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喧嘩をした。
原因なんて覚えていないけど、些細なことだったと思う。
悪いのは絶対私だけど、判ってはいたけれど、何故か引けなかった。
すぐに謝ればよかったのに、私は怒鳴り続けた。
私は、素直じゃないと思う。
みんなもきっとそう思ってるんだろうけど、改めて自分で気づいてみると、すごく悲しくなる。
素直じゃないけど、ちゃんと……多分、人の気持ちは判るから、私が素直じゃなくて、傷つく人も居て。
そんな時には、すごく後悔するけど、やっぱり後には引けなくて。
何でもない振りして家に帰ったら、気づかないうちに、泣いていたりする。
……ああ、もう。訳わかんなくなってきた。
今日は、家には帰らないでおこう。どこか遠くへ行ってしまおう。
家に帰ると、独りだって気づいてしまうと、また泣いちゃうから。
☆
鈴虫の鳴き声はすっかりと聞こえなくなり、代わりに幻想郷に舞い降りたのは、寒空と冬の妖精くらいのものだった。熊や狸の姿は、陽の光を弾く雪に埋もれ、めっきり見えなくなった。その反動か、うさぎの活動がいくぶん活発になった。いわゆる、例年通りの冬の訪れだ。
薄い日差しの差し込む竹林の中、凛と張った空気は、箒の紡ぐ風の音をよく通す。
白黒の魔法使い、霧雨魔理沙は、そんな中を当てもないままに、地面すれすれを飛んでいた。時折竹にかすり、バランスを崩しながらも、スピードを落とす気配は一向にない。手の甲が切れそうに冷たいのも、まるっきり無視した。
葉の磨れる音と、頭が軽くなる感じがした。
「くそっ……」
低い笹の葉の群れに大きな帽子が引っかかって、魔理沙は悪態をついた。それから急ブレーキを掛ける。しかし帽子を取りに戻ることはなく、その場にとどまったまま、箒の柄を強く握り締めた。
「くそっ……」
魔理沙はもう一度悪態をついて、深くうなだれる。
「くそっ……くそっ……」
「何してるの? こんなところで」
ふと、どこからか声がして、魔理沙はピクリと震えた。
こんな所に、人が居るとは。
しかし決して、顔は上げない。
「……お前こそ、こんなところでどうしたんだ」
相手の質問には返さず、魔理沙はうつむいたまま言った。平然を保ったつもりで、その声は上ずっていた。
声の主、八意永琳は、不可解そうに首をかしげながらも、きっちりと答える。
「見ない顔を見かけたから、寂しくないように声を掛けてあげたの。ウサギは寂しさで死んじゃうって、知ってるかしら?」
「私は、ウサギじゃないぜ」
魔理沙の返答にいまいち切れがないのを感じた永琳は、あごに左手を当て目線を下げて、その理由についての思案を始める。
それから数秒もたたずに、遠くで小鳥がさえずっているような、小さなしゃくり声が聞こえた。
驚いて顔を上げた永琳の眼に映ったのは、大粒の涙を惜しげもなく流す、いつもは見ぬ魔法使いの姿だった。
昼間の永遠亭に、永琳のほかに手の空いている者は居ない。てゐはうさぎ達と遊びに出ているし、鈴仙は夕飯の買出し。屋敷の主である姫様は――まあ、いろいろと忙しい。
だから、おいしいお茶を二人分、それとお茶請けの芋けんぴを用意するのに、誰かを呼びつけずに済んだ。
「巫女と喧嘩、ねえ」
珍しく一言も口を開かない魔理沙を放っておくほど、彼女の心は凍ってない。永琳は自分の研究室に彼女を引っ張り込み、ゆっくりと事情を話させた。要領を得なかった魔理沙の言葉も、まとめてみればこの一言で済む。
永琳は心中「なんだ、そんなことか」と思ったが、無論、一切声には出さない。若い――というよりも幼い――と言うのは、こういうことだったろうか。
唇に寄せた丸い湯飲みを、永琳は受け皿に戻した。
「何も難しいことは無いじゃない。謝れば済むことよ」
「でも……」
木製の椅子にちょこんと座ってうつむく魔理沙は、消え入るような声でつぶやいた。一方永琳は、柄にも無くうつむいてモジモジしている彼女を見て、心中ニヤニヤしていた。
しかし建前として、芋けんぴをかじりながら、一応の進言。
「そんなんじゃ、解決しないでしょう?」
コクリとうなずく魔理沙。永琳の意地悪な胸のときめきは、ますます深まる。
しばしの沈黙。遠くから、保湿のために火に掛けてある、ぺかぺかな薬缶の笛が、声高に鳴いた。こんな何ともない音にも、何故か笑みが漏れる。この間が面白いのだ、こういう状況下では。
「……私が悪いのも、馬鹿なのも、わかってるんだ」
魔理沙は唐突に、こう切り出した。
「へえ。それで」
「でも……」
「でも?」
またしばらくの間があって、それから魔理沙は、搾り出すようにこう言った。
「先に謝ると、負け――」
「くっ――あはははは――っ!」
ここで耐え切れなくなった永琳が、盛大に噴出した。よかった。お茶、口に含んでなくて。
笑い声がこだまする研究室の中、魔理沙は今にも泣きだしそうな顔で、椅子を蹴飛すほどの勢いで立ち上がる。
「なっ、なんだよっ!」
「あはははは――はあっ。だってっ、あなたがっ、あまりにもっ、可愛いことっ、言うから――」
息も絶え絶えここまで言った永琳は、再び笑い声を上げた。石造りの部屋に、甲高い音が木霊する。
「もういい、帰るっ!」
顔を真っ赤にしてきつく拳を握っている魔理沙が叫んでようやく、永琳は笑うのをやめた。
「はあ。ああ、まって、ごめんなさい。私が小さい頃もそうだったのかなあって」
「謝ってるのか? それとも馬鹿に――」
「前者よ、おおよそ」
永琳はそう言って、再び魔理沙に椅子を勧めた。魔理沙がしぶしぶ腰を下ろすのを見届けてから、自分のペースに引き込むための一言。
「ほら、元気になった」
魔理沙はポカンと口を空け、ふっくらした頬を更に膨らます。それから控えめに、それでいて思いっきり笑った。
「お前、そんな奴だったか?」
「毒の無い毒物を見ると、科学者は誰だって興奮するものよ」
「前言撤回。やっぱりいつものままだ」
魔理沙は軽口をたたいてから、もう一度微笑んだ。
それから互いに珍しい顔の二人は、芋けんぴをポリポリやりながら話しこんだ。とはいっても、魔理沙が一方的に喋り、永琳がそれに相槌を打つ形だったが。
最初は子供の話し相手なんて柄でもないと思っていた永琳も、自分の居場所にこういった環境はめったに無いためか、今では新鮮さのほかに、すこし楽しいとすら感じていた。
それに、あんまり巫女のことを喋るので、
「あなたって、本当に巫女のことが好きなのね」
なんて言ってやると、酔っ払ったように耳まで赤らめて慌てふためく少女が、可愛らしくて仕方なかった。
そして、やはり意地悪もしたくなった。
「何だ、これ?」
永遠亭の門を出たところで球体の小さな包みを受け取った魔理沙は、それを手のひらで転がした。
「ただの睡眠薬よ。嫌なことは眠って忘れなさいってこと。忘れれば、簡単に謝れるでしょう?」
「……ありがと」
魔理沙は錠剤を強く握り締め、感銘深くつぶやいた。ほんの少しの恥ずかしさに背けた横顔が紅に染まるのは、夕やけのせいだけではあるまい。
忘れてしまえば謝りようが無いなんてことを指摘する気も、魔理沙には毛頭無かった。
「まあ、対価はいつか貰いにいくわ」
「じゃあ返す」
「貰っときなさい」
薬を押し返された魔理沙は、苦いものを頬張ったかのように思いっきり顔をしかめて、それから少年のように顔をクシャクシャにして笑った。
「ありがたく受け取っとくよ。じゃあな」
「ええ。巫女によろしくね」
箒にまたがって飛び立ちながらそれを聞いた魔理沙は、大きな声で「馬鹿やろう」と叫んだ。それからいつも通りのハイスピードで竹林の中に姿を消した。
一人取り残された永琳は、幾分の喧騒から静寂を取り戻した永遠亭の正面で、
「うちのもあれくらい可愛かったらなあ」
と、腕組をしてひとりごちた。
★
魔法の森にも夜は例外なく訪れ、十六夜の月は世界を淡く照らした。今は雪こそ降っていないが、気をつけていないと、朝餉のために少しずつ削っている豆腐が、お天道様が歌いだすころには、かちかちに凍ってしまう。そんな寒さだった。
白いもこもこしたパジャマに着替えた魔理沙は、限界まで大きな伸びをして、それから暖炉の火を崩した。
「……今日は、疲れたぜ」
散った炎を見送りながら、魔理沙はひとり、感慨深くつぶやく。
多少の不安は、まだある。でも明日は、不器用な私にも上手くやれる気がする。今日一日を振り返って、また元気が出た気がした。
「お、そうだ」
永琳からのお土産を思い出した魔理沙は、壁に掛けてあるエプロンドレスのポケットをまさぐった。硬いものに指が触れる。摘み上げたのは、丸の包み。
睡眠薬とか言ってたっけ。
魔理沙は永遠亭でそうしたように、手のひらで包みを転がして遊んだ。遊びながら、味覚の問題から他人の調合した薬を服用した試しのない彼女は、少しだけ悩む。
これが無くても、もう良く眠れるほどの元気を取り戻したはずだ。でも、せっかく貰ったわけだし、ここはやはり飲んでおくべきだろうか。
ため息が漏れた。
「好意ってのは、受け取っとくものだぜ」
悩んだ自分をあざける様につぶやいて、魔理沙は包みを解く。
中から出てきたのはやはり球体で、緑だか青だか判らない色をしていた。匂いを嗅いでみると鼻が刺激されて、少しむせた。
「さぞかしよく効くんだろうな」
再び飲みたくない気持ちに駆られた魔理沙は、負けないように球体をにらむ。
それから数秒。水差しからコップに水をなみなみ注ぐ。それから意を決したようにうなづいて丸薬を口に放り込むと、水で一気に流し込んだ。
水が半分ほど無くなったところで、魔理沙は膝を折り、力なく倒れた。
なんて事にならないよう切に願う(;゚ω゚)
なんて、ならなあと良いけど…