※非原作キャラクタが登場致します。ご注意ください。
▼前回までの粗筋
或る麗らかなる霧の日、紅魔館に一匹の仔犬が現れた。彼の仔犬は表仕事をして居た紅美鈴の目に留まり、飼わるる事と相成った。何処と無く、十六夜咲夜と似通う気配を窺わする故、「さくやわん」と名付けられたので在った(第一話「氣に操られた程度のSS」作品集44所収)。
其の後、さくやわんはヴワル魔法図書館に闖入したるゴキブリ(ルビ:魔理沙)の撃退(第二話「図書館で踏み迷う程度のSS」作品集44所収)、起きてむずかって居られた館の二の当主フランドォル・スカァレットを再び寝かし付ける(第三話「子供部屋で紅い霧に囚われる程度のSS」作品集45所収)、等々の諸事に於いて独自なる活躍(?)を成し、まずまず、館の住人として馴染みつつ在るので在った ──
* *
「ら~~ たらりらりらたらりらりら」
或る麗らかなる雨の日。精妙瀟洒、艶なる薄絹をば織り成す雨の銀幕の中から、微妙珍妙要修行たる歌声が響いて居た。
「たらりらりらたらりらりら たらりらりらりらりらりら たんったらたたらりらりら たんったらたたらりらりら」
紅魔館二階の角部屋の辺りからで在る。窓の極端に少ない紅魔館の中でも珍しく窓の在る部屋で、故に普段余り使われない場所で在る。重く分厚い毛織のカァテンが分け開かれ、しと雨の囁き声がさらさらと聴こえて居るので在った。
「たらりらりらたらりらりら たらりらりらりらりらりら たんったらたたらりらりら たんったらたたらりらりら」
流れるように、と喩うるにはいささか紆余曲折七曲り気味の旋律に混じり、是れ又辛うじて合うて居ると云え無くも無い手拍子が拍子を刻む。
しかし其の束の間のささやかなる幸福は、低く深く厳かに響く、激怒を含んで押し殺した猫撫で声の前に、敢え無く潰え去って仕舞うので在った。
「……へぇ。昼間から舞踏会ごっこなの? 美鈴。随分素敵な御身分だ事ね?」
「いえ是れは其のあの咲夜さん。十分休憩が一寸ばかり二十分休憩に為って仕舞っただけd」
静寂。
* *
ややあって後、絆創膏で要所々々をおめかしした美鈴の、玄関に立つ姿が見られた。しょ気る風も無く、何やらん、寧ろにやにやにまにまだらし無く頬べたが緩み切った風情。
「気持ち悪いわね。おまけに隙だらけじゃない。ちゃんと仕事為さいな」
雨雲の下より不意に現れ出でたるは、褐色(かちいろ)のもさもさした塊。其んな呆れた声を出しつつ、ぷいと紅魔館の庭に降り立つ。
「いやいや、弾幕張って無い霊夢さんなら、歓迎ですから」
しと雨をばくぐり、アプロォチに身を寄せて、くい、はらり。菅笠をば脱ぎ払ったるは、博麗の巫女、霊夢で在る。
「今日は何んな御用事で?」
「んー……まぁ」
自慢の紅いリボンが、笠の所為で草臥れて仕舞って居る。美鈴が差し出した手に其れを預け、霊夢は先ず其処を直しに掛かる。
「気が向いたから?」
「おや。最近定番のツンデレですか? うっかりうちの御嬢様に惚れちゃったって、素直に云っちゃって下さいよ」
霊夢は応えず無言のまま、羽織って来た蓑をば美鈴の顔の上から、もっさりかぶせたので在った。
* *
霊夢が通されたのは、一階の角部屋。丁度今し方、素人歌手がらりらり歌って居た其の真下で在る。美鈴はコォト架けに蓑笠を預けると、お茶をお持ちします、と姿を消した。
蓑笠がさっぱり馴染まぬ、アァルデコ調の応接間。明快な直線や曲線が複雑に組み合わさり、或る種の深みを作り出して居る。霊夢は遠慮無く、二人掛けのソファの真ん中に陣取り、深みの底で更に身を沈めた。レェスのカァテンの架かる背の高い窓の向うで、さらさらと雨音。
古い館には黴の匂い、埃の匂いが付き物で在るが、此の館は其れらに血の薫りがひっそりと混じり込む。其れは例えば、跡目や欲得を争うて無闇矢鱈に流された、ぎとぎととべたついて胃にもたれるだけの、使い古した食用油の如き物では無い。生まれ付いての鬼が命を繋ぐ糧として、無心に求めた美味滋味なる血の残り香だ。
永の年月に少しづつ丹念に丹念に、繰り返し繰り返し塗り重ねられて来た薫りは、気づかれぬ内に鼻を抜け、魂にまで沁み込んでゆく。其れは又、次なる獲物を絡め獲る為の蜜で在る。何んと為れば即ち、其の血の薫りの判る者こそは、同じく無類無比なる美味の血をば、其の身に流して居るのだから。
あの腰板のチョコレット色は、きっと古い血の色だ。其の何んと艶やかなる事。桃色のアロマキャンドルを収めた卓上ラムプの火影が、シェイドの百合の紋様を、しめやかに壁に映し出す。
霊夢はかぶりを振り、背筋を伸ばして坐り直した。此処で酔うて呑まれては、巫女の名折れだ。食べても良い人類で在る以上、油断は出来無い。
とんとんとん。何の音? お化けの音に決まって居る。此処は紅魔館だ。
「わん!」
入って来たお化けは一人と一匹。カァキのドレスに同じ色の帽子を被ったお化けに付き添われて居るのは、後足で立ち、ティセットの銀盆を、頭の上に器用に乗っけた仔犬のお化けだ。
「お待たせ致しました。御承知とは思いますが、此の館には緑茶は無いもので……」
「まぁいいわ。しょうが無いわね」
美鈴の言い訳に返事をしながらも、霊夢はさくやわんを興味津々と眺めた。中々達者な後足の運びで硝子のロォテェブルの横に付けると、前足を巧みに使って頭の上から銀盆を卓上に滑らせる。
「わん!」
ついでに名刺。
「はぁ、どうも」
裏返す。
「あら? お父さん探しの事何んて書いて無いじゃない」
「勘弁して下さい。其れデマですから。嘘ですから」
さすがに痛そうな嫌そうな顔に成りつつ、美鈴も向かいのソファに腰を落ち着けた。美観や作法に頓着せず、二人分のカップにポットから注ぎ分ける。祁門の良い薫りが黴と埃と血の薫りに、緩やかに馴染んでゆく。
「詰まら無いわね」
「冗談じゃ無いです。大変だったんですよ、ほんと」
カップに伏せた睫毛の下から、霊夢は美鈴を眺め遣った。脱いだ龍の帽子を膝の上に置いた美鈴は、テェブルの脇でつくねんとお座りして居るさくやわんのプリムに手を伸ばし、外してやった。途端、さくやわんはころころと転げる様にして、美鈴の帽子の上に満足そうに収まった。
「ふぅん……良く仕込んだわね」
魔理沙から聴いた通りの仔犬の様だ。
「素材が良いんですよ。ねー?」
美鈴の指は、さくやわんの耳の後ろを優しく掻いて居る。
「あ、ひょっとしてわざわざさくやわんに逢いに来てくれたとか」
霊夢は一呼吸置いた。
「まぁ、其んな処ね」
「では、其う云う事で」
美鈴もカップを取り上げ、口を付けた。早くも飲み干した霊夢は、手ずから二杯目を注ぐ。
「さくやわん(親)は今日は如何したの?」
「此処のところ、御嬢様が随分甘えん坊に為っちゃいまして。子守りに掛かりっ切りなんです」
「嗚呼、だから門番なんかが接客してるのね」
「いやー。あっはっは。うちも人手不足で。犬の手も借りちゃったくらいで」
「……座蒲団には足りないわね」
「えっ。駄目? 厳しいなぁ」
「さてと」
霊夢は二杯目を空にして立ち上がった。
「人手不足の処に御邪魔様」
「あれ、もうお帰りですか?」
「用事済んだし」
「其うですか」
云いながら、美鈴は帽子ごとさくやわんをソファに降ろし、コォト架けの蓑を手に取ろうとした。
「其れは良いわ。あげる」
「貰ってもなぁ……」
蓑と笠。
「あら。はるばるやって来た客人がせっかく持って来てやった御土産、拒む気?」
「判った、判りましたー。有難う御坐いますー」
「判れば宜しい」
「此の前逆方向に調整したばっかなんですけどね……」
「ゼロとアンビバレントは違うのよ」
「判っちゃ居ますよ。えぇ」
勝手に出てゆく霊夢の後を追いながら、美鈴は溜息交じりの諦めた笑みを浮かべ、帽子を被り直す。プリムを返して貰ったさくやわんも、ちょこちょこと其れに続いた。
* *
雨は小止みに成りつつ在る。
「其れじゃ」
アプロォチから傘も差さず、霊夢は軽々と宙に浮かび上がった。
「お気をつけて……と云いたい処なんですが」
「何? 一戦ヤっとく?」
「其れは色々とアレなんで、盛大に御見送りをと思いまして。座蒲団五枚はもぎ取れますよ」
「はぁ?」
「あー、ぁー、んっ」
美鈴、何やらもったいぶって咳払い。
「さくやわん?」
「わん!」
「せーの! ら~~」
音程の微妙にズレた歌い出しに合わせ、さくやわんがポォズを決めた。
「たらりらりらたらりらりら たらりらりらたらりらりら たらりらりらりらりらりら」
良く良く聴けば、其の旋律は「仔犬の円舞曲(ワルツ)」。
「たんったらたたらりらりら たんったらたたらりらりら」
さくやわん、短い脚をせかせかちょこまかと動かし、見事に旋律に乗った。踊るには速過ぎるとの噂もなんのその。
「たらりらりらたらりらりら たらりらりらりらりらりら たんったらたたらりらりら たんったらたたらりらりら」
しかも美鈴、どんどん拍子を速めてゆく。
「たららたらりらたららたらりら たららたらりらたららたらりら」
円舞曲とか云いつつも一匹でくるくるくるくる、観ている方が目を廻しそうな勢いで廻って居るだけだし、さっさと帰るか、と霊夢が向きを変えかけたその時。
「たららららら らららららら らららららリフトオフ!」
「わんっ!」
さくやわんが宙に浮いた。其の脚のちょこまかちょろまかたる様は、其のまま霞んで可能性の雲にすら成りそうな勢い。螺旋を描きながらゆっくりと霊夢の方に浮かび上がって来る。
「偉いっ! さくやわん! 御披露目フライト大成功!」
三拍子で拍手するような勢いで、美鈴が歓声を上げて居る。調子っ外れの歌は止んだが、さくやわんは順調に飛行を続けて居る。
「飛ぶの!? 此の犬!」
「頑張って練習したんですよ! 気功術の応用です!」
「わんっ!」
「空中に踏み出した足が落ちる前に次の一歩を! 四本脚なんで凄い速さでめきめき上達しました!」
「……」
夢中になって居る一人と一匹を余所に、霊夢は淡々と、懐から幣を取り出した。
其して、さくやわんが正面に来た処を見計らい。
「えい」
ばさっと顔を一払い。
「きゃん!?」
驚いたさくやわん、当然脚が止まる。
「あぁっ!? 酷いぃっ!!」
慌てて跳び出した美鈴、落ちるさくやわんを帽子で辛くもスライディングキャッチ。湿った庭で泥だらけ。唐突で在った事を考えれば、ファインプレイと呼んで差し支え在るまい。
「ま、ネタはベタだったけど努力賞って事で二枚か知らね」
余裕綽々と其んな事をのたまいつつ、博麗の巫女は曇り空の向うへと飛び去ったので在った。
* *
元より見逃して貰えるとは思うても居なかったが、咲夜は何度も、霊夢の残して往った蓑笠をひっくり返して検分した。呼び出された美鈴は着替えて出頭。茶器の片付けだけ先に済ませて置いたのは、正解で在った。少なくとも、ナイフ三本は手加減して貰えるはずだ。
「わたしに回して貰うべきだったと思わなくもないのだけど」
「弾幕無かったんで大丈夫かなぁと」
何やらん、如何にかしていちゃもんを付けたい風情とも見ゆる。誰しも、其んな気分に成る事は在るものだ。御嬢様の御相手に少々草臥れたのか、或いは霊夢の顔が見たかったのか。咲夜は、やや皺の寄って仕舞って居たエプロンを片手で直した。
「蓑笠を着て訪うのは客人(まれびと)神。巫女が演ったのなら尚更。客人神は何かしら、外から持ち込んで来る筈だわ」
「承知してます」
「依代(よりしろ)までわざわざ残して……本当に、此れだけなの?」
此れと言うのは、僅かな陽の氣。既にあらかた零れて仕舞い、蓑笠は自体はほぼ、唯の菅(すげ)の塊に過ぎない。触れた美鈴も運び屋にされた。問題に成る様な量では無く、言うなれば紅魔館という料理に隠し味がもう一摘み、といった風情。
「其うです。わたしが見逃して無ければ」
しれっと言い切る美鈴に、咲夜は嫌そうな顔をして見せた。いささか攻めあぐねた様だったが、切り込む角度を切り替えた。
「あなた此の前、陰氣の目減りを心配してたじゃない。矛盾して居なくて?」
「あれは陰が減って往くのがちょっと心配に成ったんですよ。外に水溜りでも出来て可笑しなの寄せちゃって、又た巫女が弾幕張りながら怒鳴り込んで来たら鬱陶しいじゃ無いですか」
「まぁねぇ」
「今回は陽がちょっとばかり持ち込まれただけですからね。此処は其の程度でぐらつく様な器じゃ無いですし」
美鈴が背凭れに腰を預けているソファに、咲夜は乱暴に身を投げ込んだ。
「バランスは如何なの? 器がぐらつかないとしても。僅かとは云え、御嬢様に何か在ったりしたら如何するの?」
「御嬢様達に、何か在るのは、お嫌ですか?」
仰向いた咲夜と俯いた美鈴の視線が、ほんのたまゆら、しっとりと絡み合った。
「だからあなたは無神経で大雑把だって言うのよ」
「玄関口には色んなのが来ますからね。神経も図太く成ります」
咲夜は座を立ち、蓑笠を適当に丸めた。美鈴は背凭れを離れ、チョコレット色の扉を開く。
「まぁ良いわ。でも、御嬢様用の祁門、勝手に飲んだのは許さないから」
「うっ……」
「折角霊夢が来たのに御嬢様に教え無かったなんてね。此れは報告して置かないと」
「……其処何んとかまかりませんか。水入らずの邪魔をしてはと」
「駄目ー」
「鬼」
「わたしごときを鬼だなんて、御嬢様に失礼よ? 首を洗って待ってらっしゃい」
応接間の扉は閉ざされた。人もお化けも居ない部屋の外では、灰色の雲が夕焼けの色を知らぬまま、闇の色を深めてゆく。今日も又た、お化けの時間がやって来る。
どっとはらい。
▼前回までの粗筋
或る麗らかなる霧の日、紅魔館に一匹の仔犬が現れた。彼の仔犬は表仕事をして居た紅美鈴の目に留まり、飼わるる事と相成った。何処と無く、十六夜咲夜と似通う気配を窺わする故、「さくやわん」と名付けられたので在った(第一話「氣に操られた程度のSS」作品集44所収)。
其の後、さくやわんはヴワル魔法図書館に闖入したるゴキブリ(ルビ:魔理沙)の撃退(第二話「図書館で踏み迷う程度のSS」作品集44所収)、起きてむずかって居られた館の二の当主フランドォル・スカァレットを再び寝かし付ける(第三話「子供部屋で紅い霧に囚われる程度のSS」作品集45所収)、等々の諸事に於いて独自なる活躍(?)を成し、まずまず、館の住人として馴染みつつ在るので在った ──
* *
「ら~~ たらりらりらたらりらりら」
或る麗らかなる雨の日。精妙瀟洒、艶なる薄絹をば織り成す雨の銀幕の中から、微妙珍妙要修行たる歌声が響いて居た。
「たらりらりらたらりらりら たらりらりらりらりらりら たんったらたたらりらりら たんったらたたらりらりら」
紅魔館二階の角部屋の辺りからで在る。窓の極端に少ない紅魔館の中でも珍しく窓の在る部屋で、故に普段余り使われない場所で在る。重く分厚い毛織のカァテンが分け開かれ、しと雨の囁き声がさらさらと聴こえて居るので在った。
「たらりらりらたらりらりら たらりらりらりらりらりら たんったらたたらりらりら たんったらたたらりらりら」
流れるように、と喩うるにはいささか紆余曲折七曲り気味の旋律に混じり、是れ又辛うじて合うて居ると云え無くも無い手拍子が拍子を刻む。
しかし其の束の間のささやかなる幸福は、低く深く厳かに響く、激怒を含んで押し殺した猫撫で声の前に、敢え無く潰え去って仕舞うので在った。
「……へぇ。昼間から舞踏会ごっこなの? 美鈴。随分素敵な御身分だ事ね?」
「いえ是れは其のあの咲夜さん。十分休憩が一寸ばかり二十分休憩に為って仕舞っただけd」
静寂。
* *
ややあって後、絆創膏で要所々々をおめかしした美鈴の、玄関に立つ姿が見られた。しょ気る風も無く、何やらん、寧ろにやにやにまにまだらし無く頬べたが緩み切った風情。
「気持ち悪いわね。おまけに隙だらけじゃない。ちゃんと仕事為さいな」
雨雲の下より不意に現れ出でたるは、褐色(かちいろ)のもさもさした塊。其んな呆れた声を出しつつ、ぷいと紅魔館の庭に降り立つ。
「いやいや、弾幕張って無い霊夢さんなら、歓迎ですから」
しと雨をばくぐり、アプロォチに身を寄せて、くい、はらり。菅笠をば脱ぎ払ったるは、博麗の巫女、霊夢で在る。
「今日は何んな御用事で?」
「んー……まぁ」
自慢の紅いリボンが、笠の所為で草臥れて仕舞って居る。美鈴が差し出した手に其れを預け、霊夢は先ず其処を直しに掛かる。
「気が向いたから?」
「おや。最近定番のツンデレですか? うっかりうちの御嬢様に惚れちゃったって、素直に云っちゃって下さいよ」
霊夢は応えず無言のまま、羽織って来た蓑をば美鈴の顔の上から、もっさりかぶせたので在った。
* *
霊夢が通されたのは、一階の角部屋。丁度今し方、素人歌手がらりらり歌って居た其の真下で在る。美鈴はコォト架けに蓑笠を預けると、お茶をお持ちします、と姿を消した。
蓑笠がさっぱり馴染まぬ、アァルデコ調の応接間。明快な直線や曲線が複雑に組み合わさり、或る種の深みを作り出して居る。霊夢は遠慮無く、二人掛けのソファの真ん中に陣取り、深みの底で更に身を沈めた。レェスのカァテンの架かる背の高い窓の向うで、さらさらと雨音。
古い館には黴の匂い、埃の匂いが付き物で在るが、此の館は其れらに血の薫りがひっそりと混じり込む。其れは例えば、跡目や欲得を争うて無闇矢鱈に流された、ぎとぎととべたついて胃にもたれるだけの、使い古した食用油の如き物では無い。生まれ付いての鬼が命を繋ぐ糧として、無心に求めた美味滋味なる血の残り香だ。
永の年月に少しづつ丹念に丹念に、繰り返し繰り返し塗り重ねられて来た薫りは、気づかれぬ内に鼻を抜け、魂にまで沁み込んでゆく。其れは又、次なる獲物を絡め獲る為の蜜で在る。何んと為れば即ち、其の血の薫りの判る者こそは、同じく無類無比なる美味の血をば、其の身に流して居るのだから。
あの腰板のチョコレット色は、きっと古い血の色だ。其の何んと艶やかなる事。桃色のアロマキャンドルを収めた卓上ラムプの火影が、シェイドの百合の紋様を、しめやかに壁に映し出す。
霊夢はかぶりを振り、背筋を伸ばして坐り直した。此処で酔うて呑まれては、巫女の名折れだ。食べても良い人類で在る以上、油断は出来無い。
とんとんとん。何の音? お化けの音に決まって居る。此処は紅魔館だ。
「わん!」
入って来たお化けは一人と一匹。カァキのドレスに同じ色の帽子を被ったお化けに付き添われて居るのは、後足で立ち、ティセットの銀盆を、頭の上に器用に乗っけた仔犬のお化けだ。
「お待たせ致しました。御承知とは思いますが、此の館には緑茶は無いもので……」
「まぁいいわ。しょうが無いわね」
美鈴の言い訳に返事をしながらも、霊夢はさくやわんを興味津々と眺めた。中々達者な後足の運びで硝子のロォテェブルの横に付けると、前足を巧みに使って頭の上から銀盆を卓上に滑らせる。
「わん!」
ついでに名刺。
「はぁ、どうも」
裏返す。
「あら? お父さん探しの事何んて書いて無いじゃない」
「勘弁して下さい。其れデマですから。嘘ですから」
さすがに痛そうな嫌そうな顔に成りつつ、美鈴も向かいのソファに腰を落ち着けた。美観や作法に頓着せず、二人分のカップにポットから注ぎ分ける。祁門の良い薫りが黴と埃と血の薫りに、緩やかに馴染んでゆく。
「詰まら無いわね」
「冗談じゃ無いです。大変だったんですよ、ほんと」
カップに伏せた睫毛の下から、霊夢は美鈴を眺め遣った。脱いだ龍の帽子を膝の上に置いた美鈴は、テェブルの脇でつくねんとお座りして居るさくやわんのプリムに手を伸ばし、外してやった。途端、さくやわんはころころと転げる様にして、美鈴の帽子の上に満足そうに収まった。
「ふぅん……良く仕込んだわね」
魔理沙から聴いた通りの仔犬の様だ。
「素材が良いんですよ。ねー?」
美鈴の指は、さくやわんの耳の後ろを優しく掻いて居る。
「あ、ひょっとしてわざわざさくやわんに逢いに来てくれたとか」
霊夢は一呼吸置いた。
「まぁ、其んな処ね」
「では、其う云う事で」
美鈴もカップを取り上げ、口を付けた。早くも飲み干した霊夢は、手ずから二杯目を注ぐ。
「さくやわん(親)は今日は如何したの?」
「此処のところ、御嬢様が随分甘えん坊に為っちゃいまして。子守りに掛かりっ切りなんです」
「嗚呼、だから門番なんかが接客してるのね」
「いやー。あっはっは。うちも人手不足で。犬の手も借りちゃったくらいで」
「……座蒲団には足りないわね」
「えっ。駄目? 厳しいなぁ」
「さてと」
霊夢は二杯目を空にして立ち上がった。
「人手不足の処に御邪魔様」
「あれ、もうお帰りですか?」
「用事済んだし」
「其うですか」
云いながら、美鈴は帽子ごとさくやわんをソファに降ろし、コォト架けの蓑を手に取ろうとした。
「其れは良いわ。あげる」
「貰ってもなぁ……」
蓑と笠。
「あら。はるばるやって来た客人がせっかく持って来てやった御土産、拒む気?」
「判った、判りましたー。有難う御坐いますー」
「判れば宜しい」
「此の前逆方向に調整したばっかなんですけどね……」
「ゼロとアンビバレントは違うのよ」
「判っちゃ居ますよ。えぇ」
勝手に出てゆく霊夢の後を追いながら、美鈴は溜息交じりの諦めた笑みを浮かべ、帽子を被り直す。プリムを返して貰ったさくやわんも、ちょこちょこと其れに続いた。
* *
雨は小止みに成りつつ在る。
「其れじゃ」
アプロォチから傘も差さず、霊夢は軽々と宙に浮かび上がった。
「お気をつけて……と云いたい処なんですが」
「何? 一戦ヤっとく?」
「其れは色々とアレなんで、盛大に御見送りをと思いまして。座蒲団五枚はもぎ取れますよ」
「はぁ?」
「あー、ぁー、んっ」
美鈴、何やらもったいぶって咳払い。
「さくやわん?」
「わん!」
「せーの! ら~~」
音程の微妙にズレた歌い出しに合わせ、さくやわんがポォズを決めた。
「たらりらりらたらりらりら たらりらりらたらりらりら たらりらりらりらりらりら」
良く良く聴けば、其の旋律は「仔犬の円舞曲(ワルツ)」。
「たんったらたたらりらりら たんったらたたらりらりら」
さくやわん、短い脚をせかせかちょこまかと動かし、見事に旋律に乗った。踊るには速過ぎるとの噂もなんのその。
「たらりらりらたらりらりら たらりらりらりらりらりら たんったらたたらりらりら たんったらたたらりらりら」
しかも美鈴、どんどん拍子を速めてゆく。
「たららたらりらたららたらりら たららたらりらたららたらりら」
円舞曲とか云いつつも一匹でくるくるくるくる、観ている方が目を廻しそうな勢いで廻って居るだけだし、さっさと帰るか、と霊夢が向きを変えかけたその時。
「たららららら らららららら らららららリフトオフ!」
「わんっ!」
さくやわんが宙に浮いた。其の脚のちょこまかちょろまかたる様は、其のまま霞んで可能性の雲にすら成りそうな勢い。螺旋を描きながらゆっくりと霊夢の方に浮かび上がって来る。
「偉いっ! さくやわん! 御披露目フライト大成功!」
三拍子で拍手するような勢いで、美鈴が歓声を上げて居る。調子っ外れの歌は止んだが、さくやわんは順調に飛行を続けて居る。
「飛ぶの!? 此の犬!」
「頑張って練習したんですよ! 気功術の応用です!」
「わんっ!」
「空中に踏み出した足が落ちる前に次の一歩を! 四本脚なんで凄い速さでめきめき上達しました!」
「……」
夢中になって居る一人と一匹を余所に、霊夢は淡々と、懐から幣を取り出した。
其して、さくやわんが正面に来た処を見計らい。
「えい」
ばさっと顔を一払い。
「きゃん!?」
驚いたさくやわん、当然脚が止まる。
「あぁっ!? 酷いぃっ!!」
慌てて跳び出した美鈴、落ちるさくやわんを帽子で辛くもスライディングキャッチ。湿った庭で泥だらけ。唐突で在った事を考えれば、ファインプレイと呼んで差し支え在るまい。
「ま、ネタはベタだったけど努力賞って事で二枚か知らね」
余裕綽々と其んな事をのたまいつつ、博麗の巫女は曇り空の向うへと飛び去ったので在った。
* *
元より見逃して貰えるとは思うても居なかったが、咲夜は何度も、霊夢の残して往った蓑笠をひっくり返して検分した。呼び出された美鈴は着替えて出頭。茶器の片付けだけ先に済ませて置いたのは、正解で在った。少なくとも、ナイフ三本は手加減して貰えるはずだ。
「わたしに回して貰うべきだったと思わなくもないのだけど」
「弾幕無かったんで大丈夫かなぁと」
何やらん、如何にかしていちゃもんを付けたい風情とも見ゆる。誰しも、其んな気分に成る事は在るものだ。御嬢様の御相手に少々草臥れたのか、或いは霊夢の顔が見たかったのか。咲夜は、やや皺の寄って仕舞って居たエプロンを片手で直した。
「蓑笠を着て訪うのは客人(まれびと)神。巫女が演ったのなら尚更。客人神は何かしら、外から持ち込んで来る筈だわ」
「承知してます」
「依代(よりしろ)までわざわざ残して……本当に、此れだけなの?」
此れと言うのは、僅かな陽の氣。既にあらかた零れて仕舞い、蓑笠は自体はほぼ、唯の菅(すげ)の塊に過ぎない。触れた美鈴も運び屋にされた。問題に成る様な量では無く、言うなれば紅魔館という料理に隠し味がもう一摘み、といった風情。
「其うです。わたしが見逃して無ければ」
しれっと言い切る美鈴に、咲夜は嫌そうな顔をして見せた。いささか攻めあぐねた様だったが、切り込む角度を切り替えた。
「あなた此の前、陰氣の目減りを心配してたじゃない。矛盾して居なくて?」
「あれは陰が減って往くのがちょっと心配に成ったんですよ。外に水溜りでも出来て可笑しなの寄せちゃって、又た巫女が弾幕張りながら怒鳴り込んで来たら鬱陶しいじゃ無いですか」
「まぁねぇ」
「今回は陽がちょっとばかり持ち込まれただけですからね。此処は其の程度でぐらつく様な器じゃ無いですし」
美鈴が背凭れに腰を預けているソファに、咲夜は乱暴に身を投げ込んだ。
「バランスは如何なの? 器がぐらつかないとしても。僅かとは云え、御嬢様に何か在ったりしたら如何するの?」
「御嬢様達に、何か在るのは、お嫌ですか?」
仰向いた咲夜と俯いた美鈴の視線が、ほんのたまゆら、しっとりと絡み合った。
「だからあなたは無神経で大雑把だって言うのよ」
「玄関口には色んなのが来ますからね。神経も図太く成ります」
咲夜は座を立ち、蓑笠を適当に丸めた。美鈴は背凭れを離れ、チョコレット色の扉を開く。
「まぁ良いわ。でも、御嬢様用の祁門、勝手に飲んだのは許さないから」
「うっ……」
「折角霊夢が来たのに御嬢様に教え無かったなんてね。此れは報告して置かないと」
「……其処何んとかまかりませんか。水入らずの邪魔をしてはと」
「駄目ー」
「鬼」
「わたしごときを鬼だなんて、御嬢様に失礼よ? 首を洗って待ってらっしゃい」
応接間の扉は閉ざされた。人もお化けも居ない部屋の外では、灰色の雲が夕焼けの色を知らぬまま、闇の色を深めてゆく。今日も又た、お化けの時間がやって来る。
どっとはらい。
タイトルから魔理沙かアリスを想像したんですが、霊夢かぁ。
さくやわん飛んだけどそれ以外はあまり活躍しなかったので-10で。
ぱーへくとめいどになる日も近いねw
その内弾幕でも張るんだろうか・・・
それにしても、やっぱりこの雰囲気はいいなぁ
どこか恐ろしいけどどこか陽気な紅魔館の空気が感じられます。
内容自体は面白いために残念です……