Coolier - 新生・東方創想話

紅魔館

2008/02/18 08:09:18
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 咲夜「ご注意

    この物語には、原作とは無関係なオリキャラ並びに筆者の個人的設定が多様に登場します。

    上記本家に反した人物等の描写をお嫌になる方は、私が時間を止めているうちにただちに閲覧をやめて下さい。

    ……その量たるや、前回の比ではないでしょう。

    又、一部のキャラクターが妙な方向に向かう可能性も御座いますが、これは仕様ですので諦めて下さい。

    ああ、そうそう。それと、この物語は前作、九曜SS『妹』の続編ですので、

    まずはそちらから一つお願い致します。

    ま、どうでもいいって言えばどうでもいいんですけどね……。」

 中国「咲夜さん、なんかテンション低ぅ、ですね?

    いつもだったらバーっとナイフ飛ばしたり、蝋燭とかムチとか使ったりしてるのに」

 咲夜「私の普段って何なのよ……。」(トス)

 中国「あぁっ! これ!! これです!!」

 咲夜「はぁ……なんだかノらないわねぇ……。」

 中国「って、本当にどうしちゃったんですか? あの日にしては、まだ早いですし」

 咲夜「どうして貴方が私のサイクルを把握してるのよ」

 中国「だって咲夜さん、アレ入っちゃうと凶暴になるんですもん。

    ご自分の隊だけならまだしも、私の部下まで地下室に連れ込むのはやめてくださいよぉ。

    戻ってきても、なんだかぽわ~としちゃって使いモノになんないんですから~」

 咲夜「鍛え方が足りないのよ。そんなことではお嬢様の警護は任せられないわよ?」

 中国「だからって嫌な鍛え方しないで下さいよぉ」

 咲夜「……はぁ……お嬢様……。」

 中国「あー、もう鬱陶しいなぁ。なら、ここは私が一つ──えいっ!!」

 (パッ)

 美鈴「やった!!」

 咲夜「…………貴方はいいわね、悩みがなさそうで」

 美鈴「失礼ですね!! 名前を覚えてもらえない以上の悩みなんてありませんよ!!」

 咲夜「……はぁ……お嬢様……。」

 美鈴「お願いです、スルーだけは勘弁して下さい……。」

 

 つか、いつになったら始まるんだ?

 

※参考
 前話「妹」:http://coolier.ath.cx/~coolier/l_clr_sosowa/anthologys.cgi?action=html2&key=20041212223134&log=2004122808

 

 

 

     - 紅魔館 -

       -01-

 

 

 

 

 

 蒼い陽炎が霞となって揺らいでいた。

 薄幕は霧のように視界を埋めながら、じわじわと皮膚にまとわりつく。差し込む明かりに空間を漂うエーテルが反射しているのだ。

 美しい光景でありながら得体の知れないベールは、あの白光に満ちた幽閉されし寝室とも、濃密な闇を敷き詰めた魔獣の回廊とも異なる、独特の神聖さと怪異を横たえ侵入者を迎えていた。

 何者も拒む、いびつで、静謐で、完結された空間でありながら、ひとたび足を踏み入れば、生きて返しはしないと光りたちが囁き、そしてあざ笑う。

 観測する者が居れば、それは不安定でありながら辛うじて保たれたバランスの上に成り立っていると知っただろう。

 幾重にも列を成した書棚は、巨大な防壁の如く重なり合い、或いは複雑に交差し、来訪者を無限の迷宮へ誘っていた。例え魔眼をもちいても、果てを見渡すことなどできまい。左右へ振ったところで、書棚と書架の山岳地帯である。不規則に列を成しているようでいて、それらオブジェクトは絶妙な配置で構成されていたのだ。

 歪曲した天井。吹き抜けの上階とさらに遠くに覗く書棚の影。影。影。それらが見る者に与える視覚的効果の残虐さよ。方向感覚を狂わせ、平衡感覚を狂わせ、経時感覚を麻痺させるだけでは飽き足らず、よもや美意識への狂いも促そうとは。さらにこれら呪われし魔術防壁が、ただ一人の少女の足止めを目的とした結界だったとしたら。

 黄金色を象ったような、細く小さく可憐な花びら──しかしてその実態が破壊の化身ともなれば、100年を生きた魔女も流石に警戒ぐらいはしたはずだ。

 悲しきかな、

 所詮は足止め程度であった。

 如何なる魔術障壁、法術、仙道、陰陽、呪禁、宿曜、忍法、戦術を以てしても、赤い靴を履いた愛らしい脚のステップを妨ぐことができようものか。それはこの大掛かりな結界機構を構築した魔女が、最も理解していたことでる。故に、この空間に与えられた真の目的は他にあった。

 ひっそりと漂い体に纏わりつく冷たい空気よ。

 遠くから差し込む木漏れ日のような切ない灯り。

 不確かな均衡と遠くに囁く女たちの声と影。

 これこそが、館の主人の妹にして最悪の悪魔に対する最大の防壁である。即ち、

 ──空間は、とても寂しかった。

 もし、救いがあるとすれば匂いだろう。

 その光景に付随するカビ臭さが一切無く、代わりに、土や木を思わせるオリエンタル調の香りが水のように流れていた。

 ヴワル魔法図書館司書長と同じ名を持つ植物は、香料用オイルの原料としてインドやマレーシア、ビルマ、パラグアイなどで精油される。シソ科の葉はミントやレモンパームによく似ていた。しかし、香りの性質はそれらハーブ調とは傾向が異なり、東方の名に相応しいエキゾチックなものとなっている。

 メイドの誰かが司書長の名にちなんで炊いたのだろう。もっとも、甘く濃厚な香りに催淫作用が含まれると承知していたかは怪しいが。

 メイド達は確かに居る。居るはずだ。そこかかしこで、せわしなく本を運び、館内の清掃にスカートの裾をひるがえしていた。だがその姿は、全て蒼い幕に遮られ、影絵のように不確かであった。見る者は疑っただろう。本当に彼女らは実在しているのか。この影の主は命ある確かな存在なのか。いいや、今いる空間とあちら側とが同一の時空であると知るすべは? もし違ったら?

 足場を喪う恐怖があるとするならコレだろう。引き金は矛盾であった。

 そして探す。

 出口を。どの様なものでも構わない。

 逃げ場所を。何処でも構わない。

 安全に自己を再認するすべを。どうか、

 あぁ、どうか私に救いを下さい。

 静かに空気が流れた。

 硬い靴底の音を上げ、細身な影が一歩踏み入れたのだ。

 どこから来たのかはわからない。本人も知らなかった。空間歪曲上に成り立つヴワル魔法図書館で、人道的な入り口を期待する方が間違いだ。

 異次元に迷い込んだ錯覚を払いながら、凛然と背筋を伸ばした。

 紅魔館において異質な衣装である。黒いタイトスーツに細身のタイ。これも単色の黒だ。ノリの効いたシャツの袖はダブルで、カフスにはダイヤが埋め込まれている。紅魔館の侍女でありながら、彼女だけはメイド服に袖を通すことがなかった。

 果たして「彼女」と称していいものか。長いまつ毛と厚い唇が印象的だが、男性の顔に見えなくもない。無論、普通の男ではく、「総毛立つほど綺麗な」という形容詞が頭に付く。

 本当にその通りの若者なのかしれない。

 長い髪をツインテールに結ってはいるが小ぶりな顔はエキゾチックな上、野生味に溢れ、その美麗な風貌は空間に漂う香りに、さらに濃厚な色彩を滲ませた。立ち振る舞いは凛としており、差し込んだ灯りに浮かべるシルエットは、長身と相まって中性的でスマートだ。優しく微笑めば、その辺のメイドなど簡単に卒倒しただろう。

 薄い胸が、それでもわずかに膨らみを感じさせていた。故意にそうしているのか天然なのかは、今のところ誰にもわからない。

 そして空気は静かに流れ──盛大に揺れた。

 超重量は空間そのものを振動させ、突如としてそこに現れた。

 東洋風の美貌が見上げると、蒼い灯りを遮るように巨影が道を塞いでいた。

 赤黒い筋肉の塊であった。全長は前傾姿勢なため正確には掴めないが、軽く三メートルは越すだろう。体積は──わからない。現れた時の大気の振動からして、目測の推量を上回るはずだ。いずれにしても、目の前の赤鬼は幻影などではなかった。

 彼女が声を出すより先に、赤鬼の右肩が盛り上がる。山のような筋肉は標的と水平に拳を振りかざした証拠だ。次にくる衝撃にスーツ姿は反応できず、ただ立ち尽くした。

 唸り声と共に暴風が荒れ狂った。巨体の割には美しい右ストレートだ。鍛え抜いた肉体から生まれる律動は、それだけで芸術の極みだろう。故に、古代の芸術家たちはそれらに見入られ、獲り付かれ、その躍動を収めんがために杭を振るったのだ。

 そして、

 轟音を伴い、黒い美影身の背後で書棚が破裂した。

 棚と書籍といくつかの標本が拳の破壊力に巻き込まれ、一瞬に空中で分解した。恐るべきはスーツの彼女である。その余波を受け金色のツインテールがふわりと浮かんだのだ。

 たった「それだけ」だとは。

 スーツ姿はもとの位置のままだ。違いがあるならば、彼女の左手が胸の位置まで挙げられていた。華奢な腕が、自分の体ほどの拳とそこから生まれる衝撃を難なく「さばいた」と誰に見抜けようか。

 「講義は一度だけよ。打つならこう打ちたまえ」

 艶やかな声だった。

 巨影が残る右手を上げた時、赤鬼の額と彼女の右手を太い直線が繋いだ。次の瞬間、巨体がのけぞった。追って、苦痛に呻く振動が蒼い世界を陵辱した。

 四方からの揺れを全身に感じながら、ひゅぅ、と女は唇を鳴らした。

 そのまま後ろに倒れるかと思った巨体が持ち堪えたのだ。起こしかけた上体の上で、白い光りが細く、しかし鋭く輝いていた。その光りの正体を彼女は知っている。好敵手と巡り会えた闘士の瞳だ。

 それを見せられ、胸が弾まないわけがない。

 「フフ、お姉さん、逞しい子は好きよ。貴方なら、あちらの方も凄そうね。でも、その前に──。」

 振り向いた。

 「いい加減になさいませんか? あたしも嬉しいし、この子もまだイケそうだし、あーもう、もっとやってもいい?」

 まだ無事な書棚を仰ぐ。そのいただきで、気だるげに寝そべる黒い影があった。

 燃えるような赤い髪が、だらしなく体に巻きつき、一部が書棚へと垂れている。その頭部から歪曲して伸びるのはコウモリの翼であり、ブラウスの背から生える黒い影はこれもコウモリを思わす羽根だった。潤んだ瞳でスーツ姿を見つめてはいるが、むしろ値踏みする視線に近かったろう。

 「いいわぁ、貴女。そいつのパンチ、どうやって避けたの?」

 その質問に答えようとし、スーツ姿は眉根をしかめた。妙な感じだとすぐにわかった。一度瞼を閉じ、すぐに開く。間に合った。改めて書棚の彼女を見上げる。

 うっとりと頭から生えたコウモリの翼を撫でる赤い髪の女──ヴワル魔法図書館副司書長、通称『小悪魔』のチャーム・アイだ。

 「いつもこの様なことを?」

 視線に非難を込める。図書館には滅多に近づかない。これが普通の状態なのか、いまいち判別がつかないのだ。

 答えは、小悪魔の名に相応しい淫靡な笑みだった。

 「珍しいお客様だもの。どんなおもてなしをしようか、少しだけ悩んだわ」

 悩んでコレか、と黒スーツは肩をすくめた。

 「副司書長様直々の歓迎の意、まことに恐縮です」

 「いえいえ~。でも、噂以上に凄いわぁ。ふふ、みんなが貴女を見る目、気づいていて? ──七代目斉天大聖」

 「夜来香(イェイライシャン)とお呼び付け下さい」

 と一応、礼をし、

 「ところで先ほど方、司書長様に招令を頂きました。先に進みたいのですが、よろしいでしょうか?」

 「もてなしは終わったわ」

 そっけない言葉に振り向くと、巨影は消えていた。墓標のような書棚が、図書館の奥まで延々と続いている。今度は、音も振動もなかった。現れた時とは別のルートがあるのかもしれない。

 では、と再度一礼すべく書棚を見上げると、既に妖艶な影も消えていた。赤鬼を何処かへ導きに行ったか、他の仕事へ戻ったか、或いは単に飽きたのか。

 夜来香は歩みを進めた。後片付けと修繕作業が気になったが、図書館での出来事だ。副司書長や専任の魔道メイドに任せるしかあるまい。

 すぐに足元に一冊の本を見つけた。

 手に取り適当にページをめくる。あるページで指が止まった。大きめな口元に薄い笑みを浮かべると、彼女は本を手近の書棚へ差し込んだ。

 タイトルには「泣いた赤鬼」とあったのだ。

 幻想郷、人間界問わず暗黒史とそれにまつわる標本が眠るヴワル魔法図書館である。本の『中身』が出てきてしまっても不思議ではあるまい。

 もう一度、背後の書棚を振り仰いだ。

 誰も居なかった。

 

 

 

 二回ニセット、扉をノックする。

 召令は司書長の寝室からあった。居なければ、書斎代わりに利用する執務室だろう。探す手間は十室程度で済む。108存在する執務室でも、パチュリーは旧区画、それも一桁ナンバーを好んで使用しているのだ。

 ヴワル魔法図書館の増/改築に終焉はない。常にどこかかしら新区画拡大並びに既存設備の補修が計画され、建設担当メイドの出入りが途切れることは無かった。日々蓄積される図書ファイル、魔道データファイルはもとより、魔石、呪符、刀身、鏡、珠、など多種多様の標本郡が膨大な数と質量で館内を圧迫するからだ。

 霧雨魔理沙が数冊、数十冊、無断借用した程度では蔵書が減らないわけである。中には前述の資産に加え、調理用のワイン、入浴剤、予備の対空機関砲及び弾倉、福利厚生室から持ち出したボードゲーム、個人が持ち込んだお香セット、お茶会セット、リンボーダンスセット、ディスコの天井でくるくる回るミラー、機械式演算気(非電力コンピュータ)、耽美系書籍等が紛れ込み、一部で混沌の様相を晒していた。

 そんな中、比較的に整理され、さらに広大さを得たのが新区画である。それでも日陰の少女が以前の古くさい設備を愛用するのは、魔女のこだわりと趣味なのだろう。或いは、単に広くて明るい場所が苦手なのかもしれない。

 返答が無いことから、夜来香は後者かなと思った。

 寝室は諦め、執務室の区画へ足を向けようとした時だ。

 振り向いた背が止まった。

 思案するように顎をぽりぽりと掻き、司書長寝室の扉を肩越しに睨む。

 重々しい扉の表面には不可思議な模様が彫られている。何らかの魔術的意味合いがあるのだろう。彼女がメイドとして就任したときには既にあった品だが、北方の術式に興味が無かったこともあり解析を試みたことは無かった。

 「気づいてしまったものは仕方が無い、か」

 最初から怪訝には思っていた。紅魔館に就職して早 50 年。しかし今日までヴワルとも司書長とも大して繋がりのない自分に、今朝方一番に、それも直々の呼び立てときた。よほど切羽詰った話しか、よほどろくでもない話しだろう。そこにこの異変である。

 扉の向こう、

 誰か居る。

 気配を感じた。門番長には遠く及ばないが、それ相応に気を操り感じることが出来た。問題は何が起きているかだ。

 首元のタイを締め、夜来香は扉と対峙した。瞼を閉じる。すぐに額に透明な珠が浮かんだ。気の流れをさらに探るべく意識を集中させたのだ。

 ただの扉ではない。ここから先はパチュリー・ノーレッジ──100 年以上を生きる魔女の寝室だ。

 魔道、死気、法力、混沌、あらゆる神秘への耐性が、磨かれた木目とそこに繊細に織り込まれたレリーフに施されていた。それに挑むのは現状把握の責務と、やはり彼女に流れる斉天大聖の血がチャレンジ精神をそそのかしたからだろう。

 結果──。

 「主の留守中、失礼致します」

 扉を開け部屋に押し入った。

 物理的にも術式的にも鍵は施されてはいない。拍子抜けと思うよりも先に、肝心なところで何かが食い違っている気がした。

 一歩踏み入れた途端、例の濃厚で甘ったるい香りが夜来香に押し寄せた。図書館のよりもさらに強い。

 構わず黒スーツは飛び込んだ。

 侵入者向けの自動防御機構ぐらいは動作するかと身構えたが、それも拍子抜けである。相手は司書長だ。踏み入れたが最後、無差別に火炎放射を浴びせるなり氷結結界に封じるなり、最悪、精神汚染攻撃を受けるぐらいは覚悟をしていた。そしてそれを恐れる斉天大聖ではない。

 書架と書棚と、用途不明の実験器具で埋め尽くされた部屋を奥へと進む。目的は、少女のものにしては大きすぎるベッドだ。

 そこに、白い影がうつぶせに倒れていた。

 真珠を連ねた如き美しい銀髪が、白浜のように煌きをおび、それでいて無造作にベッドの上へと波を作っていた。清純な花を思わすヘッドドレッサーに合わせ、メイド服も純白である。スカートから伸びる細い足は白のストッキングに包まれ、めくれた裾からは薔薇のレースをあしらったガーターが覗いていた。

 背中が大きく上下しているところを見ると、とりあえず息はあるようだ。

 「──何があったの?」

 起き上がる様子の無い白いメイドに、恐る恐る問いかけた。他に気配は無かった。心霊体の反応も皆無だ。召還術式が行われた痕跡もない。弔香こと弔花侯爵を伏せたままにできる者など限られている。

 「どっちかつーと、その限られた人達が問題のよーな気もするけど──ねぇ、ちょーかってば」

 「…………ん」

 夜来香の声に、ゆっくりと白い顔が振り向いた。右目をメディカル用の眼帯で覆っているが、これはトレードマークだ。たまに左目になるときもある。何なんだかよくわからない。

 問題は、その呆けた顔である。

 とろん、とした今にも蜂蜜と一緒にとろけ出しそうな片目で、

 「はぁ…………パチュリー様の匂い」

 「ホント何があったんだよ、あんたの身に!?」

 心配するだけ無駄だった。

 のそのそと起き上がる同僚を睨みつけ、しかしタイトスーツは諦めたように肩をすくめた。

 「別段、強制はしないけど、しゃんとすることを薦めるわ。侯爵の名が泣くわよ?」

 胸ポケットから櫛を取り出し、彼女の銀髪を梳かしてやる。それこそとろけてしまいそうな手触りだ。キューティクルが眩しかった。

 しかし弔香が気持ちよさそうに鼻を鳴らすと、血圧が上がりそうになった。

 「パチュリーさまぁ…………。」

 「あたしは司書長様じゃない。つか、あの方はどこへ行かれたのよぉ?」

 「つい先ほどまで、まさにこの場所におられました」

 緩慢な動作でベッドの表面を撫でる。

 微かなシルクを撫でる音を、白い乙女は心地よい調べを聴くように、

 「私は、シーツをお取替えしようと失礼し、そして──。」

 瞼を伏せた。

 次に開かれた時、片方しかない蒼い瞳に正気の輝きが灯っていた。

 「夜来香? どうしたの?」

 血圧が上がった。

 「司書長様にお呼ばれして押し入ったら、あんたが悶絶してたのよ」

 「それは大変でしたのね」

 「なんかまだ大変な状態が継続中に思えるのは、あたしの気のせいよね?」

 「でも、乙女のご寝所に押し入るのは、紅魔館の侍女として品位に欠けるのではなくて?」

 「バカだろ、あんたバカだろう!?」

 「無下に人を見下してはいけないわ。貴方の品性のみの課題ではないのよ」

 「つか無表情で語るなよ。あんた片目無くてただえでさえ怖いんだから。で、いい加減気分は落ち着いたかしら?」

 「えぇ、手間をかけさせてしまったようね」

 「いや、まだ手間の途中みたいなものだから、礼を言うには早いわよ、きっと」

 「それにしても……。」

 とスーツの腕から逃れ、弔香はベッドを見下ろした。

 「恐ろしい誘惑でした」

 「もういい好きにしろ!! あたしはもう行く!!」

 「待って」

 か細い声が呼び止めた。夜来香は眉を寄せた。奇妙なものを見ていたのだ。あの弔花侯爵が震えている?

 「どう、したの……?」

 「この事は、どうかご内密に」

 「誰に語れっていうのよ!!」

 「ただで、とは申しません」

 くるり、と思わせぶりに白い乙女は背を向けた。胸元で小さく手を組む姿は、見ようによって祈りを捧げる聖女のようだ。但し、祈る相手は禍ツの神であったろう。

 次の瞬間、シュルリ、とブラウスのリボンが外された。

 「秘密を守る返礼は、この弔香の体で──あぁ、言わなくてもいいわ。わかっています。この身も心も、スカーレット家へ捧げて 60 年。無論、忠誠に遜色などありません。ですが、どうかここはこの弔香侯爵の秘密の花園で一つ、そなたの心の片隅にお納めください」

 崩れ落ちるメイド服を両腕で抱くように胸元で留め、白い吸血婦人は振り向いた。

 「あ、あの……。」

 黒髪おかっぱの若いメイドが困っていた。

 弔香は、何かキツネにつままれた表情で右を見て、それから左を見た。他に誰も居なかった。

 「夜来香は?」

 「あ、えと、私が来たときには既に」

 「そう。相変らずのせっかちね。ふふふ」

 聖女の口元が怪しい笑いの形に歪む。ゾクリ、としておかっぱの少女は三歩下がった。

 「あは、あはは、じゃ、じゃあ、私もこれで失礼し──。」

 「そう慌てなくてもよくってよ、鵺さん」

 「え、い、いえ、その、仕事がまだ残っておりますので。侍女長様にも叱られちゃいますから」

 「十六夜侍女長なら、今朝一番で仕入れに行かれたわ」

 「それもそうですね」

 「うふふふ」

 「あ、あははは」

 「……。」

 「……。」

 「さぁ、お入りになって。ドアを閉めるのよ」

 「何故に!?」

 愕然とする八つ裂き鵺に、銀髪の美貌はただ蒼い片目を怪しく光らせた。

 

 

 

 博麗神社の朝は、ときどき、ごくたまに早い。

 巫女が気分で仕事をするからだ。

 とはいえ徹夜での営業(妖怪退治)後は、宵の口まで布団の中で過ごすこともある。そういう時は、大抵、ぐだぐだになって翌日まで寝てしまうものだ。何事にも明け休は大切である。

 不規則な職務であった。特に魑魅魍魎の類は深夜に活性化する。

 丑三つ時。

 厄介なのがこの時間帯だ。人の意識が緩み、最も魂が無防備になる瞬間である。関連する話に方角として丑寅がある。北東を指し丑寅(鬼門)と呼んだ。反対を裏鬼門。鬼門。この呼び方にも意味はあった。牛で角、虎で虎縞のパンツを差し、これを以って鬼と成す。

 ……。

 ……。

 「本当かよ……。」

 眠い頭で呟く。

 自分が何を考えているのか、いまいち把握できない。どうにも調子が出ない。

 博麗神社の就業環境は、福利厚生的にも厳しく、それ以上に財政的に厳しかった。宗教法人との理由から、業務における純利益に関しては控除が免除されている。だが、肝心のお布施がないときては、出張サービス等による広範囲なマーケットを視野に入れでもしないと経営がなりたたない。

 ふと思う。

 いつからだろう。依頼者に会った時の最初のセリフが「お客さん、始めて?」になったのは。

 だんだんいかがわしい巫女になっていく自分に、時より酔いしれもした。ダメじゃん。

 しかし、今日に限っては早くに目が覚めた。いや、脳はまだ寝ている。意識より体が反応してしまったのだ。

 以前にも同様な感覚はあった。

 湖に住まう火竜──神格──がお神酒の多量摂取により二日酔いになったあげく、火加減が出来ず周囲の山村を焼き払ったことがある。鎮神の儀により鎮めるのに、三日三晩祈祷に従事することとなった。不幸なのはその後である。助けるはずの村が全焼してしまい、報酬どころか、時間外労働及び深夜手当手すら回収できなかったのだ。債務不履行であった。

 ちなみに、火竜にアルコールを飲ませた張本人の魔女には、帰りの途中で屋敷ごと結界に封じることで報復とした。ざまあみろ。

 他にもある。

 粘塊質な妖魔が現れた時も同じ感覚だったろう。

 ゲル状の生物は珍しくない。例えば妖蘭スライムは樹木に寄生し、鮮やかな花の姿に擬態する。その色形が洋蘭に似ていることからの名前だが、主に昆虫や邪妖精を捕食し人間に害を及ぼすことは無かった。一角アメーバーともなると少し変わっており、体の一部が一時的に鋭利な刃物となり『何か』に切りかかるのだ。しかし、未だそのメカニズムは解明されておらず、『何』に切りかかるのか判別確認はされていなかった。この生物が攻撃態勢に入るとき、大抵、回りには他の生き物がいないからだ。よほどの観測環境を整えでもしない限りお目にかかれない光景であるが、学者連の間では一角アメーバーの求愛行動、又は繁殖行為であるとの見解が有力であった。何ともデンジャラスな恋ではないか。

 しかし、その時相手にした妖物はその程度のものではなかった。山を一飲みにする巨大さは良しとしよう。先の火竜の例からも、巨大生物など珍しくもない。厄介なのは、そいつが化けることを学んでいた点である。化ける対象が、これまた呆れた。人間の村を模写したのだ。街道に民家が並び茶屋もあり、どこで覚えたのかお地蔵様まで再現されていた。田や畑には放置された農工機が風に吹かれ、子供達が遊ぶ声まで響いたという。

 何も知らず訪れた旅人が、日に三十名も犠牲者としてリストアップされれば博麗の巫女の出番ともなろう。しかし、出会いはいつも突然である。途中、情報仕入れと昼食目的に立ち寄った村が実はヤツの体の一部で、今まさに自分が昼食になりかけていたのには笑うしかなかった。依頼元は、その途中のモト集落に存在したはずの商工会議所だったのだ。今一歩惜しかった。

 「はぁ……嫌なこと思い出しちゃったなぁ……縁起でもない」

 即ち、この特殊な感覚とは、博麗神社の最大最凶の危機──タダ働きの前触れだったのだ。

 「で、その予感で目が覚めたと思ったら、あんただもんなぁ……。」

 「何よ、折角いいものが手に入ったから見せにきて上げたのに」

 「遠慮するわ」

 とアリスを無視し、境内の掃除に戻った。

 以前、魔理沙が魔法実験に使った竹箒は、割とクセが強くてしばくのに苦労した。しかし度重なる折檻が効いたのだろう。今では従順なもので、普通の竹箒と変わらない。つまり普通の竹箒だ。

 何事も普通が一番よねぇ、と一人漏らしながら境内を履き出す。

 「大して散らかってないじゃないのよ」

 「気分の問題」

 「ああ、日出る国の浴びザビ。浮流ってやつね」

 「ま、そんなところだけどさ。侘び寂だし、風流だから念のため」

 「違ってた? おかしいわね」

 「これでおかしいって思える貴方が素敵だわ……。何を浴びせて何処に流させる気よ? つか、どっかの独裁家じゃない、自分」

 「まぁ、たいがい人生、下り坂だけじゃないってことでしょ。自分」

 「下りっぱなしの人生もどうかと思うわ。自分」

 箒を止め頭上を仰いだ。東の空が蒼から徐々に白じんでいく。不思議な色だった。

 夜の世界はとても深く、朝の侵食は清涼で、それはとても、切なかった。一日の始まりがこんな気分でいいものだろうか。

 「貴方、夜行性だったかしら?」

 「今から帰るとこ。ちょっと寄ってみただけよ」

 「魔女ってのは、どうしてこう人の迷惑とか省みないんだろ」

 「でも、コレを見せに来たのは本当」

 アリスが両手で長方形のケースを抱えて見せた。深い茶色の地に、枠と取っ手に金の装飾が施されている。

 へぇ、と思わず関心した。どうせ人形用のケースだろうが、彼女が持つとそれだけでハイセンスに見える。都会育ちとの違いであろうか。

 実際、アリスは可愛らしい。振る舞いに品があり、衣装も装飾品もアンティークでこだわりが伺える。それに、緩やかなプラチナブロンド。澄んだ蒼い瞳。なのに決して派手ではない薄桃色の唇。すらりとした指。指先。

 「なんか、バイオリンかフルートでも習いに行くみたいね……。」

 「うん? 三姉妹とはしばらく会ってないけど」

 「何でもない。それより、いい加減に中身を見せたら?」

 「気になる?」

 「いや全然。どうせ見せるまで帰らないんでしょう?」

 「短い付き合いだったわね」

 「マーガトロイドさんはケースば自慢しにきただけ?」

 「お別れを言いに来たのよ。結果的にね。さようなら」

 背を向けるアリスに、霊夢は疲れたように肩をすくめた。単に眠いだけなのかもしれない。

 「そうよね。アリスは自身の趣味を無為に晒し自慢するような女じゃないものね。誇ることもおごらず──て海道記はちょっと違うか。あ、いや、あたしも別に仏道に関する述懐なんてのは知ったこっちゃ無いんだけどね。でも残念、貴女のそれには非常に興味をそそられるわ」

 「本当?」

 くるりと向き直った時には笑顔である。不覚にも可愛いなと思った。あー、危ない危ない。思わず境内裏に連れ込みそうになっちまったよ。

 「アリスが見せに来るくらいだから、よっぽどのレアな魔道アイテムか──よっぽどアレなろくでもないモノか、興味は尽きないわね」

 「なんて声出してるのよ」

 「何? 何か変?」

 「…………。ううん、何でもない。今、妙な感覚が過ぎったから。風の精霊が通り過ぎただけだったみたい」

 「アンテナは絶好調のようね。お赤飯炊いとく?」

 「いや別に祝わなくていいから」

 「そこの社務所で魔矢とか熊手とかあるわよ?」

 「だから祝わなくていいから。商売するなら相手を選びなさいよ」

 「ちっ。だったら見せるもの見せてとっとと帰れ」

 「はいはい。後でおみくじ引いてあげるから」

 しょうのない子ね、とアリスは苦笑いしながらケースのロックを外した。

 別段、互いに心を許したわけではないが、時々この巫女は子供っぽくなる。白い人形使いは、そんな紅白に好意が芽生えつつある自分を認めていた。

 「いつもの魔法用の人形じゃないんだけれど。密室女のところの蔵書によると、日出る国には人形を専門に製作する村があるそうよ。これは、その代表作で他にも何体かシリーズ化しているの」

 「技能は無いの?」

 「そもそも愛でるものよ」

 「愛玩用か」

 「微妙にひっかかる言い回しだわ。人形を愛でるのは寂しい女の特権ではなくてよ」

 「哀れんじゃいないけどさ。つか、あんたの用途の方がよっぽど特殊なんだってば。本当に人形好きか?」

 「目的と手段を入れ違えて見られがちだけど。わからない人にはわからないわ。この良さは」

 「一つ教えてあげるとね、人間の女の子は通常時はドールに弾幕を撃たせたりしないから。爆弾抱えさせて飛ばしたりしないから」

 「こんなに可愛いのに」

 「可愛けりゃ何やってもいいのか。あれだ。六千年の歴史があればどんな無茶な技を繰り出しても許されるアレだ」

 「変な言いがかりはよして。私は私の因果に沿って仕事をこなしているだけよ。人の世の理だって似たようなものだと思っているわ。例えば、これだって人手による製法が今も生きてて、どうしても生産性や開発費用がかさむの。だから少数しか市場に回らないそうよ」

 「一定の形式になぞらえてるってことね。時代や民族といった流派の類型的な表現形式は何も芸術に限ったことではないから。えぇ、工程──というかアリスでいうところの手段に単純化や抽象化の形式を与えるってのは人間の世界でも珍しくないわ。しっかし、そんなもんどこから手に入れて来るんだか……。」

 「バイヤーがいるから」

 「どこのどいつだ。って、まぁいいけどさ。ふーん、人形の村かぁ……それ、ひょっとして黒賀とか言わなかった?」

 「造型村よ」

 某クスかよ。

 何故かしょっぱい顔をする霊夢を他所に、アリスはケースの表面を愛しそうに撫でた。その瞳に偏執的な輝きが過ぎる。

 小さな溜息と共に、美しい指先がゆっくりと弧を描く。細くて慎ましい指先だ。

 あの繊指で背筋を撫でられた人形は、一時的とはいえ偽りの生命に溢れる。幻想の息吹は、決して主によって魔力を注入されたが故ではない。アリス・マーガトロイドが愛しい人形にその行為を行う時、白い無機質な体に、球体の間接に、宝石を埋め込んだ瞳に、髪の一本からつま先まで、身の毛のよだつ快楽が荒れ狂うのだ。

 そうして彼女らは触媒の務めを果たす。

 小さな全身で、アリスの膨大かつ巨大な魔力を制御するために。

 「さて、ご覧になりますか。実は、私も見るのが始めてなの。なに? 受領した時に確認しなかったのかって? ふふ、だって一人で見てあまりのドキドキに倒れてしまったら、誰が介抱してくれるのよ」

 「そんで私のところに来られてもなぁ……。あの黒白はどうしたのよ?」

 「魔理沙? どうして?」

 「最近、やたらつるんでるって噂、結構流れてるんだけど知ってた?」

 「気になるの?」

 「全然、全く、微塵も無く──いや、気になる。あんたらを一緒にすると今度はどんな悪さ仕出かすか、あんまり気が気じゃない」

 「どっちよ、それ?」

 「どっちだろ?」

 「ふん。少しくらいは妬いてくれたっていいと思うんだけれど。どうよ、自分」

 「どっちのどの辺に妬けってのよ。自分──って、いい加減に目的果たして帰ってよ。こっちはこれから、やらなくちゃならないことがあるんだから」

 「祈祷の仕事でも入ったの?」

 「二度寝するの」

 「……。」

 腰に手をあてふんぞり返る巫女。実に霊夢度が高い。

 「何をぐうたらなこと言ってるのよ。それじゃますます霊夢じゃない」

 鳥居の方からの聞き慣れれた声に振り向くと、

 朝日を背に、大きなリュックを背負ったメイドのシルエットが見えた。

 ヴェルフェルなんとかって人にそっくりだ。

 「ちょっと通らせてもらうわね」

 しゅた、と挨拶をすると豪奢なメイド長はそれが当然のように二人の前を通り過ぎようとして、

 「あ、帰りは夜くらいになるから」

 「待てよwwwwww!!」

 「何よwwwwww?」

 「最近結界の緩みとか弛みとかが目立つと思ったら、あんたそうやって人の家からあっちの世界に出てたのか?」

 「ここが近道なのよ」

 「だからってねぇ。通行料、取るわよ」

 そういう問題か?

 「お土産だったら買ってきてあげるけど。そういえばこの前、源の義経が使ったといういわく付きの火器を見かけたわ。穴場の古道具屋さんって話しだけど、ソレでいいかしら?」

 「いいもなにもねー。つか、どうして私がそんなもの欲しがるのよ?」

 「えーと、確か……パトリオットミサイルとかって難しい名前だったわね。昔の人はそれを使って神風を起こしたって伝承だから、スペルカードか何かじゃないかしら?」

 「もろどっかの魔術師向けのお土産だわ。あ! アリスが言ってた買い付け屋って?」

 「彼女よ」

 と、人形使いが可愛らしく長方形のケースを上げてみせる。

 「投下降下ってやつね──あ、これ、錬金術の専門用語なんだけれど」

 「いやまぁ、そうでもしないとあっちの世界の商品なんて手に入らないんだろうけどさ……なんだかなー」

 「また今度お願いするわね、咲夜さん」

 「えぇ報酬さえ頂けるのなら」

 「アリスの報酬? 何貰ったのよ? そりゃお嬢様命のメイドが無料ご奉仕で運び屋やるとは思えないけど。だからって報酬があればヤルって性分でもないでしょうに」

 「侍女の星に誓って秘密です」

 「等身大レミリアドール。結構、力作よ」

 「きゃっ! い、言わないで頂きたいですわ!! んもう!!」

 頬を染めてふるふるする。

 駄目だこいつ。

 「でもさぁアレよ、いくらここが境界線にあるからってねぇ……結界、張り替えないとだめかしら」

 「手間を掛けさせるわね。ああそれなら紅白。お手間賃に、これなんかどうかしら? あちらの世界じゃ割りとレアなアイテムらしいわよ?」

 どこからともなくこげ茶色の平べったい物体を取り出した。

 「あら、そんなつもりじゃなかったのに悪いわね──何この、何?」

 硬質なそれは装飾には乏しかったが、ひと目でマスクと知れた。

 細い目。カッと開いた口。──ウォーズマンスマイルだった。

 「ね、どう? 一度付けてみなさいよ。信用供与ってことで遠慮は不要よ」

 「通行料以外のクレジットなら取引先の銀行を相手にするといいわ。あと、その仮面はあんたが付けてろよ。私にはセンスがハイ過ぎて似合いそうにもないわ」

 「そう?」

 メイドは素直に自分の顔に装着し、

 「──不備無し」

 キメポーズをとる。もはや誰だかわからなくなった。

 「あーすごい、さすがメイドすてきだわ街中の視線を釘付けよもう目が離せない危なっかしくて」

 「それは困るのであります」

 マスクを外した咲夜の顔は、本当に困り顔だった。誰だよお前。

 「私をガン見していいのはお嬢様だけですもの」

 「……そうか」

 「でもお嬢様ったら、最近はあまり私のこと見てくださらないの。はぁ……。」

 あの子も苦労してるのね。霊夢は内心唸った。

 「ねぇ、それってアピールが足りないんじゃないかしら?」

 アリスが余計なことを言いだした。少し黙ってろ。

 「何事にも押しの一手は重要だと思うんだけど、その辺どうよ自分」

 「こらこら、適当なこと言って混乱させないの。レミリアみたいな貴族は、むしろ慎ましやかな方がタイプでしょ」

 「──なるほど」

 アリスと霊夢を交互に見て、咲夜は一人納得する。

 「主張と慎ましさの兼備か。少し難しいけれど、頑張ってみる価値はありそうね。えぇ、きっとお嬢様の視線を釘付けにして、いいえ、上から下まで舐めるように見られて『お、お嬢様! 私のそんなハシタナイ所まで見られてしまうんですのね!!』と言ってみせますわよ──紅魔館侍女長その名にかけて」

 十五の侍女師団を統べる紅魔館侍女長。その肩書きは、恐ろしく軽いようだ。

 「本当にそんなんでいいの? 豪奢なメイドってふれ込みはどうした」

 「恋をすると周りが見えなくなるっていうわよ」

 「お前はもっと周りを見ろ」

 「うふ、ふふふ、お嬢様ぁ」

 不気味な笑いと挨拶を残し、咲夜は何か吹っ切れたように母屋の裏手へ消えていった。果たして、その脳内では如何なる桃色語りが展開されているのか。

 「だから気安く境界を越えないでよ!!」

 「ふぅん、この辺の磁場が不安定だと思ったら、八雲のせいだけじゃなかったんだ。ところで霊夢? 慎ましく自分をアピールする女って、割と鬱陶しくないかしら?」

 「あんたが自己主張しろとか吹き込んでヒートアップさせたんでしょうが」

 「まさか真に受けるとは。でも、受け取り側の心を打てば大方の目的は達成されるんじゃないかしら。あそこのお嬢様、面白い変事には特に餓えてるようだから」

 口元に軽く握った手を添えて笑うアリスは、やっぱり品のあるお嬢様だ。思わず見とれてしまう。

 二人の視線が険しくなった。

 一瞬で。

 振り向いた。

 母屋の方。正しくは、今さっき咲夜が向った建物の裏手だ。

 「妙ね──霊夢?」

 「だから簡単に境界を飛び越えないでって言ってるでしょうに」

 何かが聞こえた。空気の振動は微細で、それが鈴の音と気がつくのに時間がかかった。ちりん、ちりん、と。

 鈴の音は次第にはっきりと、大きくなった。近づいている。

 二対の視線がそちらへ張り付いたまま動かないのは、単純にそこから湧き出る異様さからだろう。

 幻想郷では感じ得ない、又、想定できない怪異が、今まさに博麗神社の母屋の裏手で行われているのだ。

 「来るわ」

 「できれば来ないでほしいんだけどね」

 面倒そうに霊夢が応じたとき、母屋の影から巨大な質量がのっそりと現れた。

 巨体だが何らかの生物であることは見て知れた。その影の中心から煌びやかな輝きが朝日を反射し、二人の少女は目をしばたいた。

 幻想郷では珍しい種だ。厚く硬そうな皮膚に、これも硬そうな体毛が、本人のスケールから見たら産毛のように生えていた。だらりと垂れ下がった耳に、それ自体が意思を持つ一個の生命体のように蠢く長い鼻をしていた。

 額と体に金糸を編んだ装飾品と鈴をあしらった──象だ。

 それもただの象ではない。

 インド象だ。

 「どっちでもいいわ、そんなの」

 「見て霊夢、アレ──。」

 本当に面倒くさそうな巫女に、きゃ、と小さく悲鳴を上げたアリスが腕を絡めてきた。

 「ほら、小さいけど優しそうなつぶらな瞳! 可愛い!! それに大きな体! 可愛い!! 背中におじいさんみたいなの乗せてる! 可愛い──待て、そこは可愛いのか自分?」

 「ちょっとアリス落ち着いてよ、つか落ち着け人形バカ。胸、胸あたってる」

 「きゃっ、ば、バカ、何で私が霊夢と恋人ゴッコしなくちゃならないのよ!!」

 「何デレなんだよ、おまえのそれは?」

 目の前で起こった出来事よりも、まず、アリスが面倒だった。

 

 

 

 「こちらにおいででしたか」

 図書館じゅうを探し回って、ようやく見つけた。

 背後からの落ち着いた声に、ヴワル魔法図書館司書長兼サークル『黎明』代表ことパチュリー・ノーレッジは、Gペンを置くとゆっくりと、それも憂鬱そうに振り向いた。

 白い木枠のガラス戸の前で、スーツ姿の美影身が恭しく礼をしていた。

 「時間がかかったわね」

 「司書長様がこのような場所におられるとは、この夜来香、思いもよりませんでした」

 「言い訳は不要よ。その行為に対する成果なんてありはしないから無駄なの。でもホント、自分のカラーじゃなかったかも」

 自嘲気味に日陰の少女は周囲──『このような場所』を見回した。

 スーツ姿の侍女──夜来香の立つ図書館側の窓や扉には、可憐な薔薇の蔦が巻きついていた。日頃から手入れが行き届いているらしく、深みのある緑の葉は生気に溢れ、他の装飾品を扉に必要としなかった。並ぶ白い丸テーブルには例外なく可愛らしいパラソルが備え付けられ、テラスの外縁には背の高い観葉植物の植え込みが並んでいる。

 朝の日差しが柔らかく降り注ぐ、ヴワル魔法図書館付属オープンカフェ『放香堂』。密室を好む魔女に、これほど似合わない場所もないだろう。

 尚、カフェの名前である『放香堂』の由来は、遠く東の国──日出る国の神戸地方にて、最初にオープンした店名にちなんでいた。明治11年の頃である。

 「慣れないことはするものではないわね」 

 「お気分でもすぐれませんか?」

 「えぇ、とても」

 カントリー風で落ち着いた雰囲気のカウンターへ目を向けると、ちょうどカフェ担当のメイドがおかわりのミルクティーを運んでくるところだった。

 最近入ったメイドだ。まだ幼い顔立ちの額から、歪な一本ツノが生えている。竜種なのかもしれない。

 「おかわりをおもちしました。開いたカップはお下げいたしますね」

 ソーサとティーカップを並べ、メイドはちらりと夜来香の方を見た。少女の桜色に染まる頬に、パチュリーは呆れたように溜息を吐いた。

 「仕事へ戻りたまえ」

 宝塚のような声が促すと、メイドは慌てて一礼しふらふらとカウンターの方へ飛んで行った。ちょうど出前から戻った同僚──黒い翼を持つ少女と、耳まで口が裂け牙を剥き出しにした少女が居る。一本ツノのメイドがその中に混ざると、たちまち黄色い悲鳴が湧き出した。

 「モテるわね」

 「意中の方の気が引けないのでは意味がありません」

 「あら、恋バナ?」

 「さて、どうでしょう」

 「お相手はどちら? 断っておくけれど、この城で職場恋愛は認められてるわよ。というか咲夜が認めているの。困ったわ」

 「絡みますね……。」

 「貴女が誰をどう思うかによって、他の侍女たちのバイタリティに差が出てくるのよ。そうね……それこそ相応しい想い人だったら盛り上がるんでしょうけど」

 「難しいです。そもそもあたしに相応しいなんて思い上がりなど、とんでも御座いません。問題なのは、あたしが彼女に相応しいかどうか。その一点です」

 「斉天大聖とは思えない弱気な発言だわ。二代目の傍若無人さは受け継がなかったようね」

 「せめて無鉄砲と仰って下さい。もっとも仏門に下った時に、すでに我が名は別の概念に取り込まれてしまっています。初代が生まれ出る由来も、果たしてどこまでが真実でしょうか。今では戦乱と迫害と虐殺のこれらはただのキーワードでしかなく、初代のもとに集まった妖猿の正体についても、知る者も伝える者もいないでしょう」

 「ふーん。恋、実るといいわね」

 「ご勘弁を」

 夜来香が困惑したように眉を寄せると、パチュリーは無表情ながらも楽しげにティーカップを傾けた。

 ソーサーもティーカップも美しい白磁の地に、蒼い草木と鳥が描かれている。人間界ではウェッジウッドと名の知れたものだ。それもシノワズリ──中国趣味の美術様式を反映した品だ。ヨーロッパにてシノワズリが流行り始めたのが17世紀半ばであったが、それも18世紀の中にロココ調と融合したことを考えれば、紅魔館で愛用されるのも頷ける。この館は、やたらその時代の様式の家具が目に付くのだ。

 何かが揺らいでいるような気がして夜来香は目をしばたいた。

 気配でも妖気でも無い。単純で明解な違和感だ。

 朝日のもとにこの魔女は相応しくない。月光の降り注ぐ静謐な宵こそ、彼女の無垢な美貌を引き立てるはずだ。それが狂態に導くは、彼女なりに自身に内在しない価値観への憧れの末路だろうか。

 「パチュリー様?」

 「これ」

 小さな手が突き出される。青白い指先に、二つ折りの紙片が摘まれていた。

 「白玉楼の誰かに見せればわかるから」

 簡潔に言うと、パチュリーは白い陶器のシュガーポットへ手を伸ばした。砂糖を入れ忘れたのである。

 受け取った紙片に目を落としていた夜来香だったが、

 「白玉楼中の人となる、とは言ったもですが、私に文才はありません」

 「咲夜だって行けたんですもの。メイドにその資格ありと認識するわ」

 書言故事や唐詩紀事にそんな一説があっただろうか、と眉を寄せたが、考えてみればメイドのみならず巫女や魔術師だって押し入ったのだ。今更、妖怪が紛れ込んでも大した問題ではないのかもしれない。

 そもそも墨客や文人が召される楼閣を、剣客や大飯喰らいが取り仕切ってよいものか。創立者の天帝も、さぞ浮かばれなかったことだろう。

 「確認してもよろしいでしょうか?」

 曖昧な指示ではあったが、書いてある内容によっては状況が異なる。

 庭師に見せる程度でよいものか、或いは屍嬢にご覧頂かなくてはならないのか。

 「見るだけ無駄だけれど、どうぞ」

 「失礼します」

 紙片を広げる。

 白紙だった。

 それを確認し正確にもとの二つ折りに戻すと、夜来香は一礼した。

 「確かにお預かりいたしました」

 白紙の紙を幽界まで運ぶ。おかしな話ではない。ただ自分には見えなかっただけのことである。何が書かれているかなど興味もない。が、

 「後はあちらの指示に従ってね」

 砂糖を4杯も入れたパチュリーの言葉に、気づかれないよう顔をしかめた。どうやら無関係を通すことは難しいようだ。

 「かしこまりました。これより出立します──その前に」

 夜来香の胸が膨らんだ。すぐに酸素が肺を満たす。カフェの外縁へエキゾチックな美貌を向けると、妖艶な唇がすぼまった。

 フッ、と低い呼吸音が空気を叩く。同時に、植え込みの方で「ひゃいっ」と無様な叫びが上がった。

 植物が幹ごと倒れ込んできたと思いきや、それは徐々にメイドの姿に変貌した。深緑の髪飾りを着けた少女である。耳が大きな葉になっているのがなんともチャーミングだ。

 いつからそこに潜んでいたのやら。

 「処罰はいかほどに──パチュリー様?」

 夜来香の冷たい口調に娘は蒼白になった。いちいち目的や弁明を聞くような斉天大聖では無い。故に娘の胸はときめいた──そこが素敵。

 だが、その前に命の危機だった。

 「い、言いません! イエ様に想い人がいらっしゃるだなんて、私、死んでも言いません!! 墓まで持っていきますから、どうかイエ様!! お幸せに!!」

 叫びだった。

 叫んだ瞬間、カウンターの方でこちらを伺っていたメイド達── 一本角少女、黒羽少女、口裂け少女が一斉に悲鳴を上げた。歓声だ。

 思わず額を押さえてしまう。

 「ふふ……もう手遅れみたい。じゃ、行ってらっしゃい」

 「せめて変な噂が広まらないことを祈ります」

 嫌なめまいを覚えながら、夜来香は床に尻餅をついた植物少女を見下ろした。

 「聞いての通りだ。パチュリー様の寛大なご配慮に賜り、私の話しに関しては咎めはしない」

 こくこく、と植物少女が凄い勢いで頷く。

 「だが、パチュリー様のお言葉を無断で拝聴した罪までを許すわけにはいかない」

 こくこく、と頷く。

 「罰を与える。自分で考えて示せ」

 こくこく、と頷きかけて、少女の顔が固まる。

 パチュリーが「あらら、意地の悪い」と誰にも聞こえない声で呟いた。

 少女はぱちくりと目を見開き困惑した。難題であった。多少の失敗で罰を与えられたことならある。

 ザクセン選帝侯フリードリヒなんちゃら一世という東洋製花瓶のヲタクが収集した壺を割った時など、それは酷い辱めにあった。同僚達の前でお尻を丸出しにされ、何度もムチを打たれたのだ。ムチはこれも彼女の同僚が代わる代わる打ちつけ、腕を振り下ろす側も打たれる側も、次第に呼吸が荒くなり妙な空間になりつつあった。見かねた十六夜侍女長が止めに入ったが、時既に遅く、何人かのメイド達がスカートの前を押さえモジモジしていた。植物少女に至っては、濡れた秘部を隠すことすらできなかったのである。本当に悲惨なのはその夜だった。まさか、仲間達にあんな風にされてしまうだなんて──詳しくは尺の都合上割愛する。

 そもそもドレスデンの宮殿にあるはずの花瓶が、何故こんなところにあるのだろう。他にも美術価値、歴史資料価値のある陶磁器がいくつもある。今日もそうだが、十六夜侍女長がふらりと出かけるたびに増えているようだ。先日は伊達政宗の尿瓶なんてものまで持ち込んでいた。確かにつつみ焼ではあったが、そもそもつつみ焼きは江戸時代中期に当時の仙台藩主が日用品を焼かせたのが始まりだ。全くのでっちあげである。それ以前に、男性用尿瓶を何に使う気だったのだろうか、メイド長。

 以上の経緯から、彼女に償える罰の手段は一つしかなかった。

 「ご、ご覧下さい……。」

 震える声と手で、スカートをたくし上げる。意外とエレガントなショーツが現れた。ストッキングはガーターで吊ってはおらず、ベルトだけ巻いているようだ。

 何をやりだしておるんだこの子は、と夜来香がやっぱり眉間を押さえた。

 そのまま少女はスカートの裾を口で咥え、両手をショーツの端にかけた。カウンターの方から「ガンバレー!!」と同僚達が声援を送る。頭痛い。

 するするする、と滑らかにショーツが下げられる。植物系の妖怪とはいえ、その部分は人間のとあまり差異が無いようだ。まだ産毛すら生えない幼さだった。

 メイドはクルリと後ろを向くと、さらにスカートをたくし上げ可愛らしいヒップを夜来香に突き出した。

 「あの……どうぞ」

 どうしろと?

 一瞬、耳に隠した如意棒が頭を過ぎった。いやいや、そうじゃないだろ。

 パチュリーを見た。

 グッ、てな感じで親指を立てられた。だからどうしろと? ヤレってか?

 「は、お早く……お願い、します……。」

 か細い声が振り絞られる。

 夜来香は肩をすくめると植物少女へ近寄り、

 ──ペチンっ。

 お尻の頬を優しくひっぱたいてやった。

 「いい加減、仕舞いなさい。風邪ひくわよ」

 「あ、あの……私……。」

 「もう立ち聞きなんかしちゃ駄目よ」

 耳元で囁く。

 甘く妖しく、

 呼吸が嘗め回した。

 「──ッ!!」

 植物少女は声にならない絶叫を上げると、そのまま床に崩れ落ちた。

 そんな少女に目もくれず、夜来香は司書長に一礼するとオープンカフェを後にした。

 

 

 

 妙な拘りだったと彼女自身も苦笑した。

 あまりにも惨めな行為だ。それも理解できる。だからと言って割り切れるほど器用でもなければ、打ち明けて因果を清算できるほど大胆でもなかった。

 彼女が他の同僚と親しげに話す姿を見ただけで、狂おしいまでの嫉妬に胸を痛めた。まるで恋する乙女ではないか。柄でもない、くそったれ。

 ジレンマを受け入れることで理解した。

 ──自分が怯えている。

 

 

 

 紅魔館の中央に構える大きな階段があった。赤い絨毯を敷き詰めた緩やかなおうとつの列は、幅八メートル、段数は一千段にも及ぶと言われる。何処まで続くのか何処へ続くのか以前に、何のためにこれ程の階段を、それも館の最上階に構築したのか知る者はいない。

 ただ、登りきったフロアに一枚の人物画が飾られているという噂がある。普段は館の主人しか訪れない広間だが、半年に一度、清掃のためにメイドが送り込まれることがある。それも決まって夜の三時だ。翌朝よりそのメイドを見た者はいないという。

 絵画に骨も残さず食い尽くされる。噂は伝説となり次の世代へと漏れなく伝えられた。清掃要員のメイドは絵画の食事係──正しくは食料そのものだと。

 肝のすわった先輩メイドがいた。器量もよく面倒見のいい娘だった。怯える妹達を哀れに思い、陰惨たる噂など眉唾であると証明すべく、ある夜『中央階段』へ赴いたのだ。そして彼女が部屋に帰ることはなかったという。

 翌日、館の地下へ続く排水溝の上流で少女の足首が発見された。ソックスと靴は履いているが、足首から上はついに発見されなかった。案の定それは『中央階段』へ臨んだ先輩メイドのもであることが後輩の証言により確定した。靴は、後輩メイドが先輩メイドへ贈ったものだったのだ。

 彼女らの今朝の担当区画は、その『中央階段』の中腹だった。

 階段の真ん中で、黒いメイドが腰の前で軽く手を組み瞼を閉じていた。

 数段下では、三人の配下のメイドがせわしなく働いている。手すりを磨きあげ、血のような絨毯を掃き、そして一人は、ぼーと頭上を見上げていた。どうやらシャンデリアを掃除しようにも飛行能力が無いため手をこまねいているらしい。

 絵画の噂を信じる者は居なかった。正しくは、その程度の怪異など跳ね除ける自信が彼女らにはあった。その全容は館の主人しか知らぬと謳われる紅の魔城である。紅い悪魔と名高い少女の城である。絵画が侍女を喰らっても不思議ではあるまい。故に、所詮はその程度なのだ。

 凛と背筋を伸ばす黒いメイドが、うっすらと瞼を開けた。

 メイドの周囲で冷気が蠢いたように感じたのは、その容貌から生まれる錯覚だったろう。

 『黒』という事象、もしくは現象が姿を得たような少女であった。それは闇でも暗でもなく、ただ純粋に混じりけの無い黒だ。

 それを象徴するかのように、黒いワンピースのメイド服に黒いカチューシャをしていた。すらりと伸びるタイツに包まれた脚線美は艶かしく、何より、床まで垂れるウエーブがかった髪が、闇が寄り添いかたどったように黒かった。

 静かに佇むその黒羽のような姿をひとたび瞳に映せば、美への信奉者ならずとも暗黒の美しさに目を奪われたはずだ。黒という名の無がひとたび質量を得ると、ここまで神々しくなれるものなのか。そして、その憂いを帯びた瞳の切なさよ。暗いルージュをひいて尚、気品に満ちた唇よ。並みの男なら、女王様然とした気配に誰もが跪き足蹴にされたいと願っただろう。

 なのにそれが、

 波のような黒髪に包まれた白い美貌が、失望したように溜息を吐いた。

 「こんな所まで何をしに……。」

 「アゲハお姉様ぁ」

 手すりを磨いていたブラウンのショートカットが勢いよく振り向いた。少女の頭の周囲でバチバチと電気が火花を散らし、幼い顔の陰影を濃くしては消えた。

 「どなたかぁ、登ってくるみたいですけどぉ、お止めしたほうがよろしいんじゃないでしょうかぁ」

 間延びした電撃少女の声に、黒揚羽のこめかみがひくついた。

 掃き担当の竜耳少女はキョトンとして隊長を見守り、シャンデリアを見上げる人間少女──つまり普通の人間──は、ぽわわ~と顔を上げたままだった。

 隊長からして面倒が嫌いという性格な上、この面子である。誰がカードを組んだのかは知らないが、メイドとしてこれほど役に立たない一団もないだろう。

 黒揚羽には階段を登る人物が分かっていた。周囲へ人知れず張り巡らせた黒髪が探知したのである。少女によって意思を与えられた髪の毛の一筋一筋は、自在にうねり伸縮し、周囲の情報を主にフィードバックする。階段の一段目に一歩踏み入れた瞬間、それらは相手の脚に手に、顔に巻きつき解析を行うのだ。

 知った顔だった。飛行能力を持つのに、わざわざ徒歩により登ってきたようだ。普通の階段ならまだしも、よほどの暇人か物好きである。

 「ねぇねぇ、お姉様ぁ」

 「放っておきなさい」

 短く言い放ってから、自分が何故こんなにも不機嫌なのか疑問に思った。失望が与えたのは憂鬱ではなく苛立ちだったのだ。

 その根幹は、登ってくる彼女だ。

 ほどなく、階下から黒揚羽に負けずと黒いしなやかなシルエットが見えた。

 キュッ、と誰にも知られないよう右手で胸を押さえる。

 あぁ、と黒い唇が細く慎ましく開いた。

 あぁ、と苛立ちが募った。

 「前言撤回。もてなしてお上げなさい」

 「あ、はい」

 元気よく返事をしてから、

 「あの、もてなしといっても……。」

 「一発キツイのをお見舞いしてあげればいいわ」

 「えーっ!! だ、だってあの方にそんなことしたら反撃されてしまいますぅ。死んじゃう! 私なんか簡単に死んじゃう!!」

 「私が守ります。やっておしまい」

 「そんなぁ……。」

 渋々だが、電撃少女は来訪者へ向き直った。「えい」という何か情けない掛け声と共に、右手の人差し指と中指を階下から現れた人物へ抜き放った。

 同時に、相手も右手を横へ伸ばした。拳は握られていた。

 「むむ。だったら……こう!」

 電撃少女の五指が開いた。相手の右手が今度は縦に振られる。その先端から伸びる人差し指と中指の軌道がしっかりと電撃少女の眉間を捉えていた。

 「たはは、すみませんアゲハお姉様ぁ、負けちゃいましたぁ」

 「誰がジャンケンをしろと言いましたか!! しかも負けるとは何事です!!」

 「反射神経と運と勝負ごとであの方に敵うわけないですよぉ……。」

 「ならジャッカルをお出しなさい!!」

 その威力は通常のチョキの五倍といわれ、パーは無論のことチョキですらひとたまりもない荒業であった。

 黒揚羽が柳眉を逆立てると、階下の人物が軽く段を蹴り一気に階段を飛び越えた。まるで香港か韓国の恋愛時代活劇の(ワイヤーで吊られた)主人公のように、ゆるやかに舞い──勢いが余ったのか黒揚羽の目の前に着地する。

 「ち、近い! 近いですわ!!」

 「それは失礼」

 頬を染めて講義するのも無理は無い。目の前にエキゾチックな美貌が現れたのだ。瞳と瞳、唇と唇の間を、僅かな距離以外に遮るものが無かった。

 咄嗟に顔を背けようとして、足元のバランスを崩した。

 「おっと」とスーツ姿が黒揚羽の腰を優しく抱き寄せる。

 黒いメイドが思わず夜来香の胸に頬を埋めた時、人知れず異変が起きた。普段は病的なまでに白い顔が、春を謳歌する花びらのように色づいたのだ。

 周囲の部下三人から「おぉ」と声が上がり、はっとして美影身を突き放す。

 「き、気安くしないで下さいまし」

 声のキーが高い。心の内に、不慣れな感情が芽生えている。胸を手で庇うように視線を外し、

 あぁ、と黒い唇が細く慎ましく開き、熱のこもった息を吐いた。

 あぁ、と苛立ちが募り、さらに募った。

 いつもこの人は私を苛立たせる。不愉快にさせる。いつも、やるせない気持ちにさせる。こんな唐突に目の前に現れて、一体どんな顔で私を見ているのだろう。

 ちらりと横目で見ると、

 「とっさに君を庇ったことは謝る。同じ十三王。君にあたしの手が不要なことぐらいは承知しているつもりだ」

 ──え?

 「以後、君に触れることはないと斉天大聖の名に誓おう。だから、そう毛嫌いしたもうな」

 「どうしてそうなるんですの!?」

 キッ、と睨んでやった。夜来香の悲しそうな瞳が飛び込んできた。何かを堪えるように眉間を歪めるのを見て、黒揚羽は呆れたように溜息を吐いた。

 「そんな事、誓っていただいても、ちっとも嬉しくなんてありませんわ……。」

 「節度は必要だ。快く思っていない相手では尚更──。」

 「快く思ってればよろしいのですね」

 「ああ、その、よくわからないが、君が良いというのなら、きっと良いのだろうが、しかし」

 「毛嫌いなどしていません……。」

 拗ねたように唇を尖らす黒揚羽がどこか幼く見え、夜来香は言葉に詰まった。

 数瞬口をぱくぱくさせていたが、

 「少しばかり出てくる。十六夜侍女長も朝から仕入れだ。こんな時に何事も無ければいいが、少々月と星の位置が妙だ。騒々しくしなければお嬢様の機嫌も損なわずにすむだろう」

 「お嬢様、お具合は?」

 「ただの日射病との診断らしいが」

 「本当に?」

 「ここのところ、博麗神社に入り浸っていたからな。とはいえ、見立てたのはちょーかだからね」

 「二日酔いでしょ」

 「さて」

 連日の宴会であった。夜来香も何度か影の護衛として付き添ったが、その度にめざといスキマ妖怪などに見つかり、ご相伴にあずかっていた。メイド長の視線を気にするほどヤワな性格でもない。目の前に酒がある。斉天大聖の名は伊達ではないのだ。

 「貴女の方は、長期になられるんですの?」

 「司書長様の使いだが、向こうで仕事が増える可能性もある」

 「そうですの……。どうしてそのことを私に?」

 「他に誰に言えと?」

 何か特別な回答を期待していた様子の黒揚羽だったが、そう言われて「なるほど」と唸るしかなかった。

 双子にしろ、殺人鬼にしろ、羅刹の姫にしろ、人間側のメイドはどこか調子が変である。ネジが一本抜けているようだ。

 かと言って、妖怪側も唯一まともそうに見える弔香侯爵でさえ、ネジの一本どころか5、6本まとめて抜けている気がしてならない。どいつもこいつも……。 

 「先ほどの議論の続きは帰ってからということで」

 一歩、夜来香が下がる。

 三段ほど下に移った。ちょうど二人の顔の位置が並んだ。

 今度は黒揚羽が言葉に詰まった。

 目線を逸らし、所在無げに指で黒髪をもじもじする。

 「何を論じるおつもりかしら?」

 「黒髪縄婦人があたしを嫌ってるってこと」

 「斉天大聖ともあろうお方が、たわけたことを。ですが挑まれたからにはお受けせねばまりませんわ。そうですね──私の部屋で如何かしら。ちょうど良いお茶の葉がありますの」

 「それは楽しみ」

 爽やかな夜来香の笑みに、逸らしたはずの瞳が釘付けになる。楽しみなのは果たしてお茶か、それとも黒揚羽の寝室か。

 どれだけ見詰め合っていただろうか。その均衡を翼の羽ばたきが、なんていうかもうダメにした。正確には羽の持ち主の甲高い声がだ。

 「ねぇ!! みんな聞いて聞いて大事件よ!!」

 白い大きな翼をせわしなくはためかせ、天使少女はシャンデリアを回避するように旋廻した。

 「聞いて驚けとにかく大変なんだから!! なんとあの十三王、男装の麗人ことイエ様が!! 一人の女性に片思いをなさっているってんだからお釈迦様もびっくりだ!! しかもまだ告白さえしていないというか、イエ様を以てしてもその女性は振り向いて下さらないというか!! つか今がチャンスよ!! 寂しがっておいでのイエ様の心の隙に付け込むチャンス!! Wチャンス!! 野郎ども──いや女の子だけど──準備はいいか!! おー!!」

 まさにカタルシスト。バランス・オブ・パワー──勢力均衡が天晴れなまでに崩壊した瞬間だった。

 ぽわわ~と、と頭上を見ていた人間のメイド──仮にぽわわ少女と呼称しよう──が指先で何かを弾いた。

 「あ痛っ!!」

 直撃。ビー玉である。一応は加減をしたらしくちょっと痛い程度ですんだが、技の錬度から見て天使少女を打ち落とすぐらいは造作も無いだろう。

 「ちょっとぉ!! ぽわわちゃん、何すんのよ!! あたしにつぶてをぶつけて陵辱しようって気じゃないんでしょうね!? しようって気なのね!! そうなのね!!」

 「ん」

 と抗議する天使少女に顎をしゃくって見せる。

 その先を追うと……。

 「ゲゲッー!? イエ様!? まさにチャンス到来!! やったー!! よーし、頑張って誘惑しちゃうぞー!! あたしだって脱げば凄いんです!! 待て待て我輩それは最後の武器だ!! ええい仕方が無い!! こうなったら最後の手段だ!! 見ててよー!!」

 いそいそと空中でブラウスのボタンを外しだす天使少女。

 夜来香の右手から直線が放たれ、空中で、ゴン、といういい音が響くと、天使少女は揚力を失い『中央階段』の下層へと落下していった。右手のスナップだけで放った如意棒の成果である。

 うるさいのが居なくなり、途端に静寂が戻った。嫌な静けさだ。

 「あの、アゲハ……?」

 如意棒を瞬時に右手の中にしまい、黒揚羽の顔を覗きこむ。

 殺人レーザーのような眼光に射抜かれた。

 「そ、そうですか、貴女に、い、意中の方がいらしただなんて、気づきませんでしたわ。そ、その方も、なんて可愛そうなのかしら、え、ええ、私のことは気にしなくて結構ですわ、早く仕事を終えて、その方の所へ行って差し上げるがいいわ」

 感情が篭っていないだけに、一層嫌な声である。

 「落ち着きたまえ。ちゃんと話を聞くがいい」

 「な、な、なにも、話すことなんて、ありはしません。ほ、ほら、早く行かないと、パチュリー様に叱られますわよ? ほらほら、さっさと行きなさい、私だって仕事があるんだから!! 行きなさいってば!!」

 最後の方が何故か涙声だった。

 そんな上司二人を交互に見て、竜耳少女はあらあら、まぁまぁと幸せ気に笑った。ラブ電波を受信したらしい。

 

 

 

 のそり、と象が一歩踏み出すたびに、耳や首を煌びやかに彩る装飾が透明な音を響かせた。

 巨体が母屋の影からゆっくりと抜き出る。その向こう側で、果たして如何なる変事、如何なる化学反応が起きたのか、見守る巫女と人形使いが知るはずも無い。

 ただ、

 それには確かな質量があった。実態である。魔法の森には、迷い込んだ者に幻覚作用を与え虜にする色妖精が生息したが、彼女らが使う感覚や神経器官を操作する幻影の類ではなかった。どういう理屈か、この生物はたった今、こちら側の世界に存在そのものが練成されたのだ。つまり、普通に境界を飛び越えたというわけでもないようなのである。二人が感じた怪異の気配に言葉を当てはめるなら、それはまさに『誕生』であった。

 ちなみに色妖精の話しだが、幻覚で誘い込まれるのは大抵が人間の男であり、虜になった者は昼夜問わず、炊事、洗濯、掃除の相手をさせられるという。この妖怪の変わったところは、それらの作業を虜にした男一人に押し付けることがない点である。──相手をさせられる。言葉の通り、それら行動を彼女らは共に行うのであった。別段、捕らえた男を食料にするわけでもなく、産卵の触媒にするでもない。ましてや、淫靡な行為を要求するわけでもなく、ただ、共に共同作業を行うのだ。ただし、その後、虜になった男が婿養子になることは、多くの例が示していた。

 「つまり、愛の虜になったわけね」

 「上手いこと言ったつもりか──アリス、来るわよ」

 目の前の質量がスローな動作で二人に迫る。というより、単に広いスペースへ抜けようとしているだけかもしれない。

 象の背には浅黒い肌の男が居た。手足は細長く、全体的に痩せこけている。だが、肌の色と皮膚の硬質さ、なにより眼光の輝きが無意味に精悍な印象を与えていた。頭に巻いたターバンからも異国の風情が伺えた。

 問題は、その異国の風情が如何にしてこちら側へ実態化を成し遂げたかである。

 象は二人の前まで進むと、ぴたりと動きを止めた。背の男が頭部の影から顔を覗かせ彼女らを見下ろす。浅黒い肌の中で、白い光りがギロリと睨んだ。

 「越えやすい道を捜していたが、このようなところへ出てしまった。馬上から失礼するが、娘さんら、ここは幻想郷でよろしいか?」

 いや馬じゃねーだろ、という言葉を飲み込んで二人はこくこくと頷いた。

 呆気にとられたのだ。

 男は頷くと周囲をぐるり見回した。見ようによっては首が回転しているようにも思える。

 「ふむ……ちょうど良い綻びではあるが、神域で境目を埋め込んでいるな。ここを要に据え全体の均衡を保っておるのか。ならば──これらを薙ぎ払えば、容易いか」

 「人の神社で物騒なこと言わないでよ」

 流石に巫女が抗議し、

 「神社を参拝するならまずお賽銭。作法でしょ」

 しっかり商売をする。

 どのような怪異の末に現れたかなど置いておいて、とりあえず訪問者はすべからく参拝客なのだ。

 「どいているがいい。しばし地ならしをする」

 「話し聞けよ。つか勝手にならさないでよ」

 余計なことされる前に止めなきゃダメかなー、と巫女が御祓い棒を取り出すと、

 「お任せ」

 アリスが軽く手を上げ霊夢を静止し、象と背の男へ目を向けた。

 右の手のひらに魔道書が閉じられている。少女の瞳の奥で淡い炎が揺らめいた。魔力の炉に火が点火されたのだ。

 閉じられていた魔道書がバタンと開く。

 「立ち去りなさい自分。ここは無作法者が来るところではないわ」

 凛然と言い放つアリスに、あんたも含めて無作法者しかやって来ないけどなぁ、と内心呟く。だがその黒い瞳は、象でも男でもなく人形使いの少女に張り付いていた。

 魔力が少女の五体を巡っていくのがわかった。発光現象こそ起きないが、彼女が別の存在に変化していく感覚が、酷く呆れるくらい綺麗に見えた。

 美しいブロンド。控え目にフリルをあしらったカチューシャとリボン。魔力に澄んだ瞳。魔道が棲んだ瞳。呪いの言葉を紡ぎ出す艶やかな唇。切ない吐息を漏らす愛らしい唇。あぁ──アリス・マーガトロイド。七色の人形使いよ。

 「手加減なさい、あなた達──。」

 左手を振ると、男と象を8体の西洋風人形がとり囲んだ。どこから現れどのようにして配置したのか、霊夢にも分からないアリスの技だった。ただ、その一体一体が少女の膨大な魔力制御の触媒であることは確かだ。

 「オールレンジアタックよ。かわせるものならかわして──。」

 男の薄い唇がニイと笑った。

 何かに気づき咄嗟にアリスが人形達へ指示を出す。直前、男の体は一気に空へと吸い込まれた。

 「かわされたー!!」

 「アホかーっ」

 「というのは冗談で」

 右手の本がベラベラベラと勝手にページをめくる。同時にアリスの左手が細かく動き、次なる魔法の陣形を空中に構築した。

 「お行きなさい」

 命じた時、細身の男に匹敵するスピードで8体の人形は空の彼方へ飛び立った。

 人形使いが顔を上げその軌跡を追う横で、霊夢は別の異変に気をとられていた。

 男が空中に消えた瞬間、象の姿が消えていたのだ。いいや、象はいる。目の前に。目の前の地面に。霊夢はソレに近づき、手を差し伸べた。

 大きな水溜りのように影が広がっている。巨象の質量に見合う分量が必要だったのだろう。手触りからも分かるとおり、それは一枚の布であった。黄金の装飾品もその一部であったため、巫女は内心舌打ちをした。

 頭上を仰ぐと、

 遠く空の彼方で、幾重にも細い煌きが流星のように流れていった。

 「一応言っておくけれど、追い返す程度でいいんだからね?」

 「安心して。それ以上は別料金だから」

 「うちに払えるお賽銭があると思えて?」

 「貴女こそ誰と取引してると思ってるのよ。報酬は別な形で頂くわ」

 どれほど可憐に見えても、彼女は妖怪側の魔女である。

 「返済するにしたって限度ってものがあるわよ。いや、待て待て自分。これってあんたが勝手にやりだした事でしょうが」

 「今度人形のモデルになってくれると嬉しいわ」

 「呪われそうだな。主に私が」

 「ふふ、そうかもね。ああ、それから私も一応言っておくわ。そこ、危ないわよ」

 アリスの忠告に霊夢が三歩下がった時、頭上の蒼穹に墨汁を垂らしたような黒点が描かれた。点はやがて大きくなると、ガシャンという嫌な音を立て目の前の地面に激突した。人形の残骸である。

 「手、抜き過ぎじゃないの? これじゃモデルの話しは無しね──あら?」

 落下物を見ると、それは8体全ての人形であった。渦を描くように互いが歪曲し合い、一塊の団子に固められていたのだ。球体の間接を持つ手足もボディも、可愛らしかった頭も、全てが捻じ曲がるように変形し無残な姿をさらしていた。

 ただの人形ならまだしも、七色の魔道が血の代わりに通った妖しの化身である。いわば魔石や力ある魔術書と同じだ。それを完膚なきまでに封じるとは。捻じれは、彼独特の神秘による効果だろうか。

 アリスが手を抜くのは今に限ったことではない。彼女が戦闘において全力になることは無かった。常に相手と同等か僅かに上回る力で臨むのだ。そのあたりは霊夢とよく似ている。

 「少し行ってくるわ」

 「そして二度と戻ってくるな」

 「戻ってきてほしいくせに」

 「いいから戻ってくるな」

 「飛び込んできて欲しいくせに。その胸に──痛そうだからやめとくわ」

 「死んじゃえ」

 くす、と笑うとアリスは左手を正面にすえた。再び右手の魔道書が派手な音を立て捲られる。

 霊夢は、目の前の魔女の力が左右に分散していくのを見た。分散した魔力は陽炎のように揺らぎ、小さな人の形をとる。

 右手に上海人形、左手に蓬莱人形。アリスの人形のうちでも別格だ。

 これで私の出番は無いかな、と霊夢は今後の清掃の計画を検討した。まずは、あの大きな布である。いきなり象に戻ったりしないだろうな?

 腕組みをして悩んでいるうちに、アリスの魔力供給が完了した

 「上で並んだら呪符で黙らせるわ。それから絡め取るからいいわね、二人とも」

 こくん、と二体の人形が頷く。

 ちょっと危ない人にも見えるが、それがどれだけ厄介な事態か霊夢だけは知っている。

 「向こうから来た──?」

 今にも飛び立とうとした一人と二体だったが、頭上に新しい黒点を認めわずかに身構えた。

 落下するに任せたのだろう。予想通り、黒点が一気に地面へ激突し、その衝撃に二人の少女は顔を庇った。

 砂塵が落ち着くのも待たず目をこらすと、空気が落下点を中心に渦巻くのが見えた。

 おっさんが落ちてきたのかと思いきや、一本の杖が直立していた。黒い真っ直ぐな円錐である。材質は、金属のようなものに見える。杖の、恐らくは柄の部分に、魔術で使うとおぼしき色鮮やかな布が巻きつけられていた。

 「ちょっと、これって……。」

 霊夢のカンが異変の本質をかすめた。無論、霊夢がこの鉄柱を知るはずも無い。長年培ってきた怪異との付き合いと巫女としての感じ方が、何か良くないものを知らせたのだ。

 「アリス!! 急いで『逆向き』にして!!」

 「本体を静かにしてしまえば『止まる』でしょ。先にそっちを打たせてもらうわ」

 アリスも霊夢が言わんとしていたことを瞬時に理解した。だが霊夢はあくまでも鉄柱に拘った。

 「こっちが先よ。どうにか解析できない?」

 「私達と系統が違うってことぐらい見ればわかるわ。根幹からして私達が魔術と呼ぶ力なのかすら怪しいんですもの。貴女こそ、そんなに心配なら結界の一つでも張ってなさいよ」

 「とっくにやってるわよ!!」

 アリスがきょとんとした。

 「何て、言ったの……?」

 「こんな時に何可愛らしい表情してんのよ!! 誘ってるの!?」

 「バカ。上海、蓬莱、こちらから片付けるわよ」

 円柱に向き直る。

 それは、やはり渦だった。

 落下の衝撃によるものかと思われた空気の流動は、反時計周りに鉄柱を中心に渦巻き、次第に勢力を拡大していった。

 アリスの瞳の奥の炉が輝くと、二体の人形の前に蒼い光りが収束する。

 「まずは回転軸を粉砕。続けてリカバリ──あ」

 思わず小さな悲鳴を上げてしまう。

 人形へ供給し球体状に成長するはずの魔力が、渦の勢いに押され霧散したのだ。霊夢の結界を凌いだ正体がそれだった。

 砂塵が舞う。

 次の異変はさらに急激なものだった。

 玉砂利が渦にしたがい、さらに捻られるように石畳が円柱を中心に移動し始めたのだ。

 髪を押さえていた霊夢が思わず顔を背けると、その前にアリスが立ちはだかった。

 「やってくれるわね」

 ばたばたと服がたなびきスカートが風に捲れ上がる。白いタイツかと思いきや、以外にも裾がレースのハイソックスだ。下着がドロワーズではなく品のいいシルクのショーツなのは、ひょっとしたら朝から勝負する気だったのかもしれない。何の勝負かは触れないでおこう。少なくとも、あのまま空中戦に臨んていたらモロ見えになっていたのは確かだ。やはりそっちの勝負か?

 上海人形、蓬莱人形から細い線が放たれた。円柱の左右の、今まさにうねり狂う地面に突き刺さる。流動は止まらなかった。

 「よし、繋いだ──霊夢?」

 「大丈夫、なの?」

 「アンカーは打ち込んだわ。これでこの場所がどこか別の次元に飛ばされても、あとから拾ってこれるわよ」

 「大丈夫じゃないのね……。」

 なんとなくそんな気がしていたら、そうなった。小さな竜巻程度の旋回は、いまや台風規模の暴風に成長していたのである。

 「じゃ、この後私達ができることって──。」

 「逃げるわよ」

 「役立たず」

 言いつつも霊夢はアリスと共に飛翔した。その場に留まるメリットがまるでない。これだったら最初のアリスの提案通り、頭上に居るはずの術者を先に叩くべきだったのかもしれない。それにしても、

 空中で霊夢は見た。

 それは、鉄の円柱を中心に渦巻く捻れに、博麗神社が成すすべも無く犯される光景であった。

 参道がぐにゃりと歪んでいた。まもなく狛犬と手水屋がうねりに飲み込まれる。社務所が流動に沈んだ時、ここ数年誰も引いたことがないおみくじが宙を泳いだ。舞殿が濁流に流されると、そういえばあそこで舞ったことなかったなぁ、と感慨に耽ったものだ。だが、宝物殿が押し流されるのを目の当たりにした時には流石に悲鳴を上げた。そしてついに、博麗神社の象徴たる大宮、さらに母屋が激流に飲まれていった。あと何か小さい緑色が巻き込まれたが、もうどうでもいい。所詮、宴会以外では役立たずというわけだ。

 「これ、戻せるんでしょうね……?」

 「それまでは──し、仕方がないから、私の屋敷に泊めて上げてもいいわようごッ!?」

 モジモジしていたアリスの顔面に、暴風に飛ばされた絵馬が直撃した。絵馬には『霊夢はあたしの嫁』と達筆で書かれていた。誰だわけのわからん祈願を奉納したヤツは?

 「きゃっ──しまった!!」

 バランスを崩したアリスの腕から人形ケースがずり落ち、眼下の激流に飲み込まれる。

 「させるか!!」

 「ちょ、待って、ストップひばりくん!!」

 誰だよそれ、と内心思いつつ止めるが、霊夢の声は渦巻く風に飲み込まれた。ついでに薄水色のドレス姿が自ら渦の中に飛び込んでいった。それが彼女を見た最後の姿だったという。

 「バカー!! あんたまで居なくなったら、誰がうちの神社拾ってくるのよ!!」

 全部アリスにやらせる気だったらしい。

 

 

 

 博麗神社が幻想郷から消えた日──。

 紅魔館の紅い月は棺の中で体調不良にうなされていた。日頃の不摂生が祟ったのだ。

 ヴワル魔法図書館の司書長は小さな欠伸を噛み殺した。ベタがはみ出した。

 白玉楼の屍嬢はせんべい布団の中で死体のように眠っていた。夢の中は満漢全席だった。

 まよひ家の大妖怪はただ惰眠を貪っていた。いつもの事だ。

 

 その怪異をそれぞれが感じていたはずだ。だが、誰もがいつも通りの朝を向かえていた。ようするに、

 みんな寝ていた。

 

 

 

 紅魔館侍女専用大浴場、通称『白百合の湯』

 ここでの朝風呂の定義とは、世に言うほど贅沢でもなければ優雅さもなく、主にローテーションを示していた。昼夜問わず館が稼動するため施設の利用が分隊、又は小隊ごとのシフト制になるからだ。それも大抵は夜勤明けのメンバーを基準とする持ち回りだが、今利用している彼女らは早朝業務を終えたチームであった。次のスケジュールまでの空き時間や業務に余裕がある場合に限り、浴室及び娯楽施設の利用が許されているのだ。

 巨大な岩盤をくりぬいたような浴場は、信玄の隠し湯の如き秘境の趣があった。とは言え、脱衣所の壁や天井まで岩肌がむき出しなのはやりすぎである。それ以前に、洋館の内部であった。風情を楽しむ主旨は理解できても、如何にしてこの場所が構築されたのか説明できる者は居ない。地下ならまだしも、紅魔館一階の裏手に『白百合の湯』はしらじらとした湯煙を漂わせていたのだ。

 かつて、魔法の森の奥深くに根を張った霧雨邸の当主が『メイド風呂』という惜しみのない賞賛を送ったが、普通にいかがわしくて迷惑だった。

 そんな魔理沙に十六夜侍女長は数百のナイフを構え、「せめて少女だらけのメイド楽園、とでも称して下さい」と他のメイド達にとっては最悪なことを言い出した。咲夜のセンスはちょっぴり番組のコテ入れ向きなのだ。

 脱衣所の籠にメイド服を畳んだ巻き毛の少女は、ブラに手をかけると左右の同僚と目配せをした。

 両耳で宝箱をかたどったイヤリングが揺れていた。ミミック少女である。左側に並ぶロングヘアの少女は三つ目のうち額の瞳で応え、右側のショートカットの少女は、頭の両脇から生えた蜂のような羽をぱたぱたさせた。いずれも上半身のみ裸で、両腕で胸を押さえつけている。下半身は統一性が無く、ミミック少女がドロワーズに小さな靴下、三つ目少女が両脇を紐で結んだショーツにガーター。そして蜜蜂少女は厚手の白いタイツである。

 うん、と頷きあうと、三人同時に振り向いた。

 視線の先で、ぶるんっ、と空気が振動した錯覚を感じた。この場合の錯覚とは、プレッシャーとも言い換えられる。ちょうど上長のメイドがブラを外したところだったのだ。

 「すご……。」

 「うぅ……。」

 「不条理だわ……。」

 居並ぶ部下の顔に一体何事かとそのままでいた上長メイド──羅刹姫こと死美杜であったが、三人の視線に気づくと反射的に両手で胸を庇ってしまった。結果、巨大な膨らみが二つ、ぶるる、と豪快にたわわんだ。やはり上半身のみ脱いだ状態で、下は黒いストッキング越しにシックなショーツが透けて見えていた。

 「な、何……?」

 上司のいぶかしむ声とは対照的に、三人娘は呆然と息を呑んだ。目の前で艶かしい半裸の少女が篝火の明かりに照らされているのだ。見とれてしまう事を責めるのは酷であろう。

 死美杜は、どこか浮世離れしており茫洋たる娘だった。幼さの残る少女の顔立ちに勝気そうな釣り目が印象的だ。彼女が魔力を秘めるとしたら、まさにその瞳だったろう。それは、時折切なく濡れ夕日を映し出し、清涼な白銀のもとでは冷たくさざなみ、そしてこの瞬間だけは不安に揺れていた。

 美しいとも言いがたいく、可愛らしいとも違う。しかし可憐と形容するには言葉が足りない。あえてこの少女に何らかの言葉を当てはめるなら──エロカワイイ?

 岩壁に備え付けられた篝火の熱が白い柔肌に真珠のような珠を滲ませ、柔らかくウェーブのかかったイエローオーカーの髪の毛が肢体にまとわり付いた。それでこの猫のような瞳だ。上品な顔立ちと相まって悪戯好きなお嬢様といった印象を与えるが、しかしその実、おっとりしており、しばしば動作がスローテンポになる時もあった。恐らくはエネルギーの半数をあの胸にもっていかれるのだろう。水蜜桃と表現するにはあまりにもスケールの違いすぎた乳房である。

 美乳貧乳ひしめく紅魔館において、影で囁かれる乳房の最強二大巨頭というものがある。一人は美鈴。美鈴門番長。紅魔館一の豊満なおっぱいを持つ紅娘。もう一人は十六夜侍女長。紅魔館一の生意気なおっぱいその人だ。そして十三王羅刹姫の名を冠する少女は、前者二人にも劣らなぬ紅魔館一の我がままなおっぱいを誇っていたのである。

 「別に誇ったつもりはない──それより、そんなに見ないで。恥ずかしい」

 逆効果とは知らずに、か細い声で訴えた。

 三人の顔を、何か嫌な色が掠める。篝火の揺らめきが反射しただけではないだろう。妙な気配に気押され、羅刹の姫は思わず後ずさりした。

 「そうもったいぶらずに、死美杜様」

 「もっとお見せ下さいまし、死美杜お姉様」

 「いいえ、死美杜さま。見ているだけだなんて──。」

 じりじりと追い詰める。気の強い少女の顔を怯えの表情に染め、死美杜はさらに後ずさりし、ついには背後の籠棚に背中を押し付けた。

 もう後が無い。

 なら、やられる前にヤルか? それじゃ駄目だろ。

 目前に迫ったミミック少女が「はぁ」と熱い吐息を吐いた。

 「警戒なさらないで下さいまし。死美杜様にそんな顔をされてしまっては──あぁ、堪らなくなってしまいますわ」

 「ちょっと──。」

 「ご無礼、お許し下さい。いいえ、後ほど気がおすみになるまで罰をお与え下さい」

 寄り添うように近づくと、少女の指先が死美杜の背筋をなぞった。

 「ひぃっ」と、そこが弱点だったのか、身を強張らせる。

 ここぞとばかりに蜜蜂少女が両腕を押さえに出た。咄嗟に力を込めようとしたところに、さらに背中への愛撫が走る。

 「や、やめぇ……。」

 「死美杜様、本当にこちらが敏感ですのね。ふふ、可愛らしい」

 「──きゅっ」

 ミミック少女に耳元で囁かれ、不覚にも情けない鳴き声を熱が帯びつつある呼吸に乗せてしまう。

 「ごめんなさい、死美杜お姉様。でも、お姉様がいけないんですよ? そんなに綺麗なお体をしているお姉様が」

 何だかやってることと言ってることが怪しくなってきた蜜蜂少女が、捕らえた死美杜の両腕を強引にこじ開ける。ついに正面の防御がガラ空きとなった。背中を撫でられ抵抗が出来ないのもあるが、やはり基本的な人種──人間と妖怪の力の差だろう。

 我がままおっぱいが開放され、彼女が身悶えるたびに大きく揺れた。同時に──そろそろ自分が何を書いているのか心配になってきた。

 「死美杜さま……。」

 三つ目少女が今がチャンスとばかりに顔を近づける。

 「あぁ、死美杜さま。こうなることをずっと夢みておりました。いつの日か、必ずやそのお美しい肌に口づけを捧げたいと願っておりました。よもや、その日が来ようとは。あぁ」

 「うん。あたしも妹分に胸に話しかけられる日が来るとは思わなかったよ……。」

 「失礼いたします」

 右の乳房に顔を埋めた。恐々だが、唇が柔らかな弾力に吸い付く。

 死美杜が顎を上げ甘い声を出した。

 三つ目少女の唇は、最初こそは遠慮がちに胸に接吻をする程度だったが、すぐに大きく頬張るよう全体を侵食していった。ちゅぱ、ちゅぱ、と音を立てるたびに、羅刹姫と呼ばれた死の象徴が、切ない声を噛み殺そうと身をこわばらせる。

 やがて、意外と長い舌で円を描くように攻め立てられるころには、吐息ははっきりとした喘ぎのそれになっていた。

 蜜蜂少女が両手を離すともはや抵抗する気力もないように、くてん、と床に尻餅をつく。床は、流石に板張りであった。

 背後に回ったミミック少女が両手ですくい上げるように死美杜の胸を持ち上げ、正面から四つん這いになりながら三つ目少女がその胸に唇を這わせる。さらにもう片方の胸に、今度は蜜蜂少女が吸い付き死美杜に悲鳴を上げさせた。いきなり先端を強く吸ったのである。

 「もう、貴女はそうやってすぐ乱暴にする。少しは段取りを踏まないと、死美杜様に悦んでは頂けないわよ?」

 ミミック少女に咎められると、蜜蜂少女は幼い顔を在り得ないほどに歪めた。それは、寒気がするほど淫靡に歪んだ表情だった。少女に見えても、やはり妖怪である。

 「心外です。乱暴とは、このような事をいうんですよ──コリ」

 びくんッ、と死美杜の肩が跳ね上がった。奥歯を噛み締め、その感触に耐える。先端に歯を立てられたのだ。

 凄い、と三つ目少女が感嘆する。

 「先っぽを噛まれたというのに、死美杜さま、とても気持ち良さそう。痛くされるのが、そんなにお好きですの?」

 「好きなわけ、ないでしょ……。」

 切ない顔で反論されても説得力がない。どころか、余計な嗜虐心を刺激してしまう。つくづく人を誘うの上手いというか、人の神経を逆撫でしやすいというか。

 ならば、と蜜蜂少女は強く噛んだ。かなり効いたらしく手足をばたつかせ虚しい抵抗を試みる。それをなだめようとミミック少女がうなじから首筋に舌を這わせたのが間違いだった。

 いや、だめ、お願い、と身じろぎしだし、しまいには泣き声を吐息に混じらせた。畳み掛ける愛撫にパニックを起こしたようだ。

 「そんなに暴れないで下さいまし」

 一旦顔を離した三つ目少女が、とろん、とした瞳で見下ろす。

 「無茶……言わないで、ちょうだい──んっ」

 今度は唇を奪われた。三つ目少女の長い舌が口腔を侵略する。歯茎を舐められ、舌を絡められ、口内を存分に犯された。ぞくぞく、と死美杜が痙攣するのがわかる。この攻めも気持ちがいいらしい。もっとして欲しいのですね。あぁ、可愛らしい私達のお姉さま。でも──。

 ひとしきり楽しんだのか、ちゅぽん、と音を立て唇が離れる。胸の蜜蜂少女も、背後から抱きしめうなじの感触を味わうミミック少女も、それに習い顔を離した。

 荒い呼吸に背中が上下する。心臓が破裂しそうだ。息が熱すぎて焼けどしそうだ。何故、私がこんな目に合うのだろう。果たして、どこから間違えてしまったのだろうか。 先ほどまで同僚達と仕事をこなしていた時は、そんな兆候など何もなかったのに。問題は脱衣所に入ってからだ。メイド服を脱ぎ、籠に畳んだ時、いや、その次だ。ブラのホックを外した瞬間だ。あの時、私達の見えない背後で、何か淫靡で忌まわしいことが起きたのだ。

 三人は桃色に霞んだ頭の中で、かろうじて思索した。

 何故、私達は死美杜様にこのような不埒な振る舞いをしているのだろう。

 「本当に、貴方達は……こんなにもあたしを可愛がってくれるだなんて……。」

 何故、あぁ、何故、死美杜様は、あんなにも淫蕩極まりない顔でお笑いになるのだろうか。

 ガク、と蜜蜂少女が膝を着いた。口の端からだらしなく涎を垂らし、両手は股間──白いタイツをかきむしっていた。喘ぎをただ漏らす同僚を、流石に異常すぎると止めに入ろうとして、三つ目少女は愕然とした。

 ──疼いた。

 駄目、と小さく声を振り絞るだけで精神がごっそり疲弊する。駄目、と抗うだけで、それが逆に脳へと甘美な波紋を広げ快楽の漣が襲う。人間も妖怪も、禁忌を犯す行為に常軌のタガがかかっているのは一緒らしい。

 崩れ落ちそうになるのを踏みとどまる。

 「頑張って」

 床の上から無責任なエールが送られた。その声が耳に届いた瞬間、三つ目少女の両目が反転した。どれほど精神が拮抗した末か、口から小さな泡を吹く。ギロリ、と額の瞳が死美杜を射抜いた。

 「いいわ抵抗して。抗えば抗った分だけ、貴女の味が美味しくなるから」

 震える手が上がった。自分の手だ。腰の位置まできた。何とか沈めようとしたが、他人の手のように意識に反して移動した。両手は、まもなく細い紐を摘んだ。両脇を紐で結んだ下着である。頭の中で警鐘を鳴らす危機意識と、早く紐を解き曝け出したいという衝動が火花を散らす。

 三つ目少女は死美杜の背後へ目配せした。

 同僚のミミック少女だ。彼女だけは背後から抱きついていた。もし、死美杜の視線に妖怪の意思を──しかもエロイ方向に操作するカラクリがあったのなら、頼れるのは背後に居た彼女だけである。

 ミミック少女が顔を上げた。がくん、がくん、と舌を出して痙攣している。

 あぁ、と三つ目少女は思い知った。

 背後もくそもない。ミミック少女は先ほどから体全身で死美杜に触れていたではないか。抱きつき、その弾力も、体に帯びる熱も共感していた──たかだか視線に比べればどれだけその効果があっただろう。

 絶望に似た感情が胸に染み渡る。それはまさしく、抵抗を諦め流れに身をゆだねた瞬間に訪れる心の開放である。その快感たるや。

 三つ目少女の口元が笑みに崩れ、繊指が両脇の紐を引いた。

 「共用の場です。いい加減になさいませ」

 惚れ惚れするほど美しい声が、少女達の汗と熱気に煙る脱衣所に響いた。

 は、として見ると、目の前に栗色の長い髪を腰まで垂らしたメイドが居た。背をこちらへ向け顔こそは見えなかったが、彼女が誰かは一目でわかった。

 さらに三つ目少女は気づいた。自分が、いや他の二名の同僚も、死美杜よりそれぞれ1メートル離れた場所に移動していたのである。どのような手順をこうじたのかはわからないが、これも彼女のはからいだったのだろう。

 十三王、七鍵皇女こと夜桜。

 いつ如何にして現れたのか。何の為に? 

 いや、目的はかろうじて想像がつく。彼女の手に小さな手提げがさげられていた。ひとっ風呂浴びにきたのだ。

 死美杜は、しばし呆然と夜桜の細面な顔を見上げていたが、

 「貸切」

 「そんな話は聞いていません。また勝手なことをして、いけない子」

 「でも……。」

 「めっ」

 咎める美貌をわずかに睨んだ。が、少しおいて「はぁい」と間延びした変事が返る。拗ねたようにそっぽを向く膨れっ面が可愛らしかった。

 輪郭が滲んだ。夜桜の細い体が。

 彼女の右側の床で、トン、と軽い音がし脱衣所の岩肌に澄んだ音色が反響した。

 髪の毛がふわりと揺れ──それっきり、二人とも動かなくなった。

 三つ目少女は、未だ桃色の霞が晴れない思考でひたすら願った。あぁ、いっそ意識を失ってしまいたい。

 ただの入浴のはずだった。確かに、背中の流しっこぐらいは期待していた。ただそれだけなのに、同僚二人は淫欲に体を痙攣させ、さらに今、

 よもや十三王同士の死闘が行われようとは。どちらが勝利したのか──。

 「ふふ……わたくしはあまり美味しくありませんわよ?」

 にこやかに笑った。春の宵に風に舞う可憐な花びらのように。しかし死美杜は夜桜の顔ではなく、彼女の足元の輝きに目を向けていた。ひし形をした金属が立っている。彼女が揺らめいた瞬間に落としたものだ。

 死美杜の催淫の技を受けながらも、ただ足元がよろめいた程度の上、小さな金属を床に打ち付けるだけで何らかの結界を構築した──七鍵皇女、夜桜。鍵を司る少女よ。何の扉を開いた?

 「よく味わってみせますか?」

 何気なく問いかけた素振りの裏に、果たして如何なる真意が含まれていたか。死美杜は床下から目を離さず小さく首を振った。横へ。

 「美味しくないのなら、いらない」

 「それは賢明。お待ちなさい、美味しくないのくだりは否定して下さい人付き合い的に。実際トロピカルですわよ、わたくし。ヘルシー」

 「どっち?」

 「ゴーヤ的な健康成分」

 「やっぱりいらない。それにサクラ、怒ると恐いから」

 「怒ったりなんかしませんわ。叱ることはありますけど」

 「ん。どのみちサクラ相手じゃ本気になれないし」

 「あらあら……本気にさせてほしいのかしら?」

 「面倒だから、いい」

 ふらり、と力なく死美杜が立ち上がった。眠いのか、とても億劫そうだ。単に動くのが面倒というだけではないのかもしれない。

 そのまま、ふらふらと脱衣所の出口へ向い、

 またふらふらと引き返してきた。

 籠からメイド服を回収する。

 小さく鼻を鳴らすと、酔っ払いのような千鳥足で今度こそ出口へ向って行った。同時に、夜桜の背後でドサリと音がした。

 「どちらへ?」

 ただ見守っていた夜桜が、胸の割にはスリムな背中に問いかける。

 ゆらりと足を止め、んー、と唸った。考えているのか、自分が何をしようとしていたのか思い出しているのか。

 微妙に首をかしげ、

 「お腹すいた。ご飯」

 「わたくしは食欲に負けたっていうんですの!?」

 ん、と鼻を鳴らした。同意したらしい。何か一人で納得したように死美杜はそのまま出て行った。

 釈然としないものを感じたが、まぁいいかと振り向く。三人のメイドをこのままにしておくわけにもいかなかった。唯一意識の残っていた三つ目少女も、死美杜が出口へ向った瞬間、緊張の糸が切れたように崩れ落ちていたのだ。

 とりあえず、備え付けのマーサージチェアに寝せてみた。ちなみに電力は謎の無限機関──導きの螺旋階段である。

 『白百合の湯』は、大人数が利用することもあり脱衣所や浴場の規模もさることながら、こうした慰安設備がメイド達によって持ち込まれていた。珈琲牛乳が装填済みの冷暗器、ずらりと並んだヘルスメーター、ぶら下がり健康器具、さらに、いまいち間違った情報が伝わったのか、温泉卓球が脱衣所のすみを占拠していた。ついでに土瓶まであるが、未だ温泉芸者の技を継ぐ者はいなかった。

 「こんなものかしら──さて」

 壁一面が鏡張りの洗面区画へ向う。静かに歩む夜桜の横顔を、鏡が忠実に映し出す。美しい顔立ちには、何の感情も滲んでいなかった。ある一つの鏡の前で足を止めた。

 すぅ、と夜桜が横目で鏡面の自分へ目を向ける。キレのある流し目であった。

 思わず鏡の自分が目を背けた。

 「そこに居ましたか」

 ふぅ、と溜息を吐く。心底呆れたのだ。

 「先ほどから姿を見ないと思ったら、貴女という人は」

 わずかに眉を寄せ、鏡の中で夜桜が夜桜を咎めた。

 「別に、わたくしの体をじっくりと拝見したくて潜んでいたのではありませんわ」

 夜桜が鏡の中の夜桜に弁明してみせた──では実態は何者?

 「お待ち下さいサクラお姉様。それでは私があまりにもアレ過ぎではありませんか。アレですか。死美杜様的みたいな」

 「冗談よ」

 こちら側の夜桜が優しく語りかける。鏡の中の夜桜が顔を赤くした。虚構がもとに戻った瞬間であった。

 「わかってるわ。彼女、やっぱり苦手かしら?」

 「私達にとっては鬼門なんです。良くない方向にもっていかれる感じがして」

 「その感じ方は理解できるわ。妖怪への影響だけじゃ済まなそうね。貴女がいいところで手を打ってくれたおかげで有耶無耶にできたから」

 「あのお方、本当に人間なんでしょうか」

 「私もそうよ」

 「失礼致しました。忘れがちですが十六夜侍女長と同族でらっしゃるのですね。道理というものでしょう」

 「ふふふ、やだ、何よそれ」

 やっと笑った。緊張がほぐれたらしい。何気ない素振りでも、相手は羅殺の姫と呼ばれた娘だったのだ。

 「ごめんなさい、一つ頼まれてくれるかしら」

 「何なりと」

 「あの三人、介抱してあげてちょうだい。と言っても、そのままじゃ打つ手が無いわね。医療部門のノリのいいのが早朝業務から上がってると思うから、そちらへ回してもらえばいいから」

 「はぁ、それはかまいませんけど……このままトドメ刺してすっきりさせてあげた方が親切なのでは?」

 「病み付きになったらかわいそうでしょ?」

 「なりますかね?」

 「看過できないわ」

 「かしこまりました。失礼します」

 一見、鏡に向って独り言を呟く夜桜の姿はとても危ない人風で、なんというかヤンデレ的なアレに見えなくもなかった。が、唐突に一礼をすると今度はそれっきり静かになった。会話の相手──夜桜の姿にとりついた鏡影少女が抜け去ったのである。

 夜桜もそれっきり自分の姿には興味を示さず、脱衣所の籠棚の列へ引き返した。予定通り、風呂に入るつもりだ。

 手早くメイド服と下着を脱ぐ。籠の中に綺麗に畳んだ時には、既に肢体にはバスタオルがきっちりと巻かれていた。

 夜桜は、隙の無いイイ女だったのだ。

 とたとた、と浴場へ向う。途中、「ふん~ふふん♪」と音程のズレたハミングが控え目に流れた。

 夜桜は、隙が無い上に音感も無いイイ女だったのだ。

 曇りガラスの引き戸を開ける。

 乳白色の湯煙が押し寄せ、わずかに目を細めた。

 視線をずっと奥へ向けた。大浴場の名に恥じない岩を削りだした巨大な湯船に人影が見えた。先客が居たのだ。

 脱衣所からの空気の流れに、しらじらとした湯気が左右に引いた。

 夜桜は見た。

 湯につかる黒い甲冑をまとった髭面の男の姿を。しかも、

 頭に手ぬぐいを乗せていた。

 パサ、と思わずタオルが落ちた。

 男のいかめしい眉がぴくりと動く。

 「ほう。見目麗しい」

 「……。」

 しばらく呆然と見詰め合っていたが、そのまま引き戸を閉めた。

 華奢な肩がぷるぷると痙攣するのも束の間、夜桜は勢い良く走り出していた。

 ──出口へ。

 

 

 

 迫り来るものに敏感なお年頃だった。

 紅魔館に点在する数ある通路の中でも、比較的にいい加減な回廊であった。

 いい加減に並べられた彫刻はよく見るまでもなく成人男性サイズの RX-78 と MS-06RⅡ である。両側の壁を列を成して彩る絵画は天野喜孝の版画だ。床もいい加減に赤い絨毯がいい加減に敷き詰められ、天窓から伺うは朝の清涼な輝きにあらず、ポドリムスっぽいぐんにゃりした異次元の風情だった。

 「そういえばポドリムスというと──。」

 紅魔館には珍しい着物メイドの少女が首をかしげる。着物といっても晴れ着ではなく、質素な灰色の生地で柄は一切ない。ただ日出る国の出身らしく美しい黒髪をしていた。着物の上からメイド用の、レースがひらひらしたエプロンを纏っている姿は、見た目だけなら若お上さんその人だ。

 「ドリムノートとデスノートってどちらが強いんでしょうね?」

 知るか。

 間延びした口調の着物メイドに、同僚のノーマルメイド服少女が困ったようにチーフを見た。対応しずらい助けて、とアイコンタクトを送る。送ってから思い出した。ウチらのチーフ、目が潰れてる。

 ノーマルメイド服少女──肩までのセミロング全体にレイヤーを入れ、黒と黄色の鮮やかなメッシュをしていた。活発そうではあるが多少性格のキツそうな琥珀色の瞳がチャーミングである。さらに、その頭から生えるのは髪と同様のメッシュ柄のネコミミだ。メイドは妖虎少女であった。

 「無駄口をきいている暇があったら、手を動かして下さい」

 銀鈴のような声というものがあったら、彼女のことをいうのだろう。胸に静かに染み渡る、瑞々しさに溢れた美声であった。妖虎少女の気配を察してのことかはわからない。目が潰れているとはいえ、本当に見えていないのか怪しいところがチーフにはあった。

 「それに……ほらそこ、砂を零さないで。仕事を増やしてどうするんです」

 台詞こそは咎めているが優しい口調である。いや、驚嘆すべきは着物メイドの裾から零れるわずかな砂すら察知する……レーダー?

 瞳が開いていてさえ気づかない些細なことですらチーフは把握し、あたかも小姑の如き細かさで指摘する。彼女にはどこか別なところにその瞳が備わっているのだろうと、妖虎少女は考えていた。

 しかし、それ以前につくづく人選に問題があるな、と首をかしげる。

 同僚の着物メイドは、砂かけ少女だったのだ。いちいち砂をばら撒く。その度に掃き掃除をし、また砂が零れる。

 「しまらないわね……。」

 「えー? 私、しまりはいい方だっていわれますよ?」

 「どこの話しだ。いいからそっちへ行っててよ。片付かないから」

 「意地悪。私も仕事したい」

 「わかったから砂を撒くな!! だったらザクの動力パイプでも磨いてなさい」

 「おおっ。しかもシャア専用」

 「紅魔館だからね」

 「紅魔館ですな」

 「三倍働け」

 「何気に仕事量が三倍に!?」

 「実際あんたのせいであたしらの仕事量が三倍になってるんだけどね」

 「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」

 「皮、はがないでよ」

 「紅魔館だからね」

 「紅魔館ですな」

 妙な会話の部下を、チーフは穏やかな表情で見守った。立場上注意はするが、度が過ぎて品性を辱めない限り滅多に叱ったり取り乱したりしない少女である。紅魔館の歌姫──十三王、子守唄の月歌。

 振り向いた。

 通路の奥へ、既に瞑れた目を凝らす。何か、忌まわしいものが迫る気配を感じたのだ。気配とはこの場合、酷く凝り固まった意思とも言えるだろう。

 何者かの想いの強さか、視線の先が陽炎のように揺らいだ気がした。そして来た。プレッシャーの正体が。

 「つーっ」

 遠くからこだまする聞き慣れた声は、その危機感とは裏腹にむしろ弾んでいるようだった。

 「きーっ」

 その姿が見えると、月歌は額を押さえた。普通に頭痛が痛かった。

 「かー──」

 回廊の奥から全速力で走ってくるのが全裸の姉ならば、いたしかたあるまい。光りを失っていても、それがわかる自分が少し恨めしかった。

 「ちゃん!!」

 お姉ちゃんどーん。

 胸に飛び込んできやがった。

 「どうしよう月歌ちゃん!! わたくし、汚れてしまいましたわ!!」

 「はい。かねてより汚れ汚れと思ってはおりましたが、まさか姉さんがここまで汚れを演じるとは、この月歌、夢にも思いませんでした」

 「そんな落ち着いてる場合じゃないんだよ月歌ちゃん!! わたくし、わたくし……生まれたままの姿を見られてしまいました!!」

 「はぁ、そう仰られましても……。」

 胸に飛び込んできたのを受け止めた状態のまま、改めて姉の姿を見る。真っ白な裸身は、穢れるどころか神々しくさえあった。この姿を見られたと嘆いているが、問題は、どこからこんな格好で走ってきたのかである。

 「ご安心下さい姉さん。綺麗です」

 「え……?」

 泣きはらした瞳で妹を見上げる。同じ造型の顔が優しく微笑んていた。

 そっと姉の涙をハンカチで拭いてやる。

 「ワタクシはもう両目で姉さんの姿を見ることはできませんが、それでも美しいものを感じる心まで盲目になったつもりはありません。もっと自信を御持ちになって下さい──待って下さい。だからってすっぽんぽんで館中を走り回るのはご勘弁下さい、と言ってるそばからさらけ出したままどこ行こうっていうんですか貴女は」

 「でも、でも……。」

 「姉さんの趣味をどうこう言うつもりはありませんが、せめて、コートぐらいは羽織ることをお勧めします」

 「酷いっ、それじゃまるで変質者みたいじゃない!!」

 「裸のまま館の中を走り回るのは、変質者ではないのですか?」

 「え──。」

 改めて自分の姿を見る。

 我ながら絶妙なプロポーションだった。

 はっ、と気づき、目の前の膨らみに手を添えメイド服越しに確認する。

 「ずるい!! 月歌ちゃんだけまた成長してる!!」

 「姉さんがそうやって気安く揉むからかと思われます」

 「月歌ちゃんもお姉ちゃんを揉んでよ!!」

 「お断りします。ところで本当に焦点はそこでよろしいんですか?」

 「え──。」

  改めて自分の姿を見る。

  我ながら絶妙なプロポーションだった。

  はっ、と気づき、自分の腰周りに手を添える。

 「どうしよう!! ケーキかな!? お食事後のケーキがいけなかったのかな!?」

 「日頃の不摂生を嘆いても仕方がありません。問題はこれからをどう生きるかです。マジどう生きる気なんですか貴女は。いえ、だから落ち着いて下さい。いつものワタクシの姉さんに戻って下さい。そう騒々しくては、皆さんも何事かと見にきてしまいますよ?」

 「え──。」

 改めて周囲をみると、妖虎少女と砂かけ少女が仕事の手を止め呆然と二人──主に夜桜を見ていた。それ以外にも近隣区画で作業中のメイド達が数名、騒ぎを聞きつけやってきては、夜桜の瑞々しい裸身に見惚れていた。

 夜桜はキリッと姿勢を正し、

 「お騒がせしてしまいましたわね。何でもありませんので皆さん、どうかお仕事にお戻り下さいませ」

 取り乱していたのが嘘のように、凛然とした夜桜がそこに居た。素っ裸のままで。

 納得したメイド達が素直に仕事へ戻っていく。これで納得できるのだから紅魔館のメイドは懐が深い。

 「あれ? どうしたの月歌ちゃん?」

 「……『いつものワタクシの姉さん』て一体……。」

 「何があったのかは知らないけれど、落ち込まないで月歌ちゃん。月歌ちゃんが落ち込んでいると、わたくしまでアンニュイになっちゃう。さぁ、お姉ちゃんに話して御覧なさい。ね」

 「無茶を言わないで下さい。そもそも、随分と薄着のように見受けられますが」

 妹の指摘にわずかに首をかしげる。最適な言葉を選んでいるのだ。

 「──クールビズかな?」

 「クービズなら仕方がありません。ところで、そのクールビズとは一体全体どういった施策でしょうか?」

 「難しいわね。あえて一言で説明するなら──露出狂?」

 「無理に一言で説明しなくても結構です」

 ぎゅ、と不意に姉の体を抱きしめる。

 「こんなに冷えてしまって……お可愛そうに」

 「ふふふ、月歌ちゃん、暖かい」

 「それで、今日はどんなくだらない理由でこのたびの狂態に至ったのですか?」

 「ふふふ、月歌ちゃん、容赦がない」

 「そうでもありません」

 ふふふ。

 あはは。

 笑いあう双子の姉妹。

 片方がひきつった笑いだった。

 「あ、そうだ!! そんなことより大変なんだから!! お姉ちゃん汚れちゃったんだよ!!」

 「大丈夫、それはわかっています」

 「月歌ちゃん以外の人に生まれたままの姿を見られちゃったんだよ!?」

 「それもわかっています」

 「お風呂しようと大浴場に行ったら、変な男の人が居て全部見られてしまって……もうお嫁に行けない。月歌ちゃん、もらって!!」

 「──。」

 「月歌ちゃん?」

 「どのようなお方だったのでしょう?」

 「顎髭を生やしたダンディ。黒い甲冑をまとってらしたわ。同じような黒いカチューシャもしてたけど、頭に手ぬぐいを乗せてたからよく見えなかったかしら。何だかブラックセイントみたいで不気味な雰囲気だったわね」

 「スペクターではなく?」

 「あんな重装備じゃなかったと思う。甲冑といってもライトメイル程度ね。メイルだけに気が滅入る。ごめん、お姉ちゃんが悪かったから視線を逸らさないでくれる月歌ちゃん?」

 「その方は浴室で何を?」

 「お湯に浸かってたわ」

 「……確かに、それならヘビーアーマーよりもライトブレストが有利ですね」

 「私の見立てでは、アレは 100 数えるまでは出てくる気がないわね」

 「いえ、そんな情報はどうでもいいです。ですが──。」

 言葉が途切れた。何か思案するかのように、月歌が柳の葉のような眉根を寄せる。

 「月歌ちゃん?」

 妹の気配が急激に変わり、姉は遠慮がちにその表情を覗き込んだ。

 「姉さんは、まずは何よりも最優先で服を着てください」

 「えーっ」

 何故か非難めいた口調である。意味の分からない姉の反応など無視し、月歌は二人のメイドに振り向いた。

 「貴方達二人、ついてらっしゃい」

 いつもと違う口調に気押されながらも、妖虎少女と砂かけ少女は「かしこまりました」と礼をする。

 「ねぇ、月歌ちゃん?」

 「本日、そのようなお客様のご来館は承っておりません。確認し、しかるべき場所へご案内差し上げる必要があるかもしれません。わかりましたか姉さん?」

 「えぇ、わかっているわ」

 姉の声も変わっていた。

 低く、粘りつくような嫌な声だった。

 「わたくしの──乙女の秘密を暴いておいて、ただで返すつもりなど最初からありませんもの」

 結局わかっていない姉だった。

 

 

 

 薄暗い執務室の奥ばった所に──と言っても、単に周囲が書架や山積みにした書籍で埋め尽くされているのだが──埋葬されるように大きな黒檀のデスクがあった。

 かなり使い込まれたらしく、新造時に付けられた装飾は色褪せ、又は破損したまま修復されることなく放置され、何をぶつけたのか無数の深い傷まであった。それでいて暗闇の中で黒い光りを反射するほどよく磨かれていた。デスクは魔女と同じ歳月の歴史を刻みながらも、未だ生気に溢れていた。

 デスクの前に座るのは、無論、ヴワル魔法図書館の司書長である。朝方のオープンカフェが体に堪えたらしく、いつもの自分らしく暗がりに引き篭もったのだ。気分転換のつもりだったが、やはり慣れないことはするものではない。

 デスクの上に、A3サイズ程度の古めかしい紙が二枚敷いてある。所々黄ばみ、破損し、折り目が切り取り線のように刻まれていたが、良く見ればその位置、風合いが二枚とも全く同じであることに気づくだろう。滲んだ染みの場所と濃さも、淵の切れ込みの角度と深さも、この二枚に違いは無かった。相違点があるとすれば根本的な問題──片方が白紙で、片方には地図のような図形が描かれていることだ。

 女神を象った複雑なデザインの燭台の上で輝く灯りが、パチュリーの無表情の顔を無機質に照らす。ふくよかで美しい裸身の女神像だった。薄布をまとい、真っ直ぐに支える錫杖の上で生命の灯りが、清楚に慎ましく揺らめいている。炎の揺らめきがほんの一瞬大きくなり、すぐに戻った。

 呼吸も、心音も一切が途絶したような世界で、不意に背後から皺がれた声がかけられた。

 「紅い館の夢幻書庫。そのお手前、拝見してもよろしいかな?」

 「誰よ、そんな恥ずかしいこと言いふらしてるのは」

 振り返りもせず、パチュリーはデスク脇の筆立てに手を伸ばした。まぁ見ていけ、ということらしい。

 少女の手が、その手に不釣合いな大きさの羽ペンを摘む。羽は七色の輝きを放っていた。変哲の無い水鳥の羽だ。ただし、30 センチはある。バランスを考えると在り得ないサイズだが、少女にはそれは苦にならないらしい。

 インクに浸したペン先が白紙の方の用紙に添えられ──霞んだ。

 どのような魔法の効果か、少女の右手は残像すら見せぬスピードで縦横無尽に用紙の上を滑っていった。一見、何の法則性もない動きに「おぉ」と老人の声が感嘆する。羽ペンが通った跡と思しき位置に、もう一方の用紙に描かれた地図と同じ図形が記されていたのだ。

 感嘆は描くスピードもさることながら、その正確さに捧げられたものだろう。新たに生まれた図形の位置や角度、四隅との対比が全く同じだけならまだしも、まさかその線の太さ濃さまで寸分たがわぬとくれば、脅威と感動をまとめて通り越して畏怖になってもおかしくはない。

 同じ用紙に、同じ図形。ヴワル魔法図書館の場合、これはただの複写ではなかった。

 経年劣化による資料の破損や寿命に対し、彼女は写本ではなく製本という手段を選んだのだ。材質も記述も、さらにはこの図書館に来るまでの破損、劣化もひっくるめて新たに同等の資料を構築する。いわば図書資料のドッペルゲンガーである。

 この調子で次々と原本原紙が誕生するのだ。図書館区画が本で埋めつくされるのも無理は無い。

 背中越しに机の上を覗く気配を感じた。先ほどの感嘆の声とは異質の老人の唸り声を聞いたような気がした。

 地図の内容についてはパチュリーにもわからなかった。幻想郷のものではなく、人間界の『どこか』としか言えなかった。紅魔館にも人間のメイドは居るが、大半が幻想郷生まれのクォーターの上、人間界から来訪した者にもこの地図に示される場所を知る者は居なかった。ありえない地理──かつての人間界には、幻想郷以外にもそのような場所が存在したのだろう。

 「これは──ピリ・レイスの原典がここにあったとは」

 感心したような口調に、少女は少しだけ小首を傾げた。

 「ご存知?」

 「この場所と地図なら。だが実際にこの地を、その姿を目の当たりにした者はいないでしょうな。有史の始まり以来、世界を見てきたという怪物達はいるが、不幸にもそれらが史実を正しく後世に残すとは限らん。それが綻びとなり、決して見ることも知ることもできない大陸図を人の世に落としたとして、誰にその真偽を定められよう」

 老人の声は、どこか疲れているようだった。

 「貴女の持つ地図も拝見したところ何者かが複写したものと思われるが、ここまで完璧に再現されたのは儂も初めて見る。おそらくはオスマン帝国の軍人が模造したそのモトであろうな」

 「見れない大陸、ありもしない大地……別に珍しい話じゃないわ」

 「問題は地図のおおもとでのう。人が初めて極寒の地を意識した時、大地は不幸にも厚い氷原の下に埋もれていた。その前の年、さらにその前の年も──何千という歳月を氷に閉ざされた大陸を、どうしてクロノメーターもろくに持たぬ時代に描くことができよう」

 「過去の遺産ならここの標本にだってるわ。それとも、あちらの人間は写し書きもできいないのかしら?」

 「ならばその現本はどこから来た? コンスタンチノープルで描かれた地図のオリジナルは何者の手によるものか。氷に覆われた凍てつく大地が発見されたのはその300年後じゃが、そこに描かれし世界は今の人の世に概算して6000年も以前のもになる。さらにそのオリジナルでさえ何者かの複写である始末ときた」

 文明どころか人類の起源ですら怪しい時代に描かれた、高度計算の上に成り立つ地図。その一片がヴアル魔法図書館にあった。司書長にとっては、ただそれだけのことだった。

 「呆れるわね」

 「全くじゃ」

 何か高説が続くかなと思っていたら、以外にも冷めた声が返ってきた。妙なジジイだ。

 椅子ごと振り向いた。

 同時に、目の前で光りが斜めに走った。

 声を出す暇も無く、パチュリーの視界が揺らいだ。ゆっくりと世界が横倒しに傾く。視界の隅に老人が写った。禿げた頭に白く長い顎鬚をたくわえ、大陸系の長衣を纏っていた。右手に持つのは先端が瘤状に盛り上がった杖だ。声のイメージ通りの老人だった。

 ごとん、と硬い音がした時、頭を失ったパチュリーの胴体の、首の切断面から祝うように鮮血が溢れた。

 日陰の少女の最期は、あっけなく、ただ彼女に相応しい静かなまどろいとなって訪れたのだ。本と陰湿な臭いとオリエンタル調の香りに、むせ返るような血の芳香が混じる。ああ、パチュリー・ノーレッジ。

 さらば密室少女よ。そして、

 「んもう……ただでさえ貧血なのに」

 こんにちわ。

 緩慢な動作で首なしのパチュリーの体が、足元に転がるパチュリーの頭を拾い上げる。

 よっ、と小さく声を出し、頭を首に乗せ二、三度左右に揺すった。接合しているのだ。ごきごき、という嫌な音が嫌がらせのように薄暗い執務室に響いた。

 顔を上げた。

 燭台の灯りが幽鬼のように青白い顔を照らした──いつもの司書長である。

 「よくぞ私の首を狩ったわ。ご褒美に、要件ぐらいは伺って差し上げましょうか?」

 これでたじろぐくらいなら、最初から紅魔館に押し入ろうなどとは思うまい。老人は程度は予測していたのだろう。目前の結果を気にする風も無く、

 「館の主人との古い約束ごとでな、厄介な契約のもと黄泉路を見事逆走させられてしもうたわ。いいや、儂らがかつて宣言した通り、再びこの館を血で染めて見せようぞ」

 「これ以上赤くしてどうしようっていうのよ。エイス・インジェクション──話はお嬢様から聞いているわ。300 年ぐらい前にたったの8人で紅魔館に押し入り、たった半時で館中の侍女をすべて殺害し、そしてお嬢様の指先のたった一振りで壊滅した貴族の末路。違えてたかしら?」

 「仰せの通り。儂ら8人、誰一人として幼き姫に剣を向けることも出来ず冥府へ落とされもうした。いや弁明はせぬ。気づいた時には血が舞い肉が飛び臓物を巻き散らかしていたのでな。それも玉座に到達することもできず、たまたま通りかかったところ相対し、何かのついでに全滅せしめられたのだ。おお、あの時あの瞬間の出来事が胸の中でトグロを巻いておるわ。おお、その屈辱たるや、無念たるや。8人とも同じ思いであった。素性も本性も違うた8人であったが、あの瞬間だけは一つの強い意思に集約された。故にこのような呪いがたやすく成就できたのじゃろう。かならずやこの恨み晴らさずでおくべきか」

 「死んだ人が帰ってくることぐらい珍しくもなんともないんだけれど、貴方、どうやってここまで来たの?」

 館の周囲は門番長の配下に加え、哨戒・警備用の水晶球が展開していた。大抵の侵入者の察知ならこれだけでも充分である。補足次第、メイドの誰かが対処する手はずだ。さらに、それなりの相手の場合は門番長が自ら背水の陣をする。例え賊がどこから侵入しようと、毎度正面ホールで背水の陣をするのはどうかと思うが、今朝方は美鈴の戦闘による気配が無い。

 さらに、

 館に入るだけならまだしも、ここは日陰の少女の城の、それも最下層だ。ここへ至る道のりは近いようでいて遠い。空間歪曲で歪められた連絡通路も、侵入者向けに仕掛けたスペルカードによる対人地雷も、何よりヴワル魔法図書館専属魔導メイドによるちょっぴりアレな「おもてなし」も、あらゆる防御機構が機能しなかった。即ち、老人は今、この瞬間、この場所で誕生したことになる。

 それもあり得た。

 エイス・インジェクション。又の名を血詰めの魔導八師。その一角であった。館の中に復活を遂げることもあるかもしれない。

 「仲間が幻想郷側への境界の綻びを見つけてな。ちょいと細工をさせたまではよかったが、他の者共とも散り散りになってしもうた。いや、それはよい。何れも一人一流派を名乗る奴らよ。放っておいても館は血に染まろう。主人をその泉へと放り込んでくれよう。もっとも、ようやく揃えた黄泉騎士団一千名を外へ置き去りにされたのは残念ではあるが」

 少女は思った。

 吸血鬼を血の泉に放り込んじゃダメだろ。普通に。

 「でも、そういう話しなら困ったわね。本当のところ、昨夜から星の位置が不穏だったから色々と手配は進めていたのよ。でも、まさか千人もお越しだなんて。もてなしの準備、足りるかしら──門をくぐれたらの話しだけれど」

 「ほっほっほっ、お構いなく。どのみち8人のうち6名は館の中に再生を成し遂げた。うち一人でもご主人の寝所へ向えればよい」

 「乙女の寝顔を覗き見しようだなんて、何て恥知らずなの。この館の住人たちを 300 年前と同じと思わない方がいいわよ」

 「おお、言ってくれおる。如何に強固な防御を築いたかは知らぬが、外に構える連中も何れも劣らぬ一騎当千の輩よ。死霊の王より賜った黄泉騎士団の力知ることなく旅立つことを幸運に思うがよい」

 「300 年前の復讐にしては大仰ね。せめて 1 万と 2 千年ぐらい言っておけばいいのに──目的はあの頃と同じかしら」

 老人の目に奇妙な輝きが灯った。

 「我らの目的を知っているのか? ならばそのありかもまた」

 「知らないわ。そんなことまでお嬢様に伺ってないもの」

 眠そうに瞼を閉じる。本当にただ眠いだけなのかもしれないが、見るものにはそれだけではすまなかったろう。

 病的なまでに青白い顔が、揺らめく灯りに照らされ陰影をはっきりと浮き上がらせた。それは陰気な空間と相まり、普段の彼女に対し誰も抱かない感情を湧き立たせるに充分であった。人種もわからぬよわい 100 を越える少女の白肌が、あんなにも淫靡に白く輝いて見えるとは。

 今の彼女の存在ならば、人の如何なる自尊心も崩壊させ暴虐の塊とせしめただろう。

 この娘を穢してみたい。

 不思議な輝きを放つ長い髪も、血管の浮き出る象牙のような肌も、血の通わない死体のような唇も、震える睫毛も、今にも折れてしまいそうな細い手足、そして薄い可憐な胸。全てを破壊してみたい。人形のように乱雑に扱い悲鳴を上げさせてみたい。あの服を剥いだら、あばらの浮き立つ裸体が現れるだろうか。力ずくでねじ伏せた時、弱弱しく宙をかく手足。絶望に歪んだ美しい顔と無防備にさらけ出した首筋の淫猥さ。あぁ、

 日陰の少女よ。

 瞼を開けた。

 老人の視線はまっすぐに少女を射抜いていた。パチュリーが瞼を閉じる前と同じ位置、姿勢であり、そして瞳の輝きで。

 少女は内心舌打ちをした。先にお宝の話しを振ったのが間違いだった。霧雨魔理沙にすら使ったことのないチャームは、老人の目標到達に対する執念の前にあえなく霧散したのだ。ならば正攻法でいくしかあるまい。

 「もう一つ伺ってもよろしいかしら──何故私を?」

 「紅魔館のブレインの名は遠く冥府の底まで聞き及んでおる。その首、ご主人への手土産にちょうど手頃と思ったまでのこと。他意はない」

 「そう。なら残念だったわね」

 パチュリーが椅子から立ち上がる。同時に老人の右手が上がった。杖の先端が少女に向けられた。空気が振動し、ZUN帽が暗がりに舞った。老人はその先を追うべきだったろう。

 「おおっ」

 呻きとも感嘆ともつかない声を残し、長衣姿が後方へ跳躍した。着地と同時に真上から無数の槍が長衣を貫いた。紅の光りに輝く槍はエネルギーの集合体であった。

 頭上を見た。

 黒と赤のコントラストが、執務室の遠い天井に逆さまにぶら下がっていた。闇色のゴシック調の服にワインの長い髪を垂らす、ヴワル魔法図書館副司書長だ。

 女がにやりと笑った。唇に指を咥える仕草のなんというエロチズムか。その眉が不振なものを見るように歪む。

 背中のコウモリに似た翼を広げ、小悪魔は真下へと一枚の羽のように着地した。老人が居た場所で身を屈め何かを掴むと、パチュリーのもとへ素早く歩み寄る。差し出された手には、人型に切り抜いた白い紙が摘まれていた。

 「身代わりの術──追いますか?」

 小悪魔が放った槍状の弾幕に貫かれた瞬間、老人は執務室を退散していたのである。身代わりはいいとして、如何にこの密室で副司書長の目から逃れたのか。

 「メイド達にもてなさせなさい」

 「ヴワルからお出しになるので?」

 司書長がみすみす逃がしたのだ。最初からトドメを刺す気などなかったのかもしれない。

 「レミィのところまで辿り着ければおなぐさみ。そう近い道のりではないはずよ。それよりも先にお嬢様に伺わなくちゃならいわね。そちらの調べは、空振りだったのよね?」

 「先ほどの会話の内容からヴワル専属の侍女達に総検索をかけさせましたが、該当は皆無です。近似検索も駄目でした」

 「お疲れ様。被害評価の方は?」

 「320 名が昏睡状態です。内、危険な状態が10名。残りは、まぁいつも通りピンピンしてますが」

 次元、時空を丸っと誤魔化し構築された館内に無理やり押し込んだ書籍の検索が、ただの図書ファイルの閲覧で済むはずがない。意識内部に展開、スクロールされる膨大なロールと情報量。加えてそれらを瞬時に解析する魔法がかりな処理判定能力の肥大化。ヴワル魔法図書館の専属スタッフが魔導メイドと呼ばれる由縁だった。

 「そう。やっぱり直接聞かなきゃ駄目か。資料を一切残さなないくらいだもの、話してくれるかしら……。」

 「お二人の友情に賭けるしかありません」

 「図書館側の医療メイド達は参戦させなかったのよね?」

 「待機させました。今はノックダウンした連中の世話にあててますが」

 「結構よ。とりあえず私はお嬢様のところへ行って話を伺ってくるわ。ヴワル専属の稼動可能なメイドは現状維持でいいから」

 「打って出ないのですか?」

 「何処に出て行く気なのよ、貴女は」

 「それは──。」

 ピンと伸ばした人差し指を顎にあて、小悪魔は猫のような瞳を斜め上に向けた。彼女の考える仕草は、いちいちもって扇情的である。

 「色々あると思いますが。先ほどのご老体の追跡や、そうでなくても他に5名も潜入されてますし。それに、外縁に展開中の兵団が正面ゲートに集結しつつあるとの報告を聞きました。門番長配下の部隊に支援が認められると判断しますが」

 「館の師団は他にもいるわ。さっき、もてなさせなさい、て言ったのはそっちのほうよ。咲夜が留守なのは大きいけれど、ま、あっちはあっちで何とかなるでしょうから。それと正面ゲートの話しだけれどね──。」

 「はぁ」

 「美鈴、怒ると恐いから近づかないほうがいいわよ?」

 

 

 

 蒼い紗幕のように霞が視界を埋めていた。

 右も左もない。相変らず人の平行感覚、方向感覚、その他均衡をまとめて犯す空間だった。さらに正面に縦長の長方形に輝く出口らしきものが見えれば、迷い人は自然とそちらへ足を運ぶだろう。

 老人はコツンと床に杖を打ちつけた。音の反響がすぐさま波紋となり、空気が一瞬だけ円を描く。が、すぐに蒼霧の破損を補強するかのように流動は停止した。

 「何と強固な。姿こそは幼子なれど、流石は密室の魔女」

 難しそうに唸ると、老人は再び歩き出した。

 執務室を何とか脱出したはいいが、出た先がこの迷宮であった。

 周りに壁や部屋があるなら手の打ちようもあったが、何も無いのだから施しようがない。やむ負えず老人は堂々巡りのような散策を行っていたのだ。

 歩みを止めた。

 ゆっくりと胸まである白い顎鬚を撫で、

 「そこにおるな」

 右側の霧の壁に言い放つ。変化はない。ならば、と右手を軽く上げ、

 振り下ろした。

 小さな動作の割りに、足元から今までとは違う甲高い音が響いた。問題はその波紋である。

 「448個目。ようやっと完成した。そこに居るのなら見ているがいい」

 今度こそ、振動が産んだ波紋が波のように広がった。つられて、蒼い霧がたわなんだ。やがて波紋は渦となり大気を流動させた。紅白の巫女が見れば、博麗神社を飲み込んだ現象と似ていることに気づいただろう。

 場所は紅魔館だ。館の中に立ち込める霧がただの薄幕であるはずがない。だが、それらは次第に老人を中心に、円を描くように退き下がっていくではないか。

 瞬間、

 老人の耳元で風が鳴り、霧の幕を割って浅黒い巨大な腕が突き出された。

 遅れて空気を叩いた圧力が彼の顔に浴びせられた。突き出された筋肉の塊のような腕が老人の体を無造作に掴む。あとは握力にまかせて握り潰すだけで完了だ。

 槍のような鋭い爪を備えた五指が開き、老人は難なく床に着地した。

 彼の周囲に渦巻く大気の螺旋を見た者はいない。それが筋肉と破壊的なまでの握力に支えられた拳を開かせたと知るものもまた。

 「相手をしてやろう。もったいぶらずに姿を見せるがよい」

 張りのある老人の声に呼応するかのように、蒼い霞が左右に割れる。現れたのは巨影だった。

 浅黒い肌に山のように盛り上がった筋肉が、今にも内側からはちきれそうだ。髪を振り乱し、暗がりにぼやけた顔の中で、黄色い輝きが爛と輝いていた。赤鬼である。

 老人の目が見開いた。

 長衣を真正面から暴風が叩いた。

 初動すら見せない渾身の突きは、夜来香の講義のたまものであったろうか、或いは彼がもとから秘めた力だったものか。朝の一撃より凄まじい破壊力が老人に向けて放たれた。

 ぴたりと止まった。拳が空中で。その先端と老人がかかげた杖の先端が絶妙なバランスで繋がっていた。

 数秒、静寂が霞みに染まりつつある空間を支配し、次の瞬間、

 赤鬼の拳が、いや右腕そのものが破裂したように吹き飛んだ。

 一度は 100 年を生きる魔女の首を狩った老人である。鬼の片腕を奪うぐらいは造作もないのだろう。

 その老人の体が、横風に叩かれたように飛んだ。

 間際に放った赤鬼の手刀である。無事な左手を渾身の限り振りかぶったのだ。実際のサイズからすれば刀というより戦斧であった。赤鬼が膝を崩した時には、老人の姿は散り散りになった蒼い霞の中に消えていた。ホームランである。

 巨影が床に沈んだ。

 本から抜け出た存在に生命が宿るなら、平等に死も訪れるだろう。

 その左胸──ちょうど心臓の位置に開いた小さな点は、老人が持っていた杖の先端と同じ大きさに見えた。

 

 

 

 「まーりー──。」

 眼下の深い森からの声に目を向けると、

 凄い勢いでバカが突っ込んできた。

 「さッ!!」

 かわす暇もなく激突する。といっても、バカが一方的に霧雨魔理沙の愛機──箒の先端に頭を打ちつけたのだが。それでもバランスを崩した白黒は、鍔広の魔女帽子を押さえ姿勢維持に努めるべく箒にしがみ付いた。黄金色に輝く波の様な髪の中で、一部だけ結ったおさげが振り子のように激しく揺れた。

 「ちっ、朝から激しいラブ・アタックだぜ。そういや昔、突撃ラブハートて歌があったな」

 粗雑な言葉使いに似合わない繊細な顔が苦笑いする。

 フリルとレースをあしらったエプロンドレスこそ少女趣味だが、割と大らかな性格をしていた。

 「い、痛いッ! 頭が割れるように痛いよッ!! 割れてる? ねぇ割れてる?」

 「かすった程度だ。点稼いだな」

 自嘲気味とも、ニヒルともとれる笑みだった。女たらしの笑顔だということを本人が自覚していないのが致命的である。

 「嘘ッ!! 直撃したよ今!!」

 「私の箒に直撃して頭が割れた程度ですむんだ。誇りに持つといいぜ」

 「うー、嬉しくないよぉ」

 涙をぼろぼろ零しながら頭を押さえた。氷精少女の流す雫は、大気に触れ儚い結晶となって湖畔の森へと降り注いだ。

 空中で氷柱のような翼をせわしなく羽ばたかせる氷精は、天真爛漫な性格のくせに、ガラス細工のように繊細な髪と細い手足をしていた。ノースリーブな薄水色のワンピースがちっとも色っぽくないどころか、むしろ健康的な魅力を感じさせるチルノであった。

 「息災そうでなによりだ。じゃ無事なら私は行くぜ。ちと急ぎなんだ」

 「無事じゃない!!」

 「無事だろ?」

 「……無事なのかな?」

 「……やっぱ無事じゃないな」

 「本当!?」

 「打ち所が悪かったか。可愛そうに」

 「失礼ね!! 生まれつきよ!!」

 「……そうか」

 なんとなくいたたまれなくなった。

 「そんなことより魔理沙!! 大変なんだから!!」

 「こっちも大変だぜ? つか、おまえのそれは『そんなこと』で片付けていい問題なのか?」

 「いいのよ!! いやダメか?」

 むむ、と腕組をするチルノは、案外大物なのかもしれない。

 「で、用があるなら簡単、簡潔ちょっぴり簡易的に頼むぜ」

 「難しそうね」

 「打ち勝て」

 「!?」

 「困難に打ち勝ってみせろ」

 「う、うん頑張る──大変なんだから魔理沙!!」

 「そこから始まるのか……。」

 「落ち着いてる場合じゃないよ!! 妖精の仲間が沢山食べられちゃったんだから!!」

 「そいつは食いすぎだぜ。腹八分とか村八分とか八墓村とかそういうレベルじゃないな」

 「うん、そういうレベルじゃない」

 「おまえ食いすぎだぜ?」

 「あたいが食べたんじゃないよ!! 何だか知らないけど、大きな男が来て皆を食べちゃったんだから!! ちゃんと逃げた仲間もいるけど、もうこの湖はアレよ、えぇとアレだ、大変なんだから魔理沙!!」

 手足をばたばたさせる氷精に、魔理沙の瞳の輝きが変わる。普段からおどけた表情の裏に餓えた野党の眼光を湛えたような娘だが、ヴワル魔法図書館の司書長や七色の人形使いに言わせれば、その手癖は餓えた野党そのものであるらしい。そう指摘されると本人は「餓えすぎだ。潤いが欲しいぜ」と意味深な発言を意味も無く発し、司書長や人形使いを赤面させるのであった。つくづく複雑な関係である。

 「詳しく話してみな」

 「さっき簡単、簡潔ちょっぴり歓喜天に話せって言ったくせに!!」

 「大聖歓喜自在天なんぞに用は無いぜ。どこでそんな言葉覚えてくるんだよ」

 「霊夢に教えてもらった。おん きりく ぎゃくうん そわか」

 「……あいつんち、神道系じゃなかったのか」

 「新党?」

 「いいから黙れ──で、そいつはどうした?」

 「黙れとか話せとか、もうあたい、どうしたらいいんだか……!!」

 「待て、お前はもっと別の所で途方に暮れろ主に頭の問題とか。いや、それはいいんだが、その大きな男っての、結局何なんだ?」

 「あたいが知るわけないじゃないのさ!!」

 「何処に行けば会える?」

 「会うの?」

 「木陰からそっと見守る」

 「やっつけてよ!!」

 「多分すぐには無理だ。ガイド料はツケにしといてくれ」

 チルノの返事を待たず、魔理沙は氷精のか細い腰に右腕を巻くと箒をスタートさせた。急激なGに不意をつかれたチルノが魔理沙の胸でグェと鳴いた。本来なら間近に迫る魔術少女の美貌に頬を赤らめてもいいようなものだが、何とも色気のないことである。

 魔理沙は箒の先端──進路を湖を囲む森の外円へ向けた。

 妖精の集落は大体想像がつく。他の妖精とは滅多に出くわさないのだが、このチルノだけは無駄にエンカウント率が高い。出没地点の統計から行動範囲を割り出せば、おおかたこのバカのことだ。その中心部が集落と睨んで間違いない。

 湖のほとり。即ち逆方向。

 「そっちじゃない!! どこ行く気なの魔理沙!! あたい攫われる!? このまま攫われる!!」

 「こら暴れるな。もし暴れるっていうなら、私がもっと暴れるぞ」

 「今は凍らせることしかできないけれど、きっと泥棒になれるよう覚えます!!」

 「誰だよおまえ」

 「キャッツアイ」

 「マジか!?」

 「フルネームはクレイジー・キャッツアイ」

 「そろそろ静かにしてくれ」

 魔理沙の声色に感じるものがあったのか、チルノは素直に口をつぐんだ。やがて森の外縁から中心部──霧の湖へ低空コースで迫ると知れば、その意図も理解できただろう。

 先を急ぐと言いつつも、遠回りしてまで相手に察知されることを避けたのだ。この大胆と傍若の文字が服を着て歩くような少女がだ。

 男については魔理沙にも心当たりが無かった。ただ、博麗神社の方角で異変が起きていることは感じていた。朝っぱらからごっそり神社──というよりその土地が持つ気配が消失したのだ。霊夢が何かドジを踏んだにしろ、ただ事ではあるまい。それで心配して陣中見舞いに出向くほど白黒の魔術師はできた人格でもなく、ただ決定的瞬間を見物しに道を急いでいたのである。そこにチルノが来た。ならばと、もって生まれた騒動屋の血が騒がないはずがない。

 森に突入しても箒のスピードは落ちなかった。

 迫り来る木々をかわしながら、柄を駆る魔理沙に危なげは無く、彼女の腕の中で女の子座りするチルノも障害物を恐れず正面を見据えていた。人並みはずれた動体視力と度胸は普段の弾幕ごっこの賜物である。

 次々と深緑と苔むした枝や幹が過ぎて行く中で、魔理沙の視界の脇を黒々とした大きな影が過ぎった。

 それが巨体ではあるが人間の男だと知ったのは、通り過ぎてからのことである。

 細い枝が折れずに巨漢を支えていたことから、体重、乃至は重力を操作する何らかのカラクリを持っているのだろう。日出る国には、水面を疾走する影の武装集団──ニンジャなる者が存在すると読んだことがある。恐らくはその類か。

 「見守るつもりが見守られていたのは私でした」

 「あたいは見世物じゃない。高いよ」

 「どっちだよ── 一旦まくるぜ」

 速度を上げた。木々が迫ってはかわし迫ってはかわしの、一歩間違えれば即自滅の飛行だった。チルノがギュと魔理沙のエプロンドレスを掴む。悲鳴を上げないのは流石お転婆恋娘である。

 深い茂みを木の葉を撒き散らせ抜けた時、 唐突に前方の地面が盛り上がった。

 急制動──間に合わない。とっさに箒の先端を上向きにし、

 「私に体重をかけな」

 「んっ」

 腕の中のチルノが体を預けてきた。小柄で痩せっぽちな氷精の体重は大して足しにならなかった。

 箒自信を持ち上げるように踏ん張る。コブラのつもりだ。

 盛り上がった地面──泥が、粘解質な生物のように表面を蠢かせ姿を変えていった。大きな平面が出来上がると、そこから上に向って太い柱が次々と生まれる。5本の柱は、全て異なる長さだった。

 やがて全貌が見えてきた。節くれだった柱は五指であり、泥の塊は巨大な手のひらであった。

 箒の先を地面に擦りつけ、かつ正面からの空気抵抗を最大に受けつつ、二人は辛うじて泥の手のひらの前で停止した。

 「やれやれだぜ」と息を吐くと、

 魔理沙の顔に影が落ちた。

 手のひらが二人を包もうと閉じ始めたのだ。

 魔術師の可憐な足が目の前の壁──泥の手首を蹴り箒をバックさせた瞬間、一気に握り込まれた。黒白と薄水色の影が、土砂に埋もれるように拳の中に消える。

 更に拳は蠢いた。無数の筋を浮かべる姿は、補足した食料を租借する不気味な生物の臓物を思わせた。

 不意に動きが止まった。血管が張り巡らされたような表面が白く滲んでいく。氷化による霞みだ。

 やがて静寂が落ち、木の枝をぬって差し込む煌きだけが深緑の森に漂った。全ては夢だったかのように。

 変化は、拳の先端から真上伸びる一条の細い線から始まった。光りだ。微小に絞り込まれた何らかのスペルカードだが、その先端を中心に氷塊した泥拳はかさぶたを剥がすようにみるみる崩れていった。

 全ての泥が地面に虚しく落ちた。中から現れたのは無論、

 「二人の始めての共同作業にしては色気が無いぜ」

 右手の人差し指を頭上に掲げた魔理沙と、正面に両手を広げたチルノである。

 「タレイア!! あたいを不意打ちしてどうするのさ!!」

 少女のかん高い声が深緑に閉ざされた森に響く。

 わずかに差し込んだ木漏れ日が、苔むした地面を照らした。気胞から放たれ充満する水分がその光りを受け輝く。そして、

 草木がさえずった。

 さえずりは次第に反響し合い、やがて怪奇な植物に埋もれた地面に波紋の影を落とした。

 蠢いていた。

 光りを巻き込むよう円形状に渦巻くと、その中心がホイップクリームのように盛り上がる。さらにその先端から生まれいずるは、ダークブロンドの頭部だ。大人びた女の顔だ。褐色に輝く上半身だ。豊満に弾む胸。それでいて引き締まったウエスト、弾力のあるヒップ── あぁ、一糸すらまとわぬわがままエロボディではないか。

 閉じられた瞼が、気だるげにゆっくりと開いた。

 濡れた瞳が二人を映す。

 「ああ、誰かと思えば──誰?」

 ウェーブのかかった髪で半顔を覆った女が、キョトンと小首を傾げる。

 「寝ぼけるなバカ!!」

 「馬鹿にバカ言われるんだ。同情するぜ」

 「うるさいわねマリマリ!! 同情するなら点をくれ!!」

 「奇妙な呼び名で呼ぶな。つか私のことか? それ私のことなのか?」

 「あんたのことにきまってるじゃない、マリマr──キリマリ!!」

 「うわ、言い直しやがたよ……。」

 「……あんた達、何しに来たのよ」

 褐色の女が腕組をする。ぶるん、とたわなんだ。

 おおスゲー、と魔理沙は内心唸り、

 「家捜しに」「ボスキャラ攻略」

 同時に応えられ、地霊少女は小首を傾げた。さっきから傾げてばかりだが、そういう女のなのだろう。

 しばし思案するように目をパチクリさせると、

 「ふふふ……よくぞここまで辿り着いた」

 「あんたボスキャラかよ」

 「タレイアはせめて中ボスくらいよ」

 「失礼ね、チルノこそ中ボスやってたじゃない。あら、誰かと思えばチルノじゃない」

 「誰だと思ってたのよ?」

 「ベンジャミン伊藤」

 「誰のことだろ?」

 「私に聞かれてもリアクションに困るぜ。つか妖精ってのはみんなこうなのか?」

 「格調高いヨーロピアンなアレな感じ。どんな感じ?」

 「だから何でもかんでも私に聞くな。間違えた。私が聞く。何でもかんでも私が聞く」

 「どんと来い」

 二人の妖精が同時に自分の胸を叩いた。片方だけがぶるるんと揺れ、魔理沙が再びスゲーともらした。

 「で、何だって私を襲ったりしたんだ?」

 「貴方達こそ、せっかくの罠にどうして飛び込んだりしてるのよ?」

 「私、今非難されてる?」

 「一難去ってまた非難だね、魔理沙」

 「さっきまでの奇妙な呼び名はどうした?」

 「え──リサリサ!!」

 「いや語尾二文字だけ連呼されても。つか、既に誰のことかわかんないから」

 「だったらマリサマリサ!!」

 「できれば普通で頼むぜ。もはや主旨がわからんというか、何かの呪いみたいだ」

 「どんと来い」

 チルノが力強く胸を叩いた。

 多分、ダメだろう。

 「貴方達、えぇと──マリリンマンソンさん、だったかしら? 今この森で何が起きてるのか気づいているんでしょうね?」

 「ああ、わかるぜ。私に奇天烈な呼び名が付けられつつある」

 「貴女のことはどうでもいいのよ。人間の魔法使いさん」

 半顔の美女が微妙に笑う。この人達をどうしようかと、リアクションに困っているようだ。

 「今この森ではね、合成獣によるポン引きが猛威を振るっているところなのよ。貴方達もぼんやりしてたら湖の向こうの女郎に売り飛ばされちゃうんだから」

 湖の向こうにはちょうど紅魔館があった。

 「いや違うって。あんたの巻き込まれてる事件、全然関係ない事件だよそれ」

 「タレイアはあたいらと違った次元で生きているから」

 「もう一度聞く。お前の仲間ってのはみんなこうなのか?」

 「ほとんどが食べられちゃったけどね」

 「そりゃそうだろうよ」

 「あら? そういえば他の子たちを見かけなくなったけど、みんなあそこのに連れて行かれたのかしら?」

 「食べられたんだよ!! タレイアこそよく無事だったわね」

 「うふふ、それは私がお姉ちゃんだからかしら?」

 よくわからん。

 「まぁ、何だ。無事ならさっさと捲くることを薦めるぜ。奴さんの正体が知れんうちに、これ以上栄養補給されてもかなわん」

 「そうさせてもらうわ。せっかくのトラップも台無しになったことだし」

 再び女の足元がクリームのように滑らかに渦巻いた。

 その足首まで沈んで、

 「じゃあ、あたしは行くけど、チルノ、貴女も早く逃げるといいわ」

 しゅ、と一瞬で地面にダイブした。

 オイルを塗ったような艶かしい体が波紋を広げると、後には苔むした深緑の絨毯だけが残った。奇怪な羊歯植物と人面草に覆われた大地は、地霊にとってはみなも同然なのだろう。

 「タレイア。一つだけ訂正しておくわ──あたいの辞書に逃げるとかそういう字は無い!!」

 「随分真っ白そうな辞書だぜ──あー、悪かった、悪かったから氷を飛ばすな」

 氷精とじゃれ合っていると背後の梢が微かに鳴った。

 瞬時に振り向き右手を構える。内心舌打ちをした。

 「動かないで下さい」

 先手を取られたのだ。

 「無駄な抵抗はやめて下さい。貴女は完全に包囲されています。私が包囲しています。アレ? 私だけ?」

 また新たなバカの登場であった。人生、舌打ちもしたくなる。

 魔理沙は右手を向けたまま、左の人差し指で帽子の鍔を軽く上げた。

 「チッ、チッ、チッ。あんたの包囲は世界じゃ二番目だ」

 やけっぱちになっていた。

 だが、

 「え? 本当ですか!? 嬉しい!!」

 「……。」

 うわー、と内心漏らした。本気で喜んでいるのがわかる。向かい合っているのが恥ずかしくなるような笑顔だった。

 「ま、まぁいい。あんた二番目ってことで。それより、私にスペルカードを突きつけてただで済むとは思わないことだ」

 「思いは通じるんですよ?」

 「いや、そうかも知れないが違うかも知れない」

 「複雑ですね」

 「まったくだ──続けよう。墓標には何と刻んでほしい?」

 「ただ一言。焼肉定食」

 「マジかよ……。」

 「あ、待って下さいっ! え~とぉ……たまには中華もいいかな。あ、知ってます? 当館の門番長様の作るラーメン、すごく美味しいんですよ」

 黒髪おかっぱのメイドが髪を弾ませる。墓標というより既に飯屋のお品書きになっていた。

 やれやれといった具合で、今度こそ魔理沙は右手を下ろした。知った顔のメイドだった。確か名前は──焼き肉鵺? そんな感じな名前の。

 「あいつ、料理なんかできるのか?」

 「そりゃもう。手打ち麺だそうです。原料は、えぇと──ブロッケンマン?」

 「待て待て。毒霧吐くようなヤツを食材にするなよ」

 「本当、門番長様ってうっかりものですよね」

 「食べてるおまえも相当なうっかりさんだと思うが。だいたい何だってこんな所で私を闇討ちしてるんだ? うっかりか?」

 「そんなうっかりで闇討ちしたりしませんよ。やるならちゃんと計画を練ってからじゃなきゃ。いえ、失礼いたしました、そもそも闇討ちなんていたしておりませんので」

 にこやかに語るメイドだが、何か微妙に黒いのが見え隠れした。

 「にしてもポン引きとは、何やらされてんだか」

 「人聞きの悪いこと言わないで下さい。今日の私はスカウトする人なんですよ」

 「スカウトする人ねぇ……スカウター?」

 「そう! それ!!」

 「それじゃねーよ。おまえさんとこのアレはアレか? 球団でも作り始めたのか?」

 「アストロとかっていうアレですか? そのような話は伺っておりませんが」

 どの「アレ」なのかだんだん分からなくなってきた。

 「明日の紅魔館侍女師団を担う有望な人材の発掘、ていうのが私の任務なんですが──え? これってポン引きですか? ですよね!?」

 「ど、どうだろな……。」

 胸を張ってたかと思うと突然打ちひしがれる鵺に、魔理沙は返答に窮した。

 以前より苦手な娘であった。常にというわけではないが、たまに妙な悲壮感を漂わせる。真性のMなのかもしれない。

 「今まで急募なんてやってるの見たことなかったが、おまえさんとこの人事、割りと手勢に貧窮してたのか?」

 「いえ、大隊の方は現状でも問題なく稼動してますし、ご奉公にも人材不足による障害は発生していませんが……。品質面でも十六夜侍女長があんな感じですから、恐れながら世界水準を上回っていると自負しております。あ、この前ISOの認可おりたんですよ?」

 「どこの世界標準だよ……。だとすると、やっぱまたおまえんとこのアレがナニしはじめたのか」

 「アレとか言わないで下さい。確かに、今回の従業員勧誘に関してはお嬢様方から急遽発令を承りましたけど。それだって私達の思慮及ばぬお考えがあってのことです」

 その「お考え」が問題なんだろうと魔理沙は思ったが、口にはしなかった。

 運命を操れる程度の能力を持つ夜の王が、近い未来を視ることもあるだろう。ならば、彼女のやっていることは──。

 「まぁ、一人で大変だろうが頑張ってくれ」

 「先程から一緒に来た部下達の姿が見えません。私、置いてけぼりにされました……。」

 「そういやおまえさんも幹部補佐だったよな。何匹と何名で来てたんだ?」

 「妖怪だけですが4人連れてきました。もし見かけましたら彼女らにお伝え頂けませんか。──私、くじけそう」

 そんな事を伝えて部下にどうしろというのだ? 加えて、状況から見て妖精喰らいに食われた可能性が高い。彼女らの任務は主人の思惑から鑑みて逆効果である。

 苦笑いしながら魔理沙が適当に流すと、俯きかけた幼い顔が跳ね上がった。

 おかっぱを振り乱し周囲を見渡すと、「失礼」と小さく呟き跪く。そのまま顔の側面を苔むした地面に押し当てた。

 何かを探るように難しい顔をし、

 「まだ遠くへは行っていない──追います!!」

 「何者なんだよおめーはよ!!」

 「では私は先を急ぎますので、皆様、ごきげんよう。とう!」

 スカートを慎ましく掴み上げると、メイドは慌しく茂みの中へと駆けて行った。飛ばずに追うのは、彼女なりに何か理由があるのかもしれない。

 結局何だったのかよくわからなかった。

 鵺の姿が見えなくなると、魔理沙は箒の柄を撫でた。調子を見ているのだ。

 「バカに襲われ地霊に襲われ、そしてメイドか。次あたりはこっちが強襲する番になりたいぜ」

 振り向くとチルノが大木の幹の影で震えていた。前話で鵺に食べられかけた記憶が蘇ったのである。つくづく食べられやすい娘だ。

 しょうがない奴め、とチルノを強引に木陰から連れ出し箒に跨がせる。彼女を背後から抱きしめるように自分も乗ると、魔理沙は箒をスタートさせた。

 風を正面から受け、氷精の少女は目をパチクリさせた。むぅ、と小さく唸り、

 「タレイア、追いつかれたみたいだね」

 「ご愁傷さまなこった。わかるのか?」

 「今、すれ違った子が教えてくれた。これから北の渓谷に移るんだって」

 「情報通なら二、三聞きたいことがある。交渉はできるか?」

 「もう行っちゃった」

 「気の短い奴だな」

 「タジャーナは風の子だからね」

 「なら仕方が無い」

 魔理沙には風霊の姿が見えなかったのだ。妖精の棲む森だ。目に映るものが全てでないのも道理だろう。

 箒の速度を上げた。 

 木漏れ日の角度から見て、このまま直進コースととれば湖へ出る。さてどうしたものかと、帽子を目深に被りなおし、

 「つかぬことを聞くが──どこ目指しゃいいんだ?」

 「あたい達の集落だってば!!」

 「奴さんの方から来てくれてるんだぜ?」

 「出張サービスは高いんだよ!? デリバリーなんだよ? テリーとか伊藤とかそんな感じの」

 もはやどんな感じなのかすらわからなかった。しかし、まぁ落ち着けとチルノの頭に手を乗せると、うにゅう、と鳴くから可愛らしい。バカな子ほど可愛いとかいう以前に、バカにも程があるなと思った。

 その頭上を影がパスする。

 魔理沙の腕が振られ、小さな光点が三つ追った。光は見ようによっては星の姿をしていた。通常弾である。星はパラパラと虚しく木々の枝葉に飲み込まれていった。もとから直撃コースでは無かったが、影の身軽さと自機の速度、そして障害物からして狙って当てられるものではない。

 「ヘタクソ!」

 「当たるも八卦、当たらぬも八卦」

 「それでどうするのよ?」

 「んー、隠れるにはよさげなんだが、私のモットーはサーチ&デストロイ&小休止なので、ここへ入ったのは仇になったといか、まぁそういう訳だ」

 「魔理沙、凍らせれば当てられる?」

 「夜店の射的は得意だぜ。むしろ専門分野? 聞いて驚け、七面鳥撃ちのコメットさんたぁ私のことだ」

 「ゲゲッ!? ……誰よそれ?」

 「人里の祭りに度々出没する謎の美少女。この前の夏祭りあたりから伝説が生まれた」

 「ふーん。正体は誰なんだろうね」

 「すぐにわかるさ──冷凍光線の準備はどうだろう?」

 「わ! その響き、なんかカッコイイ!!」

 「上がるぜ」

 機首を上げ一気に森の頭上に出た。黒い怪鳥が舞い上がったように見えただろう。

 「奴さんは?」

 「ん!」

 チルノが顎をしゃくる。広葉樹の枝に巨漢の影が見えた。こちらに気づいていない。

 「このままいってくれ」

 念のため太陽を背にした。あとは敵の残機が一機だけなことを祈るだけだ。

 氷精の少女の細い腕が正面に据えられ、氷の結晶を象った魔法陣が展開される。

 「よーし、くらえ──外道照身冷凍光線ッ!!」

 言葉の通り光線が出た。レーザー系の弾幕らしい。

 「名前変わってるし。つかどんなスペルカードだよ」

 「ウウ~、バレたか~」

 「何でおまえが前世魔人なんだよ」

 「そんなことより、ほらコメットさん、出番だよ!!」

 「正体は秘密にしておいてくれると助かるぜ。マスター──」

 チルノの冷凍光線(仮名)の先を視線で追った。大木が一本凍りづけになっているのが見える。「あちゃー」と内心呟いた瞬間、魔理沙はチルノを蹴り落としていた。

 「わ、わ、何すんのさ!!」

 とっさに自前の氷の羽で帯空したチルノの顔に影が落ちた。少女の瞳に在り得ないものが写る。魔理沙の背後から、太陽を遮って迫る巨漢の姿であった。

 「──スパーク!!」

 魔理沙の箒がアクロバットのように反転した。

 氷の少女は、美しいブロンドがなびく背中越しに虹色の輝きを見た。遥か天空へとのぼる七色の魔法砲撃は、霧雨邸現当主必殺の一撃の証しだ。砲撃の余波が星の輝きとなって辺りに散りばめられる。その一つ一つにすら破壊力が秘められているとすれば、エネルギーが集約された火線中央の威力はどれほどのものであったろう。

 魔理沙の両肩から大きな手が生えた。手はがっしりと白黒の肩を掴んだ。

 「え──。」

 何が起きているのか思考が追いつかず、チルノは表情を凍りつかせた。氷精だけに。

 ただ閃光が消えた時、魔術師の背中越しに黒焦げになった巨漢の顔を認め少女は愛らしい顔を恐怖と絶望に引きつらせた。

 皮膚どころか肉そのものが焼け爛れた顔の中で、眼光だけが黄色く輝いていた。

 魔理沙にぐっと迫った。瞳の下で赤い口腔がくぱぁと上下に開いた。

 声にならない悲鳴が、湖の畔の空に響く。あぁ、絶叫。

 マスタースパークを凌いでよほど空腹だったのだろう。

 霧雨魔理沙が完食されるのに1分とかからなかった。

 

 

 

……つづく

 

 

 

 

 

あとがき

 その頃、十六夜侍女長は──。

 「A型を30パック、B型を50パックいただけるかしら。それとO型とAB型を適当にみつくろってちょうだい」

 「……。」

 血液センターでショッピングを満喫していた。

 

 

 

 

 

お久しぶり&始めまして。九曜です。

今回はメイドが多すぎて個々の表現や描写が前話と較べ薄くなっていると思います。
それでも話し自体は長ったらしいですが。
疲れない程度に読んで頂ければ幸いです。

では、また次作で。ばいばい。(2008/02/17)
-----------
(2008/02/18)
・ご指摘、大変ありがとう御座います。誤字を修正しました。
・前話、覚えていて下さった方、ありがとう御座います。次話の投稿はまだ未定です。
 予告としては、
    美鈴大ハッスル
    メイド総力戦
    恋の行方は地獄流し
 の三本です。それではまた。ジャーンケーンポン
九曜
http://www.juno.dti.ne.jp/~yuki-05x/
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コメント



0.460簡易評価
1.100三文字削除
ここで続きますか・・・・・・もうっいけず!
それにしても、前作から変わらずにぎりぎりな描写をなさりますな。しかも、カオス。そしてエロス。
背徳とか薄暗さとか、色々と凄いです。
そして次回に期待。
2.100名前が無い程度の能力削除
続きもの!?うぁ…待ちきれぬ。
突っ込みどころ多すぎるし腹筋崩壊させるつもりですかw
まさか三年経った今「妹」の続編が読めるとは。喜びでおかしくなりそう。
次作も期待しています。
3.無評価名前が無い程度の能力削除
まさか続編が来るとは。前作と変わらずの桃色カオス空間、堪能させてもらいました。やたら長いのも相変わらずwww それもこの作品の味だなぁと思いますが。次回作、また間が空くのかもしれませんが楽しみに待ってます。

気が付いた誤字脱字をいくつか、
快方→介抱   間に受ける→真に受ける
なにのそれが→なのにそれが   よほいど→よほど
アッタク→アタック   懸命→賢明
4.80名前が無い程度の能力削除
↓点数入れ忘れでした。すいません。
6.100ルドルフとトラ猫削除
なんなのでしょう、この桃色メイドたち
ドキがムネムネしてしまいますわ

でもいちばんキュンとしたのは象のおっさんでした
7.無評価名前が無い程度の能力削除
>咲夜「私の普段って何なのよ……。」(トス)
下にある(パッ)みたいに改行した方がいいかな~と
ところで、(パッ)って何をしたのかな?
かなり凄いことが起こったけど
8.90名前が無い程度の能力削除
アリスが、アリスがいい味出してると思う!
10.100名前が無い程度の能力削除
霊夢とアリスのコントに吹いた。
16.100名前が無い程度の能力削除
相変わらず美しく‥‥そして痴態小説ですね!!

見目麗しい少女達がお互いの露出した受動性を擦りつけ逢う……素敵すぎますよ…。
四六時中リビドー全開で脳内麻薬も体液もダダ漏れの幸せ症候群…生きるはキモチいいこと。平和って尊いものですね。
19.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしいテンポ感で楽しく読めました。
コントの中、そこはかとなく漂うレイアリの匂いがかなりツボった。
続き楽しみにしてます!
21.100名前が無い程度の能力削除
アリスの天然ボケと霊夢のツッコミが最高に面白かったw
あと咲夜のキャラが素晴らしい!
次回wktkしながら待ってますんで!