※小ネタパロネタ満載SSです。※
霊山に、朝の風が吹く。
秋晴れを予感させる朝日に照らされた守矢の神社に、少女の声が響いた。
「八坂様、舞茸見ませんでした?」
「舞茸?」
朝食を終え、何気なく窓から庭を眺めていた八坂神奈子は、背後からの声に振り返った。
風の神――神奈子自信の事だが――を祀る風祝、東風谷早苗の姿がそこにあった。
「今夜は茸鍋でも作ろうと思いまして。まだ買い置きがあった気がするんですが…」
「うーん、舞茸ねえ」
掃除洗濯炊事、買い物などの家事全般は早苗に一任してある。
食材の所在などは当然早苗が一番よく知っているはずであった。
「ちょっとわからないわね」
「そうですか。…なんだか最近、知らないうちにお肉や野菜が減ってる気がするんですよね…」
「……そう」
その言葉には、思い当たる節があった。
神奈子たちが幻想郷にやってきたのはつい最近の事であり、それ以前は外の世界で暮らしていた。
その世界には、
『お酒は二十歳になってから。ルールを守って楽しく美味しく飲みましょう』
というルールがあり、その年齢に達していない早苗は基本的に酒を飲むことがなかった。
十代の少女が平気な顔して酒を飲む幻想郷に来てからも、早苗はその習慣を守っていた。
どうしても断れない宴会の場で仕方なく酒を口にするということはあったが…それでも嗜む程度の量だ。
そんなわけで、神奈子の日々の楽しみの一つ、晩酌の時間には、早苗は布団に入っていた。
そして、酒には肴、肴には料理。
家のどこに何があるか、早苗ほどではないにしろ、神奈子もある程度は知っている。
草木も眠る丑三つ時(ぐらいの時間)、普段は振るわない料理の腕を存分に振るい…結果、
早苗の知らないところで食材が減っていくのであった。
「……何かご存知ないですか?」
心なしか、早苗が自分を見る目には疑いの感情が混じっているように見える。
「し、知らないわ。ネズミでもいるんじゃないかしら…ほんとにこっちの暮らしは不便よね、あはは…」
神社は自然溢れる妖怪の山の頂上にあり、実際にネズミの類が入り込むことはある。
それにしてもこの食材の減りようは異常ではあったが、そこは元・現代っ子の早苗のこと。
「ですよねえ…元の世界にいた頃は、虫一匹入ってくるだけでも大騒ぎだったのに」
とりあえずこの場はネズミに責任を押し付ける事で切り抜けることができた。
今後は晩酌用の食材を自分で管理するようにしたほうが良いかもしれない。
そもそも自分は一度の晩酌でそれ程多くの肴を食べるほうではない。
自分の晩酌の相手が、やたらと「この酒にはあれが必要、あの酒にはこれが必要」とうるさいのである。
「おふぁよ~」
酒の肴にうるさい山の神は、今日も一人だけ遅れて起き出してきた。
「あ、洩矢様、おはようございます」
「あと三十分くらい早く起きられないものかしらねえ」
「あーうー。わたしもみんなで朝御飯食べたいんだけどさあ」
洩矢諏訪子は寝癖だらけの金髪を揺らしながら、半開きの右目をこすった。
諏訪子は神奈子と共に、この神社に祀られるもう一柱の神である。
秋になり、朝の冷え込みが厳しくなってきてから、諏訪子が朝起きる時間が少しずつ遅くなってきていた。
「明日から起こしてくれる?どっちでもいいけど」
早苗と神奈子の二人に、交互に眠そうな視線を向ける。
「あ、それでしたらわたしがお起こしします。朝御飯ができたらお呼びしますので」
早苗が申し出た。
「起こす時はおはようのちゅーでよろしくね~」
「はい。承知しました…って、ええ!?」
「あ、いいこと思いついた」
ノリツッコミ気味にうろたえる早苗を見て、諏訪子が笑みを浮かべた。
「神奈子と早苗が両側からほっぺにちゅーしてくれたら一発で起きるかも。『ご主人様、朝で御座います』てな感じで」
「り、両側からちゅー!?」
初心(うぶ)な早苗には少々刺激が強すぎたのか、赤面しつつ狼狽の色を濃くする。
それとは対照的に、神奈子は冷淡な口調で言葉を返した。
「アホなこと言ってないで顔でも洗ってきなさい。大体いつからわたしらはあんたのメイドになったの」
「もう。神奈子はノリが悪いわね」
「あんたの戯言にいちいちツッコミ入れてたらきりがないわよ…ほら早苗、諏訪子の朝御飯用意してあげて」
「ちゅー…あっ、え!?あ、ごはんですね!?はい、いますぐお持ちします!」
早苗は慌てて厨房へ飛んでいった。
「むー。あのまま行けば少なくとも早苗はちゅーで起こしてくれたかもしれないのに」
「あの子の信仰心につけこむような真似をしては駄目…わたしもやってみたくなるでしょう」
「へいへい」
諏訪子は洗面所へ。
最近ではこうして寝起きの諏訪子の相手をするのが、朝食後の運動(?)代わりである。
神奈子も諏訪子も、文字通り神がかり的に酒が強く、晩酌の酒で二日酔いなどと言う事は滅多にない。
しかし諏訪子の起床時間は日増しに遅くなっており、晩酌で飲む酒の量も少し減らそうか、と神奈子は考えていた。
俗に言う「目がパッチリ」な目覚めは、やはり素面で眠りについた時のほうが実現の確率が高い。
この広い神社で三人暮らし。
できれば食事は全員で取りたい…その思いはおそらく、早苗と、諏訪子自身も同じだろう。
しかし日が落ちれば酒が恋しくなる。
これも、神奈子と諏訪子の共通の思いであった。
(もう少し、酒の飲み方を考えてみたほうがいいのかしら)
幻想郷の住人達には、酒好きが多い。
麓の巫女と出会い、幻想郷の先住民たちと交流を持つようになって最初に思ったことがこれであった。
宴会も、やろうと思えば毎日でも開けるし、参加者は集まる。
しかしさすがの自分も、常時酒浸りのような生活(そういう生活をしている妖怪もいいるらしいが)は避けたいし、
何より酒がそれほど得意でない早苗をそういう日常に巻き込みたくはなかった。
(諏訪子は何て言うかしらね)
腰を据えて話をする時、神奈子と諏訪子はよく喧嘩をした。
元々仲は良いほう、というか大変長い付き合いの友人ではあるが、二人は些細な事でよく喧嘩をする。
先日も、
『神奈子はわかってない!鉄の輪ってのは硬いのよ?手錠よ?首輪よ?』
『所詮は形を変えることもできない金属の塊よ。自由自在に変形する藤蔓のほうが強力だわ』
鉄輪と藤蔓、どちらが武器として優れているかの議論から口喧嘩に発展し、一触即発の状況になった。
『藤蔓?植物性繊維でしょ?そんなもので敵を拘束できると思ってるの?』
『ふん、金属なんて錆びてしまえばそれでオシマイじゃない』
『何よ!?』
『やる気!?』
口喧嘩といえど神と神の戦い、度を過ぎれば只事ではすまないのだが、そんな時は早苗の出番である。
『や、やめてくださーい!!』
幼い頃から神奈子と諏訪子を祀る風祝として生きてきた早苗にとって、二人は家族以上の存在だった。
そんな二人の仲が険悪になることは早苗にとって我慢のならないことであり、喧嘩の際にはすぐに止めに入るのだった。
『この蛙女。負け犬。二つ合わせて負け蛙』
『はぁ?いつまでそんな過去の栄光に縋ってんの?ほんと執念だけは一流ね、まさに蛇女!』
『お二人とも、喧嘩はおやめください!!』
基本的に、早苗がどんなに大きな声を張り上げても、二人は喧嘩を止めない。
『だいたい何?二拝二拍一拝とか、ただ左右に振ってるだけで避けられる簡単スペルじゃない!』
『うるさいのよ、この最弱Ex中ボス!猫以下!』
『も、もう…いいかげんにしてくださらないと、わたしも怒りますよ!』
というか、最初から早苗の話など聞くつもりがない。
『ケロちゃん(笑)』
『オンバシラ(笑)』
『け、喧嘩しちゃダメだって…言ってるのに…何で、仲良くしてくれないの…ぐすっ』
こうして早苗が目に涙を浮かべ始めた時点で、ようやく二柱の神は仲介者の存在に気づくのである。
両の目に大粒の涙を溜めながら、必死で二人の喧嘩を止めようとする早苗。
『ちょ、ちょっと早苗!何泣いてるの!?』
『ば、馬鹿、神奈子!わたしらが喧嘩してるから泣いてるんでしょうが!!』
『うえぇ…わたし、やさかさまも、もりやさまも、だいすきなのに…なんで、いつも、けんかするの…?』
早苗が今よりもっと幼い頃からの決まり文句であった。
この台詞が出たら最後、神奈子も諏訪子も、その心の中から完全に闘争心を消し去られてしまう。
子はかすがい、という諺があるが、この血が繋がっていたり、繋がっていなかったりする不思議な三人家族をおいて、
その諺をここまで忠実に再現している家族が今の日本にあるだろうか。
とにかく、神奈子と諏訪子の関係は、早苗と、その先祖たる風祝の家系によって一応良好に保たれてきた。
家系図を古代まで遡れば、やがて諏訪子に辿り着くという恐るべき事実があったりもするのだが。
しかし。
(ま、今は喧嘩なんてものにビビってる状況でもないんだけどね…)
現在、神奈子の胸中には、どうしても諏訪子と二人で話しておかねばならないことがあった。
胸の内に秘めてきたその話を、今日、諏訪子に打ち明ける。
その結果、いつものように喧嘩になっても、今日だけは早苗の仲介を頼りにしない。
自分と諏訪子が、最後まで二人で話し合い、片をつけなければならない話であった。
「早苗」
「はい?」
卓袱台の上に、諏訪子の朝食の食器を並べている早苗に声をかけた。
「舞茸がなくなったのならば、新しい物を仕入れてくるしかないでしょう」
「はあ、それはまあ」
「聞くところによると、魔法の森には多くの種類の茸が自然に生えているそうよ。一度行ってみたら?」
「魔法の森…ですか?」
つい先日、神奈子たちは幻想郷に暮らす二人の人間と知り合った。
その内の一人が言っていた――自分が暮らす森には多種多様な茸が生えており、夕飯のおかずに困ることは無いと。
「ええ。あなたもまだ行ったことがない場所じゃないかしら?」
「そうですが…」
「不安?大丈夫よ、あなた程の実力を持った人間ならば、そこらの妖怪にはひけを取らないわ」
実際、早苗が持つ「奇跡を起こす程度の能力」は、幻想郷ではそれ程珍しい類の能力ではない。
しかしそれは早苗の力が弱いということではなく、彼女の力は周囲の妖怪と比べても決して劣るものではない。
少なくとも、単身で幻想郷を散策しても、容易に妖怪や妖精のカモになるようなことは考えられなかった。
「そうだといいんですが」
先日知り合った二人の人間に敗北を喫して以来、早苗は自分の力に自信を持てないでいた。
後から話を聞いてみればあの二人はこれまで数々の異変に挑んできた幻想郷の猛者であり、
現在の「あるルール」によって「人間と人外の者の戦い」が支配された幻想郷ではかなり強い部類に入るとのこと。
まだ幻想郷のルールに適応しきっていない早苗が敵わないのはある意味で当然といえた。
ゆえにその二人に負けた事を過剰に気にしすぎるのは、早苗にとってよくないことだと神奈子は思うのだが…その一方で、
早苗の心に「もっと強くなろう」という向上心が芽生えた事に喜びを感じてもいた。
「森には魔理沙もいるし。案内してもらったら?」
「あの魔法使いにそんな親切心があるでしょうか」
「あら、あの子はあれで中々いい子よ?少なくとも、うちの分社を幻想郷で一番最初に作ってくれたのはあの子なんだし」
分社の出来は最悪だったが。
「ん~…わかりました。どの道買い物には行かなきゃならなそうですし、あとで行ってみます」
早苗にとって、二人の人間――麓の巫女の霊夢、魔法使いの魔理沙は、幻想郷で最初に知り合った人間であった。
神奈子は、できることなら、早苗が二人と仲良く出来れば良いなと思っている。
この世界での人間の位置づけや振舞い方について、早苗はまだ何も知らない。
外の世界とは文明レベルが違う幻想郷において、早苗には「この世界の先輩」としての人間の友人が必要だと思った。
早苗自身も、自分なりに頑張って霊夢や魔理沙とコミュニケーションを取ろうとしている。
その背中をそっと押してやるのが、自分と諏訪子のやるべきことだろう。神奈子はそう考えていた。
(こういうの、外の世界ではなんて言うんだったかしら…公園デビュー?)
何にせよ、この幻想郷には、これから早苗が知っていくべきことがいくらでもあった。
それは神奈子と諏訪子にとっても同じことかもしれなかったが。
「いただきま~す!」
いつの間にか食卓についていた諏訪子が、すっかり目が覚めたという顔で食事を始めていた。
※※※
「ねえ、諏訪子」
早苗が洗い物をする音を聞きながら、神奈子は諏訪子に話しかけた。
「んむ?」
諏訪子は白米をかきこみながら答えた。
その顔を見て、神奈子は溜め息をつく。
「…ほら、ご飯粒ついてるわよ」
「おお、これは一生の不覚」
神奈子に頬の米粒をとってもらいながら、諏訪子は苦笑する。
これが一生の不覚というのなら、諏訪子は長い人生(神生?)の中で何度、一生の不覚をとってきたのだろう。
「朝からそんなに急いで食べることないでしょ…よく噛まないと消化に悪いわ」
「飲んだ日の翌日はお腹が減るのよ」
「だったら尚更。よく噛んで食べたほうが早めに満腹感がやってくるのよ」
外の世界にいた頃、何かの本でそんなことを読んだ気がする。
そういえば幻想郷では、どこに行けば本が手に入るのか…今度魔理沙にでも聞いてみよう。
それこそ、自分が是非とも案内してもらいたい場所であった。
「そうね…最近は柔らかい食べ物が増えたからねえ」
諏訪子はそう言って笑うと、食べるペースを少し緩めた。
神奈子と諏訪子は、外の世界で人間の生活が時と共に変化していくのを見てきた。
食生活もまた、然り。
いつの間にか、その変化を見ているだけでなく、自分たちもその流れに巻き込まれていたのだろうか。
変化への順応。
そこまで考えた時、神奈子の脳裏に、諏訪子に話すべき「本題」が戻ってきた。
「それよりね、諏訪子」
「何よ?」
諏訪子も「神奈子が何か、自分に話すことがある」という雰囲気を感じ取り、耳を傾けた。
(外の世界にいた頃は)
神奈子はこれまで決して口にすることはおろか、考えることすらしなかったことを口に出そうとした。
(まさに『有りえない』話だったのかもしれないけど)
脳内で刹那の逡巡の後、神奈子はその言葉を口にする。
「今日、もし暇だったら…いや、たぶん百パーセント、暇なんでしょうけど…一緒に里まで、い、行ってみない…?」
最後に少し、どもってしまった。
いやはや、何とも。
『舞茸見なかった?~A new myth and old one~』
八坂神奈子と洩矢諏訪子の付き合いは、大変長い。
最初は敵同士、というか、神奈子が一方的に諏訪子が信仰を集め、治めていた国を征服しようとしたのだ。
大和の神・神奈子の侵略に抵抗した、この国の土着神の頂点・諏訪子。
戦いの結果は神奈子の勝利に終わり、諏訪子の国は神奈子が支配することになった。
しかし、神たる存在にとって一番大切な信仰が、新たな支配者の神奈子には集まらなかったのである。
戦いに勝ち、信仰で負けた神奈子。
戦いに負け、信仰で勝った諏訪子。
結局、諏訪子が統治せねば国の民はまとまらず、これまで通り諏訪子がその国の実質の神となったのである。
それでも、大和の神を主役とする「中央神話」を人間の意識に定着させるべく、神奈子はある作戦を立案した。
それは諏訪子を大和の神と融合させ、あたかも侵略戦争に勝った神が洩矢神、
つまり諏訪子の国を奪い、支配したように見せかけることであった。
大和の神、これは「建御名方命」という名前だけの神であり、神話上は
「この国の土着神に戦いを挑み、侵略した」神奈子と、
「その後、その国に神として君臨し、支配した」諏訪子の、
両側面を持った神として、人間達の心に刻み込まれた。
この工作により、神奈子と諏訪子は一つの名前を共有する神でありながら、全く違う形で信仰を集めることとなった。
諏訪子が元の自分、つまり洩矢神として存在できるのは自国の中だけであった。
大和の神話が日本全土へ広まるにつれ、諏訪子は「国を支配する建御名方命」に対する信仰から力を集めた。
自分であって自分でない、そんな建御名方への信仰の割合が次第に増し、相対的に本来の洩矢神への信仰は薄れた。
諏訪子は、時代と共に少しずつ、自分自身が人々の心の中で薄れて消えていく過程を眺めることとなった。
神奈子は「洩矢の神を倒した建御名方命」への信仰で力を増すと共に、独自に「建御名方の妻」としての名を手に入れ、
洩矢の国に対してはひっそりと、しかし外では堂々と大和の神として信仰を集めていた。
やがて洩矢の国と日本の間の境界も薄れ、大和の神話の力がより大きくなってからは、
諏訪子の存在を隠す必要が出てきた。
神社に祀られているのは「建御名方命」と「その妻としての神奈子」であり、土着神はそこにいてはならない。
その時、本来名前だけの存在であった建御名方命は本当の意味で諏訪子と融合した。
神社には二人の神がいる。
一人は神奈子、そしてもう一人は、遥か遠い昔に大和の神に敗れた土着神などではない、勝者たる建御名方命である。
土着神としての信仰の器の必要性が薄れた今、
神話上の建御名方命と矛盾が生じる諏訪子の姿形や能力は、人目に晒すべきでない。
神奈子の当時の判断から、諏訪子は神社の奥に隠れ住む生活を余儀なくされることとなった。
そして時代は変わり――人々の心から信仰心そのものが薄れ、神社と湖ごと幻想郷へ引っ越すことになったのである。
「あ~う~あ~あ~う~う~たったからったった~♪」
目の前の土着神は、外の世界で覚えた歌の一節を歌い上げながら、上機嫌で神奈子の一歩先を歩いていた。
どこか原曲と違うような気がするが、神奈子自身その歌をあまり真剣に聴いたことがない。
早苗が外の世界の機械で歌を流していたのを、偶然耳にしただけである。
「恋の鉄輪を使~って~♪神奈子にタッチ~♪大蛇のような子だって~♪神奈子にタッチ~♪」
…うん、これは間違いなく原曲と違うわね。てゆーかもはや替え歌の域。
そんなことを考えながら、神奈子は諏訪子の背中に視線を向けた。
諏訪子が朝食を終えるのを待って、守矢の神社の三人は外に出た。
早苗は夕食に使う茸を探して魔法の森を、神奈子と諏訪子は人里を目指して。
現在、少しずつその温度を低下させ始めた朝の風の中、二人は山道を下り方向に歩いていた。
「にしても、どういう風の吹き回しかしら?」
不意に歌うのを止めた諏訪子が、神奈子を振り返る。
「あっちにいた頃は、こんなこと天地がひっくり返っても言わなかったような気がするんだけど」
「別に…あんたにも、ちょっとは神社の外を知っておく必要があると思ったの。それだけよ」
「ふーん」
土着神は大和の神に負け、その国を明け渡した。
その神話を成立させるためには、諏訪子を国の外へ出すわけにはいかなかった。
神話上、諏訪子が治めていた国は建御名方神が支配しており、元々いた土着神は王座を奪われたことになっている。
諏訪子の存在は秘匿するべきものであった。
建御名方神と融合したといっても、諏訪子が建御名方神になったというよりは、
建御名方神が諏訪子の立場に成り代わったという意味合いが強い。
結果、幻想郷に来る以前は、神奈子はできる限り諏訪子の存在を隠そうとしていた。
それは戦いの勝者として神奈子が諏訪子に強いた、唯一のペナルティーだったと言える。
「ま、あんたと早苗ばっかりここの連中と遊んでるのは確かに納得行かないしねー」
やはり諏訪子は自分が「隠された神」であったことに不満を持っていたようだ。
神奈子と早苗が一度負けた霊夢と魔理沙に戦いを挑もうとしたのも、そのような心境があってのことだろう。
そして今日、神奈子が諏訪子に話をしようとしていることも、「それ」に関することであった。
「諏訪子」
神奈子は意を決し、落ち葉が舞い散る山道の上、立ち止まる。
「…ん?」
神奈子の顔に浮かぶ、いつになく真剣な表情を察し、諏訪子も足を止めた――その時だった。
『やめて!紅葉が散っちゃう!!』
悲鳴が混じった少女の声が、二人の耳に届いた。
同時に、強い風――自然に起こった風にしては、やや強すぎる突風が吹きつけた。
「…神奈子、何かした?」
諏訪子が振り返り、尋ねる。
乾、つまり天を創造する風雨の神である神奈子の手にかかれば、この程度の風を起こす事は容易い。
しかし今この場で、神奈子は何もしていなかった。
「何もしてないわ」
神奈子は自分が切り出した話を遮られ、内心やや不愉快な感情を抱えたまま答えた。
「じゃあこの風…天狗かな?」
諏訪子も、現在自分たちの周囲を吹き荒れている風が自然のものではないと気づいているようだった。
「たぶん、あれね」
こうして言葉を交わしている間も、二人は山道を歩み進んでいた。
そうして歩くうちに目に入った光景を指差し、神奈子は告げる。
そこには二人の少女と、二つの回転体があった。
「お願いだから他所でやってー!!大事な葉っぱがなくなっちゃうじゃない!!」
「姉さんが希薄なアイデンティティを発揮できるのはこの時期だけなの!頼むから空気を読んであげてー!!」
「…穣子、なんかわたしのことバカにしてない?」
よく似た色合い――それはちょうど今の季節、秋を想わせた――の服を着た二人の少女が声を張り上げていた。
その声に答えることなく、空に浮かんだ二つの回転体は縦横無尽に動き、回り続ける。
先ほど神奈子と諏訪子が感じた風は、その二つの回転体が起こしているものだった。
「どうしたの?」
諏訪子は二人の少女に話しかけた。
紅葉を模した髪飾りをつけた少女が、帽子をかぶった少女の首を絞めていた。
この二人の少女は、おそらく秋を司る神の類か――遥か昔から八百万の神を知る神奈子は、漠然とそう思った。
「あの二人がぐるぐる回ってるせいで、ここに咲いてる紅葉が散っちゃうのよ!」
紅葉が咲く、という表現は、外の世界でも耳にしたことのないものだった。
紅葉に対する特異な解釈と執着――やはり秋の神か。
「あの二人って…」
空中でぶつかり合う二つの回転体を、神奈子は眺めた。
あまりにも速く回転しているため、それが何かはわからなかったが、おそらく妖怪であろう。
かろうじて、両者が赤と緑を服装、あるいは身体の色として持っていることがわかった。
「…って、あんた達、誰?ここらじゃ見かけない顔だけど…」
帽子の少女は神奈子と諏訪子を見て怪訝な顔を浮かべた。
神奈子たちが幻想郷に引っ越してきてから、何だかんだで未だ日は浅い。
山に住む神や妖怪が神奈子たちの存在を知らなくても無理はなかった。
「ふっ、よくぞ聞いてくれたわね!わたしは守矢の神社の諏訪子!人も神も戦い鍛えれば…」
「はいはい、そういう長ったらしい自己紹介は後。…これはどういう状況なの?」
神奈子は二人の少女に尋ねた。
「見ての通りよ。あの二人が起こす風のせいで、わたしの大切な紅葉が散っちゃうの」
髪飾りの少女が、困った顔をしながら答えた。
その少女を先ほど「姉さん」と呼んだ帽子の少女が、付け加える。
「ま、紅葉はわたしたち秋の神にとっては結構大事なものなの。散るにしても、然るべき時期に散ってくれないと」
季節を司る神にとって、その季節を象徴する自然現象は他者が考える以上に重要なものなのだろう。
目の前の(おそらく)姉妹の切迫した表情が、それを物語っていた。
二つの回転体は、そんな姉妹の言葉を聞き届けることなく、渦巻く風を起こしながらぶつかり合っている。
(神奈子、神奈子)
諏訪子が耳打ちしてきた。
(何よ?)
一応は、秘密の話であるという諏訪子の意思を汲み、神奈子も小声で返事をする。
(ここでこの二人を助けとけば、山の先住民の好感度アップ↑じゃない?)
(…まあ、そうね)
(パッと見、あそこで回ってる連中も大したことなさそうじゃない?)
(ええ)
(わたしらでちゃっちゃとやっつけて、お手柄イタダキといきましょうよ)
確かに「二つの回転体」はひたすらぶつかり合うだけで、大した戦闘能力を持っているようには見えなかった。
でも、と神奈子は反論する。
(相手の実力はともかく、山の妖怪に反感を買うような真似はあんまりしたくないんだけど…)
色々なことがあった結果、天狗や河童といった山の妖怪とは、神奈子たちは親交を築きつつある。
今はとにかく彼らと仲良くする時期――妖怪達に危害を加えることは、神奈子はできれば避けたいと思っていた。
(じゃあ目の前で困ってる秋の神を放っとくの!?)
(そうじゃないわ、せめて話し合いで…)
しかし先ほどから目の前の秋の神が呼びかけている様子を見る限り、話を聞いてくれそうな雰囲気ではない。
一体どうするべきか――神奈子の心の内に葛藤が生じた。
確かに、今この場で困っている山の先住民を見殺しには出来まい。
しかし、安易に武力でもってこの事態に介入すべきではない、そうも思う。
できればこの場は丸く収めたいと思ったが、どうにもその方法が思いつかない。
自分たちはこの山の中では新参者だ。力はあっても、その力の振るい方については、大いに考える必要がある。
困っている者は助けたい。
しかし、山の妖怪に危害を加え、反感を買うような真似はしたくはない。
葛藤であった。
「神奈子、回転が止まったわ!」
「何ですって!?」
二つの回転体が、動きを止めた。
この事態はある意味、神奈子にとって望ましい展開である。
これ以上葛藤を長引かせず、自然に自体が収束してくれるという結末は、願ってもないことであった。
しかし、ぶつかり合っていた二つの回転体は、動くのを止めはしたが、戦いを止めたわけではないらしい。
神奈子たちから見て、向かって右側に浮かんだ人影は、赤い服を身に纏った幼い少女のそれである。
緑色の帽子の端からのぞく猫のような耳と、スカートの裾から伸びた二股の尻尾。
化け猫――あるいは、それに近い妖獣の類であろう。
もう片方、左側に浮かんだ人影は、緑色の髪に赤いリボンをあしらった、人形のような姿をした神だった。
「ここから先は危ないから行ってはだめだと言ってるでしょう!災厄が振りかかるわよ!」
「ふかーっ!!それでもわたしはこの先に生えてる茸を取ってこなきゃならないの!」
強い口調で声を張り上げる神に対し、化け猫も全身の毛を逆立たせる。
黒い体毛を針のごとく立てた耳と、二本の長い尻尾は、まさに野生を想わせる戦闘的なフォルムであった。
もっとも、耳と尻尾を除けば見た目は人間の少女と変わらず、しかも外見の年齢は人間にして十か十一。
逆立つ体毛は白く薄い産毛ばかり。
神奈子と諏訪子、そして二人の秋の神ですら、思わず「可愛い」という印象を抱いてしまった。
「わたしは藍さまのお使いなんだから!今夜の茸鍋の具を探さなきゃならないの!」
どうやらこの化け猫も、夕飯の献立として茸鍋を予定しているらしい。
やはり秋は茸が美味い。幻想郷でも外の世界でも、これは共通の認識だろう。
「お使い?ふん、最近は人間のみならず、妖怪にも命知らずな輩が増えたようね!」
こちらの神様らしい少女も臨戦態勢で答える。
「いいわ、力づくでもここから追い払ってあげる!!」
互いに一歩として退く様子がない。
「災厄なんて所詮は運否天賦、完全なる八雲の方程式の前には無力よ!!」
「甘い甘い甘い!理論を無視して現象を起こす、故に運!それが厄!」
しかし最大の問題は、回転を止めてなお、この二人が周囲の何者にも注意を払っていないことであった。
「まずいわね…ありゃ完全に二人の世界に入っちゃってるわ…」
「懐かしいわね…神奈子がわたしの国に侵略してきた時も、ああして舌戦の末、激闘を…」
「あんたは輪っかが錆びた途端に白旗あげたじゃないの」
遠い目をして昔を思い出す諏訪子、それにツッコミを入れる神奈子。
そんな緊張感のない二人に若干の苛立ちを覚えながら、髪飾りの少女が悲痛な叫び声をあげる。
「ああ、黄色くなったばかりの銀杏(いちょう)が!」
神と化け猫は回転し、ぶつかり合う奇妙な戦いを再開した。
それにつれて空気が再び渦を巻き始め、色づいた木の葉を空中に舞わせていくのだった。
「迷ってる時間はないってことね…」
そう、神奈子が逡巡している間にも、目の前の事態は時間と共に悪化していくのだ。
一体、どうすればいいのか。
「ああっ!」
諏訪子が何か重大な事に気づいたように声を上げた。
この事態を上手に切り抜ける手段を思いついたか――とばかりに、神奈子は諏訪子の方を振り向く。
諏訪子は空を指差したまま、驚愕の表情を浮かべていた。
「あっち…猫のほう!」
「猫?」
化け猫を見ていて、何か気づいたことがあったのだろうか。
諏訪子は緊張した面持ちで、何度も「いや、まさか…でも、間違いない…」とつぶやいていた。
「何か思いついたの?」
神奈子は期待の表情を浮かべ、諏訪子に尋ねた。
「…あの回転軌道…まさに黄金長方形!」
「…は?」
黄金長方形――それは辺がおよそ9:16、正確には1:1.1618の比を持った長方形のことである。
この長方形は古代からこの世で最も美しい形の基本の比率とされている。
エジプト・ギザの「ピラミッド」「ネフェルティティ胸像」、
ギリシアの「パルテノン神殿」「ミロのビーナス」、
そしてダ・ヴィンチの「モナリザ」…この世の建築・美術の傑作群には、計算かはたまた偶然か、
この「黄金の長方形」の比率が形の中に隠されているのである。
芸術家たちはその「長方形」を本能で知っている。
ゆえに、その作品は「美の遺産」として万人の記憶に刻み込まれるのだ。
…ということを、諏訪子は神奈子に熱弁した。
「そ、そう…」
あまりにも真剣に語る諏訪子の気迫に圧され、神奈子は一歩後ずさりながら返事をした。
一体どこでこんな事を覚えてきたのか…おそらくは、外の世界で本やテレビから得た知識だろうが。
「それで諏訪子、その黄金…長方形だっけ?それがこの事態の解決に何か…」
視線を空に向ける。
力づくで化け猫と人形を止めようとした髪飾りの少女が、二人の回転に弾き飛ばされるのが見えた。
「いい?神奈子。黄金長方形の中に一つ、正方形を作ってみるわ」
諏訪子は傍に落ちていた木の枝で地面の上に長方形を描き、それを二分する直線を引いた。
直線によって分断された長方形は、正方形と小さな長方形に分かれた。
「そうして長方形を二分した図形のうち、正方形でないほうの『小さな長方形』は…」
「うん」
「…これもまたおよそ9:16の黄金長方形になる」
諏訪子はさらにその小さな長方形の中に線を引き、図形を二分する。
「これにまた正方形を作ると、残りは黄金長方形…」
そのまま同様の作業を続け、次々と小さな黄金長方形が作られていった。
「さらにまた作る…さらにまた…さらにまた…そして、正方形の中心点を連続で結んでいくと」
黄金長方形と隣接した無数の正方形の中心点を、諏訪子は線で結んでいく。
大きな正方形から小さなそれへ、中心点を結ぶ線はうず巻き状の軌道を描いて伸びていた。
「無限に続く『うず巻き』が描かれる。これが『黄金の回転』よ」
諏訪子はドドドド、というような効果音が似合いそうな表情で言い切った。
「そ…それで!?」
いつしか神奈子も諏訪子の話に引き込まれていた。
よくわからない話だったが、諏訪子の口ぶりから言いようもない一種の「頼もしさ」を感じていた。
最良の解決法がそこから生まれることを信じ、諏訪子の次の言葉を待つ。
一瞬の沈黙の後、諏訪子は口を開いた。
「かっこいいわよね~」
諏訪子は生まれて初めて間近で見る黄金の回転に見とれていた。
化け猫は美しい回転軌道を描き、空に無限の力を持った突風を起こし続けていた。
「い、いや、諏訪子、だからね」
「ん~?」
「それで、あの二人の戦いを止めるにはどうすれば…」
神の方も「黄金の回転」ではなかったが、「その上を行く!」と言わんばかりの強烈な回転で応戦する。
刻一刻と両者の戦いは激化し、それに伴い突風も強さを増す。
遥か遠くに飛ばされた髪飾りの少女が、ふらふらしながら戻ってきて、また風に飛ばされていた。
そして頼みの綱の諏訪子は。
「うーん、こういう時は気が済むまでやり合った後、土手に寝転がって『やるじゃない』『あんたこそ』的な…」
「あーそーやっぱりこういうオチかよえーわかってましたよあんたに期待したわたしが馬鹿でしたすいません!」
もはや打つ手なしと踏んだ神奈子は一瞬で判断を下し、空へ飛び立った。
ここは喧嘩両成敗、秋の神の意思を汲み取り、争う二つの回転体を力づくで止める。
それが、一番手っ取り早い手段だと判断したのである。
結果として神と化け猫から恨みを買うかもしれないが、話せばわかってもらえるはず――神奈子はそう判断した。
「気をつけて!『衛星』が次に襲ってくるわよォォーッ!!」
木陰に隠れていた帽子の少女が、神奈子に警告を発する。
衛星、つまり惑星の周囲を公転する小さな星のことだが――もちろん実際に天体が襲ってくるわけではない。
人形のような外見の神が回転しながら放ってきた「それ」を、帽子の少女が「衛星」と呼んだのであった。
(衛星って…あの変な丸い生き物?確か…毛玉、とか言ったっけ?)
それは幻想郷のあちこちに生息する不思議な生物だった。
列を成して襲い掛かってきたり、弱いながらも弾を撃ったりもする、妖怪とも妖精ともつかない謎の生物。
神は次々と毛玉を召喚しては、周囲にそれらをばら撒いていたのだった。
放たれた毛玉自身も周囲に弾を撃ちながら、化け猫と、そして神奈子を狙って体当たりをかましてくる。
しかし。
「全く…」
山坂と湖の権化・八坂神奈子にその程度の攻撃が通用するはずはない。
毛玉の攻撃を易々と避けると、その指先に力を集めた。
神奈子が空に向かって手をかざすと、それまで吹き荒れていた風が止んだ。
乾を創造する程度の能力、それはつまり、天、つまり空の在り様を自在に操り、あるいは創り出す力。
落ち葉が散るのを防ぐだけならこれでよかったが、風を起こす元凶がいる限り、それは一時的な対処法にすぎない。
あの二人が喧嘩をやめるまで、ずっと神奈子が風を止めているわけにも行かないのだ。
「黄金の回転だか衛星だか知らないけど、喧嘩は他人に迷惑がかからない場所でやることね!」
自身の能力で紅葉を散らせてしまっては元も子もない。
神奈子は静かに飛ぶと、突然風が止み、呆気に取られている二人の回転体を背後から捕まえた。
「あ、あれっ!?」
「い、いつの間に!!」
神と化け猫は、いつの間にか神奈子に後頭部をつかまれ、捕獲されていた。
そのまま二人の頭を左右から密着させ、神の右側頭部と、猫の左側頭部を掌でガッチリと押さえる。
「ど、どこのどなたか存じませぬが…ちょっとよろしいですか?」
右のこめかみを神奈子に抑えられ、左のこめかみを化け猫のそれと密着させた神が恐る恐る尋ねた。
フリルのついたリボンが特徴的な洋風の服装をしていたが、顔立ちは純日本風、雛人形といった感じの雰囲気だ。
「ええ、いいわよ」
「こ…この妖怪は厄が溜まってる場所へ勝手に踏み込もうとしたの」
「それで?」
「わたしは親切心でそれを止めようとしただけで…あ、あくまで善意の行為なのよ!神としての!」
彼女は神奈子が圧倒的な力の持ち主であり、自分達に制裁を加えようとしていることに気づいているようだった。
それ故、自分が悪くないということを必死に主張し、その制裁から逃れようとしているのだろう。
「なっ…いきなり攻撃してきたのはそっちでしょ!」
責任を押し付けられそうになった化け猫も、負けじと反論する。
神奈子に拘束された状態で二人は口論を始め、もし身体が自由ならば再び戦いを始めようとする気配があった。
「ほんとに危ないんだから!わたしにはこの山の厄を見張る義務ってもんがあるのよ!」
「うにゃー!わたしにも、今夜のおかずをとってくるって義務があるんだもん!」
「はいはい、二人ともさっきわたしが言ったことがわかってないようね」
しかし神奈子は唾を飛ばして争う二人の頭をさらに強く押し付けると、ドスの効いた声を響かせた。
「「ひっ!」」
ここまで来たら後には退けない。
一旦攻撃を仕掛けたら、後は山の新たな神として、ひたすら強さとインパクトを示し、カリスマ性を見せるのだ。
僅かにでも容赦すれば嘗められる。
神奈子は敢えて心を鬼にし、二人に尋ねた。
「質問よ…右のあなたをお仕置きするか?左のあなたに制裁を加えるか?当ててごらんなさい」
幻想郷では新参だが、神としてのキャリアはかなり長い神奈子である。
その声と態度には、大抵の者がひれ伏してしまう威圧感とカリスマが備わっていた。
「えーと…み、右の厄神さん?」
化け猫がひきつった笑みを浮かべながら、答える。
「NO!NO!NO!NO!NO!」
しかし神奈子はにっこりと笑いながらその期待を否定した。
「じゃ…じゃあこっちの妖怪?」
自分の主張が認められたか、と厄神は期待に目を輝かせて問う。
しかし神奈子は、その問いにも同じ答えを返した。
「NO!NO!NO!NO!NO!」
青ざめた顔をした二人は、声をそろえて尋ねる。
「「り…りょうほーですかあああ~」」
「YES!YES!YES!YES!YES!」
全身から冷や汗を流しつつ、恐怖に打ち震える化け猫と厄神は気づいた。
自分達のこめかみを押さえていた手の形が、いつの間にか握り拳――しかも中指の第二関節を突き出した、
いわゆる「中高一本拳」の形を取っていたことに。
その状態から繰り出される技として二人の頭に浮かんだ映像は、細部に至るまで酷似していた。
「「もしかしてグリグリですかーッ!?」」
二人の恐怖の感情と、その顕現たる叫びが同調した。
グリグリ。
こめかみに当てた中指の第二関節の一点に力を集中し、ねじ込むように圧迫する事で相手の頭部を責める技だ。
神奈子は外の世界にいた頃、ある書物で母親が子どもを折檻する場面を見て、この技を覚えた。
事の成り行きを見守っていた諏訪子が、神奈子に代わって二人の問いに答える。
「YES!YES!YES!”OH MY GOD!!”」
実戦で使ったのはこれまで一度だけ、魔理沙があまりにも粗末な分社を作った時のことである。
あの時はかなり手加減をしていたが、今回は少し力の制御を緩くしてもかまわないだろう。
(それにしても)
二人のこめかみに力を込める瞬間、神奈子は思った。
(”OH MY GOD!!”それを神様が言ったなら、その”GOD”、諏訪子の神は一体誰なのかしらね)
※※※
もはや再起不能(リタイヤ)かとも思われた状態から、化け猫と厄神はなんとか回復してきた。
現在二人は神奈子と諏訪子、そして秋の神の前に正座させられ、説教を受けていた。
二人を見下ろす形になった四人の神のうち、実際に説教を行なっているのは一人。
かなり切迫した顔と声で、必死に紅葉の大切さを訴えている秋の神の片割れ――静葉、と名乗った髪飾りの少女。
神奈子のグリグリ攻撃を受けた二人が気を失っている間、神社の神と秋の神は互いの自己紹介を済ませていた。
「いい?紅葉は花のように美しく、蛍火のように儚い秋の象徴なのよ?それを無理矢理散らしてしまうなんて」
静葉は紅葉を司る神であった。
妹の穣子と共に、秋真っ盛りな現在の気候や風景を満喫していたところで、突然厄神と化け猫の喧嘩に出くわした。
ここ妖怪の山では喧嘩や弾幕は日常茶飯事であり、普段は静葉も気に留めないが、今回はそうもいかなかった。
この二人、弾幕よりもむしろ回転で争っており、その結果天狗風に匹敵する強風を起こしていた。
風が吹けば桶屋が儲かる…どころか、ダイレクトに「風が吹けば静葉が泡を吹く」とでも言うべき事態が起こった。
すなわち、二人の回転が起こした風が色づいたばかりの紅葉をもの凄い勢いで散らしてしまったのである。
これは大変、一年で唯一自分の能力と神徳が脚光を浴びる時期が台無しになってしまう。
そう思って喧嘩を止めに入ったところで、神奈子たちが通りかかったのであった。
「いいえ、むしろ花より美しく、蛍より儚い!ああ、そんな世界で最も美しい自然からの贈り物になんてことを!」
穣子曰く、静葉は普段は物静かな寂しさと終焉の象徴…らしいのだが、紅葉が絡む話題に関しては別なのだそうだ。
確かに今の静葉のテンションは初対面の神奈子から見てもかなり高い。
ちなみにこの発言をきっかけに、静葉は花の妖怪や虫の女王との間に確執を生じるのだが、それはまた別の話。
「まあまあ姉さん」
話の内容が「説教」から「紅葉への賛美」へとずれ始めたことを感じ取ったのか、穣子が止めに入った。
「もうこの辺でいいんじゃない?この二人も反省してるみたいだし」
厄神と化け猫はおとなしく静葉の話を聞いていた。
もしかすると、あまりにも必死な静葉のテンションに圧されて押し黙っているだけかもしれなかったが。
「だめよ穣子…いい?わたしたちが輝けるのはこの季節、秋だけなのよ?」
「うーん、まあ」
穣子は最近、豊穣を司る程度の能力は秋じゃなくても役に立つということに気づいていしまった。
そのことで密かに、紅葉の季節にしか活躍できない姉に優越感を感じているが、さすがにそれは黙っている。
来年は夏野菜の農家へ行き、信仰を集めるという計画を密かに練っているが…。
姉には夏野菜カレーを振舞うことで許してもらおう。
「でも、こっちの神奈子さん…だっけ?うん、そうだよね」
一旦神奈子に視線を移して覚えたばかりの名を確認した後、また静葉に目を向ける。
「神奈子さんのお陰で一応紅葉は守られたし。ここは寛大な態度をとるのが秋の神の余裕じゃない?」
「むぅ…それもそうね…。まあいいわ。あなたたち、今の季節が秋で助かったと思いなさい」
その台詞を最後に、静葉は説教を止めた。
とりあえずは一件落着か…そう思ったのか、正座した二人の少女から肩の力が抜ける。
神奈子もそのような心境ではあったが、横から神奈子をつつく者がいる。
諏訪子であった。
(ここで最後に気の利いた台詞の一つでもキメるのが、カリスマUPのカギじゃない?)
(…何言ってんの。もうこの件は終わりよ…元々彼女たちの問題だし、これ以上口を出しても…)
(でも、山の住人の信仰を集めたいんでしょう?)
諏訪子は言った。
確かに、神奈子自身、最近は山の妖怪や神から信仰を集めるのに夢中だ。
宴会を開いたり、話術を駆使したりして、できる限り山の先住人と仲良くなろうとしてきた。
そんな神奈子の様子を、諏訪子も知っていたのだろう。
でも、それは決して自分だけのためではなく…。
(ほら、風神様のありがたいお言葉)
諏訪子は神奈子の背中を押し、化け猫と厄神の前に立たせた。
ここに至っては神奈子も逃げられず、正座した二人の少女と向き合う。
「あ、あなた達」
先ほど自分をグリグリした相手が目の前に現れ、二人は表情を硬くする。
「…名前は?」
「え?」
「名前?」
神奈子が尋ねてきたことの内容に、二人は一瞬呆気に取られるが…すぐにその問いに答えた。
「…鍵山雛」
「橙」
「そう。雛と橙ね」
神奈子は最初に、自分から向かって右に正座する、雛、と名乗った少女に目を向けた。
「さっき『こっちの猫さんが厄が溜まってる場所へ踏み込もうとした』って言ったかしら?」
「…はい」
「それで、あなたはそれを親切心で止めようとしたと」
「はい」
雛は下を向いたまま、神奈子の言葉に答えた。
神奈子は優しい、しかしよく響く声で話を続ける。
向かって左側の化け猫に視線を移し、声をかけた。
「次に、橙」
「は、はい!」
神奈子の目に射すくめられ、緊張した様子で橙が答えた。
「あなたはどうして、そんな危険な場所へ入ろうとしたの?」
橙はおずおずとした様子で答える。
「…今日の夕飯で使う茸を探してて…それを集めてくるのが、わたしの仕事だから…」
「仕事?」
「…うん。今日は久しぶりに藍さまが一緒にご飯を食べようって誘ってくれたから…」
彼女は見たところ山に棲む妖獣に見えたが、もしかしたらそれとは別の顔も持っているのかもしれない。
名前の後に「さま」をつけるような相手がいるということは、別のもっと強い妖怪の家来か何かだろうか。
とにかく、神奈子にもある程度の事情はつかめた。
茸を探していた橙が、「ここから先危険なので立ち入り禁止」とされている場所に立ち入り、
そこからその危険な区域を管理している雛と喧嘩になったのだろう。
「なるほどね」
この状況で自分がどう振舞うべきか、神奈子は少し考えた後、口を開いた。
すでに自分が彼女達よりも強い力を持っているということは、十分に認識させている。
多少は「上からの態度」をとっても問題はないだろう、と思った。
実力で勝っている者が、立場から下手に出なければならない、そんな概念が通用するのは人間ぐらいだ。
…実際に幻想郷でその辺りがどうなっているかは、神奈子はまだ詳しく知らないが。
「まずは、橙」
「はい」
「あなたにどれだけの力があるかは知らないけど、危ないと言われる場所にはそれなりの理由がある」
神奈子も神である以上、禁裏や聖域といった「特別な場所」の存在には疎くない。
雛はこの山の、おそらく災厄に関する神らしい。
彼女もそういった場所を管理する仕事を持っているのだろう。
「いかなる事情があれ、危ないと警告してくれる神様の声を無碍にするのは、罰当たりなことよ」
「う…」
「もしその場所に踏み込んでいたら、あなたはもっと酷い目に合っていたかもしれない」
それこそ、わたしにお仕置きされることなんかよりずっと恐ろしい目にね、と付け加えた。
「…はい」
橙は少し考えた後で、神奈子の言葉に頷いた。
その様子を見て、神奈子は納得した表情を浮かべ――次に、雛に目を向けた。
「次に、雛」
「はい」
神が神に説教する――八百万の神が暮らすこの国では、特に珍しい事ではない。
「あなたは厄を司る神として、ここで妖怪たちに警告を与えている…ということでいいのかしら?」
「はい」
「なるほどね」
神奈子は先ほどまでの雛の言動から、彼女が何の神であるのか、おおよそ把握していた。
予想通り、災厄、つまり不幸から人間や妖怪を守る神だったのだろう。
「それで、危険な場所に近づく者を追い払っていたの?」
雛はこくり、と頷いた。
「そう。それも相手を守るための一つの…もしかしたら最良の手段かもしれないわね」
でもね、と神奈子は話を続ける。
「あなたが厄の神様なら、傍にいて相手を守ってあげることもできるんじゃない?」
「…傍、で?」
「ええ」
神奈子は優しげな口調で返事をした。
「どうしても、相手が危険な場所を通らなければならない理由がある時」
「……」
「そういう時、問答無用で追い払うのが、必ずしも賢い選択かしら?」
雛は神奈子の問いに答えられない。
まさに現在置かれている状況が、そうして「相手を問答無用で追い払おうとした」結果だからだ。
自分は厄を集め、それを管理する神としての勤めを果たそうとした。
しかしその結果、秋の神に迷惑をかけてしまい、こうして叱られる破目に陥っている。
「危ない場所なら、ついて行ってあげて、振りかかる災厄から守ってあげるのも一つの手段よ」
「ついて行って…守る?」
雛は目を丸くして言葉を返した。
「そう。一つの能力も、使い方次第で色々なことに役立つわ」
「でも…だめよ。わたしが傍にいたら、相手も不幸になるもの」
厄を溜め込むということは、自分の周囲に厄を纏うことである。
その厄が相手に振りかかることを、雛は恐れていた。
「痛い目に合わされて追い返されるのは、不幸じゃないの?」
うっ、と雛は一瞬言葉に詰まる。
「そうすることを責めてるんじゃないわ」
「……」
「でも、痛い目見せて不幸にするのと、あなたの傍で災厄を被るのとでは大違いよ」
「…どういうことよ」
神奈子はゆっくりと言葉を紡いだ。
「災厄は相手に影響を及ぼさないよう、あなたがしっかり捕まえておけばいい」
「…か、簡単に言わないでよ!」
「それが無理でも、悪いことが起こった時にあなたが相手を助けられるかもしれない」
あらゆる場合とまではいかないけど、と付け加える。
まだ納得できない、といった表情をしている雛に、神奈子は逆に問いかけた。
「逆にあなたが戦ってしまえば、誰が相手を災厄から守るのかしら?」
「……」
雛はその問いに答えることができない。
同時にあることに気づいて――いてほしいんだけど、と神奈子は思った。
雛は自分に近づけば相手が不幸になる、と言った。
それならば、戦っている時であっても災厄は相手に振りかかるだろう。
誰かと関わるだけで相手を不幸にしてしまう、そんな雛の宿命を哀しく思ったが、だからこそ。
「払えるかもしれない不幸と、払えない不幸。救いがあるのはどっちか…考えてご覧なさい」
雛はそれでも何か反論しようとしたが、その口から言葉が出てくることはなかった。
それまで両者のやりとりを見ていた秋の神と諏訪子も、かける言葉を見つけられないでいるようだ。
新参者の自分が、少し偉そうに言い過ぎたか――と、神奈子の心に後悔の念が生まれ始めた時。
「あの!」
沈黙を破り声をを上げたのは、橙だった。
一歩進み出て雛の前に立つと、橙は勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
呆気に取られる雛に、橙は大きな声で謝罪の言葉を述べた。
頭を下げた状態のまま、橙は話を続ける。
「わ、わたし、神様の言うことも聞かないで、無理矢理通ろうとして…だから、謝ります!」
一層頭を深く下げる橙。
帽子の下から突き出た耳も、ぺたりとお辞儀をしていた。
雛はしばらく、無言で橙の後頭部を見つめた後、言葉を返した。
「顔、上げて」
橙はゆっくりと顔を上げ、雛と視線を合わせる。
雛は緊張しているのか、少し上ずった声を出した。
「わたしの方こそ、いきなり攻撃して悪かったわ。だから」
先ほどの橙と同じように、頭を下げる。
「ごめんなさい」
頭上に結んだリボンが、重力に引かれて垂れ下がった。
雛はすぐに顔を上げ、神奈子を睨みつけた。
「厄を一つの場所に留めておくのは大変なの。素人が偉そうな口をきかないでほしいわ」
「…そう。それは悪いことをしたわね」
神奈子は苦笑いを浮かべて答える。
「でも」
雛は表情を緩めた。
「あなたの話はアドバイスとして…ま、話半分に受け取っとくわ」
「あらあら」
この期に及んで雛はふてぶてしい笑みを浮かべ、神奈子を挑発するような態度を取った。
神奈子はそれに怒るどころか、どこか微笑ましい、可愛らしいという印象を受けた。
しかしそれとは別に、雛と、そして橙にはまだやるべき事が残っている。
「でもあなた達、まず最初に――」
謝る相手がいるでしょう、と言いかけた神奈子の言葉を、雛が遮る。
「ほらあんた。橙だったかしら?」
雛は橙に声をかけ、目配せをする。
橙もその意図を汲み取ったのか、元気よく頷いた。
二人は秋の神の前に立つと、同時に深々と頭を下げた。
橙の帽子が落ち、雛の長い髪もその先端を地面に付けていた。
「「迷惑かけてごめんなさい」」
勿論秋の神の姉妹は、その二人をそれ以上責めるような真似はしなかった。
※※※
結局、橙の茸狩りに雛が同行すると言うことで話はまとまった。
さすがに神奈子が言ったようにいきなり「傍にいて橙を災厄から守る」というのは難しく、
雛は橙と少し距離を置いてついて行くことにした。
「これ以上近づいたら危ないからね」
「おっけー。ねえ、この辺でおいしい茸って、雛ちゃんは知ってる?」
「ひ、雛ちゃん!?」
「あれ、嫌だった?じゃあなんて呼ぼうか…」
距離をとりながらも、橙は楽しげに雛に話しかけていた。
雛は鬱陶しい、という様子で応対していたが、満更でもなさそうであった。
そんな二人を、四人の神は微笑ましげに見送る。
「いい友達になれそうね」
穣子の言葉に、反対する者はなかった。
かなりの数の紅葉が散ってしまったが、神奈子の働きによって、それ以上の葉が守られた。
どうにか秋の景観が失われずに済んだという所だろう。
秋の神の姉妹は神奈子と諏訪子に何度も感謝の言葉を述べた。
「あ、あと、お礼にぜひとも渡したいものが…穣子!」
「はいは~い」
穣子はどこかへ飛んでいった。
穣子は豊穣の神、何か美味しいものが貰えるのだろうかと二人は期待した。
「そんな、お礼なんていいわよ…ねえ諏訪子?」
「そうそう。この時期にふさわしい秋の味覚がいいなあなんて思ってもいないわ」
神奈子と諏訪子は期待を隠せない表情で、一応社交辞令の言葉をかける。
諏訪子の言葉はそもそも社交辞令になっているかも怪しかったが。
「も、持ってきたわよ~。姉さん、ちょっと手伝って…」
やがて穣子が大きな包みをいくつも抱え、ふらふらしながら飛んできた。
すぐさま静葉が手を貸しに行く。
(おおっ!あ、あんなに…)
(何かしら、あれだけの量の…サツマイモ?栗?それとも…)
((松茸!!))
二人の脳裏には、松茸を前に目を丸くする早苗の姿が映っていた。
※※※
夕方になり、茸狩りから帰ってきた早苗の前に、二人は山盛りの松茸を差し出す。
それをみた早苗は涙を流して喜び、二柱の神を讃えるのだ。
『ああ!う…美しすぎます!実はこっそり美味しい松茸を手に入れてくださってたなんて!』
『…うう…わたしにとってそれは贅沢なる食材!一日中探し回っても見つけられなかったのに…』
己の無力さを嘆く早苗の頭を、二人は優しく撫でる。
『いいのよ早苗。いつもあなたにばかり苦労をさせて悪かったわ…』
『今夜は、わたしと神奈子がご飯を作るからね!』
早苗は堪えきれず二人に抱きつき、声を上げて泣き出してしまう。
二人は優しく早苗を抱き寄せながら、微笑を交わし合うのだ。
勿論その夜は、特大サイズの松茸が早苗の中でエクスパンデッドミシャグジさまだったんだけどね。
※※※
「早苗の『口の』中で松茸の美味しさがエクスパンドって意味よ」
「ミシャグジさまは?」
「まあいいじゃないの。ほら、松茸がやってきたわよ」
既に神奈子の中では、秋姉妹のお礼が松茸であることは決定事項になっていた。
静葉と穣子は荷物を地面に降ろし、二人の前にやってきた。
「お待たせ!わたし達二人の神徳が詰まった美味しい――」
神奈子と諏訪子の期待は今や最高潮。
心の中で「ま!ま!」と、自分達が望むお礼の頭文字を連呼していた。
二人の視線が集中する静葉の唇が、動く。
(ま!)
(ま!)
時が止まったかのような一瞬。
二人はその一瞬を、数千数万もの須臾に分けてゆっくりと知覚しているかのように感じた。
ちなみにここには完全で瀟洒な従者も月の姫もいない。
そして。
「もみじおろしよ!」
「イェーイ!ビバもみじおろし!…は?」
「ヤッホーゥ!諏訪子、ビバはイタリア語で、もみじおろしは日本語よ!…え?」
静葉の言葉と共に飛び上がった神奈子と諏訪子は、空中で目を丸くした。
「今年、人里の収穫祭で売ろうとしていっぱい作ったら思いの外売れ残っちゃって」
「だから在庫一層、もうあるだけ持ってっちゃって!」
「よかったわね姉さん、儲けはないけど、作ったものを無駄使いせずにすみそうよ!」
「え、えーと…」
「これ、どういうことなのかしら?」
頭の中は真っ白、事態が飲み込めない神奈子は二人に説明を求めた。
「どういうことって?」
「これ…全部中身がその…」
穣子がここまで持ってきた包みの山を指差す神奈子。
「ええ!わたしたちの手作りもみじおろしよ!包装は河童の工場に依頼したけどね!」
静葉は自信たっぷりに答えた。
「わたしの紅葉の力と!」
「わたしの豊穣の力を合わせて作られた!」
「「秋姉妹謹製!狂いのオータムもみじおろし!!」」
まるで外の世界で見たテレビのCMのように、宣伝口調と営業スマイルで姉妹が叫ぶ。
それをどこか冷めた視線と頭で見ていた神奈子は、思ったことをそのまま口に出した。
「…もみじおろしに紅葉なんて入ってないじゃん」
もみじおろしは大根に唐辛子を詰めてすりおろしたもの、
あるいは人参おろしと大根おろしの複合物である。
そこにはいかなる紅葉も関与していない。
鰹節と一緒に冷奴に乗せていただくのがおすすめである。
※※※
その後。
静葉は神奈子と諏訪子を引きとめ、もみじおろしに自分の神徳が宿っている事を必死で主張した。
『ななな名前や謂われに宿る力がより強い幻想郷では、名前に『もみじ』とつく以上わたしの神徳が…』
『わ、わかった、わたしたちが悪かったわよ、ねえ神奈子?』
『ええもちろん!あは、あはは…』
最後のほうは涙目になって迫ってくる静葉に圧倒され、二人はひたすら彼女の言葉に頷くしかなかった。
さらに『こんなに沢山もみじおろしだけもらっても困ります』という言葉も飲み込まざるを得ず、結果。
「はい…じゃあこれ、山の頂上の神社までよろしく」
「わかりました。ご希望のお届け時間帯はありますか?」
「ああ、そういえば今誰もいないんだっけ。…そうね、夕方ごろにお願いしていい?」
「夕方ですね!かしこまりました!」
大量のもみじおろしをそのまま持って歩くわけにも行かず、
神奈子はつい最近開業したという運送業者を呼んだのだった。
二日前に届いた天狗の新聞にこの業者のチラシが入っており、連絡方法を覚えていたのが幸いした。
ちなみにもみじおろしは全てチューブ詰め(河童の技術力ってすごいね)、ある程度保存も効く優れものだ。
秋の神は既に晴れ晴れとした顔で、しかし逃げるように去ってしまっていた。
「ところで二重の意味で美味しそうね、あなた」
「ひえぇ!」
一方諏訪子は獲物を見つけた捕食者の目で運送屋を見ている。
運送屋のほうもその視線に本能的な恐怖を感じ、震え上がっているようだった。
ちなみに連絡方法は、
『その辺の石とかを適当にひっくり返して出てきた虫に話しかければいい』
というものだ。
どういう原理の情報伝達なのかはわからないが、二本の触覚を備えた運送屋はすぐに飛んできた。
神奈子が近くの石の下にいたダンゴムシに話しかけてからわずか数分のことである。
さすがは幻想郷、一寸の虫にも高性能な情報ネットワークといったところだろうか。
「ほら、やめなさい諏訪子…怯えてるでしょう」
「ちぇー」
運送屋を羽交い絞めにし、首筋に舌を這わせようとしていた諏訪子を、神奈子は慣れた手つきで引き剥がす。
「じゃあ、そういうことでよろしくね…えーと」
「蛙コワイ両生類コワイ…あ、わたし、リグルっていいます、蛍の妖怪です…」
捕食者の恐怖に慄きながらも営業スマイルを忘れずに自己紹介するリグル。
しかしその顔は蒼白であり、逆に痛々しい印象を見る者に与えた。
神奈子はチラシに書かれていた『虫の地位向上を目指すサービス業第二弾!』という宣伝文句を思い出す。
自分は虫の地位を大いに下げかねないものを幻想郷に持ち込んでしまったな、と思った。
持ち込んでしまったそれは、
『蛍は尻ゆえ蛙に呑まるる』
などと意味不明なことを言いながらリグルを追い掛け回していた。
リグルは命からがら、何百匹もの虫とともに荷物を運びながら去り、辺りに静寂が戻る。
神社を出てからそれほど歩いていないにもかかわらず、随分と時間を食ってしまっていた。
太陽は空高く上り、神奈子は僅かに空腹感を覚えていた。
(もうお昼かしら)
雛と橙の喧嘩を止め、二人にお説教をするのにそれほどの時間を費やしたわけでもない。
リグルは本気で諏訪子を怖がっていたため、荷物を運んでもらう手続きも速めに済ませた。
では何故この場に長時間留まっていたかというと、それは、
(…嘘よね、普段は物静かなんて)
主に一人の少女の必死なお説教タイムによるものであると判断せざるを得ないが…それはまあ、いい。
「お腹空いたね」
前に立って歩く諏訪子も、今が昼時だと気づいているのだろう。
振り返り、神奈子が思っているのと同じことを口にした。
「そうね」
「お昼にする?」
「ええ」
出掛けに、早苗が弁当を作ってくれていた。
諏訪子に渡しておいたはずだが、それを持っているようには見えない。
「…諏訪子、お弁当は?」
「ここ、ここ」
諏訪子は得意げに、トレードマークの目玉付き帽子を指差す。
…まさか。
「ちゃららららら~~~~ん♪ちゃららららら~~んらら~~ん」
脱いだ帽子をひっくり返すと、諏訪子はシルクハットを操る手品師のように帽子に手を突っ込む。
諏訪子は昔からこうして、帽子を鞄代わりにして使う事がよくあった。
神奈子はもう随分前に、それをやめさせることを諦めている。
「わたしの愛~~~しい~~~かな~こに~~~幸~~~あれ~~♪」
「……」
神奈子は黙って、諏訪子の行動を見ていた。
「ひろがる髪~~~天空にか~ざし~~なんなのかよ~~くわ~k」
「いいから早く弁当を出しなさい!」
『オ○ーブの首飾り』に変な歌詞をつけ始めた諏訪子を急かし、神奈子は弁当を取り出させた。
余談だが、箱の中のおかずは思いっきり片側に寄ってしまっていたという。
※※※
手ごろな芝生の上に腰を下ろし、二人は昼食をとっていた。
ちょうど木々が途切れており、正午の日差しが真上から差し込んでいる。
座った草地に湿り気は無く、昼寝をするにももってこいの場所だった。
色々と慌しかった状況が過ぎ去り、心に落ち着きが戻ってくる。
(ほんとはこんな所で和んでる場合でもないんだけど)
この外出の、本来の目的を思い出す。
(いい加減、ちゃんと話さないとね)
神奈子は自分の傍らに座り、握り飯を頬張っている諏訪子に視線を向けた。
幻想郷に移り住んでからまだ一月と経っていないが、新しい生活は概ね順調であるように思える。
最初トラブルの種になるかと思われた山の有力者との関係も良好だ。
もっともその関係を築く上で、人間と戦うという予想外のトラブルを経ることになったわけだが。
そうして戦った人間たちも、今は自分達を幻想郷の住人として受け入れてくれている。
…諏訪子は今の生活をどんな風に捉えているのだろう。
ある日を境に、神奈子の心はふとした瞬間、その疑問にとらわれるようになった。
あの日――神奈子と早苗が霊夢たちに敗れた後、同じように諏訪子が彼女達に戦いを挑んだ日。
柱の陰から盗み見た人間達と諏訪子の会話を、今でもはっきりと覚えている。
『私の神社を勝手に幻想郷に送り込んでおいて』
『よくもまぁ、いけしゃあしゃあとそんな事言えたもんだ』
神社を幻想郷に移すことは、信仰が失われることに焦った神奈子が独断で決め、実行した。
早苗は実行直前に、そして諏訪子は神社が幻想郷に移ってから、そのことを知った。
確かに元々はこの神社は諏訪子の物、現在でも実質二人の共有物だ。
それがある日突然別の場所に移されてしまえば、文句の一つも出るだろう。
しかし、神奈子にとって最もショックだったのは、その後に諏訪子の口から出た言葉。
『あんな女、敵よ敵』
もしこの言葉を面と向かって言われたのなら、いつもの憎まれ口だと考え、気にも留めなかっただろう。
しかし、自分がいない(と、諏訪子は思っていただろう)場所でそれを言われた場合は別だ。
それは「神奈子がその言葉を聞いていない」という前提で放たれた言葉。
本人がいない場所で言うからこそ、その内に本音が込められる――悪い言い方をすれば「陰口」の原理。
確かに二人は元々敵対する存在であり、今でもよく喧嘩をする。
しかしその一方で、二人は長い間共に暮らし、過ごしてきた二柱の神だった。
少なくとも神奈子は、長年共にあった土着神を本気で「敵」だと思ったことはない。…たぶん。
勿論、諏訪子があの時人間達に聞かせた「敵」発言が、彼女の本音だと決まったわけではない。
こうして今現在、一緒に暮らしている諏訪子は、新しい暮らしを楽しんでいるように見える。
自分に対する態度に、敵意が表われているようにも思えない。
『ここで最後に気の利いた台詞の一つでもキメるのが、カリスマUPのカギじゃない?』
先ほどの諏訪子の言葉を思い出す。
あえて自分では前に出ず、神奈子に山の神として花を持たせた。
自分がかつて彼女の存在を隠し続けてきたことを思うと、諏訪子のそんな心遣いにも、胸が痛んだ。
その一方で、諏訪子が自分を応援してくれたことを嬉しく思う。
諏訪子が少しでも、この新しい世界を喜んでくれたら――。
『敵よ』
しかし、あの日の一言が神奈子の心を縛る。
一旦気になりだした心は止まらず、神奈子の不安と疑念は少しずつ、しかし確実に膨らんでいった。
やはり諏訪子は、外の世界での生活に未練を持っていた?
外から来た自分とは違い、その地で生まれ育った諏訪子にとって、
あの場所での信仰が持つ意味はもっと、ずっと重かった?
今は?今の諏訪子はどう思っている?
新しい生活を、集まる信仰を、そして…彼女を無理矢理幻想郷に連れてきた、自分を。
彼女に酷いことをしてしまったかもしれない、自分を。
(諏訪子、わたしは)
自分にとって諏訪子は、断じて敵なんかではない。
「神奈子」
幾つもの時代を越えて共にあった、友であり、家族であり、そして――、
「わたしは……っ!」
「か、神奈子!?」
「え?」
足元から、自分の名を呼ぶ声が響いていた。
視線を下げ、その声の出どころを確かめる。
「どうしたの?いきなり立ち上がって…」
諏訪子の言葉を聞いて初めて、自分が立ち上がってしまっていることに気がついた。
完全に、今が昼食時であることを忘れていた。
「ほら、おにぎり落ちそうになってたわよ」
諏訪子は神奈子がまだ口をつけず、手に持ったままにしていた握り飯を手渡した。
立ち上がった際に手から落としそうになったそれを、諏訪子がキャッチしてくれていたのだろう。
「ねえ、どうしたの?」
諏訪子は怪訝な顔で神奈子を見上げている。
「…なんでもないわ」
神奈子は再び腰を下ろすと、握り飯を食べ始めた。
この食事が終ったら諏訪子と話をしよう。
自分が思っていることを打ち明け、諏訪子の正直な気持ちを聞くのだ。
勝手な行動を責められることも、新しい生活への不満をぶちまけられることも、覚悟している。
もちろん、それに対して頭を下げることも、である。
「変な神奈子」
諏訪子はくすくすと笑うが、神奈子はあえてその顔から目をそらす。
こんな後ろめたさと不安を抱えたままで、諏訪子の笑う顔を見ているのが辛かった。
「でも、ほんとに綺麗よね」
「そうね」
『何が』綺麗なのか諏訪子は言わなかったが、神奈子は彼女の言いたいことはわかっている。
諏訪子のやや斜め上に向けられた、遠くを見るような視線。
その先には、その葉を見事に色づかせた木々があった。
「あっちでは、こんな紅葉は見られなくなっちゃってたし」
「行くところに行けばあるらしいわよ、今も」
この時代、外の世界では美しい紅葉を見せる木が年々少なくなっている。
山林の減少は当然のこと、道路沿いの街路樹も、ビル建設や道路整備の過程で少しずつ消えていく。
まさに紅葉が幻想になりつつあるのだった。
それだけ、ここ幻想郷での紅葉が量と美しさを増すのかもしれないが、そういうことを考えると、
なんだか目の前の紅葉がひどく貴いもののように思えてくるから不思議だった。
少しだけ、必死になって紅葉を守る静葉の気持ちがわかったような気もする。
「あ、おにぎりが!」
そんな幽かな郷愁が漂う空気は、諏訪子の素っ頓狂な叫びで破られた。
握り飯が諏訪子の手を離れ、地面をころころと転がっていた。
先ほどわたしに注意した張本人が、何をやっているんだか。神奈子はそう思った。
「待ちなさいっ」
諏訪子は立ち上がり、転がる握り飯を追いかける。
まるでどこかの民話にあるような光景。
そもそも神という存在は、民話や御伽噺の中の存在――幻想の生物なのだが。
(あのままおにぎり共々穴に落ちて、ようこそ鼠の楽園へ、かしら)
鼠と蛙の仲はよく知らないが、なんとなく諏訪子が鼠から信仰を得るのは難しいように思えた。
「あっ」
その時、強い風が吹いた。
神奈子の力によって起こった風ではない。
巻き上げられた砂粒が目に入り、思わず瞼を閉じる瞬間。
服の袖で顔を覆うのではなく、帽子を目深にかぶって目を守る諏訪子が見えた。
風が止んだ。
目を、開いた。
最初に目に入ったのは、空高く舞い上げられた紅葉。
幻想郷では自然に、しかも台風や嵐でなく、こんなに強い風が吹くものなのか。
これが本当の天狗風というのだろうか…そんなことを考えながら、神奈子は視線を下げていく。
そして、そこにあった光景を見て、息を呑んだ。
風が止んだ今、諏訪子は帽子を元の位置に戻していた。
諏訪子もまた、空に吹き上げられ、落ちてくる紅葉を眺めていた。
はらり、はらり…本当にそんな音が聞こえそうなほど、緩やかに滑空しながら紅葉は落ちてくる。
諏訪子の肩に、頭に、髪に。
帽子の飾りに負けないくらい目を丸くして、諏訪子はそれを見ていた。
瞬きせず。微動だに、せず。
感動しているのか。驚いているのか。あるいは両方か。
見る者を圧倒する色とりどりの雨。
しかしその景色は『それを見ている諏訪子』を含めた映像として、神奈子を圧倒していた。
緩やかな速度で降る赤と黄と橙の落葉。
それを見つめる少女。
目の前のそれらを四角く切り取り、額縁に入れていつまでも眺めていたい。そう思わせる光景。
今ここにカメラがあったなら、神奈子は無心でシャッターを切っていただろう。
諏訪子の肩に黄色い葉が一枚、乗っている。
それは彼女の紫色の上着に良く映える、それでいて、肩にかかる彼女の髪に溶けるような色で。
神奈子は不思議と、その黄色い葉に嫉妬を覚えた。
諏訪子と対をなしながら、同時に親和することのできるその葉に、自分を重ねた。
重ねるけれど、自分がいるのはそこではない。
草の上に座り、少し離れた場所から諏訪子を眺めている。
だからあの葉は自分ではない。
自分ではないなら…気にくわない。
早く落ちろ。
落ちてしまえ。
このわずかな時間、先ほどまで心を縛っていた罪悪感は一時的に消えていた。
ただひたすらに、諏訪子の肩に乗った葉に呪いをかける。
落ちろ、と。
そして神奈子の思いが通じたのか、黄色い葉は諏訪子の肩から落ちた。
諏訪子が首を振った拍子に肩が揺れ、落ちたのである。
そうして諏訪子が首を振り、その目が向いた先は――他ならない、神奈子のいる方向。
勝った。
あの葉は脱落し、諏訪子は自分を見ている。
自分が勝ったのだと神奈子は思った。
「もう、邪魔しないでよ!」
「…え?」
「神奈子でしょ?今の風。おにぎりどっか行っちゃったじゃない!」
しかし諏訪子の口から放たれたのは(当然ではあるが)神奈子の勝利を讃える言葉ではない。
「ち、違――」
「しらばっくれない。…葉っぱがこう、ぶわーってなったのは綺麗だったけど…花より団子!」
諏訪子は先ほどの突風を神奈子の仕業だと思い込んでいるのだった。
確かに過去に、そういうことをやって諏訪子をからかったことはあるが…今回は違う。
「だから違うって言ってるでしょ!わたしは何もしてないって!」
「嘘。神奈子のおにぎり拾ってあげたのに。恩を仇で返すって言うのよ、そういうの!」
諏訪子は激昂というわけではなかったが、幾分かは本気で腹を立てているような表情を浮かべていた。
元は自分が落としたとはいえ、早苗が作ってくれた昼食の握り飯を台無しにされたのだ。
二人はこれまで様々な悪戯で互いをからかってきたが、
そこには「遊び」の範囲を出ないという暗黙のルールがあった。
もしも今の風が神奈子の仕業だとすれば、それは二人の「遊び」のルールをはみ出す「嫌がらせ」だ。
早苗が作ってくれた食事を無駄にされる、などということがあれば、自分も怒る。
当然のごとく、諏訪子も怒りを帯びた責めるような…というより、責める視線で神奈子を見ている。
「わたしは…!」
反論しながら、神奈子の心に罪悪感と不安が戻ってきた。
諏訪子が自分を見ている目はまさしく、敵を見る時のそれだ。
自分の言葉を信じようとしない、何故?…答えは簡単、昔そうやって悪戯で風を起こしたからだ。
昔酷いことをした。だから今、信頼されず、敵視される。
悪いのは自分。
(違う…)
違う。違う違う違う。それは違う。
悪いのは確かに自分だけど、これは違う。
この風は違う。
神奈子の思考が混乱を始めていた。
黄色い葉に勝ったというちっぽけな満足感は消え、神奈子の心に悲しみが満ちる。
普段なら放っておく、むしろ、
『そうよ。だめじゃない、迂闊に敵に背をさらしちゃ』
などと言って開き直るところだ。
しかし、今日に限っては、諏訪子の敵意に満ちた視線がひどく応えた。
「わたし、は…」
反論の言葉は浮かばず、ついには涙まで浮かび始めた。
普段はこんなこと絶対にないのに。どうして。
それを諏訪子に見せたくないという意地から、神奈子は視線を逸らしてしまう。
諏訪子はそれを別の意味にとったのか、ますます表情を険しくする。
いつもは多少熱くなったところで、こんな険悪な雰囲気になんてならないのに。
いや、これも自分が悪い。
普段どおりにふてぶてしく振舞えば、この話はここで終わるのだ。
諏訪子は多少不機嫌になるだろうが、それも時間が経てば勝手に元に戻る。
それがいつもの二人、築いてきた関係なのだ。
なのに、神奈子の喉にはどんな言葉も登っては来なかった。
そっぽを向き、涙を必死でこらえて耐えることしかできない。
ああ、これで諏訪子は次に何を言うのだろう。
何を言われても、次の一言で自分はわっと泣き出してしまうような気がした。
いや、むしろそれでいいのかもしれない。
普段こんな事で涙はおろか、
弱気な態度一つ見せない神奈子が泣き出せば、諏訪子も何事かと思うだろう。
そこで今の自分が抱えている事を、全てぶちまけてしまえばいい。
その上で責められるのならば、いくらでも耐えてみせる。
だけど今は。
こんなつまらない誤解で諏訪子を怒らせているこの状況は、これ以上耐えられるものではない。
だから早く言ってほしい。
止めを刺してほしい。
諏訪子の口が開かれ、そこから次の言葉が飛び出す。
――と、思った瞬間。
「あの、よろしいかしら?」
気配を感じさせず、突然放たれた第三者の声が、神奈子の涙と、諏訪子の怒りを引っ込ませた。
そしてこれもいつの間にか二人の間に割って入っている、その声の主の手。
その手の中には、諏訪子が落とした握り飯があった。
「もしかしてこれ、あなた達が落としたものじゃない?…ま、食べる食べないは自由だけど」
最初二人には、この突然目の前に現れ、握り飯を差し出してきた者の種族がわからなかった。
見た目は人間だが、纏っている雰囲気はどういうわけか人外のそれに非常に近い。
…しかし、彼女を一目見てすぐにわかることもあった。
それは、
『彼女の職業がメイドであること』
『彼女が栗拾いをしていること』
である。
「落ちて三秒以内なら菌がつかないってパチュリー様が言ってたわ!」
呆気にとられる二人の前で、メイドは一人で話し続ける。
「ま、落ちて何秒経ってたかは知らないけど!」
大量の栗が入った籠を背負ったそのメイドは、自信満々の表情で握り飯を差し出すのだった。
※※※
神奈子と諏訪子の口論は、突如現れたメイドの介入によって中断された。
同時に、口論の元となった問題も半分は解決したのである。
『まあ、三十分くらい前まで戻せば大丈夫でしょ』
メイドはそう言うと、食べかけの、あちこちに土や草が付着した握り飯にハンカチを被せた。
『はい…ワン、ツー、スリー』
手品師のように、その状態で三つ数える。
その振る舞いは、先ほどの諏訪子よりも大分「それらしい」感じを漂わせていた。
そしてハンカチを取り去り…中から現れたのは、汚れどころか噛み跡一つない、真新しい握り飯。
二人はひどく驚いたが、ともかく握り飯が食べられる状態で戻ってきて、当初の問題の半分が解決。
そして、もう半分は。
「むぐむぐ」
「……」
「あむあむ」
「……」
折角握り飯が戻ってきたというのに、諏訪子の食べ方はあまり美味しそうではない。
そして神奈子は諏訪子から完全に視線を外している――いわゆる「そっぽを向いている」状態だ。
二人はメイドにお礼を言ったのを最後に、一言も言葉を発していない。
成り行きでその場に留まっている栗拾いメイドは、
『何が何やら』といった表情でそんな二人を見比べていた。
「あ、いたいた!」
ようやくメイドがこの場に漂う「気まずい雰囲気」を察知し始めた辺りで、その声はした。
声の主と思しき妖精が、昆虫めいた羽根をせわしなく羽ばたかせながら飛んできていた。
「メイド長、探しましたよ~」
「ああ、ごめんなさい」
見れば、その妖精もメイド服を身につけていた。
「あの天狗がチョコマカ逃げるもんだから、ついムキになっちゃったわ」
「みんなメイド長がいないと真面目にやらないんですよう」
「はぁ…セクハラ盗撮魔くらい追いかけさせてくれたっていいでしょうに…」
最初に現れたメイドは溜め息をつき、疲れたような顔をする。
が、すぐに表情を引き締めると、後から現れたメイドに告げた。
「わかったわ、今すぐ戻りましょう。…ま、さっきの風の落とし前はその内にきっちりと」
メイドが「風」という単語を口にした瞬間。
それまでメイド達の会話に全く注意を払っていなかった神奈子と諏訪子は、同時に振り向いた。
「今」
「なんて!?」
突然神(と気づいていたかどうかは不明だが)二人から睨まれ、メイドたちはたじろぐ。
「え?いや、天狗にスカートめくられて、パンツ撮られそうになったから、今度シメようって…」
「天狗にスカートめくり?それってまさか…」
神奈子は緊張した面持ちで尋ねる。
「さっき強い風が吹いたでしょう?この山の天狗が、わたしのスカートめくろうとして起こしたのよ」
確か名前は武嶋だか富竹だか小田島だか…それとも射命丸だったかしら?と続ける。
神奈子と諏訪子はしばらくの間、口をあんぐりと開け、呆けたように突っ立っていたが…数十秒後。
「か、神奈子?」
「……」
「あー、その、何ていうか…ドンマイ!」
諏訪子は苦笑いを浮かべながら、神奈子の肩を軽く叩いた。
その瞬間、肩に触れた手を通して、諏訪子は確かに聞いた。
神奈子の中で「決定的な何か」が切れる「ブチッ」という音を…!
「見せてやるよ…。お天水の奇跡ってヤツをぉおおおおおおおおおぉおおおッ!!!」
「ちょ、神奈子タンマタンマ!わ、わたしが悪かったから!疑ってごめ…ひいいぃ、何その特大オンバシラ!?」
「うおおおおおおお来いよォオオオォ!!早苗が磨いてくれた御柱を食らいたいヤツから前へ出ろよォオオオオ、
うをおおおおおおおおおおオオオォオオオォオッ!!!」
神奈子の怒りと悲しみとその他色々な感情がこもった弾幕と御柱の海が、諏訪子を飲み込んでいった。
(後半へ続く)
霊山に、朝の風が吹く。
秋晴れを予感させる朝日に照らされた守矢の神社に、少女の声が響いた。
「八坂様、舞茸見ませんでした?」
「舞茸?」
朝食を終え、何気なく窓から庭を眺めていた八坂神奈子は、背後からの声に振り返った。
風の神――神奈子自信の事だが――を祀る風祝、東風谷早苗の姿がそこにあった。
「今夜は茸鍋でも作ろうと思いまして。まだ買い置きがあった気がするんですが…」
「うーん、舞茸ねえ」
掃除洗濯炊事、買い物などの家事全般は早苗に一任してある。
食材の所在などは当然早苗が一番よく知っているはずであった。
「ちょっとわからないわね」
「そうですか。…なんだか最近、知らないうちにお肉や野菜が減ってる気がするんですよね…」
「……そう」
その言葉には、思い当たる節があった。
神奈子たちが幻想郷にやってきたのはつい最近の事であり、それ以前は外の世界で暮らしていた。
その世界には、
『お酒は二十歳になってから。ルールを守って楽しく美味しく飲みましょう』
というルールがあり、その年齢に達していない早苗は基本的に酒を飲むことがなかった。
十代の少女が平気な顔して酒を飲む幻想郷に来てからも、早苗はその習慣を守っていた。
どうしても断れない宴会の場で仕方なく酒を口にするということはあったが…それでも嗜む程度の量だ。
そんなわけで、神奈子の日々の楽しみの一つ、晩酌の時間には、早苗は布団に入っていた。
そして、酒には肴、肴には料理。
家のどこに何があるか、早苗ほどではないにしろ、神奈子もある程度は知っている。
草木も眠る丑三つ時(ぐらいの時間)、普段は振るわない料理の腕を存分に振るい…結果、
早苗の知らないところで食材が減っていくのであった。
「……何かご存知ないですか?」
心なしか、早苗が自分を見る目には疑いの感情が混じっているように見える。
「し、知らないわ。ネズミでもいるんじゃないかしら…ほんとにこっちの暮らしは不便よね、あはは…」
神社は自然溢れる妖怪の山の頂上にあり、実際にネズミの類が入り込むことはある。
それにしてもこの食材の減りようは異常ではあったが、そこは元・現代っ子の早苗のこと。
「ですよねえ…元の世界にいた頃は、虫一匹入ってくるだけでも大騒ぎだったのに」
とりあえずこの場はネズミに責任を押し付ける事で切り抜けることができた。
今後は晩酌用の食材を自分で管理するようにしたほうが良いかもしれない。
そもそも自分は一度の晩酌でそれ程多くの肴を食べるほうではない。
自分の晩酌の相手が、やたらと「この酒にはあれが必要、あの酒にはこれが必要」とうるさいのである。
「おふぁよ~」
酒の肴にうるさい山の神は、今日も一人だけ遅れて起き出してきた。
「あ、洩矢様、おはようございます」
「あと三十分くらい早く起きられないものかしらねえ」
「あーうー。わたしもみんなで朝御飯食べたいんだけどさあ」
洩矢諏訪子は寝癖だらけの金髪を揺らしながら、半開きの右目をこすった。
諏訪子は神奈子と共に、この神社に祀られるもう一柱の神である。
秋になり、朝の冷え込みが厳しくなってきてから、諏訪子が朝起きる時間が少しずつ遅くなってきていた。
「明日から起こしてくれる?どっちでもいいけど」
早苗と神奈子の二人に、交互に眠そうな視線を向ける。
「あ、それでしたらわたしがお起こしします。朝御飯ができたらお呼びしますので」
早苗が申し出た。
「起こす時はおはようのちゅーでよろしくね~」
「はい。承知しました…って、ええ!?」
「あ、いいこと思いついた」
ノリツッコミ気味にうろたえる早苗を見て、諏訪子が笑みを浮かべた。
「神奈子と早苗が両側からほっぺにちゅーしてくれたら一発で起きるかも。『ご主人様、朝で御座います』てな感じで」
「り、両側からちゅー!?」
初心(うぶ)な早苗には少々刺激が強すぎたのか、赤面しつつ狼狽の色を濃くする。
それとは対照的に、神奈子は冷淡な口調で言葉を返した。
「アホなこと言ってないで顔でも洗ってきなさい。大体いつからわたしらはあんたのメイドになったの」
「もう。神奈子はノリが悪いわね」
「あんたの戯言にいちいちツッコミ入れてたらきりがないわよ…ほら早苗、諏訪子の朝御飯用意してあげて」
「ちゅー…あっ、え!?あ、ごはんですね!?はい、いますぐお持ちします!」
早苗は慌てて厨房へ飛んでいった。
「むー。あのまま行けば少なくとも早苗はちゅーで起こしてくれたかもしれないのに」
「あの子の信仰心につけこむような真似をしては駄目…わたしもやってみたくなるでしょう」
「へいへい」
諏訪子は洗面所へ。
最近ではこうして寝起きの諏訪子の相手をするのが、朝食後の運動(?)代わりである。
神奈子も諏訪子も、文字通り神がかり的に酒が強く、晩酌の酒で二日酔いなどと言う事は滅多にない。
しかし諏訪子の起床時間は日増しに遅くなっており、晩酌で飲む酒の量も少し減らそうか、と神奈子は考えていた。
俗に言う「目がパッチリ」な目覚めは、やはり素面で眠りについた時のほうが実現の確率が高い。
この広い神社で三人暮らし。
できれば食事は全員で取りたい…その思いはおそらく、早苗と、諏訪子自身も同じだろう。
しかし日が落ちれば酒が恋しくなる。
これも、神奈子と諏訪子の共通の思いであった。
(もう少し、酒の飲み方を考えてみたほうがいいのかしら)
幻想郷の住人達には、酒好きが多い。
麓の巫女と出会い、幻想郷の先住民たちと交流を持つようになって最初に思ったことがこれであった。
宴会も、やろうと思えば毎日でも開けるし、参加者は集まる。
しかしさすがの自分も、常時酒浸りのような生活(そういう生活をしている妖怪もいいるらしいが)は避けたいし、
何より酒がそれほど得意でない早苗をそういう日常に巻き込みたくはなかった。
(諏訪子は何て言うかしらね)
腰を据えて話をする時、神奈子と諏訪子はよく喧嘩をした。
元々仲は良いほう、というか大変長い付き合いの友人ではあるが、二人は些細な事でよく喧嘩をする。
先日も、
『神奈子はわかってない!鉄の輪ってのは硬いのよ?手錠よ?首輪よ?』
『所詮は形を変えることもできない金属の塊よ。自由自在に変形する藤蔓のほうが強力だわ』
鉄輪と藤蔓、どちらが武器として優れているかの議論から口喧嘩に発展し、一触即発の状況になった。
『藤蔓?植物性繊維でしょ?そんなもので敵を拘束できると思ってるの?』
『ふん、金属なんて錆びてしまえばそれでオシマイじゃない』
『何よ!?』
『やる気!?』
口喧嘩といえど神と神の戦い、度を過ぎれば只事ではすまないのだが、そんな時は早苗の出番である。
『や、やめてくださーい!!』
幼い頃から神奈子と諏訪子を祀る風祝として生きてきた早苗にとって、二人は家族以上の存在だった。
そんな二人の仲が険悪になることは早苗にとって我慢のならないことであり、喧嘩の際にはすぐに止めに入るのだった。
『この蛙女。負け犬。二つ合わせて負け蛙』
『はぁ?いつまでそんな過去の栄光に縋ってんの?ほんと執念だけは一流ね、まさに蛇女!』
『お二人とも、喧嘩はおやめください!!』
基本的に、早苗がどんなに大きな声を張り上げても、二人は喧嘩を止めない。
『だいたい何?二拝二拍一拝とか、ただ左右に振ってるだけで避けられる簡単スペルじゃない!』
『うるさいのよ、この最弱Ex中ボス!猫以下!』
『も、もう…いいかげんにしてくださらないと、わたしも怒りますよ!』
というか、最初から早苗の話など聞くつもりがない。
『ケロちゃん(笑)』
『オンバシラ(笑)』
『け、喧嘩しちゃダメだって…言ってるのに…何で、仲良くしてくれないの…ぐすっ』
こうして早苗が目に涙を浮かべ始めた時点で、ようやく二柱の神は仲介者の存在に気づくのである。
両の目に大粒の涙を溜めながら、必死で二人の喧嘩を止めようとする早苗。
『ちょ、ちょっと早苗!何泣いてるの!?』
『ば、馬鹿、神奈子!わたしらが喧嘩してるから泣いてるんでしょうが!!』
『うえぇ…わたし、やさかさまも、もりやさまも、だいすきなのに…なんで、いつも、けんかするの…?』
早苗が今よりもっと幼い頃からの決まり文句であった。
この台詞が出たら最後、神奈子も諏訪子も、その心の中から完全に闘争心を消し去られてしまう。
子はかすがい、という諺があるが、この血が繋がっていたり、繋がっていなかったりする不思議な三人家族をおいて、
その諺をここまで忠実に再現している家族が今の日本にあるだろうか。
とにかく、神奈子と諏訪子の関係は、早苗と、その先祖たる風祝の家系によって一応良好に保たれてきた。
家系図を古代まで遡れば、やがて諏訪子に辿り着くという恐るべき事実があったりもするのだが。
しかし。
(ま、今は喧嘩なんてものにビビってる状況でもないんだけどね…)
現在、神奈子の胸中には、どうしても諏訪子と二人で話しておかねばならないことがあった。
胸の内に秘めてきたその話を、今日、諏訪子に打ち明ける。
その結果、いつものように喧嘩になっても、今日だけは早苗の仲介を頼りにしない。
自分と諏訪子が、最後まで二人で話し合い、片をつけなければならない話であった。
「早苗」
「はい?」
卓袱台の上に、諏訪子の朝食の食器を並べている早苗に声をかけた。
「舞茸がなくなったのならば、新しい物を仕入れてくるしかないでしょう」
「はあ、それはまあ」
「聞くところによると、魔法の森には多くの種類の茸が自然に生えているそうよ。一度行ってみたら?」
「魔法の森…ですか?」
つい先日、神奈子たちは幻想郷に暮らす二人の人間と知り合った。
その内の一人が言っていた――自分が暮らす森には多種多様な茸が生えており、夕飯のおかずに困ることは無いと。
「ええ。あなたもまだ行ったことがない場所じゃないかしら?」
「そうですが…」
「不安?大丈夫よ、あなた程の実力を持った人間ならば、そこらの妖怪にはひけを取らないわ」
実際、早苗が持つ「奇跡を起こす程度の能力」は、幻想郷ではそれ程珍しい類の能力ではない。
しかしそれは早苗の力が弱いということではなく、彼女の力は周囲の妖怪と比べても決して劣るものではない。
少なくとも、単身で幻想郷を散策しても、容易に妖怪や妖精のカモになるようなことは考えられなかった。
「そうだといいんですが」
先日知り合った二人の人間に敗北を喫して以来、早苗は自分の力に自信を持てないでいた。
後から話を聞いてみればあの二人はこれまで数々の異変に挑んできた幻想郷の猛者であり、
現在の「あるルール」によって「人間と人外の者の戦い」が支配された幻想郷ではかなり強い部類に入るとのこと。
まだ幻想郷のルールに適応しきっていない早苗が敵わないのはある意味で当然といえた。
ゆえにその二人に負けた事を過剰に気にしすぎるのは、早苗にとってよくないことだと神奈子は思うのだが…その一方で、
早苗の心に「もっと強くなろう」という向上心が芽生えた事に喜びを感じてもいた。
「森には魔理沙もいるし。案内してもらったら?」
「あの魔法使いにそんな親切心があるでしょうか」
「あら、あの子はあれで中々いい子よ?少なくとも、うちの分社を幻想郷で一番最初に作ってくれたのはあの子なんだし」
分社の出来は最悪だったが。
「ん~…わかりました。どの道買い物には行かなきゃならなそうですし、あとで行ってみます」
早苗にとって、二人の人間――麓の巫女の霊夢、魔法使いの魔理沙は、幻想郷で最初に知り合った人間であった。
神奈子は、できることなら、早苗が二人と仲良く出来れば良いなと思っている。
この世界での人間の位置づけや振舞い方について、早苗はまだ何も知らない。
外の世界とは文明レベルが違う幻想郷において、早苗には「この世界の先輩」としての人間の友人が必要だと思った。
早苗自身も、自分なりに頑張って霊夢や魔理沙とコミュニケーションを取ろうとしている。
その背中をそっと押してやるのが、自分と諏訪子のやるべきことだろう。神奈子はそう考えていた。
(こういうの、外の世界ではなんて言うんだったかしら…公園デビュー?)
何にせよ、この幻想郷には、これから早苗が知っていくべきことがいくらでもあった。
それは神奈子と諏訪子にとっても同じことかもしれなかったが。
「いただきま~す!」
いつの間にか食卓についていた諏訪子が、すっかり目が覚めたという顔で食事を始めていた。
※※※
「ねえ、諏訪子」
早苗が洗い物をする音を聞きながら、神奈子は諏訪子に話しかけた。
「んむ?」
諏訪子は白米をかきこみながら答えた。
その顔を見て、神奈子は溜め息をつく。
「…ほら、ご飯粒ついてるわよ」
「おお、これは一生の不覚」
神奈子に頬の米粒をとってもらいながら、諏訪子は苦笑する。
これが一生の不覚というのなら、諏訪子は長い人生(神生?)の中で何度、一生の不覚をとってきたのだろう。
「朝からそんなに急いで食べることないでしょ…よく噛まないと消化に悪いわ」
「飲んだ日の翌日はお腹が減るのよ」
「だったら尚更。よく噛んで食べたほうが早めに満腹感がやってくるのよ」
外の世界にいた頃、何かの本でそんなことを読んだ気がする。
そういえば幻想郷では、どこに行けば本が手に入るのか…今度魔理沙にでも聞いてみよう。
それこそ、自分が是非とも案内してもらいたい場所であった。
「そうね…最近は柔らかい食べ物が増えたからねえ」
諏訪子はそう言って笑うと、食べるペースを少し緩めた。
神奈子と諏訪子は、外の世界で人間の生活が時と共に変化していくのを見てきた。
食生活もまた、然り。
いつの間にか、その変化を見ているだけでなく、自分たちもその流れに巻き込まれていたのだろうか。
変化への順応。
そこまで考えた時、神奈子の脳裏に、諏訪子に話すべき「本題」が戻ってきた。
「それよりね、諏訪子」
「何よ?」
諏訪子も「神奈子が何か、自分に話すことがある」という雰囲気を感じ取り、耳を傾けた。
(外の世界にいた頃は)
神奈子はこれまで決して口にすることはおろか、考えることすらしなかったことを口に出そうとした。
(まさに『有りえない』話だったのかもしれないけど)
脳内で刹那の逡巡の後、神奈子はその言葉を口にする。
「今日、もし暇だったら…いや、たぶん百パーセント、暇なんでしょうけど…一緒に里まで、い、行ってみない…?」
最後に少し、どもってしまった。
いやはや、何とも。
『舞茸見なかった?~A new myth and old one~』
八坂神奈子と洩矢諏訪子の付き合いは、大変長い。
最初は敵同士、というか、神奈子が一方的に諏訪子が信仰を集め、治めていた国を征服しようとしたのだ。
大和の神・神奈子の侵略に抵抗した、この国の土着神の頂点・諏訪子。
戦いの結果は神奈子の勝利に終わり、諏訪子の国は神奈子が支配することになった。
しかし、神たる存在にとって一番大切な信仰が、新たな支配者の神奈子には集まらなかったのである。
戦いに勝ち、信仰で負けた神奈子。
戦いに負け、信仰で勝った諏訪子。
結局、諏訪子が統治せねば国の民はまとまらず、これまで通り諏訪子がその国の実質の神となったのである。
それでも、大和の神を主役とする「中央神話」を人間の意識に定着させるべく、神奈子はある作戦を立案した。
それは諏訪子を大和の神と融合させ、あたかも侵略戦争に勝った神が洩矢神、
つまり諏訪子の国を奪い、支配したように見せかけることであった。
大和の神、これは「建御名方命」という名前だけの神であり、神話上は
「この国の土着神に戦いを挑み、侵略した」神奈子と、
「その後、その国に神として君臨し、支配した」諏訪子の、
両側面を持った神として、人間達の心に刻み込まれた。
この工作により、神奈子と諏訪子は一つの名前を共有する神でありながら、全く違う形で信仰を集めることとなった。
諏訪子が元の自分、つまり洩矢神として存在できるのは自国の中だけであった。
大和の神話が日本全土へ広まるにつれ、諏訪子は「国を支配する建御名方命」に対する信仰から力を集めた。
自分であって自分でない、そんな建御名方への信仰の割合が次第に増し、相対的に本来の洩矢神への信仰は薄れた。
諏訪子は、時代と共に少しずつ、自分自身が人々の心の中で薄れて消えていく過程を眺めることとなった。
神奈子は「洩矢の神を倒した建御名方命」への信仰で力を増すと共に、独自に「建御名方の妻」としての名を手に入れ、
洩矢の国に対してはひっそりと、しかし外では堂々と大和の神として信仰を集めていた。
やがて洩矢の国と日本の間の境界も薄れ、大和の神話の力がより大きくなってからは、
諏訪子の存在を隠す必要が出てきた。
神社に祀られているのは「建御名方命」と「その妻としての神奈子」であり、土着神はそこにいてはならない。
その時、本来名前だけの存在であった建御名方命は本当の意味で諏訪子と融合した。
神社には二人の神がいる。
一人は神奈子、そしてもう一人は、遥か遠い昔に大和の神に敗れた土着神などではない、勝者たる建御名方命である。
土着神としての信仰の器の必要性が薄れた今、
神話上の建御名方命と矛盾が生じる諏訪子の姿形や能力は、人目に晒すべきでない。
神奈子の当時の判断から、諏訪子は神社の奥に隠れ住む生活を余儀なくされることとなった。
そして時代は変わり――人々の心から信仰心そのものが薄れ、神社と湖ごと幻想郷へ引っ越すことになったのである。
「あ~う~あ~あ~う~う~たったからったった~♪」
目の前の土着神は、外の世界で覚えた歌の一節を歌い上げながら、上機嫌で神奈子の一歩先を歩いていた。
どこか原曲と違うような気がするが、神奈子自身その歌をあまり真剣に聴いたことがない。
早苗が外の世界の機械で歌を流していたのを、偶然耳にしただけである。
「恋の鉄輪を使~って~♪神奈子にタッチ~♪大蛇のような子だって~♪神奈子にタッチ~♪」
…うん、これは間違いなく原曲と違うわね。てゆーかもはや替え歌の域。
そんなことを考えながら、神奈子は諏訪子の背中に視線を向けた。
諏訪子が朝食を終えるのを待って、守矢の神社の三人は外に出た。
早苗は夕食に使う茸を探して魔法の森を、神奈子と諏訪子は人里を目指して。
現在、少しずつその温度を低下させ始めた朝の風の中、二人は山道を下り方向に歩いていた。
「にしても、どういう風の吹き回しかしら?」
不意に歌うのを止めた諏訪子が、神奈子を振り返る。
「あっちにいた頃は、こんなこと天地がひっくり返っても言わなかったような気がするんだけど」
「別に…あんたにも、ちょっとは神社の外を知っておく必要があると思ったの。それだけよ」
「ふーん」
土着神は大和の神に負け、その国を明け渡した。
その神話を成立させるためには、諏訪子を国の外へ出すわけにはいかなかった。
神話上、諏訪子が治めていた国は建御名方神が支配しており、元々いた土着神は王座を奪われたことになっている。
諏訪子の存在は秘匿するべきものであった。
建御名方神と融合したといっても、諏訪子が建御名方神になったというよりは、
建御名方神が諏訪子の立場に成り代わったという意味合いが強い。
結果、幻想郷に来る以前は、神奈子はできる限り諏訪子の存在を隠そうとしていた。
それは戦いの勝者として神奈子が諏訪子に強いた、唯一のペナルティーだったと言える。
「ま、あんたと早苗ばっかりここの連中と遊んでるのは確かに納得行かないしねー」
やはり諏訪子は自分が「隠された神」であったことに不満を持っていたようだ。
神奈子と早苗が一度負けた霊夢と魔理沙に戦いを挑もうとしたのも、そのような心境があってのことだろう。
そして今日、神奈子が諏訪子に話をしようとしていることも、「それ」に関することであった。
「諏訪子」
神奈子は意を決し、落ち葉が舞い散る山道の上、立ち止まる。
「…ん?」
神奈子の顔に浮かぶ、いつになく真剣な表情を察し、諏訪子も足を止めた――その時だった。
『やめて!紅葉が散っちゃう!!』
悲鳴が混じった少女の声が、二人の耳に届いた。
同時に、強い風――自然に起こった風にしては、やや強すぎる突風が吹きつけた。
「…神奈子、何かした?」
諏訪子が振り返り、尋ねる。
乾、つまり天を創造する風雨の神である神奈子の手にかかれば、この程度の風を起こす事は容易い。
しかし今この場で、神奈子は何もしていなかった。
「何もしてないわ」
神奈子は自分が切り出した話を遮られ、内心やや不愉快な感情を抱えたまま答えた。
「じゃあこの風…天狗かな?」
諏訪子も、現在自分たちの周囲を吹き荒れている風が自然のものではないと気づいているようだった。
「たぶん、あれね」
こうして言葉を交わしている間も、二人は山道を歩み進んでいた。
そうして歩くうちに目に入った光景を指差し、神奈子は告げる。
そこには二人の少女と、二つの回転体があった。
「お願いだから他所でやってー!!大事な葉っぱがなくなっちゃうじゃない!!」
「姉さんが希薄なアイデンティティを発揮できるのはこの時期だけなの!頼むから空気を読んであげてー!!」
「…穣子、なんかわたしのことバカにしてない?」
よく似た色合い――それはちょうど今の季節、秋を想わせた――の服を着た二人の少女が声を張り上げていた。
その声に答えることなく、空に浮かんだ二つの回転体は縦横無尽に動き、回り続ける。
先ほど神奈子と諏訪子が感じた風は、その二つの回転体が起こしているものだった。
「どうしたの?」
諏訪子は二人の少女に話しかけた。
紅葉を模した髪飾りをつけた少女が、帽子をかぶった少女の首を絞めていた。
この二人の少女は、おそらく秋を司る神の類か――遥か昔から八百万の神を知る神奈子は、漠然とそう思った。
「あの二人がぐるぐる回ってるせいで、ここに咲いてる紅葉が散っちゃうのよ!」
紅葉が咲く、という表現は、外の世界でも耳にしたことのないものだった。
紅葉に対する特異な解釈と執着――やはり秋の神か。
「あの二人って…」
空中でぶつかり合う二つの回転体を、神奈子は眺めた。
あまりにも速く回転しているため、それが何かはわからなかったが、おそらく妖怪であろう。
かろうじて、両者が赤と緑を服装、あるいは身体の色として持っていることがわかった。
「…って、あんた達、誰?ここらじゃ見かけない顔だけど…」
帽子の少女は神奈子と諏訪子を見て怪訝な顔を浮かべた。
神奈子たちが幻想郷に引っ越してきてから、何だかんだで未だ日は浅い。
山に住む神や妖怪が神奈子たちの存在を知らなくても無理はなかった。
「ふっ、よくぞ聞いてくれたわね!わたしは守矢の神社の諏訪子!人も神も戦い鍛えれば…」
「はいはい、そういう長ったらしい自己紹介は後。…これはどういう状況なの?」
神奈子は二人の少女に尋ねた。
「見ての通りよ。あの二人が起こす風のせいで、わたしの大切な紅葉が散っちゃうの」
髪飾りの少女が、困った顔をしながら答えた。
その少女を先ほど「姉さん」と呼んだ帽子の少女が、付け加える。
「ま、紅葉はわたしたち秋の神にとっては結構大事なものなの。散るにしても、然るべき時期に散ってくれないと」
季節を司る神にとって、その季節を象徴する自然現象は他者が考える以上に重要なものなのだろう。
目の前の(おそらく)姉妹の切迫した表情が、それを物語っていた。
二つの回転体は、そんな姉妹の言葉を聞き届けることなく、渦巻く風を起こしながらぶつかり合っている。
(神奈子、神奈子)
諏訪子が耳打ちしてきた。
(何よ?)
一応は、秘密の話であるという諏訪子の意思を汲み、神奈子も小声で返事をする。
(ここでこの二人を助けとけば、山の先住民の好感度アップ↑じゃない?)
(…まあ、そうね)
(パッと見、あそこで回ってる連中も大したことなさそうじゃない?)
(ええ)
(わたしらでちゃっちゃとやっつけて、お手柄イタダキといきましょうよ)
確かに「二つの回転体」はひたすらぶつかり合うだけで、大した戦闘能力を持っているようには見えなかった。
でも、と神奈子は反論する。
(相手の実力はともかく、山の妖怪に反感を買うような真似はあんまりしたくないんだけど…)
色々なことがあった結果、天狗や河童といった山の妖怪とは、神奈子たちは親交を築きつつある。
今はとにかく彼らと仲良くする時期――妖怪達に危害を加えることは、神奈子はできれば避けたいと思っていた。
(じゃあ目の前で困ってる秋の神を放っとくの!?)
(そうじゃないわ、せめて話し合いで…)
しかし先ほどから目の前の秋の神が呼びかけている様子を見る限り、話を聞いてくれそうな雰囲気ではない。
一体どうするべきか――神奈子の心の内に葛藤が生じた。
確かに、今この場で困っている山の先住民を見殺しには出来まい。
しかし、安易に武力でもってこの事態に介入すべきではない、そうも思う。
できればこの場は丸く収めたいと思ったが、どうにもその方法が思いつかない。
自分たちはこの山の中では新参者だ。力はあっても、その力の振るい方については、大いに考える必要がある。
困っている者は助けたい。
しかし、山の妖怪に危害を加え、反感を買うような真似はしたくはない。
葛藤であった。
「神奈子、回転が止まったわ!」
「何ですって!?」
二つの回転体が、動きを止めた。
この事態はある意味、神奈子にとって望ましい展開である。
これ以上葛藤を長引かせず、自然に自体が収束してくれるという結末は、願ってもないことであった。
しかし、ぶつかり合っていた二つの回転体は、動くのを止めはしたが、戦いを止めたわけではないらしい。
神奈子たちから見て、向かって右側に浮かんだ人影は、赤い服を身に纏った幼い少女のそれである。
緑色の帽子の端からのぞく猫のような耳と、スカートの裾から伸びた二股の尻尾。
化け猫――あるいは、それに近い妖獣の類であろう。
もう片方、左側に浮かんだ人影は、緑色の髪に赤いリボンをあしらった、人形のような姿をした神だった。
「ここから先は危ないから行ってはだめだと言ってるでしょう!災厄が振りかかるわよ!」
「ふかーっ!!それでもわたしはこの先に生えてる茸を取ってこなきゃならないの!」
強い口調で声を張り上げる神に対し、化け猫も全身の毛を逆立たせる。
黒い体毛を針のごとく立てた耳と、二本の長い尻尾は、まさに野生を想わせる戦闘的なフォルムであった。
もっとも、耳と尻尾を除けば見た目は人間の少女と変わらず、しかも外見の年齢は人間にして十か十一。
逆立つ体毛は白く薄い産毛ばかり。
神奈子と諏訪子、そして二人の秋の神ですら、思わず「可愛い」という印象を抱いてしまった。
「わたしは藍さまのお使いなんだから!今夜の茸鍋の具を探さなきゃならないの!」
どうやらこの化け猫も、夕飯の献立として茸鍋を予定しているらしい。
やはり秋は茸が美味い。幻想郷でも外の世界でも、これは共通の認識だろう。
「お使い?ふん、最近は人間のみならず、妖怪にも命知らずな輩が増えたようね!」
こちらの神様らしい少女も臨戦態勢で答える。
「いいわ、力づくでもここから追い払ってあげる!!」
互いに一歩として退く様子がない。
「災厄なんて所詮は運否天賦、完全なる八雲の方程式の前には無力よ!!」
「甘い甘い甘い!理論を無視して現象を起こす、故に運!それが厄!」
しかし最大の問題は、回転を止めてなお、この二人が周囲の何者にも注意を払っていないことであった。
「まずいわね…ありゃ完全に二人の世界に入っちゃってるわ…」
「懐かしいわね…神奈子がわたしの国に侵略してきた時も、ああして舌戦の末、激闘を…」
「あんたは輪っかが錆びた途端に白旗あげたじゃないの」
遠い目をして昔を思い出す諏訪子、それにツッコミを入れる神奈子。
そんな緊張感のない二人に若干の苛立ちを覚えながら、髪飾りの少女が悲痛な叫び声をあげる。
「ああ、黄色くなったばかりの銀杏(いちょう)が!」
神と化け猫は回転し、ぶつかり合う奇妙な戦いを再開した。
それにつれて空気が再び渦を巻き始め、色づいた木の葉を空中に舞わせていくのだった。
「迷ってる時間はないってことね…」
そう、神奈子が逡巡している間にも、目の前の事態は時間と共に悪化していくのだ。
一体、どうすればいいのか。
「ああっ!」
諏訪子が何か重大な事に気づいたように声を上げた。
この事態を上手に切り抜ける手段を思いついたか――とばかりに、神奈子は諏訪子の方を振り向く。
諏訪子は空を指差したまま、驚愕の表情を浮かべていた。
「あっち…猫のほう!」
「猫?」
化け猫を見ていて、何か気づいたことがあったのだろうか。
諏訪子は緊張した面持ちで、何度も「いや、まさか…でも、間違いない…」とつぶやいていた。
「何か思いついたの?」
神奈子は期待の表情を浮かべ、諏訪子に尋ねた。
「…あの回転軌道…まさに黄金長方形!」
「…は?」
黄金長方形――それは辺がおよそ9:16、正確には1:1.1618の比を持った長方形のことである。
この長方形は古代からこの世で最も美しい形の基本の比率とされている。
エジプト・ギザの「ピラミッド」「ネフェルティティ胸像」、
ギリシアの「パルテノン神殿」「ミロのビーナス」、
そしてダ・ヴィンチの「モナリザ」…この世の建築・美術の傑作群には、計算かはたまた偶然か、
この「黄金の長方形」の比率が形の中に隠されているのである。
芸術家たちはその「長方形」を本能で知っている。
ゆえに、その作品は「美の遺産」として万人の記憶に刻み込まれるのだ。
…ということを、諏訪子は神奈子に熱弁した。
「そ、そう…」
あまりにも真剣に語る諏訪子の気迫に圧され、神奈子は一歩後ずさりながら返事をした。
一体どこでこんな事を覚えてきたのか…おそらくは、外の世界で本やテレビから得た知識だろうが。
「それで諏訪子、その黄金…長方形だっけ?それがこの事態の解決に何か…」
視線を空に向ける。
力づくで化け猫と人形を止めようとした髪飾りの少女が、二人の回転に弾き飛ばされるのが見えた。
「いい?神奈子。黄金長方形の中に一つ、正方形を作ってみるわ」
諏訪子は傍に落ちていた木の枝で地面の上に長方形を描き、それを二分する直線を引いた。
直線によって分断された長方形は、正方形と小さな長方形に分かれた。
「そうして長方形を二分した図形のうち、正方形でないほうの『小さな長方形』は…」
「うん」
「…これもまたおよそ9:16の黄金長方形になる」
諏訪子はさらにその小さな長方形の中に線を引き、図形を二分する。
「これにまた正方形を作ると、残りは黄金長方形…」
そのまま同様の作業を続け、次々と小さな黄金長方形が作られていった。
「さらにまた作る…さらにまた…さらにまた…そして、正方形の中心点を連続で結んでいくと」
黄金長方形と隣接した無数の正方形の中心点を、諏訪子は線で結んでいく。
大きな正方形から小さなそれへ、中心点を結ぶ線はうず巻き状の軌道を描いて伸びていた。
「無限に続く『うず巻き』が描かれる。これが『黄金の回転』よ」
諏訪子はドドドド、というような効果音が似合いそうな表情で言い切った。
「そ…それで!?」
いつしか神奈子も諏訪子の話に引き込まれていた。
よくわからない話だったが、諏訪子の口ぶりから言いようもない一種の「頼もしさ」を感じていた。
最良の解決法がそこから生まれることを信じ、諏訪子の次の言葉を待つ。
一瞬の沈黙の後、諏訪子は口を開いた。
「かっこいいわよね~」
諏訪子は生まれて初めて間近で見る黄金の回転に見とれていた。
化け猫は美しい回転軌道を描き、空に無限の力を持った突風を起こし続けていた。
「い、いや、諏訪子、だからね」
「ん~?」
「それで、あの二人の戦いを止めるにはどうすれば…」
神の方も「黄金の回転」ではなかったが、「その上を行く!」と言わんばかりの強烈な回転で応戦する。
刻一刻と両者の戦いは激化し、それに伴い突風も強さを増す。
遥か遠くに飛ばされた髪飾りの少女が、ふらふらしながら戻ってきて、また風に飛ばされていた。
そして頼みの綱の諏訪子は。
「うーん、こういう時は気が済むまでやり合った後、土手に寝転がって『やるじゃない』『あんたこそ』的な…」
「あーそーやっぱりこういうオチかよえーわかってましたよあんたに期待したわたしが馬鹿でしたすいません!」
もはや打つ手なしと踏んだ神奈子は一瞬で判断を下し、空へ飛び立った。
ここは喧嘩両成敗、秋の神の意思を汲み取り、争う二つの回転体を力づくで止める。
それが、一番手っ取り早い手段だと判断したのである。
結果として神と化け猫から恨みを買うかもしれないが、話せばわかってもらえるはず――神奈子はそう判断した。
「気をつけて!『衛星』が次に襲ってくるわよォォーッ!!」
木陰に隠れていた帽子の少女が、神奈子に警告を発する。
衛星、つまり惑星の周囲を公転する小さな星のことだが――もちろん実際に天体が襲ってくるわけではない。
人形のような外見の神が回転しながら放ってきた「それ」を、帽子の少女が「衛星」と呼んだのであった。
(衛星って…あの変な丸い生き物?確か…毛玉、とか言ったっけ?)
それは幻想郷のあちこちに生息する不思議な生物だった。
列を成して襲い掛かってきたり、弱いながらも弾を撃ったりもする、妖怪とも妖精ともつかない謎の生物。
神は次々と毛玉を召喚しては、周囲にそれらをばら撒いていたのだった。
放たれた毛玉自身も周囲に弾を撃ちながら、化け猫と、そして神奈子を狙って体当たりをかましてくる。
しかし。
「全く…」
山坂と湖の権化・八坂神奈子にその程度の攻撃が通用するはずはない。
毛玉の攻撃を易々と避けると、その指先に力を集めた。
神奈子が空に向かって手をかざすと、それまで吹き荒れていた風が止んだ。
乾を創造する程度の能力、それはつまり、天、つまり空の在り様を自在に操り、あるいは創り出す力。
落ち葉が散るのを防ぐだけならこれでよかったが、風を起こす元凶がいる限り、それは一時的な対処法にすぎない。
あの二人が喧嘩をやめるまで、ずっと神奈子が風を止めているわけにも行かないのだ。
「黄金の回転だか衛星だか知らないけど、喧嘩は他人に迷惑がかからない場所でやることね!」
自身の能力で紅葉を散らせてしまっては元も子もない。
神奈子は静かに飛ぶと、突然風が止み、呆気に取られている二人の回転体を背後から捕まえた。
「あ、あれっ!?」
「い、いつの間に!!」
神と化け猫は、いつの間にか神奈子に後頭部をつかまれ、捕獲されていた。
そのまま二人の頭を左右から密着させ、神の右側頭部と、猫の左側頭部を掌でガッチリと押さえる。
「ど、どこのどなたか存じませぬが…ちょっとよろしいですか?」
右のこめかみを神奈子に抑えられ、左のこめかみを化け猫のそれと密着させた神が恐る恐る尋ねた。
フリルのついたリボンが特徴的な洋風の服装をしていたが、顔立ちは純日本風、雛人形といった感じの雰囲気だ。
「ええ、いいわよ」
「こ…この妖怪は厄が溜まってる場所へ勝手に踏み込もうとしたの」
「それで?」
「わたしは親切心でそれを止めようとしただけで…あ、あくまで善意の行為なのよ!神としての!」
彼女は神奈子が圧倒的な力の持ち主であり、自分達に制裁を加えようとしていることに気づいているようだった。
それ故、自分が悪くないということを必死に主張し、その制裁から逃れようとしているのだろう。
「なっ…いきなり攻撃してきたのはそっちでしょ!」
責任を押し付けられそうになった化け猫も、負けじと反論する。
神奈子に拘束された状態で二人は口論を始め、もし身体が自由ならば再び戦いを始めようとする気配があった。
「ほんとに危ないんだから!わたしにはこの山の厄を見張る義務ってもんがあるのよ!」
「うにゃー!わたしにも、今夜のおかずをとってくるって義務があるんだもん!」
「はいはい、二人ともさっきわたしが言ったことがわかってないようね」
しかし神奈子は唾を飛ばして争う二人の頭をさらに強く押し付けると、ドスの効いた声を響かせた。
「「ひっ!」」
ここまで来たら後には退けない。
一旦攻撃を仕掛けたら、後は山の新たな神として、ひたすら強さとインパクトを示し、カリスマ性を見せるのだ。
僅かにでも容赦すれば嘗められる。
神奈子は敢えて心を鬼にし、二人に尋ねた。
「質問よ…右のあなたをお仕置きするか?左のあなたに制裁を加えるか?当ててごらんなさい」
幻想郷では新参だが、神としてのキャリアはかなり長い神奈子である。
その声と態度には、大抵の者がひれ伏してしまう威圧感とカリスマが備わっていた。
「えーと…み、右の厄神さん?」
化け猫がひきつった笑みを浮かべながら、答える。
「NO!NO!NO!NO!NO!」
しかし神奈子はにっこりと笑いながらその期待を否定した。
「じゃ…じゃあこっちの妖怪?」
自分の主張が認められたか、と厄神は期待に目を輝かせて問う。
しかし神奈子は、その問いにも同じ答えを返した。
「NO!NO!NO!NO!NO!」
青ざめた顔をした二人は、声をそろえて尋ねる。
「「り…りょうほーですかあああ~」」
「YES!YES!YES!YES!YES!」
全身から冷や汗を流しつつ、恐怖に打ち震える化け猫と厄神は気づいた。
自分達のこめかみを押さえていた手の形が、いつの間にか握り拳――しかも中指の第二関節を突き出した、
いわゆる「中高一本拳」の形を取っていたことに。
その状態から繰り出される技として二人の頭に浮かんだ映像は、細部に至るまで酷似していた。
「「もしかしてグリグリですかーッ!?」」
二人の恐怖の感情と、その顕現たる叫びが同調した。
グリグリ。
こめかみに当てた中指の第二関節の一点に力を集中し、ねじ込むように圧迫する事で相手の頭部を責める技だ。
神奈子は外の世界にいた頃、ある書物で母親が子どもを折檻する場面を見て、この技を覚えた。
事の成り行きを見守っていた諏訪子が、神奈子に代わって二人の問いに答える。
「YES!YES!YES!”OH MY GOD!!”」
実戦で使ったのはこれまで一度だけ、魔理沙があまりにも粗末な分社を作った時のことである。
あの時はかなり手加減をしていたが、今回は少し力の制御を緩くしてもかまわないだろう。
(それにしても)
二人のこめかみに力を込める瞬間、神奈子は思った。
(”OH MY GOD!!”それを神様が言ったなら、その”GOD”、諏訪子の神は一体誰なのかしらね)
※※※
もはや再起不能(リタイヤ)かとも思われた状態から、化け猫と厄神はなんとか回復してきた。
現在二人は神奈子と諏訪子、そして秋の神の前に正座させられ、説教を受けていた。
二人を見下ろす形になった四人の神のうち、実際に説教を行なっているのは一人。
かなり切迫した顔と声で、必死に紅葉の大切さを訴えている秋の神の片割れ――静葉、と名乗った髪飾りの少女。
神奈子のグリグリ攻撃を受けた二人が気を失っている間、神社の神と秋の神は互いの自己紹介を済ませていた。
「いい?紅葉は花のように美しく、蛍火のように儚い秋の象徴なのよ?それを無理矢理散らしてしまうなんて」
静葉は紅葉を司る神であった。
妹の穣子と共に、秋真っ盛りな現在の気候や風景を満喫していたところで、突然厄神と化け猫の喧嘩に出くわした。
ここ妖怪の山では喧嘩や弾幕は日常茶飯事であり、普段は静葉も気に留めないが、今回はそうもいかなかった。
この二人、弾幕よりもむしろ回転で争っており、その結果天狗風に匹敵する強風を起こしていた。
風が吹けば桶屋が儲かる…どころか、ダイレクトに「風が吹けば静葉が泡を吹く」とでも言うべき事態が起こった。
すなわち、二人の回転が起こした風が色づいたばかりの紅葉をもの凄い勢いで散らしてしまったのである。
これは大変、一年で唯一自分の能力と神徳が脚光を浴びる時期が台無しになってしまう。
そう思って喧嘩を止めに入ったところで、神奈子たちが通りかかったのであった。
「いいえ、むしろ花より美しく、蛍より儚い!ああ、そんな世界で最も美しい自然からの贈り物になんてことを!」
穣子曰く、静葉は普段は物静かな寂しさと終焉の象徴…らしいのだが、紅葉が絡む話題に関しては別なのだそうだ。
確かに今の静葉のテンションは初対面の神奈子から見てもかなり高い。
ちなみにこの発言をきっかけに、静葉は花の妖怪や虫の女王との間に確執を生じるのだが、それはまた別の話。
「まあまあ姉さん」
話の内容が「説教」から「紅葉への賛美」へとずれ始めたことを感じ取ったのか、穣子が止めに入った。
「もうこの辺でいいんじゃない?この二人も反省してるみたいだし」
厄神と化け猫はおとなしく静葉の話を聞いていた。
もしかすると、あまりにも必死な静葉のテンションに圧されて押し黙っているだけかもしれなかったが。
「だめよ穣子…いい?わたしたちが輝けるのはこの季節、秋だけなのよ?」
「うーん、まあ」
穣子は最近、豊穣を司る程度の能力は秋じゃなくても役に立つということに気づいていしまった。
そのことで密かに、紅葉の季節にしか活躍できない姉に優越感を感じているが、さすがにそれは黙っている。
来年は夏野菜の農家へ行き、信仰を集めるという計画を密かに練っているが…。
姉には夏野菜カレーを振舞うことで許してもらおう。
「でも、こっちの神奈子さん…だっけ?うん、そうだよね」
一旦神奈子に視線を移して覚えたばかりの名を確認した後、また静葉に目を向ける。
「神奈子さんのお陰で一応紅葉は守られたし。ここは寛大な態度をとるのが秋の神の余裕じゃない?」
「むぅ…それもそうね…。まあいいわ。あなたたち、今の季節が秋で助かったと思いなさい」
その台詞を最後に、静葉は説教を止めた。
とりあえずは一件落着か…そう思ったのか、正座した二人の少女から肩の力が抜ける。
神奈子もそのような心境ではあったが、横から神奈子をつつく者がいる。
諏訪子であった。
(ここで最後に気の利いた台詞の一つでもキメるのが、カリスマUPのカギじゃない?)
(…何言ってんの。もうこの件は終わりよ…元々彼女たちの問題だし、これ以上口を出しても…)
(でも、山の住人の信仰を集めたいんでしょう?)
諏訪子は言った。
確かに、神奈子自身、最近は山の妖怪や神から信仰を集めるのに夢中だ。
宴会を開いたり、話術を駆使したりして、できる限り山の先住人と仲良くなろうとしてきた。
そんな神奈子の様子を、諏訪子も知っていたのだろう。
でも、それは決して自分だけのためではなく…。
(ほら、風神様のありがたいお言葉)
諏訪子は神奈子の背中を押し、化け猫と厄神の前に立たせた。
ここに至っては神奈子も逃げられず、正座した二人の少女と向き合う。
「あ、あなた達」
先ほど自分をグリグリした相手が目の前に現れ、二人は表情を硬くする。
「…名前は?」
「え?」
「名前?」
神奈子が尋ねてきたことの内容に、二人は一瞬呆気に取られるが…すぐにその問いに答えた。
「…鍵山雛」
「橙」
「そう。雛と橙ね」
神奈子は最初に、自分から向かって右に正座する、雛、と名乗った少女に目を向けた。
「さっき『こっちの猫さんが厄が溜まってる場所へ踏み込もうとした』って言ったかしら?」
「…はい」
「それで、あなたはそれを親切心で止めようとしたと」
「はい」
雛は下を向いたまま、神奈子の言葉に答えた。
神奈子は優しい、しかしよく響く声で話を続ける。
向かって左側の化け猫に視線を移し、声をかけた。
「次に、橙」
「は、はい!」
神奈子の目に射すくめられ、緊張した様子で橙が答えた。
「あなたはどうして、そんな危険な場所へ入ろうとしたの?」
橙はおずおずとした様子で答える。
「…今日の夕飯で使う茸を探してて…それを集めてくるのが、わたしの仕事だから…」
「仕事?」
「…うん。今日は久しぶりに藍さまが一緒にご飯を食べようって誘ってくれたから…」
彼女は見たところ山に棲む妖獣に見えたが、もしかしたらそれとは別の顔も持っているのかもしれない。
名前の後に「さま」をつけるような相手がいるということは、別のもっと強い妖怪の家来か何かだろうか。
とにかく、神奈子にもある程度の事情はつかめた。
茸を探していた橙が、「ここから先危険なので立ち入り禁止」とされている場所に立ち入り、
そこからその危険な区域を管理している雛と喧嘩になったのだろう。
「なるほどね」
この状況で自分がどう振舞うべきか、神奈子は少し考えた後、口を開いた。
すでに自分が彼女達よりも強い力を持っているということは、十分に認識させている。
多少は「上からの態度」をとっても問題はないだろう、と思った。
実力で勝っている者が、立場から下手に出なければならない、そんな概念が通用するのは人間ぐらいだ。
…実際に幻想郷でその辺りがどうなっているかは、神奈子はまだ詳しく知らないが。
「まずは、橙」
「はい」
「あなたにどれだけの力があるかは知らないけど、危ないと言われる場所にはそれなりの理由がある」
神奈子も神である以上、禁裏や聖域といった「特別な場所」の存在には疎くない。
雛はこの山の、おそらく災厄に関する神らしい。
彼女もそういった場所を管理する仕事を持っているのだろう。
「いかなる事情があれ、危ないと警告してくれる神様の声を無碍にするのは、罰当たりなことよ」
「う…」
「もしその場所に踏み込んでいたら、あなたはもっと酷い目に合っていたかもしれない」
それこそ、わたしにお仕置きされることなんかよりずっと恐ろしい目にね、と付け加えた。
「…はい」
橙は少し考えた後で、神奈子の言葉に頷いた。
その様子を見て、神奈子は納得した表情を浮かべ――次に、雛に目を向けた。
「次に、雛」
「はい」
神が神に説教する――八百万の神が暮らすこの国では、特に珍しい事ではない。
「あなたは厄を司る神として、ここで妖怪たちに警告を与えている…ということでいいのかしら?」
「はい」
「なるほどね」
神奈子は先ほどまでの雛の言動から、彼女が何の神であるのか、おおよそ把握していた。
予想通り、災厄、つまり不幸から人間や妖怪を守る神だったのだろう。
「それで、危険な場所に近づく者を追い払っていたの?」
雛はこくり、と頷いた。
「そう。それも相手を守るための一つの…もしかしたら最良の手段かもしれないわね」
でもね、と神奈子は話を続ける。
「あなたが厄の神様なら、傍にいて相手を守ってあげることもできるんじゃない?」
「…傍、で?」
「ええ」
神奈子は優しげな口調で返事をした。
「どうしても、相手が危険な場所を通らなければならない理由がある時」
「……」
「そういう時、問答無用で追い払うのが、必ずしも賢い選択かしら?」
雛は神奈子の問いに答えられない。
まさに現在置かれている状況が、そうして「相手を問答無用で追い払おうとした」結果だからだ。
自分は厄を集め、それを管理する神としての勤めを果たそうとした。
しかしその結果、秋の神に迷惑をかけてしまい、こうして叱られる破目に陥っている。
「危ない場所なら、ついて行ってあげて、振りかかる災厄から守ってあげるのも一つの手段よ」
「ついて行って…守る?」
雛は目を丸くして言葉を返した。
「そう。一つの能力も、使い方次第で色々なことに役立つわ」
「でも…だめよ。わたしが傍にいたら、相手も不幸になるもの」
厄を溜め込むということは、自分の周囲に厄を纏うことである。
その厄が相手に振りかかることを、雛は恐れていた。
「痛い目に合わされて追い返されるのは、不幸じゃないの?」
うっ、と雛は一瞬言葉に詰まる。
「そうすることを責めてるんじゃないわ」
「……」
「でも、痛い目見せて不幸にするのと、あなたの傍で災厄を被るのとでは大違いよ」
「…どういうことよ」
神奈子はゆっくりと言葉を紡いだ。
「災厄は相手に影響を及ぼさないよう、あなたがしっかり捕まえておけばいい」
「…か、簡単に言わないでよ!」
「それが無理でも、悪いことが起こった時にあなたが相手を助けられるかもしれない」
あらゆる場合とまではいかないけど、と付け加える。
まだ納得できない、といった表情をしている雛に、神奈子は逆に問いかけた。
「逆にあなたが戦ってしまえば、誰が相手を災厄から守るのかしら?」
「……」
雛はその問いに答えることができない。
同時にあることに気づいて――いてほしいんだけど、と神奈子は思った。
雛は自分に近づけば相手が不幸になる、と言った。
それならば、戦っている時であっても災厄は相手に振りかかるだろう。
誰かと関わるだけで相手を不幸にしてしまう、そんな雛の宿命を哀しく思ったが、だからこそ。
「払えるかもしれない不幸と、払えない不幸。救いがあるのはどっちか…考えてご覧なさい」
雛はそれでも何か反論しようとしたが、その口から言葉が出てくることはなかった。
それまで両者のやりとりを見ていた秋の神と諏訪子も、かける言葉を見つけられないでいるようだ。
新参者の自分が、少し偉そうに言い過ぎたか――と、神奈子の心に後悔の念が生まれ始めた時。
「あの!」
沈黙を破り声をを上げたのは、橙だった。
一歩進み出て雛の前に立つと、橙は勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
呆気に取られる雛に、橙は大きな声で謝罪の言葉を述べた。
頭を下げた状態のまま、橙は話を続ける。
「わ、わたし、神様の言うことも聞かないで、無理矢理通ろうとして…だから、謝ります!」
一層頭を深く下げる橙。
帽子の下から突き出た耳も、ぺたりとお辞儀をしていた。
雛はしばらく、無言で橙の後頭部を見つめた後、言葉を返した。
「顔、上げて」
橙はゆっくりと顔を上げ、雛と視線を合わせる。
雛は緊張しているのか、少し上ずった声を出した。
「わたしの方こそ、いきなり攻撃して悪かったわ。だから」
先ほどの橙と同じように、頭を下げる。
「ごめんなさい」
頭上に結んだリボンが、重力に引かれて垂れ下がった。
雛はすぐに顔を上げ、神奈子を睨みつけた。
「厄を一つの場所に留めておくのは大変なの。素人が偉そうな口をきかないでほしいわ」
「…そう。それは悪いことをしたわね」
神奈子は苦笑いを浮かべて答える。
「でも」
雛は表情を緩めた。
「あなたの話はアドバイスとして…ま、話半分に受け取っとくわ」
「あらあら」
この期に及んで雛はふてぶてしい笑みを浮かべ、神奈子を挑発するような態度を取った。
神奈子はそれに怒るどころか、どこか微笑ましい、可愛らしいという印象を受けた。
しかしそれとは別に、雛と、そして橙にはまだやるべき事が残っている。
「でもあなた達、まず最初に――」
謝る相手がいるでしょう、と言いかけた神奈子の言葉を、雛が遮る。
「ほらあんた。橙だったかしら?」
雛は橙に声をかけ、目配せをする。
橙もその意図を汲み取ったのか、元気よく頷いた。
二人は秋の神の前に立つと、同時に深々と頭を下げた。
橙の帽子が落ち、雛の長い髪もその先端を地面に付けていた。
「「迷惑かけてごめんなさい」」
勿論秋の神の姉妹は、その二人をそれ以上責めるような真似はしなかった。
※※※
結局、橙の茸狩りに雛が同行すると言うことで話はまとまった。
さすがに神奈子が言ったようにいきなり「傍にいて橙を災厄から守る」というのは難しく、
雛は橙と少し距離を置いてついて行くことにした。
「これ以上近づいたら危ないからね」
「おっけー。ねえ、この辺でおいしい茸って、雛ちゃんは知ってる?」
「ひ、雛ちゃん!?」
「あれ、嫌だった?じゃあなんて呼ぼうか…」
距離をとりながらも、橙は楽しげに雛に話しかけていた。
雛は鬱陶しい、という様子で応対していたが、満更でもなさそうであった。
そんな二人を、四人の神は微笑ましげに見送る。
「いい友達になれそうね」
穣子の言葉に、反対する者はなかった。
かなりの数の紅葉が散ってしまったが、神奈子の働きによって、それ以上の葉が守られた。
どうにか秋の景観が失われずに済んだという所だろう。
秋の神の姉妹は神奈子と諏訪子に何度も感謝の言葉を述べた。
「あ、あと、お礼にぜひとも渡したいものが…穣子!」
「はいは~い」
穣子はどこかへ飛んでいった。
穣子は豊穣の神、何か美味しいものが貰えるのだろうかと二人は期待した。
「そんな、お礼なんていいわよ…ねえ諏訪子?」
「そうそう。この時期にふさわしい秋の味覚がいいなあなんて思ってもいないわ」
神奈子と諏訪子は期待を隠せない表情で、一応社交辞令の言葉をかける。
諏訪子の言葉はそもそも社交辞令になっているかも怪しかったが。
「も、持ってきたわよ~。姉さん、ちょっと手伝って…」
やがて穣子が大きな包みをいくつも抱え、ふらふらしながら飛んできた。
すぐさま静葉が手を貸しに行く。
(おおっ!あ、あんなに…)
(何かしら、あれだけの量の…サツマイモ?栗?それとも…)
((松茸!!))
二人の脳裏には、松茸を前に目を丸くする早苗の姿が映っていた。
※※※
夕方になり、茸狩りから帰ってきた早苗の前に、二人は山盛りの松茸を差し出す。
それをみた早苗は涙を流して喜び、二柱の神を讃えるのだ。
『ああ!う…美しすぎます!実はこっそり美味しい松茸を手に入れてくださってたなんて!』
『…うう…わたしにとってそれは贅沢なる食材!一日中探し回っても見つけられなかったのに…』
己の無力さを嘆く早苗の頭を、二人は優しく撫でる。
『いいのよ早苗。いつもあなたにばかり苦労をさせて悪かったわ…』
『今夜は、わたしと神奈子がご飯を作るからね!』
早苗は堪えきれず二人に抱きつき、声を上げて泣き出してしまう。
二人は優しく早苗を抱き寄せながら、微笑を交わし合うのだ。
勿論その夜は、特大サイズの松茸が早苗の中でエクスパンデッドミシャグジさまだったんだけどね。
※※※
「早苗の『口の』中で松茸の美味しさがエクスパンドって意味よ」
「ミシャグジさまは?」
「まあいいじゃないの。ほら、松茸がやってきたわよ」
既に神奈子の中では、秋姉妹のお礼が松茸であることは決定事項になっていた。
静葉と穣子は荷物を地面に降ろし、二人の前にやってきた。
「お待たせ!わたし達二人の神徳が詰まった美味しい――」
神奈子と諏訪子の期待は今や最高潮。
心の中で「ま!ま!」と、自分達が望むお礼の頭文字を連呼していた。
二人の視線が集中する静葉の唇が、動く。
(ま!)
(ま!)
時が止まったかのような一瞬。
二人はその一瞬を、数千数万もの須臾に分けてゆっくりと知覚しているかのように感じた。
ちなみにここには完全で瀟洒な従者も月の姫もいない。
そして。
「もみじおろしよ!」
「イェーイ!ビバもみじおろし!…は?」
「ヤッホーゥ!諏訪子、ビバはイタリア語で、もみじおろしは日本語よ!…え?」
静葉の言葉と共に飛び上がった神奈子と諏訪子は、空中で目を丸くした。
「今年、人里の収穫祭で売ろうとしていっぱい作ったら思いの外売れ残っちゃって」
「だから在庫一層、もうあるだけ持ってっちゃって!」
「よかったわね姉さん、儲けはないけど、作ったものを無駄使いせずにすみそうよ!」
「え、えーと…」
「これ、どういうことなのかしら?」
頭の中は真っ白、事態が飲み込めない神奈子は二人に説明を求めた。
「どういうことって?」
「これ…全部中身がその…」
穣子がここまで持ってきた包みの山を指差す神奈子。
「ええ!わたしたちの手作りもみじおろしよ!包装は河童の工場に依頼したけどね!」
静葉は自信たっぷりに答えた。
「わたしの紅葉の力と!」
「わたしの豊穣の力を合わせて作られた!」
「「秋姉妹謹製!狂いのオータムもみじおろし!!」」
まるで外の世界で見たテレビのCMのように、宣伝口調と営業スマイルで姉妹が叫ぶ。
それをどこか冷めた視線と頭で見ていた神奈子は、思ったことをそのまま口に出した。
「…もみじおろしに紅葉なんて入ってないじゃん」
もみじおろしは大根に唐辛子を詰めてすりおろしたもの、
あるいは人参おろしと大根おろしの複合物である。
そこにはいかなる紅葉も関与していない。
鰹節と一緒に冷奴に乗せていただくのがおすすめである。
※※※
その後。
静葉は神奈子と諏訪子を引きとめ、もみじおろしに自分の神徳が宿っている事を必死で主張した。
『ななな名前や謂われに宿る力がより強い幻想郷では、名前に『もみじ』とつく以上わたしの神徳が…』
『わ、わかった、わたしたちが悪かったわよ、ねえ神奈子?』
『ええもちろん!あは、あはは…』
最後のほうは涙目になって迫ってくる静葉に圧倒され、二人はひたすら彼女の言葉に頷くしかなかった。
さらに『こんなに沢山もみじおろしだけもらっても困ります』という言葉も飲み込まざるを得ず、結果。
「はい…じゃあこれ、山の頂上の神社までよろしく」
「わかりました。ご希望のお届け時間帯はありますか?」
「ああ、そういえば今誰もいないんだっけ。…そうね、夕方ごろにお願いしていい?」
「夕方ですね!かしこまりました!」
大量のもみじおろしをそのまま持って歩くわけにも行かず、
神奈子はつい最近開業したという運送業者を呼んだのだった。
二日前に届いた天狗の新聞にこの業者のチラシが入っており、連絡方法を覚えていたのが幸いした。
ちなみにもみじおろしは全てチューブ詰め(河童の技術力ってすごいね)、ある程度保存も効く優れものだ。
秋の神は既に晴れ晴れとした顔で、しかし逃げるように去ってしまっていた。
「ところで二重の意味で美味しそうね、あなた」
「ひえぇ!」
一方諏訪子は獲物を見つけた捕食者の目で運送屋を見ている。
運送屋のほうもその視線に本能的な恐怖を感じ、震え上がっているようだった。
ちなみに連絡方法は、
『その辺の石とかを適当にひっくり返して出てきた虫に話しかければいい』
というものだ。
どういう原理の情報伝達なのかはわからないが、二本の触覚を備えた運送屋はすぐに飛んできた。
神奈子が近くの石の下にいたダンゴムシに話しかけてからわずか数分のことである。
さすがは幻想郷、一寸の虫にも高性能な情報ネットワークといったところだろうか。
「ほら、やめなさい諏訪子…怯えてるでしょう」
「ちぇー」
運送屋を羽交い絞めにし、首筋に舌を這わせようとしていた諏訪子を、神奈子は慣れた手つきで引き剥がす。
「じゃあ、そういうことでよろしくね…えーと」
「蛙コワイ両生類コワイ…あ、わたし、リグルっていいます、蛍の妖怪です…」
捕食者の恐怖に慄きながらも営業スマイルを忘れずに自己紹介するリグル。
しかしその顔は蒼白であり、逆に痛々しい印象を見る者に与えた。
神奈子はチラシに書かれていた『虫の地位向上を目指すサービス業第二弾!』という宣伝文句を思い出す。
自分は虫の地位を大いに下げかねないものを幻想郷に持ち込んでしまったな、と思った。
持ち込んでしまったそれは、
『蛍は尻ゆえ蛙に呑まるる』
などと意味不明なことを言いながらリグルを追い掛け回していた。
リグルは命からがら、何百匹もの虫とともに荷物を運びながら去り、辺りに静寂が戻る。
神社を出てからそれほど歩いていないにもかかわらず、随分と時間を食ってしまっていた。
太陽は空高く上り、神奈子は僅かに空腹感を覚えていた。
(もうお昼かしら)
雛と橙の喧嘩を止め、二人にお説教をするのにそれほどの時間を費やしたわけでもない。
リグルは本気で諏訪子を怖がっていたため、荷物を運んでもらう手続きも速めに済ませた。
では何故この場に長時間留まっていたかというと、それは、
(…嘘よね、普段は物静かなんて)
主に一人の少女の必死なお説教タイムによるものであると判断せざるを得ないが…それはまあ、いい。
「お腹空いたね」
前に立って歩く諏訪子も、今が昼時だと気づいているのだろう。
振り返り、神奈子が思っているのと同じことを口にした。
「そうね」
「お昼にする?」
「ええ」
出掛けに、早苗が弁当を作ってくれていた。
諏訪子に渡しておいたはずだが、それを持っているようには見えない。
「…諏訪子、お弁当は?」
「ここ、ここ」
諏訪子は得意げに、トレードマークの目玉付き帽子を指差す。
…まさか。
「ちゃららららら~~~~ん♪ちゃららららら~~んらら~~ん」
脱いだ帽子をひっくり返すと、諏訪子はシルクハットを操る手品師のように帽子に手を突っ込む。
諏訪子は昔からこうして、帽子を鞄代わりにして使う事がよくあった。
神奈子はもう随分前に、それをやめさせることを諦めている。
「わたしの愛~~~しい~~~かな~こに~~~幸~~~あれ~~♪」
「……」
神奈子は黙って、諏訪子の行動を見ていた。
「ひろがる髪~~~天空にか~ざし~~なんなのかよ~~くわ~k」
「いいから早く弁当を出しなさい!」
『オ○ーブの首飾り』に変な歌詞をつけ始めた諏訪子を急かし、神奈子は弁当を取り出させた。
余談だが、箱の中のおかずは思いっきり片側に寄ってしまっていたという。
※※※
手ごろな芝生の上に腰を下ろし、二人は昼食をとっていた。
ちょうど木々が途切れており、正午の日差しが真上から差し込んでいる。
座った草地に湿り気は無く、昼寝をするにももってこいの場所だった。
色々と慌しかった状況が過ぎ去り、心に落ち着きが戻ってくる。
(ほんとはこんな所で和んでる場合でもないんだけど)
この外出の、本来の目的を思い出す。
(いい加減、ちゃんと話さないとね)
神奈子は自分の傍らに座り、握り飯を頬張っている諏訪子に視線を向けた。
幻想郷に移り住んでからまだ一月と経っていないが、新しい生活は概ね順調であるように思える。
最初トラブルの種になるかと思われた山の有力者との関係も良好だ。
もっともその関係を築く上で、人間と戦うという予想外のトラブルを経ることになったわけだが。
そうして戦った人間たちも、今は自分達を幻想郷の住人として受け入れてくれている。
…諏訪子は今の生活をどんな風に捉えているのだろう。
ある日を境に、神奈子の心はふとした瞬間、その疑問にとらわれるようになった。
あの日――神奈子と早苗が霊夢たちに敗れた後、同じように諏訪子が彼女達に戦いを挑んだ日。
柱の陰から盗み見た人間達と諏訪子の会話を、今でもはっきりと覚えている。
『私の神社を勝手に幻想郷に送り込んでおいて』
『よくもまぁ、いけしゃあしゃあとそんな事言えたもんだ』
神社を幻想郷に移すことは、信仰が失われることに焦った神奈子が独断で決め、実行した。
早苗は実行直前に、そして諏訪子は神社が幻想郷に移ってから、そのことを知った。
確かに元々はこの神社は諏訪子の物、現在でも実質二人の共有物だ。
それがある日突然別の場所に移されてしまえば、文句の一つも出るだろう。
しかし、神奈子にとって最もショックだったのは、その後に諏訪子の口から出た言葉。
『あんな女、敵よ敵』
もしこの言葉を面と向かって言われたのなら、いつもの憎まれ口だと考え、気にも留めなかっただろう。
しかし、自分がいない(と、諏訪子は思っていただろう)場所でそれを言われた場合は別だ。
それは「神奈子がその言葉を聞いていない」という前提で放たれた言葉。
本人がいない場所で言うからこそ、その内に本音が込められる――悪い言い方をすれば「陰口」の原理。
確かに二人は元々敵対する存在であり、今でもよく喧嘩をする。
しかしその一方で、二人は長い間共に暮らし、過ごしてきた二柱の神だった。
少なくとも神奈子は、長年共にあった土着神を本気で「敵」だと思ったことはない。…たぶん。
勿論、諏訪子があの時人間達に聞かせた「敵」発言が、彼女の本音だと決まったわけではない。
こうして今現在、一緒に暮らしている諏訪子は、新しい暮らしを楽しんでいるように見える。
自分に対する態度に、敵意が表われているようにも思えない。
『ここで最後に気の利いた台詞の一つでもキメるのが、カリスマUPのカギじゃない?』
先ほどの諏訪子の言葉を思い出す。
あえて自分では前に出ず、神奈子に山の神として花を持たせた。
自分がかつて彼女の存在を隠し続けてきたことを思うと、諏訪子のそんな心遣いにも、胸が痛んだ。
その一方で、諏訪子が自分を応援してくれたことを嬉しく思う。
諏訪子が少しでも、この新しい世界を喜んでくれたら――。
『敵よ』
しかし、あの日の一言が神奈子の心を縛る。
一旦気になりだした心は止まらず、神奈子の不安と疑念は少しずつ、しかし確実に膨らんでいった。
やはり諏訪子は、外の世界での生活に未練を持っていた?
外から来た自分とは違い、その地で生まれ育った諏訪子にとって、
あの場所での信仰が持つ意味はもっと、ずっと重かった?
今は?今の諏訪子はどう思っている?
新しい生活を、集まる信仰を、そして…彼女を無理矢理幻想郷に連れてきた、自分を。
彼女に酷いことをしてしまったかもしれない、自分を。
(諏訪子、わたしは)
自分にとって諏訪子は、断じて敵なんかではない。
「神奈子」
幾つもの時代を越えて共にあった、友であり、家族であり、そして――、
「わたしは……っ!」
「か、神奈子!?」
「え?」
足元から、自分の名を呼ぶ声が響いていた。
視線を下げ、その声の出どころを確かめる。
「どうしたの?いきなり立ち上がって…」
諏訪子の言葉を聞いて初めて、自分が立ち上がってしまっていることに気がついた。
完全に、今が昼食時であることを忘れていた。
「ほら、おにぎり落ちそうになってたわよ」
諏訪子は神奈子がまだ口をつけず、手に持ったままにしていた握り飯を手渡した。
立ち上がった際に手から落としそうになったそれを、諏訪子がキャッチしてくれていたのだろう。
「ねえ、どうしたの?」
諏訪子は怪訝な顔で神奈子を見上げている。
「…なんでもないわ」
神奈子は再び腰を下ろすと、握り飯を食べ始めた。
この食事が終ったら諏訪子と話をしよう。
自分が思っていることを打ち明け、諏訪子の正直な気持ちを聞くのだ。
勝手な行動を責められることも、新しい生活への不満をぶちまけられることも、覚悟している。
もちろん、それに対して頭を下げることも、である。
「変な神奈子」
諏訪子はくすくすと笑うが、神奈子はあえてその顔から目をそらす。
こんな後ろめたさと不安を抱えたままで、諏訪子の笑う顔を見ているのが辛かった。
「でも、ほんとに綺麗よね」
「そうね」
『何が』綺麗なのか諏訪子は言わなかったが、神奈子は彼女の言いたいことはわかっている。
諏訪子のやや斜め上に向けられた、遠くを見るような視線。
その先には、その葉を見事に色づかせた木々があった。
「あっちでは、こんな紅葉は見られなくなっちゃってたし」
「行くところに行けばあるらしいわよ、今も」
この時代、外の世界では美しい紅葉を見せる木が年々少なくなっている。
山林の減少は当然のこと、道路沿いの街路樹も、ビル建設や道路整備の過程で少しずつ消えていく。
まさに紅葉が幻想になりつつあるのだった。
それだけ、ここ幻想郷での紅葉が量と美しさを増すのかもしれないが、そういうことを考えると、
なんだか目の前の紅葉がひどく貴いもののように思えてくるから不思議だった。
少しだけ、必死になって紅葉を守る静葉の気持ちがわかったような気もする。
「あ、おにぎりが!」
そんな幽かな郷愁が漂う空気は、諏訪子の素っ頓狂な叫びで破られた。
握り飯が諏訪子の手を離れ、地面をころころと転がっていた。
先ほどわたしに注意した張本人が、何をやっているんだか。神奈子はそう思った。
「待ちなさいっ」
諏訪子は立ち上がり、転がる握り飯を追いかける。
まるでどこかの民話にあるような光景。
そもそも神という存在は、民話や御伽噺の中の存在――幻想の生物なのだが。
(あのままおにぎり共々穴に落ちて、ようこそ鼠の楽園へ、かしら)
鼠と蛙の仲はよく知らないが、なんとなく諏訪子が鼠から信仰を得るのは難しいように思えた。
「あっ」
その時、強い風が吹いた。
神奈子の力によって起こった風ではない。
巻き上げられた砂粒が目に入り、思わず瞼を閉じる瞬間。
服の袖で顔を覆うのではなく、帽子を目深にかぶって目を守る諏訪子が見えた。
風が止んだ。
目を、開いた。
最初に目に入ったのは、空高く舞い上げられた紅葉。
幻想郷では自然に、しかも台風や嵐でなく、こんなに強い風が吹くものなのか。
これが本当の天狗風というのだろうか…そんなことを考えながら、神奈子は視線を下げていく。
そして、そこにあった光景を見て、息を呑んだ。
風が止んだ今、諏訪子は帽子を元の位置に戻していた。
諏訪子もまた、空に吹き上げられ、落ちてくる紅葉を眺めていた。
はらり、はらり…本当にそんな音が聞こえそうなほど、緩やかに滑空しながら紅葉は落ちてくる。
諏訪子の肩に、頭に、髪に。
帽子の飾りに負けないくらい目を丸くして、諏訪子はそれを見ていた。
瞬きせず。微動だに、せず。
感動しているのか。驚いているのか。あるいは両方か。
見る者を圧倒する色とりどりの雨。
しかしその景色は『それを見ている諏訪子』を含めた映像として、神奈子を圧倒していた。
緩やかな速度で降る赤と黄と橙の落葉。
それを見つめる少女。
目の前のそれらを四角く切り取り、額縁に入れていつまでも眺めていたい。そう思わせる光景。
今ここにカメラがあったなら、神奈子は無心でシャッターを切っていただろう。
諏訪子の肩に黄色い葉が一枚、乗っている。
それは彼女の紫色の上着に良く映える、それでいて、肩にかかる彼女の髪に溶けるような色で。
神奈子は不思議と、その黄色い葉に嫉妬を覚えた。
諏訪子と対をなしながら、同時に親和することのできるその葉に、自分を重ねた。
重ねるけれど、自分がいるのはそこではない。
草の上に座り、少し離れた場所から諏訪子を眺めている。
だからあの葉は自分ではない。
自分ではないなら…気にくわない。
早く落ちろ。
落ちてしまえ。
このわずかな時間、先ほどまで心を縛っていた罪悪感は一時的に消えていた。
ただひたすらに、諏訪子の肩に乗った葉に呪いをかける。
落ちろ、と。
そして神奈子の思いが通じたのか、黄色い葉は諏訪子の肩から落ちた。
諏訪子が首を振った拍子に肩が揺れ、落ちたのである。
そうして諏訪子が首を振り、その目が向いた先は――他ならない、神奈子のいる方向。
勝った。
あの葉は脱落し、諏訪子は自分を見ている。
自分が勝ったのだと神奈子は思った。
「もう、邪魔しないでよ!」
「…え?」
「神奈子でしょ?今の風。おにぎりどっか行っちゃったじゃない!」
しかし諏訪子の口から放たれたのは(当然ではあるが)神奈子の勝利を讃える言葉ではない。
「ち、違――」
「しらばっくれない。…葉っぱがこう、ぶわーってなったのは綺麗だったけど…花より団子!」
諏訪子は先ほどの突風を神奈子の仕業だと思い込んでいるのだった。
確かに過去に、そういうことをやって諏訪子をからかったことはあるが…今回は違う。
「だから違うって言ってるでしょ!わたしは何もしてないって!」
「嘘。神奈子のおにぎり拾ってあげたのに。恩を仇で返すって言うのよ、そういうの!」
諏訪子は激昂というわけではなかったが、幾分かは本気で腹を立てているような表情を浮かべていた。
元は自分が落としたとはいえ、早苗が作ってくれた昼食の握り飯を台無しにされたのだ。
二人はこれまで様々な悪戯で互いをからかってきたが、
そこには「遊び」の範囲を出ないという暗黙のルールがあった。
もしも今の風が神奈子の仕業だとすれば、それは二人の「遊び」のルールをはみ出す「嫌がらせ」だ。
早苗が作ってくれた食事を無駄にされる、などということがあれば、自分も怒る。
当然のごとく、諏訪子も怒りを帯びた責めるような…というより、責める視線で神奈子を見ている。
「わたしは…!」
反論しながら、神奈子の心に罪悪感と不安が戻ってきた。
諏訪子が自分を見ている目はまさしく、敵を見る時のそれだ。
自分の言葉を信じようとしない、何故?…答えは簡単、昔そうやって悪戯で風を起こしたからだ。
昔酷いことをした。だから今、信頼されず、敵視される。
悪いのは自分。
(違う…)
違う。違う違う違う。それは違う。
悪いのは確かに自分だけど、これは違う。
この風は違う。
神奈子の思考が混乱を始めていた。
黄色い葉に勝ったというちっぽけな満足感は消え、神奈子の心に悲しみが満ちる。
普段なら放っておく、むしろ、
『そうよ。だめじゃない、迂闊に敵に背をさらしちゃ』
などと言って開き直るところだ。
しかし、今日に限っては、諏訪子の敵意に満ちた視線がひどく応えた。
「わたし、は…」
反論の言葉は浮かばず、ついには涙まで浮かび始めた。
普段はこんなこと絶対にないのに。どうして。
それを諏訪子に見せたくないという意地から、神奈子は視線を逸らしてしまう。
諏訪子はそれを別の意味にとったのか、ますます表情を険しくする。
いつもは多少熱くなったところで、こんな険悪な雰囲気になんてならないのに。
いや、これも自分が悪い。
普段どおりにふてぶてしく振舞えば、この話はここで終わるのだ。
諏訪子は多少不機嫌になるだろうが、それも時間が経てば勝手に元に戻る。
それがいつもの二人、築いてきた関係なのだ。
なのに、神奈子の喉にはどんな言葉も登っては来なかった。
そっぽを向き、涙を必死でこらえて耐えることしかできない。
ああ、これで諏訪子は次に何を言うのだろう。
何を言われても、次の一言で自分はわっと泣き出してしまうような気がした。
いや、むしろそれでいいのかもしれない。
普段こんな事で涙はおろか、
弱気な態度一つ見せない神奈子が泣き出せば、諏訪子も何事かと思うだろう。
そこで今の自分が抱えている事を、全てぶちまけてしまえばいい。
その上で責められるのならば、いくらでも耐えてみせる。
だけど今は。
こんなつまらない誤解で諏訪子を怒らせているこの状況は、これ以上耐えられるものではない。
だから早く言ってほしい。
止めを刺してほしい。
諏訪子の口が開かれ、そこから次の言葉が飛び出す。
――と、思った瞬間。
「あの、よろしいかしら?」
気配を感じさせず、突然放たれた第三者の声が、神奈子の涙と、諏訪子の怒りを引っ込ませた。
そしてこれもいつの間にか二人の間に割って入っている、その声の主の手。
その手の中には、諏訪子が落とした握り飯があった。
「もしかしてこれ、あなた達が落としたものじゃない?…ま、食べる食べないは自由だけど」
最初二人には、この突然目の前に現れ、握り飯を差し出してきた者の種族がわからなかった。
見た目は人間だが、纏っている雰囲気はどういうわけか人外のそれに非常に近い。
…しかし、彼女を一目見てすぐにわかることもあった。
それは、
『彼女の職業がメイドであること』
『彼女が栗拾いをしていること』
である。
「落ちて三秒以内なら菌がつかないってパチュリー様が言ってたわ!」
呆気にとられる二人の前で、メイドは一人で話し続ける。
「ま、落ちて何秒経ってたかは知らないけど!」
大量の栗が入った籠を背負ったそのメイドは、自信満々の表情で握り飯を差し出すのだった。
※※※
神奈子と諏訪子の口論は、突如現れたメイドの介入によって中断された。
同時に、口論の元となった問題も半分は解決したのである。
『まあ、三十分くらい前まで戻せば大丈夫でしょ』
メイドはそう言うと、食べかけの、あちこちに土や草が付着した握り飯にハンカチを被せた。
『はい…ワン、ツー、スリー』
手品師のように、その状態で三つ数える。
その振る舞いは、先ほどの諏訪子よりも大分「それらしい」感じを漂わせていた。
そしてハンカチを取り去り…中から現れたのは、汚れどころか噛み跡一つない、真新しい握り飯。
二人はひどく驚いたが、ともかく握り飯が食べられる状態で戻ってきて、当初の問題の半分が解決。
そして、もう半分は。
「むぐむぐ」
「……」
「あむあむ」
「……」
折角握り飯が戻ってきたというのに、諏訪子の食べ方はあまり美味しそうではない。
そして神奈子は諏訪子から完全に視線を外している――いわゆる「そっぽを向いている」状態だ。
二人はメイドにお礼を言ったのを最後に、一言も言葉を発していない。
成り行きでその場に留まっている栗拾いメイドは、
『何が何やら』といった表情でそんな二人を見比べていた。
「あ、いたいた!」
ようやくメイドがこの場に漂う「気まずい雰囲気」を察知し始めた辺りで、その声はした。
声の主と思しき妖精が、昆虫めいた羽根をせわしなく羽ばたかせながら飛んできていた。
「メイド長、探しましたよ~」
「ああ、ごめんなさい」
見れば、その妖精もメイド服を身につけていた。
「あの天狗がチョコマカ逃げるもんだから、ついムキになっちゃったわ」
「みんなメイド長がいないと真面目にやらないんですよう」
「はぁ…セクハラ盗撮魔くらい追いかけさせてくれたっていいでしょうに…」
最初に現れたメイドは溜め息をつき、疲れたような顔をする。
が、すぐに表情を引き締めると、後から現れたメイドに告げた。
「わかったわ、今すぐ戻りましょう。…ま、さっきの風の落とし前はその内にきっちりと」
メイドが「風」という単語を口にした瞬間。
それまでメイド達の会話に全く注意を払っていなかった神奈子と諏訪子は、同時に振り向いた。
「今」
「なんて!?」
突然神(と気づいていたかどうかは不明だが)二人から睨まれ、メイドたちはたじろぐ。
「え?いや、天狗にスカートめくられて、パンツ撮られそうになったから、今度シメようって…」
「天狗にスカートめくり?それってまさか…」
神奈子は緊張した面持ちで尋ねる。
「さっき強い風が吹いたでしょう?この山の天狗が、わたしのスカートめくろうとして起こしたのよ」
確か名前は武嶋だか富竹だか小田島だか…それとも射命丸だったかしら?と続ける。
神奈子と諏訪子はしばらくの間、口をあんぐりと開け、呆けたように突っ立っていたが…数十秒後。
「か、神奈子?」
「……」
「あー、その、何ていうか…ドンマイ!」
諏訪子は苦笑いを浮かべながら、神奈子の肩を軽く叩いた。
その瞬間、肩に触れた手を通して、諏訪子は確かに聞いた。
神奈子の中で「決定的な何か」が切れる「ブチッ」という音を…!
「見せてやるよ…。お天水の奇跡ってヤツをぉおおおおおおおおおぉおおおッ!!!」
「ちょ、神奈子タンマタンマ!わ、わたしが悪かったから!疑ってごめ…ひいいぃ、何その特大オンバシラ!?」
「うおおおおおおお来いよォオオオォ!!早苗が磨いてくれた御柱を食らいたいヤツから前へ出ろよォオオオオ、
うをおおおおおおおおおおオオオォオオオォオッ!!!」
神奈子の怒りと悲しみとその他色々な感情がこもった弾幕と御柱の海が、諏訪子を飲み込んでいった。
(後半へ続く)
そして、「神様の言うことも聞かないで~」ってあんたもいっしゅの神じゃん
黄金比、9:16はあってるけど正確には1:ルート3つまり1:1.732…ですよ(^o^;
黄金比、9:16はあってるけど正確には1:ルート3つまり1:1.732…ですよ(^o^;
ついでに「神様の言うことも聞かないで~」
ってのは橙のセリフだと思うんだけど
確かに歌い出しが
うーあーうーーあーーでしたね(苦笑)
ただ長くて全部読みきれませんでした…すいません。
二度コメになってしまってすみませんが、分りにくかったかもしれんのでつけたし
式神には精霊・式の神などの意味があり、ある意味、橙も神の一種といえるので、神が神に「神様の言うことも聞かないで~」と言ってるwっということでした
若干シリアスモードに突入していただけに盛大に吹きました。