感じるほどの淡々とした声ではなく、どこか温かみがあり穏やかな物。この期に及んでいまさら何を伝えようというのかは知れないが、それでも慧音は律儀に踏み止まり永琳の言葉に耳を傾ける。

――内心ではどうせ大した事じゃないんだろうと決めつけつつ。

「『縁あらばいずれまた逢いましょう、願わくばこの満月の下で』…と」
「……縁あらば、か…」
「その子に逢えた事で、姫は今日まで腐る事もなく『生きてきた』。そしてこれからもずっとずっと生き続けていくのでしょうけど……その子には姫なりに感謝しておられるみたいよ」
「そう…でなくては妹紅殿が浮かばれぬよ」

まるで、永遠亭とその周辺の者にのみ向けた定型文である。この程度の平易な文章なら永琳が即興で考える事も十分可能だろう。
第一輝夜がわざわざ言伝などを残すとは慧音にはにわかに信じ難く、慧音はその言葉を適当に聞き流していた。
しかし彼岸、冥界という世界がこの幻想郷の周辺には確実に存在する。妹紅に対してはそちらに渡った後、(地上に降りてこれるのなら)いつでも遊びに来いと誘っているようにも受け取れるし、慧音に対しては言葉のままに受け取ってもいい。もっとも言葉の解釈など実際にはどうでも良かったのだが、その言葉で慧音の肩の荷がほんの少し下りたような気がした…いや、彼女の心は僅かながら確実に軽くなっていた。
不思議と涙は出てこない。妹紅は自身を満たして果てた。積年を望みを叶えられたと考えるのならば、奇妙な言い方になるがそれは寧ろ妹紅にとって喜ぶべき事なのかも知れないからだ。
そして永琳の言葉が本当に輝夜からの言伝だったのか、それとも永琳のせめてもの心遣いだったのか。今ここで詮索をするのはあまりにも野暮というものである。

「早く帰りなさい。いつまでも裸じゃ、その子がかわいそうだわ」
「…世話になった……とでも言うべきなのか」
「こちらこそ。あなたとも縁があったらまた逢いたいわね」
「いつになる事やら…」

再び軽く会釈をし、今度こそ妹紅と共に満月の空へと飛び立つ。
その瞬間、慧音は永琳にも聞こえない程の小声で一言呟いていた。



――ありがとう、と。





*  *  *  *  *





慧音が住む庵の所までは、二人の死闘の余波は来なかったようである。
流石に多少の熱気は来ただろうが、竹藪焼けたとかそういった状況を慧音は見ていないし庵そのものも平穏無事である。

「妹紅殿…」

竹林の隙間から差し込む朝日は夜の闇を切り裂き、草木にさえ目覚めを促す。
眩い光は夜の分まで輝いているようにも、ほんの数時間前まで幻想郷を支配していた夜を全て否定しているようにも見える…その光が、今の慧音には恨めしくも思えてくる。

忘れられない一夜が明け、慧音は眠れぬ夜を過ごし朝を迎えた。
裸の妹紅には彼女の寝間着を着せ、布団に横たえてある。
こうして見ると妹紅は本当にただ眠っているように見え、肩を揺すれば気だるそうに身をよじらせつつも目を開けてくれそうである。
妹紅は決まって慧音より遅くに目が覚める。そうして体を起こして布団を出る彼女を、慧音は挨拶を添えた微笑みで迎えるのだ。

「おはよう……妹紅殿」

しかし、肩口にそっと手を添えるが妹紅は身じろぎ一つしない。
聞こえる音といえば己の呼吸と竹林のかすかなざわめき、そして鳥のさえずりといった程度。それらの静寂だけが『妹紅を失った』という実感を慧音の内にゆっくりと充たしていき、続く言葉も見つからず華奢な体に手を添え続けるのみ。
そんな事をしても事態は何も進展しないと理解はできているが、納得しきれない部分もあるのだ。相変わらず涙は浮かばず、込み上げてくる物も感じない。そんな自分に何かうすら寒い物を感じてしまうが、一方でこれは長い長い夢なのではないかという甘い希望もチラリと顔を覗かせては消えていく。

だが、慧音の葛藤をよそに張り詰めた緊張の糸には徐々に切れ目が入りつつあった。
全身の力がゆっくりと抜けていき、落ちる瞼を支える事すら難儀する。
意識が一瞬途切れてはすぐに覚醒し、頬をぺちぺち叩いては安らかな寝顔を一秒でも長く記憶に焼きつける…それが、今自分がすべき事だと考えて。初めて出逢ってから随分な年月を経てきたが、妹紅の寝顔をこんなにもじっくり眺めた事など慧音にとっては初めての事だった。

足先まで届きそうな白銀の髪。

穢れ一つもない白く綺麗な肌。

まだ幼さの残る険のない寝顔。

まるで妹紅の周りだけ時が止まってしまったように思えてくる。見れば見るほど、永きに渡り輝夜を憎んでいたとは思えないほど妹紅の姿は美しく、しかし力を解放させて殺し合いに赴く時の姿を想像してそのギャップに驚かされる。
そしていつもの彼女なら、お互いやり過ぎるほどに殺し合い、すっかり動けなくなったあたりで慧音の救援を待つのだ。
毎回本気で心配する慧音には『どうせ死なないから』と自嘲を見せ、しかし感謝の言葉も忘れず、内心で輝夜との再戦を固く誓う。

そんな日常を飽きる事なく繰り返してきた。

もはや生活の一部として浸透し、慧音でさえそれに慣れつつあった。



だが、これからは……



「お休み、妹紅殿……」

慧音に睡魔の限界が近づいていた。
大きく息を吐き、妹紅の隣に体を横たえる。

これからの事はひと眠りしてから考えよう。
でも、出来るだけ早く気持ちの整理をつけよう。

おぼろげにそんな事を思い浮かべつつ、しかし現実を甘受する覚悟はそう簡単には整わず、夜を否定する朝の光から逃げるように目を閉じる。
程なくして彼女の意識は沈んでいき―――






























眠り過ぎた―――

空腹感で目を覚ました慧音は辺りを見回し、まず最初に思ったのがそれだった。
降り注ぐ白い光はとうに消えうせ、今は橙色の夕日が窓から射し込んできている。肌に触れる空気の冷たさが彼女の一世一代の大寝坊に一層の現実味を持たせ、せめて最低限の家の仕事は済ませようと慧音は未だ半分眠っている体を無理やり起こす。
隣で横たわっている妹紅はやはり目覚めない。ひと眠りすれば長い夢が覚めてくれるのでは、などと未だに心のどこかで考えてもいたがやはりこれは現実であるらしい。昨晩をなかった事にしてしまえば簡単なのだが、そうすれば月人たちが黙っていないであろう事は火を見るより明らかである。
かといって覚悟は未だできず、慧音は妹紅の髪をそっと撫で安らかな寝顔をのぞき込むのみ。そして深い深いため息を一つ吐いた。

「夕餉…かな」

日が落ちてしまっては寺子屋も何もあったものではない。
授業を楽しみにしている(?)子ども達には後日詫びるとして、まずは何か食べない事には始まらない。
もはや遅めの昼食どころか早めの夕食といった所だろう。乱れ髪を適当に梳き、慧音は重い足取りで台所へと向かっていった。



*  *  *  *  *


一から食事を作るのも今の慧音には億劫であった。
心の整理がついていないから何をする気にもなれない、理由は至って明白である。
仕方ないので前日に作った料理の残りと白飯を温め直し、器に盛る。

「………あ」

気がつけば、慧音は二つの茶碗にご飯をよそっていた。
器に盛った野菜の煮つけも一人で食べるには多すぎる。昨晩は妹紅が夕食を摂らなかったので多めに残ってしまったのだが、慧音はいつもの癖で二人分の食事を用意していたのだ。台所には食欲をそそる湯気と匂いが立ち込める。

「…妹紅殿もお腹空いてるよな」

よそったご飯を元に戻す事すら億劫がったわけではない。
せめて、仮初であっても最期になるであろう食事くらいは一緒に食べようと慧音は考えたのだ。
その相手が無言というのが慧音にとっては心苦しい事ではあるが。

「残り物だけど……ごめんな、妹紅殿」


食事を盆に載せ、台所を出る。
窓の外に目をやれば橙に闇色が増し、林立する竹越しに見える空は一部藍色が見え隠れする。
満月からは一夜明けているが、それでも真円に近い形を保った月が山の稜線を登って来るのは時間の問題だ。

「月まで届け、不死の煙……か」

やはり妹紅は火をもって葬送るべきだろうかと慧音は考えていた。
彼女の象徴とも言える鳳凰になぞらえた火でその身を幻想郷に還し、蓬莱の力は月に還す。

だが、霊魂はちゃんと死神に導かれるのだろうか?
そしてそれまで生と死の理から外れて生きてきた彼女は閻魔から如何なる裁きを受けるのだろうか?
永きに渡り苦しみながら生きてきた事で全てを許されるのか。
禁忌中の禁忌である蓬莱の薬に手を出した事を咎められるのか。

今まで妹紅の死という物を考えた事すらない慧音にとってそれを考えるのはある意味一つの難題であったが、今更それを考えようとしても栓なき事。まずは彼女と食事を摂って腹ごしらえをしてからその後の事を考えよう…ため息を吐き、気持ちをほんの少しだけ切り替えて妹紅が居る寝室の襖を開けた。




















「……むっ…?」

寝室に入るなり、不自然な影が慧音の目に飛び込んできた。
違和感を覚えたのは部屋のほぼ中央、ちょうど布団を敷いて妹紅を寝かせている辺りだ。部屋の明かりをまだ入れていなかったので、部屋の中は闇色をさらに増してきていてすぐには目が利かない。
だが、それでも声を発する程度の事はできる。迂闊に部屋に踏み込んで危険な目に遭うよりはマシと、襖の所から声を発する。

「誰か…いるのか?」

馬鹿な事を言ったな―――言いかけたところで慧音は思った。
今、この庵には自分と妹紅しかいない筈なのだ。第三者を招いた記憶はないし、侵入者がいるのなら慧音が気付かないわけがない。
どうせ疲れによる幻覚の一種を見ているに過ぎないんだ、と割り切りつつも、しかしよりにもよって寝室で不可解な物を見てしまってはどうにも気分のいいものではなく、少なくとも影の正体を暴かないわけにはいかない。

「誰だ……何者だ?」

部屋の闇色にもだんだん目が慣れてきて、そこには間違いなく何者かがいると確信するまでに大して時間はかからなかった。
影は布団を敷いたあたりに佇んでいるようである。影の一部が微かに揺らめいているのは髪だろうか、ならば髪の長い人物という事になる……だが影の容姿などはどうでもよく、布団の傍にいるという事は妹紅の近くにいるという事の方が遙かに重要だった。
相手の正体や目的はともかく、万が一妹紅に何かされるわけにもいかない。盆を静かに置き、慧音は意を決して寝室に踏み込んだ。
これの前の話が作品集42にあるそうです。いくらなんでも間隔置きすぎorz

とりあえずは何も言うまい。次で完結となります。
慧音は妹紅に対し、精神的に依存してるくらいがいいなあ…
真面目で且つクーデレなんだけど、少々脆い所があったりなんかするともう!


あと、永琳×慧音とか(ry
0005
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コメント



0.260簡易評価
5.無評価名前が無い程度の能力削除
なんでシリーズものをここでやるのやら・・
8.無評価0005削除
>なんでシリーズものを
拙作だけにとどまらず、他の素晴らしい作品たちも読む事を是非ともお勧めします。
それがいわゆるシリーズものであれば、作家さんが思い描く世界をwktkしながら存分に堪能できると思いますよ。
9.無評価野狐削除
現在過去作から読み進めてますが、えらい間隔があいてるので難航中ですw
とりあえず、冒頭だけ読んだだけでも感触はいい感じなので、点数つきはマタ次回(コメントを着けるときに)に回します(汗
10.60名前が無い程度の能力削除
得点が低いのは前回から間隔が開きすぎだからか。完結編期待してます