『紅色の満月の下で』
――今、僕は、ライアにナイフを向けていて。
――左手に持ったナイフの切っ先を向けたまま、僕は走り出した。
――彼女は、まったく動かない。違う――動けない。
――目の前に立ち、その手を振り上げ、躊躇いなく振り下ろして――
「アルバートさん」
彼女の声が、聞こえてきたような気がした。
最初に感じたのは、体が揺さぶられている、という感覚だった。
「おい、アルバート。起きろ」
続いて、アクターさんの声が聞こえてくる。
僕は目を開けて――そこで初めて、机に突っ伏す形で眠っていたことに気がつく。
ゆっくりと身を起こし、大きく背伸びをする。姿勢が悪かったせいか、骨が鳴る音が響く。
見ると、僕が寝ていた机のすぐ横に、アクターさんは呆れの混ざった表情を浮かべて立っていた。
まだ思考がはっきりとしない。僕はゆっくりと頭を振りながら立ち上がった。
「何ですか?」
「起きろ、客だぞ」
「客・・・・・・?」
はて、と疑問に思った。知り合いなんて数少ないし、ここに来るようなタイプの人間でもなかったはずだ。
悩んでいる僕を見て、アクターさんは呆れたようなため息を漏らした。
「お前、あのメイドの子と約束してたんだろうが」
「・・・・・・あ」
「・・・・・・起きた直後は、頭が回ってないらしいな。入り口で待ってるから、さっさと行って来い。女性を待たせるのは、紳士として失格だぞ?どうせ、午後から非番なんだろうが」
「はい」
僕は苦笑を浮かべて、椅子にかけているコートを掴んだ。
彼女――ライアは、待合所のソファに腰かけていた。
「申し訳ない、お待たせしました」
僕が声をかけると、彼女はこちらを向いて、いいえ、と首を振った。
「今日は非番を頂きましたので、お気になさらないでください。・・・・・・それで・・・・・・」
「ああ、時計ですね。知り合いの時計職人に預けてます。今日修理が終わるらしいので、今から取りにいく予定ですが・・・・・・一緒にどうですか?」
「分かりました」
頷くライア。だけどまさか、青を基調とした奉仕服のままここまで来て、そのまま行くんだろうか。そんな疑問が僕の頭をよぎった。
「私服はないんですか?」
「ありません」
きっぱりと言われてしまった。
一瞬、頭痛がしたような気がしたけど、気のせい、ということにして、それ以上考えないようにした。
今から18日程前のあの夜、警察署についてきた彼女に対して、何故夜に出歩いたのかを聞いた時、
「時計が壊れてしまって・・・・・・どうしてもこれが必要になる用事があるので、もしかしたらと思って、時計屋さんを探しに出たのです」
申し訳なさそうに言いながら、彼女はポケットから、銀の懐中時計を取り出した。
使い込まれた、ひと目で年代物と分かる時計だったが、確かに、針はまったく動いてなかった。
「これから二週間程、私が仕える館で舞踏会が開かれますので、どうしても忙しくなる前に修理に出したかったのですが・・・・・・」
「だからといってな、こんな危険極まりない時期に、しかも夜に街を歩くのは自殺行為としか言えないな。もう少し慎重になってほしいものだ」
アクターさんが呆れたように言う。
それに関しては僕も賛成だったが、放っておけない。
「よければ、僕が代わりに修理に出しましょうか?」
「え?」
「最近はそれ程忙しいわけでもありませんしね。修理に出すだけなら、僕でも十分でしょう。まあ、流石に夜が明けてからになりますが・・・・・・代わりにこれを」
僕はポケットから銀の懐中時計を取り出し、彼女に渡した。
「いいのですか?」
「ええ、お貸ししますよ」
頷くと、彼女は申し訳なさそうにDanke、と答えた。
と、今まで僕達の会話を見ていたアクターさんが口を挟む。
「ドイツ語・・・・・・移民か?」
「はい。来たばかりですので、まだドイツ語で話してしまうことがあるんです」
恥ずかしそうに言う彼女。
話を聞くに、彼女は元々フランス国境近くのグナーデという小さな村に住んでいたらしいのだが、両親はカトリック教徒だったため、ビスマルクが行った文化闘争によって弾圧され、死別したらしい。そして、親類を頼って、4ヶ月程前にイギリスに来たばかりだという。
「ですが、忙しい毎日ですので、寂しいとは思いません」
親類が勤めているという貴族の館に、一緒にメイドとして仕えている彼女は、そう言って微笑んだ。
ビックベンと呼ばれる時計塔――僕達イギリス人が国会議事堂と呼ぶ建物の近くに、目的の店はあった。
地下に続く、薄暗い階段を降りていくと、1分もしないうちに、木で出来た扉が見えてくる。
僕はその扉を3回ノックする。
「開いてるよ」
やや高い女性の声が、扉の向こうから聞こえてきて、僕は扉を開けた。
店の中は、人が2~3人入れば狭く感じる程度の広さの中に、数個の懐中時計が入れられただけの、一抱え程度の大きさしかないショーウィンドウ。申し分程度の明かりが照らす店内の一番奥に、木で出来た机と椅子があり、そこに目的の人物はいた。
暗い店内では黒にしか見えない、黒と紫の混ざった髪を腰まで伸ばし、白衣に丸い縁無し眼鏡をかけた女性が、この店の店主である『クロック』スミス。女性なのに何故男性のような名前なのかと言うと、実は僕にも分からない。5年前に僕が見つけた時から、彼女はスミスと名乗っていたし、時計屋だからか『クロック』とも呼ばれていた。
「スミスさん、頼んでいた時計の修理は・・・・・・」
「はい、これ」
素早い。僕が言い終える前に、既に机の上には銀の懐中時計が置かれていた。勿論、修理は完全に終わっている。
「ありがとうございます」
「仕事だからね」
素っ気なく言うスミスさんにお辞儀をして、机に代金を置く。
そして、修理されたばかりの時計を、後ろにいるライアに手渡した。
「はい」
「ありがとうございます。アルバートさん」
今度は僕がお礼を言われた。まあ、僕は時計を修理に出しただけなのだけなのだから、お礼を言われるほどのことはしていないのだけど。代金もライアのものだし。
その時、初めて後ろにいるライアに気づいたのか、スミスさんが軽く眉をあげた。
「へぇ、誰かを連れてくるなんて珍しいね。彼女?」
「違います」
「残念」
憮然と言葉を返す僕に、スミスさんは全然残念そうに見えない表情で言った。
「スミスさん、ありがとうございました」
「ああ、いいわよ。仕事なんだし」
そう言って手を振り、一瞬だけ、僕に視線を向ける。
その意味を、僕は知っている。
「じゃあ、これで失礼しますね」
「またのご来店を」
スミスさんに見送られて、僕達は店を後にした。
ライアを仕事場に見送った後、僕は再び、スミスさんの店へと赴いた。
あの視線は『話がある』の意味だからだ。
「待ってたわよ」
眼鏡のレンズを布で拭き、そちらに視線を向けたまま、スミスさんは言う。
「今度は何の用ですか?」
「その前に、貴方は個人として来たかしら?」
「ええ」
「よろしい」
眼鏡を掃除する手を止め、スミスさんは顔を上げた。
何故かは知らないが、スミスさんは警官をあまり好んでいない。時計職人としてはともかく、これからの事に関しては、個人としてではなく、警官として来た場合、ほぼ確実に門前払いをくらう。
まあ、嫌う理由はともかく、話す内容に関しては、納得できるのだけれど。
「今回はどんな話ですか?」
「世間を騒がせている切り裂きジャックの目撃情報・・・・・・だと言ったら?」
その言葉に、僕の顔が険しくなるのを感じた。
そう、スミスさんは時計職人として生活している傍ら、情報屋としても活動している。なかなか精度のいい情報ばかりを取り扱っているが、内容が内容か、警察には話せないものが多い。
今回の場合も、そうなのだろう。
「目撃者は、二代前にだけどユダヤ人がいる。理由はそれだけで十分でしょ?」
「ええ、確かに。下手に言えば、また誤認逮捕に繋がりかねませんから」
「差別ってのはなかなか消えないものよ。どんな理由があるにせよ、意識すればする程ね」
肩をすくめるスミスさん。表情には、やや呆れと怒りが混ざっているような気がした。
僕はその表情を見なかったことにした。聞いたところで答えが返ってこないのは分かっていたし、なら聞くだけ無駄だったから。
「場所と、会える指定の時間はこの紙に書いてあるわ。代金は・・・・・・まあ、この前珍しい懐中時計を持ってきてもらったし、それで貸し借りなしね」
「ありがとうございます」
「仕事だからね」
そう言いながら、スミスさんは机の引き出しから、一枚の紙を取り出し、手渡してきた。
僕はその内容を確認する。
場所は貧民街の中にある、とある安アパート。時間は午後の10時と書かれてあり、名前の欄には「メアリー・ケリー」と記されていた。
――午後10時。空には三日月が浮かんでいる。
わずかな月明かりの中、僕は紙に書かれてあった安アパートの一室で、目撃者であるメアリー・ケリーと向き合い、話を聞いていた。
最初、警官としての僕を知っていたのか、警戒されたものの、個人としてきたこと、警察には絶対に知らせないことを伝えると、割と簡単に信用してくれた。
「先々月の・・・・・・9月29日の夜なんです。あの時、私は外を眺めていたんですが・・・・・・誰かが通ったような気がして、下の通りを見たんです」
どこか怯えたように、彼女は言葉を続けている。
「そしたら・・・・・・赤い服を着た人が歩いていたんです。よく見たら、完全に赤い服じゃなくて、斑模様で・・・・・・その時、その人はこっちを向いて・・・・・・真っ赤な目で。怖くて、それ以上は見なかったんですけど・・・・・・」
「外見とかは、あまり見ていないのですか?」
「はい・・・・・・」
「なるほど」
僕は考え込んだ。
外見的な特徴は、赤い目のみ。けど、そんな目をしている人なんて滅多にいない筈だ。もし犯人じゃなかったとしても、手がかりはつかめるかもしれない。それ以前に、目撃情報すら皆無に近かった状況で、この情報は役に立つかもしれない。
そう結論付けて、僕は頷いた。
「貴重な情報ありがとうございます。お約束通り、警察には絶対にお知らせしませんし、僕も警官ではなく、個人として来ていますから」
安心させるように言ってから、僕は席を立った。
「では、失礼しますね」
「・・・・・・はい」
僕が部屋から出ると同時に、ドアに鍵がかけられる音がして、それを確認してから、その場を後にし、外に出た。
午後から非番扱いになっているため、僕は自宅に戻ることにした。
頼りない月明かりの下を歩きながら、改めて考えてみる。
「赤い目、か・・・・・・」
呟き、空を見上げる。そこには相変わらず、三日月が浮かんでいた。
もう少し多くの情報を聞きたかったけど、しょうがないと言えばしょうがない。そう思い直した。
ため息を漏らし、視線を戻して、僕は思わず言葉を失い、反射的に左手を懐の銃に添えた。
――いつの間にか、目の前に、白い日傘を、顔を隠すようにさして――今は夜だ――白を基調としたドレスを着ている少女が立っていたからだ。
直前まで、足音も、気配すらもしなかった。
「君、は・・・・・・?」
懐にある銃の感触を確かめながら、問いかける。
けれど、少女は答えず、つい、と、傘を持っていない方の手を上げ、僕の方に向かって指差した。
思わず銃を取り出しかけ、けれど指差す先が、僕から少しだけずれている事に気づく。
振り返り、その指の指し示す先を確認して――確か、メアリー・ケリーが住んでいたアパートの方角――
「・・・・・・まさか!?」
理屈ではなく直感で感じ取り、僕は急いで、もと来た道を引き返した。
出てから戻ってくるまで、30分も経っていない筈。だけど、嫌な予感が離れない。
僕は急いでアパートの階段を上り――出た直後に鍵がかけられた筈のドアが半開きになっているのを見つけた。
銃を取り出し、ドアのすぐ横に立つ。部屋からは物音一つしない代わりに、強烈な匂いが漂ってきた。
意を決して扉を開け、中の様子を見て――僕は思わず目を背けたくなった。
そこには、つい30分程前まで話していた筈のメアリー・ケリーの変わり果てた姿があった。
「・・・・・・っ!」
吐き気がこみ上げてくる。何度見ても慣れない、凄惨な光景。だけど僕はその中に、違和感を感じた。
まるで、数時間もかけて処理したような跡が残されていたから。
だけど、目の前の光景に耐えられず、僕は思わず部屋から出て――廊下に、先ほどの少女が立っているのに気がついた。
「君は、これを・・・・・・知っていたのかい?」
問いかける。けれど、少女は答えず、また指差した。
あの方角は、国会議事堂の方だった筈――
「急がないと」
少女が口を開いた。少女にも大人の女性にも、賢者のようにも愚者のようにも聞こえるような不思議な声で、
「二度と」
その言葉が表す理由は、詳しくは分からない。けれど、僕は急いで外に出て、再び絶句した。
路面を照らす月明かりが先ほどよりも明るく、紅い。空を見上げてみると、そこには――
「・・・・・・冗談、だろう・・・・・・?」
先ほどまで三日月だった筈なのに、僕の目に映ったのは、紅い色の満月だった。次の満月まではまだ数日ある筈なのに――
数秒間、呆然として、僕は頭を振った。とにかく、今は急がないといけない気がする。
国会議事堂へと続く道を走り始めて、僕はもう一つの違和感を感じた。
――人の気配が一切しない。
どれだけ静寂に包まれていても、人間がそこにいる以上、必ず気配はする筈なのに、まったく感じられない。
訳が分からないことが続く日だった。けど、僕は一旦考えることを放棄して、急いで、国会議事堂の側にある公園に足を踏み入れて、
「――――なっ」
そんな言葉しか出てこなかった。
――そこにいたのは、元々青かった筈の奉仕服を真っ赤に染め、顔にも返り血であろう紅色をこびりつかせ、右手には血のついたナイフ、左手には赤い何かを持った、
「ライア・・・・・・?」
彼女の姿が、あった。
――今、僕は、ライアにナイフを向けていて。
――左手に持ったナイフの切っ先を向けたまま、僕は走り出した。
――彼女は、まったく動かない。違う――動けない。
――目の前に立ち、その手を振り上げ、躊躇いなく振り下ろして――
「アルバートさん」
彼女の声が、聞こえてきたような気がした。
最初に感じたのは、体が揺さぶられている、という感覚だった。
「おい、アルバート。起きろ」
続いて、アクターさんの声が聞こえてくる。
僕は目を開けて――そこで初めて、机に突っ伏す形で眠っていたことに気がつく。
ゆっくりと身を起こし、大きく背伸びをする。姿勢が悪かったせいか、骨が鳴る音が響く。
見ると、僕が寝ていた机のすぐ横に、アクターさんは呆れの混ざった表情を浮かべて立っていた。
まだ思考がはっきりとしない。僕はゆっくりと頭を振りながら立ち上がった。
「何ですか?」
「起きろ、客だぞ」
「客・・・・・・?」
はて、と疑問に思った。知り合いなんて数少ないし、ここに来るようなタイプの人間でもなかったはずだ。
悩んでいる僕を見て、アクターさんは呆れたようなため息を漏らした。
「お前、あのメイドの子と約束してたんだろうが」
「・・・・・・あ」
「・・・・・・起きた直後は、頭が回ってないらしいな。入り口で待ってるから、さっさと行って来い。女性を待たせるのは、紳士として失格だぞ?どうせ、午後から非番なんだろうが」
「はい」
僕は苦笑を浮かべて、椅子にかけているコートを掴んだ。
彼女――ライアは、待合所のソファに腰かけていた。
「申し訳ない、お待たせしました」
僕が声をかけると、彼女はこちらを向いて、いいえ、と首を振った。
「今日は非番を頂きましたので、お気になさらないでください。・・・・・・それで・・・・・・」
「ああ、時計ですね。知り合いの時計職人に預けてます。今日修理が終わるらしいので、今から取りにいく予定ですが・・・・・・一緒にどうですか?」
「分かりました」
頷くライア。だけどまさか、青を基調とした奉仕服のままここまで来て、そのまま行くんだろうか。そんな疑問が僕の頭をよぎった。
「私服はないんですか?」
「ありません」
きっぱりと言われてしまった。
一瞬、頭痛がしたような気がしたけど、気のせい、ということにして、それ以上考えないようにした。
今から18日程前のあの夜、警察署についてきた彼女に対して、何故夜に出歩いたのかを聞いた時、
「時計が壊れてしまって・・・・・・どうしてもこれが必要になる用事があるので、もしかしたらと思って、時計屋さんを探しに出たのです」
申し訳なさそうに言いながら、彼女はポケットから、銀の懐中時計を取り出した。
使い込まれた、ひと目で年代物と分かる時計だったが、確かに、針はまったく動いてなかった。
「これから二週間程、私が仕える館で舞踏会が開かれますので、どうしても忙しくなる前に修理に出したかったのですが・・・・・・」
「だからといってな、こんな危険極まりない時期に、しかも夜に街を歩くのは自殺行為としか言えないな。もう少し慎重になってほしいものだ」
アクターさんが呆れたように言う。
それに関しては僕も賛成だったが、放っておけない。
「よければ、僕が代わりに修理に出しましょうか?」
「え?」
「最近はそれ程忙しいわけでもありませんしね。修理に出すだけなら、僕でも十分でしょう。まあ、流石に夜が明けてからになりますが・・・・・・代わりにこれを」
僕はポケットから銀の懐中時計を取り出し、彼女に渡した。
「いいのですか?」
「ええ、お貸ししますよ」
頷くと、彼女は申し訳なさそうにDanke、と答えた。
と、今まで僕達の会話を見ていたアクターさんが口を挟む。
「ドイツ語・・・・・・移民か?」
「はい。来たばかりですので、まだドイツ語で話してしまうことがあるんです」
恥ずかしそうに言う彼女。
話を聞くに、彼女は元々フランス国境近くのグナーデという小さな村に住んでいたらしいのだが、両親はカトリック教徒だったため、ビスマルクが行った文化闘争によって弾圧され、死別したらしい。そして、親類を頼って、4ヶ月程前にイギリスに来たばかりだという。
「ですが、忙しい毎日ですので、寂しいとは思いません」
親類が勤めているという貴族の館に、一緒にメイドとして仕えている彼女は、そう言って微笑んだ。
ビックベンと呼ばれる時計塔――僕達イギリス人が国会議事堂と呼ぶ建物の近くに、目的の店はあった。
地下に続く、薄暗い階段を降りていくと、1分もしないうちに、木で出来た扉が見えてくる。
僕はその扉を3回ノックする。
「開いてるよ」
やや高い女性の声が、扉の向こうから聞こえてきて、僕は扉を開けた。
店の中は、人が2~3人入れば狭く感じる程度の広さの中に、数個の懐中時計が入れられただけの、一抱え程度の大きさしかないショーウィンドウ。申し分程度の明かりが照らす店内の一番奥に、木で出来た机と椅子があり、そこに目的の人物はいた。
暗い店内では黒にしか見えない、黒と紫の混ざった髪を腰まで伸ばし、白衣に丸い縁無し眼鏡をかけた女性が、この店の店主である『クロック』スミス。女性なのに何故男性のような名前なのかと言うと、実は僕にも分からない。5年前に僕が見つけた時から、彼女はスミスと名乗っていたし、時計屋だからか『クロック』とも呼ばれていた。
「スミスさん、頼んでいた時計の修理は・・・・・・」
「はい、これ」
素早い。僕が言い終える前に、既に机の上には銀の懐中時計が置かれていた。勿論、修理は完全に終わっている。
「ありがとうございます」
「仕事だからね」
素っ気なく言うスミスさんにお辞儀をして、机に代金を置く。
そして、修理されたばかりの時計を、後ろにいるライアに手渡した。
「はい」
「ありがとうございます。アルバートさん」
今度は僕がお礼を言われた。まあ、僕は時計を修理に出しただけなのだけなのだから、お礼を言われるほどのことはしていないのだけど。代金もライアのものだし。
その時、初めて後ろにいるライアに気づいたのか、スミスさんが軽く眉をあげた。
「へぇ、誰かを連れてくるなんて珍しいね。彼女?」
「違います」
「残念」
憮然と言葉を返す僕に、スミスさんは全然残念そうに見えない表情で言った。
「スミスさん、ありがとうございました」
「ああ、いいわよ。仕事なんだし」
そう言って手を振り、一瞬だけ、僕に視線を向ける。
その意味を、僕は知っている。
「じゃあ、これで失礼しますね」
「またのご来店を」
スミスさんに見送られて、僕達は店を後にした。
ライアを仕事場に見送った後、僕は再び、スミスさんの店へと赴いた。
あの視線は『話がある』の意味だからだ。
「待ってたわよ」
眼鏡のレンズを布で拭き、そちらに視線を向けたまま、スミスさんは言う。
「今度は何の用ですか?」
「その前に、貴方は個人として来たかしら?」
「ええ」
「よろしい」
眼鏡を掃除する手を止め、スミスさんは顔を上げた。
何故かは知らないが、スミスさんは警官をあまり好んでいない。時計職人としてはともかく、これからの事に関しては、個人としてではなく、警官として来た場合、ほぼ確実に門前払いをくらう。
まあ、嫌う理由はともかく、話す内容に関しては、納得できるのだけれど。
「今回はどんな話ですか?」
「世間を騒がせている切り裂きジャックの目撃情報・・・・・・だと言ったら?」
その言葉に、僕の顔が険しくなるのを感じた。
そう、スミスさんは時計職人として生活している傍ら、情報屋としても活動している。なかなか精度のいい情報ばかりを取り扱っているが、内容が内容か、警察には話せないものが多い。
今回の場合も、そうなのだろう。
「目撃者は、二代前にだけどユダヤ人がいる。理由はそれだけで十分でしょ?」
「ええ、確かに。下手に言えば、また誤認逮捕に繋がりかねませんから」
「差別ってのはなかなか消えないものよ。どんな理由があるにせよ、意識すればする程ね」
肩をすくめるスミスさん。表情には、やや呆れと怒りが混ざっているような気がした。
僕はその表情を見なかったことにした。聞いたところで答えが返ってこないのは分かっていたし、なら聞くだけ無駄だったから。
「場所と、会える指定の時間はこの紙に書いてあるわ。代金は・・・・・・まあ、この前珍しい懐中時計を持ってきてもらったし、それで貸し借りなしね」
「ありがとうございます」
「仕事だからね」
そう言いながら、スミスさんは机の引き出しから、一枚の紙を取り出し、手渡してきた。
僕はその内容を確認する。
場所は貧民街の中にある、とある安アパート。時間は午後の10時と書かれてあり、名前の欄には「メアリー・ケリー」と記されていた。
――午後10時。空には三日月が浮かんでいる。
わずかな月明かりの中、僕は紙に書かれてあった安アパートの一室で、目撃者であるメアリー・ケリーと向き合い、話を聞いていた。
最初、警官としての僕を知っていたのか、警戒されたものの、個人としてきたこと、警察には絶対に知らせないことを伝えると、割と簡単に信用してくれた。
「先々月の・・・・・・9月29日の夜なんです。あの時、私は外を眺めていたんですが・・・・・・誰かが通ったような気がして、下の通りを見たんです」
どこか怯えたように、彼女は言葉を続けている。
「そしたら・・・・・・赤い服を着た人が歩いていたんです。よく見たら、完全に赤い服じゃなくて、斑模様で・・・・・・その時、その人はこっちを向いて・・・・・・真っ赤な目で。怖くて、それ以上は見なかったんですけど・・・・・・」
「外見とかは、あまり見ていないのですか?」
「はい・・・・・・」
「なるほど」
僕は考え込んだ。
外見的な特徴は、赤い目のみ。けど、そんな目をしている人なんて滅多にいない筈だ。もし犯人じゃなかったとしても、手がかりはつかめるかもしれない。それ以前に、目撃情報すら皆無に近かった状況で、この情報は役に立つかもしれない。
そう結論付けて、僕は頷いた。
「貴重な情報ありがとうございます。お約束通り、警察には絶対にお知らせしませんし、僕も警官ではなく、個人として来ていますから」
安心させるように言ってから、僕は席を立った。
「では、失礼しますね」
「・・・・・・はい」
僕が部屋から出ると同時に、ドアに鍵がかけられる音がして、それを確認してから、その場を後にし、外に出た。
午後から非番扱いになっているため、僕は自宅に戻ることにした。
頼りない月明かりの下を歩きながら、改めて考えてみる。
「赤い目、か・・・・・・」
呟き、空を見上げる。そこには相変わらず、三日月が浮かんでいた。
もう少し多くの情報を聞きたかったけど、しょうがないと言えばしょうがない。そう思い直した。
ため息を漏らし、視線を戻して、僕は思わず言葉を失い、反射的に左手を懐の銃に添えた。
――いつの間にか、目の前に、白い日傘を、顔を隠すようにさして――今は夜だ――白を基調としたドレスを着ている少女が立っていたからだ。
直前まで、足音も、気配すらもしなかった。
「君、は・・・・・・?」
懐にある銃の感触を確かめながら、問いかける。
けれど、少女は答えず、つい、と、傘を持っていない方の手を上げ、僕の方に向かって指差した。
思わず銃を取り出しかけ、けれど指差す先が、僕から少しだけずれている事に気づく。
振り返り、その指の指し示す先を確認して――確か、メアリー・ケリーが住んでいたアパートの方角――
「・・・・・・まさか!?」
理屈ではなく直感で感じ取り、僕は急いで、もと来た道を引き返した。
出てから戻ってくるまで、30分も経っていない筈。だけど、嫌な予感が離れない。
僕は急いでアパートの階段を上り――出た直後に鍵がかけられた筈のドアが半開きになっているのを見つけた。
銃を取り出し、ドアのすぐ横に立つ。部屋からは物音一つしない代わりに、強烈な匂いが漂ってきた。
意を決して扉を開け、中の様子を見て――僕は思わず目を背けたくなった。
そこには、つい30分程前まで話していた筈のメアリー・ケリーの変わり果てた姿があった。
「・・・・・・っ!」
吐き気がこみ上げてくる。何度見ても慣れない、凄惨な光景。だけど僕はその中に、違和感を感じた。
まるで、数時間もかけて処理したような跡が残されていたから。
だけど、目の前の光景に耐えられず、僕は思わず部屋から出て――廊下に、先ほどの少女が立っているのに気がついた。
「君は、これを・・・・・・知っていたのかい?」
問いかける。けれど、少女は答えず、また指差した。
あの方角は、国会議事堂の方だった筈――
「急がないと」
少女が口を開いた。少女にも大人の女性にも、賢者のようにも愚者のようにも聞こえるような不思議な声で、
「二度と」
その言葉が表す理由は、詳しくは分からない。けれど、僕は急いで外に出て、再び絶句した。
路面を照らす月明かりが先ほどよりも明るく、紅い。空を見上げてみると、そこには――
「・・・・・・冗談、だろう・・・・・・?」
先ほどまで三日月だった筈なのに、僕の目に映ったのは、紅い色の満月だった。次の満月まではまだ数日ある筈なのに――
数秒間、呆然として、僕は頭を振った。とにかく、今は急がないといけない気がする。
国会議事堂へと続く道を走り始めて、僕はもう一つの違和感を感じた。
――人の気配が一切しない。
どれだけ静寂に包まれていても、人間がそこにいる以上、必ず気配はする筈なのに、まったく感じられない。
訳が分からないことが続く日だった。けど、僕は一旦考えることを放棄して、急いで、国会議事堂の側にある公園に足を踏み入れて、
「――――なっ」
そんな言葉しか出てこなかった。
――そこにいたのは、元々青かった筈の奉仕服を真っ赤に染め、顔にも返り血であろう紅色をこびりつかせ、右手には血のついたナイフ、左手には赤い何かを持った、
「ライア・・・・・・?」
彼女の姿が、あった。
もちろん筆者さんの頭の中にはきちんとした設定があるのでしょうが、現状でここまで東方から離れた話になっていると、読み手としてはさすがに首を捻ってしまいます。ちょっと引っ張りすぎではないでしょうか。
>あとキャラ違うー、というのもorz
幻想郷の外の話でこれをやるのは致命的かと思います。今のところ、「霖之助=アルバート」という設定は、一章での後書き以外にそうと思わせるものがありません。あえて言うと、後書きに書かれていなければ同じキャラだとはまず思いません。このあたりが、東方のSSとして読めなかった原因にもなっています。
序章とのつながりを考えれば推測がつくのかも知れませんが、作品が分割されている場合、読み手は前の内容をある程度忘れてしまいますので、そのあたりは注意が必要だと思います。