ほら 開演ベルはとっくになり終わったのに
ステージは空っぽだ
俺はどこにいるんだろう
≪パンプキン・キング≫
町は静かに眠っていた。
目覚めにはまだ遠い時間――けれど丑三つ時はとうに過ぎている時刻。早いものならば眼を覚ましているだろう。けれど、総体としての町は未だ眠り続けている。夜は遠くに去りつつあり、朝は近くまで訪れ――限りなく狭間に近い刻。
霧が出ていた。
それ以外には、まだ何も出ていない。東の空はいまだ暗く、肌を刺すような寒さがあった。誰もいない町には音がなく、風すら吹くことなく霧は沈殿していた。
眠りにつく町を覆い隠すように。
覆い、守るように。
ゆりかごのような、
子守唄のような、霧。薄い薄い水滴は空気に拡散してどこまでも広がっていく。景色の彼方はかすんで見え、服の間から忍び込む空気が容赦なく体温を奪っていく。
だから、早苗は。
「……風邪ひきますよ?」
馬鹿なことだと思いつつ、そんなことを問いかけてしまった。
案の定、「馬鹿なことを言うね」と笑われた。馬鹿にしたような笑いでなかったのが唯一の救いだった。楽しんでいるような笑い声は、そのまま失速してふっつりと切れた。
――神様が風邪をひくもんかい。
無言の背中は、無言のままにそう主張していた。
「…………」
目の前の少女が神だとはわかっているが――どんな神なのかは、あまり把握していないが――その小さな背中を見ていると、とてもそうは思えなかった。神奈子神よりも、自身よりも小さな背中。
その背中に何を背負っているのか、早苗は知らない。
だからだろうか。
小さな背中はあまりにも頼りなくて――今にも消えてしまいそうだと思ってしまうのは。
「…………ふぅ」
吐く息は真っ白だ。外音が冷たすぎる。朝霧で白く覆われた町は、その外観から違うことのない寒さを携えていた。巫女服できていたら風邪をひいたかもしれない――それ以上に奇異の目で見られただろうが。
制服の上にカーディガンをはおっているが、どうにもむき出しの足が寒かった。
そしてそれ以上に、目の前の小さな神様の姿は、見ているだけで寒くなるものがあった。
――神さまは、寒さを感じないのかもしれない。
そんなはずはないのだが、そう思ってしまう。あるいは自分が辛抱弱いだけなのか。寒いことは寒いが、堪え切れないほどの寒さでもない。
「はぁ――」
手に息を吹きかける。まっ白い湯気のような息が手を暖め、温度と呼気はたちまちのうちに朝霧の中に消えていった。
朝霧の町。
商店街はまだ眠りについている。シャッターはすべて降り、人の姿はまだない。ようこそ商店街へ、と数十年前に書かれたであろうアーチの文字は、年月とともに色褪せてほとんど読み取れない。商店街に慣れ親しんだものしか利用しないので、書きなおす必要がないのだ。
彼方には彼女の通う学び舎があり、此方には彼女の住まう神の山がある。
その狭間に町はあり、
彼女たちは、眠りについた町にいた。
「――――」
改めて早苗は思う。制服でくる必要はなかったのではないか、と。誰かに見つかったときの為の格好だが、誰も見ていないのだから、いっそどてらやはんてんでも着てくればよかったのではないか。いやいや、いくらなんでもそれはみっともなさすぎる。誰も見ていなくても諏訪子様がみている。
少しの辛抱だ。
もう少し待てば陽が昇ってくる。陽が登ってくれば霧が晴れる。霧が晴れれば暖かくなる。
問題は、どうしてこんなことをしているのかわからないというだけ。
「諏訪子様――」
名前を呼ぶ。
小さな神は振り向かない。もはや彼女くらいしか呼ばなくなった名をささやかれても、小さな神は振り向くことなく寂れた商店街を見下ろしている。屋上の縁に座り、細い足を下へとたらして、ぷらぷらと揺らしている。つつけば落ちてしまいそうな際で、彼女は遠いどこかを見遣っているようにもみえた。
屋上。
朝の町の、何の変哲もない店の屋根に諏訪子と早苗はいた。瓦敷きの端に諏訪子は腰を下ろし、早苗はその後ろで膝を抱えるように中腰になっている。瓦は濡れていて、腰を下ろす気にはなれなかったからだ。
行こう、と言ったのは、諏訪子の方だ。
朝早く。陽が昇らない頃、月が出ている頃、もう一人の神である神奈子神が眠っている時刻に――音もなく早苗の寝室へと忍び込んできて、諏訪子はそっと誘ったのだ。
行こう、と。
月夜の散歩のような――秘密の冒険のような。もう忘れてしまったはずの冒険心をくすぐられる提案に、早苗は一も二もなく頷いた。今日が休日だったから、というのもあるが、この不思議な神が自分に何を見せたがっているのか気になったのだ。
そして今、屋根の上にいる。
商店街の中央通りに――通りはひとつしかないけれど――面した店の屋根からは、商店街すべてを見渡すことができる。逆にいえば商店街のどこからでも見つかってしまうということなのだが、朝霧に加え、まだ起きてきた者がいないのが幸いして見咎められてはいなかった。
一番怖かったのは梯子で屋根の上へと昇る時だった。
が、昇ってしまえば――気分は良かった。
寒さを気にしなければ朝の空気は心地よかったし、誰もいない町は常と異なって新鮮だった。
これを見せたかったのだろうか、と思う。
――違う。
根拠はなく、けれど確信をもって早苗には言えた。この雰囲気を味わえただけでも良いけれど――諏訪子神の見せたいものは、もっと別のものだろう。小さな背中がそう教えてくれる。
彼女は、
何かを、待っている。
「――寒い?」
気遣いの言葉は。
早苗ではなく、諏訪子の方から発せられたものだった。振り向かず、霧の町を見たままに諏訪子が言う。ゆっくりと揺れる足が、分速五回でメトロノームのごとく揺れるカエルの帽子が、振り向かない背中が、〝大丈夫?〟と気遣ってくれているように思えた。
だからだろうか。
早苗は――ふ、と、微笑んで。
「やっぱり、風邪ひきますよ」
立ちあがり、前へと進み、腰を下ろす。諏訪子の体を両足で挟むようにして後ろに座り、今度こそ尻を瓦につけてしっかりと座った。制服が濡れて汚れるだろうが構わなかった。後ろから抱き抱えるように諏訪子の脇下から腕を回し、そのまま軽く抱きとめる。
小さな背中を、抱きとめる。ぴったりとくっつけた体に朝霧は纏わず、服越しに伝わる体温が暖かい。
ふ、と。
息を吐くようにして――諏訪子もまた、笑い返した。すぐ前にあった頭が、こつん、と後ろにしなだれて早苗の肩に重みを預ける。金色の髪が一瞬視界を覆い、わずかに遅れて諏訪子の香りがした。
山と少女と神の香り。
生きている、神。
「寒かったんだ――」
笑いながら諏訪子が言う。抱きとめたまま早苗も笑い返す。くっくっく、と小刻みな震えが体越しに伝わってくる。
暖かい。
寒いけれど、暖かかった。
朝霧はまだ町を支配している。それも今しばらくのことで、注視すればゆっくりと、ゆっくりと――霧が薄くなっていくのが見えた。
温もりに圧されるように、寒さが遠のいていく。
いつまでそうしていただろうか。
いつからそうしていただろうか。
それがわからなくなるくらいに時間がたって――あるいはほんの一瞬後ほどの時間になって。
から、と。
小さな音がした。
「ぁ――――」
諏訪子がつぶやきを漏らし、すぐそばで首が動く。肌をなでていく髪を感じながら、早苗もその視線の先を追った。
すぐ前だった。
商店街の通りをはさんで、反対側に立つ小さな店。駄菓子屋とも道具屋ともつかない、大昔に取り残されてしまったような古びた店だった。
その閉まり切ったシャッターが、開こうとしていた。
から、という音は、すぐにがらららら、という音に代わる。音のない朝霧の町では、その音はどこまでも響いていきそうだった。
その開くシャッターを見ながら。
「あの店はね――毎朝、一番最初に開くんだよ」
愛郷を持って。
愛敬を以て。
洩矢 諏訪子は、そう口にした。
「…………」
何も言えない。何を言う必要も感じられず、黙ったままに早苗は開くシャッターを見る。がらら、という音はすぐに止んだ。シャッターは一番上まであがりきり、腰の曲がった老女が一仕事終えたように吐息を吐いた。息は屋上からでもわかるほどに白く、朝霧の中に溶け込んですぐに見えなくなる。
寒いだろうに――皺だらけの手には何もつけておらず。
どこか穏やかな雰囲気すらまとって、老婆は店の中へと戻る。対岸の屋根に神と現人神がいることに気づきもせず、彼女の一日を始めようとしていた。
誰よりも早く。
霧に眠る町で――老婆は、最初に一日を始めた。
「それで――今日が、最後」
「え――――」
今度は、声が漏れた。
意図せず漏れた声は、驚きの色があった。諏訪子の言葉をゆっくりと租借する。
最後。
それは、つまり。
「店じまい――ですか?」
うん、と。
あっけないほどにあっさりと、諏訪子は頷いた。その声には何の悲壮もなく、落胆すらない。むしろ安堵すら感じられそうな、穏やかな声。
今日までお疲れ様――と。
そう言っているかのような。
「随分と長かったから、ようやく、かな」
言って、諏訪子は足を揺らした。秒速一往復の揺れ。細い足が冷たい霧をかき混ぜていく。
その間も、早苗は見るのをやめない。対岸からでははっきりと見えた。店の中に電気が灯り、老婆が開店の準備をしている。訪れる客などまだいないだろうに、いつきてもいいようにと、誰よりも早く用意をしている。
これまでそうしてきたように。
これまでずっと――そうしてきたように。
そして、
これからは、ないのだ。
これが、最後。
最後の朝を、老婆はいつもどおりに、迎えようとしていた。
「――――――」
早苗は眼をそらせない。諏訪子の言葉と、目の前の光景が、頭の中でくるくると交互に入れ替わって混ざり合っている。
だから。
先に動いたのは、諏訪子の方だった。
「――さて、帰ろっか、早苗」
元気にそう言って。
驚いてしまうくらいに器用に、諏訪子は屋上の端に足をかけるようにして立ちあがった。するりと、抱き抱えていたはずの手の中から抜け、ぴょんと跳んで屋根の上へと昇っていく。裏側にたてかけた梯子の方へと向かって歩き出す。
振り返らずに。
慌てて早苗が追いかけなければならないほどに、あっさりとした、終わりの言葉だった。
「……いいんですか?」
歩幅は早苗の方が大きい。たちまちに背中に追いつき、横に並び、横眼で見ながら早苗は問いかける。
かすかに見える諏訪子の顔は、
泣いてもなく、
笑ってもなく。
そんなこともあるさと――そう言っているような、目を細めて眩しいものを見るような――そんな顔だった。
――うん。
諏訪子は頷き、そのまま梯子を降りてゆく。次いで早苗も降り、背後ではシャッターの開く音が重なって聞こえてくる。あの老婆の店を皮切りに、いくつかの店が支度を始めている。
ゆっくりと、
ゆっくりと、朝霧が薄れて。
ゆっくりと、
ゆっくりと、朝が訪れる。
目覚めた町に背中を向けて、諏訪子は歩きだす。
山へと。
彼女たちの住みかへと。
その背中に、早苗は。
「――――――」
結局――何も言うことができず、隣に並んで、手を取るのが精いっぱいだった。
手を取り、神と現人神は朝に背を向けて歩き出す。
東の果てから陽が昇ってくる。
霧が消えていく。
世界に溶けるように消えていく。
つないだ手の暖かさが気にならなくなるくらいに、世界はぬくもりに満ちていく。
小さな滴が、嘘のように眩しい光を反射して、消えた。
(了)
ずっと心に残して置きたいと思う話でした。
なるほど、土着の神様はこういう所も見ておられるのか。
小気味良いテンポで映画のワンシーンみたいな一幕。
こういう東方もあるんですね。
面白かった。
彼はこの風景をみて、どこに向かうんでしょうね。
余韻を感じさせる文章でした。
思わず余韻に浸ってしまいました。
それが分かっていても、ついつい惰眠を貪ってしまう私ですがw
何だか心が温まりました。