【冒頭注意】
(後)とありますように、こちらは同作品集の拙作「はふりび(前)」の後ろ半分です。なるべく前編からどうぞ。
そんなものは要らないというツワモノさんはこのままでも割と可かも。
あとオリキャラらしきものが数名出てきます。あしからず。
【段之十四 準備期間】
再び月華院の奥方が守矢神社を訪れたのは、最初の訪問の3日後、つまり、早苗が博麗神社と紅魔館を訪ねた翌々日だった。この時点で神奈子と諏訪子の情報収集は目立った成果をあげておらず、天魔と大天狗、大蝦蟇ほか山社会の重鎮達はみな一様に黙秘し、諏訪子にいたっては重要な情報源である筈のにとりに会うことも出来なかった。
が、事情をそのふたりは知らないものの、俄然やる気を出した早苗がいつになく積極的に二柱を説得し、更に1日遅れて守矢神社は正式に天狗、月華院峰縁の葬儀の依頼を受け、これを執り行うことを発表した。当然、そのあたりは山内部の各種天狗新聞の幾つかに載り、翌日には山全体が知るところとなったのである。
葬儀の日程が決まり、慌しく準備が進む中、神奈子と共に山の天狗達との打ち合わせに同席することの多くなった早苗の気がかりは当然、文のことだった。
反対派は、守矢が正式に葬儀を執り行うと決まった後も目立った動きを見せず、その数は依然山全体の2割近くに及んでいた。
これまでなら3日と空けずに山中の神社を訪れていたはずの鴉天狗の姿を見なくなって既に一週間が過ぎ、意図的にか、九天の滝に赴いても椛は姿を見せず、正式決定が為った後も、大天狗ら賛成派の天狗達もどこか行動と態度が煮えきらず、鈍かった。
「こりゃあ、やっぱり何かまだ色々と複雑な事情があるみたいだね。わたしは引き続きにとりんを探してみるよ。こうなったら我慢比べさ、犬っ娘も他の天狗もアテにならないなら、無理矢理にでも聞き出す」
思った以上に文の反対が山の妖怪連中の行動に影響を与えていることを重く見た諏訪子は、実務担当であるのをこれ幸いとあらゆる交渉や打ち合わせを神奈子に任せ、連日河城にとりを探し回っていた。
「……ひょっとしたら、私らが思っていたより、潜在的な反対派ってのは多かったのかも知れないね」
「潜在的な、ですか……?」
そんな言葉を神奈子がもらしたのは、葬儀を四日後に控えた朝。既にさっさと朝餉を平らげにとり探しに出掛けた諏訪子を見送り、天狗達との打ち合わせに向かう準備をしていた最中のことだった。
「早苗も気付いてるんじゃないかい? 山の連中と会いに行くとき、だいたい何かにつけて打ち合わせの時間を遅らせたり、他の下っ端連中から良くない目で見られてるのは」
「……はい」
実際の事態は、それよりも少し深刻なレベルに達している。こちらが居るのを知った上で陰口を叩く場面に早苗も一度となく遭遇しているし、伝令役の天狗が所用や行き違いと称して円滑に動かないのも多々あった。
それが常のことであれば早苗も神奈子も気付かなかったかも知れないが、これまで大した支障もなくやってきたことがそうなのだから、嫌でも気付かざるを得ない。
「やっぱり、神奈子さまの仰った通りになったのかも知れません。私たちが積極的に受けたということで、かえって山の皆さんの反感を買ってしまったのかも……」
「かも、ね。皮膚感覚を信じて良いんだったら、潜在的な反対派はざっとみて全体の2割ってところだけど、なかなか無視できなくなってきたかな」
「……ごめんなさい」
「ん? どうして早苗が謝るんだい?」
「だ、だってその……私があんなに強く受けるべきだって言わなければ、こんなことには……」
そして、そういう様々に接し続けていた早苗の内には、つい数日前の勢いもすっかり萎み、代わって弱気が膨らんでしまっていた。
「……多分ね、早苗」
「……はい」
「私らが受けようと受けまいと、山の妖怪の中に私らを良く思わない奴らが出るのは避けられなかったんじゃないかな。受けたら受けたでこれだけど、受けなかったら、やはり守矢を頼るべきではないってことで山の私らへの信頼度は落ちてたんだろうって思うよ」
「そう、でしょうか」
「私が言うんだから、間違いないね」
「神奈子さま、先に『多分』って言われましたよ?」
「う、い、いいから、そういうことになったろうって思っておくの!」
「はい……」
神奈子が励ましてくれているのは分かるが、それでも現状が芳しくないのは早苗も痛いほど分かっていたから、簡単には笑えない。
「ともかく、どっちにしたってあと四日だ。葬儀そのものが終わってしまえば、反対してる連中もそうする理由がなくなるし、反対しながらも葬儀は行われたとなれば、反対派だけじゃなく、それに期待する連中の士気も折れる。それまでの辛抱だよ、早苗」
「……そうですね」
「そろそろ時間だね、行くよ、早苗」
「……はい!」
深呼吸して、せめて最後だけはと大きな声で返事をした。
少し上ずってしまったが、それは仕方のないことだったのかも知れない。
【段之十五 山の妖怪達の事情】
「ハフリさん、ちょっといいかしら?」
「あ、はい?」
そんな風に早苗が呼ばれたのは、山の一角にある集会所のような建物での打ち合わせがひと段落し、休憩に入ったときだった。相手は時の天狗、月華院の奥方という彼女である。
誰も名前を知らないのか、或いは言ってはいけないのか、天魔以下の天狗たちも彼女を名前で呼ぶ事がなく、呼ぶ時は「奥方」「月華院夫人」などと呼んでいた。
「このあと、少しお時間を頂けると嬉しいのだけど」
「あ、えっと……この後は特に何も。資材を神社に運び込むのは明日からですし、今日の午後の打ち合わせは八坂様がご出席するだけですから」
「そう、良かった……というわけで、貴女のところのハフリさんを少しお借りしたいのだけど、いいかしら?」
「ん?」
長く豊かな銀髪を揺らし、話を振ったのは、誰あろう神奈子にである。
事務方らしき鼻高天狗と何やら話していた神奈子も話だけは耳で聞いていたのか、特に異論は無い様子だった。
「私は午後からも大天狗たちと打ち合わせがあるから、早苗はそのまま神社に帰ってて良いよ」
「はい、わかりました。それでは皆さん、お先に失礼します」
「では、後はよろしくお願いしますね」
女性が先に立って建物を出る。だが背後で扉が閉まった途端、早苗は無意識の内に溜め息を吐いてしまっていた。
「……疲れている?」
「あ! え、えっと、その……」
「ごめんなさいね」
「え……?」
「あなたにも、随分と嫌な思いをさせてしまっているみたいだから」
「あ……」
当然、喪主である月華院夫人は、早苗や神奈子との打ち合わせの席にほとんど必ずと言っていいほど同席するし、ここ一週間余りは毎日顔を合わせている。それだけ接点の多い彼女が、ふたりに向けられる様々なものに気付かないはずも無かった。
今しがたにしてみても、気さくに声をかけてくれる天狗や河童の代表達に混じって、敵意とは言わぬまでも何か言いたげな複数の視線が早苗と神奈子に向けられていたから、そういったことを言っているのだろう。
「言い訳になるかも知れないけれど、彼らを恨まないであげて欲しいの。本来なら私ひとりで、ああいった不満を受け止めるべきなのだけれど……」
「……」
「ごめんなさい、こっちよ」
「あ、はい……」
女性も多くの妖怪の例に漏れず、飛べないわけではないらしいのだが、何故だか歩くことを好む、と誰かから聞いた。空は満天曇りだが、午前中だから山中とはいっても足元が見えなくなるほどではない。先に立って歩き出した女性を追う形で早苗も歩く。
誰かが整備しているらしく、綺麗に除雪された道が続いていて不自由はなかった。
「そう、本当なら、私がひとりで全部引き受けるべきなのにね。私とあの人のわがままで、あなた達にまで彼らの感情が向かってしまって、本当にごめんなさい」
「あ、あの……」
「でもね、あなたに、ハフリさんに送って欲しいと思ったのは本当。私もあの人も、それを心の底から願った。そして、幻想郷に外から新しく来た神様の社に祝が居るって聞いて、本当に嬉しかった」
「祝が葬りだから……です、か?」
言った。知ってから、もし間違っていたらと思って口には出せずにいたことを言った。
女性は立ち止まって振り返ると、銀色の瞳を閉じて、嬉しそうに微笑んで、そしてまた歩き出す。
「そう、いつの間にか調べたのね、真面目なハフリさん」
「は、はい……」
「そう。ハフリはハブリ、命を葬り、彼岸に続く道に魂を送り届ける役目。私もあの人も、そうやって送ってもらいたいと、ずっと思ってたの、離れていた間もずっと」
「……え? 離れて……って」
「さ、着いたわ」
それほど歩くまでもなく、目的地についていた。山の斜面を掘りぬいた横穴。入り口の両脇には昼だと言うのに篝火が焚かれ、警護役だろうか、2メートル半は優にありそうな天狗が立っている。
「ご苦労様、この娘を入れたいのだけれど、通してくれるかしら」
「……」
「有り難う」
無言のまま道をあけてくれた天狗に会釈して早苗もあとに続いた。
入り口から奥まで等間隔に明かりが内部を照らしていて、足元まではっきり見える。
「あの、ここはひょっとして……」
「ええ、多分、ハフリさんの思った通りよ」
山道を歩いていたのと変わらぬペースで歩みを進めながら、その銀髪で明かりを反射しつつ女性は早苗の疑問とも言えない言葉を肯定した。
「ここはあの人の仮の寝所。300年の間私がほったらかしにしていた、あの人のね」
【段之十六 河童と蛙のエンカウント】
諏訪子がにとりとようやくまともな話を出来る状態になったのは、早苗が集会所を出た時間とほぼ一致する。
朝、あらかたの心当たりをここ数日で行き尽くしてどうするものかと思案していた諏訪子は、とりあえずと河童の集落にあるにとりの工房を訪ね、当のにとりが大いびきで寝転がっているのを発見した。
丁重に洩矢式強制起床法を執行してにとりを無理矢理覚醒させ「お腹減ったー」などとのたまう谷カッパにわざわざ朝餉までこしらえてやり、ここ最近の経緯を説明し、さて今度はこちらが質問する番と意気込んだところである。
「それで、にとりんに聞きたいんだけど……って聞けよおい」
「んー、大丈夫大丈夫、ちゃんと聞いてるよ」
「まるっきり聞く気なさそうに見えるんだけどね」
「モーマンタイモーマンタイ」
さほど広くはないにとりの自宅兼工房、というより比重的には工房兼自宅。
辛うじて確保されている居住スペースにちゃぶ台とお茶というお馴染みのセットで陣を構えた諏訪子に対し、にとりは工房スペースに座り、なにやら日焼けしたボディの箱型の機械を前に、諏訪子には背を向けて陣を張った。
どうやら香霖堂からその箱型の機械とやらを調達するためここ数日行方知れずだったと言うのだが、にとり発見時、メンテナンスもなしに使い込まれて機能停止状態にあった光学迷彩がその言い分を割と否定している。
「それでさ、月華院っていう天狗と射命丸文との間にどういう経緯があったのかって聞きたいんだけど?」
「んー? あややと月華院翁の関係? んー……」
「頼むよにとりん。天魔も大天狗も大蝦蟇も、犬っ娘までダンマリで他に頼るアテが無いの! この通り!」
「んー……」
反応は鈍いが、機械を分解する手はよどみが無い。
確かPCなんとかとか言ったかな、相当古いやつだなーと諏訪子が取りとめもないことを考え始めた頃、おもむろに、にとりが言い出した。
「月華院の奥方さまってのはね、300年行方知れずだったんだよ」
「……は?」
「行方知れず、ヒズワイフワズミッシング、オッケー?」
「お、おっけー?」
「おぅいぇー」
「……何か変だよにとりん」
機械を前にしているからか、にとりのテンションがおかしい。かちゃりかちゃりとねじを回しながら続ける。
「もみもみが知らないってのは当然でね、300年前奥方さまが急に行方をくらました時、まだもみもみは生まれるか生まれないかって頃だったからだよ。つまり、噂に言う、話に聞く伝説の天狗、稀代の英雄、月華院峰縁が華やかなりし頃っていうのは、300年前までの話なんだ」
「? あー、それであのひんぬーワンコは『なくなりつつあった』って変な言い方したんだ」
「そだね。それまでは諏訪子っちの聞いた話の通り、究極無敵で俺さいきょーって感じだった月華院翁は、奥方さまの失踪を機に急に衰えちゃったんだよ」
「ほー……ってあれ?」
何か腑に落ちなかった。少し考えてから、諏訪子もそれに気付く。
「ね、月華院峰縁ってのとその奥方は、そんなに夫婦仲が悪かったの?」
「いんや」
外部ケースを止めるネジを全て外し、ケースをぱかりと開けながら、簡潔ににとりが答えた。
「私もあんまり昔のことまでは知らないし覚えてないけど、少なくとも失踪直前までのふたりは『まさにオシドリ夫婦』って感じだったはずだよ。まあ、最近の言葉で言うなら、山でもとびっきりにアツアツなバカップルだったんじゃないかな」
「んん? んー、それって……変だよね?」
「変だね。実際失踪当時はそれまでも良くあったバカップル特有の一時的な喧嘩、と誰もが思ってたんだ。それが十日経ち、十日が二十日に、二十日が四十日になったころ、周りもおかしいと思い始めた」
「一時的じゃなかったってこと?」
「そだよ。けど本格的に異常事態だと皆が気がついたのは、何と1年経ってから。その頃にゃもう手遅れで、脚にモノを言わせた天狗の捜索網も、月華院の奥方さまらしき客を秘密裏に乗せた人間の貿易船が大陸へ出たってとこでその先は打ち止め。取り返しがつかないことになった、と誰もが思ったのはまさにそのことが判明した時で、実に失踪から3年経ってからのことだったんだ」
「あちゃー……」
と、リアクションだけは返しながら、諏訪子は尚も感じる違和感の正体を追って思考している。
にとりの手元も同様に箱の中身の基盤やらケーブルをいちいち突付いたり検分したりする作業に余念がなく、にとりの口も間を置かずに次の言葉を紡ぎ出す。
「それでもまあ、しばらくは『どうせその内帰って来るさ』って言ってれば良かった。何せ妖怪だから、50年とか100年くらい待ったって大して問題はないからね。そのおかげか、月華院のダンナもしばらくは少し元気がないくらいで実際の問題はあんまりなかったんだ。でも、そうも言ってられなくなる事態になっちゃったのが、ちょうど120年ばかり前のこと」
「120年?」
「あー、諏訪子っちはまだ知らなかったかな? この幻想郷を括ってるあの大結界、あれが出来たのが120年とちょっと前さ」
「あ……」
「そう、大結界で括られちゃあそう簡単には帰って来れなくなる。行き先が分からない以上すぐさま呼び戻すことも出来ない。聞いたことあるかな、あの大結界を賢者……今は隙間の大妖、八雲紫と何代か前の博麗が主導して創ろうとした時、強行に反対した妖怪の一派が居たって話」
「うーん……?」
聞いた事があるような無い様な、と諏訪子と帽子の目が共に上を向いて思案顔になるのを察したのか、にとりは再び話し出す。
「ま、そういうのがあって、その一派の先頭に立ったのが、多少衰えながらも未だ山の要職にあった月華院峰縁だったんだよ。ただまあ、その一派も一枚岩じゃなくてね、月華院に心底同情し、従い、応援しようとする連中は多くなかった。それにその頃になるともう失踪から200年近く経って、奥方さまの帰還を絶望視する奴も増えててね、数自体、幻想郷の妖怪全体から見れば大したことはなかったんだ」
「それで結界が?」
「うんまあ、そこらへんは他にも色々と事情があったんだけど、とにかく大結界は創生されちゃった。そこからだね、月華院翁が特に急激に精彩を欠き始めたのは。結界創生直後、妖怪の山の秩序と統一を乱した事に責任を取るってんで、それまで務めてきた天紀の地位を返上して隠居するって言い出したんだよ」
「天紀?」
「天魔のいっこ下の位だね。実質的な山の運営役兼責任者ってとこかな」
「おいおい」
「けど当時からその地位にあった今の天魔様が引き止めてね、総合的な相談役ってことでどうにか山社会に留まってもらったんだ」
再びねじ回しを手に、基盤を固定しているネジを外しにかかりながら、にとりが続けた。
「まあ、それでも月華院翁の衰えは止まらなくてね、結局50年くらい前にとうとう引き止め切れず翁は引退、隠居。それで決定的に月華院翁は老いさらばえちまったってわけだよ諏訪子っち」
「へえ……ってちょっと待った!」
「? 何?」
「それじゃあ、今葬儀の喪主をやってる奥方ってのは何なのさ!? 結界張られるまで帰ってこなくて、それからも帰ってきてないじゃない!」
「あ、あー、それね。私も失踪してから会ったことないけど、今の奥方さまってどんなの?」
「え? えーと、長い銀髪と、銀の目で、ちょっと神奈子とかより見た目は年上っぽいかな? 背も高い……もしかして別妖?」
「いんや、本妖だね」
「おい!」
がたんとちゃぶ台を叩く諏訪子。湯飲みが踊って茶が少しこぼれる。それをまったく意に介さず、ネジを全て取り外した基盤をゆっくり持ち上げながら、にとりはさして変わらぬ調子で尚も続ける。
「おぅおぅ、そんなエキサイトしないの諏訪子っち。話はまだ途中なんだから」
「うー」
「それがね、月華院の奥方さまは、どうやったかある日ひょっこり帰ってきたのさ。あの時は山が今回くらい上を下への大騒ぎだったのを覚えてるよ」
「? いつ?」
「……」
「……にとりん?」
「10年前」
にとりは、ねじ回しと基盤をかたりと置いて、どこか遠くを見ながら、不意に夢から冷めたような声でそれだけ言った。
【段之十七 対面】
月華院峰縁の遺体が安置されている場所は、入り口から一番奥に入った所にあった。どうやら天狗達の共同墓地のような場所らしく、そこがあくまで仮の安置所であるということだけでも、早苗は月華院という天狗がいかに特別扱いされているかを感じた。
「10年前、私はのこのこと戻ってきたの。あの人が元気じゃなくなって、衰えてボロボロだって風の噂に聞いて」
「……」
そして早苗もまた、ここまでの道すがらに、諏訪子がにとりから聞かされたのとほぼ同じ話を夫人から聞いていた。
「戻ってきて最初に見て、安心したけど、すこしぞっとしたの。私の知ってるあのひとだったけど、でも違った。その違いがとても怖くて、ぞっとしたの」
「あの……どうして、もっと早く戻って来られなかったんですか? 結界が張られた後に幻想郷に居たんだったら、いつでも……」
「ええ、確かにいつでも戻る事は出来たと思うわ。自分のいる場所が幻想郷なんだって、ちゃんと分かっていたらね」
「え……?」
棺に歩み寄り、慈しむ様に優しく撫でながらそう答えた。
「私がある方にお仕えしていたその館は、それごと幻想郷へやってきたの。館の主人も私も、今と違ってあまり外へ出るような生活をしていなかったから……つい最近になってその噂を聞くまで、ここがそうだなんて思いもしなかった。いいえ、ひょっとしたら、知っていたのに知っていないつもりでいたのかもしれない」
「そんな……そんなのって」
「いえ、いいのよハフリさん。これは、私たちが私たちの意地っ張りとわがままが起こしたこと、あなたが悲しむことじゃないの……それにね」
棺に寄せていた顔が早苗に向く。早苗は一瞬自分の見ているものを理解できなかった。なぜなら、目の前の彼女の顔には、確かに悲しみがあったけれど、でも涙もなくて、微笑んでいたから。
「それに私もこのひとも、後悔はしてないの。300年……300年分かれて生きていた。そしてきっと、そのせいでこのひとは逝ってしまった。けれど、ほんの10年。再会してこの人が逝くまでのほんの10年が、とても楽しかったから!」
「!」
早苗は何かを言おうと思ったが、こんな時にどんな言葉が相応しいのか分からなかった。
自分の信じる神なら、とも思ったが、早苗自身の想像の外ながら、おそらくその神二柱のいずれがこの場に居たとしても、早苗以上に相応しい反応は出来なかったに違いない。
「このひとは何でも出来たわ。喧嘩では誰にも負けず、他の何をやらせても敵う天狗なんか居なかった。そのクセ性格は突き抜けてて気に入ったことしかやらなくて、ワガママで傍若無人でどこまでも我が道を行き続けた。私たちは好き合って結ばれたけど、私はそんなこのひとの傍に居続ける、その自信を持てずに逃げ出したの。それが300年前の家出の原因」
「そんなこと、でも……だって!」
「うん、そう、そうね、今の私はそうじゃないのかもしれないけど、あの時の私はそうだった、だから逃げたの。そして300年、色々なものを見て、聞いて、話して、怒って泣いて笑って遊んで……それがどういうことだったのか、10年前に帰ってきてようやく分かった」
再び、棺の中の、故人へと視線を移して尚も彼女の言葉は続く。
「戻ってきてから、ずっとふたりで、お互いが別々に過ごした300年の話をしたわ。私は外の世界と、館で過ごした300年を、彼は山で生き続けた300年を、それぞれずっと。それで分かったの。私も彼も、この最後の10年を笑って、楽しんで過ごすために、これだけの間離れて生きて来たんだってことを」
彼女の声には、苦渋の一分子も混ざっていなかった。そこにあるのはただただ、満ち足りた時を過ごした、生きるだけを生き抜いた命の歓び。早苗が聞いている言葉は、その輝きの破片だった。
「私たちは300年分かれて生きた。それは、悲しいことだったのかも知れない。けれど、300年分かれずに一万年一緒に居るよりも、300年の分かれあとの、あのたった10年の時間の方がずっとずっと大事だわ。あなたも私も、離れていた間は、もしかしたら不幸と言うべきだったのかも知れないけれど、最初からお互いを知らないままで居たよりも、こんな巡り合わせでも同じ時間を刻むことができたことの方が、ずっと大事」
「…………」
「ありがとう、あなた、私の時間を豊かにしてくださって」
途中から早苗にも分かった。この人は自分に言っているのではないと。これは彼女の弔辞なのだと。今まだここに在り、そして数日の後には彼岸へ送り出される、最愛の魂のために彼女が送る言葉なのだと。
もう何かを言う必要もないと分かっていたけれど、風祝として式で魂を送るより前に、自分自身の、人間の東風谷早苗としての言葉を送っておきたかった。
だから、早苗も棺に近寄り、そっと死者の顔を見た。一点の曇りも無い笑顔。こんな顔で死ぬ事が出来るのかというほどに、笑みに満ちたそれは、早苗の中の何かをことんと動かした。そして考えるより先に、言葉の方から彼女の口を割って出てきてくれた。
「……私にも、きっとこの方は、月華院峰縁という方は、幸せだったって分かります。だって、だって……こんなに」
「……ええ」
「笑って、亡くなった方が、幸せ、じゃ……ないわけ、ないじゃ……ないですっ、かぁ……ひっく」
最後は涙声になってしまった。ちょっぴり格好悪いが、これが、今の東風谷早苗の精一杯。
【段之十八 ブン屋と英雄の絆】
「笑ってたんだ」
「うん?」
手元の作業を再開してからしばらく無言だったにとりが、再び口を開いた。
「一昨日、こっそり月華院翁にお参りして来たの」
「うん」
「笑ってた。にかぁって」
「にかぁ?」
「そ。もーなんていうか、一生でいちばんの笑顔で死んでやったぜって感じの」
肩をすくめてやれやれという仕草のにとり。
「でもね、月華院のダンナや奥方さまがどう思ってるか、どう思ってたかってのとは別に、やっぱり結果的にダンナが早死にしちゃったってのは事実なワケよ。あれほどの傑物を、間接的にせよ死に至らしめた原因と責任を奥方さまに求めるって奴はやっぱりいるんだよね、これが」
「……だろうね」
ここまでの話の流れで、諏訪子にもおおよそのことが把握できていた。詰まるところ例の反対派とやらは、そういう連中が寄り集まっているのだろう。
「で、ここで本題なんでしょ、にとりん」
「…………」
「? にとりん?」
「あ、およ、諏訪子っちだ、どしたの?」
がしゃんと、諏訪子は湯飲みと急須をなぎ倒しながらちゃぶ台に突っ伏した。
「っておい! 今の今まで話してたでしょ!?」
「あ? そうだったっけ? いやー、私機械いじってるとついつい周りが見えなくなっちゃってさ、変な独り言をだらだらやっちゃうクセがあるんだよねー。キモイから止めろって言われてるんだけど、なっかなか治らなくてさー」
「独り言ぉ? あー……ま、いいけど」
「もちょっとこれいじってるから、あんまりお構いも出来ないけど」
「はいはい、やっちゃえやっちゃえ」
「ういよー」
つまりはそういうことかと、苦笑しながらの諏訪子の言葉に対して、既に生返事のにとりは手元の作業をまたも再開。それほど待つことも無く『独り言』も再び始まった。
「あややはねー」
「うん」
「月華院の弟子だったんだよ。ダンナは奥方さまが失踪してから弟子を取らなくなっちゃったから、事実上あややは月華院峰縁最後の弟子って事になるね」
「天狗の世界に徒弟制度があるとは知らなかったわ」
「昔はあったんだよ。まぁ、弟子制度の衰退もある意味月華院のダンナがやめたから、って言えなくもないかな。それでまあ、全盛期の月華院のダンナってのはね、まさに天狗の中の天狗、ってやつだったんだ」
「ほー」
「天狗の一般的なイメージっての、あるでしょ?」
「えーと、仲間意識が強くて、自由で、自分勝手で、我がままで?」
「そうそう、月華院のダンナはそれを一から十までかき集めた見たいな天狗でね、老いも若きも、天狗は誰もが月華院に憧れ、敬愛したのさ。んでまあ、そんな月華院が弟子を取るってのもそうそうあることじゃなかった。そこへ来て選ばれたのが当時はまだぺーぺーのヒヨッコだったあややなんだ。当然周りは何でコイツが、ってな感じであややに辛く当たったりしたんだけど、いくらもしないうちにあややは今ぐらいの実力を身につけちゃってね、歴代の弟子の中でも最上級かとまで言われたんだよ」
「おー、それは」
「意外だった?」
「意外意外」
現在の射命丸文といえば、自由で気ままな鴉天狗であり、山社会に組するのもどちらかといえば命令されて仕方なく、というケースがほとんどである。
誰かの弟子になったり、誰かに憧れたりといった下積み時代があったなど想像し辛い、というかできない。
「そして、ちょうどあややが弟子だった時期に、月華院の奥方さまとダンナが連れ合いになって、奥方さまが失踪してダンナが落ち込み始めた頃に、あややは自分からダンナの元を去った。つまり、あややは幸せ絶頂のダンナと、不幸のドンゾコに叩き落されたダンナと、両方を一番近くで見てたんだよ」
「ふむふむ」
「ついでに、あややが鴉天狗としての本分……つまり情報係、新聞屋だね、それにすすんでなったのもその直後くらいだよ。ちょうど、人間のやってた瓦版が流行り初めてたから、不思議に思った奴はあんまり居なかったみたいだけど」
「なるほど、痴情のもつれじゃなくて、師弟愛から来る怒りと憎しみってとこかな?」
「……そう、かもしれないね。でも言っておくけど、それは多分、他のどの天狗があややの立場にいたとしても同じだったと思うよ」
「かもね。ふむ、ようやくあのブン屋がやたらめったら敵意むき出しだったのが理解できたよ。そういうことだったんだ」
納得できた風に頷く諏訪子。
それに気付いているのかいないのか、にとりの『独り言』はまだ続いた。
「……ここから先は、あややからも月華院のダンナからもちょっと距離を置いてた私の想像だけど」
「うん」
「多分、あややが鴉天狗としてブン屋をやりながら、どこか山の社会と微妙に距離をとってたのは、きっと月華院のダンナから『中途半端はやめろ』って叱って欲しかったからなんじゃないかなって。そうすることで、ダンナが前みたいに戻ってくれるんじゃないか……どこかでそういう風に考えてたんじゃないかな」
「…………」
「でも、結局そうはならなかった。月華院のダンナは、奥方さまが帰ってくるまで弱ったままで、だからきっとあややは、他の天狗たちの何倍も悔しかったと思うんだ。間接的にではあっても、結局奥方さまがダンナをあそこまで弱らせちゃったこと、その弱ったダンナを自分が元に戻せなかったこと、それに……奥方さまが帰ってきてからのほんの10年の間は、ダンナが弱ってても元気だったこと」
この河童はずっとそうやって、苦しみ悩む友を、同じ様に苦しみながら見続けていたんじゃないのか、諏訪子は何となくそう思った。
「そんな色々が重なって、きっとあややは、今すごくすごく悔しいんだと思う。悔しいから、笑って逝ったダンナを笑って送ってあげられないんだと思うんだ」
「…………」
諏訪子にとっても、そういう文の心情を理解するのは簡単とは言えないが、想像するのはそれほど困難でもなかった。
たとえば今、自分の傍から神奈子が、或いは早苗が居なくなったらどうなるか、それは多分、幻想郷に来たことで戻りつつある信仰心を失うよりも恐ろしいことのように感じられたから。
「そうだね」
だから、にとりの『独り言』にそれだけ答えて、それから、もう少し付け足した。
「今どこにいるのかなあ、あのブン屋は」
【段之十九 真昼の来客】
早苗は何となく地に足のつかない、実際飛んでいるから言葉そのままなのだが、そんな気分で中腹の神社に帰り着いた。
月華院峰縁の、あの生涯最高の笑みと共に死を迎えた遺体と対面してから、早苗の中を妙な感覚が走り回っている。それを何と言うべきなのか、早苗は的確な言葉を見つけられないままのろのろと母屋に入り、とりあえず防寒着を脱ごうとマフラーに手をかけたところで動きが止まった。
「あ……」
数日前に借りたまま、いろいろあって使いっぱなしだった紅白マフラー。それを持ってぼんやりと立っていた早苗は不意に、博麗神社に行こうと思った。
「霊夢さんに……返さないと」
そう言いつつ紅白マフラーを再び巻き、帰り用に自分の風祝の装束をあしらった蒼白のマフラーを持って母屋を出る。境内の半ばまで歩いたところで、不意に視界を黒いものが遮った。
「わ!?」
ばさりと耳元で羽音がしたかと思うと、次の瞬間、遮るもののなくなった視界に見慣れた人影がひとつ。
「あ……」
「こんにちは」
今しがた早苗の視界を横切ったらしいカラスを肩に、一本足の高下駄をカツリと石畳に鳴らして立つ、彼女の姿があった。
「文……さん?」
「はい」
紛れもなく、この一週間というもの姿を見せなかった射命丸文だった。しかし、まだぼんやりとした心地でいた早苗には、この状況下で文が守矢神社に現れたということの意味を察する余地が無い。
「えっと、八坂様か洩矢様に御用ですか? おふたりとも、まだしばらくは戻られないと思いますけど……」
「ええ、そうね、知ってるわ」
「え?」
「待ってたの、東風谷早苗、貴女が独りになるのを」
にやりと、文が笑った。どこか凶悪なものを感じさせるその笑みに早苗の背筋が泡立ち、その理性と思考を強制的に本来の状態へと復帰させる。
「……待っていた、って、どういうことです、か?」
「言葉そのまま。あの神二柱が居らず、貴女が独りでここにいるということよ」
「えっ……と」
復帰直後で回転の上がらない思考を必死に回し、早苗は思考する。
文の様子はいつもと変わらない。少なくとも見た目は……厭、良く見ろ、右手の団扇はいつも通りだが、首からカメラを下げていない。左手には肌身離さないと常日頃から言っていた筈のネタ帖、文花帖が無く、胸ポケットにいつも収まっているペンもなかった。
「幸い準備が終わるまでは気付かれなかったし、あとは仕掛けるだけと思って待ってたんだけど……結構用心深いのね、ちょっと待ちくたびれたわ」
それ以上に、口調が違う。普段早苗が接する文は、もっと丁寧な物腰のはずだった。
そう、つまりはそういうことだ。
「あ、文……さん?」
「ハイ、どうかした?」
おどけて笑ってみせ、優雅に一礼する。
ブン屋の射命丸文は、どこにもいなかった。
「いかにも射命丸文とは、私のことだけど?」
鴉天狗の射命丸文が、そこにいた。
【段之二十 泣き虫な河童の独り言】
「ってちょっと待った待った」
「なにさ諏訪子っち」
「まだ肝心な所が分かんないよ。月華院てのとその奥方のいきさつは分かった。射命丸のがそこにどう絡むかも分かった。けどさ、それで射命丸が今回のことで山の大勢に反対したからって、どうしてそれであそこまで反対派が出てくるのさ」
「…………」
「それだけじゃない、他にも潜在的な反対派が回りにウヨウヨしてるって神奈子も早苗も言ってた。妙だ、妙すぎる。いっくら実力があるって言ったって、射命丸は一鴉天狗で、別に山の意向をどうこうできる立場じゃない。何だってその鴉天狗ひとりが反発したってだけでこんなことになるわけ?」
「……こんなこと、って?」
「皆揃いも揃って口が堅すぎるってこと。結局、月華院の夫妻と射命丸のごくごくプライベートな話じゃない。それであのブン屋ひとりが反対だーって騒いでるところを、どうしてサポートがついて、あまつさえ関係者が示し合わせたみたいにダンマリ決め込んじゃうんだよ?」
かちり、とにとりは次の基盤を取り出しているようだった。
「……ねえ、諏訪子っちは、あややが何て呼ばれてるか知ってるよね」
「うん? えーと、確か『伝統の幻想ブン屋』だったっけ?」
「それもあるね。けどそれは、どっちかっていうと自称、もしくは山の外での呼び方。山の中では……」
「分かってる、言ってみただけ。『里に最も近い天狗』でしょ、それがどうかした?」
「どう思う?」
ぱちり、とまた次の基盤を取り出しているようだが、諏訪子の位置からでは見えない。
「どうって、そのまんまじゃないの、人間寄りで、山の外に一番近いって、そういうことじゃないの?」
「そだね、まあ字面だけ見ればそんな感じかな」
「そんな感じって……他にも何かあるわけ?」
「あややはさ、一番人間に近い所に居る天狗なんだ。あ、もちろん比喩的な意味でだけど。それでさ、つまりそれって、山の妖怪の中でいっちばん人間臭いって意味でもあるんだよ」
「あー、そういうのもアリか、で?」
「それが、元々のあややがそうだったからなのか、月華院のダンナの元から離れてからそうなったのかは私にも分かんないけど、そういうことで、あややは山の中でも相当に異端児なんだよね」
「うん、それは分かる」
「だよねー」
ぱきり、とやや硬い音がした。嵌め込み式の部分でも解体したのだろうか、にしては音が硬すぎたような気もするが。
「でもさ、山の妖怪ってのは仲間意識が強いから、あややも異端児な分かえって尊敬されてたりすることもあってね」
「ほうほう」
「でも、それ以上に大きいのはね、多分、みんなあややが羨ましいんじゃないかなって思うんだ」
「……羨ましい?」
「だってさ」
ぱきん、と明らかにそれと分かるプラスチックの破断音。組み立てや解体の工程で出る音ではなかった。
「私たちって妖怪じゃない。人間を襲う側。今じゃスペルカードルールなんてのが出来て、結構平和的に交流出来るようになったけど、ついこの間まで食うか食われるかの関係だったんだよ? そこへほいほい出て行ってこんにちはーとか、何かネタありませんかーなんて聞いて回ってる物好き、あやや以外に居ないでしょ?」
「そういえば……」
山の妖怪の新聞はほとんどが内部向けだと聞いた事を思い出す。
「結構ね、妖怪って強い割に臆病なんだよ。ほら、私とかもそうだしさ。長い寿命を持つ分、万一の死ってやつを極端に恐れるからだろうね、人間の所へ出て行ったら退治されるかもって恐怖が刷り込まれてるんだよ。そのせいで、もうそんなことありゃしないのに、山の連中は閉鎖的でなかなか外に出て行こうとしない。だから、みんなそうやって外に知り合いをもって、取材して回ってるあややが凄く羨ましいんだよ、本当は」
「……にとり?」
変に饒舌な河童に微妙な違和感を覚えて諏訪子が問い返すが、にとりはそれさえ聞こえていないかの様に、そして止めたらもう何も言えなくなるといった風に、手と口を動かし続けている。
「あややもお馬鹿だよねー、もうさ、あやや自身が月華院みたいなもんなんだよ。新しい時代の月華院。ダンナが天狗はこうあるべきだって勝手気ままに生きて皆の憧れになったみたいに、あややは新しい皆の憧れなんだよ。だからさ、みんなあややが大好きで、好きで、好きで仕方なくて……っく、だから……だからっ」
ぱきん、ぱきん、ぱきん。
静かに、にとりのすぐ後ろまで近寄った諏訪子は、にとりの手元で文字通りバラバラに解体されつつある石油製品と金属部品の集合体を見た。そこにぽたぽたとたくさんの雫が落ちていって、もうどうやったって元には戻りそうも無い。
「あややが好きでしょうがないから、みんなあややが悲しんだり、苦しんだりするのが嫌で、嫌だから、だからっ……だから、出来るなら知らないままで終わってくれれば良い、黙ったまま終わって、元の鞘におさまるんだったら、その方が良いって、みんな、あややが好きで、っく、だからっ、だからっ……うぇぇぇぇぇぇ」
「うん……わかった、もういいよ。わかったよ、にとり」
ふわりと後ろから、本当なら自分より大きいはずの体を抱きしめる。
前に回した腕にねじ回しを放り出してすがり、ぽろぽろと目からポロロッカしながら、本格的に谷かっぱの技術者は泣き始めた。
「まったくもう、泣き虫な独り言だなぁ」
「う、うぅぇぇぇ、っく、ひっく、す、すわこっちぃ……」
「あーはいはい、よしよし」
苦笑しながら諏訪子がにとりをなだめていると、突然にとり宅のドアが乱暴に叩かれた。
にとりが返事する間もなく、諏訪子も見かけた覚えのある顔の河童が息せき切って飛び込んでくる。
「に、にとりー! 大変だ!!」
「ん、んん……な、何、どしたの?」
「暢気にしてる場合じゃないよ、大変なんだ!」
「……だから、何が?」
「昼前頃から上が騒がしいと思って、そこらへんを走ってた天狗をひとり捕まえて聞いてみたんだけど、えらいことになってるんだ!」
「えらいこと?」
諏訪子とにとりが顔を見合わせる。
「例のほら、月華院て大物の天狗の葬儀を神社でやるってんで反対してた連中がいただろ! あれの急先鋒の、えーと、そう! ブン屋の射命丸ってのが、その神社に殴りこんで暴れてるって!!」
「「!?」」
【段之二十一 風神弾幕・前哨】
轟、と咄嗟に身をかわした早苗の耳元を音と共に凶悪な圧力を伴う風が吹き抜けていき、後ろのオンバシラに当たった。そのまま石柱の根元を粉砕し、上に積もった雪ごと残る部分を崩落させる。
「……!」
一振りで家を吹き飛ばし、二振りで樹木をこそぎ倒すという天狗の団扇。話には聞いていたが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。まともに食らえば人の身である早苗などひとたまりもない。
一応弾幕決闘に備え風祝の装束には防御効果を高める護符の類を仕込んであるものの、それだって直撃を受ければ着替え一枚分になるかどうか。
「あら、外しちゃった?」
そして当の風撃の主は、境内に姿を現したときと同じ位置に立ったままだった。余裕さえ感じるその姿は、彼我の実力差を鑑みれば当然、と言うべきか。
「文さん、どうして……」
「どうして? あなたも紅白巫女の暢気が伝染った?」
「…………」
普段の、ブン屋としての文ならまずしないような高圧的な物言い。早苗の足が勝手に後ろへ下がった。
早苗の弾幕戦経験は、まだ浅い。実力や素質はともかく、単純な経験値だけでいえば夜雀や宵闇妖怪にだって勝てるかどうか微妙な線だ。
まして相手は、妖怪の山屈指の、つまり幻想郷でもトップレベルの実力者。それが本気でかかってくるのと弾幕りあうなど、無茶にも程がある。
「まあいいわ、暢気な祝さんのために折角だから教えておいてあげる。葬儀の日取りは既に決まって、山もここの神社もそのために動いているけど、そこにはひとつ、弱点がある」
「……弱、点?」
「貴女よ、東風谷早苗。葬儀を神が自ら執り行う事はない。必ず神との間を取り持つ仲介者が儀礼上どうしても必要となる。この場合は貴女。そして山の重鎮と守矢の二柱の神と仲介者たる祝の貴女、この中で最も弱く、それでいて今回の葬儀で重要な役割を与えられているのも貴女……つまり!」
「!」
再び団扇を一閃。放たれた風は全部で三条、何とか一つをかわし、残る二つは無理矢理風をぶち当てて軌道を変えようとして……し切れず至近弾。圧力に曝されたコートが数箇所音も無く裂けた。
「つまり、葬儀を目前に控えた時にあなたが役目を果たせないほどの重傷を負ったとなればどうか。ことがことであるだけにこれ以上の延期は良くないと判断し、守矢での葬儀は取りやめ、月華院翁は……大爺さまは、私たち山の者のやり方で弔う事が出来る」
「あ、文さんっ、それは……!」
「黙れ!」
「ぃっ!?」
三度風が叩きつけられる。今度は四条。危うくそれらの中間点に体を滑り込ませて直撃を避けたが、耐弾処置も何もしていなかったコートはそれでほとんど脱落する。
「大爺さまは、今度こそ私たちの手で送って差し上げないといけない。300年もの間ほったらかして、ノコノコと戻ってきた奥方に、あの方を送る権利なんて、ない!」
「文さん……」
「あまり無駄な抵抗をすると、よけいに怪我をする事になるわ。でも大人しくやられてくれるなら、適度に痛めつけたあたりで止めてあげる。下手になんとかしようなんてすれば、ひ弱な人間の貴女は死ぬかもね?」
「…………」
おかしい。山の社会にとって新参とはいえ、守矢神社それ自体は山中にあり、その大きさはかなり目立つものだ。
そこでこれだけの騒ぎになっているというのに、見物の妖怪のひとりも姿を見せないのは何故か。
それ以前に、そのことを分かっているはずの文が、ここまで悠長に口上を垂れているのは何故か。
巡らせた視線の先で空を捉えた早苗は、気付いた。気付いてしまった。
「あ……え……!?」
「ようやく気付いたのね、まったく、やっぱり暢気が感染ったのかしら」
風が渦巻いている。
見てそれと分かるほどの暴風が、神社の周囲を覆うようにして吹き荒れていた。それは神社をちょうど半球状に囲い込む形に流れていて、つまりそれは……
「結、界……?」
「大昔に習った術でちゃんと出来るか分からなかったけど、結界石の調達もそんなに苦労しなかったし、何より貴女たち守矢の神もハフリも気付かなかったから、意外と楽だったわ。下手な天狗や妖怪がいくら束になったってこの風の結界は破れやしないし、構造上博麗の巫女でもすぐにどうこうは出来ない仕組みになってるから、時間はたっぷりあるの」
「…………」
「絶体絶命ね、東風谷早苗。大人しくボコボコにされるか、抵抗した挙句もっとボコボコにされるか、人生最悪の二択じゃない?」
言われるまでもなかった。
相手は強敵、退路は皆無。正直なところ、逃げ出すか泣き出すかしたかった。だが、相手がボコボコにすることを前提としてきている以上、逃げ出すのも泣き出すのも何の意味もない。分かっていても、足がすくむし、背筋はさっきから嫌な汗で大洪水だ。
けれど、かえって良かったのかも知れない。他にあらゆる余地もなくなったから、早苗は目の前のそのことだけに集中出来る。よけいな事を考える暇なんて無い。
「…………」
「さあ、どうする? あんまり露骨に時間稼ぎするようなら、さっさとやらせてもらうけど」
「……だったら」
「ん?」
「だったら、もう一つ、選択肢の追加を希望します」
「……へえ?」
かろうじて両肩から上腕あたりを覆っていたコートの残滓を脱ぎ捨てる。むき出しになった腋を寒気が撫でていくが、震えなんてとっくに止まらないから問題ないはず。
首の紅白マフラーを一度ぎゅっと握り締め、さらに自分の蒼白マフラーで右手と御幣をがっちりと縛り止めた。絶対必要というわけではないが、あるとないとでは風の操作感覚が異なる。この先、紙一重で三つ目の選択肢を実現するためには、その僅かの狂いも許されない。
「文さんを説得して、これを止めてもらいます」
「出来ると思って言ってる? 実現不可能な選択肢に存在の意味はないわよ?」
「大丈夫です。私は、奇跡を起こすつもりですから」
「…………」
はじめて、文の方が沈黙した。
早苗は不敵に笑おうとして、ちょっとひきつって、それでも何とか笑うことができた。
「文さんを止めて、なんとかします」
「……絶対不可能ね、そんなことは」
「世界に絶対なんてありませんよ、だから奇跡が存在するんです。零とコンマの後にいくつゼロが並んだって、最後にひとつでも1があれば、それは実現不可能なんてものじゃありませんから。それが奇跡と呼ばれるもので、私はそれを起こすことができるって、知ってますから」
「いい加減にしなさいよ、ヒヨッコの人間が」
文の声から余裕と笑みの波動が消えた。正直へたりこみたいくらいに怖い。身体能力の差は歴然、弾幕戦の経験も実力も考えたくない位のギャップがあるに違いない。
けれど早苗は不思議とやれそうな気がしていたし、それに、さっき月華院峰縁の遺体と対面してから感じていた妙な気分の答えが、何となく出そうな気もした。
深呼吸をする。
ごうごうと唸る風の結界、目前の強敵、絶体絶命でどうしようもない状況だが、大丈夫。
だって、奇跡ひとつ起こせばそんなのはどうってことない。
「風を止めて、あなたをブン屋に戻します、濡れ羽の黒鳥!」
「くまなく砕いて全身不随にしてくれる、蒼の風のハフリ!」
【段之二十二 急報】
時間は少し、遡る。
打ち合わせの会場となっている集会所に犬走椛が駆け込んできたのは、早苗と文が弾幕り始めるよりも前だったが、椛の表情だけで居合わせたほぼ全員が状況を察し、打ち合わせは急遽中止された。
天魔や大天狗ら、主だった天狗連中はそれぞれの職場に一旦戻って状況を把握すると言ってそそくさと退出。それがある意味サボタージュであり、ある意味守矢神社の側に事態の解決を丸投げしたことでもあったが、神奈子は上々の状況だろうと思った。
下手に山の側の要員を引っ張り出せば、それはそれで後々ややこしいことになりかねなかったからだ。
「それで?」
「は、はい、目撃した他の鴉天狗の話によると、文さ……いえ、射命丸が守矢神社一帯を結界で区切っていると」
「……ただの弾幕勝負だって可能性はないのかな?」
「それは……その」
椛は何か適当な言い様を見つけようとして、出来なかった。
普通に考えて、ただの弾幕勝負に決闘場全域を括る結界は無用であり、よほどの事態でもない限り見物人を完全に排するようなステージが必要になることはありえない。
裏を返せば、そのこと自体、これがよほどの事態だということの、何よりの証明だった。
「仕方ないね、とりあえず神社に急ぐか……犬走の、ここらへんにウチの分社がないかい?」
「あ、えっと……」
状況が状況だからか、おそらく事態の関係者として差し支えない立場の椛は、現在の展開に著しくスペックが落ちてしまっているようで、本来威力を発揮する筈の千里眼を使うことさえ忘れている。
「えぇい! まだるっこしい!」
数秒で焦れた神奈子は、たまたま集会所の脇にあった地蔵の前に突然しゃがみこんだ。
「騒がせてすまないね、けどちょっとのっぴきならない事になってるかもしれないんだ。手近な守矢の分社を知ってたら教えてくれるか?」
「…………」
ごりごりごりご、と石臼が挽き回される時の音をたてて地蔵の首が神奈子から見て右へ90度、傾いた。その先には山頂への道が続いており、その途中に物好きが分社でも作ったのかも知れない。
いずれにせよ、手掛かりが何もないよりマシだ。
「そうか、この礼は後日改めてさせてもらうよ。それじゃ!」
「あ、や、八坂さまっ!」
一挙動でその方角へ飛び去る神奈子と慌てて追いかける椛。ふたりの姿が見えなくなると、地蔵の首は再びごりごりと元の位置へと戻ったが、何となくその顔は、ことの成り行きに苦笑しているようでさえあった。
さて、飛び出した神奈子と椛である。
山中の飛行であるためカーブが多く、直線ならば無類の速度を発揮するオンバシラ乗りが使えないため、やむなく両足の下に風の塊を生成してローラースケートのように濃い樹相の中をかっ飛ばす。
右へ左へ木を避け、悪いとは思ったが枝の類は纏った障壁で弾き飛ばしながら疾駆すること1分で目的のものが見えてきた。山道の脇にありあわせの材料でつくられたらしい小さな社。だが『守矢分社』の達者な字体を確かに視認し、それが紛れもなく己を祀ったものと神奈子は悟る。
「よぉし、分社ワープ!!」
そんな必要性は微塵も無いのに、フライングクロスチョップの姿勢で神奈子は突っ込んだ。いつも通りであれば、この後境内に転送された神奈子は華麗に地面で一回転して起き上がるはずである。いつも通りであれば。
<<転送プロトコルにエラー、アクセスラインが確保できません。転送を中止します>>
「っな!?」
分社への接触直前に脳裏に黄色い『!』マークと共に現れる警告メッセージ。咄嗟に急制動をかけ、空中で無理矢理体をひねって己の分社を轢殺するという事態を避けた。追いすがっていた椛がその光景に異常を感じて声を上げる。
「や、八坂さまっ!?」
「やられたっ……射命丸の張った結界ってのは、こっちの分社ワープまで隔離してる!」
「ええ!?」
「ちぃ、天狗の結界ひとつで転送不能になるなんてな、私もまだまだ本調子じゃないってことか!」
文の力量と、己の力の衰微っぷりの双方に舌打ちして来た道を戻る軌道を設定、再度高速飛行を開始。
「直接神社に急ぐよ、犬走、付いて来れるんなら付いてきな!」
「はっ、はい!!」
障壁で大気との摩擦が減るのをいい事に無理矢理ギアを上げまくってぶっ飛ばす神奈子と追いかける椛。時ならぬソニック・ブームに山の常緑樹までがなけなしの葉っぱを吹っ飛ばされた。
【段之二十三 風神弾幕・第二劇】
――風符「風神一扇」――
放射状に放たれた弾列が境内の石畳と露地を激しく穿つ。無論、宣言した文にしても別に石や土を耕したいわけではないが、初撃は全てが不要な耕作に用いられた。
「はぁっ……は……っ!」
「あら、ちゃんと避けたのね、じゃあ次!」
「!!」
「ほらほら!」
再び多角度から同時に発射される極端なまでの自機狙い弾。そうと分かっていても驚異的な速度が引きつけて避けるという行動を簡単にはさせてくれない。
必死に左右へ回避行動を取る早苗に半瞬も遅れず弾列が飛来し、式服に仕込んだ護符の防護力場と干渉してジリジリと耳障りなグレイズ音を断続的に発生させる。
単純、故に強力。左右から1セット2セットもう1セットと連続で放射される弾幕はそれ自体の回避難度よりも、反復されるという点において著しく受け手側の精神を消耗させる類のものだった。現に、開始1分を待たずして早苗の息は上がっている。
「はっ……はっ……!」
「運動不足なんじゃないかしら、この程度で息が上がるようじゃ、奇跡を起こす前に酸欠になるわよ!」
「!!」
再度弾列発射。
大きく動けば回避は難しくないが、それをすれば早々に弾列が空間飽和を起こして手詰まりになるのが早苗でも分かるため、可能な限り引きつけての回避を強要され、それがまた神経をすり減らしていく。
結果、回避に専念するあまり反撃の手がほとんど無いという事態を招いてしまっていた。
「どうしたの、さっきから私の方には弾が飛んで来ないけど!」
「くっ、い、言われなくても……! 今はチャンスをうかがってるだけです!!」
「あははは! 出来るものならやってごらんなさい!」
口先だけのハッタリは当然、文にも見抜かれている。そんな余裕など早苗の側にあるはずも無かった。
幸いなのは、文が弾幕決闘のルールに乗っ取った攻め手を取ってくれているということだった。スペルカードはその性質上、有効時間等の制限が存在し、時間にして2分を超えるものはほとんどない。文が何枚の手札を残しているかは分からなかったが、無制限に続くわけではないのが救いだ。
それまで、早苗の体力と集中力が持てばの話だが。
「あっ!?」
いきなり前方注意を怠った。目の前に風の壁、神社周辺を取り囲む結界の内幕が迫る。後方から文の弾幕、回避可能な空間は皆無。
「このっ!!」
――秘術「グレイソーマタージ」――
緊急回避的に自らも札を切る。五芒星を模した弾幕を正面に集中的に展開し、力任せに風神一扇の弾列を相殺。密度だけなら上回る弾幕は一部が文へも至るが、天狗は悠々と弾列の隙間に身を運んで回避。
もともと早苗の手持ちは符も含めて速度系のものはほとんどなく、このグレイソーマタージに客星、神風と多くは物量に頼った圧殺系の弾幕で、高速の一撃を特徴とする文のものとは正反対だった。発動すれば壁を厚くすることは出来るが、防御はともかく攻撃の、特に天狗を捉えるためには絶対的に速度が足りていない。
「!?」
しかし、展開した弾幕の内側で一つ息をついた早苗の正面、自弾の壁を突き破って飛来した風神一扇が危うく身をかわした早苗のすぐ横を駆け抜け、結界に当たって四散する。
「物量で壁を張るなら、こっちはその一点を抜けば事は足りる。貴女の弾は確かに分厚いけれど、その厚さを活かして力任せに競り合うには、絶望的に力とスタミナが足りないわ」
「う……く!」
「貴女が鬼か吸血鬼だとでも言うのならその手も良いでしょう。けれど人の身と力で天狗と根競べをするなど笑止!」
訂正、防御のための力も厚みも十分には程遠い。時間稼ぎになればいい方か。相殺でひらけた上空へ退避し、以後の回避空間を確保しつつ、今一度秘術の弾列をばら撒いて風神一扇を遮りながら次の手を考える。
(力も速度も、文さんの方がずっとずっと上……どうしたら?)
奇跡を起こすと啖呵を切ったが、実際問題としてこの状況をどうこうするには足りないものが多すぎた。防御と回避に徹しさえすれば時間稼ぎは出来なくもないが、その時間がどの程度なのかが分からない。
先程の文の言をとるなら、現在ふたりを隔離している結界を解除するためには時間も人手も必要となる。その時間を稼ぎ出せるかどうか、稼いだとして、早苗には自分の身を五体満足で終えなければならないという条件まで付いてくる。
天狗と人間の体力差と、こと戦いに関する経験と実力の差を普通に考えれば、持久戦の勝敗など問うまでもなかった。
(今はまだ、手加減してくれてる)
命までは取らないと言っていたから、おそらく現在の攻撃は早苗の体力を奪うためのだろう。適度に弱らせたところで強烈な一撃を見舞って勝負を付けるつもりなのは明らかだ。
「わ!?」
考えている間にも、こちらの弾幕を突き抜けて文の正確な狙いの弾列が至近をかすめていく。既に防護符は一部で機能が損傷し、袖や裾など式服のそこかしこで直近弾による焦げやかすり傷が出来始めていた。猶予は少ない。そう思って持久戦の選択肢を早々に放棄する。
「あ、文さんっ!!」
弾列から垣間見える天狗に向かって声を張り上げる。風の音も、弾幕同士が激突する音も大きいが、この距離で聞こえないはずは無い。望みを託して、回避と声に神経を集中する。
「何で、どうしてですか! こんなの、おかしいですよっ!!」
「おかしい? 何が?」
「だって、大事な……大事な方だったんでしょう!? その方が亡くなられたのなら、きちんと送って差し上げるべきじゃ無いんですか! それなのに、こんなことをして、こんなことをする文さんを月華院さんが喜ぶわけないじゃないですか!」
「っ!!」
文が歯を食いしばる、聞こえるはずの無いその音が聞こえた。
「こんなの絶対におかしいです! 文さんと月華院さんとの間に何があったか、私はまだよく知りません……けど、こんなの文さんらしくないです!」
「私らしく、ない?」
「そうです、だから……!」
「……が、わ……る」
「……え?」
弾の隙間から聞こえる文の声が、突然小さくなった。それなのに、唸る風も、激しくぶつかる弾も、その声をかき消すにはまったくもって足りない。
「貴女に、何が分かる……」
「あ、文……さ」
「人間風情に何が分かるッ!!!!」
――「無双風神」――
直後、眼前をその神速で数十度横切ったのは文の幻影、そしてさらに数十倍する数の弾が弾が弾が、そして弾が、一瞬で早苗の視界と意識を埋め尽くした。
【段之二十四 風の壁の外の神】
「どっ……」
ピッチャー、大きく振りかぶって、第一球を――
「せぇぇぇぇぇぇぇぇぇいっ!!」
――神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」――
投げた。同時に6本。極太長大なオンバシラ弾は轟音と共に彼女の家を囲む無粋な風を突き崩そうとして、果たせず。接触するや前後左右上下で荒れ狂う風の流れにモーメントを分散させられ、押し流され分解された。
「ちぃっ! 厄介なつくりの結界だね……流れの違う風の層を何枚何十枚と重ねて威力を散らしてる、あの鴉天狗も芸の多いことだ!」
「ど、どうしましょう、八坂さま……このままだと早苗さんが、文さまが……」
と、これはくっついて来た椛。その慌てふためく台詞を解説するならば、ありうるだろう早苗の負傷と、事後、山社会から文に下されること確実の罰、その双方を指している。時間の経過はその両方が発生、悪化する可能性を幾何級数的に増加させることでもあった。
「そう言われてもねぇ……こいつは解除するにしても手間がかかるし、ブチ破るとなるともっと面倒だ。とはいえ中の状況が分からない以上一刻も早くどうにかしたいし……ああもう!」
手持ちの符は少なくない、が、神祭の列柱を苦もなく弾いた結界相手に全部をつぎ込んだとして、それでどうにか出来るかと問われれば、正直苦しい。
せめて自分と同等のパワーか、結界解きに長じたのでも居れば良いのだが、見える範囲の味方が椛のみではそのどちらにも頼りはなかった。
「あ……」
「こうなったら大山塊の神の徳と神の粥とお天水を三段重ね位にしてみるか……やれない事はないかも知れないけど、その後が問題だね……」
分の悪い賭けだ。よしんば結界を相殺し得るとしても、その後に自分がまともに動ける状態かどうかの保証はない。
「しょうがないか、犬走、結界は私がなんとかするから、そしたら……って、おい、何処見てんの」
「あの、八坂さま……」
「何だ、今は余所見なんてしてる暇は無いんだよ。射命丸相手にあんたと早苗じゃ辛いかも知れないけど他に手もないんだ、さっさと準備を――」
「おー、なんか楽しそうなことをやってるな、この寒いのに元気な連中だぜ」
「まったくね」
「……あ?」
突然聞こえた新しい声、二人分。思わず振り向いた神奈子の視線の先には、たった今この場に到着したらしい冬空に映える紅白黒の都合三色。
「あんたら……何で」
札を握ったまま半ば硬直した神奈子は、首から上だけをぎぎぎと動かし新たな登場人物たちを見た。片方がしゅたと手を上げ暢気に挨拶。
「よ」
言わずもがな、魔法の森に住む普通の魔法使い、霧雨魔理沙と、
「異変の匂いがしたのよ」
幻想郷における最強にして反則にして必殺の札、博麗の巫女、霊夢がふわふわしながら浮かんでいた。
【段之二十五 風神弾幕・第三劇】
全身が痛い。幸いにして直撃は避けたらしいが、至近距離での夥しい擦過弾で式服はかなりボロボロになってしまっているし、地面を転がったり木を蹴り飛ばすだのの激しい回避運動により、打ち身ムチ打ち切り傷擦り傷があちこちにあるようだった。
「は……っ! はぁ……っ、はぁ……っ!」
無双風神のあの弾幕をどうやって避けたのか、自分でも記憶に残っていないのは無我夢中だったからだろうか。呼吸と意識が落ち着いてくるに従ってようやく現状をまともに認識出来るようになった。
「は……あ……っ」
文は正面に居て、ちょうど境内の石畳の社殿側と鳥居側に分かれるように向かいあっている。
ろくな反撃が出来ていないからか文の衣服に目立った損傷や乱れはなく、また呼吸も乱しているようには見えなかった。さすがとしか言い様がないが、もうそんなことでいちいち驚いていられない。
「…………」
「は……っ、ふぅ……も、もう、終わりですか?」
「ええ……今のはね」
手元を見ると、既に切ってしまったグレイソーマタージを除く2枚の符が残されていた。実感も何もあったものではないが、どうやら1枚の符を切る事もなく乗り切ったらしい。
対して文がここまでに切った札は2枚。彼女がいつも何枚携行しているかは分からないが、標準的な数でいえば2から4枚、ヤル気満々でこの一戦に望んだと考えても、多くて5、6枚。それ以上持ち込むとは思えないし、これは我ながら情けないが、それ以上が必要な勝負になるとも思われないだろう。
つまり、数だけ言えばほぼ残りの札は同等だと見ていい筈だった。
「ふぅ……さ、さあ、続きはないんですか、文さん。私は……まだ、撃墜されてませんよ?」
「そうね、そうさせてもらうわ!」
文が飛翔し、団扇を一閃、二閃、リング状になった弾幕が十重二十重と撃ち出される。スペルカードではない、通常の弾幕攻撃。それだけならばと早苗も御幣を打ち振って風を起こし、その風に乗せて大量の弾幕を狙いもつけずにバラ撒いた。
両者の中間やや早苗よりの地点で弾幕が激しく干渉し、衝突し、季節外れの花火が咲く。各々の弾が爆発をくぐり抜けて飛んでくるが、相殺によって著しく密度の落ちた弾幕は文にとっては無論、早苗にも脅威にはなり得ない。
「っわ!?」
だが、相変わらず速度のある文の弾は、相殺の爆光によって効き辛くなった早苗の視界を高速で制圧してくる。狙いが正確でないのが幸いだが、にしたって辛い。
何とか回避しながら、早苗は妙な違和感を感じ始めていた。
(……あれ?)
文の攻撃は激しく容赦が無い、が、それは弾幕決闘でならばという条件付きのものである。先刻の言葉通り、自分に重傷を負わせることで葬儀の主導を守矢から山へ戻したいのであれば、問答無用で不意を突いてボコボコにするなりの手があったはずで、自分にはその隙がいくらでもあった筈だ。
してみると、文は弾幕決闘中の事故、ということにしてしまいたいのだろうか、いや、それならわざわざこんな結界を張る必要性が無い。文の変容とその裏側の事情を、山の妖怪は早苗たち以上に把握しているはずだから、そこでこんな真似をすれば事故と言い張っても説得力があるワケがない。
「!」
轟と超至近距離を一群の弾が駆け抜けて行った。既に防護符が半ば以上機能していないらしく、ちりりと掠った左肩にうっすらと傷が浮かび痛みが走る。体力もだが、その他諸々の余裕も残り少ないらしい。
(考える……考えて、東風谷早苗)
弾幕決闘とは何か。曰く、妖怪や人間同士における揉め事を公平なルールでもって決着させるための儀礼であり、また日常の真剣な遊戯であると。
だがそれ以上に、現在の幻想郷でこのスペルカード制が持つ意味があった。それは…
『ま、弾は口ほどにモノを言い、ってヤツだからな』
いつだったか、宴会の席か何かで誰かが言った科白。弾幕決闘が恒常化したことで、幻想郷の人も妖もそれを一種のコミュニケーションの手段にしているとも聞いた。どんなに不器用な人間でも妖怪でも、弾幕でなら対話出来るという、ちょっと変わった、けれども楽しい関係。
ならば、文がわざわざ早苗と弾幕を交わしているのはそういうことか。あるいは文に自覚はないかもしれないし、仮にそうだとして状況を改善出来るかと言われるとどうも自信は無いが、それはようやく見つけた、奇跡に至る細い一本の糸のようにさえ思えた。
「文さん!」
「!?」
弾の炸裂音に負けないよう声を張り上げながら札を切る。今の自分が弾幕にその意思を全て乗せられるなんて傲慢はたった今捨てた。だから声を張り上げる。弾に乗せ切れない自分の思いを、言葉にも託して。
――奇跡「白昼の客星」――
――岐符「天の八衢」――
瞬間、双方のスペルの発動によってそれまで空間を占めていた弾幕が霧散し、さらなる密度の弾が代わってふたりの視界を埋めるが、スペルの特性から周辺の弾幕は厚く、けれども互いの間には奇妙な空白が生じる。
「文さんだって、送ってあげたいんでしょう!? 月華院さんを送ってあげたいんでしょう! だったら、ここでこんなことをしてる場合じゃないじゃないですか!!」
「黙れ……!」
無論、早苗にも文にも互いの弾幕が降り注がないわけではない。客星のレーザーと天の八衢から生まれる膨大な弾が相互にぶつかる中、特に早苗にレーザーの合間を抜けた大量の弾が飛来するが、直撃を避ける以外の全ての回避をカット。弾が式服を削り肌がこすれて血が滲むのも構わずありったけの息を吸い込んで大声を出す。
「奥方さまだってそれは同じのはずじゃないですか! 同じひとを想って、同じひとを送ってあげようって思ってるのに、ここでこんなことをして、それじゃ、誰も幸せになんてなれません!!」
「黙れぇッ!!!」
早苗の視界で、文はまるで子供のように叫んだ。叫んで、周囲を掠めたレーザーの向こうに、かつてを見た。
それはたとえば、九天の滝で、激流を風で割りながら駆け上がる師を追う自分で
それはたとえば、冬の小屋で、灯りの元で杯を交わして語り合う自分と師の姿で
それはたとえば、天狗の集落で、周囲に囃し立てられる師とその伴侶を遠くから祝福する自分で
それはたとえば、師の家で、ふたりから様々なことを学び、心から慈しまれた未熟な自分で
それはたとえば、彼女がいなくなってから、声をかけてもどこか上の空の、初めて見る師の小さな背中で
それはたとえば、彼女が戻って来てからの、衰えた顔で、それでも楽しげに笑う師と、変わらぬ美しさの彼女と、それを隠れるように見る臆病な自分だった
「黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
「あ、文さ――」
――疾風「風神少女」――
巻き起こった風は、一瞬でその場に在った全ての弾を打ち消した。
続いて分厚くばら撒いた弾幕を何とかかわした早苗に、地面と言わず、周りの木と言わず、あるいは彼女たちをとりまく結界の内幕にさえ反射した無数の天狗烈風弾が殺到。体勢が崩れ満足な回避もできないまま、咄嗟に打ち払おうと早苗の振った御幣が烈風弾と接触するや異音を発して根元から折れた。
【段之二十六 神と人間と妖怪と】
「よーし、こっちはいつでも良いぜ!」
「私も良いわ」
「こっちもいつでもいけるよー」
「神奈子はー?」
「無論だよ!」
「わ、わたしも大丈夫です!」
場に萃まった数は当初の3倍に増えていた。霊夢と魔理沙の登場に遅れること1分でにとりを伴い諏訪子が到着。ふたりずつの神と人間と妖怪は短い会話で状況を一応それぞれなりに把握すると、すぐさま風の結界の解除のため共同歩調をとった。
ただの結界であれば霊夢が触れば済むのだが、それはあくまで「張りっぱなし」の結界に限られ、今回のように多層の結界が反復しあって展張している場合、表層部分をいくら消そうと次がすぐに展開されるため意味がない。
そこで一同が手持ちの札と相談した結果、魔理沙、諏訪子、神奈子とにとりがそれぞれ四方から同時に結界へスペルをぶつけ、干渉によって剥き出しになる結界の根幹たる論理式を直接霊夢が消去、結界を解除するという作戦と相成ったわけである。
問題となるタイミングに関しては、諏訪子が帽子から蛙の式を取り出し各員に配り指示を出すことで解決され、椛は万一この策で結界の解除が不可能な場合、一瞬の空白をついて結界内部に侵入し早苗を援護するという役目が与えられた。
東西南北四方に魔法使いと河童と神と神が配され、その四角錘の頂点に霊夢と椛が位置を取った。ここまでに要した時間は長くはなかったが、最初の文による結界展開からは既に相応の時間が経過しており、遠目に状況を窺う者もちらほら現れ始めている。
「いい? 念のためもう一回確認するよ」
それぞれの肩には寒さに身を震わせるという細かい芸をしつつ居座る蛙の式が居り、諏訪子の声はそれらの口から明瞭に発せられている。ちょっと気味が悪いが。
「まず、わたしとにとりと神奈子で結界の対外防御を担当してる風の壁を出来るかぎり引っぺがす。その次に魔理沙がご自慢のハイメガキャノンで「マスタースパークだぜ」……マスタースパークで残る結界の層をまとめてブチ破って、剥き出しになった結界の論理式を霊夢が解除。椛は結界の解除如何に関わらずその隙に突入して早苗を援護、良いね?」
「了解だよ」
「任されたぜ!」
「応さ!」
「は、はいっ!」
「ま、やってみるわね」
諏訪子の肩にもやはり蛙が居て、そこからそれぞれの応答がかえる。頷き、眼下の渦を見下ろした。
結界というよりは最早地上の台風に等しい風の流れは、その纏う大量の雪によって視覚的にも境内の様子を遮断していて様子は窺い知れない。
「早苗……」
その呟きが自分のものだったか、それとも神奈子かは分からなかったが、それに頷き手に持つ札を掲げる。腹に力を込め、幼い声に不似合いな気迫を烈と乗せて号した。
「それじゃあいくよ! 3、2ぃー、1ッ!!」
――水符「河童の幻想大瀑布」――
――「マウンテン・オブ・フェイス」――
――土着神「ケロちゃん風雨に負けず」――
囂々と渦巻く風の檻を、正気とは思えぬ物量の弾幕が取り囲み、接触し、炸裂した。雨霰大洪水と膨大な札が結界を叩き、強大だった風の流れを塞き止め、圧力を霧散させ、砕き、弱める。
どこからどう見てもルナティックなエネルギーの発現に大気が激震し、近場にいたらしい毛玉や妖精の類を奔流となって押し流す。そして打ち叩かれまくった結界もさしものその勢いを失って緩んだ。
「いいよ、魔理沙!」
「ふっふっふ……風神録の時は色々あってお見せできなかったが、今日ここで山の妖怪諸氏と神々にお見せしよう!」
腕を組み、箒の上で仁王立ちして待機していた魔理沙が肩に蛙を乗せたままシューティングポジションに着いた。諏訪とヤマトの神に妖怪かっぱが織り成す弾幕演舞を等距離に、もっとも効率よく結界をぶっ壊せるポイントを計算する。
着膨れた服の懐に仕込んだカードホルダーから愛用の一枚を居合いの如くすらりと抜き放ち、それを起動キーとして八卦炉に魔力を遠慮呵責ナシに叩きこむ。ぐおんと取り出した緋緋色金の構造物が唸りを上げて出力全開。パワー充填120%。両手でがっちりそいつを掴み、溢れる魔力の輝きをピタリとロックオン。
「さあさあ、遠からん者は音に聞け、近くばよって目にも見よ……行っくぜ! こいつが一撃必殺、必中直撃のォ――」
――恋符――
「マッスタァァァァァァスパァァァァァァァァァクゥゥゥゥゥゥッ!!!!!!!!」
音は不要と言わんばかりの光輝が爆裂。地上に天の星々を落とし込んだかの如き煌びやかな奔流が解放され、傍若無人な破壊となって突き進む。それまでの飽和弾幕で半ば機能不全に陥っていた風の壁は光の流れの行く先を分散させようとして、失敗した。ガラス質の大音響を派手に撒き散らして結界本体が衝撃に震え、バリバリと物理的な防御能力を抉りまくる。
有象無象を蹴散らす光が結界もまた容赦なく叩き壊し、不可視のはずの根幹たる論理式を影絵のように浮かび上がらせた。
「霊夢!」
「もうやってるわよ!」
四者四様の既に弾幕と呼ぶのも憚られる攻撃でがら空きになった結界直上から霊夢が降下、魔理沙のマスタースパークを受けて尚残存する結界の外層を札を立て続けに投げつけて粉砕しながら、そこに触れた。
ぶわと一同が強い風に煽られると同時に流れが止まり、境内の様子が曝される。
「早苗!!」
今度は諏訪子も自分が発した言葉と分かった。無論神奈子も叫んでいる。6対の目が一斉に守矢神社境内の光景を捉え、その様に息をのんだ。
オンバシラは何本も根元から倒れ、石畳は穴だらけ、社殿も社務所も奥の母屋までが何らかの被害を受け、さながら戦場の如き有様である。
早苗の姿は上空からは確認できないが、境内のほぼ真ん中に立ってこちらを見上げる文の姿を全員が目撃した。
「文!」「こらそこのブン屋!」「射命丸!」
「…………」
文は呼びかける声に反応を見せなかった。返事代わりに上空へ向けて団扇を一閃、それによって起こるであろう風に反射的に身構えた全員の目の前で、再び風の壁が境内と外とを隔てる。
「な……しまったっ!」
「ちっ、壊せてなかったのか!?」
「違うわ、たぶん予備の結界でも仕込んであったんでしょうね、もう!」
霊夢の言がこの場合は正しく、新たに出現した風の結界は先のものより規模も強さも劣るが、しかしやはり簡単に壊せるものでもないのは誰の目にも明らかだった。
「! そうだ、犬走は!」
「椛!?」
今の一瞬は白狼天狗には十分な隙であり、内に入り込んでいれば再度結界を破壊するための時間くらいは十分に稼いでくれる、筈だった。
「す……すみません、皆さん」
だが犬走椛は動かなかった。否、動けなかった。
見ればいつの間にそこに現れたのか、彼女の周囲を100を超えるカラスが取り囲んでいる。ただのカラスではなく、おそらくは文の使い魔か。この場の神と人間と妖怪全員を止めるにははるかに及ばないものの、一瞬の隙を潰すには十分すぎた。
「しょうがない、もう一度だよみんな! にとり、霊夢も魔理沙も配置に戻って」
「う、うん!」「しょうがないな、次で決めるぜ!」「まったくもう、面倒ね!」
「神奈子もさっさと位置について……神奈子!?」
「ッ!!」
一旦結界から離れて再度陣を組もうとした他の面々と正反対に、八坂神奈子は渦巻く風に向かって飛び込んだ。無理矢理オンバシラを荒れ狂う流れに突き立て、強引に両腕を突っ込む。
「わ、こ、こら馬鹿神奈子! 何やってんの!?」
「……ざ……る、な……っ!」
「お、おい……?」
「ふ、ざけ、るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
流れに踏み込んだ神奈子の周囲で風が激しくぐおおと舞った。それが結界のものだけでなく神奈子の起こした風であると、諏訪子を含めて全員が気付く。
「私は、私は八坂刀売神ッ!! 荒ぶる風と山の神、八坂の権化、八坂の神奈子!! こんな、こんな鴉天狗の風ごときで……」
ぐぐぐと、己を排除せんとする風の中で足を踏ん張り、腕を掲げて高々と吠える。そしてがっしと眼前の風の壁を両手で掴み……
「邪魔など……されてッ、たま、る、かぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
引き千切った。すぐさま復元し叩き付けてくる風を意に介さず、強引に次の層へ手をかけ、ぶっ壊しにかかる。
「あ……さ、作戦変更! にとりも魔理沙も霊夢も、何だっていい……何だっていいからありったけ撃って! 神奈子の援護を!!」
「お、おお! 任せろ!」
「世話の焼ける神様ね、っと!」
「う、うん、いくよ!」
巫女と魔法使いと河童に続いて自らも次の札を切る。もうなりふり構っていられない。
――祟符「ミシャグジさま」――
――恋風「スターライトタイフーン」――
――宝具「陰陽鬼神玉」――
――河童「お化けキューカンバー」――
「早苗ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
【段之二十七 風神弾幕・終劇】
「――――――――――! あっつっ!」
どの位の時間か、意識が飛んでいたらしい。慌てて起こした全身に痛みが走るが、どうやら叩きつけられた時に背中や腰を打った痛みのようで、どういうことがあったのか、あの状況でも弾の直撃だけは避けたようだった。
「社殿の、中……? あっ、たたた……」
立ち上がるのに支障は無かった。どこか骨が折れているということもなく、かすり傷はあちこちに多いがとりあえず五体満足だ。上を見ると屋根に穴が開いていて、その向こうを結界の風が流れている。
(あの高さから落ちたんだ……)
それでこれだけの怪我で済んだのなら、上等を通り越して出来すぎだった。右手を見ると、御幣は手の中の部分を残して折れてなくなっていた。木を削りだして術で強化した、硬度だけなら鋼鉄並みのそれのおかげで、天狗烈風弾の直撃を避けられたのだろう。
じゃりっ……
「!」
足音が入り口から聞こえた。先刻からの弾幕戦で半分崩れた壁の向こう、木っ端と化した賽銭箱を挟んで、文。
「……文さん」
「随分運が良いわね、まるであの巫女みたい」
押し殺した声。けれどその下では、上を取り巻く結界より凄まじい暴風が吹きまくっていると、今の早苗には何となく分かる。
「それにもう邪魔が入ったわ、残念だけど終わりにしないとね」
「邪魔……?」
「ほんと、そんな都合の良さまで巫女そっくり、これだから人間ってのは嫌」
カッカッカッと、正面の階段を上って来る。強い光を帯びながら、どこか悲しげな目が早苗の視線とぶつかった。
「さ、おとなしく諦めて怪我して頂戴。それで終わるわ」
「……嫌です」
「どうして? 貴女こそ私たちのことには何の関わりもない、ただ葬儀を依頼された神社の巫女だってだけ。東風谷早苗、でしゃばりなのは貴女の方よ」
「嫌です」
文の目が細まる。かすかに歯を噛む音が風の音の隙間から聞こえた。
右手のマフラーをほどいて御幣の残りを床に落とす。それからもう一度右手にマフラーを巻きなおし、首もとの紅白マフラーもほどいて、こちらは左手に巻く。
「……何のつもり」
「私は、風祝です。ハフリ、はふるもの、葬る者です。神と人妖との仲介となって、死者の魂をあの世へ受け渡す。それがハフリの役目です」
「だから何、退屈な講釈なら要らないわよ」
きゅっと、巻き終わる。強く強く、気持ちが折れないように、強く。
「それを、頼まれましたから」
「…………」
「笑って、頼まれたんです。笑って逝ったひとを、笑って送って欲しいって頼まれたんです」
ほんの一刻ほど前の出来事を思い出す。長い別離の後で得た、満ち足りたわずかの時間、その果てに迎えた死。これで良かったのだと、笑って言われた。
あんなに楽しそうに笑って死んだいのちが、悲しんで送られることも、送る生者たちがいがみ合う事も喜ぶはずが無い。
「だから、文さんを止めます。止めて、意地っ張りな文さんが笑ってあのひとを送ってあげられるようにします」
「……そんなことは、ありえないわ。それこそ実現不可能の選択肢よ」
「いいえ、出来ます。この世界には絶対確実はないけれど、同じように絶対不可能もありません。絶対不可能に限りなく近いものはあるかもしれませんけど、それだってありえないものではないんですよ」
右手に蒼い自分のマフラー、左手に紅い霊夢のマフラー。やったこともないのに、ボクシングのように構えた。
「文さん、私は言いましたよね『奇跡を起こす』って。文さんと奥方さまが一緒に笑って月華院さんを送る事が奇跡に値するなら、私は……その奇跡を、起こします!」
「無理よ!」
「無理なんかじゃない! だって、ふたりとも同じひとを想ってる! 同じひとを想って、同じひとを送るんだったら、一緒にそれが出来ないはずありません!」
疲労困憊満身創痍の上、体力も気力も底を突いてその下のなけなしを掘り返し始めている。いつ足が崩れ落ちるか、いつ意識が途切れるか保証の限りではないけれど、それでも、今倒れたくなんてなかった。
伝えたい事がまだたくさんある。感じたことを、思いを、考えた全てを言葉になんて出来やしない。全てを弾幕で語れるわけでもない。だけどどちらも語らなければ、撃たなければ始まらないから、全力でぶつかるしかないのだ。
不意にガシャンと、窓ガラスが割れるような音があたりに響き渡る。早苗にとっては一度目の、それ以外の当事者たちにとっては二度目の結界の破壊音。
「早苗ぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
その音を圧して響く神奈子の声。姿は見えないが、すぐにでもここへ飛び込んでくるだろう。
文が動く、早苗も動く。互いの手には最後の札。
「「あああああああああああ!」」
――塞符「山神渡御」――
至近、高密度。さらにここは社殿の中、つまり屋内。回避のための空間的余裕など無いに等しいし、既に早苗の体も限界近い疲労でそんな余力なんてありもしない。
ならば避けなければいい。避けずに弾が当たらないようにすればいい。
(お願い……!)
――開空「風が割れる日」――
果たして、札と共に思いっきり突き出した早苗の両手を起点に、巻き起こった文の弾幕と風は真っ二つに割れた。後ろへ逸れた弾列が社殿の壁も屋根も吹っ飛ばす。
「な……!」
「これで……終わり、ですっ!!」
痛み震える足に鞭打って、両手を前にしたまま文に向かって飛び込む。東風谷早苗、吶喊。
「うわあああああああああ!!」
「あああああああああああ!!」
どんっ、という音と衝撃を胸に感じた時、文は自分の体が意思に反して後ろに吹き飛んだことを理解し、そしてその浮遊感のまま、張り詰めていた意識を手放した。
【段之二十八 リザルト】
気がつくと、頭の下に柔らかい感触があって、見上げる空はいつの間にか晴れ渡っていた。憎たらしい位の冬晴れに泣きたくなる。
「……気がついた?」
視界の6割を占領するふたつの豊かな出っ張りの向こうからかけられた声を、誰と問うほど文も馬鹿じゃない。
「……はい」
辛うじて搾り出した声は半ば震えていた。
「もっと早い内に、ちゃんとお話できてたらよかったわね。……結局、あのハフリさんがこんなに頑張ってくれたなかったら、私もあなたと、文ちゃんとこうしてお話しようって思わなかったかもしれない」
「……お互い様、ですね」
「そうね……」
「お、何だ目が覚めたのか、自称最速の天狗」
「む……自称は余計で、あつっ!?」
起き上がろうとして、胸元に走った痛みで再び柔らかな枕に落ち込んでしまう。そんな文を見て魔法使いはわははと笑いやがった。くそう、この白黒いつか泣かす。主にあること無いこと書いて。
「勝負あり、被弾数は東風谷早苗0、射命丸文1、判定負けだぜブン屋」
「むぐぐぐ……」
「あら、そうなの? てっきり引き分けだと思っていたけれど」
「早苗はあちこち擦り剥いたり怪我したりしてるが、どれもカスリによる軽傷と回避中の打ち身その他で直接被弾はナシ、という紅白巫女の判定だ。対してそこのブン屋は胴体にでかいの一発モロにもらってるからな、勝敗は一目瞭然ってヤツだぜ」
「ふん……」
「どうした? らしくないな、油断でもしたのか?」
「……そんなわけ無いじゃない」
むくれて魔理沙から視線を外すと、文が気付いたのを目に見えて喜びながら椛とにとりが走ってくるのが見えた。そのさらに向こうでは神奈子と諏訪子にもみくちゃにされ、看病されているのかどうなのか良く分からない勝者の風祝と、その脇で我関せずここぞとばかりに高そうな茶を飲む紅白巫女の姿がある。
「……ちょっとした」
「ん?」
観念して目を閉じ、腕で降り注ぐ陽射しを遮る。そう、きっと眩しかったのが目に沁みたんだろう。
「ちょっとした……奇跡ってやつよ、きっと」
【段之二十九 送りの夜・壱】
夜の守矢神社は、葬儀とは思えぬほど賑やかな時間が流れていた。
鬼籍に入る月華院峰縁をしのんで、というより、彼と酌み交わす最後の酒と言わんばかりに数えきれない量の樽やら瓶やらがアルコール分を満載して持ち込まれ、いつもよりもさらに騒々しい宴会と成り果てている。
早苗が祝詞をあげ、即席編成の葬儀のための舞を厳かに舞っている間からそれだったため、さしもの酒類耐性のある山の妖怪も結構な数が撃沈されて累々とそこかしこに屍を並べていた。
「いやー、やっぱりこうじゃなくっちゃねー! ほら、天魔も大天狗も呑め呑めぇい!」
酒の臭いをどこかから嗅ぎ付けたのか、萃香が座に現れたあたりで最早ただの呑み会となったのは誰の目にも明らかだったが、それを歓迎こそすれ邪険に扱う者が居なかったのは、或いは故月華院の人(?)徳の為せるわざだったのかもしれない。
「お葬式ってのは、もっとしめやかにやるものなんじゃないの?」
「いいんじゃないか、別に誰も気にしてないみたいだぜ。勿論わたしも気にしてないが」
「ま、そうね」
これは、いつもの格好で何食わぬ顔をして混ざっている霊夢と魔理沙。先日の文と早苗の一件に居合わせたということで、喪主である月華院夫人のほうから参列を請われたらしかった。
「やれやれ、これじゃいつもの宴会と一緒だね、騒がしいったらないよ」
「あら、お嫌いですか?」
「いーや全然」
諏訪子は早々に潰れてしまった早苗に膝枕をしながら、隣の月華院夫人から酌を受けていた。お互い本来は真っ白な頬をうっすらと染め、人間には不可能なペースで杯を乾していく。
「……それにしても、随分とまあ古いことを持ち出したもんだね」
「あら、何のことでしょう?」
「ハフリ、葬りなんて繋がり、とっくの昔に誰も彼もが忘れちゃってると思ってたよ」
寝息を立てている早苗の式服の袖を摘んでひらひらともてあそぶ諏訪子。
「ほーらひらひら、ひらひら羽振る、ハネ、フル、は・ふ・るってね」
「あら、あら」
「一番最初はそういう意味だったんだよね。羽を持つものは空に近いから、死者の魂を天に送り届けてくれると信じられていた。っとっと、いけないいけない」
早苗が少し寒そうに身じろぎしたのでひらひらを止め、傍らに置いた帽子の中から毛布を取り出して、かけてやる。
「……転じて羽振る者、つまりハフリ。そのコトバが先にあって、あとから大陸の字が入ってきたから、やれ葬るだのやれ祝だのって面倒な言い換えになっちゃったけど、最初は至極単純だった」
「さすが神代からのお方ですわね」
「伊達じゃないよ、勿論、あそこでバカ笑いしてるオンバシラもね」
「ええ、よく存じてますわ」
二人揃って、天魔、大天狗と萃香に並んで巨大な杯を傾け大笑いする神奈子に視線を向けた。もうほとんど目立たないものの、まだ手に包帯が巻いてあったり頬に絆創膏が張ってあったりするのは、当人曰く『名誉の負傷』だそうである。
「だって私は……いえ、わたしたちは、実際にそれをしていたんですから」
「おや……おやおや?」
これはさすがに意外だったという風に諏訪子が月華院夫人に向けた視線をきょろりと動かした。
「あー、そっか。西の方だと、カラスってのは黒の前は純白とか白銀とか、そんな感じだったねぇ。……あれ、でもあんたは羽がないみたいだけど?」
「鴉が皆黒くなってしまってからは、捨てましたわ。魂の仲介者は人が、空を駆けるのは黒くなった者たちがやってくれますもの」
捨てたものはおそらく、他の誰もが想像も出来ないほどに重かっただろうに、嬉しそうに微笑み残雪のように灯りを照り返す銀髪を揺らす。
「今は、月を愛でる心と地を歩いていく足があれば、十分ですから」
「ふーん、欲の無いこと」
「いいえ、心底欲がないのであれば、わざわざ300年も放っておいた連れの元に戻って、その最後を看取るなんてしませんわ」
「あはは、違いない」
お互い、ろくに覚えてもいないはるか昔に邂逅していたのかも知れない。けれど、今の互いにとってそんなことは割とどうでもよかった。
「あ、そうだ、ちょっと聞きたかったんだよね」
「? はい?」
「あんたがウチに依頼を持ち込んだ日、射命丸にえらいキツイ釘を刺してたよね。あの時、あっちは純粋に師弟愛と裏返しの怒りとか憎しみだったんだけど、あんたの方はなんとなく嫉妬ぽい気がしたんだよね……違うかな?」
「…………」
くいと杯を傾け、次を注ごうとして、手の届く範囲の容れ物は全て空であることを悟ったのか、観念したように笑って目を細める。
「ええ、勿論。自分の居ない300年、どれだけ二人がよろしくやってるか、って考えなかったわけじゃありませんもの。ところが戻って見たらアレは腑抜けてるし、文ちゃんは文ちゃんで相変わらず純情少女でしたでしょう? まったくもって、我が夫と弟子ながら不甲斐ないったらありませんでしたわ」
「おっと手厳しい……って、ん? 聞いた話だと、あのブン屋は月華院の弟子であっても、あんたの弟子じゃなかったんじゃないの?」
「ああ、それはですね……確かに天狗にとって必要な天狗らしい事柄に関してはあのひとが教えましたけれど」
手近なところに居た天狗に数本満タンの瓶を持って来てもらい、諏訪子と自分の杯に注ぐ。が、注ぎ終わるのを待ち切れずに諏訪子の方から身を乗り出すようにして聞く。
「けれど、何?」
「女としては、私があの娘の師匠ですから」
「ははあ、なるほどぉ……」
こりゃ射命丸もまだまだ修行が足りてそうにないね、と諏訪子はキツ目のそれをくいと飲み乾しながら、早苗の髪を愛おしそうに梳いた。
【段之三十 送りの夜・弐】
「……あんなこと言われてるよ、あやや?」
「…………」
その神と妖怪と人間からいくらも離れて居ない場所で、河童と今回の騒動の元凶が膝を突き合わせて呑んでいる。もっとも、周囲もさすがに気を使ってか必要以上にちょっかいを出してくる事は無かったから、宴席全体から見てかなり静かな酒となってはいた。この時点までは。
「…………」
「あ、あやや? おーい?」
「…………っく」
「うげ、あやや、ここで泣くのは……って、あやや、おーい、どこ行くのって……」
「萃香さん! 今夜はとことんまで付き合ってもらいますよ!!」
「おー、どうした文、いつになく積極的じゃんか、まま、呑め呑め」
「そんな小さいので私を酔い潰そうなんていい度胸です、一番大きいの持って来なさい!」
「よし来た! こうなったら三日三晩と言わず、どこまでも付き合ってやろうじゃないか!」
どよどよおーうおーすげー文がフルスロットルだぜーと喝采ともどよめきともつかぬ騒ぎの中に自ら踊り込んで酒精をかっ食らう文。良くも悪くもギア全開のその様子を見て、にとりはようやく、心から手元の酒を乾した。
「ま、すぐには無理かもしんないけどさ、少し経てば、いつものあややに戻ってくれるよ、きっと」
ぽんぽんと、早苗とほぼ同じ頃から目を回したままの椛の頭を叩く。「文さまぁ」などと寝言をのたまう犬耳娘にふにゃりと頬を緩め、甘めの諸味をたっぷり盛った胡瓜をかじった。
酒宴は冗談抜きで三日続き、山の社は多いに賑わったというが、その所為で結局、月華院の遺体を荼毘に付すのが遅れに遅れたのは、良かったのか悪かったのか。はて。
【段之三十一 蛇足・壱、死者の渡る川べり】
「あーらよっと、っとっと。うー、今日も寒いねぇ、こんな日は仕事なんかしてる場合じゃないかなー。川の上は寒いし、上司のお小言は背筋が寒いと来たもんだぁ……お?」
「…………」
「おやお客さん、ふーん? 珍しい気質の魂だねぇ、最近とんと見なく……あーいや、昔も今も稀少だね、あんたみたいなのは」
「…………」
「ん、何なに? 周りの連中が何やらゴタゴタしてて、結局死んでから送られるまで随分かかったって? あっはっは、お客さん、そりゃ仕方ないさ。あんたみたいなイイ気質の持ち主が死んだんじゃ、生きてる方もおいそれと送れやしないよ」
「…………」
「え? あいつらは結局酒を呑む口実が欲しいだけだろうって? ヒトの葬式で三日三晩呑み明かしやがったって? あっはっはっは! そりゃ良いじゃないか、それだけあんたが慕われてたってことだよ」
「…………」
「あ、はいよ、渡し賃だね。ひぃふぅ……おーぅおー、お客さん、あんた一体何モンだったのさ? こりゃあなかなかもらえる額じゃないよ。さては聖人君子か、伝統ある宗教の中興の祖とでも言うべきヒトだったんじゃないかい?」
「…………」
「ふんふん、自分は好き勝手にやりたい放題やって生きただけで、勝手に周りがやれ傑物だのやれ英雄だのって祭り上げやがったんだって? あー……なるほど」
「…………」
「ん? いやいや、あんたがこれだけ渡し賃を持って来れた理由が何となく分かるような気がしてね、さ、乗った乗った。これなら漕ぐまでもなく彼岸にゃあっという間だろうさ」
「…………」
「何、随分長く生きたから、川を渡るのがあっという間でも、閻魔様の説教は長いだろうなって? そりゃあ誰だって同じさ。どんなエライ奴もそうじゃない奴も、長生きしてようが短命だろうが、閻魔様の説教はよろしく等しく下されるモンだよ。あたいはよろしく等しく毎日のようにもらってるけどね」
「…………」
「ほうほう、本音を言えば、女房に300年も逃げられてたから、それに比べりゃ説教の長い短いは大したことないって? 豪気だねぇお客さん。それに女泣かせと来たか!」
「…………」
「え? あいつは泣くタマじゃない? 泣くとしたら半人前のままほったらかしちまった弟子の方だって? いやいや、あんたみたいなのが育てたんだろう? 今は半人前でも、いずれちゃんと自分で一人前になるさ」
「…………」
「ああ、もう見えて来たね、これもお客さんの善行の賜物……え、善行なんて積んでない? いやいやいやいや、意識せずに善行になってることほど凄いことはないさ、まぁ、生きてる間はそんなこと考えもしないだろうけどね」
「…………」
「ん? 閻魔様に頼んだら、次の転生先を選べるかって? あー、そりゃあたいもよく分かんないなぁ、ダメモトで言ってみたらどうだろうね。あんたみたいな魂のお願いなら、あの裁判長も聞いてくれるかも知れないよ。……で、そうまでしてなりたい転生先ってのは何なんだい?」
「…………」
「ふむふむ、今回は天狗として長々と生きちまったから、次は人間になりたい? お客さんも酔狂だねー、わざわざ寿命の短い方へ転生したいのかい?」
「…………」
「え、寿命の短いほうが同じ時間でも何度も新しい一生が送れるから楽しそうだって? あっはっはっはっは!! お客さん、あんた、ホントに大物だよ、うん、間違いない、掛け値無しのちょー大物だよ!」
「…………」
「おっと到着だね、えらく短かったけど楽しかったよ、お客さんの話。さ……行っといで、お裁きはあちらさ」
「…………」
「どうしたい? 何か未練でも……え、伝言を頼みたい? うーん……そいつはちょっとなぁ、ん? 別にただ聞いててくれればいいし、誰に言ってもいい? なんだいそりゃ」
「…………」
「あたいが言おうと思った相手に言えば良いって? そいつは伝言っていうのかなぁ……ん、ああ、わかったよ。それで伝言ってのは?」
「…………」
「うん、うん、オッケー。何か変な伝言だねぇ……ま、そういうのはあのブン屋あたりが適当かな。ん、なに笑ってるんだい? え、何でもない? んー……まぁ、いいけどさ」
「…………」
「ああ、そうだね、お別れだ。行っといで。上手いことウチの裁判長を口説き落として人間になれるといいな」
「…………」
「あ、そうだお客さん!」
「…………」
「きっと、あんたみたいな一生を過ごしたら、そりゃあ『幸せ』って言ってもいいんだろうよ! 胸張ってさ、大声でばーんって!」
「…………」
「それじゃーなー!」
「…………」
「……さってと、今日もよく働いたなーっと。ふぅ、やれやれ、それでは早速労働のあとの一休みを……ありゃ、何だこの黒いもやもやしたの。んーと、何か見覚えが……ってしま」
「有罪ィッ!!」
「きゃん!?」
【段之終 蛇足・弐、冬のある日の麓の社】
「文さんは結局、二週間の自宅謹慎とその間の文々。新聞の休刊処分、ということで手打ちになったみたいです」
「ふーん、それでここ数日静かなのね。それはいいけど、焚き付けにちょっと困るのよねぇ」
「文さん聞いたらマジ泣きしますよ、それ」
早苗にとって半分地獄のような三日三晩の宴会からさらに数日が過ぎ、ここは少し寒気の緩み始めたある日の博麗神社。
「で、あんたの怪我はもう良いの? 出歩いちゃって」
「はい、元々骨が折れたりとかはなってませんでしたから、ちょっと生傷が多すぎたんですけど、永琳先生の薬のおかげで傷跡もすっかり消えました」
「ふーん、ま、その位ならあの宇宙薬剤師も使い勝手は悪くないのよね」
「え、は……あの、それってどういう?」
「あーいいのいいの、知らない方が多分幸せだから」
今日も今日とて、朝も早よから早苗はここを訪れていた。
「で、今日は何の用」
「あ……えっと、それなんですけど、こ……これなんです!」
「? マフラー? ああ、こないだあげた奴ね……うわ、どしたの、また凄いボロボロになって」
「あの、実はこの間の文さんとの一件の時にその……ご、ごめんなさいっ!」
「え、いやちょっと、何で謝るの」
「だってその、お借りした物だったのにそんなにしちゃって……ごめんなさい!」
何度も頭を下げる早苗を前に、何故だか霊夢の方がばつが悪そうである。やれやれといった感じで立ち上がると、先日と同じように箪笥を開け、さほど探すこともなく厚めに畳まれた布地を持って炬燵に戻る。
「はい」
「え……え? あの、だってこれ、え?」
「言わなかった? 誰かさんが大量に毛糸とか持って来たから作ったって。ひとつしか無いなんて言ってないわよ。だいたいこれもあげたつもりだったんだし」
「え……えっと」
「箪笥見てみる? 他に習わなかったから結局全部マフラーにしたんだけど……なんていうか、数が出来すぎちゃって正直処分先に困ってるのよ。今度は別のも習っとかないと、毛糸の使い道にも苦労するわねー」
「は……はあ。でも、これって凄く手間がかかってるんじゃ……」
「全然。慣れたら一日に2、3本くらい余裕で編めるようになったわ」
「凄い……」
さすがは努力しない天才。手慰みでなんという生産力か。
「それじゃ、えっと、頂戴しますね」
「はいはい」
「…………」
「? どうしたの、何か暗いわよ?」
「いえ、あの……お詫びと思ってこれを持って来たんですけど」
「お賽銭?」
「違います」
「お茶? 食べられる?」
「……違います。その、これ……」
「……マフラー? あー、蒼いわね」
「蒼いです。その、ボロボロにしちゃった代わりにと思って編んだんですけど、要らなかったですよね」
そそくさと一度は炬燵の上に出したマフラーを仕舞おうとする早苗。が、それより早く霊夢の手が蒼いマフラーをひょいと取り上げる。
「あ……」
「それじゃ、賽銭代わりに徴収しとくわ。あんたから小銭巻き上げるわけにもいかないしね」
「あの、その……」
「何、文句でもあるの?」
「その……マフラー、使ってもらえますか?」
「……あー」
「あ、あの別にいいんです、霊夢さんがあんまり防寒具を使わないって知ってますから、その……」
「そうね……」
「あ……う……」
「今年の冬はいつもより冷えるから、マフラーくらい使うかも知れないわね」
「え……え、あの!」
「いつまでも『そこの紅白』で片付けられるのも難だし、たまには別の色もあった方が何かと都合が良いわ。使わせてもらうわよ、たまに」
「あ……はいっ!」
「……何でそんなに嬉しそうなの?」
急に上機嫌になる早苗を心底不思議そうに見る霊夢。と、庭の方で轟音だか爆音だかが響き、ざっくざっくと凍った地面を踏み鳴らす音が近付いてきて、聞き慣れた声と共にがらりと障子が開いた。
「おーす、霊夢居ないかー? 居ないなら上がるぞー」
「どういう理屈よ」
「あ、魔理沙さん」
「おー、居るじゃないか。って、何だ何だ、蒼巫女の早苗も居たのか」
「確かに巫女みたいですけど正しくは巫女じゃありません、いい加減に覚えて下さいよ」
「……何だったっけ?」
「……2P腋巫女?」
「違います! いいですか、何度でも言いますから、ちゃんと覚えて下さい!」
早苗は立ち上がり、胸を張った。ついこの間までは与えられただけだった名前に、自分で掴んだ意味を乗せて
「私は、風祝ですっ!」
【おわり】
感情に整理が付けられなくて、一番安易な方法を選ぶあたり、まだまだ未熟なんだろうなぁ。
タイトル…葬り火とか勝手に想像してたけど意味無かったのかw
マジなあややも中々無いですからねぇ。
早苗好きの自分は、めちゃくちゃどきどきしながら読ませていただきました。
日々成長する早苗が微笑ましい。
つまり、すばらしい作品でした。
楽しかったです
次の作品を楽しみにしてます
まあ、そこら辺は置いといて…
良い作品だぜ!
とにかくお腹一杯な作品でした。力作、お疲れ様です。
はふりび⇒葬り日⇒風祝による葬式の日
等と解釈し、なるほど……等と勝手に納得していましたがびの意味は特になしとは……w
『境郷』シリーズも読ませて頂きました。
中将さんの作品、大好きです。
でもちょっと文ちゃんも奥さんも可哀想な気がする。
やっぱり人にせよ妖怪にせよ近しい者の死は悲しいもんですな
あの紅魔館の瀟洒な従者って初代は奥方なのかな?w
マジなあややも可愛かったし、友達思いのにとりも良かったし、月華院も粋だったし言いたいことは尽きないです。
作者はどれだけ僕を魅了するんだ~いw
ありがとうございました。
細かな地の文に対するツッコミに笑いました。
コメントの本数が結構あるので、個別ではなくざっくりと。
>タイトル
やっぱり突っ込まれましたね(^^;
『ハフリ』だけではタイトルとして物足りないなぁと思って付けた『び』ですが、実は語呂の良さで決めたので意味は無いんです。それに本編で『ハフリ』の由来とかなんとかに触れた以上、漢字のタイトルなんて付けられませんから、あくまで音として皆さんそれぞれにイメージしていただければいいかなと。
>あやや
里に近い=人間に近い=人間臭い。という連想と、あややは純情少女だと某の腐った脳が主張した結果、ああいうあややになりました。でもまあ、きっと妖怪も人間も、寿命と身体能力以外にあんまり大した差なんて無いんじゃないの、と某のは思ってますので。
>月華院夫人
初代かどうかまでは考えてませんが、一応『境郷2』では咲夜さんの先代のメイド長、ということになっているようです。
えーりん先生っぽいのはまあ、オリキャラが誰しも通る道ではなかろうかと(^^;
>霊早
あの人のアレで某のは感染したんです。多分。主にマフラーとか除雪とか。
とまあ、とりあえずこんなところで。
投稿して1日程度経った段階で点数が先発の『境郷2』を追い越してしまって、作者としては制作期間20ヶ月と2週間のギャップに人知れず悩んだりしたわけですが、まぁ、楽しんで読んでいただけたようで何よりです。
では、またいずれ。
容量が大きい?長い間堪能できるからいいんだよ。
そんなわけで、あなたの作風私は大好き。
作者さんが色々と調べそれを分かりやすい
文書に仕上げた手間が十分に伝わりました。
作者の努力に感服です。
しかし月華院が小町になんて言ったのか気になります・・・
ZUNが作ったCプログラムの世界と言う事ですか?
>■2008-03-13 01:46:46さま
いやはや、そんな風に言って頂けてありがたいことです。
こんな作風というか、こういう風にしかむしろ作れなかったりするんですが、お楽しみいただけましたようで、良い事です。
>時空や空間を翔る程度の能力さま
いやまあ実は調べたと言ってもきっかけは偶然で、裏をちょっと取ったくらいだったりするんですけどもね(^^;
個人的には、最後に諏訪子さまがああでも言ってくれないと組み込めなかったところに技術不足を痛感してます。精進精進。
>■2008-03-15 04:11:50さま
堪能していただけましたなら、幸いです。またいつかお目にかかりますときにもそうでありたいです。
>■2008-03-22 22:48:26さま
いちおうそこもフォローした結界だよと描写したつもりだったんですが、伝わらなかったとしたらこちらの力量不足でした。
霊夢が触るとどんな結界でもイチコロとは言いますが、それが果たして結界の理論式部分だけなのか、結界を構成する一端にでも触れれば良いのかって明確な表現が原作にはないもので、本SSでは結界の根幹部分に触れないと意味がないという方向でいきました。ご容赦を。
>■2008-03-25 20:09:00さま
あややも純情少女だ、というのがこのところの某のの主張ですので(^^;
こまっちゃんと月華院の会話はご想像にお任せします。
>■2008-03-25 21:09:37さま
神主システムのメッセージというか、ああいう表現を入れるとだらだら描写するよりも文章が引き締まるかもと思ってやってます。
そも、紫→藍の式の話にしてもちょっとそれっぽいことを言ってますから、一見ファンタジックな幻想郷でもそういうのってありなんじゃないかなと。
ほか、匿名評価を入れてくださった方、また読んでいただいた全ての方に、お楽しみいただけましたなら幸いです。ありがとうございました。
また、いずれ。
あと、周りの方々はもっと早苗さんを褒めてあげてください
某キ◯グ・◯ブ・ハ◯トにしか見えなかった俺は異端ですかそうですか。
確かにえーりんに似てたなww