Coolier - 新生・東方創想話

ツキのつかぬもの

2008/03/29 08:46:36
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 リリー・ホワイトが春を告げ、うららかな日々を迎えている幻想郷。
 芽吹く木々や草花や土から這い出てきた虫たちが、久方ぶりに野山を賑わわせている。 しかし雪が降ろうが花が咲こうが、人里に至っては活気が絶えまなく満ちていた。
 そんな里へと小麦粉を買いつけにやってきた十六夜咲夜は、なじみである雑貨屋の店主といつものやりとりを繰り広げていた。

 「あら、またおまけしてくれたの?」
 「あぁ、いつもきてくれる別嬪さんは優遇しないとな!」
 「まぁお上手だこと。でもそのセリフは後ろのかたにもおっしゃってあげたら?」
 「へ? ……アッ、か、かあちゃん!?」

 その下心いっぱいのサービスも、それを受け流すのも毎度の光景。勿論、その後の夫婦漫才もである。今日も変わらなかったオチに笑みをこぼしながら咲夜は店を後にする。



 人里は数多くの妖怪がはびこる野山と違い、人間が大手を振って歩くことが出来る。その往来では多くの老若男女が行き交い、周囲の店先からは威勢のよい客引きの声が飛び交う。ここでならば人間はが妖怪たちに恐れることなく、営みを育むことができるのだ。そう、幻想郷における唯一の人間のテリトリーなのである。
 とはいえ、ときには人込みに紛れて里へと顔を出す妖怪もいる。買い出しを終えて帰路についていた咲夜の目に、ふとその者たちの姿が映った。
 それは大きな耳が特徴的な永遠亭の兎たち、そしてその永遠亭に住む月の民の八意永琳である。
 普段の咲夜なら妖怪を見かけても危険がなければ素通りしていた。しかし今日は良い買い物ができて気分が上々だったことと、見知った顔であることから永琳へと話しかけることにした。

 「貴女が自ら里へ来るなんて珍しいわね、薬師さん」
 「あら、紅魔館のメイドじゃない。ごきげんよう」
 「今日はなんの悪巧みをしているのかしら?」

  名前を呼ぶ声に振り返った薬師は、にこやかな笑顔を見せて挨拶を贈る。そしてメイド長の皮肉を一笑に伏してから、手提げ袋から小さな紙袋を取り出した。

 「今日は新薬のアピール活動に来ただけ」
 「新薬?」
 「そう。偏食気味な子供用の栄養補助剤、それから婦人用に肌の保湿成分をたっぷり含んだ化粧水。これらを宣伝するためにサンプルを無料配布しているのよ」
 「化粧水を無料で……」

 不意に咲夜の心臓が艶を増す。化粧など、主の世話に毎日を費やす自分にとって不必要であり、また無縁のものである考えていた。なにより給金が出ていない。そんな彼女の前に降って沸いた魅惑の言葉。それは、眠っていた女の性を呼び起こすには十分過ぎる効果があった。
 しかし日頃あまり感じない衝動をさらすのは気恥ずかしかったのだろう。思わずそれを催促してしまったが、あくまで遠慮がちであって。

 「あの、わ、私にもそのサンプル……頂ける?」

 咲夜の珍しい一面を見をほほえましく見つめていた永琳だったが、

 「貴女には必要ないものよ」

 とつれなくあしらう。咲夜にとってその反応は、無料と謳った直後だけに非常に理解に苦しむもの。食いかかってその理由を激しく問い詰めるのは当然の行動だった。

 「ちょ、今無料っていったじゃない、どういうこと!?」
 「だって貴女、今でも十分ピチピチじゃない。それ以上潤ったらふやけちゃうわよ」
 「えっ……」

 古典的な褒め殺しではあったがそれは見事に決まり、咲夜の怒りは完全に吹き飛んでしまった。普段の瀟洒な彼女なら冷静に対応できたかもしれないが、こうなったのもうっかり女心を覗かせていたから……かもしれない。
 思わぬ反撃に紅潮したまま呆けている咲夜を永琳は一瞥し、

 「それじゃあ、またね。キレイなメイドさん」

 と別れの言葉を残し颯爽と去っていく。咲夜はその後姿を、まるで時を止めたられたようにだまって見送っていた。




 やがて咲夜が我に返った頃、永琳の姿はすっかり見えなくなっていた。

 「相変わらず掴めないヤツ」

 そう悪態をついて彼女の歩いていった先を見つめつつ、抜き差しならない相手の好々爺然とした態度に半ば感心を覚えていた。そんな風に感じるのも単に褒め殺しの効果がまだ続いているだけ……だったかもしれない。

 「あーあ、もらい損ねちゃったわね。ま、いっか」

 いまだに少し引かれる後ろ髪を無理矢理引き戻し、改めて帰路に立とうと踵を返す。しかし次の瞬間、振り向きざまに正面から軽い衝撃を加わり少し後ずさる。何事かとその正体を確かめるべく、すぐさま前方を確認する。するとすぐ目の前の地面には尻餅をついて顔を歪ませる少女の姿があった。咲夜は他に怪しい気配が無いため、この子が原因であるとすぐに察した。

 「大丈夫?」

 そういって少女へと手を差し伸べる。少女はしかめた顔を一度咲夜の手に向けたあと、何かを思い出したように自分の右手へと向きを変える。その右手は体を支えるため地面へべったり突ついた状態だった。それを見て今度はキョロキョロと周囲を見回し始める。咲夜はその動作の意味をまだ理解できず、だまって見守っていた。
 しばらくして少女はある一点で視線を止めた。咲夜もそちらへ視線を移すと、そこには土にまみれて転がっているみたらし団子がひと串。
 『団子……あ、そういうことね』
 それを見てようやく現状を把握する。そして同時に、決して楽観できないことも。
 なぜなら似たような経験は主や妹様で何度もしているからである。咲夜は即座に脳内の膨大な記憶から対応策を検索、そしてひとつの答えをはじき出す。
 『手がつけられなくなる前に、謝ってなだめて誤魔化して、全ては無かったことする!』
 この作戦を早速実行すべく少女へと視線を戻す。しかし事態は、ある意味予想通りの展開へと発展していた。既に少女は顔をくしゃくしゃ崩し、大粒の涙と割れんばかりの声をあげ泣き出していた。

 「遅かったか……」

 しかし咲夜にうなだれている時間はなかった。周囲からは次々と好奇の視線が送られている。このままでは自分が子供を泣かせる極悪人のレッテルを張られるのは確実で、それはさすがに不本意だ。そう考えた咲夜は次なる案を検討し実行に移す。

 「あぁ、ごめんなさい、私が悪かったわ。お詫びに新しいのを買ってあげる」
 「えぐぅ、うっ、ほんと?」
 「えぇ、本当よ。だから泣き止んで」
 「うぅ、うん」

 何とか第2候補案は成功し、さっきまで『この人が犯人です!!』とばかりに挙げ続けていた大絶叫を収めることが出来た。咲夜はその様子を安堵の表情で見つめた後、僅かに嗚咽する少女の手を牽いて団子屋へと向かった。




 『結局、おまけしてもらった分はチャラになったわね』
 雑貨屋の主人の下心サービスが飛んでいったことに、咲夜はほんの少し肩を落とす。しかし団子を美味しそうに頬張る少女の笑顔を見て、少し気分を持ち直す事が出来た。

 「美味しい?」
 「うん、おいしい!!」
 「そう、よかった。あ、ちょっと待って」

 そういって少女の前にしゃがみ込み、口元についた餡をそっとハンカチで拭う。その間、団子から口を離してじっとしている少女の姿に、咲夜は我が主の面影を重ねていた。
 『まったく、どこかの誰かさんみたい』
 数多の妖怪たちのなかでも、無類の高さを誇る魔力と生命力を持って夜を統べる吸血鬼。その“力”と狡猾さ、残忍さで人々を恐怖へ誘い、何者も自らへ寄せつけようとはしない。そんな誰もが畏怖する者こそ、咲夜が主と崇める者である。
 しかし普段目にする主は今目の前にいる少女となんら変わりがない。
 好き嫌いが激しくわがままで、とても世話は焼けるが、いつも無垢で純真な笑顔を向けるただのお嬢様である。
 仕え始めたころは、それまで気位の高い孤高な存在だと思っていただけに少々ショックを受けたが、今ではそんな姿も含め自分の人生全てを捧げるに値する存在と位置づけている。そんな主へと思いを馳せていた咲夜だったが、少女の声で現実に引き戻されることとなる。

 「ねぇ、まだー?」
 「あぁ、ごめんなさい。もういいわよ」

 ハンカチをしまい腰を上げ咲夜の目に、前方の夕日が飛び込んでくる。赤く染まる山の稜線へと隠れ始めたそれを見て、本来の仕事があったことを思い出した。

 「いけない、そろそろ戻らなきゃ。それじゃ、今度は落とさないようにね」

 そういって少女の手を離そうとする。しかし小さな手は咲夜の細い指を一向に離そうとしない。

 「ほら、もうお家に帰る時間よ。家の人が心配するわ」
 「おうちまで送ってって……」

 少女はうつむきながら、もごもごと小さい声で要求を伝えてくる。その手の掛かりようが主に匹敵することを半ばあきれつつ、その強く握られた手のぬくもりに、最後まで少女につき合うことを心に決めた。

 「しょうがない、送ってあげるから案内して」

 その言葉を聞いた途端、少女は急に顔を上げ、団子を頬張ったとき以上に晴れた表情を見せた。それを見て咲夜は自嘲する。妖怪たちすら退ける自分が、こんな少女の笑顔には勝てないのかと。ひとしきり自分にあきれたところで再び手を握り返し、咲夜は少女の誘う路地へと進んでいった。
 そんな2人のやりとりを1羽のカラスが近くの屋根から眺めていた。そして2人の姿曲がり角で消えると大きく黒い翼を羽ばたかせ里を後にした。



 空には厚い雲に半分以上覆われた三日月が浮かんでいた。
 咲夜が昼間の里での出来事を忘れ、主の世話に明け暮れていた頃、迷いの竹林に程近い森に1羽のカラスが舞い降りる。直後、甲高い笛の音がひとつ、暗い闇の中に響き渡った。少し間を置いて今度は先程よりやや低い笛の音が2つ響いてきた。するとカラスはその音に呼ばれるように再び飛び立ち、周囲よりもひと際太く高い木の下へと降下していった。
 カラスは地面へと足の高い下駄をつけると同時に木陰から人影が進み出てきた。
 その顔は雲と木々の葉の影となり、ほとんど黒いベールをかぶせたように隠されている。しかしカラスはその人物が誰か知っているかのように、なんの警戒も無く近づいていった。そして人影へと話かける。

 「こんな夜中に落ち合うのはやめましょうよ。ただでさえ鳥目なのに」
 「普段は物陰からプライベートを探っているくせに、よくいうわね」
 「あややや、手厳しいですねー」

 ささやかな不満を軽くいなされ、カラスは恐縮する。しかし人影はその反応などどうでもいいように話を進めた。

 「それよりも仕事はしっかりしてくれたのかしら?」
 「それはバッチリです。これが証拠ですよ」

 そういってカラスは懐から1枚の紙を取り出して渡す。その紙は手のひら程の大きさでやや厚みのあるものだった。それを受け取った人影は、月光が差し込む場所へと移動する。僅かな月明かりがその人影の口元と紙に写った画像を照らし出す。その画像は少女と手をつなぐ昼間の咲夜の姿だった。人影の動向を見守っていたカラスは、淡く青白い光の中でゆっくり口元が緩むを見て、仕事の出来に手応えを感じた。

 「どうです、よく撮れているでしょ?」
 「えぇ、上出来よ」
 「それじゃその写真は、次の新聞に載せますね」
 「そうしてちょうだい。約束通りにトップ記事でね」
 「勿論、そちらこそ約束を忘れないで下さいね」
 「大丈夫、忘れていないわ」
 「それを聞いて安心しました。それでは私はこれで」

 カラスは一陣の風を纏ったかと思うと、あっという間に暗い空へと飛び立っていった。それを見送った人影は口元に笑みを浮かべたまま暗い森へと姿を消した。
 夜の闇は2人の姿と会話の意味するものをいまだに隠したままだった。




 ※  ※  ※




 翌日の幻想郷中に、とある人物のスキャンダル記事が速報としてばら撒かれる。そのスキャンダルの中心人物は紅魔館のメイド長である十六夜咲夜。そしてその彼女の記事につけられた見出しは、

 “ついに尻尾を出した悪魔の犬!!
  ロリコンメイド長、幼女誘拐疑惑
  オトナの御奉仕ヤっちゃた!?”

であった。記事には昨夜、三日月が照らし出したものと同じ写真が掲載されていた。いつもより発行部数が多かったこともあり、その新聞は早々に当事者の目にするところとなる。
 「あのカラスっ……、よくもこんな記事を!!」

 新聞を握りつぶし怒りで身を震わすその姿からは、“瀟洒で完璧なパーフェクトメイド”の二つ名が微塵も感じられなくなっていた。
 ちなみにこの新聞に関する紅魔館の主要メンバーの反応は次の通りである。

 レミリア:記事よりも将棋の広告に夢中。
 フラン:新聞に興味無し。目すら通していない。
 パチュリー:トップ記事の下にある『永遠亭、新薬開発』の記事に興味津々。

 一様にリアクションが薄い。なお、部下および泥棒の反応は次の通りである。

 妖精メイド:普段通りに命令はこなすが目を合わせない。どちらかというと避ける。
 小悪魔:「いつものゴシップ記事だから気にしないで下さいよー」とフォローしてくれる。唯一まともな反応。
 門番:サボリを見咎めて叱るも、「すーいーまーせーんー」と反省の色がない謝罪を返される。おまけに顔には『ロリコンにいわれてもー』と書いてあった。
 泥棒:はばかりもなく「よう、ロリコン。今日も本を借りに来たぜ」という。悪態はいつもの事だが本は盗まないように忠告しておく。

 とりあえず美鈴には殺人ドールを存分にかまして、それぞれの反応を分析する咲夜。上層部はともかく、部下たちがこれでは仕事に支障が出る。ものの数秒で出た分析結果から、やはり発行元である射命丸文に対し、クレームと訂正記事掲載の要求を伝える事で脳内会議は結論を出した。
 館内の業務を手早く済ませ、早速文を探しに外へ飛び出す。しかし館を出てすぐ、文の居場所を知らないことに気づく。
 『確か妖怪の山にいるはずだけど、詳しい場所は知らないし……。そういえば、以前巫女が山のほうに行っていたはず。彼女なら知っているかも!』
 何とか見つけた糸口を頼りに博霊神社のほうへと方向を変えた。



 春の暖気を切り裂きながら博霊神社へとたどり着く。
 ここは幻想郷でも特に有名な桜の名所として、本来の存在意義より名が知られている。むしろ存在意義に関しては知らない者のほうが多かったりするが。そんな神社の桜は、今年も多くの蕾が枝を埋め尽くし、なかには待ちきれないいくつかは、薄桃色の花びらを覗かせ始めていた。
 そんな春の訪れを喜ぶ光景が、今の咲夜の目には入ってこない。ただただ人の気配を探すばかりであった。そして縁側にそれを見つけや、すぐにその者の元へと降り立つ。そこには縁側で呆けながら茶をすする紅白の巫女の姿があった。
 咲夜は降りるや否や、彼女に迫り文の手掛かりをつかむことにする。

 「霊夢、文を探しているんだけど居場所を知らないかしら?」
 「いきなり訪ねるなりいきなり尋ねるなんて、これいかに、ね?」
 「悪いけど問答につき合っている暇はないの」
 「まったく無粋ね。そんなんじゃ、折角きた春が逃げちゃうわよ」
 「もしそうなら、時間を止めて逃がさないから心配ないわ」
 「それこそ無粋ってものよ」

 来客との挨拶がこれ以上弾まないこと悟った紅白は、脇に置いてあった新聞を手にして眺めはじめる。

 「用件はこれのことね」
 「分かっているなら早く答えて」

 暢気な紅白とのやりとりに、咲夜は苛立ちを覚えはじめ少々語気を強める。しかし紅白はそんな咲夜の気持ちを知ってか知らずか、飄々と茶をすすりながら新聞に目を通し続けていた。
 「あんたの気持ちは分かるわよ。誰だってこんな紹介されちゃ……」
 「気持ちはどうでもいいから、早く答えなさい!!」

 ついにはナイフで会話を切り裂き、切っ先を紅白に突きつけ、自分がいかに緊急の用でここにいるかを知らしめた。そしてこれ以上会話を楽しむつもりが無いことも。
 紅白は眉ひとつ動かさず、険しい表情の咲夜と陽光を照り返し鋭く光る刃先を、それぞれ1回づつ見返す。そして観念したかのように、再び口を開いた。

 「分かったわよ。だからその物騒なものを仕舞いなさい」
 「こうさせたのは貴女でしょ」
 「ほんとに無粋なヤツ」

 紅白の言葉に少し気を落ち着けた咲夜は、手品で物体を消すかのように僅かに手を動かしてナイフをいずこかへ消し去った。すると今度は、巫女が袖から瞬時に御符を取り出し咲夜のほうへと投げ飛ばす。一瞬の油断をつかれた咲夜は身動きすることが出来ず、あっという間に眼前へ迫まってくる御符を凝視することしか出来なかった。
 『やられるっ!』
 もはや何も出来ないと悟り、気と体を強張らせて目をつぶり歯を食いしばる。しかし当たると思ったタイミングに、痛みどころが衝撃も伝わってこない。感じられたのは顔の横を何かが通りすぎていく風の音だけだった。その違和感にすぐさま目を開き振り返る。
 すると御符が風よりも早く桜の木々の奥に吸い込まれていくのがかろうじて目に映る。そのまま紅白のほうを見ずに、その行動の真意を伺った。

 「な、何を!?」
 「何ってアンタ、尋ねていたでしょ。おたずね者の居場所」

 その紅白の言葉とあの御符がどう繋がるのか、咲夜はその意味を考えながら御符の行く末を見続けていた。しかしその答えは頭の中からではなく、膨大な蕾を蓄えた桜の枝から飛び出してきた。

 「あややや、こっち来るなー!」
 「あ、文!!」

 先程の御符は空中を滅茶苦茶に飛ぶカラス天狗に遅れることなく、ぴったりとその後ろについて追尾する。文は何とか振り切ろうと速度を上げ、コースを変え、色々と試みてみたが、次第にその差を縮められていった。そして結局振り切れずに被弾し、地面へと落ちていった。それを確認するや否や、咲夜は落下地点へと駆けていき、御符の効力で伸びている文にナイフを突きつけた。

 「見つけたわよ、カラスめ」
 「あやややー……」
 「それにしても何故こんなところにいたの?」
 「咲夜がきた直後に現れて隠れていたわよ」
 「そんな、いつの間に!?」
 「カラスの尾行に気づかないなんてあんたらしくない。これは本当に春が逃げちゃうかもね」

 咲夜の問いに、後から歩いてきた紅白が答える。それを聞いた咲夜は、ここにくるまでの自分を省みる。確かに周りの気配どころか景色すら視界に入れず神社を目指していた。少々冷静さを欠いていたことは否定しようが無い。

 「まったく霊夢のいう通りね。巫女っぽいありがたいお言葉だわ」
 「っぽいじゃなく、巫女なの! ひと言多いわよ」
 「ああ、ごめんなさい。でも助かったわ」

 憮然とする紅白への謝辞もそこそこに、早速本題を済ませることにする。仰向けで倒れたままの文の首元へナイフをあてがい、事の真相を問いただす。

 「文、あんな事実無根の記事を載せて、一体どういうつもり?」
 「わ、私はただ見たまま、ありのままを紹介しただけで……」
 「あれのどこが見たまま、ありのままよ!」
 「え、えーと……」
 「それに何なの、あの発行部数の多さ。いつもの倍以上じゃない」
 「それには色々と事情が……」

 何とか言い逃れようと、小刻みに揺れる眼球は必死に逃げ道を探す。しかし見つかるのは、想像したくない惨劇だけであった。その恐怖はやがて冷たい汗となり、首元のナイフを伝って地面に落ちる。
 待てど暮らせど一向に二の句が出てこない文にしびれを切らし、咲夜は自分の要求を突きつけた。

 「とにかく、あの新聞は今すぐ全部回収しなさい!」
 「いや、それはちょっと難しいです」
 「それなら訂正記事を謝罪文つきで発行しなさい!」
 「そ、それがちょっと……」
 「アンタ、今の状況をわかっているの?」

 相変わらず歯切れが悪く、譲歩案を出しても拒否する文に、咲夜はさらにナイフの数を増やす。今日は何度も頭に血を上らせている咲夜にとって、もはや理性はストッパーの機能を成していなかった。いつ暴走してもおかしくない危険性を、文はナイフから嫌という程感じ取らされていた。
 そんな文に天啓がひらめく。しかしそれはどうにも子供だましにしか思えない。だが今は一刻を争う状況、ましてや他に妙案は出てこない。まさにクモの糸を掴む思いでそれにすがりつく。

 「わ、分かってます! でもこの状況じゃ首を縦に振れません!!」
 「何故? 簡単なことじゃない。アンタがひとつ首を振るだけよ?」
 「だって、今首を振ったら……首が切れてしまいます!!」
 「……」

 咲夜の沈黙に文は自責の念にとらわれる。ほら見ろ、やっぱりじゃないか。自分でいっておきながらあまりにも馬鹿らしい。こんなことで助かる訳がない。文はとうとう救いの光を見出せず、あの世での閻魔様への言い訳を考え始めていた。
 しかし事態は文の予想を大きく裏切った。

 「それもそうね」

 思わず耳を疑う咲夜のひと言。それと同時に首元から下げられるナイフ。
 ありえない。ありえない。でもありがとう。これから全うに生きます。文はひとしきり神様と仏様と閻魔様に感謝を述べると、咲夜が傍を離れた隙をつき風を呼び寄せる。萃められた風は大きなつむじとなってそのまま文を空中へと運び上げた。
 ふいに吹き荒れた強風に煽られた咲夜は後退を強いられ、そのままその場に釘付けにされることになる。文は上空から、立ちふさがる風に両腕で顔の前にあげて防ぐ咲夜と紅白の姿を見下ろしてほくそ笑むと、先程の弱気はどこ吹く風で飛ばしてから、2人にいい放った。

 「急用を思い出したので、お返事はまた今度にしますねー!」

 そういい残すと、大きく黒い翼をひと振りし、まさに風のように上空へと去っていった。幻想郷最速といわれるその逃げ足に追いつくのはもはや難しく、咲夜はその姿を苦々しく見逃すしかなかった。無念そうに空を見上げている咲夜に、紅白は服の埃を払いながら話しかける。

 「ホントに逃げちゃったわね、春」

 それに対し咲夜は何も言い返さない。ただナイフを強く握り、歯を食いしばるのみだった。紅白はさらに続ける。

 「私、たまに思ってたんだけどさ。変なところが抜けてるわよね、あんたって」

 それに対しては咲夜は何も言い返せなかった。



 文を取り逃がして以来、咲夜の虫の居所はどうにも悪くなっていた。自分の不覚による悔しさと、いまだに回収も訂正もされない新聞への苛立ちによるものである。だが美鈴を筆頭に妖精メイドたちが仕事への力の入りかたを改めたのは素直にうれしく感じていた。たとえ咲夜を見る目に恐怖の色が混ざっていたとしてもである。
 そんな緊張感が紅魔館を包んで3日後、新たな新聞に目を通した咲夜は愕然とする事になる。

 “幻想郷に変態はいらない
  永遠亭が児童保護宣言!!
  防止体制へ月の頭脳が意欲”

 トップの記事を人権保護団体設立のニュースが飾っていた。




 ※  ※  ※




 「あてつけも、ここまでくれば露骨過ぎね」

 紅魔館の主はメイド長が入れる紅茶に舌鼓を打ちながら、街頭で熱弁をふるう永琳の雄々しい写真と記事の内容に目を通していた。ひとしきり読み終えたところで、傍らで控える咲夜に話を振る。

 「咲夜の事、引き合いに出されていたわよ」
 「……申し訳ありません」

 訂正記事どころか逆に犯罪者扱いされる事態に主人へ向ける顔が無い。自らに非が無いのを主張し濡れ衣であること伝えたかったが、何故か出てきたのは謝罪の言葉だった。そんな意気消沈した従者に対し、レミリアが次に向けた言葉はあまりにも非情であった。

 「ところで、この将棋ってすごい気になるんだけど、どう?」

 今号も小さな吸血鬼のハートを奪ったのは、晒し者にされた従者の記事ではなく将棋屋の広告だった。こんなときでもレミリアは温情を与えることはしない。常に自分の心のままに生きている存在だ。それが分かっている咲夜だからその言葉に落胆はせず、主の求めるままに淡々と将棋について薀蓄を語り出した。



 翌日、咲夜は里へ赴いていた。今日もいつもと変わらないメイド業務の一環である買出しを、いつも通り済ませて帰る予定だった。しかし、里の人間が向ける視線は以前と変わって冷たいものであった。
 往来ですれ違う人々は咲夜の顔を見るなり、『あれ、紅魔館の……』や『犯罪者よ』などヒソヒソと耳打ちし合う。店に行っては遠まわしに販売を断られる。行きつけの雑貨屋の主人ですら品物は売ってくれたが、

 「来てくれるのうれしいが、しばらく顔を出すのを控えたほうがいい。今のあんたにゃ風当たりがキツイよ」

 と、おまけではなく忠告を渡してきた。それでも咲夜は買い出しを続けたが、方々の店を回ったあげく、結局予定の半分も買えず帰路に着くことになる。
 元々、人でありながら悪魔に与する者として反感の目があったのは知っている。しかしそれを疎ましく思ったことはなかった。悪魔であろうと自分の主を誇りに思うし、またそんな自分の信念を蔑んだこともない。誰に何をいわれようとどう思われようと微塵も負い目は感じなかった。
 それにこの幻想郷では生活に妖怪の存在が密接しているため、理解のある人間が少なくない。なかには紅白の巫女や白黒の魔法使い、雑貨屋の主人のように気さくに話掛けてくれる者すらいる。そして何より敬愛する悪魔の主は、自分に対し絶対的な信頼を寄せてくれる。彼女たちの存在があったから、咲夜は外の雑音をまったく気にせず日々を送ることができていたのだ。
 しかし人々の騒音は次第にその音量を増し、ついには咲夜のみならず主の下にまで侵攻を始めることになる。
 相変わらず後ろ指を差され続けていたある日の朝、門番である美鈴からの報告を受け紅魔館の外壁に向かって走る。広大な屋敷内と庭園を駆け抜けたどり着いたそこには、おびただしい程のゴミの山と、主と咲夜に対する罵詈雑言で汚された外壁があった。
 ついに形を成した嫌がらせに咲夜は膝の力が抜けていくのを必死に堪える。狼狽する美鈴を前にメイド長である自分が崩れ落ちる姿を見せたくなかったからだ。すぐに美鈴へブラシを持ってこさせ、ゴミの処分を指示する。そして自らは壁の清掃に取り掛かり、自分から端を発したことへの責任をとることにした。



 昼を過ぎて、空からは弱い雨が降り出していた。咲夜はいまだに壁へブラシを掛けている。その彼女の元へ美鈴がブラシを手に駆け寄ってきた。

 「咲夜さん、あっちの壁は終わりました。あと、雨が降ってきたんで中へ戻られたらどうですか? このままじゃ風邪を引いちゃいますよ」
 「ありがと。でも私は良いわ。貴女こそ中にお入りなさい」

 美鈴の申し入れを力ない笑顔で断る。美鈴はその言葉に素直に従おうかと思った。だが、冷たい雨に打たれながら黙々と壁の汚れを落す咲夜の顔がまるで泣いているように見え、その場で共にブラシを掛け始めた。

 「貴女……」
 「やっぱ、1人より2人のほうが早く終わりますから!!」

 いつもと変わらず屈託の無い笑みを返す美鈴。咲夜はその厚意を断ることは出来ず、彼女の優しい支えに寄りかかってしまう。やがて隣に味方がいる安心感からか、咲夜はつい心の緊張を解き、その内に溜まっていた想いをこぼしてしまう。

 「なんでこんなことになったんだろうね」

 美鈴はその問いかけに、決して出ることの無い答えを必死に探す。しかし出てきたのはうなり声だけだった。咲夜は独り言とも語りかけともつかない口調で語り続けた。

 「どんな汚名でも私が被るだけなら、こんなに苛むこともなかったんだけど。それがお嬢様にまで降りかかってくるとさすがに堪えるわね」
 「これだって咲夜さんが被る汚名じゃないですよ」
 「そうかも知れない。でも私が発端になってしまったんだもの。私が軽率なことをしなければ……」

 それっきり咲夜は口を閉ざしてしまった。
 いつもは仕事振りをチェックにくる咲夜の顔なんて見たくないと思っていた美鈴だったが、今日ほど顔を見るのが辛いと思ったことはなかった。
 だからせめて雨だけはと上を仰ぎ見るが、その先には毛ほどの隙間も無いほど厚く暗い雲が空を覆いつくすばかり。青空を期待することは出来なかった。
 その日以降、何者かによる紅魔館への嫌がらせは続く事になる。



 昨日まで降り続いた雨が上がり、晴れ間が覗くようになったある日。紅魔館を珍しい客が訪ねてきた。それは先日の新聞にて1面を飾った永琳だった。昼間の来訪であったが、レミリアは起きてきて来賓室にて彼女を迎えた。
 来賓室は重厚な紅を基調に壁や絨毯の配色が統一されており、ここが高貴なる吸血鬼の孤城、紅魔館であることを来客に改めて印象づけさせた。部屋の調度品は年季が醸し出す風合いを幾度も重ねるアンティークで揃えられ、厚手のカーテンは3枚がかりで外光を完全に遮り、代わりに豪華なシャンデリアが天井高くから部屋中を眩い光で照らしていた。部屋を城に例えるなら、これらの品々は薄暗い闇で威厳を輝かせる城の主を表しているようだった。
 しかしそんな部屋にいながら、悠然と紅茶を口にする永琳の姿にまったく違和感は無い。すっかりこの部屋に溶け込んでいるか、あるいは部屋が永琳の存在によって印象を変えられているかのようだった。おまけに咲夜へ向けて、

 「淹れかたがとってもお上手ね」

 と、世辞をにこやかな笑みとともに送る余裕まで見せている。
 その永琳とテーブルを挟んで一緒に紅茶を堪能していたレミリアは、ようやく来客の用件に耳を傾け始めた。

 「それで、今日はどんな悪巧みをしに来たの?」

 いつぞやの咲夜との会話を思い出し、つい笑い声を漏らす。

 「フフフ、貴女たちはホントに良い主従関係だこと」
 「そんな事をいいにきたんじゃ無いんでしょ」
 「そうね、それじゃ単刀直入に話すわ」

 そういってカップを置き、両肘をテーブルについて少し上体をせり出し、両手を顔の前で組む。
 レミリアからは口元は見えなかったが、両手の上から覗く視線に先程までの笑みが消えているのは察することが出来た、それでも怯むことなく椅子の背にもたれ、片肘は肘掛を置いて頬杖をつき、相手のプレシャーは意に介さんとばかりに口の端を吊り上げる。
 その一連の仕草を見つめていた永琳は、一拍呼吸を置いてから本題を切り出した。

 「レミリア、今すぐ咲夜を解雇してちょうだい」

 その言葉には、主より傍らで控えていた咲夜のほうが驚愕する。
 永琳が館へきた時点で自分が関係することだとは予想していたが、これほど極端な展開になるとは考えていなかったからだ。しかし話は始まったばかり、早くも相手に弱みを見せる訳にはいかないと、その気持ちを顔に出さないよう平静に努める。
 永琳は咲夜へ一瞥もせず、今度は懐から2枚の新聞を取り出す。そして表情ひとつ変えずにいるレミリアの前に突き出した。

 「最近の『文々。新聞』を読んだかしら?」
 「えぇ、お陰で良い社会勉強ができているわ」
 「そう、それなら私が今どういう立場かもご存知よね?」
 「兎だけに飽き足らず、今度は人間を手懐けようってんでしょ」
 「いいえ、私は妖怪たちを守るために声を挙げたのよ」
 「人でも妖怪でもない貴女が、何故そんな事をするのかしら」
 「それは人と妖怪たちの橋渡しをするためよ」

 矢継ぎ早なレミリアの迎撃にも怯まず、永琳は即座に切り返して要求の裏にある大儀を主張する。そのやりとりは咲夜の目に、まるで2人が台本でも見ながら示し合わせたかのように映った。

 「人間と妖怪との関係は退治する者と捕食する者。それは古来よりずっと変わらずにきたわ。一見、妖怪は強者として一方的に弱者の人間を搾取しているように見えるけど、妖怪だって人間に生かされているのは分かるかしら?」
 「知っているわ。毎日おいしい紅茶が飲めて、食事が出来るのも人間のお陰だもの」
 「そんな瑣末な事だけじゃないわ。例えば私たちの身の回りにあるもの。それらは全て人間の知恵が編み出したものよ。それに最近では永遠亭をはじめ、人間を相手に商売を始める者も現れ始めた。今や二者の生活と立場は互いに近づき、互いに必要なものとなりつつあるの。それに気づいた私は考えたわ。今こそ人と妖怪の関係を改め、もう一歩、歩み寄る時じゃないかって。そして互いの協力関係をさらに深めて、この幻想郷を守る時じゃないかって」

 永琳が展開した持論は、それまでの妖怪たちの存在意識を根本から揺るがしかねないものだった。

 「外の世界では、妖怪はその勢力圏のほとんどを失い、代わりに圧倒的に非力な人間たちが世界を席巻していると聞くわ。古来からの関係を続けてきた彼らが、こんな状態になったのは一体何故かしら? それはその立場に逆転が生じてきたからよ。人間たちは力が無い故、生き残るために臆病になって逃げ、隠れ、そうして知恵をつける必要があった。しかしいつしかその知恵は妖怪の力を超え始めたの。やがてはどんな妖怪すら畏れず退けるほどになった人間は妖怪の存在を忘れていった。そうやって畏れられなくなり忘れられた妖怪たちが、この幻想郷に流れ着いたのよ」

 引き合いに出した外界の話は、レミリアにとって懐かしく聞こえるものだった。しかしそこに望郷を誘う言葉は無く、切迫した現状のみが並べられた。

 「古来の関係で外の妖怪が滅びたなら、この幻想郷ではそれを教訓に改善しなければいけない。外の世界がそうであったように、遅かれ早かれここでも人間は力をつけ始めるのは想像に難くないわよね? もしそうなって貴女たちがここでも畏れられなくなったら、今度は何処へいくつもり? ここは妖怪たちにとって最後の楽園なのよ。だったら妖怪もこの場所を守るしかないじゃない。人間が力を増し妖怪が力を失うなら対等の立場を保ち続ければ良い。そのためにはお互いが敵対ではなく、友好の思想を持たなければならないの。弱肉強食ではなく共存共栄のね」

 いつしか永琳は身振り手振りも加え、声に力を込め始めていた。その熱弁に圧されてか、レミリアの顔から笑みは消え、腕を組み押し黙っている。咲夜も声を発せず永琳の話を聞きながら、主の姿を不安そうに見つめていた。
 
 「気づいたら討伐されていたでは遅い。打つなら先手を打たないと! それも早ければ早いほど良い。今の人間の子供たちから妖怪との調和を説いて行けば、それが常識となってこの地に根づき、貴女たちはこれからもここで在り続けることができるわ。貴女は幻想郷のおけるパワーバランスの一端を担う者。調和の必要性と重要性は分かっているはずよ。そしてそれを乱す者は粛清しなければならない事もね」

 ここまで一気にまくし立てた永琳は、湯気の消えた紅茶で一息つく。そして今度は柔らかな口調に変え、レミリアの身を案じるように優しく言葉を紡ぎ出していった。

 「今がその先手を打たなけばならない大事な時期なの。だからこそ、この関係にヒビを入れてはいけないのよ。ましてやそれが人間、しかも妖怪の肩を持つ者の手によって成されるとしたら、人間は今以上に妖怪たちのことを警戒するようになる。『やっぱり妖怪は、人をたぶらかす許されざる存在だ』とね。そうすれば私たちが築いてきた友好関係は崩れ、商売なんて持っての外。それどころか退治の手が向けられ、今の悠々自適な生活が出来なくなるのよ。勿論、貴女もひとごとでは無くなるわ」

 レミリアは依然として不動のまま目を閉じている。咲夜にとって最後の言葉は、先日の嫌がらせと符合させられる、的を得た意見に聞こえた。少なくとも嘘は無いように思えてきていた。本音をいえば永琳の主張に反対したい。しかし悔しいかなそれは、自らの存在価値すら否定することのように思え、反撃の余地が見出せずうな垂れてしまった。
 今語るべき主張を全て吐き出した永琳は、ここでまたひと呼吸を入れる。そして再び口調を変え、今度は毅然とした態度でレミリアに言葉をぶつける。それは閻魔が白黒を決める時に匹敵する程、揺るぎの無い意思を込めて放たれた。

 「さぁレミリア、決断を下しなさい! 貴女には幻想郷の未来のため、それを果たす責任がある!!」

 不意に出た力強い語気に、咲夜ははっと顔を上げ主の表情を伺った。そのときレミリアはゆっくりと瞼を開けて永琳を見据えただけで、いまだ口は閉ざしたままだった。一瞬にして包み込まれた静寂の中、咲夜は自分を信じる主の姿だけを信じていた。

 『お嬢様を主と決めたあの日から、私はずっとお嬢様にこの身の全てを捧げてきた。お嬢様もそんな私に多大な信頼を寄せてくれた。今ではお嬢様のお考えが手に取るように分かるまでになった。あれからずっと一緒に居るんだもの。あんな出来事だけでこの信頼関係が揺らぐはずがない!』

 すぐにでも永琳の要求を叩き落して突き返し、玄関に塩をまくように命ずる姿を願い、望み、期待する。咲夜はその想像が現実となるのを、エプロンを強く握り締めながらただひたすらに祈った。
 しかし主の答えはそれを裏切るものであった。

 「5日間、時間をくれないかしら」

 即断で拒否すると思っていた咲夜は、主の声を聞き心臓が一瞬止まる。エプロンを握っていた手は力を失い、だらりと横に垂れ下がる。咲夜はその言葉の中に迷いを感じ取り、戸惑いの色を隠せずにいた。
 一方で永琳は、レミリアの心にある揺らぎを読み取った上で、なおも揺さぶりをかける。

 「私の話を聞いていたなら考える余地は無いはずよ。答えはイエスかノー、このどちらかだけ。さぁ今すぐ決めなさい!」
 「貴女のいいたいことは分かった。答えだって……もう決まっているわ」
 「なら、何故すぐに答えない!?」
 「だってそれは、これまで尽くしてくれた従者の今後に関わる事ですもの。こちらにだって順序や準備があるわ。それをいきなり本人に伝えるなんて、直情バカな主のすることよ」
 「それで5日間も取るなんて、優柔不断で無能な主のすることだわ!」
 「それなら3日間」
 「2日間」
 「いいわ、返事は明後日。昼間は眠いから陽が沈んでから来てちょうだい」
 「わかった、いいでしょう。いい返事を期待しているわよ」

 そういって永琳は席を立ち、部屋を後にする。物腰の柔らかいその立ち振る舞いは、最後までこの部屋とレミリアの存在感に負けてはいなかった。



 永琳が出て行ったあと、部屋の中には主と従者、それに心なしか重い空気だけが残されていた。立っている咲夜は、その空気とひと言も発しない主の静寂さに押しつぶされそうになりながら、猶予を請うた意図を汲み取ろうとした。
 やはり永琳の主張に賛同しているのか、はたまた断固反対なのか。もし反対だとしても、何故即答じゃないのか、準備とは何なのか、気持ちなど整理できそうに無い、例え何があってもお嬢様の傍は離れたくない。でもお嬢様から拒絶されたらどうなるのか。切り捨てられた私は今更何を頼って生きていけば良いのか。何も分からない。お嬢様の考えも、私のこれからの運命も。いっそ消えるなら今すぐ消えたい。今すぐ消されたい。せめて敬愛するお嬢様の手で、牙で、爪で。この身を跡形もないほど引き裂いてもらいたい。
 咲夜は考えを巡らせれば巡らせるほど、運命が悪いほうへ向かっているように思えてきた。そしてそれは何となくだが、的中するような気もしていた。懐疑、悲哀、絶望…ありとあらゆる暗黒の感情へ、救いの手を振り払って自ら飛び込みたい衝動に駆られていた。
 静寂の音すら聞こえなくなっていた咲夜に向かって、レミリアはいつも通りの口調で紅茶のおかわりを催促する。

 「咲夜、もう1杯ちょうだい」
 
 しかし従者からは何の反応もない。代わりに妙な間が返ってくる。それが気になって今度は咲夜のほうを向き、もう1度呼びかける。

 「咲夜、お茶」
 「はっ!? はい、ただいま!」

 2回目にしてようやく呆けていた従者を気づかせることができた。いつもは見せない狼狽した様子の咲夜を見て、ひとつ小さなため息を漏らす。だが従者の異変はこれだけでは無かった。紅茶を注ぐべく給仕台へと運んでいたカップを、手を滑らせて床に落して壊してしまったのである。
 いつもであれば、自分が皿から転ばせ床へと落としそうになったミートボールを、何事も無かったように皿に戻すこともやってのける。その相変わらずさが今は欠片もない。慌てて破片を拾う姿を見たレミリアは、顔を静かに俯かせて命じる。

 「咲夜、今日はもういいわ。明日も暇をあげるから休んでいなさい」
 「えっ、しかし……」

 咲夜は、主の命令に疑問があるかのように聞き直した。だがレミリアはそれを遮り、今度は怒気を含ませた声で再度命令する。

 「何度もいわせないで! 明日まで休んでいなさい!!」

 心の動揺が拭えず主の怒りを買ってしまったことが、悔しいやらいたたまれないやらで、咲夜はひとつ礼をすると、頭を上げること無く足早に部屋を後にする。そしてドアがまだ完全に締め切っていないにも関わらず、廊下を駆け足で去っていった。レミリアはその様子を怒るでも悲しむでもない表情で見つめていた。
 咲夜が出て行った直後、閉じたドアがすぐにまた開く。すると廊下の奥を見つめながらパチュリーが入ってきた。

 「少しいい過ぎたんじゃない、レミィ?」
 「パチェったら聞いていたの?」
 「聞こえてきたのよ」
 「そ。咲夜ならあれでいいのよ。今はあれ位が丁度いいの」
 「だからって泣かすことないでしょ」
 「いいえ、今の咲夜は何をしても上手くできないから、働く気を起こさないほうがいい。下手に情状酌量の余地を与えても、挽回しようとしてまた失敗して落ち込むだけよ」

 パチュリーは給仕台から紅茶を汲みつつ、素直じゃない友人の寛大な処置にあきれながら感心する。

 「パチェー、私にも紅茶をお願い」
 「あの子の紅茶よりまずいわよ」
 「知ってるわ。今はまずいのが飲みたい気分なの」

 レミリアは味の保障がされていない紅茶に少し口をつけ、カップをテーブルに置く。その隣へ腰掛けたパチュリーは、永琳が置いていった2枚の新聞に目を向ける。

 「それにしても手際の早いこと」
 「まったく、時間だけは腐るほどあるくせに」
 「読んだ?」
 「半々ってとこね。明後日までに準備しないと」
 「それもまた急ね」
 「今回は私が骨を折るわ」
 「吸血鬼にも骨はあったんだ」
 「小骨だらけだけどね」
 「で、どうするの?」
 「パチェにも手伝ってもらうかも」
 「肉体労働なら無理よ」
 「それなら大丈夫。むしろ率先して手伝いたくなるかも」
 「それは楽しみだこと」

 古くからの友人で互いを愛称で呼び合う間柄の2人は、ひと通り意識が通じ合わせた。そして席を立ったレミリアはひとつ大きく伸びをする。

 「んー、少し眠いけど今から行ってくるわ」
 「それじゃ雨は止めておくわね」

 パチュリーの言葉を聞きながら窓に近づいたレミリアは、厚手のカーテンを勢いよく一気に引き開ける。一瞬にして差し込んだ陽光に思わず目が眩んだが、その光の弱さにすぐ慣れてしまった。開けた視界で外を眺めつつ窓を開け、空へと目を向ける。

 「おー、微妙に悪い天気!!」

 上空は薄っすらとした雲が広がっており、所々から青い空がこぼれてている。太陽は浮かんでいる場所が分かる程度で、その光のほとんどは雲に吸収され、地面へは僅かな恵みが降り注ぐだけだった。そんなスッキリしない空を見上げながら、まるでそこに何かあるように視線を留め口元を緩ませる。少しだけ開いた薄紅色の口からは吸血鬼の象徴である大きな犬歯が覗き、その白さと鋭さを周囲に知らしめていた。
 ふいにレミリアの斜め前方から、何かが庭木の葉を揺らす音が聞こえた。視線を下ろして見ると、その音の正体と思われる1羽のカラスを発見した。それは枝に止まったまま周囲をキョロキョロしつつ、時折こちらの様子を伺う素振りを見せていた。
 レミリアはその落ち着きの無いカラスをじっと見つめる。吸血鬼の瞳はチャームアイと呼ばれる魅惑の瞳。力の弱い者ならば、魅入られた途端に吸血鬼の命令に逆らえない、操り人形同然になってしまうといわれる。果たしてレミリアにもその力があるかは不明だが、彼女の紅の瞳もまた、見る者の意識を引き込んでしまいそうな不思議な魅力を湛えていた。
 やがてカラスは羽を翻して枝から飛び立つと、山へと向かって羽ばたいていった。それを見送ったレミリアは急いで部屋のクローゼットへ駆け寄り、日傘とストールを無造作に掴み取った。そして再び窓際へ戻ると、窓枠に足を掛け外へ向かってその身を勢いよく投げ出す。しかし地面へは吸い込まれず、湖のほうを向いたままふわりと浮かんでいた。そのまま振り返らずに室内の友人へ声を掛ける。

 「パチェ、今日はやっぱり良い天気だったわ」
 「そう。ところで、折角淹れた紅茶がまだ残っているけど?」
 「ごめん、やっぱりまずくて飲んでいられないわ」
 「だから忠告したのに」
 「というわけで、今日と明日は緑茶に決まり。ちょっと飲んでくるから、あとはよろしくね」

 そういい残すと、背中の大きなコウモリの羽を、さらに大きく見えるほど力強く羽ばたかせる。そしてカラスの向かったのと同じ方向に飛んでいった。パチュリーは友人の残した紅茶も飲み干し、永琳の残していった新聞を手に取る。そして『永遠亭、新薬開発』の記事に目を通した。




つたないSSをご覧いただき、ありがとうございます。
ツキのつくものに続きますので、そちらもご覧下さい。
拓ドング権
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コメント



0.170簡易評価
2.無評価名前が無い程度の能力削除
で、“ツキのつくもの”とやらはどこにあるんじゃ?
4.無評価☆月柳☆削除
ツキのつくものと二つで一つの完成作品のようなので、この作品だけで面白いかどうかはなかなか判断しづらいところですね。
〝ツキのつくもの〟に期待。