その時―――彼女は何処を見るともなしに、視線をやや上向きにして、
そして泣いているのか笑っているのかわからない表情でただ歩いていた。
海岸沿いの砂浜と道路を分けるコンクリートの壁塀の上を素足でゆっくり歩いていた。
薄いブルーのワンピースと共に、背後に広がる海辺の光景に溶け出してしまうんじゃないかと、
こちらが不安になるくらい存在のやさしい、まるで風に飛ばされた淡い羽根のような女の子だった。
強い日差しに照らされながらそれを気にする風でもなく、時々頬を涼めるようにして吹き抜けていく潮風に、
僅かに表情を反応させながら、彼女は今まさに私の方へと近づいてくる。
彼女は子供のように勢いよく塀から飛び降りると、手に提げていた羽根つきのサンダルを履いて、
そして海岸通りにある「UZURA」というカフェに入ってきた。私はそこからずっと彼女を眺めていたのだ。
室内に居ても喉の渇く日だった。
「いらっしゃい。今日は早いですね。」
マスターが彼女に話しかける。「今日『は』?」――私の中で一つの疑問が大きくなっていく。
私は夏になり暇を貰うと、この海岸通り沿いのちょうど端にある宿に一週間ほど滞在し、
その間は宿から歩いて一〇分足らずのこの店に入り浸る事にしている。
緑々(あおあお)とした山の景色に飽き、青々とした海を求め初めて来た時からもう二十年にはなるだろうか。
それでもマスターは私がどんな仕事をしているのか、
何をしに毎年ここへ来るのか、家族は居るのか・・・・・・等と私について一切詮索した事が無い。
最初の方は、こちらが反対に気を使って話さなければ、と思ったほどだった。
彼が知っているのは私の名前と好みとやってくる時期、そして狐だと言う事ぐらいだったと思う。
おそらく私に対してだけでなく、誰に対してもそういう態度で接しているんだろうが、
私はマスターのそういうところによそよそしさよりも一種の安心感を覚えていた。
というわけで私は自分自身でこの店の――季節限定ではあるが――常連だと自負していたのだが、
彼女の姿はこれまでに一度も見たことが無かった。
「今日は」「早い」ということは私が帰った後にでも来ていたのだろうか?
すれ違いで・・・・・・等と大きな疑問の渦をぐるぐる回しながら、
彼女が外を歩いていたときと同じように、やはり私の目は彼女に釘付けになっていた。
「何見とれているんですか、このスケベ狐さん」
マスターがグラスを拭きながら意地の悪い目をして私を見ていた。
「誰だってスケベなんですよ、もちろんあなたもね」
「私は違います。私は今はこの店と海しか愛さない女ですから」
昔の映画スターの決め台詞のような、そんな陳腐な表現に私は少し吹きだしてしまった。
「ははは・・・・・・じゃあ旦那さんは・・・・・・」
と言いかけて私は口ごもってしまった。そう、私はマスターが結婚しているのかどうかも知らずにいたのだ。
私が次の言葉を継ぐ事ができないのを、溺れている人間を助けるように、マスターは言葉を継ぎ足した。
「夫・・・・・・旦那はいます」
あんなに照れ臭そうなマスターは今までに見たことが無かった。きっと綺麗な自慢の旦那さんなんだろうな、
家で何してるんだろうか・・・・・・等と考えているうちに、
人のことをあれこれ詮索している自分が恥ずかしくなると共に、マスターとの『不可侵条約』のようなものを破った気がして、
この店に来にくくなるのを恐れた私は無理に話を逸らすように例の彼女の事を聞いた。
「彼女、よく来るのかい?」
「・・・・・・」
「教えてくれないか」
「知ってどうするんですか」
「どうするって・・・・・・ただ知りたいだけ。それが好奇心と言うものだ」
「よくいらっしゃいます」
「で?」
「『で』とは? 質問にはお答えしたつもりですが」
「それだけじゃあ、全然判らないんだが」
「一体何を知りたいんですか?」
「名前とか、年齢とか、何をやっているのかとか・・・・・・」
あっ、またやってしまったと思った。私は他人の世界に踏み入ろうとしている。
恐らく目の前の人間が最も嫌いな事をしようとしているのだ。私は思わず
「申し訳ない」
と頭を下げて悪戯を咎められた子供がするような上目遣いになってマスターを見た。
「何を謝っていらっしゃるのですか?」
「いや、あの・・・・・・」
と、また自分の混乱に溺れかけている私をマスターは
「八雲さんは本当に・・・・・・何というか・・・・・・不器用ですね」
と笑ってくれた。その笑いが救命具になったのは言うまでも無い。
暫くの沈黙の後、じっと彼女を見つめていたマスターはおもむろに口を開いた。
「彼女はシンガーなんです。歌を歌ってらっしゃるとか・・・・・・。
私は歌は聴きませんから分かりませんが・・・・・・」
「ほぅ」
「彼女は行き詰まったときだけお見えになります。だから私はちょっと辛いんです。
あまり元気な彼女を見たことが無いんで・・・・・・おっと・・・・・・」
と言って吹きこぼれそうになっていたポットを掴むとガス台から降ろし、そして紅茶を作り始めた。
「キーマン」という中国紅茶の独特のにおいが鼻を掠めていく。私の好きな紅茶でもあった。
マスターが作っていたのは彼女の紅茶だったが、私は彼女と好みが同じだと言うだけで何か親しみを感じた。
あいつが独り立ちしてからというもの、何年ぶりだろう・・・・・・こんなに心がはしゃぐのは・・・・・・等と
そういう思い出を楽しむ自分を滑稽に思いながら、ふと彼女の方を振り向くと、
彼女といきなり視線が合ってしまった。こんなとき普通ならどうすれば良いのだろうか。
私はどうしてよいか分からず彼女と暫く視線を合わせながら、いきなり右手を上げて
「どうも・・・・・・」
と訳のわからないことを言っていた。
暫く彼女も訳が分からず目を見開いていたが―その目がまた魅力的だったのだが―
とうとうこらえ切れないというように笑い出してしまった。
それにつられて私も笑い出してしまった、いやそうするしかなかったのだ。しかも右手は挙げたままで・・・・・・。
私は間抜けな格好で固まってしまっていた。
その日は何時になく宿に帰るのが遅くなってしまった。
結局あれからずっとマスターと彼女と話し込んでしまい、食事をしながら――マスターは更にそれを作りながら――
楽しい一時を過ごす事ができた。帰るときに私は不意に二人の人間から感謝された。
その感謝の意味は酔った私の頭には難しすぎたのだが、その答えは一つは次の日に、
そしてもう一つはそれから一月後に知ることになった。
次の日、マスターは
「あんな笑顔の彼女は初めてでした。私は御覧のように口下手で面白みにかける妖怪ですから・・・・・・
それまで彼女にしてあげられたのは美味しい紅茶――少なくとも私はそう思ってますが――
それを入れて差し上げるくらいのものでしたから・・・・・・本当によかった・・・・・・あなたのおかげです」
と私に言った。私は「とんでもない、こちらこそ彼女と話が出来て嬉しかった」というような、
自分でも月並みだなあと思うような事を言って、そしていつものようにそこで自分の時間を過ごした。
その後マスターは彼女について一言も喋らなかったが、私も彼女の事について話そうとしなかった。
心のどこかでは彼女の事を待っていたのかもしれない。違うと言えば嘘になるだろう。
しかし何故か彼女とこのまま会えなくなってもショックを受けないくらい、そのときの私は落ち着いていた。
何か大きな事を成し遂げたような根拠の無い満足感が私を満たしていた。結局彼女はその日は店には来なかった。
そしてそれから数日間私はやはり店に顔を出したが、とうとう彼女に会うことは出来なかった。
そして私の夏季休暇も静かに終わろうとしていた。
一ヵ月後、既にマヨヒガに戻っていた私は日が沈むころラジオから届いてくる歌を聞いた。
その女性歌手はこう歌っていた―――
『海が見えるその店で/右手を上げる狐さん/そんな狐の微笑みでも/私はそっと救われる・・・・・・』
彼女の感謝が歌に乗って、今届けられた・・・・・・。私は口角の辺りにかすかな変化を感じた。
はっきりとは思い出せなくなった彼女の顔を出来るだけ思い出す努力をしながら、
私はそのまま主の呼びかけに応じ、部屋の奥へと入っていった。
夏の余韻が一瞬だけ空間を包み込む・・・・・・。
そして泣いているのか笑っているのかわからない表情でただ歩いていた。
海岸沿いの砂浜と道路を分けるコンクリートの壁塀の上を素足でゆっくり歩いていた。
薄いブルーのワンピースと共に、背後に広がる海辺の光景に溶け出してしまうんじゃないかと、
こちらが不安になるくらい存在のやさしい、まるで風に飛ばされた淡い羽根のような女の子だった。
強い日差しに照らされながらそれを気にする風でもなく、時々頬を涼めるようにして吹き抜けていく潮風に、
僅かに表情を反応させながら、彼女は今まさに私の方へと近づいてくる。
彼女は子供のように勢いよく塀から飛び降りると、手に提げていた羽根つきのサンダルを履いて、
そして海岸通りにある「UZURA」というカフェに入ってきた。私はそこからずっと彼女を眺めていたのだ。
室内に居ても喉の渇く日だった。
「いらっしゃい。今日は早いですね。」
マスターが彼女に話しかける。「今日『は』?」――私の中で一つの疑問が大きくなっていく。
私は夏になり暇を貰うと、この海岸通り沿いのちょうど端にある宿に一週間ほど滞在し、
その間は宿から歩いて一〇分足らずのこの店に入り浸る事にしている。
緑々(あおあお)とした山の景色に飽き、青々とした海を求め初めて来た時からもう二十年にはなるだろうか。
それでもマスターは私がどんな仕事をしているのか、
何をしに毎年ここへ来るのか、家族は居るのか・・・・・・等と私について一切詮索した事が無い。
最初の方は、こちらが反対に気を使って話さなければ、と思ったほどだった。
彼が知っているのは私の名前と好みとやってくる時期、そして狐だと言う事ぐらいだったと思う。
おそらく私に対してだけでなく、誰に対してもそういう態度で接しているんだろうが、
私はマスターのそういうところによそよそしさよりも一種の安心感を覚えていた。
というわけで私は自分自身でこの店の――季節限定ではあるが――常連だと自負していたのだが、
彼女の姿はこれまでに一度も見たことが無かった。
「今日は」「早い」ということは私が帰った後にでも来ていたのだろうか?
すれ違いで・・・・・・等と大きな疑問の渦をぐるぐる回しながら、
彼女が外を歩いていたときと同じように、やはり私の目は彼女に釘付けになっていた。
「何見とれているんですか、このスケベ狐さん」
マスターがグラスを拭きながら意地の悪い目をして私を見ていた。
「誰だってスケベなんですよ、もちろんあなたもね」
「私は違います。私は今はこの店と海しか愛さない女ですから」
昔の映画スターの決め台詞のような、そんな陳腐な表現に私は少し吹きだしてしまった。
「ははは・・・・・・じゃあ旦那さんは・・・・・・」
と言いかけて私は口ごもってしまった。そう、私はマスターが結婚しているのかどうかも知らずにいたのだ。
私が次の言葉を継ぐ事ができないのを、溺れている人間を助けるように、マスターは言葉を継ぎ足した。
「夫・・・・・・旦那はいます」
あんなに照れ臭そうなマスターは今までに見たことが無かった。きっと綺麗な自慢の旦那さんなんだろうな、
家で何してるんだろうか・・・・・・等と考えているうちに、
人のことをあれこれ詮索している自分が恥ずかしくなると共に、マスターとの『不可侵条約』のようなものを破った気がして、
この店に来にくくなるのを恐れた私は無理に話を逸らすように例の彼女の事を聞いた。
「彼女、よく来るのかい?」
「・・・・・・」
「教えてくれないか」
「知ってどうするんですか」
「どうするって・・・・・・ただ知りたいだけ。それが好奇心と言うものだ」
「よくいらっしゃいます」
「で?」
「『で』とは? 質問にはお答えしたつもりですが」
「それだけじゃあ、全然判らないんだが」
「一体何を知りたいんですか?」
「名前とか、年齢とか、何をやっているのかとか・・・・・・」
あっ、またやってしまったと思った。私は他人の世界に踏み入ろうとしている。
恐らく目の前の人間が最も嫌いな事をしようとしているのだ。私は思わず
「申し訳ない」
と頭を下げて悪戯を咎められた子供がするような上目遣いになってマスターを見た。
「何を謝っていらっしゃるのですか?」
「いや、あの・・・・・・」
と、また自分の混乱に溺れかけている私をマスターは
「八雲さんは本当に・・・・・・何というか・・・・・・不器用ですね」
と笑ってくれた。その笑いが救命具になったのは言うまでも無い。
暫くの沈黙の後、じっと彼女を見つめていたマスターはおもむろに口を開いた。
「彼女はシンガーなんです。歌を歌ってらっしゃるとか・・・・・・。
私は歌は聴きませんから分かりませんが・・・・・・」
「ほぅ」
「彼女は行き詰まったときだけお見えになります。だから私はちょっと辛いんです。
あまり元気な彼女を見たことが無いんで・・・・・・おっと・・・・・・」
と言って吹きこぼれそうになっていたポットを掴むとガス台から降ろし、そして紅茶を作り始めた。
「キーマン」という中国紅茶の独特のにおいが鼻を掠めていく。私の好きな紅茶でもあった。
マスターが作っていたのは彼女の紅茶だったが、私は彼女と好みが同じだと言うだけで何か親しみを感じた。
あいつが独り立ちしてからというもの、何年ぶりだろう・・・・・・こんなに心がはしゃぐのは・・・・・・等と
そういう思い出を楽しむ自分を滑稽に思いながら、ふと彼女の方を振り向くと、
彼女といきなり視線が合ってしまった。こんなとき普通ならどうすれば良いのだろうか。
私はどうしてよいか分からず彼女と暫く視線を合わせながら、いきなり右手を上げて
「どうも・・・・・・」
と訳のわからないことを言っていた。
暫く彼女も訳が分からず目を見開いていたが―その目がまた魅力的だったのだが―
とうとうこらえ切れないというように笑い出してしまった。
それにつられて私も笑い出してしまった、いやそうするしかなかったのだ。しかも右手は挙げたままで・・・・・・。
私は間抜けな格好で固まってしまっていた。
その日は何時になく宿に帰るのが遅くなってしまった。
結局あれからずっとマスターと彼女と話し込んでしまい、食事をしながら――マスターは更にそれを作りながら――
楽しい一時を過ごす事ができた。帰るときに私は不意に二人の人間から感謝された。
その感謝の意味は酔った私の頭には難しすぎたのだが、その答えは一つは次の日に、
そしてもう一つはそれから一月後に知ることになった。
次の日、マスターは
「あんな笑顔の彼女は初めてでした。私は御覧のように口下手で面白みにかける妖怪ですから・・・・・・
それまで彼女にしてあげられたのは美味しい紅茶――少なくとも私はそう思ってますが――
それを入れて差し上げるくらいのものでしたから・・・・・・本当によかった・・・・・・あなたのおかげです」
と私に言った。私は「とんでもない、こちらこそ彼女と話が出来て嬉しかった」というような、
自分でも月並みだなあと思うような事を言って、そしていつものようにそこで自分の時間を過ごした。
その後マスターは彼女について一言も喋らなかったが、私も彼女の事について話そうとしなかった。
心のどこかでは彼女の事を待っていたのかもしれない。違うと言えば嘘になるだろう。
しかし何故か彼女とこのまま会えなくなってもショックを受けないくらい、そのときの私は落ち着いていた。
何か大きな事を成し遂げたような根拠の無い満足感が私を満たしていた。結局彼女はその日は店には来なかった。
そしてそれから数日間私はやはり店に顔を出したが、とうとう彼女に会うことは出来なかった。
そして私の夏季休暇も静かに終わろうとしていた。
一ヵ月後、既にマヨヒガに戻っていた私は日が沈むころラジオから届いてくる歌を聞いた。
その女性歌手はこう歌っていた―――
『海が見えるその店で/右手を上げる狐さん/そんな狐の微笑みでも/私はそっと救われる・・・・・・』
彼女の感謝が歌に乗って、今届けられた・・・・・・。私は口角の辺りにかすかな変化を感じた。
はっきりとは思い出せなくなった彼女の顔を出来るだけ思い出す努力をしながら、
私はそのまま主の呼びかけに応じ、部屋の奥へと入っていった。
夏の余韻が一瞬だけ空間を包み込む・・・・・・。
狐さん(藍)以外の登場人物に関して、東方キャラを当てはめようとしても、どうもしっくりとしません。
また、そもそも主要キャラに藍が起用されている理由もつかめません。
「八雲」や「マヨヒガ」など以外にも何らかの意図が文中に隠してあるのだとしたら、それは不親切過ぎではないかな、と思います。
作品の雰囲気が良いだけに、もったいない感じがします。