そもそも。
蓮子が遅刻して来なかった時点で疑って掛かるべきだったのだ。
例え、疑うべき対象が何かを知らなくても。
「14時2分20秒」.
一年を通して寒さの最も厳しいこの時期に、ひとつの奇跡が舞い降りた。
蓮子が二分程度の遅刻で待ち合わせの喫茶店に現われたのだ。
メリーは指定席となりつつある隅のテーブルで間抜けに口を開き、1分ほど店内の乾燥した空気を満喫したあと、喉の奥が乾いて盛大に咳き込んだ。
「……厳密に言えばそれでも遅刻なんだけどね」
「いいじゃない、私だってまぐれくらい起こすわよ」
まぐれかよ。
まだ十分に温かいミルクティーで喉を湿らせながら、メリーは考えてみる。
一体どういう風の吹き回しか。
間に合うように家を出ても寄り道をして結局遅刻する事が多い(らしい)蓮子だが、単に外が寒くて急いでいたら早く着いたという線もありうるか。
蓮子が注文する声を意識の端で聞きながら、窓の外の景色を眺める。
冬空の世界は街まで灰色で、雨こそ降っていないが寒々しさが強調されているように見える。
特に変わったものは見えない。
珍しく待ち合わせ時間通りに集まったはいいものの、活動の予定は特に無かった。
不定期活動を旨とする秘封倶楽部には、緊密なスケジュールなどというものは存在しない。
怪しい噂や境界の気配を求めて適当に調べて回るのが常日ごろの活動なのだ。
誤解の無いように言っておくが、適当にというのは、いい加減にという意味ではない。
明確な目標が見つからず、場当たり的な活動になる事が多いのは否めないが、相手が相手なだけにあまり深入りしないように心掛けている。
なかなかに無軌道な倶楽部だという自覚はあるが、別に大会や発表の場があるジャンルではないので、二人ともこれが当たり前だと思っている。
今日も今日とて会合と云う名のお喋り会に午後を費やす事になるのだろう。
メリーは漠然とそう思った。
だが。
これが普通の日なら問題は無いのだ。
わざわざこんな日に呼び出す事もないだろうに。
メリーは、溜息混じりに問う。
「蓮子、今日って何の日だか知ってる?」
店内にはカレンダーがあるが、それは私の正面の壁にありつまりは蓮子の背後になる。
蓮子は一瞬「?」という表情を浮かべ、メリーの不機嫌な視線を辿って振り向いた。
時間や位置の分かる蓮子の目だが、夜でなければ力を発揮できない。今まであんまり気にしなかったが日付までは分からないのだろうか?
「メリー」
蓮子は向こうを向いたままに話しかけてきた。
狭い店内、BGMも抑え目なのでそれでも聞こえるが。
「メリー。今日は何日?」
私はその質問を意図的に無視した。
優雅にティーカップを傾け、物憂げな表情で窓の外を眺めてみたりする。
「メリー答えて。今日って何の日だか知ってる?」
蓮子は繰り返した。
メリーは長毛種の猫のような仕草で、ちらりと壁のカレンダーを見る。
見間違いもなく、暦は如月、十と四日。土曜日だ。
十四日のマスにはご丁寧に、小さなハートマークまでついている。
意図的に無視していた情報を突きつけられたメリーは、当然の権利に従って困惑した。
繰り返すが、秘封倶楽部の活動に明確なスケジュールは無い。
結界などの情報があれば連日調査を行い、可能ならば現地へ行ったりもする。
もっとも、そう簡単に異常の噂は仕入れられないし、有ったにしてもおいそれと行ける距離でない事が多い。
これだという案件には現地調査も辞さないが、そこは学生の身である二人の事、学業はそこそこに済ませるにしても、金銭的な問題が付きまとうので遠征は気軽に行えないのだ。
スケジュールが無いのだから、当然、会合をいつやるかも不定期である。
講義の帰りにココで喋って行く事は多いが、こんな日にわざわざ会合をすると決めた上に、第一声がコレである。
「メリー、今日って何の日だか知ってる?」
蓮子はまるでそれしか言葉を知らないかのように、正確に繰り返した。
抑揚や息継ぎのタイミングまで一緒だった。
「ああもう、聞こえてるわよ、しつこいわね」
「メリーが無視するからじゃない、冷たい女ね。まるで外に吹く木枯らしのようだわ」
「今日だけは別なんじゃないかしら」
「……」
二月の十四日である。
実際問題として、今日この日に二人揃ってヒマであるという事実が重くのしかかる。
片方だけ暇というのもそれはそれで居た堪れないが、年頃の乙女が二人仲良く予定が開いているというのは如何なものか。
別にそれだけが人生の春というわけではないが、同じ講義を取っている連中が急にめかし込んだりしているのを見ていると、やはり心中穏やかならざるものがある。
首筋から肩あたりに重い気配を感じる。
この重い空気は、何かの境界から漏れてきたよくない空気かもしれないと思い、メリーは天井を見上げたりもした。
無論、そこには天井と照明しかない。小癪にも大掃除でもしたのか埃を被っている様子もない。
「なんで言ってくれなかったのよ! 今日が今日だと判ってたら家から出たりしなかったのに!」
「それはこっちのセリフよ。わざわざこんな日に呼びつけるから何か特別な用事でもあるのかと思うじゃない!」
「何よ特別な用事って!」
「蓮子が彼氏を紹介するとかよ!」
「二月の十四日に独り身の親友にそんな仕打ちをしたら、どんな悪魔だって震え上がるわよ!」
「なら世界中の悪魔は感謝しなきゃね、どうせそのアテも無いんでしょうけど!」
「ええ、おかげさまでね!」
テーブルに身を乗り出して睨みあっていた二人だが、同じタイミングでへたり込む。
常連しか居ないとは言え、この会話は寂しすぎる。
「蓮子……、その話題に触れるのはやめない?」
「見解の一致ね。私もそう思うわ」
誤解の無いように言っておくならば、別にこの二人が異性に興味がないとか、まるでモテないとか、そういった事は無い。
前者に関しては本人達に直接訊いてみない事には正確な事は分からないが、後者については両名ともそれなりに交際を申し込まれていたりもする。
行動や容姿で目立つ要素のある二人は、むしろモテる側とすら言えた。
これに関してはメリーや蓮子の個人的な趣味、価値観、倶楽部活動の件、お互いへの気遣いなど、諸々の要素が適当に折り重なって積み上がり、気付けば「あの二人って仲いいよねー」という認識になっているのだ。
そんな事実があろうとも、二人揃って今日が暇である事は動かしようのない事実だった。
「はあ……」
カップを傾け、メリーは溜息をつく。
甘く濃厚なはずのロイヤルミルクティーも、お茶請けが溜息ではまるで味がしなかった。
この日に一人で街を歩く気概は無いが、だからといって馴染みの喫茶店で相方と額を突き合わせているくらいなら、今日一日を見なかったことにして、せめて心穏やかに過ごすべきだったのだ。
疲れきった声音でメリーが問う。
「そもそも何で呼び出したりしたのよ……」
「別に……ようやくレポートが片付いたら、久し振りにメリーの顔が見たくなっただけよ……」
「何と言うか……いろいろ残念なタイミングね」
答える蓮子の声にもメリーと同様に、既に何キロも走ったようなダルさがあった。
言われて見ればここ数日、蓮子は姿を見せなかった。
情報収集などで二、三日顔を見せない事もあるから、あまり大事とは思っていなかったがまさか学業に精を出していたとは。
不良サークルとして名が知れている秘封倶楽部は、夜間活動の多いのが基本だ。
境界、異変は日の光を嫌うのか、夜の闇に潜んでいることが多い。
それを追うのだから、当然活動は夜になり、結果翌日に寝不足となる。
お肌も荒れるし、不規則な生活は身体にもよくない。
「メリー……」
「蓮子……」
テーブルで向かい合ったまま、しかし目を合わせず、一言、互いの名前を呼ぶ。
幾度目だろうか。
会話が続かない。そもそも会話にならない。
建設的な意見など出ないのは分かっている。
意外だったのは蓮子の態度だ。無駄にポジティブな彼女ならこの程度の重圧など鼻で笑い飛ばして「さあメリー! 今日も宛ても無く結界を捜すわよ!」とか言って街に繰り出すのだと思っていた。
実際去年はその通りで、ペアになっている男女を物ともせずに、「疲れたから甘いものが食べたい」と言い放ちバレンタイン用のチョコを買い漁っていたのだ。
バレンタイン当日に女子がチョコを買う姿は傍から見て違和感はなかったが、内実はそうではない。
そうではないのだ。
華やかな空気に浸る事無く、自分で食べるチョコを物色していた蓮子の心情は与り知れない。
去年の私はその後ろ姿に感動した。涙すら流したものだった。
それが今年はどうしたことだ。
去年の勇者は、チョコを買い漁る事もなく根城である喫茶店から動こうとしない。
まるで、寒さに震えながら春を待ち続ける小動物のようではないか。
かつて世界に敢然と立ち向かった宇佐見蓮子は、どこへ行ってしまったと言うのか。
あてが有ろうと無かろうと泰然としている。それが私の知る宇佐見蓮子だと思っていたし、そう信じていた。
今年の蓮子は負け犬一直線だ。
「はぁ……」
「ふぅ……」
偉そうな事を言っているが、無論私とて心穏やかではない。
去年に引き続き同じ相手とバレンタインを過ごす事になっている。蓮子は人間として、相棒として嫌いではないが、そこはそれ。
多感な乙女の繊細なハートにはいろいろと複雑な問題があるのだ。
間違っても、好転しなかった一年間を振り返ってその冷たさに浸る時間ではない。ないったらない。
しかし、今日になって慌ててみた所でどうなる物でもない。
それはテスト当日に教科書を眺めるよりも意味が無い行為だ。
……いや、ここは敢えて逆に考えよう。
ここで胃の痛い思いをして、その痛みを来年こそはという誓いに捧げるのだ。
この涙を旗挙げの儀に捧げる贄にするのだ。
「メリー……」
「蓮子……」
幾度目かの溜息。
蓮子は時折何かを言おうと顔を上げるが、逡巡してまたうつむいてしまう。
ちらりと時計を見れば既に一時間経過していた。テストや授業なら時間の経過で逃げおおせるが、今日という日はまだ九時間も残っている。ここでこうしているのにもじきに限界が訪れるだろう。
具体的には寡黙なマスターの雄弁な目によって追い出されるはずだ。
相方を見た。
蓮子の額には汗が浮いている。カップの中のココアは、もう湯気を失って久しい。
おかわりの飲み物もケーキの追加も無く、まるで叱られた子供のように萎縮している蓮子。
もういい。ギブアップをしよう。あと九時間も精神的ギロチンチョーク状態が続くのなら、せめてこの場からは逃げ出したい。
そう思い、私が声を掛けようとした時、宇佐見蓮子は口を開いた。
「メリー……、街に出ましょう」
「……ッ!?」
その言葉を予測していなかったわけではない。むしろ、試練に立ち向かう蓮子を期待していた所すらある。
だが。
その決意を無碍したくないが、きっと我々には耐え難い苦行となることは想像に難くない。
「蓮子、今の街がどれだけ危険な状況か、分からない貴方ではないでしょう? もし踏み込もうものならきっと取り返しの付かない事になるわ……」
しかし蓮子は顔を上げないまま、静かにかぶりを振る。カップに手を伸ばす。
「メリー、逆に考えるのよ……」
「これだけ妙な雰囲気になってる街なのよ! きっと妙な境界のひとつもあるに違いないわ!」
ココアを一気に呷り、テーブルに叩きつける勢いそのままに雄々しく立ち上がる。
ああ蓮子。勇ましい蓮子。
貴方が啜るその未練がましいココアは冷め切っているだろうに。
「さあ、秘封倶楽部の活動開始よ!!」
爽やかな笑顔で活動開始を宣言する蓮子の瞳は、しかし光を映していなかった。
■●■
二月の十四日である。
街に出ようという蓮子の意見は失礼ながら正気とは思えず、正直な話、自殺行為としか思えなかった。
幾重にも張り巡らされた敵軍の防御陣地に、歩兵が二人だけで挑むようなものだ。
喫茶店というトーチカには敵兵がひしめき、スピーカーの形をした野戦砲からはバレンタインソングという砲弾が発射されている。町全体に漂うどうしようもなく浮かれた雰囲気は、絶え間なく落とされる焼夷弾によって焼かれる戦場を思わせる。
私たちは、物陰に身を隠し匍匐前進で進む兵士の心境で街を歩いていく。
飛び交う弾丸、迫る敵兵。重戦車の砲弾で炸裂する地面。今の二人にとっては、街は戦場そのものであった。
勇敢なる乙女、我らが秘封倶楽部(現在は暫定的に少女十字軍)は、有るかどうかも定かではない結界や、都市伝説と化している、嫉妬の化身の覆面男などを捜して街をゆく。
見た目だけは勇ましく先行する蓮子を追いながら、私は境界や歪みがないか見回す。
街に出るのは三日振りだろうか。いや、それ以上かもしれない。
ここ何日かはバレンタインに浮かれる街を見るのがいやで、繁華街に近付くのを恐れていた。
繁華街というほど栄えている訳ではないのだが、駅の周辺はそこそこに賑わっている。
そして、ツガいどもがウヨウヨしてやがる。 クッ……! 人類のさらなる繁栄に貢献しようってのか!
「メリー、ダメよ! 気を確かに!」
肩を揺すられて我に返る。
「あ、蓮子……? 私……?」
「暗黒面に堕ちてはダメよメリー。私が付いてる。貴方は一人じゃない」
私の手を握り無駄に盛り上がっている蓮子だが、その瞳は相変わらず曇りガラスの様に美しかった。
そんなにツライなら家に帰ってテレビでも見てましょう……いやダメだ、今日はどうせバレンタイン特集とかやってるに違いない。
ご飯を食べて風呂に入ってさっさと寝てしまうしかない。
そして翌朝、快適な目覚めと共に何も無かった事に涙することになるのだ……ッッ!!!
……そんな世界、滅びてしまえッ!!!
「メリー! メリー! 私の声が聴こえる!? しっかしりて!」
「男なんて……バレンタインなんて……!」
「メリー! 気を確かに! これを見て! 指は何本!?」
「そ、その右手は、常よりも一指多く……」
「メリー!」
蓮子の平手が飛んだ。
掌は顎先を掠めただけだったが、それゆえに充分に脳を震盪せしめた。
私は蓮子の助けで私は悪夢から解き放たれた。
「危ない所だったわ、瞳の色が攻撃色になっていた」
「助かったわ蓮子……ありがとう」
打たれた顎が痛かったが、蓮子の思いやりに胸が熱くなった。
情けない話だが、さっきからこんな調子だった。
一応倶楽部活動のつもりで来ているので(そう思わなければとっくに逃亡していた)、境界や異常を見逃すまいと意識と感覚を開き気味にして歩いているのがよくないらしい。
□●□
行軍が立ち行かなくなり、休息が必要だと判断した私達は、蓮子の提案で道脇にあるちょっとした公園に腰を落ち着ける事にした。
こんな日の公園ならアベックがいそうなものだが、そこは二月の寒さ、さして広くない公園内には私達以外に人影は見当たらなかった。
二人とも安堵の息をついた。
休息を取ろうにも、目に付く喫茶店やファーストフード店はことごとく敵兵で埋まっていたのだ。
逃げた先にも敵の手が回っているというのは物語の中ではよくある事だが、実際その立場になってみて、それがどれほど逃亡者の心を挫くものかという事を思い知った。
どこに行ってもカップルだらけの街の喧騒から逃げるように離れ、少し入り込んだ所にあるこの公園を見つけるまで、私達はそれこそ必死に歩き続けた。
足を止めたら最後だと、理由など超越して理解していた。
二人は敗残兵だった。
バレンタイン戦線に参加し、しかし敵陣の堅固さに手も足も出ず、味方の救援も期待できないで彷徨う。
足を引き摺り、相方に肩を貸し適当な木の棒を杖代わりにして歩く兵士の気分とはこんな感じに違いない。
撤退した先が敵の陣地だったりしたら、疲弊しきった少女十字軍などひとたまりも無い。
公園がアベックで埋まっていたら、二人して泣き出していたか、その夜のニュースに凄惨な事件の話題が上っていることだろう。
どうにか気持ちを落ち着けて、すぐそこで買ってきた缶紅茶で一息入れる。
缶の飲み口から立ち昇り揺れる湯気をみていると、ささくれ立った心が落ち着くのを感じる。
なんとなく遠くにあるものが見たくなり、私は空を見上げる。
冬の曇天は薄暗く、雨こそ降ってはいないが、快適であるとは言いがたい。
灰色の空は、我らの心情を映し出しているかのように重苦しかった。
私も不安定だが、蓮子も不安定だった。
私に見えない何かを睨みつけ、時折ブツブツと呟いているのだ。
ああ蓮子、貴方の目が見えるのって時間と位置だけじゃなかったのね!
……だめだ、自分を騙すのにも疲れる。
私は合成紅茶を一口すすると、目を閉じて深く息を吐いた。
異界、異変、異境といった物に挑む事を旨とする我ら秘封倶楽部が、よもやバレンタインごときで活動に支障を来たすとは。
「まったく……甘く見ていたわ」
「上手い事言ったつもりじゃないでしょうね」
それにしても自分の中にあんなドス黒い一面があったなんて……それが分かっただけでも精神的苦痛を押して街に出た甲斐があったかも知れない。
いやまて。
何でも前向きに受け止めるのは蓮子の癖が移ったのかもしれないが、こんな自己分析など一銭の得にもならないし、そもそも結界とまるで縁がない。
そこまで考えて、敢えて逆説を考えてみる。
二人が交互にスイッチがオンオフになる精神も、心の二面性を結界の内と外と定義できなくも無いか。
心の壁を結界と見做すなら、人間はすべて結界を持っていることになる。
境界線を視る事の出来る目を持つとはいえ、覗き込むことの出来ない心の中に更に境界があると言われてもどうする事も出来ない。
それとも、将来この目の能力が強くなることがあれば、人の心にある(という仮定の)結界すら視えるようになったりするのだろうか?
或いはチャンネルの合わせ方が解らないだけで、今の私にも視えるものだったりするのだろうか?
こういう考えは一人で持て余すより、二人で持て余したほうがいい。
私達の活動なんてそんなものだ。
休憩ついでに蓮子と結界談義でもしよう。
「ねぇ蓮子、人の心って……」
言いつつ目を向けてビックリした。
蓮子が小刻みに震えているのだ。
二月の午後、曇り空ならそれなりに寒い。私は充分な防寒をしているが蓮子はそうではなかったと言うのか。
「ちょっと蓮子! 大丈夫!?」
缶を置き両の手で蓮子の肩を掴む。薄手のコート越しに蓮子の震えが伝わってきた。
しかし手の平には冷たさを感じず、逆に悪い予感が強くなった。
「……なんて、……コなんて」
そこで、蓮子が何か呟いている事に気がついた。
「チョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんてチョコなんて」
「ヒィ!?」
刻みに震える蓮子は果たして、バレンタインに、チョコレートに呪詛を吐いていた。
壊れた蓄音機のように「チョコなんて」と繰り返す蓮子は、傍から見ると怪異そのもの。
一瞬、何かの境界線が近くにありそれが蓮子に悪影響を及ぼしているのかと思った。
慌てて見回すも、特に妖しい物など視えない。
ならば蓮子のこの症状は、バレンタイン時空に精神が耐えられなくなって来ている紅しなのか。
私も断続的に暗黒面に堕ちかけているのでいろいろ際どいのだが、蓮子のこの発作は今日一番のビッグウェーブだ。
「蓮子、蓮子落ち着いて! しっかり!」
チョコなんて、と繰り返す蓮子に声をかけつつ、そろそろ限界かも知れないと思う。
唐突に、残党狩に包囲された敗残兵の光景が浮かぶ。
秘封倶楽部に危機が迫っている。勿論これまでにも危険な事はあった。結界の向こう側にはこちらの都合など通用しないのだから当然だ。
しかし、境界に遭遇してもいないのに二人してこのザマか。いや、蓮子の言う通りに今日という日には何か特別な力が働いているのかも知れない。
日本各地が浮かれまくっている現状。ある意味では異変とも取れるこの事態も、年に一回の特異点と考えれば別の角度から見ることが出来るかも知れない。
今にして思えば、もはや通例となっている蓮子の遅刻が、三分にも満たない時間でしかなかった事からして今日が異常事態である可能性に思い至らなかったのか。
己の迂闊さに思わず唇を噛む。
……ああだめ、そろそろ自分を騙すのも限界。
やっぱり私一人じゃ秘封倶楽部は成り立たない。
蓮子の意見に私が返し、私の見解に蓮子が考察する。
互いに支え合い必要とするからこその我ら秘封倶楽部。唯の二人しか居ない不良霊能サークル。
だけど、蓮子と私でなければ成り立たないのが秘封倶楽部だ。
……ねぇ蓮子、怒りの矛を向ける先はカカオの加工物じゃないのよ。お菓子メーカーの策謀にこそ、義の憤りをぶつけるべきなのよ。
さあ立って蓮子、今日はもう帰って、不○家の株取引に不正の疑いありとか、明○のチョコに賞味期限改竄の疑いありとか、適当な偽装メールでも送って今日 この日に享けた心の傷を癒しましょう、うふふのふ。
私が後ろ暗い想念に突き動かされ邪悪な含み笑いをしたその時、蹲っていた蓮子が突然立ち上がった。それはもう勢いよく。
「バレンタインなんてーーっ! チョコなんてーーっっ!!」
暗黒面に支配されていた私は、いきなりの事態に咄嗟の回避など出来ない。
石を打ち合わせるような音が冬の公園に響いた。
目から星が出る、という言葉がある。
突然の衝撃で視界がぶれて、外部からの映像信号を正しく受け止められずに、意味のない光景が脳に届き、それがホワイトノイズとして認識されて、その様な表現がされる、らしい。
ってかそんなの関係なしに痛ぁ……い! 蓮子ってば、帽子の中に何か入れてるんじゃないの!?
プロボクサーのアッパーカットよろしく直撃した蓮子の石頭に呪いの言葉を吐きつつ、私の意識は闇の波間へと攫われていくのを感じたのであった。
□○□○□
「はッ!?」
目覚めは唐突だった。
跳ね起きるように身を起こし、直後、襲ってくる頭痛に蹲る。脳が揺れる。顎が痛い。
「……~~ッ!」
「あ、起きたわね」
脳が揺れる感覚にうずくまって耐えていると、聞き覚えの無い少女の声。
頭痛を抑え込んで声の方を向けば、赤と白の服を着た黒髪の少女の姿があった。
「……こ、ここは……?」
「神社よ、ついでに言うなら私の家でもあるわ」
にこりともせず、さりとて怒っている様子もなく、少女は淡々と告げる。
「で、貴方は家の裏庭の先の林に落ちてたの、そのままでもよかったんだけど、人間を見捨てるのも寝覚めが悪いからここまで担いで来てあげたの、感謝の気持ちはそこを出て左にある賽銭箱によろしく」
少女は一息に状況を説明してくれた。
庭先を指し示す彼女をひとまずおいて、ズキズキと痛む頭で状況を整理する。
街にいたはずの私が、どことも知れない神社の近くに倒れている時点でどうかしている。
が、ここにこうしている以上そういう事なのだろう。前後の光景が一致しない事など今更珍しくもない。
大方、夢の世界に踏み込んでいるのだろう。
いや、夢の世界という表現は適切ではないか、と私は思い直す。
宇佐見蓮子と出会い、秘封倶楽部というサークルに籍を置くようになってから、結界と境界の向こう側についての知識が増えた。
小さい頃から自分の身に起きていた事が何であるのか、それを相談しようにも理解者の居なかった私には、その現象がどういったものなのかを理解する事も出来なかった。
漠然と「今居る場所と違う場所に、自分だけ入り込む」という状態を理解したので、なんとなく夢の世界と(実際寝ている間に起こる事が多かった)呼んでいた。
蓮子と逢ってからはその頻度が増した。
これは切欠になる要素に近付く事が増えたからなのか、あるいは自分の目(能力)になんらかの変化が生じているのか。
後者だと少し怖い。人と違う事は自覚があったが、そこから先に踏み出していく勇気は無い。
私はまだ人間で居たい。
……「まだ」?
いや、これからもずっと人間だ。マエリベリー=ハーンは人間なのだから。
……ほんとうに?
隔世遺伝とか突然変異という不吉な単語がチラつく。
それに目が特殊な程度の人間なら、メリーの近所に住んでいる。
……蓮子が■■じゃないとしたら?
やめろ。
……類は友を呼ぶ
考えるな。
自意識を強く持ち、余計な思考を締め出す。
今は考えるべき事だけを考えよう。
深呼吸。
「……またなのね……」
小さく呟く私を不審げに見ていた少女だったが、何か声をかけるといった事はなかった。
「まあ、元気になるまではここに居るといいわ。この周りは妖怪がよく来るから普通の人間にはちょっと危険だし」
妖怪?
そう言えばいつだったかの竹林でも、奇妙な生き物の気配はしたっけ……
確かに生きた心地がしなかったのを覚えている。ならば早々に立ち去るのは早計だろう。
「じゃあ、忠告に従ってお邪魔させて頂こうかしら」
「素敵な賽銭箱は向こうよ」
私は外交用の笑みを浮かべつつ立ち上がる。
まだ頭がクラクラするが、この程度なにするものぞ。
命の恩人らしいので賽銭も入れていこう。
そう思ったところで、私の鼻腔をくすぐる香りが。
「……!?」
この甘い香りは。
「これは……チョコレート?」
なんと言うことだ、バレンタインの魔の手は夢の中にまで伸びていたという事か!?
それとも、目の前の少女には、チョコを作る意義があるという事なのか!?
私が見えざる『2・14包囲網』に慄然としていると、少女は少し面倒そうに説明してくれた。
「あーこれ? ちょっと作ってみてくれって言われてね」
「そんな理由で女の子が二月十四日にチョコ作っちゃダメー!」
「きゃ! ちょ、ちょっとどうしたっていうのよ?」
思わず掴みかかってしまった。ところでこの子の服、肩が出てるけど寒くないのかしら?
いや、問題の争点は少女の寒そうな服ではない。チヨコレイトゥだ。
言われたから作るの!? そんなホイホイ作ちゃうの!? そうじゃないだろ!? 心だよ! ハートだよ!HEART! 私のハートはHurt(傷物)だけど!
……うう、悔しくなんかないやい……
「だ、大丈夫? 具合が悪いならまだ休んでていいわよ?」
「ご、ごめんなさい、取り乱してしまって……」
突然泣き出した私に、少女は優しい声をかけてくれた。この子、実はすごくいい人なのかもしれない。
私がそう思って顔を上げたとき、部屋の外から声が聞こえた。
「ふっふっふ。どうやら霊夢がチョコを作っているという噂は本当だったらしいな!」
誰? と顔を上げる間もなく凄い音がして、襖が吹き飛んだ。
隣の間に現われたのは、黒い三角帽子を被った金髪の少女。
何故だか箒を持っていて、何故だか天井に穴が開いている。
「こら魔理沙! アンタなんて事してくれんのよ!」
「何かするならこれからだぜ、具体的にはお前の手作りチョコを頂く! それも根こそぎな!」
高らかに強奪宣言をした少女(マリサという名前らしい)は、いきなり駆け出した。台所はそっちなのだろうか。
私がそちらに目で追うと、黒帽子の走る先には場違いな人形が一つ立っていた。
いわゆる人形だ。アンティークっぽい。
しかしそれが誰の手も借りずに立っていて、しかもお辞儀までするとなれば、もはやそれはただのアンティーク人形ではないのは疑いようもない。
「え?」
お辞儀をした人形はおもむろに爆発した。
耳をつんざく爆発音と、真赤な炎。
映像などで見るのとは違う、生の爆発。
畳一枚を黒焦げにした爆発は、なぜだか私には届かなかった。
いきなりの騒動に驚いて、私は何も考えられなかったが、幾多の怪異を経験してきた私の頭脳は、この微妙な危機的状況をうまく立ち回るために、思考の回転数を上げ始めた。
「待ちなさい! この泥棒鼠!」
反対側の襖がぴしゃりと開くと、そこに居るのも金髪の少女だった。
空色のワンピース姿が可憐だが、マリサと呼ばれた少女同様に足は靴のままだった。
それを見た黒髪の子のこめかみに青筋が浮かんでいるのに気がついた。
あ、もしかして今の爆発はこの子が防いでくれたのかしら? 根拠は無いがそんな気がした。
「くそう、思ったより早かったじゃないかアリス。だが霊夢のチョコは渡さないぜ!」
「貴方、その情報は誰から得たものだと思ってるのよ! アンタにだけは渡さないわよ!」
右と左。黒髪の子と私を挟み、二人の少女がにらみ合う。
どうやら黒髪の子が「れいむ」
黒帽子の子が「まりさ」
そして最後に現れた空色ワンピの子が「ありす」らしい。
日本家屋っぽいところなのだが、現状金髪率は七割五分(含:私)であった。ここは日本なのだろうか?
まりさの手がいきなり光った。
緑色の光が、まるで鳥のように少女の手から飛び立って、私の前を結構な速度で横切った。
なに? と思うままにそれを目で追えば、緑の鳥みたいなのはアリスと呼ばれた少女にぶつかった瞬間だった。
ばん! と空気を入れた袋を叩いたような音がして、アリスが突き飛ばされたように転がる。
今の光は暴力の一種なのか。
「悪いなアリス、先手必勝だぜ!」
「ええそうね、でも先手を打ったのは私の方よ!」
「なんだって!?」
黒帽子の開けた天井の穴から、今しがた吹き飛んだはずの少女が飛び降りてきた。
「チェイサー!!」
「ぐげェっ」
鳴いているカエルを踏んだような声と共にアリスが降り立った。やっぱり土足のままだ。
「ちょっとアンタたち! 人の家でバカ騒ぎするならタダじゃおかないわよ!」
れいむが二人をまとめて睨むと、いきなり天井が吹き飛んだ。
物凄い音がして、私が驚いて目を閉じるのも忘れていると、目の前を真紅の何かが駆け抜けていった。
駅を通過する新幹線を間近で見た時と似ている気がする。
紅が去り、轟音が去った頃には、神社は屋根を失っていた。
「……へ?」
今私たちが居る部屋だけではない。隣も、全ての部屋が屋根を奪い去られていた。ほんの少しの間に、随分と見晴らしがよくなったものである。
隣に立つレイムと呼ばれた少女の顔が、一層険しくなった。
そしてやはり、私とレイムの周囲には青白い光が見える。足元を見れば、畳が円形に残っているのが見える。
建物を破壊せしめた紅い何かも、先ほどの爆発もこれで防いだと見て間違いないだろう。
「最初に言っておく!」
空から声が降ってきた。
「お前たちが霊夢のチョコを手にする事はない!」
見上げた先には日傘を差した少女が浮いていた。右手に重箱。左手には傘。
「待てレミリア! そいつは私のものだ!」
「なに寝言いってんのよ! アンタにもそこの吸血鬼にも渡さないわよ!」
彼女らのやりとりから推察するに、重箱の中身は件のチョコレートらしい。
新しく現れた銀髪の子は「れみりあ」、と言う名前のようだ。
これも日本語圏の名前じゃなさそうだけど……? それに今、気になる単語が聞こえた。今、吸血鬼って言った?
「ハッ、お前たちがいくら喚こうが運命は既に我が手中! 王道を征く者を阻む事は出来ん!」
「ふん、こんな手荒な真似をするって事は、咲夜は来てないな? おおかた我儘言って飛び出してきたんだろう」
「あらあら、お守りがいなくて大丈夫ぅ? 迷子にならないように手をつないであげましょうか?」
二人の挑発に、空に居る少女の顔が一気に紅くなった。
見た目はこの中で一番幼いが、口調は力強く威圧感に満ちている。
「どうやら痛い目を見たいらしいわね!」
いきなり物騒な事を叫ぶと右手を掲げ、そこで固まった。
「あ」
一瞬の間。
「槍を投げるには腕が一本足りないぜ! 吸血鬼!」
その隙に、マリサが箒に乗って飛び上がった。凄い! 速い!
あっという間にレミリアに肉薄し……そこで二人は突如現れた巨大な手によって掴み取られた。
「うわ!」
「むぎゃ!」
「うわ……でっかい……!?」
私の見ている目の前で、何も無い所に巨大な手が現われ、そこから腕が生えるように身体が現れる。
巨大な姿を見上げると、それは少女の姿をしていた。
やたらとデカい上に、頭に一対の角が生えている。これぞ鬼、というような見事な角だ。
「霊夢の手作りチョコと聞いちゃあ、黙ってられないなぁ……あーはっはっはっは!!」
巨大少女がふやけた笑みで告げ、巨大なひょうたんを呷った。
「っはぁああ~~! チョコをつまみに一杯やるのも悪くないぃいい~」
調子をつけて即興の唄を披露すると、周囲が一気にアルコール臭くなった。泥酔している少女(しかも巨大)というのはなかなかお目にかかれるものではないと思うが、千鳥足がふらつく度に地面が揺れる。
この怪獣みたいな子が転んだら、それだけでぺしゃんこにされそうだ。
「くそっ、放せ萃香!」
「んん~? 魔理沙は関係ないからいいやぁああっはっはっはっはぁ」
スイカと呼ばれた巨大な少女はげらげらと笑いながら、握った手からマリサをぺいっと放り出した。
黒づくめの子はすぐ近くに落ちてきたが、箒の力なのか、見事な宙返りをしてから着地する。
「おぉー」
思わず拍手をすると、マリサはにかっと笑った。
元気ハツラツといった感じの、見ているこっちまで笑顔になりそうな素敵な笑い方。
虫でも掴むようにレミリアの羽を摘んだスイカは、ふやけた笑みのまま、ひょうたんを呷る。
「ほぉら、さっさと渡しなさいってぇのおぉ」
レミリアからチョコを奪おうと、指先で重箱を摘もうとしていた萃香だが、レミリアの足を掴んで振り回し始めた。
萃香は「そ~れ、そ~れぇ」と気の抜けた掛け声で振り回している。だが、今の萃香は常の約十倍以上。頭頂高さで見ても十五メートルはある。
ハンカチを振るような軽快な仕草だが、掴まれているレミリアからすればたまったものではない。
並みの妖怪であれば失神、悪くすれば足が千切れるような大怪我すらしかねない勢いだ。
だがそこは流石に吸血鬼。レミリアはしっかり意識を保っていた。
しかし今は昼であり、レミリアの手にあった日傘が萃香に握られた時点で役立たずになっている。
「くっ……、傘が」
薄曇りとはいえ日光は日光だ。強烈な加重と肌を焼かれる感触にレミリアは堪らず蝙蝠に散じ、萃香の手から脱出した。
「「「「あ」」」」
保持していたレミリアが諦めた事により、重箱は振り回しの勢いそのままに宙へと飛び出した。
繰り返す。
今の萃香は常の約十倍。全長にして十五メートルはある。
ハンカチを振るような仕草だったが、並みの妖怪であれば失神、悪くすれば大怪我すらしかねない勢いだ。
一同の「あ」の音が消えるよりも早く重箱は見えなくなった。
ぱたぱたと人形を振り回すようにしていたスイカの、手の中の人の形が崩れた時、私は思わず息を飲んでいた。
無茶苦茶な力で、バラバラになってしまったのかと思ったのだ。
しかし、私が見ている前で、バラバラになったと思ったレミリアがバサバサと集まり、あっという間に復元(?)した。
人型に戻ったレミリアは重箱の飛んでいった方向を睨んでいたかと思うと、次の瞬間には見えなくなった。
「させるか!!」
すぐ隣でマリサの箒が爆発したような勢いで星を撒き、持ち主を空に打ち上げる。
風に捲くられるスカートを押さえながら見上げると、マリサも同じように物凄い勢いで飛び出していった。
ジェット機のような音だけが残っている。
「な、なんなの? 一体……」
私の言葉に答えは無く、残った三名は呆れたような溜息をつくだけだった。
■●■
日陰で実体化したレミリアだったが、日に灼かれる事も厭わずに飛び出した。
すぐに背後から爆音が追いかけてくる。振り返るまでもない。魔理沙だ。
「魔理沙! やはり来たか!」
「お前には渡さん!」
視線がかち合う。
【【どけぇ!!】】
二人の叫びは宣言となり、スペルが発動される。
二つの力は発生と同時に音速を越えた。
蒼い彗星と真紅の螺旋が重箱をゴールにデッドヒートを開始する。
二重の衝撃波が神社周辺の森をなぎ倒し、僅かに見えた重箱の飛び去った方向へと突き進む。
「邪魔だー!!」
魔理沙が吼え、
「堕ちろぉ!!」
レミリアが叫ぶ。
紅と蒼の流星は激しく激突し相手を捻じ伏せようと噛み付く。
激突の衝撃で星弾が砕け、鮮血の様なオーラが飛沫く。
魔力と妖力がスパークを起こし、冬の大気を捻じ切る。
雷鳴のような音が午後の静寂を引き裂く。足元の景色が恐ろしい勢いで流れ、視認を許さない。
「「あれか!!」」
見えた。
萃香の腕力は、重箱を遥か紅魔館の近くの湖にまで飛ばしていた。
中身は無事なのか、なんで重箱は壊れないのか。そんな疑問が魔理沙の頭をよぎったが、水すらも構わずに特攻しようとするレミリアの姿に、魔力を搾り出して八卦炉に叩き込む。
僅かに先行したレミリアは、重箱がどうなっていようと必ず手に入れるという意地に取り付かれ、後先構わず更に加速した。
鋭角化された感覚の中、回転しつつ飛ぶ重箱が見える。
博麗の加護が施された重箱は、萃香の投擲による衝撃にも耐え、形を保っていた。
……さすが霊夢。私との愛の形同様、鬼の力ごときで壊れるようなものじゃないのね……!
相対速度はまだ大きく、追いついたにしても展開しているドラキュラクレイドルで粉微塵にしかねないのだが、レミリアの頭は重箱に追いつくという一点で占められ、その手段を模索する所まで及ばなかった。
既に目的を忘れているとも思える所業と言える。
「バカレミリア! このまま轢くつもりか!!」
魔理沙は焦った。あと数秒もしないうちにレミリアは重箱に追いつくだろう。しかし、それは今の速度を維持した場合の話であり、それはつまり凶暴極まりない妖力ドリルで重箱を轢き潰すことに他ならない。
魔理沙が勝利を手にするには、残された時間の中でレミリアを排除し、ブレイジングスターを解除した上で重箱を回収しなくてはならない。
前者だけでも難題なのに、後者は更に厄介だ。
大推力と超高速度を誇る恋の流星、ブレイジングスター。
対象を撥ね飛ばす事を目的としたこのスペルは堅固極まりない防御障壁もウリのひとつだ。レミリアのスペルと空中戦を繰り広げてもビクともしないようなスーパーバリアで接触しようものなら、いかに博麗の加護が付いた重箱と言え、どうなるか知れたものではない。
むしろどうにかなってしまう可能性の方が高いだろう。
つまり魔理沙が重箱を手中に収めるには、ランデブーの瞬間には障壁を解除する必要があり、その瞬間は即ちこの無茶苦茶な加速の空気抵抗を生身で受け止めなくてはならない瞬間である。
無論、魔理沙のライブラリには風抗の術式くらい常駐している。
別に高速移動時に毎回ブレイジングスターを使っているわけではないのだ。だが、今はそれを展開している余裕はない。
いくらなんでも保有スペル中最大級の呪文を制御しながら別の魔法を展開するのはムリだ。ましてやレミリアという妨害要素まであるのだから。
迫るタイムリミットに魔理沙は焦る。
勝った!
レミリアは心の中で快哉をあげた。
生身の人間である魔理沙は、この速度を魔法の助け無しで切り抜ける事は出来まい。
しかし自分は違う。この速度で飛翔する事も可能だし、今纏っている衝撃波をまともに浴びたとしても、その程度で致命傷になる事はない。
今が日中である事を加味しても、魔理沙がレミリアを出し抜く事は不可能だ。
魔理沙の運命に干渉するまでもない。純粋に速度勝負の末の決着ならば魔理沙も納得するだろう。
この人間のそういう潔さや、引き際のよさはレミリアも買っている。
不死ゆえにいつまでも戦いを止めようとしないフランドールに、遊びのなんたるかを教えるという意味では、魔理沙の行動はいい指標になるのだ。
予想外のレースだったが、思ったよりも白熱した。
その内容に満足したレミリアは、ライバルとなった魔理沙にも敢闘賞として、1個くらいならチョコをあげてもいいとすら考えた。
「……っ!?」
ぞく……、とレミリアは襟首に得体の知れない寒気を感じた。
平たく言えば悪い予感なのだが、レミリアの悪い予感はそんじょそこらの悪い予感とは具体度の桁が違う。
額の奥、意識の収束点に、瞬間だが何かが「視えた」、それも至近の未来。
レミリアがそれを吟味する間もなく、魔理沙が最後の勝負を仕掛けてきた。
輝きを増した流星が、まっすぐレミリアに向かってきたのだ。
「!?」
魔理沙が勝利を手にするには、まず自分を排除する必要がある。それは理解していたが、かといって自分を排除しても重箱が回収出来なければ意味がないのだ。
この魔理沙の特攻は、明らかに重箱を拾う事を無視した動きだ。
萃香の腕力に耐える重箱の耐水性を信じての事か?
刹那の時間、思考が混乱を来たしたレミリアは、回避する間もなく魔理沙に追突された。
激しい衝撃に大気が悲鳴をあげる。
ブレイジングスターの障壁が真紅のベールを削るが、レミリアには届かない。
相手の意図が読めないレミリアは構わず振りほどこうとするが、
「ぬな!?」
ど真ん中を押されているので、進路変更が殆ど出来ない。
しかも、口惜しい事に向こうが僅かに優速らしく、レミリアは押されている形になっているのだ。そして相手はまだ加速をしている。
押されるままに重箱を追い越した。
視界いっぱいに広がる湖面にレミリアが焦って振り向くと、輝く障壁の向こうに魔理沙の笑みに歪んだ口元だけが見えた。
疑念を声にする間もなくスカーレットドリルは湖に着弾した。
予期せぬ形で実現したレミリアと魔理沙の合体突撃スペルは、湖の水を穿ちそのまま湖底に激突した。
膨大な量の水が打ち上げられ、見えない巨人の腕が殴りつけたように湖が割れていく。
押されるままに湖底に墜落したレミリアは、ドラキュラクレイドルの螺旋構造が仇となり、そのまま地面を掘削、さらに地下へと押し込まれた。
地面と後背の圧力に挟まれ、纏っていた膨大な妖気が弾け飛ぶ。
「ぐあ、あ……あああッ!!」
穴に叩き込まれたレミリアは、護りを失ったまま彗星に押され、苦痛に悲鳴を上げる。
背後の圧力が消えた。魔理沙がスペルを解除したのだ。
レミリアは泥まみれになったドレスをひるがえし、歯を軋らせながら振り返ってーーそこで襟首を掴まれた。
魔理沙はブレイジングスターを解除すると同時、湖底に降り立った。
降りたというよりは、飛び出した先に地面があったという程度の勢いだ。
足から伝わる衝撃を、歯を食いしばって我慢し、食いしばった歯の隙間から息を吐きながら立ち上がる。
「~~ッ!」
振り仰げば周囲には水の壁が迫ってきている。墜落の衝撃で押し退けられた湖の水が、元あった場所に戻ろうと押し寄せてきている。その質量をもって二人を押しつぶそうとしている。
しかし魔理沙は迫る危機に目を向けない。
魔法使いが探す物は唯一つ。
「あれか!」
絞るように閉じゆく天井、水で出来た峡谷に黒い漆塗りの光沢が落ちてくる。
重箱が湖に落ちるまでに間に合わないと判断した魔理沙は、湖面を退かす事によって時間を稼ぐ策に賭けた。
レミリアのスペルを楯に特攻することで湖水を一時的に除去、そして僅かだが時間を得る事に成功した。
ライバルは排除した。馬鹿げたな加速とそれが生み出す衝撃波も既に無い。
勝利は目前だった。
視線の先、天井とも呼ぶべき水面が閉じ合わさっていくのも構わずに、魔理沙は地面に半分埋まっているレミリアを引きずり出し、箒を振り回す。
高らかに勝利の一手を宣言する。
【エスケープベロシティ!!】
■●■
魔理沙とレミリアの二人が飛び出した後、私は簡単な自己紹介を済ませ、事情を説明した。
しかし、霊夢は面倒そうに顔をしかめて「問題ないわ、たぶんすぐに帰れると思う」とだけ言う。
根拠は判らないが、霊夢の口調に慣れた様子があったので、とりあえずは信用する事にした。
そして今、アリスの計算によって重箱の飛んだ方角と距離を割り出した(方法は不明)私たちは、決着を見届けるべく湖に向かっていた。
成り行きとも言う。
飛ぶ事の出来ない私を、巨大化したままの萃香がその手に乗せて運んでくれているが、酔いどれ少女にうっかり握り締められたりしないかと、内心ではビクビクしていた。
「さっき物凄い水柱があがったけど、あのバカまた何かしたのかしら」
「あの勢いのまま墜落したんじゃない? レミリアも凄い勢いだったから、そっちかも知れないけど」
「せめて重箱は無事だといいなぁ~」
一行が水浸しになった森の切れ目に差し掛かった時、それは顕われた。
湖の中央に程近い場所に白波が立っている。その中心、不自然に穿たれた穴の中から光の塊が飛び出してきたのだ。
それは昇り星。
箒の先端にレミリアを引っ掛けたソレは、ブレイジングスターよりも規模が小さいが片手が空くというメリットがある。
そしてそのメリットこそ、この場では最大の効果を発揮する。
見事湖底からの脱出に成功した魔理沙、その手には重箱が抱えられていた。
魔理沙はそのまま霊夢たちの所へと向う。
珠のような汗を浮かべているが、その笑顔は勝利を勝ち取った者が浮かべるものであり、堂々たる凱旋だった。
それを見た霊夢達は呆れたように苦笑する。
だが。
「ふ、ふふふ……甘い、甘いわ魔理沙! 敵に情けをかけるなんて!!」
箒に引っ掛けられたままだったレミリアは、泥だらけの顔で叫ぶ。
「霊夢のチョコは渡さない! 私の物にならないのなら消えてしまえばいい!!」
敗北のショックで気が立っていたレミリアは、怒りに任せて力を放つ。
【紅符 不夜城レッド】
直後、湖に真紅の墓標が突き立ち、私の視界は紅一色に染め上げられた。
轟音と衝撃に飲み込まれ、全身の感覚が消失したような虚無感に襲われる。
その中で、後ろから引っ張られるような感じだけがあり、私はそれに引かれる様にして意識を失った。
□○□○□
「う……ん……」
薄く目を開けると、仄明るい光が見えた。
「あ……痛ぅ……」
目の奥がズキズキする。目の前がチカチカする。異なるモノを見ていた時特有の症状だ。
最後に目にした真赤な光が、まだ瞼に焼き付いているような感覚。
右手の甲で目の辺りを押さえ、背中の柔らかい感触に身を沈める。
えっと……あの後どうなったんだっけ? ああそうだ、突然紅い十字架が現われたかと思ったら、空から重箱が落ちてきたんだ。
うっかりキャッチしてしまった私は、
「……どうなったんだっけ?」
突然床が抜けたような感覚があったような気がする。そこから先が記憶に無い。
目を閉じたまま息を吸い込むと、どこかで覚えのあるシトラスの香りに、頭の中にある澱んだ何かが霧散していくのが感じられる。
リラックスしたら眠気が戻ってきた。だが眠るには瞼の向こう少し明るい。
「……まぶし……」
「あ、ごめん。ちょっと灯りを絞るね」
無意識で発した言葉には返事があった。
「!?」
ぎょっとするとはよく言ったものである。
驚きの余り私の心臓は瞬時にオーバーワークを開始し、一気に高まった心拍数や体温が「凝」という音を私の体内に誤聴させる。
私は飛び上がるような勢いで起き上がると、声の主を探した。
蓮子が室内灯の調整をしている姿が目に入る。
「お目覚め? 眠り姫」
「え? ここ? 蓮子の部屋?」
「そうよ。正真正銘、蓮子の部屋よ」
そう言いながら相棒はカップを差し出した。コーヒーの香りのする湯気の向こうに苦笑する顔が見える。
「大変だったんだからね、メリーをタクシーから降ろしてここまで運ぶの」
「な、なんで貴方の部屋なのよ」
「貴女のマンションの方が、部屋までが遠いから」
「左様ですか」
単純かつ蓮子らしい理由に納得し、カップを受け取る。ふん、どうせ私は重いですよーだ。
私が寝ているのは蓮子のベッドで、さっきの香りは蓮子のシャンプーの香りか。
それを思いきり吸い込み、無意識で充足した自分を思い出すと顔が熱くなってくる。
「まだ頭とか痛い?」
黙り込んだ私を、蓮子の黒曜石のような瞳が覗き込む。
ふわりと先程と同じ芳香が漂った。
相方の髪の香りでリラックスするだなんて、我ながらなんという……
いや、それだけ宇佐見蓮子という存在に心を許している事なのかもしれない。
「なんでもないわ。ただ、このベッド蓮子の匂いがするなーって思ってただけ」
「な……!」
私の不意打ちを受けて蓮子が仰け反った。珍しい、蓮子が赤面している。
「わ、私はリラックスアロマじゃないわよ……」
蓮子のベッドから抜け出した私は、衣類などで散らかっている部屋の中心、蓮子の城を占位している炬燵へと移動する。
足の踏み場が無いわけではないが、この散らかり具合では親しい友人以外は招く事が出来ないだろうに。
セーターとカーディガンの狭間にミントグリーンのブラが埋まっているのを見つけてしまい、なんとなく気恥ずかしくなって埋めた。といか、下着くらいは片付けろ。
ちなみに私の部屋には炬燵がないので、この時期の蓮子はあまり長居をしない。
代わりに呼びつける事が多くなるのが悩みの種で、その事を直訴したら「冬の間のメリーが少しでも運動するようにっていう私の心遣いよ」とのたまったので、ゲンコツをくれてやった事もある。
抜け切らない眠気に身を委ね、コタツの天板に頬をつける。
△▼
「まあ、なんにせよ無事で何よりだわ」
蓮子はメリーのカップにコーヒーを注ぎ足しながら言う。
散らかった服を弄っていたメリーだったが、まだ眠いらしくうつらうつらしている。
炬燵の上には黒光りする漆塗りの重箱が置かれていた。
昏倒したメリーを担いでタクシーで帰ってきて、車から降りる蓮子を運転手が呼び止めたのだ。忘れ物をしている、と。
これが今回の問題。私もメリーもこんな重箱は持っていない。
「で、これは?」
「そう、それなんだけど」
メリーがだるそうに語るには、これは夢の世界で遭遇した騒動の元凶らしい。
夢の世界。即ち、あちら側の世界だ。
それを聞いた私の眉が寄る。
またか。しかもあんな僅かな間に境界越えをしていたのか。
微妙に頻度が増してきている。メリーも気付いているかも知れない事だが、サークル発足当初よりも明らかにメリーと異界との縁が強まっていた。
話に聞くだけでも結構な危険がある場所なのだ、今回は無事に戻って来られたが、次も五体満足で帰ってこられるという保障は無い。
可能性を論じるなら無事で帰ってこられる事も可能性の一つとして、正しく評価すべきか。
まぐれだって百回続けば実力だというし。
二人で活動しているとはいえ、境界渡りはメリーの担当になってしまっている。秘封倶楽部の活動の根幹を支えている人物が、気軽に命の危険に晒されているというのに何も出来ないのは、運命共同体を名乗る身としては心苦しい。
そう、心苦しい。
興味半分で接触して、マエリベリー=ハーンの目が本物だと判った時、私は本格的な結界暴きが出来る事を心から喜んだ。
始めは私がメリーを連れ回していただけだが、次第に二人並んで歩くようになって、最近はメリーが一人で向こうへ行ってしまう割合が増えてきた。
異界と触れ合う危険をメリー一人に負わせている。
そんなつもりはないのだが、私が秘封倶楽部に誘わなければメリーの能力が成長(変異?)する事も無かったのかもしれないのだ。
今では肩を並べて歩き、同じ釜の飯を食い、同じ布団で寝る間柄だ、メリーの身にもしもの事があったらと思うと結界探査の足が鈍る事もある。
このままメリーと境界との繋がりが強まって、戻る事の出来ない所まで踏み込んでしまったら、それはきっと自分の責任だ。
……戻る事の出来ない? これは夢の世界の話なのに?
どこからか涌いてきた反論に首を振る。
メリーは夢の世界と呼んでいるが、これは二人の間の符丁のようなものであり、マエリベリー=ハーンの脳細胞が見せる情報整理の心象世界というわけではない。
私も一緒に境界を越え、見知らぬ場所へと迷い込んだ事があるし、過去に何度かの夢渡りを経験しているメリーは、時々お土産を手にして帰ってくる事があった。
何に使うか判らない御札だったり、竹串だったり向日葵の花だったりと品物はいろいろであるが、それらは全てあちら側で手に入れた物だそうで「夢から醒めても」手にしたままであるのだそうだ。
メリーの話では時々持ち帰り損なう事もあるらしいが、それはその品物があまりにもこちらと相容れないからかも知れない。
この時点でメリーが体験した世界が、精神の見せる世界だというのには無理が生じる。
そうでなければこの重箱の説明がつかない。
メリーの能力の証明が目の前にあるのだ。厳然たる事実に、私は内心で嘆息する。
ともあれ今回もお土産つきで、あろうことか中身はチョコレートだそうだ。
ここまで来てなおチョコレートか。
なにか呪詛めいた関連性に目眩がしてきた。今日はつくづくバレンタインと縁があるらしい。
動かぬ証拠である重箱を前に私は肺腑から空気を搾り出し、そこで思い直した。
バレンタインに無理を押して街に出たからこそ、メリーはそういう騒動の現場に出くわしたのではないか。
安易に関連付けるのは早計だが、何の脈絡も無いと考えるのも不自然だ。
メリーがあちら側と繋がるには彼女の能力だけではなく、何かしらのキッカケが必要だ。
場所や時間、品物や情報といった有形無形のチケットがあって、初めて夢渡りが可能になるのだ。
つまり、今回はバレンタイン(或いはチョコレート)という要素が切符となってチャンネルを繋ぎ、メリーをあちら側へと誘ったのではないだろうか。
「……向こうのバレンタインは激しい物だったわ……」
メリーが戦場から帰ってきた兵士の顔で呟いた。
まだ眠いのか炬燵の天板に頬を付けている。メリーの西洋人形のような美貌と安物の炬燵という組み合わせは、牛乳瓶に生けた豪奢な花を見ているような気分になってくるが、これはこれで味わい深い光景だった。
憂う眼差し。黒く見える紫の瞳は、一体なにを見ているのだろう。
私は視線を合わせずにメリーの目を見る。
聞けば、この重箱の中身を巡って争っていたのは一人残らず少女だったと言う。
チョコを欲しがる側が女の子という状況に首を傾げた。どんな風習かは知らないが女子校のような特殊な環境なのだろうか?
メリーの見てきた世界というのは、それなりに倒錯しているのかもしれない。
まあ、なにはともあれ中身を見てみたい。
「はーい。ご開帳~」
「……ってなにいきなり開けてるのよ!」
私が重箱を開けるとメリーが血相を変えて起き上がった。
「だって食べ物でしょう? 日持ちするものでもないし、どうせ返しになんて行けないんだから」
「それはそうだけど……せめて一声かけてからにしてよ……」
「蓋も開けずに検分なんか出来ないし」
「蓮子、玉手箱って知ってる?」
「ぐ……。こ、ここで食べないでダメにしちゃったら、それこそコレを求めて争った子たちに悪いわよ」
「検分に関しては賛成だけど、そういうものかしら?」
「私は重い荷物を運んで疲れたから、身体が甘いものを欲しているのよ」
「く……、言ってくれるじゃないの」
▽▲
蓮子がコーヒーを淹れ直している間に、私は中を重箱の中を覗いてみる。
玉手箱というのは言いすぎだが、何か危険物が入っていないとも限らない。
今回はあの子たちがチョコだと言っていたのである程度安心していたが、あちらの世界でチョコと呼ばれている物が、こちらの世界ではプルトニウムの事だったりしたら、今頃わたしたちは無事では済まないだろう。
蓮子の直感と思い切りの良さは頼りにしているが、時々危なっかしい所がある。
自分は境界を探しで平気な顔をして深夜徘徊するくせに、人が夢渡りをすると物凄く心配するのだ。
顔には出していないつもりだろうが、毎日のように顔を合わせていればなんとなく判るようになってくる。
蓮子に心配をかけているのは判っているが、自分でもどのタイミングで境界を越えるのか分からないのだから仕方ない。
いっそ制御出来るようになればこんな心配も無くなるかも知れないが、そうなった時、果たして私は『人間・マエリベリー=ハーン』のままでいられるのだろうか?
倶楽部の活動履歴を管理している蓮子が、私の夢渡りの間隔が狭まってきている事に気付かない訳が無い。
今日だって何気ない風を装っているが、内心ではどう思っていることやら。
時計を見るに、私が眠っていたのは三時間程度。
移動時間を差し引いても、部屋に担ぎ込まれてからの方が長いのは間違いない。
部屋の中が散らかっているのだって、蓮子がこれまでの資料や私が拾ってきた物を引っ張り出したからで、蓮子の私生活が乱れているからというわけでも……いや、洗濯物はそのままかな?
ともあれ、蓮子は私を心配してくれているし、私は蓮子のことが心配だ。
もしも将来。この目が原因で蓮子を危険に晒すことになるのなら。
そうなる前に私は……
「ほい、おまたせぇ~」
蓮子がコーヒーサーバーごと持ってきて、私の思考は中断された。
果たして、中身は正しくチョコだった。直径三センチ程度の球が並んでいる。
あれだけの騒動の最中にあっても中身には一切影響が無かったらしい。
どんな仕組みなのか想像もできなかった。
「トリュフ……? じゃないわね」
球状のチョコにココアパウダーをまぶしてあるアレかと思ったが、少し違った。
パウダーがまぶしてない上に、実に斬新な形態だと言える。
「なんで陰陽玉なの?」
蓮子も首を傾げている。
霊夢と呼ばれていた黒髪の女の子の手によるものなのだろうが、何か由来でもあるのだろうか?
ひとつ摘み上げてみる。
普通のチョコとホワイトチョコが組み合わさるようにして球を形作っている。というか、これってどうやって作ってるんだろう?
こぽこぽと軽快な音を立て、コーヒーが注がれる。
眠気覚ましかと思ったが、蓮子は初めからチョコにあわせてコーヒーを選んだのかもしれない。
中身がチョコである事を知らなければその選択は無いのだが、こういう時の蓮子は妙に勘が鋭い。
「では」
「そうね」
見ず知らずの少女たちに代わりに頂くとしましょう。
「いただきます」
「いただきます」
一口に放り込んで数秒。
「あら」
「おいしー!」
びっくりだ。ビターチョコの苦味とホワイトチョコ柔らかい甘みのハーモニーが絶妙。これを作った人は相当にセンスがいいに違いない。両方同時に食べて美味しいなんて。
驚きながらも斬新な味わいを楽しんでいると、蓮子の動きが止まった。
「食べてから言うのもアレだけど、これ毒とか大丈夫よね?」
「確かに食べてから言う事じゃないわよね……」
蓮子の言葉にメリーは思い出す。
「でも、みんな必死になって奪い合っていたから、食べられるんじゃないかしら」
「実はコレが危険な代物で、他人の手に渡らないように奪い合っていた、とか?」
「どんな兵器よそれ……」
そう言いつつ私は二つ目に手を伸ばす、蓮子は既に三つ目を頬張っている。
カカオの香気とブラックのコーヒーが合う。ああ、幸せ。
「こんなに美味しいなら、奪い合うのも分かるような気がする~」
目を細めた蓮子はどことなく猫科の動物を連想させる。炬燵が好きな所とかもそうなのかも、と、埒にも付かない考えを転がしながら、私の手もチョコへ伸びる。
メ リーがそれに気がついたのは、五個目を食べ、コーヒーのおかわりを注いでいる時だった。
「……」
なんだ、これ。
熱い。暑いのではなく、熱い。頭の芯がぶれている。身体の表面が火照り、顔面の血行が良くなり、しかし身体の奥のほうは妙に冷めている、不思議な感じ。
アルコールでも入っていた? カフェインの過剰摂取? ガラナとか?
「ふう……」
蓮子も暑そうにしている、いや……熱いのだろうか?
片手でタイを緩める蓮子と目が合う。
顔が赤い。目が潤んでいる。そして自分も似たような状態だと本能的に察した。
「……」
「……」
チョコの香りのする甘ったるい空気の中、沈黙が降りる。
じっとりとした熱さ。
熱源から遠ざかろうと、炬燵の中の足を曲げ、
「あ……」
私の足先が蓮子の足に触れた。
蓮子の足がビクリと退がるのがわかった。
「……」
「……」
視線が合う。
むずがゆいような空白が一分、二分と続き。
三分後、部屋の明かりが消えた。
□○□○□
チョコ騒動から一日を経た博麗神社。
レミリアの暴挙によって廃墟同然となった霊夢の住まいだったが、騒動に関わった者たちの手によって修復されていた。
働いたのは主に萃香だ。
修復の資材関係は紅魔館持ちという事になったが、他人様に迷惑を掛けたと言う理由でレミリアは咲夜に尻叩きの刑に処された。
アリスと魔理沙は向こう一週間ずつの神社での炊事などの家事全般を課せられている。
それぞれに反省し、今夜は詫び入れの宴会という運びになっている。
霊夢は上座に座り、今は萃香に酌をさせていた。
「あーあ、霊夢の手作りチョコ食べたかったなぁ」
「そのうち作ってあげるわよ……あんな騒動になるくらいなら、チョコの一個や二個くらい」
「やったー!」
「でも、霊夢ってチョコレート菓子の知識なんかあったのかしら」
咲夜は、百叩きでまともに座れなくなったレミリアの座椅子代わりとして参加していた。
咲夜の膝の上で大人しくしているレミリアもその疑問は同じらしく、問うような瞳を霊夢に向ける。
「そりゃあ、私だって何も無しには作れないわよ。きちんとレシピを見ながらよ?」
「霊夢、そのレシピ残っているかしら?」
「ん? 台所に張ったままかな?」
その言葉を受けて、アリスの人形が台所から小さな紙片を手に飛んで来た。
軽く眼を通した咲夜は、まるで検死官のような顔で尋ねる。
「霊夢、これは誰から?」
「ああそれ? この前、風邪薬を届けてくれた永琳から教わったのよ」
材料もセットで貰ったの、と霊夢は薬局の箱を指差す。
ざわ……
霊夢の言葉に場の空気が変質した。
八意永琳と申したか。
咲夜は、小刻みに震え出した萃香に、レシピという名の悪夢の処方箋を渡す。
おそるおそるといった風情で眼を通した萃香は、
「OH……!」
思わず霧散した萃香は慌てて凝集すると、幾分青褪めた顔でメモを魔女二人に回す。
メモを見ていた二人は無言だったが、顔を見合わせると同時に頷いた。
「霊夢、折角だけれど、私はチョコは遠慮させてもらうわ」
「わ、わたしも~」
優しく微笑むアリスと、愛らしく挙手する魔理沙。どちらも笑顔なのだが口元が引き攣っている。
魔理沙にいたっては口調まで変わっている。
「そうなの? まあ食べたくなったら言ってちょうだい。まだ材料は残ってるから作ってあげるわ」
霊夢は興味なしといった様子で杯を傾けた。
知らぬは本人のみか、とアリスは嘆息する。
神社であんな物を食ったらどうなる事か。霊夢は好きだが、対妖怪用の媚薬入りチョコを食った上で神社に居残ったら、どんな事になるか想像に難くない。
獲物を前にした霊夢に容赦の二文字を期待するのは、飢えた猛獣の前で狸寝入りするにも等しき愚挙だ。
鬼ですら竦み上がるような奇薬入りのチョコを奪い合っていたのかと思うと恐ろしくなるが、つくづく自分の手に回ってこなくてよかったと思う。
レミリアの自爆同然のスペルは想定外の破壊をもたらし、湖はその縁に小さな調整池を作る事になった。
至近に居た魔理沙は当然吹き飛ばされ、アリスも自分の身を守るだけで手一杯だった。
霊夢と一緒にいた見慣れない人間がどうなったのかは知らないが、あのエネルギー量だ、さすがに重箱は跡形も無くなっているに違いない。
手元のメモ用紙に再び目を向ける。
ちらりと眼を通しただけでも、自白剤とか抗鬱剤に使う薬物がこれでもかと入っている。どう贔屓目に見てもチョコ菓子に入っていて良い成分ではない。
しかも天然素材。
あれか、毒人形か。まったく、厄介な仕入先を見つけたものだ。これでは再現が難しいではないか。
しかし恐るべきは八意永琳。人間にも効くように作ってあるとは。
このジャンルで並ぶ者は居ないのは分かっているが、流石としか言いようが無い。
というか、霊夢は味見をしなかったのだろうか?
この騒ぎを影から操っていた宇宙人の笑みを思い浮かべて、アリスは苦い物を食べたような顔になった。
「まったく、甘くないわね」
■●■
藍が紫の寝所の前を通ると、主の起きている気配があった。
「おや紫様、これはお珍しい」
毎年冬眠する紫は二月に起きている事はほとんど無い。
「藍、なにか塩気のあるものが食べたいわ」
「は、はあ」
起き抜けで甘いものも無いだろう、と妙な注文に首を傾げる。
寝直す前に軽く食べる物にしても、手を抜く道理は無い。
敬愛する主の為に腕を振るうべく藍が立ち上がると、ふわりと甘い香りが漂った気がした
「?」
「どうしたのかしら?」
「いえ、何でもありません。では腕によりをかけ、手早く作ってまいります」
幽かな香りは幻のように消え失せ、初めから存在しなかったかの様に感じられなくなっていた。
自分の嗅覚でも追えない香りは、確かにチョコレートだった。
「紫様」
「なにかしら」
「先に渋いお茶など如何でしょう」
「あら、気が利くわね。丁度飲みたかったのよ」
-了ー
メリー=紫説が前提ですが
イチャイチャしてねぇ!
とりあえずメリーと蓮子は僕にチョコをくれるといいよ!
夢と現の境界、八雲紫とマエリベリー=ハーンの境界弄ってまで手に入れるなんて!
秘封倶楽部とゆかれいむは最高ですなぁ。
いや、まあ、なんだ、部屋の電気消したからもういいかなとかw
今日はおとなしくしてるつもりだったんだが、街に出てそんな感じの2人組でも探してみようか、幸いにしてここは古都だし。
これ見てメリーと蓮子は妖怪?と思ってしまった。
単に効果が高いと解釈するべきか
2人がイチャってしまって気分を害して本当にそうなったのかもしくは、
休んでなおイチャっているのか・・・
怪しげなビンとかではなく、ごく自然に材料として台所に置かれていただろう薬たちを、そうとも知らず調理しているのを想像するとちょっと怖い。
それはそうと連子とメリーの奮闘ぶりがなんとも。
これはいい作品 30点
こっち側と向こう側のバレンタイン模様はこんな感じなのか
ていうか、レシピだけでメリーと蓮子にあそこまでおいしいと言わしむるとは…霊夢、恐ろしい子!
そして永琳は何を思ってこんなレシピを渡したんだか。
100-30で
永琳の名前に皆引きすぎw
特製チョコは人には少々きつかったのか、効果が長かったのかw
しかし面白い作品でした
人間相手でも効果発揮しまくり保証済みw
と思ったり。
シグルイネタには吹きましたw出来ておるのう…
あと、部屋の明かりが消えた後のこと、補完よろしくお願いしますw
なんて冗談は置いといて、前半の暗黒面に落ちた蓮子とメリーに笑わせていただきましたww
え?14日?一日中引きこもってましたが何か?
あっちで燃えてこっちで萌えて・・・
跳んだ2月14日ですな。
「ゆうべはおたのしみでしたね」