Coolier - 新生・東方創想話

ホーライヒューマン、インディペンデンス。

2008/02/21 19:38:49
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 / prologue /


「はぁ、はぁ……。ぐッ、……はぁ」

 人間としての生など、とうの昔に失ったはずなのに。

 一日経てば旅の人。
 一年経てば馴染み顔。
 十年経てば病の気。
 行き着く果ては祟り神。

 ――もう、慣れてしまったはずだ。

 物の怪に化け物と蔑まれ、化け物に悪魔と罵られる。私はこんなにも人の形をしているのに、こんなにも人から遠い。
 嗚呼、私を私たりうる物は、もう何一つ無い。

 記憶? 経験? 知識?

「忘れよう……」

 不安定な器に盛られたそれらは、終に開いた穴からさらさらと流れ逝く。
 私は空っぽうだ。
 涙を流す、阿呆な容れ物だ。

 哀れな人形の四肢は血塗れで、最早歩く事さえも儘ならない。
 そこまでしたのは、かつては優しくしてくれた人。

「忘れろ、よッ……!」

 懇願するように嘆く。
 そんな事で、僅かに残った命を使い果たす。

 地に臥そうとする寸前、最後に見上げたものは、まるで私のように歪な三日月(さかずき)。
 その、呪いのような月光に包まれて――――








 / Chapter 1 /


 最初に見たものは、仄暗い天井。
 その上を、木造の梁が何食わぬ顔で視界を縦断していた。
(屋内……?)
 気を失う寸前の記憶は曖昧だが、全身に酷い傷を負っていた事は覚えている。つまり、誰かに介抱してもらったという事だろう。見れば、胸元に薄い毛布が被せられていた。
「――ッ」
 体を起こそうとして、代わりに声にならない悲鳴を上げる。全身に走る激痛に顔が歪んだ。これでは首を動かすことすら困難だろう。
 しかし痛みのおかげか、徐々に意識がはっきりとしてくるのを感じていた。
(嗚呼……。そうか)
 機能を取り戻しつつある頭で、ぼんやりと思い出す。
 私は、里から迫害に遭ったのだ。
 親愛の眼差しが不気味な視線に取って代わり、会話すら余所余所しくなってきた頃にさっさと暇をすべきだった。
 気の緩み、というやつだろう。もしくは甘えか。気が付けば視界は竹槍、刀、鉈、鍬、斧で埋め尽くされていて。全ての切っ先が私に向き、次の瞬間それら全てが私に襲い掛かった。命からがら(というのも可笑しな話だ)逃げ出したは良いが、引き摺る体は満身創痍、道中で力尽きたのだろう。
 まぁ二十余年、全く成長せず老いもしない不気味な女だ。妖と同じ目で見られても無理もない。
 私はあの里の人たちを恨んではいないが、逆に私は今にして尚、恐れられているに違いない。恐怖がある一線を越えると、憎しみへ、そして殺意へと変わる。恐怖という感情は覚えなくなって久しいが、そういうものなのだろう。最早これは一つの統計である。
「気が付いたか」
 ふと、視界に影が差す。
「――!」
 その突然の出現よりも、声も出せない事に驚愕した。
「無理をしなくて良い。外傷は無かったが、相当疲労している様子だった。倒れているお前を介抱したのが四日前、それからお前はずっと寝たきりだったんだぞ。事情はこの際、問う事はしない。今はゆっくりと休め」
 視線で返事をしようと試みるが、その影は言うだけ言って傍を離れてしまったようだ。
 さらに別の影が近寄り、数秒後、額に心地よく冷たい感触が染み渡る。私は癒されるがままに目を閉じた。
「少し熱があるようだけど他は特に問題無いわ。極度に体力を消耗していただけの様だから、このまま休ませてあげれば大丈夫」
「ああ、かたじけない。世話になるな、八意殿」
「その分対価を頂いているもの。礼には及ばないわよ」
 『八意』と呼ばれた影はそう言うと、それじゃ、と短く会釈をして頭上から退散する。ぎしぎしと床のしなる音が徐々に遠のき、部屋から気配が消えた。村医者のような者だろう。
 私は随分と世話を掛けてもらっている様だ。
 とてもありがたい事だったが、この待遇が破格であるその分だけ罪悪感が私の心を苛む。
 これまでにも、動けなくなっていた所を見ず知らずの他人に助けられた事は幾度となく有った。人間とは美しく、しかし醜い。数え切れぬほど感謝し、そして数えたくもない程に拒絶された。
 もうここ百年で私の心は疲弊し、既に期待する事を止めていた。
 だから長くとも二十年後には、この恩人達によって迫害されるであろう。さも無くとも不幸に巻き込んでしまうのは自明であった。

 体が癒えたら早々に立ち去ろう。
 そう決めた所で、再び意識を手放した。


「んー――、ふぅ!」
 次の日の目覚めは極めて快調であった。がば、と布団を跳ね除けて体を起こし、思いっきり伸びをする。
 この調子ならば、今日にでもここを発てそうだ。
(こんなに清々しい朝はもう二度と無いだろうな)
 ぼさぼさの髪を手で梳きながらそんな感傷に浸っていると、部屋の障子が開き、溢れんばかりの陽光が差し込んだ。
 眩しさに思わず目を閉じる。
「もう動けるのか?」
 驚いたような声。
「ごめん、戸を閉めてくれないと眩しくて、その、目が開けられない」
「……。大したやつだ」
 呆れたように言いながら、声の主は早々に日光を退散させてくれたようだ。スタン、という音が短く響く。
 光源が遮られた事を確認しながら恐る恐る目を開けると、そこには長身の流れるような髪をした綺麗な女が立っていた。
「体の具合はもう良いのか?」
「おかげ様で。行き倒れてた所を助けてもらったんだね、ありがとう」
「……あぁ」
 女の顔が曇る。
 何か、拙い事でも言ったのだろうか。少しの間の後、女は何事も無かったかのように顔を崩した。
「私は上白沢慧音と云う。お前は?」
「藤原。名は忘れてしまったよ」
 嘘は言っていない。何かややこしい名があった気はするが、殆ど呼ばれた事は無かった。唯一覚えているのは、父の名だけである。
「名が無いのは不便だろう」
「別に。もう慣れたよ」
 素っ気無く言う。
「それに藤原と云えば貴族の系だろう、そんな娘が一人で――」
「ははっ」
「何がおかしいんだ?」
「今日び、藤原なんてごろごろしてるよ。その“藤原貴族”が統治してた土地に住んでるってだけで皆、藤原と名乗る。随分と前時代的な事を言うんだな」
「む――」
 渋い顔で唸る慧音。
 どうやら、本当に時代の知識が遅れているらしい。こういった山奥では良くある事であった。
「まぁ、気になさんなって。私も色々旅してきたけど、似たような問答は毎回のようにやるよ」
「覚えておくよ。それより本題だ」
 どうやら、今までのやり取りは全て前置きらしかった。社交辞令にしては随分と捻くれたものである。
 胸中で恩人にケチをつけていると、慧音が傍まで来て正面に座り込んだ。先ほどとは違って真剣な目つきでこちらを見ている。その姿勢に、私も軽口を叩くような態度を撤回した。
「藤原。お前は何故あんな所に居た?」
「ん、事情は問わないんじゃなかったの?」
「その事情が変わったんだ」
 いつの間にか、慧音の視線の質がさらに変わっている事に気が付いた。
 逃がしはしない、と目が言っている。
 無表情を気取ってはいるが内心は焦っていた。まさか、もう私の秘密を知られてしまったのだろうか。自分の体の特異性を知られれば只では済まない。血生臭い迫害の記憶が脳裏を過った。
「今朝一番に聞いた話だ。ここからは少し距離があるんだが――隣里の住民が、女子供を残して全員殺されていた」
「――え?」
「何があったのかと生き残りの者達に聞いても、震えるばかりで『祟り神』としか言わない。そして、お前はこの里と隣里を繋ぐ山道に倒れていた。血塗れで、だ。最初はお前は隣里から逃げてきたのだと思った。しかしお前は倒れていただけで全くの無傷だった。――あの血は誰の血だ?」
 言葉が、詰まった。
 場を静寂が支配する。
 私はと言えば、呆気に取られて思考が停止していた。「お前のその不気味な体は何だ?」と言われるものとばかり構えていたから、完全な不意打ちだった。
 無傷で倒れていたという事は、その時には既に“治って”しまっていたのだろう。着物に付着した血は私のものであっただろうが、普通の人間は私のように開いた傷がすぐに塞がるような事はない。結果、有らぬ疑いを掛けられたのだろうと思ったが、すぐにそれを振り払う。
(殺されていただって?)
 訳が解らなかった。第一、何故彼らが殺されなければならないのだ。むしろ殺されたのは私のほうで、実際、何度致死的な傷を負ったか解らない。きっと今頃、彼らは私を殺そうと血眼で捜しているに違いないのだ。
 そこまで考えて、一つの疑問が浮かんだ。
 ――“死なないだけ”の小娘が、どうやってここまで逃げ延びた?
 恐ろしい程の寒気が背筋を通り抜けた。
 慌ててその可能性を否定する。いくら小娘とはいえ、全力で走れば逃げられない事はないだろう。
 ――あんなにぼろぼろに為っていたのに?
 確かに、歩くことすら精一杯なほどに疲れていた。それは長い距離を全力で走った事による疲労だと思っていた。
 ――もし、そうではないとしたら?
(そんなはずは無い!)
 半ば意固地になって、しかし驚くほどの整合性を持つ推測を否定する。
(思い出せ、思い出せ――)
 仮に事実だとすれば、全く身に覚えのない事である。自分が記憶している事こそ正しいのだし、つまりはそれこそが事実である。必死に、痛々しい記憶を頭の奥から無理矢理引き摺り出す。
 いつものように小屋で寝ていると、里の者たちに寝込みを襲われた。
 いきなり、左足を砕かれ、悲鳴を上げた。
 次に、右腕を切断され、絶叫した。
 そして、そして――

 ――鉈の背で目前の“かつて恩人”を力いっぱい叩き割った。

 体に深々と刺さった刀で以って、野菜を分けてくれた小父さんの首を落とした。
 頭を砕いた斧を手に取り、水汲み場で会う気さくな青年を両断した。
 胸に突き刺さった竹槍を抜き、先月子供が生まれたらしい里の長に突き立てた。

 死んだ。殺した。死んだ。殺した。殺した。死んだ。殺した。殺した。殺した。死んだ。殺した。
 殺した――――――――!!

「厭ああああああああああああ―――!!」

 その無意識の咆哮が合図だとでも言うように。
 頭の中でブツリ、と何かが切れたような音がして、
 私は壊れた。


  *  *  *


 藤原と名乗る少女が気を失って静まる頃には、正午を疾うに回っていた。
 今、彼女はまるで幸せな夢を見るかのような寝顔を晒している。暢気なものだ。

 私が問い詰めると、彼女は突如狂ったように絶叫し、泣いて喚いて暴れだした。手が付けられないので沈静作用の有る薬草を捻じ込むも、一向に効果が表れる気配が無い。結局力技で気絶させなければならなかった。
 だが、彼女は外見からは想像出来ない程の体力で結局数時間も暴れ続けたのだ。何度頚椎に、鳩尾に、決定的な一打をくれてやったかはもう解らない。常人ならば何度気を失っている事だろう。彼女が力尽きた時も私の打撃に拠るものではなくただ単に体力を使い果たしただけ、といった感じだった。
 こいつは一体何者なのだ。
 十中八九、妖怪の類だろうが、それにしては人間味が過ぎる。
 隣里の惨劇は彼女の手に拠るものと見て良いだろう。しかし彼女の慟哭を聞く限りは、妖怪だとは思えなかった。妖怪は人を襲うが、それを嘆いたりはしない。それは良く知っている。だが彼女は泣いていた。彼女の悲痛な叫びは、紛れも無く人間のものであったのだ。あれが佯狂であるというのなら、私の目玉をくれてやっても良い。それほどの真実味が感じられた。

 ――歴史を“食う”しか有るまい。

 幾ら不幸な事故でも、幾ら悲しい惨劇でも、人間の歴史を濫りに乱してはならない。
 これが、妖怪である私の力を自覚した上で自身に課した、人間と供にある為のルールである。
 しかし、今一度はそれを撤回するしかないようだ。
 惨劇の歴史を食らえばそれらは全て私の中に取り込まれ、無かった事になる。つまり、少なくともこの不可解な少女の謎と惨劇の真相は明らかになるだろう。歴史を食らっても事実が変わる訳では無いので隣里の人間の命は戻らない。だが、悲しみの記憶は人々から消え歴史に残る事はない。それが無かった事になるという事だ。
 人間の尊厳というものは死して尚無くなる事は無いと思っているから、そういった事は非常に憚られた。だがもし、この少女が危険な存在であるならばこの里の人間の為にも放置する訳にいかず、また彼女が救うべき人間であるならば放ってはおけない。私は、まだ生きているこの人間達を救うことができる。
 結局、人間、人間、人間か。
 つくづく私はお人間(ひと)好しである。
 自嘲気味に笑みながら目を閉じると、永く眠りに就いていた自分の中の『白沢』を揺さぶり起こした。

 歴史を、食らう。
 …………。
 ……。

 瞬間、強烈な眩暈と吐き気を催し胃の内容物を全て吐き出した。とても立ってはいられない。
(――何だ、これは)
 地面に手を着き、なんとか平衡感覚を取り戻す。
 どうやら、この惨劇は私にとっては少々荷が重かったようだ。歴史を食うとき、私はそれを理解し反芻する。その歴史に込められた想いも然り。恐ろしい程の強き想いは、私の一時的な感情にまで影響するに留まらず、時に牙を剥く。尤も、ここまでのものは初めてだった。
(これは、あいつか!)
 藤原の精神状態は、並の人間のものでは無かった。まるで神々の悲愴と、奈落の底よりも深い絶望。それが人間の肉体に宿る不安定さ。頭の奥は既に麻痺していて只、無機質に目の前の人間を次々と殺害していく。
 惨劇は彼女の手に拠るものだったが、先に襲いかかったのは里の人間のほうであった。『祟り神』だと里の人間が言う。刺しても、斬っても、割っても少女は死なない。切断されたかと思われた腕はいつの間にか戻っており、淡々と里の人間を捌いて行く。首が飛ぼうとも、腸をぶち撒けようとも、直ぐに元に戻り、とても慣れた手つきで人間を肉片に変えて行く。
 不老不死の少女は涙しているが、顔に一切の感情の色は無かった。
 何も感じていないのではない。悲しみが、絶望が過ぎて表情にする事ができないのだ。
 こんな顔をする人間を、私は見たことが無い。

 ふらふらに為りながらも、なんとか歴史を食らい尽くす。ここまで胃もたれを起こす歴史は始めてだった。
 矢張りあれは佯狂などでは無かった。
 そして、この少女――藤原を、救ってやりたい。強くそう想った。




 / Chapter 2 /


 藤原は翌日の朝まで眠り続けた。
 覚めたときには昨日暴れた事などすっかりと忘れてくれていたようで(歴史は上手く消化されたようだ)むしろ、身の覚えのない打ち身や筋肉痛をえらく不審がっていた。「あれほど疲労していたんだ、数日で完治するわけが無かろう」と適当にはぐらかす。
 少々手荒過ぎたかと悔やんだが、消化の悪い物を食わされる破目になったのでお相子という事にしておこう。聞けば今日にでも此処を発とうとしていたようで、引き止める為の良い理由になった。
 先程から火を通していた朝餉の粥を、二つの椀に装う。片方を藤原に渡し、卓を挟んで対面に座り込んだ。
「とにかく、完治するまではゆっくりとして行け。その間にでも、後の身の振りを考えればいいだろう」
「身の振り?」
「行く当ても無いのだろう? このままこの里に住んでもらっても、こっちとしては一向に困らないぞ」
「……」
 藤原が考えるように黙り込む。恐らく、自らの特異体質の事を気にしているのだろう。
 垣間見た歴史から解ったが、信じられない事に彼女は不老不死だ。数十年も成長しない子供など、殆どの人間は不気味がるだろう。これまでに数え切れない程の憂き目に遭っていた事は、言うまでも無かった。成長せず、老いもしない。この憂鬱は、人間の姿を持ち人間と供に在ろうとする妖怪――つまり私だ――と共通するものだ。尤も私は不死ではなく、普通の人間とは比べ物にならない程の長寿であるだけなのだが。
 藤原と私では決定的に違うものがある。それは、人間を傷つけずに済む能力の有無だ。私も幾度と無く迫害の目に遭ったが、普通の人間が武器を持った程度ではどうやっても私は殺せないし、空も飛べるものだから逃げる事も容易い。人間に裏切られても“ほんの少しの”落胆で済んでいたのだ。だが彼女の場合はどうか。彼女は唯、不老不死である“だけ”なのだ。襲い来る人間を傷付けず制する術も無ければ、逃げる術も持たない。また、下手を打てば何百年と幽閉されかねない。力を持たないが故に、向かってくる者を確実に殺さざるを得ないのだ。これが彼女の絶望である。
 殺人行為は快楽者でもない限り、自らの命を削る事に等しい。唯一無二の存在、個人の生命を自らの手で終わらせる事の重み。罪悪感。重ねれば重ねるほど、気が触れてしまうのは当然の結果である。並の人間に耐えられるものではない。そして、彼女の精神はもう既に限界以上まで磨り減っているのだろう。殺人の記憶は無意識の内に封印されているが、一度蓋を開ければ昨日の通り簡単に壊れてしまう。正に砂上の楼閣。何度死んでも死なないこの少女は、こんなにも儚い。
 だから、同じ長寿の憂鬱を打ち明ける事すらも憚られた。私では彼女の絶望を防ぐことは出来ても、取り除く事は叶わない。彼女自身が、絶望の中で光を掴み取り、絶望を終わらせる必要がある。
「――音、慧音?」
 ふと、藤原に呼ばれている事に気が付く。最近になって解った事だが、どうやら私は考え事をすると周りが見えなくなる達らしい。
 見れば、藤原の持つ椀は空になっていた。
「あぁすまん。お代わりならまだ鍋にあるぞ」
「いや、もう既に無いよ。三杯目だ」
「……。本当に大した奴だな」
「図々しいと、よく言われるよ。それよりさっきの話だけど」
「む、この里に住む気になったか」
「完治するまで考えさせてもらうよ」
 ごっそさん、と短く言うと藤原は椀を持って流し場の方へ行ってしまった。横着の早い奴だ。
 私はと言えば、すっかりと冷えてしまった粥を口に流し込みながら、藤原の背中をぼんやりと見つめていた。




 結局、藤原に何ら具体的な事をしてやれずに一週間が経った。
 すっかり完治しているにも関わらず、彼女は出て行くような素振りを見せるどころか家事や里の仕事を率先して手伝ってくれていた。一先ず、この里に居付いてくれる事にしたのだろうか、喜ばしい事である。
 だが、それは彼女にとっての本当の救済ではなく唯の止まり木に過ぎない。全く、妖怪だというのになんと無力な事か。そうした事をこの一週間、悶々と悩み続けるも有効な解は見つける事ができなかった。
(だが、出口の無い絶望なんて無い)
 今の私には、そう信じる事で精一杯だった。

 今宵は満月。私の内に眠る妖が全て発現する刻。
 私は完全なる妖怪白沢となり、魔性の夜を駈ける。
 ここの所、隣里の惨劇を除いても猟奇的な事件が多い。十中八九、里の周辺に巣食う残虐な猛獣や妖怪の手に拠るものだろう。そういった、里の人間に対して極めて危険な存在を排除する事が、妖怪である自分を人里に住まわせてくれる条件のうちの一つだった。しかし先月は史書の整理に忙殺されていたため、里の周辺警備に掛ける時間が取れなかったのだ。それで奴らが幅を利かせてきているのだろう。
 今夜は久々に激しくなりそうだ。奴らもまた満月の夜には力を帯びて活発になるのだが、不足はない。妖怪としての闘争本能が歓喜する。
「待っていろ、人に害為す妖怪ども」
 つまり、藤原に対する無力感で溜まった鬱憤を晴らすにはもってこいの夜だった。


  *  *  *


 慧音が外出した事を見計らって、身支度を整える。
 書置きくらいはした方が良いだろうか。と考え、紙も筆も、字の教養すらも無い事に気付いて諦めた。
 それにしても、予定よりも大分長いこと世話になってしまった。というのも慧音が四六時中付き纏うものだから、中々抜け出すタイミングが無かっただけなのだが。何故だか彼女は、素性も知れない私に必要以上に優しくしてくれている。ここまでの待遇は長く生きてきた中でも初めてだったから、むず痒さを覚えたくらいだ。
 ずっとここに居たい。
 そんな甘い考えが浮かび、一瞬で振り払う。慧音が優しくしてくれればその分だけ、慧音を不幸に巻き込む訳には行かない。恩を仇で返すのはもう懲り懲りなのだ。出て行くと決めたならば、早いほうが良いだろう。
(この里の行く先に幸あれ)
 二週間弱もの間、世話になった家屋を前に、深く祈る。
「よし、行くか」
 自分に言い聞かせるように、束の間の安息に別れを告げて歩き出す。
 見上げると、妖しい光を帯びた満月が紅く光っていた。


 一時間程歩いただろうか。
 月光の照らす山道は思いの他歩き易かったが、余り良い気分ではない。何より、月が嫌いだった。月明かりでも無ければ夜道など歩けたものではないのだから好き嫌いを論じる以前にどうしようも無いのだが、生理的嫌悪と云うものもまたどうしようも無いのである。
 なにせ、月には“あいつ”が居る。
 父親に恥をかかせ、私を薬でこんな体にした(強奪したものだから、逆恨みなのだけれど)あいつ。名は――確か、輝夜と云ったか。暫く口にしないと、怨敵の名すら忘れてしまう。むしろ名前よりも未だ目に焼きついて離れないのは、人形のような色白顔。あんな置き土産をして行くくらいだから、今ものうのうと暮らしている事だろう。それを思うと、月を鉈で叩き割ってやりたくなる。さぞ、景気の良い音がするだろう。
 千年もの間、輝夜を憎み続けた。父は言っていた。生きる事とは、想う事なのだと。
 とどのつまり私は、二重の意味で輝夜に生かされているという事だ。否、生かされているのではない、死なせずに置かれているといったほうが正しい。これではまるで呪いのようだ。
 万年も生きれば、いつか会う事が叶うのだろうか。その時は――
「阿呆らし」
 やめた。
 今更捕まらぬ輝夜を捕まえた時の話など、皮算用もいい所だ。それに、その面を歪ませたところで父の名誉が晴れるわけでも、この呪いが解けるわけでもない。最早過ぎた事なのである。或いは、呪いは解けるのかもしれないが。対象を失った恨みは、最早虚しいだけである。
 はぁ、と溜め息をつくと足元の手軽な小石を拾い上げる。ごつごつしていて、痛そうな石だ。それを確りと握り締め、
(輝夜の阿呆、輝夜の阿呆、輝夜の阿呆、輝夜の阿呆、輝夜の阿呆――)
 精一杯の想いを小石に封じ込めると、正面で爛々と輝く月へめがけ思いっきり振りかぶった。
 トドメに、月まで届け、と願を掛ける。
 勢い良く軌道に乗った弾頭はゆったりと、満月に吸い込まれるように消えていった。
 今はそれで十分だった。
『グルルルルゥ……』
 十分なのに。
「げ」
 気が付くと、私は猛獣だかよく解らないもの達の群れに囲まれていた。熊だろうか、それにしては口が大きい。爪は鋭く、眼が月光を反射して赤く光っている。それら口からは例外なく下品な涎が滴り、正に「ご馳走だ」と言わんばかりである。
 私は、数秒後には晩餐になってしまうのだろう。
 獣の類には、囲まれてしまうともうお手上げだった。が、きちんと殺してくれるぶん、敵意を持った人間に囲まれるよりはいくらばかりかマシなのだ。細切れにされて骨の髄まで屍を食らわれたとしても、きちんとした肉体を保ったまま復活する事ができる。着物はぼろぼろになってしまうのだが。慧音に拝借したものをそのまま着てきていたので、その点だけが悔やまれた。
(今回の人生は悪くなかったな)
 他人事のように現状を諦めて、今生を思い返す。余裕のある時は、こうして意識して『走馬灯』するのが最近の慣習だった。
 短くはあったが、上白沢慧音という人物に出会うことができたのは、向こう千年は忘れない程の思い出になろう。それほどに優しく、温かかった。名残を惜しむのは今生限りにしようと思い、今のうちに精一杯惜しんでおく。
 腹に牙が突き刺さり、肉がえぐられた。痛みには慣れている。見るに耐えないので、目を閉じた。
 そら、もう直ぐ、意識が冥くなって。
 考える事すらできなくなって。
 さようなら、

「藤原!」

 聞こえてはいけないはずの声に、目を見開いた。
 直後、まさに私を喰わんとしていた猛獣に剣のようなものが突き刺さる。その剣は淡い光を帯びており、場違いながらも綺麗だと思った。周りを見れば、囲んでいた猛獣全てがその不思議な剣に射止められている。腹に突き刺さる牙から力が抜け、私の体は地面に横たわった。
「ゲホッ!」
 その衝撃に、血混じりの咳を吐く。
「もう大丈夫だ、確りしろ」
 声の主が私を抱かかえるのが解った。介抱されるがままに力なくその腕の中にうな垂れる。
「慧、音……?」
 なんとかして顔を上げると、そこには角が生え禍々しい妖気を全身から放つ、しかし紛れも無い上白沢慧音が居た。
「そうだ」
「はは、夢――みたいだ」
「夢じゃないぞ」
「角、かっこいいな」
「嘘を吐け」
「うん、かっこ悪い」
「馬鹿野郎」
 言うまでも無く、慧音は人間ではなかった。
 驚かなかったと言えば嘘になるが、それよりも不思議と喜びがそれを上回っていた。まるで、長い間焦がれた母親に会えたような気分だ。死にかけているというのに、笑みが止まらない。
 人間だと思っていた人が妖怪で、人間じゃない私を人間に引き止めてくれた。なんと滑稽で、素晴らしい事だろう。
「藤原、お前は何だ?」
 不意に問われ、夢見心地に浸っていた体をびくりと震わせる。
 この温もりが崩れてしまう、恐ろしい不安が過ぎった。
「私は妖怪だ。私が愛する人間に害為す者から守る妖怪だ。人ならぬ異形を以って、人ならぬ力を使う化け物だ。人間を愛する物の怪だ」
「私は……」
「死なない人間が何だ! 自分の身も守れないくせして人間以上のつもりか? だが、私は違う。私はお前を守ってやれる。死んでも死なないお前を殺す者から、救ってやれる。私がさせるものか。必ず守ってみせる」
 何だ、結局全て見透かされていたのだ。心を蝕んでいた大きな氷の塊が、急速に溶けていくのを感じた。
 慧音には適わない。
「わた、し……わあ――ッ!」
「里に、戻ろう」
 もう限界だった。
 私は生まれて初めて、思いっきり泣いた。





  *  *  *


「痛たー!」
「どうかしましたか? 姫」
「イナバのケンカの流れ弾かしら……。何かが頭にぶつかったわ」
「嗚呼、あの子達ですね。新入りかしら、てゐにもう少し教育を徹底させないと」
「痛たたたた」
「蓬莱人なんだからそんなに痛がらないで下さい」
「死ななくても痛いでしょうに。私も、貴女も」
「威厳の問題ですよ」
「ぶー」
「それはそうと近々、里のほうまで少し随伴をお願いしたいのですが。薬草の量が多すぎて一人では持ちきれなくて」
「めんどくさいなぁ。そんなのイナバに任せなさいよ」
「白沢がそんなの許すはずが有りませんわ。姫だってここに居られなくなったら困るでしょう?」
「良いじゃない、どうせ見つかりやしない」
「姫?」
「何よ、この私の能力があれば竹林をアアアアー!」
「ひ、め?」
「解った、解ったから手伝うから離して! 痛いー!」
「蓬莱人なんだからそんなに痛がらないで下さい」
「うぐぐ」




 / Chapter 3 /


 里に住むと決めた以上は、いつまでも慧音の家に世話になるわけにはいかない。
 簡単な小屋を建てるから切っても良い木や木材は無いか、という私の提案に慧音は「いいから寝てろ」という冷たいのか温かいのかよく解らない答えを返した。
 脇腹に穴が開いた程度なら一日で完治した上にお釣りがくるのだけど、慧音はそれを好しとしないらしい。結局有り余る体力を少しでも発散させるために、これまでのように里の仕事を手伝う事にした。

「いよいしょ、と」
 バカン、と景気良く薪が割れる。
 里の仕事と言っても、教養が有るとは言い難い自分にできる事は結局力仕事だけである。やれる事を無理矢理にでも探した結果、薪割りに落ち着いた。これでは慧音に見つかったらただでは済まないかもしれない。
 しかし、それが嬉しかった。
 人に心配される事など数百年ぶりだろうか。どれだけ感謝をしても足りない気がした。
「あら、今日は」
 聞き覚えのある声に振り向くと、いつかの医者が傍まで来ていた。
「今日は、ええと――八意さん」
「あら、覚えててくれたのね。体のほうはもう宜しいのかしら?」
「ええ、おかげ様で」
 軽快に飛び跳ねながら健全をアピールする。
 あらあら、と医者は面倒見の良いお姉さんのように微笑んだ。
 このようなやり取り一つとっても、今はありがたく感じられる。何もかもが上手く行く気がした。
「えーりん、これはちょっと、無茶な……」
 その聞き慣れぬ声にふと、医者に随伴する者の存在に気が付いた。
 それは、手持ちの籠に明らかに積載量を超えた薬草を山のように積んでいた。山は頭の上まで達しており、ここからでは顔が見えない。恐らく本人は前が見えないであろう、相当辛いのかふらふらと覚束ない様子である。辛うじて見える下駄と着物から、どうやら自分とそう年の離れていない少女である事が解った。
 途端に妙な親近感を覚え、話し掛ける。
「あの、大丈夫で――」
「うわあっ!」
 話し掛けようとしたところで、薬草の山が崩れ、少女の顔が晒された。
(――え?)
 そこで、目を疑った。
 千年以上前に切り取られた一枚の画。切り揃えられた、吸い込まれるような黒髪にぞっとするような色白顔。
 間違いなく、輝夜がそこに居た。
「か、ぐや……?」
 愕然としつつも、言葉を紡ぐ。
「!!」
 黒髪の人形がはっとしたのを見て、胸中で舌打ちをした。
 向こうは私を知らないのだ。しかし、その言葉を口にした以上、逃れる事はできないだろう。
(逃れるだって?)
 何故私が逃げなければならないのだ、と自問自答をする。私をこの禍々しい螺旋に放り込んだ元凶が信じられないことに、今、目の前にいるのだ。
「永琳、こいつ――!」
 輝夜が薬草を投げ捨てて身構える。だが、そんなものはもう関係無かった。
「輝夜アアアア!」
 気が付くと私は、薪を割った時の万倍の力を込めて、輝夜の頭に向かい手斧を振り下ろしていた。
 確かな手応え。
 斧は輝夜の脳天を砕き、赤い血と味噌が四方に散乱する。
 だが、無駄である事は知っていた。自分の体を“こう”した薬があるくらいだ、残した本人が飲んでいないわけが――

 気が付くと、私の体は四散していた。


  *  *  *


 全身を貫くような異様な気配を察知したのは、丁度史書を纏め終わり、どうせ堪えきれずに力仕事をやっているであろう藤原の様子を見に行こうとした時だった。
 とても禍々しく、凶暴で、しかし無機質な寒気。動物的な本能が危険だと告げているが、ここは人里である。黙って逃げるわけにはいかない。守るべきものはここにある。
 私は蔵に仕舞うはずの巻物を乱暴に放り、気配の方へ向けて走り出した。
 里の表を歩いていた者達に、危険だから家に入るようにと注意しながら通りを駆け抜ける。
 かつて無いほどの禍々しい存在感は、里の外れから発せられていた。迷わず足を向ける。
 そして、その場所に着こうという時、信じられないものを見た。

 そこでは、藤原と見慣れぬ少女が殺し合いをしていた。

 藤原は斧で少女の四肢を切断しにかかり、しかし瞬時に元通りになった少女は、致死的な破壊力を持つ妖術で藤原を焼いていた。
 少女の術は明らかに人間に扱える類のものではない。妖の系であろうが、その不死性は藤原のそれと酷似していた。
 そこまで状況を把握して、呆けている場合ではないという事に気付く。
 使命感を胸に、慧音は勢い良く足を踏み込んだ。
「藤原!」
「待ちなさい」
 飛び出そうとした所を万力のような力で腕を掴まれ、体ごと引っ張られる。
 振り返ると、里の抱え医者である八意永琳が厳しい表情でこちらを睨んでいた。ギリギリと締め付けられた腕が悲鳴を上げる。
「死にたいの? いくら妖怪の貴女でも命の保証はできないわよ」
 永琳に自分が妖怪である旨は語った事はない。里でも最も信用できる少数の人物にしか教えていないはずだ。
 掴まれる腕から込み上げる寒気に、思わず口から疑問が飛び出す。
「お前達は一体――」
「八意永琳。月の頭脳にして反逆者。黙ってて御免なさいね、でも捕まるわけにはいかないの。そして、貴女の連れをバラバラにしているのが月のお姫様。心配しなくても、あれも不老不死よ」


  *  *  *


「藤原!」
 聞こえてはいけないはずの声がした。
 既視感と危機感を覚え振り返ると、慧音が、飛び出そうとした所を村医者に制止されていた。恐らくあの村医者も只の人間では無いのだろう、しかし一先ず輝夜の攻撃の的にならない事が分かり、胸を撫で下ろした。
 戦況は最悪のまま変わりはしない。だが、ここで慧音に助けを求めるほど腑抜けてはいなかった。こいつと相対すればいくら慧音とて無事では済まないだろう、それくらいははっきりと自分の体で理解できていた。
 ここで守られるわけにはいかない。
 昨夜は過ぎた。今日は今だ。
「藤原ですって? アハハハハ! もしかして貴女、不比等の? これは愉快ね!」
 輝夜が嬉しそうに父親の名前を口にする。
 やはり、こいつはあの輝夜なのだ。千年前より恨み続けた怨敵。未だに信じられないが何てことはない、月に帰るだなんて夢物語のほうが信じるべきでは無かったのだ。
 それだけに、この実力差は不覚以上の何物でもなかった。
(畜生……!)
 既に何度死んだかは解らない。自分の無力さを呪った。正直、輝夜が此処までのものとは思いもしなかった。見たこともないような妖術を使い、輝夜に対して反撃するどころか近寄る事も儘ならない。
「ねえ、藤原の娘。貴女、不老不死は本当に死なないものだと思っているの?」
「どういう意味だ」
 言いながら、ケホ、と血を吐く。自分なりに凄んでいるつもりだったが、輝夜は意に介していない様だった。
「死んで、生まれ、死んでは、生まれ。それが須臾の間、永遠に繰り返されると、どうなると思う?」
「さぁね」
 クスクス、と輝夜は笑っている。私は悪態を吐きつつも、恐ろしく厭な予感がしていた。
 微かに残る、暗黒の記憶。気が触れて、何もかもが解らなくなってしまう。その先に、動く事はおろか考える事すら叶わぬ息をするだけの人形を幻視する。
 輝夜の言う意味が薄々と理解できた。
 肉体は死せずとも、心は死ぬ、という事。
「蓬莱の薬が永遠を与えるのは、肉の体のみ。魂の永遠は、与えられずとも誰しもがその内に持っている物。知っているかしら、それ故に終わらせる事もできるのよ」
 輝夜が手をかざすと、その先に等身の倍はあろうかと云う程の炎塊がうねりを上げて出現する。
 火の球、等という生易しいものではない事は見て取るように解った。まだ距離が有るというのにその熱で肌が焼けるように熱い。恐らく私は死んでしまうのだろうが、その先は考えたくも無かった。
「楽しませて頂戴ね? せいぜい貴女が壊れてしまわないように祈っておいてあげる」
 輝夜の微笑みと共に、世界の終わりが私に襲い掛かった。

 熱いのか痛いのか解らない。ただ強烈な衝撃だけが身を焼く。
 身を屈めると、炎が胸を焼き尽くし、臓腑にまで達している様が見えた。死んだ。
「うあああああああああ!!!!」
 意識が燃え尽きてしまいそうになり、絶叫する。炎を大きく吸い込み、肺が焼け落ちた。
 呼吸が出来なくなり、頭の奥を潰されるような感触と共に死ぬ。
 目を閉じると、二度と開け方を忘れてしまいそうになり見開いた。
 すると、目玉が焼き尽くされ視界は一面が赤黒いうねりに取って代わられる。そうしてる内にまた死んだ。
 あついあついあつい。意識の暗転は瞬間で、しかし大きな衝撃の後、また死んだ。
 痛みが分からなくなった。うまく思考が出来ない。死んだ。
 目は見えているのか。夢か現かが解らなくなった。死んだ。
「させない!」
 慧音が走ってくる絵が見える。あつい。
「あら、貴女が死にたがりの白沢?」
 輝夜のケタケタという嗤い声が頭に反響する。それを最後に聴覚が遮断された。死んだ。
 あついあついあついあつい死ぬあついあつい、死んだ。“あつい”が解らない。死んだ。
『おまえは何だ?』
 幻聴が聞こえた気がした。耳は焼け落ちているはずだと確認する前に死んだ。
 意識がゴトゴトと粗く揺れる。
 輝夜が何かを叫ぶ、慧音を指差して? 私が、――守ら、る?
 慧音が、死ぬ。このままでは、死ぬ。私が、慧音が、私が、わたし、


 私は、――!


  *  *  *


 鳳凰。

 少なくとも、自分にはそう見えた。
 自分に襲い掛かるはずの炎は大きくうねり、既に藤原を焼き尽くそうとしていた炎の塊に吸い込まれた。突如圧倒的な質量感を獲得したそれは左右に大きく広がり、自分を包み込むように展開する。一面はすぐに紅(くれない)の世界になった。
 だが、恐怖は全く無い。
 直感的に解る。数瞬前まで私に襲いかかろうとしていたこの炎に、既に敵意はない。
「な――!」
 私に炎を放った少女の、驚愕の声が聞こえる。
 しかし、消去法で考えなくともこれが何なのかは解っていた。

 これは最早炎なんてものではない。
 炎のように見えるだけで、全く別の存在。
 私は、この燃え盛る“紅(くれない)”自体に藤原の存在を感じている。否、この“紅”こそが藤原。死なない少女の、命そのもの。
 “藤原の紅(こう)”。
 不老不死の意思、その顕現。

『輝夜ァアアア!』

 咆哮が辺りに響き渡る。
 直後、合図とばかりに鳳凰は神々しく翼を広げた。飛び散る火の粉が、周りの木々を焼き尽くす。
 そして鳳凰は加速しながら渦を巻いて一点に収束し、爆発的な炎の濁流となる。
 輝夜の呆けた顔は、その紅い世界に飲み込まれて――消えた。




 / epilogue /


 数十年ぶりの火事(という事になっている)が残した禍根は、主に私の仕事量に大きく影響を与えていた。
 小屋3軒、麦の貯蓄倉庫の半焼。人的被害は無かったのが幸いと云う所か。
 近頃は安定した幕府のお陰で年貢も軽いので、里の者が生活出来なくなるという事はないだろう。今年は米が豊作だったので、損失は里の者同士でまかない合えば良い。
 目下の問題は、建て直しに使うための木材と藁、人手の捻出であった。
 特に、村に大工は居ないので山を降りて依頼をするしかない。が、そのぶん金もかかる。生活に支障は無いと言えど、そこまでの出費は唸るものがあった。
 経理が暗礁に乗り上げたところで、筆を放棄して立ち上がる。
 外に出ると、眩しい日の下で丸太一本を軽々と担いだ少女が「よ」と挨拶をしてきた。
「妹紅……、お前は何をやっているんだ」
 “妹紅”というのは、あれから藤原が自分につけた渾名である。どうやらあれがきっかけで炎を自在に操る術を身に付けたらしく、それを自覚してからは実に生き生きとした様だった。その渾名も、その能力に由来しているとみて良いだろう。
 そこまでは喜ばしい事なのだが、最近では隙を見つけては倉庫に忍び込み煙草の葉をふかしている。横着も此処までくると、呆れる気にもならない。
「何ってそろそろ燃やした家、建て直さないと困るでしょうに。私はいつも自分で家建ててたから、あの程度の小屋ならすぐだよ」
「そんな力仕事ができるなら初めから言え!」
 そして呆れる気にもならなければ次はどうすれば良いのだ、と真剣に悩んだ。


  *  *  *


「姫、そろそろ起きてください」
「いーあーだー」
「いつまで拗ねてんですか」
「フン」
 パン、と勢い良く障子を開けてやる。心地良い風が部屋に舞い込んだ。
「まさか、あんなやられ方するとは思わないじゃないの」
 不比等の娘に焼き尽くされてからというもの、姫はずっとこの調子だった。
 むしろ、不貞腐りたいのはこっちだと云うのに。
 確かに事情を知っていて二人を引き合わせたのは私だが、いくら姫とは云え生活生命線とも言える里で一戦やらかす訳はないだろう、と高を括っていたのも確かだ。あの白沢に三時間ほど説教されたのも我慢できる。なんとか薬業を継続させる事はできたが、向こう数ヶ月は白沢の視線が痛い事だろう。
 姫さえあんな蛮行に出なければ、とは流石に言えなかったが、胸中にそういった考えが渦巻いているのも否定できなかった。
「あれが蓬莱の薬ですよ。普通の人間が皆ああなってしまうから禁薬なんです」
「その話はもう終わりにしたんじゃ無かったの?」
 そうでしたっけ、と惚ける。後ろ暗い方向に話が向かってしまったので、誤魔化す事にした。
「そういえばあの御仁が言ってましたね、身寄りの当てがない子供が一人いるので心配していると。オコウ、と言ったかしら」
「さぁ、忘れてしまったわ」
 姫はむくりと布団から起き上がり、開かれた縁側を見つめる。
 その視線の先には、古びて彫られた文字すら読めない、小さな墓石があった。
「でも、千年越しで難題を答えられるとは思いもしなかった」
 そう言って姫は枕元に無造作に置かれていた枝を握り締める。そしてそれを、墓石に向かってぶん投げた。
 蓬莱の玉の枝はカン、と安っぽい音を上げた後、ころころと地面に転がった。



 終わり
 珈琲を胃に流し込む作業が大好きなアンネズコです、こんにちは。
 一応真面目にギャグなしでやってみたつもりですが、読むに足りる物であれば幸いです。というか視点がー……。
 熱い展開が書きたかったんですけど、上手く行かないもんですね。いつかは唸るように臭い熱いものを書いてみたいです。
 ちなみに、妹紅が親父に代わって返した難題は「仏の御石の鉢-砕けぬ意志-」。間違えてます。
アンネズコ
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コメント



0.480簡易評価
2.80名前が無い程度の能力削除
これはいい。十分に熱いです。主に炎が
物語に引き込まれる圧倒的なものが感じられました
3.80三文字削除
うん、妹紅が炎を操るシーンは流石に燃えました。
熱いねぇ・・・
拗ねてる姫様が可愛かったです。
4.80名前が無い程度の能力削除
このくらい捻くれて悪い女の輝夜が大好きです。
ゲーム本編中のセリフみたってぜったいしおらしくない。ぜったいない。
9.90名前が無い程度の能力削除
十分熱いと思いますよ。
一気に読ませていただきました。
というか、気がついたら読み終わってました。
良かったですよ。
12.無評価アンネズコ削除
感想ありがとうございます。
少しでも楽しく読んで頂けたようで、狂喜乱舞しております。

>三文字様
あの性悪は、自分が拗ねて困る永琳を見てはほくそ笑んでいる節があります。
でも、拗ねてるのも本当なんですよね。だから、二重に厄介です。注意しましょう。

ありがとうー!