本を読んでいる友人の隣に座っていても、楽しいことなどひとつもない。時折微妙に変化するパチェの表情を観察していれば楽しいのだが、じっと見てると気が散ると言って怒られてしまう。
「退屈だわ。パチェ」
「そう」
パチェがページをめくる音だけが、図書館の広大な暗闇に溶けていく。耳が痛くなるほど静かだ。
外は豪雨だが、その激しい雨音もここまでは届かない。
「なにか面白いことはないのかしらね。パチェ」
「ないんじゃない?」
あっさり返される。ぐうの音も出ないわ。
しかし暇だ。普段から暇だけど、今日は何時にも増して暇な気がする。
「あー、ひまぁー」
んーと背伸び。こんな日は霊夢の所に遊びにいくのが一番だが、外は雨だ。普通の雨程度なら無理やり傘さして突っ切るのだが、今日は風も凄い。暴風だ。傘なんか差したらあっという間に吹き飛んで、私は流水に晒されて皮膚を焼かれてしまうだろう。
ちっ。空気の読めない風雨だこと。今度天狗のやつをぶん殴ってこよう。腹いせだ。雨は誰がいいかな。
「ひまひまひまひま」
わざと気の散る程度の声の大きさで連呼してみるが、パチェは無反応。ついでに無表情だった。淡々とページをめくっている。
ここで反応のひとつでもしてくれれば、そこから会話にもっていけるのに……。
机に手をおいて、椅子の後ろに重心をかたむけて、きこきこ揺らしてみる。
「パチェ、なんか面白いことないの」
「ないわ」
そればっかりね。パチェ。聞き飽きたわ。そして私も言い飽きたわ。
退屈からくるイライラも合わさって、つい私は苛立った声で皮肉を漏らしてしまった。
「パチェ……あなたが本を愛しているのはよく知っているわ。だけど、友人と一緒にいるときくらい本から目を離してもいいんじゃないの。まったく友達がいのない……」
するとパチェはおそらく今日はじめて本から目を離して私を見た。やけにゆっくりした動作で顔を私に向けて、その紫色の綺麗な瞳でじっと見つめてくる。半分閉じているけど。
その目を見て、冷や汗をかいた。ようやく私はあぁしまったと思った。じぶんが完璧な喧嘩フラグを立ててしまったことに気づいたのだ。
「友達がいがない……ね」
そうパチェがぼそっとつぶやくのを聞いて、私はいよいよ後悔した。
きっとパチェは怒ってる。パチェは感情をあまり表情に出さないので、怒っているかは一見しても分からない。が、そこは長年友人をやってるので経験でわかるのだ。
そもそもパチェは最初からここで本を読んでいた。後から私がやってきて、隣に勝手に座ったのだ。それなのに暇だの相手しろだの文句ばかり言って……、怒るのも当たり前だ。
パチェは怒るとすごく怖いのに。吸血鬼の私でさえうっかり泣いちゃいそうになるくらい怖いのに。今日はつくづく運が悪い。運命を操ることができる私が、そんな言葉を使うのはおかしいけれど。
「たしかにそうかもね。じゃあ、今日は久しぶりに遊びましょうか。友達らしく」
パタンと本を閉じて机において、椅子ごとパチェはこっちを向いた。
「え?」
いつパチェが怒りを露わにしてくるかとビクビクしていた私はその言葉に不意をつかれて、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「さて何をして遊ぼうかしら」
「あ……え? パチェ?」
「なにかしら」
「怒って……ないの?」
「……なんでかしら? 別に怒ってないわ」
「そ、そう。それならいいんだけど」
本気で不思議そうな顔で見てくるパチェに、私はなんでもないと返す。どうやら私の早とちりというか、考えすぎだったみたいだ。
「遊ぶと言ってもレミィとはお茶くらいしかしたことないわね」
「そうね。かと言って今はそう気分じゃないわ」
いつもと違うことがしたい。今日はそんな気分なのだ。
「うーん、久しぶりにゲームとか。チェスやトランプ……レミィ弱いものね」
「よ、弱っ!? そんなの私の能力を使えば誰だっていちころよ。ただ手加減して使わないであげてるのよ!」
「インチキなしだとものすごく弱いものね。レミィは。なにか他の……」
「い、インチキじゃないっ! 実力だ実力!」
私の必死の抗議もパチェにはまったく相手にされず、当のパチェといえば今まで自分が読んでいた本の表紙を見つめている。なにかを考え込んでいるようにも見える。と、おもむろにその本を手に取り私に差し出してきた。
「じゃあこれをやりましょう。レミィ」
「……結局読書?」
「違うわよ」
パチェはその細い人差し指で表紙をトントンと叩いた。
「遊びよ」
◇
「にらめっこ……?」
初めて聞く単語だ。にらめは睨めであろう。となると睨めっこはお互いに睨みあうという意味か。
「この本によれば、合図と共にお互いに睨みあって先に笑ったほうが負けらしいわ」
「笑ったら負けなの? 睨みあいなのに?」
「睨みあうって言っても、変な顔して相手の笑いを誘うのよ。本当の睨みあいじゃないわ」
「ふーん。それにしても初めて聞くわ。そんな遊び」
かくれんぼとかなら昔よくやったものだ。私に見つからないよう必死で隠れる人間相手に、だが。
「もともと人間の子供がやる遊びだからね。私たちには縁がないのも仕方ないわ。だからこそ、この本は興味深くて読んでいて面白かったわ。子供用の文章は少し煩わしかったけど」
どうやらパチェが読んでいた本はこのような遊びが多種にわたって紹介されている児童書だったようだ。あんな真面目な顔でそんなもの読んでいたのかと思うと、……どうとも言えない。
「で、笑ったら負けなのよね」
「そう。えぇっと……『笑うと負けよ。あっぷっぷ』と歌ってからスタートらしいわ」
「あ、あっぷっぷ?」
「あっぷっぷ」
なんと間の抜けたフレーズだろう。この夜の王と七曜の魔女を捕まえてあっぷっぷとは。……まぁいい。
「それじゃ、行くわよ」
パチェが本を閉じて真剣な顔で言う。私も初めての経験を前に、若干ドキドキしながら頷く。変な顔をして相手の笑いを誘うらしいが、イマイチどんな顔していいか分からない。カリスマアップの表情なら毎日練習してるから自信があるのに……。
「笑うと負けよ♪」
「「あっぷっぷ!」」
無事歌い終わり、お互い見つめあう。すでにゲームは始まっているようだ。
とりあえず私は、あっぷっぷの『ぷ』の勢いで頬を膨らませたまま見つめあうことになった。決して面白い顔をしたとは思えないが、初めてにしては上出来だろう。
対してパチェは……なんというか、睨んでる。ものすごく睨んでる。眉間に小さなしわを寄せて、じと目でずっと私を睨んでいるのだ。
なんだかそんな状況では、頬まで膨らませた私はひどく滑稽だった。
あ、あれ? おかしいな。これはお互いの笑いを誘い合う遊びだった筈よね……。なんで私睨まれてるのかしら。
と言うか……パチェ怖い。この表情には見覚えがある。以前にパチェのプリンを勝手に食べてしまった時があって、そのときのパチェの表情に似てる気がする。なにも言わないけど、ただこちらをじっと睨み、恨み、責め立てる静寂の視線……。
お互い笑わず数分間が過ぎ、私は我慢ができなくなってぷはっと口を開いた。
「ぱ、パチェ」
「レミィ。勝負中は喋っちゃいけないのよ」
「そ、そうなの。ごめんなさい。でもねパチェ? このままじゃ勝負つかないわ」
他にも言いたいことはたくさんあったが。
「そうね。どうやらこの遊びは私たちには合わないみたいね。止めましょうか」
「う、うん。人の子供たちはこんな遊びをやって楽しいのかしらね……」
きっと楽しいのだろう。もう少しくらいは。今回のにらめっこは明らかに人選ミスだったのだ。出会いが悪かったというべきか。
おそらく自分はもう一生この遊びの楽しさに気づくことはないだろう。そう思うとなんとなく切なくなった。ちょっとだけ。
パチェはまた本を手にとって、その内容に目を走らせている。
「そうね。あまり運動が絡むものはやりたくないのだけど……少しくらいスリリングな事のほうが楽しいかしら」
「人間の子供がやる遊びで、スリリングもなにもないと思うけど」
やがてパチェの目がひとつのページでとまると、本を閉じる。今日だけで何度も似たような光景を見てる気がする。
「肝試しよ」
「え」
打って変わって随分聞きなれた言葉が出てきた。
「パチェ。肝試しならこの前不死身人間と死ぬほどやりあったわ。死なないけど」
「でもこれくらいしかないわ。私たちが楽しめるスリリングな遊びなんて」
「別にスリルを求める必要はないと思うけど……。と言うか肝試しだって私たちにとっちゃスリリングでもなんでもないでしょう」
暗闇は当然怖くないし、幽霊だってもちろん怖くない。試すにしては私たちの肝は豪胆すぎる。
「レミィ。私はひとつだけ怖いことがあるのよ。と言うか、解明したい謎、と言うべきかしら」
そう言うと急にパチェはわずかに顔に陰りを作って、か細い声で語りだした。
「え、なに……肝試しの前の怖い話? そういうのってあまり怖くなくて逆に白けたりするのよね。……て言うかやるのね。まぁ暇だからいいけど」
「この前お風呂に入った時の話なんだけどね」
パチェはそう言いながら指を指揮棒のように振った。すると辺りのランプの明かりが次々消えて、ひとつ蝋燭の光だけを残した。その光はパチェと私をぼんやり照らしている。
なるほど、完全に怖い話モード突入である。
「貴方は流水が駄目だから馴染みはないでしょうけどね、妖精メイドたちが使ってる共同お風呂。私や小悪魔も使ってるのよ」
そういえばそんな設備もあったな、と私は大型浴室のことを思い出す。たしかそこそこの広さがあり、ここで働く者たちが交代制で使用していると聞く。随分前にメイドたちから要求があって作った物だが、それ以来気にしたことがなかった。
「私の魔法でいつでも熱い湯が張ってるのだけど、その日は遅くまで本を読んでいて、随分遅い時間に入浴することになったわ。朝も近い頃合だったかしらね」
私やフランは就寝時間だ。メイドたちは殆どがまだ夢の中。深夜組のメイドたちは仕事も佳境といったところか。そんな時間帯である。
「脱衣所には誰もいなかったわ。おそらくこの時間帯じゃお風呂に入る子なんて居ないのだと思ったわ。それで服を脱いでお風呂場に入ったのだけど……」
「出た……のか?」
「正確には、『居た』ね。湯船から立ち上る湯気でシルエットしか見えなかったけど、そのとき確実にそこには誰かが『居た』わ。でも次の瞬間にはふわっと湯気は消えて、そこには誰もいなかったわ」
影はあっても姿は無い。なるほど、それらしい話になってきたわね。
「それでね、レミィ……。私はあの日からずっと考えてることがあるのよ」
「何かしら」
「あそこには確かに誰かがいたわ。でも私がお風呂場に入った瞬間消えてなくなってしまった。私は出入り口のすぐそばに居たの。それ以外に出口はないし、たとえ音も無く超々高速で私の隣を抜けて出て行ったとしても気づくわ。でもその気配はなかった」
「……」
「以上の点をふまえて、私はあの影がある人物だと思うのだけど」
「パチェ。なんだかいやな予感がするわ。運命は視ていないけど、視ずとも感じてしまったわ」
なんだか首筋のあたりがゾクゾクするのだ。なんだかろくでもないことになる気がする。よく分からないけど。
「私はあの日以来ずっと考えてるの……あの影は、咲夜だったんじゃないかって」
「さ、くや……?」
少しビックリした。けれど言われてみれば、たしかに、
「私に気づかれずお風呂場から出るなんて、そんな一見無茶な芸当も時止めの能力があれば全然余裕だわ」
「まぁそうだけど。そうなるとこの話は面白くもなんともないわね」
咲夜が一人で湯を楽しんでいたところに、主である私の友人がやってきた。気を利かせて気づかれないように退室したのだろう。咲夜は完全で瀟洒な従者だから。
「本当にそうかしら?」
「なによ。なにか他にあるって言うの?」
パチェはほんの少し笑んで、それから真剣なまなざしで話し出した。
「いわゆるお風呂場というのは、裸の社交場というやつよ」
「え……、あぁ。うん」
急になにを言い出すんだ。
「私だって他人に裸を晒すのは抵抗があるけれど、共同お風呂では仕方ないこと。あまり見られるのが嫌ならタオルで隠すことだって出来るしね」
「うん。それがえーと、なんなの?」
正直大体予想はついてる……と言うか、なんというか。あんまり意地悪ばかり言っちゃ駄目だって慧音が言ってたぞ。
「まぁタオルでも体格までは隠せない……」
「分かった。パチェ。この話はやめましょう」
見て見ぬフリも優しさなのよ。それはきっと大切な優しさだわ。
「時を止めてまで急いで出て行くなんて、そんなに見られたくなかったのかしら。噂によればあんまり人と入りたがらないらしいし……」
「パチェ。お願いだから、その心底楽しそうな笑顔は止めてくれないかしら。今貴方輝いちゃってるわ。好奇心で」
「死ぬのは猫か犬か、というわけね」
「違うから! お互い触れなければ誰も傷つかなくて済むんだから!」
意外と知られていないが、パチェは意地悪い子である。事によっては悪魔である私よりも。パチェが一人でニヤニヤしてる時はろくでもないこと考えてるので近づいてはいけない。今とか。
「さて、冗談はさておき。肝試しに話を戻すわ」
「え!? ……と、唐突ね」
突然パチェはへらっと笑ったかと思うと、
「今までの話はなんの意味もないわ。最近ちょっとあった不思議な話を私なりに推理してみただけ。しかも妄想と紙一重の推理。実際は幽霊だったかもしれないしね」
そう言って苦笑してみせた。
「う、うん。あそこまで話しといてそれはどうなのかしら」
「肝試しとはまったく関係ない話をしてしまったわね。白けさせてしまったかしら」
「いいえ。むしろほっとしたと言うか……。で、肝試しはなにをするの。そろそろ始めましょう」
「そうね、夜も更けてきたようだしね。肝試しの内容は簡単。暗くて怖い紅魔館内を探索するの。どこかで働いてるメイド長を発見したらもう安心。力いっぱい咲夜の胸に飛び込んでゴールよっ」
「全然関係あるじゃんッ、お風呂の話ものすごく効果的な前フリだよ! 的確に肝試しを数十倍にも怖くしてるよッ! て言うかなんなのよその肝試し。咲夜見つけてからが本番じゃんッ。そこからが一番怖いじゃん! 全然ゴールじゃないッ!」
「落ち着いてレミィ。言葉遣いがおかしくなってるわ。いつもの貴方とは思えない」
「……ごめんなさい。私ったら、つい取り乱したわ」
深呼吸を繰り返す。パチェが優しく私の背をなでてくれている。
「それに貴方は勘違いしているわ。咲夜が貴方に抱きつかれたとして怒るわけないじゃない。さっきの話は私の妄想。事実無根よ」
「……」
「さぁ、レミィ行って来て」
「……え? なんで私からなの?」
「だってさっきにらめっこで負けたじゃない」
我が耳を疑った。時間的に言えばそんな前の事でもないのに、なんだか随分久しぶりに聞いた気分だ。にらめっこって。
「えぇッ! あれは引き分けだったじゃない。無効試合だったじゃないッ!」
「レミィ喋ったわよね。あれは立派な反則なのよ」
「そ、そんな! そんなルール聞いてなかったし……て言うかこんな肝試し止めよ止めっ!」
「なぜ? そんなに怖いのかしら。夜の紅魔館を歩くのが。レミィ、貴方は吸血鬼よね?」
「違うわよ、怖いわけないでしょッ。館内を散歩する程度だったらいくらでもやってやるわ」
「じゃあ咲夜かしら? さっきから言ってるでしょう。あれは私の妄想話だって」
「ぐぐっ……」
「自分の従者を怖がるなんて、なんだかとても滑稽ね」
「こ、怖がってない! 怖いだなんて、そんなわけないじゃない。私の従者よ?」
「じゃあ出来るわよね」
「うぅ……ッ」
思わずきゅっとこぶしを握る。頬を伝った汗が、あごから落ちるのを感じる。
なんだろう。これ。もしかして私……背水の陣?
「やめてもいいわ。そんなに暗闇が、あるいは私の嘘話かしら? 怖くて仕方ないなら」
「ぐぅぅぅ……!」
駄目だ。駄目だと分かっていながら……
「や、やってやろうじゃない! このスカーレット・レミリアは何も恐れはしないわ!」
言ってしまった。最後の最後にプライドに負けた。
その時、私は一瞬だがパチェがくすっと笑ったのを見た気がした。その瞳にはどこか悪戯っぽい不思議な光が浮かんでいたように見えた。
そう、皆はあまり知らないけど実はパチェはけっこう意地悪い子で、怒ると凄く怖いのだ。
もしかして、いいえ、そんな、でも、もしかして……、
私の脳裏に睨めっこの時のパチェの顔が浮かび上がる。何も言わず、ただこちらをじっと睨み、恨み、責め立てる冷たいの視線。
パチェ……最初からずっと怒ってたの?
「退屈だわ。パチェ」
「そう」
パチェがページをめくる音だけが、図書館の広大な暗闇に溶けていく。耳が痛くなるほど静かだ。
外は豪雨だが、その激しい雨音もここまでは届かない。
「なにか面白いことはないのかしらね。パチェ」
「ないんじゃない?」
あっさり返される。ぐうの音も出ないわ。
しかし暇だ。普段から暇だけど、今日は何時にも増して暇な気がする。
「あー、ひまぁー」
んーと背伸び。こんな日は霊夢の所に遊びにいくのが一番だが、外は雨だ。普通の雨程度なら無理やり傘さして突っ切るのだが、今日は風も凄い。暴風だ。傘なんか差したらあっという間に吹き飛んで、私は流水に晒されて皮膚を焼かれてしまうだろう。
ちっ。空気の読めない風雨だこと。今度天狗のやつをぶん殴ってこよう。腹いせだ。雨は誰がいいかな。
「ひまひまひまひま」
わざと気の散る程度の声の大きさで連呼してみるが、パチェは無反応。ついでに無表情だった。淡々とページをめくっている。
ここで反応のひとつでもしてくれれば、そこから会話にもっていけるのに……。
机に手をおいて、椅子の後ろに重心をかたむけて、きこきこ揺らしてみる。
「パチェ、なんか面白いことないの」
「ないわ」
そればっかりね。パチェ。聞き飽きたわ。そして私も言い飽きたわ。
退屈からくるイライラも合わさって、つい私は苛立った声で皮肉を漏らしてしまった。
「パチェ……あなたが本を愛しているのはよく知っているわ。だけど、友人と一緒にいるときくらい本から目を離してもいいんじゃないの。まったく友達がいのない……」
するとパチェはおそらく今日はじめて本から目を離して私を見た。やけにゆっくりした動作で顔を私に向けて、その紫色の綺麗な瞳でじっと見つめてくる。半分閉じているけど。
その目を見て、冷や汗をかいた。ようやく私はあぁしまったと思った。じぶんが完璧な喧嘩フラグを立ててしまったことに気づいたのだ。
「友達がいがない……ね」
そうパチェがぼそっとつぶやくのを聞いて、私はいよいよ後悔した。
きっとパチェは怒ってる。パチェは感情をあまり表情に出さないので、怒っているかは一見しても分からない。が、そこは長年友人をやってるので経験でわかるのだ。
そもそもパチェは最初からここで本を読んでいた。後から私がやってきて、隣に勝手に座ったのだ。それなのに暇だの相手しろだの文句ばかり言って……、怒るのも当たり前だ。
パチェは怒るとすごく怖いのに。吸血鬼の私でさえうっかり泣いちゃいそうになるくらい怖いのに。今日はつくづく運が悪い。運命を操ることができる私が、そんな言葉を使うのはおかしいけれど。
「たしかにそうかもね。じゃあ、今日は久しぶりに遊びましょうか。友達らしく」
パタンと本を閉じて机において、椅子ごとパチェはこっちを向いた。
「え?」
いつパチェが怒りを露わにしてくるかとビクビクしていた私はその言葉に不意をつかれて、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「さて何をして遊ぼうかしら」
「あ……え? パチェ?」
「なにかしら」
「怒って……ないの?」
「……なんでかしら? 別に怒ってないわ」
「そ、そう。それならいいんだけど」
本気で不思議そうな顔で見てくるパチェに、私はなんでもないと返す。どうやら私の早とちりというか、考えすぎだったみたいだ。
「遊ぶと言ってもレミィとはお茶くらいしかしたことないわね」
「そうね。かと言って今はそう気分じゃないわ」
いつもと違うことがしたい。今日はそんな気分なのだ。
「うーん、久しぶりにゲームとか。チェスやトランプ……レミィ弱いものね」
「よ、弱っ!? そんなの私の能力を使えば誰だっていちころよ。ただ手加減して使わないであげてるのよ!」
「インチキなしだとものすごく弱いものね。レミィは。なにか他の……」
「い、インチキじゃないっ! 実力だ実力!」
私の必死の抗議もパチェにはまったく相手にされず、当のパチェといえば今まで自分が読んでいた本の表紙を見つめている。なにかを考え込んでいるようにも見える。と、おもむろにその本を手に取り私に差し出してきた。
「じゃあこれをやりましょう。レミィ」
「……結局読書?」
「違うわよ」
パチェはその細い人差し指で表紙をトントンと叩いた。
「遊びよ」
◇
「にらめっこ……?」
初めて聞く単語だ。にらめは睨めであろう。となると睨めっこはお互いに睨みあうという意味か。
「この本によれば、合図と共にお互いに睨みあって先に笑ったほうが負けらしいわ」
「笑ったら負けなの? 睨みあいなのに?」
「睨みあうって言っても、変な顔して相手の笑いを誘うのよ。本当の睨みあいじゃないわ」
「ふーん。それにしても初めて聞くわ。そんな遊び」
かくれんぼとかなら昔よくやったものだ。私に見つからないよう必死で隠れる人間相手に、だが。
「もともと人間の子供がやる遊びだからね。私たちには縁がないのも仕方ないわ。だからこそ、この本は興味深くて読んでいて面白かったわ。子供用の文章は少し煩わしかったけど」
どうやらパチェが読んでいた本はこのような遊びが多種にわたって紹介されている児童書だったようだ。あんな真面目な顔でそんなもの読んでいたのかと思うと、……どうとも言えない。
「で、笑ったら負けなのよね」
「そう。えぇっと……『笑うと負けよ。あっぷっぷ』と歌ってからスタートらしいわ」
「あ、あっぷっぷ?」
「あっぷっぷ」
なんと間の抜けたフレーズだろう。この夜の王と七曜の魔女を捕まえてあっぷっぷとは。……まぁいい。
「それじゃ、行くわよ」
パチェが本を閉じて真剣な顔で言う。私も初めての経験を前に、若干ドキドキしながら頷く。変な顔をして相手の笑いを誘うらしいが、イマイチどんな顔していいか分からない。カリスマアップの表情なら毎日練習してるから自信があるのに……。
「笑うと負けよ♪」
「「あっぷっぷ!」」
無事歌い終わり、お互い見つめあう。すでにゲームは始まっているようだ。
とりあえず私は、あっぷっぷの『ぷ』の勢いで頬を膨らませたまま見つめあうことになった。決して面白い顔をしたとは思えないが、初めてにしては上出来だろう。
対してパチェは……なんというか、睨んでる。ものすごく睨んでる。眉間に小さなしわを寄せて、じと目でずっと私を睨んでいるのだ。
なんだかそんな状況では、頬まで膨らませた私はひどく滑稽だった。
あ、あれ? おかしいな。これはお互いの笑いを誘い合う遊びだった筈よね……。なんで私睨まれてるのかしら。
と言うか……パチェ怖い。この表情には見覚えがある。以前にパチェのプリンを勝手に食べてしまった時があって、そのときのパチェの表情に似てる気がする。なにも言わないけど、ただこちらをじっと睨み、恨み、責め立てる静寂の視線……。
お互い笑わず数分間が過ぎ、私は我慢ができなくなってぷはっと口を開いた。
「ぱ、パチェ」
「レミィ。勝負中は喋っちゃいけないのよ」
「そ、そうなの。ごめんなさい。でもねパチェ? このままじゃ勝負つかないわ」
他にも言いたいことはたくさんあったが。
「そうね。どうやらこの遊びは私たちには合わないみたいね。止めましょうか」
「う、うん。人の子供たちはこんな遊びをやって楽しいのかしらね……」
きっと楽しいのだろう。もう少しくらいは。今回のにらめっこは明らかに人選ミスだったのだ。出会いが悪かったというべきか。
おそらく自分はもう一生この遊びの楽しさに気づくことはないだろう。そう思うとなんとなく切なくなった。ちょっとだけ。
パチェはまた本を手にとって、その内容に目を走らせている。
「そうね。あまり運動が絡むものはやりたくないのだけど……少しくらいスリリングな事のほうが楽しいかしら」
「人間の子供がやる遊びで、スリリングもなにもないと思うけど」
やがてパチェの目がひとつのページでとまると、本を閉じる。今日だけで何度も似たような光景を見てる気がする。
「肝試しよ」
「え」
打って変わって随分聞きなれた言葉が出てきた。
「パチェ。肝試しならこの前不死身人間と死ぬほどやりあったわ。死なないけど」
「でもこれくらいしかないわ。私たちが楽しめるスリリングな遊びなんて」
「別にスリルを求める必要はないと思うけど……。と言うか肝試しだって私たちにとっちゃスリリングでもなんでもないでしょう」
暗闇は当然怖くないし、幽霊だってもちろん怖くない。試すにしては私たちの肝は豪胆すぎる。
「レミィ。私はひとつだけ怖いことがあるのよ。と言うか、解明したい謎、と言うべきかしら」
そう言うと急にパチェはわずかに顔に陰りを作って、か細い声で語りだした。
「え、なに……肝試しの前の怖い話? そういうのってあまり怖くなくて逆に白けたりするのよね。……て言うかやるのね。まぁ暇だからいいけど」
「この前お風呂に入った時の話なんだけどね」
パチェはそう言いながら指を指揮棒のように振った。すると辺りのランプの明かりが次々消えて、ひとつ蝋燭の光だけを残した。その光はパチェと私をぼんやり照らしている。
なるほど、完全に怖い話モード突入である。
「貴方は流水が駄目だから馴染みはないでしょうけどね、妖精メイドたちが使ってる共同お風呂。私や小悪魔も使ってるのよ」
そういえばそんな設備もあったな、と私は大型浴室のことを思い出す。たしかそこそこの広さがあり、ここで働く者たちが交代制で使用していると聞く。随分前にメイドたちから要求があって作った物だが、それ以来気にしたことがなかった。
「私の魔法でいつでも熱い湯が張ってるのだけど、その日は遅くまで本を読んでいて、随分遅い時間に入浴することになったわ。朝も近い頃合だったかしらね」
私やフランは就寝時間だ。メイドたちは殆どがまだ夢の中。深夜組のメイドたちは仕事も佳境といったところか。そんな時間帯である。
「脱衣所には誰もいなかったわ。おそらくこの時間帯じゃお風呂に入る子なんて居ないのだと思ったわ。それで服を脱いでお風呂場に入ったのだけど……」
「出た……のか?」
「正確には、『居た』ね。湯船から立ち上る湯気でシルエットしか見えなかったけど、そのとき確実にそこには誰かが『居た』わ。でも次の瞬間にはふわっと湯気は消えて、そこには誰もいなかったわ」
影はあっても姿は無い。なるほど、それらしい話になってきたわね。
「それでね、レミィ……。私はあの日からずっと考えてることがあるのよ」
「何かしら」
「あそこには確かに誰かがいたわ。でも私がお風呂場に入った瞬間消えてなくなってしまった。私は出入り口のすぐそばに居たの。それ以外に出口はないし、たとえ音も無く超々高速で私の隣を抜けて出て行ったとしても気づくわ。でもその気配はなかった」
「……」
「以上の点をふまえて、私はあの影がある人物だと思うのだけど」
「パチェ。なんだかいやな予感がするわ。運命は視ていないけど、視ずとも感じてしまったわ」
なんだか首筋のあたりがゾクゾクするのだ。なんだかろくでもないことになる気がする。よく分からないけど。
「私はあの日以来ずっと考えてるの……あの影は、咲夜だったんじゃないかって」
「さ、くや……?」
少しビックリした。けれど言われてみれば、たしかに、
「私に気づかれずお風呂場から出るなんて、そんな一見無茶な芸当も時止めの能力があれば全然余裕だわ」
「まぁそうだけど。そうなるとこの話は面白くもなんともないわね」
咲夜が一人で湯を楽しんでいたところに、主である私の友人がやってきた。気を利かせて気づかれないように退室したのだろう。咲夜は完全で瀟洒な従者だから。
「本当にそうかしら?」
「なによ。なにか他にあるって言うの?」
パチェはほんの少し笑んで、それから真剣なまなざしで話し出した。
「いわゆるお風呂場というのは、裸の社交場というやつよ」
「え……、あぁ。うん」
急になにを言い出すんだ。
「私だって他人に裸を晒すのは抵抗があるけれど、共同お風呂では仕方ないこと。あまり見られるのが嫌ならタオルで隠すことだって出来るしね」
「うん。それがえーと、なんなの?」
正直大体予想はついてる……と言うか、なんというか。あんまり意地悪ばかり言っちゃ駄目だって慧音が言ってたぞ。
「まぁタオルでも体格までは隠せない……」
「分かった。パチェ。この話はやめましょう」
見て見ぬフリも優しさなのよ。それはきっと大切な優しさだわ。
「時を止めてまで急いで出て行くなんて、そんなに見られたくなかったのかしら。噂によればあんまり人と入りたがらないらしいし……」
「パチェ。お願いだから、その心底楽しそうな笑顔は止めてくれないかしら。今貴方輝いちゃってるわ。好奇心で」
「死ぬのは猫か犬か、というわけね」
「違うから! お互い触れなければ誰も傷つかなくて済むんだから!」
意外と知られていないが、パチェは意地悪い子である。事によっては悪魔である私よりも。パチェが一人でニヤニヤしてる時はろくでもないこと考えてるので近づいてはいけない。今とか。
「さて、冗談はさておき。肝試しに話を戻すわ」
「え!? ……と、唐突ね」
突然パチェはへらっと笑ったかと思うと、
「今までの話はなんの意味もないわ。最近ちょっとあった不思議な話を私なりに推理してみただけ。しかも妄想と紙一重の推理。実際は幽霊だったかもしれないしね」
そう言って苦笑してみせた。
「う、うん。あそこまで話しといてそれはどうなのかしら」
「肝試しとはまったく関係ない話をしてしまったわね。白けさせてしまったかしら」
「いいえ。むしろほっとしたと言うか……。で、肝試しはなにをするの。そろそろ始めましょう」
「そうね、夜も更けてきたようだしね。肝試しの内容は簡単。暗くて怖い紅魔館内を探索するの。どこかで働いてるメイド長を発見したらもう安心。力いっぱい咲夜の胸に飛び込んでゴールよっ」
「全然関係あるじゃんッ、お風呂の話ものすごく効果的な前フリだよ! 的確に肝試しを数十倍にも怖くしてるよッ! て言うかなんなのよその肝試し。咲夜見つけてからが本番じゃんッ。そこからが一番怖いじゃん! 全然ゴールじゃないッ!」
「落ち着いてレミィ。言葉遣いがおかしくなってるわ。いつもの貴方とは思えない」
「……ごめんなさい。私ったら、つい取り乱したわ」
深呼吸を繰り返す。パチェが優しく私の背をなでてくれている。
「それに貴方は勘違いしているわ。咲夜が貴方に抱きつかれたとして怒るわけないじゃない。さっきの話は私の妄想。事実無根よ」
「……」
「さぁ、レミィ行って来て」
「……え? なんで私からなの?」
「だってさっきにらめっこで負けたじゃない」
我が耳を疑った。時間的に言えばそんな前の事でもないのに、なんだか随分久しぶりに聞いた気分だ。にらめっこって。
「えぇッ! あれは引き分けだったじゃない。無効試合だったじゃないッ!」
「レミィ喋ったわよね。あれは立派な反則なのよ」
「そ、そんな! そんなルール聞いてなかったし……て言うかこんな肝試し止めよ止めっ!」
「なぜ? そんなに怖いのかしら。夜の紅魔館を歩くのが。レミィ、貴方は吸血鬼よね?」
「違うわよ、怖いわけないでしょッ。館内を散歩する程度だったらいくらでもやってやるわ」
「じゃあ咲夜かしら? さっきから言ってるでしょう。あれは私の妄想話だって」
「ぐぐっ……」
「自分の従者を怖がるなんて、なんだかとても滑稽ね」
「こ、怖がってない! 怖いだなんて、そんなわけないじゃない。私の従者よ?」
「じゃあ出来るわよね」
「うぅ……ッ」
思わずきゅっとこぶしを握る。頬を伝った汗が、あごから落ちるのを感じる。
なんだろう。これ。もしかして私……背水の陣?
「やめてもいいわ。そんなに暗闇が、あるいは私の嘘話かしら? 怖くて仕方ないなら」
「ぐぅぅぅ……!」
駄目だ。駄目だと分かっていながら……
「や、やってやろうじゃない! このスカーレット・レミリアは何も恐れはしないわ!」
言ってしまった。最後の最後にプライドに負けた。
その時、私は一瞬だがパチェがくすっと笑ったのを見た気がした。その瞳にはどこか悪戯っぽい不思議な光が浮かんでいたように見えた。
そう、皆はあまり知らないけど実はパチェはけっこう意地悪い子で、怒ると凄く怖いのだ。
もしかして、いいえ、そんな、でも、もしかして……、
私の脳裏に睨めっこの時のパチェの顔が浮かび上がる。何も言わず、ただこちらをじっと睨み、恨み、責め立てる冷たいの視線。
パチェ……最初からずっと怒ってたの?
レミリアとパチェが無事な状態で。(笑)