あの夜、紅い満月を見た瞬間から、私の悪夢は始まっていました。
幾度となく血に染められた体。それでも飽き足らずに獲物を探し続ける、私ではない私。
私では、もう、止められなくて。
――誰か、私を――
何度。本当に何度、そう思ったことでしょうか。
けれど、ようやく、私の願いが叶えられます。
一目見た瞬間に悟りました。あの力なら、彼なら。私を、私でない私を、
――殺して、くれる、と――
ライア・ツァイトの日記『10月21日』より
『悪夢の終焉。そして忘却の聖域へ』
どこまでも続く暗闇の中を、僕は走っていた。
何故走っているのかも、どこへ向かって走っているのかも分からないまま、僕はただ走り続けていた。
けど、そこでふと疑問に思い、僕は足を止めた。
――ここは・・・・・・?
呟きと共に、真っ白な少女の手が、僕の横から差し出された。
差し出しているのは、日傘を持った少女。
――君は、
「手を取りなさい、霖之助。あなたが向かう先はそちらではないわ」
――誰?
「それは今の時点では、無意味な質問。――この手を取り、そして悪夢から目覚めなさい」
僕は何故か、それ以上何も疑問に思わず、その手を取る。その瞬間、強烈な眠気に襲われた。
抵抗する間もなく意識が遠のく中、
「そして、悪夢の始まりを知りなさい。あなたは知らなければならない運命にあるのだから」
少女が言い終えるとほとんど同時に、僕は眠りについた。
「お、目が覚めたか」
次に目を覚ました時、目の前にいたのは日傘を持った少女ではなく、上司のアクターさんだった。
呆れと怒りが、微妙に混ざったような表情で僕を見下ろすアクターさん。
「ここは・・・・・・?」
「警察署だ。誰が運んだか知らんが、今朝早く出勤してみたら、お前が玄関口で倒れていてな。幸いというべきか、誰もいなかったから、今のところ大事にはなってないが」
そこまで言って、アクターさんは急に真顔になる。
「さて、何があったか話してもらおうか」
「え?」
「右肩の傷と、切り刻まれたコート。これだけ証拠があれば十分だろうが。・・・・・・会ったんだろう?ジャック・ザ・リッパーに」
鋭い。僕はどうしようか、一瞬躊躇ったけれど、結局は頷いた。
「・・・・・・はい」
「お前が何を見たのか、それを教えてもらおうか。拒否権も、黙秘権もないぞ。一人で独走した罰だ」
心配してくれたのだろう。その言葉に、僕は正直に話すことにした。――犯人がライアであり、その過程で出会った少女と能力のことは説明せずに。
彼女の目の前に立ち、左手に持ったナイフを振り上げた僕は、彼女の安心したような微かな笑みを見て、
「―――っ!」
振り下ろしたナイフを、彼女の首筋寸前で止める。
それを見て、彼女は、悲痛な表情を浮かべた。
そのまま、数秒間、沈黙が辺りを包んで、
「・・・・・・なんで」
いつの間にか、元の瞳の色に戻っている彼女が、喉から搾り出すような、絶望感と悲痛が混ざった声を出した。
「なんで、私を、殺して――」
「僕は殺し合いをするなんて一言も言った覚えはない。した覚えもないし、するつもりもない」
彼女の声を遮るようにして、僕は言った。
そう。あれだけ命の危険にあったにも関わらず、僕はあれが『殺し合い』だとはどうしても思えなかった。
何故なら――
「ジャック・ザ・リッパーの犯行はすべて、近づいてから喉を切り裂くもの。明確な殺意がある、立派な『殺人』。だけど、さっきの攻撃は違う。あれは――そう、あれは、どちらかといえば『遊び』に近いものを感じたんだ。本当に僕を殺す気なら、あんな回避する余地のある攻撃じゃなくて、時を止めて背後に回り、喉をナイフで切ればいい。力が完全に覚醒してなかった時の僕相手なら、簡単に出来た筈だよ。――そうじゃないかな、ライア?」
「・・・・・・」
彼女は俯き、沈黙する。それが何よりも、僕の言葉を肯定していた。
僕は小さくため息を漏らしながら、首筋に当てていたナイフを引いた。
「僕はあれを殺し合いだとは思っていない。だから、僕も君を殺す理由がない」
「・・・・・・じゃあ」
「?」
「じゃあ、悪夢に囚われた私は、どうすればいいの・・・・・・また、私でない私が現れて、同じ事を繰り返そうとしたら――」
その言葉に、僕は何故か頭にきて、
―――ゴンッ
「いっ・・・・・・!?」
自分の頭を冷やす意味をこめて、頭突きをした。
痛みで一瞬、頭の中が真っ白になったけれど、おかげで頭に上った血は、無事に下がったようだ。
突然のことで涙目になり、額を押さえる彼女の手を掴んで、
「何を言い出すかと思えば」
「・・・・・・え?」
「『同じ事を繰り返す』。そう思っていれば、必ず同じ事を繰り返す。肝心なのは繰り返すかどうかを考えるんじゃなくて、そうならないようにすること、だろう?」
「けれど・・・・・・」
「簡単には楽にさせない」
怒りを押し殺したような僕の声に、彼女が息を呑む。
さっき冷やした筈の頭に、また血が上っている。そのせいか、いつもと口調が違うな、と、僕は心のどこかで感じていた。
「殺したことを、自分がしてきたことを本当に後悔しているのなら、尚更だ。一息で楽になんてさせない、必ず、生きて償わせてやる」
「・・・・・・また、私があなたに刃を向けることになっても・・・・・・?」
「その時は、僕の名前と、この能力に賭けて、全力で止めてあげるよ」
僕の言葉に、彼女は微かに――本当に微かに、何かから解放されたような笑みを浮かべた。
その様子を見て、僕は掴んだままだった彼女の手を離し――目眩がした。
――ああ、そうか。痛みがないからすっかり忘れてたけど、肩の傷から血が――
そこまで考えて、僕はあっさりと意識を手放した。
話し終えて、けれど、アクターさんはすぐには何も言わず、何度か煙草の煙を吸い込み、
「――ライアとか言ったか。その子だな」
僕に対する言葉ではなく、自分自身の導き出した答えを確認するような口調だった。
あっさりバレた。こういう事柄に関しては、この人は異様に鋭い。
けれど、アクターさんは騒ぎもせず、コートの中から取り出した封筒を僕に手渡す。
そこには『グナーデ村に関する資料』と書かれてあった。
僕は思わず眉を寄せる。
「これは?」
「ちょっと気になったもんでな。悪いとは思ったが、その村に関して調べさせてもらったのさ」
「・・・・・・何故また?」
「勘だ」
はっきりと言い切る。ここまで開き直られると、こっちも反応しづらい。
だけど、アクターさんはそれを読むように言った。
とりあえず封筒から出し、一枚目の資料に目を通そうとして、
「結論から言うとな。グナーデという村は存在しない。いや・・・・・・正確には、半年前までは存在していた、と言うべきかな」
その言葉に、資料をめくる手が止まる。
アクターさんは僕の心境なんておかまいなしに、言葉を続けた。
「グナーデは、それほど人口の多い村じゃなかった。大体100~150人規模の、本当に小さな山岳の農村だったらしい。それでも、近くの村とは一ヶ月に一度、定期便が出ていた。――定期便の来る村が異変に気づいたのは、半年前だったらしい。それまで一ヶ月経てば必ず来る筈だった便が来ない。おかしいと思った数人の村人が、警官と一緒にグナーデに向かった。馬車で大体3時間くらいの場所だったらしい」
僕は資料にも目を通さず、ただ、続きの言葉を待っていた。
「着いてみて、見た目は何もなかったらしい。家も、家畜も、畑も、何もかもが、そのままだった。――人の気配がまったくなかったのを除いてな。流石に異変に気づいた警官が家の中に踏み込んだ。鍵もかけられてなかった状態だったらしいが、入った瞬間異臭が漂ってきたらしい。そして、部屋の中に踏み込んで――ベッドに横たわる惨殺死体を発見した。しかも、調べてみればすべての家で、だ。全員がベッドに寝転んだままの姿勢で殺されていた――この異常性が分かるな?」
僕は頷く。
「誰かが殺されれば、物音は絶対にする筈です。一人暮らしならともかく――」
「そうだ。だが、隣で寝ている家族でさえ、起きている様子はなかった。多少動いてたらしいが、死後硬直、と見れば十分通る程度だったらしい。一夜にして、村は異常な殺戮で全滅したってことだ。――だが、ここからが本題だ」
「え?」
「警察は犠牲者の数を、報告されている村人の数と照らしあわした。中には顔が刻まれて判別しづらいのもいたらしいが、それでもようやく一ヵ月後に数え終わって、一人だけ、行方不明がいることに気づいた。それが――」
「・・・・・・ライア・・・・・・と言うんですか?」
「詳しい名前までは教えてもらえなかったが・・・・・・その村の名前を出して、無関係、というのはないだろうな。――ついでに調べてみたんだが、ツァイト、というのは偽名だ。あれは、ドイツ語で『時間』を表す言葉だ」
「それじゃあ・・・・・・」
――彼女は、ずっと前から、悪夢を見続けていたということか。そして、あの名前にも――
そこまで考えて、僕はハッとなって、顔を上げた。
「ライアは・・・・・・!?」
「それに関しても調べた。親戚がいる館に勤めているってのは本当だったが・・・・・・昨日、別の親類の不幸があったってことで、暇をもらっている。そこからの足取りがまったくつかめていないがな」
「・・・・・・」
――何故か。本当に何故かこの時、僕は、彼女を追わなければならないような気がした。
「アクターさん。僕も暇をもらってもいいですか」
「・・・・・・大体、言いたいことは分かった。だが、手がかりもなしでどうやって探す気だ?」
「分かりません」
正直に答えた僕に、アクターさんは深いため息を漏らして、一枚の封筒を寄越してきた。
中身は、地図と、様々な外国語の本。そして――多少のお札。
驚く僕に、アクターさんは真剣な表情で言う。
「死ぬなよ」
「・・・・・・はい」
背を向けて立ち去るアクターさんに、僕は頭を下げた。
――色々と準備をしているうちに、すっかり夜になってしまった。
僕は今、国会議事堂前の広場にいる。昨日、あれだけ派手に彼女と戦ったというのに、その余韻を示すものは、何一つとして残っていない。
凍るような空気の中、それでも僕は、ある人物を待ち続けて――
「・・・・・・私を待っていたのかしら。それとも、ハートのジャックを待っていたのかしら?」
聞こえてきたのは、後ろ。
僕は振り返り、そこに目当ての人物――日傘を差した少女を確認して、頷く。
「僕は、あなたを待っていました。あなたなら、知っていそうな気がしたので」
「何を?」
「彼女の――ライアの向かった先を」
「知ってどうするのかしら?」
「追いかけます。・・・・・・何故か分からないけど、今追いかけないといけないような気がしましたから」
僕の言葉に、少女は微かに笑った。
「正直ね。いいわ、そういうの。――彼女は忘却の聖域へと向かったわ」
「忘却の聖域?」
「遥か東方の地に、人によって生み出され、そして人によって忘れ去られた、人ならざる者達の聖域があるの。人という定義から外れた者達は、必ずそこに集う。生きていようが、死んでいようがね。――その地の名は『幻想郷』」
「『幻想郷』・・・・・・」
初めて聞いた名前の筈なのに、何故かすんなりと心に染み渡るような感覚。
もしかしたら、僕もいずれは、そこに向かっていたのだろうか――そんな考えが頭をよぎった。
だけど、少女は笑みを消して言う。
「人を寄せ付けないための結界が張ってあるけれど、あなたの能力なら簡単に辿り着ける。問題は入った後。あなたの能力は、そこにいるだけで、周囲に影響を及ぼしかねないのよ。下位の力を持つ者なら、恐れて近寄らない。けれど、強い力を持つ者程、あなたを脅威と感じるでしょうね。――『世界』を創り変える力、だから、当然といえば当然かしら?」
「入るためには必要で、入った後は不必要・・・・・・だと?」
「そういうこと・・・・・・だから、これをあなたにあげるわ」
そう言って、少女は、昨日と同じように掌を回し――次の瞬間には、そこに一枚のカードが握られていた。
そのカードにも絵はなく、ただの白紙に『Silent on looker』とだけ書かれている。
「『静寂の傍観者』・・・・・・?」
「そう、これはあなたに、生かすも殺すもない、別の能力を新しく上書きするという『世界』を、自分の周りだけに創り出すカード。これは一旦使えば、自らの意志で破らない限り、力は別のものに変化され、更には、どんな物事にも積極的に関わってはいけないという制約がかかる代わりに、強い力を持つ者を無闇に刺激することもない。下位の者は、あなたを「得体の知れない者」として避けるでしょうね」
「ありがとう・・・・・・だけど」
「『何故?』かしら?」
「ええ。あなたはハートのキングの意志が具現化した存在だと言っていた。ハートのキングはパラディンの主、シャルルマーニュ大帝。だけど、あなたはこうも言っていた。僕をスペードのジャック――パラディンのオジェと呼ぶのは、暫定的に過ぎない、と。――だとすれば、理由が通らない」
僕の言葉に、少女は、あら、と意外そうな声をあげて、微笑んだ。
「気づいたかしら。――そう、あれはあくまでただの言い逃れ。本当の理由は二つあるのよ」
「二つ?」
「そう、一つ目は、スペードのキングが、あなたに興味を持っていたから、かしら」
「スペードのキング、とは?」
「身近にいても分からないものね」
少女は可笑しそうに笑った。
「あなたの上司のお名前は?」
唐突に言われて、僕は言葉に詰まったけれど、疑問に思いながらも答えた。
「アクター・ディヴァド」
「そう、ディヴァド。Divad、かしら?」
「アクターさん、それでディヴァドって呼ばないと怒ってたからなぁ・・・・・・」
「・・・・・・その文字を逆から言ってみなさい」
「え?Divadだから、David・・・・・・ダビデ・・・・・・!?」
「そう、そしてスペードのキングのモデルは、ダビデ王。ついでに言えば、アクターは英語で俳優の意。『警察官を演じるダビデ王』――気づかなかったかしら?」
僕はあまりのことに絶句し、それでも辛うじて首だけは横に振った。
偶然の一致にしては、あまりにも出来すぎている。目の前の少女の言葉も含めて、すべてが。
言葉を失っている僕に、少女は優しく、聖母のような声で語りかける。
「そして、もう一つの理由。それは、私が、あなたが無意識に生み出した『世界』に囚われた因果の欠片であり、あなた自身の『運命』が具現化した存在だからよ」
「え?」
「ハートのキングの意志、というのは、半分は正解。本物の私はハートのキングであり、すべての『運命』を操る存在。だけど、私はあなたの『運命』を見て、導くことしか出来ない存在。私はあなたにしか干渉できない。だからこそ、私はあなたの手助けをしたの。あなたが死ねば私も消える、運命共同体、と言えばいいかしら?」
「いまいち実感が湧かないけど・・・・・・要するに二人三脚?」
「・・・・・・その例えもどうかとは思うけれど、間違ってはいないわね・・・・・・」
「・・・・・・待てよ?もし本物のハートのキングに出会ってしまった場合、君はどうなるんだい?」
僕の問いに、少女は微かに――本当に微かに、微笑んだ。
「あなたの創り変える『世界』は、本物でも干渉できない。『静寂の傍観者』となった後も、ずっと。――その間も、私は存在し続けるわ。あなただけの『世界』の中で、あなただけの『運命』として」
そして、少女は笑みを消した後コホン、と咳払いをして、ほぼ南東の方角を指差して、
「さあ、遥か東方の地、日本の『幻想郷』へ向かいなさい、霖之助。その地に、ハートのジャックがいるわ。本物のハートのキング――スカーレットも」
「スカーレット・・・・・・」
僕は呟き、一歩、足を踏み出した。