*【名前しか公式設定のないキャラ】が登場します。
Side A ――過ぎ去りの夜――
ふたりのあやは顔を見合わせ、
声を揃えてこう言った。
「八雲 紫の仕業に違いない」
彼女はいま大事な仕事中のはずなのに、
ひとにちょっかいを出すことは忘れないらしい。
ここは一つ、
その曲がった根性を
とっちめに行くことにしましょう、
そうしましょう。
片方のあやは屈託のない珠のような笑顔で、
片方のあやはちょっと悲しそうな顔をしながら、
それでも二人は夜空をかける。
Side B ――すきやきの夜――
「藍、留守を頼むわ。ちょっと里まで」
「この時間に人間の里ですか。もうじき日の沈む時間ですよ」
「手は止めなくていいわよ。買うものがあってね」
「買い物ならば私が行きますが」
「大事な用向きなの。…ああ、気の早い鬼がもういるみたいだから、お茶でも、いや、何かお酒を出してあげて」
「そういうことでしたらお気をつけて。
…さ、萃香さんは座敷へお上がり下さい。どこにいるのか私には見えませんけど」
「もう上がってるみたい。早く接待なさいな」
「ああもう紫様といい萃香さんといいせっかちな。気をつけて下さいよ」
「ええ。夕飯は私や萃香の分は要らないわ。橙とお食べなさい」
***************************************
「どうぞ、萃香さん。あと氷と氷挟みはここに」
「やー、悪いねぇ。紫の家にくると、見たこともない酒が飲めるから幸せだぁ。
ちなみにこれ、なーに?」
「ウヰスキーだそうです」
「そういえば前も飲んだことがある。煙で燻した鹿肉みたいな味だ」
「萃香さんは、舶来のお酒も好まれるのですか?」
「酒は酒さー。美味ければ何でも飲むよ私は」
「よろしければ和酒も何本かございますけど」
「んー、いいや、せっかくだし。外の世界で見たよ。
こう氷を入れて……頬杖つきながら杯をカラン、って。ワビだね。ワビ」
「はぁ」
「紫はいつ頃戻るの?」
「それが、私も何も聞いていません。これから宴会でも催すのでしょうか?」
「そ。宴会。人数はいくぶん少ないから、宴ってよかただの酒飲み?」
「誰が来るんです?」
「私と、紫と、あの天狗。あともう一人」
「もう一人…幽々子さまですか?」
「違う違うー、人間よ」
「ああ、ということは」
「どうかな、たぶんあんたの想像は外れるね。
まあそのうち分かるさ。で、ちょっとおつまみない?」
「はいはい、ただいま」
Side A ――過ぎ去りの夜――
≪stage1 里上空≫
私たちは屋敷を飛び出す。これまであやを囲っていた塀は、たったの一蹴りで飛び越えることができた。ぐんぐんと下へ遠ざかる里を見ながら、私は繋いだ手の体温を感じていた。「本当にいいの?」と私はあやに聞いた。「もちろん」と彼女は笑いながら言った。
「こんなせっかくの機会だもの。ほら、お月様も、里の東山も、上から見るとすっごく綺麗。出歩かない手はないじゃない?」
あやの言う通り、今日はまん丸に近い月が浮かんでいた。昇ったばかりで、雲と山に半分くらい隠された山吹色の月は、なんだかほっこりとしていている。ふかしたての芋のみたいで変に美味そうに見えた。野原も山も黄色がかった光を浴びていて、提灯でも建てればすぐにお祭りが始まりそうだった。
彼女があんまり無邪気だったから、私は続く質問を言えなかった。
「文の言いたいことは分かるよ。でも…」
「あや、おしゃべりはいったん止めて。舌噛むから」
前方に何体か、妖精の踊る影が見えた。今夜は月が綺麗だし、そもそも今は時期が悪い。妖精は理由無く騒ぐように見えて、その実ちゃんとした理由があって騒ぐのだ。
彼女らはきゃらきゃらと甲高い声を出しながら、私たちに向けて無数の弾を放ってきた。が、私だって腐っても――別に腐ってまではいないか――天狗である。団扇を一度振るい、それでも吹き散らせなかった弾は大きく旋回してかわした。私の後ろであやがしっぽをつかまれて振り回される子猫のような声をあげた。
私は弾を撃ち返そうとして、やめた。私は最近機嫌が悪い。妖精は三体いるが、彼女らは続けて弾を作れないのか、単に避けられて焦っているのか、まごまごしている様子だった。
私は一気に距離を詰めると、一人目の腕をとり、力任せに地面の方へ投げつけた。二十間ほど下にある民家の屋根から土煙が上がる。もしかしたら茅葺屋根に穴の一つも空いたかもしれない。私が二体目を蹴り飛ばそうと脚を振り上げたとき、あやがそれを止めた。あやと私はまだ手を繋いだままだったので、あやは私に向けて思いっきり叫ぶという単純な方策を採った。
私はその声量にすくみ、妖精たちは逆に我にかえって逃げていった。
「だめだったら!人に鉄拳を振るったり投げ飛ばしたり!」
「邪魔するな!だいいち人じゃなくて妖精!」
「妖精でも!」
「向こうが悪い」
「それでも!」
それでも!と言い切った割に、あやはしばらく口を止め、私から目を反らしながら、文は女の子なんだから、と言った。だから私はこいつが嫌いなのだ。すぐあやは人間と妖怪を混同する。それは本来混ざらないものだ。
妖怪を指して女の子というのと、女の子を指して妖怪と言うのは、言われた方にしてみればそう違ったものではない。
そういえば「殴る蹴るがだめなら弾を撃ち返す分にはいいのか」と聞いておくのを忘れた。彼女はこの後、わりと楽しそうに札のような紙切れを投げつけては妖精を撃ち落としていたので、たぶんそういうことなのだろう。彼女にとって「弾幕ごっこ」は暴力に含まれないらしい。仕方がないので、私も殴る蹴るはやめてもっぱら弾をばらまくことにした。
妖精が騒ぐのにはうってつけの夜だったが、さすがに人里の真上と言うこともあってその数は少ない。月も明るいので、あやが空を飛ぶ練習をするにはもってこいだった。人里の外れにつく頃には、あやと私はもう手を繋いでいなかったし、あやは妖精の二、三体を自力でたたき落とすくらいになっていた。この分ならば、夜の散歩程度は問題なくできそうだ。枝葉の問題はひとつ減った。
私たちにとって一番の問題は、八雲紫がいったいどこにいるのかと言うことだ。
とりあえずあたりを見渡してみたが、八雲紫は見つかるはずもなかった。神出鬼没で雲を掴むような妖怪だそうだ。雲は周りに溢れているのが腹ただしい。
里の脇を曲がりくねりながら流れる川が、鈍色にぼんやり光っているのが見える。空は海の底のような色だ。夜風が身を切るように寒いが、今日は全くの散歩日和だった。
と、私は前方遠くに人影を見つけた。向こうもほとんど同時にこちらに気付いたらしい。
「待て待て!どこに行く気だっ!!」
彼女の赤毛が月明かりを浴びて葡萄酒のような色に浮き出ていた。威勢のいい口調をした死神だ。
「お前が勝手に出歩いたりしたら…ってあれ?え?」
「見ての通りよ。原因は想像がつくから、私たちでちょっと行ってくるわ」
「あー…ごめんなさい、小町さん」
死神は見てはいけないものを見たという表情で固まった。それはまあそうだろう。あやは、本来ここにいたらいけない。
「わけが分からない…あーもうっ、いったいどうすりゃいいんだいっ!」
「通せばいいじゃない」と私たちは口々に言い返した。
「待て、ふたりいっぺんに喋るんじゃない」
小町はしばらく腕組みをして考えていたが、決心したように私たちの顔を睨み付けてきた。
「あたいの仕事は映姫さまの命令だ。伺いを立ててきてやるから、それまで大人しく寝てろっ!とにかくここは通さない!」
「力ずくでも?」
「力ずくでもだ!ひとりだろうがふたりだろうが、まとめてかかってこい!」
死神は腰の袋に手を回すと、こちらに景気よく銭をばらまいてきた。なんだ、銭かと思ったが、よく見ると全部ものすごい勢いで錐もみながら飛んできている。当たったら額を抑えて悶絶しそうだった。
「仕事熱心な死神ね」
「こんな時に限って」
牽制に放たれた銭の向こうで、死神はまるで地に足をつけているように腰を沈め、鎌を袈裟懸けに振るう構えをとっている。私とあやは、銭の嵐の中へ速度を上げながら飛び込んでいった。耳元をうなるのは風ばかりではない。銭の弾幕はびゅんびゅんと私たちを掠めるように過ぎていく。
傍らのあやはちょっと緊張した様子だが、それでも目をしっかり見開いて前へ飛んでいた。前髪が風にあおられて、白い額が見える。なんだか楽しそうだなぁと思った。
Side B ――すきやきの夜――
「ただいま戻りましたわ」
「お、珍しいところから生えてくるねぇ、紫」
「ちょっと、紫様!その…早く、あぁ、もう!お客様の前じゃないですか!」
「はいはい、今出るから、よいしょっ…と」
「で、何買ってきたの?」
「牛肉。すき焼き作るの。春菊はあったかしら」
「出かける前に聞いてください。春菊はありませんので、水菜を使うのはどうでしょう」
「水菜…」
「私はどっちでもいいよ~、卵さえあれば。いいよ水菜で。無難で」
「却下よ!水菜が入ったらすき焼きじゃない!」
「何よ」
「すき焼き煮よ!」
「じゃあすき焼き煮でいいじゃない」
「この八雲紫にすき焼き煮を作れと言うの!いい萃香、もともとすき焼きってのは焼くもんであってね、決して私の無神経で遅刻間の知り合いみたいに割下でぐつぐつ煮るもんじゃないわ!」
「知らないよ外の世界のローカルなこだわりなんて!じゃあ境界いじって水菜を春菊にしちゃえばいいじゃん!」
「できるかそんなこと!」
「できないの!?」
「あの、お二人とも、誰か来たみたいです。例の天狗では」
「紫、落ち着いた振りして咳払いはいいよ、わざとらしいから」
「ああ、つい…。藍、玄関まで出迎えてやって。この部屋のふすまの前まで案内したら、今日の役目はおしまい。あとは橙と夕食にして休みなさい。こっちはこっちで好き勝手やってますから」
「かしこまりました」
Side A ――過ぎ去りの夜――
あやの頭上すれすれのところを鎌がうなりながら通り過ぎる。
何本か断たれたあやの黒髪が、群青の夜に淡い線を描きながら落ち、溶けていった。鎌を振るった死神は、そのままの勢いで、背後のやや上方、私のいた辺りを斬りつける。しかしそんな大振りの斬撃よりは私が早い。
私は腰の帯に挟んでいた団扇を手加減なしで振り回した。ごう、という烈風を中途半端な姿勢で浴びた死神は姿勢を崩し、隙ができる。あやが栗鼠のような動きで懐へ潜り込み、死神の脇腹へ、何か文様が書かれた紙をぺたと貼り付けた。重い炸裂音がして、死神の体はまともに下へ吹っ飛んだ。
さすがに爆発の勢いまで乗せて遥か下の地面まで落としては夢見が悪いので、私が急いで回収に向かう。――妖精とは別だ、あれは殺しても死なない。
久しぶりの全力飛行だった。私はぐん、と下へ向けて弾丸のように飛び出す。ごうごうと耳元で風が渦巻き、高揚感から我に醒めると死神の身体は目の前にあった。私は手を伸ばし、死神の襟首をぐいっと掴む。
墜ちていく死神の体を捕まえたはいいが、下降の速度が思ったより速く、今度は私が危ない。ずいぶんと勘は鈍っていた。下は一面の林で、針葉樹の尖った頂きがすぐそばに何本もある。枝に引っかかるか何かして、擦り傷で済めばいいなと肘を使って顔をかばった。
いつまで待ってもなかなか衝撃がやってこない。恐る恐る目を開けると、林はいつの間にかずっと下の方になっていて、野原の中にずいぶん小さくかたまっているだけだった。
「あぁ、そんな能力だったっけ」
「まあな」
死神はのそりとした動きで私の腕から離れた。手で脇腹を押さえているところを見ると、ダメージはそれなりに大きいらしい。
「あれは、誰だ」
死神がそう真顔で聞いてきた。
「あなたも知っているはずよ」
「馬鹿言え、あたいはそういうことを聞いているんじゃない」
「その異変を解決しに行くんだってば。八雲紫がどこにいるか知らない?」
「さっき会った。あたいがここにいるのは珍しいって声かけてきた。…博麗神社に行くとさ。天狗、神社の場所は分かるか?」
博麗神社。どこかで耳にした覚えはあるが、行ったことはないはずだ。たぶん。
「ううん、知らない」
「やっぱり知らないか…。幻想郷の東の縁にある、一見してボロっちい神社がそれだ。まぁ、巫女が派手な格好してるからそれで分かるさ」
「わかった、ありがとう」
私は手を上げて、あやに場所を知らせた。すっかり飛行に慣れたあやは、ふらつくこともなく私たちの方へまっすぐ飛んできた。死神があやを見てわざとらしく腹を押さえてうずくまった。
「痛い。泣きそうなくらい痛い」
「だって小町さん本気で切りかかってきたじゃないですか。それでつい」
「ちゃんと頭のこぶし二つぶん上を狙った。お前は何処の危険物だ。頼むからとっとと八雲をとっちめて元に戻れ。そうじゃないとあたいの体が何個あっても足りやしない」
「そう言うなら仕方ありませんね。通って欲しいというそちらからのお願いですし」
「もう何でもいい…。あたいはここで大人しく養生する……」
死神はよたよたと高度を下げながら、これ労災下りるのかとか、だから臨時の仕事は嫌だ、船頭に戻りたい、とかぶうぶう言っていた。
「あはは…じゃあ小町さん、また後で」
負い目を感じたあやはこそこそと会話を切り上げ、さっと身を翻した。私はあやに向けて口を開いた。
「私思うんだけどさ」
「何?」
「あの小町って言う死神も八雲になにかされたんじゃないの?」
「仕事とサボりの境界?…困ったなぁ。それは戻すわけにはいかない」
あやが言った。「閻魔の胃に穴が空いちゃう」
私は戻さないわけにはいかない、と口には出さず呟く。
ところで八雲紫はどこにいるか聞けた?とあやが聞いてきたので、私は答えた。
「幻想郷の西の方をぐるりと回っていれば会えるってさ」
あやは少し意外そうな顔をしたあと、にこっと笑って、「よし行くぞ!」と言った。
Side B ――すきやきの夜――
「こんばんは~、うわぁ、広いお座敷。旅館みたい」
「お二人ともこんばんは。お邪魔いたします」
「おー、射命丸に…誰?」
「あれ?萃香は会ったことなかったかしら?」
「えーと…ああ、面影があるような。稗田の」
「九代目の阿求と申します。お見知りおき下さい」
「これはこれはご丁寧に。私が最後に会ったときは男だった気がするよ」
「最近、他ならぬ私が伺いましたが」
「そうだっけ?まぁ最近色々あったからねぇ。まあお座り」
「色々。霧の湖で眠りこけたり、神社の石段の真ん中で眠りこけたりしてましたね。あれホントですか。人里の龍神像に向かって…」
「あー、その厄介な手帳はまず仕舞え。記事にしなければなんでも言うがいいさ。天狗の間にさえ広まらなければそれほど害はない」
「私がお訪ねしたときもすごい酔い方でしたね、そういえば」
「はいはい、お喋りもけっこうだけど、お肉を焼くわよ。遅いと私が全部食べますからね」
「鍋奉行の紫だね」
「すき焼きは鍋じゃないって言ってるでしょうが!蹴るぞ!」
「またこれだ」
「私から八雲さんに縁起の添削を申し込んだのにいいんでしょうか。こんなご馳走いただいて」
「構いやしないわよ。真面目な阿求ちゃんにご褒美」
「紫さん、作り笑顔がスクープ級に胡散臭いです」
「全くだ。酔いが醒める。飲まなきゃ」
「ああ、このじゅうじゅう言う音とこの匂い…。で、すき焼きと言ったらお酒はやっぱりこっちでしょ」
「うわぁっ!」
「そこの中」
「便利な能力ですねぇ…って冷た!紫さん、この中キンキンに冷たいですよ!?」
「そういう用途だから」
「これも縁起に載せるべきでしょうか」
「酒を異空間でキンキンに冷やす程度の能力。やめておいた方がいいですよ阿求さん。読者がどこぞの氷精と間違えうぶぅっ!!」
「文ちゃ~ん、口は災いの元よ~」
「お。竹籠に、この茶色い瓶。紫、これって麦酒?前に飲ましてくれた?」
「そ」
「あれ?八雲さん、それ塩じゃなくて砂糖ですよ?砂糖でお肉を?」
「いいのよ、これで」
「本当ですかぁ?」
「すき焼きに砂糖は当たり前でしょうがー。なぁに文ちゃん、ちゃんとしたの食べたことないわけー?それともあなたもあの忌まわしい割下とかいう…」
「私はみそ味しか食べたことないですね」
「味噌ですき焼きって…どこで食べたのよそんなもん」
「東京で。大結界の前にちょっと」
「あぁ、そういうこと…。でもそれ牛鍋っていうちょっと違う料理だと思う」
Side A ――過ぎ去りの夜――
≪stage2 竹林小道≫
里の近く、二つの山に挟まれた谷間で、街道はいったん竹林の中を通る。
どういうわけだか、竹林の真上で妖精の大群が本格的などんちゃん騒ぎをやらかしていた。竹は上へ伸びるので、竹林の上空は意外と霊力が豊富なのかも知れない。
妖精といえどもあれだけの数がいるといくらちぎっても投げても前に進めない。しばらく上空で妖精と小競り合いをした後、不本意だが地面すれすれの低空を飛びながら竹林の中を突っ切ることにした。
冬の風が吹くたび、竹藪は何かの密談をするようにさやさや鳴いた。地面では竹の作る網目状の影がせわしなく動いている。鮮やかなのはすっかり白くなった月だけで、竹林の中では何もかもが青白いか薄暗いかで不確かだった。
散発的に現れる妖精だの毛玉だのを打ち倒しているうちに道中地蔵の前に着いた。旅人の無事を祈る類のもので、薄暗い小さなお堂の中に紅い前掛けがかけてある石くれがあった。少し薄気味悪いが、竹林の小道も半分を越したことになる。
「邪魔は入らないみたいね。妖怪でも出るかと思ったけど」
私たちは地蔵の脇を流れる清水を手で掬ってちょっと飲んだ。青くて冷え冷えした水で、動いた後なのでそれなりに美味しかった。私はあまり飲むとお腹が冷えそうなので二口にしておいたが、あやは喉をこくこく鳴らしながら大量に飲んでいた。いつものあやだったのでちょっと安心した。
「そろそろ行くよ」
「はい」
あやは折り目よく返事をすると、茶道か何かの先生のように流麗な動きで立ち上がり、ぐっと袖で口元を拭った。やることがいちいちちぐはぐなのはこの女の厄介な点である。
わたしたちが出発して間もなくのことだった。左手には一面の竹林がわだかまるように広がり、右手にはごつごつした崖が続いていた。
緩やかに右へ曲る箇所へ差し掛かると、前方に不自然に暗いところがある。辺りの竹の影は風に吹かれ、波が水底に作り出す模様みたいにゆらゆら動いているのに、そこの闇だけは亀のようにじっとそこに固まっていた。
「ルーミアね」とあやが言った。「三下だけどとりあえずは油断しない方がいいよ」
「三下…」
闇のかたまりは怒ったようにこっちにとろとろ進んできた。
「何か腹が立つ。お腹が空いてるのに、バカにされるともっと腹が立つ」
ルーミアのまとった闇が薄れていき、中から品のいい服装をした金髪の少女が姿を現した。この竹林の中だと、迷子になっているところを村の気のいい青年に手を引かれているのが似つかわしい。だがこんな不自然な金髪の少女に両親がいて、帰る家のあるはずがない。哀れ、青年はまず繋いでいた腕を食われ、逃げようとしたところを後ろからがぶりといかれる。そう考えると結局のところ、違和感があるようでない妖怪である。少女は手首を内側に丸めて服のそでを握った。そうして両手を広げ、地面から一尺ばかり浮き上がった。
「天狗だって私の手にかかればおいしくいただけます。だって今日は満月ですもの」
ルーミアの両手に光が点った。頭上の満月のように青白い光だった。
「文、伏せ…じゃなくてやっぱ上に飛んで!」
私はあやのフェイントに引っかかりかけながらも上に飛ぶ。私たちがぽんと地面を蹴って浮かび上がると、先ほどまで私たちがいた場所を灯台のような光が二度薙いでいった。優雅に一回転したルーミアはスカートを翻しながらとんと地面に足をつける。両手からは青白い光線が棒のように二筋伸びている。地面にはしゅうしゅう言っている黒い跡。焦げるどころか、少し溶けている。こいつもあやも、私を殺す気か?
「あれ?不意打ちなのに避けられた?」
ルーミアが不思議そうに首をひねる。格好だけ見れば、伯父さんか誰かに質問をする少女という趣だ。
「あのね、私は天狗だからどうやっても美味しくないよ。だから道を即刻譲りなさい」
「私も確か護符を体中に貼り付けてるから食べられません、本当に」
「そーなのかー」
人形じみた容貌のルーミアが反対側へ首を傾げた。きょとんとした茶色の瞳は、しかしすぐに細められる。瞳の赤い輝きは気のせいだろうか。表情が一気に狡猾さを増したようだった。
「でも、血でもいいから飲みたい気分」
ルーミアは右手を滅茶苦茶に振るった。竹藪を光がめちゃくちゃに切り裂き、何本かの竹がめきめきと音を立てて天を掃く。ルーミアの口から外見に似合わない哄笑が堰を切って流れた。背筋が凍るような笑い声だ。低い声と甲高い声がだぶって聞える。
「あは、はははは!あはははははははははははは!!あははははははははむぎゅっ」
束になった竹が申し合わせたようにルーミアの方へ倒れてきて、彼女は気付くこともなくその下敷きになった。私たちは思わず顔を見合わせた。彼女は頭と右手を振ってじたばたとしている。タイミングとかやる手順とかがあるのか、両手の光線は出そうな気配もない。
「出して。お願い」
あやは無言で近づくと、少し緩んでいたルーミアのこめかみの札を固く結び直した。そして竹に手を掛け、うんしょっと力を込める。
「うう…人の情けが身にしみるよぉ…。ねえ、親切ついでに指でいいからちょっとかじらせてくれない?先っぽだけだから。生活に支障とか出ないようにするから」
あやはルーミアの言葉を無視して、屈みこんでしばらくもぞもぞと何かをしたあと、耳を塞ぎながらとたとたと私の方へかけてきた。
その後ぼぉん、という派手な音がして、爆風が私の髪を揺らした。閃光と土埃が収まると、そこにはもはや竹の残骸さえなく、ルーミアはずいぶん離れたところで大の字になって目を回している。
「じゃ、進もうか」
あやがさらりと言ってのけたので、私もうなずかざるを得なかった。それにしても、と私は思う。
何だってこいつのお札はこう物騒なものばかりなのだろう?
Side B ――すきやきの夜――
「人間が影とふたりに別れる話?」
「はい。で、記憶も影が持って行ってしまうんです。影は記憶を持っているけど、それをうまく使うことはできない。影を無くした人間は心のあり方が変わってしまう」
「外の世界にゃいろんなおもしろい話があるのだねぇ」
「紅魔館の図書館で見つけました。もちろんただの創作ですけれども」
「まぁ、私にかかればできなくもないけれどもね」
「そんな迷惑なのより春菊と水菜の扱いを覚えてよ…。こんこんっ、と」
「萃香さん卵二個目。汁も飲み過ぎじゃないですか?」
「いーじゃん、あんたが卵いらないって言うんだもの。生卵のからんだ牛肉の美味さがわからぬとは、不憫な奴め」
「だって鳥類ですもん」
「じゃあ麦酒」
「はい、いただきます。ぐっぐっぐ…」
「そーれ、♪あーや、あーや、あっややのやー」
「できあがってますね、萃香さん。普段の何割増しかでノリが酔っぱらいのそれですよ」
「あいつはもう中瓶何十本か開けてますからね。日本酒と回り方が違うんでしょ」
「何を言う。私は酔っぱらってなんていない。それはもう、全然。普段と同じ」
「それ酔ってます」
「ぷはぁっ」
「文さん…勝ち誇ったようにグラスを置くのはどうかと…」
「おーおー、ねーちゃん良い飲みっぷりだね、まあ麦酒飲みねぇ」
「はい、いただきます」
「阿求ちゃん、二回目そろそろ煮えたみたいよ」
「ありがとうございます。とてもいいお肉ですね」
「外の世界の飼育法を真似て麦酒粕を食べさせた牛ですって」
「へー、面白いですねー」
「人間も麦酒を飲ませたら美味しくなるかしら」
「………………」
「冗談だからそんなに瞳を潤ませないでちょうだい」
「…えぇと、冗談、なんですよね。わたしもちょっと麦酒頂いていいですか?皆さんすっごい美味しそうに飲んでますし」
「ちょっ!阿求さんはまだだめで…もがっ」
「おー、いいよいいよ稗田!あんたは昔から実は飲兵衛だ!文は実は保守的だ!この破廉恥天狗!!」
「…ぷぁっ、口塞ぎながら腿を撫でるな!この痴漢鬼!」
「まぁ構わないか…萃香もほどほどにしてあげてねー。阿求ちゃんまだ若いんだし」
「おおっ、しゅわしゅわしてますね。黄金色に輝いています」
「さあ飲み干せーって一気早ッ?!」
「ぷはぁっ」
「阿求さん…勝ち誇ったようにグラスを置くのはどうかと…」
Side A ――過ぎ去りの夜――
≪stage3 高々空≫
竹林を抜けると頭上に妖精の影は一つもない。月はまだ辺りを照らしているが、北の方から迫り出した冬の雲が空のほとんどを覆い始めていた。私たちは一気に地面を蹴って空へ飛び上がる。ぐんぐんと地面が遠くなり、私たちは雲を突き抜けた。
こんなに高く飛ぶのはずいぶん久しぶりだった。あやもこんな景色を見るのは初めてだろう。雲の上は空が広く、一面の藍色で、月は真ん中で堂々と輝いていた。足元の雲はふかふかで、立つ気になれば立てそうだ。私たちの影が雲に映り込んで、でこぼこに苦労しているみたいに一緒になって飛んできていた。
こんな高いところまで昇ってくる妖精は根性のある奴か、変わり者か、根性がある変わり者に限られる。ただの雑魚ながら彼女らの放ってくる弾は量・質ともになかなかの工夫が凝らされていたので、私たちは敬意を表しながら、彼女らを雲の下へ撃ち落とした。きゃーというやる気のない悲鳴が尾を引いた。
そろそろ幻想郷の境目が近い。盆地を取り巻く雪山の向こうに何かきらきら光るものが見えた。「山向こうの街の燈火じゃないかな」とあやが言った。「まだそんなに遅い時間でもないし、その、盛り場とか、そういうの」
その燈火はあるところですっぱりと、本当に縦にすっぱりと切り取られるように消えていた。きっとそこまで結界が完成しているのだろう。幻想郷をまるごとくるむ大結界が、建てる途中の家の壁のように。
じきにあそこの部分も結界で埋められる。そして私たちは二度とあの街の灯を見ることはなくなるのだ。あの街だけではなく、外の明かりは、全て。
そんな思いが私の胸を刺した。
「もう外に遊びに行けなくなるね」と、私の内心を見透かしたようにあやが言う。
「寂しい?」
「このごたごたが収まるのなら、そのくらい我慢する」
事実、このごたごたは酷いものだった。私が人里へ身を寄せる羽目になったのも、この余波に違いはない。
「よろしい。で、八雲紫は要するにあの辺で作業をしているわけね?何か結界を作るような」
彼女の口ぶりで私は左官をしている紫を想像してしまった。
「そうだってあの死神が言ってた」
あやの視線が私の右手辺りをちらとみた。
「…あのね、文」
あやが何か言いかけたとき、背後から何度か破裂音がした。ずっと昔に聞いた火縄のような音だ。驚いて振り返ると、数珠のように連なった弾がいくつもいくつも飛んできた。私たちは慌てて左右に別れてそれを避ける。
小柄な白い影が月の前に浮かんでいるのが見えた。
「文さま!」と白い影――本来は滝を守っているはずの犬走椛――が叫んだ。
「ようやく見つけました!里にお戻り下さい!私はあなたを連れ戻しに参りました!」
「まずったわ。千里眼のあいつがいるってのに、こんな高いところまで来るんじゃなかった」
「知り合いなの?」
左に別れていたあやが私の側まで戻ってきて聞いた。
「天狗の社会は実に狭い」
「文は何かしたの?」
「脱走を少々」
「へえ。知らなかった」
「人間、うるさいっ!」
椛が敵意を剥き出しにそう叫ぶと、あやは吃驚した様子で口をつぐむ。
「なんで里から抜け出すなんてことをしたんですか。この大事な時期に、あまつさえ」
椛はあやを挑戦的に指さした。
「そんな人間と仲良くして!」
「里があんまり息苦しいんだもの。やれ人間を滅ぼすだの、やられる前にやれだの。昔は良かったなぁって思った。反省はしていない。動機はこんなもので良い?」
「天魔様はご立腹だそうです。メージ維新だキンダイ国家だ迷信だと調子づく人間へ、天狗一丸となって天誅を下さなければならないこの大事な時期に、里の法度を犯す天狗がいるとは心得違いも甚だしい。直々に殺してやるからここまで引っ張ってこい、と我々白狼天狗に仰せです」
「で、あなたはそれに納得しているの?」とあやが口を出した。
「文さまのしたことは殺されて当然のことです。それに私はあまり人間が好きではないので」
あなたは特に、と椛が付け加える。あやは無言で俯いた。
「私は帰らないわよ。だいたい帰っても殺されるんじゃ割に合わない」
「許される方法はもう分かっているのでしょう?その人間の首を持って帰ればいいんじゃありませんかっ!!」
椛が物騒なことを言い出す。ぐるりと裏返ったらあやへの憎しみがびっしりと張り付いていたような激高の仕方だった。
「妖怪の敵、天狗の敵です!そいつは妖怪の弱点を書き散らす!人間はそれを読んでますます調子づいて妖怪の住処に攻め込んでくる!!天狗の山だって例外な筈がありません!息の根を止めてやらなきゃやられてしまうのは私たちです!まさか違うとでも言う気ですか文さま!」
椛は一度口を止め、息を整えてからこう叫んだ。
「だってそいつは稗田阿弥だ!」
Side B ――すきやきの夜――
「げー」
「で、あんたが吐くんかい」
「ごめんなさい紫さ…っ…げー」
「天狗が吐くのも珍しい。麦酒にゃ耐性がさっぱりないと見えます」
「しゅわしゅわしておも…っ…しろいから、つい……っ…げー」
「辛かったら返事をしなくてもけっこうよ。ちゃんとここまで間に合ったから。まぁゆっくりと出すもの出せば治まるでしょ。たかが麦酒だし。あんた天狗だし」
「…………」
「これだったらあの子の方が飲めるわよ。麦酒に関しては」
「あんまり…阿求さんにお酒は……」
「やっぱり心配なの?」
「相手が萃香さんですし…」
「いまも広間に二人っきりだしねぇ。意気投合しちゃったり何かして…。取られちゃうんじゃない?」
「………何の話ですか、取るの取られるのって、別に私は阿求さんには何も」
「そうかしら。へえ」
「…………」
「それじゃあ阿弥のことは?」
「…またずいぶん昔の話。唐突に話を反らすのはあいかわらずなのね、八雲紫」
「ふん、あなたこそ、行儀に口調を取り繕っても内面まではなかなか変わらないと見える。少し酔い覚ましに庭でも散歩しましょうか。頃合いに雪も降ってきた。寒々しくてお似合いだわ」
Side A ――過ぎ去りの夜――
「そいつは八代目の稗田阿弥でしょう?!そいつを殺して、里に帰ればきっと功績になります!私と一緒に帰りましょう!大丈夫です、きっと許してくれます!だってあなたは…」
「椛っ」
私が叫んだ後、あたりは幕を引いたようにしいんと静まりかえった。私は阿弥を横目でちらりと見た。ちょっと小憎らしいほど落ち着いていて、私がその白い首に向かって飛びつくなんてことは夢にも考えていないらしい。
それは文は里には戻らないだろうとか、文に私は殺せないはずだ、などという打算によるものでは決してなく、彼女のお気楽な性格によるものだと思う。
彼女は敵意というものの存在を基本的には信じない。少なくとも、彼女には「阿弥の首を取る」なんていう私の選択肢は存在さえ知らない。そんな楽天家じゃなかったらこんな宿無しの小娘、かっこ正体は天狗、を自分の身辺に置いたりはしない。
椛みたいに過敏になっているのは人間も同じ、のこの時期にである。
なので私はきっぱりと言った。
「私は里には戻らない。邪魔するあんたは追い払う」
私が言うと時間がようやく動き出す。同情家の阿弥にはどちらに転んでもあまり嬉しい話ではない。椛の顔はすがっている太いと思っていた綱が切れたように青くなった。
「そうですか」
椛が平静を取り戻してから言った。彼女は剣を抜き、盾を構える。
「射命丸文、稗田阿弥。両名、御山のために成敗します!」
椛が突進し、私たちは散開する。椛は執拗に阿弥の方を追い回し、恨みの載った鋭い突きを向ける。
私の選択に意味はあったのか。そうまでして天狗の里を拒んで、あとの私に何が残るというのだろう。阿弥の寿命は、私たちよりずっと短い。
私は考えるのをやめる。阿弥は、考えなかった。だから私はそれに応えた。
本気を出した白狼天狗は決して雑魚とは言えない。妖怪全体の妖力が低下している今は、肉体的に強い妖怪が有利となる。阿弥が右へ回り込むのを見て、私は椛の左背後へ回った。
私は次の一手に意識を絞る。余分な思考の表層が削れていくようで心地よかった。
Side B ――すきやきの夜――
「遅いねぇ、文と紫。はぐはぐ」
「そうですねぇ、はぐはぐ」
「肉の追加したいけど、いいのかなぁ。勝手に焼いちゃって」
「いいんじゃないですか?」
「そのこころは」
「鍋は戦いです」
「鍋、と来たね。紫のスキヤキ論に真っ向から挑む姿勢は良し。その意気も良し。やっぱり稗田はイキが違う」
「その一括りにした呼び方はできればやめて欲しいです。私は稗田阿求ですから」
「む。こりゃあ悪かった。まあ麦酒飲みねぇ、阿求」
「いただきます」
「では肉を焼きます」
「はい」
「焼けたのでつゆを注ぎます」
「はい」
「次に葱も入れます」
「入れちゃいましょう」
「白菜も入れます」
「ハイ」
「お麩も入れます」
「どうぞ」
「最後に豆腐」
「あ、溢れた」
Side A ――過ぎ去りの夜――
もともと椛は非常に大人しい気質の見回り役である。見回り役とは字の通り見て回る役であって、戦力ではない。
今の阿弥なら、油断さえしなければ一人でも勝てそうだ。ましてこちらには私がいる。椛の傷は私たちが接近する度に目に見えて増えていった。それでもしゃんと背を伸ばして構える姿が痛々しい。気がつくと阿弥はもう攻撃するのをやめていた。私も手を止めた。椛は肩で白い息を吐きながら、こちらをしっかと睨み付けてくる。
「私は、まだ倒れていません!」
「椛、里に帰りなさい。それ以上は無理よ」
「駄目です。命令ですから」
「椛、あのね」
私はみえみえの嘘をつく。
「何ですか、私は手ぶらでは戻りません、来ないのならこちらから行きます」
「私が里に潜んでいるのは人間たちの動向を探るためなの」
「嘘でしょう。そんな見え透いた嘘」
「見え透いた嘘みたいだけど、本当よ。現にあなたでさえ疑わないくらい、私の脱走は自然に見えたでしょ」
「屁理屈です。天魔様は現にお怒りだと、私は上司からそう聞かされましたし、里の新聞だって文さまへの非難で一杯に…!」
「あなたが直に聞いたわけではない。私の行動は天魔様も認めている。その上司こそ独断」
「そんなの…下っ端の私に確認のしようがありません」
「でしょ?あとはあなたが私を信じてくれるかどうかよ。さぁ、どうなの椛、あなたは私を信じるの?信じないの?」
「卑怯です。文さま。その女は、稗田阿弥はなんなのですか」
「八雲紫が何やら結界を張っている。彼女の情報でそれを探しに行くところよ」
椛が私をじっと見ている。私も内心の罪悪感を押し包んで椛を見返す。ごめん、と誠実に考えながら。あとは彼女が誠実の中身を深読みしなければそれでいい。椛がふっと睫毛を伏せる。
「私にはそれが真実かどうかなんて判断のしようがない。ですので文さま、私は里に戻ります。勘違いをして申し訳ありませんでした。今夜のことはどうか内密にお願いします」
白い後ろ姿が遠のいていった。なんだかしょげた子犬そのものだった。椛は全て分かって言ったのかも知れないと思った。要するに彼女は、肝心なところで相手のために身を引くタイプなのだ。
「椛!」
椛が顔を上げてこちらを振り返った。
「私はいずれ新聞記者をやる、だからそれまで私の帰りを待ちなさい!」
椛は顔をちょっとだけ顔を明るくして、私の方へ一度だけ手を振った。
************
「文ってだいぶ演技が下手よね」
「ほっとけ」
阿弥に下手と言われるとは、恐らく人里のにわか田楽に匹敵するくらいの下手さだったのだろう。そんな芝居をやらされた私と、付き合わされた椛をちょっと気の毒に思う。
「それより大丈夫なの?あんな大見得切って」
「大丈夫よ。少なくとも天魔が私の行動を認めている、っていうのは嘘じゃない」
阿弥が驚いた顔を見せる。
「じゃあ脱走じゃないの?」
「脱走だけど、要するに」と私は続ける。本人にはとても言えないが、追っ手が椛という時点で、天狗側には私を本気で捕まえる気がほとんどないと見ていい。天魔の立腹はあくまで対外的なもので、内心彼は恐らく私を利用しようとしている。
彼ほど老獪な天狗なら、里の方針をひとつにまとめて他の選択肢を放棄するという猪のような真似は決してしない。もし人間との全面対決以外の流れになった場合、私の存在は彼に有益なはずである。なので事態さえうまく収まれば里に帰れなくもないのだ、と私は言った。
「じゃあ文は帰れるのね。良いことです」
「まあね」
私は素直に返事をした。阿弥にそう言われると良いことのような気がした。
「ところで新聞記者って、なに?」
「最近できた天狗の仕事よ。今は主戦論ばっかりでろくでもないこと書く奴しかいない。外の新聞っていうものよりは、ただのセージケッシャの広報誌ね。でも、今の騒ぎが収まればそれなりに楽しいんじゃないかしら。天狗の社会に深く関わって阿呆な目を見なくて済むもの。気ままで気楽だし」
「天職かも。でもその前に敬語を覚えなさい」
阿弥がお姉ちゃん風を吹かせはじめた。私はこれをされると調子が狂う。見た目は私の方がずっと年下に見えるのだ。なので、真面目な応対はしない。
「承って候」
「それは違う」
「あんたが私を敬うべきよ、年下のくせして」
「妙齢の美女に何を言う。女学生みたいな年格好のくせに。なんなら乳でも比べてみる?」
「うるさいよ阿呆!」
言い合いをしながら、私たちは西へ飛ぶ。
Side B ――すきやきの夜――
「どう、それなりに立派な庭でしょう」
「………」
「黙っちゃってまぁ、そんなに私と相合い傘がお嫌かしら」
「さっさと本題に入りなさいよ」
「ここに掛けましょうか」
「緋毛氈なんて、またずいぶん用意が良いのね」
「一気に疑り深くなったわね。作庭くらい当然よ。私は幽々子の友人なのよ?」
「あなたの胡散臭さを考えれば、これでもまだ警戒が足りないくらい。あの時は阿弥だったわね。今度は何の境界をいじるつもりよ」
「そう、無理に座れとは言わないわ。質問に答える気分だったのだけど」
「――――座ればいいんでしょ」
「そうそう、人間も天狗も素直が一番よ」
「聞きたいことは二つ。なんであの晩、阿弥にあんな細工をしたの?そしてなぜ、今日私を呼び出したの?」
「一つ目の質問は…、ああ、そうだ。あなたはあの晩を先に抜けてしまった。私のところへは稗田阿弥だけが来たのでしたっけ」
Side A ――過ぎ去りの夜――
里を出たきっかけは何だったろう。たぶん理由なんて無かったのだと思う。共同体の中に裏切り者が必要な空気があって、たまたま鉢が回ってきたのが私だ。
私は人を食ったところがあるし、人間の街にもよく遊びに行っていた。それに重くも軽くもない身分だったから、適役といえば適役だった。自分がいざそういう側に回ってみると、なるほど、風聞通り天狗というのは実に陰険だ。
私はこんなところ出て行っちまおう、と勢いに乗って山から逃げ出した。とりあえず人里に行こうとしたところ、山のふもとの妖怪が見慣れぬ私に絡んできた。
その時、余計にも割って入ってきたのが阿弥だった。妖怪と妖怪のもめ事に口を出す人間。歳は二十を少し越えたくらい、椿のような清楚な女性。
彼女は私を見下ろし、妖怪を見上げ、それから人差し指を一本立てながら弁じはじめた。
「良いですか。一に孝心、二にアガペェ。三、四が無くて一番大事なのは人を敬う気持ち、すなわち仁です。人だけではなく妖怪も、隣人のためには樽に入って生活するほど、身を挺しなければなりません。かつてヴェーダーンタ学派だった孔子は、老子だったかな、まあいいや。馬から落ちて悔い改めたと言われています。ですから、あなた方もここで私に会ったのをこれ幸いとばかり――」
私は聞いていて頭痛がしてきた。向こうの妖怪はこういう対応に慣れていないのか、脂汗をびっしり浮かべている。話し終わった彼女の一言に、妖怪ははっきりと身体を震わせた。
「ところであなた、妖怪ですよね。ぜひお話を聞かせて頂けないでしょうか」
こんな奴と会話が成り立つはずもない、と向こうの妖怪は呆れて帰ってしまった。呆然とする私を人間と勘違いしたまま、阿弥は「助かって良かったですね、怪我はないですか、盆地の外から来られた方ですか、今夜の宿はおきまりですか、ええ、私と同じ名前なんですか云々」と新型の鉄砲のように口からのべつなしにまくし立てた。
「では是非、当家に御逗留下さい。この土地は何かとよそより物騒ですから」
「え、うん」
私はあれよあれよという間に屋敷の彼女の寝起きする離れへ連れて帰られ、飯を食わされ、湯に入れられ、布団を用意された。彼女が稗田乙女であることは、もちろん彼女はわざわざ口に出さなかったのだが、屋敷の表札と部屋の様子でそうと知れた。山のような資料が部屋のあちこちに積み重ねてあった。
そこまでの阿弥の印象は「度が外れて人の良いちょっとネジの飛んだ可哀想な人」である。あいにく私は人のいい奴が嫌いであった。じゃあどんな奴が好きだったかと言われるとうまく答えられない、というより好きな奴などいない。天狗はみな阿呆で、人間はみな馬鹿だ。私はとにかくイラついていた。たぶんその対象には私自身も含まれていた。
阿弥の親切は私の神経を逆なでする。その細い首を何度も折りたくなった。稗田家の女中たちは私をうさんくさい目で見る。阿弥の神経質そうな兄夫婦は私を厄介な犬猫を見るような目つきで眺めた。私は腰の団扇へ伸びる手を何度か押さえ、夜のうちにその屋敷をこそこそと抜け出すことにした。山に戻って「人間粉砕!」を一緒にやってもいい気分であった。
間の抜けた話だが、いざ屋敷を抜けて夜空に飛び出すと、自分の身空が身にしみた。草枕で夜を明かすなんて、この数百年経験がない。そういえば野宿に向かない普段着だ。
幸運にも、と感じてしまったのだが、私は団扇を稗田邸に忘れてしまったことに気づいた。兄夫婦を見て右手がいよいよ団扇を抜きそうだったので、離れたところに置いておこうと床の間に放ったのをそのままにしてきてしまった。
ならば今日はあの人間の好意に甘えるとしよう、あくまで私には今後のことをゆっくりと考える時間が必要なのであって、それには野宿の厳しい環境はいささか非効率的である、それに団扇は大事な武器であるし、わざわざ二回抜け出すのも発覚する危険が大きい、などとあれこれ理由を考えながら、潰れた鞠のように惨めに弾む気分で塀を再び越えた。
ところが、戻ってみれば団扇がない。
床の間の花瓶の脇に置いておいたのに団扇がない。でかいカエデと間違えられて捨てられたわけでもあるまいに。女中を呼び出して聞いてみれば、「お嬢さまが持って出かけられたようでございますが」と言う。「ますが」、というより「ますぐぁ」に近い発音だった。こんな夜中に娘を出歩かせて良いのかというと、「全く本当にどうしようもない…」と首を振り振りスタスタと出て行ってしまった。
道楽娘だの、ごく潰しだのとぶつぶつ言う声も聞えた。彼女のこの家での待遇はおおよそ伝わった。阿礼乙女も明治の世では形無しのようだ。私は彼女を探し、とっちめて団扇を取り戻そうと畳から腰を上げた。
門前の足跡から、彼女はまず左に折れたと分かる。左に曲がると川がある。広い河原のある田んぼ臭い川だ。足跡はすぐに消えていたが、私はそのままぶらぶらと歩き続けた。橋が見えてきた頃になって、風がごうごう唸るのが聞えてきたので私は慌てて駆けだした。
誰かが団扇を使っている。
橋の欄干から下を覗き込むと、河原でぴょんぴょん跳ね回る影がある。影のすぐ向こうに植わった桜の古木の幹が、風に煽られて冗談のように激しく揺れている。私が欄干をひらりと飛び越えて河原に降りたのと、樹がめきめき音を立てて根っこを見せ始めたのはほとんど同時だった。阿弥はぶんぶん団扇を扇ぐ。一振りごとに拾銭もらえると言われても、ここまで必死にはなるまいと思われる激しさだった。樹は土を巻き上げながら、腹に響くような音を残して奥へ倒れた。
近くの犬が一斉に吠えはじめた。犬も鳴きやむと、大穴と横になった樹が残った。彼女も何か鬱屈したものをよほどたくさん心に抱えている。
「あら、文さん」
私に気づいた阿弥は息を弾ませながら、こちらへ微笑みかけた。憑き物の落ちたような晴れ晴れとした顔だった。
どちらともなく、土手の草むらに腰を下ろした。あれこれといろいろ話したのだが、内容はあまり覚えていない。ただ、彼女がこういっていたことは覚えている。「私はどうせなら稗田乙女の変わりものになる。私は稗田の八番目ではなく、阿弥として何か特別なことをしたい」と彼女は言った。「まあ実を言えば何も思いつかないし、幻想郷はいま大変だしでちょっと挫けそうです」
「妖怪相手に話しかけようとするのは、その一環なの?」と聞くと、「とりあえずできることから」と彼女は言った。私は「できてない」とよほど突っ込もうかと思ったがやめておいた。
私が天狗であることを明かすと、彼女は私の顔をぺたぺた触ってきた。それから自分の顔を撫で、「あんまり違わないや」と言って嬉しそうに笑った。
それから私は半年ほど、結局ずるずると稗田邸に逗留した。彼女に対する苛立ちは、なぜだかその河原でふっつりと消えてしまっていた。
ひとつには、阿弥の心情の複雑怪奇さにちょっと惹かれたから。こいつはちょっと面白そうだ、とそう思ってしまった。
もうひとつは、たぶん二人がどこか似ていたからだろう。私は天狗の里の、そして阿弥は稗田乙女と家族と、それから人間の間でもはみ出しものだった。
女中も兄夫婦も、食い扶持が増えるのでもちろんいい顔はしなかったが、私が阿弥の身の回りのことを手伝いだすと、無給の女中を雇えたとでも思ったらしく、何も言わなくなった。特に半年が経って、阿弥が倒れてからの私は――。
≪stage4 幻想郷/境≫
「文!聞いてる?」
「えっ?あ、ごめん。聞いてなかった」
当の阿弥の声で私は我にかえった。阿弥はいま元気だ。その事実が私の心を落ち着かせてくれる。私たちは、高度をずっと下げて山深い峡谷を飛んでいた。下には音もないまま十重二十重に波がうねる渓流、両脇は屏風のような岩壁、ずっと正面には低音を辺りに轟かせる滝。この辺りが幻想郷の東の縁だ。
「あの滝の辺りで、結界の切れ目はおしまいよ。だから西の縁を回ったけれども、八雲紫は見つかりませんでした、次の指示をどうぞって状況ね」
「おかしいなぁ、死神は西って言ったのに…」
「ねえ、文、本当のことを言って、小町は西だなんて言わなかった、そうでしょう?」
「そんなわけないじゃない!なんで私が嘘なんか」
「さっきより芝居は上手だけれども…文、右手を握ってる」
「え?」
私は自分の右手を見る。いつの間にか、真っ白になるほど握られていた手だった。
「一度見れば忘れない能力ってね、癖を見抜くのは巧いの」
ごまかし通すのは無理だと悟る。この女は本当に複雑で、ちぐはぐで、底抜けの阿呆のくせに、鋭いときは変に鋭くて、私は大事なところでいつも、いっつもやりこめられていたように思う。
嫌な女だと思う。すっごく。
「紫は…博麗神社かな。この寒い時期に八雲紫が外回りなんておかしいもの。どうせおこたで巫女と花札でもしてるんじゃない?」
それから阿弥は睫毛を伏せる。私に理由を聞いて良いかどうか、悩んでいる表情だった。
「私はあなたに紫と会って欲しくない。それが理由よ」
私から言ってやった。我ながら簡潔な理由だと思った。しかし納得を得るのは難しそうである。
「阿弥、冒険はここでおしまいにしよう。八雲なんてほっといて、ふたりでどこか散歩に行こう。私、月見にもってこいな場所を知ってるんだ。まずそこに行って次に――」
「ごめんなさい、文。私は行かなきゃいけない」
「…っ……寒いからっ……お酒持ってきてさ……っ、そうだ!焚き火もしようよっ……」
「文…」
「なんでよ…。だってあなたにはもう分かっているんでしょ?今の時間が終わったら、自分がどうなるかってことくらい!」
「そうね。八雲紫が手を出したのは、私の現実と夢の境界だもの」
阿弥は自分の手をしげしげと眺める。「こうして見ると、自分の手でもけっこう変わる」
その手は、何ヶ月か前の阿弥の手だ。白くて細いけれども、肉のある手。
「今の私は夢の中の私だから、こうして飛べて、お札で活躍もできる。だから、八雲紫の手出しが止めば私は現実の私に戻るはず。その現実の私は…」
阿弥は呼吸を一度した。自分でその事実を手で撫でて確かめるように。
「きっと明日にも死ぬ。だって、小野塚小町が里で待っていたくらいだもの」
聞きたくない言葉だった。私は彼女を見れば自分をごまかし切れていたのに、それを否定されてしまった。目の前の彼女は以前のままなのに、私の脳裏には、骨と皮ばかりになってやせ衰えた彼女の姿が何度もだぶって見えた。
「だったら、私が言いたいことも分かってるんでしょう?!」
「でも、今の私は夢の私よ。あなたとこれまで過ごしてきた私じゃない」
阿弥はきっぱりと首を振る。私に対する拒絶だった。阿弥が死のうとしている。阿弥が自分を拒む。そのいちいちどれもが、私を深く混乱させた。
「そんなの関係ない、私は嫌だよ!阿弥が死ぬなんて嫌!せっかくこうして一緒に飛べるのに、それが明日にも、ずっといなくなるなんて嫌だ!!夢だろうと構わないわよ!あんたがやっと元気になったんだから!――あんたなんか大嫌いだ!!ちぐはぐで、変に悟って、自分だけ満足して結局私を置いていくんだ!死なないでよ!お願いだから置いていかないで!!」
私はもう意味を成さない駄々をこねる子どもだった。叫びながら、私は自分でもそう気付いている。でも無茶苦茶に叫ぶほか、今の自分をどうしたらいいのか分からなかった。
千年も生きていながら、私には親しい誰かと死別する経験はない。
さして親しくもない人妖が死ぬのは散々見てきた。あれが阿弥に起こる。阿弥がずっといなくなる。私と対等につきあってくれる人間がいなくなる。それはきっとすごく寂しい出来事だけれど、どのくらい寂しさを感じるか想像できない。想像できないのが、何よりも怖い。
私は涙を拭って、団扇を握った。阿弥の顔は、西に傾きはじめた月の逆光でよく見えないので都合がよかった。私は懸命に、目の前にいるのはいまは敵で、阿弥ではないと思いこもうとした。
「行かせないからっ!…あんたを絶対っ…神社なんかに行かせないからッ!!」
Side B ――すきやきの夜――
「私はイライラしていた」
「昔と今の私みたいに?」
「そう。だって博麗の巫女とずっと顔合わせて寒い中結界作りだもの。肌は荒れるし」
「仕事でしょうが。しかも言い出しっぺはあなた」
「術式を間違えると針が飛んでくるし」
「それは同情しなくもない」
「でしょ?!あの時の巫女ときたら、霊夢以上よ!霊夢のフルパワーを128とすると…」
「何よ、その具体的な数値は」
「あいつは1024くらい。常時アイテム回収可」
「強ぇ…」
「私はストレスのはけ口が欲しかった。すごく弾幕遊びがしたかった。
博麗の巫女にちょっと頼んだら湯飲みを思いっきり投げられた」
「ねえ、すごく嫌な予感がする」
「ちょうどいい相手がいないのならと私が目をつけたのが」
「待て!八雲紫!もう聞きたくないわ!」
「あれ?いいの?」
「そんな自分勝手な理由、聞かなかった方がどれだけマシか知れない。っていうか殴らせろ今すぐ」
「じゃあもう一つの質問ね、なんで私があなたを呼び出したか」
「すき焼きのあとに鳥すきも食べたいなんてわけじゃ…」
「まさか」
「どうだか…」
「でもその前にひとつ質問があります。射命丸文」
Side A ――過ぎ去りの夜――
青白い月に照らし出されながら、文は、私に向けて威嚇するように黒い翼をひろげた。文の声を聞くのは身を刻まれるように辛い。
そりゃあ私だってむざむざ死にたくはないのだ。彼女の言うことはいちいち的を射ていた。こうして一緒に飛ぶことを病床の中で何度夢に見たかだって分からない。あなたは薬湯を私の口に運びながら、東京まで飛んでいった話や九天の滝へ真っ逆さまに飛び込む話や、春の昼間の雲の上の話を聞かせてくれた。
私は今、それができる世界にいる。いることができる。
けれどもこれ自身はまだ夢のまま。夢の中でかなえた夢に、一体何の価値があるだろう。私は世界に嘘をつかれていて、文にも嘘をついている。
ねえ文、私だって綺麗に死にたい。自慢じゃないけど、私は二十何年か生きてきて、人を困らせる嘘だけはついたことがない。この最期になって、嘘まみれの中で死にたくなんてない、ちゃんと清算をしなくてはいけない。あなたは会ったことがないでしょうけど、閻魔さまってのがちゃんといて、彼女はそう言うのに厳しいんだから。舌を抜かれたら私は困る。
困るって言ってるのにあなたはそうやって、聞き分けのない妹みたいに駄々をこねているばかり。おや、そう言えば、あなたは妹っていうのがしっくりくるかもかも。背伸びしてて、けっこう人に突っかかってきて。そうして羽を広げてるとなおさら体が小さく見えるもの。せっかくお月様が照らしてるのに、そんなに顔をぐしゃぐしゃにしてたら台無しじゃない。さっきの天狗の子には見せられないな。
だいたい顔は可愛らしいんだから、きちんと敬語を使って、気持ちを素直に出して、乱暴なのさえ直せば、きっと人間だってあなたを好きになってくれる。
だって私はあなたが大好きだもの。
大好きなあなたに謝らせるためだったら、八雲紫だってきっと叩きのめしてみせる。
さて、そのためにもまずは最初で最後の姉妹喧嘩といきますか。
****************************
文の戦法は分かっているが、持ち前のそそっかしさによる手数の多さで、こちらには反撃の機会がない。回避だけが精一杯だった。札を投げつけても団扇で全て弾かれてしまう。
文が無数の蝶型の弾を私の少し下を狙ってばらまいた。弾は日だまりが動くようなゆっくりとした速度で、それでも確実に私の行動範囲を縮めていく。
続けて文は、団扇を横に倒したままびゅんと一文字に空をかっ切った。下の蝶弾と、幅の広いかまいたちが私目掛けて飛んでくる。彼女の狙いは私を上に飛ばせることだ。
私たちはいま、渓流のど真ん中にいて、左右は岩壁で移動が制限されている。そのために下を蝶弾でびっしりと塞ぎ、左右の移動では避けきれない真空を放ってきた。かまいたちそのものの速度も速い。上に飛ばせて、かまいたちほどは致命的でない何かの手段で一気に勝負を決めるつもりなのだろう。私は誘いに乗らず、あえて、横へと動いた。文の顔が一気に歪んだ。それは無茶だと叫べるのなら叫んでいる顔。あのかまいたち、まともに食らえば私は真っ二つになってしまうだろう。
かまいたちは大人が両手を広げたのを三つつなげたくらいの幅だった。ぐん、と意識が置いて行かれるのを感じながら、懸命に体を横に飛ばせる。
勢いを殺す間もなく、だぁん、と私は岩壁に背中をつけた。胴体はまだくっついている。かわしたと思った瞬間、かまいたちの余波が私のへそのすぐ上を何寸か真横に切り裂いた。袴がぱくりと口を開け、風に乗って血が飛んだ。当たった。
文は目を見開き、呆然としたように両手を顔の前に持って行った。指の隙間から覗いた目は見開かれている。
絶叫。
今さらのように、流れ出る血が私の袴を赤く染め出していた。
「違う…私はそんな、つもりじゃ…ごめんなさいっ…!ごめんなさいっ…!」
私はつかつかと大股で――飛んでいるのだがそんな感じだ――歩み寄ると、ぺちんと文の頭を叩いた。呆然とした顔で文は私を見上げた。
「しっかりしなさいってば」
「阿弥…大丈夫なの?」
「これで分かったでしょ?私は夢なんだから、落ち着きなさい。――文があんまり楽しそうだったから、私だって決めづらかった。でも、今の私は不自然で在ってはならないものなの」
文は泣きじゃくりながら弱々しく首を振った。まったく、と私は肩をすくめる。このだだっこめ。
「本当の私と一緒にいてあげてちょうだい。横に誰もいないと寂しいから。私の方は大丈夫だから、ね?」
文ははっとしたように顔を上げた。緊張が解けた文は急に幼くなったように見える。目元を少し辛そうに歪めながら、それでも彼女は私に頷き返してくれた。私は彼女を抱きしめる。
「ありがとう」
彼女はすんと一度鼻をすすり、私とは逆の方へ向けて飛ぶ。一度思い返したように振り返ると、「何か欲しいものはある?」と聞いてきた。「すり下ろした林檎とか、お粥とか」
「あなたが前言ってた牛鍋ってやつ……冗談よ。手を握っていてくれてたらそれで良いわ」
「こんな時になのに。それじゃあ気をつけて。――また、後でね」
私は手を振って東へ飛ぶ。
夢の終わりに、私はどんな顔で文に会えばいいのだろう。
Side B ――すきやきの夜――
「食べたねー」
「食べましたねー」
「文たちの分がない」
「さだめです」
「さだめか」
「おいしかったですね」
「ああ、旨かった」
「ところで阿求」
「なんでしょう」
「あんたと文って仲良かったっけ?」
「なんで急に?」
「いや、なんとなく。今日一緒に来たし、あんたが麦酒飲んだときもけっこう心配してた」
「新聞届けに来たときまれに話すくらいですね。たまたま会ったときに、今日二人一緒にお呼ばれしてるって互いに分かって、それ私もだ、それじゃ送ってあげる、とまあこんな風に」
「それじゃあんまり接点はないなぁ」
「普通の反応なんじゃないですか?無関心だ無関心だって言われてる霊夢さんだって、私がいざお酒飲んだら心配してくれましたよ?」
「あいつの無関心は見かけだけ。実際はいろいろ気の回る奴だもの。でも文は別」
「といいますと?」
「あいつは本当に無関心なの。表面は礼儀正しいけど、内心は自分の新聞のこととか、そう言うことしか考えてない、というか一個のことしか考えられない。要するに一途なコドモなのだよ」
「そうは見えません」
「ちょっとしか付き合いないと分からないよ。だってそうじゃなかったら新聞記者なんてやってられないじゃん。だから、あいつが人の心配をするのは珍しいの」
「ひょっとして」
「お、心当たり」
「私が可愛いからでしょうか」
「飲むか?」
「粗相ですね。飲みましょう」
「だいぶぬるくなってきたな。紫でも呼んで…おや、雪だ。外に置けばいいか」
「あ、そうそう。霊夢さんと言えばこんな資料が神社の蔵から出てきたとかで」
「なにこの紙切れ、そんなに古くはないか。せいぜい百か二百年」
「八雲さんにそのことも聞こうと思ってたんですけど、萃香さん何のことか分かります?」
「私もちょうどいなかった頃だしねぇ。もしかして知ってることかもしれないからちょっと思い出してみる」
「そのあいだに私は麦酒を外に出してきます」
「『特記事項・稗田乙女に手を出すな』。これは昔の巫女が決めた何かのルールかな?それにしちゃなんというか、えぐえぐ泣きながら書いたような字だなこりゃ」
Side A ――過ぎ去りの夜――
私は屋敷、阿弥を囲む塀の中へ再び降り立った。屋敷の中は耳が痛くなるほど静かだ。庭を横切り、離れの縁側に上がり、音を立てないように障子を開いた。
開いた障子の形に四角く月明かりと私の影が差し込む。病人の部屋になってしまわないよう、私が毎日花を活けたりして、できるだけ明るくなるように整えてきた部屋も、今は静寂を誇張するばかりだった。
青白い光に照らされながら眠る阿弥が、まるで骸骨のように見えてしまって。
私はさっきまでの阿弥の姿を重ねないわけにはいかなかった。
私は何も言わずに腰を下ろし、布団の中に手を差し入れると、阿弥の右手をそっと握った。彼女の寝息は弱く、時折苦しそうに乱れた。
約束をしたから、私は神社に行きたいと思う気持ちも、阿弥の夢ができるだけ長く続いて欲しいという気持ちも、できるだけ奥へ押し込んで、手をずっと握っていた。
いつしか私は、膝を抱えていた。途方に暮れているみたいに。
「阿弥ぁ……」
そして涙も止まりそうにない。
≪stage5 博麗神社 石段≫
腹の傷が鈍くずきんと痛んだ。夢の中でも痛みがあるなんて全く余計な話だと思う。神社の石段は鬱蒼とした木々のせいで月光も差し込まない。まっ暗な中を、私はたった一人で飛んでいた。
ぱっと石段の両脇で黄金色の火の粉が飛ぶ。八雲紫が創った結界は、その中の幻想をより高め、降り注ぐ月光がそれを純化する。高まり高まった幻想は、こうして形も結ばずにただの暗中の光となる。闇の中では、はじける光が最大の不自然であり幻想である。
石段の両脇で、ぽんっ、ぽんっと火花が弾ける。その音は荒々しさとは無縁で、私は鼓の音を結びつける。気がつくと雪が降り始めていた。長い石段を抜けると、頭上の木々がさっとひらけて月が見えた。雪と月と、松の枝と紅い紅い鳥居。能の舞台のように幽玄に、探し求めたその女は石段の頂にすっと咲いていた。鮮やかな金髪。紫色の着物。
「待ちかねましたよ、稗田阿弥。はじめての夜のお散歩はどうだったかしら」
「八雲紫、ひとつ聞かせてください。こんなくだらないペテンに私を巻き込んだ理由は何ですか。もし退屈しのぎなんて理由であの子をひどく傷つけたのなら、私は絶対あなたを許しません」
まさか、と彼女は笑い飛ばした。大方そんな理由だろうと踏んでいた私は意表を突かれて固まる。えぇと、そうすると私はこいつを許さなくてはいけなくなってしまうのか。どうしよう。
「まあ、それもないわけではありませんが、ちょっとあなたにお説教をと思いまして」
「妖怪の大賢者直々に臨終のお説教とは、身の引き締まる思いです。主に寒さで」
「あなたは、遺される人の気持ちを考えているのかしら?」
「また陳腐なお説教ですね。我が身の不幸なのにそこまで考える必要があるなんて」
私はちょっと首を傾げて考えてみる。兄夫婦は論外だ。あの人たちは、私がいなくなればさぞせいせいすることだろう。縁組に使えなかったのを残念に思うかも知れないが。女中もたぶん同じ。そうすると残りは必然的に――。
「どうせ、私は生まれ変わるのですから。文とは絶対にまた会えます。あの子も長生きしますし」
「何も分かっていやしない。あなたは自分の死をちょっと軽く見過ぎている。あなたにとっての自分の死と、あの天狗にとってのあなたの死は、似て全く非なるものよ。『阿弥として何かをしたい』だなんてお笑いだわ」
「何が言いたいのです。盗み聞きまでして。部外者のくせに…」
「部外者…?」
「ええ、あなたには昔から史料の編纂を助けていただきました。けれどもそのことは私の内面とは何の関係もありません。あなたが口を出すべき問題ではないと思います」
「そう。今のあなたがそう言うなら、それはそういうことなのかしら。…でもおかげでようやく合点が言った。やっぱり貴方は覚えていない。覚えていても、きっとそれは分厚い辞書が頭の中にあると言う程度」
私のいらいらは限界に達しようとしていた。こいつは私の体を不当に操作したあげく、訳の分からない言葉で煙に巻こうとしている。お腹の傷も痛い。手先は冷たすぎてなんだかかえって温かくなってきたくらいだ。目の前はだんだん霞んでくる。私はまさに満身創痍だ。どうせ死ぬのだから静かに死なせてくれればいいのに。
「意味のさっぱり掴めない言葉はうんざりです!とっととやるならやる!帰らせるなら帰らせろ!くたばれこの阿呆スキマ!」
「五月蠅いッ!…思い出せないんなら…思い出せないって言うなら…思い出させるまでよ!覚悟なさいなこの薄情者!」
言うと紫は懐から四角い硬質なカルタのような紙を取り出した。
「スペルカードといってね。人間相手に使うものではないけど、今のあなたにはこれだって足りない!」
紫に向けて金色の光が収束していく。最初からそうすれば分かりやすいのに、と私は札を両手に三十枚ずつ、いっぺんに握った。今の私なら山だって吹き飛ばせる火力だ。
「女の恨みを思い知りなさい!――!」
彼女は私の知らない名前で私を呼ぶ。
「知りたいもんか、そんなもの!」
私は叫び返して札を振りかぶって一気に投げつけた。今晩で最高の勢いだ。
Side B ――すきやきの夜――
「ひとつ聞かせて。あなたは、阿求のことはどう思っているの?阿求は阿弥に他ならない。けれど、阿求ははっきり言って、記憶をごくごく部分的にしか引き継いでいない。今の彼女に昔の彼女を重ねて空しくなることはないのかしら?」
「だいぶ照れるので敬語に戻ってもいい?」
「ええ、どうぞお好きに」
「――彼女はきっと私の新聞をきっと全部読んでくれていて、たしなめる顔で、お姉さんぶって、いろいろケチつけるに違いない。阿求さんがどうしたって難しいことより、そう考える方がずっと気が楽でそれらしい。私はそう思ってますし、たぶん阿弥もそう思われたがってるんじゃないでしょうか」
「ご立派な答えね…」
「変でしょうか?」
「いいえ、ちっとも。――そうね。きっとそう。死ぬ意味を一番取り違えたのはきっと私。御阿礼の子は同一人物だって、記憶も人格も何もかも全く同じだって、そう信じようとしたのが私。私も、何か残してもらえばよかった。あなたはたぶん彼女と彼女の顔の違いだって、きっと鮮明に覚えているのよね。私は彼を他の代と重ねすぎたから、もう、彼がどんな顔で、どんな声をしていたのか…忘れちゃった」
「紫さん?」
「忘れちゃった……どうしよう…」
Side A ――過ぎ去りの夜――
八雲の弾というのがまた早い、多い、位置が掴めないと最悪だ。前から榴弾のような一撃が飛んできたかと思えば、今度は右。かわすと次は細かい弾で進路を塞いで、止めと言わんばかりにスペルカードとか言うややこしい弾幕。
しかも彼女の言葉が微妙に心に引っかかる。(今度は前方から光線が来た)私が死を軽く見ている?そんなことはない。私だって死ねば百年は日陰で労働の毎日だ。(上から網目状の弾)ちゃんと死は回避しようと思う。ちょうどこの弾みたいに。文はわたしの死を違う風に受け止める、と八雲紫は言う。それこそ意味が分からない話だ。阿球とか阿久とか、名前も知らない九代目は、また文に会えるはずなのに。文は何をそこまで悲しむ必要があるのだろう。でもまた文に会えるってのは良いな。あの子はいろいろとちぐはぐで面白い。私はその九代目がちょっとうらやましい。
「あ」
私はふと大事なことに気がつく。自分でさえ他人に思える存在を、他人がなんで同じに見られるだろう。
現に私は、八雲紫の求めに応えられていない。だとすると文の求めに応えられるのは他ならない私だけなのだ。
つまり、私は私をきちんと殺さなくてはいけない。そうでなくては甘い中途半端な期待だけを相手に残す。それは租税を確かめる役人のように、確実にきっちりとした仕事でなければならない。
きっと大昔の私は自分を殺し損ねて、そのせいで八雲紫はまだ何かをひきずって怒っているのだ。その人のために自分をしっかり殺すこと、それが人を遺すということなのだ。たぶん。
「どうしたの。ご自慢の札も、さっきからちっとも撃って来ないじゃない。降参するならそうとおっしゃい。好機とばかりに全力で行ってあげるから」
「我発見せり!!」
「な、何!?」
そうと決まってはぼやぼやはしていられない。私に残された時間はあまりに少ないのだ。紫の弾幕は一定の規則を持って展開する。一見、高い密度で盤石の守りに見える。私は考え事をしながらぼんやり見てる間に記憶した、その規則を思い出す。今から二秒後、紫の右上が空くのを頭の中で確かめる。右へ一足に跳ぶ。
「逃がすと思っているの?この囲いからは出られないわよ!」
紫が見当違いのことを叫ぶ。ここで前方に半間。肩を弾がかすったが、何とか割り込める隙間だ。私は逆さになったままそこに一旦静止する。
二秒、いまだ、と勢いをつけて突入した。赤青緑に黄色、いろとりどりの弾が私の視界を横切る中、紫の驚いた顔が近づく。右手に構えた札を投げつける。弾幕の維持に両手がふさがり、その場から動けない紫は上体を傾けてギリギリでそれをかわした。私はそこを見計らって二枚目、左手の袖に隠した一枚を投げ放つ。無理な姿勢をとっている紫には絶対に避けられないはず。だったのだが、紫はにいっと気味の悪い笑みを浮かべると、足元に開けたスキマに体を沈めた。札が石畳に空しく突き刺さった。
その瞬間、地面に降り立った私は身体の軸を意識しながら、畳んだ左足を上げて体をぐるんと回転させる。狙い通り、私の回し蹴りは背後に出現した紫のみぞおちに突き刺さった。たまらず紫は涙目で咳き込みながらしゃがみ込む。
「やっぱり…夢見るあなたは、ずば抜けて強い…」と紫が苦しげに言った。「けど、こんなの全然スマートじゃない…」
「乱暴な誰かさんの真似です。たしなみには欠けますが、まぁ今夜限り」
「あなたねぇ…」
紫が非難の目を私にじろりと向けてきた。それと同時に、脇からひゅっと風を切って何かが一枚飛んでくる。その何かはとすっと私の身体に突き刺さった。その突き刺さったもの、お札、を見て八雲紫が目を剥く。出血も痛みもないまま、お札は私の体に吸い込まれていき、やがて私の身体が青白く光りはじめた。光はすぐに治まったが、私の体の内側に、何かがちんと錠のようなものが下りたような気分がした。
「あ…あ…」
紫はカラカラに乾いたような声を漏らす。脇から怒声が聞えてきた。普段ならば鈴を鳴らすような可憐な声なのだろうが、まあ、怒鳴る場面なので今は鈴とは言っても神社の鈴が似つかわしい。がらがらと鳴らすあれだ。
「紫ぃ!何サボってんのよ!!」
「ひいいいいぃっ!」
しゃがみ込んでいた紫が、さらに小さくなるようにして頭を抱えた。
Side B ――すきやきの夜――
「紫さん…」
「…ごめんなさい。私が今日あなたをここに呼んだ理由はその答えを聞きたかったから。そしてあなたの答えは、私の気持ちを片付けさせるのに十分だった」
「別にそんな、大層なことじゃ…」
「気持ちの整理ができました。彼女との約束なので、私はあなたに謝らなければいけません。私はあなたを傷つけて、悲しませました。申し訳ないことをしました。どうか、許してください」
「……紫さん、きっと私にとっても阿弥にとっても、あの夜はなくてはならない夜だったんです。こちらこそお礼を…って、何笑ってるんですか」
「いえ、彼女の約束って配慮が届いてるなって思ったの。あなたにも、私にも」
「阿弥はどうせそこまで考えちゃいません。子供を叱るつもりで行動してる人でしたから。座敷に戻りましょう、紫さん。雪も強くなってきたし、もうだいぶ時間が経ってます」
「そうね。阿求ちゃんも危ないし」
「さあ、阿求さんがどうなろうと阿求さんの人生ですし」
「目が泳いでる」
「…さあ?」
「そうよねー。顔似てるものねー。面白くないわよねー」
「あぁ、もう!くっつかないで下さいよ!歩きづらい!」
Side A ――過ぎ去りの夜――
≪stage6 博麗神社 本殿≫
「私にバレないように結界まで張って暇つぶし?当然覚悟はできているのよねぇ?」
彼女は笑いながら――ただし据わりきった目で――お祓い棒を掌でぱんぱん言わせている。見た目は二十歳に満たない少女なのだが、今の雰囲気は極端に怖い。頭にちょこんとのったリボンも実は血染めですと言われれば信じてしまいそうな凄みがあった。聞くまでもなく、彼女が博麗の巫女なのだろう。
「面白そうじゃない、私にもやらせて。紫、あんたは仕事に戻ってなさい」
「え、いや、あの。この子はもう帰らないと…」
「そんなの大丈夫よ」と博麗の巫女は笑った。
「勝手に悪いとは思ったけど、あなたの境界を固定させてもらったわ。これで紫のまじないはしばらく解けない」
私は驚く。境界の大賢者の専門分野を、この少女はやすやすと奪ってしまった。この少女にはどれだけの力が、って紫の反応を見れば想像がつくな。
「ここだと私の神社が壊れちゃうから、ってもうちょっと痛んでるわね、石灯籠とか」
「直しておくわよ。だから睨まないで。直すから。お願いだから直すから」
「本殿の上でやりましょう。あのスペルカードとかいう派手なやつ、妖怪だけの遊びにしておくのは勿体ないわね」
博麗の巫女はふわりと上空に浮かぶ。それは力を働かせて飛ぶというよりは、全く自然に飛んでいるように見えた。飛び方そのものが違うような。私が追いかけようとすると、脇に八雲紫がしがみついてきた。
「あの子を怒らせちゃまずいの、やめた方がいいわ」
「愉快な夜の最後だもの、これくらいがちょうどいい。最後にひとつ。ぜったい文に謝罪を忘れないように。あなたもいろいろあるみたいだし、気持ちの整理がついてからでいいから。たとえ、百年あとになったって構わないから」
私がそう言うと、紫は戸惑ったような顔をした。悪戯を咎められた子どものような顔である。何年生きても、どれだけ立場があっても、こいつら妖怪はどこかしらで子供っぽい。だから私は妖怪達が好きでたまらないのだ。私は記憶の水底から泡のように浮かんできた言葉を八雲紫にあげることにした。なぜか分からないが、いま言うべきという気がした。
「――――――――。」
紫の手はそれで零れる砂のように離れた。彼女は口をつぐんだまま、スキマにその姿を消していく。それにしても、と私は思う。昔の私と紫に何があったのだろう。気になる。
屋根の遥か上では博麗の巫女が手枕をして寝そべりながら月を見ていた。彼女の黒い髪が月光で青白く光る。西に傾いた満月というのも乙なものだった。東の空は微かに白んでいる。
「あぁ、やっと来た?」
「やっと来ました」
「紫のやつも偽悪者っていうか不器用っていうか、まああの通りなやつよ。あんまり怒らないであげてね」
「もう怒ってはいません。どちらかというと、おかげですべきことが見えた気がします」
「あの天狗の女の子に対して?」
あんたまで覗き趣味か、と私はげんなりする思いだった。案外このふたり、人前以外では仲が良いのでは、と私は思った。スキマの映像を肩を並べて見ているとか。
「ええ」
「興味があるわね。不滅のあなたが何をするのか」
「別に大したものじゃありません。ちょっとサヨナラを言うだけです」
「本当に大したことじゃないわね…」
「大したことじゃないけど、大したことです。きちんとしたサヨナラは大切です。まして私はサヨナラかどうかがわかりにくい種類の人間なので、周りの人に変な錯覚をさせてしまう」
「あなたは稗田乙女以前に一人の人間だ、ってことかしら」
「双子だって、不幸にも里子に出されて離れて過ごせば違う人間に育つでしょう。結局のところ御阿礼の子とはそうしたものです。事務的な記憶は引き継がれますが」
「思った通り、あんたはなかなか面白い。今夜きり会えなくなるのが残念だわ」
寝そべった姿勢で浮いていた博麗の巫女がすっと立ち上がる。彼女は一度、水滴をふるい落とすようにお払い棒を振った。
「なので一期一会の精神で行きましょう。私が負けたら博麗の家訓に加えてあげても良いわよ。『稗田乙女には手を出すな』ってね。なんなら、これから私と紫が創る幻想郷のルールに加えてあげてもいい」
「それはありがたい。普段の私はもう少しおしとやかなので、取材に安心保障がつきます」
私たちは互いに距離を取って対峙する。高揚で胸が張り裂けそうだ。それは向こうも同じらしい。ぶっきらぼうな表情は成りを潜め、少女らしい溌剌とした表情が月明かりに冴える。
「楽しい夜です、忘れられないくらい」
「それは大いに結構。ただあんたが言うと度合いが伝わりにくいわね。何でも覚えてるくせに」
「それは買いかぶり。私は大いに忘れっぽいんです」
「遊びでも本気で行くわよ、まほろばの語り部!」
「一夜限りの返歌です、楽園の巫女!」
Side B ――すきやきの夜――
「吐きすぎだぞ、天狗」
「おかえりなさい、八雲さん、文さん」
「ただいま戻りましたわ」
「ずっと吐いてたわけじゃありませんよー」
「すき焼きみんな食べちゃった。残ってるのがこれ」
「うわ、ほとんどおつゆだけ…えーと、牛脂の固まりに、煮くずれた豆腐のカケラに、なにこの葉っぱ。水菜か春菊かよくわからない…奇形?」
「っていうか萃香、これ割下でぐつぐつ似てるじゃないの!ああ忌まわしい!どこから持ってきたこのすき焼き風調味料!」
「すいません、紫様」
「藍!お前か!!」
「えー、簡単でいいじゃん」
「ああもう仕切り直しよ!仕切り直し!藍、橙も呼んできなさい!」
「紫さん、具材はあるんですか?」
「幻想郷中からかき集めるわ!」
「ついでに人も集めちゃったら?さすがにこの時間から寝てるやつはいないじゃん?」
「萃めるあんたがそれを言うか…確かにスキマからつまみ上げた方が早いわね、よし!」
「この時間に寝てるのは…意外と早寝の魔理沙さんくらいですね。霊夢さんは居間。アリスさんは暖炉前、レミリアさんと咲夜さんはダイニング、パチュリーさんは定位置、幽々子さんは入浴、妖夢さんは脱衣所で何かごそごそやってる時間です」
「ナイス!全員まとめてワンキャッチね!さぁて、騒がしくなるわよ」
「なんだか文さんも八雲さんも、酔い覚ましたあとなのにテンションがすごいですね」
「ちょっといいことがあったんです。ちょっとだけ。長く生きてると色々ありますよ」
「私も長いと言えば長いですけれども。稗田だし」
「いいや、短い!」
「短いわ!」
「そんなにっ!?」
「くっくっくっ」
「萃香、何笑ってるの?」
「いや、愉快な晩はやっぱりこうでなくちゃってね。いい顔で飲む酒が一番だよ」
「まあ同意ね、詩的じゃないけど」
「そうですね。愉快な晩ですもの。まあ紫さん、どうぞどうぞ」
「おっとっと。じゃあ阿求ちゃん」
「ありがとうございます。今日は本当に、牛鍋、じゃないや、すき焼きも食べられたし、楽しくて幸せで、はちゃめちゃな晩。こんな夜はずいぶん久しぶりな気がします。――それでは」
(グラスを合わせる、高い音)
≪エピローグ≫
私は長いこと眠っていたらしい。目を覚ますと、寝入る時と変わらず、文は私の手を握ってくれている。彼女の高めの体温が心地いい。障子からは朝の真白い光が差して、私は変に透明な気分になった。私の手の動きを察して、うとうとしていた文が目を覚ました。
「ん…阿弥、起きたの?」
「なんだか変わった夢を見ていたなぁ。いろいろ勝手なやつらが次々出てきた。…文?…文、なんで泣くの?…やだなぁ、私まで、悲しくなってくるじゃない…」
「だって、だって…っ」
文は下唇を噛み、うつむきながらぽろぽろ涙をこぼしていた。顔に落ちた涙は当たり前のようにしょっぱい。天狗の涙を飲んだ人間が、過去にどれだけいただろう。
私は文の頬に手を伸ばした。彼女はしばらくすると落ち着いてきたらしい。私の手を取り、そっと布団の中に戻した。
「お水はいい?」
「いい。それより、ねぇ、文」
「どうしたの?」
「文の新聞の名前を考えたの」
口だけがすらすらと話していたが、いつ考えたのかも思い出せない。そもそも、私はいつ、文が新聞を作るなんて聞いたのだろう。それでも、不思議な実感がそこにはあった。私が文に与えるべきものがなんなのか。何を残せばいいのか。
「…うん」
「文々。新聞なんていうのはどうかしら。あなたの名前の「文」。同じってことで踊り字。あとは調子を整えるのに句点でまる。ブンブンシンブンじゃあんまり語呂が悪いから」
文は立ち上がり、私の文机に向かうと、紙に「文々。新聞」と書き、戻ってきた。
「ブンブンマルシンブン。なんだか語呂が脳天気だね」
「いいと思うけれどね。あなたみたいに、びゅんびゅん飛び回って、ちょっと落ち着きが無くて。それに」
私は手を伸ばし、「々」を指さす。それから私を指さし、文に向けて微笑む。
「…うん、それにする。書くからっ…!絶対阿弥に見せるから、だから…」
うっすら目を閉じると白い部屋がにじんで遠くへ消えていく。文の声色で、理由もなく唇に微笑が浮かぶ。
「だからまだ…」
「きっとこれでいいの。あなたにとっても、私にとっても」
我儘を言ってごめんなさい、ありがとう。
あなたがいてくれたから、私はきっと私になれた。
「楽しい新聞にしてね。ちょっとくらいの嘘は、まあ大目に見るから」
――サヨナラ。
すき焼きか、しばらくそんなもんくっとらんなぁ。すき焼き風の何かならなくはないけど。
おもしろい話をありがとう
すきやきの時の掛け合いが素敵でした。
口上がかっこよかったです。一期一会…差し違えの精神。
脳においしい文章、ご馳走様。
非常に面白かったです、風情があるすき焼き食べたいなあ
堪能しました。
キャラもみんないい味だしてる
らしからぬ事に初めてコメント付けますよやっべえ。
なんとも言いようがないけどこう、設定厨の自分にはたまりませんな。
いやはや、文句なしの100点です。
かなりツボなんで頼むからもっといっぱい書いてくれ~。無理のない範囲で。
ちょっと泣いた。
なんというかまあ、ふたりのあやが凄くいい。
すき焼きも随分食ってないなぁ……
名前しかないキャラっていうから、はじめは紅魔のあの人かと思ったが、まさかこう来るとはw
会話のみで進行していく現在sideの時間と、一人称で語られる過去sideの時間がうまく味のある空気を出していていい感じです。
もはや迷わずにこの点数を。
文と阿礼乙女。
この二人って物凄く気が合いそうですよね。
天狗の涙にもらい泣きしてしまいました。
素晴らしい作品をありがとう。
胸がスカッとしました
後味がいいです
二人の「あや」の絆に目頭が熱くなりました。他のキャラも、とても魅力的に描かれていたと思います。
あの夜があったから、今夜も愉快だすき焼きが美味い。素晴らしいお話でした。
どこまでも東方で、かつ少し寂しさが残るいい作品でした。
一夜限りの阿弥の文との夜間飛行が美しくて切ない。
そして今、みんなですき焼きを囲んで食べている彼女らの幸せそうなこと!
本当に読めて良かった。素敵なお話でした。
非常に面白かったです
先代巫女・・・それなんて無理ゲ?
ただ、心を打たれるお話でした
あとすき焼き食べたくなりました
本当に読めて良かったと思います。