「……咲夜の血が飲みたいわ」
「……飲めば?」
時刻は昼前。場所は紅魔館のその横に併設された巨大な本の迷宮。そこに、スカーレットデビルと呼ばれるレミリアと、本の虫の魔法使いパチュリーの二人が紅茶を飲んでいた。
「簡単に言わないで」
「簡単すぎて溜め息さえ出る暇がないわ。直接頼めば、咲夜なら自分の頸動脈を切ってでも血をくれるんじゃない?」
「……さすがにそこまで愚かな子じゃないわよ」
しかし、想像がつかないわけでもないのが恐ろしかった。
「傷つけるのは嫌なの。咲夜には健康でいてもらわないといけないわ」
「……食事に洗濯に清掃に買い出しにと一手に担ってたら、そりゃそうよね」
咲夜が健康を崩したら紅魔館が崩れる。誰かが七割の冗談と三割の本気で言った言葉だが、そうなる可能性は実のところ極めて高い。
それはさておき、美しいものを愛でることを好むレミリアとしては、何も無用に傷を負っては欲しくないのだ。だがそれ以上に、咲夜の血をレミリアは一度も吸ったことがない。舐めたことはあるが、飲んだことはないのだ。それにある種おまじないのような意味をレミリアは感じており、咲夜が自分に血を差し出すことで、今まで普通であった何かが壊れるのではないかということを無意識に恐れているのである。
「ねぇ、パチェ。何か良い案はないかしら?」
「……寝込みを襲うとか……無理よね」
「……狸寝入りを使われると思うのよね」
あれの睡眠というプライベート空間に忍び込むのは、いくら吸血鬼であるレミリアにとっても不可能な香りがした。
「あ、いいこと考えついたわ!」
と、突然レミリアは叫ぶ。子供のように、目を輝かせて。
「……何?」
それを怪訝そうな顔で見守る百年来の友。
「大きな傷を負わず、病気もせず、とても簡単に流れる血があるじゃない」
「何かろくでもない気がしてきたのだけど。それで?」
あまり聞きたくない思いを、美味しい紅茶を飲むことで払拭しようとする。
「鼻血よ」
パチュリーは美味しい紅茶を吐血混じりに吹き出した。一層紅くなった紅茶が、鉄と茶葉の香りを絡ませて図書館を舞う。そしてそれらが、本へとダイブしていく。しかしその水滴が本に触れるより早く、ヘッドスライディングで飛び込んだ小悪魔の布巾が紅茶を飲み干していく。実に見事であった。自らを省みないその飛翔で、小悪魔自身は随分可哀想な吹っ飛び方をして壁に激突したが、恐らく彼女は満足だったであろう。
そして、そんな献身的な小悪魔に目もくれず、二人は会話を続ける。
「……鼻血を啜るなんて、紅魔館主の名が泣くわよ」
「いいのよ。首筋だろうと鼻だろうと、血は血じゃない。それに、咲夜なら鼻の中だって綺麗でしょ」
「……綺麗なんだろうと思うけど、それ以上は紅茶が美味しくなくなるから言わないで」
鉄味の紅茶を啜りながら、パチェは咲夜の鼻腔に思いを馳せて、どこかげんなりとした思いを禁じ得なかった。
「それで、どうやって鼻血を出させるのよ?」
「それを改めて考えるわよ」
「策なしで提案とは良い度胸じゃない」
「建設的な意見だったと言って欲しいわね」
読書と紅茶。その至上の幸福を珍妙に打ち破る友に、若干の頭痛を憶える図書館の主。
「蜘蛛膜下出血をすると鼻血が出るそうよ」
呆れながら、レミリアが少しでも困ると良いなどと考えながらそんなことを言う。
「何なのよ、その『くままくまじゅっけつ』って?」
「……レミィ?」
あんまりの返答に、つい聞き返してしまった。
「はっ、熊悪魔十傑!?」
「自信満々に言わないで。悲しくなるから」
しかも自信満々な回答が、また恐ろしく意味不明である。
「はい、医学大全。これで調べて」
やる気なく、電話帳を凌駕するハードカバーの本を差し出した。重さといい堅さといい、もはや凶器以外の何物でもない。
そんな分厚く巨大な本と格闘することおよそ五分、パチュリーが読書に意識を集中させていると、レミリアがパチュリーの袖を引っ張った。
「ねぇ、パチェ。どこにも『くままくまじゅっけつ』なんて載ってないわよ」
「……ごめんなさい、訂正を忘れてたわ。蜘蛛膜下出血ね」
より深い頭痛を憶えるパチュリーであった。
その後、更に五分という時間が経った頃に、レミリアが叫ぶ。ようやく調べ終わったようである。
「それ、かなりの重傷じゃない!」
「まさか単純なボケでこれほどまでツッコミに時間が掛かるとは思っていなかったの。ごめんなさい、レミィ。そして、あなたはそろそろ本気で色々学んでくれないかしら」
年齢で考えればずっと年上にある友に、パチュリーは本気で授業でもしてやろうかと考えていた。嫌々学ぶであろうレミリアを想像し、若干の優越感に身を震わせながら。
と、不意にパチュリーは自分の開発した薬を思い出す。
「あ、そういえば、鼻血に関しては良い薬があったわね。試してみる?」
鼻血に関して良い薬。あんまりな薬だ。
「どんな薬なの?」
しかし、そんな瑣事を気にすることなく、レミリアはその薬の詳細を問う。
「妄想爆発薬」
「……名前だけで投棄したくなる薬ね」
けれど、薬品名にはさすがのレミリアも顔を歪めた。
しかし、途端パチュリーの目が妖しく光り、パチュリーは矢継ぎ早に説明を紡ぐ。
「この薬の作用は単純明快。飲んだ者の妄想力を強化するわ。どの程度かと言えば、辞書でちょっとエッチな単語を見たり保健体育の授業で教科書を見たりすると興奮しちゃう小学生のような、そんな思春期真っ盛りな頭になってしまうのよ! そんな状態で僅かでも風が吹いたのなら、風になびく布きれが内に秘めた禁断の楽園を僅かに覗かせてしまうような妄想が頭を過ぎり、もう鼻血も止まらないでしょう!」
なかなかのマシンガントークとなった。だが、そのあまりに饒舌なトークに体がついてこなかったようで、パチュリーは口からダバダバと血液を溢れさせる。けれど、そんなものに未練はないのか、あるいは説明に夢中で血に気付いていないのか、パチュリーの衣服は大袈裟なほど紅く染まっていた。前だけ。
「おぉ、所々で言葉の意味が判らないけど、とにかく凄そうじゃない」
レミリアは理解しきれないながら、パチュリーの気迫にただならぬものを感じていた。
また、未だ床に転がっている小悪魔は「そんな薬何に使うんですか!」というツッコミが喉まで出掛けているのを、密かに、けれど必死に堪えていた。
そうして、咲夜の昼食に混入されることが決定しましたとさ。
ちなみに、研究の為と言って咲夜に血液提供をしてもらうという案も思い付いたパチュリーであったが、新薬の実験とレミリアの観察という甘い誘惑に理性が敗北した瞬間から、その案は白紙に戻されていた。
さて、午後。
昼食にそんな劇毒を混入された咲夜は、普段と変わることなく清掃に従事していた。
「ねぇ、パチェ。そんなに変化したようには見えないわよ?」
「おかしいわね。もう効果は出ているハズなのだけど」
そう言ってからハッと、パチュリーは何かを思い付く。そして自分の帽子の中に手を突っ込むと、そこから何かを取り出した。
「レミィ。これを付けて咲夜の前に行きなさい」
その取り出した物を、レミリアに向けてずいっと突き出す。
「……何これ?」
「ネコ耳」
「……なんで?」
「いいから」
「でも」
「いいから」
「というか、なんで帽子の中に?」
「いいから」
会話は言葉のキャッチボールという言葉を根こそぎ否定するかのように、完全に相手の意見を拒絶するコミュニケーション法。それは悪徳セールスのようであった。
そんなパチュリーの押しに負け、レミリアは渋々それを頭に乗せる。そして、パチュリーの指示通りに、咲夜の眼前まで歩み寄って声を掛ける。
「咲夜」
呼ばれたことに気付くと、咲夜は作業を一旦中断してレミリアに向き直る。
「あ、お嬢さ……」
そこまで口にして、硬直する。向き直ろうとしていた体勢も中途半端なままで固まってしまう。その表情一つ変えないフリーズに、レミリアは咲夜が時間を止める感覚の片鱗を味わった気がした。
その後、およそ三十秒経ってから瀟洒なメイド長は再起動を開始する。
「……ま。どうしました?」
何事もなかったかのように動き出す。もしかすると、止まっていたことに気付いていないのかも知れない。
「あぁー……あのね、咲夜」
とにかく前に出ろとしか指示されなかったので、レミリアは若干戸惑う。だが、そこは紅魔館の主。素速く用件を考える。
「今日は天気も良いし、たまには散歩にでも行ってきなさい。仕事ばかりでは休まらないでしょう」
「え? は、はぁ。判りました」
唖然とした顔。というのも、主の意図が読めなかったからだ。しかし、そんな顔はすぐに普段の顔に戻し、普段と変わらぬ口調で返事をする。
「それでは、この仕事が済みましたら少しばかり散歩に出てきます」
「そうしなさい」
そう言うと、レミリアは背を向けてパチュリーの方向へ歩み去っていく。
しばらくして道を曲がると、レミリアはパチュリーに対して文句を言った。
「何の変化もないじゃない!」
「おかしいわね……刺激が足りなかったのかしら」
普通に掃除をする咲夜の背中をこっそりと眺めつつ、二人はそんな会話をする。
二人は気付いていない。咲夜の鼻から、一筋の血が流れ落ちていたことに。
『……な、何故お嬢様はあんなものを……ではなく、何故私はそのお姿で鼻血なんて』
瀟洒なメイド長は、自分自身への困惑を抱き抱えて悶々としていた。表情に出さなかったのはさすがである。
だが、そんな咲夜に新たなる刺客をパチュリーは画策する。
「そうだわ、レミィ。これを着なさい」
そう言いながら、またも帽子の中から何かを取りだして、ずずいっとレミリアに突き出す。
「……これって、メイドの服?」
「そうよ」
「なんでこんなものを私が」
「いいから」
「良くないわよ! 私は紅魔館の主」
「いいから」
「だ、だって。私は紅魔館の」
「いいから」
「紅魔館の」
「いいから」
何だか、パチュリーに勝てない気がしてきたレミリアだった。
仕方なく、レミリアはパチュリーの用意した何故かサイズがピッタリのメイド服に身を包む。
「良し、行きなさいレミィ。そして、思う存分に咲夜の血潮を堪能してきなさい」
「……うぅ、なんか屈辱的」
やや涙をこぼしつつ、レミリアは再び咲夜の元へと向かった。
今度は、レミリアが声を掛ける前に咲夜が気付く。
「あら、見かけないメイ……」
衣服で誤解をして、顔で理解をする。そして、またも咲夜は硬直をした。
「……どうしました、お嬢様」
今度は先程より随分と早い再起動であったが、顔の硬直が完全には取れていない。
「あ、その……」
今回レミリアに与えられた課題は、咲夜を「ご主人様」と呼ぶものであった。だが……
『そんなことできるわけないじゃない!』
ここに来て、この時になって、初めてレミリアはそんな思いに気付いた。
「お嬢様?」
ワナワナと震えて葛藤しているレミリアに近付き、咲夜は首を傾げる。と同時に、胸の中に去来する言いようのない思い。
『メイド……主なのに、メイド……主でありながら、誰かに甲斐甲斐しい世話を焼く』
突然、咲夜の顔に設置された小高い山のトンネルから、二筋の水流が溢れる。
「あっ」
それに気付き、笑みを浮かべるレミリア。血を流させることが出来た喜びと、ご主人様なんて言葉を口にしないで済んだ安堵からである。
「くっ!」
一方、集音マイクと録音機を構えて、レミリアの「ご主人様」という甘美な空気振動を刻み込んでは後生大事にしようと思っていたパチュリーは、悔しげに歯を食いしばっていた。
「咲夜、血が」
そう言いつつ、咲夜の顔を舐めようとする。が、それよりも先に、咲夜がレミリアに近付くとギュッとレミリアを抱き締めた。
「……え?」
どうして抱き締められているのか判らないレミリアは、血を舐め損ねている現状に気付くが、咲夜の挙動が理解できずに反応に困っていた。
咲夜はというと、自分でさえ正体の判らない情動に突き動かされ、それを堪える為にギュッと主を抱き締めていたのである。
そのまま一分が過ぎた頃に「申し訳ありませんでした」と詫びて、咲夜は去っていってしまった。残されたレミリアは、ぽつーんと立ち尽くしていた。
なお、咲夜が歩み去ったのとは逆の道の角で、計画の続行を感じたパチュリーがガッツポーズを決めていた。その気合いに、横に控えていた小悪魔がビクリと震えた。
その後、二人は紅魔館の廊下で作戦会議に移る。といっても、会議とは名ばかりであるが。
「これを着なさい」
またも帽子から取り出され、ずずずいっと突き出される衣服。レミリアは、何故魔法使いが帽子を被っているのかを理解した気がした。気がしただけ。
「……ねぇ、パチェ。これって……」
レミリアが広げたのは、紅と白の目出度い衣装。
「博麗の巫女服、レミィサイズ」
「……何時の間にこんなものを」
「昨日、小悪魔が徹夜で。こんなにもすぐ着せられる機会が来て、感無量だわ」
よく見れば、小悪魔の目の下に小さなくまができていた。
「……それで、なんで巫女服を?」
「いいから」
「だ、だって」
「いいから」
「でも」
「いいから」
「……判りました」
すっかり低姿勢になってしまった稀少な吸血鬼がここに。
いくらなんでも廊下で着替えるわけにはいかず、パチュリーをしっかりと隔離してから、レミリアは自室で着替えることとなった。同性であり旧知の朋友でありながら隔離されたパチュリーの無念さは、西行妖を満開にすることのできなかった時の妖夢のそれを遙かに上回っていた。ただ、その感情の清らかさという部分では多いに下回っていたのは言うまでもない。
血涙よ流れるのなら流れ落ちろ、とばかりに四つん這いになっていたパチュリーであったが、レミリアの部屋のドアが軋む音を聞くや、強力な魔法と非力な肉体とを駆使して飛び起きる。
「……着たわよ」
心底嫌そうな顔をしながらも、キチンと小悪魔の手伝いもあって着こなしたレミリア。
「ナイスよ。思った以上にナイスな恰好だわ。特に剥き出しになった肩の部分なんて最高」
鼻血を溢しながらサムズアップを決めるパチュリー。
「パチェが鼻血出してどうするのよ」
「違うわよレミィ。私が鼻血を出すレベルということは、咲夜も鼻血を出すに違いない。そうは思わない?」
「……判った。あの薬、頭の中がパチェに似る薬なのね」
「失礼なことを言うわね」
魔法で鼻血を止めつつ、それほど不満という表情もせずに口だけで不満を語った。
さて、それからすぐに彼女らは咲夜の元へと向かう。レミリアにすれば、三度目の正直という意気込みだ。
「咲夜」
咲夜を見つけ、すぐさまレミリアは声を掛ける。そしてパチュリーはと言うと、相変わらず廊下の角で集音装置を装備しつつ待機をしている。
「はい、なんですか?」
ほんの少しだけビクリと肩を震わせてから振り返る。先程までの失態と、今日のレミリアの七変化っぷりに怯えているのだ。
ちなみに、失態とは抱き付いてしまったことを指す。
振り返ったそこに立っていた吸血巫女に、咲夜は過剰なほど全身を震わせた。
「ぴっ!?」
そして、驚きから奇声を漏らした。
「ぴっ?」
「……お、お嬢様、そのお姿はいったい?」
奇声に首を傾げるレミリアを見て、ハッと正気に戻り自らの奇行を流してしまおうとするメイド長。
「あぁ、これ? パチュリーに着せられているのよ。どう思う?」
「良くお似合いだと思います」
感情の薄い、仮面の表情と言葉。けれど、内心はマグマの様に煮えたぎっていた。
『あ、あぁ……吸血鬼が、巫女。神に唾する存在が、神に仕える恰好を……』
『だ、駄目よ、落ち着きなさい咲夜。たかが衣装。そう、あれは信仰とはなんら関係のない、たかが衣装じゃない』
『衣装……だけど、だけどお嬢様がかわいい!』
『何考えてるの! 従者は従う者であって、個人的な感情で動く者じゃないの!』
理性と衝動の葛藤が起こる。ちなみにこの葛藤、およそ五秒間の出来事である。
「似合うかしら」
「えぇ。本来はミスマッチなのでしょうが、お嬢様は何を着ても似合いますね。羨ましいです」
「あら、咲夜だって何でも似合うわよ」
「いえ、私なんて」
深層の思考と分断された表層の思考が会話を続けている間も、深層での論議は続いている。だが、パチュリーの薬の仕業だろう、深層で普段は大人しく猫を被っている衝動の主張が今日は激しく、議会はプリズムリバー三姉妹の様にまとまりに欠けている。
なお、議会の白熱化に伴い、衝動派、理性派はそれぞれ複数名が主張をし合う状態になり、思考の分裂によって知能指数はぐんぐんと下がるという悪循環を生み出していた。
『あぁ、見て! あれ! 可愛すぎるわ!』
『まったくだわ。ネコ耳やメイド服も凶器だったけど、これはもう核爆弾ね』
『駄目よあなたたち、今は堪えなさい! さっきの失態を忘れたの!』
『そうは言っても、この衝動に堪えられるの!?』
『堪えるのではなく殺しなさい、そんな感情は!』
『そう、感情なんて抱かなければ良い、それだけなのよ……』
『でも、お嬢様の肩が……腕が、腋が、鎖骨が!』
『駄目、それ以上は言わないで!』
『抱き締めたいと思わないの! 思うさま、抱き締めてしまいたいと思わないの! あなた、それでも咲夜なの!』
『異議あり! あなたは十六夜咲夜を誤解している!』
『否、あなたこそ誤認をしているわ。十六夜咲夜は本来、お嬢様萌えなのよ!』
『『『『『な、なんだってぇ!?』』』』』
と、現在非常に頭の悪い状況になっておりました。全部パチュリーの薬の所為ですとも。
けれど、こんな状況にあって咲夜は普段通りの笑顔でレミリアに対応している。そしてそれがレミリアにとっては不満であることに、さすがの咲夜も気付くことが出来なかった。
「そ、それでは、私はこれで」
「あ、待ちなさい咲夜」
脱兎の如く逃げ去りたい咲夜は礼をして去ろうとしたが、その手を取ってレミリアが咲夜を止める。
そう、手を取って。
『手がぁ! 手がぁ!』
『あぁ、お嬢様の体温が! ちょっと冷たいけど温かいわ!』
『お、落ち着きなさい!』
『あぁ、もう駄目よっ!』
『堪えなさい!』
『無理です!』
思考が白んでいく。深層の思考が、衝動派によって制圧された。
次の瞬間、バサッと、豪快に鼻血が空を飛散する。
「おぉ」
それを驚きと共に見上げながら、吹き出した血を舐めようと僅かに舌を伸ばす。が、次の瞬間、空中から血は消え失せていた。時を止めた咲夜が、手にしていたハンドタオルで吸収し尽くしたのだ。
「え、あ……」
その早業に、レミリアは少しだけ固まってしまう。
「申し訳ありませんお嬢様。今日は少し体調が良くないので、まだ仕事の途中ではありますが、少しだけ外出をしてきます」
言うが早いか、咲夜は時を止めてレミリアの前から姿を消した。
それにしばらくレミリアが唖然としていると、何時の間にやらパチュリーが横に立っていた。
「パチェ。一つだけ判ったわ」
「何かしらレミィ」
「正面からは駄目ね」
「その様ね」
現在この場で考慮すべき点がずれている気がする者は、発言を必死に堪える小悪魔だけであった。
「……おかしいわ。私、どうしちゃったのかしら」
紅魔館の敷地を門に向かい歩みながら、咲夜は自分の異変に首を傾げていた。
「あれ? どうしたんですか、咲夜さん。暗い顔して」
と、そこで門番の美鈴と遭遇する。遭遇しないことの方が問題なので、正しいエンカウントである。
「あ、美鈴。何か調子が悪くてね。少し散歩に行ってくるわ」
「え、体調が良くないんですか? 漢方でも煎じましょうか?」
魅力的な提案ではあったが、薬を嫌う咲夜としてその案は受け入れがたかった。
「ん。ありがとう。でもいいわ。散歩できっと治ると思うか……ら」
咲夜の視線が、美鈴の顔からいくらか下方向へとシフトしていく。辿り着くのは、幻想郷でも稀な山脈。それは七大陸最高峰の一つと呼んでも差し支えないであろうほどのもの。
『何故、武闘家でこれほどのものが育つのか。そして、どうしてこれほど弾力があるのだろうか』
目の前で動く美鈴に合わせ揺れる蠱惑的な高山を見て、いつも感じている疑問と少しばかりの嫉妬心を感じる。が、それに今日はまたしてもイレギュラーの思考が混じる。
『……良い乳してるじゃない』
『落ち着け私』
思考の一部の知性と品格が極度に劣化していた。
「……大丈夫ですか、顔色悪いですけど」
「え、あ、あぁ。大丈夫よ。心配しないで」
美鈴が動き、乳が揺れる。
『揺れているわよ咲夜!』
『本当ね咲夜!』
『黙りなさい咲夜たち!』
同姓同名者だけの議会は混沌としていた。
ツー。鼻血が伝う。
「あ、咲夜さん、血が」
「え、あ、あれ?」
表層と深層が完全に分断されているので、表層の咲夜は深層の葛藤を知らなかったりする。
咲夜が鼻の付け根を押さえて血を止めると、唇に届こうとする血を美鈴が手にしていたタオルで拭う。
「……なんでかしら。今日は随分と血が出るのよね」
「部屋で休んでた方が良いんじゃないですか?」
そうしたいのは山々なのだが、屋敷にいると仕事がしたくなってしまう。そして、何故か今日に限ってやたらと衣装を替え続けているレミリアに合い、また調子を崩してしまうことを恐れていた。
「……うーん。でも少し散歩には行ってくるわ」
「そうですか……あの、どうしてもしんどくなったら呼んでください。すぐに駆けつけますから」
「えぇ。ありがとう」
軽い礼を口にしてから、咲夜は人里の方へと歩んでいった。
それを見守る、影二つ。小悪魔と、何故か今も巫女服のレミリアである。
現在、パチュリーは自室にて休養を取っている。というのも、無駄に興奮した頭と無意味に張り切った肉体が、本来の病弱さによって限界を迎えたのである。
さて、咲夜と美鈴とのやりとりを盗み見ていたレミリアは、自分の胸に広がる平原を眺める。
「………」
次いで、小悪魔の胸にそそり立つ高山を見やる。
そして、おもむろに鷲掴む。
「ひぁ!?」
突然のセクハラに飛び退く小悪魔。
「……ちょっと欲しくなってきたわ」
乳のボリュームに悩む、悩み多き年頃の少女であった。見た目だけ。
こうして、やって参りました人の里。
「さて。慧音は家かしら?」
子供たちが駆け回っているのを見て、本日の寺小屋は休みと判断したのだ。
何故慧音を訪ねるのかと言えば、この人里への道中で、咲夜は知識人の慧音ならば自分の様態についてを知っているかも知れないと判断したのである。
「この辺りだったわよね」
キョロキョロとしながら、人の里を歩いていく。だが、長屋というものはそれぞれに特徴があまりないので、咲夜には憶えにくかった。
「あ、咲夜お姉ちゃんだ」
「あ、本当だ」
と、突然わらわらと集まる子供たち。その数五人。
「どうしたの? 咲夜お姉ちゃん」
「あ、慧音に用事があって来たんだけど……そうだ、案内してくれない?」
「うん、いいよ」
笑顔の子供たちに先導され、咲夜は慧音の家へと向かっていた。
鼻の奥に、疼く血液を感じながら。
『お姉ちゃんだって、お姉ちゃんだって!』
『わーわーわー!』
『かーわーいーいー!』
『黙らっしゃい、そこの姦しい三人!』
深層思考の分裂が深刻な状況になってきていた。
「ここだよ」
「慧音先生ぇ、咲夜お姉ちゃんが来たよぉ」
案内を終え、慧音にその来客を伝えると、子供らは満足そうに笑う。その全員の頭を咲夜は優しく撫で、ありがとうと礼を述べる。すると、子供らは集まった時と同じくらい素速く散っていった。
「珍しい客だな。どうし……たっ!?」
「……ごめんなさい」
子供が去った直後、咲夜の鼻から滝が生まれた。すぐに押さえたつもりだが、慧音の家の玄関に小さな池を作ってしまう。
とりあえず慧音が玄関の掃除をしてから、咲夜は畳の上で横にさせてもらった。枕がないということで、慧音の膝枕である。
『ひーざーまーくーらー!』
『叫ばない!』
『あぁ、柔らかいわ』
『そうねぇ』
脳内咲夜たちの知能レベルが目に見えて下がっていく。また、知能レベルの低い割合が増えていく。つまり、どうしようもなくなってきていた。
「……なるほど。つまり、何故か鼻血が出るわけか」
「えぇ。何か、こういう病気知っていたりするかしら?」
「んー。心当たりがないな」
思案する顔を作り、うんうんと唸る。
横になっている咲夜は流れる鼻血が鼻腔から喉に流れ、血の味を感じていた。だが、この鼻血はいつまで経っても治まらない。それというのも、咲夜の脳内議会が膝枕の位置から見上げる慧音の小高い二つの山に対して熱い議論を交わしていたことが原因に他ならない。
「永琳に薬をもらいにいってはどうだ?」
「……薬苦手なのよ」
「うむ……なら、巫女に祓ってもらったらどうだ。もしかしたら、良くないものが憑いているのかも知れない」
「んー。そういうのじゃないと思うけど……でも、専門家に見てもらうと違うかも知れないわね」
そう応えると、咲夜は鼻を押さえて立ち上がり、すぐに神社へと向かうことを決める。
「頭の怪我という可能性もないわけではないから、不調が出たら、薬が嫌だろうが永琳の元へ向かえよ。もしそれでも駄々をこねたら、強引に引きずってでも連れていくぞ」
「……判ったわよ。これ以上体で不調を感じたら、行ってみることにするわ」
真剣に心配されて、悪い気はしない咲夜である。
「それじゃ、ありがとうね」
「何。今日はもてなせなくて悪かったな。今度来た時には茶でも用意しよう。またな」
そうして、咲夜は慧音の家を出て、神社へと向かっていった。
「どいつもこいつも、デカいわね」
「……胸の話ですか?」
「そうよ……あなたもデカいわよね」
「あう、睨まないでください……」
「じー……」
「あ、あぅ……」
咲夜が胸に興味を示している様子を見て、急に周囲の胸状況に感心が向き始めたレミリアであった。
「それで、ここに来たと」
「そうなのよ」
鼻血を溢しながら正座をする咲夜と、向かい合う霊夢。なお、溢れ続ける鼻血を押さえることを咲夜は放棄して、現在は霊夢の用意した洗面器に鼻血を溜めていた。だが、いくらなんでも流し過ぎなので、顔からは随分と血の気が引いている。
この鼻血は、霊夢の巫女服を見てレミリアを思い出したことによるものである。
「……別にお祓いしてもいいけど、特になにも憑いていないわよ」
「あ。やっぱり、憑いてないか」
実は、咲夜は結構霊感が強いので、そういうのではない気はしていた。
「特にそういう感じはしてないんでしょ」
「えぇ。でも、もしかしたらとは思ったんだけど」
「安静にするしかないわよ。自分の部屋で、今日は寝てなさい」
「うぅ……」
仕事がしたくてしたくて仕方がないワーキング中毒者がここに。
「休むのも仕事でしょ。主に心配掛けたくないのなら」
「それもそうよね……」
真剣な表情の二人だが、流れ落ちていく鼻血とそれを受ける洗面器がそれを台無しにしていた。
「邪魔したわね。それじゃ、今日は帰って眠ることにするわ」
「そうしなさい」
「ありがとうね、霊夢」
「お大事にね、咲夜」
こうして、二人は別れた。
別れた後、霊夢はハッと気付く。
「……この血、どうしよう」
洗面器の中の咲夜の血のことである。
悩んだ末、霊夢は洗面器の血をおもむろに山に撒いた。
「良い栄養になれ」
血の臭いで妖怪が来るかもしれないなどということは、深く考えない巫女であった。
「あぁ、あれが欲しかったのに!」
「だ、駄目ですよレミリア様! もう土や木が吸っちゃってますから、もう舐めてはいけません!」
咲夜監視隊は、隊長の若干の暴走を隊員が必死で止めるという事態に陥っていたりする。
「あ、おかえりなさい咲夜さん」
「ただいま、美鈴」
原因不明の鼻血がまた再発してしまわぬよう、微妙に目線は逸らす。
「……大丈夫ですか。随分と青い顔をしてますけど」
「大丈夫、大丈夫だから。でも、今日はもう眠るわ」
「あ、そうですか。良かったです」
そう言って、美鈴はにこりと笑う。
「それじゃ、引き続いてがんばってね」
「はい! それはもう、咲夜さんの分も!」
そんな美鈴に、咲夜も柔らかい笑みを返して、紅魔館の中へと戻っていった。
そしてその紅魔館の内部、図書館では、咲夜よりも先に戻ったレミリアと、小悪魔の報告を聞いたパチュリーが相談をしていた。現在、パチュリーはかなり復活していたが、薬による一時的な回復であった。
「判ったわよ、レミリア。咲夜を一撃で打ちのめす方法が」
「……どうするのよ」
「ここに書かれている言葉を、あなたがその恰好で口にすれば、それだけで充分よ」
その恰好とは、勿論巫女服である。まだ着替えていなかった。
「……なっ! こ、これを私が咲夜に!?」
「そうよ、それで万事解決だわ」
「でも、正面からだと咲夜がすぐに掃除を」
「いいから」
「判ったわ」
レミリアは、パチュリーとの討論の無意味さを学んだ。
「それじゃ、これを口にすれば私は咲夜の血が飲めるのね」
「えぇ、思うままに」
その魅力的な言葉に、レミリアは闘志を燃やす。燃やし所を間違えた闘志ほど厄介なものもない。そう思った小悪魔であった。
それから、レミリアは咲夜の元へと歩んでいく。咲夜は疲労困憊で、フラリフラリと青い顔で揺れながら歩いていた。
「咲夜」
ビクッ! と、実に大袈裟に咲夜が飛び上がる。
「お、お嬢様!」
引き攣った表情。だが、そんなことにレミリアは気付いていない。血を飲めるということが、目を曇らせるほどに楽しみだったのだ。
言うべき言葉を心で噛み締め、レミリアは大きく深呼吸をする。
「えっと、その……」
もじもじとする。
『わー、わー!』
『かわいいよ、かわいいよ!』
鼻血が疼く。
『お嬢様は何かを言う気だから、冷静に、落ち着きなさい』
『駄目よ、もじもじしたお嬢様がかわいすぎて!』
そんな咲夜の思考を知らず、レミリアは言い辛そうにしばらくもじもじとしてから、キッと咲夜の方を向く。
「さ、咲夜お姉ちゃん」
『……あぁ』
咲夜の鼻から、大輪のバラが咲いた。
「……で、この事態は何なのよ?」
咲夜を心配して護符を渡して卵酒でも飲まそうと紅魔館に来た霊夢の前に広がっていた光景は、恐ろしい量の鼻血をまき散らし、けれどどこか満足そうに微笑んで気絶している咲夜。そして、その咲夜の鼻をペロペロと舐めている巫女服のレミリア。また、ここに来る途中に、廊下で重そうな機械に囲まれて咲夜と同様に血の池に沈んでいたパチュリー。
現状を把握することはほぼ不可能であった。
「悪くないわ」
咲夜の鼻を執拗に舐めるレミリアが、そんな言葉を漏らす。
「……ねぇ、霊夢。状況判った?」
「……無理言わないで」
心配そうな美鈴が霊夢の袖を引く。
状況を完全に把握する小悪魔はパチュリーの救助活動に忙しく、当事者の一人であるレミリアは咲夜の血を飲むことに夢中で話を聞いてくれない。
「……ねぇ、美鈴。ここは小悪魔とレミリアに任せて、外でお茶しない?」
「……咲夜さんが心配なのですが、どうしようもないのでそうします」
こうして、二人は門の周辺で和茶を飲むこととなった。
紅魔館が、珍しくその名の通り紅に満ちた日であった。
美鈴もまともな扱いなのが嬉しい作品ですた
ギャグでありながら鼻血が噴出する原因がちゃんと設定されてて良い感じ。こういう細かい配慮には好感が持てます
紅魔館勢+霊夢という自分の最も好きな組み合わせも良かった(慧音もいるけどw)
あなたの作品は良質ですね。
文章も読みやすいし、細かい所まで練られてて面白かったです。
しかし咲夜さん、もう出血多量で危ないんじゃないか?w
いや、他のもクリティカルものですがw
しかし・・・この薬の効果はいつまで続くのでしょうか?
それによっては出血多量で咲夜さんが死んでしまいます!w
咲夜の鼻を舐めているレミリアを想像してちょっとシュールだなぁ・・・と。(苦笑)
いやはや、楽しませてもらいました。次回も期待しています。
誤字を見つけたので報告です。
>咲夜と動揺に血の池に沈んでいたパチュリー
正しくは同様ですね。
間違いを修正しました。ありがとうございます。
良かった、これはもしかすると評価されないかと思っていたので、思いの外、というか想定外の高評価で恐縮します。
読んでくださった皆さん、ありがとうございます。
ここで、鼻血と考えるレミリア様は、間違いなく品性○
ぱちゅりーは品性×なほうの想像をしていたはず
後半の暴走からして間違いない
僕も品性×!!パチェとおそろいです!!
レバニラ尽くし増し増しでwwww
しかし俺もコスプレしたレミリア見てええええ
いい作品でした。
パチェと小悪魔がいいキャラしてんなぁ。
なにこれ凄すぎでしょどっからつっこうんだらいいかマジわかんねぇ~www
……うん、決めた。
パチェ、自重しろwww
けーね先生の膝枕とかうらやましすぎますな…
次は魔理沙を吸血しようと躍起になるフランちゃんですね解ります
あと脳内咲夜さんが面白いw
最後にパチュリー先生、自重してくださいw
レミリアとパチュリーのやりとりがよかったですね、これも全て血のため!
というか、それ以上血が出ると咲夜さん死んじゃうww