この覚書に目を通しているあなたへ。
この覚書の表紙を飾っている絵は、私が描いたものである。
あなたはこの絵に、どんな印象を持たれただろうか。
艶やかなドレスに、黒い芋虫様の物体が袖を通している、不吉で不条理な絵だと思われただろうか。
だがこの絵は、決して抽象画などではなく、私の眼前にあるものを、ありのままに描いたものである。
これは、ドレスを纏った人形なのだ。
以下の論考は、この奇怪な人形に端を発する、この地における厄払いの風習―――流し雛の、特殊性に関する思索をまとめたものである。
流し雛という風習は、一般的には雛人形を人に見立て、これに厄を肩代わりさせ、川に流す風習である。
その際使われる人形は、主に紙や布で作られたものであることが多い(図1-a,b,c )。
また、半紙をヒトガタ―――漢字の“大”の字を想像されるとよい―――に切り抜いたものが使われることもある(図1-d )。
そもそも厄というものは、人間の負の感情が生み出す負のエネルギーだ、というのが通説である。
負の感情に無縁で生涯を終えることのできる人間など、それこそ嬰児ぐらいしか考えられない。
人間は長じるにしたがって、大なり小なり厄という名の負のエネルギーを、その身に溜めることとなる。
溜まった厄は、やがて周囲に災厄を振りまく。
したがって本来ならば、人間は生来、自らが育てた災厄により滅びる定めを持つ生き物と言える。
これを防いでいるのが、厄払いという風習であり、類似の風習は様々な土地や民族で見受けることができる。
これは、厄という人間にとって不可避で抗えない不幸の因子を、人間の範疇外の存在に託すことにより、処理するシステムである。
それは超越的な神に託されることもあれば、無力で矮小な存在に託されることもある。
中でも流し雛は、両方の性格を持った風習と言えよう。
流し雛は、物言わぬ人形に人間の厄をなすりつける。
これだけを見れば、ひどく一方的な風習のように思われるが、そもそもこの風習の主眼はそれを川に流すことにある。
水に流す、という言葉があるように、古来より流水には穢れを払う力があると言われていた。
修行を積んだ宗教者ならば、己が身を滝に打たせて穢れを払うが、それも叶わぬ市井の民は、人形を己に見立てて流水にその身を晒したのだ。
つまり、身代わりの人形を川に流すことにより、厄そのものから距離を取る。
それと同時に、流水が持つ超自然的な力が、いつの日か人形の厄を清め払うことを願う。
厄を弱者に押し付けて終わりとしない、矛盾を溜め込まないこの風習は、自然豊かなこの国において、広く行われてきた風習である。
もっとも、川のない地方においては、このような風習は発生しないことはことさら論ずるまでもない。
以上の論を踏まえて、この地における流し雛という風習の、特殊性を語りたい。
この地は山がちではあるが、湖に注ぎ込む清流を持ち、里の人間は人形神を厄払いの神として信仰している。
だが、流し雛という儀式は、風習として根付くことはなかった。
それはひとえに、この地を流れる川の付近一帯は、人間にとって物理的に生命を脅かされる、危険な地帯だからだ。
この地を流れる川は、強力な妖怪が跋扈する山を水源に持ち、山中を流れた後、ほどなくして湖に注ぎ込む。
この湖もまた、深い霧に覆われ妖怪や妖精が集まりやすい、危険な湖なのである(次項地図A参照)。
普通その困難性が高まれば高まるほど、儀式の宗教的価値は強まるが、民間に風習として定着する可能性は弱まる。
この地における流し雛もその例に漏れない。
よほど強い必要性に迫られた人間か、あるいは強力な力を持った人間が行う以外、実際に人形が流されることはない。
この地が真に特殊なのは、その上で人形神が厄払いの神として信仰されていることだ。
それも、自ら厄を集めて人間を災厄から救う、献身的な神として、である。
自ら厄を背負う(しかし、自分では厄を払えない)人形神というからには、その起源は身代わり人形―――流し雛にあることは想像に難くない。
だが流し雛はあくまで人間の代わりであることから、その存在が神と同列に並べられることは、通常は考えられない。
ならば、人間が神と同列に、すなわち神として祀り上げられる場合を考えてみると良い。
この国においては、英雄、聖女、あるいは有徳者が、悲劇的にその生涯を閉じた場合、後世にて神として崇められることが多いことに気付く。
では、件の人形神も、その例にならうものなのだろうか。
英雄的で、悲劇的な最後を迎えた流し雛が、かつてあったのだろうか。
結論からいうと、あった。
そして、今もある。
妖怪の山の中腹に、周囲を鬱蒼と茂る木々に覆われた沼がある(次項地図B参照)。
昼の最中でも薄暗い山中にあっては、その表面は黒々と沈み込み、落ち葉が作る波紋のほかは、動くもののないように見える沼である。
だがこの沼は、妖怪の山を流れる川と地下水系で繋がっており、凪いだ水面の下では猛烈な水流が渦巻いている、とされている。
そのため、一度沈めば二度と浮かび上がることの出来ない沼として、恐れられている。
ここに、一体の人形が沈められていたのだ。
それが、表紙絵の人形である。
次項図2は、私が入手した時点での、この人形を精密にスケッチしたものだ。
一見すれば、土くれか木切れの破片のようなものにしか見えないが、人為的に頭部と四肢を象ったフォルムが僅かにそのなごりを留めており(図中a~e点)、
また毛髪を象ったと思われる繊維質が植えつけられていた痕跡がある(図中f点)ことから、かつてこれが一体の人形であったことが推測される。
磨耗し千切れ飛んだ四肢、おそらくは腐り溶けてなくなった衣服、黒ずみ苔むした全身。
これらの有様から、いかに長い間この人形が、光の差さない沼底で、水流に揉まれ転がり続けたか、想像するだに余りある。
そう、この人形は、恒久的に流れ続ける一体の流し雛として、沼底をくるくると循環し続けていたのだ。
それはすなわち、この地の川には(地下水系を通じて)流れ続ける流し雛が、常に一体あった、ということだ。
この流し雛は、その身に背負わされた厄を流水によって払い終えた後も、流れ続けていたのであろう。
その結果、厄の真空地帯となったこの人形は、流し雛としての使命を果たすべく、新たな厄を自ら集め、背負っては払うを繰り返していたのだ。
したがって、この地の人間は、わざわざ川に人形を流しに行く必要がない。
常にそこには流れている人形があるのだ。
後はこの神―――神となる要件を十分に備えた人形―――に祈りと畏れを捧げればよい。
その身の厄は、流れ続ける人形の元へと届くだろう。
私はこれが、この地における人形神信仰の正体ではないかと思っている。
その正体とは、人形を流し続ける、沼や川も含めたこの地の大いなる厄払い装置に対する信仰、である。
この装置がいかにして成立したかについては、想像の域を出ない。
数々の偶然が生み出した自然の産物なのか。
古代の賢人が考え作り上げたシステムなのか。
ただ一つ確実に言えることは、閉鎖的で、且つ人間が生存するには危険の多いこの地においては、この装置がとても有効に働いている、ということである。
以下は私見、及び私信となる。
この地ではこの厄払い装置は有効に働く、と上に書いたが、私は最上の装置である、とは考えない。
この装置の欠陥をあげるならば、核となる人形が、物理的に急速に磨耗することだろう。
磨耗し尽くした結果、人形はどうなるか。
もう一度、表紙絵と、図2を見てほしい。
人形をヒトガタとして愛でるものと考えるならば、これらは無残に腐敗した肉塊に等しい。
ヒトガタを失った人形は人形にあらず、すなわち人形―――流し雛としての役割を果たすことができなくなる。
厄を集めることができなくなる。
ではどうするかというと、人間は新たな人形を用意するのである。
重要なのは流れ続ける人形であり、個々の人形がそれぞれ唯一無二の英雄というわけではないのだ。
このためこの地の人間は、何十年かに一度、新たな流し雛とする人形を、かの黒い沼に投げ入れなければならない。
これは人間にとって、危険な妖怪の山を分け入って行わなければならない、過酷なメンテナンスである。
里の人間の間に秘儀として伝わるこのメンテナンスは、昔から少なからぬ犠牲者を生み出してきた。
私は、犠牲があることを前提とする装置を、最上とは認められない。
ここで私が言う「犠牲」には、沼底で四肢を砕かれる人形も含む。
……人形遣いを生業とする私の思考には、過分に人形に感情移入しがちな傾向があることは認めねばなるまい。
だがそれでも、私が手塩にかけて創り上げ、長年可愛がった人形が、沼底の暗黒の中で日に日にその身を流水に削られ、表紙絵のような姿に近づいていくのを想像すると、今でも悔悟の情がこの身を責めさいなむ。
そう。
今現在、そしておそらくあなたがこの覚書に目を通している瞬間にも、沼底で苦輪にまみれている一体の人形がいる。
それは、私が創り愛した人形なのだ。
なぜ魔法使いである私が、人間のために自分の半身を差し出したか。
私は私なりに考えた結果、何十年という単位では磨耗しきることのない、魔術的措置が施された人形を、新たな流し雛とすることとしたのだ。
こうすれば、メンテナンスはあと100年以上は行う必要はなくなる。
これが、今現在の私にできる、(人間、および人形の)犠牲を最小限にとどめる唯一の方法だったのだ。
もちろん、この決心に至るまで葛藤がなかったといえば嘘になるが。
とにもかくにも、私は自分の人形を、かの黒い沼に投げ入れた。
私の人形は一瞬にして沈み、あぶく一つ残さず沼底に消えた。
代わりに、まるで使命を終えた(あるいは刑期を終えた)かのように、浮かび上がってきたのが、表紙絵の人形である。
その時私は、この人形の、疲れ果てた安堵の声を、確かに聞いたような気がするのである。
表紙絵の人形が艶やかなドレスを纏っているのは、私が着せたものであり、私なりの供養である。
この人形は、その作りからして上質な人形であり、かつては大事に愛された人形であったことが偲ばれる。
かつての持ち主の想いの強さと、その上質な作りが、皮肉にもこの人形の、流し雛としての刑期を伸ばしてしまったのだろうが。
せめて在りし日に纏ったであろう、豪華な人形用ドレスを再び纏わせて、この人形の、人形としての存在を終わらせてあげたいと思ったのだ。
だから、あなたにお願いがあります。
おそらくは私と同様の、魔法使いとして、人形遣いとして、この覚書を手に取った、次代の、あるいは次々代のあなたに。
私の時代では、未だ謎の多い因子である“厄”を解析し、どうかこの装置以上の、犠牲の少ない装置を作り出してください。
幸いにして(あるいは不幸にして)、私の人形が磨耗しきるまでの時間は長いでしょう。
その間に研究を進め、彼女がヒトガタとしての姿を失う前に、沼底の暗闇から救い出してあげてください。
でも、それが叶わなかったのであれば。
間に合わず、新たな人形を投げ入れたのであれば。
きっとその時浮かび上がる、彼女であったモノが、たとえどんなに醜い土くれであったとしても。
フリルのたくさんついた、かわいらしいドレスを着せてあげてください。
私は好んで、彼女にそんなドレスを着せていました。
きっと彼女も、喜んでくれると思うのです。
寂しいね。でも私はこういう幸せを願うお話は大好きです。
でも、このお話とは無関係とは思えない…
この浮かび上がってきた人形は雛様だったのだろうか?
下の感想にあるように、私も寂しく切ないお話に感じられました。
読んでいる最中、物語の情景がとてもリアルに思い浮かべられました。
とても気に入ったSSだったので、心からの満点を捧げさせていただきます。
駄文長文失礼しました。
そんで人形も一年ずつ交換して役目を終えた人形は子供のいる家に配られ、大切にするとか。
どうでもいいけど最後のあたりでひぐらし思い出すな。それだけが私の望みです。
ぜひアリス主役のSSを書いて下さい。それが貴方に積める善行です。
ぜひアリス主役のSSを書いて下さい。それが貴方に積める善行です。
コンペ基準で採点するならば、9点差し上げたいのをぐっとこらえて(お題の処理が薄いため)、7点を差し上げていたでしょう、ということを付記しておきます。
暖かい賛辞にしろ、厳しい批評にしろ、皆さんのコメントと評価が何よりの励みになります。
読者の想像力を頼みとするような拙作を、楽しんでいただけたのならば、望外の喜びです。
アリスと流し雛を組み合わせ、想いのこもった物語になっていて好きです。
論文のような調子で始まったので、物語的な面白さがあまり無さそうだと思ったら、今までに目にした事がない考察と、筆者――アリスの心情が深く沁み込んで行く心持ちになりました。
厄神との関係性がとても気になりますが、それを想像させるのも、またこの作品の魅力なのだと思います。
人形に対する愛ってのがオッサンの俺にもあったのね。