自身の身にたった今起こった事を、射命丸文はありのままに思い返していた。今の今まで夜だと思っていたら、いつの間にか昼になっていた。
何を言っているのか判らないかも知れないが、文自身も何が起きたのか判っていなかった。
頭がどうにかなりそうだった。催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなものでは断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わった気がしていた。
“地の文(注・やおい)”
もしかしたら何かの勘違いをしているのかも知れない。ふわふわの真綿にくるまれているかの様に何だかとても気持ちの良く、それでいてどうにもはっきりとしない頭を軽く左右に振り、改めて周囲の様子を確認しようと身を起こす。
窓の一つも無い薄暗く狭い部屋の中。遠くからは水の流れる音が微かに聞こえてくる。雨が降っているのか、どうなのか。頭が巧く働かない。上半身を立てた自身の臀部が下敷きとしているのは、飾り気の無く質素で、そして少々固めの薄い布団。どうもこの上で横になっていたらしい。肩甲骨に軽い痛みがある。より正確には、ある、ような気がする。よく判らない。
日の光が入らぬ部屋に在りながら何故に今が昼と判断できるのか。それはとても簡単な事で、文のすぐ脇に在る小さな置時計がはっきり、「13:42」という数字を現しているのである。
この時計、山の神社に居る巫女が持っていた時計を、河童が真似て作り上げた物であった。時針分針が盤面を流れる通常の時計と違い、河童の作ったこれは、現在時刻を秒単位のはっきりとした数字で表示する。白狼天狗の椛が以前、大将棋で勝った際に手に入れた、と、それは嬉しそうに語った事があったものだから、文はこの時計の事はようく知っていた。予め定めておいた時間に目覚ましの音を鳴らす機能まで付いている優れ物だ。
と、そこまで考えて気が付いた。この時計は椛の物である。それが何で、自分の手元に在るのか。下半身は毛布にくるまれたまま、頭を垂らし自身の顎や頬の肉を意味も無く指でこねくり回しながら文は考える。己の身体の一部ではあるが、むにうむにうと、適度な弾力が感じられて思いのほか指先に心地良い。
答えはすぐに出た。考える迄もない、極々簡単な話である。九天の滝裏、岩壁をくり抜いて作られた哨戒天狗達の待機場所、その中に在る部屋の一つ。日の光が入らぬのも、水の流れる音が聞こえるのも道理。ここは、椛の部屋だ。
では何故自分は今、椛の部屋に居るのか。文の頭の中で、「判らない」の単語がまた動き出す。
確かついさっきまでは、滝壺のすぐ側を会場とし、他の天狗達や河童共々、山の神様との信仰を深めている真っ最中であった気がする。有り体に言えば宴会。それが何故、一瞬にして夜が昼となり、しかも自分は椛の部屋の布団の上で、あれやこれやと思考を巡らしているのだろうか。文には判らない事だらけであった。
きしり、と、木でできた戸が小さな音を立てる。目を遣れば、そこには全身ずぶ濡れの椛が居た。
半開きの眼を向ける文に対し椛は、一瞬あっと声を上げ、それから、おはようございますと頭を下げて、そうして、雨が酷くて、と、少しはにかんだ笑顔で言った。
昼の見回りから戻った所なのだろう。手拭いの一つも用いずに、身を震わせて水気を飛ばそうとしている椛に向かって、文はお帰り、お疲れ様、と、とりあえずそう声をかけてみた。今の状況がまるで理解できていないというのに、それでも普段通りの対応をする事で体裁を整えようとする自分自身が、何だか妙に可笑しく、そして少し恥ずかしい気もした。
そんな文の気を知ってか知らずか、椛は、吃驚しただとか意外と重いだとか、また訳の判らない事をにこにこしながら言ってくる。
訳は判らないがどうも何故だか少々腹が立ってきて、何か一言を言ってやろうと文は立ち上がり、椛に向かって歩き出した。
と、その次の瞬間。
文の目の前に一瞬にして壁が出来上がっていた。
何が、と思う間も無く、鼻の頭に何かを打ちつけられる。まずは衝撃、少し遅れてから痛み。
そこまできてようやく文は、自分がつんのめって床に顔面から突っ込んだという事を理解した。顔に手を当てる。血は出ていないし、痛みもそれ程ではない。ただ恥ずかしい。大丈夫ですか、と、慌てて椛が駆け寄って来る。大丈夫、と、一言だけ応える。
再び立ち上がろうとして足を動かす。けれど少々の違和感。足首の周りに何かが絡み付いている感触。
目を遣ると、自身のいつも着けているスカートが腰ではなく足に纏わり付いていた。止め具が外されている。そのせいで立ち上った際にずり落ち、そうして足を掬う事になったのだろう。
そこで文は気が付いた。スカートだけではなく、ブラウスの襟元ではタイが解かれ、ボタンも上二つが外されている。
何故、どうして、こんな格好で椛の部屋の布団で転がっていたのか。今の世界は、やはり文には判らない事だらけであった。
大丈夫と言われたにも関わらず、椛は壁際に置いてある箪笥へと走って、薬は包帯は、と、文に背を向けて棚の中を漁り始めた。
そんな椛の、左右小刻みに揺れ動く後姿、その腰の辺りをじいっと見つめながら文は、未だはっきりとはしていない頭のままで立ち上った。足元に絡み付くスカートからまず右足を抜き、それから左足を勢い良く蹴り上げる。ふわりと宙を舞う黒い戒め。綺麗な放物線を描いて落ちていくそれを満足気に見届けて後、束縛から解き放たれた文は、やおら椛の背中に向かって歩き出した。
人間の里で、悪戯な子供達に冷たい水を浴びせかけられた子犬が、そういえばこんな声を出していた。
暗く狭い部屋の中に響き渡った甲高い声を聞き、文はそんな事を思った。目の前には、その名の示す通り真っ赤に染まった椛の顔。鼻だの目だの口だのが、右へ左へ上へ下へ、小さな行ったり来たりを繰り返している様な、そんな奇妙な動きを見せている。
そうした椛の様子を見ながら文は、自分の頭がようやくすっきりとし始めている事を感じていた。
そうしてまともになりかけている頭でようく考えてみれば、さてこれは、どうにも悪手であった気がしなくもない。
毛並み豊かな犬を飼っている者が、戯れにその尻尾へと手を入れて感触を楽しんでみる。文としては、その程度のつもりだったのだ。他意は無い。
だが、今相手にしているのは天狗。形も精神も、獣よりは人の型に近い。そもそも、衣服を着た上からでは尻尾の有無すら判別できない。それでも、ただ、何となく。有るも無しも判らねど、何となく、もし有るのだとしたらふわふわとして気持ち良いのではなかろうか、と。そう思って触っただけだったのだ。
が。
乾いた音が鳴った。この部屋、滝裏に在って湿度が高いものだから、これがまた中々に良い響き。そして先程よりも数段に強い衝撃。唇の上に温かな物が流れる感触と、それから鉄臭いにおい。今度は鼻血も出た。
泣きながら部屋を出て走り去っていく椛。あっという間にその姿は見えなくなる。流石に速い。元は狼なのだから、肉体のみの性能で言えば文にも勝るかも知れないのだ。脚力もそうだし、腕力もである。文の頬には、見事に真っ赤で綺麗なモミジが浮かび上がっていた。
爪を立てられなかっただけ幸い。そう、文は自身を納得させた。そも悪いのは自分なのだ。それに、今の衝撃のおかげでようやっと、混濁していた意識と記憶が完全にはっきりと、元に戻ったのだから。
◆
鬼が来た。
昨晩の宴会、いつも通りの、山の妖怪と神様との親交を深める信仰の場に、初めて顔を出す者の姿が在った。伊吹萃香、鬼である。
鬼は遥かな昔に於ける妖怪の山の支配者である。とは言っても、鬼はとうの昔に幻想郷を離れた種族、現在に於ける山の顔役は天狗の頭領たる天魔であり、その事は萃香も重々承知している。だから別に、古株として偉い顔で新参と悶着を起こしに来たとかそういう訳ではなく、只々単純に、宴の賑わいと酒の匂いに釣られて出て来たと、そういう事であった。
さてこの伊吹萃香、宴席には打って付けの、非常に不思議で面白い道具を常から持ち歩いている。日の半分以上はその口を萃香の小さな口と付き合わせている薄い紫色の瓢箪。一見何の変哲も無い、それどころかむしろ、質素で貧相とも言える飾り気の無いこの瓢箪は、その実、幾らでも無限に酒が湧いて出てくるという、全ての呑兵衛の夢そのものが形をとった様な、そんな素敵な宝の瓢箪であった。叩く度にビスケットが増えるポケットよりももっと、不思議で魅惑的な瓢箪である。
天狗、河童、神様、それに加えて鬼。うわばみなんぞという形容詞を今更持ち出すも阿呆らしい、それ程の面々が揃った場で無限に酒の湧き出る瓢箪。一人青い服で青い顔をしている人間を除き、杯の傾けられる回数は普段の何倍何十倍にも膨れ上がっていった。
そんな中、ぽつりと誰かが言ったのだ。この中で誰が一番の大酒呑みなのか、と。
天狗は当然自分達が、と、鼻を高くして宣言し、そこへ、いやいや我等も負けてはいないと、河童が反論をする。妖怪のレベルからすれ強いのだろうけど、と、神様二人が余裕の笑いを見せれば、酒呑(しゅてん)の呼び名は我にこそ、と、伊吹を冠する鬼が叫ぶ。たった一人の人間は、笑っているのか泣いているのかどうにも判別し難い顔になって、只々顔を右へ左へ振り回すばかり。
幾ら言い争った所で何の意味も無し、実際この場ではっきり白黒つければ良いだけの事。
そんなこんなで宴の席はたちまち、種族の誇りを賭けて競い合う戦いの場へと様変わりした。天狗代表に射命丸文、河童達からは河城にとり、二人の神様である洩矢諏訪子と八坂神奈子はそれぞれ土着神と大和の神として、伊吹萃香は幻想郷只一人の鬼として種族そのものの看板をしょって立つ。それからついでに人間代表として、本人の意思とは無関係に東風谷早苗。麓の巫女ならこうした事態も、むしろ自ら立って受けもしようが、この山の巫女、人外揃ったこの場に於いてははっきり言って弱い。主に酒の面で。半泣きの作り笑顔でとりあえず断りの文句を述べてはみるものの、遠慮するなの一言であっさりと片付けられる。立場も弱い。
手を打ち鼻を鳴らして出揃う五人と、もう諦めの笑いしか浮かばない一人。彼女らの前に、直径優に二尺は超える大杯が配られた。これに一杯ずつ酒を満たしていき、それを呑み終えたら次、そしてまた次と繰り返し、最後まで意識を保ち通した者が勝者となる。
そう定められて始まった勝負、一杯目の半分も行かぬ内に人間代表が首まで真っ赤になって、その次には次第に顔を青白くしてゆき、両の眼はかっと見開き両の掌はがっちりと口に当て、何も言わず涙目になって何処かへと走り去った。人間失格。
八十杯を過ぎた辺りで河童代表が上機嫌になって歌いだす。杯を傾ける度にその声は段々と大きくなってゆき、丁度百杯目を空にした直後、にいとりいい、と一際大きな声を夜の滝壺に響かせて、そのまま満面の笑顔で倒れて動かなくなった。河童脱落。
残るは神様、鬼、そして天狗。
神様も鬼も、種族としての格付けなんてものをもし言うのであれば、それは天狗より上なのかも知れない。だが、こと酒に関してなら。そう文は心の中で吼える。実際、百を二回数えた時点になって尚、文の意識ははっきりとし、その五臓六腑に些かの揺るぎも感じられはしなかった。
神様も鬼も、もうそろそろ辛くなってきたのではないか。そう思って対戦者達の様子を窺おうと顔を動かし。
◆
次の瞬間には昼になっていた。
事の次第を認識したその途端、待ってましたと言わんばかりに文の身体が変調を訴え始めた。
頭痛がする。吐き気もだ。自分が酒の呑み比べに負けて気分が悪くなっている。その事が、身体の不調よりもずっと強く、文の精神を締め付けていた。
涙と鼻水がじんわりじわりと滲み出て、生温い感触と共に顔の表面を流れ下っていく。頭の中がまるで、新たに心臓でも出来上がったかの様、どくんどくんと、鈍い痛みを伴って脈を打つ。喉の直ぐ下、いや、最早喉の真ん中の辺りに迄、固体と液体の入り混じった酸っぱくて温かい物が登って来ている。
これはまずい。巫女の人間がそうした様に、全力で目を見開き、眉間に力を込め、万力の如く強く閉じた口の上に両の掌を重ねる。
花の異変での弾幕ごっこを思い起こさせる、そんな様子で全身を小刻みに震わせ必死に耐える文であったが、その努力も空しく。
椛がばつの悪そうな顔で自室に戻って来たのとほぼ同時、文は自分の中で決定的な何かが切れる音を聞いた。
何かを叫んで走り出す椛。それより早く。
◆
スカートこそは穿き直したもののブラウスの首元は緩めたまま。そんな格好で布団の上で仰向けになって転がり、胸のポケットから取り出した手帳を見る。細かな文字でぎっしりと埋められているその中、今日の日付の横に矢印が引いてあって、その先に博麗、魔法の森等と汚い字で走り書き。首を回して布団脇の時計を見遣る。目に入る「15:21」の数字。静かな部屋の中で文は一人、小さな溜息を吐いた。
本当ならば今日は、朝から博麗の神社や魔法の森に出向き、そこで面白い人間の生態でも面白可笑しく観察してやろうと、そう予定を組んであったのだ。それが気付いてみれば昼を過ぎ、今や夕刻もそう遠くない時間へとなってしまっている。今から出掛けるにはもう遅い。その上、椛の言葉によれば外は雨が酷いらしい。雨は空飛ぶ者の身を濡らし重くする。尚の事、表に出るのが億劫だ。
文は寝転がったままで両腕を勢い良く広げた。手にしていた手帳が放られて飛んでいくが、そんな事は気にしない。伸ばされた腕の先、右側からは小さな本を、左側からは円い金鍔(きんつば)を一つ、手にして顔の前まで持って来る。本は椛が山の神社から借りてきている物で、大きな瞳で愛らしさを強調された人間の少女達が、恋だ青春だと一生懸命になって生きている様子が描かれている。金鍔は金鍔。里の菓子職人が作ったものを、神様か河童か、何処をどう経由したのか、兎も角、哨戒天狗達のお八つ用としてこの詰め所に置かれている物だそうである。甘くて、でもほんのりとしょっぱい。どちらも、文の為にと椛が用意してくれた物だった。
不意に戸の開く音がした。よっこらせ、と、身を起こして見てみれば、洗い終えた雑巾を手にした椛の姿。
悪いわね、と、文が言う。いえいえ、と、屈託の無い笑顔を椛は返す。お互いが一言ずつを交わしたその後は、薄暗い部屋の中に再び静寂が広がる。遠くに滝の流れる音と、それから、文が手にした本を捲るその紙擦る音。聞こえるのはそれ位。
意外に。
ぽつりと漏れた一言が、沈黙に固まっていた部屋の空気を揺らした。部屋の隅、膝を抱えて座ったまま、じいっと文の方を眺め続けている椛。
何、と、スカートの内に手を入れ腰を掻きながら、眠そうな声で文が問いかける。それを聞いて椛は、急に慌てた顔になって両の掌をぶんぶんと振り、それからしどろもどろに話し出した。遠回しな表現が多くどうにも判り難い内容ではあったが、要は、文は普段からしっかりきっちりした生活をしていると、椛はそんな印象を持っていたのが、こうして今の様子を見ていると、思いの外だらしのない所もあるのだな。そういう事であった。文は真面目なのに意外に、と。
真面目だから。両手を広げて布団の上へと倒れ込み、口には出さず心の中で文は呟いた。
人間や他種族の妖怪からは、何やら胡散臭い、いつもにやにやしている、時にはそんな風に思われる事もある文ではあったが、その性を一言で表すとなれば、それは真面目の他に当たらない。天狗という種族全体の特性、組織の一員たる意識からくるものでもあるし、また、新聞記者という立場によるものでもある。花の異変の折にも、閻魔の問いにまともに答えようとしたのは彼女くらいであった。
射命丸文は真面目である。そしてそれ故に融通が利かない。
いつも気ままに行動している様に見えて、実際にはそれは、事前に細かに組まれた予定の上に乗っているものなのである。真面目だから、それを崩す様な真似はしない。
けれどももし、予期せぬ事態、不可抗力によってそれが崩れてしまったなら。元に戻そうと思っても、それが適わない状況になったのなら。予定を大本から変えて、その場に合わせたものに組み直す。そんな融通が利く様な性格ではない。予定通りに、と悩む。ひたすらに悩む。
挙句、全て放り投げてしまうのだ。どうせ思った通りにいかないのならいっそ、と。
加えて今日は、昨晩の宴会で呑み負けた、その事が文の心に重くのしかかっていた。
鴉から天狗へと成って今迄、酒で負けた事など只の一度も無かった。いくら鬼や神様が相手とはいえ、その自信が揺らぐ事は微塵も無かったのだ。それなのに、である。周りから見れば下らない事なのかも知れない。当の本人もそうは思う。思いはするが、かと言ってぱっと気持ちを切り替える事も出来ないままでいる。
心が重くなれば身体も重くなる。今日はもう、何もする気が起きない。このままだらだらと一日を潰そう。そう、文は考えていた。
勿体無いな、時間の無駄遣いだな。そんな意識も有るには有った。但し、それもほんの僅か。人に比べて遥かに長い時を生きる妖怪の身、時間は幾らでも有るのだ。少々の無駄なぞどうと言う事もありはしない。
仰向けになって眼前に持った本を捲りながら、けれど、と、文は思う。
本の中の人間達は、一日一日を一生懸命に生きている。短い時間の中で、泣いて、怒って、そうして笑って。こんな様子を、生き生きしている、と言うのだろうか。充実している、と言うのだろうか。
口の中に入れかけた金鍔を、ふと思い立って眼前に摘み上げて眺めてみる。一口で消えてなくなってしまうこんな小さな菓子に、本物の剣鍔にも劣らぬ見事な文様。これ程の物を、百年どころかその半分程度しか生きてはいない者が作り上げるという。短い持ち時間だからこそ、得られる物も在ったりするのだろうか。
文には判らない。羨ましい、などと、そんな気持ちがゆっくりと頭をもたげたりもする。かと思えば、そんな事はないだろうと、そうした考えが羨望の気持ちをあっさりと踏み潰す。短い時間をせせこましく生きるより、永い時間をゆるりと味わって過ごす方が良いに決まっているではないか、と。けれどもまたすぐに、一瞬に凝縮された輝きをこそ、と、羨望が身を起こしてくる。そうして、無駄な時間をも風情と捉える事の出来る永い命へと、真正面から向かって行ってがっぷり四つに組む。この両者に優劣は立つのか。文には判らない。
何を考え過ぎて。文自身そうは思うが、二つの価値観は頭の中でぶつかり合いを止めようとはしない。
予定外に手に入ってしまった、何もする事の無い時間。昨日の晩に、見事に砕かれ散った自信。そうしたもののせいなのだろう。開いた本を顔に被せて、眠くもないのに目を瞑り、静かな部屋の中で只々無意味な思考を延々と繰り返す。
そんな文の耳に、何の前触れも無く突然、獣の吼え声か何かかと思う様な、そんな大きく荒々しい音が届いた。直後、誰か、それも複数名が強く足を踏み鳴らす響き。不規則に打たれるそれは、次第に大きく、そして近くなってくる。
その音がぴたりと消えた。次の瞬間、戸が吹き飛ぶのではないかという程の勢いで強く開かれる。そこに見えるは三つの顔、神様二人と鬼一人の姿。三人とも上気した顔で、まだ勝負は、だとか、今宵こそ、だとか、口々に声を上げながら迫ってくる。何が何とも理解できぬまま目を白黒させている文の腕を取り、有無も言わせず布団から引き起こした三人を、椛と、それから、遅れて部屋に入って来た早苗が必死に宥め抑えようとする。
これは一体、何がどうした事か。呆気にとられている文に向かって、椛と早苗が事の次第を話し始めた。
滝壺脇で行われた昨晩の呑み勝負、二百と八を数え終えた時点で、文と神奈子と諏訪子と萃香、四者が全くの一時にぱたりと倒れ、そうしてぴくりともしなくなった。その動きがあまりにも綺麗に同調していたものだから、さてこれは四人密かに打ち合わせての芝居か何かかと、宴席の面々まずはそう思った。けれど、その後いくら待っても四人の内の誰も起き上がる様子を見せない。そんな所に、先程よりは幾分かすっきりとした面持ちの早苗が戻って来て、そうして何事かと声を上げて神様二人の元へと駆け寄った段になって初めて、他の者達もどうもこれはおかしいとざわめき始めた。
近くに寄って確かめてみれば、四人が四人とも顔を真っ赤にして白目をむいている。遠目には全く動きの無い様に見えたその身体も、間近でようく見ればびくんびくんと小さく震えていた。すわこれ一大事と、宴は急遽締められて四人は滝の裏、哨戒天狗の詰め所へと運び込まれた。一番の大きな部屋を緊急の医務室代わりとして四人を寝かせようとしたものの、岩肌をくりぬいた造りのこの詰め所、広いと言っても四人を横にするには少々手狭。それで文一人は椛の部屋に移された。
一時は医者を呼ぼうかという話も出たのだが、そこは流石に大酒呑みを豪語するだけの事はある、さほどの時もかからぬ内に四者とも落ち着きを取り戻し、それから暫くは時折うんうんと唸って苦しそうな表情を見せたりしたものの、やがて安らかな寝息を立て始めた。
そうして昼過ぎになってから文が目を覚まし、それからやや遅れて今しがた、残りの三人も意識を取り戻したのだった。そこで看病をしていた早苗から事のあらましを聞かされた三人は、四者引き分けという昨晩の結果を良しとせず、今晩こそけりを付けてやろうと、そういきって文の居るこの部屋に押しかけて来た。そういう事なのであった。
話を聞き終えて文は、心にのしかかっていた重りがあっさりと消えて無くなるのを感じていた。自分は別に、負けてなどいなかったのだ。それどころかむしろ、目の覚めた時間を勘案すれば勝ったと言っても良いかも知れない。そう思うと心がどんどん軽くなり、軽くなった心は先程迄の懊悩も綺麗さっぱりと投げ捨ててしまっていた。何一つ解決した事は無いというのにである。或いは、はなっから解決すべき問題など存在していなかっただけなのか。
また明日も、先程と同じ様な状況に陥るやも知れない。何もかもがどうでも良くなり、そうして何を成す事もなく只頭の中をぐるぐると回し続ける羽目になるやも知れない。そんな予感も無いわけではないのだが、それでも世の中なるようになる。なるようにしかならない。ならば、今目の前にある状況を楽しむ事に全力を注いでやろうじゃあないか。
ちょっとした状況の変化があっただけで、こうもころころと気持ちの色が変わってしまう。そんな自分自身を少々情けない、まだまだ若いなと心で笑いつつ、受けて立ちましょうと一言、文は強く胸を叩いた。そう言えば外は雨だとさっき聞いた様な気もするが、そんなもの今の文にとっては全くの些事。それどころか、雨濡れの羽色は鴉の艶を引き立てる、と、むしろ乗り気の風を見せて言う。
日も沈まぬ内から酒だ宴だと部屋を出て行く四人の背中を見送りながら椛は、こうなる事は判っていたけれど、と、小さく溜息を吐いた。
それと全くの同時に、隣の巫女も息一つ。
椛が早苗の方を向く。早苗が椛の方を向く。少し照れくさそうな顔を突き合わせて二人は、今晩も、そして明日もまた大変だ、と、けれども小さく笑って、まあそれも良いか、と、そんな言葉を交わす。
徹夜の看病で硬くなった身体をぐぐっと伸ばして後、宴会の準備をする為に二人は部屋を後にした。
何を言っているのか判らないかも知れないが、文自身も何が起きたのか判っていなかった。
頭がどうにかなりそうだった。催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなものでは断じてない。もっと恐ろしいものの片鱗を味わった気がしていた。
“地の文(注・やおい)”
もしかしたら何かの勘違いをしているのかも知れない。ふわふわの真綿にくるまれているかの様に何だかとても気持ちの良く、それでいてどうにもはっきりとしない頭を軽く左右に振り、改めて周囲の様子を確認しようと身を起こす。
窓の一つも無い薄暗く狭い部屋の中。遠くからは水の流れる音が微かに聞こえてくる。雨が降っているのか、どうなのか。頭が巧く働かない。上半身を立てた自身の臀部が下敷きとしているのは、飾り気の無く質素で、そして少々固めの薄い布団。どうもこの上で横になっていたらしい。肩甲骨に軽い痛みがある。より正確には、ある、ような気がする。よく判らない。
日の光が入らぬ部屋に在りながら何故に今が昼と判断できるのか。それはとても簡単な事で、文のすぐ脇に在る小さな置時計がはっきり、「13:42」という数字を現しているのである。
この時計、山の神社に居る巫女が持っていた時計を、河童が真似て作り上げた物であった。時針分針が盤面を流れる通常の時計と違い、河童の作ったこれは、現在時刻を秒単位のはっきりとした数字で表示する。白狼天狗の椛が以前、大将棋で勝った際に手に入れた、と、それは嬉しそうに語った事があったものだから、文はこの時計の事はようく知っていた。予め定めておいた時間に目覚ましの音を鳴らす機能まで付いている優れ物だ。
と、そこまで考えて気が付いた。この時計は椛の物である。それが何で、自分の手元に在るのか。下半身は毛布にくるまれたまま、頭を垂らし自身の顎や頬の肉を意味も無く指でこねくり回しながら文は考える。己の身体の一部ではあるが、むにうむにうと、適度な弾力が感じられて思いのほか指先に心地良い。
答えはすぐに出た。考える迄もない、極々簡単な話である。九天の滝裏、岩壁をくり抜いて作られた哨戒天狗達の待機場所、その中に在る部屋の一つ。日の光が入らぬのも、水の流れる音が聞こえるのも道理。ここは、椛の部屋だ。
では何故自分は今、椛の部屋に居るのか。文の頭の中で、「判らない」の単語がまた動き出す。
確かついさっきまでは、滝壺のすぐ側を会場とし、他の天狗達や河童共々、山の神様との信仰を深めている真っ最中であった気がする。有り体に言えば宴会。それが何故、一瞬にして夜が昼となり、しかも自分は椛の部屋の布団の上で、あれやこれやと思考を巡らしているのだろうか。文には判らない事だらけであった。
きしり、と、木でできた戸が小さな音を立てる。目を遣れば、そこには全身ずぶ濡れの椛が居た。
半開きの眼を向ける文に対し椛は、一瞬あっと声を上げ、それから、おはようございますと頭を下げて、そうして、雨が酷くて、と、少しはにかんだ笑顔で言った。
昼の見回りから戻った所なのだろう。手拭いの一つも用いずに、身を震わせて水気を飛ばそうとしている椛に向かって、文はお帰り、お疲れ様、と、とりあえずそう声をかけてみた。今の状況がまるで理解できていないというのに、それでも普段通りの対応をする事で体裁を整えようとする自分自身が、何だか妙に可笑しく、そして少し恥ずかしい気もした。
そんな文の気を知ってか知らずか、椛は、吃驚しただとか意外と重いだとか、また訳の判らない事をにこにこしながら言ってくる。
訳は判らないがどうも何故だか少々腹が立ってきて、何か一言を言ってやろうと文は立ち上がり、椛に向かって歩き出した。
と、その次の瞬間。
文の目の前に一瞬にして壁が出来上がっていた。
何が、と思う間も無く、鼻の頭に何かを打ちつけられる。まずは衝撃、少し遅れてから痛み。
そこまできてようやく文は、自分がつんのめって床に顔面から突っ込んだという事を理解した。顔に手を当てる。血は出ていないし、痛みもそれ程ではない。ただ恥ずかしい。大丈夫ですか、と、慌てて椛が駆け寄って来る。大丈夫、と、一言だけ応える。
再び立ち上がろうとして足を動かす。けれど少々の違和感。足首の周りに何かが絡み付いている感触。
目を遣ると、自身のいつも着けているスカートが腰ではなく足に纏わり付いていた。止め具が外されている。そのせいで立ち上った際にずり落ち、そうして足を掬う事になったのだろう。
そこで文は気が付いた。スカートだけではなく、ブラウスの襟元ではタイが解かれ、ボタンも上二つが外されている。
何故、どうして、こんな格好で椛の部屋の布団で転がっていたのか。今の世界は、やはり文には判らない事だらけであった。
大丈夫と言われたにも関わらず、椛は壁際に置いてある箪笥へと走って、薬は包帯は、と、文に背を向けて棚の中を漁り始めた。
そんな椛の、左右小刻みに揺れ動く後姿、その腰の辺りをじいっと見つめながら文は、未だはっきりとはしていない頭のままで立ち上った。足元に絡み付くスカートからまず右足を抜き、それから左足を勢い良く蹴り上げる。ふわりと宙を舞う黒い戒め。綺麗な放物線を描いて落ちていくそれを満足気に見届けて後、束縛から解き放たれた文は、やおら椛の背中に向かって歩き出した。
人間の里で、悪戯な子供達に冷たい水を浴びせかけられた子犬が、そういえばこんな声を出していた。
暗く狭い部屋の中に響き渡った甲高い声を聞き、文はそんな事を思った。目の前には、その名の示す通り真っ赤に染まった椛の顔。鼻だの目だの口だのが、右へ左へ上へ下へ、小さな行ったり来たりを繰り返している様な、そんな奇妙な動きを見せている。
そうした椛の様子を見ながら文は、自分の頭がようやくすっきりとし始めている事を感じていた。
そうしてまともになりかけている頭でようく考えてみれば、さてこれは、どうにも悪手であった気がしなくもない。
毛並み豊かな犬を飼っている者が、戯れにその尻尾へと手を入れて感触を楽しんでみる。文としては、その程度のつもりだったのだ。他意は無い。
だが、今相手にしているのは天狗。形も精神も、獣よりは人の型に近い。そもそも、衣服を着た上からでは尻尾の有無すら判別できない。それでも、ただ、何となく。有るも無しも判らねど、何となく、もし有るのだとしたらふわふわとして気持ち良いのではなかろうか、と。そう思って触っただけだったのだ。
が。
乾いた音が鳴った。この部屋、滝裏に在って湿度が高いものだから、これがまた中々に良い響き。そして先程よりも数段に強い衝撃。唇の上に温かな物が流れる感触と、それから鉄臭いにおい。今度は鼻血も出た。
泣きながら部屋を出て走り去っていく椛。あっという間にその姿は見えなくなる。流石に速い。元は狼なのだから、肉体のみの性能で言えば文にも勝るかも知れないのだ。脚力もそうだし、腕力もである。文の頬には、見事に真っ赤で綺麗なモミジが浮かび上がっていた。
爪を立てられなかっただけ幸い。そう、文は自身を納得させた。そも悪いのは自分なのだ。それに、今の衝撃のおかげでようやっと、混濁していた意識と記憶が完全にはっきりと、元に戻ったのだから。
◆
鬼が来た。
昨晩の宴会、いつも通りの、山の妖怪と神様との親交を深める信仰の場に、初めて顔を出す者の姿が在った。伊吹萃香、鬼である。
鬼は遥かな昔に於ける妖怪の山の支配者である。とは言っても、鬼はとうの昔に幻想郷を離れた種族、現在に於ける山の顔役は天狗の頭領たる天魔であり、その事は萃香も重々承知している。だから別に、古株として偉い顔で新参と悶着を起こしに来たとかそういう訳ではなく、只々単純に、宴の賑わいと酒の匂いに釣られて出て来たと、そういう事であった。
さてこの伊吹萃香、宴席には打って付けの、非常に不思議で面白い道具を常から持ち歩いている。日の半分以上はその口を萃香の小さな口と付き合わせている薄い紫色の瓢箪。一見何の変哲も無い、それどころかむしろ、質素で貧相とも言える飾り気の無いこの瓢箪は、その実、幾らでも無限に酒が湧いて出てくるという、全ての呑兵衛の夢そのものが形をとった様な、そんな素敵な宝の瓢箪であった。叩く度にビスケットが増えるポケットよりももっと、不思議で魅惑的な瓢箪である。
天狗、河童、神様、それに加えて鬼。うわばみなんぞという形容詞を今更持ち出すも阿呆らしい、それ程の面々が揃った場で無限に酒の湧き出る瓢箪。一人青い服で青い顔をしている人間を除き、杯の傾けられる回数は普段の何倍何十倍にも膨れ上がっていった。
そんな中、ぽつりと誰かが言ったのだ。この中で誰が一番の大酒呑みなのか、と。
天狗は当然自分達が、と、鼻を高くして宣言し、そこへ、いやいや我等も負けてはいないと、河童が反論をする。妖怪のレベルからすれ強いのだろうけど、と、神様二人が余裕の笑いを見せれば、酒呑(しゅてん)の呼び名は我にこそ、と、伊吹を冠する鬼が叫ぶ。たった一人の人間は、笑っているのか泣いているのかどうにも判別し難い顔になって、只々顔を右へ左へ振り回すばかり。
幾ら言い争った所で何の意味も無し、実際この場ではっきり白黒つければ良いだけの事。
そんなこんなで宴の席はたちまち、種族の誇りを賭けて競い合う戦いの場へと様変わりした。天狗代表に射命丸文、河童達からは河城にとり、二人の神様である洩矢諏訪子と八坂神奈子はそれぞれ土着神と大和の神として、伊吹萃香は幻想郷只一人の鬼として種族そのものの看板をしょって立つ。それからついでに人間代表として、本人の意思とは無関係に東風谷早苗。麓の巫女ならこうした事態も、むしろ自ら立って受けもしようが、この山の巫女、人外揃ったこの場に於いてははっきり言って弱い。主に酒の面で。半泣きの作り笑顔でとりあえず断りの文句を述べてはみるものの、遠慮するなの一言であっさりと片付けられる。立場も弱い。
手を打ち鼻を鳴らして出揃う五人と、もう諦めの笑いしか浮かばない一人。彼女らの前に、直径優に二尺は超える大杯が配られた。これに一杯ずつ酒を満たしていき、それを呑み終えたら次、そしてまた次と繰り返し、最後まで意識を保ち通した者が勝者となる。
そう定められて始まった勝負、一杯目の半分も行かぬ内に人間代表が首まで真っ赤になって、その次には次第に顔を青白くしてゆき、両の眼はかっと見開き両の掌はがっちりと口に当て、何も言わず涙目になって何処かへと走り去った。人間失格。
八十杯を過ぎた辺りで河童代表が上機嫌になって歌いだす。杯を傾ける度にその声は段々と大きくなってゆき、丁度百杯目を空にした直後、にいとりいい、と一際大きな声を夜の滝壺に響かせて、そのまま満面の笑顔で倒れて動かなくなった。河童脱落。
残るは神様、鬼、そして天狗。
神様も鬼も、種族としての格付けなんてものをもし言うのであれば、それは天狗より上なのかも知れない。だが、こと酒に関してなら。そう文は心の中で吼える。実際、百を二回数えた時点になって尚、文の意識ははっきりとし、その五臓六腑に些かの揺るぎも感じられはしなかった。
神様も鬼も、もうそろそろ辛くなってきたのではないか。そう思って対戦者達の様子を窺おうと顔を動かし。
◆
次の瞬間には昼になっていた。
事の次第を認識したその途端、待ってましたと言わんばかりに文の身体が変調を訴え始めた。
頭痛がする。吐き気もだ。自分が酒の呑み比べに負けて気分が悪くなっている。その事が、身体の不調よりもずっと強く、文の精神を締め付けていた。
涙と鼻水がじんわりじわりと滲み出て、生温い感触と共に顔の表面を流れ下っていく。頭の中がまるで、新たに心臓でも出来上がったかの様、どくんどくんと、鈍い痛みを伴って脈を打つ。喉の直ぐ下、いや、最早喉の真ん中の辺りに迄、固体と液体の入り混じった酸っぱくて温かい物が登って来ている。
これはまずい。巫女の人間がそうした様に、全力で目を見開き、眉間に力を込め、万力の如く強く閉じた口の上に両の掌を重ねる。
花の異変での弾幕ごっこを思い起こさせる、そんな様子で全身を小刻みに震わせ必死に耐える文であったが、その努力も空しく。
椛がばつの悪そうな顔で自室に戻って来たのとほぼ同時、文は自分の中で決定的な何かが切れる音を聞いた。
何かを叫んで走り出す椛。それより早く。
◆
スカートこそは穿き直したもののブラウスの首元は緩めたまま。そんな格好で布団の上で仰向けになって転がり、胸のポケットから取り出した手帳を見る。細かな文字でぎっしりと埋められているその中、今日の日付の横に矢印が引いてあって、その先に博麗、魔法の森等と汚い字で走り書き。首を回して布団脇の時計を見遣る。目に入る「15:21」の数字。静かな部屋の中で文は一人、小さな溜息を吐いた。
本当ならば今日は、朝から博麗の神社や魔法の森に出向き、そこで面白い人間の生態でも面白可笑しく観察してやろうと、そう予定を組んであったのだ。それが気付いてみれば昼を過ぎ、今や夕刻もそう遠くない時間へとなってしまっている。今から出掛けるにはもう遅い。その上、椛の言葉によれば外は雨が酷いらしい。雨は空飛ぶ者の身を濡らし重くする。尚の事、表に出るのが億劫だ。
文は寝転がったままで両腕を勢い良く広げた。手にしていた手帳が放られて飛んでいくが、そんな事は気にしない。伸ばされた腕の先、右側からは小さな本を、左側からは円い金鍔(きんつば)を一つ、手にして顔の前まで持って来る。本は椛が山の神社から借りてきている物で、大きな瞳で愛らしさを強調された人間の少女達が、恋だ青春だと一生懸命になって生きている様子が描かれている。金鍔は金鍔。里の菓子職人が作ったものを、神様か河童か、何処をどう経由したのか、兎も角、哨戒天狗達のお八つ用としてこの詰め所に置かれている物だそうである。甘くて、でもほんのりとしょっぱい。どちらも、文の為にと椛が用意してくれた物だった。
不意に戸の開く音がした。よっこらせ、と、身を起こして見てみれば、洗い終えた雑巾を手にした椛の姿。
悪いわね、と、文が言う。いえいえ、と、屈託の無い笑顔を椛は返す。お互いが一言ずつを交わしたその後は、薄暗い部屋の中に再び静寂が広がる。遠くに滝の流れる音と、それから、文が手にした本を捲るその紙擦る音。聞こえるのはそれ位。
意外に。
ぽつりと漏れた一言が、沈黙に固まっていた部屋の空気を揺らした。部屋の隅、膝を抱えて座ったまま、じいっと文の方を眺め続けている椛。
何、と、スカートの内に手を入れ腰を掻きながら、眠そうな声で文が問いかける。それを聞いて椛は、急に慌てた顔になって両の掌をぶんぶんと振り、それからしどろもどろに話し出した。遠回しな表現が多くどうにも判り難い内容ではあったが、要は、文は普段からしっかりきっちりした生活をしていると、椛はそんな印象を持っていたのが、こうして今の様子を見ていると、思いの外だらしのない所もあるのだな。そういう事であった。文は真面目なのに意外に、と。
真面目だから。両手を広げて布団の上へと倒れ込み、口には出さず心の中で文は呟いた。
人間や他種族の妖怪からは、何やら胡散臭い、いつもにやにやしている、時にはそんな風に思われる事もある文ではあったが、その性を一言で表すとなれば、それは真面目の他に当たらない。天狗という種族全体の特性、組織の一員たる意識からくるものでもあるし、また、新聞記者という立場によるものでもある。花の異変の折にも、閻魔の問いにまともに答えようとしたのは彼女くらいであった。
射命丸文は真面目である。そしてそれ故に融通が利かない。
いつも気ままに行動している様に見えて、実際にはそれは、事前に細かに組まれた予定の上に乗っているものなのである。真面目だから、それを崩す様な真似はしない。
けれどももし、予期せぬ事態、不可抗力によってそれが崩れてしまったなら。元に戻そうと思っても、それが適わない状況になったのなら。予定を大本から変えて、その場に合わせたものに組み直す。そんな融通が利く様な性格ではない。予定通りに、と悩む。ひたすらに悩む。
挙句、全て放り投げてしまうのだ。どうせ思った通りにいかないのならいっそ、と。
加えて今日は、昨晩の宴会で呑み負けた、その事が文の心に重くのしかかっていた。
鴉から天狗へと成って今迄、酒で負けた事など只の一度も無かった。いくら鬼や神様が相手とはいえ、その自信が揺らぐ事は微塵も無かったのだ。それなのに、である。周りから見れば下らない事なのかも知れない。当の本人もそうは思う。思いはするが、かと言ってぱっと気持ちを切り替える事も出来ないままでいる。
心が重くなれば身体も重くなる。今日はもう、何もする気が起きない。このままだらだらと一日を潰そう。そう、文は考えていた。
勿体無いな、時間の無駄遣いだな。そんな意識も有るには有った。但し、それもほんの僅か。人に比べて遥かに長い時を生きる妖怪の身、時間は幾らでも有るのだ。少々の無駄なぞどうと言う事もありはしない。
仰向けになって眼前に持った本を捲りながら、けれど、と、文は思う。
本の中の人間達は、一日一日を一生懸命に生きている。短い時間の中で、泣いて、怒って、そうして笑って。こんな様子を、生き生きしている、と言うのだろうか。充実している、と言うのだろうか。
口の中に入れかけた金鍔を、ふと思い立って眼前に摘み上げて眺めてみる。一口で消えてなくなってしまうこんな小さな菓子に、本物の剣鍔にも劣らぬ見事な文様。これ程の物を、百年どころかその半分程度しか生きてはいない者が作り上げるという。短い持ち時間だからこそ、得られる物も在ったりするのだろうか。
文には判らない。羨ましい、などと、そんな気持ちがゆっくりと頭をもたげたりもする。かと思えば、そんな事はないだろうと、そうした考えが羨望の気持ちをあっさりと踏み潰す。短い時間をせせこましく生きるより、永い時間をゆるりと味わって過ごす方が良いに決まっているではないか、と。けれどもまたすぐに、一瞬に凝縮された輝きをこそ、と、羨望が身を起こしてくる。そうして、無駄な時間をも風情と捉える事の出来る永い命へと、真正面から向かって行ってがっぷり四つに組む。この両者に優劣は立つのか。文には判らない。
何を考え過ぎて。文自身そうは思うが、二つの価値観は頭の中でぶつかり合いを止めようとはしない。
予定外に手に入ってしまった、何もする事の無い時間。昨日の晩に、見事に砕かれ散った自信。そうしたもののせいなのだろう。開いた本を顔に被せて、眠くもないのに目を瞑り、静かな部屋の中で只々無意味な思考を延々と繰り返す。
そんな文の耳に、何の前触れも無く突然、獣の吼え声か何かかと思う様な、そんな大きく荒々しい音が届いた。直後、誰か、それも複数名が強く足を踏み鳴らす響き。不規則に打たれるそれは、次第に大きく、そして近くなってくる。
その音がぴたりと消えた。次の瞬間、戸が吹き飛ぶのではないかという程の勢いで強く開かれる。そこに見えるは三つの顔、神様二人と鬼一人の姿。三人とも上気した顔で、まだ勝負は、だとか、今宵こそ、だとか、口々に声を上げながら迫ってくる。何が何とも理解できぬまま目を白黒させている文の腕を取り、有無も言わせず布団から引き起こした三人を、椛と、それから、遅れて部屋に入って来た早苗が必死に宥め抑えようとする。
これは一体、何がどうした事か。呆気にとられている文に向かって、椛と早苗が事の次第を話し始めた。
滝壺脇で行われた昨晩の呑み勝負、二百と八を数え終えた時点で、文と神奈子と諏訪子と萃香、四者が全くの一時にぱたりと倒れ、そうしてぴくりともしなくなった。その動きがあまりにも綺麗に同調していたものだから、さてこれは四人密かに打ち合わせての芝居か何かかと、宴席の面々まずはそう思った。けれど、その後いくら待っても四人の内の誰も起き上がる様子を見せない。そんな所に、先程よりは幾分かすっきりとした面持ちの早苗が戻って来て、そうして何事かと声を上げて神様二人の元へと駆け寄った段になって初めて、他の者達もどうもこれはおかしいとざわめき始めた。
近くに寄って確かめてみれば、四人が四人とも顔を真っ赤にして白目をむいている。遠目には全く動きの無い様に見えたその身体も、間近でようく見ればびくんびくんと小さく震えていた。すわこれ一大事と、宴は急遽締められて四人は滝の裏、哨戒天狗の詰め所へと運び込まれた。一番の大きな部屋を緊急の医務室代わりとして四人を寝かせようとしたものの、岩肌をくりぬいた造りのこの詰め所、広いと言っても四人を横にするには少々手狭。それで文一人は椛の部屋に移された。
一時は医者を呼ぼうかという話も出たのだが、そこは流石に大酒呑みを豪語するだけの事はある、さほどの時もかからぬ内に四者とも落ち着きを取り戻し、それから暫くは時折うんうんと唸って苦しそうな表情を見せたりしたものの、やがて安らかな寝息を立て始めた。
そうして昼過ぎになってから文が目を覚まし、それからやや遅れて今しがた、残りの三人も意識を取り戻したのだった。そこで看病をしていた早苗から事のあらましを聞かされた三人は、四者引き分けという昨晩の結果を良しとせず、今晩こそけりを付けてやろうと、そういきって文の居るこの部屋に押しかけて来た。そういう事なのであった。
話を聞き終えて文は、心にのしかかっていた重りがあっさりと消えて無くなるのを感じていた。自分は別に、負けてなどいなかったのだ。それどころかむしろ、目の覚めた時間を勘案すれば勝ったと言っても良いかも知れない。そう思うと心がどんどん軽くなり、軽くなった心は先程迄の懊悩も綺麗さっぱりと投げ捨ててしまっていた。何一つ解決した事は無いというのにである。或いは、はなっから解決すべき問題など存在していなかっただけなのか。
また明日も、先程と同じ様な状況に陥るやも知れない。何もかもがどうでも良くなり、そうして何を成す事もなく只頭の中をぐるぐると回し続ける羽目になるやも知れない。そんな予感も無いわけではないのだが、それでも世の中なるようになる。なるようにしかならない。ならば、今目の前にある状況を楽しむ事に全力を注いでやろうじゃあないか。
ちょっとした状況の変化があっただけで、こうもころころと気持ちの色が変わってしまう。そんな自分自身を少々情けない、まだまだ若いなと心で笑いつつ、受けて立ちましょうと一言、文は強く胸を叩いた。そう言えば外は雨だとさっき聞いた様な気もするが、そんなもの今の文にとっては全くの些事。それどころか、雨濡れの羽色は鴉の艶を引き立てる、と、むしろ乗り気の風を見せて言う。
日も沈まぬ内から酒だ宴だと部屋を出て行く四人の背中を見送りながら椛は、こうなる事は判っていたけれど、と、小さく溜息を吐いた。
それと全くの同時に、隣の巫女も息一つ。
椛が早苗の方を向く。早苗が椛の方を向く。少し照れくさそうな顔を突き合わせて二人は、今晩も、そして明日もまた大変だ、と、けれども小さく笑って、まあそれも良いか、と、そんな言葉を交わす。
徹夜の看病で硬くなった身体をぐぐっと伸ばして後、宴会の準備をする為に二人は部屋を後にした。
場面はずっと椛の部屋の布団の上で動きが無いのに、適度にあややの思考・視点が移り変わるので単調さをあまり感じませんでした。椛の動きがいいアクセントになっていたと思います。
また彼女のその散漫な思考が、モノクロっぽい淡白な描写と合わせて、二日酔いの気怠い午後の雰囲気を上手く表していたように感じました。天気が雨というのもまた。時刻にしたら4時前くらいのイメージですかね。
ただ金鍔から後のあややの独白が少し長かったかなという気がしました。作品の締めの部分が彼女の気持ちのギアのローからハイへの変化だったのでここは必要とは思いますが、それまで感じてきたテンポがここでちょっと変わったかな、と。自身の真面目さについての部分と呑み競べに負けてヘコんでいる部分を、間に場面を挟んで分けた方がよかったかも、とも思ったり。と、これは感想の領分を越えているでしょうか。失礼であったなら謝ります。
作品に流れる空気(酒臭いとかではなくて)がすごく自分の好みに合いました。勢い余ってこんな長文感想まで…申し訳ないです。次回作も期待しています。ごちそうさまでした。
描写が濃いのに読みやすくてすっきり
ちょっと過去作も読んでこようかな
だがそれがいい
しゃめいまるー
最初の印象はこれでした。調子こいて飲みすぎて記憶飛んで起きたら↓↓↓、
この一連の描写がリアルでお見事。
ヤマも無しオチも無し意味も無し、なお話の流れながら、
二日酔いからの回復劇はある意味山越えだからなあ…w
などと思ったり。
非常にグッときます、それ。
>>会社では皆から一目置かれているOLのお姉さんが、休日は妹の部屋でだらだらしている
んん~、ディモールトベネ!!
嫌いな女子なんて居ない事で有名な、あれです。
>やおいはやま無しおち無しいみ無しの頭文字です。
解説、ありがとうございます。これが嫌いな女子なんて居ません。
>勢い余ってこんな長文感想まで…
今回のお話は今迄に自分が書いた物と大きく雰囲気を変えて、その上で読んだ方の反応を見たい、
そうした意図が有ったものでして、ですから、こうして感想以上の御意見を戴けたという事、
それはとても、本当にとても嬉しいのです。正に望外の事。今後の参考とさせていただきます。
次のお話は今回とはまた違った様子のものになりそうなのですが、もし宜しければ次回もお付き合い下さいませ。
>ちょっと過去作も読んでこようかな
そう言っていただけるのは、とてもありがたい事です。
ただ、まあ、今迄に書いた物と今回とでは全く雰囲気が違いますので、お気に召さなかったらすみません。
>名前が様
次回もこうしてすっきりとさせられるよう頑張ります。正直、余り自信は無かったりもするのですが。
>見事なまでに山も落ちも意味も無い
表題に偽り無し、です。
>台詞を全く使わずに地の文だけで構成って凄いですね。
「」を付けさえすれば普通に普通の台詞になる、そんな箇所が幾つか在るかも無いのかも。意外に。
>やおいなんて書いてあるからおもわず読まないところだったじゃないか
東方でやおいなんて言ったら、それはもう極端な迄に状況が限定されてしまいますからね。
取りあえず思い付く組み合わせと言ったならば、ええと、月のお屋敷で門番をしている二人とか。
>ぐい井戸・御簾田様
このお話は実体験や周りの人の体験談、行動観察等を基にしたりしています。
なので、本当の事、なんてものが結構に含まれているのかも知れません。
お酒は過ぎれば恐くもありますが、適量ならばやはり、人生を楽しくする素敵な液体、だと思います。
>A様
妹の部屋にいつ迄も居座って、勝手に棚を漁って本を読んだりお菓子を食べるのが姉というものだと思います。
でも、たまに気が向くと一緒に買い物へ連れて行ってくれたり。そんな感じ、でしょうか。
>面白かったです。
こうした一言が励みになります。ありがとうございました。
>三文字様
外面は良いけれど家ではだらしのない。そんなお姉さんって素敵ですよね。とても良いですよね。
その他の読んで下さった方々も、本当にありがとうございました。
なんにも起こってないんですが、するすると読めるのが凄い。
酒飲んで記憶飛ぶシーンは特にリアルに感じました。似たような経験があるだけに。
確かにやおいなのです。
それにしても、東方関連の場でこれ程までにやおいという単語を扱える日が来ようとは。
何だかちょっと得をした気分です。