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“助けて”
その言葉を背に月から逃げた。
月から逃げて。噂を伝に私はひとつの屋敷に辿り着いた。
永遠亭。
自分がここに身を置いてしばらくの事。それは、偽りの月と明けぬ夜“永夜異変”と呼ばれた事件の数十年ほど前になる。
その日はよく晴れた日で。昼食を終えた後、私は兎達と庭で洗濯物を干していた。
積み上げられた洗濯物を竹の竿に干していく。横に目をやると人の姿に耳を生やしたウサギが足りない身長を駆使して竿を掛けている。ふと、目が合うと無邪気な笑顔が返ってきて私もぎこちなく笑顔を返した。
てゐを筆頭にした兎達。この屋敷の雑用をする彼女達の中ではてゐがリーダーなのだが、そのリーダーが私の下という位置になっているため。結果、間接的に私が兎達を牛耳るような形になってしまっている。
だからといって私はそんなに偉いわけではない。当然、居候である私の上には二人の人物が居る。
その一人、ここの屋敷の主であり私が姫様と呼ぶ――
「いい耳をしてるわねイナバ」
不意に引っ張られて耳に痛みが走る。
「ひ、姫様。痛い、痛いですから」
――姫様と呼ぶ、蓬莱山輝夜。私よりも低い背丈だというのに背伸びまでして私の耳を引っ張ってくる。
「やはり貴女の耳は良いものね」
「良し悪しも分からないのに止めてください姫様」
耳を姫様の手から救出する。姫様は悪びれた様子も無く長い黒髪を僅かに揺らした。
「あら、福耳だったのなら良い耳じゃない」
「耳たぶも無いのに福耳がありますか」
「どうも動いている耳を見ると触りたくなるわ。私の耳が動かないからかしら」
そう言いながら再び背伸び、伸ばしてくる手を避ける。
「耳はもういいですから。それよりも、何か御用ですか?」
「ああ、そうだったわ。永琳が貴女に用があるそうよ」
「それを先に言って下さい」
踵を返し、姫様から逃げるように廊下に上がる。そしてその後ろを何故か姫様が付いてくる。
結局、師匠の部屋まで姫様は付いてきてしまった。用事は無いのだろうに、永遠亭のお世話になって日は浅いがこの方の行動はどうにも分からない。
「師匠、入りますよ」
「どうぞ」
返事を聞いて襖を開ける。独特な臭気の充満する中、師匠は和机に向かい淡々と秤に薬包紙を乗せていた。
濃紺と赤の特徴的な服に銀の髪。私の師匠である八意永琳は薬師をしており、月の賢者とも呼ばれるほどの頭脳をもっている。
「毎日毎日、精が出るわね」
「あら、姫様もこられたんですか」
「あら、来たら不味かったかしら?」
姫様の冗談に師匠は軽く肩をすくめて答える。
「そんなことはありませんよ。こんな部屋でよければゆっくりしていって下さい」
師匠の言葉に、姫様は部屋の物色を始めたので私は本題にはいる。
「それで、師匠。用事と聞いたんですが」
「実は薬なのだけれど。前に売りに行ってから少し経ったから、里で売ってきて欲しいの」
永遠亭に置いてもらい、師匠の弟子にしてもらって以後。私は修行も兼ねた薬売りの手伝いを始めていた。
「わかりました。お安い御用ですよ」
「商品はいつもの方に入れてあるから。分かるだけでいいから買った人の名とその薬を書いておいてちょうだい」
部屋の隅のほうに複数ある薬箱、その中からいつも売り歩くときに使うものを取り出す。一緒に商品の値段なども記された帳簿も取るのを忘れない。
「置き薬のほうは、確認しなくていいんですか。私でよければ確認しておきますよ」
「貴女にはまだ早いわよ」
師匠の返事はいつもそればかりだ。もっと糧になる経験をしたいと思っていた私はその日ばかり少し強気に出た。
「師匠、私でも置き薬の補充くらいできます。ちなみに売り歩くだけなら童子にでもできるんですよ」
「患っている人も診なければならないのよ、そもそも里の人間を把握していないでしょう。この仕事はね、継続していなければ分からないことがあり、継続をしなければ分からなくなってしまう。これは貴女の実力が伴っていてもさせるわけにはいかないの、責任の問題なのだから。分かってちょうだい」
優しくも律するように言われてしまった。こうなってしまうと流石に自分が恥ずかしくなってしまう。
「それに……」
師匠の手が頭の上の何も無い空間を摘む。一瞬なにを示しているのか理解できなかった。
「……あ」
自分の頭の上を思い出して気づく。耳のことを指しているのだ。師匠にはない私の耳は妖怪の証。当然、人間の里ではこの耳を快く思わない人も居る。
「売り歩くのと家に上がるのはまったく違うのだから。まずは信用を得なさいね」
「信用……」
不意に月に残してきた仲間の顔がチラついた。信用とは云うけれど、あんなことをした私が得ていいものとは思えなかった。
少し顔に影が差したのを自覚して。気を取り直す前に姫様が後ろから抱き着いてきた。
「ひ、姫様?」
「信用には信用で応える。これは人妖問わず共通よ、イナバは容姿も可愛らしいから大丈夫」
その様子を察してか、和机に向かいっぱなしだった師匠が微笑を浮かべながらようやくこちらを向く。
「優曇華、暮れるまでには帰りなさい。夕飯が冷めないうちにね」
「はい……って姫様、私は出かけますから耳を弄らないでください」
「あら、残念ね。ちゃんと暮れるまでには戻りなさいよ」
「分かっていますよ。もう……」
私の身を案じてくれているのか耳が弄りたいからなのか。複雑な心境のまま薬箱を手に私は襖を開けた。
/
優曇華の出て行った後の部屋には薬の調合を黙々と続ける永琳。
そして、引き出しを開けて無作為に薬の材料を物色する輝夜のみが残った。
「随分と……」
先ほどとは一転して真面目な声で永琳は言葉を紡ぐ。
「随分と、入れ込んでいるのですね優曇華に」
「そうねぇ。なかなか良い耳をしてるのよあのへたれ具合がたまらなくてね……」
「……」
茶化すように輝夜は言うが永琳の無言の意味に鼻で息をつく。
「馴れ合い、傷の舐めあいとでも云いたそうね」
「あの子を置くといったのは姫様です。境遇に同情したのでしたら……」
「虚しく見えたかしら。同郷の好というものよ、べつに文句もないでしょう。貴女と私は戯事しかできない。でも、イナバは違うわ」
「悩みを抱えてはいますが、良い子です。しかし姫様、私に同郷の好は無いのですか」
「何を言い出すのかと思えば。貴女は同じ穴の狢よ、都の情報を秤に掛けるような貴女はね。それに、信頼しているからこそこういう話をするのでしょう?」
「……流石に無粋な話でしたか」
「そうでもないわ、要らぬ心配でも嬉しいものよ」
話の終わりを示唆するように小気味のいい音で引き出しを閉じて輝夜は部屋から出て行った。
/
人間の里。この里には商人の集う通りがあり、
私もそこで風呂敷を広げて商人列に加わる。
薬売りも客は様々。普通に薬だけを買っていく人や師匠の様子を訊く人もいる。はたまた珍妙な薬はないかと尋ねてくる人もいる。ここは賑やか過ぎてどうも苦手だ。
その日もいつもどおりに薬を売り、師匠の近況を話し。珍妙な薬は無いと断りをいれていった。
幾刻か過ぎ日も傾きかけた頃、そろそろ仕舞って帰ろうかと思い始めたときだった。広げた風呂敷の上に影が落ちたのに気づいて気をつけながら顔を上げる。
「ちょっといいかな」
銀髪に紅白のリボンを装飾した少女。見覚えはなく、どこか里の人間とは違う少女と呼ぶべきだが年齢不相応な雰囲気を纏っていた。
「入り用ですか」
「薬の用はないよ。私は病に縁が無いし。看病してやる相手もいない」
「でしたら?」
「訊きたいことがあるんだ。竹林の中に屋敷があるって訊いたのだけれど。アンタはそこに住んでいるのかい?」
妙な人だ、普通の用事ではないようだし、もしかしたら師匠に用があるのだろうか。
「はい、そうですけど。師匠……その八意永琳に用事でしたら賜りますが?」
「えいりん……その人が屋敷の主?」
「いいえ、屋敷の主は姫様。蓬莱山輝夜様ですが」
「カ グ ヤ」
姫様の名前を復唱したその一言だけは、目の前に居る彼女が発したものなのか疑問になるほどに、異常で異質だった。
「あの……?」
「そう、ありがとう」
今は気のせいだったのだろうか。少女の顔には先ほどの異質さは無く、年齢不相応な雰囲気だけが残っていた。
そして謝礼のつもりか幾らかの銭を私に手渡し、少女は迷いの竹林の方へと去ってゆく。
迷いの竹林。名のとおり人間があそこに立ち入って永遠亭に辿りつけるなど稀だ。
「あの――」
危ないので声を掛けようと私が思ったその時。
「おーい、薬屋さん!」
後ろからの声に振り返る。名は覚えていないが見覚えのある人間の女性が私の方に向かって駆けてきた。逡巡するも仕方ないので女性に向き直る。
「ど、どうしたんです?」
目の前まできた女性。よほどの用事なのだろうか、肩で息をするその視線にあわせないよう、気をつけて話を訊く。
「息子が大変なんだよ。風邪だと思ったら様子がおかしくって、診てやってくれよ」
問答無用といった様子で女性は私の手を引く。
「ちょ、ちょっと待ってください。私、見習いなんです。診療なんてとても……」
「見習いでもいいからさ。お願いだよ、息子を助けておくれ……」
必死な女性の顔。その手、私の手を握り引くその姿。その言葉が月での記憶を想起させる。
“助けて”
あの時はこの手を振りほどいてしまった……。だが、今は振りほどこうなどとは思えない。
信用には信用で応える。抑揚も無く当然のように語ってくれた姫様の言葉が脳裏に浮かんだ。
信頼ではなく、彼女は藁をも掴む想いで私に頼っているだけなのかもしれない。それでも今繋がれているこの手には応えようと思えた。
「分かりました。私が診ますので案内してください」
姫様の言葉に感謝しつつ、私は荷物をまとめて女性の後に続いた。
/
私たち妖怪は人よりも長い人生を急ぐことは無い、だからこそ走るなんて久しぶりのことだった。
だからといって怠惰で肉体が衰えることはありえない。当然のように私は女性に並ぶように走り息も切れなかった。
「一昨日くらいから咳はしてたんだけどついさっきから息も苦しいって言い出して……」
女性が先に立ち襖を開く、人間の家に入ったのは初めてだったが永遠亭とそこまでの差異はなく目を瞬かせるようなこともない。
促されるままに部屋に入ると、中には布団の中で苦しそうな咳をする子供がいた。それは遊び盛りの年頃であろう男の子、それが無意識にその辛さを体現していた。
「近くの医者も留守でどうしようか困ってたら、薬屋さんが来てるって聞いて。だから急いで呼びに行ったのさ」
「すいません、躊躇うような事をいってしまって」
一見すると風邪や熱をだしているようにみえるがその症状は見ているこっちが苦しくなってきそうなほど。もし私があそこで断っていたのなら……そう思うだけでも恐ろしかった。
私は早速、風呂敷を広げ携帯していた道具を準備する。男の子の枕元に眼を向けると二つの桶があり、中には水と嘔吐物があった。
「ほら、お医者さんきたから安心しな、」
男の子は話すのも苦しいのか頷いた後に再び咳き込む。安心させるための母の言葉が私の不安を煽る。
もし、できなかったら。信頼に応えられなかったらと思うと不安が募った。
まったく、さっきから私は……恐ろしくて、不安で、手まで震えて……っ。
「……よしっ!」
両手を顔に打ち付けて気合を入れる。その音に女性が驚いた顔をしたが私は気にもしない。
往生するんだ私。悩むな、悔やむな。私の不安が、私の恐怖がこの子を救えるわけがない。
「さぁ、お姉さんが来たからにはもう大丈夫だからね」
「うん」
笑顔を向けても少年は苦しそうにまた咳込む。痰も出ている。この状態で呼吸が苦しいとなると……。
「もしかして、胸も痛いのかな?」
「ごほっ……うん」
発熱、咳、痰、呼吸困難、胸痛。断定はできないけれど私でも見当はつく。
「何か酷い病気なのかい?」
「多分、肺が炎症を起こしているんだと思います」
「肺炎ってやつかい?」
「はい」
「それって死んだり――
そこまでで口に人差し指を当てて云わぬようにサインをする。
「大丈夫ですよ、すぐに良くなります」
確かに、女性の言うとおり肺炎で死亡する事もある。だけどそういう場合は稀だし、そんなこと私がさせはしない。
まず鎮咳の香を乳鉢で荒く潰して火をつける。それを燃えないよう軽く湿らせた布に畳んで男の子の口へ持っていく。
「お薬だから。頑張って深呼吸してね」
鼻を覆わないよう布を口に当ててやる、何度か呼吸をしたところで一際大きな咳をして痰を吐き出した。
「息苦しいのはすぐ治してあげるからね」
とりあえず困難になっていた呼吸を整えて、鎮咳の香を焚いて男の子の脇に置いてやる。
熱もあるので去痰と解熱の丸薬を取り出す。
「あとはこのお薬を飲めば元気になれるからね」
母親が用意した水と共に丸薬を男の子の目の前まで持っていく。
「ほら?」
「ぅ……」
男の子の出した苦渋の表情に失念していた予感が湧き上がる。
「いいよ、もう大丈夫だって」
薬の売り方、調合に作用、医術の知識はあったが。子供の患者ということを失念していた。男の子は丸薬の匂いを嗅いだだけで拒絶を示してしまった。
どうにか口の中に入れようと試してみたが男の子は歯を閉じて入れさせてくれない。
困り果て、こういう場合にはと思い女性に尋ねる。
「蜂蜜か何か、ありませんか?」
「うちは置いてないんだよ、買いに行けばあるかもしれないけど」
思い当たる店を思い出すがここからでは流石に遠い。蜂蜜などがあれば楽だったけれども……。
私たちが悩む時間は患者が苦しみ続ける時間。師匠の云っていた言葉だ。
仕方ない。男の子の頭を抱え、吐き出された丸薬を自分の舌の上に乗せる。
「ちょっとごめんね」
視線を合わせないように気をつけながら私は男の子に口づけをした。
不意のことで男の子の身体が跳ね上がるように強張る。いくら飲まないからと指を入れて強引に飲ませるわけにもいかない、他に適切な方法は思いつかなかった。
男の子の口の中に私の舌をねじ込み小さな舌を押さえつける。
「……ん」
そのまま丸薬を喉奥に入れると喉を鳴らしてどうにか飲み込んでくれた。
口を離すと痰の混じった唾液が糸を引く。布で口を拭い改めて男の子に水を差し出した。
「ごめんね、驚いたかな」
顔だけでなく耳まで赤くしてしまった男の子は私の顔を見ようともせず布団に潜ってしまった。
「お薬は飲めるようにならないと、また飲まされるのは恥ずかしいよね」
布団の中で咳を繰り返しているが咳も少ない、香のおかげか先ほどより随分と楽になった様子だ。
適量の丸薬を手持ちの乳鉢で潰して薬包紙に包む。そして、後ろで心配そうに見ていた奥さんにその薬包紙と香を手渡す。
「あとは暖かくして十分に水を飲ませてあげて下さい。朝になったらこれを、蜂蜜か何かと一緒に飲ませてあげて下さい。あと辛い様子でしたらこの香を、咳止めの香です」
説明を口にしながらも頭の半分は失念している事柄はないかと必死になっていた。もしもそんな事があってはいけない、そう思いながら慣れない自分を呪った。
「香はあまり焚き過ぎないように、あまり吸うと副作用もありますから楽になったら止めてください」
説明を終えたところで薬を手渡したその手が引かれて、女性が両手で握手をしてきた。
「何が見習いだよ……立派なお医者様じゃないかい。本当にありがとうね」
「いえ、私はそんな――
ふと、
女性の目と私の眼が合ってしまった。
「……ぁ、あぁ!?」
瞬間、視線を逸らしたがもう遅い。
発狂には至らなかったが、狂気が襲い女性は胃の内容物を嘔吐してしまった。
「あ……あの私…………っ違うんです」
こんなつもりじゃなかった。必死に視線を合わせないようにしてきたのに、何で私はこうも――。
「大丈夫だよ。この子の病気が伝染ったのかね、昨日から気分悪かったんだよ……」
「私が……私が、私のせいで……」
緊張の糸が切れてしまった私はもう、どうにもしようもなかった。
「情けない声だして。うちの子助けてくれたアンタが気に病むことなんかひとつも無いよ。」
焦点を合わせられない瞳で私を見つめ、笑いかけてくれるその顔は蒼白以外の形容が無い。
そして、私の顔を見る奥さんが再び狂気にあてられる事は無かった。
「ごめん……なさい」
視線が定まらない、涙で歪んだ瞳が狂気を操ることなどできるわけがない。
私は何も考えられずその場から逃げ出してしまった。
/
暮れた日が夜に変わる頃。永遠亭、その広大な庭に面した襖が炎をあげながら吹き飛んだ。
その襖と共に、服に焦げ跡を残した輝夜の身体が庭に放り出され、庭に線を描く。
「こんな所で生きているなんて思わなかったよ蓬莱山輝夜」
襖の無くなった敷居を跨いで蒼白髪の少女が姿を現す。縁側に立ち、庭に伏した輝夜を見下す。
そして、痛みを堪えるように緩慢な動作で輝夜の顔が上がる。
「まったく、無作法な客人だこと。親の顔が見てみたいわね」
「その親の顔は知っている筈だよ。藤原妹紅……藤原の名を知らぬとは云わせないさ」
瞬間、輝夜は驚きに眼を開き、少女の顔を眺める。
「藤原……懐かしい名だわ。そう、彼の娘の名前が確か妹紅と聞いたわ。話に聞いただけだったけれど」
妹紅の姿にいつか求婚をしてくれた貴族の顔を重ねてその懐かしさに眼を細める。
「貴女が。そう、確かに彼の面影が残っている」
「姫様!」
声と共に部屋から永琳が飛び出すが輝夜は落ち着いて目で制止する。
「永琳。私に縁のある客よ、相手は私がするわ」
永琳が口を結んだのを確認して輝夜はゆっくりと立ち上がり、服の汚れを掃う。
「ならば妹紅。人様の家にあがる時は挨拶をするものよ。父上に教わらなかったのかしら」
「父の作法よりもお前が怨恨を教えてくれたよ。私がこんな身になったのもお前のせいだからね」
“こんな身”その単語に確信を得た輝夜の目付きが変わる。
「なればその姿。薬を飲んだのね」
「お前も飲んでいるんだろう。何が月の民だ。何が月の姫だ……片腹痛い」
妹紅は庭に降り立ち輝夜の前へと歩を進める。
「月に帰るなどと、そもそも月なんかに帰れるはずが無い。お前も私と同じ住む場所を変えざるを得なかった人間なだけだ」
「あら、貴女は知らないのね。いい事を教えてあげるわ」
対峙した妹紅は片手で輝夜の着物の襟をつかみ持ち上げる。輝夜はそれを気にもせず言葉を続ける。
「人は月へ来た、その地へ自分達の旗を立てたらしいわ。人があんな遠いところへ昇るなんて、煙にでもなって昇ったのかしらね」
「……また下らない御伽噺か。貴様は父だけではなく私も愚弄して……」
輝夜の身体に火の手が上がる。苦痛に歪めた肌が焼け、服が炎をあげる。
「そんなに好きなら。貴様も常世に留まらず御伽噺になればいい」
炭になるその前に事切れた輝夜の身体を無造作に投げ捨てる。その死体から生まれた不死の煙は月まで届くことも無く、ただ空へと霧散していった。
「……え?」
/
日は暮れて夜が染まり。私は手ぶらで永遠亭の門に立っていた。
自分の不甲斐なさを悔やみ。商売道具を置いてきたことを師匠に云われると思うと気が重かった。
しかし、素直に師匠に怒られるべきなのだと。腹をくくり門をくぐったところで私は異変に気づいた。
「煙?」
庭のほうから流れてくるその匂いは風呂の薪などではない、料理でもしているのだろうか。
歩を進めてその光景を見る前に私の足元に何かが投げられた。
「……え?」
その“何か”が昼間に私にじゃれついていた姫様であると分かるのに数秒を要した。
何かの冗談としか思えないその光景に、私は腰が抜けてしまいへたり込んでしまう。
「……」
里で見かけた銀髪の少女が私の脇を通って門へと行ったがそれに反応することもできない。
言葉も出ない。落ち込んでいた次は絶望で、私は焼け焦げた姫様の遺体を見つめていた。
落ち込んでいた次は絶望で、頭の中がぐちゃぐちゃになってどうしていいのかも分からない。
そんな中でこみ上げるものがひとつあった。
あの人間は許せない。その怒りだけを持って私は駆け出した。
/
荒い息、吸っては吐いてを繰り返す私の目の前には先ほどの少女が立っている。警戒もなく里で会ったときのような様子で私に振り返った視線を向けている。
「兎が何の用事さ」
怒りなのか駆けたせいなのか自分でも分からない。頭に血が上り、全身が熱を帯びている、自分の身体が大きく脈動しているのがよく分かった。
「息を荒げて肝試しなんかするものじゃないけれどね。肝試しは風情を楽しむもんだ。……そうでないなら、あいつの仇討ちでもするつもりかい?」
さも当然。その態度が私の激情を更に逆撫でした。
「人間、よくも姫様を!あんなことをして只で済むと――
「――黙れ」
不意に怒気の籠った声と共に周囲の空気が歪む。一際大きく吹いた熱の風が竹林を揺らし、笹を散らした。
「因幡の焼兎にしてやろうか?」
熱? 赤い炎だ。姫様を焼いた紅蓮の炎、それが少女の背中で羽を広げて私を威嚇している。
たったそれだけ。圧倒的な力、滴る汗も蒸発してしまいそうなほどに、少女には勝てないのだと一目で理解させられた。
「限りのない命、その不条理も知らないくせに。知ったような口をぬけぬけと利く……」
少女は懐から取り出したスペルカードを手に、それを宣言する。
「私もあいつも化け物だ。死なない、そんな停滞はもはや生きてすらない」
不死“火の鳥 -鳳翼天翔-”
「私が孤独に時を過ごさねばならないのはあいつのせいだ。あいつの肩を持つ者も全て焼き払ってやる……」
焔が収束し、無数の火の鳥を形造る。そしてそれらが私に襲い掛かる。
今すぐ逃げ出したい、恐怖で身が震えそうだった。
それでも、私の足は逃げようともせずその歩を前へと踏み出せた。
「それが何だっ!!」
直線的な弾幕だ落ち着いて視れば私にでも避けれる!即座にこちらもスペルカードを取り出し宣言をする。
波符“赤眼催眠(マインドシェイカー)”
スペル宣言と同時に放った弾幕の一波が炎に薙がれ塵になった。
「いつも人を扱き使って!猿回しのように人を玩具にして!薬の実験台にもされて!」
弾が燃やし尽くされるその前に位相をずらして弾幕を相手の懐に運ぶ。
「月で仲間を見捨てた。こんな私を拾うような変わり者の人だ」
それでも弾幕が当たらない。避けられる、易々と。こんな小手先を駆使しても格の違いは埋まらない。
「だから、私は姫様を守る!そう誓ってそう決めた!」
「それを馬鹿だと云うんだよ。お前との付き合いも輝夜にとっては刹那の児戯さ」
「馬鹿と云われても……私は信じる以外は知らない!」
炎を抜けた先で少女のスペルカードが破裂する。それを見て大きく息を吐き出し、安堵する。
スペルブレイクしたなら体制を立て直さないとこれ以上は――
滅罪“正直者の死”
瞬きした次の瞬間、少女の手には次のスペルカードが在った。
四つの点、瞬きをする間にそれらが波を生み出し私を飲み込んでいく。
負ける。その確信が結果に変わろうとしたその時だった。
神宝“ブリリアントドラゴンバレッタ”
虹色の線が翼に突き立ち炎を引き裂き、虹色の珠が波を掻き消していった。
「永いか短いか、そんなものは些事よ。妹紅、貴女はもう少し“過程”の大切さを知るべきね」
ゆっくりと竹林の影から現れたその姿は、先ほど絶命したはずの姫様のものだった。
「ぐっ……ぁ」
「だけど先ほどの冗談は面白かったわ。御伽噺にしてくれるのなら是非とも貴女が語り継いでちょうだいな」
「姫様……なんで? さっき火傷で」
「御免なさいね。焼けた服の代わりを用意するのに時間が掛かったわ」
「輝夜……っ!のこのこと、まだ死に足りないかっ!」
妹紅は負った傷をものともせずに立ち上がる。
秘術“天文密葬法”
「代わりの服を洗濯していましたからね」
光輪が妹紅を囲み動きを奪う。そしてその囲みを弾幕が埋めていく。
「どうにか一着残っていたのは幸いでした」
同じように師匠が竹林の奥から姿を現す。
「湯浴みの後だったもの仕方ないわ。妹紅、今度訪ねる時は一報貰えればもてなしてあげられるのだけれど?」
「一報届けてしまったら。不意打ちでもさせてくれないだろうによく云う」
師匠の弾幕をいとも簡単に避けながら言うその実力、その余裕。改めて私には信じられない実力だった。
「油断はしたけれども。さて、貴女に不意打ち以外の策は残っているかしら」
「策? 不死者の殺し合いに策など必要ないだろう。己が身を案ずることくらいしてみたいものだ!」
その言葉に姫様の目がわずかに細められる。
「貴女も人ならば人としての生き方をしなさい。私と貴女は言葉が通じる、ならばその美徳を腐らせる理由はないでしょうに」
姫様を睨んでいただけの妹紅の眼、それが隠していた深い怨恨をチラつかせる。
「……白けた。月にも帰れずこそこそ隠れて腐っているお前が、そんなことを云っても説得力の欠片も感じないよ」
不滅“フェニックスの尾”
炎翼が周囲の光輪を薙ぎ払い。羽ばたきながら焔を吐き出す。
「……」
スペルを破られ新たなスペルカードを準備した永琳を輝夜は手で制す。
「そう。忠言はしたわ、せいぜい生きることをやめない事ね」
姫様は師匠ではなく私に視線を送る。その後ろで師匠がぼやく。
「今回は随分と私の扱いが酷いですね」
「信頼しているからこそよ。イナバ!」
師匠のため息を横に姫様のスペルが宣言される。
難題“仏の御石の鉢 -砕けぬ意思-”
「仕上げるわよ」
「はい!」
“真実の月(インビジブルフルムーン)”
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夜が開け、日が昇った頃。
妹紅は竹林の中、大の字で目を覚ました。
「殺られたのか……」
目に映るのは竹と空。その状況が戦いの結果を説明していた。
「くそっ」
それを理解して不甲斐のない自分が許せなかった。
「おお、生きていたのか。死んでいるかと心配したよ」
空を見ていた妹紅の視界に青い帽子に銀髪の娘が入り込んでくる。
「誰だ……?」
「上白沢という者だ、この竹林で人に会うとは思ってなかったが君は行き倒れかなにかなのか?」
「……」
「名くらいは名乗って貰えないか? それとも名を忘れているのなら無理は云わないが」
「?」
妹紅は何を思うのか、わずかな間と大きな深呼吸をして呟いた。
「……藤原 妹紅。お腹が空いて倒れてるんだよ」
あまりに素直なその言葉に虚を突かれたが上白沢慧音は微笑を浮かべて答えた。
「それは大変だ、握り飯で良ければちょうど持ち合わせている。一緒に食べようか」
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数十年後。
永夜異変からしばらく、姫様は隠れて暮らすことを止めた。
私はあの一件以後、数十年経った今も薬売りに従事している。
診ることができないのかと訊かれれば出来ると答えられるが。この眼だ、またいつ視線を交わしてしまうか薬を売るだけでも気を使ってしまう。それに眼だけでなく私自身も人間が苦手なようだ。時間に強く固執しているところだろうか、集団意識が強く他者に流されやすいところだろうか。嫌いというわけではないのだが、やはり相容れないものがどこかにある。
しかし、それを師匠や姫様に話すと“臆病者ね”と笑われてしまった。眼を合わす事すら出来ないのにそれを臆病というなんて無茶を云う。
「おーい。そこの兎は寝てるのか?」
気づくと、いつの間にやら妹紅さんが目の前に立っていた。
「あ、はい。入り用ですか」
あの時は食って掛かったものだがあれ以来、命のやり取りが日常の興事のようになってしまってからというもの彼女に対する私の警戒も薄れてしまった。
「半獣に効く腹痛の薬はあるかな。友人が倒れて唸ってるんだ」
「もちろんありますけど。慧音さんでしたらコレが効きますね」
「……」
かまを掛けても無反応。いや、要らぬ事を云った私への視線は強くなった気がする……。
「とりあえず一週分出しておきますね」
薬箱から薬を取り出していつもどおり料金と引き換えに手渡す。
「しかし珍しいですね。慧音さんは健康とかに気を遣っていそうなものですけど」
「どうも勿体無かったらしいよ」
「勿体無い……時間が勿体無いとか?」
「時間が惜しいから私が使いに来た? 口惜しいのは腹の痛みらしい。それに時間なら薬よりもメイドにでも頼むよ」
「それはそうですけど。じゃあなにが勿体無かったんですか」
「朝食の卵の様子がおかしくてな、私は煮るなり焼くなりしろと云ったのに生のまま醤油で飯にかけて食べるからこうなったんだよ」
「でも、それって勿体無いじゃなくて卵かけご飯が食べたかっただけじゃないんですか?」
「煮たり焼いたりが勿体無いらしい」
「なるほど」
「食わぬは一時の餓え、食うは一週の病。腐りものに手を出すべからず……さてと、客みたいだよ」
そういうと妹紅さんは手で挨拶をして帰っていった。そして、代わりの様に見覚えのある中年の男性がやってくる。
「久しぶりだなぁ優曇華様。来てるって聞いたんでやってきたぜ」
「今日はどうしたんです。また商売の邪魔しにきたんじゃないでしょうね」
あの日の男の子は病気も治り、数十年経ったいま元気にこうして顔を合わせにきてくれる。
「いきなりだなぁ。まぁ、世間話しにきてるだけじゃねぇか優曇華様の話はおもしろいから悪いんだよ」
「そう、じゃあ話さなければいいの?」
「そういわないでくれって、今日はちゃんと用事があるんだ。婆さんが腰痛いって云ってるんだよ」
「また、何か無茶でもしたんですか」
「家の掃除で家具持ち上げたらやっちまったみたいでな。まったく無茶するんだよ、男手があるのになんで使わないのやら」
「やっぱり母親のことが心配なんですね」
「変なこと訊かないでくれよ。家族なんだから当然だろ」
家族という単語に一抹の憧れを感じながら私は微笑を浮かべる。
「それはそれは羨ましい限り」
「何云ってんだ。優曇華様が病気になったら一家総出で見舞いにいってやるよ」
その言葉に彼が一家総出で迷いの竹林で迷っている様を夢想して苦笑がもれる。
「それに、羨ましいのはこっちもだ、優曇華様の家には心配してくれる人が山ほどいるんだろ」
「心配してくれない時は目も当てられないですけどね」
「それはそれは羨ましい限りだ」
互いに笑い会い。そろそろ本題にと思い薬箱から貼薬を探す。
「貼薬を出しますから、貼ってあげて安静にしてあげてください」
「あー、薬とかよくわかんねぇんだ。優曇華様が診てやってくんねぇか?」
その言葉と彼の意図に私は過剰に反応しながらたじろぐ。
「え?わ、私はそういう事はしないようにしているんですから。明日にでも師匠を呼んで……」
言い訳無用といった感じで薬箱を彼が取り上げもう片方の手で私の手を引く。
「優曇華様じゃないと駄目なんだよ。あんたが顔を見せてくれりゃそれが婆さんの薬になるんだからさ」
「あ、あの?」
「いいじゃねぇか、文字通り灸でも据えてやってくれよ」
「ちょ、ちょっと――
彼に引かれるがまま、つんのめりながら私は連れて行かれる羽目になった。
終
確かに公式の時系列としては違いますが「if」としてのパロディと捉えれば良作と言わざるをえない。
「優曇華」は「ウドンゲ」の方が分かりやすかったかな?些事ですが、セリフを遮られた時の鍵括弧の後ろをつけない方式は……まあ、大丈夫とは思いますが。中には書き方が間違っていると気になる人もいるらしいので、つけたほうが正しいですよ、とだけ言っておきますね。
次作にも期待してますよ?
感想として抱いた事ですが、どのキャラも真面目に生きている感じがよく表現されていると思います。
てゐはそんなに出てきませんが、どのキャラにも見せ場を作るのは難しいと思うので上出来でしょう。
控えめな鈴仙ちゃんにバンザイ!
いつも鈴仙はひどい弄られ方してばかりなので、
このくらいソフトなのは珍しいくらいかもしれませんね。だがそれがいい。
姫と妹紅のやりとりや、最後の妹紅のセリフがとても恰好良かったです。
言葉の端々に粋が感じられました。
あ、ちょっと小さくなる薬飲んで肺炎になってきますね。