*というわけで『境郷2(3)』のさらにさらにさらに続きとなります。
(1)~(3)を読んでいない場合、状況がわけ分からないと思いますので、出来れば前の方からお読みください。
それと、各章の冒頭にもあります通り、このお話は一部ないしある程度の範囲で、
作品集31の拙作『境郷』と舞台や人妖設定などが共有されています。……が、
いちおう『2』の一連だけでもそれなりに独立したお話として楽しめるようにはなっています。
それと、このお話ぐらいからオリキャラ警報が大絶賛発令中ですので、
そういうのが駄目な方は過度の摂取を避けるか、一定量ごとに小休止をはさんでからお楽しみ下さい。
以下、あらすじっぽい文字の羅列
新聞記事に興味を惹かれ、人口密集地を遠く離れた山奥、
妖怪と人間がそれなりに折り合って暮らしている、そんな郷を訪れた我らがメイド長、十六夜咲夜。
子供達と共に郷の日常に触れ、そして彼女は、郷に深く関わる妖怪少女の名を知る。
名はほとり。
かつて郷に居た、とても凄かったらしい妖怪の名を継ぐ少女は、それが何より重いと呟く。
夜は更けていく。
やがて訪れるささやかな嵐を、予感さえさせぬままに。
そんなこんなで、境郷2(4)となります。
もういい加減慣れてきたかもしれませんが、やっぱりと言えばやっぱり長いお話だったりしますので、
お茶かお茶菓子、またはその両方があるとほどよい加減で楽しめると思います。
では、どうぞ
境郷2 ~ The Border Land Story (4)
太平洋高気圧が梅雨前線を北へと押しやり、梅雨が明け、暑い暑い夏がやってくる。
それでも、山中の朝はけして暑くはなく、むしろ多少の湿気さえ気にしなければ清々しいとさえ言えよう。
夜明けが早い分だけ陽射しが大地を暖めるのも早く、その清々しさはけして長くは続かないのだが、
起き出し、今日一日の営みを始めようとする者たちにとってみれば丁度良い。
既に家人が炊事に取り掛かっているのか、いくつかの家々から煙が上がるなか、
朝日が最初の光を山裾から投げかけ、西の空へ闇が粛々と引き上げて行く頃になると、
夜行性の主だった妖怪達もそれぞれのねぐらへもどって行く。
そんな光景をよもや『外』で見ることになるとは、と、
縁側で伸びをしつつ、目の前を通り過ぎたいささか大きすぎる飛行物体を見送りながら、咲夜はぼんやりと思っていた。
「……さて」
振り向いた、視線の先に二人分の布団。
より正確に記述するなら、一人分の中身の居ない布団と、一人分の中身の居る布団。
昨晩の咲夜の記憶に判断の根拠を求めるのなら、摂取した酒量は結構なものであるはずだが、
さほど強くない割には二日酔いなどというものとは無縁なのか、
先ほどから『むにゃうにゅ』とか『うゆゆゆゆ~』などと幸せそうにもぞりもぞりしている影一つ。
その動作に合わせて頭部の触覚がぴょこぴょこと動いていたりするのはなかなかにチャーミングと言えよう。
しばしその様を眺めていた咲夜であったが、ふとなにを思い立ったのか、
おもむろにスタスタと寝ているその枕元まで歩み寄って、腰を下ろした。
「…………」
「うにゅぅぃぉぁ~」
いい感じに意味不明な寝言を上げる妖怪少女の顔をぼんやりと見やってから、
おもむろに両手でそのほっぺたをつまんだ。
「…………」
「うぅぅぅぅぁぁぁ~にゅゅぉ~」
ぐぐぐぐーと、横に。
「…………」
「ぉおおおぉぉ~~~むぅぅぅぅぉ~~」
ぐぐぐぐぐぐーと、縦に。結構やわらかい感触のそれをぐにゃぐにゃと弄んでみるが、起きない。
「…………」
「うふふふふぅぅぅ~~~~~ぅにゃ~~~」
どれほどに満ち足りた夢を見ているのか、あるいは夢を見ないほどに眠りそのものが心地よいのか、
緩みきった表情からは『至福』の二文字以外を連想しようもないほどだった。
我知らず、咲夜の口元と目元とその他とが愉快を示す模範のように形状を変える。
「……ふふっ」
「…………うにゅ?」
「おはよう」
「ぅぉ~~~、ぅはゆぉ~~」
「間延びしてるわね」
「低気圧なのだぁ~」
「低血圧でしょ」
「どっちでもいいから~あと五分んぅ~~~」
「……しょうがないわねぇ」
「うよ?」
苦笑しつつ、がっちりと敷布団の端っこを掴む。
基本はとうに会得済み。時折神社に寝泊りする主と当の神社唯一の住人たる巫女を朝っぱらから叩き起こす時と同じだ。
たまにその中には黒白い魔法使いと主の妹君、下手をすれば人形遣いとか一週間少女とか天狗とか向日葵とか、
場合によると鬼やスキマまでもが含まれていたりするから、相手がたった一人であれば苦戦の心配は無用。
基本に忠実に、一撃で決めればよろしい。
瀟洒に腰を踏ん張って、ぐいと腕に力をこめる。
後はただ、心のおもむくままに、引っ張るのみ。
「―――とりあえず」
「ぅにゅぉ~~~?」
「起きろ―――――――――ッ!!」
「うばぅぉおおおぇぇぇぇっ!?」
ぶぉんっ、ごろごろごろごろご――ごすぅぅぅぅぅぅぅぅんっ…………どさっ。
ちなみにその鈍い轟音が響いたとき、折りしも標高にして10メートルばかり下方、
日課である暴れ牛鳥の早朝乳絞りを完了した狩野善治氏(38歳B型)が牛乳でいっぱいの桶を置いたのと重なったというが、
両者の因果関係については残念ながら推測の域を出ない。
午前と呼ばれる時間帯も半ばを過ぎた頃、朝餉の始末には遅く、昼餉の支度には早すぎる煙が空に上っている。
煙の源は郷から見て神社と反対方向、人の手がほとんど入っていない森林を抜けた先、湖畔にあった。
一部を水に浸しながら勢いよく炎を吹き上げているのは、急造と思しい、しかし丁寧に作られた木棺二つ。
風に流され湖上へと煙がたなびく様を、ほんの十ほどの影が見送っている。
その先頭で瞑目し、聞きとれないほどの小声で何事か唱えているのは神主だった。
居並ぶ残りも、単に木棺を郷からここまで運ぶことに適した膂力を基準に選ばれた数名と、
おそらくその木棺の中の、ほんの一日ほど前まで生きた人間だった二人を最初に発見したのであろう少年。
そして、頭の触覚も気持ち粛々として見える妖怪少女、ほとりに、自ら同行を申し出た咲夜。
それが、この慎ましやかな葬儀に参列した全員だった。
「…………」
何人かが頭を垂れている中で、黙々と間に合わせの祝詞を、あげるのは意外にも初めてという神主の背中を通して、
咲夜は炎に包まれる二つの木棺を、不思議な気持ちで見続けている。
結局、昨夜の酒宴騒ぎを通夜代わりに、このメイド長がここ、この郷へ来るに至ったきっかけとなる新聞記事の老夫婦は、
郷の者達の手で丁重に葬られることになった。
そのことについて色々と理由はあるとしても、聞いた限りの中で咲夜がひときわ意外と感じたのが、
老夫婦自身がこうされることを望んだというのである。
『まあ、正確に言うとね、病死じゃないらしいんだよね。
どっちかっていうと老衰なんだって』
『老衰? でも、まだそんな御年じゃなかったんじゃないの?』
『いや、それは分かんないって。
確かに、外の医療技術で「長生き」することは出来るかも知れないけどさ、
天命……って言っていいのかな、ともかく、最後まで様子を見てた先生……ああ、えっとね、もともと外で医者だったおばちゃんなんだけど、
その人に言わせると、苦しんで亡くなったってより、蝋燭が燃え尽きるみたいに、すぅっと……逝っちゃったんだって』
朝食を摂りながら交わした会話が、今になって耳朶に反響する。
『無礼とは思ったのだが、ご夫婦の持ち物をあらためた所、日記と……遺書があったのだ。
どうも、元からあのお二人は、山歩きの途中か、でなければその後自宅に戻ってから、
その……死ぬつもりだったらしい』
『見せてもらって、よろしいですか?』
『ああ、おそらく構うまい。……どうぞ』
『……「もし、私達二人がどなたかにご迷惑をおかけする形でこの世を去ってしまったとしたら、まずは、その方にお詫びを」……』
これは、その途中になってやって来た神主と交わした言葉だった。
神主になってから日が浅く、人の死に目をこういう形で迎えるのは初めてなのだと、やや戸惑いがちに言う神主と、
手渡された詩片に並んでいた眼が醒めるほどの達筆と、迷いのない言葉が綴られた真っ白な和紙の感触が不意に指先に戻ってきて、
咲夜は我知らず、メイド服のスカートをそっと握り締める。
祝詞は、まだ続いていた。
ほとんど聞き取れないそれに耳を傾けながらも、咲夜の意識はその時の会話に向かっていく。
『命数を悟った、と言うべきなのかもしれんな。
ある意味では、とても幸せなことなのだろう。
お二人は、不本意に早い死を迎えるのではなく、しがみついて不当に長く生きるでもなく、
ご自分達の背負ってきた荷物全てが肩から下りたのを確認して、ゆっくりと、
持って生まれてきた命の最後を、ご自分達で決められたのだろう』
『そう……かも、しれないね。
わたしも……わたしの知ってる限りでも、あんな風にすっきりした顔で死んでった人は、あんまりいないなぁ』
先刻、咲夜もまた、その二人に手を合わせた。
遺言に従い、化粧を施すこともしていないその顔は、けれども不思議なほどに暖かな、「いのち」の宿った顔をしていた。
その顔が今、炎の中にあって、二度と目にする事は出来ないのだと考えた瞬間、
咲夜の意識の中に、すとんと、何かが下りてきた。
涙が出てきたわけではない。
けれど咲夜は、その何かの正体を考えるまでもなく、
それまで真正面を向いていた顔を、自然と、炎に向かって下げていた。
祝詞は、なおも続いているようだった。
鉄と、自然ならざるものによる衣をまとった者達が、日の光を避けるように山間を移動している。
人外のものの理解が及ばぬヒトの技術で身を固め、僅かな身振りと、短い言葉で意思を互いに伝えているそれらは、
周囲から発せられる人ならざる視線を、本能のどこかで受け止めながら、しかし躊躇うことなく進んでいた。
それは、嵐だった。
ほとんど灰と化した遺体を、静かに、ゆっくり湖の中へと送り出し、
二つの棺が完全に水中に吸い込まれるのを確認してから、一行は郷へと戻るためにささやかな山道を下り始める。
妖怪少女、ほとりが立ち止まったのは、歩き始めていくらも経たない頃だった。
「……お、ん?」
「? どうしたの―――」
「しっ!」
一番近くを歩いていて、真っ先にそれに気付いた咲夜が問うのを鋭く手で制したかと思えば、
目を閉じ、耳に手を当て、聞き取れないほどの早口で何かを呟き始める。
「……ん……そう………ん……任せる……オーケー、みんな!」
僅かな間、小声でここいない誰か・・・・・・・と会話を交わした後、やや大きめの声で呼びかける。
が、そうする間でもなく、この時点で既に同行していた全員が何らかの異常に気付き、立ち止まっていた。
先ほどまで死者を悼んでいた空気は一変、研ぎ澄まされた緊張感が漂い、
神主と咲夜を除く全員が、少女の言葉を神妙に待ち受けている。
「……細かい事はまだ分からないんだけど、どうも外からお客さんみたいだよ。
それも、なんだかちょっと物騒な感じの団体さん」
同行者達の間でざわめきが生じ、半分余りの視線が咲夜に、残りの半分が、神主に向いた。
「…………む」
「? なに?」
「あー……えっと、一応聞くんだけど。
心当たりって、ある?」
「……役立たずですまんが、ない」
「……団体で押しかける知り合いは、いないわね」
「そ……うん、ありがと」
二人の即答に、何故か少女を含めた全員が安堵の息をつく。
正直な所咲夜としては、単独でならばここに出現し得る既知に心当たりがないでもなかったのだが、
物騒な感じの団体さんとなれば話は別である。
「んじゃ、とりあえずさっさと戻るよー! 全員、駆け足――!!」
「「「おーっす!!」」」
「……わかった」
「……しょうがないわね」
勢いよく応じる者、溜め息の後に続く者、やや面食らってから苦笑して最後尾に着く者、
軽快なフットワークで先頭を行く触覚を追いかけるようにしながら、
咲夜はほとんど並走する形になった神主に、ふと湧いて出た疑問をぶつけてみた。
「……少し、聞いていいかしら?」
「今しがたの、あれか?」
「ええ、まあ」
「なんということはない」
壮年か、もう少し上に見える割に、先を行く妖怪少女や見るからに肉体派の面々に劣らぬ健脚で地を蹴りつつ、
息も乱さず返答するという芸当を見せる神主の口元が、緩んだように、見えた。
「少し前ならば、俺は逆の立場にいた……そういうことだ」
「あら」
「意外か?」
「……ええ、少し」
「分からんものだ。
ほんの僅かの巡り合わせの違いが、こうまで人の立ち位置を変えてしまうものなのだから」
今度ははっきりと、このコワオモテの神主が苦笑とも何とも判別し難い、しかしはっきりとした笑みを浮かべて言う。
それを見て、咲夜もふと、己の境遇に思いをはせた。
ほんの僅かの巡り合わせ、というにはいささかばかり大きな騒動だったような気もするが、
主が紅い霧を出したことに腹を立ててやって来た巫女と魔法使いと弾幕やり合い、
直後の長かった冬にはその二人と共にあの世へ殴りこんだ、そんな具合だった自分の最近を考えると、
その言葉もあながち的外れではないように思えた。
「……ええ、本当に、分からないものですわね」
「……ああ、分からんものだ」
だから、十六夜咲夜もまた、分類し難い、けれどもはっきりとした笑みを浮かべて、それに応じる。
郷へと下る坂道は、いつの間にか緩やかになっていた。
「で、今は東の森で迷ってるのね?」
「迷っている、というよりは、外から入る場合に一番長い順路を辿ってるってとこです。
連中がやってくるのに気付いた子たちが、樹界迷路の一部をそういう具合にしてくれたらしくて」
「とすると……この速度でこのまま来るとして、もうそんなに余裕はないかなー。
その物騒なお客さんたちについて、何か分かった?」
「正体については何とも……。
ただ、ヤケに堂々と迷路を歩いて来てるそうで」
「ふーん……あれ、迷路を外へ向けて繋げられないっけ?」
「何度かそうしようとしたようなのだが、その度に気付いて正しい道に戻っているそうだ。
勘の鋭い者がいるのか、あるいは何らかの対策をしているか……」
「ヤな奴らだなー。
惑わされてるのは知ってて、それでも大人しく順路たどって出口まで歩くつもり?
何か、いくら時間稼ぎしても無駄とか言われてるみたいで腹立つぅ――!」
「気のせいじゃないの?」
「それはそうかも知れないけどさ。
でもこう、なんていうの? きっと凄く根性の捻じ曲がったヤツが居るに違いないのよ!」
わいわいと、臨時の作戦司令部のごとき様相を呈しているのは、郷の中央あたりの古びた木造建築だった。
もともと集会所か何かに使われていたのか、備え付けの古い黒板……そう、まさに真っ黒な、
もともと幻想郷の『外』出身である咲夜でさえも見覚えのない黒板には何枚もの地図が張られ、
今しも議題の中心になっているその『連中』なる集団の位置がやけに正確にピンで表されていて、
しかもその位置はリアルタイムで更新され続けている。
ついでながら、何故か昼時ということもあり、居並ぶ人間と、どうも人間以外らしい全員が、
手にお握りだの味噌汁だのを持ち、それを思い思いに消化しつつ活発に情報が交換されていた。
このあたり、緊迫感があるのかないのかよくわからない。
ちなみに咲夜もご相伴にあずかり、梅と高菜、二種類のおにぎりを既に胃におさめていた。
塩気が絶妙な具合に抑えられていて、なかなかに美味だ。
「やっこさん達、武器らしい武器はあんまり持ってないそうです。
最近の外のものでいうと、せいぜいが拳銃、でなくても、
刀ぶらさげてるとか、槍持ってるとか、そんな感じですね」
「何か……みょーにアンバランスねぇ」
「オマケに格好は、えーと……みんな黒スーツ?
何だこりゃ、脳ミソが暑さでどうにかなった新興宗教団体か、こいつら?」
「脅しはほとんど効いてないそうです。
どうもリーダーっぽい人間がいるみたいなんですけど……その、何というか」
「どしたの?」
「えらい凶悪なツラ構えしてるそうです。
一度あったら忘れられない顔だって、言ってました」
「どんなのよ、それ」
「似顔絵の得意な子にでも行ってもらいやすか?」
「あー……いや、いいでしょ。
どうせ嫌でもお目にかかるわよ、このまんまなら」
「…………」
「およ、どったの。
何だか、面白い顔してるけど」
「いや、今更なんだけど……これってどうやってるの?」
「え?」
え、と声に出すものと出さない者とが、しかし心底不思議そうな表情は同じく一斉に咲夜の方を向いた。
「……私、何か変な事言ったかしら」
「え、あ……いえ、その」
たまたま隣に座っていた男に聞くと、その相手は何故か視線をさまよわせ、
やがて助けを求めるように妖怪少女の方を見た。
見られた方は少し何かを考えるように首を傾げてから、心得たように手を打つ。
「んー? あ、そかそか」
「だから何?」
「いや、あんまり自然にとけ込んじゃってるもんだから、てっきり。
……で、どうってのは?」
「みんなここにいるのに、どうやって調べてるか気になったのよ。
さっきから聞いてると、まるで見てきたみたいな項目がずらりと並んでいるのだけど……」
「あー、それはね―――」
「おまたせでーす。はいこれ」
「おー、ご苦労さん。
えー、位置報告第九号、三五〇メートル前進、速度変わらず。
甲の六の地点でまた分岐トラップ仕掛けるそうです、以上ー」
「うーす」「らじゃー」「これでもちょっと稼げますね」「じゃあおれ味噌汁もう一杯」
「…………」
あまりといえばあまりに良すぎるタイミングで外から駆け込んできた少年が、
思わず沈黙してしまった咲夜の目の前を通り過ぎ、黒板の前のおっさんになにやら紙きれを渡して外へと戻っていった。
その紙を見たおっさんは地図上のピンを刺しなおし、更新された情報に皆が頷き返す。
「えっと、まあ、そういうことだよ」
実にアイマイな台詞を簡潔に告げるほとり。
あらゆる代名詞や指示語がほぼ完全に逸脱してはいたものの、言わんとするところはなんとなく伝わった。
昨日の時点で、郷の住人たちの中に人間以外らしき存在がいることは咲夜にとっても既知事項である。
おそらくは、彼ら、もしくは彼女らによる人海戦術(不適切)によって情報収集を行っているのであろう。
「……大体は理解した、と思うことにするわ」
「うん、多分そんなに間違ってないよ、きっと。
……さってと」
ぱちんと、ひとつ手を打ち鳴らす。
全員が少し居住まいを正し、無駄話を切り上げる。
それだけで一座ほぼ全員の視線が集まるのだから、この妖怪少女もたいしたものだった。
「このままでも埒が明かないからね、何か考えがある人は居る?」
「いっそ襲っちまって、眠らせて外に放り出したら?」
真っ先に出たのは強硬案。
しかし、ほとりは沈黙したまま首を縦にも横にも振らない。
その沈黙を埋めるように誰かが手を上げた。
「連中の進み方からするに、迷い込んだなどではなく、明確な目的があってのことだろう。
下手に途中で追い返してもまた来る可能性は否定できない。
それよりも相手の目的を知った上で、根本的に連中が二度とここへ来る必要がない様に手を打つのが最善ではないか?」
落ち着いた声音が、一息の間にそれだけを告げる。
……神主だった。
賛同するように次々と声が上がる。
「だなぁ、これまでもしつこくやってくる奴が何度か居たしなぁ」
「これだけの人数だ。何か組織的な動機やら目的があってのことかもしれない」
「一番簡単な手はあるにはあるが……こいつらの様子からすると楽じゃなさそうだし」
「武装してるんだろ。ならこっちも危険になるぞ」
具体的に口にはしないが、先よりもさらに強硬な、最も暴力的な手段は言外に却下されていた。
ざわつく中で、咲夜のちょうど対面に座っていた壮年の男が手を上げる。
「だったら、ここが単なる世捨て人の村だってのを理解してもらって、
それからさっさとお引取り願うのが一番じゃねぇかな」
「結局その手かー」
「けど、上手くいけば誰も怪我したりせんで済む」
「だな、それでいくか」
安堵と落胆の微粒子を含んだざわめきが一座に広がっていき、
自然、皆の視線が再びほとりに向くようになる。
やや堅い面持ちのまま、一通りの顔を見渡してからゆっくりと口を開いた。
「……みんな、その方向でいい?」
「うむ、そうしよう」「怪我人が居ないのが一番だ」「そうそう、平穏第一ってね」「みんなで幸せになろうよ」
「それじゃあ、みんなそのように連絡を。
方針が行き渡るまでの間、もう少し時間稼ぎをしてくれるようにもお願いね」
「へいへい」「わかりましたー」「うっす」「まあ、いいんじゃない」
それぞれが口々に返事をしつつ、立ち上がり外へと出て行く。
ただそんな中、わずかに4人がその場に残った。
ほとりと神主、咲夜、そして―――
「……ああは言ったがな」
咲夜の対面に未だ座したままの男が、先ほどまでと打って変わって深刻な声を呟く。
「正直、今回はどうもやばい気がする。
来てる連中は明らかに『外』の常識に照らしても普通じゃあない」
「……だろうな。まかり間違っても堅気ではない」
「まあねー」
「…………」
それはこの場で最も異端に分類されうる咲夜でさえ分かっていたことだった。
そしておそらく、今の今までこの場で気楽そうにしていた全員が理解していることでもあったろう。
「時間稼ぎは大人連中がする。
姫様と神主さんは子供たちと、それからひと目でそれ・・とわかっちまう連中とを集めて身を隠してくれ。
それから―――」
と、そこで初めて、男の視線が咲夜に向いた。
日に焼けた顔が無骨に、不器用そうに微笑んだ。
「十六夜殿は、どうされますか?」
「え、あー……」
話を振られて始めて気付いた。というより、これまでそこに考えが及んでいなかったというべきか。
普段冷静で万事にそつがないと見られるが、実は意外に抜けていると最近評判の十六夜咲夜嬢、
事態の進行をきっちり把握していながら、自分がその渦中にいるという自覚がなかったようだ。
この場合、普段『十六夜殿』などと呼ばれることに慣れていないから反応にすれが生じた、と好意的解釈も可である。
「どうしましょうか……あまり郷の皆さんと一緒ではない方がよろしいですよね?」
「ふむん? いや、わたしらとしちゃあ嬉しいんだが……」
「ちょっとゼンさん、そんなに色気出しちゃっていいの? 所帯持ちでしょーに」
「いやいやいやいや、他意はないのだよ、他意は」
実にだらしなく相好を崩しながら言っても説得力はない、ゼンさんと呼ばれたこの男性、
他ならぬ先夜の宴会時に酔っ払って咲夜の太ももに抱きつこうとした(未遂)一人である。
「いえ、やっぱりこの格好では目立ちますし、お気持ちはありがたいですけど……隠れる側にまわらせていただきますわ」
「そうかい? んむ、そりゃあ残念」
心底残念そうに、としか表現しようのない笑みを浮かべるゼンさん(仮称)。
神主とほとり双方から苦笑と溜め息がこぼれたあたり、こういうのはいつものことのようであった。
誘われるように咲夜もまた苦笑で返すと、次の瞬間にはもう表情を再び引き締めている。忙しい人だった。
「では、十六夜殿は姫様や神主さんと共にどうぞ。
私ももう行きますゆえ……お二人とも、後をよろしくお願いします」
「うん、まかせといて」
「承知した」
二人の返事に頷くだけで答えとすると、ゼンさん(仮称)もまた集会所を出て行く。
見送るのは、メイドと神主と妖怪という取り合わせ。
咲夜にとって新鮮な光景であるとともに、一方でとても馴染み深いような、そんな組み合わせ。
「……さてと、それじゃ行こっか?」
「うむ、まずは子供たちを集めて回らんとな。呼びかけは?」
「いちおーしたけど、はしゃいで聞いてないのもいるかもしれないからね、
一通り回ったほうが良いかな、集合場所は神社で」
「承知した。
では、神社で会おう」
首肯し、やや足早に神主が出て行くと、残るのは二人。
「よし、じゃあこっちも行こ……って、どしたの?」
「私も、手伝ってもかまわない?」
「うん? そりゃ助かるけど、いいの?」
「一宿一飯の恩義っていうのかしら、そんなところよ」
「ありがとー。
んでも、別に気にしなくていいのに」
「そっちこそ気にしなくて良いわ。好きでやらせてもらうんだから」
だから……そう、もう少しこの光景の中に混じって居たいと、そう思ってしまうのだ。
「わかったわ。
んじゃあ……そだね、昨日一緒にいた子達に声をかけてくれるかな。場所は―――」
「神社」
「うん、そう。じゃ後で」
そして残った二人は互いに頷いてから、ほとんど同時にそれぞれのやり方でその場から姿を消した。
それは、異様な対峙だった。
新緑あふれる初夏の里山、その一角にある雑木林の端っこに二十人ばかりの、黒い集団。
ここがビジネス街ならばまだ違和感も軽減されたかもしれないが、
しかし揃いも揃って黒服にサングラスとなれば、たとえ一般的な人間社会の中であろうとその異質さはどうしようもなるまい。
対するのは、先刻集会所で最後まで咲夜達と話をしていたゼンさん(仮称)を筆頭としたほぼ同数。
性別比はざっと同等で年齢層はおおむね青年以上、皆揃って農作業やらの作業着姿で並ぶのは周囲の風景とよく似合っていると言えるが、
だが対面している相手が相手である所為か、居並んでいる表情の中には強張っているものも多い。
「……大人しく我々を通した方が、面倒が少ないのではないかね?」
数分か十数分か、ともかくも一向に翳る気配を見せない快晴の日差しの下でのにらみ合いの中、
真っ先に声を発したのは黒い集団のほぼ中央に立つ、周りからそこだけが切り取られたように小柄な、そして異様な空気を放つ男。
確かに『一度あったら忘れられない顔』だった。
この場に集まった郷の人間たちはあらかじめそのことを聞いてはいたものの、
実際に目にするとそのあからさまに奇異な男の顔面にひるみ・・・を覚える者が多く、
男の周囲に布陣するサングラスの大編隊と相まった威圧感は、気の弱いものなら卒倒してしまいそうなほどだ。
事実、その言葉の、というよりは妙に響く低音に気圧されて後ずさりしたものが数名。
「どこが面倒なのかよぉ分かりませんな。
見ての通りここは山奥の寒村、世捨て人の隠れ里みたいなもんです。
あんた方がどういうつもりでお出でなのかは知りませんが、何ンにもありませんぜ」
そんな中で一人、少なくとも外見だけならば堂々と郷側の先頭に立つゼンさん(仮称)が応じる形で返す。
この状況にありながら平然としているのはなかなか見上げた根性だったが、内心はそう平静でもない。
雑木林は郷の中でも最も端に位置する場所のひとつなのだが、実を言うとここからは郷のほぼ全てが見渡せてしまう。
目の前の招かれざる客人たちが意図してここへ出る道を選んだのかどうかはともかく、
現実問題として、郷の中を飛行やその他の特殊な移動方法を用いれば一発で見える位置だった。
そのため避難する者たちは、ある種そういったスキル持ちばかりなのだが、地味にここから見えないところを移動していて、
同時にそれは移動にかなりの時間を要することを意味する。
短く見積もってあと十数分程度、その間この連中をここに留め置くことができれば、
ひとまず自分達の課題は一つは解消されるはずだった。
再び漂い始めた沈黙の中、気の早い蝉の鳴き声がか細く響き渡る。
時刻はまだ、正午にさえ程遠い。
「ほら、急ぎなさいよたーくん!」
「ちょ、ちょっと待ってってばふーちゃんっ。あんまり急ぐと見つかっちゃうよっ」
ゼンさん(仮称)他の郷の大人連中がどうにかこうにか踏ん張っている地点から、ほんの何十分の一由旬くらいの場所、
小さく抑えた、けれど切羽詰った調子で交わされる声二つ。
昨日のささやかな騒ぎの発端となった少年少女である。
「まったくもう、おトイレ行ってて逃げおくれましたーなんて、かっこわるいったらないわよー」
「しょ、しょうがないじゃないか、『せいりげんしょう』ってやつだって……」
「えぇい、男がそういうことを軽々しく口にするんじゃないのっ」
「えぇ!? そんなりふじんな……って、そんな言い方どこで覚えてくるの!?」
「―――ってこないだおねーちゃんが言ってたの」
「うぅ……」
微妙に緊張感が不足しているが、二人の年頃とすればこんなものだろうか。
昨日のあの騒ぎを見る限り、この二人は直接的な物理影響を及ぼすのが持ち前の能力らしく、
今現在の状況下にあっては地味に隠れつつ足音をしのばせ歩く以外なかった。
幸いにも、点在する家々や茂み、生垣なんかが適度な死角を提供してくれるおかげで、
投影面積の小さな二人は今のところ、声が届くこともなければ姿を見られることもない。
「だいたい『外』の人たちなんか、みんなでぶわーっとやっちゃえばいいのに」
「だ、だめだってふーちゃん。その人たちもいろんな武器を持ってるから、
ぼくたちも危ないんだよ?」
「わかってるわよそのくらいっ!
あーもう、だからなおさらイライラするのよね……」
そろりそろり、こそこそ、ひたひたと好き勝手に動く口とは別に、行動は案外慎重である。
が、その常ならぬ挙動が多大なフラストレーションとなって二人の、
特に少女の動きを徐々に散漫なものにしていった。
「……ね、たーくん、ちょっとだけやっちゃわない?」
「だからダメだって……」
「っもう話がわかんないわねー、いいじゃない、ちょっとくらいこう(がっ)「あ」ぶわーっと(がらんがらんどしゃ)した……って……」
それに気づく暇こそあれ、止めるだけの余裕などないに等しかった。
たまたまぶわーっと振り回した手が傍に積んであった桶やらタライやらの山にあたり、
しかもそれが運悪く不安定だったことが重なり、それらが盛大な効果音を引き連れて崩壊する。
中には縦になったまま今しも大人衆たちが対峙している場へと転がっていくタライさえあった。
「…………」
「…………」
「……やば」
「……やば、じゃないよっ!」
突っ込む前に逃げる、という選択肢を思わず放棄するほど鮮やかな自爆っぷりであった。
その騒音が後方で響いたとき、思わず全身を緊張させた者数名、
ああやっちまったかと本能的に状況を理解した者数名、対峙する連中の挙動に注意を払った者が若干、
内心で舌打ちをした者、実際に頭を抱えた者、思わず天を仰いだ者がそれぞれ一名ずつ。
先頭に立って睨みを利かせていたゼンさん(仮称)を除くほぼ全員が、何らかのリアクションを起こした。
対する黒服軍団も音が聞こえていないはずはないのだが、
先ほどから沈黙の只中にある件の男が視線をわずかに動かした以外に目立った動きがない。
そも、にらみ合って沈黙などしていなければ大して目立たない程度の音だったはずだったが、いまさら遅かった。
「……おい」
「は」
やり取りは短く、行動は迅速だった。
奇顔の男が一言命じるや一斉に黒服たちが進み出る。その威圧感だけでまた数名が後ずさった。
……だが。
「おー、ちょっと待った」
「…………」
さりげなく、しかし確固とした意思を込めた言葉とともに立ちふさがるのはゼンさん(仮称)であった。
ただ数歩進み出ただけであるのに、何を感じたのか黒服たちの歩みが制される。
「勝手に入ってもらっちゃ困るぜ、あんた達が何者だとしても」
「……痛い目を見なければわからんかね?」
自分以外が進み出たことで黒服たちの後方に隠れてしまった男からの声、それを「ハッ」と一蹴し、ゼンさん(仮称)は続けた。
「どうだか。見た目の図体がでかいだけじゃケンカにゃ勝てんぞ?」
「……あくまでもやる気かね」
「あんた、意外に読解力がないな。
……そう言ってるのが聞こえんかったか?」
どうやら無言の対峙で相当に「溜まって」いたらしいゼンさん(仮称)は、他の大勢が止める間もなく言葉を繋ぐ。
ずいぶんに好戦的なのは意図的なのか地なのか、後方で何人かが呆れた顔をしているところからすると後者かもしれない。
「やむを得んか……おい、相手をしてやれ」
「……よろしいのですか?」
「構わん。
時には相手のやり方に付き合うほうが面倒がなくて済む」
「は」
男の声に応じ、黒服の中から一人が進み出て上着を脱いだ。
最寄の黒服にそれを渡すと、次いでネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを一つ二つと外し、腰を僅かに落として構えを取る。
「へ、そうこなくっちゃな」
対するゼンさん(仮称)も首にかけていたタオルを後ろへ放り投げると、やにわに腰を深く落とし「むん!」と気合を入れた。
「ずどぉぉんっ」とかいう上半身が爆発したかと錯覚するほどのすさまじい音と共に着ていたシャツがボタンの多くを道連れに弾け飛ぶ。
それぞれ肩の部分でちぎれたズボン吊りを全て外し、「ふん! ふんっ!!」などと盛大にもり上がったマッスルを主張するゼンさん(仮称)。
「そのシャツを誰が縫うんだい」
細君だろうか、割と冷静らしいハスキーな声が後方の中からあがり、つられて何人かが笑い出した。
思わずゼンさん(仮称)の顔が憮然の二文字をかたどった反対側で、一人上半身を白くした黒服がサングラスを外す。
顔の表面積に対し妙に小さく愛嬌のある目が出現したが、眼光が鋭い分かえって気味が悪い。
と、その男もさらに腰を落とすと「ふっ!」と鋭く短い呼吸で気合を込めた。
先のゼンさん(仮称)の時と負けず劣らずの「ぼぉぉぉんっ」などという破裂音と共にワイシャツがボタンを撒き散らして弾け飛び、
これまた見事な上半身が露になった。
僅かに首の辺りにまとわりついていたネクタイを解き、これまた後ろの黒服へと放り投げる。
興がノったのか、黒服たちの中から口笛が、郷の連中からは「おおー」などと俄かに歓声があがった。なにやら皆、ノリノリである。
「……言っておくが、換えはないぞ」
そんな突然の血統騒ぎの中で冷静な奇顔の男が告げ、ゼンさん(仮称)と対峙する男もまた不意に情けなさそうに表情がちょっと緩んだ。
「へ……結構できそうだな、あんた」
「…………」
互いにどんな経験を経てきたのか、むき出しの上半身に夥しい数の傷跡を残す男同士が対峙する。
折りしも、先ほど少女の崩した山から落っこちたタライが延々と転がってきて二人の脇を通り過ぎ、
そのまま近くにあった木へと向かっていく。
場に居並ぶほとんど全員がその行方を目で追う中、タライはまっしぐらに木へ向かい、当たり、よく響く気持ちのいい音を立てた。
響く音、その様はさしずめ、くわん!
「ぬぅ!」「ふん!」
重なり、裂帛の気合と共に男二人が同時に踏み込み、どよめきがあたりの空気を震わせた。
「んー……ゼンさんだーいぶはしゃいでるねぇ」
所かわって、神社の境内。
かなりの距離があるため別段隠れる必要はないが、気分的に落ち着かないのか木陰に隠れる形で様子をうかがうほとり・・・が呟く。
ちなみに咲夜もすぐ傍に居るのだが、ほとりのように郷外れの状況を感知できないため手持ち無沙汰な彼女の横には、
二つのスキマ、もといスマキが転がっていた。
「あのー、ぼくたちいつまでこのままなんでしょう?」
「そうよ! いつまでふんじばってるつもりなのよー!」
ややおっとりめのものと、威勢のいいもの、たーくんふーちゃんの愛称で呼ばれていた二人だった。
咲夜の時間停止とほとりの詳細不明の能力によって先の地点から短時間で運ばれてきたのだが、
ほとり曰く「おしおき」としてスマキになって転がっている。
「うるさいわね、自業自得よ。
お、ゼンさんのアッパーが綺麗に入った!あぁでも相手のヤローも負けずにボディブローで応じる!」
「楽しそうねぇ」
咲夜としてはそう言うしかなかった。
既にこの場に居る四人を除いて隠れるべき子供やその他の人たちは神主の先導で別の場所へ向かっているから、
咲夜はほとりとともにこの二人を連れて行けばいいのだが、当の彼女が動こうとしない。
よって、特に危険がこの場に迫っているわけでもないので、おチビ二人とほとりのやり取りに苦笑するのがせいぜいなのである。
「でも、そろそろ私たちもここから動いたほうが良いと思うけど」
「ん、そだね……それじゃたーくん担いでくれるかな」
「……ほどかないの?」
「駄ー目。もうしばらくやっとかないと、おしおきの意味がないでしょ」
「あうー」
「おねーちゃんの鬼ー」
「妖怪だもん」
よっこらせと、自身が小柄な割に軽々とふーちゃんなる少女(のスマキ)を担ぎ上げるほとり。
言葉どおりか、ここらあたりはそれなりに妖怪らしい。
咲夜も応じてたーくんを肩に担ぎ上げた。
メイド長として日々の激務をこなす中で、十歳程度の子供ひとりを持ち上げる位の腕力はある。
こっそり能力で微妙な加重調整を行っていたりするが、言わぬが華というものだろう。
「……ん?」
しかし、移動しようとした四人の動きは、ほとりが足を止めたことで程なく停滞した。
微動だにせず、視線を心持ち上にして遠くへ飛ばす。
「……!」
問うまでも無く、咲夜も気付いた。
未だ神社の境内に居る彼女らから見て郷と反対、すなわち外界から迫る、時ならぬざわめき。
それは、木々の梢に休んでいた全ての鳥が一斉に飛び立つ音。
かつて大軍の心理を恐慌に落とし潰走させたとされる鳥たちの羽音は、
だがこの場合においては、その更に彼方から来る爆音と轟音に追い立てられてのものだった。
「影に隠れて!」
「わかってる!」
「にゃ!?」「うわぁっ!?」
咲夜とほとりが事態を把握するのはほぼ同時だったが、残る二人はそれに遅れた。
もっともそれぞれ担がれていたため隠れそびれることにはならない。
境内の一角にある巨木を盾にするように四人が隠れるのと前後して、
頭上で回転翼を旋回させながら爆音を振り撒き、無粋な鋼鉄の塊が神社の空気を激しく掻き乱した。
「――――!」「――――!?」「!!」「!?」
四人が四人とも、自分以外の誰かが何かを叫ぶのは分かったが、その内容までは聞き取れなかった。
そんな中で咲夜の行動はひときわ速く、右腕で少年を担ぎながらも左手に得物たるナイフをセットし、
木の幹から僅かに乗り出す形で社の上空すぐの所を滞空する鋼鉄目掛けて照準する。
通じるか否か、また撃墜したとしてその後どうするかまで考えることも放棄して一投せんとする咲夜の腕は、
しかし翻る寸前で横合いからの手で止められた。
「!?」
「―――!」
振り向いた先には、何かを叫ぶ妖怪少女の顔があった。
声は聞こえずともそれが撃墜を制止しているのは明白だったが、
それでも咲夜はほとりの視線から顔を背けて狙いをつける。
「!!」
叫ぶ気配だけが伝わる。
構わず、一投で仕留められると見当をつけた回転翼と本体の接続部分に狙いを定め、
なおも左腕に食い下がる手を無理矢理に振り払おうと力を込めた。
意外なほどの力で抑えてくる手に怒りさえ覚え、睨みつけようと再度顔をそちらへ向けたところで―――
ぱしん、あるいはぱちん、と、ろくに音の通らない中で衝撃だけが鮮烈に咲夜を打った。
「…………」
「…………」
何事か喋ったところで未だ聞こえないことに変わりはなかったが、
振りぬいた右手をそのままに、悲しみとも怒りともつかない色をたたえた少女の瞳と、
不意に張られた頬の熱を呆然と感じるメイドの紅い目が、静かに交錯する。
数秒か数十秒か、ともかく長くはない轟音と裏腹の沈黙は、
鋼鉄が鼻先を下げるようにして郷の方向へと飛び去ったことで沈静化した。
「……駄目だよ?」
さらに数拍の間を置いてから、静かにそれだけを告げられ、
既に普段の色へと戻った咲夜の瞳がきゅっと細くなった。
見ようによっては、あるいは泣きそうに見えたかのも知れない。
そんな咲夜の顔を見てひとつ苦笑すると、そのままほとりは先に歩き出した。
郷とは違う方向なのは咲夜にもすぐに分かったが、
分類し辛い感情がぐるぐると渦巻いていて思考が上手く回らなかったから、
仕方なくスマキを担いだまま黙然と続く。
それぞれ担がれている二人はというと突然訪れた事態に面食らったのか、
息をのんで成り行きを見守っているという感じだった。
「……あのね」
「……何?」
注意していなければ獣道であるとさえ解りそうにない、僅かに踏み固められている斜面を数十歩ほど進んでから、
ほとりがやや躊躇いがちに、振り向くことなくそれだけ言う。
ひょっとすると落ち着くのを待っていてくれたのか、咲夜もどうにか声を返すくらいには平静になっていた。
んー、と少し言い難そうに唸り、次いであいている方の手でこつこつと自らの頭を軽く叩いてから、
さらにひとつ深呼吸を挟み、切りだす。
「今のことだけど」
「……ええ」
「どうしたの、何か急に人が変わったみたいになってさ」
「よく、分からないわ」
「へ?」
本心だった。
自身なかなか認めないが、多少なりの緩い部分があるにしたって普段『完璧』で『瀟洒』を売り文句にする咲夜である。
取り乱したのか混乱したのか錯乱したのか、いずれにせよ問答無用でヘリを落とそうとするなど、
あまりにもいきなり過ぎる行動だったと自分でも思う。
もし妖怪少女の制止がなければ、今頃間違いなくアレは堕ちていた。
さすがにあの鉄分豊富な物体が相手であるから、クリティカルヒットが出たとしてもナイフ一本きりで決着がついたとは思わないが、
あの状態の自分ならとりあえずあるだけぶち込んで撃墜していたという、確信に近い予感がある。
ただ、そこまでに至る自分の思考回路にはかなりの疑問が残った。
わずかな滞在で愛着なり帰属意識なりが芽生えたか、何を必死に、とは過ぎた今だからこその感想。
「んー、と、あのさ」
こちらも少し考え込んでいたらしい、前を行く少女が再びつぶやく。
考えながらであるからか、これまで咲夜が聞いたどの会話よりもゆっくりと、
言葉を選びながらなのが分かった。
「さっきのは、ん……そうそう、何のための行動、だったのかな?」
「何の、ため」
「そ。
あ、前もって言っておくけど、何かの、誰かのためだったとしてもわたしは止めたからね?
ただ、物凄く必死な感じがしたから、よっぽど大切なことなのかなって」
「…………」
言葉が続かなかった。
ここに主人ないしその妹君、あるいは親友の紫もやし辺りが居るならそのためだと言い切るところだが、
状況的にそれはいささか無理というもの。
となると自分のためと言えば良いのだが、
そう断じるにもあの時感じた得体の知れない衝動の解析は遅々として進まず、
かといってこの郷の為の一言で片付けるには符合しない部分が多すぎる。
結果、それらしい答えは一向に見つからないまま、咲夜はふいと空を見上げた。
ようやく中点に達した太陽は、いよいよ訪れる季節に向けてのウォーミングアップか一際眩い。
その明るさに目を細めながら、咲夜は自分の意識のどこかで、
何かひどく不愉快な、それでいて内容閲覧不可能な記憶が掘り起こされるのを感じていた。
気温の上がり続ける、午前と午後の境界線上のことである。
二人の格闘は乱入してきた爆音によって中断された。
回転翼を唸らせ上空に突如出現したそれを、実見とは言わぬまでも知っているものは郷の人間にも多かった筈だが、
それがまさかこの場にあらわれると予見していたものは皆無に近い。
予想の範囲外を事態が高速で進行しつつあることに動きを止めた郷の人間たちを、
待ち構えていたかのように黒服がとりおさえていく。
元々数の上で同等程度だったことに加え、数瞬の自失の時間と、
黒服たちが集団での動きに習熟していたことがその結果を生んでいた。
ゼンさん(仮称)もまたほんの先刻まで組み合っていた相手に隙を突いて組み伏せられてしまい、
当初の緊張と裏腹に大勢は一瞬で決していた。
抵抗を試みるものも何人か居たが、しっかりと急所を極められている以上それは徒労に終わった。
「それで、いかがいたしますか、代表」
「全員が入る適当な建物を見繕って放り込んでおけ。
それから数人ずつで巡回、他に隠れている者、逃げた者が居るかを調べろ。
あとは追って指示を出す」
「は」と短く応じて指示を出しに立ち去る黒服に背を向け、
代表と呼ばれた男はひとり、格闘と捕縛の現場から歩み去る。
ほんの数十メートルほど砂利道を歩いてたどり着いたそこでは、木桶や農機具が散乱していて、
中には積み上げられたまま危ういバランスで山を維持している桶もあった。
「…………」
先の、盛大な騒音の発生源であると一目でわかるそこをゆっくりと見回し、
やがて地面のある一点で視線を止める。
「二人、いや……三人から四人か」
呟く。
視線の先にあるのは小さな足跡が二種類と、それよりやや大きなものがひとつ、
そして今ひとつ、この郷の如き物質文明と疎遠な地には奇異な、
さほどに細くも長くもないだろうヒールの窪みを伴う靴のアト。
どんな思考と感情がその脳裏を巡っているのか、
分厚く重なる顔の皮膚をぐにゃりと歪ませ、男は笑い、あるいは哂っていた。
「……まあ、いい。
いずれ分かることだ」
懐から時計を取り出し時間を確かめた男は、それだけを誰に聞かせるでもなく呟くとその場に背を向け、
黒服が数人固まっている所へ歩き去って行った。
少ししてから、均衡を失った桶ががらんと崩れたが、
その音は近くに居た蝉を一匹おどかして飛び立たせる程度でしかなかった。
「んー……」
洞窟の一角で、目も耳も閉じて腕を組んだ妖怪少女、ほとりが唸っている。
その状態が、おそらく外の様子を何らかの手段をもって観察しているらしい事くらいは、
ここまでくると咲夜にもおおよそ分かっていた。
郷を囲む山々のひとつ、その中ほどに存在する天然の洞窟は、ひと一人が通るのもやっとの入り口と裏腹に内部は広く、
複数に枝分かれしていることに加え、自ら発光する不思議な苔がそこらじゅうに生えていて結構明るい。
洞窟の多数ある枝道を最奥まで進んだところに存在する小部屋のひとつで、
半分瞑想に近い状態になっているほとりに向かい合う形で咲夜は壁にもたれていた。
だいたい無言か、でなくても時折唸る程度のほとりに対して、咲夜は小部屋に入った時点から無言を通している。
洞窟内の他の部屋には避難している子供から咲夜くらいまでの年齢のものが大勢いるのだが、
思うところのあった咲夜は人気のない場所を探している内にここに来てしまっていた。
「…………」
先客、ほとりも特に何も言わなかったためこうして落ち着いてしまったが、
よくよく考えてみれば今の咲夜には居心地が余り良くない。
『……駄目だよ?』
ほんの一刻かその程度しか経っていない記憶が脳裏をよぎり、
特に腫れているのでもないのに、つい手が張られた方の頬にいってしまう。
他ならぬ思うところというのはその後の、この洞窟まで移動する間の会話のことだった。
『別に、怒ってるってわけじゃ……あーいや、ちょっとは怒ってるけどさ』
今、咲夜の目の前で瞑目している少女は記憶の中でそう言って困ったように苦笑し、
それからまた言葉を繋げる。
『でもね、アレを落とすのって、きっと正解じゃないと思うんだ。
そりゃあ放っておくのも正解じゃないかもしれないけど……でもさ、
さっきのは、なんだか普通じゃないって感じがしたから、だから止めたんだよ』
「……普通じゃなかった、ね」
と、ほとんど声にならない声で呟いた。
ある程度の間をおいた今でもなお、あの時感じた衝動の分析は進んでおらず、
どういう思考の結果としてあの行動を選択したのかほとんど把握できて居ない。
ここまでの短い時間で考えたところ、鉄塊ヘリを撃墜しようとした時から意識の片隅にある微細なひっかかりの根元、
咲夜も忘れているのか、それとも思いだしたくないのか、記憶の中身が参照できない理由はおそらく、後者。
日常生活でのうっかり度合いほど記憶の道筋は緩んでいない咲夜が省みるに、その参照不可能記憶の年代はかなり前のものだった。
多分、いや十中八九から九分九厘あたりの確率で、物心ついた位の、
つまりは通常人間がおおまかな内容をなんとか覚えている最古程度の記憶なわけで、
それの意味するところは―――
「…………」
一拍置く形で深めの溜め息を一つ。
しかし、一度そうと意識してしまった胸中の澱はそんな程度で薄まるほど容易い相手でもなく、
依然、不快な濃霧となって漂っている。
中身を見るまでもなく、その記憶に付随してくるのが不安と恐怖と悲しみとその他マイナス感情諸々の混合物なのは明白で、
それがたとえ先の衝動を分析する手掛かりになると言っても簡単ではない。
本気で思い出そうとしても思い出せないのだから、この際幸いと思うべきなのだろうが、
結局何の解決にもなって居ないことが余計に咲夜の心中を重くさせ、再び溜め息を吐いてしまう。
「……あのさー」
「何かしら」
「溜め息つくなとは言わないけど、ちょっと多すぎるよ?」
「……そんなにしたかしら」
「ん」
びっ、と指を三本立てるほとり。
「3回?」
「30回。
この部屋に来てからそれだけは確実にね」
「…………はぁ」
「31回」
「わかった、わかったわよ」
目を閉じて眉間を揉みながら32回目の呼気を吐き出すと、微かに苦笑の気配が漂ってきた。
「さっきのこと?」
「…………」
「わたしのせい、かな?」
「違うわ、半分くらいよ」
正確に言えば彼女の言葉によって掘り起こされたものがそのほとんど全てを占めているのだが、
元はといえばそれは咲夜自身の中にあったものだったから、と。
果たして今のメイド長がそこまで計量したかどうか、ドコと無く上の空でそう答える。
「半分くらい、よ」
「…………」
尻すぼみになる呟き。
先ほどよりもやや多めに苦笑の成分を顔に漂わせたほとりもまた沈黙し、
どこか遠くの部屋で騒いでいるらしい子供達の声がわずかに聞こえるだけになる。
その、雑音とも背景音楽ともつかない音の波を遠くに聞きながら、
咲夜の意識は何度目になるか分からない記憶野への沈降を開始していた。
記憶があまりにおぼろげな場合、それは単なるノイズとしてしか認識され得ない。
ノイズを「記憶」として内容の把握が可能となるのは、ひとえに、
雑音過多な情報を今の自分の理解の及ぶ範囲に変換して閲覧するからである。
つまりは、本来何らかの意味を持っていたはずの情報をノイズとして除去し、
代わりに残った僅かな理解可能な情報を強調し増幅して元の記憶を再構築するということだ。
そこには当然、見落としと誤解と極端化が多分に存在するわけで、
斯様なシロモノは本来情報源としてアテにすべきものではない。ないが。
今の十六夜咲夜は、ソレを探る、或いは向かい合わねばならない、
そんな衝動にワケも無く駆られていた。
記憶の中での咲夜は、小さかった。
厳密に言ってしまえば、そこに居たのは「十六夜咲夜」ではなく、
既に忘却の彼方へ去ろうとしている「かつての名前を持つ自分」だった。
わずかに残る記憶情報は劣化が激しく、其処が果たして何処なのかを決定付ける要素はほとんど残留して居ない。
辛うじて分かり得るのは、それなりの規模の集落――町、里或いは村――のほど近くに住んでいて、
家族らしき数人と一緒に暮らしていた、ということくらいだった。
其処でいったい何が起きたか、それを探ろうとさらに潜行しようとした咲夜の意識は突然、
何かに押し流されるようにして強制的に移動させられた。
次に見えた記憶は、着の身着のままでどことも知れぬ場所をひとり、
血塗れで足を引きずりながら、両の手に時計とナイフをぶら下げてよたよた歩く自分の姿。
石や枝で傷つけたのか足には血が滲んでいて、その痛みは今でも妙に鮮明に思いかえすことが出来るが、
それ以外に外傷による痛みはなく、全身を染めた紅はどうやら自分のモノではないらしかった。
刻限はおそらく深夜、月明かりが周囲を照らし出しているが、
見えるのは草地と木ばかりで目印になるような物は何一つ見当たらない。
それでいて尚、今の自分に歩いている場所の見当がついたのは、
この時のことを覚えている何よりの理由が、間も無く訪れるからだろう。
睡魔にやられた千鳥足でもまだマシであろう歩みをいくらも続けないうちに、
記憶の中の彼女は木の根につまずいて転んだ。
かすかに声をもらした様にも思ったが、受け身もとれず、
したたか地面に身を投げ出しても苦痛の呻きの一つも口にしなかったあの時の自分は、そんな余裕さえ無くしていたのか。
だが、疲労の極みにあった彼女の耳朶に、小さくも力強いその音は確かに届いた。
―――ばさり、と。
もどかしいほどゆっくりと顔を上げたかつての自分の目は、こう言っては難だが、
知己である庭師兼剣士のそれとは異なる意味で、半死人の様にひどく濁ったものだなと、
その時その場に居る筈もない第三者の視点から咲夜は思い、思って、濁った少女の視線の先を追う。
鳥の飛ぶ時間ではない。
梟や夜雀の多少はいても不思議は無かっただろうが、その時その場にはケモノはおろか、
自分達の時間を謳歌しているハズの蟲も、妖の一匹もいなかった。
…当たり前だ。
そこに居た自分以外のもうひとりのことを考えれば、有象無象が存在する余地など皆無である。
より強大な、或いは強大過ぎる力の持ち主の行動は基本的に妨げられることはない。
誰もが皆、智慧無きモノも多くは本能的な部分でソレを理解している。
なぜなら此処は、幻想郷だから。
『人間? 珍しいな、こんな時間にこんな場所で』
ましてや彼女・・は夜の王、今刻は彼女の時間であり、
咲夜の記憶の、いや、十六夜咲夜という名を与えられてからの記憶の中で永遠に変わらぬ幼い姿の彼女は、
月の銀光にその身を委ね、虚空に背を預けて浮かんでいる。
おあつらえ向きに巨大な月を背負ったその姿は、恐れや邪悪さを通り越えて神秘的であるとさえ感じた。
記憶の中とはいえ美化しすぎだぜ、と見る者が見れば言ったかもしれないが、
咲夜が思い返す時、この時この場の光景はいつも彼の様である。
『パチェの言は本からのものだから信憑性なんて無い…と思っていたけど、成程。
たまには夜歩きもしてみるものだな』
サクリと、草を鳴らして地に降り立つデーモンロード。
その小さな歩幅で悠然と、己と見た目の然程に変わらぬ少女に歩み寄る。
『何もあなたまで付き合って引き篭もる事はないでしょう、だとさ。
余計なお世話だ、自分が一番重症のくせして。そう思うだろう?』
『…………』
『何も応えないか。或いは応える気力もないか?
こんな時間のこんな場所をうろついてるから、よほど胆の据わったヤツだと思ったんだが』
前半分は正解ですわ、と回想者の特権のように呟く。
すぐ傍まで歩み寄った夜の王は、腰を落として真正面から倒れたままの少女を見据えた。
『にしても、お前、私が恐ろしくないのか。
この大吸血鬼を目の前にして怯え一つないとはね……っと!』
かん高い金属音。
何がどうしてそうしようと思ったのか今なお判らないが、時間停止と空間操作によって繰り出された神速程度の突きは、
時が止まる前に動いていた二本の爪で受け止められていた。
『……鋼か。
残念だけど、それじゃあ吸血鬼は滅せないよ』
言葉と裏腹に、実に楽しそうな笑みを浮かべて力を込めると、
もともとこびり付いた血が乾いて強度の落ちていたナイフは簡単に砕け散った。
と同時に、突きの姿勢のままそのナイフの一点で支えられていた体が再度地面に倒れこむ。
つられるようにして目の前の景色が霞み、声も遠くなり始めた。
『ふぅん……確かに、ちょっとない運命がひっかかったから何かと思ったけど、
なかなかどうして、面白いものを拾ったな』
視覚的な情報がほとんど消え失せていく中で、幼く鮮明な声だけが唯一の寄る辺のように響いた。
『よろしい、人間、気に入った。
この赤より紅い館、紅魔館の主、レミリア・スカーレットがお前を我が家へ招待しよう。
なに、遠慮は無用だ。よっ』
その言葉と、ふわりと持ち上げられた浮遊感を最後に、十六夜咲夜になる前の少女の記憶は終りを告げる。
意識の暗闇の中で咲夜は移行の時系列に属する記憶の再生を中止、
現時点でそれ以前の記憶に新たな情報がないのを確認して、現実への復帰プロセスを開始した。
ばん、或いはがん、という音を聞いたのは、未だ回想から復帰する途上のことだったろうか。
目を明けた咲夜が見たのは、部屋の一隅に置かれた卓に手を叩きつけた姿勢のまま固まる妖怪少女、ほとりの姿だった。
そのうつむいた顔は見て分かる程に青褪め、心なしか濃い緑の髪もざわつき、逆立っているように見える。
「……どうしたの?」
「っ……」
問われたほとりは一度目と口を固く閉じ、音がするほど歯を噛み締めてから、ようやく顔を上げ、
咲夜の知る限り初めて目にする明らかな怒りと、悲しみの混ざった瞳を向けた。
「代表、配置完了しました」
「ご苦労」
鷹揚に答えてから、男は背を向けて並んでいる数人の方へと振り返った。
「手荒な真似は本来あまり好きではないのだが、状況が状況だからな、我慢してくれ。
もっとも、いずれにしてもそう長いことにはならんが……」
その数人は、後ろ手に縛られ地面に座らされている。
周囲にうろつく黒服姿の男達とまるきり違う格好であることからも、
彼らが郷の人間たちだということは明白だった。
いずれも服装が乱れており、昼に取り押さえられた際のものか怪我をしている者もある。
「ささっとお引取り願いたいものだなぁ」
並べられた郷の人間の中から、独り言にしては大きすぎる声でそう放ったのは誰あろうゼンさん(仮称)だった。
縛られた腕の代わりに器用にも足を伸ばして頭を掻き、首をねじって不敵そうに代表と呼ばれた男を睨みつける。
一方の睨みつけられた方はと言えば、細長い顔に幾重にも刻まれた分厚い皮膚をいっそう歪めて笑った。
「そう言われずとも長居はせんよ。
こそこそと隠れている連中を全員ひっとらえて処置したらな」
「だから言ったでしょうが、あんた達にとっ捕まったので全員だって」
「底の浅い嘘は身のためにならんぞ?
生活用具から干してある洗濯物、道の足跡その他もろもろ、
おそらく子供だろうが、かなりの数が今も逃げているのは明らかだ」
「…………ちっ」
ふん、と鼻の先でゼンさん(仮称)の舌打ちを笑い飛ばし、男は傍らの黒服から拡声器のマイクを受け取ると、
夏という季節からは早く、山あいという場所柄にはちょうどよい夕暮れの迫る山に向けて宣言した。
『どうせ聞き耳を立てているだろうが、あらためて言って置こう』
不気味に増幅された低音の声が響き渡る。
『ご覧の通り、こちらは人質を取らせてもらっている。
こいつらの安全を保証して欲しければ、隠れているものは30分以内に全員出て来ることだ。
でなければ―――』
拡声器を持つのとは別の黒服に顎で示すと、その黒服は夕日を浴びて光沢を放つ金属を人質達に向ける。
入手し使用方法さえ心得れば、地上でもっとも簡単に命を奪い得る武器のひとつ、拳銃。
『でなければまずひとり、その後は5分毎にひとりずつ殺さねばならん。
ここに並べた人間が全員死んだら、また次を出して来て同じことをする。
そうして欲しくなければ、大人しく出て来ることだ』
何が楽しいのか、男は笑いながらそう言い終えると、拡声器のマイクを黒服に突き返し、
茜色に染まり始めた山並みをぐるりと見渡して、いっそう顔の溝を深くした。
「厄介、だなぁ」
「そうね……」
当然2人、咲夜とほとりはそれを聞いていた。
見張る価値がないとでも思われたのか、数が足りないのか、放置された神社裏の雑木林からである。
「ゼンさん含めて5、いや6人か……一度じゃちょっと無理かなぁ」
「あなたの能力?」
「んー、半分の3人ならなんとかなるんだけど……ああいうタイプはこっちが不審な動きしたら即撃ちそうだし」
「3人なら大丈夫なのね」
「うん、って……え?」
遠目でよくは判らないが、人質になっているゼンさん(仮称)の周りに居るのは例の代表とかいう男を含めて10人ほど。
半数は残りの人質を見張っているか、そのあたりを見回っているのだろうから、差し当たりその10人のみが相手だろう。
そう判じた咲夜は時計を確認する。あと20分強。
「他に策を考える時間も、そのための人手を萃めてる時間もきわどいわね……行くわ。
動きがあったらフォローはお願いしたわよ」
「え、ちょっと!?」
時計を握り締め、意識を集中する。
同年代の平均よりもそれなりに鍛えられているとは言っても、咲夜も少女だ。
大の男をかついで移動するのは、様々な制約から1回につきひとりが限界。
時間停止を維持できる時間と距離を考慮すれば、自分独りで可能なのはやはり3人まで。
賭けになるが、そう分は悪くない。と思った。
「時よ―――」
ほんの、数日未満の付き合いながら、この旧知の蛍妖怪に似た面差しの少女に対して、
いつしか咲夜は長い付き合いの門番に次ぐ程度の信頼を抱くようになっていた。
そうであるが故の行動だったが、後日になって振り返れば我ながらやや猪突に過ぎたと後悔することになる。
だが、時を止めたり進めたりすることはできても先んじて知ることの出来ない咲夜は、
この時、駆けることを選んだのだった。
――――――とまれ――――――
自身と自身の持つ時計以外動くもののない、モノトーンに染められた夕暮れの中を翔ぶ。
郷のほぼ中央付近に居る人質たちとの距離はそれなりだが、効率と速度を両立し得る飛行でもそう遠いものではない。
翔びながら、腕を二度、三度と翻してナイフを10本ほども配置。
時間停止を解除すると同時に、見える範囲の黒服たちに先制攻撃を加えられるよう布石を打つ。狙いは全て肩から二の腕。
ひとしきり撒いたナイフが正確にそれぞれの目標に向かっていることを短く、念入りに確認してから、
再度目的地への飛行に移った。
「!」
と、不意に耳へ届くかすかな、極々かすかな音があって、その場に急停止する。
「……まさか」
呟きながら耳を澄ました。
トクン、トクン、トクン、規則正しく、能力使用中であるため普段より心持ち早く脈打つ自らの鼓動。
カチ、カチ、カチ、カチ、規則正しく、いつもと寸分たがわず同じ時を刻む手のひらの中の時計の音。
そして―――
「…………」
きゅっと、視線が険しくなる。紛れもなく聞こえる、その音に。
動くことを禁じられているハズのモノが立てる、その音に。
三度、飛行を開始。目的地は変わらず。ただ速度のみ先ほどよりわずかに速い。
変える必要も無く、その音はそこから聞こえてきている。
何故動けるのか、何故その音なのか、湧きあがる疑問に未だ参照不可能の属性を帯びた記憶のどこかが応えた気がした。
正確に、同じリズムを刻むその音が次第に大きくなる。
きりりと、無意識の内に歯を噛み鳴らした。
わけの分からない怒りと焦りがこみ上げてきて、ナイフを握る手に汗が滲む。
不意に、
咲夜の力で凍りついていた筈の世界が終わった。
「!」
景色が色を、時が正常な流れを取り戻し、咲夜自身の能力の一端である空間操作によって為されていた飛行も無常に終りを告げる。
それほどの高さではなく、また郷の広場にさしかかっていた事が幸いしたが、
かろうじて着地には成功したものの、それだけでは勢いを殺しきれずに地面を抉る様に滑った。
衝撃に耐えかねて履いていたヒールが片方折れ飛んだが、それでも無様に転ぶことをせず完全停止まで姿勢を保ったのは、
咲夜の天性の運動神経のなせる技だと言える。
しかし、停止したその場所は、並ぶ人質を挟んでちょうど代表なる男と向かい合う位置、
考えられ得る限り最悪のケースだった。
咲夜の背筋で嫌な汗が滝をつくる。
「…………ほぅ、これはこれは」
目前の事態に時間停止が解けても固まったままの一同の中で、最初に動いたのはその男だった。
状況を把握したのか、あるいはしないままなのか、何が面白いのか、
一度会ったら忘れられない奇顔をニヤリと歪め、演説するかのように両手を広げる。
「まさか本当に出向いてくれるとはな、よけいな殺生をせずに済んだ」
「…………」
視線こそ睨み合ってはいたが、咲夜の意識は半分以上男の言葉に向いていなかった。
飛べない、時も止められない。
体感時間にしてつい数分、実際の流れではほんの一瞬前まで全能を誇ったはずのメイド長の力は、
その全てが使い手の意志を完全に拒否していた。
着地によって生まれた土煙が、止まった咲夜を追い越して流れる。
何の音もない、ということは時間停止中に投じたはずのナイフも無力化したということで―――
「それにしても、派手な登場だな?」
「っ!」
ぎしりと、音がするほど強く奥歯を噛み、手が真っ白に成る程握り締めても掌中の時計は規則正しい音を返すだけで、
いま一方の手に握るナイフも、能力によって加速度を得られないのであれば、ただただ原始的な刃物に過ぎない。
つまりここに居るのは、ただの少女、だった。
意識に残る冷静な部分がそう自分を哂うのに逆らうように、咲夜は相手をより強く睨む。
「ん……お前は?」
対面する男がふと、咲夜の顔を凝視した。
わずかな思考の後、懐のあるものの動きに気付いたのか、それ・・を取り出し視線を落とす。
「なるほど」
もともと笑いによってゆがめた奇顔を、それ以上まだ歪められるのかというほどに奇怪なものにして、
手にしたそれを、咲夜に向ける。
手のひら大の金属製のそれが、斜めに照らす夕日を反射して輝いた。
「!!」
カチ、カチ、カチ、カチ、正確に、規則正しく、それを見て絶句する咲夜の手に握られたものと同じ音で、
同じ時を刻み、同じ姿をした時計が、その手に握られている。
「妙な縁とやらも、あるものだな?」
咲夜と、時計と、人質と、黒服と、そして同じように夕日を浴びながら、
代表という名で呼ばれる男は、そう言って、嗤った。
声も立てず、ただ夕日に照らされて鬼瓦よりも奇怪な相を帯びた顔を歪ませて、嗤った。
境郷2 ~ Perfect Maid in The Border Land “Chapter_4” end
and to be continued ...
(1)~(3)を読んでいない場合、状況がわけ分からないと思いますので、出来れば前の方からお読みください。
それと、各章の冒頭にもあります通り、このお話は一部ないしある程度の範囲で、
作品集31の拙作『境郷』と舞台や人妖設定などが共有されています。……が、
いちおう『2』の一連だけでもそれなりに独立したお話として楽しめるようにはなっています。
それと、このお話ぐらいからオリキャラ警報が大絶賛発令中ですので、
そういうのが駄目な方は過度の摂取を避けるか、一定量ごとに小休止をはさんでからお楽しみ下さい。
以下、あらすじっぽい文字の羅列
新聞記事に興味を惹かれ、人口密集地を遠く離れた山奥、
妖怪と人間がそれなりに折り合って暮らしている、そんな郷を訪れた我らがメイド長、十六夜咲夜。
子供達と共に郷の日常に触れ、そして彼女は、郷に深く関わる妖怪少女の名を知る。
名はほとり。
かつて郷に居た、とても凄かったらしい妖怪の名を継ぐ少女は、それが何より重いと呟く。
夜は更けていく。
やがて訪れるささやかな嵐を、予感さえさせぬままに。
そんなこんなで、境郷2(4)となります。
もういい加減慣れてきたかもしれませんが、やっぱりと言えばやっぱり長いお話だったりしますので、
お茶かお茶菓子、またはその両方があるとほどよい加減で楽しめると思います。
では、どうぞ
境郷2 ~ The Border Land Story (4)
太平洋高気圧が梅雨前線を北へと押しやり、梅雨が明け、暑い暑い夏がやってくる。
それでも、山中の朝はけして暑くはなく、むしろ多少の湿気さえ気にしなければ清々しいとさえ言えよう。
夜明けが早い分だけ陽射しが大地を暖めるのも早く、その清々しさはけして長くは続かないのだが、
起き出し、今日一日の営みを始めようとする者たちにとってみれば丁度良い。
既に家人が炊事に取り掛かっているのか、いくつかの家々から煙が上がるなか、
朝日が最初の光を山裾から投げかけ、西の空へ闇が粛々と引き上げて行く頃になると、
夜行性の主だった妖怪達もそれぞれのねぐらへもどって行く。
そんな光景をよもや『外』で見ることになるとは、と、
縁側で伸びをしつつ、目の前を通り過ぎたいささか大きすぎる飛行物体を見送りながら、咲夜はぼんやりと思っていた。
「……さて」
振り向いた、視線の先に二人分の布団。
より正確に記述するなら、一人分の中身の居ない布団と、一人分の中身の居る布団。
昨晩の咲夜の記憶に判断の根拠を求めるのなら、摂取した酒量は結構なものであるはずだが、
さほど強くない割には二日酔いなどというものとは無縁なのか、
先ほどから『むにゃうにゅ』とか『うゆゆゆゆ~』などと幸せそうにもぞりもぞりしている影一つ。
その動作に合わせて頭部の触覚がぴょこぴょこと動いていたりするのはなかなかにチャーミングと言えよう。
しばしその様を眺めていた咲夜であったが、ふとなにを思い立ったのか、
おもむろにスタスタと寝ているその枕元まで歩み寄って、腰を下ろした。
「…………」
「うにゅぅぃぉぁ~」
いい感じに意味不明な寝言を上げる妖怪少女の顔をぼんやりと見やってから、
おもむろに両手でそのほっぺたをつまんだ。
「…………」
「うぅぅぅぅぁぁぁ~にゅゅぉ~」
ぐぐぐぐーと、横に。
「…………」
「ぉおおおぉぉ~~~むぅぅぅぅぉ~~」
ぐぐぐぐぐぐーと、縦に。結構やわらかい感触のそれをぐにゃぐにゃと弄んでみるが、起きない。
「…………」
「うふふふふぅぅぅ~~~~~ぅにゃ~~~」
どれほどに満ち足りた夢を見ているのか、あるいは夢を見ないほどに眠りそのものが心地よいのか、
緩みきった表情からは『至福』の二文字以外を連想しようもないほどだった。
我知らず、咲夜の口元と目元とその他とが愉快を示す模範のように形状を変える。
「……ふふっ」
「…………うにゅ?」
「おはよう」
「ぅぉ~~~、ぅはゆぉ~~」
「間延びしてるわね」
「低気圧なのだぁ~」
「低血圧でしょ」
「どっちでもいいから~あと五分んぅ~~~」
「……しょうがないわねぇ」
「うよ?」
苦笑しつつ、がっちりと敷布団の端っこを掴む。
基本はとうに会得済み。時折神社に寝泊りする主と当の神社唯一の住人たる巫女を朝っぱらから叩き起こす時と同じだ。
たまにその中には黒白い魔法使いと主の妹君、下手をすれば人形遣いとか一週間少女とか天狗とか向日葵とか、
場合によると鬼やスキマまでもが含まれていたりするから、相手がたった一人であれば苦戦の心配は無用。
基本に忠実に、一撃で決めればよろしい。
瀟洒に腰を踏ん張って、ぐいと腕に力をこめる。
後はただ、心のおもむくままに、引っ張るのみ。
「―――とりあえず」
「ぅにゅぉ~~~?」
「起きろ―――――――――ッ!!」
「うばぅぉおおおぇぇぇぇっ!?」
ぶぉんっ、ごろごろごろごろご――ごすぅぅぅぅぅぅぅぅんっ…………どさっ。
ちなみにその鈍い轟音が響いたとき、折りしも標高にして10メートルばかり下方、
日課である暴れ牛鳥の早朝乳絞りを完了した狩野善治氏(38歳B型)が牛乳でいっぱいの桶を置いたのと重なったというが、
両者の因果関係については残念ながら推測の域を出ない。
午前と呼ばれる時間帯も半ばを過ぎた頃、朝餉の始末には遅く、昼餉の支度には早すぎる煙が空に上っている。
煙の源は郷から見て神社と反対方向、人の手がほとんど入っていない森林を抜けた先、湖畔にあった。
一部を水に浸しながら勢いよく炎を吹き上げているのは、急造と思しい、しかし丁寧に作られた木棺二つ。
風に流され湖上へと煙がたなびく様を、ほんの十ほどの影が見送っている。
その先頭で瞑目し、聞きとれないほどの小声で何事か唱えているのは神主だった。
居並ぶ残りも、単に木棺を郷からここまで運ぶことに適した膂力を基準に選ばれた数名と、
おそらくその木棺の中の、ほんの一日ほど前まで生きた人間だった二人を最初に発見したのであろう少年。
そして、頭の触覚も気持ち粛々として見える妖怪少女、ほとりに、自ら同行を申し出た咲夜。
それが、この慎ましやかな葬儀に参列した全員だった。
「…………」
何人かが頭を垂れている中で、黙々と間に合わせの祝詞を、あげるのは意外にも初めてという神主の背中を通して、
咲夜は炎に包まれる二つの木棺を、不思議な気持ちで見続けている。
結局、昨夜の酒宴騒ぎを通夜代わりに、このメイド長がここ、この郷へ来るに至ったきっかけとなる新聞記事の老夫婦は、
郷の者達の手で丁重に葬られることになった。
そのことについて色々と理由はあるとしても、聞いた限りの中で咲夜がひときわ意外と感じたのが、
老夫婦自身がこうされることを望んだというのである。
『まあ、正確に言うとね、病死じゃないらしいんだよね。
どっちかっていうと老衰なんだって』
『老衰? でも、まだそんな御年じゃなかったんじゃないの?』
『いや、それは分かんないって。
確かに、外の医療技術で「長生き」することは出来るかも知れないけどさ、
天命……って言っていいのかな、ともかく、最後まで様子を見てた先生……ああ、えっとね、もともと外で医者だったおばちゃんなんだけど、
その人に言わせると、苦しんで亡くなったってより、蝋燭が燃え尽きるみたいに、すぅっと……逝っちゃったんだって』
朝食を摂りながら交わした会話が、今になって耳朶に反響する。
『無礼とは思ったのだが、ご夫婦の持ち物をあらためた所、日記と……遺書があったのだ。
どうも、元からあのお二人は、山歩きの途中か、でなければその後自宅に戻ってから、
その……死ぬつもりだったらしい』
『見せてもらって、よろしいですか?』
『ああ、おそらく構うまい。……どうぞ』
『……「もし、私達二人がどなたかにご迷惑をおかけする形でこの世を去ってしまったとしたら、まずは、その方にお詫びを」……』
これは、その途中になってやって来た神主と交わした言葉だった。
神主になってから日が浅く、人の死に目をこういう形で迎えるのは初めてなのだと、やや戸惑いがちに言う神主と、
手渡された詩片に並んでいた眼が醒めるほどの達筆と、迷いのない言葉が綴られた真っ白な和紙の感触が不意に指先に戻ってきて、
咲夜は我知らず、メイド服のスカートをそっと握り締める。
祝詞は、まだ続いていた。
ほとんど聞き取れないそれに耳を傾けながらも、咲夜の意識はその時の会話に向かっていく。
『命数を悟った、と言うべきなのかもしれんな。
ある意味では、とても幸せなことなのだろう。
お二人は、不本意に早い死を迎えるのではなく、しがみついて不当に長く生きるでもなく、
ご自分達の背負ってきた荷物全てが肩から下りたのを確認して、ゆっくりと、
持って生まれてきた命の最後を、ご自分達で決められたのだろう』
『そう……かも、しれないね。
わたしも……わたしの知ってる限りでも、あんな風にすっきりした顔で死んでった人は、あんまりいないなぁ』
先刻、咲夜もまた、その二人に手を合わせた。
遺言に従い、化粧を施すこともしていないその顔は、けれども不思議なほどに暖かな、「いのち」の宿った顔をしていた。
その顔が今、炎の中にあって、二度と目にする事は出来ないのだと考えた瞬間、
咲夜の意識の中に、すとんと、何かが下りてきた。
涙が出てきたわけではない。
けれど咲夜は、その何かの正体を考えるまでもなく、
それまで真正面を向いていた顔を、自然と、炎に向かって下げていた。
祝詞は、なおも続いているようだった。
鉄と、自然ならざるものによる衣をまとった者達が、日の光を避けるように山間を移動している。
人外のものの理解が及ばぬヒトの技術で身を固め、僅かな身振りと、短い言葉で意思を互いに伝えているそれらは、
周囲から発せられる人ならざる視線を、本能のどこかで受け止めながら、しかし躊躇うことなく進んでいた。
それは、嵐だった。
ほとんど灰と化した遺体を、静かに、ゆっくり湖の中へと送り出し、
二つの棺が完全に水中に吸い込まれるのを確認してから、一行は郷へと戻るためにささやかな山道を下り始める。
妖怪少女、ほとりが立ち止まったのは、歩き始めていくらも経たない頃だった。
「……お、ん?」
「? どうしたの―――」
「しっ!」
一番近くを歩いていて、真っ先にそれに気付いた咲夜が問うのを鋭く手で制したかと思えば、
目を閉じ、耳に手を当て、聞き取れないほどの早口で何かを呟き始める。
「……ん……そう………ん……任せる……オーケー、みんな!」
僅かな間、小声でここいない誰か・・・・・・・と会話を交わした後、やや大きめの声で呼びかける。
が、そうする間でもなく、この時点で既に同行していた全員が何らかの異常に気付き、立ち止まっていた。
先ほどまで死者を悼んでいた空気は一変、研ぎ澄まされた緊張感が漂い、
神主と咲夜を除く全員が、少女の言葉を神妙に待ち受けている。
「……細かい事はまだ分からないんだけど、どうも外からお客さんみたいだよ。
それも、なんだかちょっと物騒な感じの団体さん」
同行者達の間でざわめきが生じ、半分余りの視線が咲夜に、残りの半分が、神主に向いた。
「…………む」
「? なに?」
「あー……えっと、一応聞くんだけど。
心当たりって、ある?」
「……役立たずですまんが、ない」
「……団体で押しかける知り合いは、いないわね」
「そ……うん、ありがと」
二人の即答に、何故か少女を含めた全員が安堵の息をつく。
正直な所咲夜としては、単独でならばここに出現し得る既知に心当たりがないでもなかったのだが、
物騒な感じの団体さんとなれば話は別である。
「んじゃ、とりあえずさっさと戻るよー! 全員、駆け足――!!」
「「「おーっす!!」」」
「……わかった」
「……しょうがないわね」
勢いよく応じる者、溜め息の後に続く者、やや面食らってから苦笑して最後尾に着く者、
軽快なフットワークで先頭を行く触覚を追いかけるようにしながら、
咲夜はほとんど並走する形になった神主に、ふと湧いて出た疑問をぶつけてみた。
「……少し、聞いていいかしら?」
「今しがたの、あれか?」
「ええ、まあ」
「なんということはない」
壮年か、もう少し上に見える割に、先を行く妖怪少女や見るからに肉体派の面々に劣らぬ健脚で地を蹴りつつ、
息も乱さず返答するという芸当を見せる神主の口元が、緩んだように、見えた。
「少し前ならば、俺は逆の立場にいた……そういうことだ」
「あら」
「意外か?」
「……ええ、少し」
「分からんものだ。
ほんの僅かの巡り合わせの違いが、こうまで人の立ち位置を変えてしまうものなのだから」
今度ははっきりと、このコワオモテの神主が苦笑とも何とも判別し難い、しかしはっきりとした笑みを浮かべて言う。
それを見て、咲夜もふと、己の境遇に思いをはせた。
ほんの僅かの巡り合わせ、というにはいささかばかり大きな騒動だったような気もするが、
主が紅い霧を出したことに腹を立ててやって来た巫女と魔法使いと弾幕やり合い、
直後の長かった冬にはその二人と共にあの世へ殴りこんだ、そんな具合だった自分の最近を考えると、
その言葉もあながち的外れではないように思えた。
「……ええ、本当に、分からないものですわね」
「……ああ、分からんものだ」
だから、十六夜咲夜もまた、分類し難い、けれどもはっきりとした笑みを浮かべて、それに応じる。
郷へと下る坂道は、いつの間にか緩やかになっていた。
「で、今は東の森で迷ってるのね?」
「迷っている、というよりは、外から入る場合に一番長い順路を辿ってるってとこです。
連中がやってくるのに気付いた子たちが、樹界迷路の一部をそういう具合にしてくれたらしくて」
「とすると……この速度でこのまま来るとして、もうそんなに余裕はないかなー。
その物騒なお客さんたちについて、何か分かった?」
「正体については何とも……。
ただ、ヤケに堂々と迷路を歩いて来てるそうで」
「ふーん……あれ、迷路を外へ向けて繋げられないっけ?」
「何度かそうしようとしたようなのだが、その度に気付いて正しい道に戻っているそうだ。
勘の鋭い者がいるのか、あるいは何らかの対策をしているか……」
「ヤな奴らだなー。
惑わされてるのは知ってて、それでも大人しく順路たどって出口まで歩くつもり?
何か、いくら時間稼ぎしても無駄とか言われてるみたいで腹立つぅ――!」
「気のせいじゃないの?」
「それはそうかも知れないけどさ。
でもこう、なんていうの? きっと凄く根性の捻じ曲がったヤツが居るに違いないのよ!」
わいわいと、臨時の作戦司令部のごとき様相を呈しているのは、郷の中央あたりの古びた木造建築だった。
もともと集会所か何かに使われていたのか、備え付けの古い黒板……そう、まさに真っ黒な、
もともと幻想郷の『外』出身である咲夜でさえも見覚えのない黒板には何枚もの地図が張られ、
今しも議題の中心になっているその『連中』なる集団の位置がやけに正確にピンで表されていて、
しかもその位置はリアルタイムで更新され続けている。
ついでながら、何故か昼時ということもあり、居並ぶ人間と、どうも人間以外らしい全員が、
手にお握りだの味噌汁だのを持ち、それを思い思いに消化しつつ活発に情報が交換されていた。
このあたり、緊迫感があるのかないのかよくわからない。
ちなみに咲夜もご相伴にあずかり、梅と高菜、二種類のおにぎりを既に胃におさめていた。
塩気が絶妙な具合に抑えられていて、なかなかに美味だ。
「やっこさん達、武器らしい武器はあんまり持ってないそうです。
最近の外のものでいうと、せいぜいが拳銃、でなくても、
刀ぶらさげてるとか、槍持ってるとか、そんな感じですね」
「何か……みょーにアンバランスねぇ」
「オマケに格好は、えーと……みんな黒スーツ?
何だこりゃ、脳ミソが暑さでどうにかなった新興宗教団体か、こいつら?」
「脅しはほとんど効いてないそうです。
どうもリーダーっぽい人間がいるみたいなんですけど……その、何というか」
「どしたの?」
「えらい凶悪なツラ構えしてるそうです。
一度あったら忘れられない顔だって、言ってました」
「どんなのよ、それ」
「似顔絵の得意な子にでも行ってもらいやすか?」
「あー……いや、いいでしょ。
どうせ嫌でもお目にかかるわよ、このまんまなら」
「…………」
「およ、どったの。
何だか、面白い顔してるけど」
「いや、今更なんだけど……これってどうやってるの?」
「え?」
え、と声に出すものと出さない者とが、しかし心底不思議そうな表情は同じく一斉に咲夜の方を向いた。
「……私、何か変な事言ったかしら」
「え、あ……いえ、その」
たまたま隣に座っていた男に聞くと、その相手は何故か視線をさまよわせ、
やがて助けを求めるように妖怪少女の方を見た。
見られた方は少し何かを考えるように首を傾げてから、心得たように手を打つ。
「んー? あ、そかそか」
「だから何?」
「いや、あんまり自然にとけ込んじゃってるもんだから、てっきり。
……で、どうってのは?」
「みんなここにいるのに、どうやって調べてるか気になったのよ。
さっきから聞いてると、まるで見てきたみたいな項目がずらりと並んでいるのだけど……」
「あー、それはね―――」
「おまたせでーす。はいこれ」
「おー、ご苦労さん。
えー、位置報告第九号、三五〇メートル前進、速度変わらず。
甲の六の地点でまた分岐トラップ仕掛けるそうです、以上ー」
「うーす」「らじゃー」「これでもちょっと稼げますね」「じゃあおれ味噌汁もう一杯」
「…………」
あまりといえばあまりに良すぎるタイミングで外から駆け込んできた少年が、
思わず沈黙してしまった咲夜の目の前を通り過ぎ、黒板の前のおっさんになにやら紙きれを渡して外へと戻っていった。
その紙を見たおっさんは地図上のピンを刺しなおし、更新された情報に皆が頷き返す。
「えっと、まあ、そういうことだよ」
実にアイマイな台詞を簡潔に告げるほとり。
あらゆる代名詞や指示語がほぼ完全に逸脱してはいたものの、言わんとするところはなんとなく伝わった。
昨日の時点で、郷の住人たちの中に人間以外らしき存在がいることは咲夜にとっても既知事項である。
おそらくは、彼ら、もしくは彼女らによる人海戦術(不適切)によって情報収集を行っているのであろう。
「……大体は理解した、と思うことにするわ」
「うん、多分そんなに間違ってないよ、きっと。
……さってと」
ぱちんと、ひとつ手を打ち鳴らす。
全員が少し居住まいを正し、無駄話を切り上げる。
それだけで一座ほぼ全員の視線が集まるのだから、この妖怪少女もたいしたものだった。
「このままでも埒が明かないからね、何か考えがある人は居る?」
「いっそ襲っちまって、眠らせて外に放り出したら?」
真っ先に出たのは強硬案。
しかし、ほとりは沈黙したまま首を縦にも横にも振らない。
その沈黙を埋めるように誰かが手を上げた。
「連中の進み方からするに、迷い込んだなどではなく、明確な目的があってのことだろう。
下手に途中で追い返してもまた来る可能性は否定できない。
それよりも相手の目的を知った上で、根本的に連中が二度とここへ来る必要がない様に手を打つのが最善ではないか?」
落ち着いた声音が、一息の間にそれだけを告げる。
……神主だった。
賛同するように次々と声が上がる。
「だなぁ、これまでもしつこくやってくる奴が何度か居たしなぁ」
「これだけの人数だ。何か組織的な動機やら目的があってのことかもしれない」
「一番簡単な手はあるにはあるが……こいつらの様子からすると楽じゃなさそうだし」
「武装してるんだろ。ならこっちも危険になるぞ」
具体的に口にはしないが、先よりもさらに強硬な、最も暴力的な手段は言外に却下されていた。
ざわつく中で、咲夜のちょうど対面に座っていた壮年の男が手を上げる。
「だったら、ここが単なる世捨て人の村だってのを理解してもらって、
それからさっさとお引取り願うのが一番じゃねぇかな」
「結局その手かー」
「けど、上手くいけば誰も怪我したりせんで済む」
「だな、それでいくか」
安堵と落胆の微粒子を含んだざわめきが一座に広がっていき、
自然、皆の視線が再びほとりに向くようになる。
やや堅い面持ちのまま、一通りの顔を見渡してからゆっくりと口を開いた。
「……みんな、その方向でいい?」
「うむ、そうしよう」「怪我人が居ないのが一番だ」「そうそう、平穏第一ってね」「みんなで幸せになろうよ」
「それじゃあ、みんなそのように連絡を。
方針が行き渡るまでの間、もう少し時間稼ぎをしてくれるようにもお願いね」
「へいへい」「わかりましたー」「うっす」「まあ、いいんじゃない」
それぞれが口々に返事をしつつ、立ち上がり外へと出て行く。
ただそんな中、わずかに4人がその場に残った。
ほとりと神主、咲夜、そして―――
「……ああは言ったがな」
咲夜の対面に未だ座したままの男が、先ほどまでと打って変わって深刻な声を呟く。
「正直、今回はどうもやばい気がする。
来てる連中は明らかに『外』の常識に照らしても普通じゃあない」
「……だろうな。まかり間違っても堅気ではない」
「まあねー」
「…………」
それはこの場で最も異端に分類されうる咲夜でさえ分かっていたことだった。
そしておそらく、今の今までこの場で気楽そうにしていた全員が理解していることでもあったろう。
「時間稼ぎは大人連中がする。
姫様と神主さんは子供たちと、それからひと目でそれ・・とわかっちまう連中とを集めて身を隠してくれ。
それから―――」
と、そこで初めて、男の視線が咲夜に向いた。
日に焼けた顔が無骨に、不器用そうに微笑んだ。
「十六夜殿は、どうされますか?」
「え、あー……」
話を振られて始めて気付いた。というより、これまでそこに考えが及んでいなかったというべきか。
普段冷静で万事にそつがないと見られるが、実は意外に抜けていると最近評判の十六夜咲夜嬢、
事態の進行をきっちり把握していながら、自分がその渦中にいるという自覚がなかったようだ。
この場合、普段『十六夜殿』などと呼ばれることに慣れていないから反応にすれが生じた、と好意的解釈も可である。
「どうしましょうか……あまり郷の皆さんと一緒ではない方がよろしいですよね?」
「ふむん? いや、わたしらとしちゃあ嬉しいんだが……」
「ちょっとゼンさん、そんなに色気出しちゃっていいの? 所帯持ちでしょーに」
「いやいやいやいや、他意はないのだよ、他意は」
実にだらしなく相好を崩しながら言っても説得力はない、ゼンさんと呼ばれたこの男性、
他ならぬ先夜の宴会時に酔っ払って咲夜の太ももに抱きつこうとした(未遂)一人である。
「いえ、やっぱりこの格好では目立ちますし、お気持ちはありがたいですけど……隠れる側にまわらせていただきますわ」
「そうかい? んむ、そりゃあ残念」
心底残念そうに、としか表現しようのない笑みを浮かべるゼンさん(仮称)。
神主とほとり双方から苦笑と溜め息がこぼれたあたり、こういうのはいつものことのようであった。
誘われるように咲夜もまた苦笑で返すと、次の瞬間にはもう表情を再び引き締めている。忙しい人だった。
「では、十六夜殿は姫様や神主さんと共にどうぞ。
私ももう行きますゆえ……お二人とも、後をよろしくお願いします」
「うん、まかせといて」
「承知した」
二人の返事に頷くだけで答えとすると、ゼンさん(仮称)もまた集会所を出て行く。
見送るのは、メイドと神主と妖怪という取り合わせ。
咲夜にとって新鮮な光景であるとともに、一方でとても馴染み深いような、そんな組み合わせ。
「……さてと、それじゃ行こっか?」
「うむ、まずは子供たちを集めて回らんとな。呼びかけは?」
「いちおーしたけど、はしゃいで聞いてないのもいるかもしれないからね、
一通り回ったほうが良いかな、集合場所は神社で」
「承知した。
では、神社で会おう」
首肯し、やや足早に神主が出て行くと、残るのは二人。
「よし、じゃあこっちも行こ……って、どしたの?」
「私も、手伝ってもかまわない?」
「うん? そりゃ助かるけど、いいの?」
「一宿一飯の恩義っていうのかしら、そんなところよ」
「ありがとー。
んでも、別に気にしなくていいのに」
「そっちこそ気にしなくて良いわ。好きでやらせてもらうんだから」
だから……そう、もう少しこの光景の中に混じって居たいと、そう思ってしまうのだ。
「わかったわ。
んじゃあ……そだね、昨日一緒にいた子達に声をかけてくれるかな。場所は―――」
「神社」
「うん、そう。じゃ後で」
そして残った二人は互いに頷いてから、ほとんど同時にそれぞれのやり方でその場から姿を消した。
それは、異様な対峙だった。
新緑あふれる初夏の里山、その一角にある雑木林の端っこに二十人ばかりの、黒い集団。
ここがビジネス街ならばまだ違和感も軽減されたかもしれないが、
しかし揃いも揃って黒服にサングラスとなれば、たとえ一般的な人間社会の中であろうとその異質さはどうしようもなるまい。
対するのは、先刻集会所で最後まで咲夜達と話をしていたゼンさん(仮称)を筆頭としたほぼ同数。
性別比はざっと同等で年齢層はおおむね青年以上、皆揃って農作業やらの作業着姿で並ぶのは周囲の風景とよく似合っていると言えるが、
だが対面している相手が相手である所為か、居並んでいる表情の中には強張っているものも多い。
「……大人しく我々を通した方が、面倒が少ないのではないかね?」
数分か十数分か、ともかくも一向に翳る気配を見せない快晴の日差しの下でのにらみ合いの中、
真っ先に声を発したのは黒い集団のほぼ中央に立つ、周りからそこだけが切り取られたように小柄な、そして異様な空気を放つ男。
確かに『一度あったら忘れられない顔』だった。
この場に集まった郷の人間たちはあらかじめそのことを聞いてはいたものの、
実際に目にするとそのあからさまに奇異な男の顔面にひるみ・・・を覚える者が多く、
男の周囲に布陣するサングラスの大編隊と相まった威圧感は、気の弱いものなら卒倒してしまいそうなほどだ。
事実、その言葉の、というよりは妙に響く低音に気圧されて後ずさりしたものが数名。
「どこが面倒なのかよぉ分かりませんな。
見ての通りここは山奥の寒村、世捨て人の隠れ里みたいなもんです。
あんた方がどういうつもりでお出でなのかは知りませんが、何ンにもありませんぜ」
そんな中で一人、少なくとも外見だけならば堂々と郷側の先頭に立つゼンさん(仮称)が応じる形で返す。
この状況にありながら平然としているのはなかなか見上げた根性だったが、内心はそう平静でもない。
雑木林は郷の中でも最も端に位置する場所のひとつなのだが、実を言うとここからは郷のほぼ全てが見渡せてしまう。
目の前の招かれざる客人たちが意図してここへ出る道を選んだのかどうかはともかく、
現実問題として、郷の中を飛行やその他の特殊な移動方法を用いれば一発で見える位置だった。
そのため避難する者たちは、ある種そういったスキル持ちばかりなのだが、地味にここから見えないところを移動していて、
同時にそれは移動にかなりの時間を要することを意味する。
短く見積もってあと十数分程度、その間この連中をここに留め置くことができれば、
ひとまず自分達の課題は一つは解消されるはずだった。
再び漂い始めた沈黙の中、気の早い蝉の鳴き声がか細く響き渡る。
時刻はまだ、正午にさえ程遠い。
「ほら、急ぎなさいよたーくん!」
「ちょ、ちょっと待ってってばふーちゃんっ。あんまり急ぐと見つかっちゃうよっ」
ゼンさん(仮称)他の郷の大人連中がどうにかこうにか踏ん張っている地点から、ほんの何十分の一由旬くらいの場所、
小さく抑えた、けれど切羽詰った調子で交わされる声二つ。
昨日のささやかな騒ぎの発端となった少年少女である。
「まったくもう、おトイレ行ってて逃げおくれましたーなんて、かっこわるいったらないわよー」
「しょ、しょうがないじゃないか、『せいりげんしょう』ってやつだって……」
「えぇい、男がそういうことを軽々しく口にするんじゃないのっ」
「えぇ!? そんなりふじんな……って、そんな言い方どこで覚えてくるの!?」
「―――ってこないだおねーちゃんが言ってたの」
「うぅ……」
微妙に緊張感が不足しているが、二人の年頃とすればこんなものだろうか。
昨日のあの騒ぎを見る限り、この二人は直接的な物理影響を及ぼすのが持ち前の能力らしく、
今現在の状況下にあっては地味に隠れつつ足音をしのばせ歩く以外なかった。
幸いにも、点在する家々や茂み、生垣なんかが適度な死角を提供してくれるおかげで、
投影面積の小さな二人は今のところ、声が届くこともなければ姿を見られることもない。
「だいたい『外』の人たちなんか、みんなでぶわーっとやっちゃえばいいのに」
「だ、だめだってふーちゃん。その人たちもいろんな武器を持ってるから、
ぼくたちも危ないんだよ?」
「わかってるわよそのくらいっ!
あーもう、だからなおさらイライラするのよね……」
そろりそろり、こそこそ、ひたひたと好き勝手に動く口とは別に、行動は案外慎重である。
が、その常ならぬ挙動が多大なフラストレーションとなって二人の、
特に少女の動きを徐々に散漫なものにしていった。
「……ね、たーくん、ちょっとだけやっちゃわない?」
「だからダメだって……」
「っもう話がわかんないわねー、いいじゃない、ちょっとくらいこう(がっ)「あ」ぶわーっと(がらんがらんどしゃ)した……って……」
それに気づく暇こそあれ、止めるだけの余裕などないに等しかった。
たまたまぶわーっと振り回した手が傍に積んであった桶やらタライやらの山にあたり、
しかもそれが運悪く不安定だったことが重なり、それらが盛大な効果音を引き連れて崩壊する。
中には縦になったまま今しも大人衆たちが対峙している場へと転がっていくタライさえあった。
「…………」
「…………」
「……やば」
「……やば、じゃないよっ!」
突っ込む前に逃げる、という選択肢を思わず放棄するほど鮮やかな自爆っぷりであった。
その騒音が後方で響いたとき、思わず全身を緊張させた者数名、
ああやっちまったかと本能的に状況を理解した者数名、対峙する連中の挙動に注意を払った者が若干、
内心で舌打ちをした者、実際に頭を抱えた者、思わず天を仰いだ者がそれぞれ一名ずつ。
先頭に立って睨みを利かせていたゼンさん(仮称)を除くほぼ全員が、何らかのリアクションを起こした。
対する黒服軍団も音が聞こえていないはずはないのだが、
先ほどから沈黙の只中にある件の男が視線をわずかに動かした以外に目立った動きがない。
そも、にらみ合って沈黙などしていなければ大して目立たない程度の音だったはずだったが、いまさら遅かった。
「……おい」
「は」
やり取りは短く、行動は迅速だった。
奇顔の男が一言命じるや一斉に黒服たちが進み出る。その威圧感だけでまた数名が後ずさった。
……だが。
「おー、ちょっと待った」
「…………」
さりげなく、しかし確固とした意思を込めた言葉とともに立ちふさがるのはゼンさん(仮称)であった。
ただ数歩進み出ただけであるのに、何を感じたのか黒服たちの歩みが制される。
「勝手に入ってもらっちゃ困るぜ、あんた達が何者だとしても」
「……痛い目を見なければわからんかね?」
自分以外が進み出たことで黒服たちの後方に隠れてしまった男からの声、それを「ハッ」と一蹴し、ゼンさん(仮称)は続けた。
「どうだか。見た目の図体がでかいだけじゃケンカにゃ勝てんぞ?」
「……あくまでもやる気かね」
「あんた、意外に読解力がないな。
……そう言ってるのが聞こえんかったか?」
どうやら無言の対峙で相当に「溜まって」いたらしいゼンさん(仮称)は、他の大勢が止める間もなく言葉を繋ぐ。
ずいぶんに好戦的なのは意図的なのか地なのか、後方で何人かが呆れた顔をしているところからすると後者かもしれない。
「やむを得んか……おい、相手をしてやれ」
「……よろしいのですか?」
「構わん。
時には相手のやり方に付き合うほうが面倒がなくて済む」
「は」
男の声に応じ、黒服の中から一人が進み出て上着を脱いだ。
最寄の黒服にそれを渡すと、次いでネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを一つ二つと外し、腰を僅かに落として構えを取る。
「へ、そうこなくっちゃな」
対するゼンさん(仮称)も首にかけていたタオルを後ろへ放り投げると、やにわに腰を深く落とし「むん!」と気合を入れた。
「ずどぉぉんっ」とかいう上半身が爆発したかと錯覚するほどのすさまじい音と共に着ていたシャツがボタンの多くを道連れに弾け飛ぶ。
それぞれ肩の部分でちぎれたズボン吊りを全て外し、「ふん! ふんっ!!」などと盛大にもり上がったマッスルを主張するゼンさん(仮称)。
「そのシャツを誰が縫うんだい」
細君だろうか、割と冷静らしいハスキーな声が後方の中からあがり、つられて何人かが笑い出した。
思わずゼンさん(仮称)の顔が憮然の二文字をかたどった反対側で、一人上半身を白くした黒服がサングラスを外す。
顔の表面積に対し妙に小さく愛嬌のある目が出現したが、眼光が鋭い分かえって気味が悪い。
と、その男もさらに腰を落とすと「ふっ!」と鋭く短い呼吸で気合を込めた。
先のゼンさん(仮称)の時と負けず劣らずの「ぼぉぉぉんっ」などという破裂音と共にワイシャツがボタンを撒き散らして弾け飛び、
これまた見事な上半身が露になった。
僅かに首の辺りにまとわりついていたネクタイを解き、これまた後ろの黒服へと放り投げる。
興がノったのか、黒服たちの中から口笛が、郷の連中からは「おおー」などと俄かに歓声があがった。なにやら皆、ノリノリである。
「……言っておくが、換えはないぞ」
そんな突然の血統騒ぎの中で冷静な奇顔の男が告げ、ゼンさん(仮称)と対峙する男もまた不意に情けなさそうに表情がちょっと緩んだ。
「へ……結構できそうだな、あんた」
「…………」
互いにどんな経験を経てきたのか、むき出しの上半身に夥しい数の傷跡を残す男同士が対峙する。
折りしも、先ほど少女の崩した山から落っこちたタライが延々と転がってきて二人の脇を通り過ぎ、
そのまま近くにあった木へと向かっていく。
場に居並ぶほとんど全員がその行方を目で追う中、タライはまっしぐらに木へ向かい、当たり、よく響く気持ちのいい音を立てた。
響く音、その様はさしずめ、くわん!
「ぬぅ!」「ふん!」
重なり、裂帛の気合と共に男二人が同時に踏み込み、どよめきがあたりの空気を震わせた。
「んー……ゼンさんだーいぶはしゃいでるねぇ」
所かわって、神社の境内。
かなりの距離があるため別段隠れる必要はないが、気分的に落ち着かないのか木陰に隠れる形で様子をうかがうほとり・・・が呟く。
ちなみに咲夜もすぐ傍に居るのだが、ほとりのように郷外れの状況を感知できないため手持ち無沙汰な彼女の横には、
二つのスキマ、もといスマキが転がっていた。
「あのー、ぼくたちいつまでこのままなんでしょう?」
「そうよ! いつまでふんじばってるつもりなのよー!」
ややおっとりめのものと、威勢のいいもの、たーくんふーちゃんの愛称で呼ばれていた二人だった。
咲夜の時間停止とほとりの詳細不明の能力によって先の地点から短時間で運ばれてきたのだが、
ほとり曰く「おしおき」としてスマキになって転がっている。
「うるさいわね、自業自得よ。
お、ゼンさんのアッパーが綺麗に入った!あぁでも相手のヤローも負けずにボディブローで応じる!」
「楽しそうねぇ」
咲夜としてはそう言うしかなかった。
既にこの場に居る四人を除いて隠れるべき子供やその他の人たちは神主の先導で別の場所へ向かっているから、
咲夜はほとりとともにこの二人を連れて行けばいいのだが、当の彼女が動こうとしない。
よって、特に危険がこの場に迫っているわけでもないので、おチビ二人とほとりのやり取りに苦笑するのがせいぜいなのである。
「でも、そろそろ私たちもここから動いたほうが良いと思うけど」
「ん、そだね……それじゃたーくん担いでくれるかな」
「……ほどかないの?」
「駄ー目。もうしばらくやっとかないと、おしおきの意味がないでしょ」
「あうー」
「おねーちゃんの鬼ー」
「妖怪だもん」
よっこらせと、自身が小柄な割に軽々とふーちゃんなる少女(のスマキ)を担ぎ上げるほとり。
言葉どおりか、ここらあたりはそれなりに妖怪らしい。
咲夜も応じてたーくんを肩に担ぎ上げた。
メイド長として日々の激務をこなす中で、十歳程度の子供ひとりを持ち上げる位の腕力はある。
こっそり能力で微妙な加重調整を行っていたりするが、言わぬが華というものだろう。
「……ん?」
しかし、移動しようとした四人の動きは、ほとりが足を止めたことで程なく停滞した。
微動だにせず、視線を心持ち上にして遠くへ飛ばす。
「……!」
問うまでも無く、咲夜も気付いた。
未だ神社の境内に居る彼女らから見て郷と反対、すなわち外界から迫る、時ならぬざわめき。
それは、木々の梢に休んでいた全ての鳥が一斉に飛び立つ音。
かつて大軍の心理を恐慌に落とし潰走させたとされる鳥たちの羽音は、
だがこの場合においては、その更に彼方から来る爆音と轟音に追い立てられてのものだった。
「影に隠れて!」
「わかってる!」
「にゃ!?」「うわぁっ!?」
咲夜とほとりが事態を把握するのはほぼ同時だったが、残る二人はそれに遅れた。
もっともそれぞれ担がれていたため隠れそびれることにはならない。
境内の一角にある巨木を盾にするように四人が隠れるのと前後して、
頭上で回転翼を旋回させながら爆音を振り撒き、無粋な鋼鉄の塊が神社の空気を激しく掻き乱した。
「――――!」「――――!?」「!!」「!?」
四人が四人とも、自分以外の誰かが何かを叫ぶのは分かったが、その内容までは聞き取れなかった。
そんな中で咲夜の行動はひときわ速く、右腕で少年を担ぎながらも左手に得物たるナイフをセットし、
木の幹から僅かに乗り出す形で社の上空すぐの所を滞空する鋼鉄目掛けて照準する。
通じるか否か、また撃墜したとしてその後どうするかまで考えることも放棄して一投せんとする咲夜の腕は、
しかし翻る寸前で横合いからの手で止められた。
「!?」
「―――!」
振り向いた先には、何かを叫ぶ妖怪少女の顔があった。
声は聞こえずともそれが撃墜を制止しているのは明白だったが、
それでも咲夜はほとりの視線から顔を背けて狙いをつける。
「!!」
叫ぶ気配だけが伝わる。
構わず、一投で仕留められると見当をつけた回転翼と本体の接続部分に狙いを定め、
なおも左腕に食い下がる手を無理矢理に振り払おうと力を込めた。
意外なほどの力で抑えてくる手に怒りさえ覚え、睨みつけようと再度顔をそちらへ向けたところで―――
ぱしん、あるいはぱちん、と、ろくに音の通らない中で衝撃だけが鮮烈に咲夜を打った。
「…………」
「…………」
何事か喋ったところで未だ聞こえないことに変わりはなかったが、
振りぬいた右手をそのままに、悲しみとも怒りともつかない色をたたえた少女の瞳と、
不意に張られた頬の熱を呆然と感じるメイドの紅い目が、静かに交錯する。
数秒か数十秒か、ともかく長くはない轟音と裏腹の沈黙は、
鋼鉄が鼻先を下げるようにして郷の方向へと飛び去ったことで沈静化した。
「……駄目だよ?」
さらに数拍の間を置いてから、静かにそれだけを告げられ、
既に普段の色へと戻った咲夜の瞳がきゅっと細くなった。
見ようによっては、あるいは泣きそうに見えたかのも知れない。
そんな咲夜の顔を見てひとつ苦笑すると、そのままほとりは先に歩き出した。
郷とは違う方向なのは咲夜にもすぐに分かったが、
分類し辛い感情がぐるぐると渦巻いていて思考が上手く回らなかったから、
仕方なくスマキを担いだまま黙然と続く。
それぞれ担がれている二人はというと突然訪れた事態に面食らったのか、
息をのんで成り行きを見守っているという感じだった。
「……あのね」
「……何?」
注意していなければ獣道であるとさえ解りそうにない、僅かに踏み固められている斜面を数十歩ほど進んでから、
ほとりがやや躊躇いがちに、振り向くことなくそれだけ言う。
ひょっとすると落ち着くのを待っていてくれたのか、咲夜もどうにか声を返すくらいには平静になっていた。
んー、と少し言い難そうに唸り、次いであいている方の手でこつこつと自らの頭を軽く叩いてから、
さらにひとつ深呼吸を挟み、切りだす。
「今のことだけど」
「……ええ」
「どうしたの、何か急に人が変わったみたいになってさ」
「よく、分からないわ」
「へ?」
本心だった。
自身なかなか認めないが、多少なりの緩い部分があるにしたって普段『完璧』で『瀟洒』を売り文句にする咲夜である。
取り乱したのか混乱したのか錯乱したのか、いずれにせよ問答無用でヘリを落とそうとするなど、
あまりにもいきなり過ぎる行動だったと自分でも思う。
もし妖怪少女の制止がなければ、今頃間違いなくアレは堕ちていた。
さすがにあの鉄分豊富な物体が相手であるから、クリティカルヒットが出たとしてもナイフ一本きりで決着がついたとは思わないが、
あの状態の自分ならとりあえずあるだけぶち込んで撃墜していたという、確信に近い予感がある。
ただ、そこまでに至る自分の思考回路にはかなりの疑問が残った。
わずかな滞在で愛着なり帰属意識なりが芽生えたか、何を必死に、とは過ぎた今だからこその感想。
「んー、と、あのさ」
こちらも少し考え込んでいたらしい、前を行く少女が再びつぶやく。
考えながらであるからか、これまで咲夜が聞いたどの会話よりもゆっくりと、
言葉を選びながらなのが分かった。
「さっきのは、ん……そうそう、何のための行動、だったのかな?」
「何の、ため」
「そ。
あ、前もって言っておくけど、何かの、誰かのためだったとしてもわたしは止めたからね?
ただ、物凄く必死な感じがしたから、よっぽど大切なことなのかなって」
「…………」
言葉が続かなかった。
ここに主人ないしその妹君、あるいは親友の紫もやし辺りが居るならそのためだと言い切るところだが、
状況的にそれはいささか無理というもの。
となると自分のためと言えば良いのだが、
そう断じるにもあの時感じた得体の知れない衝動の解析は遅々として進まず、
かといってこの郷の為の一言で片付けるには符合しない部分が多すぎる。
結果、それらしい答えは一向に見つからないまま、咲夜はふいと空を見上げた。
ようやく中点に達した太陽は、いよいよ訪れる季節に向けてのウォーミングアップか一際眩い。
その明るさに目を細めながら、咲夜は自分の意識のどこかで、
何かひどく不愉快な、それでいて内容閲覧不可能な記憶が掘り起こされるのを感じていた。
気温の上がり続ける、午前と午後の境界線上のことである。
二人の格闘は乱入してきた爆音によって中断された。
回転翼を唸らせ上空に突如出現したそれを、実見とは言わぬまでも知っているものは郷の人間にも多かった筈だが、
それがまさかこの場にあらわれると予見していたものは皆無に近い。
予想の範囲外を事態が高速で進行しつつあることに動きを止めた郷の人間たちを、
待ち構えていたかのように黒服がとりおさえていく。
元々数の上で同等程度だったことに加え、数瞬の自失の時間と、
黒服たちが集団での動きに習熟していたことがその結果を生んでいた。
ゼンさん(仮称)もまたほんの先刻まで組み合っていた相手に隙を突いて組み伏せられてしまい、
当初の緊張と裏腹に大勢は一瞬で決していた。
抵抗を試みるものも何人か居たが、しっかりと急所を極められている以上それは徒労に終わった。
「それで、いかがいたしますか、代表」
「全員が入る適当な建物を見繕って放り込んでおけ。
それから数人ずつで巡回、他に隠れている者、逃げた者が居るかを調べろ。
あとは追って指示を出す」
「は」と短く応じて指示を出しに立ち去る黒服に背を向け、
代表と呼ばれた男はひとり、格闘と捕縛の現場から歩み去る。
ほんの数十メートルほど砂利道を歩いてたどり着いたそこでは、木桶や農機具が散乱していて、
中には積み上げられたまま危ういバランスで山を維持している桶もあった。
「…………」
先の、盛大な騒音の発生源であると一目でわかるそこをゆっくりと見回し、
やがて地面のある一点で視線を止める。
「二人、いや……三人から四人か」
呟く。
視線の先にあるのは小さな足跡が二種類と、それよりやや大きなものがひとつ、
そして今ひとつ、この郷の如き物質文明と疎遠な地には奇異な、
さほどに細くも長くもないだろうヒールの窪みを伴う靴のアト。
どんな思考と感情がその脳裏を巡っているのか、
分厚く重なる顔の皮膚をぐにゃりと歪ませ、男は笑い、あるいは哂っていた。
「……まあ、いい。
いずれ分かることだ」
懐から時計を取り出し時間を確かめた男は、それだけを誰に聞かせるでもなく呟くとその場に背を向け、
黒服が数人固まっている所へ歩き去って行った。
少ししてから、均衡を失った桶ががらんと崩れたが、
その音は近くに居た蝉を一匹おどかして飛び立たせる程度でしかなかった。
「んー……」
洞窟の一角で、目も耳も閉じて腕を組んだ妖怪少女、ほとりが唸っている。
その状態が、おそらく外の様子を何らかの手段をもって観察しているらしい事くらいは、
ここまでくると咲夜にもおおよそ分かっていた。
郷を囲む山々のひとつ、その中ほどに存在する天然の洞窟は、ひと一人が通るのもやっとの入り口と裏腹に内部は広く、
複数に枝分かれしていることに加え、自ら発光する不思議な苔がそこらじゅうに生えていて結構明るい。
洞窟の多数ある枝道を最奥まで進んだところに存在する小部屋のひとつで、
半分瞑想に近い状態になっているほとりに向かい合う形で咲夜は壁にもたれていた。
だいたい無言か、でなくても時折唸る程度のほとりに対して、咲夜は小部屋に入った時点から無言を通している。
洞窟内の他の部屋には避難している子供から咲夜くらいまでの年齢のものが大勢いるのだが、
思うところのあった咲夜は人気のない場所を探している内にここに来てしまっていた。
「…………」
先客、ほとりも特に何も言わなかったためこうして落ち着いてしまったが、
よくよく考えてみれば今の咲夜には居心地が余り良くない。
『……駄目だよ?』
ほんの一刻かその程度しか経っていない記憶が脳裏をよぎり、
特に腫れているのでもないのに、つい手が張られた方の頬にいってしまう。
他ならぬ思うところというのはその後の、この洞窟まで移動する間の会話のことだった。
『別に、怒ってるってわけじゃ……あーいや、ちょっとは怒ってるけどさ』
今、咲夜の目の前で瞑目している少女は記憶の中でそう言って困ったように苦笑し、
それからまた言葉を繋げる。
『でもね、アレを落とすのって、きっと正解じゃないと思うんだ。
そりゃあ放っておくのも正解じゃないかもしれないけど……でもさ、
さっきのは、なんだか普通じゃないって感じがしたから、だから止めたんだよ』
「……普通じゃなかった、ね」
と、ほとんど声にならない声で呟いた。
ある程度の間をおいた今でもなお、あの時感じた衝動の分析は進んでおらず、
どういう思考の結果としてあの行動を選択したのかほとんど把握できて居ない。
ここまでの短い時間で考えたところ、鉄塊ヘリを撃墜しようとした時から意識の片隅にある微細なひっかかりの根元、
咲夜も忘れているのか、それとも思いだしたくないのか、記憶の中身が参照できない理由はおそらく、後者。
日常生活でのうっかり度合いほど記憶の道筋は緩んでいない咲夜が省みるに、その参照不可能記憶の年代はかなり前のものだった。
多分、いや十中八九から九分九厘あたりの確率で、物心ついた位の、
つまりは通常人間がおおまかな内容をなんとか覚えている最古程度の記憶なわけで、
それの意味するところは―――
「…………」
一拍置く形で深めの溜め息を一つ。
しかし、一度そうと意識してしまった胸中の澱はそんな程度で薄まるほど容易い相手でもなく、
依然、不快な濃霧となって漂っている。
中身を見るまでもなく、その記憶に付随してくるのが不安と恐怖と悲しみとその他マイナス感情諸々の混合物なのは明白で、
それがたとえ先の衝動を分析する手掛かりになると言っても簡単ではない。
本気で思い出そうとしても思い出せないのだから、この際幸いと思うべきなのだろうが、
結局何の解決にもなって居ないことが余計に咲夜の心中を重くさせ、再び溜め息を吐いてしまう。
「……あのさー」
「何かしら」
「溜め息つくなとは言わないけど、ちょっと多すぎるよ?」
「……そんなにしたかしら」
「ん」
びっ、と指を三本立てるほとり。
「3回?」
「30回。
この部屋に来てからそれだけは確実にね」
「…………はぁ」
「31回」
「わかった、わかったわよ」
目を閉じて眉間を揉みながら32回目の呼気を吐き出すと、微かに苦笑の気配が漂ってきた。
「さっきのこと?」
「…………」
「わたしのせい、かな?」
「違うわ、半分くらいよ」
正確に言えば彼女の言葉によって掘り起こされたものがそのほとんど全てを占めているのだが、
元はといえばそれは咲夜自身の中にあったものだったから、と。
果たして今のメイド長がそこまで計量したかどうか、ドコと無く上の空でそう答える。
「半分くらい、よ」
「…………」
尻すぼみになる呟き。
先ほどよりもやや多めに苦笑の成分を顔に漂わせたほとりもまた沈黙し、
どこか遠くの部屋で騒いでいるらしい子供達の声がわずかに聞こえるだけになる。
その、雑音とも背景音楽ともつかない音の波を遠くに聞きながら、
咲夜の意識は何度目になるか分からない記憶野への沈降を開始していた。
記憶があまりにおぼろげな場合、それは単なるノイズとしてしか認識され得ない。
ノイズを「記憶」として内容の把握が可能となるのは、ひとえに、
雑音過多な情報を今の自分の理解の及ぶ範囲に変換して閲覧するからである。
つまりは、本来何らかの意味を持っていたはずの情報をノイズとして除去し、
代わりに残った僅かな理解可能な情報を強調し増幅して元の記憶を再構築するということだ。
そこには当然、見落としと誤解と極端化が多分に存在するわけで、
斯様なシロモノは本来情報源としてアテにすべきものではない。ないが。
今の十六夜咲夜は、ソレを探る、或いは向かい合わねばならない、
そんな衝動にワケも無く駆られていた。
記憶の中での咲夜は、小さかった。
厳密に言ってしまえば、そこに居たのは「十六夜咲夜」ではなく、
既に忘却の彼方へ去ろうとしている「かつての名前を持つ自分」だった。
わずかに残る記憶情報は劣化が激しく、其処が果たして何処なのかを決定付ける要素はほとんど残留して居ない。
辛うじて分かり得るのは、それなりの規模の集落――町、里或いは村――のほど近くに住んでいて、
家族らしき数人と一緒に暮らしていた、ということくらいだった。
其処でいったい何が起きたか、それを探ろうとさらに潜行しようとした咲夜の意識は突然、
何かに押し流されるようにして強制的に移動させられた。
次に見えた記憶は、着の身着のままでどことも知れぬ場所をひとり、
血塗れで足を引きずりながら、両の手に時計とナイフをぶら下げてよたよた歩く自分の姿。
石や枝で傷つけたのか足には血が滲んでいて、その痛みは今でも妙に鮮明に思いかえすことが出来るが、
それ以外に外傷による痛みはなく、全身を染めた紅はどうやら自分のモノではないらしかった。
刻限はおそらく深夜、月明かりが周囲を照らし出しているが、
見えるのは草地と木ばかりで目印になるような物は何一つ見当たらない。
それでいて尚、今の自分に歩いている場所の見当がついたのは、
この時のことを覚えている何よりの理由が、間も無く訪れるからだろう。
睡魔にやられた千鳥足でもまだマシであろう歩みをいくらも続けないうちに、
記憶の中の彼女は木の根につまずいて転んだ。
かすかに声をもらした様にも思ったが、受け身もとれず、
したたか地面に身を投げ出しても苦痛の呻きの一つも口にしなかったあの時の自分は、そんな余裕さえ無くしていたのか。
だが、疲労の極みにあった彼女の耳朶に、小さくも力強いその音は確かに届いた。
―――ばさり、と。
もどかしいほどゆっくりと顔を上げたかつての自分の目は、こう言っては難だが、
知己である庭師兼剣士のそれとは異なる意味で、半死人の様にひどく濁ったものだなと、
その時その場に居る筈もない第三者の視点から咲夜は思い、思って、濁った少女の視線の先を追う。
鳥の飛ぶ時間ではない。
梟や夜雀の多少はいても不思議は無かっただろうが、その時その場にはケモノはおろか、
自分達の時間を謳歌しているハズの蟲も、妖の一匹もいなかった。
…当たり前だ。
そこに居た自分以外のもうひとりのことを考えれば、有象無象が存在する余地など皆無である。
より強大な、或いは強大過ぎる力の持ち主の行動は基本的に妨げられることはない。
誰もが皆、智慧無きモノも多くは本能的な部分でソレを理解している。
なぜなら此処は、幻想郷だから。
『人間? 珍しいな、こんな時間にこんな場所で』
ましてや彼女・・は夜の王、今刻は彼女の時間であり、
咲夜の記憶の、いや、十六夜咲夜という名を与えられてからの記憶の中で永遠に変わらぬ幼い姿の彼女は、
月の銀光にその身を委ね、虚空に背を預けて浮かんでいる。
おあつらえ向きに巨大な月を背負ったその姿は、恐れや邪悪さを通り越えて神秘的であるとさえ感じた。
記憶の中とはいえ美化しすぎだぜ、と見る者が見れば言ったかもしれないが、
咲夜が思い返す時、この時この場の光景はいつも彼の様である。
『パチェの言は本からのものだから信憑性なんて無い…と思っていたけど、成程。
たまには夜歩きもしてみるものだな』
サクリと、草を鳴らして地に降り立つデーモンロード。
その小さな歩幅で悠然と、己と見た目の然程に変わらぬ少女に歩み寄る。
『何もあなたまで付き合って引き篭もる事はないでしょう、だとさ。
余計なお世話だ、自分が一番重症のくせして。そう思うだろう?』
『…………』
『何も応えないか。或いは応える気力もないか?
こんな時間のこんな場所をうろついてるから、よほど胆の据わったヤツだと思ったんだが』
前半分は正解ですわ、と回想者の特権のように呟く。
すぐ傍まで歩み寄った夜の王は、腰を落として真正面から倒れたままの少女を見据えた。
『にしても、お前、私が恐ろしくないのか。
この大吸血鬼を目の前にして怯え一つないとはね……っと!』
かん高い金属音。
何がどうしてそうしようと思ったのか今なお判らないが、時間停止と空間操作によって繰り出された神速程度の突きは、
時が止まる前に動いていた二本の爪で受け止められていた。
『……鋼か。
残念だけど、それじゃあ吸血鬼は滅せないよ』
言葉と裏腹に、実に楽しそうな笑みを浮かべて力を込めると、
もともとこびり付いた血が乾いて強度の落ちていたナイフは簡単に砕け散った。
と同時に、突きの姿勢のままそのナイフの一点で支えられていた体が再度地面に倒れこむ。
つられるようにして目の前の景色が霞み、声も遠くなり始めた。
『ふぅん……確かに、ちょっとない運命がひっかかったから何かと思ったけど、
なかなかどうして、面白いものを拾ったな』
視覚的な情報がほとんど消え失せていく中で、幼く鮮明な声だけが唯一の寄る辺のように響いた。
『よろしい、人間、気に入った。
この赤より紅い館、紅魔館の主、レミリア・スカーレットがお前を我が家へ招待しよう。
なに、遠慮は無用だ。よっ』
その言葉と、ふわりと持ち上げられた浮遊感を最後に、十六夜咲夜になる前の少女の記憶は終りを告げる。
意識の暗闇の中で咲夜は移行の時系列に属する記憶の再生を中止、
現時点でそれ以前の記憶に新たな情報がないのを確認して、現実への復帰プロセスを開始した。
ばん、或いはがん、という音を聞いたのは、未だ回想から復帰する途上のことだったろうか。
目を明けた咲夜が見たのは、部屋の一隅に置かれた卓に手を叩きつけた姿勢のまま固まる妖怪少女、ほとりの姿だった。
そのうつむいた顔は見て分かる程に青褪め、心なしか濃い緑の髪もざわつき、逆立っているように見える。
「……どうしたの?」
「っ……」
問われたほとりは一度目と口を固く閉じ、音がするほど歯を噛み締めてから、ようやく顔を上げ、
咲夜の知る限り初めて目にする明らかな怒りと、悲しみの混ざった瞳を向けた。
「代表、配置完了しました」
「ご苦労」
鷹揚に答えてから、男は背を向けて並んでいる数人の方へと振り返った。
「手荒な真似は本来あまり好きではないのだが、状況が状況だからな、我慢してくれ。
もっとも、いずれにしてもそう長いことにはならんが……」
その数人は、後ろ手に縛られ地面に座らされている。
周囲にうろつく黒服姿の男達とまるきり違う格好であることからも、
彼らが郷の人間たちだということは明白だった。
いずれも服装が乱れており、昼に取り押さえられた際のものか怪我をしている者もある。
「ささっとお引取り願いたいものだなぁ」
並べられた郷の人間の中から、独り言にしては大きすぎる声でそう放ったのは誰あろうゼンさん(仮称)だった。
縛られた腕の代わりに器用にも足を伸ばして頭を掻き、首をねじって不敵そうに代表と呼ばれた男を睨みつける。
一方の睨みつけられた方はと言えば、細長い顔に幾重にも刻まれた分厚い皮膚をいっそう歪めて笑った。
「そう言われずとも長居はせんよ。
こそこそと隠れている連中を全員ひっとらえて処置したらな」
「だから言ったでしょうが、あんた達にとっ捕まったので全員だって」
「底の浅い嘘は身のためにならんぞ?
生活用具から干してある洗濯物、道の足跡その他もろもろ、
おそらく子供だろうが、かなりの数が今も逃げているのは明らかだ」
「…………ちっ」
ふん、と鼻の先でゼンさん(仮称)の舌打ちを笑い飛ばし、男は傍らの黒服から拡声器のマイクを受け取ると、
夏という季節からは早く、山あいという場所柄にはちょうどよい夕暮れの迫る山に向けて宣言した。
『どうせ聞き耳を立てているだろうが、あらためて言って置こう』
不気味に増幅された低音の声が響き渡る。
『ご覧の通り、こちらは人質を取らせてもらっている。
こいつらの安全を保証して欲しければ、隠れているものは30分以内に全員出て来ることだ。
でなければ―――』
拡声器を持つのとは別の黒服に顎で示すと、その黒服は夕日を浴びて光沢を放つ金属を人質達に向ける。
入手し使用方法さえ心得れば、地上でもっとも簡単に命を奪い得る武器のひとつ、拳銃。
『でなければまずひとり、その後は5分毎にひとりずつ殺さねばならん。
ここに並べた人間が全員死んだら、また次を出して来て同じことをする。
そうして欲しくなければ、大人しく出て来ることだ』
何が楽しいのか、男は笑いながらそう言い終えると、拡声器のマイクを黒服に突き返し、
茜色に染まり始めた山並みをぐるりと見渡して、いっそう顔の溝を深くした。
「厄介、だなぁ」
「そうね……」
当然2人、咲夜とほとりはそれを聞いていた。
見張る価値がないとでも思われたのか、数が足りないのか、放置された神社裏の雑木林からである。
「ゼンさん含めて5、いや6人か……一度じゃちょっと無理かなぁ」
「あなたの能力?」
「んー、半分の3人ならなんとかなるんだけど……ああいうタイプはこっちが不審な動きしたら即撃ちそうだし」
「3人なら大丈夫なのね」
「うん、って……え?」
遠目でよくは判らないが、人質になっているゼンさん(仮称)の周りに居るのは例の代表とかいう男を含めて10人ほど。
半数は残りの人質を見張っているか、そのあたりを見回っているのだろうから、差し当たりその10人のみが相手だろう。
そう判じた咲夜は時計を確認する。あと20分強。
「他に策を考える時間も、そのための人手を萃めてる時間もきわどいわね……行くわ。
動きがあったらフォローはお願いしたわよ」
「え、ちょっと!?」
時計を握り締め、意識を集中する。
同年代の平均よりもそれなりに鍛えられているとは言っても、咲夜も少女だ。
大の男をかついで移動するのは、様々な制約から1回につきひとりが限界。
時間停止を維持できる時間と距離を考慮すれば、自分独りで可能なのはやはり3人まで。
賭けになるが、そう分は悪くない。と思った。
「時よ―――」
ほんの、数日未満の付き合いながら、この旧知の蛍妖怪に似た面差しの少女に対して、
いつしか咲夜は長い付き合いの門番に次ぐ程度の信頼を抱くようになっていた。
そうであるが故の行動だったが、後日になって振り返れば我ながらやや猪突に過ぎたと後悔することになる。
だが、時を止めたり進めたりすることはできても先んじて知ることの出来ない咲夜は、
この時、駆けることを選んだのだった。
――――――とまれ――――――
自身と自身の持つ時計以外動くもののない、モノトーンに染められた夕暮れの中を翔ぶ。
郷のほぼ中央付近に居る人質たちとの距離はそれなりだが、効率と速度を両立し得る飛行でもそう遠いものではない。
翔びながら、腕を二度、三度と翻してナイフを10本ほども配置。
時間停止を解除すると同時に、見える範囲の黒服たちに先制攻撃を加えられるよう布石を打つ。狙いは全て肩から二の腕。
ひとしきり撒いたナイフが正確にそれぞれの目標に向かっていることを短く、念入りに確認してから、
再度目的地への飛行に移った。
「!」
と、不意に耳へ届くかすかな、極々かすかな音があって、その場に急停止する。
「……まさか」
呟きながら耳を澄ました。
トクン、トクン、トクン、規則正しく、能力使用中であるため普段より心持ち早く脈打つ自らの鼓動。
カチ、カチ、カチ、カチ、規則正しく、いつもと寸分たがわず同じ時を刻む手のひらの中の時計の音。
そして―――
「…………」
きゅっと、視線が険しくなる。紛れもなく聞こえる、その音に。
動くことを禁じられているハズのモノが立てる、その音に。
三度、飛行を開始。目的地は変わらず。ただ速度のみ先ほどよりわずかに速い。
変える必要も無く、その音はそこから聞こえてきている。
何故動けるのか、何故その音なのか、湧きあがる疑問に未だ参照不可能の属性を帯びた記憶のどこかが応えた気がした。
正確に、同じリズムを刻むその音が次第に大きくなる。
きりりと、無意識の内に歯を噛み鳴らした。
わけの分からない怒りと焦りがこみ上げてきて、ナイフを握る手に汗が滲む。
不意に、
咲夜の力で凍りついていた筈の世界が終わった。
「!」
景色が色を、時が正常な流れを取り戻し、咲夜自身の能力の一端である空間操作によって為されていた飛行も無常に終りを告げる。
それほどの高さではなく、また郷の広場にさしかかっていた事が幸いしたが、
かろうじて着地には成功したものの、それだけでは勢いを殺しきれずに地面を抉る様に滑った。
衝撃に耐えかねて履いていたヒールが片方折れ飛んだが、それでも無様に転ぶことをせず完全停止まで姿勢を保ったのは、
咲夜の天性の運動神経のなせる技だと言える。
しかし、停止したその場所は、並ぶ人質を挟んでちょうど代表なる男と向かい合う位置、
考えられ得る限り最悪のケースだった。
咲夜の背筋で嫌な汗が滝をつくる。
「…………ほぅ、これはこれは」
目前の事態に時間停止が解けても固まったままの一同の中で、最初に動いたのはその男だった。
状況を把握したのか、あるいはしないままなのか、何が面白いのか、
一度会ったら忘れられない奇顔をニヤリと歪め、演説するかのように両手を広げる。
「まさか本当に出向いてくれるとはな、よけいな殺生をせずに済んだ」
「…………」
視線こそ睨み合ってはいたが、咲夜の意識は半分以上男の言葉に向いていなかった。
飛べない、時も止められない。
体感時間にしてつい数分、実際の流れではほんの一瞬前まで全能を誇ったはずのメイド長の力は、
その全てが使い手の意志を完全に拒否していた。
着地によって生まれた土煙が、止まった咲夜を追い越して流れる。
何の音もない、ということは時間停止中に投じたはずのナイフも無力化したということで―――
「それにしても、派手な登場だな?」
「っ!」
ぎしりと、音がするほど強く奥歯を噛み、手が真っ白に成る程握り締めても掌中の時計は規則正しい音を返すだけで、
いま一方の手に握るナイフも、能力によって加速度を得られないのであれば、ただただ原始的な刃物に過ぎない。
つまりここに居るのは、ただの少女、だった。
意識に残る冷静な部分がそう自分を哂うのに逆らうように、咲夜は相手をより強く睨む。
「ん……お前は?」
対面する男がふと、咲夜の顔を凝視した。
わずかな思考の後、懐のあるものの動きに気付いたのか、それ・・を取り出し視線を落とす。
「なるほど」
もともと笑いによってゆがめた奇顔を、それ以上まだ歪められるのかというほどに奇怪なものにして、
手にしたそれを、咲夜に向ける。
手のひら大の金属製のそれが、斜めに照らす夕日を反射して輝いた。
「!!」
カチ、カチ、カチ、カチ、正確に、規則正しく、それを見て絶句する咲夜の手に握られたものと同じ音で、
同じ時を刻み、同じ姿をした時計が、その手に握られている。
「妙な縁とやらも、あるものだな?」
咲夜と、時計と、人質と、黒服と、そして同じように夕日を浴びながら、
代表という名で呼ばれる男は、そう言って、嗤った。
声も立てず、ただ夕日に照らされて鬼瓦よりも奇怪な相を帯びた顔を歪ませて、嗤った。
境郷2 ~ Perfect Maid in The Border Land “Chapter_4” end
and to be continued ...