*本作品は作品集31の拙作『境郷』と一部もしくはほどほどに設定が重複しています。
ですが、ストーリー的にはあらかた独立したお話として楽しめるようになっている、つもりです(ぉ)
しかし、舞台設定がほぼ幻想郷をはみ出ていますので、このお話だけ読もうとしている方はちょっとご注意ください。
(*オリキャラ注意報発令中)
では、どうぞ。
境郷2 ~ The Border Land Story (1)
毛玉が散り、妖精が舞い、妖怪が跋扈し、巫女がだれて、魔女は咳き込み、吸血鬼は朝寝をし、
亡霊は食いすぎで動けなくなり、スキマ妖怪は暑いからと惰眠をむさぼり、向日葵が咲き乱れ、
兎も暑さのせいで年中からの発情期が一層深刻化し、薬剤師は籠もり、姫も籠もり、
月兎は全ての面倒を押し付けられた挙句引くも進むも出来ず立ちすくみ、庭師もまた立ちすくみ、
船頭はサボる確率が限りなく100%に近付き、天狗も昼はなりを潜め、八目鰻の屋台では冷酒の消費が増え、
店主は暇をもてあまし、歴史の教師は体感温度的に友人との付き合いが若干遠のき、冬妖怪は春夏秋眠の真っ最中、
魔法使いは暑さに耐えかね服装を白に変えたところ「うふふふふ(はぁと)」とか言われてショックの余り引き篭もり、
鬼は酔いどれ、狐は脱ぎ、闇がうろつき、猫が駆け、人形が毒を萃めてまわり、蛍はまもなくの出番を待ち、
閻魔は暇をもてあまし、野外コンサートは熱中症患者を抱え、人形遣いは神に呼ばれて盆の里帰り、
門番がだれたのを目撃されるや額にナイフを見舞われ、氷精が重宝される。
幻想郷は、夏であった。
諸事情により「暑いぜ暑いぜ暑くて死ぬぜ」と言って図書館に涼みに来る魔法使いが引き篭もって数日後。
周囲を湖に囲まれ、また内部の空間容積の巨大さゆえに高い熱量キャパシティを誇り、見た目以上に中はわりかし涼しい紅い館。
門番の布地の少なく露出の多い夏服がメイド長直々のお達しにより即日不可となった翌日。
自らはちゃっかり半袖と心もち短いスカートを着用し、実に涼しげないでたちとなった当のメイド長十六夜咲夜は、
様々な情報収集の結果を、主の起床とお茶の時間を待って告げた。要は夜である。
「……報告によりますと、黒白い魔法使いの復帰にはもう一週間ほどを要するとのことです。
どうやら予想以上に効いたようで」
「そう。
たまには静かで良いことじゃない。
湖方面の哨戒部隊や外勤の連中だって休めるわけだし」
「図書館の主殿はいささか不機嫌そうではありましたけど」
「素直じゃないねえ。
……で?」
「はい。
虫の知らせサービスとその図書館長殿の占い、黒猫の気分、狐のテンコー、兎の耳のしおれ具合、
それに大手天狗新聞の気象欄、あとは余りあてにならない巫女の勘を総合した結果、
明日……いえ、明朝早くから昼前にかけて降り出す雨は、一週間ほど続くようです。断続的に」
「梅雨は明けたんじゃなかったのか?」
「今年の最後分になるだろうというのが、大方の見解ですわ」
「そうか。
それなら夜が明ける前に移動しておくのがいいってわけだ」
くいと紅茶を飲みほすと、館の主、エターナルにレッドなロリっ娘ヴァンパイア、
レミリア・スカーレットはやや高さのありすぎる椅子からひょいと降り、
控える侍従長を横目に部屋の出口へと向かう。
が、彼女がノブに手をかけるよりも早くドアは廊下に向かって開かれた。
さして気にするでもなく部屋を出てから、
夜間であるため鎧戸を空け月光差し込む廊下を館の正面玄関方面に曲がった先には、
今しがた部屋に取り残してきたはずのメイド長が、何食わぬ顔で両手にそれぞれ、
大きめのカバンを持って瀟洒に控えている。
その一方の色は、主に館の外壁がそうであるように、程よいスカーレット。
また当然ながら、この時点で既に室内のお茶セット一式はあとかたもない。
「お嬢様、7日分のお着替えと携帯用血液キャンデー、
それとその他色々ご入用と思われるものを一通り詰めておきました」
「ご苦労様。
……そっちは?」
と、メイド長が今一方の手に持っている、自らのものとほぼ同程度にまでペイロードが満タンなカバンを指す。
こちらは館の主の紅一色に加え、周りをぐるりと七色のラインが、やや不恰好ながらもしっかりと刺繍されている。
「フランドール様のお泊りセット一式です。
道中、魔法の森にでも預けていけば、留守の間も何かと面倒がないと思いますので」
「おやおや、パチェが聞いたら怒るな」
「ご安心を。
先ほど天気予報をしていただいた際にお教えしておきました。
おそらく、明朝湿気や雨で空気中の埃がもっとも減った時間帯にお出かけになるかと。
すでに小悪魔の方が支度を始めていましたけれど」
「さすがね咲夜。
相変わらず良い仕事ぶりだわ」
「おそれいりますわ、お嬢様」
クスクスと、人の悪い(片方は人じゃないが)笑いをかわし、再び歩き出す両者。
と、何を思ったか、紅い主は突然、従者の片手からバッグをひったくった。
「お嬢様?」
「自分のくらい自分で持つよ。
それより咲夜こそどうなの? 見た感じ手ぶらだけど」
「見た感じでものを仰られては、物事の本質は見えませんわ、お嬢様」
ぽん、と年齢相応前後程度の胸を軽く叩く。
見た目よりも多少不自然に揺れすぎたようなその逆のような気がしないでもないが、とりあえず無視しておいた。
「完璧です」
「なら、神社から戻ってくる頃には、珍しいお茶が待っているかな?」
「お任せください」
「任せるわ」
再びクスクスと、今度は軽やかに笑いあった二人が正面玄関ホールに辿り着くと、
そこには幾人かのメイドと、紅くて小さな先客が居た。
「うー、眠いー」
「また昼更かししてたのね。
本を読むのが楽しいのは分かるけど、吸血鬼は夜に活動するもの。
昼間っから部屋で読書なんて、魔女や魔法使いがやることよ?」
「私も魔法少女だから良いのー。
だいたい、こんな時間に起こされるなんて思ってなかったし……一体なにー?」
「ああ、そうだったね。
ま、今更生活時間帯をどうこう言ったってしょうがないか、
はい、フラン」
「え、あ……!」
と、差し出された姉の手にあるのは、ほんの半瞬前まで後ろに控えるメイド長が持っていたカバン。
何を言うでもなく、それの中が荷物でほぼ一杯なのを察した悪魔の妹、フランドールは、
全身の眠気をコンマ以下の時間で見事に蹴っ飛ばした。
瞳にスターボウを輝かせながらカバンに入った七色のラインを見つめる。
「お泊り? お泊り!? いいの!?」
「ああ、明日の――」
「もう今日ですわ、お嬢様」
「……朝になったら雨が降るから、その前に移動するよ」
「やっ、たーっ!! ありがとうお姉さま、大好きっ!!」
咲夜のさりげない突っ込みに、僅かな時間壁の大時計に視線をやって反論を諦めたレミリアが宣言するや、
カバンを受け取ったフランドールは両手で持ったそれを大きく頭上に差し上げて主張しつつ、
その場でスキップを踏みながら器用にくるくると5回転ほどしてから姉に抱きつきほおずりした。
まあ、ほとんど飛んでいたが。
と、不意にくっついていた姉から顔を上げ、きょろきょろと辺りを見回し、問うた。
「あれ? パチェはいいの?」
「ああ、あいつは雨が降ったほうが埃がなくて楽だから、後から行くんだよ」
「ふーん。ま、いっか。
じゃあ、それまで私が魔理沙を独り占めだね」
万面に無邪気な笑顔のフランドール。
余談だがこの瞬間、それまで静寂に包まれていた図書館で主のお泊りセットを構築中の司書小悪魔は、
当の主が突如、図書館備品の羽ペンをその細っこい手で握り砕いた音を聞いた。
やや驚いて一見するに、半眼の目じりに涙が浮かんでいたのはどうやら感情的なものではなく、
ただ単に物理的痛覚として過ぎた労働を手に強いたためであるらしい。このモヤシっ娘め。
ついでながら、握り砕いた音とともに「むきゅっ」とかいうまるで蛙をブルドーザーでひき潰したかのような擬音も炸裂したし、
そもそもペンが折れていないからには、握り砕いたのではく握り損ねの砕かれ損か。
さてそんなこんなと一つ屋根の下の図書館で「わああパチュリー様包帯ですかカルシウム剤ですかそれともギブスですかー!!??」
とか色々と外科処置的な事態が進行しつつあることなど露ほども知らぬ主とその従者と妹は、
あわてた挙句足を滑らせた自らの使い魔に角符『飛翔救急箱』を図書館長がかまされた位になると、
既に館の屋根の下にはおらず、正面玄関を出て門に差し掛かっている。
「あ、お嬢様に妹様に咲夜さん。
どうぞいってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくるよ」
「じゃあねめいりーん」
「留守中はまあ……何事もないでしょうけど、わかってるわね?」
「はい! 痩せても枯れても、この紅魔館門番紅美鈴!!
白黒いのその他ごく一部以外には一切屋敷の床を踏ませない自信があります!!」
対象を限定した挙句、敷地でなく床と言うあたりに微妙な自信が見え隠れする。
頼りになるやら、ならないやら。
「まあ……そのあたり相手に戦果を期待するのも酷だろうけど、
あんまり期待せずにほどほどに期待させてもらうよ」
「ど、どっちなんでしょうか……」
「どっちにしても、何か失敗すれば……わかってるわね、美鈴?」
「は、はひっ!」
ずざっ、とメイド長の眼光が門番を一歩半ほど後退させた。
が、どうもその視線が夏にしては厚めの服を通してなお自己主張する上半身の一角に向いているのは気のせいだろうか。
ああごめんなさい咲夜さんお願いですから地の文に睨みきかせんといてください。
「まあ休日を取り上げたり減給だったりってのは当たり前すぎるから、
そうね、いい加減中国ってのも使い古されてきたし」
「え……えーと。
今度は何になるんでしょう……?」
「……あ! 私いいの思いついたよ!」
「何? 言ってごらん」
「あのね、中国ってChinaって書くでしょ?
だから、頭文字だけとって『門番C』ってのはどうかな?」
笑顔はあくまで無邪気、しかしさすがは紅い妹、見事に発言は悪魔だった。
「もっ……しぃっ……!?」
「ああ、それはなかなか言いえて妙だ。咲夜はどう?」
「素晴らしいですわ、是非それにしましょう」
「決定ですか!?」
「失敗したら、だ。励めよ、門番C」
「がんばってね、門番C」
「アイデンティティが大事なら、死ぬ気で職務に専念しなさいね、門番C」
「そんなグループで出てくるモンスターの三体目みたいな名前いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
なんだかんだと愛されているわれらが門番が、片足立ちで器用にツイスト運動をしつつ懊悩を体現するのを脇に、
割かしドライな主従はとっとと湖上空へ飛びたつ。
「じゃあねー門番Cーっ!!」
「大声で呼ばないでくださいぃぃぃぃぃぃぃぃいいっっ!!!!」
ちなみにこの一連の流れを氷精および姉的存在の妖精とか蛍とか闇妖怪とかが湖の一角から眺めていたのみならず、
彼女らが夜間に広めた「門番改名か!?」の話は夜明け前最後の校正にかかっていた天狗パパラッチの耳に入り、
即座にその日の文々。新聞の一面を飾る記事になるなどとは、まだ誰も知らなかった。
「お泊りーおとまりー、まっりさっとおっとまりーさっ♪」
「……そうだ咲夜」
「はい、なんでしょう?」
手ごろな速度で飛びつつ、湖上空を抜けたあたりで不意に切り出す紅い主。
「今回も紅茶が中心になるのか?」
「ええまあ、そうですね。
人間の里や香霖堂だけではなかなか珍しい葉は手に入りませんから。
ですが、それがどうかなさいましたか?」
「んー……それは、だな……咲夜、ちょっと」
「はい?」
ちょいちょいと、珍しく歯切れの悪い主の手招きに応じて耳を寄せる。
どの道、浮かれ気分でくるくるぴょんぴょんしつつ、二人のやや前方を飛行中のフランドールが聞いているはずもないのだが、
そこはそれ、貴族の嗜みというやつであろう。嘘かマコトかは知らないが。
「今回は、ちょっと茶葉は控えめでいい」
「はあ、といいますと?」
「おとまりーおとまりー」
「その、何だ……その分、フランに何かこう、似合いそうなものを頼みたい」
やや予想の斜め上を難度Eくらいできりもみ回転しつつ通過していった主の言葉に、時間を止めるまでではないにせよ、
さすがの咲夜も若干ながら反応にずれがあった。
「ああ……成程。
はい、かしこまりましたわお嬢様。
それでしたら、不公平になるといけませんので、
僭越ながら私が勝手にお嬢様にもお土産をご用意させていただきますわね」
「いっ!? いいいいいや、それはいいっ」
「あら、なぜでしょう」
さらりと流す咲夜。
その顔にはありありと「まったくもー図書館のむらさきもやしを素直じゃないとか言っておきながら、
ご自分も似たようなものじゃないですか。まあうちの主殿はそこが可愛らしくて大変よろしいのですけど」
とかいう表情が浮かんでいる。
「おとまりーおっとまりーおととまーり」
「ここ最近のフランドール様のご成長ぶりから考えると、
ご自分だけでお嬢様にお土産がないとわかれば、逆に私のほうが怒られてしまいますわ。
もしレーヴァテインやら何やらでどつかれてしまおうものなら、
さすがの私も、少しの間お茶をお淹れすることができなくなってしまいますので」
「う……」
「う? うーですかお嬢様?
さすがに飛んでいる最中は少し危ないかと思いますけど」
「……茶葉は、最小限で、あ、いや、余裕があったらでいい。
だからその代わり、パチェと、門番と、そう……図書館のちっこいのとを頼むよ」
「あら、よろしいのですか?
そんなに欲張られてはしばらくの間、
お嬢様曰く香霖堂の『しけた』お茶と里の『野趣溢れる』お茶がメインになってしまいますが」
「っ、ああもう、ちょっと待て!」
荒っぽく切り上げるや、レミリアは両手を胸の前で組み合わせて目を閉じる。
濃密な魔力が瞬時に凝縮し、ややあって開いた手には紅く、見事な大きさの宝石が乗っていた。
「血液キャンデーの魔力版だ。
ちょっと真似てみただけだけど、紅魔の魔力の結晶、
価値が分かる奴なら、それなりのものにはなるだろ?
それで今言った分と茶葉と、余ったら咲夜の好きにしていいっ」
「よろしいのですか?
あまり力を使われては、霊夢との弾幕ごっこに響きますわよ?」
「じき満月だ。補給のあてはあるよ。
だいたい宴会もない夜なら、とっくに巫女はご就寝さ。
布団にもぐりこんで目覚めのサプライズを提供してやる」
「あらあら、仲のおよろしいことで」
「ああ、仲がいいんだ。だからとにかくそれで何とかしろ」
「かしこまりましたわ、お嬢様。
そういうことでしたら、その巫女にもなにかあるとよろしいですね」
「ああもう、任せる!」
「はい、それでは」
乱暴に宝石を渡し、「ふん」と一声もらしてメイドのやや前で飛ぶ紅い姉。
その腰付近、体格に比してやや大振りのスカーレットなカバンが揺れている。
何とはなしにそれを見て、クスリとひとつ微笑む咲夜。
フランドールのカバンにその背中の羽根と同じ、七色のラインが入っていることは先に触れたが、
実は姉たるレミリアの方も紅一色ではなかったりする。
ちょうど咲夜の方を向いて揺れている面に、七色ラインと同程度には不恰好ながら、
なにやら奇妙な刺繍が施されていた。
「おっとまりーおっとまりーおとまーりさっ」
一見すると意味不明な記号ととらえかねないそれは、注意して見れば、
黒い糸で蝙蝠の翼が、青銀の糸で髪の毛が、純白の糸で顔が描かれた、
他ならぬカバンの所有者レミリア・スカーレットの顔であることが分かるだろう。
魔法の森の霧雨邸および博麗神社への外泊が周期的になりつつあった少し前、
『外』へ出かけていた途中、たまたまそれを思い出した咲夜がおそろいで持ち帰ったものだった。
さらにお泊り初使用の前日、フランドール発案、小悪魔&咲夜バックアップ、
紅い姉妹針役として製作されたその刺繍入りおそろいスカーレットカバンは、
以後外泊許可代わりに荷物を満載して手渡されることが常になっている。
ちなみに、製作時の姉妹の奮闘ぶりはまさしく「血のにじむ努力」と評して差し支えなかったが、
両手の指をバンソーコーだらけにしてなお頑張りぬいたフランドールの忍耐力と、
妹に負けるわけにはいかないと、より多くのバンソーコーを必要としたレミリアの意地はともに驚嘆に値する。
まったく変われば変わるものだ。
「……なに?」
「いえ、何でもありませんわ、お嬢様」
よほど見つめていたのか、気配に気づいた主の疑問はかわしておいた。
もっとも、その主もさらに前を飛ぶ妹のカバン付近に視線をやっていたようだから、
主従そろっておあいこと言えなくもないか。
「それじゃーお姉さまー、いってきまーす!」
「ああ、楽しんできな」
「いってらっしゃいませ」
魔法の森のだいぶ上空、森自体の持つまやかしの効果範囲を外れた位置で、
どこにしまっていたのか、雨晴兼用の傘を咲夜から手渡されたフランドールは、
姉とメイドに力いっぱい手を振ると、ほぼ垂直の軌道を取って霧雨邸へ急降下していった。
またも余談だが、このやりとりを地上の森林に潜んで観察していた某人形遣いの夜間偵察専用人形、
通称「濡羽色の羽破拉致人形」が事態を報告し、徹夜続きにもかかわらず慌てて色々な支度と身だしなみを整えた人形遣いが、
その時たまたま魔法の森に到着した紫の魔女とかち合ってとんでもないことになるのは、また別のお話である。
そして主従は、月が照らす神社の境内に。
「それではお嬢様、私はここで」
「ああ、気をつけてな」
「お嬢様こそお気をつけて、巫女に夜這いをかけるのは至難ですわよ」
「なぁに、ダテに場数は踏んでいないよ」
自信たっぷりに宣言する主に、これまた雨晴兼用傘を手渡しつつ微笑みかける。
「健闘を、お嬢様」
「ああ……と、そう言えば」
「はい?」
「んー……」
「へっ、あの……なんでしょう?」
すんすん、何故か従者の匂いをかぐ主。
「やっぱり」
「な、何がです!?」
「少しだけど、いつもと違う魔法の匂いがする。
何か持ち出したか?」
「え、ああ……きっと、コレのせいですわ」
すい、と手を動かし、おなじみのタネ無し手品。
手に現れたのは、一枚の紙。
言うまでもなく、彼女達が日常の、とてもとても真剣な遊戯に用いる道具のひとつ。
「スペルカードか」
「パチュリー様の新しい魔法だそうです。
なんでも、私に試して欲しいとかで」
「……なんで咲夜に?」
「ええと確か、金属を萃める効果があるそうなんですが、
図書館内での使用では目立った効果をあげられなかったとかで、
『だったら普段金属を多量に持ち歩いてる猫イラズにお願いするわ』だそうです」
「金属ねぇ……確かに、図書館じゃあ役にはたたないな」
いっそホコリを萃める符でも作れば、あの閉鎖日陰空間の衛生状態も多少は改善されように、
思い付きを先行させて実用に欠けたものを作るあたり、
およそ魔女といい魔法使いといい、根本のところはやはりいい具合にねじれきっている。
どこぞの国の議会ほどではなかろうが。
「いちおう装丁に金属類を使ってる本もそこそこあったらしいのですけど、
本との重量比に負けて萃められなかったとか」
「……貧弱だな、役に立つのか?」
「物体に占める金属の比率によるそうなので、ナイフくらい金属部分が多ければ通用するそうですが」
「ふうん……」
しげしげと手にとってそれを眺めてみる。
試作品らしく、いかにもな名称が割といい加減な字体で記述されている他は目立った装飾もなく、
組み込まれている魔術の構造も試作過程ゆえか妙に複雑で回りくどい。
むらさきもやしこと動かない大図書館パチュリー・ノーレッジの常用する各種の符と比較すると、
洗練度合いや使い勝手では遠く及ばぬシロモノのようである。
「えい」
「あ」
指先にほんの少し力をこめて、きゅきゅいとスペル構造の一部をいじった。
無味乾燥な単色の表面に一筋だけ、やたら鮮明な紅い筋が刻まれる。
「よし、これでちょっとは面白くなる」
「何をなさったのです?」
「少しだけ力の『通り』を良くしただけだよ。
効果はそのままだけど、まあ3割から6割くらいパワーは上がってるんじゃないかな」
「アバウトですわね」
ちなみに後日「それはちょっとやりすぎたわね」と図書館の主に微妙な顔をされることになるのだが、
この時点ではその運命を見てないのか、或いは意図的に無視したのか判断のつかないところだった。
でも多分前者だろう。
飼い主に似るというが、時折大事なところが抜けることのある従者の主もまた、
時に変な落ちをすることがあった。
「……さって、それじゃ私も行くよ」
「頑張ってくださいお嬢様。
きっと努力は報われますわ」
「おうさ」
しゅた、と片手をあげて景気良く、紅い主は社殿の裏にある母屋へと消えていった。
「…………」
少し待ってみる。
特に弾幕や悲鳴や叫び声やその他諸々の事態が発生しないところを見るに、
どうやらひとまず、無事巫女への接近に成功したらしい。
まぁ、場合によっては音ひとつ立てる間もなく結界で捕縛されることもありうるのだが。
「お嬢様、ふぁいと、おーです」
ぐっ、と親指をたて、姿見えぬ主にエールを送ると、
満月に何日分か足りない沈みかけの月が照らす境内から、咲夜もまた自らの目的地へと向かう。
方角は神社へと昇る石段の方角。
鳥居をくぐり、石段を降りきり、少しばかり獣路を行けば、そこはもう『外』との境界である。
咲夜個人としては、もう少し神社内で繰り広げられるかもしれない事態に興味があったのだが、
時間を止めて鑑賞するというわけにもいかなかったし、
何より、満月の夜には本気と書いてやってやるぜと読む主から、
久々のちょっとわがままなお土産指令を受けたことで、割と心がおどっていたのも関係していた。
「まずは、どこからまわろうかしら」
月が沈めば、さして間を置くこともなく太陽が昇り、
『外』と言わず中と言わず、人間の多くが主として活動する時間がやってくる。
咲夜の頭の中では、すでに馴染みの紅茶の店を始め、
姉妹やその他の面々への土産を考慮した場合の買い物ルートが急速に構築されつつあった。
そして、悪くない気分で足取り軽く、人間が一人、幻想郷から姿を消した。
薄暗い店内は、いつものようにいわくありげだったり、胡散臭かったり、
怨念むき出しだったり、カタカタと微動していたり、今しも髪が伸びる最中であったりと、
実に楽しそうな物品であふれていた。
「…………」
それら一般人には奇っ怪極まる気配の大連隊に囲まれ、
しかし、銀のメイドはごく自然と、慣例のように店主の作業が終わるのを待っている。
店主の手元には、店内に陳列されているものに負けず劣らず、
いや、多分に勝っているであろう気配を撒き散らすアレな代物が並んでいた。
いずれも紅魔館の倉庫に昔から眠っているものであったり、
またはメイドたちがどこかから拾ってきたものであったりする。
それらをこともなげに鑑定していた店主は、メイド長の様子が普段と少し違ったためか、
作業途中の手を置き、珍しく、不意打ちのように口を開いた。
「気に入ったものがあれば、別に持って行って構わんぞ」
「え?」
「さっきからあれこれと熱心に見つめておる」
「あら、そうでしたか?」
「どうせそこいらに並んでるのはどうでもいいものばかりだ。
その道の連中にとっては珍しくもないし、一般人には不気味なシロモノとしか映らんが、
特に気にしなければタダのアクセサリーとなんら変わらん」
くいと、店主の片手に握られた鉛筆が指し示す先、
先ほどからメイドの視線を特に惹きつける一角、
多少それらに対する感覚があれば一見してそうと分かる、
いかにも何かありますという気配を放つ細工物の数々。
「お前さんくらいの者であれば、『中に居る』輩も別段悪さはしないだろうしな」
「そうですわね……安くしていただけるのであれば」
「もっていけと言っている。
いつも上物をもって来る常連客へのサービスだと思えばいい」
「あら、私はてっきり、いつも買い叩いていることへの償いかと思いましたわ」
「適正価格で買い取っていると思っていたが、不足だったかね?」
「まさか、店主殿の腕を信用していますもの」
応えず、この地下の、薄暗い霊安室のような店の奥で、
店の主は再び咲夜の持ち込んだいくつかの品の鑑定を再開した。
傷がないかじっくり観察し、傍らの吊り天秤で重さを計り、
何事か口の中で呟いてはメモを書き止めていく。
何かありそうな品を、何かありそうに見定め、何かありそうに頷いては、その価値を決め、
相当する金額を『外』の基準で提示するこの店主。
香霖堂のごとき陽気さなどとは無縁だが、しかしいわゆる『その道』の大ベテランたる風格と、
やや小さすぎる気がしないでもないメガネの奥の眼は、
この店主が『外』に居るには惜しいほどの存在であることを示している。
「……それに」
と、再び口を開く。
「今日はものの質も量も、いつもより上だ。
対価はいつもどおりに払うし、何に使うのかは聞かんから、
そこらのもので良いなら代金のついでに持って行ってくれると助かる。
正直、最近いささか数が増えすぎてやり場に困るのでな」
「でも、本当によろしいのですか?
わざわざ店主殿が買い取ったものなのでしょう?」
「そうでもない。
ものにもよるが、多くは店の噂を聞いて『タダでも良いから引き取ってくれ』と言ってきた類の物だ。
その道の者はガラクタと笑うが、そこらの人間には持つのも恐ろしいという、
まあ、その程度のモノでしかないがな」
「はあ、それでは」
お言葉に甘えまして、と壁の陳列棚の前に立つ。
どれもこれも結構な高級品に見えるが、同時に咲夜の眼にはそれらの放つ微弱ながらも確固たる気配がわかった。
確かに、夜になればカタカタ揺れたり、月の光を浴びると歌声が出てきたりといった、
他愛のない、そう、幻想郷的な尺度で言えば実に他愛のないものでしかないだろうが、
慣れない人間には少しばかり厳しいのかもしれない。
「けれど……」
呟いて、並んでいる品々を見回す。
どれもこれも美しいと言っていいが、問題があるとすれば、一つ、少しばかり重大な問題があった。
「何だ、結局何も持っていかんのか?」
「ええ、やはり贈り物にはどうも……」
咲夜は少しだけ言葉を濁す。
実の所を言えば、土産になりそうなものはいくつかあったのだが、
その多くは、これは特に彼女の主姉妹にとって問題ながら銀細工だったのだ。
銀は退魔の力を持つ、転じて、魔を内に封じるための外郭素材としても有用である。
ナイフや太刀といった武器の形態をなしているものはないとはいえ、
しかし主の弱点素材を土産とするわけにもいかない。
「ふむ……少し待て」
と、店主は傍らの、まるで診療所の薬棚のような無数の引き出しの一つから、
小さな包みを取り出してきた。
出てきたのは、小さな箱と、水晶を木に嵌めて加工したと思われるペンダント。
だが、店主が箱を開けたが、そこから先は何も起こらない。
「それ、オルゴール……ですか?」
「一応は、だが。
それとこっちの水晶と、どちらも、人にはただの置物やアクセサリーでしかない」
「……と、言うと?」
「どちらも昔、遥か西の方で使われていた、人外の遊び道具だそうだ。
人ならざる者が力を通わせると、力の波長に応じて旋律を奏でるとされている」
「……店主殿」
咲夜の声の温度が急降下する。
だけでなく、店内さえもが、急激に季節が逆戻りしたかのごとき空気を漂わせた。
「どちらも、既に憑いていたものはほぼ抜け落ちている。
が、由来が由来だし、使い方もあるから、
たとえその道の好事家であっても普通の人間相手に売れる代物ではない。
ちょうど良いから持って行け」
「…………」
それを感じていないのか、或いは無視しているのか、店主は言葉を続け、
さらに結構な分厚さになった封筒を差し出した。
「それと、代金だ。
いつもよりいいものが多かった分、少しばかりサービスさせてもらった」
「…………」
何の変哲もない、いつものやりとり。
店主の小さな眼鏡越しの目と、咲夜の、若干紅色を帯びた眼が向き合う。
先にそらしたのは、小さくない眼の方だった。
「……お得意さまだから?」
「そうだ」
ふうと、溜め息と共に閉じて、また開いた眼はいつもの青色。
まあ確かに、既にこの店主との付き合いもそこそこのものとなっているし、
毎度毎度『外』にとってはほぼ異界に等しい幻想郷から、あれやこれやと持ち込んでいるのだ。
特に今回など主お手製の魔力結晶まで持ってきている。となれば、
この、知識も経験も豊富と一見して分かる店主がそこまで察せぬのも妙というもの。
まあいいか、と咲夜は比較的楽観して判断を下す。
知られたところで現状の関係がどうにかなるわけではなかったし、
それに、目の前の二つの品には、若干の問題と引き換えにしても充分な価値があることを感じていた。
「それでは、ありがたく」
「まいど」
店主は慣れた手つきで箱とペンダントを包みに入れ直し、代金の封筒の隣に置く。
咲夜は受け取ってから、時間を止めて中身を確認し、少しだけ営業用の微笑を浮かべてから懐にしまった。
決して小さくない包みと封筒が、いかにしてそのスレンダーないでたちのどこに格納されているかは彼女だけの秘密だ。
「おおきに、またおいでやす」
「そうさせてもらうわ」
にやりと、笑って見送る店主にいつもの挨拶。
常々思っていたが、店主は笑うと途端に凶悪な顔つきになる。
店内は、どこぞの図書館といい勝負で、ほとんど最小限の照明しかないから尚更だった。
顔中深いシワが多く、ハゲ頭で、かつ幅の広い店主の顔面がにやりと笑う様は、
むしろ彼女が知っている妖怪の誰よりも妖怪っぽく見える。
咲夜は返事をしつつ、それを指摘しようか僅かな間だけ迷ったが、やめておいた。
どうせ、また来るのだから、それまでに考えておこうと思ったのである。
ちなみに、ここは関西ではない。
地下の店を出て地上に戻ってからの咲夜の行動は、さほどいつもと変わりなかったが、
今回はいくつか追加の用があったため、一通りを終わらせる頃にはさすがに夏のタフな陽射しも疲れたか、
過剰な労働に耐えかねて大きく傾いていた。
「これで全部、かしらね」
まるで周りに人間など居ないかのように―――実際には雑踏の中だが―――すいすいと人ごみの中を歩きつつ、
咲夜は頭の中で買出しのリストを反芻する。
本の虫、司書小悪魔、門番、それから紅魔館でメイドたちのサブリーダー的役割の数人、いや数妖、
また主に宣言した通り、紅白へも、とりあえずこれでいいだろうと思ったものを揃えた。
無論、主姉妹へは先刻のアレが相応しかろうし、
それに店主のサービスのおかげかかなりの余裕があったため、
茶葉も少しいつもと趣の違うものをいくつか揃えることも出来たから収穫は上々だろう。
「……にしても、チベット茶って美味しいのかしら?」
よいっと、抱えた紙袋に意識が向く。
中身はほぼ全て茶葉で、それ以外の品物は秘密の場所に格納済みだ。
割かし上機嫌に、一日で用事を済ませてしまった咲夜は、街をそぞろに歩いている。
紅魔館でメイド長として日々の仕事をこなすようになって、どのくらいになるか、
ある日、主人の気まぐれで出された休暇の最中、
能力を使えば割と簡単に大結界を越えられることが分かり、以来、
たまに訪れる休暇には『外』へと珍しいもの(主に茶葉)を探しに出たり、
こうして何となく街を歩くのが大体の行動パターンだった。
『外』においては、幻想郷の品がたいがい希少品であることを知ったのもその頃だから、
この街とあの店主と茶葉の店と、ほぼ同年の付き合いということにもなる。
「結構変わったわね、ここも」
たまに来るだけでも、いや、そうであるがためにいっそう、街自体の変化は目に見えて分かった。
休暇のサイクルから考えても、2、3回で季節が移るために、
街の装いや道行く人の服装、建物、車、木々が来るたびにそこそこ違う。
それら移ろいに別段感慨があるわけではないが、
自分がかつてその中に居て、ひょっとすると今も尚居たはずだと思うと、やや不思議な感じがしないでもない。
「…………?」
ふと、足が止まった。
左斜め後方、今しがた前を通り過ぎたその店の方を振り返る。
その街角の、最近ではめっきり数を減らしたタバコ屋兼雑貨屋のようなこじんまりとした店、
店先に並べられたいくつかの新聞の中の一つに、目がとまった。
「…………まさか、ね」
数秒、或いはもう少し、一面であろうその記事を咲夜はじっと見ていたが、
やがて前を向き直って再び歩き出し、少し行ってまた止まった。
「……あー、もう」
呟いて、目を閉じ、開いて三度歩き出したその手には、灰色の紙の束。
居眠りをしていた雑貨屋の店主は、店じまいの段になって記憶より一つ新聞が余計に売れていることと、
いつの間にかレジの上に新聞の代金が置かれていることに気付くのであるが、
どんなうっかりさんなのか、並んだ小銭は代金よりコインいっこ分多かった。
街の大通りから少し離れると、道の広さの割に人通りや交通量は急速に減ってくる。
そんなわりかし閑静な一角に、その店はあった。
昼下がりから夕刻にかけての時間帯、いくらでも需要はあるだろうに、
なぜかその店、比較的大きな間取りで明るい感じの喫茶店は閑古鳥がダース単位で合唱団を組んでいて、
ありていに言えばがらがらだった。
ただ、どうも時間帯に限らず常にこの店はこのようであるらしく、
咲夜は未だかつて、この店に一定以上の人数がいるのを見たことがない。
まあ彼女にとってみればそちらの方がむしろ好都合というか、気楽と言えば気楽なので、
時間を止める事はできても進める事はできない時をかけるメイド長にとって、
『外』で稀にできる暇を潰すための実に具合の良い場所でもあった。
「…………ふうん」
その咲夜、今は店で一番奥まった席に唯一の客として陣取り、
片手にコーヒーカップを持ちつつ、先刻の新聞を見ている。
紅茶を置いていないのがこの店の唯一の難点と言えば難点だが、
しかし、スキンヘッドにサングラス、しかもやたら日本人離れした巨体のマスターが入れる珈琲は、
その見た目に反して意外なほど珈琲として堂に入った風味だった。
加えて、初回訪問時、熱いそれを口にして思わず「熱っ」とか言ってしまったメイド長に対し、
二回目以降、やや温度が抑え目であるものの風味をいささかもそこねていないものが出てきたあたり、
いかつい外見からは想像できぬほどの技量と繊細な心配りの持ち主らしい。
ちなみに、普段ならいるはずの相方の女性は、買い出しか或いは別の用事のためか不在であり、
また時に見かける騒がしい男女の二人連れや、
そういうものに対して普段価値を置かないはずの咲夜でさえ、
つい気にしてしまうほど見事なスーツ姿の女性といったわずかな常連も、
様々な確率の関係上かこの日はおらず、店主がグラスやカップを磨く音と店内のBGMだけが、
多少なりと耳に届く程度であった。
「…………本当なのかしら、これ」
記事を見て思わず呟いてしまう。
そこに記されている事件、ないし事故の内容はともかく、
それが起きた場所の記述には、多分に興味を惹くものであった。
併記されている地図によれば、その場所はここからそう遠くはない。
「……さて」
少し考えてみる。
新聞はどこぞの天狗のものほど零細というわけではないにせよ、大手とは言い難い。
そのため記事の信憑性にも若干、いや割と疑う余地はあるわけだし、
そういう無駄はあまり咲夜の好むところではなかった。
だが、何しろ出発したのは今日の夜明け前である。
主姉妹にしても、図書館のモヤシっ娘にしても、また館のメイドたちにしても、
今朝の今夜で帰るというのは何かと慌しいような気もしたし、
場合によっては野暮になってしまうという可能性も高かった。
幸い、目的地かもしれない場所は、比較的帰り道に近い。
別段手間取るというわけでもないだろう。
「…………お土産話っていうのも、いいかもしれないわね」
「…………?」
ふと、マスターはグラスを磨く手を止めた。
店の一番奥の席、たまに訪れるメイド姿の客が、いつの間にかいなくなっている。
ドアベルが鳴らなかったとはいえ、彼はそれが彼女の去るやり方だと察していたから、
さして気にするでもなく、空になっているであろうコーヒーカップを下げに行った。
テーブルの上に新聞が置き去りにされていたが、それは店でとっている新聞ではなかったため、
彼女が不要と思い置いていったのだろうと解釈する。
と、布巾をカウンターに忘れたことに気付き、マスターはひとまずコーヒーカップだけを持って立ち去った。
取り残されたグラスの氷が溶け、音を立てて崩れる。
そのグラスの横、間もなく明けるであろう梅雨空からわずかに射した日に照らされ、
過不足なく置かれたコーヒー分の硬貨。
さらにその横、広げられた新聞が、朱色の陽射しを吸ってやや不気味な色合いをたたえていた。
「『山間部で不明の夫婦、神隠しか?』
おととい××県の***山に登山に出かけた―――さん夫婦が、予定を過ぎても下山し
なかったために捜索願いが出されて以降、地元警察及び周辺住民による必死の捜索にもか
かわらず、いまだ有用なてがかりが得られていないのが現状である。
地元住民によれば、夫妻が登山ルートとして知人に話していた道は、十数年前より住民
達の間で「妖怪が住む」と噂される山奥の廃村に近く、「神隠しにあったのでは」とまこ
としやかに囁かれているが、「現代に神隠しなどない」と警察関係者の意見は一致してお
り、今日の捜索でも具体的な手がかりが得られない場合は、沢に落ちて流された可能性や、
何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるとして、川の下流域も含めて捜索範囲を大幅に
拡大する方針であるとのこと。
しかしながら、周辺地域では特にこの数年にかけて、夜中に奇妙な鳴き声や話し声、ま
た実際に「妖怪を見た」という目撃証言がかなりの件数にのぼっており、一部民俗学者な
どの間では、「野生動物と同じく、都市化によって住処をおわれた妖怪が山奥の廃村を新
たな住処として利用している可能性は否定出来ない」と、やや冗談混じりではあるものの、
比較的多くの学識者達によって言われている。
ある筋からの情報に拠れば、行方不明扱いになっている人や今なお所在不明となってい
る犯罪者などが潜伏している可能性があるとのことだが、消防、警察など各関係者は、
「梅雨の末期には集中豪雨が発生して自然災害に巻き込まれる危険性もある」として、当
該地域を含めた広い範囲に災害危険情報を出し、なるべく山奥へは立ち入らないように注
意を促している。(社会部 太田)【19、23面に関連記事】」
境郷2 ~ Perfect Maid in The Border Land “Chapter_1” end
and to be continued ...
ですが、ストーリー的にはあらかた独立したお話として楽しめるようになっている、つもりです(ぉ)
しかし、舞台設定がほぼ幻想郷をはみ出ていますので、このお話だけ読もうとしている方はちょっとご注意ください。
(*オリキャラ注意報発令中)
では、どうぞ。
境郷2 ~ The Border Land Story (1)
毛玉が散り、妖精が舞い、妖怪が跋扈し、巫女がだれて、魔女は咳き込み、吸血鬼は朝寝をし、
亡霊は食いすぎで動けなくなり、スキマ妖怪は暑いからと惰眠をむさぼり、向日葵が咲き乱れ、
兎も暑さのせいで年中からの発情期が一層深刻化し、薬剤師は籠もり、姫も籠もり、
月兎は全ての面倒を押し付けられた挙句引くも進むも出来ず立ちすくみ、庭師もまた立ちすくみ、
船頭はサボる確率が限りなく100%に近付き、天狗も昼はなりを潜め、八目鰻の屋台では冷酒の消費が増え、
店主は暇をもてあまし、歴史の教師は体感温度的に友人との付き合いが若干遠のき、冬妖怪は春夏秋眠の真っ最中、
魔法使いは暑さに耐えかね服装を白に変えたところ「うふふふふ(はぁと)」とか言われてショックの余り引き篭もり、
鬼は酔いどれ、狐は脱ぎ、闇がうろつき、猫が駆け、人形が毒を萃めてまわり、蛍はまもなくの出番を待ち、
閻魔は暇をもてあまし、野外コンサートは熱中症患者を抱え、人形遣いは神に呼ばれて盆の里帰り、
門番がだれたのを目撃されるや額にナイフを見舞われ、氷精が重宝される。
幻想郷は、夏であった。
諸事情により「暑いぜ暑いぜ暑くて死ぬぜ」と言って図書館に涼みに来る魔法使いが引き篭もって数日後。
周囲を湖に囲まれ、また内部の空間容積の巨大さゆえに高い熱量キャパシティを誇り、見た目以上に中はわりかし涼しい紅い館。
門番の布地の少なく露出の多い夏服がメイド長直々のお達しにより即日不可となった翌日。
自らはちゃっかり半袖と心もち短いスカートを着用し、実に涼しげないでたちとなった当のメイド長十六夜咲夜は、
様々な情報収集の結果を、主の起床とお茶の時間を待って告げた。要は夜である。
「……報告によりますと、黒白い魔法使いの復帰にはもう一週間ほどを要するとのことです。
どうやら予想以上に効いたようで」
「そう。
たまには静かで良いことじゃない。
湖方面の哨戒部隊や外勤の連中だって休めるわけだし」
「図書館の主殿はいささか不機嫌そうではありましたけど」
「素直じゃないねえ。
……で?」
「はい。
虫の知らせサービスとその図書館長殿の占い、黒猫の気分、狐のテンコー、兎の耳のしおれ具合、
それに大手天狗新聞の気象欄、あとは余りあてにならない巫女の勘を総合した結果、
明日……いえ、明朝早くから昼前にかけて降り出す雨は、一週間ほど続くようです。断続的に」
「梅雨は明けたんじゃなかったのか?」
「今年の最後分になるだろうというのが、大方の見解ですわ」
「そうか。
それなら夜が明ける前に移動しておくのがいいってわけだ」
くいと紅茶を飲みほすと、館の主、エターナルにレッドなロリっ娘ヴァンパイア、
レミリア・スカーレットはやや高さのありすぎる椅子からひょいと降り、
控える侍従長を横目に部屋の出口へと向かう。
が、彼女がノブに手をかけるよりも早くドアは廊下に向かって開かれた。
さして気にするでもなく部屋を出てから、
夜間であるため鎧戸を空け月光差し込む廊下を館の正面玄関方面に曲がった先には、
今しがた部屋に取り残してきたはずのメイド長が、何食わぬ顔で両手にそれぞれ、
大きめのカバンを持って瀟洒に控えている。
その一方の色は、主に館の外壁がそうであるように、程よいスカーレット。
また当然ながら、この時点で既に室内のお茶セット一式はあとかたもない。
「お嬢様、7日分のお着替えと携帯用血液キャンデー、
それとその他色々ご入用と思われるものを一通り詰めておきました」
「ご苦労様。
……そっちは?」
と、メイド長が今一方の手に持っている、自らのものとほぼ同程度にまでペイロードが満タンなカバンを指す。
こちらは館の主の紅一色に加え、周りをぐるりと七色のラインが、やや不恰好ながらもしっかりと刺繍されている。
「フランドール様のお泊りセット一式です。
道中、魔法の森にでも預けていけば、留守の間も何かと面倒がないと思いますので」
「おやおや、パチェが聞いたら怒るな」
「ご安心を。
先ほど天気予報をしていただいた際にお教えしておきました。
おそらく、明朝湿気や雨で空気中の埃がもっとも減った時間帯にお出かけになるかと。
すでに小悪魔の方が支度を始めていましたけれど」
「さすがね咲夜。
相変わらず良い仕事ぶりだわ」
「おそれいりますわ、お嬢様」
クスクスと、人の悪い(片方は人じゃないが)笑いをかわし、再び歩き出す両者。
と、何を思ったか、紅い主は突然、従者の片手からバッグをひったくった。
「お嬢様?」
「自分のくらい自分で持つよ。
それより咲夜こそどうなの? 見た感じ手ぶらだけど」
「見た感じでものを仰られては、物事の本質は見えませんわ、お嬢様」
ぽん、と年齢相応前後程度の胸を軽く叩く。
見た目よりも多少不自然に揺れすぎたようなその逆のような気がしないでもないが、とりあえず無視しておいた。
「完璧です」
「なら、神社から戻ってくる頃には、珍しいお茶が待っているかな?」
「お任せください」
「任せるわ」
再びクスクスと、今度は軽やかに笑いあった二人が正面玄関ホールに辿り着くと、
そこには幾人かのメイドと、紅くて小さな先客が居た。
「うー、眠いー」
「また昼更かししてたのね。
本を読むのが楽しいのは分かるけど、吸血鬼は夜に活動するもの。
昼間っから部屋で読書なんて、魔女や魔法使いがやることよ?」
「私も魔法少女だから良いのー。
だいたい、こんな時間に起こされるなんて思ってなかったし……一体なにー?」
「ああ、そうだったね。
ま、今更生活時間帯をどうこう言ったってしょうがないか、
はい、フラン」
「え、あ……!」
と、差し出された姉の手にあるのは、ほんの半瞬前まで後ろに控えるメイド長が持っていたカバン。
何を言うでもなく、それの中が荷物でほぼ一杯なのを察した悪魔の妹、フランドールは、
全身の眠気をコンマ以下の時間で見事に蹴っ飛ばした。
瞳にスターボウを輝かせながらカバンに入った七色のラインを見つめる。
「お泊り? お泊り!? いいの!?」
「ああ、明日の――」
「もう今日ですわ、お嬢様」
「……朝になったら雨が降るから、その前に移動するよ」
「やっ、たーっ!! ありがとうお姉さま、大好きっ!!」
咲夜のさりげない突っ込みに、僅かな時間壁の大時計に視線をやって反論を諦めたレミリアが宣言するや、
カバンを受け取ったフランドールは両手で持ったそれを大きく頭上に差し上げて主張しつつ、
その場でスキップを踏みながら器用にくるくると5回転ほどしてから姉に抱きつきほおずりした。
まあ、ほとんど飛んでいたが。
と、不意にくっついていた姉から顔を上げ、きょろきょろと辺りを見回し、問うた。
「あれ? パチェはいいの?」
「ああ、あいつは雨が降ったほうが埃がなくて楽だから、後から行くんだよ」
「ふーん。ま、いっか。
じゃあ、それまで私が魔理沙を独り占めだね」
万面に無邪気な笑顔のフランドール。
余談だがこの瞬間、それまで静寂に包まれていた図書館で主のお泊りセットを構築中の司書小悪魔は、
当の主が突如、図書館備品の羽ペンをその細っこい手で握り砕いた音を聞いた。
やや驚いて一見するに、半眼の目じりに涙が浮かんでいたのはどうやら感情的なものではなく、
ただ単に物理的痛覚として過ぎた労働を手に強いたためであるらしい。このモヤシっ娘め。
ついでながら、握り砕いた音とともに「むきゅっ」とかいうまるで蛙をブルドーザーでひき潰したかのような擬音も炸裂したし、
そもそもペンが折れていないからには、握り砕いたのではく握り損ねの砕かれ損か。
さてそんなこんなと一つ屋根の下の図書館で「わああパチュリー様包帯ですかカルシウム剤ですかそれともギブスですかー!!??」
とか色々と外科処置的な事態が進行しつつあることなど露ほども知らぬ主とその従者と妹は、
あわてた挙句足を滑らせた自らの使い魔に角符『飛翔救急箱』を図書館長がかまされた位になると、
既に館の屋根の下にはおらず、正面玄関を出て門に差し掛かっている。
「あ、お嬢様に妹様に咲夜さん。
どうぞいってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくるよ」
「じゃあねめいりーん」
「留守中はまあ……何事もないでしょうけど、わかってるわね?」
「はい! 痩せても枯れても、この紅魔館門番紅美鈴!!
白黒いのその他ごく一部以外には一切屋敷の床を踏ませない自信があります!!」
対象を限定した挙句、敷地でなく床と言うあたりに微妙な自信が見え隠れする。
頼りになるやら、ならないやら。
「まあ……そのあたり相手に戦果を期待するのも酷だろうけど、
あんまり期待せずにほどほどに期待させてもらうよ」
「ど、どっちなんでしょうか……」
「どっちにしても、何か失敗すれば……わかってるわね、美鈴?」
「は、はひっ!」
ずざっ、とメイド長の眼光が門番を一歩半ほど後退させた。
が、どうもその視線が夏にしては厚めの服を通してなお自己主張する上半身の一角に向いているのは気のせいだろうか。
ああごめんなさい咲夜さんお願いですから地の文に睨みきかせんといてください。
「まあ休日を取り上げたり減給だったりってのは当たり前すぎるから、
そうね、いい加減中国ってのも使い古されてきたし」
「え……えーと。
今度は何になるんでしょう……?」
「……あ! 私いいの思いついたよ!」
「何? 言ってごらん」
「あのね、中国ってChinaって書くでしょ?
だから、頭文字だけとって『門番C』ってのはどうかな?」
笑顔はあくまで無邪気、しかしさすがは紅い妹、見事に発言は悪魔だった。
「もっ……しぃっ……!?」
「ああ、それはなかなか言いえて妙だ。咲夜はどう?」
「素晴らしいですわ、是非それにしましょう」
「決定ですか!?」
「失敗したら、だ。励めよ、門番C」
「がんばってね、門番C」
「アイデンティティが大事なら、死ぬ気で職務に専念しなさいね、門番C」
「そんなグループで出てくるモンスターの三体目みたいな名前いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
なんだかんだと愛されているわれらが門番が、片足立ちで器用にツイスト運動をしつつ懊悩を体現するのを脇に、
割かしドライな主従はとっとと湖上空へ飛びたつ。
「じゃあねー門番Cーっ!!」
「大声で呼ばないでくださいぃぃぃぃぃぃぃぃいいっっ!!!!」
ちなみにこの一連の流れを氷精および姉的存在の妖精とか蛍とか闇妖怪とかが湖の一角から眺めていたのみならず、
彼女らが夜間に広めた「門番改名か!?」の話は夜明け前最後の校正にかかっていた天狗パパラッチの耳に入り、
即座にその日の文々。新聞の一面を飾る記事になるなどとは、まだ誰も知らなかった。
「お泊りーおとまりー、まっりさっとおっとまりーさっ♪」
「……そうだ咲夜」
「はい、なんでしょう?」
手ごろな速度で飛びつつ、湖上空を抜けたあたりで不意に切り出す紅い主。
「今回も紅茶が中心になるのか?」
「ええまあ、そうですね。
人間の里や香霖堂だけではなかなか珍しい葉は手に入りませんから。
ですが、それがどうかなさいましたか?」
「んー……それは、だな……咲夜、ちょっと」
「はい?」
ちょいちょいと、珍しく歯切れの悪い主の手招きに応じて耳を寄せる。
どの道、浮かれ気分でくるくるぴょんぴょんしつつ、二人のやや前方を飛行中のフランドールが聞いているはずもないのだが、
そこはそれ、貴族の嗜みというやつであろう。嘘かマコトかは知らないが。
「今回は、ちょっと茶葉は控えめでいい」
「はあ、といいますと?」
「おとまりーおとまりー」
「その、何だ……その分、フランに何かこう、似合いそうなものを頼みたい」
やや予想の斜め上を難度Eくらいできりもみ回転しつつ通過していった主の言葉に、時間を止めるまでではないにせよ、
さすがの咲夜も若干ながら反応にずれがあった。
「ああ……成程。
はい、かしこまりましたわお嬢様。
それでしたら、不公平になるといけませんので、
僭越ながら私が勝手にお嬢様にもお土産をご用意させていただきますわね」
「いっ!? いいいいいや、それはいいっ」
「あら、なぜでしょう」
さらりと流す咲夜。
その顔にはありありと「まったくもー図書館のむらさきもやしを素直じゃないとか言っておきながら、
ご自分も似たようなものじゃないですか。まあうちの主殿はそこが可愛らしくて大変よろしいのですけど」
とかいう表情が浮かんでいる。
「おとまりーおっとまりーおととまーり」
「ここ最近のフランドール様のご成長ぶりから考えると、
ご自分だけでお嬢様にお土産がないとわかれば、逆に私のほうが怒られてしまいますわ。
もしレーヴァテインやら何やらでどつかれてしまおうものなら、
さすがの私も、少しの間お茶をお淹れすることができなくなってしまいますので」
「う……」
「う? うーですかお嬢様?
さすがに飛んでいる最中は少し危ないかと思いますけど」
「……茶葉は、最小限で、あ、いや、余裕があったらでいい。
だからその代わり、パチェと、門番と、そう……図書館のちっこいのとを頼むよ」
「あら、よろしいのですか?
そんなに欲張られてはしばらくの間、
お嬢様曰く香霖堂の『しけた』お茶と里の『野趣溢れる』お茶がメインになってしまいますが」
「っ、ああもう、ちょっと待て!」
荒っぽく切り上げるや、レミリアは両手を胸の前で組み合わせて目を閉じる。
濃密な魔力が瞬時に凝縮し、ややあって開いた手には紅く、見事な大きさの宝石が乗っていた。
「血液キャンデーの魔力版だ。
ちょっと真似てみただけだけど、紅魔の魔力の結晶、
価値が分かる奴なら、それなりのものにはなるだろ?
それで今言った分と茶葉と、余ったら咲夜の好きにしていいっ」
「よろしいのですか?
あまり力を使われては、霊夢との弾幕ごっこに響きますわよ?」
「じき満月だ。補給のあてはあるよ。
だいたい宴会もない夜なら、とっくに巫女はご就寝さ。
布団にもぐりこんで目覚めのサプライズを提供してやる」
「あらあら、仲のおよろしいことで」
「ああ、仲がいいんだ。だからとにかくそれで何とかしろ」
「かしこまりましたわ、お嬢様。
そういうことでしたら、その巫女にもなにかあるとよろしいですね」
「ああもう、任せる!」
「はい、それでは」
乱暴に宝石を渡し、「ふん」と一声もらしてメイドのやや前で飛ぶ紅い姉。
その腰付近、体格に比してやや大振りのスカーレットなカバンが揺れている。
何とはなしにそれを見て、クスリとひとつ微笑む咲夜。
フランドールのカバンにその背中の羽根と同じ、七色のラインが入っていることは先に触れたが、
実は姉たるレミリアの方も紅一色ではなかったりする。
ちょうど咲夜の方を向いて揺れている面に、七色ラインと同程度には不恰好ながら、
なにやら奇妙な刺繍が施されていた。
「おっとまりーおっとまりーおとまーりさっ」
一見すると意味不明な記号ととらえかねないそれは、注意して見れば、
黒い糸で蝙蝠の翼が、青銀の糸で髪の毛が、純白の糸で顔が描かれた、
他ならぬカバンの所有者レミリア・スカーレットの顔であることが分かるだろう。
魔法の森の霧雨邸および博麗神社への外泊が周期的になりつつあった少し前、
『外』へ出かけていた途中、たまたまそれを思い出した咲夜がおそろいで持ち帰ったものだった。
さらにお泊り初使用の前日、フランドール発案、小悪魔&咲夜バックアップ、
紅い姉妹針役として製作されたその刺繍入りおそろいスカーレットカバンは、
以後外泊許可代わりに荷物を満載して手渡されることが常になっている。
ちなみに、製作時の姉妹の奮闘ぶりはまさしく「血のにじむ努力」と評して差し支えなかったが、
両手の指をバンソーコーだらけにしてなお頑張りぬいたフランドールの忍耐力と、
妹に負けるわけにはいかないと、より多くのバンソーコーを必要としたレミリアの意地はともに驚嘆に値する。
まったく変われば変わるものだ。
「……なに?」
「いえ、何でもありませんわ、お嬢様」
よほど見つめていたのか、気配に気づいた主の疑問はかわしておいた。
もっとも、その主もさらに前を飛ぶ妹のカバン付近に視線をやっていたようだから、
主従そろっておあいこと言えなくもないか。
「それじゃーお姉さまー、いってきまーす!」
「ああ、楽しんできな」
「いってらっしゃいませ」
魔法の森のだいぶ上空、森自体の持つまやかしの効果範囲を外れた位置で、
どこにしまっていたのか、雨晴兼用の傘を咲夜から手渡されたフランドールは、
姉とメイドに力いっぱい手を振ると、ほぼ垂直の軌道を取って霧雨邸へ急降下していった。
またも余談だが、このやりとりを地上の森林に潜んで観察していた某人形遣いの夜間偵察専用人形、
通称「濡羽色の羽破拉致人形」が事態を報告し、徹夜続きにもかかわらず慌てて色々な支度と身だしなみを整えた人形遣いが、
その時たまたま魔法の森に到着した紫の魔女とかち合ってとんでもないことになるのは、また別のお話である。
そして主従は、月が照らす神社の境内に。
「それではお嬢様、私はここで」
「ああ、気をつけてな」
「お嬢様こそお気をつけて、巫女に夜這いをかけるのは至難ですわよ」
「なぁに、ダテに場数は踏んでいないよ」
自信たっぷりに宣言する主に、これまた雨晴兼用傘を手渡しつつ微笑みかける。
「健闘を、お嬢様」
「ああ……と、そう言えば」
「はい?」
「んー……」
「へっ、あの……なんでしょう?」
すんすん、何故か従者の匂いをかぐ主。
「やっぱり」
「な、何がです!?」
「少しだけど、いつもと違う魔法の匂いがする。
何か持ち出したか?」
「え、ああ……きっと、コレのせいですわ」
すい、と手を動かし、おなじみのタネ無し手品。
手に現れたのは、一枚の紙。
言うまでもなく、彼女達が日常の、とてもとても真剣な遊戯に用いる道具のひとつ。
「スペルカードか」
「パチュリー様の新しい魔法だそうです。
なんでも、私に試して欲しいとかで」
「……なんで咲夜に?」
「ええと確か、金属を萃める効果があるそうなんですが、
図書館内での使用では目立った効果をあげられなかったとかで、
『だったら普段金属を多量に持ち歩いてる猫イラズにお願いするわ』だそうです」
「金属ねぇ……確かに、図書館じゃあ役にはたたないな」
いっそホコリを萃める符でも作れば、あの閉鎖日陰空間の衛生状態も多少は改善されように、
思い付きを先行させて実用に欠けたものを作るあたり、
およそ魔女といい魔法使いといい、根本のところはやはりいい具合にねじれきっている。
どこぞの国の議会ほどではなかろうが。
「いちおう装丁に金属類を使ってる本もそこそこあったらしいのですけど、
本との重量比に負けて萃められなかったとか」
「……貧弱だな、役に立つのか?」
「物体に占める金属の比率によるそうなので、ナイフくらい金属部分が多ければ通用するそうですが」
「ふうん……」
しげしげと手にとってそれを眺めてみる。
試作品らしく、いかにもな名称が割といい加減な字体で記述されている他は目立った装飾もなく、
組み込まれている魔術の構造も試作過程ゆえか妙に複雑で回りくどい。
むらさきもやしこと動かない大図書館パチュリー・ノーレッジの常用する各種の符と比較すると、
洗練度合いや使い勝手では遠く及ばぬシロモノのようである。
「えい」
「あ」
指先にほんの少し力をこめて、きゅきゅいとスペル構造の一部をいじった。
無味乾燥な単色の表面に一筋だけ、やたら鮮明な紅い筋が刻まれる。
「よし、これでちょっとは面白くなる」
「何をなさったのです?」
「少しだけ力の『通り』を良くしただけだよ。
効果はそのままだけど、まあ3割から6割くらいパワーは上がってるんじゃないかな」
「アバウトですわね」
ちなみに後日「それはちょっとやりすぎたわね」と図書館の主に微妙な顔をされることになるのだが、
この時点ではその運命を見てないのか、或いは意図的に無視したのか判断のつかないところだった。
でも多分前者だろう。
飼い主に似るというが、時折大事なところが抜けることのある従者の主もまた、
時に変な落ちをすることがあった。
「……さって、それじゃ私も行くよ」
「頑張ってくださいお嬢様。
きっと努力は報われますわ」
「おうさ」
しゅた、と片手をあげて景気良く、紅い主は社殿の裏にある母屋へと消えていった。
「…………」
少し待ってみる。
特に弾幕や悲鳴や叫び声やその他諸々の事態が発生しないところを見るに、
どうやらひとまず、無事巫女への接近に成功したらしい。
まぁ、場合によっては音ひとつ立てる間もなく結界で捕縛されることもありうるのだが。
「お嬢様、ふぁいと、おーです」
ぐっ、と親指をたて、姿見えぬ主にエールを送ると、
満月に何日分か足りない沈みかけの月が照らす境内から、咲夜もまた自らの目的地へと向かう。
方角は神社へと昇る石段の方角。
鳥居をくぐり、石段を降りきり、少しばかり獣路を行けば、そこはもう『外』との境界である。
咲夜個人としては、もう少し神社内で繰り広げられるかもしれない事態に興味があったのだが、
時間を止めて鑑賞するというわけにもいかなかったし、
何より、満月の夜には本気と書いてやってやるぜと読む主から、
久々のちょっとわがままなお土産指令を受けたことで、割と心がおどっていたのも関係していた。
「まずは、どこからまわろうかしら」
月が沈めば、さして間を置くこともなく太陽が昇り、
『外』と言わず中と言わず、人間の多くが主として活動する時間がやってくる。
咲夜の頭の中では、すでに馴染みの紅茶の店を始め、
姉妹やその他の面々への土産を考慮した場合の買い物ルートが急速に構築されつつあった。
そして、悪くない気分で足取り軽く、人間が一人、幻想郷から姿を消した。
薄暗い店内は、いつものようにいわくありげだったり、胡散臭かったり、
怨念むき出しだったり、カタカタと微動していたり、今しも髪が伸びる最中であったりと、
実に楽しそうな物品であふれていた。
「…………」
それら一般人には奇っ怪極まる気配の大連隊に囲まれ、
しかし、銀のメイドはごく自然と、慣例のように店主の作業が終わるのを待っている。
店主の手元には、店内に陳列されているものに負けず劣らず、
いや、多分に勝っているであろう気配を撒き散らすアレな代物が並んでいた。
いずれも紅魔館の倉庫に昔から眠っているものであったり、
またはメイドたちがどこかから拾ってきたものであったりする。
それらをこともなげに鑑定していた店主は、メイド長の様子が普段と少し違ったためか、
作業途中の手を置き、珍しく、不意打ちのように口を開いた。
「気に入ったものがあれば、別に持って行って構わんぞ」
「え?」
「さっきからあれこれと熱心に見つめておる」
「あら、そうでしたか?」
「どうせそこいらに並んでるのはどうでもいいものばかりだ。
その道の連中にとっては珍しくもないし、一般人には不気味なシロモノとしか映らんが、
特に気にしなければタダのアクセサリーとなんら変わらん」
くいと、店主の片手に握られた鉛筆が指し示す先、
先ほどからメイドの視線を特に惹きつける一角、
多少それらに対する感覚があれば一見してそうと分かる、
いかにも何かありますという気配を放つ細工物の数々。
「お前さんくらいの者であれば、『中に居る』輩も別段悪さはしないだろうしな」
「そうですわね……安くしていただけるのであれば」
「もっていけと言っている。
いつも上物をもって来る常連客へのサービスだと思えばいい」
「あら、私はてっきり、いつも買い叩いていることへの償いかと思いましたわ」
「適正価格で買い取っていると思っていたが、不足だったかね?」
「まさか、店主殿の腕を信用していますもの」
応えず、この地下の、薄暗い霊安室のような店の奥で、
店の主は再び咲夜の持ち込んだいくつかの品の鑑定を再開した。
傷がないかじっくり観察し、傍らの吊り天秤で重さを計り、
何事か口の中で呟いてはメモを書き止めていく。
何かありそうな品を、何かありそうに見定め、何かありそうに頷いては、その価値を決め、
相当する金額を『外』の基準で提示するこの店主。
香霖堂のごとき陽気さなどとは無縁だが、しかしいわゆる『その道』の大ベテランたる風格と、
やや小さすぎる気がしないでもないメガネの奥の眼は、
この店主が『外』に居るには惜しいほどの存在であることを示している。
「……それに」
と、再び口を開く。
「今日はものの質も量も、いつもより上だ。
対価はいつもどおりに払うし、何に使うのかは聞かんから、
そこらのもので良いなら代金のついでに持って行ってくれると助かる。
正直、最近いささか数が増えすぎてやり場に困るのでな」
「でも、本当によろしいのですか?
わざわざ店主殿が買い取ったものなのでしょう?」
「そうでもない。
ものにもよるが、多くは店の噂を聞いて『タダでも良いから引き取ってくれ』と言ってきた類の物だ。
その道の者はガラクタと笑うが、そこらの人間には持つのも恐ろしいという、
まあ、その程度のモノでしかないがな」
「はあ、それでは」
お言葉に甘えまして、と壁の陳列棚の前に立つ。
どれもこれも結構な高級品に見えるが、同時に咲夜の眼にはそれらの放つ微弱ながらも確固たる気配がわかった。
確かに、夜になればカタカタ揺れたり、月の光を浴びると歌声が出てきたりといった、
他愛のない、そう、幻想郷的な尺度で言えば実に他愛のないものでしかないだろうが、
慣れない人間には少しばかり厳しいのかもしれない。
「けれど……」
呟いて、並んでいる品々を見回す。
どれもこれも美しいと言っていいが、問題があるとすれば、一つ、少しばかり重大な問題があった。
「何だ、結局何も持っていかんのか?」
「ええ、やはり贈り物にはどうも……」
咲夜は少しだけ言葉を濁す。
実の所を言えば、土産になりそうなものはいくつかあったのだが、
その多くは、これは特に彼女の主姉妹にとって問題ながら銀細工だったのだ。
銀は退魔の力を持つ、転じて、魔を内に封じるための外郭素材としても有用である。
ナイフや太刀といった武器の形態をなしているものはないとはいえ、
しかし主の弱点素材を土産とするわけにもいかない。
「ふむ……少し待て」
と、店主は傍らの、まるで診療所の薬棚のような無数の引き出しの一つから、
小さな包みを取り出してきた。
出てきたのは、小さな箱と、水晶を木に嵌めて加工したと思われるペンダント。
だが、店主が箱を開けたが、そこから先は何も起こらない。
「それ、オルゴール……ですか?」
「一応は、だが。
それとこっちの水晶と、どちらも、人にはただの置物やアクセサリーでしかない」
「……と、言うと?」
「どちらも昔、遥か西の方で使われていた、人外の遊び道具だそうだ。
人ならざる者が力を通わせると、力の波長に応じて旋律を奏でるとされている」
「……店主殿」
咲夜の声の温度が急降下する。
だけでなく、店内さえもが、急激に季節が逆戻りしたかのごとき空気を漂わせた。
「どちらも、既に憑いていたものはほぼ抜け落ちている。
が、由来が由来だし、使い方もあるから、
たとえその道の好事家であっても普通の人間相手に売れる代物ではない。
ちょうど良いから持って行け」
「…………」
それを感じていないのか、或いは無視しているのか、店主は言葉を続け、
さらに結構な分厚さになった封筒を差し出した。
「それと、代金だ。
いつもよりいいものが多かった分、少しばかりサービスさせてもらった」
「…………」
何の変哲もない、いつものやりとり。
店主の小さな眼鏡越しの目と、咲夜の、若干紅色を帯びた眼が向き合う。
先にそらしたのは、小さくない眼の方だった。
「……お得意さまだから?」
「そうだ」
ふうと、溜め息と共に閉じて、また開いた眼はいつもの青色。
まあ確かに、既にこの店主との付き合いもそこそこのものとなっているし、
毎度毎度『外』にとってはほぼ異界に等しい幻想郷から、あれやこれやと持ち込んでいるのだ。
特に今回など主お手製の魔力結晶まで持ってきている。となれば、
この、知識も経験も豊富と一見して分かる店主がそこまで察せぬのも妙というもの。
まあいいか、と咲夜は比較的楽観して判断を下す。
知られたところで現状の関係がどうにかなるわけではなかったし、
それに、目の前の二つの品には、若干の問題と引き換えにしても充分な価値があることを感じていた。
「それでは、ありがたく」
「まいど」
店主は慣れた手つきで箱とペンダントを包みに入れ直し、代金の封筒の隣に置く。
咲夜は受け取ってから、時間を止めて中身を確認し、少しだけ営業用の微笑を浮かべてから懐にしまった。
決して小さくない包みと封筒が、いかにしてそのスレンダーないでたちのどこに格納されているかは彼女だけの秘密だ。
「おおきに、またおいでやす」
「そうさせてもらうわ」
にやりと、笑って見送る店主にいつもの挨拶。
常々思っていたが、店主は笑うと途端に凶悪な顔つきになる。
店内は、どこぞの図書館といい勝負で、ほとんど最小限の照明しかないから尚更だった。
顔中深いシワが多く、ハゲ頭で、かつ幅の広い店主の顔面がにやりと笑う様は、
むしろ彼女が知っている妖怪の誰よりも妖怪っぽく見える。
咲夜は返事をしつつ、それを指摘しようか僅かな間だけ迷ったが、やめておいた。
どうせ、また来るのだから、それまでに考えておこうと思ったのである。
ちなみに、ここは関西ではない。
地下の店を出て地上に戻ってからの咲夜の行動は、さほどいつもと変わりなかったが、
今回はいくつか追加の用があったため、一通りを終わらせる頃にはさすがに夏のタフな陽射しも疲れたか、
過剰な労働に耐えかねて大きく傾いていた。
「これで全部、かしらね」
まるで周りに人間など居ないかのように―――実際には雑踏の中だが―――すいすいと人ごみの中を歩きつつ、
咲夜は頭の中で買出しのリストを反芻する。
本の虫、司書小悪魔、門番、それから紅魔館でメイドたちのサブリーダー的役割の数人、いや数妖、
また主に宣言した通り、紅白へも、とりあえずこれでいいだろうと思ったものを揃えた。
無論、主姉妹へは先刻のアレが相応しかろうし、
それに店主のサービスのおかげかかなりの余裕があったため、
茶葉も少しいつもと趣の違うものをいくつか揃えることも出来たから収穫は上々だろう。
「……にしても、チベット茶って美味しいのかしら?」
よいっと、抱えた紙袋に意識が向く。
中身はほぼ全て茶葉で、それ以外の品物は秘密の場所に格納済みだ。
割かし上機嫌に、一日で用事を済ませてしまった咲夜は、街をそぞろに歩いている。
紅魔館でメイド長として日々の仕事をこなすようになって、どのくらいになるか、
ある日、主人の気まぐれで出された休暇の最中、
能力を使えば割と簡単に大結界を越えられることが分かり、以来、
たまに訪れる休暇には『外』へと珍しいもの(主に茶葉)を探しに出たり、
こうして何となく街を歩くのが大体の行動パターンだった。
『外』においては、幻想郷の品がたいがい希少品であることを知ったのもその頃だから、
この街とあの店主と茶葉の店と、ほぼ同年の付き合いということにもなる。
「結構変わったわね、ここも」
たまに来るだけでも、いや、そうであるがためにいっそう、街自体の変化は目に見えて分かった。
休暇のサイクルから考えても、2、3回で季節が移るために、
街の装いや道行く人の服装、建物、車、木々が来るたびにそこそこ違う。
それら移ろいに別段感慨があるわけではないが、
自分がかつてその中に居て、ひょっとすると今も尚居たはずだと思うと、やや不思議な感じがしないでもない。
「…………?」
ふと、足が止まった。
左斜め後方、今しがた前を通り過ぎたその店の方を振り返る。
その街角の、最近ではめっきり数を減らしたタバコ屋兼雑貨屋のようなこじんまりとした店、
店先に並べられたいくつかの新聞の中の一つに、目がとまった。
「…………まさか、ね」
数秒、或いはもう少し、一面であろうその記事を咲夜はじっと見ていたが、
やがて前を向き直って再び歩き出し、少し行ってまた止まった。
「……あー、もう」
呟いて、目を閉じ、開いて三度歩き出したその手には、灰色の紙の束。
居眠りをしていた雑貨屋の店主は、店じまいの段になって記憶より一つ新聞が余計に売れていることと、
いつの間にかレジの上に新聞の代金が置かれていることに気付くのであるが、
どんなうっかりさんなのか、並んだ小銭は代金よりコインいっこ分多かった。
街の大通りから少し離れると、道の広さの割に人通りや交通量は急速に減ってくる。
そんなわりかし閑静な一角に、その店はあった。
昼下がりから夕刻にかけての時間帯、いくらでも需要はあるだろうに、
なぜかその店、比較的大きな間取りで明るい感じの喫茶店は閑古鳥がダース単位で合唱団を組んでいて、
ありていに言えばがらがらだった。
ただ、どうも時間帯に限らず常にこの店はこのようであるらしく、
咲夜は未だかつて、この店に一定以上の人数がいるのを見たことがない。
まあ彼女にとってみればそちらの方がむしろ好都合というか、気楽と言えば気楽なので、
時間を止める事はできても進める事はできない時をかけるメイド長にとって、
『外』で稀にできる暇を潰すための実に具合の良い場所でもあった。
「…………ふうん」
その咲夜、今は店で一番奥まった席に唯一の客として陣取り、
片手にコーヒーカップを持ちつつ、先刻の新聞を見ている。
紅茶を置いていないのがこの店の唯一の難点と言えば難点だが、
しかし、スキンヘッドにサングラス、しかもやたら日本人離れした巨体のマスターが入れる珈琲は、
その見た目に反して意外なほど珈琲として堂に入った風味だった。
加えて、初回訪問時、熱いそれを口にして思わず「熱っ」とか言ってしまったメイド長に対し、
二回目以降、やや温度が抑え目であるものの風味をいささかもそこねていないものが出てきたあたり、
いかつい外見からは想像できぬほどの技量と繊細な心配りの持ち主らしい。
ちなみに、普段ならいるはずの相方の女性は、買い出しか或いは別の用事のためか不在であり、
また時に見かける騒がしい男女の二人連れや、
そういうものに対して普段価値を置かないはずの咲夜でさえ、
つい気にしてしまうほど見事なスーツ姿の女性といったわずかな常連も、
様々な確率の関係上かこの日はおらず、店主がグラスやカップを磨く音と店内のBGMだけが、
多少なりと耳に届く程度であった。
「…………本当なのかしら、これ」
記事を見て思わず呟いてしまう。
そこに記されている事件、ないし事故の内容はともかく、
それが起きた場所の記述には、多分に興味を惹くものであった。
併記されている地図によれば、その場所はここからそう遠くはない。
「……さて」
少し考えてみる。
新聞はどこぞの天狗のものほど零細というわけではないにせよ、大手とは言い難い。
そのため記事の信憑性にも若干、いや割と疑う余地はあるわけだし、
そういう無駄はあまり咲夜の好むところではなかった。
だが、何しろ出発したのは今日の夜明け前である。
主姉妹にしても、図書館のモヤシっ娘にしても、また館のメイドたちにしても、
今朝の今夜で帰るというのは何かと慌しいような気もしたし、
場合によっては野暮になってしまうという可能性も高かった。
幸い、目的地かもしれない場所は、比較的帰り道に近い。
別段手間取るというわけでもないだろう。
「…………お土産話っていうのも、いいかもしれないわね」
「…………?」
ふと、マスターはグラスを磨く手を止めた。
店の一番奥の席、たまに訪れるメイド姿の客が、いつの間にかいなくなっている。
ドアベルが鳴らなかったとはいえ、彼はそれが彼女の去るやり方だと察していたから、
さして気にするでもなく、空になっているであろうコーヒーカップを下げに行った。
テーブルの上に新聞が置き去りにされていたが、それは店でとっている新聞ではなかったため、
彼女が不要と思い置いていったのだろうと解釈する。
と、布巾をカウンターに忘れたことに気付き、マスターはひとまずコーヒーカップだけを持って立ち去った。
取り残されたグラスの氷が溶け、音を立てて崩れる。
そのグラスの横、間もなく明けるであろう梅雨空からわずかに射した日に照らされ、
過不足なく置かれたコーヒー分の硬貨。
さらにその横、広げられた新聞が、朱色の陽射しを吸ってやや不気味な色合いをたたえていた。
「『山間部で不明の夫婦、神隠しか?』
おととい××県の***山に登山に出かけた―――さん夫婦が、予定を過ぎても下山し
なかったために捜索願いが出されて以降、地元警察及び周辺住民による必死の捜索にもか
かわらず、いまだ有用なてがかりが得られていないのが現状である。
地元住民によれば、夫妻が登山ルートとして知人に話していた道は、十数年前より住民
達の間で「妖怪が住む」と噂される山奥の廃村に近く、「神隠しにあったのでは」とまこ
としやかに囁かれているが、「現代に神隠しなどない」と警察関係者の意見は一致してお
り、今日の捜索でも具体的な手がかりが得られない場合は、沢に落ちて流された可能性や、
何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるとして、川の下流域も含めて捜索範囲を大幅に
拡大する方針であるとのこと。
しかしながら、周辺地域では特にこの数年にかけて、夜中に奇妙な鳴き声や話し声、ま
た実際に「妖怪を見た」という目撃証言がかなりの件数にのぼっており、一部民俗学者な
どの間では、「野生動物と同じく、都市化によって住処をおわれた妖怪が山奥の廃村を新
たな住処として利用している可能性は否定出来ない」と、やや冗談混じりではあるものの、
比較的多くの学識者達によって言われている。
ある筋からの情報に拠れば、行方不明扱いになっている人や今なお所在不明となってい
る犯罪者などが潜伏している可能性があるとのことだが、消防、警察など各関係者は、
「梅雨の末期には集中豪雨が発生して自然災害に巻き込まれる危険性もある」として、当
該地域を含めた広い範囲に災害危険情報を出し、なるべく山奥へは立ち入らないように注
意を促している。(社会部 太田)【19、23面に関連記事】」
境郷2 ~ Perfect Maid in The Border Land “Chapter_1” end
and to be continued ...