※傾注
血とか苦手な人は、ブラウザの戻るをクリックするか、BackSpaceを叩くの推奨です。
オリキャラものに分類すべきかもしれません。
殺し切れない微かな着地音は、廊下に敷かれた絨毯が吸収してくれたようだ。
ほんの数歩先には、こちらに気付かず巡回を続ける甲冑姿の衛士の背中。
するり、と。
首元を滑る様に刃を走らせた。
目の前の其れから奇妙な声が漏れ、虚ろな瞳がこちらを向く。
何処を向いているのかも定かでは無い視線に、やはり正気を失っているのだな、などと奇妙な感慨を覚えた。
侵入者の姿を捉え、臨戦態勢に入ろうとする目の前の其れ。
身に纏った甲冑が音を立て、全身に力を張り巡らせようとしているのが見て取れる。
一拍。
真っ黒な血飛沫が上がる。
滑らせた刃は、首の側部の外頚動脈を切り裂いていた。
『常人』にならば、それだけでも凄まじい勢いで血が吹き出るもののだが、『彼ら』は、平常時には余計な消耗を抑えるために、その血流は停止していると言っていいほどに緩い。故に、どれだけ太い動脈を掻っ切ろうとも血が噴出するような事はない。
そして、痛覚が果てしなく鈍化しているがために自らの欠損に気付かず、いざその必要が出た際、躊躇う事も無く己が血をを躍動させてしまう。
まさしく目の前の様な、常軌を逸する勢いで噴出するまでに。
目の前の其れの動きが止まる。
腕をもごうが、胴体を引き千切ろうが活動し続ける『彼ら』ではあるが、血を失う事を極端に避ける。
血は彼らの生命そのもの。
血が意思を持って体躯を駆け抜け、脳ではなく血の命令で筋肉は活動する。
血を失う事は即ち死である。
故に。
血飛沫を通り越して血煙とさえ呼べるほどに、盛大に血が噴出する事態は何よりもまずは優先して対処しなければ問題である。
目の前の其れが血を塞き止めようと、動きも止める。
瞬き一つほどの僅かな硬直。
狙うには十分な隙であった。
左手に構えるは、荒く削られた無骨な樹木で出来た杭。
2メートル近い距離を一歩で詰め、左胸に押し当てた。
ガシャン、と胸元の甲冑が小さく音を立てる。
金属の甲冑だ。普通に考えれば、木製の杭などで打ち抜ける訳が無い。
だが。
右手のナイフの柄で杭を打ちつけた瞬間。
大量の爆薬でも破裂したかのような轟音と共に、目の前の其れが後方に吹き飛んでいった。
退魔の念の元聖別され、何十もの法術処理をほどこされた其の白木の杭は、見た目には矮小でもその威力は破城槌に匹敵する。
圧倒的な威力をもって、甲冑を突き破り、その中に隠れていた心の臓を欠片も残さず吹き飛ばしていた。
グシャリ、と。
例えるなら熟れた果実が踏み潰されるかのような音を立てて、其れが壁面に叩きつけられた。
土は土に。
灰は灰に。
塵は塵に。
すでに人では無い其れは、絶命を持って灰塵に帰す。
ずるり、と。音を立てて頭部が落ち、床にぶつかると、白い灰となって四散した。
周囲の気配を探り、伏兵に注意しながら、構えを解く。
音を立てすぎたか、と一瞬考え。
しかし、開戦の合図にはちょうどいいかもしれないと、同時に思う。
『少女』は、返り血で朱に染まった頬をぬぐい、奥へと歩を進める。
さぁ、時代遅れの狩を始めよう。
吸血鬼、と呼ばれる者がいる。
曰く、悪魔。
曰く、夜の王。
曰く、不死なる者。
人間の血を啜り、人より強力な法を行使し、人には不可能な術を行使する。
四肢が千切れようと修復し、身を焼かれ灰になろうともそこから再生すると伝えらる魔性。
その吸血鬼が住むとされる館である。
紅い、というのが遠見でのその館の第一印象で、その思いは内部に入ってから一層顕著なものになった。
回廊には真赤な絨毯が敷かれ、壁や天井などの意匠はいずれも血を絞って固めたかのような深紅の装飾。
悪趣味とさえ言える内装ではあるが、その一つ一つは一級品のようだ。
踏みしめた絨毯は足跡を残さず、壁面に添えつけられた燭台は錆一つ浮いていない。
長年手入れなどされていないのであろう。積もった埃は厚く、張り巡らされた蜘蛛の巣は幾多ではあるが、素人目にも優れていると知れる。
内装の質は、この館が如何に栄華を誇っていたかを指し示し。そして同時に、放逐された現状が、どれだけ落ちぶれたのかを物語っていた。
そんな中を『少女』は歩いていく。
少女、である。
年の割りには背丈が高く、年の割には体の起伏がまるで無いため少年と間違われる事は少なく無いが、少女である。
手入れさえすれば美しい光沢を持つであろうアッシュブロンドは、日ごろの雑な扱いと、ざんばらに切り分けられているせいで、白髪のようですらある。
ただひたすらに鍛えた無駄の無い肉体を包むは、鞣革の黒装束。
手には鈍く輝く一振りの刃。
遠目に見て、彼女の性別を言い当てるのは不可能であるかもしれない。
少女は探索を続けながら、奇妙な展開を訝しんでいた。
敵が少ない。
探索をはじめておおよそ半刻といったところだろうか。
館の3割もまだ回っていないはずではあるが、あまりにも敵と遭遇する機会が少なすぎる。
侵入の際に倒した一体と、巡回中と思しき衛士が二体。
いずれも苦戦と呼ぶほどの苦戦もしなかった。
夜の王と呼ばれる者の住居とは言えこんなものなのか。
軽い失望にも似た感傷を抱きながら廊下を進んでいると、10メートル程先の曲がり角から、衛士が姿を見せた。
長大な槍を持った、目測では身長2メートルはあろうかという巨漢である。
少女の姿を目に留めると、一瞬目を見開いて動きを止めてから、戦闘態勢に入る。
手に持ったナイフで切りかかるには、余りに遠い距離。
少女は駆け出しながら、左手で短刀を引き抜いた。
その数、一挙動にて3つ。
腕を振り上げるようにして2本を放ち、返す様に降ろす腕でさらにもう1本を投げつける。
ほぼ同時に着弾する一投目、二投目に対し、わずかに時間を空けて三投目が到達する変則攻撃。
必殺と呼ぶほど優れた攻撃手段ではない。
槍を構えた衛兵に容易く払いのけられてしまう。
だが。
ただの投擲より確実に、受ける側は意識をゼロコンマ何秒かを多く迎撃に回す事になる。
そして、その稼いだゼロコンマ数秒で少女は、槍にとって最も迎撃に適した間合いを駆け抜け、ナイフに有利な密着戦闘に持ち込んだ。
相手が甲冑に身を包んでいる以上、ナイフで狙える箇所は決して多くは無い。
甲冑の隙間か、あるいはむき出しになっている顔面か。
しかし、相手は人の形にして、人に非ざる魔性。
甲冑の隙間から刃を突き刺し、臓器の一つ、二つを潰そうとも効果が高いとは言い難い。
やはり、狙うならば其れらにとって、唯一致命となりえる血管──剥き出しになっている首筋しかない。
槍を構えなおす暇を与えず、体当たりで体勢を崩す。
頭4つ分は背の高い相手の首筋を狙うのは非常に難しい。
転ばせる事が最良なのだが、甲冑の分も合わせると3倍以上の質量差があるとなると、体当たりだけでは、どれだけの勢いでぶつかろうとも難しい。
だから足を狙う。
上体に身体をぶつけて揺らし、傾いた所で足を払う。
重量があるが故に一度傾げば、立て直すのは難しい。
もつれ合うように転倒させながら、首筋を狙う。
が。
有利な間合いを容易く抜けられ、構える間もなく転ばされようとされている、常人ならば混乱を極めるこの状況において。
その衛兵は極めて冷静に、無手の左手でこちらの右手首を狙ってきた。
掴まれれば最後、人外の握力の前には少女の手首なぞ、それこそ花を摘むほどの労力も要さず圧し折る事ができるだろう。
危険、と判断し少女は狙いを首筋から向かいくる左手を切り払う事に切り替える。
金属同士がぶつかり合う鈍い音がした。
続いて、大重量の甲冑が倒れこむ騒音と、それに紛れてわずかに離れた場所で少女の着地音。
狙い通りにはいかなかったが、転ばせる事には成功した。
右手のナイフを捨て、投擲用の短刀を両手に持てるだけ引き抜いて、次々と投げつける。
大部分は甲冑に防がれ、本命の顔面部位への投擲は衛兵の手甲によってはじかれてしまう。
が。
槍を手放させ、両手を顔面部位の防御に回させる事ができれば十分だった。
両手の短刀が尽き、次に引き抜いたのはナイフではなく、白木の杭。
顔面の防御に集中し、視界が遮られていた衛兵はその行動へ反応できない。
構え、倒れた衛兵の胸元に叩きつける。
轟音。
解放された退魔の概念は、衛兵の心臓を突き破り、床面へと縫いつけた。
辛勝、と言った所だろうか。
少女は、衛士が灰になって崩れ落ちる様を見届けながら溜息をついた。
単純な身体能力、取り分け筋力という観点で見れば比べるべくも無い能力の差のある其れらとの戦闘においては、迎撃の機会を与えるだけで少女にとっては危険だ。
数秒間も密着状態を作る事になるのは、それだけで死活に関わる。
不意を付き、迎撃の暇を与えず、一方的に息の根を止めるのが彼女にとっての戦闘である。
周囲に散らばったナイフのうち、まだ使い物になりそうな物を回収する。
と。
パチ、パチ、パチと。
乾いた。それは例えるなら幼子が手を叩くような、小さい拍手が響いてきた。
「……大したものね」
聞こえてきた声はまだ幼い、『少女』よりもずっと幼い少女のものだった。
「無駄無く。確実に。ただただ殺す事だけを追求した技ね。迷いの無い殺意。そこまで研ぎ澄ますと美しいとさえ感じるわ」
カツリ、カツリ、と小さな足音。
見通せない闇の奥からその声は響いてくる。
「例えるならば、鍛え抜いた抜身の刃。装飾の一つも無い、ただ殺す事だけを追及した凶刃」
天井の採光窓から月明かりが差し込み、その声の主を照らす。
「そんなとこかしら? 大多数がくだらないとは言え、時としてこうした者が現れるから人間とは興味深いわね」
その姿は少女というよりは幼女と言ったほうが適切かもしれない。
まだ幼いと言って良い年齢の『少女』と比しても、さらに小柄で、一目で年下とわかる。
月光に映える色素の薄い髪。
艶やかな薄紅色のドレス。
そして、背には蝙蝠の翼。
「吸血鬼……」
「ええ、そうよ、侵入者。久しぶりのお客様だもの、ようこそとでも言うべきなのかしらね」
目の前の吸血鬼はそう返して、クスクスと笑う。
そして、こちらを見た。
深く、昏い、血の色をした瞳。
その眼を見た瞬間、身体の自由を奪うほどの強い感情が背筋を走った。
それは、恐怖。
衰退し、追いやられた吸血鬼なぞ、と。高を括っていた。
だが、目の前の其れは一体なんだ。
見た目は非力な幼女でも、肌越しに感じる圧倒的な魔の気配。
心臓に多数の針にでも突付かれてるかのような、呼吸すら忘れるほどの緊張感。
じわり、と嫌な汗が流れるのを感じた。
ただ、対面し、視線を向けられているだけだというのに心臓は早鐘を打つかの如く激しく躍動している。
幾多の戦いの中で身に着けた生存本能が逃走を訴える。
目の前の『其れ』と戦ってはいけない、と。
「それにしても」
ビクリ、と。
なんでも無い一言にさえ、凄まじいまでの威圧感を感じ、背筋を震わせた。
「見事なものね。貴女が今倒したそいつだけど。一応、この館の警備では2番手の使い手なのよ?」
「……」
「やはり初めの一人を殺した手際を見て、無駄に人員裂かなくて正解だったわ。雑兵など貴女の敵ではないでしょうしね」
「……」
「1番手なら結構良いとこまで行くのかしらね。ああ、なんでその1番手が出てこなかったのかって? 『門番』の役職を与えたら門を守る事ばかりに気を取られて、外壁を越えて来た侵入者に気付かなかったのよ。間抜けよね」
「……」
「……何か言いなさいな。退屈だと、今すぐ殺すわよ」
「っ!!」
その一言を合図に、金縛りを引き起こしていた生存本能が転じて、身体を突き動かした。
右手に刃を。左手に投擲用の短刀を引き抜き、床を蹴って距離を詰める。
腕を振り上げ二投。振り下ろしてさらに二投。
先程と同じ、変則投擲。
「それはさっきも見たわ」
吸血鬼は直撃の弾道を取っていた二本を、詰まらない物でも見るかのような表情で片手で払いのけ、残りの二本はわずかに身体を揺らしただけでかわし、やり過ごした。
通じないのは百も承知。
本命は次。
少女は、開いた左手で短刀とは別の物を引き抜き、宙に放り投げた。
透明な液体で満たされた小瓶。
追いかけるように床を蹴って、ナイフの背で叩き割った。
中の液体が飛沫となって吸血鬼に降りかかる。
「聖水かしら? よくもまぁ、小細工を思いつく」
とはいえ、所詮は携帯できるサイズの小瓶である。
水瓶一杯の聖水を雨のようにして降りかけたのならともかく、小瓶サイズの量なぞ、半歩身を引いただけで避けられてしまう。
だから、小細工はここからだ。
小瓶を叩き割った事で、中の液体が付着したナイフを吸血鬼に向かって振りぬいた。
先程の指向性も無く、重力に引かれるままに降りかかるだけのものとは違う。
十分な運動量を持って飛び行く水滴の弾丸。
仕込みに手間が掛かる割りに一度しか使えない、本当にただの小細工。
命中したとして、十分な殺傷力も無い一芸。
さすがに予想していなかったのだろう、吸血鬼の眉がピクリと反応する。
咄嗟に顔をかばい、見た目には華奢な腕に傷とすら呼べないほど小さい、針の先で引っかいたような裂傷が走る。
顔に飛び来るものを防ごうとするのは、人間であろうとなかろうと関係ない、生物としての本能だ。
例え針先で突付く程度での小さなものでも、痛みを感じた瞬間、筋肉が硬直し動きが硬くなるのも同様。
そして、その一瞬の硬直を、勝機として掴み取るのが少女の戦闘である。
白木の杭を抜いて、飛び掛る。
如何に強力な吸血鬼と言え、これの直撃には無傷で居られまい。
構え。
添え。
打ち抜こうと力を込め。
「今のは面白かった。褒めてあげるわ」
少女の倍にも及ぶ速度でもって体勢を立て直した吸血鬼によって手首を押さえられていた。
少女の顔が驚愕に染まる。
「さて、一撃で、なんて詰まらない事にはならないでね」
吸血鬼が放った掌底によって打ち上げられた少女は採光窓を突き破って、屋外にまで吹き飛ばされた。
腹部を打ち抜かれたのだ、という事は理解できた。
実に緩慢に周囲の景色が流れていく。
ゆっくり、ゆっくり。
自分の身体が突き破って、吹き飛んでいくガラス片の一片までもが止まって見えるほどに時間の経過を遅く感じる。
痛みは感じない。
いや、実感するほど時間が経ていないのか。
景色がゆっくりと流れていく。
月が見えた。
満月を過ぎたばかりの十六夜月。
吸血鬼がその力を最大に発揮するという満月の夜こそ避けたものの、やはりもっと頃合を選ぶべきだっただろうか。
いや、これほどの能力差。
例え、最も弱体化するという新月の夜でも、相手になったかどうか。
景色がゆっくりと流れていく。
星空が見えた。
星の瞬き。
名前を知る幾つかの星座が見て取れる。
方角を図るために見上げる事こそあったが、星そのものを見る事が無くなったのは何時の頃からだっただろうか。
迫り来る屋根が見えた。
広い屋敷だ、と思う。
何もかもが紅く、趣味は合いそうにないが。
そこまで考えて。
屋根に叩きつけられ、初めて痛みというものを自覚した。
打ち付けられた拍子に、口蓋の奥から湧き上がって来た血液を吐き出した。
先程の掌底で内臓でも破壊されたか。
何とか身体を動かそうと足掻くも、衝撃のためか手足の感覚が無く、ピクリとも動かない。
意識が飛ばずにいるのが不思議でしょうがなかった。
「ふむ、生きてるわね」
そして、横に立つ吸血鬼。
「手加減って苦手なのよ。上手にできたかしら?」
問われても、返事のしようがない。
全身の感覚は無く、口蓋に血が溜まって呼吸もままならない。
言葉を返す事はおろか、呻く事すら出来そうに無かった。
「立ちなさい、侵入者。貴女は私の配下を殺した。まともに思考も出来ない連中ではあったけど、それでも彼らは我が眷属。家族のようなものだったのよ? 私の殺した者は戻らないけれど、ならばせめて私の退屈を満たしなさい」
手足の感覚はまだ戻らない。
「退屈だったのよ、私は。こんな辺境にある館に誰も来やしない。居るのは外には興味の無い友人と、会話もままならない身内と、物言わぬ兵隊だけ。かといって、私から人里へ赴くわけにもいかない」
手足の感覚はまだ戻らない。
「独力では非力な人間は、数を増やし、文明という名の武器を発達させ、我らを追いやるだけの技術や人員を生み出した」
ゲフリ、と血の塊を吐き出した。
「私は個を超え群体として存在する『人間』だろうと負けはしない。だけど、容易とは言わない。だから、私から姿を見せる訳にはいかない。此処の場所が人間に知られて、無尽蔵に兵を送り込まれたら困るものね」
指先をほんのわずかに動かす事ができた。
「私は待っていた。此処を訪れる者を」
手足の感覚が戻ると同時に、痛覚が全身を駆け巡るが、無視する。
「例え、私を殺そうとする者であってもね」
そう言って浮かべた吸血鬼の微笑を美しいと感じた。
「さぁ、立ちなさい!」
全身の筋肉を使って跳ね起きた。
まずは呼吸。
酸素を取り入れ、体勢を整える。
全身を走る痛みは、身体へのダメージの程度と共に、とりあえずは肉体に致命的な損傷の無い証となる。
手足に力を漲らせ、飛び掛る。
それまで使っていた近接戦闘用の大振りなナイフはすでに落としてしまっていた。
本来ならば投擲用の短刀を両手に構えて、斬りつける。
「良いわ。その調子よ」
吸血鬼の浮かべる楽しそうな笑顔。
其れに向かって短刀を突き込んだ。
薙ぎ払うようにして斬り付けた。
肘鉄をもって打ち付けた。
爪先で蹴り抜いた。
だが。
その全てを吸血鬼は笑顔のまま容易くかわしてみせる。
吸血鬼の反応速度の前では、鍛えたとはいえ人の到達する速力では及ぶべくも無いのか。
いや、それにしては妙だ、と。
短刀を振るいながら頭の片隅で思考する。
反応速度の高さは、しかししてそれ故のフェイントや誘いへの過剰反応などの悪影響を引き起こす。
だが、目の前の微笑を浮かべたまま踊り続ける吸血鬼は、こちらの技巧を凝らしたフェイントの全てを無視してくる。
反応し見切った上で、本命の攻撃を避けるというのならまだわかる。
吸血鬼は、フェイントなぞ初めから無いかのように一切反応せず、本命の攻撃のみを的確に回避する。
まるで、どのタイミングで己へ降りかかる危険が来るかを『理解』しているかのごとく。
空振りに終わった攻撃が二十を超え、息が続かなくなって来た所で吸血鬼の声。
「近接戦闘の方がが私としても好みなのだけど……。早く終わったら詰まらないものね。こういう趣向はいかがかしら?」
言葉が聞こえた瞬間、目の前の吸血鬼が紅の燐光を纏い始めた。
危険、と判断し一足飛びに後方へ退避する。
「さぁ、踊りなさい」
周囲を漂っていた燐光の幾つかが激しく光り輝いたかと思うと、凄まじい速度でこちらに向かってきた。
視認速度の限界ぎりぎりで迫り来る紅の弾丸。
初弾。
真っ直ぐ左胸の心臓に向かって来る其れを身をひねってかわした。
次弾。
やや低めの弾道。狙いは膝か。脚を動かし股下をくぐらせてやり過ごす。
次弾。
頭部。かがめて避ける。
「良く出来ました」
嬉しそうに吸血鬼が手を叩いているが、少女としてはそれどころではない。
ただでさえ、圧倒的な身体能力の差があるのだ。
そこに遠距離での攻撃手段も十二分に持っているとなると、今の攻撃こそ回避できたが、いずれは手詰まりになるのは目に見えている。
すぐさまその両手の短刀を投げ放った。
「貴女の技は素晴らしいものだけれど」
そして、容易く払いのけられる。
「絶対的に火力が足りない。惜しいわね。せめてその技能以外に一つでも戦闘へ活かせる能力があれば、見違えるでしょうに」
能力。
例えばそれは人間より強い躯体だったり。
例えばそれは覗き込むだけで暗示を掛ける魔性の瞳であったり。
例えばそれはその身体を霧に変える事ができたり。
例えばそれは魔法やら魔術やらを行使する事であったり。
そういう事か。
「装飾の一つも無い凶刃。面白みの欠片も無い鉛色の刃。確かに良く斬れるでしょうけどね。知ってるかしら? 真に優れた刀剣というのは、美術品にも勝る典雅さを持つものなのよ」
無視して短刀を投げつける。
今度は払いのけるではなく、掴んで止められた。
「貴女には其れが無い。斬る事だけを考え、極限まで純度を高めた刀剣が容易く圧し折れるように、貴女は脆く、弱い」
吸血鬼の周囲を舞う燐光が再度輝き、弾丸となって襲い掛かる。
鋒鋩の態でやりすごし、短刀を投げつけ反撃を試みるも、今度は撃ち落された。
手詰まり、という言葉が脳裏を過ぎる。
小細工を弄して決定的な隙を生み、仕掛けた近接戦闘は、吸血鬼の圧倒的な速度の前に無残に敗れ。
遠距離での攻撃手段である投擲に関しては、有効打となる気配すら無い。
そして、自分の手札がもう何も残っていない事に気付いて愕然とする。
吸血鬼は少女を弱いと言った。
なるほど、と思う。
そして、何か一つでも戦闘へ活かせる能力があれば、とも。
例えば今放った短刀に退魔の力を込める事ができれば、吸血鬼の防御を突き破る事ができるかもしれない。
例えばこの身に風より速く駆ける能力があれば、必滅の白木の杭を叩き込む事もできるかもしれない。
だが、今この場で望もうと都合良くそんなものに目覚めるはずもない。
自らの無力をここまでひしと感じたのは初めての事だった。
短刀を握る手の力が抜ける。
「あら、諦めるの?」
吸血鬼がつまらなそうに言葉を吐く。
「その程度、か。見当はずれだったかしらね」
死ぬつもりは無い。
だが、有効な手立てがあるわけでもない。
短刀の数も少なくなってきた。
着々と、死の気配が迫ってきている。
「……自暴自棄になったわけでもなさそうね」
必死に思考を巡らせる。
手持ちの武器は投擲用の短刀が12本と、白木の杭が4本。
後は、人より少しばかり優れた運動能力がある程度の体躯のみ。
いずれも吸血鬼には通じなかったものだ。
他に手札がない以上、それを切るしかない。
一度は破られたとは言え、それは間違いなく己の持つ最強のカードに違いは無いのだから。
「真っ直ぐな瞳。良いわ。好きよ、そういう目。諦めない者の意思ほど壊し甲斐のあるものは他に無いしね」
言葉と共に再度放たれる紅の弾丸。
初見ではかわすのが精一杯でも、何度も見てれば目は慣れる。
最低限の挙動をもって回避し、吸血鬼へ向かって駆けて行く。
「あと7発ってとこかしら」
吸血鬼のつぶやきが聞こえた。
意味がわからず、一瞬いぶかしむが、すぐさま思考から追い出した。
今は、攻撃に集中すべきだ。
相手は力でも速さでもこちらを上回る吸血鬼なのだから。
弾丸が迫り来る。
やや高い弾道をとっていた初めの3発を体勢を低くし、掻い潜る。
吸血鬼まで後7メートル。
わずかにタイミングを遅らせて飛び来た次の2発はやや低め。
地面を蹴って空中に逃れた。
後5メートル。
そして、跳ぶ事を読んでいたのか6発目は、逃れた先に真っ直ぐに向かってきた。
空中で身を捻って何とかかわす。
後4メートル。
そこが限界だった。
空中で無理に身を捻ってかわしたため、着地の態勢が悪かった。
着地した所に、これ以上無いというタイミングで弾が来て、胸部に直撃を受けた。
相手としては簡単に殺すつもりは無いのか、貫通力がほとんどゼロで、殺傷力の低い攻撃だったた後方に弾き飛ばされただけで済んだのは幸いと言えば幸いか。
吸血鬼まで10メートル。
スタートラインに逆戻りだ。
「クスクス、次はもうちょっとがんばれるんじゃない? 13発目」
距離を詰める事に躍起になれば、回避が疎かになる。
今度は、ジリジリと摺り足でも使って進むかのように、ゆっくりと距離を詰めていく。
第一波に6発。身体を滑り込ませるようにして回避。
着弾のタイミングをずらして、もう4発。回避。
次の1発は、それまでの拳大の弾丸よりかなり大きく、直径にして1メートル近い巨大なものだった。
左に大きく横っ飛びして回避する。
そして、回避する事を読んでいたのであろう、配置されていた弾丸が一発。
体勢を崩した所を狙ってくるのは予測していたので、慌てる事なく回避。
だが、正面の弾丸に気を取られ、右から弧を描いて飛んできた弾丸に気付けず、直撃を食らう。
再び、吸血鬼との距離が開く。
「ほら、だいぶ記録がのびてきたわよ。24」
必死に回避を続けるも吸血鬼の告知通り、数えて24発目で直撃を受け、やはり後方に弾き飛ばされる。
「不思議? でもね、実感するでしょう? 戦闘に活きる能力がどれだけ有用なのかを」
そんな事を言うからには、先程から先を見通すかの如く、命中にまで要する弾数を言い当て、こちらの回避パターンを見切っているのはその能力のおかげなのだろうか。
確かに、もし先の事がわかる能力なんてものがあるなら、これ以上無いというほど戦闘には有用だろう。
余計な考えは捨てろ、と自分に言い聞かせる。
自分にはそんなものは無いし、望んだところで今すぐ手に入るものでもない。
今は、ただ集中し、自分の技能を最大限発揮する事だけを考えるべきだ。
「26発」
回避に失敗して、左肩に着弾。黒の戦闘衣が弾けた。
「……32」
集中力が高まっていくのを自覚する。
最初は、視認するのもやっとだったなんて嘘みたいだ。
弾道のほとんどを見切れるようにはなっていた。
だが、どれだけ反応が早くなろうと身体能力そのものはすぐさま向上するものではない。
来るとわかっていても回避の取りようの無い弾丸に撃ち抜かれた。
「56!」
次第に増していく弾幕の密度。
不思議な感覚だった。
生死の極限状況下にあって、頭はひたすらクリアに。感情も何も抱かず、ただひたすら繰り出される弾幕を見切り、体躯を動かす。
弾幕がゆっくりと迫ってくる。
先程、掌底で打ち抜かれ吹き飛ばされた時の感覚に似ていた。
時間が止まっているかの如く、ゆっくりゆっくりと飛んで来る。
これが極限の集中力の成せる技か。
だがしかし、相手の能力を覆すには至らない。
やはり宣言通りの弾数で右足を撃ち抜かれた。
すでに両手もまともに動かない状況ではあるが、足はまずい。
攻撃もままなら無い状況において、回避の手段も奪われてしまっては。
「そろそろ詰みかしらね」
そう言った吸血鬼の右手には『槍』があった。
無骨な鉄槍などではない。
吸血鬼が纏う燐光を束ねて鍛え上げたかのような真紅に輝く魔槍。
訳も無く確信した。
『アレ』は、間違いなく己の心臓を貫くのだ、と。
「かの片目の英雄の槍は放てば必ず敵を貫いたというけれど。……5発目よ。頑張りなさい」
初弾。
何てことは無いただ真っ直ぐ飛んで来るだけの小さな弾丸。
だが、しかしまともに足が動かないこの状況下ではそれをかわすのすら困難だった。
身体を傾けぎりぎりかわす。
次弾。
やはり、工夫も何も無い普通の弾丸。
もはや回避することもままならないと吸血鬼も理解しているのだろう。
かわすのは不可能と判断し、短刀を投げ撃ち落した。
後3発。
少女の思考は加速していく。
何か、何か手は無いかと。
3発目。
ゆっくり、ゆっくりと迫り来る、弾丸。
思考だけが加速し、身体は鉛の海の中にでもいるのではないかというぐらい重い。
見えてはいるが、かわすのは容易では無い。
身体を傾け、重力に引かれるままゆっくり、ゆっくりと体を倒し、どうにかしてやりすごす。
4発目。
崩れた体勢ではどうやってもかわしようが無い。
短刀で撃ち落とそうと、引き抜く。
腕が重い。
ゆっくりと迫る弾丸。
刹那の間に3投をこなすはずの腕は錘でも仕込んであるかのようにゆっくりとしか動かない。
体感的には分に匹敵するほどの時間をもって、ようやく撃墜に成功する。
そして、其れが来る。
放たれた真紅の魔槍は、それまでの弾丸とは比較にならない速度でもって迫り来る。
思考が加速し、何十倍という時間密度の中であって魔槍は『普通』に飛んで来る。
どれほどの速度で飛んできているのか想像も付かなかった。
弾道から予測される着弾地点は、やはりこちらの心臓。
迎撃は無理、と即座に判断して回避に移るも、迫り来る死の脅威に対して、その速度はあまりにも遅い。
亀の歩みよりも遅い我が身に辟易する。
動け。
と、意思をもって叫んでみるも、どうにもならない。
動け、動け、動け。
諦めない。
何度も何度も命じて、少しでも着弾地点を逸らそうと足掻く。
動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け。
死を目前として、極限を通り越して走馬灯の域にまで達した集中力が、一瞬を永劫へと引き伸ばす。
ゆっくり、ゆっくりと迫り来る魔槍。
先端がついに、黒の戦闘衣に触れ、時間をかけて突き破って来る。
すでに、何ミリかは皮膚にまで食い込んでいるはずだが、痛みは感じない。
いや、引き伸ばされた一瞬の中では感じようが無い。
動け動け動け動け動け動け動け動け動け!!!!
眼球の奥が熱い。
全ての思考を置き去りにして、ただひたすら念じる。
動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け!!!!
脳髄が焼切れるほど強く念じた、その瞬間。
魔槍が動きを止めた。
何故、とは考えなかった。
考える余裕などありはしなかった。
停止した魔槍。
しかし、それに対して『普通』に動く、我が体躯。
眼球を走らせて見れば、後方にはやりすごした弾丸が、やはり空中に縫いとめられたかのように停止していた。
そして、それは吸血鬼も同様。
ここまでか、と諦観の表情さえ浮かべて、槍を放った体勢のまま停止している。
灼熱と化した脳髄では思考も何もあったものではなかったが、身体は染み付いた動作を忠実に実行する。
停止した槍から身を引き抜いて、かわし。
残った最後の短刀を吸血鬼に向かって投げ放った。
そして、そこまでが限界だった。
限度を超えた集中力を発揮した脳髄は、少女の意識を手放した。
身体が倒れ込みながら、視界が閉ざされていく。
そして、真っ暗になった。
「え?」
吸血鬼は思わず声を上げていた。
目の前の光景を信じる事ができなかった。
解き放った魔槍は、間違いなく侵入者の心臓を貫くはずだった。
それは間違いない。
予測などという物ではない。
そうなる事は決まっていのだ。
実際、この眼はその左胸に突き刺さっていく瞬間を捉えていた。
だが、しかし。
目の前で起こった事をそのまま表現するならば、この吸血鬼の動体視力をもってしても捕らえきれないほどの速度で侵入者は身をかわした。
いや、より正しく表現するならば、移動の過程を一切認識させないまま、槍の貫く範囲の外に移動していた。
「瞬間移動? いえ、違うわね」
かわされたと認識した直後、投擲のモーションすら見せずにこちらに飛んできていた短刀の存在を考えれば、侵入者が一体何をしたのかは検討が付く。
「時間を止めたのか。今の今まで、そんな能力を持っていた様子は無かったんだけど」
咄嗟の事で払いのけるのに失敗し、左の掌に突き刺さった短刀を引き抜き、投げ捨てた。
「ともすれば、今、この瞬間に目覚めたって事かしらね」
なんともご都合主義な、と苦笑を浮かべる。
だが、重要なのはそういう事ではない。
短刀を放った所で力尽きたのか、倒れ伏した侵入者に視線を向ける。
「かわした。それはわからなかったな」
死の運命。
間違いなく、それは侵入者に訪れるはずのものであった。
あの瞬間、放った魔槍は心臓を貫く事は決定されていたはずだったのだが。
「面白いわね、貴女」
少女が目の前で見せたのは、恐らく時間停止の能力。
だが、吸血鬼にとってはそんなものではない。
「運命を乗り越えた、か」
決まっていたはずの事を覆す。
吸血鬼にとって、それがどれほど凄まじいものなのかは、その能力故にこそわかっている。
惜しい、と。
先程、もたげた思考が再度浮上する。
そして、吸血鬼の中で一つの決定が行われる。
「このまま、こんな辺境の地に篭っていても、いずれ滅び行く運命にあるのは、私でなくても明白な事だしね」
この館の人員も減ってしまった。
そして、新しい土地を目指すならば、新しい人員を迎え入れるのも良いだろう。
「決めたわ。私は貴女を従者にする」
言葉にするのは容易い。
しかし、この身を討ち取りに来たものを配下とするのだ。
それは簡単な事ではない。
だが。
それぐらい出来なくて、この館の主が務まるものか。
装飾の一つも無い凶刃。
面白みの欠片も無い鉛色の刃。
吸血鬼は少女の事をそう評した。
だが。
装飾が無いならば、彩れば良い。
面白みが無いのならば、付け加えればいい。
主となって、この一振りの刃に彩りを施すのは、それはそれで楽しいだろう。
「名前、何にしようかしら?」
見上げた星空には、十六夜月が咲いていた。
血とか苦手な人は、ブラウザの戻るをクリックするか、BackSpaceを叩くの推奨です。
オリキャラものに分類すべきかもしれません。
殺し切れない微かな着地音は、廊下に敷かれた絨毯が吸収してくれたようだ。
ほんの数歩先には、こちらに気付かず巡回を続ける甲冑姿の衛士の背中。
するり、と。
首元を滑る様に刃を走らせた。
目の前の其れから奇妙な声が漏れ、虚ろな瞳がこちらを向く。
何処を向いているのかも定かでは無い視線に、やはり正気を失っているのだな、などと奇妙な感慨を覚えた。
侵入者の姿を捉え、臨戦態勢に入ろうとする目の前の其れ。
身に纏った甲冑が音を立て、全身に力を張り巡らせようとしているのが見て取れる。
一拍。
真っ黒な血飛沫が上がる。
滑らせた刃は、首の側部の外頚動脈を切り裂いていた。
『常人』にならば、それだけでも凄まじい勢いで血が吹き出るもののだが、『彼ら』は、平常時には余計な消耗を抑えるために、その血流は停止していると言っていいほどに緩い。故に、どれだけ太い動脈を掻っ切ろうとも血が噴出するような事はない。
そして、痛覚が果てしなく鈍化しているがために自らの欠損に気付かず、いざその必要が出た際、躊躇う事も無く己が血をを躍動させてしまう。
まさしく目の前の様な、常軌を逸する勢いで噴出するまでに。
目の前の其れの動きが止まる。
腕をもごうが、胴体を引き千切ろうが活動し続ける『彼ら』ではあるが、血を失う事を極端に避ける。
血は彼らの生命そのもの。
血が意思を持って体躯を駆け抜け、脳ではなく血の命令で筋肉は活動する。
血を失う事は即ち死である。
故に。
血飛沫を通り越して血煙とさえ呼べるほどに、盛大に血が噴出する事態は何よりもまずは優先して対処しなければ問題である。
目の前の其れが血を塞き止めようと、動きも止める。
瞬き一つほどの僅かな硬直。
狙うには十分な隙であった。
左手に構えるは、荒く削られた無骨な樹木で出来た杭。
2メートル近い距離を一歩で詰め、左胸に押し当てた。
ガシャン、と胸元の甲冑が小さく音を立てる。
金属の甲冑だ。普通に考えれば、木製の杭などで打ち抜ける訳が無い。
だが。
右手のナイフの柄で杭を打ちつけた瞬間。
大量の爆薬でも破裂したかのような轟音と共に、目の前の其れが後方に吹き飛んでいった。
退魔の念の元聖別され、何十もの法術処理をほどこされた其の白木の杭は、見た目には矮小でもその威力は破城槌に匹敵する。
圧倒的な威力をもって、甲冑を突き破り、その中に隠れていた心の臓を欠片も残さず吹き飛ばしていた。
グシャリ、と。
例えるなら熟れた果実が踏み潰されるかのような音を立てて、其れが壁面に叩きつけられた。
土は土に。
灰は灰に。
塵は塵に。
すでに人では無い其れは、絶命を持って灰塵に帰す。
ずるり、と。音を立てて頭部が落ち、床にぶつかると、白い灰となって四散した。
周囲の気配を探り、伏兵に注意しながら、構えを解く。
音を立てすぎたか、と一瞬考え。
しかし、開戦の合図にはちょうどいいかもしれないと、同時に思う。
『少女』は、返り血で朱に染まった頬をぬぐい、奥へと歩を進める。
さぁ、時代遅れの狩を始めよう。
吸血鬼、と呼ばれる者がいる。
曰く、悪魔。
曰く、夜の王。
曰く、不死なる者。
人間の血を啜り、人より強力な法を行使し、人には不可能な術を行使する。
四肢が千切れようと修復し、身を焼かれ灰になろうともそこから再生すると伝えらる魔性。
その吸血鬼が住むとされる館である。
紅い、というのが遠見でのその館の第一印象で、その思いは内部に入ってから一層顕著なものになった。
回廊には真赤な絨毯が敷かれ、壁や天井などの意匠はいずれも血を絞って固めたかのような深紅の装飾。
悪趣味とさえ言える内装ではあるが、その一つ一つは一級品のようだ。
踏みしめた絨毯は足跡を残さず、壁面に添えつけられた燭台は錆一つ浮いていない。
長年手入れなどされていないのであろう。積もった埃は厚く、張り巡らされた蜘蛛の巣は幾多ではあるが、素人目にも優れていると知れる。
内装の質は、この館が如何に栄華を誇っていたかを指し示し。そして同時に、放逐された現状が、どれだけ落ちぶれたのかを物語っていた。
そんな中を『少女』は歩いていく。
少女、である。
年の割りには背丈が高く、年の割には体の起伏がまるで無いため少年と間違われる事は少なく無いが、少女である。
手入れさえすれば美しい光沢を持つであろうアッシュブロンドは、日ごろの雑な扱いと、ざんばらに切り分けられているせいで、白髪のようですらある。
ただひたすらに鍛えた無駄の無い肉体を包むは、鞣革の黒装束。
手には鈍く輝く一振りの刃。
遠目に見て、彼女の性別を言い当てるのは不可能であるかもしれない。
少女は探索を続けながら、奇妙な展開を訝しんでいた。
敵が少ない。
探索をはじめておおよそ半刻といったところだろうか。
館の3割もまだ回っていないはずではあるが、あまりにも敵と遭遇する機会が少なすぎる。
侵入の際に倒した一体と、巡回中と思しき衛士が二体。
いずれも苦戦と呼ぶほどの苦戦もしなかった。
夜の王と呼ばれる者の住居とは言えこんなものなのか。
軽い失望にも似た感傷を抱きながら廊下を進んでいると、10メートル程先の曲がり角から、衛士が姿を見せた。
長大な槍を持った、目測では身長2メートルはあろうかという巨漢である。
少女の姿を目に留めると、一瞬目を見開いて動きを止めてから、戦闘態勢に入る。
手に持ったナイフで切りかかるには、余りに遠い距離。
少女は駆け出しながら、左手で短刀を引き抜いた。
その数、一挙動にて3つ。
腕を振り上げるようにして2本を放ち、返す様に降ろす腕でさらにもう1本を投げつける。
ほぼ同時に着弾する一投目、二投目に対し、わずかに時間を空けて三投目が到達する変則攻撃。
必殺と呼ぶほど優れた攻撃手段ではない。
槍を構えた衛兵に容易く払いのけられてしまう。
だが。
ただの投擲より確実に、受ける側は意識をゼロコンマ何秒かを多く迎撃に回す事になる。
そして、その稼いだゼロコンマ数秒で少女は、槍にとって最も迎撃に適した間合いを駆け抜け、ナイフに有利な密着戦闘に持ち込んだ。
相手が甲冑に身を包んでいる以上、ナイフで狙える箇所は決して多くは無い。
甲冑の隙間か、あるいはむき出しになっている顔面か。
しかし、相手は人の形にして、人に非ざる魔性。
甲冑の隙間から刃を突き刺し、臓器の一つ、二つを潰そうとも効果が高いとは言い難い。
やはり、狙うならば其れらにとって、唯一致命となりえる血管──剥き出しになっている首筋しかない。
槍を構えなおす暇を与えず、体当たりで体勢を崩す。
頭4つ分は背の高い相手の首筋を狙うのは非常に難しい。
転ばせる事が最良なのだが、甲冑の分も合わせると3倍以上の質量差があるとなると、体当たりだけでは、どれだけの勢いでぶつかろうとも難しい。
だから足を狙う。
上体に身体をぶつけて揺らし、傾いた所で足を払う。
重量があるが故に一度傾げば、立て直すのは難しい。
もつれ合うように転倒させながら、首筋を狙う。
が。
有利な間合いを容易く抜けられ、構える間もなく転ばされようとされている、常人ならば混乱を極めるこの状況において。
その衛兵は極めて冷静に、無手の左手でこちらの右手首を狙ってきた。
掴まれれば最後、人外の握力の前には少女の手首なぞ、それこそ花を摘むほどの労力も要さず圧し折る事ができるだろう。
危険、と判断し少女は狙いを首筋から向かいくる左手を切り払う事に切り替える。
金属同士がぶつかり合う鈍い音がした。
続いて、大重量の甲冑が倒れこむ騒音と、それに紛れてわずかに離れた場所で少女の着地音。
狙い通りにはいかなかったが、転ばせる事には成功した。
右手のナイフを捨て、投擲用の短刀を両手に持てるだけ引き抜いて、次々と投げつける。
大部分は甲冑に防がれ、本命の顔面部位への投擲は衛兵の手甲によってはじかれてしまう。
が。
槍を手放させ、両手を顔面部位の防御に回させる事ができれば十分だった。
両手の短刀が尽き、次に引き抜いたのはナイフではなく、白木の杭。
顔面の防御に集中し、視界が遮られていた衛兵はその行動へ反応できない。
構え、倒れた衛兵の胸元に叩きつける。
轟音。
解放された退魔の概念は、衛兵の心臓を突き破り、床面へと縫いつけた。
辛勝、と言った所だろうか。
少女は、衛士が灰になって崩れ落ちる様を見届けながら溜息をついた。
単純な身体能力、取り分け筋力という観点で見れば比べるべくも無い能力の差のある其れらとの戦闘においては、迎撃の機会を与えるだけで少女にとっては危険だ。
数秒間も密着状態を作る事になるのは、それだけで死活に関わる。
不意を付き、迎撃の暇を与えず、一方的に息の根を止めるのが彼女にとっての戦闘である。
周囲に散らばったナイフのうち、まだ使い物になりそうな物を回収する。
と。
パチ、パチ、パチと。
乾いた。それは例えるなら幼子が手を叩くような、小さい拍手が響いてきた。
「……大したものね」
聞こえてきた声はまだ幼い、『少女』よりもずっと幼い少女のものだった。
「無駄無く。確実に。ただただ殺す事だけを追求した技ね。迷いの無い殺意。そこまで研ぎ澄ますと美しいとさえ感じるわ」
カツリ、カツリ、と小さな足音。
見通せない闇の奥からその声は響いてくる。
「例えるならば、鍛え抜いた抜身の刃。装飾の一つも無い、ただ殺す事だけを追及した凶刃」
天井の採光窓から月明かりが差し込み、その声の主を照らす。
「そんなとこかしら? 大多数がくだらないとは言え、時としてこうした者が現れるから人間とは興味深いわね」
その姿は少女というよりは幼女と言ったほうが適切かもしれない。
まだ幼いと言って良い年齢の『少女』と比しても、さらに小柄で、一目で年下とわかる。
月光に映える色素の薄い髪。
艶やかな薄紅色のドレス。
そして、背には蝙蝠の翼。
「吸血鬼……」
「ええ、そうよ、侵入者。久しぶりのお客様だもの、ようこそとでも言うべきなのかしらね」
目の前の吸血鬼はそう返して、クスクスと笑う。
そして、こちらを見た。
深く、昏い、血の色をした瞳。
その眼を見た瞬間、身体の自由を奪うほどの強い感情が背筋を走った。
それは、恐怖。
衰退し、追いやられた吸血鬼なぞ、と。高を括っていた。
だが、目の前の其れは一体なんだ。
見た目は非力な幼女でも、肌越しに感じる圧倒的な魔の気配。
心臓に多数の針にでも突付かれてるかのような、呼吸すら忘れるほどの緊張感。
じわり、と嫌な汗が流れるのを感じた。
ただ、対面し、視線を向けられているだけだというのに心臓は早鐘を打つかの如く激しく躍動している。
幾多の戦いの中で身に着けた生存本能が逃走を訴える。
目の前の『其れ』と戦ってはいけない、と。
「それにしても」
ビクリ、と。
なんでも無い一言にさえ、凄まじいまでの威圧感を感じ、背筋を震わせた。
「見事なものね。貴女が今倒したそいつだけど。一応、この館の警備では2番手の使い手なのよ?」
「……」
「やはり初めの一人を殺した手際を見て、無駄に人員裂かなくて正解だったわ。雑兵など貴女の敵ではないでしょうしね」
「……」
「1番手なら結構良いとこまで行くのかしらね。ああ、なんでその1番手が出てこなかったのかって? 『門番』の役職を与えたら門を守る事ばかりに気を取られて、外壁を越えて来た侵入者に気付かなかったのよ。間抜けよね」
「……」
「……何か言いなさいな。退屈だと、今すぐ殺すわよ」
「っ!!」
その一言を合図に、金縛りを引き起こしていた生存本能が転じて、身体を突き動かした。
右手に刃を。左手に投擲用の短刀を引き抜き、床を蹴って距離を詰める。
腕を振り上げ二投。振り下ろしてさらに二投。
先程と同じ、変則投擲。
「それはさっきも見たわ」
吸血鬼は直撃の弾道を取っていた二本を、詰まらない物でも見るかのような表情で片手で払いのけ、残りの二本はわずかに身体を揺らしただけでかわし、やり過ごした。
通じないのは百も承知。
本命は次。
少女は、開いた左手で短刀とは別の物を引き抜き、宙に放り投げた。
透明な液体で満たされた小瓶。
追いかけるように床を蹴って、ナイフの背で叩き割った。
中の液体が飛沫となって吸血鬼に降りかかる。
「聖水かしら? よくもまぁ、小細工を思いつく」
とはいえ、所詮は携帯できるサイズの小瓶である。
水瓶一杯の聖水を雨のようにして降りかけたのならともかく、小瓶サイズの量なぞ、半歩身を引いただけで避けられてしまう。
だから、小細工はここからだ。
小瓶を叩き割った事で、中の液体が付着したナイフを吸血鬼に向かって振りぬいた。
先程の指向性も無く、重力に引かれるままに降りかかるだけのものとは違う。
十分な運動量を持って飛び行く水滴の弾丸。
仕込みに手間が掛かる割りに一度しか使えない、本当にただの小細工。
命中したとして、十分な殺傷力も無い一芸。
さすがに予想していなかったのだろう、吸血鬼の眉がピクリと反応する。
咄嗟に顔をかばい、見た目には華奢な腕に傷とすら呼べないほど小さい、針の先で引っかいたような裂傷が走る。
顔に飛び来るものを防ごうとするのは、人間であろうとなかろうと関係ない、生物としての本能だ。
例え針先で突付く程度での小さなものでも、痛みを感じた瞬間、筋肉が硬直し動きが硬くなるのも同様。
そして、その一瞬の硬直を、勝機として掴み取るのが少女の戦闘である。
白木の杭を抜いて、飛び掛る。
如何に強力な吸血鬼と言え、これの直撃には無傷で居られまい。
構え。
添え。
打ち抜こうと力を込め。
「今のは面白かった。褒めてあげるわ」
少女の倍にも及ぶ速度でもって体勢を立て直した吸血鬼によって手首を押さえられていた。
少女の顔が驚愕に染まる。
「さて、一撃で、なんて詰まらない事にはならないでね」
吸血鬼が放った掌底によって打ち上げられた少女は採光窓を突き破って、屋外にまで吹き飛ばされた。
腹部を打ち抜かれたのだ、という事は理解できた。
実に緩慢に周囲の景色が流れていく。
ゆっくり、ゆっくり。
自分の身体が突き破って、吹き飛んでいくガラス片の一片までもが止まって見えるほどに時間の経過を遅く感じる。
痛みは感じない。
いや、実感するほど時間が経ていないのか。
景色がゆっくりと流れていく。
月が見えた。
満月を過ぎたばかりの十六夜月。
吸血鬼がその力を最大に発揮するという満月の夜こそ避けたものの、やはりもっと頃合を選ぶべきだっただろうか。
いや、これほどの能力差。
例え、最も弱体化するという新月の夜でも、相手になったかどうか。
景色がゆっくりと流れていく。
星空が見えた。
星の瞬き。
名前を知る幾つかの星座が見て取れる。
方角を図るために見上げる事こそあったが、星そのものを見る事が無くなったのは何時の頃からだっただろうか。
迫り来る屋根が見えた。
広い屋敷だ、と思う。
何もかもが紅く、趣味は合いそうにないが。
そこまで考えて。
屋根に叩きつけられ、初めて痛みというものを自覚した。
打ち付けられた拍子に、口蓋の奥から湧き上がって来た血液を吐き出した。
先程の掌底で内臓でも破壊されたか。
何とか身体を動かそうと足掻くも、衝撃のためか手足の感覚が無く、ピクリとも動かない。
意識が飛ばずにいるのが不思議でしょうがなかった。
「ふむ、生きてるわね」
そして、横に立つ吸血鬼。
「手加減って苦手なのよ。上手にできたかしら?」
問われても、返事のしようがない。
全身の感覚は無く、口蓋に血が溜まって呼吸もままならない。
言葉を返す事はおろか、呻く事すら出来そうに無かった。
「立ちなさい、侵入者。貴女は私の配下を殺した。まともに思考も出来ない連中ではあったけど、それでも彼らは我が眷属。家族のようなものだったのよ? 私の殺した者は戻らないけれど、ならばせめて私の退屈を満たしなさい」
手足の感覚はまだ戻らない。
「退屈だったのよ、私は。こんな辺境にある館に誰も来やしない。居るのは外には興味の無い友人と、会話もままならない身内と、物言わぬ兵隊だけ。かといって、私から人里へ赴くわけにもいかない」
手足の感覚はまだ戻らない。
「独力では非力な人間は、数を増やし、文明という名の武器を発達させ、我らを追いやるだけの技術や人員を生み出した」
ゲフリ、と血の塊を吐き出した。
「私は個を超え群体として存在する『人間』だろうと負けはしない。だけど、容易とは言わない。だから、私から姿を見せる訳にはいかない。此処の場所が人間に知られて、無尽蔵に兵を送り込まれたら困るものね」
指先をほんのわずかに動かす事ができた。
「私は待っていた。此処を訪れる者を」
手足の感覚が戻ると同時に、痛覚が全身を駆け巡るが、無視する。
「例え、私を殺そうとする者であってもね」
そう言って浮かべた吸血鬼の微笑を美しいと感じた。
「さぁ、立ちなさい!」
全身の筋肉を使って跳ね起きた。
まずは呼吸。
酸素を取り入れ、体勢を整える。
全身を走る痛みは、身体へのダメージの程度と共に、とりあえずは肉体に致命的な損傷の無い証となる。
手足に力を漲らせ、飛び掛る。
それまで使っていた近接戦闘用の大振りなナイフはすでに落としてしまっていた。
本来ならば投擲用の短刀を両手に構えて、斬りつける。
「良いわ。その調子よ」
吸血鬼の浮かべる楽しそうな笑顔。
其れに向かって短刀を突き込んだ。
薙ぎ払うようにして斬り付けた。
肘鉄をもって打ち付けた。
爪先で蹴り抜いた。
だが。
その全てを吸血鬼は笑顔のまま容易くかわしてみせる。
吸血鬼の反応速度の前では、鍛えたとはいえ人の到達する速力では及ぶべくも無いのか。
いや、それにしては妙だ、と。
短刀を振るいながら頭の片隅で思考する。
反応速度の高さは、しかししてそれ故のフェイントや誘いへの過剰反応などの悪影響を引き起こす。
だが、目の前の微笑を浮かべたまま踊り続ける吸血鬼は、こちらの技巧を凝らしたフェイントの全てを無視してくる。
反応し見切った上で、本命の攻撃を避けるというのならまだわかる。
吸血鬼は、フェイントなぞ初めから無いかのように一切反応せず、本命の攻撃のみを的確に回避する。
まるで、どのタイミングで己へ降りかかる危険が来るかを『理解』しているかのごとく。
空振りに終わった攻撃が二十を超え、息が続かなくなって来た所で吸血鬼の声。
「近接戦闘の方がが私としても好みなのだけど……。早く終わったら詰まらないものね。こういう趣向はいかがかしら?」
言葉が聞こえた瞬間、目の前の吸血鬼が紅の燐光を纏い始めた。
危険、と判断し一足飛びに後方へ退避する。
「さぁ、踊りなさい」
周囲を漂っていた燐光の幾つかが激しく光り輝いたかと思うと、凄まじい速度でこちらに向かってきた。
視認速度の限界ぎりぎりで迫り来る紅の弾丸。
初弾。
真っ直ぐ左胸の心臓に向かって来る其れを身をひねってかわした。
次弾。
やや低めの弾道。狙いは膝か。脚を動かし股下をくぐらせてやり過ごす。
次弾。
頭部。かがめて避ける。
「良く出来ました」
嬉しそうに吸血鬼が手を叩いているが、少女としてはそれどころではない。
ただでさえ、圧倒的な身体能力の差があるのだ。
そこに遠距離での攻撃手段も十二分に持っているとなると、今の攻撃こそ回避できたが、いずれは手詰まりになるのは目に見えている。
すぐさまその両手の短刀を投げ放った。
「貴女の技は素晴らしいものだけれど」
そして、容易く払いのけられる。
「絶対的に火力が足りない。惜しいわね。せめてその技能以外に一つでも戦闘へ活かせる能力があれば、見違えるでしょうに」
能力。
例えばそれは人間より強い躯体だったり。
例えばそれは覗き込むだけで暗示を掛ける魔性の瞳であったり。
例えばそれはその身体を霧に変える事ができたり。
例えばそれは魔法やら魔術やらを行使する事であったり。
そういう事か。
「装飾の一つも無い凶刃。面白みの欠片も無い鉛色の刃。確かに良く斬れるでしょうけどね。知ってるかしら? 真に優れた刀剣というのは、美術品にも勝る典雅さを持つものなのよ」
無視して短刀を投げつける。
今度は払いのけるではなく、掴んで止められた。
「貴女には其れが無い。斬る事だけを考え、極限まで純度を高めた刀剣が容易く圧し折れるように、貴女は脆く、弱い」
吸血鬼の周囲を舞う燐光が再度輝き、弾丸となって襲い掛かる。
鋒鋩の態でやりすごし、短刀を投げつけ反撃を試みるも、今度は撃ち落された。
手詰まり、という言葉が脳裏を過ぎる。
小細工を弄して決定的な隙を生み、仕掛けた近接戦闘は、吸血鬼の圧倒的な速度の前に無残に敗れ。
遠距離での攻撃手段である投擲に関しては、有効打となる気配すら無い。
そして、自分の手札がもう何も残っていない事に気付いて愕然とする。
吸血鬼は少女を弱いと言った。
なるほど、と思う。
そして、何か一つでも戦闘へ活かせる能力があれば、とも。
例えば今放った短刀に退魔の力を込める事ができれば、吸血鬼の防御を突き破る事ができるかもしれない。
例えばこの身に風より速く駆ける能力があれば、必滅の白木の杭を叩き込む事もできるかもしれない。
だが、今この場で望もうと都合良くそんなものに目覚めるはずもない。
自らの無力をここまでひしと感じたのは初めての事だった。
短刀を握る手の力が抜ける。
「あら、諦めるの?」
吸血鬼がつまらなそうに言葉を吐く。
「その程度、か。見当はずれだったかしらね」
死ぬつもりは無い。
だが、有効な手立てがあるわけでもない。
短刀の数も少なくなってきた。
着々と、死の気配が迫ってきている。
「……自暴自棄になったわけでもなさそうね」
必死に思考を巡らせる。
手持ちの武器は投擲用の短刀が12本と、白木の杭が4本。
後は、人より少しばかり優れた運動能力がある程度の体躯のみ。
いずれも吸血鬼には通じなかったものだ。
他に手札がない以上、それを切るしかない。
一度は破られたとは言え、それは間違いなく己の持つ最強のカードに違いは無いのだから。
「真っ直ぐな瞳。良いわ。好きよ、そういう目。諦めない者の意思ほど壊し甲斐のあるものは他に無いしね」
言葉と共に再度放たれる紅の弾丸。
初見ではかわすのが精一杯でも、何度も見てれば目は慣れる。
最低限の挙動をもって回避し、吸血鬼へ向かって駆けて行く。
「あと7発ってとこかしら」
吸血鬼のつぶやきが聞こえた。
意味がわからず、一瞬いぶかしむが、すぐさま思考から追い出した。
今は、攻撃に集中すべきだ。
相手は力でも速さでもこちらを上回る吸血鬼なのだから。
弾丸が迫り来る。
やや高い弾道をとっていた初めの3発を体勢を低くし、掻い潜る。
吸血鬼まで後7メートル。
わずかにタイミングを遅らせて飛び来た次の2発はやや低め。
地面を蹴って空中に逃れた。
後5メートル。
そして、跳ぶ事を読んでいたのか6発目は、逃れた先に真っ直ぐに向かってきた。
空中で身を捻って何とかかわす。
後4メートル。
そこが限界だった。
空中で無理に身を捻ってかわしたため、着地の態勢が悪かった。
着地した所に、これ以上無いというタイミングで弾が来て、胸部に直撃を受けた。
相手としては簡単に殺すつもりは無いのか、貫通力がほとんどゼロで、殺傷力の低い攻撃だったた後方に弾き飛ばされただけで済んだのは幸いと言えば幸いか。
吸血鬼まで10メートル。
スタートラインに逆戻りだ。
「クスクス、次はもうちょっとがんばれるんじゃない? 13発目」
距離を詰める事に躍起になれば、回避が疎かになる。
今度は、ジリジリと摺り足でも使って進むかのように、ゆっくりと距離を詰めていく。
第一波に6発。身体を滑り込ませるようにして回避。
着弾のタイミングをずらして、もう4発。回避。
次の1発は、それまでの拳大の弾丸よりかなり大きく、直径にして1メートル近い巨大なものだった。
左に大きく横っ飛びして回避する。
そして、回避する事を読んでいたのであろう、配置されていた弾丸が一発。
体勢を崩した所を狙ってくるのは予測していたので、慌てる事なく回避。
だが、正面の弾丸に気を取られ、右から弧を描いて飛んできた弾丸に気付けず、直撃を食らう。
再び、吸血鬼との距離が開く。
「ほら、だいぶ記録がのびてきたわよ。24」
必死に回避を続けるも吸血鬼の告知通り、数えて24発目で直撃を受け、やはり後方に弾き飛ばされる。
「不思議? でもね、実感するでしょう? 戦闘に活きる能力がどれだけ有用なのかを」
そんな事を言うからには、先程から先を見通すかの如く、命中にまで要する弾数を言い当て、こちらの回避パターンを見切っているのはその能力のおかげなのだろうか。
確かに、もし先の事がわかる能力なんてものがあるなら、これ以上無いというほど戦闘には有用だろう。
余計な考えは捨てろ、と自分に言い聞かせる。
自分にはそんなものは無いし、望んだところで今すぐ手に入るものでもない。
今は、ただ集中し、自分の技能を最大限発揮する事だけを考えるべきだ。
「26発」
回避に失敗して、左肩に着弾。黒の戦闘衣が弾けた。
「……32」
集中力が高まっていくのを自覚する。
最初は、視認するのもやっとだったなんて嘘みたいだ。
弾道のほとんどを見切れるようにはなっていた。
だが、どれだけ反応が早くなろうと身体能力そのものはすぐさま向上するものではない。
来るとわかっていても回避の取りようの無い弾丸に撃ち抜かれた。
「56!」
次第に増していく弾幕の密度。
不思議な感覚だった。
生死の極限状況下にあって、頭はひたすらクリアに。感情も何も抱かず、ただひたすら繰り出される弾幕を見切り、体躯を動かす。
弾幕がゆっくりと迫ってくる。
先程、掌底で打ち抜かれ吹き飛ばされた時の感覚に似ていた。
時間が止まっているかの如く、ゆっくりゆっくりと飛んで来る。
これが極限の集中力の成せる技か。
だがしかし、相手の能力を覆すには至らない。
やはり宣言通りの弾数で右足を撃ち抜かれた。
すでに両手もまともに動かない状況ではあるが、足はまずい。
攻撃もままなら無い状況において、回避の手段も奪われてしまっては。
「そろそろ詰みかしらね」
そう言った吸血鬼の右手には『槍』があった。
無骨な鉄槍などではない。
吸血鬼が纏う燐光を束ねて鍛え上げたかのような真紅に輝く魔槍。
訳も無く確信した。
『アレ』は、間違いなく己の心臓を貫くのだ、と。
「かの片目の英雄の槍は放てば必ず敵を貫いたというけれど。……5発目よ。頑張りなさい」
初弾。
何てことは無いただ真っ直ぐ飛んで来るだけの小さな弾丸。
だが、しかしまともに足が動かないこの状況下ではそれをかわすのすら困難だった。
身体を傾けぎりぎりかわす。
次弾。
やはり、工夫も何も無い普通の弾丸。
もはや回避することもままならないと吸血鬼も理解しているのだろう。
かわすのは不可能と判断し、短刀を投げ撃ち落した。
後3発。
少女の思考は加速していく。
何か、何か手は無いかと。
3発目。
ゆっくり、ゆっくりと迫り来る、弾丸。
思考だけが加速し、身体は鉛の海の中にでもいるのではないかというぐらい重い。
見えてはいるが、かわすのは容易では無い。
身体を傾け、重力に引かれるままゆっくり、ゆっくりと体を倒し、どうにかしてやりすごす。
4発目。
崩れた体勢ではどうやってもかわしようが無い。
短刀で撃ち落とそうと、引き抜く。
腕が重い。
ゆっくりと迫る弾丸。
刹那の間に3投をこなすはずの腕は錘でも仕込んであるかのようにゆっくりとしか動かない。
体感的には分に匹敵するほどの時間をもって、ようやく撃墜に成功する。
そして、其れが来る。
放たれた真紅の魔槍は、それまでの弾丸とは比較にならない速度でもって迫り来る。
思考が加速し、何十倍という時間密度の中であって魔槍は『普通』に飛んで来る。
どれほどの速度で飛んできているのか想像も付かなかった。
弾道から予測される着弾地点は、やはりこちらの心臓。
迎撃は無理、と即座に判断して回避に移るも、迫り来る死の脅威に対して、その速度はあまりにも遅い。
亀の歩みよりも遅い我が身に辟易する。
動け。
と、意思をもって叫んでみるも、どうにもならない。
動け、動け、動け。
諦めない。
何度も何度も命じて、少しでも着弾地点を逸らそうと足掻く。
動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け。
死を目前として、極限を通り越して走馬灯の域にまで達した集中力が、一瞬を永劫へと引き伸ばす。
ゆっくり、ゆっくりと迫り来る魔槍。
先端がついに、黒の戦闘衣に触れ、時間をかけて突き破って来る。
すでに、何ミリかは皮膚にまで食い込んでいるはずだが、痛みは感じない。
いや、引き伸ばされた一瞬の中では感じようが無い。
動け動け動け動け動け動け動け動け動け!!!!
眼球の奥が熱い。
全ての思考を置き去りにして、ただひたすら念じる。
動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け!!!!
脳髄が焼切れるほど強く念じた、その瞬間。
魔槍が動きを止めた。
何故、とは考えなかった。
考える余裕などありはしなかった。
停止した魔槍。
しかし、それに対して『普通』に動く、我が体躯。
眼球を走らせて見れば、後方にはやりすごした弾丸が、やはり空中に縫いとめられたかのように停止していた。
そして、それは吸血鬼も同様。
ここまでか、と諦観の表情さえ浮かべて、槍を放った体勢のまま停止している。
灼熱と化した脳髄では思考も何もあったものではなかったが、身体は染み付いた動作を忠実に実行する。
停止した槍から身を引き抜いて、かわし。
残った最後の短刀を吸血鬼に向かって投げ放った。
そして、そこまでが限界だった。
限度を超えた集中力を発揮した脳髄は、少女の意識を手放した。
身体が倒れ込みながら、視界が閉ざされていく。
そして、真っ暗になった。
「え?」
吸血鬼は思わず声を上げていた。
目の前の光景を信じる事ができなかった。
解き放った魔槍は、間違いなく侵入者の心臓を貫くはずだった。
それは間違いない。
予測などという物ではない。
そうなる事は決まっていのだ。
実際、この眼はその左胸に突き刺さっていく瞬間を捉えていた。
だが、しかし。
目の前で起こった事をそのまま表現するならば、この吸血鬼の動体視力をもってしても捕らえきれないほどの速度で侵入者は身をかわした。
いや、より正しく表現するならば、移動の過程を一切認識させないまま、槍の貫く範囲の外に移動していた。
「瞬間移動? いえ、違うわね」
かわされたと認識した直後、投擲のモーションすら見せずにこちらに飛んできていた短刀の存在を考えれば、侵入者が一体何をしたのかは検討が付く。
「時間を止めたのか。今の今まで、そんな能力を持っていた様子は無かったんだけど」
咄嗟の事で払いのけるのに失敗し、左の掌に突き刺さった短刀を引き抜き、投げ捨てた。
「ともすれば、今、この瞬間に目覚めたって事かしらね」
なんともご都合主義な、と苦笑を浮かべる。
だが、重要なのはそういう事ではない。
短刀を放った所で力尽きたのか、倒れ伏した侵入者に視線を向ける。
「かわした。それはわからなかったな」
死の運命。
間違いなく、それは侵入者に訪れるはずのものであった。
あの瞬間、放った魔槍は心臓を貫く事は決定されていたはずだったのだが。
「面白いわね、貴女」
少女が目の前で見せたのは、恐らく時間停止の能力。
だが、吸血鬼にとってはそんなものではない。
「運命を乗り越えた、か」
決まっていたはずの事を覆す。
吸血鬼にとって、それがどれほど凄まじいものなのかは、その能力故にこそわかっている。
惜しい、と。
先程、もたげた思考が再度浮上する。
そして、吸血鬼の中で一つの決定が行われる。
「このまま、こんな辺境の地に篭っていても、いずれ滅び行く運命にあるのは、私でなくても明白な事だしね」
この館の人員も減ってしまった。
そして、新しい土地を目指すならば、新しい人員を迎え入れるのも良いだろう。
「決めたわ。私は貴女を従者にする」
言葉にするのは容易い。
しかし、この身を討ち取りに来たものを配下とするのだ。
それは簡単な事ではない。
だが。
それぐらい出来なくて、この館の主が務まるものか。
装飾の一つも無い凶刃。
面白みの欠片も無い鉛色の刃。
吸血鬼は少女の事をそう評した。
だが。
装飾が無いならば、彩れば良い。
面白みが無いのならば、付け加えればいい。
主となって、この一振りの刃に彩りを施すのは、それはそれで楽しいだろう。
「名前、何にしようかしら?」
見上げた星空には、十六夜月が咲いていた。
ただ、能力が戦いの中で発現するというのはご都合主義すぎて流石に少し引っかかりましたが……
個人的には、能力が使える状態の二人の戦いも見てみたかったです。
大まかに雰囲気は出ていたのでよろしいかと。
問題点としましては、戦闘終了後がかなりあっさりと流されてしまったことですかね。蛇足気味でも二人の会話を入れればよかったかな、と思います。
あと咲夜さんが館に来た経緯ですね。まず「こうありき」で始まってしまったので、物語として厚みが少ないんですよねー。なんらかの経緯、咲夜さんがここに来る切欠とかが欲しかったですね。
確かにどちらかといえば、オリキャラものに分類するんでしょうが、読んでる人は確実にあの人を想像してると思いますし、2行目の注意はなくていいかも?
下の方も書いてますが、ご都合主義とはいえ、そういう展開好きなんで十分楽しめました。
■2008-04-13 01:46:23さん
気に入っていただけて何よりです。
■2008-04-13 02:25:14さん
>ご都合主義
ですよね。
山場。敗北しながらも一矢報いてかつ生き残る。お嬢様の興味を引いて従者フラグを立てる。
これだけの条件を満たせる展開を他に思いつけませんでした・・・。
時間を操る程度の能力に目覚めてからの戦闘は、この後、主従関係を確立させるまでに何度も行われる事になるでしょう。
そのエピソードを書くのも面白いと思うので、機会があれば書きたいと思います。
■野狐さん
戦闘シーンをメインで~ という初期コンセプトに囚われすぎたと反省しています。
一応、ここに至るまでのエピソードも考えてはいたのですが……二次創作としての態を保てそうにない代物だったのでバッサりカット。
本編を邪魔しない程度の長さで、かつ説得力のあるものを用意できればよかったのですが・・・。
己の未熟を感じます。
■☆月柳☆さん
序盤の描写で想像するからこそ、諸々の捏造設定に引っかかりを覚える人が多いかなー、と思いましての注意書きでしたが……確かに杞憂だったかもしれません。この辺の扱いはなんとも難しいですね(汗
ともあれ、楽しんでいただけて何よりでした。