※前半の続きです。未読の方はそちらからお先にどうぞ。※
「なるほど、それで喧嘩してたのねえ」
妖精じゃない方のメイドは、苦笑いを浮かべながら神奈子の話を聞いていた。
側の地面には、ボロクズのような何かが転がっている。
「ふん。…ま、スッキリしたわ」
「へえ」
「あなたのおかげで誤解も解けたし。お礼を言っておくべきかしらね」
その言葉に偽りは無い。
メイドのお陰で握り飯が元通りになっただけでなく、諏訪子の誤解を解くことができた。
その直後の諏訪子の発言に思わず怒り心頭。
スペルカード戦には絶対使えない、張れば無理ゲー間違いなしの不可避弾幕を張ってしまったが。
(謝る前にドンマイなんて言う方が悪いのよ)
今地面に横たわっている諏訪子が意識を取り戻せば、今までどおりの二人に戻れるだろう。
結局こんなことは、これまで幾度となく繰り返してきた喧嘩の一つでしかないのだ。
(そう、いつものこと…ええ、全くもって、いつものことだわ…)
しかし本当のところ、神奈子の心にはいささかの落胆があった。
あのままメイドが現れなければ、あのまま諏訪子の前で泣いてしまったのならば。
自分は、今の自分にできる「最も素直な」方法で、抱えていた思いを吐き出すことができたのかもしれない。
「あんまり感謝されてる感じはしないわねえ」
そんな神奈子の胸中を見透かしたようなメイドの言葉に、少しだけ肩が上がる。
「そう?…ま、神様なんてやってると、しおらしい態度のとり方ってのを忘れちゃうのかもね」
本当に神奈子の気持ちを把握しているはずはないのだが、どこか面白くない。
だから誤魔化すように、自嘲気味の笑みを浮かべて見せた。
「神様?」
「ええ。幻想郷じゃまだまだ認知度の低い、新参者の神だけどね」
本当は幻想郷以外で認知度が低くなったからここにいるのだが、それは言わないお約束だ。
「本物を見るのは初めてよ。…あ、あの閻魔様とやらも一応神様だったっけ?」
メイドは目の前に神がいるという事実に、驚きの表情を浮かべた。
「うぅ~…もう一人いるわよ…」
なんとか先ほどのダメージから回復してきた諏訪子が話に加わる。
先ほどの神奈子の攻撃がよほど効いているのだろう、妖精メイドに肩を借りていた。
「あら、あなたも神様だったの?てっきり娘さんか何かかと…」
「どういう意味よ」
「あはは、まあわたしは神奈子と違って若いし…と」
そこまで言ったところで、諏訪子は初めて神奈子の方を見る。
「神奈子…」
「何よ」
神奈子の質問に対し、諏訪子は一瞬気まずそうに視線を逸らすが、すぐに向き直る。
その表情はいつもの陽気で愉快なそれでなく、真剣そのものだった。
「…ごめん。疑って、悪かったわ」
そう言って頭を下げる。
諏訪子がわたしに頭を下げるなんて、一体何十年ぶりかしらね――そう思うと同時に、
本当は自分こそ、諏訪子に頭を下げて謝るべきことが幾つもあるのに、という感情も湧き上がってくる。
しかし、そんな気持ちを吐露するタイミングは、もう十数分も前に逃してしまっている。
「いいわ。あんたをからかって遊ぶのは趣味だしね。天狗がやらなかったら、わたしがやってたかも」
結局、神奈子の口から出たのは、そんな皮肉めいた言葉だった。
「む!…あ~ら、何を言ってるのかしら?わ・た・し・が、神奈子と遊んであげてるんでしょ?」
「へえ、そいつは初耳だった。こっちはずっと諏訪子『で』遊んでるつもりだったのに」
「……」
「……」
互いに憎まれ口を叩き、しばし睨み合う。
「まあそうね、神奈子」
「仕方ないけど、諏訪子」
二人の表情から怒りが消え、相手を見下すような笑みが浮かぶ。
「「今日はこのおにぎりに免じて許してあげるわ!!」」
図らずも、同じタイミングで、同じ台詞を言ってしまう二人。
その言葉を言い放った状態のまま、またしばらく見つめあった後で――ようやく視線を外す。
「真似しないでよね」
「そっちこそ」
相変わらず言葉に棘があるが、その表情と声はいつもの二人のそれだった。
喧嘩が止まったことに安堵しつつ、
神奈子は自分の「最重要課題」が先送りされたことに、心の中で溜め息をつくのだった。
※※※
メイドたちはとあるお屋敷の使用人であり、今日は主の命を受けて栗拾いに来ているということだった。
成り行きで同行することになった二人のメイドから、神奈子と諏訪子はそんな話を聞いていた。
「それにしても、随分とたくさん拾ったのね」
メイドが背負った籠には大量の栗が入っている。
本来の許容量を明らかに超えた数の栗は、メイドが歩く度に数個が転げ落ちる…のが自然なのだが、
どういうわけか一つとして籠から落ちることがなかった。
これも、握り飯を元に戻した人間(と、本人は言っていた)のメイド――十六夜咲夜の能力なのか、それとも、
多くの荷物を抱えても落とさない瀟洒な振る舞いこそが、メイドという職業の神髄なのか。
「うちは大所帯だからね。他のメイドが拾った分も合わせるともっと多いわ」
咲夜は背中の籠を振り返りながら、神奈子の言葉に答える。
「…ご主人様の分だけじゃないのね」
「お嬢様方の分だけ作るなんて逆に面倒よ。それに…」
「それに?」
「わたしも食べたいもの。せっかくの秋の味覚でしょう?」
当然じゃないの、といった様子で咲夜は言葉を続けた。
この人間は、およそ人間らしからぬ美貌と不思議な力を持ちながら、どこかとぼけたような一面を持っている。
彼女のそんなキャラクターは、この幻想郷の雰囲気にひどく似合っているように思えた。
(本当に、面白い人間の多いこと)
相手が神だと知って、邪険にするでも畏怖するでもなく普通に接するところからも、常人とは違うものを感じた。
こんな人間が大勢いるような幻想郷では、早苗の個性は埋もれてしまうかもしれない。
何か新しい要素を追加しなければ、あの子が現人神として信仰を集めるのは難しいかも…そんなことを考えていた。
「お嬢様って、人間?」
それまで妖精メイドと話していた諏訪子が、咲夜に話しかける。
「吸血鬼よ」
「吸血鬼!?じ、じゃあ、時間止めてナイフ投げてきたりするの!?」
「…そうね、そういう人もいるわ」
そんな他愛もない会話をしながら歩いている内に、大勢の少女の声がしてきた。
周囲にも栗の木が増えてきた。…この辺りで、咲夜の仲間のメイドが栗拾いをしているのだろう。
「吸血鬼って大食いなのね」
「だからこれは使用人の分も含めた量よ…むしろよく食べるのはそっち」
「ねえ、ところで」
景色が開けた。
そこは栗の木に囲まれた小さな広場のような場所で、多くの妖精が栗を拾っていた。
…いや、拾っていた、というのは正確ではない。
「あなたのところでは、拾った栗の数に応じて給料が決まる、とか?」
現在神奈子達の前では、目を血走らせた大勢の妖精たちが栗の入った籠を奪い合っていた。
「喧嘩?」
しかし、妖精メイド達が栗を取り合っているのではなかった。
メイド服を着た妖精が背負った籠を狙って、それぞれ異なる服装、つまり私服の妖精が攻撃を加えていた。
『なんで栗を盗もうとするの!』
『ふん、吸血鬼の軍門に下ったような連中と話す舌なんて持ってないわ!』
『満足でしょうねぇ!でもそれは、一生懸命栗を集めたわたしたちにとって、屈辱なのよ!』
『所詮は、紅魔館という看板がなければ何もできないヘタレ妖精どもめが!』
まさにその景観は、毬栗と弾幕が飛び交う大規模戦闘の場に他ならない。
「野良妖精ども…わたしたちの栗を奪う気!?」
咲夜は言うが早いか、籠を背負ったまま妖精たちのドンパチの中へ飛び込んでいった。
ここまで一緒に歩いてきた妖精も、咲夜に続いて戦闘に加わっている。
「えーと…これはどういうこと?」
諏訪子と共に取り残された神奈子は、首を傾げた。
「さあ」
諏訪子も頭の帽子と同じくらい目を丸くして、目の前の騒動を見つめている。
山道を歩いていたら、突然メイドと野良妖精の抗争に出くわした。
それは幻想郷に来て日が浅い二人にとっては、あまりに不可解な出来事だろう。
当然二人は知らない。
幻想郷中に悪戯好きな妖精が生息していることも、紅魔館と言う屋敷で、大勢の妖精がメイドとして働いていることも。
そして、メイドとして組織に属している妖精に反感を持つ野良妖精が、少なからずいるということも。
「咲夜たちが拾った栗を妖精が盗もうとしてる…だよね?」
目の前の状況だけを見れば、諏訪子の言うとおりだ。
「たぶん」
「どうしよっか」
「どうしよっかって…お取り込み中のようだし、わたしたちはここらで失礼する?」
弾幕バトルは幻想郷の花、日常の一コマと言ってよい。
先ほどの雛と橙の喧嘩には、秋姉妹を助けるために介入したが…今回は出しゃばる理由はないと、神奈子は思った。
諏訪子と二人で話したいこともあるのだ。
「だめよ」
しかし当の諏訪子は、ここから去ることを肯(よし)としなかった。
「だめって」
「咲夜にはおにぎりの恩があるわ。今こそその恩に報いるべき時じゃない?」
「まあ、確かにそれはあるけど」
また戦うの?と言葉を続けた。
戦乱を収める武運の神、と言えば聞こえはいいが、収める戦乱が毬栗の奪い合いでは格好がつかない。
そもそも、神が巷の喧嘩に一々割って入っていてはきりがない。
「いいえ…ここでは神奈子の神徳と人徳を一緒に示すべきね」
「人徳?」
「ええ。既に神奈子が山の住人達から崇め奉られる強力な神であることを見せ付けるのよ!」
「どうやって」
自分に集まる信仰を他者に対して示すなどということは、簡単なようでひどく難しい。
自分を信仰する者を一同に集める…最も手っ取り早い方法はそれだが、今すぐそんなことができるとは思わない。
神社で祭や宴会を企画し、山のあちこちにそれを宣伝して回らなければ、集まる者も集まらないだろう。
「いいえ、集まるわよ」
神奈子の考えを見透かしてか、諏訪子は自信たっぷりにその言葉を放った。
「山の妖怪の信仰心をなめちゃいけないわ。神奈子の一声は、一瞬で山の全域を駆け巡る!」
「んなわけないでしょ」
諏訪子がやたらと自分を持ち上げるのを、神奈子はなんだかむず痒く感じた。
何か裏があるというわけではなく、先ほどのように神奈子の背中を押そうとしているのだろう。
確かにこれまで神奈子は諏訪子の存在を隠し、妖怪達の信仰集めに奔走してきた。
自身が「永遠に眠る」と述べたように、外の世界同様、土着神としての諏訪子を神社に隠していた。
結果として、そうして神奈子が集めた信仰は諏訪子の力にもなるのだが、それで諏訪子が不満を持たないはずがない。
(どうして、あんたは)
信仰を集める器としての『建御名方神』という名は二人の共有物だが、
表立って妖怪達と親交を深めるのはいつも神奈子なのだから。
そしてそれとは別に、神奈子は建御名方神の妻という独自の「信仰の器」を持つが、今の諏訪子にはそれが無い。
土着神の存在は隠されてしまっているのだ。
なのに諏訪子は、神奈子の信仰集めを応援するような態度を取っている。
そこにも、神奈子は諏訪子に対する後ろめたさと、不可解さを感じているのだった。
「大体山だって広いのよ?仮にわたしの命令を聞いてくれたとして、そんなにすぐ情報が伝わるはずは無いわ」
とにかく、そんな諏訪子の行動は神奈子の心を弱く締め付けるものであり、今も乗り気ではない。
しかし諏訪子はそんな神奈子を尻目にすっかりやる気になっている。
「ふっふっふ…そこでまた、こいつの出番ね」
諏訪子は帽子を脱ぐと、逆さまにして地面に置いた。
「今度は何よ」
「まあ見てなさいって」
諏訪子はポケットからマッチを取り出して火をつけると、帽子の中に放り込んだ。
帽子の中からはすぐに煙がもくもくと立ち上る。
「…帽子が燃えるわよ」
「このルナ・チタ○ウム合金製ケロちゃんハットが燃えるはずないでしょ。萌えると評判だけど」
そんな材質でできていたのか。
紫色の煙は空高く上っていく。もしやこれは…狼煙?
「お察しの通り」
諏訪子はどこかから団扇を取り出し、ぱたぱたと帽子を扇ぎながら言った。
「この狼煙は『山の神より緊急指令!悪戯妖精に奪われた栗を奪還せよ』というメッセージを表しているわ」
「随分とピンポイントな狼煙ね」
「まあ見てなさい。今にこの狼煙を見た妖怪が力を貸してくれるわ」
諏訪子は自信たっぷりに言うが、神奈子には到底それで妖怪が集まってくるとは思えない。
溜め息をつきながら戦場に視線を向けると、相変わらず賑やかに栗の奪い合いをしていた。
※※※
「あっはっは!こーまかんのメイドの実力ってこんなの?大したことないわね!」
兵の人数は拮抗していたが、妖精一個体当たりの実力では野良妖精側が勝っている。
中でも、青い服を着た一匹の妖精の力は頭一つ抜けていた。
「そらっ、パーフェクトフリーズ!」
四方から放たれた妖精メイドの弾を空中に固定したかと思うと、大小さまざまな氷で弾幕を張る。
弾幕戦の相手がたまに現れる侵入者に限られるメイド達は勘が鈍ったか、同じ妖精の弾で次々撃ち落とされていく。
「おやしきでぬくぬく生きてるから弱くなるのよ!ま、あたいは最強なんだけど!」
野良妖精のリーダー格になっているのは、この妖精――チルノのようだった。
さて、メイドのなかで唯一の人間であり、そしてメイド側では最も強力であろう咲夜はどうしているだろうか。
「くっ…何なのこいつ、攻撃もしてこないくせに!」
「あぅ~…ごめんなさい、逃げるので精一杯で~」
咲夜と対峙している相手は、なぜか申し訳なさそうな顔を浮かべて逃げ回っている。
「そう思うんならさっさと降参しなさい!」
咲夜が放ったナイフを、緑の髪の妖精はきゃっと悲鳴を上げてかわす。
そして次の瞬間にはその場から姿がかき消え、咲夜の背後に現れる。
テレポート(瞬間移動)であった。
「でも、一応わたしも栗泥棒さんの仲間なので…」
「あっ、そう!」
こんな妖精ごときに、と毒づいて、咲夜は己の能力を発動させる。
それは時間を操る能力――咲夜は一瞬と一瞬の隙間、時間の止まった世界で動くことができるのだった。
申し訳なさそうな顔をした妖精の周囲にナイフを投げ、逃げ道を塞ぐ。
「動け」
そして止まった時は咲夜の言葉と共に動き出し、十数本のナイフが妖精に襲い掛かる。
(…終わりね)
しかしナイフが身体に触れる寸前で、またもや妖精の身体は別の場所へ移動する。
行き場を失ったナイフは空しく飛び散り、あるものは地面に、あるものは木の幹に刺さる。
「ど、どうも」
無傷の妖精が咲夜に頭を下げる。
その微笑ましい仕草が逆に咲夜の神経を逆撫でし、判断力を鈍らせるのだった。
「ああもう、イライラするっ!!」
彼女もまた、並の妖精とは力が一桁違う実力者、仲間内では『大妖精』と呼ばれ一目置かれる存在である。
その他、あちこちで野良妖精がメイド妖精を圧倒する光景が見られた。
物音一つ立てずに背後に忍び寄り、確実に一人ずつ敵を仕留める縦ロールの妖精。
確かに弾が当たったはずなのに、全く手応えを感じさせないツインテールの妖精。
メイド達が物陰から攻撃を加えようとしても、一匹の妖精がすぐにその存在を察知するため、成功しない。
「チルノ、そろそろ栗持って退散したほうがよくない!?」
光を屈折させるツインテールの妖精、サニーミルクがチルノに声をかける。
「まだよ!おっかけてこれないくらいボコボコにしないと、後ろからやられるわ!」
「へえ、あんたにしちゃ考えてるじゃない!」
そうやって話している間も、サニーミルクは数発の弾で狙い撃たれていた。
しかし弾はサニーミルクの身体をすり抜け、後方へ去っていく。
光の屈折によって、本来彼女がいる場所とは違う位置にその姿を映しているのだった。
※※※
「ちょっと、何も起こらないじゃないの」
次第に圧されていくメイドたちを前に、神奈子は苛立ちのこもった声を響かせた。
関わりたくないと思っていたものの、何もせずに事態を見守るのもいい気分ではなかった。
「うふふ、神奈子は聞こえない?遠くで応える妖怪の声が…」
「聞こえないわよ」
と、神奈子が言葉を返した瞬間だった。
比較的近くで戦っていた野良妖精が、どこかから飛来した弾に吹き飛ばされた。
「何?」
最初は、そこらのメイドが放った弾に当たったのだろうと思ったが、様子がおかしい。
野良妖精たちは死角から放たれた弾に狙い撃たれ、次々と倒れているのだった。
そして周囲のどこを見ても、その弾を撃った主の姿は見えない。
「来たわね」
諏訪子が不敵に微笑む。
「どういうことよ」
「だから狼煙に応えた妖怪よ。ずーっと遠くから狙撃してるの」
「…まさか」
「そのまさか。言ったでしょ?神奈子は山の妖怪から崇め奉られてるんだから」
そう言われてすぐに信じることはできなかったが、現に目の前で野良妖精がばたばたと倒れている。
確かにこれは遠くから何者かが狙撃を行っていると考えるべき光景、ではあるのだが。
※※※
「にとりちゃん、ズルしないでね」
「何のことを言ってるの?」
「だから、わたしが妖精を撃ってる間に、駒を動かさないでって言ってるの!」
妖怪の山、九天の滝の裏側。
通常のものより一回り大きな将棋盤の側で、二人の少女が会話していた。
一匹は白銀の髪をなびかせた妖怪で、狙撃銃(!)のスコープを覗きながら傍らの少女に話しかけている。
にとり、と呼ばれた河童の少女は、けらけらと笑いながら天狗の少女に狙撃銃の弾を渡した。
よく見ると、なんとそれは短く切られた胡瓜である。
「そんな卑怯な真似するわけないじゃん。何か賭けてるわけでもなし」
「え?晩ご飯賭けるって言わなかったっけ?」
「言ってないわよ」
「言ったわよ!…あ、もしかして、今負けそうだからって誤魔化そうとしてない?」
少女は声を荒げながらも、手元を一切狂わせず狙撃銃に胡瓜弾を込め、遥か遠くの妖精を狙い撃つ。
滝の陰から放たれた柔らかい胡瓜弾に殺傷能力はないが、確実に妖精の急所をとらえ、悶絶させていた。
彼女の名は犬走椛、『千里先まで見通す程度の能力』を持った白狼天狗である。
剣と盾を扱う一方、能力を生かした哨戒や狙撃もこなす山の警備隊のエースであった。
「してないしてない。椛は疑り深いなぁ~…お姉さん悲しいよ」
「わ、ちょっと、くっつかないで!手元狂う!」
待機中の暇潰しに、友人のにとりと大将棋をしていたが、麓近くから立ち上る狼煙に気づき、行動を開始した。
数日前に「守矢の神社の使い」と名乗る少女に教えられた合図であった。
そして余談ではあるが、弾に使用されている胡瓜は消費期限を過ぎて食べられなくなったものばかりである。
決して、食べ物を粗末にしているわけではない。
「大丈夫大丈夫。河童の技術の粋を集めて作られたこの狙撃銃、通称『ハスノハバクダン』をなめちゃいけない」
椛が使っているのは、狙い撃ちに特化した河童謹製の狙撃銃(なのになぜか名前に『バクダン』とついている)。
突撃銃タイプの姉妹品『キューリバクダン』、光学兵器の『カッパービーム』など、シリーズ多数。
「こ~んなことをしても、狙いは正確そのものよ」
にとりは椛の首の下に指を這わせると、優しく撫で回す。
「わふ~…や、やめて、そこ弱いの…」
「はいそこで決め台詞~」
「そんな無茶な…わ、わかった、言うからお腹撫でないで…」
今日の勝負もうやむやか、などと考えながら、椛は再び狙いを定め、言った。
「い…犬走椛、目標を狙い撃つ!」
※※※
「わたしなりに色々コネを作っといたのよ。河童とか天狗とか」
「…あんたのこと、まだ妖怪たちに紹介してないけど」
「そこは『山の上の神社から来ましたー』とか言っときゃ大丈夫」
神奈子の名前って結構強いのよ?と続ける。
いっそ諏訪子自身が「神社の神である」と名乗ってしまえばよかったのに…神奈子はそう思った。
…いや、これまでそうさせなかったのは自分ではないか。
また表情を暗くさせる神奈子の胸中など知らぬとばかりに、諏訪子は空を見上げる。
「ほら、今度ばかりは信じざるを得ないんじゃない?」
諏訪子の指差す先。
神奈子も何度か話した事のある鴉天狗が、カメラ片手に微笑んでいた。
※※※
「あやややや…こいつはとんだスクープに遭遇したものね」
これも八坂様のご利益でしょうか、と射命丸文はつぶやいた。
眼下では、紅魔館のメイドと野良妖精が争っている。
これほどの大規模な戦闘はそうそうお目にかかれるものではない。
しかもメイドの中には、先ほどシャッターチャンスを逃した瀟洒なメイド長も混じっている。
野良妖精側には…幻想郷の少女の中でも文のお気に入りナンバーワン、氷精のチルノの姿があった。
「うふふ…神の名の下において、チルノさんを激写しまくりってことですか…素晴らしい!」
文の精神が取材モードに切り替わる。
しかしその表情は、事件を追うジャーナリストというよりは、獲物を狙うハンターと言ったほうが良い。
『なんか出た!』
『なんか気持ち悪い笑顔を浮かべた天狗がこっち見てるわ!』
文の姿に気づいた数匹の妖精が、牽制の弾を撃ってきた。
軽くいなしながら、文は不敵に微笑む。
「それでは参りましょう…射命丸文、介入行動に入ります!」
幻想郷ナンバー1の高速飛行で、文は戦場に飛び込んでいった。
※※※
「スター!なんか遠くから撃たれてる!敵の場所はわかんないの!?」
「わかんないのよ!レーダーの届く範囲の外から撃ってるみたい!」
動く物の気配を探る程度の能力を持った妖精・スターサファイアは、
自身の高性能レーダーに引っかからない敵にうろたえていた。
もしかしたら、次に狙い撃たれるのは自分かもしれない…その恐怖が、察知できる敵の存在すら見落とさせる。
(もう…こういうのには関わりたくないって言ったのに!)
やがて、察知できても反応できない、超高速の天狗という新たな恐怖がスターサファイアを襲うのであった。
※※※
「さあチルノさん、こっちに目線ください!うふふふふああもう最高!」
「またあんたか!あっちいきなさいよカメラ女!」
文はカメラのレンズを覗いたまま、チルノの弾幕を巧みに避けていく。
加えて上下左右前後斜めあらゆる方向からシャッターを切り、チルノの弾幕を消し去っていく。
防御が手薄になったチルノに、メイドたちの撃った弾が襲い掛かる。
「何言ってるんですチルノさん!あなたがそんなにかわいいからああ違う泥棒はいけないことだからお仕置きですよ!」
「うっさい!そこで凍ってろ!ダイアモンドブリザード、くらえー!」
しかしチルノの実力も相当なもの、襲い掛かる弾を巧みにかわしながら弾幕を展開する。
それは戦術というよりはチルノに備わった天性の感覚の賜物、本能とも言うべき弾幕の才能であった。
妖精にしては少々強過ぎるその力は、閻魔のお墨付きである。
「本当にチルノさんを見てるとわくわくが溢れて止まらないですよ…今度お家にお邪魔していいですかいいですよね」
「こっちくんなー!!」
そんな状況にあって、唯一冷静なのがサニーミルクであった。
(うーん、旗色悪くなってきたなあ…でも今回は、仲間ほっといてスタコラサッサとは行かないし…)
普段はルナチャイルド、スターサファイアと共に三人で行動する事が多い彼女だが、
今回の悪戯は、妖精仲間を大勢集めて実行した大作戦である。
山の栗が紅魔館のメイドにとり尽くされるという噂を聞き、独り占め許すまじとばかりに襲撃を敢行したのだ。
…というのは建前で、主な動機は私怨だ。
彼女達には過去に紅魔館に忍び込み、あえなく見つかった挙句「虫狩り」と称して散々な目に合わされた経験がある。
その時以来密かに紅魔館への仕返しの機会を伺っていたが…今回の噂は渡りに船だった。
周りの妖精仲間をうまく煽動し、計画に巻き込むことに成功した。
とにかく、そんな作戦の立案者の一人である自分が率先して逃げれば、後で針のむしろだ。
「しゃあない、ちょっと頑張りますか!」
サニーミルクは精神を集中させ、今の自分に持てる全力で能力を発動させた。
実に半径十数メートルにわたって光が屈折し、その場にいた全員の狙いが狂う。
味方の攻撃も当たらなくなるが、それでも敵の優勢を止めるメリットは非常に大きかった。
「あれー?ちょっと、なんか弾が全然当たんなくなってきたじゃないの!」
「そうですねぇでもチルノさんの姿が見えることには変わりないので写真撮る上で全然問題なしですようふふ」
「サニー、やりすぎでしょこれ!…ま、助かったけど!」
「これはこれでレーダー狂いまくりで不安なんだけど!うわ、なんか触った!?」
「何よこれ!ついにナイフの狙いまでおかしくなってきたわ!ああああイライラするううう!!」
「あはは、サニーちゃんかな…あの、そろそろ諦めてくれると、嬉しいんですけど…」
大妖精は苦笑いを浮かべながら咲夜の顔色を伺う。
「ふざけんじゃないわよ!あんたみたいな二面中ボスレベルに負けちゃ、お嬢様に合わす顔がないわ!」
「うう、しばらく湖の近くで遊べなくなりそうだなあ…」
※※※
一方、滝の裏の椛とにとりも異常に気づいていた。
「なんか変…当たってるはずなのに誰も倒れなくなっちゃった」
「むう…もしかして、これは…」
にとりは望遠鏡で妖精たちを見ながら唸っていた。
「どうしよう…」
椛はスコープから顔を外してにとりの方へ向き直る。
しかしそこでにとりが浮かべている表情を目にして、ぎょっとした。
「見つけた…太陽光の屈折による自然かつ完璧な光学迷彩…えへ、えへへへへ」
「に…にとりちゃん?」
「この技術があれば、新型の光学迷彩スーツが作れる…ああ、あの妖精さんだね…河童のポロ六感でわかるよ…」
「ぽ、ポロ六感!?」
河童のポロ六感とは、河童がセンチメンタリズムな運命を感じられずにはいられなくなる謎の感覚である。
にとりは立ち上がる――と同時に、空中に飛び上がる。
「あのコ欲しい!今度こそ人間にも見破られない完璧な光学迷彩スーツを…よっしゃあバラすぞおおお!!」
「にとりちゃーん!?うわっ速!?ちょっと待ってよ~!」
無数の工具を手に、目をらんらんと光らせて飛んで行くにとり。
ああなった時のにとりは目的のために何をしでかすかわかったものではない。
本来の目的の「妖精をやっつける」ということに、留まるはずがない…止めなければ!
「も、もうっ!晩ご飯おごりだからね!」
椛は傍に置いてあった剣と盾をつかむと、にとりを追って空に飛び上がる。
「わたしに剣を使わせるとは!!」
※※※
「うーん、妖精さん達も思ったより手強いね」
諏訪子は楽しそうに事の成り行きを眺めていた。
「どうするの。もうこれ以上妖怪も来そうにないし…てゆーかこっちまで来たのってあの天狗だけ?」
「ま、あの狼煙のメッセージもそんなに多くの妖怪に教えたわけじゃないしね」
「まあいいけど。…しかし、確かに妖精もあなどれないわね…あれじゃどれだけ弾幕張っても当たらないわ」
思わず感心する神奈子。
一方諏訪子は未だにやにや笑っている。
「何よ、まだ何かあるの?」
「この狼煙はわたしが作ったもの…当然、身内のものはこいつを知ってる」
「わたし知らなかったんだけど」
「神奈子にはサプライズってことで黙ってたのよ」
地面に置かれた諏訪子の帽子からは、未だに狼煙が立ち上っている。
「あの子は森に行ってるのよね。距離を考えれば、もうすぐ来る頃かしら…」
「まさか」
「ふふ。わが神社の現人神にも活躍の場を作ってあげないとね」
風の色が変わってきていた。
それは神奈子にとって、とても馴染み深い色である。
※※※
「ねえ、なんか来てるわよ!」
スターサファイアは、魔法の森の方角から飛んでくる何者かを察知した。
「ほっときなさいよ!どうせ何が来たところで、この空間では大したことはできないわ!」
縦ロールの妖精・ルナチャイルドは、当たれば幸いとばかりに適当な方向に弾を撃つ。
主戦力のチルノと大妖精がそれぞれ強敵を相手にしている状況は不安であったが、
サニーミルクが作ったある種の「結界」ともいうべき光屈折空間にいる限り、すぐにやられることはない。
やがて、ルナチャイルドの目にも新手の姿が見えてきた。
人間であった。
「何よあんた!人間の出る幕じゃないわよ!」
「そうですね、でも」
その人間は空中で停止し、ルナチャイルドの言葉に律儀に返事をした。
「わたしの神様がお呼びになった以上は、やるしかないので!」
光の屈折する空間に、躊躇うことなく飛び込む。
(この状況がわかってないわね…ま、こっちの虚像相手に独り相撲をとっててもらいましょ!)
ルナチャイルドは特に構える事も避けることもせず、相手を迎え撃つ。
「東風谷早苗、目標を駆逐します!」
早苗と名乗った人間は、五傍星形の弾幕を展開した。
当然その狙いは光の屈折で作られた虚像を向いており、その本体に当たるはずがない。
「あはは、当てられるもんなら当ててみなさい!」
一方ルナチャイルドは、早苗が光の屈折する範囲の外にいた位置から現在の早苗の「本当の位置」を推測する。
運がよければ、その位置に撃った弾が早苗の本体に当たるだろう。
そう思って弾を撃つべく構えを取った瞬間、
「どりりゅっ!?」
ルナチャイルドの身体を衝撃が襲った。
(当たった!?何で!?)
体勢を立て直しながら早苗を見る。
「あ、あれ…なんかおかしいな…あ、でも当たってる…」
早苗自身、光の屈折に戸惑っているようだった。
それでいて、彼女の弾幕はほとんど偶然にしか見えないやり方で、ルナチャイルドの身体をとらえたのだ。
周囲を見ると、仲間の妖精たちも「なんとなく」早苗の弾に撃ち落されている。
(何事!?)
早苗は首を傾げながらも、次の攻撃に移ろうとしていた。
「このおっ」
ルナチャイルドは先手必勝、とばかりに弾幕を張る。
不意を突かれた早苗は、思わず両手で顔をかばう。
(何こいつ?全然素人じゃないの!!)
しかしルナチャイルドが放った弾幕は、おそらく早苗の本体に当たらなかったのだろう、虚像の向こうに消えていった。
早苗の虚像は元気に攻撃を再開していた。
そして、そうして放たれた弾幕は、「なぜか」「偶然」妖精たちの本体をとらえるのだった。
「何なのよこれ!…こんな偶然ってあるの!?これじゃまるで…き、きせくぎゅっ!?」
撃ち落される妖精たち、ルナチャイルドも例外ではない。
「あ、また当たった…もしかしてわたし、できる子…?」
「そうよー」
地上から、諏訪子が手を振って声をかける。
「自信持って早苗ー。あんたの奇跡の力はほんとは強いんだからー!」
「洩矢様…はい!わたし頑張ります!」
早苗は元気よく頷くと、まだ大勢生き残っている妖精たちに向き直った。
「さあかかってきなさい妖精さんたち!奇跡を起こす神の力を見せてあげるわ!そう…」
外の世界にいた頃、まだ敗北を知る前の自信に溢れた「祀られる風祝」の姿がそこにあった。
「わたしが神だ!!」
※※※
「早苗の奇跡ってああいう力だったっけ?」
「うーん…よくわかんないけど、上手く行ってるからOK!」
そうね、と返事をしながら神奈子は早苗の背中を見る。
何にせよ、早苗が自信を取り戻してくれたのならいいか…そう前向きに考えることにした。
「あと、予想外のオマケがついてきたみたいよ」
「オマケ?」
「ええ。ダメ押しには持って来いね…あと、もう一人」
諏訪子はまたも、空を見上げて微笑む。
※※※
「うわ、またなんか面倒臭いのが来たなあ…」
サニーミルクは相変わらず能力を使って光を屈折させながらつぶやいた。
突然現れた人間の弾幕に、少しずつではあるが仲間が次々に倒れていく。
いっそ能力を解除して加勢するか…そう思い始めていた。
「サニー、そっちになんか行った!」
「え?」
スターサファイアの指差す方を見ると、ミサイルのごとく自分に殺到する人影があった。
「うわ、な、何!?」
驚いたサニーミルクは、思わず能力を解除してしまう。
「人呼んで、超妖怪弾頭!!」
「か、河童!?」
「初めましてかしらねえ…妖精さん!!」
その人影とは、サニーミルクの能力を目にして、いても立ってもいられなくなったにとりであった。
「何よあんた!ああもう一回光曲げなきゃなのに…」
「あなたの光学迷彩に、心奪われた女よ!」
サニーミルクが反射的に放った弾を避け、にとりは凄いスピードで飛び込んでいく。
指の間から様々な工具を突き出し、興味深い能力を持った妖精を解剖せんと接近するのであった。
「避けた!?」
「敢えて言わせてもらうわ…河城にとり、通称谷カッパのにとりであると!!」
チュィィィンと不快な音を立てて回転するドリルを押し付けてくる河童に、サニーミルクは名状しがたい恐怖を覚えた。
やばい。こいつに関わると、尻小玉を抜かれる以上の恐ろしい目に合う気がする。
「うひひひ…手土産に、そのきれいな羽根だけでももらっていくわよ!」
「いやあああああああああ!?」
もはや能力を使うどころの話ではなかった。
「さあチルノさん、ここらで靴下でも脱いでみましょうか!」
「最初から裸足よ!」
チルノと文の戦いは続いていた。
妖精の中では一際強い力を持つチルノは、山の実力者の文と戦っても後れを取らない。
巨大なつららをいくつも作り出し、文の頭上から降らせる。
文も自分のスピードに振り回されることなく、正確な動きでチルノの攻撃をかわしていく。
互いに様々な攻撃を繰り出していくが、それをひたすら繰り返す現在の状態は、実質膠着状態であった。
しかし、二人が戦っているその上空、さらに高い位置から見下ろす者があった。
「ふふ、今日もやってるな」
茸を求めて森にやってきた早苗を案内していた魔理沙であった。
早苗が狼煙で呼び出された際、面白そうだからと同行してきていたのだった。
「ウチの分社の神様の頼みとあっちゃ、断れないぜ」
実際に呼ばれたわけではないが、呼ばれてないのに来るからこその霧雨魔理沙である。
「そして、巻き添えを作るがゆえの魔砲だぜ」
魔理沙はすでにミニ八卦炉を構え、チルノに狙いを定めている。
チルノと、ついでに文は互いに相手しか眼中になく、上空の魔理沙に気づかない。
「霧雨魔理沙、目標を破砕するぜ!!」
その声と共に、強い光の帯が地面に向かって真っ直ぐに放たれる。
空中から竜のごとき豪快さと、流星のような速度で降り注ぐ魔砲の一撃。
「どうしてか、あなたの前ではいつだって敬語になってしまいますよ!」
「ふん、あたいの子分になりたいっての!?そのパシャパシャするのをやめたら考えてもいいわよ!」
光に飲み込まれるその瞬間まで、文とチルノはお互いから視線を外すことはなかった。
そして駄目押しの二発目の光が消える頃――ある意味仲良しな妖精と天狗の姿は、そこになかった。
※※※
その後、サニーミルクの能力の恩恵を受けられない妖精たちは山の住人(+α)の攻撃の前に総崩れとなり、
妖怪達が味方であることに気づいたメイド妖精達の反撃もあって、それ程時間をかけずに勝負がつくこととなった。
「全く、手こずらせてくれたもんだわ」
負けた野良妖精達は手足を拘束され、地面に転がされていた。
咲夜の表情は自軍の勝利を喜ぶそれではなく、あからさまに機嫌の悪さを表面に出していた。
「ねえ?」
ぎろり、と音がしそうな鋭い視線を向けられた一匹の妖精が「ひっ」と短い悲鳴を上げて目をそらす。
「なんだなんだ、今日はいつになく厳しいじゃないか」
魔理沙が茶化すような声色で咲夜に声をかけた。
「誰のせいよ!」
「へ?いやいやいや、なんでわたしに怒りの矛先が向くんだよ?」
普段は冷静沈着な咲夜が珍しく語調を強め、魔理沙に詰め寄る。
まさか自分が怒られるとは予想していなかった魔理沙は戸惑い、思わず後ずさってしまう。
「あんたがぶっ放したマスパに巻き込まれたせいで、あのうざったいテレポート妖精を仕留めそこなったのよ!」
魔理沙の魔砲はチルノを狙ったものだったが、結果として、文を始め周囲の者を大勢巻き込んだ。
元々広範囲な攻撃を得意とする魔理沙にしてみればいつものことだが、
今回は「周囲に味方がいる」という点で普段と異なる状況下にあった。
確かに乱戦状態とはいえ、味方ごと吹っ飛ばすミニ八卦炉の魔砲攻撃は少々問題があったかもしれない、のだが。
「あれはマスタースパークじゃなくてドラゴンメテオだぜ!てゆーか勝手に略すな!」
魔理沙は逆ギレ気味に強い口調で言葉を返した。
「ふん、馬鹿の一つ覚えの直線極太レーザーでしょ?どれも一緒よ」
「何だと!」
「あら、やる気?」
自慢のスペルカードを馬鹿にされていきり立つ魔理沙、不完全燃焼だった闘志の矛先を見つけ不敵に微笑む咲夜。
一触即発、新たな戦いの始まりを予感させるかのように空気が張り詰めるが、
「はいはい、仲間割れしな~いの。妖精さん達が逃げちゃうわよ?」
二人の間に諏訪子が割って入った。
「…っ、と…それもそうね」
「あー?なんで諏訪子がこんなところにいるんだ?」
二人はそれぞれ違った反応を示しつつも、互いに矛を収める。
「うふふ、わたしも一応山の住人よ?逆にわたしのほうが、あんたがここにいる理由を聞きたい」
「愚問だぜ。麓のヒーロー魔理沙さん、不毛な争いを根絶するために武力介入ってやつだ」
ヒーローというよりは私設武装組織とでも言うべき強引な方法で争いを止めた彼女だが、悪びれた様子はない。
「知り合い?」
咲夜は魔理沙と諏訪子の顔を見比べながら尋ねる。
「ま、ちょっとね。それより咲夜、栗が返ってきてるわよ?」
諏訪子が指差す先で、メイド妖精達が地面に転がった栗を回収し、籠に入れなおしていた。
野良妖精達ともみ合った際に破損したのか、穴が開いた籠や、上半分がそっくりなくなってしまっている籠がある。
疲れ切った様子のメイド達は、だるそうな手つきで栗を拾っては背中の籠に突っ込んでいる。
「なんか既にイガごと焼き栗になってるものも見えるんだけど」
再び魔理沙をじろり、と睨む。
「料理する手間を省いてやったんだ。ドラゴンマロンとでも名づけるか」
「赤点ね。皮むきもあく抜きもすっ飛ばして料理も何もあったもんじゃないわ」
捨て台詞を残し、咲夜は栗の回収に加わった。
「やれやれ。こいつは後日補習ってことか」
「栗料理の講習でも受けるの?」
諏訪子の言葉に、魔理沙はにやりと笑って答える。
「ああ。味見を中心にな」
一方神奈子の目の前では、勝者が無抵抗の捕虜に暴行を加えるという悲惨な事態が起こっていた。
「ねえにとりちゃんやめなよー。いくら妖精でも解剖したら死んじゃうかもよ」
「抱きしめたいわぁ…妖精さん!」
にとりは椛の言葉に耳を貸さず、捕らえられたサニーミルクの身体を好き勝手に弄り回していた。
サニーミルクはというと、先ほどから抵抗しても無駄だと悟って「死んだふり」をしてやり過ごそうとしている。
「うふふ…まるで眠り姫ね」
もちろん野生の熊同様、死んだふりが通用するほど河童は甘くない。
にとりの手には既に、鈍い光沢を放つ、種類も大きさも様々な工具が握られている。
じっと目を閉じて死体を演じる妖精の目にはそれが映らない…彼女の運命の行く末や、いかに。
「いい茸は見つかった?」
「はい。ちょうどさっきまで、魔理沙に色々茸の種類を教わってまして」
目の前の光景をさして気にも留めずに会話をする神と風祝。
早苗の話によれば、狼煙に気づいた彼女を追って『なんか面白そうだぜ』と魔理沙がついてきたとのこと。
「向こうにとった茸を置いてますので。後で持って帰りますね」
久々に自分の強さを実感する事ができたからか、早苗は機嫌がいい。
「急がなくていいわよ。いい機会だし、あの子と親睦を深めるのも悪くないでしょ」
「ありがとうございます!そうそう、魔理沙の家に面白い動物がいて…」
このように事態は一件落着、という雰囲気が漂う一方、声を潜めて笑い合う二人の妖精がいた。
当然この二人も拘束され捕虜となっているわけだが、「あること」に気づいている点で他の妖精とは違っていた。
その二人とは、ルナチャイルドとスターサファイア。
(ねえ)
(うん)
二人は捕まって一塊にされている妖精達が「全員ではない」ことに気づいていた。
即ち、未だ捕まっていない仲間がいる。
その仲間は二人――しかも幸いなことに、実力の面では最も頼りになる二人であった。
(チルノはどっかに吹っ飛ばされてる可能性もあるけど)
(だとしても向こうに気づかれてない。あいつが意識まで飛ばされてない限り、期待はできるわ)
(大妖精は?)
(そうね、ヘタするとその辺に――あ、ほら!)
スターサファイアは少し離れたところに生えた栗の木に視線を向ける。
その先には、木の陰から仲間達の様子を伺う大妖精の姿があった。
彼女もスターサファイアとルナチャイルドの視線に気づいており、この後どうするかを考えあぐねている様子だった。
(さすがね)
(ええ。しかもほら、見なさいルナ…あいつ、可愛い顔してなかなか抜け目ないわよ)
大妖精の傍らには、栗が大量に入った籠が一つ置かれていた。
魔理沙の攻撃後のどさくさに紛れて確保していたのだろう。
本来はメイド達が集めた栗を全て奪うのが目的だったが、一籠分だけでもかなりの量がある。
このチャンスを逃す手はない。
(行って!あいつらが気づかないうちに!)
(あとで山分けね!もちろんあなたの取り分が一番多いわ)
二人は視線と口の動きだけで大妖精にメッセージを送る。
大妖精はすぐに二人の意思を汲み取ったのか、にっこりと笑って頷いた。
地面に置かれた籠を背負うと、テレポートをするために意識を集中させ…
「あ!よかった大ちゃん、無事だったのね!」
…ようとしたところで、氷精の無邪気な叫びが響いた。
その場にいた全ての者に聞こえるような、よく通る大きな声で。
「ち、チルノちゃん!?」
「みんなのぎせいを無駄にしないためにも、あたいたちはこの栗を必ず持って帰るのよ!」
服や髪のあちこちが焦げているが、チルノは概ね元気そうであった。
妖精の治癒力恐るべし。
「うん、ええと、そうなんだけどね、チルノちゃん…」
「大丈夫、大ちゃんのテレポートならすぐでしょう?」
どこまで飛ばされたのかは定かではないが、先ほど仲間達が交わしたアイコンタクトのことなどチルノが知る由もない。
大妖精が確保していた籠に飛びつくと、早く早くと背中から彼女を急かす。
「ぶ、ぶち壊し…」
「あいつにちょっとでも期待したわたしが一番馬鹿だったかも…」
作戦を台無しにされ、ルナチャイルドとスターサファイアはがっくりとうなだれる。
大妖精とチルノの存在が敵にばれた。状況から考えて、彼女達もすぐに捕まってしまうだろう。
何せ自分達を倒した妖怪達に加え、紅魔館のメイド衆まで、その場の全員がチルノに視線を注いでいたのだ。
余談だが、この出来事でにとりの動きが止まったことで、間一髪、サニーミルクの命は救われた。
「チルノちゃん、声、大きいよ…」
温和な性格のわりに頭が切れる、弾幕戦の実力もなかなかの大妖精だが、押しが弱いのが玉にキズだった。
同時にその控えめさが長所でもあるが…今回のように、チルノの無鉄砲な行動に振り回されることも少なくない。
「え?」
『確保ーッ!!』
咲夜の号令と共に、メイド妖精達がチルノと大妖精に向かって殺到した。
チルノよりも一呼吸分早く我に帰った大妖精は、すぐにテレポート能力を発動させる。
(早く逃げて!)
(もういっそチルノとか置いてっていいから!)
ルナチャイルドとスターサファイアも必死になって目で訴える。
勿論大妖精がチルノを放っておくことなどできず(最初は味方全員を救うことさえ考えていた)、チルノに声をかける。
「チルノちゃん、わたしに触って!」
「え?う、うん!」
紅魔郷二面でもお馴染み、大妖精のテレポート能力。
ここ幻想郷においても、空間転移能力の王道ルール「能力者に触れれば一緒に転移」は適用される。
「くっ…あのテレポート妖精、やっぱり生きてたわね!」
咲夜は歯噛みする。
圧倒された、ダメージを受けたということはないが、自分の攻撃を尽くかわした敵を仕留め切れなかったことは、
完全で瀟洒な従者を自称する彼女にとって許されない事実なのだろう。
「急いで捕まえなさい!どこに消えるかわかんないわよ!」
命令を放ちながら、咲夜自身もナイフを握る。
「行くよ、チルノちゃん!」
「うん!」
そしてチルノの最後の一言と共に、二人の姿はそこから消えた。
「湖の横の隠れ家まで一っ飛びね!」
「「行き先言い残して行っちゃったー!!」」
ルナチャイルドとスターサファイアの悲痛な叫び声が響く。
最後の最後までチルノは花映塚マニュアルの画面説明の言葉通りな頭の悪さを発揮し続けたのだった。
そしてそんなチルノの消えた木陰を、別の木陰から一人の天狗が見ている。
「うふふふふふ…そんな空気の読めなさも素敵ですよ、チルノさん…」
こちらもチルノ同様あちこちにドラゴンメテオの直撃による焦げ痕がある。
さすがに文はチルノのように短時間でダメージを回復することはできなかったのか、
「さあ、こっち、に、目線、を…」
その一言を残し、その場に崩れ落ちて動かなくなった。
「それで、どうするの?」
諏訪子はあと一歩のところで敵を逃し、唇を噛む咲夜に尋ねた。
「追いかけるに決まってるでしょ」
「湖まで?」
「湖まで」
メイド達はようやく栗の回収を終え、帰り支度を始めている。
「ここらで湖って言ったらうちの傍にしかないからね。ほんとあのお馬鹿妖精に感謝って所かしら」
実は最近幻想郷にはもう一つ新しい湖ができたのだが、咲夜はまだそのことを知らないようだった。
「ほらにとりちゃん、帰るよー…あれ?あそこに倒れてるのって、文さん…?」
「よし、妖精さんを持って帰って徹底的に光学迷彩の謎を解き明かすわよ!」
「それ誘拐ね」
椛とにとりも、元いた場所へ戻ろうとしていた。
にとりは縛り上げたサニーミルクを滝まで持ち帰ろうとしていたが、椛の冷静な制止によってその行為は未遂に終った。
このままにとりの好きにさせたら、色々な意味で年齢制限を設ける必要がある展開が待っていることは間違いないのだ。
そんな二人の横で、魔理沙はその辺のメイドを捕まえると、
「この栗は何に使うんだ?いつ食べるの?」
などと、後で食べに行く気満々といった様子で質問をしている。
咲夜のようにやや殺気だっている者もいるものの、場の雰囲気は既に事態の終了を感じさせるものとなっていた。
確かに栗の籠が一つ奪われ、二人の妖精を取り逃がしはしたが、大部分の栗はメイド達の元へ返っている。
「ま、おにぎりの件の恩返しとしてはこんなところかしらね」
逃げた妖精たちの行き先もわかっている。後はメイド達が勝手に何とかするだろう…神奈子はそう思った。
「お握り?」
「ああ、何でもないわ。…お弁当、おいしかったわよ」
疑問符を浮かべる早苗に、神奈子は笑顔を向けた。
「本当ですか!?」
早苗は嬉しそうな笑顔で、それに答える。
「ええ」
辺りは未だ騒然としていたが、自分達はここで退散するか、と思った。
呼び出しに応えてくれた妖怪達には一応、自分からもお礼を言って…そこで、神奈子は何者かに腕を掴まれた。
「ほら、何ボサッとしてんの神奈子!」
「え?…ちょ、ちょっと!」
諏訪子は神奈子を引っ張ると、手近にあった岩の上に登った。
卓袱台ほどの高さのその岩は平坦で、ちょうど上に人が二本の足で立つことができるようになっていた。
俗に言う「お立ち台」の上に二人で乗ったような状態である。
「は~いそれでは皆さん注目注目~!」
諏訪子は大きな声を上げ、周囲の者の視線を集中させた。
そのまま話し始める――のではなく、神奈子を自分の前に立たせる。
(ほらっ)
何か神様らしいことでも言え、ということなのだろう。
正直、自分は事の成り行きを見ていただけなのだから、話すべきことなどない、というのが神奈子の本音だ。
しかし妖怪達はあくまで自分の命令に従ってここにいるわけで…やはり場を収める一言が必要なのだろうか。
いや、このまま放っておいてもこの場は勝手に終っていく、そう思っていたのではなかったか…。
(ほーら、神奈子)
(い、いきなりこんな所に引っ張り出されても話なんか思いつかないって)
背後から小声で話しかけてくる諏訪子と会話する。
(さっきのお説教みたいにこうガツーンと)
(今度はさすがに人が多すぎだって!)
ほとんど人ではないが。
神奈子はここ百年近く、大勢の観衆の前に姿を現わしたことがない。
緊張しているというわけではないが、ありがたい神託など突然ひねり出せるようなものではない。
先ほど雛と橙に対してかけた言葉は、結局のところ、単に二人の喧嘩に対して思ったことを口にしただけである。
今も思うところは勿論あるが…これに関しては「人のものを取ったら泥棒!」これで終わりではないか。
(もう…神奈子の神徳を見せつける一大チャンスだよ?)
そもそも諏訪子が山の住人達をメイドと妖精の争いに武力介入させたのはそのためである。
神奈子が言わないなら自分が、とでも言いたげな表情で急かしてくる。
(そんなこと言ったって)
神奈子は自分達に注目している周囲の者と、背後の諏訪子を交互に見ながら焦りを募らせていた。
外の世界にいた頃、テレビで見たお笑い芸人を思い出す。
司会者に突然『面白い事をやって』と言われ、今の自分のようにしどろもどろになっていた青年の困惑した顔を…。
いっそ何か一発芸でもかましたら意外とウケるんじゃないか、と神奈子が半分自棄になり始めた、その時だった。
「…あれ、なんか…」
それまで怪訝な顔で神奈子の方を見ていた観衆の中から声が上がった。
静寂を破った声の出どころに、視線が集中する。
集まる視線の先にいたのは、観衆の中でたった三人の人間のうちの一人――魔理沙だった。
「どうしたの?」
咲夜が声をかける。
魔理沙はやや強張った顔で答えた。
「いや、なんか…嫌な予感が…しかも結構馴染みある感じの…」
「嫌な予感?」
咲夜が軽く首を傾げたとき、別の場所から声が上がった。
「あ、あれ!」
メイド妖精の一人が空の一点を指差し叫んでいた。
その指差す先には、次第に大きくなる小さな点…少しずつはっきりしてくる色は、紅と白。
「げっ!やっぱあいつだ!」
「嘘!?この程度のいざこざで出しゃばってくるもんなの!?」
その二色の点をよく知るかのように、魔理沙と咲夜は驚愕に満ちた声を上げる。
「うふふ…まあ、確かにこの事態は『この程度のいざこざ』では済まないレベルですよ…」
やっとこさ復活してきた文が、魔理沙と咲夜にカメラのレンズを向けた。
敏腕記者である文のフィルムと脳は、ここに集まった少女達のあらゆるデータを記録している。
ついさっきまで、人数も見た目も大規模な弾幕戦が繰り広げられていた妖怪の山の一角。
そこには、EXボス、ラスボス、自機キャラ、ステージボス、中ボスなど、
様々な意味で幻想郷の異変やパワーバランスの中核を成す強力な妖怪や妖精や人間が、今も一箇所に集まっている。
「なるほど、ちょっと派手にやりすぎたってわけか…早苗!」
魔理沙は箒にまたがると、早苗を呼んだ。
「はい?え、ええと、何が…」
「いいから乗れ!まだ魔理沙さんのキノコ教室は終ってないぞ…全速力でここから離脱するぜ!」
咲夜も急いだ様子で部下のメイド達に指示を出す。
「みんな、早く荷物をまとめて!」
辺りが再び騒がしくなり始めた。
その様子を見ながら、神奈子と諏訪子は首を傾げた。
「な、何なの…?とりあえず助かったけど…」
「あ?お前らもよく知ってる奴が来るんだよ。さっさと逃げないと退治されちゃうぜ?」
箒の後に早苗を乗せた魔理沙が、今やその形をはっきりと視認できるようになった「点」を指差した。
鮮やかな紅白色で彩られた、蝶と見紛うような美麗なフォルム。
それは幻想郷のルールの顕現にして外界との境界線を守る永遠の巫女。
「れっ…霊夢!?」
少し前、魔理沙と共に自分達をコテンパンにした人間の姿がそこにあった。
霊夢の飛行速度はそれ程速くはないが、彼女が近づくにつれて周囲の空気が独特の色と重みを帯びる。
幻想郷の掟を守る最強の弾幕少女が纏う不思議な気が、次第に場の空気を浸食しているのだった。
「こらぁあんた達!こんな麓近くでドンパチやらかすなんていい度胸してるじゃないの!」
やはり先ほどの騒動があまりにも大きな規模になったため、注意しに来たのだろう。
いや、注意しに来たと言うのは少々語弊がある。
既にお祓い棒とをその手に構えた彼女の行動のベクトルは、既に「注意」の先の行為へ向けられている。
それは言うなれば既に「制裁」…否、それすら通り越した「粉砕」の域に達していた。
「み…」
恐怖を帯びた声を一匹の妖精が上げた。
その瞬間、霊夢の存在を認識したその場の全員の気持ちがシンクロし、悲鳴のユニゾンとなって迸った。
『巫女だー!!』
その叫びの残響が消えないうちに、蜘蛛の子を散らすように全員が逃走を始めた。
手足を拘束されていた妖精たちは逃げ遅れたが、本能的に能力を使ったサニーミルクとルナチャイルドの働きにより、
その姿と音を巫女の知覚できる範囲から消し去っている。
実は巫女の接近に誰よりも早く気づいていたのは万能レーダーを持つスターサファイアなのだが、
こうして場が大騒ぎになって事態がうやむやになることを狙い、敢えて仲間達にすらそのことを明かさないでいた。
とにかく、そういった理由で、あっという間に「そして誰もいなくなった」状態が作られた。
そこに残るは巫女一人、ただただ風の中に立ち尽くす。
「な…何よ…そんな思いっきり逃げなくてもいいじゃない…」
仕事とはいえ、少し寂しい霊夢であった。
※※※
霊夢の登場によってその場に集まった者達は散り散りになり、結果として神奈子は窮地を脱した。
「もー、霊夢ったら空気読めないんだから」
自分の横を飛ぶ諏訪子は不満そうな顔をしていたが。
元いた場所からは大分遠くまで飛んできていたため、もう地面に下りてもいいかと思えた。
いっそ人里の近くまでこのまま飛ぶか、そうも考えたが、歩きたいと言う気持ちがその考えに勝った。
一旦地に足をつけて心を落ち着かせてから諏訪子と話をしたいと思った。
「神奈子も神奈子よ、せっかく妖精たちに神託を授けられるチャンスだったのに」
「ん…だから、いきなりそんなことできないって」
「もう。神奈子が頑張ってくれないと、わたしへの信仰も集まらないんだからね?」
その言葉は、神奈子の胸にちくりと刺さった。
信仰が廃れた外での生活を捨てると決めた時点で、諏訪子の存在を隠す必要はなくなっていた。
しかし幻想郷行きに関する諸々のことは諏訪子に黙ったままで進み、神社と湖を移してから初めて明かした。
その後、神奈子が信仰集めに必死だったこともあり、諏訪子の扱いは外と変わらないままであった。
程なくして山の妖怪の間で「神社のもう一柱の神」の噂が立ち、諏訪子は霊夢と魔理沙にも出会って弾幕祭りをした。
しかしそれでも、諏訪子を神として正式に彼女たちに紹介したわけではない。
今日に至るまで、諏訪子は相変わらず自身を「隠されたもう一柱」として認識しているのだろう。
本当はもう、隠れている必要はない。
諏訪子が諏訪子として信仰を集めることができる世界に、自分達はいるのだから。
そしてそのことを、神奈子は諏訪子に伝えようとしている。
今日の外出は本来そのためのものだ。
これまで何度かその話を切り出す機会が訪れては、邪魔が入って来たが…ようやく、二人きりに戻ることができた。
このまま地面に降りて、すぐに話をしよう。
本当は、普通の会話のように一言、声をかければ終ってしまうだけの話なのかもしれない。
もう大和の神話なんて関係ない、これからは妖怪の山の神としてそれぞれ信仰を集めましょう、と。
しかし、そのことを軽々しく口にするには、
神奈子はあまりにも長い間「土着神としての諏訪子」の存在を否定し続けてきた。
そして先日の「敵」発言。
神奈子の心の中では、既にその言葉の重みは恐ろしいほど大きなものになっている。
だから、話がしたい。
諏訪子の正直な気持ちを全て知りたい。そして、受け止めたい。
それが自分にとってどんなに残酷なものであっても。
そして、自分の気持ちを残らず諏訪子に伝えたい。
その「気持ちの交換」をして初めて、幻想郷での生活が本当の意味で始まるのだと思った。
「ね、諏訪子」
だから神奈子は今度こそ、という思いを込め、諏訪子に声をかけた。
敢えて諏訪子のほうを見ないで話しかける。
今の自分がどんな顔をしているかはわからないが、きっと諏訪子に見せてもいいことはない顔だ。
「何よ」
全ての過去を清算するために。
敵対も侵略も、支配も神話もない、二人の神としての新しい日々のために。
「大事な話があるの。ちょっとそこに降りて『アアアアァァァーッ!!』」
今度は周囲に虫一匹いない状況であったが、他ならぬ諏訪子自身の声によって話が遮られた。
『またか』という苛立ちと『お約束ね』という諦観を抱きながら、神奈子は諏訪子に視線を向けた。
諏訪子は遠くの一点を指差しわなわなと震えている。
その指の先には大きな湖があった。知らないうちに、山の外まで飛んできていたのである。
「何よ、どうしたの」
「あいつ、あの妖精!」
諏訪子の顔には怒りの表情が浮かんでいた。
「あの?…あら、本当ね」
よく目を凝らして見ると、先ほどテレポートで逃げた二人の妖精の片割れの姿が見えた。
確か妙に弾幕が強い、冷気を操る妖精だっただろうか。
湖の上を退屈そうに飛び回っては、湖面に足をつけたり、蛙を凍らせたりしていた。
(ん…蛙?)
もしや、と思って視線を向けると、案の定諏訪子はそのことに怒っているのだった。
「蛙をいじめて遊ぶなんて、なんて罰当たりな!」
「罰当たり…まあ、否定はしないけど」
生き物をいじめるのは確かに褒められた話ではない。
「おまけにあんなに辺りを寒くして…蛙が一足早く冬眠しちゃったらどうするの!」
「少し長く冬眠するだけじゃない?」
「ちょっと注意してくるわ!こればっかりは神奈子にも譲らないわよ!」
「どうぞ」
神奈子は「どうでもいい」という態度で諏訪子を送り出した。
こうなると諏訪子は止まらない。
無理矢理引き止めてまた喧嘩になるのも嫌だし、あの妖精に注意すること自体には自分も賛成だ。
(蛙をいじめる、か)
諏訪子に話を切り出す機会を逃したことでやや投げやりになっていたというのもあるが、
それ以上に今の自分には諏訪子を止める権利はないのだと思った。
自分は一匹の蛙を、生かさず殺さず呑みこまず、長年にわたっていじめてきた悪い蛇なのだから。
(って、だからそれはもう…!)
あの『敵』発言以降、少しでも我に返ると自己嫌悪に陥ってしまう自分が嫌だった。
そんな状態を終わらせるために、自分は今日、こうして諏訪子と二人きりで出かけたのではないか。
悪びれもせず、笑って憎まれ口を叩き合う、そんな少し前までの関係に戻るために。
だというのに。
「本当に、こんな日に限って!」
苛立つ心を抑え、神奈子は諏訪子を追いかけた。
※※※
「ほんとに、あの妖怪たちのせいで栗が予定より随分少なくなっちゃったわ!」
チルノはいつものように蛙を凍らせて遊びながら悪態をついていた。
共にここまで逃げてきた大妖精は、取り残された仲間を助けに戻っている。
自分は湖に残り、戦利品の栗を見張る役であった。
「うー!あの天狗はあたいに何か恨みでもあるのかしら?いっつも寄ってきて、気持ち悪い!」
握り拳ほどの大きさの氷を手の中に作り、湖に投げ込んだ。
湖面に波紋が起こる。
「…あたいの子分になりたいなら、そう言えばいいのに…そしたら、一緒に遊んであげてもいいのに…」
チルノは少し困ったような、怒ったような、そして照れたような顔で、広がる波紋を睨んだ。
いつぞや自分が大蝦蟇に食べられかけた時以来、あの天狗は幾度となく自分に接触してきた。
わくわく言いながらしつこくカメラのレンズを向けてくる態度には辟易していたが、
彼女が自分に好意を持ってくれていることは理解できた。
そして、チルノにとってそれは、決して不快なことではなかった。
「あいつ名前なんだっけ…あや、とか言ったっけか…」
「こおおぉぉぉぉるうぁぁぁぁああッ!!」
水面に映る自分の顔を見ながらつぶやくチルノの耳に、諏訪子の怒号が届いた。
「何さりげなく無邪気ツンデレな独り言つぶやいてくれちゃってんのよ!」
「は!?何?む、むじゃき…つんどら?」
「わたしゃ許さないわよそういうあざとい萌え要素のアピールは!!」
「も、もえようそ?ていうかあんた誰?」
頭の上に幾つも「?」のマークを浮かべるチルノに、諏訪子は容赦なく襲い掛かった。
「問答無用!蛙をいじめちゃいけません…蛙を(゜д゜)しちゃいけません!!」
かつてミシャグジを束ね、一国の主として人間達に君臨していた諏訪子のカリスマが甦る。
今こそ罪のない蛙をいじめるイタズラ妖精に正義の鉄槌を下すのだ。
諏訪子の脳内には脳内麻薬と、かつて外の世界で聞いた名も知らない歌のイントロが溢れ始める。
どこかで偶然耳にしただけのその歌は、いつしか自分の応援歌として脳内BGMとなっていた。
曲名をつけるならば『神罰!ネイティブケロちゃん』といったところであろうか。
「なんで冷気を撒き散らす?これでは、寒くなって蛙が住めなくなるわ。湖の冬が来るわよ!」
諏訪子は無数の御札を展開して弾幕にしながら、チルノに接近する。
「蛙?ふん、そんなの湖ごと凍らせちゃえばいいのよ。氷が解ければ生き返る、高等技術よ!」
先ほどの戦いの疲れを微塵も感じさせず、諏訪子が放った弾幕を巧みにかわす。
「妖精が蛙の命を左右するなどと!」
「幻想郷最強のあたい、おてんば恋娘のチルノが蛙どもを支配してやろうっていうのよ!」
チルノには悪びれる様子は一切ないようだった。
目の前の相手が神であることなど露知らず、
『なんか蛙っぽい奴が喧嘩売ってきた』
程度にしかとらえていないのだろう。
「エゴだよ、それは!」
諏訪子も引き下がらない。
博麗の巫女が出動するほどの大きな戦いが終わった後。
決して記録に残ることのない、蛙の威信と尊厳をかけた二人だけの戦争が始まった。
(やれやれ…)
湖の畔、手近な樹木に背を預け、神奈子は二人の戦いを見ていた。
ここに来るまで何度も諏訪子に話を切り出す機会があったが、その都度邪魔が入ってきた。
この戦いが終わっても、また別の邪魔が入るかもしれない。
そのまま辺りが暗くなり、なんとなくいつものように帰路につき…という一連の流れが目に浮かんだ。
その後はどうだろう。
家に帰り、早苗が用意してくれた夕食を食べ、風呂に入って酒を飲んで寝るのだろうか。
そうして話すべきことも何もかもうやむやになり…また、過ぎ行くに任せる日々が始まるのか。
(いや、だめだ)
そもそも神奈子の当初の予定では、神社を出て適当に二人で歩きながら、諏訪子と話をするつもりだった。
その後は二人で里へ行き、「守矢の神社の二柱の神」として信仰集めをしようと考えていた。
話を切り出した時点で諏訪子と喧嘩別れになるかもしれない、そうも考えたが、
今日に限っては自分は諏訪子のどんな気持ちも受け止めるという覚悟があった。
目の前の問題から逃げて笑っている限り、自分はいつまでも諏訪子の『敵』なのかもしれないのだから。
もし傷ついても、涙を流しても、その先にある本当の新しい生活のためならば、耐えられる。
自分が泣いているのを早苗に見られるのは少々気まずいが(わざわざ話す場所を外に選んだ理由はそこにある)。
もう日は大分傾いている。
これから里へ行くのは無理かもしれなかったが、それでも神奈子はこの問題に決着をつけて帰りたかった。
今日もここまで、何度も自己嫌悪に陥る場面があった。
諏訪子が笑ってくれることで、諏訪子が自分のために何かをしてくれることで、心が痛む。
そんな生活はもう嫌だ。
だから、話す。
気持ちを全て打ち明け、謝って、責められて、なじられて…それでも、自分が『敵』じゃないことを、わかってほしい。
今の自分には、勝利より、支配より、神話より、大切なものがあるのだから。
(諏訪子)
傾いた日差しに照らされて光る湖面に踊る、諏訪子の影。
神奈子は決意を込めて、その影を見つめていた。
心が決まることで、少し気持ちが楽になった。
(今度邪魔する奴がいたら、ぶっ飛ばしてやる、ん、だから…)
そして楽になったところで…あろうことか、神奈子の意識を睡魔が襲った。
一日中あちこち歩き回り、他人の喧嘩を止めたり、自分の喧嘩を止めてもらったり、その他諸々。
様々な原因から生まれた疲労が、瞼の上に重くのしかかっている。
だめだ、ちゃんと諏訪子の戦いが終わるのを確かめて、すぐに話をしなきゃ…そう思い、必死に目を凝らす。
しかし飛び回る諏訪子とチルノの動きが、余計に神奈子の目を疲れさせ、眠気を誘う。
抵抗空しく、神奈子の頭がかくりと前に垂れた。
※※※
夢を、見た。
それは遠い遠い昔の記憶、神話の時代の光景を映していた。
『貴様、止まれ!その先への侵入は許さん――うわっ!?』
『何だこの風は――ひ、ひぃぃぃぃっ!』
それは遠い遠い昔の記憶、神話の時代の光景を映していた。
『愚かな、この地を侵す者には必ずミシャグジ様の祟りがあろうぞ…』
「へえ?」
『貴様ごとき妖女一匹、我らが神々の手にかかれば…』
「そのミシャグジってのは、こいつらのことかしら?」
『なっ…そ、そんな馬鹿な!?」
無力な土着の民を、襲い掛かるミシャグジの群れを押しのけ、神奈子は王の間を目指す。
「なんだ、手応えのない。これならわたし一人で済みそうね…ん?」
『おお!』
『我らが神…どうか、あの化け物に神罰を!』
王の間へ行くまでもなく、国を治める王――土着神の頂点が神奈子の前に姿を現わした。
流れの速い川を挟んで向かい合う、侵略者と統治者。
周囲の民は、張り詰める空気にの中に血の匂いを予感したか、一様に恐れおののく。
――が、二人の神がその手の武器を掲げた瞬間、一滴の血を流すこともなく、勝負はついた。
黒光りする鉄の輪が、みるみるうちに錆に侵されていく。
強固で鋭利な必殺の武器が、ぼろぼろと崩れ、砂利のように河原に落ちた。
意気揚々と手にした、最新の技術で作られた武器は変わり果てた姿となり、消えた。
土着神の手に残るのは、土くれじみた酸化鉄。
己の手からゆっくりと視線を外し、対峙する敵を見る。
そして彼女は――彼我の実力の差を、一瞬で悟る。
つい先ほどまで威厳と自信に満ちていた彼女の顔を、氾濫した川のような勢いで、恐怖が浸食していく。
怯えた両目が見つめるのは、掲げられた藤蔓の向こう。
(やめて)
周りから、人々が遠ざかっていく。
恐怖に駆られた土着神も、その足を後に一歩、踏み出してしまう。
河原の石を踏みしめるじゃり、という音さえ、震えているようだった。
しかし、動けたのはそこまでだった。
蛇に睨まれた蛙のように足を止め、訪れる死を震えて待つ一人の少女が、そこにいた。
その目が映すもの。
どうどうと流れる川面に、映るもの。
(嫌)
(見たくない)
(やめて)
神奈子の視線が下がり、川面に映ったその女の姿が目に入る。
獲物の生死をその手に握った、勝利者の、そして捕食者としての喜悦に満ちた、蛇の笑顔がそこにあった――
「嫌ッッ!!」
自分が上げた叫び声に驚き、神奈子は目を覚ました。
既に日は沈み、辺りは大分冷え込んでいたにも関わらず、全身にびっしょりと汗をかいていた。
心臓は火事を知らせる警鐘のようにせわしなく拍動し、自分の精神が緊張状態にあることを知らせている。
心なしか呼吸も荒かった。
「こんな時になんつー夢よ…いや、こんな時だからかね」
神奈子は溜め息一つ、どうにか呼吸を整えた後で呟く。
ついさっきまで見ていた夢の内容は、細部に至るまではっきりと覚えていた。
錆び付いた鉄輪。我先にと逃げまどう人々。怯えきった諏訪子の顔。
そして――恐ろしい侵略者の顔をした、自分。
実際には、川面に映った自分の顔を見た記憶などないはずなのだが、
何故か夢の中の川は、神奈子の顔をしっかりと映している。
そして神奈子には、それが混濁した記憶が作る虚像だとは思えないのだった。
もしかすると、自分はもっと恐ろしい存在として、諏訪子の目に映っていたのかもしれない。
今思えば、最悪の出会いであった。
よくこれまで付き合ってこれたものだと、自分でも思う。
それにしたって、元は大和の神話のために諏訪子を無理矢理利用した結果の付き合い。
本来、諏訪子が望んだものであるはずがない。
杉で結ぶ古き縁、とはよく言ったもので、実際には力で結んだ穢き縁、である。
「…敵、か」
今日これまで、何度も心の中で反芻した言葉を口に出す。
長い時を経ても、諏訪子の心の中には、あの恐ろしい笑顔を浮かべた自分がいるのだろうか。
突然現れ国を奪い、返してくれたと思ったのも束の間、どこの馬の骨とも知らない神の名を付けられ、
大和の神話に利用された記憶を、諏訪子は今も覚えているのだろうか。恨んでいるだろうか。
信仰集めによる利害の一致を盾に、いつしか友達面して接してくるようになった神奈子を、
疎ましく思っているだろうか。
「…そうだ、諏訪子」
頭の中が再び諏訪子のことでいっぱいになったところで、神奈子は自分がここにいた理由に気づいた。
どれくらい眠っていたかはわからないが、西の空にはまだ僅かに橙色が残っている。
自分が睡魔に襲われてから、そこまで長い時間は経っていないだろう。
湖の上に視線を移し、諏訪子の姿を探した。
辺りは静まり返っており、蛙の鳴き声も聞こえない。
先ほどの戦いでチルノが凍らせたのだろう、湖面がかなりの広範囲にわたって凍り付いていた。
そしてその上に踊っていた二つの影は、今はない。
神奈子が独り言を止めれば、そこには弱い風が吹きぬける音だけが響いた。
誰も、いない。
「諏訪子」
最初はぽつりと、消え入るような声で。
「諏訪子」
次は少し大きく、近くに諏訪子が隠れていれば、聞こえる程度の声で。
「諏訪子!」
少し遠くにいても、間違いなく聞こえるような大声で。
「諏訪…子…」
そしてまた、消え入るような声に戻って。
四度に渡る呼びかけに、応える者はどこにもいない。
諏訪子はどこにいるのか、どこへ行ってしまったのか。
決まっている。
勝ったか負けたか知らないが、チルノとの戦いを終え、一人で神社へ帰ったのだろう。
いや、神社に帰ったとは限らない。どこかで寄り道しているのかもしれない。
しかし確かなことは、ここに諏訪子の姿はなく、、彼女は自分を置いていったということである。
諏訪子を放って居眠りしてしまった神奈子に腹を立て、帰ってしまったのだろうか。
いや、そもそも諏訪子は神奈子と一緒に帰る、ということを望んでいなかったのかもしれない。
神奈子はこれまでいつだって大和の神話と、自分の信仰のために諏訪子を振り回してきた。
諏訪子が「神奈子と共に行動するか否か」を選べる機会はそう多くなかった。
だから、いざその機会が与えられた時に諏訪子がどういう選択をするか、神奈子はよく知らない。
諏訪子は「共に行動しない」ことを選んだのだろうか…?
結果から言えば、諏訪子がここにいない以上、その選択をしたと言っても過言ではない。
『あんな女、敵よ敵』
あの日の諏訪子の言葉が、しつこく脳裏に甦る。
やはり自分は諏訪子にとって、力で無理矢理言うことを聞かせる、鬱陶しい蛇でしかなかったのだろうか。
「諏訪子…」
もう一度、彼女の名をぽつりと呟く。
悲しみや怒りの感情は、予想外に薄かった。
諏訪子が自分を置いて帰ってしまったことで、神奈子の心はひどく空虚になっていた。
ネガティブな感情がほとんど湧いてこないほどに、ひたすら真っ白な、何も無い心。
何かの本で目にした『心にぽっかり穴が空いた』状態とは、このようなことを言うのかもしれない。
神奈子は思いも考えも薄い精神を抱えたまま、立ち上がった。
諏訪子はいない。
黄昏を少し過ぎて吹く風は、やけに冷たかった。
帰ろうか。
少しだけ、自分がみじめな奴だな、という思いが芽生えた。
なんとなく、ここから一歩一歩歩くごとに、その思いが大きくなっていくような気がした。
自分の心は何歩まで耐えられるだろう。
今度こそ、自分は泣き出してしまうかもしれない。そして、今度は傍に誰もいないのだ。
何が信仰か。
心が折れそうな時に傍にいる者が誰もなければ、そんなもの集めたところで何の意味もない。
自暴自棄な感情も抱えながら、それでも神奈子は湖に背を向け、足を踏み出した。
帰るために。諏訪子と早苗が待つ、神社へ。
帰ってどうする?…さあ。
もう、何もわからない。どうしたらいいのかも。諏訪子の顔を見て、何を言えばいいのかも。
それでも神社へ帰る方向へ足が向く自分が、ひどく惨めに思えた。
「諏訪子の馬鹿」
馬鹿は自分だ。本当に諏訪子と仲良くしたいのなら、もっと早く謝っておけばよかったのに。
結局自分は今も昔も変わらず、自分の都合で諏訪子を利用し、振り回す最悪の女だ。
置いていかれて当然。敵と思われて当然。
もはや自己嫌悪の痛みに心が麻痺しているのか、神奈子の心は予想に反してひどく静かなままだ。
そんな虚ろで静かな心を抱え、神奈子は歩く。
足が重い。ならば飛べばいいのか――いいや、全身が重い。余計に億劫だ。
「…なこ」
幻聴まで聞こえてきた。やはり疲れている。
さっさと帰って寝てしまおう。諏訪子?知るか。あんな薄情者。ばかばかばか。
ばかはわたし。薄情者もわたし。わたしは諏訪子の敵。
悪いのは全部わたし。
「…かなこ!」
だからこうして背中から響く声も幻聴。諏訪子はもう帰ってしまった。ここには誰もいない。
「神奈子!」
もうやめて欲しい。諏訪子が実は帰ってなんかいなくて、自分を追いかけてきてくれているなんて…!
そんな幻想を抱いてしまう自分が、余計に惨めで仕方がない。
たまらず、耳を塞いだ。
「待ってよ!神奈子!」
先ほどより大きくなった声が、耳を覆った手の、指の隙間を通って響く。
やめて。
「神奈子ったら!置いてかないでよっ!わたし、動けないの!」
「やめてっ!!」
幻聴を振り払うように勢いよく頭を振って、神奈子は後ろを見る。
しかしそこには確かに、ああ、それは幻のように美しかったけど、確かにそこに、その光景はあった。
「待って、神奈子、今すぐそっちに行くからっ!!」
置いていかないで、という懇願と焦燥が混じった声が響く。
神奈子が湖面に視線を移した瞬間、凍った湖の一点で、何かが弾けた。
四方に弾け飛び、湖面に落ちる粒子は、氷。
たった今内側からの力で砕かれた無数の氷の粒が、ある一点を中心にして宙空に広がっていた。
空に放たれ落ちていく氷の粒は、いつの間にか輝いていた月の光を照り返してきらきらと光った。
その中心に立つのは、一人の少女。
昼間に見た、舞い散る紅葉の中で空を見上げていた姿が、神奈子の脳裏に甦る。
しかし今度は、少女は幻想的な光景に似つかわしくない切羽詰った顔で、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「はあっ…やっと、出られた…あの妖精、やってくれるじゃないの…」
諏訪子は衣服のあちこちに降りた霜を払い除けると、凍った湖面の上を歩き始めた。
神奈子が自分の方を見ていることに気づき、一瞬安堵したように顔をほころばせ…すぐに、頬を膨らませた。
「もーっ、黙って帰るなんてひどいじゃないの!あのまま湖の上で凍死したらどうするのさ!」
どうやら諏訪子はチルノと戦った結果、湖の水面ごと凍らされていたようだ。
意識があったのかなかったのか、兎も角も神奈子が湖を去ろうとしているのに気づき、必死で氷の拘束を解いたのだろう。
諏訪子は不機嫌そうな顔を作りながらも、弾むような足取りで、楽しげに氷の上を歩いてくる。
「神奈子のばーか。薄情者」
岸に近づくにつれ諏訪子の足取りは早くなる。
彼女の靴の下で、凍った水面が割れる音が連続して響く。
次第に、二人の距離が縮まっていく。
ああ、そうだ。
わたしはなんて馬鹿で、薄情者だったのだろう。
諏訪子は今まで一度だって、自分を見捨てたことなんかないのに。
勝手に諏訪子が自分を置いて行ったと決め付けて、勝手に落ち込んで、諏訪子の声に耳を塞いで。
結局、諏訪子を置いて行こうとしたのは、自分だった。
忘れていた。
諏訪子はいつだって、こうやって自分のところに来てくれたのに。
喧嘩をして、神社を飛び出したときも。
いじけた自分が、そのまま戻らなかったときも。
いつも諏訪子が先に折れてくれた。
自分でそうすることを選んで。神奈子と一緒にいることを、選んで。
ちっぽけなプライドにしがみついて意地を張る自分のもとへ、歩いてきてくれたのに。
ちょうど今のように。
凍った湖を踏みしめ、ぱきり、ぱきりと足音を響かせながら。
諏訪子が通った後、道のように氷に亀裂が入る。
「全く、自分から誘っといてそれはないでしょ…よっしゃ、ラストスパート!」
諏訪子は走り出した。
岸で佇む神奈子に向かって、一直線に。
そうだ。
外の世界にいた頃、早苗が生まれるずっとずっと昔から、何度もこの光景を目にしてきた。
諏訪子はいつだって、こうやって氷を割りながら走って、湖の上に――
いつだって――
「諏訪子おぉっ!!」
「何よ!?」
神奈子の胸を埋め尽くした感情の塊が、絶叫となって口から発射された。
いつだって変わらない。諏訪子はいつだって、こんなしょうがない自分の味方で、そして――
「あんたは…何であんたは!そうやっていつも!」
「えー?」
こうして氷を踏んで、氷が割れてぱきぱきめりめりバキバキバキビキビキドドドドド、
「飛んでくるってことを学習しないのよ!」
その瞬間、湖の氷に入った亀裂が一気に広がり、大きな水音と共に諏訪子を飲み込んでいった。
――諏訪子はいつだって、凍った水面をブチ割って湖面に落っこち、風邪をひくのだった。
「みしゃっぐじ!」
外の世界はおろか、幻想郷でも滅多に聞かないであろう特徴的なクシャミ。
「う~…やっぱ風邪、引いたかなあ…」
「もう少し、暖まらせてもらえばよかったのに」
鼻水をすする諏訪子を横目で見ながら、神奈子はぽつりとつぶやく。
二人は湖畔の道を歩いていた。
「いやあ、服も乾いたし、大丈夫かなあと思ったんだけど…」
諏訪子の服装は、湖に落ちる前と全く同じ。
しかも洗いたての服のように、その前より心持ち綺麗に見えた。
…それもそのはず、諏訪子の服は、『数分前に』洗濯と日干しの全過程を終えてきたのだから。
※※※
『最近の神様ってのは忙しいのねえ』
湖から諏訪子を引き上げているところで、偶然通りがかった咲夜に出会ったのが、十数分前。
咲夜に招かれるまま湖畔の紅い洋館に入り、暖炉に当たらせてもらった。
そしてその数分後に、諏訪子の衣服が洗い立てになって戻ってきたのだった。
『部屋干しなのに日干しとほぼ同じ乾き方、嫌な匂いもゼロですわ』
『す…すごい!どうやって!?』
『これもあなたの手品とやらなの?』
感嘆する二人の問いに、咲夜は少し悪戯っぽく微笑んで答えた。
『そんなところね。ま、日光に関してはあるお方のご協力を頂いた、ってところだけど…』
栗の回収に協力してくれたお礼よ、と付け加えた。
聞けば、チルノと大妖精が持って逃げた最後の籠も、諏訪子とチルノの戦闘中に回収できたという。
諏訪子を凍らせるのに夢中だったチルノは、メイド達が栗入りの籠を持っていくのに気づきもしなかったとか。
ともかく、思いもかけない助けにより、諏訪子は濡れた服を着たまま帰路に着くことを免れたのだった。
※※※
この短い間に日は完全に沈んでいた。
先ほど諏訪子を照らしていた月の光も、少し光が強くなったように見える。
「うう。早く帰ってキノコ鍋を食わねば…」
「最近夜は冷えるものね」
静まり返った湖畔に、二人の声はよく通って聞こえた。
諏訪子は早く帰ろう、といった態度で足取りを早めるが、神奈子は足を止める。
「諏訪子」
そして、諏訪子の背中に声をかけた。
「ん?」
諏訪子も足を止め、数歩分遅れた場所に立つ神奈子を振り返る。
二人の視線が合った瞬間、神奈子は思わず周囲を見回した。
今度こそ、邪魔はないか。
「神奈子?どうしたの、キョロキョロして」
「いや…なんでもないわ」
神奈子は安心する一方、何の邪魔も入らないことに無意識に落胆していた。
ほんの、少しではあったが。
ああ、やはりここで、ついに、話さなければいけないのだな、と。
喧嘩する山の妖怪も、栗を奪い合う妖精も、蛙を凍らせる罰当たりも、今はいない。
静寂が支配する湖畔に、二人で向かい合っている。
覚悟を決めなければならない。
そして、神奈子の口が開いた。
※※※
「わたしね、諏訪子」
「…うん」
諏訪子も、神奈子が何か真剣に話そうとしていることを感じ取り、表情を引き締める。
神奈子の表情と声色からそれを感じたのだろう。心が通じているようで、嬉しかった。
「もう古い神話は、捨てようと思うの」
そして神奈子は、諏訪子にこれまでのことを話した。
大和の神話のために、諏訪子の存在と名前を隠し続けてきたこと。
外の世界での信仰が薄れ、諏訪子に黙って神社を幻想郷に移したこと。
その事実は諏訪子も全て知っていることであったが、その陰にあった神奈子の意思を知るのは、初めてだろう。
諏訪子はずっと表情一つ変えず、神奈子の話しに耳を傾けていた。
話を聞いている間、諏訪子の脳裏にはどのような光景が浮かんでいたのか。
錆び付いた鉄輪か。
神社の奥に自分を閉じ込める、重い扉か。
あるいは、自分から国も、人も、信仰も奪おうとした、邪悪な蛇か。
神奈子にはわからない。
しかし、話すことをやめるわけにはいかなかった。
ここから前に進むために。
「でも、もういいの。もう、古ぼけた神話なんて、なくていい」
かつてあれほど躍起になって神話を広め、獲得した信仰も今は薄れ、滅びへの道を進みつつあった。
そして選んだのは、幻想郷の神として降臨する道。
そこでは、自分も諏訪子も新しい神として一から信仰を集め、神話を新しく創らなければならない。
もう、過去に自分が諏訪子に勝ったことも、その地で集めた信仰も、意味を持たない。
この幻想郷で、これから自分が、自分たちが何をするか。
そのことだけが、この新しい世界での自分達の在り様を決めるのだから。
「だから諏訪子は、もうわたしに気を使うことなんてない」
諏訪子は自分で神として行動し、他の誰でもない、洩矢諏訪子として信仰を集めていいのだ。
神奈子を通じて信仰を得る、そんな手段に頼る必要はない。
今日のように、いや、今日以上に、幻想郷の人間や妖怪と関わり、信仰を集めればいい。
神奈子の背中を押す代わりに、自分が人々の前に立てばいいのだ。
「建御名方、なんて名前だけの仮面をかぶらなくていいの」
「……え」
「ここでは、わたしがあなたに勝った過去なんて、何の価値もない」
自分の口から、過去の栄光を否定する言葉がこぼれている。
しかし、神奈子はそのことを、心地よく感じていた。
夢の中で見た、川面に映る邪悪な蛇の笑顔が遠ざかっていく。
いらない。
そんな過去は、もはや栄光ですらない。
諏訪子を恐怖に陥れ、全てを奪おうとした悪い蛇には、今ここでさよならだ。
「いきなりこんなこと言われたら、混乱するわよね」
神奈子は少しだけ、自嘲気味に笑う。
勝手に国を奪って、勝手に王座を返して、勝手に諏訪子を大和の神にして。
そして勝手に神社を幻想郷に持ってきて、挙句の果てに勝手に過去をなかったことにしようとして。
混乱するわよね、と言った自分がおかしく感じた。
諏訪子が混乱どころか、怒りを感じて当然のことを、自分は今、口にしている。
いつだって自分は、勝手な都合で諏訪子を振り回すのだ。
(でも、これで最後)
諏訪子を振り回し続けた過去を清算するために、神奈子はここにいる。
これを最後の我侭と、神奈子は言葉を搾り出す。
「わたし、わかったから」
勝利より、神話より、信仰より、大切なものがある。
本当はずっと前から気づいていた。
だけど、外の世界での信仰と神話にしがみつく自分のプライドがそれを認めることを許さなかった。
「諏訪子と一緒にいたいって。そのためなら、これまで手に入れた何だって捨てられる」
「……」
諏訪子は何も言わない。
「だから、この世界を、幻想郷を、諏訪子が諏訪子のままで、幸せになれる場所にする。してみせる」
神奈子は自分が無様だ、と思った。
かつて自分が打ち負かした相手に、懇願するような態度を取っているからではない。
これまで散々諏訪子を自分の都合で振り回し、今も彼女に自分の願望を押し付けている自分がいたから。
「何だって、するから」
諏訪子と一緒にいられるなら、何でもする。
それは逆に言えば、何でもするから一緒にいさせろという自分勝手な要求だ。
自己嫌悪の波が心に押し寄せる。
悲しい。惨めだ。無様だ。わたしはなんて自分勝手な女なんだろう。
涙が溢れてくる。
それでも、神奈子はもう止まれない。
「わかってる。諏訪子がこれまでずっと、辛かったって…それも全部、わたしのせいだって」
これまでの自分の仕打ちに対する報復として、何をされてもいい。どんな言葉で責められてもいい。
諏訪子の幸せのためならば、自分は神ですらなくたっていい。
今日一日抑え続けてきた感情の波が、堰を切ったように流れ出していた。
「でも、諏訪子と一緒にいたいの。いつだって、諏訪子の味方でいたいの」
声が震えている。
涙がぼろぼろと流れ、神奈子の頬を伝う。
言えば言うほど、自分が嫌になった。それでも、言わずにいられない。
「だからっ…!」
神奈子は感情の赴くまま地面に膝をつき、顔を伏せてしまう。
涙が頬から落ち、地面に染みを作った。
ああ、これはまずい。
一方的に言いたいことを言って、勝手に泣き崩れてしまうなんて。
せめて何か言わなければ。
しかし、もはや神奈子の喉からは嗚咽がせり上がってくるばかりで、気の利いた言葉が出てこない。
まだ話は終ってない。
こんな自分勝手な感情の吐き捨てだけを聞かせては、諏訪子は怒るに決まってるじゃないか…!
「ほんと、いつだって自分勝手だよね、神奈子は」
諏訪子の声が、頭上から響く。
怒られること、責められることを覚悟していたとはいえ、いざその場に立ってみると、神奈子の身体は強張る。
それでも必死で気持ちを奮い立たせ、諏訪子の顔を見上げた。
諏訪子のどんな気持ちも受け止める。それが決意だ。
しかし、神奈子の視界に諏訪子の顔が入ることはなかった。
一瞬、視界が真っ暗になる。
何かが自分の顔に押し当てられている――それが諏訪子の胸だと気づくまで、数秒。
諏訪子が自分の頭を両腕で抱いていることに気づくまで、さらに十数秒。
「え…?」
そう言った声は、諏訪子の胸の中でくぐもって響いた。
「いきなり神社がこっちに来たと思ったら、今度は神話を捨てるだなんて」
神奈子の頭の上に、諏訪子の顎の先端が当たっている。
地面に膝をついた神奈子を、諏訪子が立って抱きしめているという状態だった。
「なんでいっつも、わたしに相談なくそういうことをするかなあ」
「諏訪子…」
諏訪子の胸で視界を塞がれた神奈子には、彼女の表情は見えない。
そのままの体勢で、諏訪子の次の言葉を待った。
「ほんと、せっかちなんだから。わたしを幸せにしてくれるんなら、まずわたしの話を聞いてほしいわ」
「ごめん…」
自分の言葉は、やはり諏訪子の心には響かなかった。神奈子はそう感じた。
結局、自分は今までと同じように、諏訪子を自分の都合で振り回してしまった。
相手の都合などお構いなし。
最後の我侭、と決めて告げた言葉も、相手にとっては「いつもの我侭」だ。
「だからね」
神奈子は身を硬くする。
どんな言葉が、心に刺さるか――。
「今度から大事なことは、ちゃんと話してね。もうわたしが隠れてる必要、ないんでしょ?」
「…え?」
諏訪子が神奈子の頭から手を放す。
そのまま、諏訪子の両手のひらが神奈子の肩に置かれた。
二人の顔が向かい合う。
諏訪子は少し困ったような、照れたような、そんな感情が混ざった顔で笑っていた。
「わたしはわたしとして、堂々と神様をやれるのよね?だったら、神社の今後についてもズバズバ言うわよ」
神奈子の天下は終わりね、と意地悪な口調で付け加える。
しかしその笑顔は優しく、暖かい。
神奈子がこれまで、何度となく目にしてきた、自分が一番好きな諏訪子の顔だった。
『はいはい、わたしが悪かったから…だからそろそろ、帰ってきなさいよ。…み、み、ミシャッグジ!』
喧嘩して、神社を飛び出した自分を迎えに来る時に、いつも諏訪子が迎えていた笑顔。
彼女はいつだって、湖に落ちた直後の冷え切った身体で、最高に暖かい笑顔を自分に向けてくれた。
そんな大好きな笑顔に甘えて、好き勝手してきた自分に、また嫌悪がこみ上げる。
「だから神奈子、もう一人で悩んだりしないで」
「わたしが…悩んで…?」
「うん。神奈子、こっちに来る前も、何か凄く悩んでたよね?でも、何も言ってくれなかったから、心配だった」
恐らく自分が失われる信仰に焦り、神社を幻想郷に移すことを決意した時だろう。
あの時はまだ諏訪子の存在を隠していたこともあり、早苗にしかその計画を話していなかった。
何より、信仰が失われたことを諏訪子に話すのが躊躇われた。
諏訪子の力となる信仰は、当時は全て自分と、建御名方の名を通じて集まるものだった。
それが失われたことを自分の口から告げるのは、神奈子のプライドが許さなかったのだ。
「あ、責めてるんじゃなくて…いや、責める!責めていいのよね、この空気は?」
諏訪子は相変わらずの笑顔を浮かべながら、そう言った。
神奈子は何も言わずに頷くしかない。
「でしょ?全く水臭いったらない」
少しだけ、諏訪子は眉をひそめた。
「わたしを隠しときたかったのはわかるけど、プライベートくらいもっと腹を割った話がしたいわ」
毎晩一緒に呑んでたのに、そんな隠し事してたなんて、と諏訪子は毒づく。
「ごめん…なさい…」
神奈子が消え入るような声で謝る。
「もう、らしくないわね。…調子狂うじゃない」
諏訪子は軽く溜め息をつくと、神奈子の肩に置いた手を再び、頭の後ろに回す。
再び、神奈子を抱きしめる形になった。
「一緒にいたい、なんて願う必要もないわよ。今までそうだったように、これからもそうする。それだけ」
神奈子の耳元、その少し上から、諏訪子の声と吐息が降りてくる。
「外の世界で信仰がなくなったからポイ、なんてことをしようものなら、それこそブチ切れるわよ、わたしは」
「そんなこと、わたしは…」
「わかってる。いきなりだったとはいえ、わたしを一緒に連れてきてくれたのは正直、ホッとしたわ」
諏訪子の声は優しい。
『あんな女、敵よ敵』
今まで神奈子の心に重くのしかかっていたその言葉が、羽のように軽く感じられた。
そんな言葉よりずっと大切で、確かなことが、今の神奈子にはわかるから。
「だからね、神奈子。もう一度言うわよ。これからは、何でも話して。一人で悩んで、勝手に決めないで」
「うん…」
それは、これまでずっと、諏訪子が自分の味方でいてくれたということ。
諏訪子は昔と変わらぬ笑顔で自分に笑いかけ、こうして抱きしめてくれているということ。
大切なのは、諏訪子にとっての自分が何かについてあれこれ悩むことではない。
今ここにある諏訪子の心に、どう応えるか。
諏訪子のために、諏訪子の味方であるために、自分に何ができるかだ。
そして、その答えはついさっき、自分の口から出たのではなかったか。
「期待してるわよ。神奈子が作る、幸せな世界ってのをさ」
そう、言葉では、何とでも言える。
だから神奈子は、これから、行動で諏訪子の期待に応えなければならない。
望むところだ。
自分を「敵」なんて口が裂けても言わせないぐらい、頼もしい味方になってやろうじゃないか。
「うん。必ず、諏訪子を幸せにするから」
胸のつかえが一気に取れた気がした。
「ああ、あとね」
神奈子の頭に、柔らかい感触が伝わる。
諏訪子の頬が押し付けられた感触だと、すぐに理解する。
「古い神話だって、全部捨てることはないと思うの」
「…?」
「もう建御名方なんて名前はいらないし、隠れて住むのもストレスたまるんだけどさ。…その…」
そこまで言って、諏訪子は言葉に詰まった。
やがて、ゆっくりと、消え入るような声で次の言葉を紡ぎ出す。
「…神奈子と夫婦ってのは、そんなに嫌じゃなかったかなあ…と」
諏訪子の声は、わずかに震えていた。
それは悲しみや怒りによるものでなく、純粋な「照れ」から来るものであると、神奈子は気づいた。
そして同時に、恐らく諏訪子を今現在襲っているであろうものと同等かそれ以上の「照れ」が神奈子を襲う。
「す、すわこ?それって、あの…」
神奈子の侵攻の後、諏訪子が「建御名方命」という名前だけの神と融合し、引き続き国を支配した。
当初神奈子は山の神として、諏訪子を利用しこっそりと君臨していた。
…が、当然、その「こっそり君臨する神奈子」も一人の神として神話に組み込まれることになる。
その際に手に入れた信仰の器が「建御名方の妻」…妃神・八坂刀売神の名であった。
建御名方命は神話上、二人の共通の仮面となる神だが、神奈子の侵攻後、現在に至るまでの建御名方は諏訪子だ。
つまりその点に関して言えば、神奈子は諏訪子の妻だと言えなくはない。
「ああいや、そりゃ、やっぱ女同士で夫婦って時点で、変だとは思うんだけどさあ」
人間の歴史の中で姿を変えていったとはいえ、その辺りの神話は基本的に神奈子の意図に沿って作られている。
諏訪子の妻として自分が位置づけられる神話を神奈子が黙認したのは…自分もそれ程嫌ではなかったからだ。
とはいえ直接そのことに言及するのはさすがに照れ臭く、お互いにその話題には触れずにこれまで過ごしてきた。
しかし心の奥底で、そんな「あくまで神話の上での」関係を心地よく思っていたことも事実。
神奈子にとって諏訪子は幾つもの時代を越えて共にあった、友であり、家族であり、そして…夫(妻?)だった。
「まあ、俗に言う『俺の嫁』的な、ネタというか…そう、ネタネタ!これくらいのギャグがあったほうが信仰も…」
「諏訪子」
しどろもどろになって弁解する諏訪子の背中に、神奈子は腕を回した。
自分の腕の力も加えてより強く、諏訪子の胸に顔を埋める。
「ひゃっ!?な、何!?」
驚く諏訪子の問いには、神奈子は答えない。
諏訪子の身体の温もりを感じたまま、かすかに匂う太陽の香りを感じながら、目を閉じる。
最初は混乱気味だった諏訪子も、やがて優しげな表情を浮かべ、神奈子を抱く腕に力を込めた。
神奈子の心に、ある一つの言葉が浮かんだ。
それは今、そしてこれからも、決して口に出せないような言葉。
ついさっき、古い神話は捨てると言ったはずなのに。
諏訪子はもう、そんな名前はいらないと告げたのに。
それでも神奈子は、その言葉を呟かずにはいられなかった。
勿論、諏訪子には聞こえないように、小声で。
わたしの、建御名方様――
空高く上った月は、湖面に走る氷の亀裂を鮮やかに照らし出していた。
※※※
霊山に、朝の風が吹く。
朝の日差しは一層柔らかくなり、風も日増しに冷たくなってきていた。
秋の終わりを感じさせる湖畔の神社に、神々の戦いの声が響いた。
「神奈子!何適当なこと言ってくれちゃってんのよ!?」
「あ、おかえり…って、朝っぱらから何の話よ」
「わたしのスペルカードの名前が間違って伝わってるのよ!しかもその由来まで!」
縁側から部屋へ飛び込んできた諏訪子は、朝食をとる神奈子に食って掛かった。
紅魔館――かつて咲夜に服を洗ってもらった洋館でのパーティーに三人まとめて招待されたのが、昨日。
神奈子と早苗は夜遅くに帰ったが、館の主と意気投合した諏訪子はそのまま夜通し酒を飲み交わしていた。
「神奈子でしょ?咲夜たちに変なこと言ったの!」
「あー、どうだったかしら。まあ酒の席での冗談だし、一々気にすると疲れるわよ」
「あんたが言うか、あんたが!」
諏訪子の怒りのボルテージが上がっていく。
朝食を邪魔された形で諏訪子の相手をしている神奈子の目にも、少しずつ苛立ちがつのっていくのがわかる。
このまま放っておけばまた喧嘩になるだろう。
傍で見ていた早苗はそのことに気づき――しかし、特に慌てることもなく告げた。
「まあまあお二人とも…向こうに誤解があるのでしたら、後でわたしが解いておきますから」
「そういう問題じゃないの!」
「はあ」
「痛々しい表情をしたレミリアに『こ、個性的なネーミングセンスね』って言われたわたしの気持ちがわかる?」
なぜか無性に馬鹿にされたような気がしたのよ、と諏訪子は頭を掻き毟る。
「いいじゃない。名前が間違って伝わってるなら、本来の名前のセンスが貶されたことにはならないでしょ?」
「アホか!間違って伝わってること自体に問題があるの!」
「まあ、食べ終わったらその話は聞くから」
「何その態度!」
当然と言うべきか、二人の言い争いは止まらない。
しかし、最近の早苗はそこで取り乱すことがあまりなくなった。
程ほどにお願いしますね、と告げて席を立つ。
早苗は自分の食器を手早く重ねて持つと、洗い場へ歩いていった。
つい最近までは、早苗は自分の祀る二柱の神が喧嘩するのに耐えられなかった。
大好きな二人が互いを罵り合い、争う所を見るのは辛かった。それが一過性の口喧嘩であっても。
だけど「ある一つのこと」がわかるようになってから、それがあまり辛く感じなくなった。
勿論、神社や自分に被害が及ぶような大喧嘩は奇跡を起こしてでも止めるが。
ある日を境に二人に表われた「外見上の変化」に気づいた時、早苗はそのことが理解できた。
それは自分が二人を大好きなように、神奈子と諏訪子も、お互いのことが大好きであるということ。
(あんなものを見せられちゃ…ね。お二人とも何も言わないけど、気づいてないと思ってるのかしら)
外の世界での買い置きがそろそろなくなりそうな台所用洗剤を泡立てながら、早苗はくすりと笑う。
背後からは相変わらず神奈子と諏訪子の言い争う声が聞こえていた。
(犬も食わないなんとやら、ですよ)
宴会の次の日の朝だというのに、二柱の神は元気に喧嘩をしている。
二人の服装は一見いつもと変わらないものだ。
しかしよく見ると、幻想郷に来てすぐの頃にはなかった装飾品が、増えている。
それは二人の身体の同じ部分で、窓から差し込む朝日を照り返して輝いていた。
神奈子の左手の薬指には、鈍く光る鉄の指輪が。
諏訪子の左手の薬指には、絡み合う藤蔓を模した指輪がはめられていた。
「それにしても、八坂様は紅魔館…だったわよね?あそこの人たちに何を言ったのかしら」
洗い物を終えた早苗は、諏訪子と神奈子の言い争う声に耳を傾ける。
「ふざけんじゃないわよこの大蛇!何よ『二拝二拍一拝の語源は早苗の下戸っぷり』ってのは!」
「『二拝二拍一拝→にはいにはくいっぱい→二杯に吐くいっぱい』ってことね」
「ああなるほど、早苗っていつもビール二杯でゲロちゃん消化に耐えず…ってアホかーっ!!」
諏訪子と仲直りできた後も、神奈子はしばらくの間早苗に口をきいてもらえなかった。
「なるほど、それで喧嘩してたのねえ」
妖精じゃない方のメイドは、苦笑いを浮かべながら神奈子の話を聞いていた。
側の地面には、ボロクズのような何かが転がっている。
「ふん。…ま、スッキリしたわ」
「へえ」
「あなたのおかげで誤解も解けたし。お礼を言っておくべきかしらね」
その言葉に偽りは無い。
メイドのお陰で握り飯が元通りになっただけでなく、諏訪子の誤解を解くことができた。
その直後の諏訪子の発言に思わず怒り心頭。
スペルカード戦には絶対使えない、張れば無理ゲー間違いなしの不可避弾幕を張ってしまったが。
(謝る前にドンマイなんて言う方が悪いのよ)
今地面に横たわっている諏訪子が意識を取り戻せば、今までどおりの二人に戻れるだろう。
結局こんなことは、これまで幾度となく繰り返してきた喧嘩の一つでしかないのだ。
(そう、いつものこと…ええ、全くもって、いつものことだわ…)
しかし本当のところ、神奈子の心にはいささかの落胆があった。
あのままメイドが現れなければ、あのまま諏訪子の前で泣いてしまったのならば。
自分は、今の自分にできる「最も素直な」方法で、抱えていた思いを吐き出すことができたのかもしれない。
「あんまり感謝されてる感じはしないわねえ」
そんな神奈子の胸中を見透かしたようなメイドの言葉に、少しだけ肩が上がる。
「そう?…ま、神様なんてやってると、しおらしい態度のとり方ってのを忘れちゃうのかもね」
本当に神奈子の気持ちを把握しているはずはないのだが、どこか面白くない。
だから誤魔化すように、自嘲気味の笑みを浮かべて見せた。
「神様?」
「ええ。幻想郷じゃまだまだ認知度の低い、新参者の神だけどね」
本当は幻想郷以外で認知度が低くなったからここにいるのだが、それは言わないお約束だ。
「本物を見るのは初めてよ。…あ、あの閻魔様とやらも一応神様だったっけ?」
メイドは目の前に神がいるという事実に、驚きの表情を浮かべた。
「うぅ~…もう一人いるわよ…」
なんとか先ほどのダメージから回復してきた諏訪子が話に加わる。
先ほどの神奈子の攻撃がよほど効いているのだろう、妖精メイドに肩を借りていた。
「あら、あなたも神様だったの?てっきり娘さんか何かかと…」
「どういう意味よ」
「あはは、まあわたしは神奈子と違って若いし…と」
そこまで言ったところで、諏訪子は初めて神奈子の方を見る。
「神奈子…」
「何よ」
神奈子の質問に対し、諏訪子は一瞬気まずそうに視線を逸らすが、すぐに向き直る。
その表情はいつもの陽気で愉快なそれでなく、真剣そのものだった。
「…ごめん。疑って、悪かったわ」
そう言って頭を下げる。
諏訪子がわたしに頭を下げるなんて、一体何十年ぶりかしらね――そう思うと同時に、
本当は自分こそ、諏訪子に頭を下げて謝るべきことが幾つもあるのに、という感情も湧き上がってくる。
しかし、そんな気持ちを吐露するタイミングは、もう十数分も前に逃してしまっている。
「いいわ。あんたをからかって遊ぶのは趣味だしね。天狗がやらなかったら、わたしがやってたかも」
結局、神奈子の口から出たのは、そんな皮肉めいた言葉だった。
「む!…あ~ら、何を言ってるのかしら?わ・た・し・が、神奈子と遊んであげてるんでしょ?」
「へえ、そいつは初耳だった。こっちはずっと諏訪子『で』遊んでるつもりだったのに」
「……」
「……」
互いに憎まれ口を叩き、しばし睨み合う。
「まあそうね、神奈子」
「仕方ないけど、諏訪子」
二人の表情から怒りが消え、相手を見下すような笑みが浮かぶ。
「「今日はこのおにぎりに免じて許してあげるわ!!」」
図らずも、同じタイミングで、同じ台詞を言ってしまう二人。
その言葉を言い放った状態のまま、またしばらく見つめあった後で――ようやく視線を外す。
「真似しないでよね」
「そっちこそ」
相変わらず言葉に棘があるが、その表情と声はいつもの二人のそれだった。
喧嘩が止まったことに安堵しつつ、
神奈子は自分の「最重要課題」が先送りされたことに、心の中で溜め息をつくのだった。
※※※
メイドたちはとあるお屋敷の使用人であり、今日は主の命を受けて栗拾いに来ているということだった。
成り行きで同行することになった二人のメイドから、神奈子と諏訪子はそんな話を聞いていた。
「それにしても、随分とたくさん拾ったのね」
メイドが背負った籠には大量の栗が入っている。
本来の許容量を明らかに超えた数の栗は、メイドが歩く度に数個が転げ落ちる…のが自然なのだが、
どういうわけか一つとして籠から落ちることがなかった。
これも、握り飯を元に戻した人間(と、本人は言っていた)のメイド――十六夜咲夜の能力なのか、それとも、
多くの荷物を抱えても落とさない瀟洒な振る舞いこそが、メイドという職業の神髄なのか。
「うちは大所帯だからね。他のメイドが拾った分も合わせるともっと多いわ」
咲夜は背中の籠を振り返りながら、神奈子の言葉に答える。
「…ご主人様の分だけじゃないのね」
「お嬢様方の分だけ作るなんて逆に面倒よ。それに…」
「それに?」
「わたしも食べたいもの。せっかくの秋の味覚でしょう?」
当然じゃないの、といった様子で咲夜は言葉を続けた。
この人間は、およそ人間らしからぬ美貌と不思議な力を持ちながら、どこかとぼけたような一面を持っている。
彼女のそんなキャラクターは、この幻想郷の雰囲気にひどく似合っているように思えた。
(本当に、面白い人間の多いこと)
相手が神だと知って、邪険にするでも畏怖するでもなく普通に接するところからも、常人とは違うものを感じた。
こんな人間が大勢いるような幻想郷では、早苗の個性は埋もれてしまうかもしれない。
何か新しい要素を追加しなければ、あの子が現人神として信仰を集めるのは難しいかも…そんなことを考えていた。
「お嬢様って、人間?」
それまで妖精メイドと話していた諏訪子が、咲夜に話しかける。
「吸血鬼よ」
「吸血鬼!?じ、じゃあ、時間止めてナイフ投げてきたりするの!?」
「…そうね、そういう人もいるわ」
そんな他愛もない会話をしながら歩いている内に、大勢の少女の声がしてきた。
周囲にも栗の木が増えてきた。…この辺りで、咲夜の仲間のメイドが栗拾いをしているのだろう。
「吸血鬼って大食いなのね」
「だからこれは使用人の分も含めた量よ…むしろよく食べるのはそっち」
「ねえ、ところで」
景色が開けた。
そこは栗の木に囲まれた小さな広場のような場所で、多くの妖精が栗を拾っていた。
…いや、拾っていた、というのは正確ではない。
「あなたのところでは、拾った栗の数に応じて給料が決まる、とか?」
現在神奈子達の前では、目を血走らせた大勢の妖精たちが栗の入った籠を奪い合っていた。
「喧嘩?」
しかし、妖精メイド達が栗を取り合っているのではなかった。
メイド服を着た妖精が背負った籠を狙って、それぞれ異なる服装、つまり私服の妖精が攻撃を加えていた。
『なんで栗を盗もうとするの!』
『ふん、吸血鬼の軍門に下ったような連中と話す舌なんて持ってないわ!』
『満足でしょうねぇ!でもそれは、一生懸命栗を集めたわたしたちにとって、屈辱なのよ!』
『所詮は、紅魔館という看板がなければ何もできないヘタレ妖精どもめが!』
まさにその景観は、毬栗と弾幕が飛び交う大規模戦闘の場に他ならない。
「野良妖精ども…わたしたちの栗を奪う気!?」
咲夜は言うが早いか、籠を背負ったまま妖精たちのドンパチの中へ飛び込んでいった。
ここまで一緒に歩いてきた妖精も、咲夜に続いて戦闘に加わっている。
「えーと…これはどういうこと?」
諏訪子と共に取り残された神奈子は、首を傾げた。
「さあ」
諏訪子も頭の帽子と同じくらい目を丸くして、目の前の騒動を見つめている。
山道を歩いていたら、突然メイドと野良妖精の抗争に出くわした。
それは幻想郷に来て日が浅い二人にとっては、あまりに不可解な出来事だろう。
当然二人は知らない。
幻想郷中に悪戯好きな妖精が生息していることも、紅魔館と言う屋敷で、大勢の妖精がメイドとして働いていることも。
そして、メイドとして組織に属している妖精に反感を持つ野良妖精が、少なからずいるということも。
「咲夜たちが拾った栗を妖精が盗もうとしてる…だよね?」
目の前の状況だけを見れば、諏訪子の言うとおりだ。
「たぶん」
「どうしよっか」
「どうしよっかって…お取り込み中のようだし、わたしたちはここらで失礼する?」
弾幕バトルは幻想郷の花、日常の一コマと言ってよい。
先ほどの雛と橙の喧嘩には、秋姉妹を助けるために介入したが…今回は出しゃばる理由はないと、神奈子は思った。
諏訪子と二人で話したいこともあるのだ。
「だめよ」
しかし当の諏訪子は、ここから去ることを肯(よし)としなかった。
「だめって」
「咲夜にはおにぎりの恩があるわ。今こそその恩に報いるべき時じゃない?」
「まあ、確かにそれはあるけど」
また戦うの?と言葉を続けた。
戦乱を収める武運の神、と言えば聞こえはいいが、収める戦乱が毬栗の奪い合いでは格好がつかない。
そもそも、神が巷の喧嘩に一々割って入っていてはきりがない。
「いいえ…ここでは神奈子の神徳と人徳を一緒に示すべきね」
「人徳?」
「ええ。既に神奈子が山の住人達から崇め奉られる強力な神であることを見せ付けるのよ!」
「どうやって」
自分に集まる信仰を他者に対して示すなどということは、簡単なようでひどく難しい。
自分を信仰する者を一同に集める…最も手っ取り早い方法はそれだが、今すぐそんなことができるとは思わない。
神社で祭や宴会を企画し、山のあちこちにそれを宣伝して回らなければ、集まる者も集まらないだろう。
「いいえ、集まるわよ」
神奈子の考えを見透かしてか、諏訪子は自信たっぷりにその言葉を放った。
「山の妖怪の信仰心をなめちゃいけないわ。神奈子の一声は、一瞬で山の全域を駆け巡る!」
「んなわけないでしょ」
諏訪子がやたらと自分を持ち上げるのを、神奈子はなんだかむず痒く感じた。
何か裏があるというわけではなく、先ほどのように神奈子の背中を押そうとしているのだろう。
確かにこれまで神奈子は諏訪子の存在を隠し、妖怪達の信仰集めに奔走してきた。
自身が「永遠に眠る」と述べたように、外の世界同様、土着神としての諏訪子を神社に隠していた。
結果として、そうして神奈子が集めた信仰は諏訪子の力にもなるのだが、それで諏訪子が不満を持たないはずがない。
(どうして、あんたは)
信仰を集める器としての『建御名方神』という名は二人の共有物だが、
表立って妖怪達と親交を深めるのはいつも神奈子なのだから。
そしてそれとは別に、神奈子は建御名方神の妻という独自の「信仰の器」を持つが、今の諏訪子にはそれが無い。
土着神の存在は隠されてしまっているのだ。
なのに諏訪子は、神奈子の信仰集めを応援するような態度を取っている。
そこにも、神奈子は諏訪子に対する後ろめたさと、不可解さを感じているのだった。
「大体山だって広いのよ?仮にわたしの命令を聞いてくれたとして、そんなにすぐ情報が伝わるはずは無いわ」
とにかく、そんな諏訪子の行動は神奈子の心を弱く締め付けるものであり、今も乗り気ではない。
しかし諏訪子はそんな神奈子を尻目にすっかりやる気になっている。
「ふっふっふ…そこでまた、こいつの出番ね」
諏訪子は帽子を脱ぐと、逆さまにして地面に置いた。
「今度は何よ」
「まあ見てなさいって」
諏訪子はポケットからマッチを取り出して火をつけると、帽子の中に放り込んだ。
帽子の中からはすぐに煙がもくもくと立ち上る。
「…帽子が燃えるわよ」
「このルナ・チタ○ウム合金製ケロちゃんハットが燃えるはずないでしょ。萌えると評判だけど」
そんな材質でできていたのか。
紫色の煙は空高く上っていく。もしやこれは…狼煙?
「お察しの通り」
諏訪子はどこかから団扇を取り出し、ぱたぱたと帽子を扇ぎながら言った。
「この狼煙は『山の神より緊急指令!悪戯妖精に奪われた栗を奪還せよ』というメッセージを表しているわ」
「随分とピンポイントな狼煙ね」
「まあ見てなさい。今にこの狼煙を見た妖怪が力を貸してくれるわ」
諏訪子は自信たっぷりに言うが、神奈子には到底それで妖怪が集まってくるとは思えない。
溜め息をつきながら戦場に視線を向けると、相変わらず賑やかに栗の奪い合いをしていた。
※※※
「あっはっは!こーまかんのメイドの実力ってこんなの?大したことないわね!」
兵の人数は拮抗していたが、妖精一個体当たりの実力では野良妖精側が勝っている。
中でも、青い服を着た一匹の妖精の力は頭一つ抜けていた。
「そらっ、パーフェクトフリーズ!」
四方から放たれた妖精メイドの弾を空中に固定したかと思うと、大小さまざまな氷で弾幕を張る。
弾幕戦の相手がたまに現れる侵入者に限られるメイド達は勘が鈍ったか、同じ妖精の弾で次々撃ち落とされていく。
「おやしきでぬくぬく生きてるから弱くなるのよ!ま、あたいは最強なんだけど!」
野良妖精のリーダー格になっているのは、この妖精――チルノのようだった。
さて、メイドのなかで唯一の人間であり、そしてメイド側では最も強力であろう咲夜はどうしているだろうか。
「くっ…何なのこいつ、攻撃もしてこないくせに!」
「あぅ~…ごめんなさい、逃げるので精一杯で~」
咲夜と対峙している相手は、なぜか申し訳なさそうな顔を浮かべて逃げ回っている。
「そう思うんならさっさと降参しなさい!」
咲夜が放ったナイフを、緑の髪の妖精はきゃっと悲鳴を上げてかわす。
そして次の瞬間にはその場から姿がかき消え、咲夜の背後に現れる。
テレポート(瞬間移動)であった。
「でも、一応わたしも栗泥棒さんの仲間なので…」
「あっ、そう!」
こんな妖精ごときに、と毒づいて、咲夜は己の能力を発動させる。
それは時間を操る能力――咲夜は一瞬と一瞬の隙間、時間の止まった世界で動くことができるのだった。
申し訳なさそうな顔をした妖精の周囲にナイフを投げ、逃げ道を塞ぐ。
「動け」
そして止まった時は咲夜の言葉と共に動き出し、十数本のナイフが妖精に襲い掛かる。
(…終わりね)
しかしナイフが身体に触れる寸前で、またもや妖精の身体は別の場所へ移動する。
行き場を失ったナイフは空しく飛び散り、あるものは地面に、あるものは木の幹に刺さる。
「ど、どうも」
無傷の妖精が咲夜に頭を下げる。
その微笑ましい仕草が逆に咲夜の神経を逆撫でし、判断力を鈍らせるのだった。
「ああもう、イライラするっ!!」
彼女もまた、並の妖精とは力が一桁違う実力者、仲間内では『大妖精』と呼ばれ一目置かれる存在である。
その他、あちこちで野良妖精がメイド妖精を圧倒する光景が見られた。
物音一つ立てずに背後に忍び寄り、確実に一人ずつ敵を仕留める縦ロールの妖精。
確かに弾が当たったはずなのに、全く手応えを感じさせないツインテールの妖精。
メイド達が物陰から攻撃を加えようとしても、一匹の妖精がすぐにその存在を察知するため、成功しない。
「チルノ、そろそろ栗持って退散したほうがよくない!?」
光を屈折させるツインテールの妖精、サニーミルクがチルノに声をかける。
「まだよ!おっかけてこれないくらいボコボコにしないと、後ろからやられるわ!」
「へえ、あんたにしちゃ考えてるじゃない!」
そうやって話している間も、サニーミルクは数発の弾で狙い撃たれていた。
しかし弾はサニーミルクの身体をすり抜け、後方へ去っていく。
光の屈折によって、本来彼女がいる場所とは違う位置にその姿を映しているのだった。
※※※
「ちょっと、何も起こらないじゃないの」
次第に圧されていくメイドたちを前に、神奈子は苛立ちのこもった声を響かせた。
関わりたくないと思っていたものの、何もせずに事態を見守るのもいい気分ではなかった。
「うふふ、神奈子は聞こえない?遠くで応える妖怪の声が…」
「聞こえないわよ」
と、神奈子が言葉を返した瞬間だった。
比較的近くで戦っていた野良妖精が、どこかから飛来した弾に吹き飛ばされた。
「何?」
最初は、そこらのメイドが放った弾に当たったのだろうと思ったが、様子がおかしい。
野良妖精たちは死角から放たれた弾に狙い撃たれ、次々と倒れているのだった。
そして周囲のどこを見ても、その弾を撃った主の姿は見えない。
「来たわね」
諏訪子が不敵に微笑む。
「どういうことよ」
「だから狼煙に応えた妖怪よ。ずーっと遠くから狙撃してるの」
「…まさか」
「そのまさか。言ったでしょ?神奈子は山の妖怪から崇め奉られてるんだから」
そう言われてすぐに信じることはできなかったが、現に目の前で野良妖精がばたばたと倒れている。
確かにこれは遠くから何者かが狙撃を行っていると考えるべき光景、ではあるのだが。
※※※
「にとりちゃん、ズルしないでね」
「何のことを言ってるの?」
「だから、わたしが妖精を撃ってる間に、駒を動かさないでって言ってるの!」
妖怪の山、九天の滝の裏側。
通常のものより一回り大きな将棋盤の側で、二人の少女が会話していた。
一匹は白銀の髪をなびかせた妖怪で、狙撃銃(!)のスコープを覗きながら傍らの少女に話しかけている。
にとり、と呼ばれた河童の少女は、けらけらと笑いながら天狗の少女に狙撃銃の弾を渡した。
よく見ると、なんとそれは短く切られた胡瓜である。
「そんな卑怯な真似するわけないじゃん。何か賭けてるわけでもなし」
「え?晩ご飯賭けるって言わなかったっけ?」
「言ってないわよ」
「言ったわよ!…あ、もしかして、今負けそうだからって誤魔化そうとしてない?」
少女は声を荒げながらも、手元を一切狂わせず狙撃銃に胡瓜弾を込め、遥か遠くの妖精を狙い撃つ。
滝の陰から放たれた柔らかい胡瓜弾に殺傷能力はないが、確実に妖精の急所をとらえ、悶絶させていた。
彼女の名は犬走椛、『千里先まで見通す程度の能力』を持った白狼天狗である。
剣と盾を扱う一方、能力を生かした哨戒や狙撃もこなす山の警備隊のエースであった。
「してないしてない。椛は疑り深いなぁ~…お姉さん悲しいよ」
「わ、ちょっと、くっつかないで!手元狂う!」
待機中の暇潰しに、友人のにとりと大将棋をしていたが、麓近くから立ち上る狼煙に気づき、行動を開始した。
数日前に「守矢の神社の使い」と名乗る少女に教えられた合図であった。
そして余談ではあるが、弾に使用されている胡瓜は消費期限を過ぎて食べられなくなったものばかりである。
決して、食べ物を粗末にしているわけではない。
「大丈夫大丈夫。河童の技術の粋を集めて作られたこの狙撃銃、通称『ハスノハバクダン』をなめちゃいけない」
椛が使っているのは、狙い撃ちに特化した河童謹製の狙撃銃(なのになぜか名前に『バクダン』とついている)。
突撃銃タイプの姉妹品『キューリバクダン』、光学兵器の『カッパービーム』など、シリーズ多数。
「こ~んなことをしても、狙いは正確そのものよ」
にとりは椛の首の下に指を這わせると、優しく撫で回す。
「わふ~…や、やめて、そこ弱いの…」
「はいそこで決め台詞~」
「そんな無茶な…わ、わかった、言うからお腹撫でないで…」
今日の勝負もうやむやか、などと考えながら、椛は再び狙いを定め、言った。
「い…犬走椛、目標を狙い撃つ!」
※※※
「わたしなりに色々コネを作っといたのよ。河童とか天狗とか」
「…あんたのこと、まだ妖怪たちに紹介してないけど」
「そこは『山の上の神社から来ましたー』とか言っときゃ大丈夫」
神奈子の名前って結構強いのよ?と続ける。
いっそ諏訪子自身が「神社の神である」と名乗ってしまえばよかったのに…神奈子はそう思った。
…いや、これまでそうさせなかったのは自分ではないか。
また表情を暗くさせる神奈子の胸中など知らぬとばかりに、諏訪子は空を見上げる。
「ほら、今度ばかりは信じざるを得ないんじゃない?」
諏訪子の指差す先。
神奈子も何度か話した事のある鴉天狗が、カメラ片手に微笑んでいた。
※※※
「あやややや…こいつはとんだスクープに遭遇したものね」
これも八坂様のご利益でしょうか、と射命丸文はつぶやいた。
眼下では、紅魔館のメイドと野良妖精が争っている。
これほどの大規模な戦闘はそうそうお目にかかれるものではない。
しかもメイドの中には、先ほどシャッターチャンスを逃した瀟洒なメイド長も混じっている。
野良妖精側には…幻想郷の少女の中でも文のお気に入りナンバーワン、氷精のチルノの姿があった。
「うふふ…神の名の下において、チルノさんを激写しまくりってことですか…素晴らしい!」
文の精神が取材モードに切り替わる。
しかしその表情は、事件を追うジャーナリストというよりは、獲物を狙うハンターと言ったほうが良い。
『なんか出た!』
『なんか気持ち悪い笑顔を浮かべた天狗がこっち見てるわ!』
文の姿に気づいた数匹の妖精が、牽制の弾を撃ってきた。
軽くいなしながら、文は不敵に微笑む。
「それでは参りましょう…射命丸文、介入行動に入ります!」
幻想郷ナンバー1の高速飛行で、文は戦場に飛び込んでいった。
※※※
「スター!なんか遠くから撃たれてる!敵の場所はわかんないの!?」
「わかんないのよ!レーダーの届く範囲の外から撃ってるみたい!」
動く物の気配を探る程度の能力を持った妖精・スターサファイアは、
自身の高性能レーダーに引っかからない敵にうろたえていた。
もしかしたら、次に狙い撃たれるのは自分かもしれない…その恐怖が、察知できる敵の存在すら見落とさせる。
(もう…こういうのには関わりたくないって言ったのに!)
やがて、察知できても反応できない、超高速の天狗という新たな恐怖がスターサファイアを襲うのであった。
※※※
「さあチルノさん、こっちに目線ください!うふふふふああもう最高!」
「またあんたか!あっちいきなさいよカメラ女!」
文はカメラのレンズを覗いたまま、チルノの弾幕を巧みに避けていく。
加えて上下左右前後斜めあらゆる方向からシャッターを切り、チルノの弾幕を消し去っていく。
防御が手薄になったチルノに、メイドたちの撃った弾が襲い掛かる。
「何言ってるんですチルノさん!あなたがそんなにかわいいからああ違う泥棒はいけないことだからお仕置きですよ!」
「うっさい!そこで凍ってろ!ダイアモンドブリザード、くらえー!」
しかしチルノの実力も相当なもの、襲い掛かる弾を巧みにかわしながら弾幕を展開する。
それは戦術というよりはチルノに備わった天性の感覚の賜物、本能とも言うべき弾幕の才能であった。
妖精にしては少々強過ぎるその力は、閻魔のお墨付きである。
「本当にチルノさんを見てるとわくわくが溢れて止まらないですよ…今度お家にお邪魔していいですかいいですよね」
「こっちくんなー!!」
そんな状況にあって、唯一冷静なのがサニーミルクであった。
(うーん、旗色悪くなってきたなあ…でも今回は、仲間ほっといてスタコラサッサとは行かないし…)
普段はルナチャイルド、スターサファイアと共に三人で行動する事が多い彼女だが、
今回の悪戯は、妖精仲間を大勢集めて実行した大作戦である。
山の栗が紅魔館のメイドにとり尽くされるという噂を聞き、独り占め許すまじとばかりに襲撃を敢行したのだ。
…というのは建前で、主な動機は私怨だ。
彼女達には過去に紅魔館に忍び込み、あえなく見つかった挙句「虫狩り」と称して散々な目に合わされた経験がある。
その時以来密かに紅魔館への仕返しの機会を伺っていたが…今回の噂は渡りに船だった。
周りの妖精仲間をうまく煽動し、計画に巻き込むことに成功した。
とにかく、そんな作戦の立案者の一人である自分が率先して逃げれば、後で針のむしろだ。
「しゃあない、ちょっと頑張りますか!」
サニーミルクは精神を集中させ、今の自分に持てる全力で能力を発動させた。
実に半径十数メートルにわたって光が屈折し、その場にいた全員の狙いが狂う。
味方の攻撃も当たらなくなるが、それでも敵の優勢を止めるメリットは非常に大きかった。
「あれー?ちょっと、なんか弾が全然当たんなくなってきたじゃないの!」
「そうですねぇでもチルノさんの姿が見えることには変わりないので写真撮る上で全然問題なしですようふふ」
「サニー、やりすぎでしょこれ!…ま、助かったけど!」
「これはこれでレーダー狂いまくりで不安なんだけど!うわ、なんか触った!?」
「何よこれ!ついにナイフの狙いまでおかしくなってきたわ!ああああイライラするううう!!」
「あはは、サニーちゃんかな…あの、そろそろ諦めてくれると、嬉しいんですけど…」
大妖精は苦笑いを浮かべながら咲夜の顔色を伺う。
「ふざけんじゃないわよ!あんたみたいな二面中ボスレベルに負けちゃ、お嬢様に合わす顔がないわ!」
「うう、しばらく湖の近くで遊べなくなりそうだなあ…」
※※※
一方、滝の裏の椛とにとりも異常に気づいていた。
「なんか変…当たってるはずなのに誰も倒れなくなっちゃった」
「むう…もしかして、これは…」
にとりは望遠鏡で妖精たちを見ながら唸っていた。
「どうしよう…」
椛はスコープから顔を外してにとりの方へ向き直る。
しかしそこでにとりが浮かべている表情を目にして、ぎょっとした。
「見つけた…太陽光の屈折による自然かつ完璧な光学迷彩…えへ、えへへへへ」
「に…にとりちゃん?」
「この技術があれば、新型の光学迷彩スーツが作れる…ああ、あの妖精さんだね…河童のポロ六感でわかるよ…」
「ぽ、ポロ六感!?」
河童のポロ六感とは、河童がセンチメンタリズムな運命を感じられずにはいられなくなる謎の感覚である。
にとりは立ち上がる――と同時に、空中に飛び上がる。
「あのコ欲しい!今度こそ人間にも見破られない完璧な光学迷彩スーツを…よっしゃあバラすぞおおお!!」
「にとりちゃーん!?うわっ速!?ちょっと待ってよ~!」
無数の工具を手に、目をらんらんと光らせて飛んで行くにとり。
ああなった時のにとりは目的のために何をしでかすかわかったものではない。
本来の目的の「妖精をやっつける」ということに、留まるはずがない…止めなければ!
「も、もうっ!晩ご飯おごりだからね!」
椛は傍に置いてあった剣と盾をつかむと、にとりを追って空に飛び上がる。
「わたしに剣を使わせるとは!!」
※※※
「うーん、妖精さん達も思ったより手強いね」
諏訪子は楽しそうに事の成り行きを眺めていた。
「どうするの。もうこれ以上妖怪も来そうにないし…てゆーかこっちまで来たのってあの天狗だけ?」
「ま、あの狼煙のメッセージもそんなに多くの妖怪に教えたわけじゃないしね」
「まあいいけど。…しかし、確かに妖精もあなどれないわね…あれじゃどれだけ弾幕張っても当たらないわ」
思わず感心する神奈子。
一方諏訪子は未だにやにや笑っている。
「何よ、まだ何かあるの?」
「この狼煙はわたしが作ったもの…当然、身内のものはこいつを知ってる」
「わたし知らなかったんだけど」
「神奈子にはサプライズってことで黙ってたのよ」
地面に置かれた諏訪子の帽子からは、未だに狼煙が立ち上っている。
「あの子は森に行ってるのよね。距離を考えれば、もうすぐ来る頃かしら…」
「まさか」
「ふふ。わが神社の現人神にも活躍の場を作ってあげないとね」
風の色が変わってきていた。
それは神奈子にとって、とても馴染み深い色である。
※※※
「ねえ、なんか来てるわよ!」
スターサファイアは、魔法の森の方角から飛んでくる何者かを察知した。
「ほっときなさいよ!どうせ何が来たところで、この空間では大したことはできないわ!」
縦ロールの妖精・ルナチャイルドは、当たれば幸いとばかりに適当な方向に弾を撃つ。
主戦力のチルノと大妖精がそれぞれ強敵を相手にしている状況は不安であったが、
サニーミルクが作ったある種の「結界」ともいうべき光屈折空間にいる限り、すぐにやられることはない。
やがて、ルナチャイルドの目にも新手の姿が見えてきた。
人間であった。
「何よあんた!人間の出る幕じゃないわよ!」
「そうですね、でも」
その人間は空中で停止し、ルナチャイルドの言葉に律儀に返事をした。
「わたしの神様がお呼びになった以上は、やるしかないので!」
光の屈折する空間に、躊躇うことなく飛び込む。
(この状況がわかってないわね…ま、こっちの虚像相手に独り相撲をとっててもらいましょ!)
ルナチャイルドは特に構える事も避けることもせず、相手を迎え撃つ。
「東風谷早苗、目標を駆逐します!」
早苗と名乗った人間は、五傍星形の弾幕を展開した。
当然その狙いは光の屈折で作られた虚像を向いており、その本体に当たるはずがない。
「あはは、当てられるもんなら当ててみなさい!」
一方ルナチャイルドは、早苗が光の屈折する範囲の外にいた位置から現在の早苗の「本当の位置」を推測する。
運がよければ、その位置に撃った弾が早苗の本体に当たるだろう。
そう思って弾を撃つべく構えを取った瞬間、
「どりりゅっ!?」
ルナチャイルドの身体を衝撃が襲った。
(当たった!?何で!?)
体勢を立て直しながら早苗を見る。
「あ、あれ…なんかおかしいな…あ、でも当たってる…」
早苗自身、光の屈折に戸惑っているようだった。
それでいて、彼女の弾幕はほとんど偶然にしか見えないやり方で、ルナチャイルドの身体をとらえたのだ。
周囲を見ると、仲間の妖精たちも「なんとなく」早苗の弾に撃ち落されている。
(何事!?)
早苗は首を傾げながらも、次の攻撃に移ろうとしていた。
「このおっ」
ルナチャイルドは先手必勝、とばかりに弾幕を張る。
不意を突かれた早苗は、思わず両手で顔をかばう。
(何こいつ?全然素人じゃないの!!)
しかしルナチャイルドが放った弾幕は、おそらく早苗の本体に当たらなかったのだろう、虚像の向こうに消えていった。
早苗の虚像は元気に攻撃を再開していた。
そして、そうして放たれた弾幕は、「なぜか」「偶然」妖精たちの本体をとらえるのだった。
「何なのよこれ!…こんな偶然ってあるの!?これじゃまるで…き、きせくぎゅっ!?」
撃ち落される妖精たち、ルナチャイルドも例外ではない。
「あ、また当たった…もしかしてわたし、できる子…?」
「そうよー」
地上から、諏訪子が手を振って声をかける。
「自信持って早苗ー。あんたの奇跡の力はほんとは強いんだからー!」
「洩矢様…はい!わたし頑張ります!」
早苗は元気よく頷くと、まだ大勢生き残っている妖精たちに向き直った。
「さあかかってきなさい妖精さんたち!奇跡を起こす神の力を見せてあげるわ!そう…」
外の世界にいた頃、まだ敗北を知る前の自信に溢れた「祀られる風祝」の姿がそこにあった。
「わたしが神だ!!」
※※※
「早苗の奇跡ってああいう力だったっけ?」
「うーん…よくわかんないけど、上手く行ってるからOK!」
そうね、と返事をしながら神奈子は早苗の背中を見る。
何にせよ、早苗が自信を取り戻してくれたのならいいか…そう前向きに考えることにした。
「あと、予想外のオマケがついてきたみたいよ」
「オマケ?」
「ええ。ダメ押しには持って来いね…あと、もう一人」
諏訪子はまたも、空を見上げて微笑む。
※※※
「うわ、またなんか面倒臭いのが来たなあ…」
サニーミルクは相変わらず能力を使って光を屈折させながらつぶやいた。
突然現れた人間の弾幕に、少しずつではあるが仲間が次々に倒れていく。
いっそ能力を解除して加勢するか…そう思い始めていた。
「サニー、そっちになんか行った!」
「え?」
スターサファイアの指差す方を見ると、ミサイルのごとく自分に殺到する人影があった。
「うわ、な、何!?」
驚いたサニーミルクは、思わず能力を解除してしまう。
「人呼んで、超妖怪弾頭!!」
「か、河童!?」
「初めましてかしらねえ…妖精さん!!」
その人影とは、サニーミルクの能力を目にして、いても立ってもいられなくなったにとりであった。
「何よあんた!ああもう一回光曲げなきゃなのに…」
「あなたの光学迷彩に、心奪われた女よ!」
サニーミルクが反射的に放った弾を避け、にとりは凄いスピードで飛び込んでいく。
指の間から様々な工具を突き出し、興味深い能力を持った妖精を解剖せんと接近するのであった。
「避けた!?」
「敢えて言わせてもらうわ…河城にとり、通称谷カッパのにとりであると!!」
チュィィィンと不快な音を立てて回転するドリルを押し付けてくる河童に、サニーミルクは名状しがたい恐怖を覚えた。
やばい。こいつに関わると、尻小玉を抜かれる以上の恐ろしい目に合う気がする。
「うひひひ…手土産に、そのきれいな羽根だけでももらっていくわよ!」
「いやあああああああああ!?」
もはや能力を使うどころの話ではなかった。
「さあチルノさん、ここらで靴下でも脱いでみましょうか!」
「最初から裸足よ!」
チルノと文の戦いは続いていた。
妖精の中では一際強い力を持つチルノは、山の実力者の文と戦っても後れを取らない。
巨大なつららをいくつも作り出し、文の頭上から降らせる。
文も自分のスピードに振り回されることなく、正確な動きでチルノの攻撃をかわしていく。
互いに様々な攻撃を繰り出していくが、それをひたすら繰り返す現在の状態は、実質膠着状態であった。
しかし、二人が戦っているその上空、さらに高い位置から見下ろす者があった。
「ふふ、今日もやってるな」
茸を求めて森にやってきた早苗を案内していた魔理沙であった。
早苗が狼煙で呼び出された際、面白そうだからと同行してきていたのだった。
「ウチの分社の神様の頼みとあっちゃ、断れないぜ」
実際に呼ばれたわけではないが、呼ばれてないのに来るからこその霧雨魔理沙である。
「そして、巻き添えを作るがゆえの魔砲だぜ」
魔理沙はすでにミニ八卦炉を構え、チルノに狙いを定めている。
チルノと、ついでに文は互いに相手しか眼中になく、上空の魔理沙に気づかない。
「霧雨魔理沙、目標を破砕するぜ!!」
その声と共に、強い光の帯が地面に向かって真っ直ぐに放たれる。
空中から竜のごとき豪快さと、流星のような速度で降り注ぐ魔砲の一撃。
「どうしてか、あなたの前ではいつだって敬語になってしまいますよ!」
「ふん、あたいの子分になりたいっての!?そのパシャパシャするのをやめたら考えてもいいわよ!」
光に飲み込まれるその瞬間まで、文とチルノはお互いから視線を外すことはなかった。
そして駄目押しの二発目の光が消える頃――ある意味仲良しな妖精と天狗の姿は、そこになかった。
※※※
その後、サニーミルクの能力の恩恵を受けられない妖精たちは山の住人(+α)の攻撃の前に総崩れとなり、
妖怪達が味方であることに気づいたメイド妖精達の反撃もあって、それ程時間をかけずに勝負がつくこととなった。
「全く、手こずらせてくれたもんだわ」
負けた野良妖精達は手足を拘束され、地面に転がされていた。
咲夜の表情は自軍の勝利を喜ぶそれではなく、あからさまに機嫌の悪さを表面に出していた。
「ねえ?」
ぎろり、と音がしそうな鋭い視線を向けられた一匹の妖精が「ひっ」と短い悲鳴を上げて目をそらす。
「なんだなんだ、今日はいつになく厳しいじゃないか」
魔理沙が茶化すような声色で咲夜に声をかけた。
「誰のせいよ!」
「へ?いやいやいや、なんでわたしに怒りの矛先が向くんだよ?」
普段は冷静沈着な咲夜が珍しく語調を強め、魔理沙に詰め寄る。
まさか自分が怒られるとは予想していなかった魔理沙は戸惑い、思わず後ずさってしまう。
「あんたがぶっ放したマスパに巻き込まれたせいで、あのうざったいテレポート妖精を仕留めそこなったのよ!」
魔理沙の魔砲はチルノを狙ったものだったが、結果として、文を始め周囲の者を大勢巻き込んだ。
元々広範囲な攻撃を得意とする魔理沙にしてみればいつものことだが、
今回は「周囲に味方がいる」という点で普段と異なる状況下にあった。
確かに乱戦状態とはいえ、味方ごと吹っ飛ばすミニ八卦炉の魔砲攻撃は少々問題があったかもしれない、のだが。
「あれはマスタースパークじゃなくてドラゴンメテオだぜ!てゆーか勝手に略すな!」
魔理沙は逆ギレ気味に強い口調で言葉を返した。
「ふん、馬鹿の一つ覚えの直線極太レーザーでしょ?どれも一緒よ」
「何だと!」
「あら、やる気?」
自慢のスペルカードを馬鹿にされていきり立つ魔理沙、不完全燃焼だった闘志の矛先を見つけ不敵に微笑む咲夜。
一触即発、新たな戦いの始まりを予感させるかのように空気が張り詰めるが、
「はいはい、仲間割れしな~いの。妖精さん達が逃げちゃうわよ?」
二人の間に諏訪子が割って入った。
「…っ、と…それもそうね」
「あー?なんで諏訪子がこんなところにいるんだ?」
二人はそれぞれ違った反応を示しつつも、互いに矛を収める。
「うふふ、わたしも一応山の住人よ?逆にわたしのほうが、あんたがここにいる理由を聞きたい」
「愚問だぜ。麓のヒーロー魔理沙さん、不毛な争いを根絶するために武力介入ってやつだ」
ヒーローというよりは私設武装組織とでも言うべき強引な方法で争いを止めた彼女だが、悪びれた様子はない。
「知り合い?」
咲夜は魔理沙と諏訪子の顔を見比べながら尋ねる。
「ま、ちょっとね。それより咲夜、栗が返ってきてるわよ?」
諏訪子が指差す先で、メイド妖精達が地面に転がった栗を回収し、籠に入れなおしていた。
野良妖精達ともみ合った際に破損したのか、穴が開いた籠や、上半分がそっくりなくなってしまっている籠がある。
疲れ切った様子のメイド達は、だるそうな手つきで栗を拾っては背中の籠に突っ込んでいる。
「なんか既にイガごと焼き栗になってるものも見えるんだけど」
再び魔理沙をじろり、と睨む。
「料理する手間を省いてやったんだ。ドラゴンマロンとでも名づけるか」
「赤点ね。皮むきもあく抜きもすっ飛ばして料理も何もあったもんじゃないわ」
捨て台詞を残し、咲夜は栗の回収に加わった。
「やれやれ。こいつは後日補習ってことか」
「栗料理の講習でも受けるの?」
諏訪子の言葉に、魔理沙はにやりと笑って答える。
「ああ。味見を中心にな」
一方神奈子の目の前では、勝者が無抵抗の捕虜に暴行を加えるという悲惨な事態が起こっていた。
「ねえにとりちゃんやめなよー。いくら妖精でも解剖したら死んじゃうかもよ」
「抱きしめたいわぁ…妖精さん!」
にとりは椛の言葉に耳を貸さず、捕らえられたサニーミルクの身体を好き勝手に弄り回していた。
サニーミルクはというと、先ほどから抵抗しても無駄だと悟って「死んだふり」をしてやり過ごそうとしている。
「うふふ…まるで眠り姫ね」
もちろん野生の熊同様、死んだふりが通用するほど河童は甘くない。
にとりの手には既に、鈍い光沢を放つ、種類も大きさも様々な工具が握られている。
じっと目を閉じて死体を演じる妖精の目にはそれが映らない…彼女の運命の行く末や、いかに。
「いい茸は見つかった?」
「はい。ちょうどさっきまで、魔理沙に色々茸の種類を教わってまして」
目の前の光景をさして気にも留めずに会話をする神と風祝。
早苗の話によれば、狼煙に気づいた彼女を追って『なんか面白そうだぜ』と魔理沙がついてきたとのこと。
「向こうにとった茸を置いてますので。後で持って帰りますね」
久々に自分の強さを実感する事ができたからか、早苗は機嫌がいい。
「急がなくていいわよ。いい機会だし、あの子と親睦を深めるのも悪くないでしょ」
「ありがとうございます!そうそう、魔理沙の家に面白い動物がいて…」
このように事態は一件落着、という雰囲気が漂う一方、声を潜めて笑い合う二人の妖精がいた。
当然この二人も拘束され捕虜となっているわけだが、「あること」に気づいている点で他の妖精とは違っていた。
その二人とは、ルナチャイルドとスターサファイア。
(ねえ)
(うん)
二人は捕まって一塊にされている妖精達が「全員ではない」ことに気づいていた。
即ち、未だ捕まっていない仲間がいる。
その仲間は二人――しかも幸いなことに、実力の面では最も頼りになる二人であった。
(チルノはどっかに吹っ飛ばされてる可能性もあるけど)
(だとしても向こうに気づかれてない。あいつが意識まで飛ばされてない限り、期待はできるわ)
(大妖精は?)
(そうね、ヘタするとその辺に――あ、ほら!)
スターサファイアは少し離れたところに生えた栗の木に視線を向ける。
その先には、木の陰から仲間達の様子を伺う大妖精の姿があった。
彼女もスターサファイアとルナチャイルドの視線に気づいており、この後どうするかを考えあぐねている様子だった。
(さすがね)
(ええ。しかもほら、見なさいルナ…あいつ、可愛い顔してなかなか抜け目ないわよ)
大妖精の傍らには、栗が大量に入った籠が一つ置かれていた。
魔理沙の攻撃後のどさくさに紛れて確保していたのだろう。
本来はメイド達が集めた栗を全て奪うのが目的だったが、一籠分だけでもかなりの量がある。
このチャンスを逃す手はない。
(行って!あいつらが気づかないうちに!)
(あとで山分けね!もちろんあなたの取り分が一番多いわ)
二人は視線と口の動きだけで大妖精にメッセージを送る。
大妖精はすぐに二人の意思を汲み取ったのか、にっこりと笑って頷いた。
地面に置かれた籠を背負うと、テレポートをするために意識を集中させ…
「あ!よかった大ちゃん、無事だったのね!」
…ようとしたところで、氷精の無邪気な叫びが響いた。
その場にいた全ての者に聞こえるような、よく通る大きな声で。
「ち、チルノちゃん!?」
「みんなのぎせいを無駄にしないためにも、あたいたちはこの栗を必ず持って帰るのよ!」
服や髪のあちこちが焦げているが、チルノは概ね元気そうであった。
妖精の治癒力恐るべし。
「うん、ええと、そうなんだけどね、チルノちゃん…」
「大丈夫、大ちゃんのテレポートならすぐでしょう?」
どこまで飛ばされたのかは定かではないが、先ほど仲間達が交わしたアイコンタクトのことなどチルノが知る由もない。
大妖精が確保していた籠に飛びつくと、早く早くと背中から彼女を急かす。
「ぶ、ぶち壊し…」
「あいつにちょっとでも期待したわたしが一番馬鹿だったかも…」
作戦を台無しにされ、ルナチャイルドとスターサファイアはがっくりとうなだれる。
大妖精とチルノの存在が敵にばれた。状況から考えて、彼女達もすぐに捕まってしまうだろう。
何せ自分達を倒した妖怪達に加え、紅魔館のメイド衆まで、その場の全員がチルノに視線を注いでいたのだ。
余談だが、この出来事でにとりの動きが止まったことで、間一髪、サニーミルクの命は救われた。
「チルノちゃん、声、大きいよ…」
温和な性格のわりに頭が切れる、弾幕戦の実力もなかなかの大妖精だが、押しが弱いのが玉にキズだった。
同時にその控えめさが長所でもあるが…今回のように、チルノの無鉄砲な行動に振り回されることも少なくない。
「え?」
『確保ーッ!!』
咲夜の号令と共に、メイド妖精達がチルノと大妖精に向かって殺到した。
チルノよりも一呼吸分早く我に帰った大妖精は、すぐにテレポート能力を発動させる。
(早く逃げて!)
(もういっそチルノとか置いてっていいから!)
ルナチャイルドとスターサファイアも必死になって目で訴える。
勿論大妖精がチルノを放っておくことなどできず(最初は味方全員を救うことさえ考えていた)、チルノに声をかける。
「チルノちゃん、わたしに触って!」
「え?う、うん!」
紅魔郷二面でもお馴染み、大妖精のテレポート能力。
ここ幻想郷においても、空間転移能力の王道ルール「能力者に触れれば一緒に転移」は適用される。
「くっ…あのテレポート妖精、やっぱり生きてたわね!」
咲夜は歯噛みする。
圧倒された、ダメージを受けたということはないが、自分の攻撃を尽くかわした敵を仕留め切れなかったことは、
完全で瀟洒な従者を自称する彼女にとって許されない事実なのだろう。
「急いで捕まえなさい!どこに消えるかわかんないわよ!」
命令を放ちながら、咲夜自身もナイフを握る。
「行くよ、チルノちゃん!」
「うん!」
そしてチルノの最後の一言と共に、二人の姿はそこから消えた。
「湖の横の隠れ家まで一っ飛びね!」
「「行き先言い残して行っちゃったー!!」」
ルナチャイルドとスターサファイアの悲痛な叫び声が響く。
最後の最後までチルノは花映塚マニュアルの画面説明の言葉通りな頭の悪さを発揮し続けたのだった。
そしてそんなチルノの消えた木陰を、別の木陰から一人の天狗が見ている。
「うふふふふふ…そんな空気の読めなさも素敵ですよ、チルノさん…」
こちらもチルノ同様あちこちにドラゴンメテオの直撃による焦げ痕がある。
さすがに文はチルノのように短時間でダメージを回復することはできなかったのか、
「さあ、こっち、に、目線、を…」
その一言を残し、その場に崩れ落ちて動かなくなった。
「それで、どうするの?」
諏訪子はあと一歩のところで敵を逃し、唇を噛む咲夜に尋ねた。
「追いかけるに決まってるでしょ」
「湖まで?」
「湖まで」
メイド達はようやく栗の回収を終え、帰り支度を始めている。
「ここらで湖って言ったらうちの傍にしかないからね。ほんとあのお馬鹿妖精に感謝って所かしら」
実は最近幻想郷にはもう一つ新しい湖ができたのだが、咲夜はまだそのことを知らないようだった。
「ほらにとりちゃん、帰るよー…あれ?あそこに倒れてるのって、文さん…?」
「よし、妖精さんを持って帰って徹底的に光学迷彩の謎を解き明かすわよ!」
「それ誘拐ね」
椛とにとりも、元いた場所へ戻ろうとしていた。
にとりは縛り上げたサニーミルクを滝まで持ち帰ろうとしていたが、椛の冷静な制止によってその行為は未遂に終った。
このままにとりの好きにさせたら、色々な意味で年齢制限を設ける必要がある展開が待っていることは間違いないのだ。
そんな二人の横で、魔理沙はその辺のメイドを捕まえると、
「この栗は何に使うんだ?いつ食べるの?」
などと、後で食べに行く気満々といった様子で質問をしている。
咲夜のようにやや殺気だっている者もいるものの、場の雰囲気は既に事態の終了を感じさせるものとなっていた。
確かに栗の籠が一つ奪われ、二人の妖精を取り逃がしはしたが、大部分の栗はメイド達の元へ返っている。
「ま、おにぎりの件の恩返しとしてはこんなところかしらね」
逃げた妖精たちの行き先もわかっている。後はメイド達が勝手に何とかするだろう…神奈子はそう思った。
「お握り?」
「ああ、何でもないわ。…お弁当、おいしかったわよ」
疑問符を浮かべる早苗に、神奈子は笑顔を向けた。
「本当ですか!?」
早苗は嬉しそうな笑顔で、それに答える。
「ええ」
辺りは未だ騒然としていたが、自分達はここで退散するか、と思った。
呼び出しに応えてくれた妖怪達には一応、自分からもお礼を言って…そこで、神奈子は何者かに腕を掴まれた。
「ほら、何ボサッとしてんの神奈子!」
「え?…ちょ、ちょっと!」
諏訪子は神奈子を引っ張ると、手近にあった岩の上に登った。
卓袱台ほどの高さのその岩は平坦で、ちょうど上に人が二本の足で立つことができるようになっていた。
俗に言う「お立ち台」の上に二人で乗ったような状態である。
「は~いそれでは皆さん注目注目~!」
諏訪子は大きな声を上げ、周囲の者の視線を集中させた。
そのまま話し始める――のではなく、神奈子を自分の前に立たせる。
(ほらっ)
何か神様らしいことでも言え、ということなのだろう。
正直、自分は事の成り行きを見ていただけなのだから、話すべきことなどない、というのが神奈子の本音だ。
しかし妖怪達はあくまで自分の命令に従ってここにいるわけで…やはり場を収める一言が必要なのだろうか。
いや、このまま放っておいてもこの場は勝手に終っていく、そう思っていたのではなかったか…。
(ほーら、神奈子)
(い、いきなりこんな所に引っ張り出されても話なんか思いつかないって)
背後から小声で話しかけてくる諏訪子と会話する。
(さっきのお説教みたいにこうガツーンと)
(今度はさすがに人が多すぎだって!)
ほとんど人ではないが。
神奈子はここ百年近く、大勢の観衆の前に姿を現わしたことがない。
緊張しているというわけではないが、ありがたい神託など突然ひねり出せるようなものではない。
先ほど雛と橙に対してかけた言葉は、結局のところ、単に二人の喧嘩に対して思ったことを口にしただけである。
今も思うところは勿論あるが…これに関しては「人のものを取ったら泥棒!」これで終わりではないか。
(もう…神奈子の神徳を見せつける一大チャンスだよ?)
そもそも諏訪子が山の住人達をメイドと妖精の争いに武力介入させたのはそのためである。
神奈子が言わないなら自分が、とでも言いたげな表情で急かしてくる。
(そんなこと言ったって)
神奈子は自分達に注目している周囲の者と、背後の諏訪子を交互に見ながら焦りを募らせていた。
外の世界にいた頃、テレビで見たお笑い芸人を思い出す。
司会者に突然『面白い事をやって』と言われ、今の自分のようにしどろもどろになっていた青年の困惑した顔を…。
いっそ何か一発芸でもかましたら意外とウケるんじゃないか、と神奈子が半分自棄になり始めた、その時だった。
「…あれ、なんか…」
それまで怪訝な顔で神奈子の方を見ていた観衆の中から声が上がった。
静寂を破った声の出どころに、視線が集中する。
集まる視線の先にいたのは、観衆の中でたった三人の人間のうちの一人――魔理沙だった。
「どうしたの?」
咲夜が声をかける。
魔理沙はやや強張った顔で答えた。
「いや、なんか…嫌な予感が…しかも結構馴染みある感じの…」
「嫌な予感?」
咲夜が軽く首を傾げたとき、別の場所から声が上がった。
「あ、あれ!」
メイド妖精の一人が空の一点を指差し叫んでいた。
その指差す先には、次第に大きくなる小さな点…少しずつはっきりしてくる色は、紅と白。
「げっ!やっぱあいつだ!」
「嘘!?この程度のいざこざで出しゃばってくるもんなの!?」
その二色の点をよく知るかのように、魔理沙と咲夜は驚愕に満ちた声を上げる。
「うふふ…まあ、確かにこの事態は『この程度のいざこざ』では済まないレベルですよ…」
やっとこさ復活してきた文が、魔理沙と咲夜にカメラのレンズを向けた。
敏腕記者である文のフィルムと脳は、ここに集まった少女達のあらゆるデータを記録している。
ついさっきまで、人数も見た目も大規模な弾幕戦が繰り広げられていた妖怪の山の一角。
そこには、EXボス、ラスボス、自機キャラ、ステージボス、中ボスなど、
様々な意味で幻想郷の異変やパワーバランスの中核を成す強力な妖怪や妖精や人間が、今も一箇所に集まっている。
「なるほど、ちょっと派手にやりすぎたってわけか…早苗!」
魔理沙は箒にまたがると、早苗を呼んだ。
「はい?え、ええと、何が…」
「いいから乗れ!まだ魔理沙さんのキノコ教室は終ってないぞ…全速力でここから離脱するぜ!」
咲夜も急いだ様子で部下のメイド達に指示を出す。
「みんな、早く荷物をまとめて!」
辺りが再び騒がしくなり始めた。
その様子を見ながら、神奈子と諏訪子は首を傾げた。
「な、何なの…?とりあえず助かったけど…」
「あ?お前らもよく知ってる奴が来るんだよ。さっさと逃げないと退治されちゃうぜ?」
箒の後に早苗を乗せた魔理沙が、今やその形をはっきりと視認できるようになった「点」を指差した。
鮮やかな紅白色で彩られた、蝶と見紛うような美麗なフォルム。
それは幻想郷のルールの顕現にして外界との境界線を守る永遠の巫女。
「れっ…霊夢!?」
少し前、魔理沙と共に自分達をコテンパンにした人間の姿がそこにあった。
霊夢の飛行速度はそれ程速くはないが、彼女が近づくにつれて周囲の空気が独特の色と重みを帯びる。
幻想郷の掟を守る最強の弾幕少女が纏う不思議な気が、次第に場の空気を浸食しているのだった。
「こらぁあんた達!こんな麓近くでドンパチやらかすなんていい度胸してるじゃないの!」
やはり先ほどの騒動があまりにも大きな規模になったため、注意しに来たのだろう。
いや、注意しに来たと言うのは少々語弊がある。
既にお祓い棒とをその手に構えた彼女の行動のベクトルは、既に「注意」の先の行為へ向けられている。
それは言うなれば既に「制裁」…否、それすら通り越した「粉砕」の域に達していた。
「み…」
恐怖を帯びた声を一匹の妖精が上げた。
その瞬間、霊夢の存在を認識したその場の全員の気持ちがシンクロし、悲鳴のユニゾンとなって迸った。
『巫女だー!!』
その叫びの残響が消えないうちに、蜘蛛の子を散らすように全員が逃走を始めた。
手足を拘束されていた妖精たちは逃げ遅れたが、本能的に能力を使ったサニーミルクとルナチャイルドの働きにより、
その姿と音を巫女の知覚できる範囲から消し去っている。
実は巫女の接近に誰よりも早く気づいていたのは万能レーダーを持つスターサファイアなのだが、
こうして場が大騒ぎになって事態がうやむやになることを狙い、敢えて仲間達にすらそのことを明かさないでいた。
とにかく、そういった理由で、あっという間に「そして誰もいなくなった」状態が作られた。
そこに残るは巫女一人、ただただ風の中に立ち尽くす。
「な…何よ…そんな思いっきり逃げなくてもいいじゃない…」
仕事とはいえ、少し寂しい霊夢であった。
※※※
霊夢の登場によってその場に集まった者達は散り散りになり、結果として神奈子は窮地を脱した。
「もー、霊夢ったら空気読めないんだから」
自分の横を飛ぶ諏訪子は不満そうな顔をしていたが。
元いた場所からは大分遠くまで飛んできていたため、もう地面に下りてもいいかと思えた。
いっそ人里の近くまでこのまま飛ぶか、そうも考えたが、歩きたいと言う気持ちがその考えに勝った。
一旦地に足をつけて心を落ち着かせてから諏訪子と話をしたいと思った。
「神奈子も神奈子よ、せっかく妖精たちに神託を授けられるチャンスだったのに」
「ん…だから、いきなりそんなことできないって」
「もう。神奈子が頑張ってくれないと、わたしへの信仰も集まらないんだからね?」
その言葉は、神奈子の胸にちくりと刺さった。
信仰が廃れた外での生活を捨てると決めた時点で、諏訪子の存在を隠す必要はなくなっていた。
しかし幻想郷行きに関する諸々のことは諏訪子に黙ったままで進み、神社と湖を移してから初めて明かした。
その後、神奈子が信仰集めに必死だったこともあり、諏訪子の扱いは外と変わらないままであった。
程なくして山の妖怪の間で「神社のもう一柱の神」の噂が立ち、諏訪子は霊夢と魔理沙にも出会って弾幕祭りをした。
しかしそれでも、諏訪子を神として正式に彼女たちに紹介したわけではない。
今日に至るまで、諏訪子は相変わらず自身を「隠されたもう一柱」として認識しているのだろう。
本当はもう、隠れている必要はない。
諏訪子が諏訪子として信仰を集めることができる世界に、自分達はいるのだから。
そしてそのことを、神奈子は諏訪子に伝えようとしている。
今日の外出は本来そのためのものだ。
これまで何度かその話を切り出す機会が訪れては、邪魔が入って来たが…ようやく、二人きりに戻ることができた。
このまま地面に降りて、すぐに話をしよう。
本当は、普通の会話のように一言、声をかければ終ってしまうだけの話なのかもしれない。
もう大和の神話なんて関係ない、これからは妖怪の山の神としてそれぞれ信仰を集めましょう、と。
しかし、そのことを軽々しく口にするには、
神奈子はあまりにも長い間「土着神としての諏訪子」の存在を否定し続けてきた。
そして先日の「敵」発言。
神奈子の心の中では、既にその言葉の重みは恐ろしいほど大きなものになっている。
だから、話がしたい。
諏訪子の正直な気持ちを全て知りたい。そして、受け止めたい。
それが自分にとってどんなに残酷なものであっても。
そして、自分の気持ちを残らず諏訪子に伝えたい。
その「気持ちの交換」をして初めて、幻想郷での生活が本当の意味で始まるのだと思った。
「ね、諏訪子」
だから神奈子は今度こそ、という思いを込め、諏訪子に声をかけた。
敢えて諏訪子のほうを見ないで話しかける。
今の自分がどんな顔をしているかはわからないが、きっと諏訪子に見せてもいいことはない顔だ。
「何よ」
全ての過去を清算するために。
敵対も侵略も、支配も神話もない、二人の神としての新しい日々のために。
「大事な話があるの。ちょっとそこに降りて『アアアアァァァーッ!!』」
今度は周囲に虫一匹いない状況であったが、他ならぬ諏訪子自身の声によって話が遮られた。
『またか』という苛立ちと『お約束ね』という諦観を抱きながら、神奈子は諏訪子に視線を向けた。
諏訪子は遠くの一点を指差しわなわなと震えている。
その指の先には大きな湖があった。知らないうちに、山の外まで飛んできていたのである。
「何よ、どうしたの」
「あいつ、あの妖精!」
諏訪子の顔には怒りの表情が浮かんでいた。
「あの?…あら、本当ね」
よく目を凝らして見ると、先ほどテレポートで逃げた二人の妖精の片割れの姿が見えた。
確か妙に弾幕が強い、冷気を操る妖精だっただろうか。
湖の上を退屈そうに飛び回っては、湖面に足をつけたり、蛙を凍らせたりしていた。
(ん…蛙?)
もしや、と思って視線を向けると、案の定諏訪子はそのことに怒っているのだった。
「蛙をいじめて遊ぶなんて、なんて罰当たりな!」
「罰当たり…まあ、否定はしないけど」
生き物をいじめるのは確かに褒められた話ではない。
「おまけにあんなに辺りを寒くして…蛙が一足早く冬眠しちゃったらどうするの!」
「少し長く冬眠するだけじゃない?」
「ちょっと注意してくるわ!こればっかりは神奈子にも譲らないわよ!」
「どうぞ」
神奈子は「どうでもいい」という態度で諏訪子を送り出した。
こうなると諏訪子は止まらない。
無理矢理引き止めてまた喧嘩になるのも嫌だし、あの妖精に注意すること自体には自分も賛成だ。
(蛙をいじめる、か)
諏訪子に話を切り出す機会を逃したことでやや投げやりになっていたというのもあるが、
それ以上に今の自分には諏訪子を止める権利はないのだと思った。
自分は一匹の蛙を、生かさず殺さず呑みこまず、長年にわたっていじめてきた悪い蛇なのだから。
(って、だからそれはもう…!)
あの『敵』発言以降、少しでも我に返ると自己嫌悪に陥ってしまう自分が嫌だった。
そんな状態を終わらせるために、自分は今日、こうして諏訪子と二人きりで出かけたのではないか。
悪びれもせず、笑って憎まれ口を叩き合う、そんな少し前までの関係に戻るために。
だというのに。
「本当に、こんな日に限って!」
苛立つ心を抑え、神奈子は諏訪子を追いかけた。
※※※
「ほんとに、あの妖怪たちのせいで栗が予定より随分少なくなっちゃったわ!」
チルノはいつものように蛙を凍らせて遊びながら悪態をついていた。
共にここまで逃げてきた大妖精は、取り残された仲間を助けに戻っている。
自分は湖に残り、戦利品の栗を見張る役であった。
「うー!あの天狗はあたいに何か恨みでもあるのかしら?いっつも寄ってきて、気持ち悪い!」
握り拳ほどの大きさの氷を手の中に作り、湖に投げ込んだ。
湖面に波紋が起こる。
「…あたいの子分になりたいなら、そう言えばいいのに…そしたら、一緒に遊んであげてもいいのに…」
チルノは少し困ったような、怒ったような、そして照れたような顔で、広がる波紋を睨んだ。
いつぞや自分が大蝦蟇に食べられかけた時以来、あの天狗は幾度となく自分に接触してきた。
わくわく言いながらしつこくカメラのレンズを向けてくる態度には辟易していたが、
彼女が自分に好意を持ってくれていることは理解できた。
そして、チルノにとってそれは、決して不快なことではなかった。
「あいつ名前なんだっけ…あや、とか言ったっけか…」
「こおおぉぉぉぉるうぁぁぁぁああッ!!」
水面に映る自分の顔を見ながらつぶやくチルノの耳に、諏訪子の怒号が届いた。
「何さりげなく無邪気ツンデレな独り言つぶやいてくれちゃってんのよ!」
「は!?何?む、むじゃき…つんどら?」
「わたしゃ許さないわよそういうあざとい萌え要素のアピールは!!」
「も、もえようそ?ていうかあんた誰?」
頭の上に幾つも「?」のマークを浮かべるチルノに、諏訪子は容赦なく襲い掛かった。
「問答無用!蛙をいじめちゃいけません…蛙を(゜д゜)しちゃいけません!!」
かつてミシャグジを束ね、一国の主として人間達に君臨していた諏訪子のカリスマが甦る。
今こそ罪のない蛙をいじめるイタズラ妖精に正義の鉄槌を下すのだ。
諏訪子の脳内には脳内麻薬と、かつて外の世界で聞いた名も知らない歌のイントロが溢れ始める。
どこかで偶然耳にしただけのその歌は、いつしか自分の応援歌として脳内BGMとなっていた。
曲名をつけるならば『神罰!ネイティブケロちゃん』といったところであろうか。
「なんで冷気を撒き散らす?これでは、寒くなって蛙が住めなくなるわ。湖の冬が来るわよ!」
諏訪子は無数の御札を展開して弾幕にしながら、チルノに接近する。
「蛙?ふん、そんなの湖ごと凍らせちゃえばいいのよ。氷が解ければ生き返る、高等技術よ!」
先ほどの戦いの疲れを微塵も感じさせず、諏訪子が放った弾幕を巧みにかわす。
「妖精が蛙の命を左右するなどと!」
「幻想郷最強のあたい、おてんば恋娘のチルノが蛙どもを支配してやろうっていうのよ!」
チルノには悪びれる様子は一切ないようだった。
目の前の相手が神であることなど露知らず、
『なんか蛙っぽい奴が喧嘩売ってきた』
程度にしかとらえていないのだろう。
「エゴだよ、それは!」
諏訪子も引き下がらない。
博麗の巫女が出動するほどの大きな戦いが終わった後。
決して記録に残ることのない、蛙の威信と尊厳をかけた二人だけの戦争が始まった。
(やれやれ…)
湖の畔、手近な樹木に背を預け、神奈子は二人の戦いを見ていた。
ここに来るまで何度も諏訪子に話を切り出す機会があったが、その都度邪魔が入ってきた。
この戦いが終わっても、また別の邪魔が入るかもしれない。
そのまま辺りが暗くなり、なんとなくいつものように帰路につき…という一連の流れが目に浮かんだ。
その後はどうだろう。
家に帰り、早苗が用意してくれた夕食を食べ、風呂に入って酒を飲んで寝るのだろうか。
そうして話すべきことも何もかもうやむやになり…また、過ぎ行くに任せる日々が始まるのか。
(いや、だめだ)
そもそも神奈子の当初の予定では、神社を出て適当に二人で歩きながら、諏訪子と話をするつもりだった。
その後は二人で里へ行き、「守矢の神社の二柱の神」として信仰集めをしようと考えていた。
話を切り出した時点で諏訪子と喧嘩別れになるかもしれない、そうも考えたが、
今日に限っては自分は諏訪子のどんな気持ちも受け止めるという覚悟があった。
目の前の問題から逃げて笑っている限り、自分はいつまでも諏訪子の『敵』なのかもしれないのだから。
もし傷ついても、涙を流しても、その先にある本当の新しい生活のためならば、耐えられる。
自分が泣いているのを早苗に見られるのは少々気まずいが(わざわざ話す場所を外に選んだ理由はそこにある)。
もう日は大分傾いている。
これから里へ行くのは無理かもしれなかったが、それでも神奈子はこの問題に決着をつけて帰りたかった。
今日もここまで、何度も自己嫌悪に陥る場面があった。
諏訪子が笑ってくれることで、諏訪子が自分のために何かをしてくれることで、心が痛む。
そんな生活はもう嫌だ。
だから、話す。
気持ちを全て打ち明け、謝って、責められて、なじられて…それでも、自分が『敵』じゃないことを、わかってほしい。
今の自分には、勝利より、支配より、神話より、大切なものがあるのだから。
(諏訪子)
傾いた日差しに照らされて光る湖面に踊る、諏訪子の影。
神奈子は決意を込めて、その影を見つめていた。
心が決まることで、少し気持ちが楽になった。
(今度邪魔する奴がいたら、ぶっ飛ばしてやる、ん、だから…)
そして楽になったところで…あろうことか、神奈子の意識を睡魔が襲った。
一日中あちこち歩き回り、他人の喧嘩を止めたり、自分の喧嘩を止めてもらったり、その他諸々。
様々な原因から生まれた疲労が、瞼の上に重くのしかかっている。
だめだ、ちゃんと諏訪子の戦いが終わるのを確かめて、すぐに話をしなきゃ…そう思い、必死に目を凝らす。
しかし飛び回る諏訪子とチルノの動きが、余計に神奈子の目を疲れさせ、眠気を誘う。
抵抗空しく、神奈子の頭がかくりと前に垂れた。
※※※
夢を、見た。
それは遠い遠い昔の記憶、神話の時代の光景を映していた。
『貴様、止まれ!その先への侵入は許さん――うわっ!?』
『何だこの風は――ひ、ひぃぃぃぃっ!』
それは遠い遠い昔の記憶、神話の時代の光景を映していた。
『愚かな、この地を侵す者には必ずミシャグジ様の祟りがあろうぞ…』
「へえ?」
『貴様ごとき妖女一匹、我らが神々の手にかかれば…』
「そのミシャグジってのは、こいつらのことかしら?」
『なっ…そ、そんな馬鹿な!?」
無力な土着の民を、襲い掛かるミシャグジの群れを押しのけ、神奈子は王の間を目指す。
「なんだ、手応えのない。これならわたし一人で済みそうね…ん?」
『おお!』
『我らが神…どうか、あの化け物に神罰を!』
王の間へ行くまでもなく、国を治める王――土着神の頂点が神奈子の前に姿を現わした。
流れの速い川を挟んで向かい合う、侵略者と統治者。
周囲の民は、張り詰める空気にの中に血の匂いを予感したか、一様に恐れおののく。
――が、二人の神がその手の武器を掲げた瞬間、一滴の血を流すこともなく、勝負はついた。
黒光りする鉄の輪が、みるみるうちに錆に侵されていく。
強固で鋭利な必殺の武器が、ぼろぼろと崩れ、砂利のように河原に落ちた。
意気揚々と手にした、最新の技術で作られた武器は変わり果てた姿となり、消えた。
土着神の手に残るのは、土くれじみた酸化鉄。
己の手からゆっくりと視線を外し、対峙する敵を見る。
そして彼女は――彼我の実力の差を、一瞬で悟る。
つい先ほどまで威厳と自信に満ちていた彼女の顔を、氾濫した川のような勢いで、恐怖が浸食していく。
怯えた両目が見つめるのは、掲げられた藤蔓の向こう。
(やめて)
周りから、人々が遠ざかっていく。
恐怖に駆られた土着神も、その足を後に一歩、踏み出してしまう。
河原の石を踏みしめるじゃり、という音さえ、震えているようだった。
しかし、動けたのはそこまでだった。
蛇に睨まれた蛙のように足を止め、訪れる死を震えて待つ一人の少女が、そこにいた。
その目が映すもの。
どうどうと流れる川面に、映るもの。
(嫌)
(見たくない)
(やめて)
神奈子の視線が下がり、川面に映ったその女の姿が目に入る。
獲物の生死をその手に握った、勝利者の、そして捕食者としての喜悦に満ちた、蛇の笑顔がそこにあった――
「嫌ッッ!!」
自分が上げた叫び声に驚き、神奈子は目を覚ました。
既に日は沈み、辺りは大分冷え込んでいたにも関わらず、全身にびっしょりと汗をかいていた。
心臓は火事を知らせる警鐘のようにせわしなく拍動し、自分の精神が緊張状態にあることを知らせている。
心なしか呼吸も荒かった。
「こんな時になんつー夢よ…いや、こんな時だからかね」
神奈子は溜め息一つ、どうにか呼吸を整えた後で呟く。
ついさっきまで見ていた夢の内容は、細部に至るまではっきりと覚えていた。
錆び付いた鉄輪。我先にと逃げまどう人々。怯えきった諏訪子の顔。
そして――恐ろしい侵略者の顔をした、自分。
実際には、川面に映った自分の顔を見た記憶などないはずなのだが、
何故か夢の中の川は、神奈子の顔をしっかりと映している。
そして神奈子には、それが混濁した記憶が作る虚像だとは思えないのだった。
もしかすると、自分はもっと恐ろしい存在として、諏訪子の目に映っていたのかもしれない。
今思えば、最悪の出会いであった。
よくこれまで付き合ってこれたものだと、自分でも思う。
それにしたって、元は大和の神話のために諏訪子を無理矢理利用した結果の付き合い。
本来、諏訪子が望んだものであるはずがない。
杉で結ぶ古き縁、とはよく言ったもので、実際には力で結んだ穢き縁、である。
「…敵、か」
今日これまで、何度も心の中で反芻した言葉を口に出す。
長い時を経ても、諏訪子の心の中には、あの恐ろしい笑顔を浮かべた自分がいるのだろうか。
突然現れ国を奪い、返してくれたと思ったのも束の間、どこの馬の骨とも知らない神の名を付けられ、
大和の神話に利用された記憶を、諏訪子は今も覚えているのだろうか。恨んでいるだろうか。
信仰集めによる利害の一致を盾に、いつしか友達面して接してくるようになった神奈子を、
疎ましく思っているだろうか。
「…そうだ、諏訪子」
頭の中が再び諏訪子のことでいっぱいになったところで、神奈子は自分がここにいた理由に気づいた。
どれくらい眠っていたかはわからないが、西の空にはまだ僅かに橙色が残っている。
自分が睡魔に襲われてから、そこまで長い時間は経っていないだろう。
湖の上に視線を移し、諏訪子の姿を探した。
辺りは静まり返っており、蛙の鳴き声も聞こえない。
先ほどの戦いでチルノが凍らせたのだろう、湖面がかなりの広範囲にわたって凍り付いていた。
そしてその上に踊っていた二つの影は、今はない。
神奈子が独り言を止めれば、そこには弱い風が吹きぬける音だけが響いた。
誰も、いない。
「諏訪子」
最初はぽつりと、消え入るような声で。
「諏訪子」
次は少し大きく、近くに諏訪子が隠れていれば、聞こえる程度の声で。
「諏訪子!」
少し遠くにいても、間違いなく聞こえるような大声で。
「諏訪…子…」
そしてまた、消え入るような声に戻って。
四度に渡る呼びかけに、応える者はどこにもいない。
諏訪子はどこにいるのか、どこへ行ってしまったのか。
決まっている。
勝ったか負けたか知らないが、チルノとの戦いを終え、一人で神社へ帰ったのだろう。
いや、神社に帰ったとは限らない。どこかで寄り道しているのかもしれない。
しかし確かなことは、ここに諏訪子の姿はなく、、彼女は自分を置いていったということである。
諏訪子を放って居眠りしてしまった神奈子に腹を立て、帰ってしまったのだろうか。
いや、そもそも諏訪子は神奈子と一緒に帰る、ということを望んでいなかったのかもしれない。
神奈子はこれまでいつだって大和の神話と、自分の信仰のために諏訪子を振り回してきた。
諏訪子が「神奈子と共に行動するか否か」を選べる機会はそう多くなかった。
だから、いざその機会が与えられた時に諏訪子がどういう選択をするか、神奈子はよく知らない。
諏訪子は「共に行動しない」ことを選んだのだろうか…?
結果から言えば、諏訪子がここにいない以上、その選択をしたと言っても過言ではない。
『あんな女、敵よ敵』
あの日の諏訪子の言葉が、しつこく脳裏に甦る。
やはり自分は諏訪子にとって、力で無理矢理言うことを聞かせる、鬱陶しい蛇でしかなかったのだろうか。
「諏訪子…」
もう一度、彼女の名をぽつりと呟く。
悲しみや怒りの感情は、予想外に薄かった。
諏訪子が自分を置いて帰ってしまったことで、神奈子の心はひどく空虚になっていた。
ネガティブな感情がほとんど湧いてこないほどに、ひたすら真っ白な、何も無い心。
何かの本で目にした『心にぽっかり穴が空いた』状態とは、このようなことを言うのかもしれない。
神奈子は思いも考えも薄い精神を抱えたまま、立ち上がった。
諏訪子はいない。
黄昏を少し過ぎて吹く風は、やけに冷たかった。
帰ろうか。
少しだけ、自分がみじめな奴だな、という思いが芽生えた。
なんとなく、ここから一歩一歩歩くごとに、その思いが大きくなっていくような気がした。
自分の心は何歩まで耐えられるだろう。
今度こそ、自分は泣き出してしまうかもしれない。そして、今度は傍に誰もいないのだ。
何が信仰か。
心が折れそうな時に傍にいる者が誰もなければ、そんなもの集めたところで何の意味もない。
自暴自棄な感情も抱えながら、それでも神奈子は湖に背を向け、足を踏み出した。
帰るために。諏訪子と早苗が待つ、神社へ。
帰ってどうする?…さあ。
もう、何もわからない。どうしたらいいのかも。諏訪子の顔を見て、何を言えばいいのかも。
それでも神社へ帰る方向へ足が向く自分が、ひどく惨めに思えた。
「諏訪子の馬鹿」
馬鹿は自分だ。本当に諏訪子と仲良くしたいのなら、もっと早く謝っておけばよかったのに。
結局自分は今も昔も変わらず、自分の都合で諏訪子を利用し、振り回す最悪の女だ。
置いていかれて当然。敵と思われて当然。
もはや自己嫌悪の痛みに心が麻痺しているのか、神奈子の心は予想に反してひどく静かなままだ。
そんな虚ろで静かな心を抱え、神奈子は歩く。
足が重い。ならば飛べばいいのか――いいや、全身が重い。余計に億劫だ。
「…なこ」
幻聴まで聞こえてきた。やはり疲れている。
さっさと帰って寝てしまおう。諏訪子?知るか。あんな薄情者。ばかばかばか。
ばかはわたし。薄情者もわたし。わたしは諏訪子の敵。
悪いのは全部わたし。
「…かなこ!」
だからこうして背中から響く声も幻聴。諏訪子はもう帰ってしまった。ここには誰もいない。
「神奈子!」
もうやめて欲しい。諏訪子が実は帰ってなんかいなくて、自分を追いかけてきてくれているなんて…!
そんな幻想を抱いてしまう自分が、余計に惨めで仕方がない。
たまらず、耳を塞いだ。
「待ってよ!神奈子!」
先ほどより大きくなった声が、耳を覆った手の、指の隙間を通って響く。
やめて。
「神奈子ったら!置いてかないでよっ!わたし、動けないの!」
「やめてっ!!」
幻聴を振り払うように勢いよく頭を振って、神奈子は後ろを見る。
しかしそこには確かに、ああ、それは幻のように美しかったけど、確かにそこに、その光景はあった。
「待って、神奈子、今すぐそっちに行くからっ!!」
置いていかないで、という懇願と焦燥が混じった声が響く。
神奈子が湖面に視線を移した瞬間、凍った湖の一点で、何かが弾けた。
四方に弾け飛び、湖面に落ちる粒子は、氷。
たった今内側からの力で砕かれた無数の氷の粒が、ある一点を中心にして宙空に広がっていた。
空に放たれ落ちていく氷の粒は、いつの間にか輝いていた月の光を照り返してきらきらと光った。
その中心に立つのは、一人の少女。
昼間に見た、舞い散る紅葉の中で空を見上げていた姿が、神奈子の脳裏に甦る。
しかし今度は、少女は幻想的な光景に似つかわしくない切羽詰った顔で、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「はあっ…やっと、出られた…あの妖精、やってくれるじゃないの…」
諏訪子は衣服のあちこちに降りた霜を払い除けると、凍った湖面の上を歩き始めた。
神奈子が自分の方を見ていることに気づき、一瞬安堵したように顔をほころばせ…すぐに、頬を膨らませた。
「もーっ、黙って帰るなんてひどいじゃないの!あのまま湖の上で凍死したらどうするのさ!」
どうやら諏訪子はチルノと戦った結果、湖の水面ごと凍らされていたようだ。
意識があったのかなかったのか、兎も角も神奈子が湖を去ろうとしているのに気づき、必死で氷の拘束を解いたのだろう。
諏訪子は不機嫌そうな顔を作りながらも、弾むような足取りで、楽しげに氷の上を歩いてくる。
「神奈子のばーか。薄情者」
岸に近づくにつれ諏訪子の足取りは早くなる。
彼女の靴の下で、凍った水面が割れる音が連続して響く。
次第に、二人の距離が縮まっていく。
ああ、そうだ。
わたしはなんて馬鹿で、薄情者だったのだろう。
諏訪子は今まで一度だって、自分を見捨てたことなんかないのに。
勝手に諏訪子が自分を置いて行ったと決め付けて、勝手に落ち込んで、諏訪子の声に耳を塞いで。
結局、諏訪子を置いて行こうとしたのは、自分だった。
忘れていた。
諏訪子はいつだって、こうやって自分のところに来てくれたのに。
喧嘩をして、神社を飛び出したときも。
いじけた自分が、そのまま戻らなかったときも。
いつも諏訪子が先に折れてくれた。
自分でそうすることを選んで。神奈子と一緒にいることを、選んで。
ちっぽけなプライドにしがみついて意地を張る自分のもとへ、歩いてきてくれたのに。
ちょうど今のように。
凍った湖を踏みしめ、ぱきり、ぱきりと足音を響かせながら。
諏訪子が通った後、道のように氷に亀裂が入る。
「全く、自分から誘っといてそれはないでしょ…よっしゃ、ラストスパート!」
諏訪子は走り出した。
岸で佇む神奈子に向かって、一直線に。
そうだ。
外の世界にいた頃、早苗が生まれるずっとずっと昔から、何度もこの光景を目にしてきた。
諏訪子はいつだって、こうやって氷を割りながら走って、湖の上に――
いつだって――
「諏訪子おぉっ!!」
「何よ!?」
神奈子の胸を埋め尽くした感情の塊が、絶叫となって口から発射された。
いつだって変わらない。諏訪子はいつだって、こんなしょうがない自分の味方で、そして――
「あんたは…何であんたは!そうやっていつも!」
「えー?」
こうして氷を踏んで、氷が割れてぱきぱきめりめりバキバキバキビキビキドドドドド、
「飛んでくるってことを学習しないのよ!」
その瞬間、湖の氷に入った亀裂が一気に広がり、大きな水音と共に諏訪子を飲み込んでいった。
――諏訪子はいつだって、凍った水面をブチ割って湖面に落っこち、風邪をひくのだった。
「みしゃっぐじ!」
外の世界はおろか、幻想郷でも滅多に聞かないであろう特徴的なクシャミ。
「う~…やっぱ風邪、引いたかなあ…」
「もう少し、暖まらせてもらえばよかったのに」
鼻水をすする諏訪子を横目で見ながら、神奈子はぽつりとつぶやく。
二人は湖畔の道を歩いていた。
「いやあ、服も乾いたし、大丈夫かなあと思ったんだけど…」
諏訪子の服装は、湖に落ちる前と全く同じ。
しかも洗いたての服のように、その前より心持ち綺麗に見えた。
…それもそのはず、諏訪子の服は、『数分前に』洗濯と日干しの全過程を終えてきたのだから。
※※※
『最近の神様ってのは忙しいのねえ』
湖から諏訪子を引き上げているところで、偶然通りがかった咲夜に出会ったのが、十数分前。
咲夜に招かれるまま湖畔の紅い洋館に入り、暖炉に当たらせてもらった。
そしてその数分後に、諏訪子の衣服が洗い立てになって戻ってきたのだった。
『部屋干しなのに日干しとほぼ同じ乾き方、嫌な匂いもゼロですわ』
『す…すごい!どうやって!?』
『これもあなたの手品とやらなの?』
感嘆する二人の問いに、咲夜は少し悪戯っぽく微笑んで答えた。
『そんなところね。ま、日光に関してはあるお方のご協力を頂いた、ってところだけど…』
栗の回収に協力してくれたお礼よ、と付け加えた。
聞けば、チルノと大妖精が持って逃げた最後の籠も、諏訪子とチルノの戦闘中に回収できたという。
諏訪子を凍らせるのに夢中だったチルノは、メイド達が栗入りの籠を持っていくのに気づきもしなかったとか。
ともかく、思いもかけない助けにより、諏訪子は濡れた服を着たまま帰路に着くことを免れたのだった。
※※※
この短い間に日は完全に沈んでいた。
先ほど諏訪子を照らしていた月の光も、少し光が強くなったように見える。
「うう。早く帰ってキノコ鍋を食わねば…」
「最近夜は冷えるものね」
静まり返った湖畔に、二人の声はよく通って聞こえた。
諏訪子は早く帰ろう、といった態度で足取りを早めるが、神奈子は足を止める。
「諏訪子」
そして、諏訪子の背中に声をかけた。
「ん?」
諏訪子も足を止め、数歩分遅れた場所に立つ神奈子を振り返る。
二人の視線が合った瞬間、神奈子は思わず周囲を見回した。
今度こそ、邪魔はないか。
「神奈子?どうしたの、キョロキョロして」
「いや…なんでもないわ」
神奈子は安心する一方、何の邪魔も入らないことに無意識に落胆していた。
ほんの、少しではあったが。
ああ、やはりここで、ついに、話さなければいけないのだな、と。
喧嘩する山の妖怪も、栗を奪い合う妖精も、蛙を凍らせる罰当たりも、今はいない。
静寂が支配する湖畔に、二人で向かい合っている。
覚悟を決めなければならない。
そして、神奈子の口が開いた。
※※※
「わたしね、諏訪子」
「…うん」
諏訪子も、神奈子が何か真剣に話そうとしていることを感じ取り、表情を引き締める。
神奈子の表情と声色からそれを感じたのだろう。心が通じているようで、嬉しかった。
「もう古い神話は、捨てようと思うの」
そして神奈子は、諏訪子にこれまでのことを話した。
大和の神話のために、諏訪子の存在と名前を隠し続けてきたこと。
外の世界での信仰が薄れ、諏訪子に黙って神社を幻想郷に移したこと。
その事実は諏訪子も全て知っていることであったが、その陰にあった神奈子の意思を知るのは、初めてだろう。
諏訪子はずっと表情一つ変えず、神奈子の話しに耳を傾けていた。
話を聞いている間、諏訪子の脳裏にはどのような光景が浮かんでいたのか。
錆び付いた鉄輪か。
神社の奥に自分を閉じ込める、重い扉か。
あるいは、自分から国も、人も、信仰も奪おうとした、邪悪な蛇か。
神奈子にはわからない。
しかし、話すことをやめるわけにはいかなかった。
ここから前に進むために。
「でも、もういいの。もう、古ぼけた神話なんて、なくていい」
かつてあれほど躍起になって神話を広め、獲得した信仰も今は薄れ、滅びへの道を進みつつあった。
そして選んだのは、幻想郷の神として降臨する道。
そこでは、自分も諏訪子も新しい神として一から信仰を集め、神話を新しく創らなければならない。
もう、過去に自分が諏訪子に勝ったことも、その地で集めた信仰も、意味を持たない。
この幻想郷で、これから自分が、自分たちが何をするか。
そのことだけが、この新しい世界での自分達の在り様を決めるのだから。
「だから諏訪子は、もうわたしに気を使うことなんてない」
諏訪子は自分で神として行動し、他の誰でもない、洩矢諏訪子として信仰を集めていいのだ。
神奈子を通じて信仰を得る、そんな手段に頼る必要はない。
今日のように、いや、今日以上に、幻想郷の人間や妖怪と関わり、信仰を集めればいい。
神奈子の背中を押す代わりに、自分が人々の前に立てばいいのだ。
「建御名方、なんて名前だけの仮面をかぶらなくていいの」
「……え」
「ここでは、わたしがあなたに勝った過去なんて、何の価値もない」
自分の口から、過去の栄光を否定する言葉がこぼれている。
しかし、神奈子はそのことを、心地よく感じていた。
夢の中で見た、川面に映る邪悪な蛇の笑顔が遠ざかっていく。
いらない。
そんな過去は、もはや栄光ですらない。
諏訪子を恐怖に陥れ、全てを奪おうとした悪い蛇には、今ここでさよならだ。
「いきなりこんなこと言われたら、混乱するわよね」
神奈子は少しだけ、自嘲気味に笑う。
勝手に国を奪って、勝手に王座を返して、勝手に諏訪子を大和の神にして。
そして勝手に神社を幻想郷に持ってきて、挙句の果てに勝手に過去をなかったことにしようとして。
混乱するわよね、と言った自分がおかしく感じた。
諏訪子が混乱どころか、怒りを感じて当然のことを、自分は今、口にしている。
いつだって自分は、勝手な都合で諏訪子を振り回すのだ。
(でも、これで最後)
諏訪子を振り回し続けた過去を清算するために、神奈子はここにいる。
これを最後の我侭と、神奈子は言葉を搾り出す。
「わたし、わかったから」
勝利より、神話より、信仰より、大切なものがある。
本当はずっと前から気づいていた。
だけど、外の世界での信仰と神話にしがみつく自分のプライドがそれを認めることを許さなかった。
「諏訪子と一緒にいたいって。そのためなら、これまで手に入れた何だって捨てられる」
「……」
諏訪子は何も言わない。
「だから、この世界を、幻想郷を、諏訪子が諏訪子のままで、幸せになれる場所にする。してみせる」
神奈子は自分が無様だ、と思った。
かつて自分が打ち負かした相手に、懇願するような態度を取っているからではない。
これまで散々諏訪子を自分の都合で振り回し、今も彼女に自分の願望を押し付けている自分がいたから。
「何だって、するから」
諏訪子と一緒にいられるなら、何でもする。
それは逆に言えば、何でもするから一緒にいさせろという自分勝手な要求だ。
自己嫌悪の波が心に押し寄せる。
悲しい。惨めだ。無様だ。わたしはなんて自分勝手な女なんだろう。
涙が溢れてくる。
それでも、神奈子はもう止まれない。
「わかってる。諏訪子がこれまでずっと、辛かったって…それも全部、わたしのせいだって」
これまでの自分の仕打ちに対する報復として、何をされてもいい。どんな言葉で責められてもいい。
諏訪子の幸せのためならば、自分は神ですらなくたっていい。
今日一日抑え続けてきた感情の波が、堰を切ったように流れ出していた。
「でも、諏訪子と一緒にいたいの。いつだって、諏訪子の味方でいたいの」
声が震えている。
涙がぼろぼろと流れ、神奈子の頬を伝う。
言えば言うほど、自分が嫌になった。それでも、言わずにいられない。
「だからっ…!」
神奈子は感情の赴くまま地面に膝をつき、顔を伏せてしまう。
涙が頬から落ち、地面に染みを作った。
ああ、これはまずい。
一方的に言いたいことを言って、勝手に泣き崩れてしまうなんて。
せめて何か言わなければ。
しかし、もはや神奈子の喉からは嗚咽がせり上がってくるばかりで、気の利いた言葉が出てこない。
まだ話は終ってない。
こんな自分勝手な感情の吐き捨てだけを聞かせては、諏訪子は怒るに決まってるじゃないか…!
「ほんと、いつだって自分勝手だよね、神奈子は」
諏訪子の声が、頭上から響く。
怒られること、責められることを覚悟していたとはいえ、いざその場に立ってみると、神奈子の身体は強張る。
それでも必死で気持ちを奮い立たせ、諏訪子の顔を見上げた。
諏訪子のどんな気持ちも受け止める。それが決意だ。
しかし、神奈子の視界に諏訪子の顔が入ることはなかった。
一瞬、視界が真っ暗になる。
何かが自分の顔に押し当てられている――それが諏訪子の胸だと気づくまで、数秒。
諏訪子が自分の頭を両腕で抱いていることに気づくまで、さらに十数秒。
「え…?」
そう言った声は、諏訪子の胸の中でくぐもって響いた。
「いきなり神社がこっちに来たと思ったら、今度は神話を捨てるだなんて」
神奈子の頭の上に、諏訪子の顎の先端が当たっている。
地面に膝をついた神奈子を、諏訪子が立って抱きしめているという状態だった。
「なんでいっつも、わたしに相談なくそういうことをするかなあ」
「諏訪子…」
諏訪子の胸で視界を塞がれた神奈子には、彼女の表情は見えない。
そのままの体勢で、諏訪子の次の言葉を待った。
「ほんと、せっかちなんだから。わたしを幸せにしてくれるんなら、まずわたしの話を聞いてほしいわ」
「ごめん…」
自分の言葉は、やはり諏訪子の心には響かなかった。神奈子はそう感じた。
結局、自分は今までと同じように、諏訪子を自分の都合で振り回してしまった。
相手の都合などお構いなし。
最後の我侭、と決めて告げた言葉も、相手にとっては「いつもの我侭」だ。
「だからね」
神奈子は身を硬くする。
どんな言葉が、心に刺さるか――。
「今度から大事なことは、ちゃんと話してね。もうわたしが隠れてる必要、ないんでしょ?」
「…え?」
諏訪子が神奈子の頭から手を放す。
そのまま、諏訪子の両手のひらが神奈子の肩に置かれた。
二人の顔が向かい合う。
諏訪子は少し困ったような、照れたような、そんな感情が混ざった顔で笑っていた。
「わたしはわたしとして、堂々と神様をやれるのよね?だったら、神社の今後についてもズバズバ言うわよ」
神奈子の天下は終わりね、と意地悪な口調で付け加える。
しかしその笑顔は優しく、暖かい。
神奈子がこれまで、何度となく目にしてきた、自分が一番好きな諏訪子の顔だった。
『はいはい、わたしが悪かったから…だからそろそろ、帰ってきなさいよ。…み、み、ミシャッグジ!』
喧嘩して、神社を飛び出した自分を迎えに来る時に、いつも諏訪子が迎えていた笑顔。
彼女はいつだって、湖に落ちた直後の冷え切った身体で、最高に暖かい笑顔を自分に向けてくれた。
そんな大好きな笑顔に甘えて、好き勝手してきた自分に、また嫌悪がこみ上げる。
「だから神奈子、もう一人で悩んだりしないで」
「わたしが…悩んで…?」
「うん。神奈子、こっちに来る前も、何か凄く悩んでたよね?でも、何も言ってくれなかったから、心配だった」
恐らく自分が失われる信仰に焦り、神社を幻想郷に移すことを決意した時だろう。
あの時はまだ諏訪子の存在を隠していたこともあり、早苗にしかその計画を話していなかった。
何より、信仰が失われたことを諏訪子に話すのが躊躇われた。
諏訪子の力となる信仰は、当時は全て自分と、建御名方の名を通じて集まるものだった。
それが失われたことを自分の口から告げるのは、神奈子のプライドが許さなかったのだ。
「あ、責めてるんじゃなくて…いや、責める!責めていいのよね、この空気は?」
諏訪子は相変わらずの笑顔を浮かべながら、そう言った。
神奈子は何も言わずに頷くしかない。
「でしょ?全く水臭いったらない」
少しだけ、諏訪子は眉をひそめた。
「わたしを隠しときたかったのはわかるけど、プライベートくらいもっと腹を割った話がしたいわ」
毎晩一緒に呑んでたのに、そんな隠し事してたなんて、と諏訪子は毒づく。
「ごめん…なさい…」
神奈子が消え入るような声で謝る。
「もう、らしくないわね。…調子狂うじゃない」
諏訪子は軽く溜め息をつくと、神奈子の肩に置いた手を再び、頭の後ろに回す。
再び、神奈子を抱きしめる形になった。
「一緒にいたい、なんて願う必要もないわよ。今までそうだったように、これからもそうする。それだけ」
神奈子の耳元、その少し上から、諏訪子の声と吐息が降りてくる。
「外の世界で信仰がなくなったからポイ、なんてことをしようものなら、それこそブチ切れるわよ、わたしは」
「そんなこと、わたしは…」
「わかってる。いきなりだったとはいえ、わたしを一緒に連れてきてくれたのは正直、ホッとしたわ」
諏訪子の声は優しい。
『あんな女、敵よ敵』
今まで神奈子の心に重くのしかかっていたその言葉が、羽のように軽く感じられた。
そんな言葉よりずっと大切で、確かなことが、今の神奈子にはわかるから。
「だからね、神奈子。もう一度言うわよ。これからは、何でも話して。一人で悩んで、勝手に決めないで」
「うん…」
それは、これまでずっと、諏訪子が自分の味方でいてくれたということ。
諏訪子は昔と変わらぬ笑顔で自分に笑いかけ、こうして抱きしめてくれているということ。
大切なのは、諏訪子にとっての自分が何かについてあれこれ悩むことではない。
今ここにある諏訪子の心に、どう応えるか。
諏訪子のために、諏訪子の味方であるために、自分に何ができるかだ。
そして、その答えはついさっき、自分の口から出たのではなかったか。
「期待してるわよ。神奈子が作る、幸せな世界ってのをさ」
そう、言葉では、何とでも言える。
だから神奈子は、これから、行動で諏訪子の期待に応えなければならない。
望むところだ。
自分を「敵」なんて口が裂けても言わせないぐらい、頼もしい味方になってやろうじゃないか。
「うん。必ず、諏訪子を幸せにするから」
胸のつかえが一気に取れた気がした。
「ああ、あとね」
神奈子の頭に、柔らかい感触が伝わる。
諏訪子の頬が押し付けられた感触だと、すぐに理解する。
「古い神話だって、全部捨てることはないと思うの」
「…?」
「もう建御名方なんて名前はいらないし、隠れて住むのもストレスたまるんだけどさ。…その…」
そこまで言って、諏訪子は言葉に詰まった。
やがて、ゆっくりと、消え入るような声で次の言葉を紡ぎ出す。
「…神奈子と夫婦ってのは、そんなに嫌じゃなかったかなあ…と」
諏訪子の声は、わずかに震えていた。
それは悲しみや怒りによるものでなく、純粋な「照れ」から来るものであると、神奈子は気づいた。
そして同時に、恐らく諏訪子を今現在襲っているであろうものと同等かそれ以上の「照れ」が神奈子を襲う。
「す、すわこ?それって、あの…」
神奈子の侵攻の後、諏訪子が「建御名方命」という名前だけの神と融合し、引き続き国を支配した。
当初神奈子は山の神として、諏訪子を利用しこっそりと君臨していた。
…が、当然、その「こっそり君臨する神奈子」も一人の神として神話に組み込まれることになる。
その際に手に入れた信仰の器が「建御名方の妻」…妃神・八坂刀売神の名であった。
建御名方命は神話上、二人の共通の仮面となる神だが、神奈子の侵攻後、現在に至るまでの建御名方は諏訪子だ。
つまりその点に関して言えば、神奈子は諏訪子の妻だと言えなくはない。
「ああいや、そりゃ、やっぱ女同士で夫婦って時点で、変だとは思うんだけどさあ」
人間の歴史の中で姿を変えていったとはいえ、その辺りの神話は基本的に神奈子の意図に沿って作られている。
諏訪子の妻として自分が位置づけられる神話を神奈子が黙認したのは…自分もそれ程嫌ではなかったからだ。
とはいえ直接そのことに言及するのはさすがに照れ臭く、お互いにその話題には触れずにこれまで過ごしてきた。
しかし心の奥底で、そんな「あくまで神話の上での」関係を心地よく思っていたことも事実。
神奈子にとって諏訪子は幾つもの時代を越えて共にあった、友であり、家族であり、そして…夫(妻?)だった。
「まあ、俗に言う『俺の嫁』的な、ネタというか…そう、ネタネタ!これくらいのギャグがあったほうが信仰も…」
「諏訪子」
しどろもどろになって弁解する諏訪子の背中に、神奈子は腕を回した。
自分の腕の力も加えてより強く、諏訪子の胸に顔を埋める。
「ひゃっ!?な、何!?」
驚く諏訪子の問いには、神奈子は答えない。
諏訪子の身体の温もりを感じたまま、かすかに匂う太陽の香りを感じながら、目を閉じる。
最初は混乱気味だった諏訪子も、やがて優しげな表情を浮かべ、神奈子を抱く腕に力を込めた。
神奈子の心に、ある一つの言葉が浮かんだ。
それは今、そしてこれからも、決して口に出せないような言葉。
ついさっき、古い神話は捨てると言ったはずなのに。
諏訪子はもう、そんな名前はいらないと告げたのに。
それでも神奈子は、その言葉を呟かずにはいられなかった。
勿論、諏訪子には聞こえないように、小声で。
わたしの、建御名方様――
空高く上った月は、湖面に走る氷の亀裂を鮮やかに照らし出していた。
※※※
霊山に、朝の風が吹く。
朝の日差しは一層柔らかくなり、風も日増しに冷たくなってきていた。
秋の終わりを感じさせる湖畔の神社に、神々の戦いの声が響いた。
「神奈子!何適当なこと言ってくれちゃってんのよ!?」
「あ、おかえり…って、朝っぱらから何の話よ」
「わたしのスペルカードの名前が間違って伝わってるのよ!しかもその由来まで!」
縁側から部屋へ飛び込んできた諏訪子は、朝食をとる神奈子に食って掛かった。
紅魔館――かつて咲夜に服を洗ってもらった洋館でのパーティーに三人まとめて招待されたのが、昨日。
神奈子と早苗は夜遅くに帰ったが、館の主と意気投合した諏訪子はそのまま夜通し酒を飲み交わしていた。
「神奈子でしょ?咲夜たちに変なこと言ったの!」
「あー、どうだったかしら。まあ酒の席での冗談だし、一々気にすると疲れるわよ」
「あんたが言うか、あんたが!」
諏訪子の怒りのボルテージが上がっていく。
朝食を邪魔された形で諏訪子の相手をしている神奈子の目にも、少しずつ苛立ちがつのっていくのがわかる。
このまま放っておけばまた喧嘩になるだろう。
傍で見ていた早苗はそのことに気づき――しかし、特に慌てることもなく告げた。
「まあまあお二人とも…向こうに誤解があるのでしたら、後でわたしが解いておきますから」
「そういう問題じゃないの!」
「はあ」
「痛々しい表情をしたレミリアに『こ、個性的なネーミングセンスね』って言われたわたしの気持ちがわかる?」
なぜか無性に馬鹿にされたような気がしたのよ、と諏訪子は頭を掻き毟る。
「いいじゃない。名前が間違って伝わってるなら、本来の名前のセンスが貶されたことにはならないでしょ?」
「アホか!間違って伝わってること自体に問題があるの!」
「まあ、食べ終わったらその話は聞くから」
「何その態度!」
当然と言うべきか、二人の言い争いは止まらない。
しかし、最近の早苗はそこで取り乱すことがあまりなくなった。
程ほどにお願いしますね、と告げて席を立つ。
早苗は自分の食器を手早く重ねて持つと、洗い場へ歩いていった。
つい最近までは、早苗は自分の祀る二柱の神が喧嘩するのに耐えられなかった。
大好きな二人が互いを罵り合い、争う所を見るのは辛かった。それが一過性の口喧嘩であっても。
だけど「ある一つのこと」がわかるようになってから、それがあまり辛く感じなくなった。
勿論、神社や自分に被害が及ぶような大喧嘩は奇跡を起こしてでも止めるが。
ある日を境に二人に表われた「外見上の変化」に気づいた時、早苗はそのことが理解できた。
それは自分が二人を大好きなように、神奈子と諏訪子も、お互いのことが大好きであるということ。
(あんなものを見せられちゃ…ね。お二人とも何も言わないけど、気づいてないと思ってるのかしら)
外の世界での買い置きがそろそろなくなりそうな台所用洗剤を泡立てながら、早苗はくすりと笑う。
背後からは相変わらず神奈子と諏訪子の言い争う声が聞こえていた。
(犬も食わないなんとやら、ですよ)
宴会の次の日の朝だというのに、二柱の神は元気に喧嘩をしている。
二人の服装は一見いつもと変わらないものだ。
しかしよく見ると、幻想郷に来てすぐの頃にはなかった装飾品が、増えている。
それは二人の身体の同じ部分で、窓から差し込む朝日を照り返して輝いていた。
神奈子の左手の薬指には、鈍く光る鉄の指輪が。
諏訪子の左手の薬指には、絡み合う藤蔓を模した指輪がはめられていた。
「それにしても、八坂様は紅魔館…だったわよね?あそこの人たちに何を言ったのかしら」
洗い物を終えた早苗は、諏訪子と神奈子の言い争う声に耳を傾ける。
「ふざけんじゃないわよこの大蛇!何よ『二拝二拍一拝の語源は早苗の下戸っぷり』ってのは!」
「『二拝二拍一拝→にはいにはくいっぱい→二杯に吐くいっぱい』ってことね」
「ああなるほど、早苗っていつもビール二杯でゲロちゃん消化に耐えず…ってアホかーっ!!」
諏訪子と仲直りできた後も、神奈子はしばらくの間早苗に口をきいてもらえなかった。
他にも文チルやらチェン雛やら、もうおなか一杯です。
ご馳走さまでした。
実を言うと以前の(と言っても全て読んでいたわけではないですけど)ぐい井戸・御簾田さんの作品はいまひとつ好きになれなかったのですが、今回の作品でずいぶんと印象が修正されました。今後の作品も楽しみにしています。
作品とは関係ないですが、あとがきのAA、一瞬小兎姫かと思いました。
AA自体は嫌いじゃないし、言ってることもいいし、作品(話)によっては許容範囲かもしれないが
この作品(話)では×だと思うね
あれこれとたっぷり過ぎてどこをどう突っ込むべきかも忘れてしまいました。
ともかくまあこの勢いはYESですよ。うん。多分。
神奈子様に心の揺れ動きやら葛藤やらが密に書かれていて思わず引き込まれました。
紅葉が降ってくるところや、諏訪子様の御神渡りのシーンは本当に綺麗でしたね。絵になるなぁ諏訪子様。
ゲロちゃん消化に耐えずで思いっきり吹いたのは秘密。
そして神奈子さまの未曾有のデレっぷりGJ
いい夫婦ですた
相変わらずの練られた展開を見せる戦闘場面で、大ちゃんの意外な格好良さに惚れそうになったり。
ドタバタギャグの味付けを濃くしながらも、冒頭からラスト迄ずっと示され続けていたのは二人の物語。
部分を部分として見ても美味しく、全体で捉えれば尚うまい。素敵なお話、ご馳走様でした!
可愛いなあケロちゃんは
因縁の武器をそう使うかーと
楽しませて頂きました!
この二人大好きだー!
でも純粋にオモシロカッタヨ
男装した諏訪子を想像してめがっさ萌えました
ロリじゃなくてショタでもいけるキャラだったとは・・・w
風神録で加わった面々も個性的で良いですね。
>「抱きしめたいわぁ…妖精さん!」
何はともあれ、にとりが乙女座であることは十分に分かりましたw
ネタの融合にセンチメンタリズムな運命を感じずにはいられない!
諏訪子さまもとっても男前。
御神渡りの真実もウマい!
仲良く喧嘩するうるせぇ!二人が微笑ましいですね。
ご馳走様です。
後編ラスト近くの諏訪子が凍らされたところあたりは、諏訪子視点も微妙に交じっていたように思います。
それについてケロちゃん視点での裏バージョンは書かれたりしないのでしょうか?
見てみたいです。
ともかく心が揺れ動きまくる乙女で、そしてケロちゃんに惚れまくってる神奈子様が可愛らしかったです。
とてもすばらしいお話でした!