「ん……」
柔らかな陽が顔に当たり、魂魄妖夢は目を覚ました。
いつの間にか眠ってしまっていた。
わずかに開いた障子の隙間から溢れる、早春の爽やかな陽気。芳しい若木と花の香。絹の手触りのそよ風。
どんなに剣の鍛錬を積んでも、そういうものには勝てる気がしない。背中に交差して下げた二振りの刀の位置を直しながら、畳の痕が付いた頬をごしごし擦った。
庭園に面した白玉楼の屋敷の一室であった。中央に、指しかけのまま置かれた碁盤と空になった湯飲み。先刻まで妖夢が相手を務めていた、主人である西行寺幽々子の姿は、ない。
「幽々子さま?」
妖夢の声が屋敷に響く。返事はない。遠くで鳥のさえずりと、木々のざわめきだけがかすかに聞こえる。
ふと不安がよぎる。一昔前には考えられないくらい、今の白玉楼は人や妖の出入りがある。ほとんどが気のいい連中だが、幽々子様に仇を成そうと考える不貞の輩がいないとも限らない。
そういう不測の事態に備えるべき自分が、一時とはいえ春の陽気に誘われて居眠りをしてしまった。
一挙動で立ち上がる。
「幽々子さま!」
背中に冷たいものを覚えながら、妖夢は声を張り上げる。楼観剣の柄に手が伸びそうになるのをこらえつつ、冷静に――しかし内心ではひどく焦って立ち上がり、叩きつけるように障子を開け放ち、
「みょん!」
縁側の陽だまりで、子猫のように丸まって眠る主人を蹴り飛ばしそうになり、危ういところで飛び退いた。
「ゆ、幽々子さまぁ……」
焦りと驚きで思いのほか乱れた呼吸を整えながら、妖夢はため息をつく。安心すると同時に、強く自分を諌めた。いざというときに斬れない刀ほど性質の悪いものはない。暖かくなって、少しばかり気が緩んでいたのかもしれなかった。西行寺家の警護役という大役を、もう一度強く意識した。
それにしても、けっこうどたばたやったのに、幽々子に目覚める気配はない。眠る主人の側に膝を付き、そおっと顔を覗き込んだ。
規則正しい寝息に、心地よさげに下がった眉。
こんなところで居眠りをするなんて行儀が悪い。幽々子のお付きならそう毅然と指摘すべき所であろうが、頬に畳の痕をつけたまま眉を吊り上げるのも格好が付かない。
それに、この陽気である。
妖夢は縁側から、果てしなく広がる白玉楼の庭園を眺めた。眩しさに少し目を細める。ほのかに薫る緩やかな風。その度に踊る瑞々しい白い花びらの群れ。震えるほど見事に乱れ咲いた桜々。
文字通り、『この世のものとは思えない』美しさだ。これは庭師たる自分の苦労の賜物でもある。
春。
白玉楼が一年で一番輝く季節。絶佳と陽気に包まれて、思わずうとうと、というのも分かりすぎるほど分かる。もっとも、幽々子さまが怠惰なのは何も春に限ったことではないけれど。
「ふぅ」
結局妖夢は何も言わず、奥の間から持ってきた薄い織物を幽々子にかけるに留めた。「んぅ……」 と幼子のような吐息をもらす主の無邪気な様子に、思わず頬を緩ませる。千年以上を生き(?)気まぐれに人を死に誘う亡霊姫にはとても見えない。
穏やかな気持ちで、幽々子の髪に付いた桜の花びらを払い、妖夢は立ち上がった。
「さて、と」
警護役兼、世話役兼、庭師の仕事は多い。日が落ちるまでに済ませなければならない雑務はいくらでもあった。ちょうど一年前にできた友達である白黒の魔法使いなどは、こんな自分を評して『真面目すぎるぜ』 とあきれ半分感心半分に笑ったものだが、自分に言わせれば、それは彼女が不真面目すぎるからそう見えるだけだ。
差し当たって、本職の仕事から片付けるとしよう。妖夢は納屋に向かい、刀以外で剪定に必要ないくつかの道具を身に付けた。
「それじゃ、少しの間お嬢様をお願いね」
その辺を漂っていた亡霊に眠り姫のご機嫌伺いを頼み、妖夢は、半身である人魂を引き連れて広大な白玉楼の庭園に入っていく。もちろん剣気を尖らせ、気配を探っておくことも忘れない。
幼いながら稀代の剣豪でもある妖夢にとって、この広大な白玉楼のほぼ全域が剣の間合いである。仮に不埒な侵入者が現れ、幽々子に危害を加えようとしたとしても、一足飛びに駆け戻って斬り捨てる自信が、妖夢にはある。
うつむき、強くかぶりを振る。
いや、慢心は剣志を曇らせる。慢心と自信とはもちろん違うが、その二つをはっきり区別することは、今の妖夢には難しかった。
はは、と。自嘲気味に笑う。こんなことでは先代に怒られてしまうな。しかし、思考の暴走は止まらない。あるいは、狂おしいほどに乱れ咲く桜がそうさせるのかもしれない。
春だ。
夏が過ぎ、秋が終わり、冬が去って、春。また春がやってきたのだ。
昨年の春の記憶が、妖夢の心に小さな棘となって残っていた。
『西行妖を咲かせなさい』
幽々子の命の下、楼観剣と白楼剣を携え、幻想郷中の春を集めて回った。短くも激しく、鮮烈な時間だった。永く花を咲かすことがなかった西行妖が、千年振りに目覚めようとしていた。
あと少しだった。もう少しで手が届いた。
しかし、そこまでだった。冥界の結界を越えて乗り込んできた者たちがいた。それらをまとめて追い返さなくてはならない自分が、白黒の魔法使い一人に手間取っている隙に、幽々子様は、博麗の巫女に討たれた。
計画は、失敗した。私のせいだった。
思わずにはいられない。あの出来事は結果的に良い方向に転がり、幽々子様に漂っていた退廃的な面影は消えた。白玉楼は良い意味で俗っぽくなり、こんな自分にも友達ができた。それでも、思わずにはいられないのだ。
もし、先代だったら。
私ではなく、先代西行寺家警護役・魂魄妖忌があの場にいたら。
西行妖は咲いただろうか。白黒魔法使いも紅魔の従者も、博霊の巫女すら打ち破り、幽々子様を守り抜いただろうか。最後の春を集めきっただろうか。例えそれが破滅に繋がる道だとしても、幽々子様の望みを叶え、西行妖は咲いたのだろうか。
そこまで考えて、妖夢は強く唇を噛み、こぶしを握った。
未熟。
あまりに未熟。
情けなった。少し涙が出た。背中が重い。楼観剣・白楼剣の重さだった。一緒に背負った西行寺家守護役としての責任の重さだった。宿命の重さだった。
ふいに一陣の風が吹いた。春の陽気を孕んだ暖かい風。渦巻き、吹き抜ける。その先にあるのは、悲しいくらい澄んだ、冥界の青空。
「あっ……」
一瞬。視界を埋め尽くすほどに散り広がる桜の乱舞に思わず目を瞑る。乱れる髪を押され、再び目を開いたとき、半分だけの鼓動を刻む妖夢の心臓は高鳴った。
眩暈がする。喉がからからになり、視界が歪む。そんなはずはない。そんなはずはないのに、懐かしい後ろ姿が見える。背筋が凍る。立っていられない。
上等な玉鋼のように輝く長い白髪。老いてなお頑強な、揺るぎのない体躯。白衣、袴に、山吹色の羽織を引っ掛け、春風の中を迷いのない足取りで歩いていく。
行っちゃう。
「ま、待って……」
かすれる声。あれは。まさか、あれは……。
「待ってください!」
そんなはずはない。あり得ない。分かっているのに。妖夢は、よろめきながらも懐かしい姿を追い、駆け出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
舞い踊る花びらと眩暈の中を、妖夢は駆けた。白昼夢のように奇妙に歪んだ世界。
「待って!」
叫ぶ。
焦燥感が胸を焦がし、正常な判断力を奪い取っていく。
あの人は歩いてるのに。私は走っているのに。こんなにも走っているのに。懐かしい広い背中は、どんどん離れていく。おかしい。追いつけない。離れていく。だめだ。会いたい。会って話がしたい。行かないで。お願いだから行かないで!
「待って! 待ってください! 待って、お願い! 師匠待ってください! 待ってお爺ちゃん! 待ってよ!」
息があがる。上手く走れない。それでも懸命に足を動かし、離れていく背中に追いすがる。桜が舞う。視界を埋め尽くさんと舞い続ける。それらを乱暴に払い、妖夢は走り続ける。手を伸ばし、叫ぶ。
木の根か何かにけつまずき、妖夢は派手に転んだ。
「ぐ、ごほっ」
痛みよりも、走りすぎた疲労から、妖夢は激しく咳き込んだ。淡い白色で覆われた地面に爪を立て、どうにか身体を起こす。
「……し、師匠」
柔らかな霞と花びらの向こうに、その姿はある。魂魄妖忌。半霊の剣鬼。先代西行寺家警護役にして、妖夢の祖父。
揺るぎない威風も、他を圧倒する存在感も在りし日のままで、それがどうしようもなく妖夢の胸に響いた。
そして、魂魄妖忌は振り返った。
肩越しに向けられる、強い、意志が込められた眼力。
――立てぃ。
そう、言われた気がした。
「は、はいっ!」
軋みを上げる身体を意志の力で従え、立つ。上がっていた呼気も、瞬時に整える。妖夢を一流の剣士たらしめる日々の鍛錬が、それを可能にした。
「え……?」
そこで、妖夢は自分に起きた異変に気が付いた。服が、違う。いつも身に着けているベストやスカートは消え、代わりに鍛錬用の白衣と袴を身に着けていた。
「こ、これ?」
――構えよ。
「え?」
知らぬ間に大小一対の木刀を握っていた。楼観・白楼の宝剣を模した修練に用いる模擬刀。
「師匠、ちょっと待ってください! これは、いったい、」
妖忌は応えず、肩にかけていた山吹色の羽織を脱ぎ捨てた。羽織の下には、妖夢と同じ白衣袴の鍛錬着。無造作にぶら下げた大小の模擬刀も、同じ。
ふいに、望郷にも似た懐かしい感覚に妖夢は囚われた。見回り途中庭園の片隅で、霧雨の降る裏の墓地で、無限に続く白玉階段の途中で、縁側から幽々子が見守る中庭で。初めて白玉楼に連れてこられてから、独り残されたあの日まで、いったい幾度、こうして師と立ち会ったか。
木刀の重み、鍛錬着の肌触り、押し潰されそうな剣気すら心地よく、無意識のうちに、妖夢は構えた。
――参れ。
裂帛の気合を以って、妖夢は応じた。地がめくれ上がるほど強い踏み込み。舞い散る桜を空間ごと千切り飛ばし、稲妻の速度で妖夢は駆けた。離れていた間合いを一瞬で詰め、足元から振るう胴抜き。それは、異能を用いる魔精・妖怪に、間合いの遥か外から斬り込むために考案された魂魄家の妙技。
獄界剣「二百由旬の一閃」
しかし剣先は寸前で軌道を変え、凄まじい勢いで地を打った。絶妙なすかし。反動に体重を乗せ、宙へ。身を翻し、頭上から、遠心力に任せた長刀の打ち込み。
カァン、と。振り仰ぎもせずに妖忌の短刀が受け止める。死角を狙ったにも関わらず、信じられない反応速度。しかし妖夢も慌てない。受けられた短刀をそのまま捻って封じ、そこを支点に乗り越え、妖忌の背後に背中合わせに降り立つ。即座に短刀を逆手に持ち替え、体重を乗せて背後に繰り出した。
「!?」
手ごたえはない。受けられた感触もなく、切っ先は空を切った。背筋が凍えるような悪寒を覚えて前方に身を投げ出す。
頭上を抉った木刀の軌道に髪の毛を数本持っていかれながら、反転する勢いを上乗せした長刀で足元を薙ぎ、返す刀で逆袈裟の一閃。
腕が根元から千切れそうな衝撃がきた。弾かれたのだ。苦しげな吐息の隙に妖忌の長刀は蛇のように狡猾な軌道で、無防備な小手を叩く。
息を呑む一瞬。とっさに柄から手を離し、すぐに掴みなおすことで難を逃れ、そのまま捻りこむように長刀を繰り出しつつ、裏からも短刀で脇を狙う。
しかし妖忌の双剣は一瞬で十字を成し、妖夢必殺の連撃をこともなげに受けた。ぎっちり噛み合う四本の木剣。
妖夢はすぐに不利を悟った。膂力が違う。このままでは押し潰される!
「っ!」
間合いを外そうと考えた一瞬が、付け入る隙となった。あっけないほど簡単に気を外され、身体が前につんのめる。
空いた肩口に無造作に打ち込まれる。辛うじて左の短刀を滑り込ませはしたものの、衝撃を殺すことはできず、妖夢の小さな身体は木の葉のように吹き飛ばされて桜の幹に叩きつけられた。
花びらが、一段と艶やかに、華やかに、大きく舞った。
「は……、あ……」
息ができない。舞い踊る花びらの中、妖夢は木刀にすがって身体を支えた。
強い。やはり、とてつもなく。剣鬼・魂魄妖忌。二代目を襲名してからしばらく経つが、実力差は埋まるどころか、広がっている気さえする。手が震える。打ち込まれた左肩が熱い。剣が握れない。
勝てる気が、しない。
冷や汗が背筋を伝った。いっそのこと、このまま負けを認めてしまおうか。自暴自棄にそんなことを考えた。
雨を斬るには30年かかるという。空気を斬るには50年かかるという。時空間を斬るには200年かかるというが、妖忌はおそらく、その全てを斬ってのける。無念無想の剣を収めた偉大な先人に敵うわけがない。
いつものように参ったを告げて、怒られよう。明日もまた挑戦して、明後日も挑戦して、そうやって積み重ねていけば、いつか必ず、
打たれた肩に、強く拳をぶつけた。灼け付くような激痛に意識をもって行かれそうになるのを、歯を食いしばって耐えた。
でも、おかげで少しすっきりした。……『次』も『いつか』も、もうないんだ。今しかないんだ。妖夢は、ようやく理解しかけていた。
結局、師匠から一本も取ったことがなかった。これは、奇跡的に与えられた、例外中の例外の、一回こっきりの、最後チャンスなのだ。
逃げるわけにはいかなかった。ここで逃げたら、私は、いつまで経っても……、
自戒の思いで唇を噛んだ。滲んだ血潮に決意を込めて、強く強く、越えるべき師を見据えた。
「師匠、不肖の私に稽古を付けていただき、ありがとうございました。ですが、もうしばしお付き合い下さい。これで、最後です」
長刀を肩で担ぎ、無造作に立つ妖忌。さも面白そうに、笑った気がした。妖夢の表情も一瞬和らぎ、波のない湖面のように静かに、それを引き締めた。
「……行きますっ!」
気迫が爆発する。左の短刀を投げ捨て、両手持ち。煮え立つような灼熱の剣気を切っ先に集め、全身全霊の力を込めて振り――背中を桜の幹に預け反動を受け止め、痛む肩を庇いもせずに、真っ直ぐに前だけを見つめ――抜く!
修羅剣「現世妄執」
音速を超える打ち込みが質量を持った螺旋状の鎌鼬を巻き起こし、射線上の全てを巻き上げ切り刻む!
音よりも速く、真空の刃が迫る。その刹那、妖忌の手元で木剣がくるりと回る。逆手。下から、上に。ただそれだけ。
空を絶つ妖忌の剣。絶刀。妖夢渾身の真空斬は二つに断ち割れ、無残にも散った。
それが狙いだった。
寸断された鎌鼬は炸裂し、渦巻く暴風となった。一気に巻き上がる。桜、桜、桜……。
地に落ちた花びら、咲き誇る花びら。その全てが宙を踊り、妖忌の視界を覆った。妖忌は妖夢の狙いを知った。炸裂する暴風は音も気配も消し飛ばす。
妖忌は、妖夢を見失った。
ここに来て、剣鬼は初めて自ら動いた。再び手元で木刀が回り、順手。二本の剣をだらりと下げ、貫くような剣気をそこに込める。
蜂鳥が一回の羽ばたきに要する時間で、妖忌の剣は八度閃いた。
六道剣「一念無量劫」
魂魄、守の奥義。神速の剣閃は八芒を刻み、不可侵の結界となす。剣の結界。領域内の花びらが瞬時に細切れ、吹き飛んだ。
花に紛れた小柄な影が、真横からそれにぶつかっていく。妖夢。木刀を居合いのように携え、決死の踏み込み。魂魄家の秘伝ではない、妖夢が独自に開眼した高速不可視の抜き打ち。
人符「現世斬」
妖忌の目が見開かれる。領域に侵入した妖夢に向けて放たれる一刹那八連斬。妖夢の利き手が霞む。鞘代わりの左手から疾る抜刀一閃。
交差する光。巻き起こる破壊。
妖忌の双刀と妖夢の長刀は正面からぶつかり、常識外れの衝撃波で周囲をなぎ倒した後、互いに砕けた。粉々になって散る木刀の破片。大きく振り抜いた妖夢は致命的にバランスを崩し、そこに、半分の長さになった妖忌の長刀が斬り込まれ、
妖夢の姿が掻き消えた。
代わりにゆらりと宙を舞うのは半透明の霊体。妖夢の半身。不意をつかれ、反動で妖忌は折刀を取り落とす。
魂符「幽明の苦輪」
囮。
妖忌が大きく笑む。その頭上。ざあ、と。桜の壁を突き抜け、襲来する小柄な影。妖夢。振り仰ぐ、妖忌。互いに丸腰。狙い済ましたその一瞬。大きく掲げた妖夢の右手が、落下してきた短木刀をがっしりと受け止めていた。
自ら捨て、「一念無量劫」で空高く巻き上げた短刀。「幽明の苦輪」の「現世斬」で目をくらませ、決死の果てに掴んだ千載一遇の勝機。
残った気力をかき集め、妖夢は吼えた。
「あああああああああああああああっ!!」
光が迸る。溢れた剣気が刀身を包み、渦巻き、光刃の大太刀となって疾駆する。
全生命・霊力を賭した魂魄妖夢最大最強の切り札。
断命剣「迷津慈航斬」
真っ直ぐに振り下ろす。魂の剣。身じろぎもしない妖忌。その肩口を捕らえ――
――光が砕けた。
寄り代にしていた短木刀が力の奔流に耐え切れず、粉微塵に砕け、振り抜いた妖夢の両手は空しく宙を切った。
「そん、な……」
鈍色の絶望。目の前が暗くなり、最後の力が消失する。妖忌の横をすり抜け、着地もままならず、地面に倒れ伏す。妖夢の意識は消えていく。
まだ。まだだ。闘わなきゃ。今闘わなきゃ、私は……! 勝ちたい。負けたくない。師匠!
それを最後に、妖夢の意識は途絶えた。
来む世には
心のうちに
あらはさむ――
柔らかく響く韻。澄んだ歌声。まどろむ意識が心地良すぎて、妖夢は夢現のまま目を覚ます。
「……あかでやみぬる 月の光を」
無意識のうちに、かすれる声で歌の続きを詠んだ。少し驚いた調子で、ぽやーんとした綺麗な顔が妖夢の顔を覗き込んだ。
「あら、よーむ。起きてたの?」
「幽々子さま……」
柔らかな太股の感触。髪を梳く優しい手触り。暖かな気持ちになって、妖夢は甘えるように鼻を鳴らした。遅れて目覚めた理性が状況を把握する。
幽々子さまに、膝枕されてる。
「もももももももも申し訳ありません何という醜態をををっ!」
機械仕掛けのように飛び起きるのと土下座をするのと額を地面にこすり付けるのを全部一緒にやった。絨毯のごとく敷き詰められた桜の花びらが舞い上がる。
広げた扇を口元に当て、幽々子は上品に笑った。
「いいのよ、妖夢。あなたが醜態をさらすのはいつものことだわ」
「みょん……」
妖夢はへこんだ。
「それよりも、こんなところで油を売ってたことに怒ってしまうわ。たくさん呼んだのに、全然来てくれないんだもん。心配になって探しに来たら、寝ちゃってるし。寝顔は可愛かったけどねー」
「す、すみません」
「お茶が飲みたかったのよう。仕方がないからたまには自分で淹れましょうってがんばったら、もうお屋敷が大変なことに」
「う、それは。幽霊の料理番に申し付けていただけたらよかったのに」
「よーむのお茶がよかったの!」
だだをこねる幽々子をなだめながら、気付く。妖夢はいつものベストとスカートを着ており、楼観剣と白楼剣もぶら下げていた。鍛錬着も、砕けた木刀の破片も、どこにもなかった。
いつの間にか日が落ちており、周囲は仄かな薄闇に包まれていた。一瞬、あの出来事は束の間の白昼夢だったのではないかと疑ってしまう。しかしその時、麻痺していた感覚が蘇り、妖夢は肩を押さえてうずくまってしまった。
「い、いててて」
「あらあら。まあまあ」
幽々子が嬉しそうに、閉じた扇の先で妖夢の肩を突付いていじめてくる。そこはまさしく、妖忌に木刀を打ち込まれた箇所だった。
「ずいぶん派手にやられたみたいね~」
「いて! あて! ゆ、ゆゆこさま止めて止めてくだ、きゃん!」
「私のところにも、来たわよ。妖忌」
「え?」
思わず聞き返した妖夢に、逆に、幽々子の方が不思議そうな顔をする。
「何よう。妖忌にやられたんでしょ、それ?」
「はぁ、まあ」
曖昧に頷く。状況が理解できない妖夢の頭を、幽々子は扇で軽くはたく。
「たっ。幽々子さま?」
「んもう、だめ妖夢。見なさい」
幽々子が指差すままに、振り仰ぐ。頭上。満月には少し足りないが、綺麗な朧月。時折風と戯れる桜の欠片が、漆黒の空を彩る。
そこに泰然と佇む。巨大すぎる桜。庭園の外れにあり、ここからはずいぶん離れているにもかかわらず、その威容は他のどの桜より圧倒的に、見る者の心に響く。
白玉楼の妖怪桜。西行妖。
「ば、かな……」
呆然と、妖夢は呟く。
「咲いてる!」
「ええ」
当然のように微笑む幽々子。
広げた枝々の先の先まで、春を告げる小さな花が咲き乱れていた。西行妖、満開。かすかな風にゆっくりと揺れ、宙を舞う花びらの群れは月の彼方に消えていく。
美しすぎるその威容。魂を消し飛ばすほど狂い咲く様に、妖夢はぞっとするような恍惚感を覚えた。
「くっ!」
痛みの残る唇を強く噛み、妖夢は気力を奮い起こした。楼観剣と白楼剣に手を伸ばし、駆け出す。間に合わないかもしれない、だけど、それでも!
「待ちなさい、うっかり妖夢」
「みょ!」
幽々子に襟口を引っ張られ、妖夢は派手にひっくり返った。転んだ拍子に痛めた肩を強打し、白い地面でのたうちまわる。
「ゆ、ゆゆこさま。どうして?」
「慌てちゃだめ。あれは幻よ」
「ま、幻?」
「そ。だいたい、もし本当に西行妖があんな状態になってたら、あなたがどうこうしようとするより先に、お節介が趣味の霊夢あたりがすっ飛んできてるはずでしょ。違う?」
「そ、それは、確かに」
ようやく痛みが少し引いた妖夢は、身を起こし、幽々子を見上げた。満開の西行妖を背負い、白玉の亡姫は艶やかに微笑む。
「一年前、あなたが集めた春の名残よ」
「春の、名残?」
「ええ。懐かしいわねぇ。霊夢に全部散らされちゃったけど、根っこの方に少しだけ残ってたのね。今頃になって発芽しようとしたみたいだけど、もちろんそんな力はどこにもない。だから、せめてもの慰めに夢幻の花を咲かせているのよ。害はないわ。残っていた春はわずかだし、じき幻も消えるはずよ」
「あ……」
言われてみれば、分かる。
どんなに見事な剥製でも、生命の熱は宿らない。達人が作る造花でも、零れ落ちるような瑞々しさは表現できない。確かにあの西行妖は心を蕩かすほど美しい。だけど、本物ならばそこに映し込むだろう、匂い立つように甘美な魔性が欠けている。
実際には、西行妖は咲いていない。幻の花がそう見せているだけだ。
落ち着けば分かるはずだった。西行寺を守護する剣たるものが、見た目に惑わされるとは、何たる未熟。いい加減、自己嫌悪で潰れてしまいそうだった。
そんな妖夢の様子に気付かないのか、いつものことで馴れているのか。幽々子は桜をあしらった青い衣をぱあっと広げて、花びら混じりの爽やかな風を一身に浴びた。
「ふぅ、やっぱり綺麗よねぇ、西行妖は。でも、本物はあんなもんじゃないのよ。懐かしいわぁ。前に西行妖が満開になったのは、私がまだ生きてる頃だったから、もう千年も前になるのかしら。今でもはっきり思い出せる。本当にスゴいものって、どうしたって忘れないのね。……ふふ、なぁにその顔? 心配しなくても、もう、春を集めろなんて言わないわ」
「あ、いや。そんなつもりじゃ」
「これでも去年のことは反省してるのよね。妖忌にも怒られちゃったし」
「師匠が!?」
「さっき言ったでしょ、私のところにも来たって。やんなっちゃうわよ。久しぶりに会ったのに、開口一番怒鳴るんだもん。西行妖を咲かせようとするなんて、どういうおつもりかぁ! って。もぅ、どれだけ心配したと思ってるのかしら。私が、どれだけ逢いたかったと、思っているのかしら……」
こっちに背を向けていたから、見たわけじゃない。だけど妖夢はこの時、幽々子さまは泣いていると、思ったのだった。
「あ、あの……。師匠は、何と?」
「ん?」
振り返った幽々子は笑顔で、それはもういつも通りのお嬢様だった。
「別に、変わったことは話してないわよ。お花とか、お琴とか、剣術とかのお稽古をもっとしっかりやれって言われたわ。あと、変なものを食べるな、とか。あ、あまり妖夢をいじめるなとも言われたけど、こればっかりは止められないわ」
「止めてください!」
「あはは。妖夢が可愛いのがいけないのよ。ところで、妖夢は妖忌に何を言われたの?」
「何も。ただ、稽古を付けてもらいました」
「相変わらずね。あなたたち師弟は」
どちらからともなく、帰路に着く。そろそろ幽々子のお腹が鳴り出す時間だった。
「あの、幽々子さま?」
「んー?」
少し前を歩く幽々子に、妖夢は恐る恐る声をかけた。
「あの師匠は、やっぱり、その、本物ではないんですよね?」
「ええ。幻影よ」
こともなげに幽々子は答え、振り返る。
「妖夢だって、もう気付いているんでしょう?」
こくりと頷いた。
分かっていた。立ち会っている時から薄々は感づいていた。西行妖の幻の花を見て、それは確信に変わった。それでも、もしかしたらという思いが微かにあった。その望みが絶たれた今、自分でも思った以上に落胆は大きかった。
「そうですか……」
「西行妖のゆらぎでしょうね、たぶん。結界に封じられた春の欠片が行き場を失って、幻の花と一緒に具現化したのよ。あなたの想いを核に西行妖自身の記憶で練り上げたみたいだけど、記憶も魂も完全に再現されていたわ。自分が幻想であることまで自覚している、珍しいくらい完璧な幻。さしずめ本物の妖忌が西行妖の力を借りて顔を出してくれたようなものね。すごいわ~。さすが西行妖。まあ、300年も妖忌に面倒見てもらってたんだから、このくらいできて当然かもね」
「え、あの。ちょっと待ってください。私の想い、ですか?」
「何かが起こるには、きっかけが必要なのよ、妖夢。あなた最近悩んでるでしょ? 強い気を持つ半霊のあなたに溜まり溜まった不の想い。それが、毎日剪定をする西行妖に与える影響については考えてみなかった? あなたの悩みの中心には妖忌がいて、西行妖は妖忌のことをよく知っていた。それが、今回の一件のきっかけよ。まあ、あくまで私の推測。本当のところは、紫にでも聞いてみないと分からないわ」
心当たりはあった。昨年からずっと残った小さな棘。先代だったら。師匠だったら。そんなふうに逃げ場を求めた弱い心が、西行妖に見透かされたのだ。
「申し分け、」
「謝らないでよ」
凛とした、幽々子の声。妖夢は思わず顔を上げる。後ろ手を組み、軽やかなステップを刻む幽々子は、詠うように優しく、囁いた。
「私はね、妖夢。そんな頼りないところも含めて、あなたが好きなのよ」
「あ……」
暖かい何かが、じんわりと心の中に広がった。堪えきれずに下を向き、濃緑のスカートを強く握った。
「ゆ、幽々子さま!」
「んー?」
「あり、あ……ありがとうございます!」
「よーむは大げさねぇ」
笑いながら先を行く幽々子。妖夢も慌てて追いかけた。
嬉しくて嬉しくて、目元をごしごし袖で拭った。
――守るべき価値のあるお方だ。
かすかに聞こえたその声は、空耳だったのかもしれない。だが、肩に置かれた武骨で大きな手の感触だけは、間違いなった。
――必ずお守りしろ。
はい。
頷いた。強く強く、頷いた。
柔らかな風。一瞬か確かに、その人は笑った気がした。
――おまえはまだまだ未熟だが、此度の剣は、悪くなかったぞ。
妖夢も少し微笑み、頷いた。話したいことがたくさんあった。教えてほしいことがたくさんあった。だけど今は、これで十分だ。魂魄の師弟は剣で繋がる。いつか師匠はそんなふうに言った。そのとおりだと思った。
ありがとうございました。
その意を込めてお辞儀をした。顔を上げると、その気配は、もうない。妖夢の頬を伝った一筋の涙は、足元に広がる桜の海に落ちて消えた。
もう泣かなかった。迷いも消えていた。
「おーいようむー。何してるのはやくぅー」
いつの間にか、お嬢様はずいぶん先まで行ってしまっていた。慌てて追いかける。
「幽々子さまっ」
「あら、なぁに妖夢?」
「今度、白玉楼で大掛かりなお花見を催しましょう! 霊夢や魔理沙や紅魔館の人たち。その辺の妖怪や妖精にも声を掛けます。あ、幽々子様の苦手意識を直すために永遠亭の面々も招待しましょう! 紫様たちは呼ばなくても来ますよね」
「うふふ、どうしたの妖夢? 急にどこかの鬼の子みたいなことを言い出して」
「だって見てください。師匠が築き、私が仕上げたこの庭園の見事なこと! 二人だけで楽しむには勿体ないと思いません? 博麗神社のみみっちい桜で満足してる連中に、本当のお花見ってやつを教えてやりましょう」
「あらあら、それは楽しそうね。でもそんな大宴会だと、準備の方が大変よ?」
「大丈夫ですよ。亡霊たちも手伝ってくれますし、咲夜さんにもお願いします。あの人はそういうの、本当にすごいんです。えへへ、実は最近、お料理とかも教えてもらっているんです」
「咲夜? ああ、去年邪魔しに来た悪魔のメイドね。ふふ、いいわね。あそこの主とは一度決着をつけなくちゃって思ってたのよ」
「け、けんかしに呼ぶんじゃないんですよ?」
はしゃぎながら、二人で歩く。その遥か頭上。涼しげな月に照らされた西行妖に咲く幻想の花は、もうない。
半霊の庭師が昨年集めた春を使い果たし、今は、千年間変わらない悟りを開いた仏僧が如き美しく枯れ果てた威容を、澄み切った夜空に広げていた。
柔らかな陽が顔に当たり、魂魄妖夢は目を覚ました。
いつの間にか眠ってしまっていた。
わずかに開いた障子の隙間から溢れる、早春の爽やかな陽気。芳しい若木と花の香。絹の手触りのそよ風。
どんなに剣の鍛錬を積んでも、そういうものには勝てる気がしない。背中に交差して下げた二振りの刀の位置を直しながら、畳の痕が付いた頬をごしごし擦った。
庭園に面した白玉楼の屋敷の一室であった。中央に、指しかけのまま置かれた碁盤と空になった湯飲み。先刻まで妖夢が相手を務めていた、主人である西行寺幽々子の姿は、ない。
「幽々子さま?」
妖夢の声が屋敷に響く。返事はない。遠くで鳥のさえずりと、木々のざわめきだけがかすかに聞こえる。
ふと不安がよぎる。一昔前には考えられないくらい、今の白玉楼は人や妖の出入りがある。ほとんどが気のいい連中だが、幽々子様に仇を成そうと考える不貞の輩がいないとも限らない。
そういう不測の事態に備えるべき自分が、一時とはいえ春の陽気に誘われて居眠りをしてしまった。
一挙動で立ち上がる。
「幽々子さま!」
背中に冷たいものを覚えながら、妖夢は声を張り上げる。楼観剣の柄に手が伸びそうになるのをこらえつつ、冷静に――しかし内心ではひどく焦って立ち上がり、叩きつけるように障子を開け放ち、
「みょん!」
縁側の陽だまりで、子猫のように丸まって眠る主人を蹴り飛ばしそうになり、危ういところで飛び退いた。
「ゆ、幽々子さまぁ……」
焦りと驚きで思いのほか乱れた呼吸を整えながら、妖夢はため息をつく。安心すると同時に、強く自分を諌めた。いざというときに斬れない刀ほど性質の悪いものはない。暖かくなって、少しばかり気が緩んでいたのかもしれなかった。西行寺家の警護役という大役を、もう一度強く意識した。
それにしても、けっこうどたばたやったのに、幽々子に目覚める気配はない。眠る主人の側に膝を付き、そおっと顔を覗き込んだ。
規則正しい寝息に、心地よさげに下がった眉。
こんなところで居眠りをするなんて行儀が悪い。幽々子のお付きならそう毅然と指摘すべき所であろうが、頬に畳の痕をつけたまま眉を吊り上げるのも格好が付かない。
それに、この陽気である。
妖夢は縁側から、果てしなく広がる白玉楼の庭園を眺めた。眩しさに少し目を細める。ほのかに薫る緩やかな風。その度に踊る瑞々しい白い花びらの群れ。震えるほど見事に乱れ咲いた桜々。
文字通り、『この世のものとは思えない』美しさだ。これは庭師たる自分の苦労の賜物でもある。
春。
白玉楼が一年で一番輝く季節。絶佳と陽気に包まれて、思わずうとうと、というのも分かりすぎるほど分かる。もっとも、幽々子さまが怠惰なのは何も春に限ったことではないけれど。
「ふぅ」
結局妖夢は何も言わず、奥の間から持ってきた薄い織物を幽々子にかけるに留めた。「んぅ……」 と幼子のような吐息をもらす主の無邪気な様子に、思わず頬を緩ませる。千年以上を生き(?)気まぐれに人を死に誘う亡霊姫にはとても見えない。
穏やかな気持ちで、幽々子の髪に付いた桜の花びらを払い、妖夢は立ち上がった。
「さて、と」
警護役兼、世話役兼、庭師の仕事は多い。日が落ちるまでに済ませなければならない雑務はいくらでもあった。ちょうど一年前にできた友達である白黒の魔法使いなどは、こんな自分を評して『真面目すぎるぜ』 とあきれ半分感心半分に笑ったものだが、自分に言わせれば、それは彼女が不真面目すぎるからそう見えるだけだ。
差し当たって、本職の仕事から片付けるとしよう。妖夢は納屋に向かい、刀以外で剪定に必要ないくつかの道具を身に付けた。
「それじゃ、少しの間お嬢様をお願いね」
その辺を漂っていた亡霊に眠り姫のご機嫌伺いを頼み、妖夢は、半身である人魂を引き連れて広大な白玉楼の庭園に入っていく。もちろん剣気を尖らせ、気配を探っておくことも忘れない。
幼いながら稀代の剣豪でもある妖夢にとって、この広大な白玉楼のほぼ全域が剣の間合いである。仮に不埒な侵入者が現れ、幽々子に危害を加えようとしたとしても、一足飛びに駆け戻って斬り捨てる自信が、妖夢にはある。
うつむき、強くかぶりを振る。
いや、慢心は剣志を曇らせる。慢心と自信とはもちろん違うが、その二つをはっきり区別することは、今の妖夢には難しかった。
はは、と。自嘲気味に笑う。こんなことでは先代に怒られてしまうな。しかし、思考の暴走は止まらない。あるいは、狂おしいほどに乱れ咲く桜がそうさせるのかもしれない。
春だ。
夏が過ぎ、秋が終わり、冬が去って、春。また春がやってきたのだ。
昨年の春の記憶が、妖夢の心に小さな棘となって残っていた。
『西行妖を咲かせなさい』
幽々子の命の下、楼観剣と白楼剣を携え、幻想郷中の春を集めて回った。短くも激しく、鮮烈な時間だった。永く花を咲かすことがなかった西行妖が、千年振りに目覚めようとしていた。
あと少しだった。もう少しで手が届いた。
しかし、そこまでだった。冥界の結界を越えて乗り込んできた者たちがいた。それらをまとめて追い返さなくてはならない自分が、白黒の魔法使い一人に手間取っている隙に、幽々子様は、博麗の巫女に討たれた。
計画は、失敗した。私のせいだった。
思わずにはいられない。あの出来事は結果的に良い方向に転がり、幽々子様に漂っていた退廃的な面影は消えた。白玉楼は良い意味で俗っぽくなり、こんな自分にも友達ができた。それでも、思わずにはいられないのだ。
もし、先代だったら。
私ではなく、先代西行寺家警護役・魂魄妖忌があの場にいたら。
西行妖は咲いただろうか。白黒魔法使いも紅魔の従者も、博霊の巫女すら打ち破り、幽々子様を守り抜いただろうか。最後の春を集めきっただろうか。例えそれが破滅に繋がる道だとしても、幽々子様の望みを叶え、西行妖は咲いたのだろうか。
そこまで考えて、妖夢は強く唇を噛み、こぶしを握った。
未熟。
あまりに未熟。
情けなった。少し涙が出た。背中が重い。楼観剣・白楼剣の重さだった。一緒に背負った西行寺家守護役としての責任の重さだった。宿命の重さだった。
ふいに一陣の風が吹いた。春の陽気を孕んだ暖かい風。渦巻き、吹き抜ける。その先にあるのは、悲しいくらい澄んだ、冥界の青空。
「あっ……」
一瞬。視界を埋め尽くすほどに散り広がる桜の乱舞に思わず目を瞑る。乱れる髪を押され、再び目を開いたとき、半分だけの鼓動を刻む妖夢の心臓は高鳴った。
眩暈がする。喉がからからになり、視界が歪む。そんなはずはない。そんなはずはないのに、懐かしい後ろ姿が見える。背筋が凍る。立っていられない。
上等な玉鋼のように輝く長い白髪。老いてなお頑強な、揺るぎのない体躯。白衣、袴に、山吹色の羽織を引っ掛け、春風の中を迷いのない足取りで歩いていく。
行っちゃう。
「ま、待って……」
かすれる声。あれは。まさか、あれは……。
「待ってください!」
そんなはずはない。あり得ない。分かっているのに。妖夢は、よろめきながらも懐かしい姿を追い、駆け出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
舞い踊る花びらと眩暈の中を、妖夢は駆けた。白昼夢のように奇妙に歪んだ世界。
「待って!」
叫ぶ。
焦燥感が胸を焦がし、正常な判断力を奪い取っていく。
あの人は歩いてるのに。私は走っているのに。こんなにも走っているのに。懐かしい広い背中は、どんどん離れていく。おかしい。追いつけない。離れていく。だめだ。会いたい。会って話がしたい。行かないで。お願いだから行かないで!
「待って! 待ってください! 待って、お願い! 師匠待ってください! 待ってお爺ちゃん! 待ってよ!」
息があがる。上手く走れない。それでも懸命に足を動かし、離れていく背中に追いすがる。桜が舞う。視界を埋め尽くさんと舞い続ける。それらを乱暴に払い、妖夢は走り続ける。手を伸ばし、叫ぶ。
木の根か何かにけつまずき、妖夢は派手に転んだ。
「ぐ、ごほっ」
痛みよりも、走りすぎた疲労から、妖夢は激しく咳き込んだ。淡い白色で覆われた地面に爪を立て、どうにか身体を起こす。
「……し、師匠」
柔らかな霞と花びらの向こうに、その姿はある。魂魄妖忌。半霊の剣鬼。先代西行寺家警護役にして、妖夢の祖父。
揺るぎない威風も、他を圧倒する存在感も在りし日のままで、それがどうしようもなく妖夢の胸に響いた。
そして、魂魄妖忌は振り返った。
肩越しに向けられる、強い、意志が込められた眼力。
――立てぃ。
そう、言われた気がした。
「は、はいっ!」
軋みを上げる身体を意志の力で従え、立つ。上がっていた呼気も、瞬時に整える。妖夢を一流の剣士たらしめる日々の鍛錬が、それを可能にした。
「え……?」
そこで、妖夢は自分に起きた異変に気が付いた。服が、違う。いつも身に着けているベストやスカートは消え、代わりに鍛錬用の白衣と袴を身に着けていた。
「こ、これ?」
――構えよ。
「え?」
知らぬ間に大小一対の木刀を握っていた。楼観・白楼の宝剣を模した修練に用いる模擬刀。
「師匠、ちょっと待ってください! これは、いったい、」
妖忌は応えず、肩にかけていた山吹色の羽織を脱ぎ捨てた。羽織の下には、妖夢と同じ白衣袴の鍛錬着。無造作にぶら下げた大小の模擬刀も、同じ。
ふいに、望郷にも似た懐かしい感覚に妖夢は囚われた。見回り途中庭園の片隅で、霧雨の降る裏の墓地で、無限に続く白玉階段の途中で、縁側から幽々子が見守る中庭で。初めて白玉楼に連れてこられてから、独り残されたあの日まで、いったい幾度、こうして師と立ち会ったか。
木刀の重み、鍛錬着の肌触り、押し潰されそうな剣気すら心地よく、無意識のうちに、妖夢は構えた。
――参れ。
裂帛の気合を以って、妖夢は応じた。地がめくれ上がるほど強い踏み込み。舞い散る桜を空間ごと千切り飛ばし、稲妻の速度で妖夢は駆けた。離れていた間合いを一瞬で詰め、足元から振るう胴抜き。それは、異能を用いる魔精・妖怪に、間合いの遥か外から斬り込むために考案された魂魄家の妙技。
獄界剣「二百由旬の一閃」
しかし剣先は寸前で軌道を変え、凄まじい勢いで地を打った。絶妙なすかし。反動に体重を乗せ、宙へ。身を翻し、頭上から、遠心力に任せた長刀の打ち込み。
カァン、と。振り仰ぎもせずに妖忌の短刀が受け止める。死角を狙ったにも関わらず、信じられない反応速度。しかし妖夢も慌てない。受けられた短刀をそのまま捻って封じ、そこを支点に乗り越え、妖忌の背後に背中合わせに降り立つ。即座に短刀を逆手に持ち替え、体重を乗せて背後に繰り出した。
「!?」
手ごたえはない。受けられた感触もなく、切っ先は空を切った。背筋が凍えるような悪寒を覚えて前方に身を投げ出す。
頭上を抉った木刀の軌道に髪の毛を数本持っていかれながら、反転する勢いを上乗せした長刀で足元を薙ぎ、返す刀で逆袈裟の一閃。
腕が根元から千切れそうな衝撃がきた。弾かれたのだ。苦しげな吐息の隙に妖忌の長刀は蛇のように狡猾な軌道で、無防備な小手を叩く。
息を呑む一瞬。とっさに柄から手を離し、すぐに掴みなおすことで難を逃れ、そのまま捻りこむように長刀を繰り出しつつ、裏からも短刀で脇を狙う。
しかし妖忌の双剣は一瞬で十字を成し、妖夢必殺の連撃をこともなげに受けた。ぎっちり噛み合う四本の木剣。
妖夢はすぐに不利を悟った。膂力が違う。このままでは押し潰される!
「っ!」
間合いを外そうと考えた一瞬が、付け入る隙となった。あっけないほど簡単に気を外され、身体が前につんのめる。
空いた肩口に無造作に打ち込まれる。辛うじて左の短刀を滑り込ませはしたものの、衝撃を殺すことはできず、妖夢の小さな身体は木の葉のように吹き飛ばされて桜の幹に叩きつけられた。
花びらが、一段と艶やかに、華やかに、大きく舞った。
「は……、あ……」
息ができない。舞い踊る花びらの中、妖夢は木刀にすがって身体を支えた。
強い。やはり、とてつもなく。剣鬼・魂魄妖忌。二代目を襲名してからしばらく経つが、実力差は埋まるどころか、広がっている気さえする。手が震える。打ち込まれた左肩が熱い。剣が握れない。
勝てる気が、しない。
冷や汗が背筋を伝った。いっそのこと、このまま負けを認めてしまおうか。自暴自棄にそんなことを考えた。
雨を斬るには30年かかるという。空気を斬るには50年かかるという。時空間を斬るには200年かかるというが、妖忌はおそらく、その全てを斬ってのける。無念無想の剣を収めた偉大な先人に敵うわけがない。
いつものように参ったを告げて、怒られよう。明日もまた挑戦して、明後日も挑戦して、そうやって積み重ねていけば、いつか必ず、
打たれた肩に、強く拳をぶつけた。灼け付くような激痛に意識をもって行かれそうになるのを、歯を食いしばって耐えた。
でも、おかげで少しすっきりした。……『次』も『いつか』も、もうないんだ。今しかないんだ。妖夢は、ようやく理解しかけていた。
結局、師匠から一本も取ったことがなかった。これは、奇跡的に与えられた、例外中の例外の、一回こっきりの、最後チャンスなのだ。
逃げるわけにはいかなかった。ここで逃げたら、私は、いつまで経っても……、
自戒の思いで唇を噛んだ。滲んだ血潮に決意を込めて、強く強く、越えるべき師を見据えた。
「師匠、不肖の私に稽古を付けていただき、ありがとうございました。ですが、もうしばしお付き合い下さい。これで、最後です」
長刀を肩で担ぎ、無造作に立つ妖忌。さも面白そうに、笑った気がした。妖夢の表情も一瞬和らぎ、波のない湖面のように静かに、それを引き締めた。
「……行きますっ!」
気迫が爆発する。左の短刀を投げ捨て、両手持ち。煮え立つような灼熱の剣気を切っ先に集め、全身全霊の力を込めて振り――背中を桜の幹に預け反動を受け止め、痛む肩を庇いもせずに、真っ直ぐに前だけを見つめ――抜く!
修羅剣「現世妄執」
音速を超える打ち込みが質量を持った螺旋状の鎌鼬を巻き起こし、射線上の全てを巻き上げ切り刻む!
音よりも速く、真空の刃が迫る。その刹那、妖忌の手元で木剣がくるりと回る。逆手。下から、上に。ただそれだけ。
空を絶つ妖忌の剣。絶刀。妖夢渾身の真空斬は二つに断ち割れ、無残にも散った。
それが狙いだった。
寸断された鎌鼬は炸裂し、渦巻く暴風となった。一気に巻き上がる。桜、桜、桜……。
地に落ちた花びら、咲き誇る花びら。その全てが宙を踊り、妖忌の視界を覆った。妖忌は妖夢の狙いを知った。炸裂する暴風は音も気配も消し飛ばす。
妖忌は、妖夢を見失った。
ここに来て、剣鬼は初めて自ら動いた。再び手元で木刀が回り、順手。二本の剣をだらりと下げ、貫くような剣気をそこに込める。
蜂鳥が一回の羽ばたきに要する時間で、妖忌の剣は八度閃いた。
六道剣「一念無量劫」
魂魄、守の奥義。神速の剣閃は八芒を刻み、不可侵の結界となす。剣の結界。領域内の花びらが瞬時に細切れ、吹き飛んだ。
花に紛れた小柄な影が、真横からそれにぶつかっていく。妖夢。木刀を居合いのように携え、決死の踏み込み。魂魄家の秘伝ではない、妖夢が独自に開眼した高速不可視の抜き打ち。
人符「現世斬」
妖忌の目が見開かれる。領域に侵入した妖夢に向けて放たれる一刹那八連斬。妖夢の利き手が霞む。鞘代わりの左手から疾る抜刀一閃。
交差する光。巻き起こる破壊。
妖忌の双刀と妖夢の長刀は正面からぶつかり、常識外れの衝撃波で周囲をなぎ倒した後、互いに砕けた。粉々になって散る木刀の破片。大きく振り抜いた妖夢は致命的にバランスを崩し、そこに、半分の長さになった妖忌の長刀が斬り込まれ、
妖夢の姿が掻き消えた。
代わりにゆらりと宙を舞うのは半透明の霊体。妖夢の半身。不意をつかれ、反動で妖忌は折刀を取り落とす。
魂符「幽明の苦輪」
囮。
妖忌が大きく笑む。その頭上。ざあ、と。桜の壁を突き抜け、襲来する小柄な影。妖夢。振り仰ぐ、妖忌。互いに丸腰。狙い済ましたその一瞬。大きく掲げた妖夢の右手が、落下してきた短木刀をがっしりと受け止めていた。
自ら捨て、「一念無量劫」で空高く巻き上げた短刀。「幽明の苦輪」の「現世斬」で目をくらませ、決死の果てに掴んだ千載一遇の勝機。
残った気力をかき集め、妖夢は吼えた。
「あああああああああああああああっ!!」
光が迸る。溢れた剣気が刀身を包み、渦巻き、光刃の大太刀となって疾駆する。
全生命・霊力を賭した魂魄妖夢最大最強の切り札。
断命剣「迷津慈航斬」
真っ直ぐに振り下ろす。魂の剣。身じろぎもしない妖忌。その肩口を捕らえ――
――光が砕けた。
寄り代にしていた短木刀が力の奔流に耐え切れず、粉微塵に砕け、振り抜いた妖夢の両手は空しく宙を切った。
「そん、な……」
鈍色の絶望。目の前が暗くなり、最後の力が消失する。妖忌の横をすり抜け、着地もままならず、地面に倒れ伏す。妖夢の意識は消えていく。
まだ。まだだ。闘わなきゃ。今闘わなきゃ、私は……! 勝ちたい。負けたくない。師匠!
それを最後に、妖夢の意識は途絶えた。
来む世には
心のうちに
あらはさむ――
柔らかく響く韻。澄んだ歌声。まどろむ意識が心地良すぎて、妖夢は夢現のまま目を覚ます。
「……あかでやみぬる 月の光を」
無意識のうちに、かすれる声で歌の続きを詠んだ。少し驚いた調子で、ぽやーんとした綺麗な顔が妖夢の顔を覗き込んだ。
「あら、よーむ。起きてたの?」
「幽々子さま……」
柔らかな太股の感触。髪を梳く優しい手触り。暖かな気持ちになって、妖夢は甘えるように鼻を鳴らした。遅れて目覚めた理性が状況を把握する。
幽々子さまに、膝枕されてる。
「もももももももも申し訳ありません何という醜態をををっ!」
機械仕掛けのように飛び起きるのと土下座をするのと額を地面にこすり付けるのを全部一緒にやった。絨毯のごとく敷き詰められた桜の花びらが舞い上がる。
広げた扇を口元に当て、幽々子は上品に笑った。
「いいのよ、妖夢。あなたが醜態をさらすのはいつものことだわ」
「みょん……」
妖夢はへこんだ。
「それよりも、こんなところで油を売ってたことに怒ってしまうわ。たくさん呼んだのに、全然来てくれないんだもん。心配になって探しに来たら、寝ちゃってるし。寝顔は可愛かったけどねー」
「す、すみません」
「お茶が飲みたかったのよう。仕方がないからたまには自分で淹れましょうってがんばったら、もうお屋敷が大変なことに」
「う、それは。幽霊の料理番に申し付けていただけたらよかったのに」
「よーむのお茶がよかったの!」
だだをこねる幽々子をなだめながら、気付く。妖夢はいつものベストとスカートを着ており、楼観剣と白楼剣もぶら下げていた。鍛錬着も、砕けた木刀の破片も、どこにもなかった。
いつの間にか日が落ちており、周囲は仄かな薄闇に包まれていた。一瞬、あの出来事は束の間の白昼夢だったのではないかと疑ってしまう。しかしその時、麻痺していた感覚が蘇り、妖夢は肩を押さえてうずくまってしまった。
「い、いててて」
「あらあら。まあまあ」
幽々子が嬉しそうに、閉じた扇の先で妖夢の肩を突付いていじめてくる。そこはまさしく、妖忌に木刀を打ち込まれた箇所だった。
「ずいぶん派手にやられたみたいね~」
「いて! あて! ゆ、ゆゆこさま止めて止めてくだ、きゃん!」
「私のところにも、来たわよ。妖忌」
「え?」
思わず聞き返した妖夢に、逆に、幽々子の方が不思議そうな顔をする。
「何よう。妖忌にやられたんでしょ、それ?」
「はぁ、まあ」
曖昧に頷く。状況が理解できない妖夢の頭を、幽々子は扇で軽くはたく。
「たっ。幽々子さま?」
「んもう、だめ妖夢。見なさい」
幽々子が指差すままに、振り仰ぐ。頭上。満月には少し足りないが、綺麗な朧月。時折風と戯れる桜の欠片が、漆黒の空を彩る。
そこに泰然と佇む。巨大すぎる桜。庭園の外れにあり、ここからはずいぶん離れているにもかかわらず、その威容は他のどの桜より圧倒的に、見る者の心に響く。
白玉楼の妖怪桜。西行妖。
「ば、かな……」
呆然と、妖夢は呟く。
「咲いてる!」
「ええ」
当然のように微笑む幽々子。
広げた枝々の先の先まで、春を告げる小さな花が咲き乱れていた。西行妖、満開。かすかな風にゆっくりと揺れ、宙を舞う花びらの群れは月の彼方に消えていく。
美しすぎるその威容。魂を消し飛ばすほど狂い咲く様に、妖夢はぞっとするような恍惚感を覚えた。
「くっ!」
痛みの残る唇を強く噛み、妖夢は気力を奮い起こした。楼観剣と白楼剣に手を伸ばし、駆け出す。間に合わないかもしれない、だけど、それでも!
「待ちなさい、うっかり妖夢」
「みょ!」
幽々子に襟口を引っ張られ、妖夢は派手にひっくり返った。転んだ拍子に痛めた肩を強打し、白い地面でのたうちまわる。
「ゆ、ゆゆこさま。どうして?」
「慌てちゃだめ。あれは幻よ」
「ま、幻?」
「そ。だいたい、もし本当に西行妖があんな状態になってたら、あなたがどうこうしようとするより先に、お節介が趣味の霊夢あたりがすっ飛んできてるはずでしょ。違う?」
「そ、それは、確かに」
ようやく痛みが少し引いた妖夢は、身を起こし、幽々子を見上げた。満開の西行妖を背負い、白玉の亡姫は艶やかに微笑む。
「一年前、あなたが集めた春の名残よ」
「春の、名残?」
「ええ。懐かしいわねぇ。霊夢に全部散らされちゃったけど、根っこの方に少しだけ残ってたのね。今頃になって発芽しようとしたみたいだけど、もちろんそんな力はどこにもない。だから、せめてもの慰めに夢幻の花を咲かせているのよ。害はないわ。残っていた春はわずかだし、じき幻も消えるはずよ」
「あ……」
言われてみれば、分かる。
どんなに見事な剥製でも、生命の熱は宿らない。達人が作る造花でも、零れ落ちるような瑞々しさは表現できない。確かにあの西行妖は心を蕩かすほど美しい。だけど、本物ならばそこに映し込むだろう、匂い立つように甘美な魔性が欠けている。
実際には、西行妖は咲いていない。幻の花がそう見せているだけだ。
落ち着けば分かるはずだった。西行寺を守護する剣たるものが、見た目に惑わされるとは、何たる未熟。いい加減、自己嫌悪で潰れてしまいそうだった。
そんな妖夢の様子に気付かないのか、いつものことで馴れているのか。幽々子は桜をあしらった青い衣をぱあっと広げて、花びら混じりの爽やかな風を一身に浴びた。
「ふぅ、やっぱり綺麗よねぇ、西行妖は。でも、本物はあんなもんじゃないのよ。懐かしいわぁ。前に西行妖が満開になったのは、私がまだ生きてる頃だったから、もう千年も前になるのかしら。今でもはっきり思い出せる。本当にスゴいものって、どうしたって忘れないのね。……ふふ、なぁにその顔? 心配しなくても、もう、春を集めろなんて言わないわ」
「あ、いや。そんなつもりじゃ」
「これでも去年のことは反省してるのよね。妖忌にも怒られちゃったし」
「師匠が!?」
「さっき言ったでしょ、私のところにも来たって。やんなっちゃうわよ。久しぶりに会ったのに、開口一番怒鳴るんだもん。西行妖を咲かせようとするなんて、どういうおつもりかぁ! って。もぅ、どれだけ心配したと思ってるのかしら。私が、どれだけ逢いたかったと、思っているのかしら……」
こっちに背を向けていたから、見たわけじゃない。だけど妖夢はこの時、幽々子さまは泣いていると、思ったのだった。
「あ、あの……。師匠は、何と?」
「ん?」
振り返った幽々子は笑顔で、それはもういつも通りのお嬢様だった。
「別に、変わったことは話してないわよ。お花とか、お琴とか、剣術とかのお稽古をもっとしっかりやれって言われたわ。あと、変なものを食べるな、とか。あ、あまり妖夢をいじめるなとも言われたけど、こればっかりは止められないわ」
「止めてください!」
「あはは。妖夢が可愛いのがいけないのよ。ところで、妖夢は妖忌に何を言われたの?」
「何も。ただ、稽古を付けてもらいました」
「相変わらずね。あなたたち師弟は」
どちらからともなく、帰路に着く。そろそろ幽々子のお腹が鳴り出す時間だった。
「あの、幽々子さま?」
「んー?」
少し前を歩く幽々子に、妖夢は恐る恐る声をかけた。
「あの師匠は、やっぱり、その、本物ではないんですよね?」
「ええ。幻影よ」
こともなげに幽々子は答え、振り返る。
「妖夢だって、もう気付いているんでしょう?」
こくりと頷いた。
分かっていた。立ち会っている時から薄々は感づいていた。西行妖の幻の花を見て、それは確信に変わった。それでも、もしかしたらという思いが微かにあった。その望みが絶たれた今、自分でも思った以上に落胆は大きかった。
「そうですか……」
「西行妖のゆらぎでしょうね、たぶん。結界に封じられた春の欠片が行き場を失って、幻の花と一緒に具現化したのよ。あなたの想いを核に西行妖自身の記憶で練り上げたみたいだけど、記憶も魂も完全に再現されていたわ。自分が幻想であることまで自覚している、珍しいくらい完璧な幻。さしずめ本物の妖忌が西行妖の力を借りて顔を出してくれたようなものね。すごいわ~。さすが西行妖。まあ、300年も妖忌に面倒見てもらってたんだから、このくらいできて当然かもね」
「え、あの。ちょっと待ってください。私の想い、ですか?」
「何かが起こるには、きっかけが必要なのよ、妖夢。あなた最近悩んでるでしょ? 強い気を持つ半霊のあなたに溜まり溜まった不の想い。それが、毎日剪定をする西行妖に与える影響については考えてみなかった? あなたの悩みの中心には妖忌がいて、西行妖は妖忌のことをよく知っていた。それが、今回の一件のきっかけよ。まあ、あくまで私の推測。本当のところは、紫にでも聞いてみないと分からないわ」
心当たりはあった。昨年からずっと残った小さな棘。先代だったら。師匠だったら。そんなふうに逃げ場を求めた弱い心が、西行妖に見透かされたのだ。
「申し分け、」
「謝らないでよ」
凛とした、幽々子の声。妖夢は思わず顔を上げる。後ろ手を組み、軽やかなステップを刻む幽々子は、詠うように優しく、囁いた。
「私はね、妖夢。そんな頼りないところも含めて、あなたが好きなのよ」
「あ……」
暖かい何かが、じんわりと心の中に広がった。堪えきれずに下を向き、濃緑のスカートを強く握った。
「ゆ、幽々子さま!」
「んー?」
「あり、あ……ありがとうございます!」
「よーむは大げさねぇ」
笑いながら先を行く幽々子。妖夢も慌てて追いかけた。
嬉しくて嬉しくて、目元をごしごし袖で拭った。
――守るべき価値のあるお方だ。
かすかに聞こえたその声は、空耳だったのかもしれない。だが、肩に置かれた武骨で大きな手の感触だけは、間違いなった。
――必ずお守りしろ。
はい。
頷いた。強く強く、頷いた。
柔らかな風。一瞬か確かに、その人は笑った気がした。
――おまえはまだまだ未熟だが、此度の剣は、悪くなかったぞ。
妖夢も少し微笑み、頷いた。話したいことがたくさんあった。教えてほしいことがたくさんあった。だけど今は、これで十分だ。魂魄の師弟は剣で繋がる。いつか師匠はそんなふうに言った。そのとおりだと思った。
ありがとうございました。
その意を込めてお辞儀をした。顔を上げると、その気配は、もうない。妖夢の頬を伝った一筋の涙は、足元に広がる桜の海に落ちて消えた。
もう泣かなかった。迷いも消えていた。
「おーいようむー。何してるのはやくぅー」
いつの間にか、お嬢様はずいぶん先まで行ってしまっていた。慌てて追いかける。
「幽々子さまっ」
「あら、なぁに妖夢?」
「今度、白玉楼で大掛かりなお花見を催しましょう! 霊夢や魔理沙や紅魔館の人たち。その辺の妖怪や妖精にも声を掛けます。あ、幽々子様の苦手意識を直すために永遠亭の面々も招待しましょう! 紫様たちは呼ばなくても来ますよね」
「うふふ、どうしたの妖夢? 急にどこかの鬼の子みたいなことを言い出して」
「だって見てください。師匠が築き、私が仕上げたこの庭園の見事なこと! 二人だけで楽しむには勿体ないと思いません? 博麗神社のみみっちい桜で満足してる連中に、本当のお花見ってやつを教えてやりましょう」
「あらあら、それは楽しそうね。でもそんな大宴会だと、準備の方が大変よ?」
「大丈夫ですよ。亡霊たちも手伝ってくれますし、咲夜さんにもお願いします。あの人はそういうの、本当にすごいんです。えへへ、実は最近、お料理とかも教えてもらっているんです」
「咲夜? ああ、去年邪魔しに来た悪魔のメイドね。ふふ、いいわね。あそこの主とは一度決着をつけなくちゃって思ってたのよ」
「け、けんかしに呼ぶんじゃないんですよ?」
はしゃぎながら、二人で歩く。その遥か頭上。涼しげな月に照らされた西行妖に咲く幻想の花は、もうない。
半霊の庭師が昨年集めた春を使い果たし、今は、千年間変わらない悟りを開いた仏僧が如き美しく枯れ果てた威容を、澄み切った夜空に広げていた。
東方は初らしいけど、他の二次創作とか一次創作は結構書いてそうな感じ?
しかし、初でいきなり妖忌を出してくるとは、チャレンジャーだ……。
饒舌なゆゆ様とおっしゃってますけど、そんなこと無いと思いますよ?
寧ろ良すぎる位です。
重厚な戦闘シーンや、妖忌の事を語るゆゆ様やら、とても面白かったぁ。ああ、満足だ
>☆月柳☆さん
渋くて強いじじいは時に可憐な少女をも上回る魅力があると思うのです。残念な点は、自分で思っているような魅力を10分の1も表現できなかったこと。
チャレンジしたのはいいけど、当たって砕けたというわけです。
>三文字さん
おお100点! 夢じゃないかしら。
饒舌なゆゆ様でもいいですか!? 自分的には、もっと天然で掴みどころがないキャラという気がします。状況説明をすべて彼女に任せてしまったので、こんなことに。反省します。
戦闘シーンが褒められたのは超うれしいです。
戦いも場面の描写も丁寧で、とても素晴らしい文章だと思いました♪
「幽々子様は、博麗の巫女に討たれた。」とありますが、討つというと殺す・殲滅というイメージがあるので、言葉として強すぎるかなぁと感じました。あくまで私の感性なのですが。
あと、最後で一回だけ「幽々子様っ」となっていますが、それ以前が「幽々子さま」なので誤字ではないかと。
多くを語らない妖忌の幻と、後の雰囲気もまた、好みでした。
幽々子さまの事はそこまで気になりませんでした。
しかし、ただ何となく妖夢がみょんみょん言い過ぎてるのが少し気になりました。
詰めの甘い祖父と未熟な孫
というのが私の中の二人。
>妖忌が西行妖を力を借りて
妖忌が西行妖の力を借りて
致命的な事
幽々子は満開になった西行妖を見ていない。少なくても覚えていない。
なぜなら、生前のことは覚えていないから。だから、『私がまだ生きてる頃』の事を『今でもはっきり思い出せる』ということはありえない
満開になった西行妖を知ってることが分ってるのは妖忌。生前の幽々子知ってるとこから紫もと推測される。
>桶屋さん
妖忌の格好良さが少しでも伝わったみたいなので、大満足です。
さて、ご指摘を頂いた「討つ」という言葉に関してですが、私は弾幕ごっこはけっこうガチでやっていると思うのです。橙は撃墜された傷が癒えるまでしばらくかかったみたいだし、紅魔郷では咲夜を倒した霊夢に対し、レミリアは「殺人」という表現を使っています。
また一方で、妖怪は人間であれば即死級のダメージを負っても快復可能であるという設定があったような気がします。(幽々子は妖怪ではありませんが、それを上回る強大な幽霊ですし)
以上のことを踏まえ、妖夢の悔恨をより際立たせるためにあえてこのような言葉を使ってみました。長々とすみません。
誤字のご指摘ありがとうございます。直しておきます。
>イセンケユジさん
戦闘パートに全てを賭けていたので、報われた気持ちです。
「みょん」 に関しては、調子に乗りすぎました。すみません。でも正直、言わせ足りません。だって「みょん」ですよ。すごいです。「みょん」って普通出ませんもん。すごい好きなんです。でも自省しました。もうしません。
みょん。
>名無しさん
設定考察、大いに参考になりました。公式設定からはみ出してしまったこと
でご不快に思わせてしまったのならすみません。次からは気をつけます。
誤字に関しては修正しておきます。