いくら本を読んでもわからないことがある。
いくら閉じこもって考えても辿りつけない何かがある。
わたしは、この五百年の空白をいまだ埋められずにいた。
真っ白な彼女の真っ黒な空白
真っ白なキャンバス。
絵を描くのは好きかしらと聞いてくれたお姉様にわたしはうんと短く答えた。本当は絵を描くより本を読むほうが好きだと言えなかった。だって白い紙を手渡されても何を描いたらいいのかわからない。だけどそう言ったらお姉様がかなしむ。わたしがここに閉じこもっていることに、誰より責任を感じているのはお姉様だとわたしは知っていたから。
真っ赤な血液。
お姉様はスケッチブックをくれた。絵を描いてそれをもし自分に見せてくれるなら嬉しい、そうお姉様は言った。だから何か描こうと思った。できるだけたくさん色を使った絵がいい。きっと華やかに見える。そうしたら、お姉様のかなしい顔も見ないで済むに違いない。わたしは色鉛筆を探した。
真っ黒な空。
色鉛筆は、なかった。部屋の隅っこでこなごなになっていた。いつかはわからない、ただ壊してしまったんだろうということだけはわかった。あぁ、これじゃあ絵が描けない。壊したから新しいのをちょうだい、なんて言えない。本末転倒だもの。絵が描けない。だから指を切った。その血でスケッチブックに空を描いた。真っ赤な血で真っ黒な空を描いた。
ざりざり。紙と傷口がすれて痛い。がりがり。何度も何度も指を切っていくどもいくども色を塗り重ねて、真っ黒な空を描いていく。
描き終えてから、どうしてこんな絵をお姉様に見せられよう、と思い至ってわたしは泣いた。
* * *
パチュリーはいつものように大図書館でいつものように紅茶を飲みながら本を読んでいる。いつもと違うのは、側にわたしがいることだった。パチュリーはどうやってお姉様の友達になったの、と聞いた。それだけ聞くためにやってきた。パチュリーはすこしだけ笑って、どうしてと聞き返してきた。
「だって、友達になるってことは相手と一緒にいるだけで相手を楽しませてあげられるってことでしょう? 一緒にいても、そのひとの負担にはならないんでしょう?」
わたしはお姉様の友達になりたい。なってあげられるなら、わたしはなんだってできる気がする。
「妹様、貴女はレミィの妹でしょう。姉妹を友達とは言わないわ」
パチュリーだけがお姉様を『レミィ』と呼ぶ。お姉様だけがパチュリーを『パチェ』と呼ぶ。まるで専売特許のように、他を排斥するように、ふたりだけの決め事のように。そんな約束が、わたしはほしい。お姉様の唯一になりたい。だけどわたしには、その資格さえないらしい。
「姉妹じゃだめだよ。友達じゃなきゃだめ、意味がないのよ。何が友達なの。何をどうやってどうすれば友達になれるの」
パチュリーは、どこか困ったような顔をしている。困っているのはわたしなのに。
「何を急いているの妹様。私とレミィが友達であるのは私たちが『他人』だからよ。それは精神の繋がりだわ。他者は精神でしか交われない。でも姉妹は血の繋がりよ。心はすぐに移ろうし、感情はすぐに揺れ動く。だけど血は絶対。身体の繋がりは決して揺らぐことはないわ」
言っていることがわからない。心とか体とかそんなのはどうでもいい。わたしはただお姉様をかなしませたくないだけなのに。お姉様と友達になれればかなしませずに済むと思ったのに。
お姉様の友達にはなれない。わたしはお姉様をかなしませずに生きてゆくことはできない。あぁ、だったらわたしはなんのために生まれてきたんだろう。
「ねぇパチュリー、どうして望んでもないのに生まれてうれしくもないのに死んでいくんだろう」
「望まれて生まれて悔やまれて死んでいくことに気付くためよ」
「うそだぁ。わたしは望まれて生まれてきたんじゃないのに」
「そんなことはないわ。レミィは妹が欲しかったのよ」
「あぁ、生まれてくるんじゃなかった」
パチュリーはわたしを見つめて、それきり何も言わなかった。どうして生まれてしまったのだろう、その言葉は本と本の隙間に吸い込まれて静かに響いただけでどうにもならなかった。パチュリーの視線はもう本の文字。わたしの視線はどこにも、ない。
* * *
血で真っ黒になったスケッチブックを放り投げる。
誰もがフランドール・スカーレットはレミリア・スカーレットによって地下に『閉じ込められている』と考えている。咲夜やパチュリーでさえそう。お姉様はそれを訂正しない。お姉様自身そう思っているから。本当は違うのに。わたしが引こもっているだけなのに。だけどそれを、誰も知らない。お姉様でさえも。
わたしは――なんのために生まれてきたのだろう。
わたしが生まれた日、お母様は死んだ。わたしが破壊したから。笑っては壊し泣いては壊し怒っては壊しよろこんでは壊しかなしんでは壊し、つまらないから壊して楽しいから壊して汚いから壊してきれいだから壊して――物心つくころには、わたしの側には誰もいなかった。お父様でさえ、わたしを恐れわたしを嫌いわたしを憎んだ。うす汚れた忌み子とわたしを呼んだ。わたしに与えられた地下室は独りになるにはもってこいで、わたしが孤立していくのは当然の成り行きだった。来る日も来る日も開閉を忘れた重い扉をみつめ、とうとうお父様の声を忘れかけたころ、わたしは思った。
誰もわたしを好いてはくれない。みんなわたしを忘れたがっている。恐いものにふたをして、恐怖ごと隠してしまう。恐怖も憎悪も憐憫も、わたしにはなんにもない。誰の記憶にもわたしはいない。みんな忘れてしまうから。そんなの、いないのと同じじゃないか。わたしは、どこにもいないのか。わたしはここにいるのに、どこにもいない。シュレディンガーの猫はどこにもいない。
扉が。
それはわたしがあらゆる声を忘れたころ。
扉が、開くことを忘れたはずの扉が。うそみたいに、開いた。
「迎えにきたわ」
そのときのよろこびをなんと呼ぼう。わたしの眼を見てわたしの手を取ってわたしに向かって話してくれた。限りなくゼロまで消えかけていた誰かとの繋がりを、このときわたしは確かに感じた。わたしは『ここ』にいるんだと、認めてもらえた。
「永い間待たせたわね、フランドール」
数百年ぶりに名前を呼ばれた。こんなにきれいでやさしい声色で。誰かに名前を呼んでもらうことがこんなにうれしいことだなんて知らなかった。こんなにきれいなひとが、うす汚れた忌み子の手に触れている。それがどんなにわたしの心を満たしたか。
「わたしのこと、きらいじゃないの」
「私は貴女の姉よ。嫌いであるはずがないでしょう」
そのひとは笑って、わたしを抱き上げた。そんなことをされたのは初めてだった。誰かに触れている。肌の温度が伝わってくる。その温かさがどんなに救いだったか。
「一緒に逃げましょう、フランドール。きっと――素敵だから」
すてき、なんて言葉は知らなかったけれど。良い意味なんだろうと思った。だってこのひとが笑うから。見たこともないきれいな顔で、笑うから。
そうしてわたしは、そのひとと一緒に世界から逃げた。
あれからもう百年以上経っている。誰からも忘れ去られすべての意味を失ったわたしに居場所をくれた。お姉様なしに今のわたしは存在しない。感謝などという言葉に表せるものじゃない。お姉様になぶり殺されたって文句を言うつもりなんかない。
今思えば、お姉様はわたしひとりのために世界を捨てたんだ。そこまでして、わたしを救ってくれた。それなのにわたしは、お姉様に何もしてあげられない。いたずらに困らせて悩ませるばかりで。
価値のないリピート演奏。意味のない繰り返し作業。ただ明日を消化不良のまま繰り越していくだけの日々に、どうして未来があるだろう。
わたしは――なんのために生まれてきたのだろう。
「こんばんは」
声。わたしが誰より大好きな。わたしが何より大切な。
「お姉様……何しにきたの」
こんないやらしいことしか言えない自分がいやになる。かわいくない。
「スケッチブック、使ってくれているのね」
片付けておけばよかった。
「絵は描いたのかしら」
返事ができない。真っ黒な空を血で描いた、なんて言えるわけがない。気が触れていると思われるのはかまわない。でも失望されるのだけはいやだった。
なんなの、この気持ち。くやしくて、せつなくて、くるしくなる。
「……そう」
お姉様は、すこしかなしそうな顔をした。
あぁ、あぁ、あぁあ。どうしてわたしはお姉様をかなしませるんだ。こんなにかなしませて何がしたい。こんなに近くにいるのに、思いのひとかけらも伝えられない。伝えなくちゃいけない言葉がたくさんある。伝えきれない想いがやまほどある。
『他者は精神でしか交われない。身体の繋がりは決して揺らぐことはない』
ねぇ、パチュリー、どうしたらわたしはお姉様と他者になれますか。どうしたら身体の繋がりを絶てますか。どうしたらこのひとは救われますか。誰よりしあわせになってほしい。わたしとはしあわせになれないから。友達じゃなければだめですか。姉妹ではだめですか。
わたし、わたしはどうしたら――大好きだと伝えられますか。
側にいられないなら姉妹なんかでいたくない。愛せないなら姉妹であるべきじゃない。
どうして生まれてきてしまったんだ。生まれてこなければ。わたしさえ生まれてこなければ。そうしたら、お姉様はしあわせのままであれたのに。
「ちょっと……どうして泣くのよ」
どうしてなのか、わたしにもわからなかった。こぼれていくのを止められない。くやしくて、せつなくて、くるしい。それだけのことだった。心臓が壊れそうなくらいくやしくて、息ができなくなるほどせつなくて、前が見えなくなるくらいくるしいだけだった。お姉様が大好きなだけなのに、どうしてこんな気持ちになってしまうんだろう。
ひゅ、と床が遠くなる。じかに座っていたはずなのに。ぼふ、とベッドに落とされる。
「泣きたいときは泣いた方がいいわ」
お姉様のやさしい声。
「ごめんなさいね、辛い思いをさせるばかりで」
違う、と叫ぼうとした。けれど言葉は涙をしゃくりあげるたびにかき消されて声にならない。
ずっとつらいのは、お姉様じゃないか。わたしのせいで、ずっとくるしいのはお姉様じゃないか。消えてしまいたい。わたしが消えてお姉様がしあわせになれるなら、わたしは喜んで消える。しあわせになってほしい。だけど、わたしではしあわせにしてあげられない。生まれてこなければよかった。生きるべきじゃなかった。
こする手をつかまれた。代わりにハンカチが顔にかかる。ありがとうさえ言えず、ハンカチをまぶたに押しあてた。
「あのね、私がこんなことを言う資格なんかないかもしれないけど、ね。私は貴女が――大好きよ」
何も言えなかった。ただお姉様に抱きつくことしかわたしには。
ねぇ、パチュリー。わたしも望まれて生まれてきたと信じてもいいですか。
ねぇ、お姉様。もうすこし貴女のやさしさに甘えてもいいですか。
* * *
「珍しいわね。レミィが連日本を持っていくなんて。頭打った?」
「失礼な。読書の喜びに目覚めたのよ」
ここ最近、友人は嬉々とした表情で本を借りていく。時には本選びに付き合わされることもある。活字を嫌う性分のはずだが、一体何があったのだろう。
「それが真実なら私にとっては喜ばしいことだけど」
「フランがねぇ」
本を一冊抜き取って、友人はこの世に不幸などないと言わんばかりの笑顔で言った。なんて、幸せそうな顔で笑うんだろう。
「一緒に本を読みたい、って言ってくれたの」
悪魔のくせに、天使みたいな顔をして。悔しいくらい、綺麗な笑顔だ。私ではきっとそんな顔をさせることはできないだろうから。
レミィも妹様も恐ろしくすれ違ったままだったからどうなるかと思っていたけれど。この調子なら、姉妹の相合傘の散歩が見られる日も近いかもしれない。
『わたし、色を知らないの。だからスケッチブックに絵は描けない。外に出てたくさん見てから描きたいの。外の世界でいっぱいにしたいの。だからお姉様、外に出られるようになるまでわたしと一緒に本を読んで?』
妹様はそうレミィに告げたそうだ。妹様なりの精一杯の歩み寄りだったのだろう。自らの血で真っ黒の空を描いたと聞かされたときには驚いた。確かに妹様は色を知るべきだ。空は黒じゃないんだよ、とレミィの口から教えてやらなければならない。
妹様は狂ってなどいない。ただ少し不器用なだけ。能力に振り回されて制御できないだけ。そんな極大の能力が外に出れば結果は眼に見えている。だからレミィは妹様を地下に閉じ込めた。きっと、妹様もわかってくれる。貴女の愛情を。世界を敵に回してでも居場所をつくってあげたかった心優しい姉の唯一の愛情を。知っているのよレミィ、吸血鬼異変が妹様のためだってことくらい。大方、妹様に拮抗しうる抑止力が幻想郷にあるか確認したかったのでしょう? 貴女は聞いてもまともに取り合ってくれないけど。
「まぁ、頑張りなさいよ」
「言われずとも」
損な役回りだと思う。複雑な心境。本音としてはあんまり応援したくないのだけど。だってレミィが私を……いや、やめておこう。姉妹の間に友人が割り込むのも無粋な話。私はただ気心知れる便利な知識人。それで充分だ。
ねぇ、妹様。貴女は確かに望まれて生まれてきたのよ。私の友人が一生懸命幸せにしようとしているのだから、思い切り幸せになってもらわないと困る。ゆっくりでいい。ゆっくり、レミィと一緒に五百年分の空白を埋めていけばいい。何も遅くなんかない。
妹様の口から生まれてきて良かったと聞くまで、絶対に死んでやらないから。
* * *
いくら本を読んでもわからないことがある。
いくら閉じこもって考えても辿りつけない何かがある。
だけどわたしは、この五百年の空白を埋められそうな気がする。
――お姉様と、一緒なら。
うふふ
美しいと感じました。
姉妹とそれを見守る友人に幸あれ
優しさ溢れるレミリアやフランが素敵ですね。
二人のお互いを想っての誤解が解けることを願ってます。
うふふ
楽しく読ませて貰いました。
紫モヤシが気になりますね。
三人ともいい子だ(ノ∀`)
いつかフランが青い空の絵をかけるといいなぁ
それを見守るパチェさんも優しい。
とても優しい世界。
ステキな話をありがとうございました。
素晴らしい。
妹様もお嬢様も素敵だ。パチェも。
素晴らしいです
あなたの書く作品が好きなんです
それゆえに上手くコミュニケーションがとれないっていうもどかしさが良かった。