現在の安楽を貪るうちに忘れてしまっていた過去も、無意識の領域が支配する夢の世界においては、時折り不意に顔を覗かせることがある。
『じゃあ、八坂様はこの世から消えてしまわれるのですか?』
『消えると言うか……引越しだね』
『人間を、お見捨てになると?』
『違うね。見捨てられたのは私たちの方さ』
『うっ……申し訳、ございません……』
『あ……もちろん早苗は別だよ? あなたがすごく頑張ってくれていることは、誰よりも私が良く知っている』
『いえ、私は未熟です。人々に信仰を説く努力が足りないせいで、こんなことに……』
『やぁねぇ、そんなこと全然思っては……』
『八坂様っ!』
『は、はい?』
『その幻想郷とやらに跳ぶためには、どれほどの神徳が必要なのでしょう?』
『んー……まぁ、今の私と諏訪子の分を合わせて、ギリギリ届くかどうか……』
『もし失敗すれば、どうなります?』
『消える、と思う。私たちの全てが』
『なるほど……心得ました』
『心得た、って……何をさ』
『不肖の身ゆえ、口惜しくも神代の頃ほどの信仰はお約束できませぬが。せめて幻想郷への移住が安らかに行われる程度には、お役に立ってご覧に入れます』
『はぁ……それはまぁ、嬉しいんだけど……』
『お、こんなところにいたんだね早苗ー! 見て見て、この広告!』
『げ、諏訪子! あんた、空気ってものを読みなさいよ!』
『は? なになに、どうしたの?』
『御用でしょうか、洩矢様』
『いや、このWiiの新作さぁ、面白そうだから一緒にプレイしたいなぁー……なんて!』
『申し訳ございません洩矢様。ゲームなどに現を抜かしている場合ではないのです』
『あ……そっか、もうすぐ中間テストだっけ? 悪い悪い、この話は忘れ……』
『学業以上に重要で、なおかつ切迫した務めができましたゆえ。これにて失礼いたします』
『え、ちょっと早苗……あーうー、行っちゃった』
『どうしちゃったのかしら、急に』
『さあねぇ』
過去の自分を見つめながら、神奈子はふと思う。
強靭で消えることの無い『神』を早苗が求め始めたのは、この時からだったのではないかと。
だとすれば……責任の大元は自分にこそある。
神奈子の眠りは、どこまでも深い。
「おっそいなぁ」
苛立ちを呟きながら、八雲紫は腕時計に目を遣る。
リチウム電池を動力源とするその盤面には、『外』では高名なブランドが刻まれている。
「19時36分。やれやれ、この期に及んでまぁだ迷ってるのかしらねぇ」
まさか、このまま暗闇の中で一晩中立ち尽くす羽目になるのか……と、ほんの一瞬だけ不安になる。
だがそれは、己の『計算』に寄せる絶大の自信がすぐに打ち消してくれた。
(……ま、もうちょっとの辛抱でしょ)
改めて気を楽にして、耳を澄ませてみる。
そうすれば、ほら。
不器用ながらも風を切る音が、聞こえてくるではないか。
紫は掌をまっすぐ、天に向かって突き出した。
月を覆っていた雲に広いスキマが生じる。
まるで舞台女優を照らすスポットライトのように、冷たい光が紫の姿を浮かび上がらせた。
「えっと、ちゃんと幻想郷縁起に載ってた地図の通りに進んだんだけど……」
「吹く風の調子が悪くて、思うようにスピードが出なかった……そんなところかしら」
四十分の遅刻を弁明しようとする早苗(玉串の代わりに、河童特許以下略のペンライトを手に持っていた)の声を、紫は優しく遮る。
信仰が揺らげば、風祝としての力も弱くなる。
それは当然の帰結だ。
と言うか、早苗は風祝の職務を放棄するつもり満々なのだ。
その決意は、語らずとも服装が証明している。
「カジュアルな格好も、似合ってるわよ。どこまでも可愛い子ねぇ」
早苗は顔を赤らめる。
ストレートに褒められると、照れを感じてしまうタイプなのであろう。
自意識過剰気味な住人ばかりが集う幻想郷において、早苗はやはり少し特殊な存在だったのだ。
「ここまで来る間、怖くはなかったかしら?」
「……妖怪に出会ったらどうしようか、ずっとドキドキしてた」
「そうでしょうね。本来なら、ここは凶暴なヤツらが人肉を求めて徘徊する危険スポットだもの」
しかし、早苗はついぞ交戦に至ることはなかった。
運が良かったのか、それとも紫があらかじめ何がしかの手を打っておいてくれたのか。
「どうしてこんな場所を待ち合わせに使うの?」
「ここは、『外』と『内』の境界が曖昧な場所。そして、誰もが近づくのを嫌う場所」
「余計な邪魔が入らない、ってわけね」
「あなたって賢い子よねぇ。向こうじゃきっと、良いカレシが見つかるわよ」
早苗をますます恥じ入らせる言葉をわざわざ口にしながら、紫は扇子を振りかざす。
「日の光は、目に見えるものの上にのみ降り注ぐ。けれど月の光は、逆に……不可視の世界を照らし出してくれるのよ」
空間が歪む。
砂利と石ばかりにまみれた歩きにくい道も、その両脇にずらり並んで咲き乱れる彼岸花も、何もかもが、霧に紛れるようにして消えた。
「今日は十三夜。満月ほどじゃないけど、通路を開くには……うってつけ」
そして早苗は、懐かしい風景に取り囲まれた。
アスファルトに舗装された歩道と、コンクリート製のビル群と、まばゆく林立する街路灯の群れとが、そこにあった。
自動車の排気臭が、鼻に痛い。
帰って、きちゃった。
実にあっけない。
それほど葛藤することも無く、自分は『神』を捨てることに成功した。
蒸し暑い日にソーダ水を一気飲みしたような爽快感が、早苗の胸中に湧き上がってくる。
私は……自由だ!
気ままで自分勝手な『神々』に振り回される日々は、終わった。
人間としての生を、人間である自分自身の手に取り戻すことが出来たのだ。
早苗は紫に向かい、直角に頭を下げた。
「ありがとうございます! 本当に感謝……」
「言葉だけの礼なんて、いらないわ」
「え?」
再び上げた頭に、閉じた扇子が静かに乗せられる。
「なっ……!」
強い眩暈が、した。
早苗は片膝を付き、地面にうずくまる。
「さて早苗ちゃん。今度はあなたが、私の願いを叶えてくれる番よ」
「どういう……意味……」
「ふふふ……自分の苗字、言えるかしら?」
この大妖怪は、どうしてそんなつまらないことを聞くのだろうか。
そんなの、決まってるじゃない。
私は……私は……
あれ?
あれ、あれ、あれ?
「困った子ねぇ。先祖代々続く姓を忘れちゃうなんて」
そんな、はずは、ない、のに。
「じゃあ、新しい苗字をあげる。今日から、八雲……八雲早苗と名乗りなさい」
そんな……はずは……
「もうひとつ質問よ。あなたがつい昨日まで主と慕っていた者たちの姿と名前……分かる?」
分からない。
それは、心の大きな部分を締めていたものであったはずなのに……どうして思い出せないのよっ!
「簡単なことよ。あなたの頭の中身を、ちょっとだけいじらせてもらったの」
消したのね?
私、記憶を?
「あはは、いくら私でも『在ったもの』を『無かったこと』にはできないわ。あくまで『記憶の境界』を操作しただけ……そうねぇ、パソコンに例えれば分かりやすいかしら。動作を重くする余計なプログラムを一度アンインストールし、その後まとめて圧縮してから隠しフォルダに放り込んだ、って感じかしら」
何それ、意味分かんない!
「別に分からなくてもいいわ。あなたは所詮、私の道具に過ぎないんだから」
道具……?
「そうよぉ。私が『外の世界』に進出するための、手助けをしてもらうわ」
それは、どういう意味……
「幻想郷はね、楽園の皮を被った牢獄なの。私が人間を支配する上で障害になりそうな存在を、自動的に誘い……平和ボケさせた上で閉じ込めるための箱庭。亡霊、鬼、それに、あなたの主たち……邪魔な輩は、ひと通り排除できた。最早『こちら側』に、私を止められる者はいないわ!」
ひどい!
騙したのね!
「何を言っているの? 私ってば、法螺は吹くけど嘘は吐かないことで有名なのに」
ふざけないで!
これが詐欺でなければ、何だって言うのよ!
「最初に渡した手紙には、『お供を大募集』するってちゃんと書いてあったじゃないの。それでノコノコついて来たのは、あなたの方でしょうに。全ては自己責任よ……くっくくく」
禍々しい高笑い。
早苗は本能的な恐怖に駆られるまま、風に乗ってその場から飛び去ろうとする。
だが、信仰を忘れてしまった『ただの人間』に、そのような奇跡が起こせようはずもない。
「いらっしゃい、八雲早苗」
「いやっ!」
腕を掴む手を振り払い、早苗は踵を返して逃げ出した。
途端、周囲の景観が一変する。
左右の足が交互に踏みつけているのは、確かに幻想郷の地面だ。
それでも肩越しに振り向けば……都市文明の景観が見えてしまう。
前を向いて走る限りは、侘しい荒れ野がひたすらに広がっているというのに。
「わぁぁぁぁぁ!」
恐怖に絶叫する。
ペンライトの乏しい光のみを道標に、早苗はひたすら一本道を疾走した。
「あらぁ? どうしちゃったのかしらぁ?」
ゆっくりとした足取りで、紫は早苗を追う。
その足並みに合わせ、『外の世界』もまた早苗に迫ってくる。
今や紫の存在そのものが、『内と外の境界』と化しているのだ。
「く、来るなぁ!」
ただ歩いているだけの相手が、どうして全力で走っている自分について来れるのだろう?
いや、相手は妖怪なんだ、常識の通じる相手じゃないんだ、とにかく捕まったら終わりなんだから逃げなくちゃいけない。
「弱い者は強い者に従うのが道理。そう言ったのはあなた自身じゃないの。そして、私は充分すぎるほど強い。万物の霊長と奢る人類でさえ、我が知と力には遠く及ばない。なのに……何故逃がれようとする、八雲早苗!」
「違うっ! わ、私は……はぁはぁ、そんな名前じゃ、ない……」
「じゃあ何なの? あなたは何者なわけ? ほぉらほら、言ってみなさいな」
……早苗は答えられない。
「ははぁ……もしかして、怖いの? 信じて、裏切られることが怖いのね? ふふ、それなら心配の必要はないわ。あなたが私に仕える限り、私はあなたを決して見捨てない。それどころか、思うがままの富と名誉を与えましょう。あなたの働きに応じた分だけ、私もあなたを大事にしてあげましょう」
「そんなのいらないよぉっ! だいたいどうして……よりによって……私なのよっ? 使えそうな人なんて、他にもいっぱいいるのにっ!」
「ニブい子ね。そんなの、あなたに知名度があるからに決まってるじゃない」
「……はぁ、はぁ、はぁ」
「『奇跡を起こす美少女、謎の失踪』……あなたが幻想郷に来てからというもの、マスコミはその話題で持ちきりなんだから」
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ」
足がもつれる。
体力の限界が近い。
「そこにあなたがフラッと帰ってきて、絶対者たる私からの御宣託を伝える……うふ、うふふふふ、我がデビューにふさわしい、一大センセーションが巻き起こるでしょうね!」
早苗は応えない。
これ以上、無駄に口を動かす余裕などない。
「憎いんでしょう? あなたの言葉に耳を傾けなかった者たちが。 見返したいでしょう? あなたの『信仰』を認めなかった俗世間を」
紫の言葉は鋭く、かつ甘い。
膝が震え出す。
「きゃうっ!」
角ばった石ころが、早苗をつまづかせた。
ペンライトは掌からすっぽ抜けてどこかへ飛んでいき、絶望の闇が視界を覆い尽くす。
擦り剥いた膝が熱くて、立ち上がれない。
「つーかまえたっ!」
やめて。
肩に爪を食い込ませないで。
痛い。
「こっちを向いて。よぉく私を見なさい」
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
両手で顔を覆う。
「今一度問う。汝にとって、神とは何ぞや? そは、まさに汝が眼前にこそあらんや?」
脳内が再フォーマットされる。
人生のメモリが真っ白になっていく。
『私』という個人の生は、ここで終わるのか。
悔しい。
どこで道を間違えちゃったんだろう。
こんなの、嫌だ。
助けて、誰か。
「泣いても喚いても無駄よ。だって、あなたは孤独な子でしょ?」
そうだ……私は疎まれ、見捨てられた人間。
「あなたのことなんて、だぁれも見ていないの。だから、全てを諦めて……」
『へぇ、新しく産まれた風祝ってのは、この子?』
『そうよ。なかなかの別嬪さんね』
『ふふ、成長が楽しみだわ』
『ええ、見守り甲斐があるってものよ』
なんだろう。
不思議な声が聞こえる。
耳の外じゃなくて内側から、響いてくる。
『早苗ー! 辛気臭い祝詞の奏上なんて後でいいから、お神酒持ってきてお神酒!』
『だーめっ! 早苗は、これから私と遊ぶんだもん! ねー早苗!』
私の心の奥底に住む誰かが、しきりに私を呼んでいる。
『あなた、私の姿が見えるのね! いや目出度い、こりゃ、諏訪子にもすぐに教えてあげないと!』
……誰?
『っと、申し遅れたわね。私は八坂神奈子。ここに大昔から住んでいる○○よ』
あれ、肝心な部分だけ聞きとれない。
『おや? 信じられない、って顔をしてるわね。はははは、それもそうか。いきなり現れて○○なんて名乗っちゃ、正気を疑われてもしょうがないわね』
だから、貴女は誰なの!
『ふふん。百聞は一見に如かず、さ。いざ聞けコチヤの末裔よ、今日という日を記念し、汝には○○に最も近き者としてふさわしき贈り物を与えようぞ』
あー、そうか。
私の苗字はコチヤ……『東風谷』だ。
大事なことを、ひとつ思い出せた。
……それはそうと、贈り物って?
『あなた、空を自由に飛びたいと思ったことはある?』
え?
『答えて。あるの? ないの?』
ある……けど。
『じゃ、飛ばせてあげるわ。今、ここで』
……そんなの無理だよ。
人間には、翼なんて生えてはいないんだから。
『おやおや、賢しいねぇ。そんな夢のない子を言う子には……』
ん……あ……ええっ?
足が、地面から離れて……!
『奇跡を起こす程度の能力を、授けちゃうんだから! あーはっはっはっ!』
嘘でしょっ!
『あははは、全ては見ての通りよ! 嘘なんかじゃない。誰もが信じないような事……誰もが諦めてしまっているような事を成し遂げるのが、奇跡ってものよ。どうやらあなたには、そのための力が生まれつき備わっていたみたいね』
ちょ、そんな説明はいいから!
早く地面に降ろして下さい!
このままじゃ私、どこに飛んで行っちゃうか分からないよぉ!
『あら、もう降りちゃうの?』
これって結構おっかないですそれに高いところって寒いし!
『ならば風に、その化身たる私に、祈りなさいな。そうすれば、天地一切の恵みがあなたに味方してくれるわ』
祈る……
それだけで、いいの?
『そう。○○は、常に人の傍に在る。いつでも、どこでも、あなたと一緒に道を歩んでいる。そう信じる心こそが、私たちの力の源なのよ』
じゃ、じゃあ……ええと……
かしこみかしこみ申す、貴女の凄さはよく分かりましたので、どうか我が身を再び地面に……
『まあまあ、そんなに慌てると損をするよ? まずは深呼吸して、それから真下の景色を眺めてご覧なさいよ』
え、景色……?
「うわあ、すごいっ!」
見渡す限り秋の色に染まった、山と湖。
その全景が網膜に映った瞬間、私は美しさのあまり息が止まりそうになった。
私を包んでいる世界はこんなにも素晴らしいものであったのかと、瞼の裏が焼けるように熱くなった。
あの体験こそ、私の原点。
これだけは、何者にも奪えやしない。
空白に食い荒らされた記憶が、再び彩りを取り戻していく。
ああ、私はとんでもない愚か者だった。
私は捨てられたんじゃない。
私が勝手に見誤って、勝手に拗ねていただけ。
全部、思い出した。
私……つまり最後の風祝である東風谷早苗は、遠い回り道を経て、ようやく完全なかたちで蘇った。
ならば、することはひとつ。
祈りを、風に乗せるんだ。
神様!
助けてっ!
「あー、食った食ったウマかった! 秋はやっぱりキノコ鍋だよな!」
「ちょっと魔理沙、食べてすぐ横になると牛になるわよ?」
「マツタケもいいけど、味ならやっぱりシメジが一番だ。昔から、シメジあっての物種!って言うぐらいだしな」
「言いません。人の話を聞きなさい。ついでに後片付けも手伝って」
「へいへい……あ、牛で思い出したんだけど、アレってどうなったんだ、アレ」
「あんたの発言はいつも唐突な上に脈絡がなくて困るわ。何よアレって」
「ほらアレっつったらアレだよ。例の、牛小屋だか犬小屋だか兎罠だかが大量発生したっつー……」
「とりあえず、その三つは全くの別物よね。一応、言いたいことはギリギリで理解できたけど」
「解決したのか?」
「解決も何も……放っておくことにしたわ」
「え! なんで?」
「信仰のかたちは千差万別、邪魔しちゃ悪いわ」
「んー?」
「これ、見て」
「は? 鍋敷きの板がどうかしたのか?」
「調査のために、適当なグロ犬小屋をひとつだけ運んで、バラしてみたの。これは、その建築資材だったものよ」
「ほぉう、それは興味深い……おや、なんか書いてあるな……うわ、金釘を無理矢理ひん曲げたような、ひどい字だぜ」
「読める?」
「へん、私をナメるな。私の書く字は、この数十倍は汚い」
「哀しい自慢もあったものねぇ。ま、それはとにかく音読してみてよ」
「了解。ええと、なになに……」
『さいきょー よーせい がんばって つくった
けろちゃん かなこ わりと だいすきだし』
「あー。これってもしかして、いわゆるひとつの分社ってやつなのか」
「そ。多分、山の上にふんぞり返るあいつらのものよ」
「……こんなもん造ってもらって、喜ぶ神様もいないと思うが」
「あら。そこに偽りなき信仰が篭められている限り、どんな捧げ物でも何がしかの役に立つものよ」
「ほう。例えば、どんな?」
「うちの鍋敷き」
「こらこら」
再思の道に、ごくごく局地的な強風が吹く。
その発生源は、道端にひっそりと建っているみすぼらしい祠だ。
左右の大きさのバランスがおかしい扉を突き破り、風の奔流が轟々!と唸りながら飛び出す。
それはまるで自らの意思を持つかのごとく、他には目もくれず紫のみを狙って殺到する。
「な……なぁぁぁぁっ!?」
幻想郷を代表する実力者としては珍しく、紫は驚愕に目を剥いた。
せっかく開いた『境界』は、跡形も無く吹き飛ばされてしまった。
自らの発した風圧によって崩壊寸前の祠を除き、辺りにはもう、人工物の姿は見受けられない。
「私のスキマに、物理的な現象で干渉するなんて……嘘よっ!」
「嘘ではない。信じようと信じまいと、我は確かに此処に在る」
風が止む。
砂埃の立ちこめる中、うずくまる早苗を庇うようにして、四本の石柱を背負ったシルエットが浮かび上がる。
「増長ぞ。薄昏き間隙を這い回る……鼠めがっ!」
憤激に燃え立つ視線に押されるがまま、紫は冷や汗を流しつつ後ずさる。
「あ、あーら八坂の神様。今宵のオンバシラは一層ご立派で……」
「黙れ。消えよ」
ぱちん、神奈子が指を鳴らす。
それを合図に、鎮まっていた風が再び荒れ狂う。
「きゃあっ……!」
甲高く一声叫んで、紫は鎌鼬の嵐の中に消えた。
「ちっ」
神奈子は舌打ちする。
手応えは、無かった。
恐らく、スキマの中へ咄嗟に飛び込んで難を逃れたのだろう。
さて、追撃すべきかどうか。
体内に残っているなけなしの信仰を使えば、まだ戦うこともできよう。
しかし、それでは……
「……早苗、立てる?」
肩を貸す。
この歴代の中で最も融通無碍な風祝は、神奈子にとっても、その友人にとっても、特別な人間なのだ。
今一番大切なのは、彼女の傍に付いていてあげることだと、神奈子は即断した。
「あの、神奈子様……」
「ごめんっ!」
謝ろうとした矢先に、逆に謝られた。
さらに、ぎゅうっと力いっぱい、体を抱きしめられた。
「本当に、済まなかった……あなたの気持ちを、ずっと無視していて……」
紫に見せつけたような険しさは、すでに神奈子の中から抜け落ちていた。
「そんな。わ、私は……」
「苦しかったよね、すごく……」
「……私こそ、いっぱい神奈子様を困らせてしまって……」
「いいの。もう、いいのよ……」
神も、人も、黙って涙を流しあった。
そうして、お互いを見失いかけていたことを、赦しあった。
「ぐすん……なんだか、ちょっと……寒くなってきたね。ははは」
「はい……」
両者、泣きながら笑っている。
「……そろそろ、帰りましょうか。お腹も、空いたし」
「はい」
「今日の晩御飯、まだだったよね。何を作ってくれるのかしら?」
その言葉で、早苗の全ては報われた。
「おいしいものを!」
繋いだ手は、温かい。
やや歪んだ月の前を、一柱とひとりがゆっくりと横切って行く。
その姿を、四つの……いや六つの目が、大地に開くスキマの間から見上げている。
「イレギュラーな要素も様々に介入し、一時はどうなるかと思いましたが」
「結果オーライ!」
「雨降って地固まる、と言ったところですかね」
「そりゃあ、私は蛙の神だもん。及時雨の腕前にかけては天下一よ」
「ははは、なるほど。確かに、今回の策は実に見事なものでした」
「いやいや、あんたの主人が協力してくれなきゃ、こうも上手くはいかなかったさ」
「紫様は、三度の食事よりも回りくどい悪戯を好まれる方ですから」
「ん。単なる悪戯と言うには、ちょいと仕込みが過ぎていたんじゃ……」
互いに苦笑しながら、諏訪子と藍はスキマを抜け出す。
夜風が気持ちいいや、と諏訪子は思った。
「これだけ大袈裟なドッキリを仕掛けられなきゃ、見つめあうことすらできないなんて。まったく、手の焼ける家族だよ!」
「ふむ。家族、ですか」
「ああ。家族、だね」
言い切る口調に、迷いはない。
「それだけに……ペテンにかけちまって、心が痛いけどね」
しばし、瞑目。
「ふふ……殴られる程度で済めばいいんだけど」
「……洩矢神は、ご立派です」
「おやおや、褒めても飴玉ぐらいしか出ないよ?」
「ほう、頂戴できるのですか?」
「いーや。もし持ってれば、の話さ」
「それは残念。では、菓子の代わりに別のお願いをさせていただきましょうか」
「パワーバランスが云々、って話かい?」
「如何にも」
「分かってるよ。神奈子も山の一味も調子に乗りすぎないよう、しっかり手綱を握っておくさ」
「オブザーバー役のみならず、よく働く巫女の存在も重要なのです。布教を行うなら、山の上にも下にも、妖怪にも人間にも、等しく小まめに接していただかないと」
「心配ないよ。麓の紅白と違って、早苗は真面目だからね」
「ありがたいことです」
「むしろ、過労死の心配をしなくちゃいけないかも」
「そうなったら、今度こそ本当に荷物をまとめて逃げ出してしまうでしょうな」
「あーうー! 怖い冗談はやめてよ!」
「ははははは、失礼をば。では、私はこの辺で……」
「おっと、帰る前にひとつだけ聞かせておくれよ」
「何でしょう?」
「本当に山の勢力を弱めたいんだったら、私の頼みを途中で断るべきじゃなかったのかい?」
「……そのココロは?」
「スキャンダルのせいで、幻想郷の異物たる私たちは大いに弱ってたんだ。下手に動かず、自滅を待っていても……」
『幻想郷は、全てを受け入れる』
不意に、スキマが喋り出した。
『それはとても残酷なこと……けれど、均質なケの日ばかりが続くコスモスよりも、厄介なハレの連続によって構成あれるカオスの方が、ずっと面白いですわ。ね、そうは思われませんこと?』
胡散臭い賢者、かく語りき。
人の噂も七十五日。
だが神の醜聞は、その半分以下で消え去った。
なぜなら……幻想郷の住民は、基本的に忘れっぽいからだ。
神湖の一部が、地熱を利用した本格的な温泉として作り変えられたことも大きい。
醜聞は、新しいレジャーの評判にあっさりと上書きされた。
なお。
諏訪子の告白は、殴られるどころか……神奈子のデコピン一発で済まされた。
「そんなことだろうと思ったわ! あれだけ強く呼ばれていたのに、あんただけ来てなかったんだもの」
「八雲紫の話も、後から考えれば奇妙なことだらけですし」
「私に花を持たせておいて、自分は黒幕を気取りなんざ……一億年早いのよ、全く!」
「そうですよ! 神奈子様と私だけ幸せになったって、意味がありません。三者三様に揃ってこその、守矢神社です!」
神社を去ることすら念頭に置いていた諏訪子は、この展開にまず拍子抜けし、次に涙腺を緩ませた。
こうして妖怪の山は、以前にも増して賑やかな日常を取り戻したのだった。
「出て来い、大ガマッ!」
氷精の大声が、沼に集う蛙たちの合唱を打ち消した。
「日頃の恨みを晴らしてやるっ! いざ、じんじょーに勝負!」
ケロちゃんと一緒に、ずっと厳しい(けど楽しい)トレーニングに励んできた。
それに今日のお昼には、早苗の作るおいしいご飯をたっぷりご馳走になってきた。
体力気力、共に大絶賛充実中っ!
「さあさあさあさあ! 最強への第一歩として、まずはあんたをコテンパンにしてや……」
「ゲッコォォォォォ!」
沼から巨体が飛び出し、一口必殺の構えでチルノに襲い掛かる。
「ちょ……いきなりは卑怯よまだスペルカード宣言も心の準備もできて、ない、あ、わ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ぱくっ。
最強の道、陽炎て遠し。
「久しぶりだね、宇宙人っ!」
改良を加えた温泉の素を持って再び湖を訪れた永琳を、待ってましたとばかりに諏訪子が呼び止める。
「これはこれは。お久しゅうございます、洩矢神」
「来たからには、勝負だよっ!」
「えっ?」
問答無用で永琳の手首をひっつかむと、諏訪子は猛スピードで高みへと飛び立った。
湯に浸かる者たちは、いったい何事かと顔を天に向けた。
「あの、どういうおつもりで」
「勝負だっ!」
「と、申しますと?」
「あの、ゴルゴなんとかってスペル……攻略してやるよ!」
「ほほう」
永琳は感心したように、少しだけ顎を持ち上げた。
「何か……神なりに悟るものがあったようですね」
「うちの子が教えてくれたんだよ。神と人の間にある距離は、無限遠のようでいて無限近だってね」
「ふむふむ」
「つまり……例え月と地球との間ぐらい距離が離れていたとしても、信じる心を忘れない限り、心の絆が切れることはない! ずばり、そういうことさ!」
びしり、諏訪子は人差し指をカッコよく永琳に突きつけた。
……そして、照れた。
「あーうー! つ、ついうっかりカッコよすぎること言っちゃったわ!」
「お見事です」
素直に感心する永琳。
かつて海外より火薬式の銃砲が伝わったことで有名な島に、現在は巨大な宇宙ロケット基地が建っている。
そこで宇宙に夢を飛ばす者たちは、打ち上げの前に毎回必ず、玉依姫を祀る地元の神社に参拝するのが慣わしだと聞く。
人間は普段、神の存在を忘れている。
だが、ただ「忘れている」だけで、相互の繋がりを完全に「消し去った」わけではない。
「それにも関わらず……絆を取り戻す努力を忘れ、現状を嘆くばかりの神ばかり」
「私も、同類になりかけていたってわけだね。敗因は……それさ!」
「ふふふ、タネを暴かれてしまいましたね。ならば、今日は別の技でお相手しましょう」
「え、ええええええ! なんでだよー!」
「あら、勝ち目のない試合なんて御免ですもの」
「うう……散々イメージトレーニングを積んできたのに……今さらそんな……」
「初見のスペルを見切る自信をお持ちでないのなら、やめておきますが」
「ははん! それこそ御免だっつーの! それなら私も、得意の祟符を切らせてもらうよ!」
「楽しみですわ」
視線と視線がぶつかり、激しい火花が散る。
諏訪子に目をつけられた者は皆、なんだかんだでノリが良くなってしまうのだ。
湖上に広がっては消える弾幕の華を肴に、神奈子は次から次へと杯をあおっている。
どうやら今回の呑み比べコンテストも、彼女が大いにリードしているようだ。
「あひゃひゃひゃひゃ、らんだいどいつもひょいつも! たかが十升程度で顔色変えるらんて情けないわのねぇ!」
豪語する神奈子自身、そろそろ呂律が怪しくなっている。
健康のためにもあまり呑みすぎないよう、普段から風祝にきつくたしなめられているのだが、この楽しみだけはどうしても止められそうにない。
(どうせ明日は休肝日、今日のうちにめいっぱい呑み溜めしておかないと!)
そんな本末転倒なことを考えながら、神奈子は腰に手を当てて……
一気!
やんや、やんや。
遠くから聞こえてくる歓声を聞きながら、早苗はゆっくりと竹箒を動かし、本殿の前の落ち葉を拾い集める。
片付けなければならない量は、日に日に減ってきている。
冬が近い。
(親交すなわち信仰、か)
いつか神奈子が口にしていた、掛詞だ。
その真意を、今の早苗は理解しつつある。
だからこそ、いつか再び――今度は妖怪の誘惑などではなく、あくまで自分の意思によって――『外の世界』に戻る必要があると、最近の早苗は強く思うようになっていた。
『現人神』として奉られていた頃、私は間違った『神』の姿を人々に押し付けてしまった。
間違いは、正さねばならない。
それに……あんなに愉快な神様たちに会えるのが「幻想」の中だけだなんて、すごく勿体無いことだもの!
この地での信仰が磐石となったら、早苗は旅立ちの許可を貰うつもりでいる。
空の色がくすんでいる『外』において、布教の道を歩むのは辛く険しいものだ。
それでも、胸の中に「山」が在る限り……いつでも、どこでも、笑顔で生きていけるということを、早苗は知っている。
「精が出ますねぇ」
射命丸文が、何の前触れも無く早苗の前に降り立った。
「こんにちは。そちらも、相変わらずスクープ探しに余念がないようで」
「いつぞやは……どうも済みませんでしたね」
神社は、蘇った。
その様を目の当たりにした現在、文は、自分のペンが滑り過ぎたことを悔いている。
「いえ。あれは、私にとって良い薬でした」
「あやや? なんだか……雰囲気が変わりましたね」
「そうですか? 以前と同様の、うるさいけど楽しい神社だと思いますけど」
「いいえ。変わったのは此処ではなく、あなたの方でしょうよ」
そこでインタビューなんですが、と前置きして、文は手帳を開く。
「幻想郷で最もクールかつホットな行楽地として再び注目を集めているご気分は、いかがですか?」
鴉天狗の新聞記者がそう訪ねれば、
「最高、の一言!」
にっこりと、早苗は答えた。
(了)
『じゃあ、八坂様はこの世から消えてしまわれるのですか?』
『消えると言うか……引越しだね』
『人間を、お見捨てになると?』
『違うね。見捨てられたのは私たちの方さ』
『うっ……申し訳、ございません……』
『あ……もちろん早苗は別だよ? あなたがすごく頑張ってくれていることは、誰よりも私が良く知っている』
『いえ、私は未熟です。人々に信仰を説く努力が足りないせいで、こんなことに……』
『やぁねぇ、そんなこと全然思っては……』
『八坂様っ!』
『は、はい?』
『その幻想郷とやらに跳ぶためには、どれほどの神徳が必要なのでしょう?』
『んー……まぁ、今の私と諏訪子の分を合わせて、ギリギリ届くかどうか……』
『もし失敗すれば、どうなります?』
『消える、と思う。私たちの全てが』
『なるほど……心得ました』
『心得た、って……何をさ』
『不肖の身ゆえ、口惜しくも神代の頃ほどの信仰はお約束できませぬが。せめて幻想郷への移住が安らかに行われる程度には、お役に立ってご覧に入れます』
『はぁ……それはまぁ、嬉しいんだけど……』
『お、こんなところにいたんだね早苗ー! 見て見て、この広告!』
『げ、諏訪子! あんた、空気ってものを読みなさいよ!』
『は? なになに、どうしたの?』
『御用でしょうか、洩矢様』
『いや、このWiiの新作さぁ、面白そうだから一緒にプレイしたいなぁー……なんて!』
『申し訳ございません洩矢様。ゲームなどに現を抜かしている場合ではないのです』
『あ……そっか、もうすぐ中間テストだっけ? 悪い悪い、この話は忘れ……』
『学業以上に重要で、なおかつ切迫した務めができましたゆえ。これにて失礼いたします』
『え、ちょっと早苗……あーうー、行っちゃった』
『どうしちゃったのかしら、急に』
『さあねぇ』
過去の自分を見つめながら、神奈子はふと思う。
強靭で消えることの無い『神』を早苗が求め始めたのは、この時からだったのではないかと。
だとすれば……責任の大元は自分にこそある。
神奈子の眠りは、どこまでも深い。
「おっそいなぁ」
苛立ちを呟きながら、八雲紫は腕時計に目を遣る。
リチウム電池を動力源とするその盤面には、『外』では高名なブランドが刻まれている。
「19時36分。やれやれ、この期に及んでまぁだ迷ってるのかしらねぇ」
まさか、このまま暗闇の中で一晩中立ち尽くす羽目になるのか……と、ほんの一瞬だけ不安になる。
だがそれは、己の『計算』に寄せる絶大の自信がすぐに打ち消してくれた。
(……ま、もうちょっとの辛抱でしょ)
改めて気を楽にして、耳を澄ませてみる。
そうすれば、ほら。
不器用ながらも風を切る音が、聞こえてくるではないか。
紫は掌をまっすぐ、天に向かって突き出した。
月を覆っていた雲に広いスキマが生じる。
まるで舞台女優を照らすスポットライトのように、冷たい光が紫の姿を浮かび上がらせた。
「えっと、ちゃんと幻想郷縁起に載ってた地図の通りに進んだんだけど……」
「吹く風の調子が悪くて、思うようにスピードが出なかった……そんなところかしら」
四十分の遅刻を弁明しようとする早苗(玉串の代わりに、河童特許以下略のペンライトを手に持っていた)の声を、紫は優しく遮る。
信仰が揺らげば、風祝としての力も弱くなる。
それは当然の帰結だ。
と言うか、早苗は風祝の職務を放棄するつもり満々なのだ。
その決意は、語らずとも服装が証明している。
「カジュアルな格好も、似合ってるわよ。どこまでも可愛い子ねぇ」
早苗は顔を赤らめる。
ストレートに褒められると、照れを感じてしまうタイプなのであろう。
自意識過剰気味な住人ばかりが集う幻想郷において、早苗はやはり少し特殊な存在だったのだ。
「ここまで来る間、怖くはなかったかしら?」
「……妖怪に出会ったらどうしようか、ずっとドキドキしてた」
「そうでしょうね。本来なら、ここは凶暴なヤツらが人肉を求めて徘徊する危険スポットだもの」
しかし、早苗はついぞ交戦に至ることはなかった。
運が良かったのか、それとも紫があらかじめ何がしかの手を打っておいてくれたのか。
「どうしてこんな場所を待ち合わせに使うの?」
「ここは、『外』と『内』の境界が曖昧な場所。そして、誰もが近づくのを嫌う場所」
「余計な邪魔が入らない、ってわけね」
「あなたって賢い子よねぇ。向こうじゃきっと、良いカレシが見つかるわよ」
早苗をますます恥じ入らせる言葉をわざわざ口にしながら、紫は扇子を振りかざす。
「日の光は、目に見えるものの上にのみ降り注ぐ。けれど月の光は、逆に……不可視の世界を照らし出してくれるのよ」
空間が歪む。
砂利と石ばかりにまみれた歩きにくい道も、その両脇にずらり並んで咲き乱れる彼岸花も、何もかもが、霧に紛れるようにして消えた。
「今日は十三夜。満月ほどじゃないけど、通路を開くには……うってつけ」
そして早苗は、懐かしい風景に取り囲まれた。
アスファルトに舗装された歩道と、コンクリート製のビル群と、まばゆく林立する街路灯の群れとが、そこにあった。
自動車の排気臭が、鼻に痛い。
帰って、きちゃった。
実にあっけない。
それほど葛藤することも無く、自分は『神』を捨てることに成功した。
蒸し暑い日にソーダ水を一気飲みしたような爽快感が、早苗の胸中に湧き上がってくる。
私は……自由だ!
気ままで自分勝手な『神々』に振り回される日々は、終わった。
人間としての生を、人間である自分自身の手に取り戻すことが出来たのだ。
早苗は紫に向かい、直角に頭を下げた。
「ありがとうございます! 本当に感謝……」
「言葉だけの礼なんて、いらないわ」
「え?」
再び上げた頭に、閉じた扇子が静かに乗せられる。
「なっ……!」
強い眩暈が、した。
早苗は片膝を付き、地面にうずくまる。
「さて早苗ちゃん。今度はあなたが、私の願いを叶えてくれる番よ」
「どういう……意味……」
「ふふふ……自分の苗字、言えるかしら?」
この大妖怪は、どうしてそんなつまらないことを聞くのだろうか。
そんなの、決まってるじゃない。
私は……私は……
あれ?
あれ、あれ、あれ?
「困った子ねぇ。先祖代々続く姓を忘れちゃうなんて」
そんな、はずは、ない、のに。
「じゃあ、新しい苗字をあげる。今日から、八雲……八雲早苗と名乗りなさい」
そんな……はずは……
「もうひとつ質問よ。あなたがつい昨日まで主と慕っていた者たちの姿と名前……分かる?」
分からない。
それは、心の大きな部分を締めていたものであったはずなのに……どうして思い出せないのよっ!
「簡単なことよ。あなたの頭の中身を、ちょっとだけいじらせてもらったの」
消したのね?
私、記憶を?
「あはは、いくら私でも『在ったもの』を『無かったこと』にはできないわ。あくまで『記憶の境界』を操作しただけ……そうねぇ、パソコンに例えれば分かりやすいかしら。動作を重くする余計なプログラムを一度アンインストールし、その後まとめて圧縮してから隠しフォルダに放り込んだ、って感じかしら」
何それ、意味分かんない!
「別に分からなくてもいいわ。あなたは所詮、私の道具に過ぎないんだから」
道具……?
「そうよぉ。私が『外の世界』に進出するための、手助けをしてもらうわ」
それは、どういう意味……
「幻想郷はね、楽園の皮を被った牢獄なの。私が人間を支配する上で障害になりそうな存在を、自動的に誘い……平和ボケさせた上で閉じ込めるための箱庭。亡霊、鬼、それに、あなたの主たち……邪魔な輩は、ひと通り排除できた。最早『こちら側』に、私を止められる者はいないわ!」
ひどい!
騙したのね!
「何を言っているの? 私ってば、法螺は吹くけど嘘は吐かないことで有名なのに」
ふざけないで!
これが詐欺でなければ、何だって言うのよ!
「最初に渡した手紙には、『お供を大募集』するってちゃんと書いてあったじゃないの。それでノコノコついて来たのは、あなたの方でしょうに。全ては自己責任よ……くっくくく」
禍々しい高笑い。
早苗は本能的な恐怖に駆られるまま、風に乗ってその場から飛び去ろうとする。
だが、信仰を忘れてしまった『ただの人間』に、そのような奇跡が起こせようはずもない。
「いらっしゃい、八雲早苗」
「いやっ!」
腕を掴む手を振り払い、早苗は踵を返して逃げ出した。
途端、周囲の景観が一変する。
左右の足が交互に踏みつけているのは、確かに幻想郷の地面だ。
それでも肩越しに振り向けば……都市文明の景観が見えてしまう。
前を向いて走る限りは、侘しい荒れ野がひたすらに広がっているというのに。
「わぁぁぁぁぁ!」
恐怖に絶叫する。
ペンライトの乏しい光のみを道標に、早苗はひたすら一本道を疾走した。
「あらぁ? どうしちゃったのかしらぁ?」
ゆっくりとした足取りで、紫は早苗を追う。
その足並みに合わせ、『外の世界』もまた早苗に迫ってくる。
今や紫の存在そのものが、『内と外の境界』と化しているのだ。
「く、来るなぁ!」
ただ歩いているだけの相手が、どうして全力で走っている自分について来れるのだろう?
いや、相手は妖怪なんだ、常識の通じる相手じゃないんだ、とにかく捕まったら終わりなんだから逃げなくちゃいけない。
「弱い者は強い者に従うのが道理。そう言ったのはあなた自身じゃないの。そして、私は充分すぎるほど強い。万物の霊長と奢る人類でさえ、我が知と力には遠く及ばない。なのに……何故逃がれようとする、八雲早苗!」
「違うっ! わ、私は……はぁはぁ、そんな名前じゃ、ない……」
「じゃあ何なの? あなたは何者なわけ? ほぉらほら、言ってみなさいな」
……早苗は答えられない。
「ははぁ……もしかして、怖いの? 信じて、裏切られることが怖いのね? ふふ、それなら心配の必要はないわ。あなたが私に仕える限り、私はあなたを決して見捨てない。それどころか、思うがままの富と名誉を与えましょう。あなたの働きに応じた分だけ、私もあなたを大事にしてあげましょう」
「そんなのいらないよぉっ! だいたいどうして……よりによって……私なのよっ? 使えそうな人なんて、他にもいっぱいいるのにっ!」
「ニブい子ね。そんなの、あなたに知名度があるからに決まってるじゃない」
「……はぁ、はぁ、はぁ」
「『奇跡を起こす美少女、謎の失踪』……あなたが幻想郷に来てからというもの、マスコミはその話題で持ちきりなんだから」
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ」
足がもつれる。
体力の限界が近い。
「そこにあなたがフラッと帰ってきて、絶対者たる私からの御宣託を伝える……うふ、うふふふふ、我がデビューにふさわしい、一大センセーションが巻き起こるでしょうね!」
早苗は応えない。
これ以上、無駄に口を動かす余裕などない。
「憎いんでしょう? あなたの言葉に耳を傾けなかった者たちが。 見返したいでしょう? あなたの『信仰』を認めなかった俗世間を」
紫の言葉は鋭く、かつ甘い。
膝が震え出す。
「きゃうっ!」
角ばった石ころが、早苗をつまづかせた。
ペンライトは掌からすっぽ抜けてどこかへ飛んでいき、絶望の闇が視界を覆い尽くす。
擦り剥いた膝が熱くて、立ち上がれない。
「つーかまえたっ!」
やめて。
肩に爪を食い込ませないで。
痛い。
「こっちを向いて。よぉく私を見なさい」
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
両手で顔を覆う。
「今一度問う。汝にとって、神とは何ぞや? そは、まさに汝が眼前にこそあらんや?」
脳内が再フォーマットされる。
人生のメモリが真っ白になっていく。
『私』という個人の生は、ここで終わるのか。
悔しい。
どこで道を間違えちゃったんだろう。
こんなの、嫌だ。
助けて、誰か。
「泣いても喚いても無駄よ。だって、あなたは孤独な子でしょ?」
そうだ……私は疎まれ、見捨てられた人間。
「あなたのことなんて、だぁれも見ていないの。だから、全てを諦めて……」
『へぇ、新しく産まれた風祝ってのは、この子?』
『そうよ。なかなかの別嬪さんね』
『ふふ、成長が楽しみだわ』
『ええ、見守り甲斐があるってものよ』
なんだろう。
不思議な声が聞こえる。
耳の外じゃなくて内側から、響いてくる。
『早苗ー! 辛気臭い祝詞の奏上なんて後でいいから、お神酒持ってきてお神酒!』
『だーめっ! 早苗は、これから私と遊ぶんだもん! ねー早苗!』
私の心の奥底に住む誰かが、しきりに私を呼んでいる。
『あなた、私の姿が見えるのね! いや目出度い、こりゃ、諏訪子にもすぐに教えてあげないと!』
……誰?
『っと、申し遅れたわね。私は八坂神奈子。ここに大昔から住んでいる○○よ』
あれ、肝心な部分だけ聞きとれない。
『おや? 信じられない、って顔をしてるわね。はははは、それもそうか。いきなり現れて○○なんて名乗っちゃ、正気を疑われてもしょうがないわね』
だから、貴女は誰なの!
『ふふん。百聞は一見に如かず、さ。いざ聞けコチヤの末裔よ、今日という日を記念し、汝には○○に最も近き者としてふさわしき贈り物を与えようぞ』
あー、そうか。
私の苗字はコチヤ……『東風谷』だ。
大事なことを、ひとつ思い出せた。
……それはそうと、贈り物って?
『あなた、空を自由に飛びたいと思ったことはある?』
え?
『答えて。あるの? ないの?』
ある……けど。
『じゃ、飛ばせてあげるわ。今、ここで』
……そんなの無理だよ。
人間には、翼なんて生えてはいないんだから。
『おやおや、賢しいねぇ。そんな夢のない子を言う子には……』
ん……あ……ええっ?
足が、地面から離れて……!
『奇跡を起こす程度の能力を、授けちゃうんだから! あーはっはっはっ!』
嘘でしょっ!
『あははは、全ては見ての通りよ! 嘘なんかじゃない。誰もが信じないような事……誰もが諦めてしまっているような事を成し遂げるのが、奇跡ってものよ。どうやらあなたには、そのための力が生まれつき備わっていたみたいね』
ちょ、そんな説明はいいから!
早く地面に降ろして下さい!
このままじゃ私、どこに飛んで行っちゃうか分からないよぉ!
『あら、もう降りちゃうの?』
これって結構おっかないですそれに高いところって寒いし!
『ならば風に、その化身たる私に、祈りなさいな。そうすれば、天地一切の恵みがあなたに味方してくれるわ』
祈る……
それだけで、いいの?
『そう。○○は、常に人の傍に在る。いつでも、どこでも、あなたと一緒に道を歩んでいる。そう信じる心こそが、私たちの力の源なのよ』
じゃ、じゃあ……ええと……
かしこみかしこみ申す、貴女の凄さはよく分かりましたので、どうか我が身を再び地面に……
『まあまあ、そんなに慌てると損をするよ? まずは深呼吸して、それから真下の景色を眺めてご覧なさいよ』
え、景色……?
「うわあ、すごいっ!」
見渡す限り秋の色に染まった、山と湖。
その全景が網膜に映った瞬間、私は美しさのあまり息が止まりそうになった。
私を包んでいる世界はこんなにも素晴らしいものであったのかと、瞼の裏が焼けるように熱くなった。
あの体験こそ、私の原点。
これだけは、何者にも奪えやしない。
空白に食い荒らされた記憶が、再び彩りを取り戻していく。
ああ、私はとんでもない愚か者だった。
私は捨てられたんじゃない。
私が勝手に見誤って、勝手に拗ねていただけ。
全部、思い出した。
私……つまり最後の風祝である東風谷早苗は、遠い回り道を経て、ようやく完全なかたちで蘇った。
ならば、することはひとつ。
祈りを、風に乗せるんだ。
神様!
助けてっ!
「あー、食った食ったウマかった! 秋はやっぱりキノコ鍋だよな!」
「ちょっと魔理沙、食べてすぐ横になると牛になるわよ?」
「マツタケもいいけど、味ならやっぱりシメジが一番だ。昔から、シメジあっての物種!って言うぐらいだしな」
「言いません。人の話を聞きなさい。ついでに後片付けも手伝って」
「へいへい……あ、牛で思い出したんだけど、アレってどうなったんだ、アレ」
「あんたの発言はいつも唐突な上に脈絡がなくて困るわ。何よアレって」
「ほらアレっつったらアレだよ。例の、牛小屋だか犬小屋だか兎罠だかが大量発生したっつー……」
「とりあえず、その三つは全くの別物よね。一応、言いたいことはギリギリで理解できたけど」
「解決したのか?」
「解決も何も……放っておくことにしたわ」
「え! なんで?」
「信仰のかたちは千差万別、邪魔しちゃ悪いわ」
「んー?」
「これ、見て」
「は? 鍋敷きの板がどうかしたのか?」
「調査のために、適当なグロ犬小屋をひとつだけ運んで、バラしてみたの。これは、その建築資材だったものよ」
「ほぉう、それは興味深い……おや、なんか書いてあるな……うわ、金釘を無理矢理ひん曲げたような、ひどい字だぜ」
「読める?」
「へん、私をナメるな。私の書く字は、この数十倍は汚い」
「哀しい自慢もあったものねぇ。ま、それはとにかく音読してみてよ」
「了解。ええと、なになに……」
『さいきょー よーせい がんばって つくった
けろちゃん かなこ わりと だいすきだし』
「あー。これってもしかして、いわゆるひとつの分社ってやつなのか」
「そ。多分、山の上にふんぞり返るあいつらのものよ」
「……こんなもん造ってもらって、喜ぶ神様もいないと思うが」
「あら。そこに偽りなき信仰が篭められている限り、どんな捧げ物でも何がしかの役に立つものよ」
「ほう。例えば、どんな?」
「うちの鍋敷き」
「こらこら」
再思の道に、ごくごく局地的な強風が吹く。
その発生源は、道端にひっそりと建っているみすぼらしい祠だ。
左右の大きさのバランスがおかしい扉を突き破り、風の奔流が轟々!と唸りながら飛び出す。
それはまるで自らの意思を持つかのごとく、他には目もくれず紫のみを狙って殺到する。
「な……なぁぁぁぁっ!?」
幻想郷を代表する実力者としては珍しく、紫は驚愕に目を剥いた。
せっかく開いた『境界』は、跡形も無く吹き飛ばされてしまった。
自らの発した風圧によって崩壊寸前の祠を除き、辺りにはもう、人工物の姿は見受けられない。
「私のスキマに、物理的な現象で干渉するなんて……嘘よっ!」
「嘘ではない。信じようと信じまいと、我は確かに此処に在る」
風が止む。
砂埃の立ちこめる中、うずくまる早苗を庇うようにして、四本の石柱を背負ったシルエットが浮かび上がる。
「増長ぞ。薄昏き間隙を這い回る……鼠めがっ!」
憤激に燃え立つ視線に押されるがまま、紫は冷や汗を流しつつ後ずさる。
「あ、あーら八坂の神様。今宵のオンバシラは一層ご立派で……」
「黙れ。消えよ」
ぱちん、神奈子が指を鳴らす。
それを合図に、鎮まっていた風が再び荒れ狂う。
「きゃあっ……!」
甲高く一声叫んで、紫は鎌鼬の嵐の中に消えた。
「ちっ」
神奈子は舌打ちする。
手応えは、無かった。
恐らく、スキマの中へ咄嗟に飛び込んで難を逃れたのだろう。
さて、追撃すべきかどうか。
体内に残っているなけなしの信仰を使えば、まだ戦うこともできよう。
しかし、それでは……
「……早苗、立てる?」
肩を貸す。
この歴代の中で最も融通無碍な風祝は、神奈子にとっても、その友人にとっても、特別な人間なのだ。
今一番大切なのは、彼女の傍に付いていてあげることだと、神奈子は即断した。
「あの、神奈子様……」
「ごめんっ!」
謝ろうとした矢先に、逆に謝られた。
さらに、ぎゅうっと力いっぱい、体を抱きしめられた。
「本当に、済まなかった……あなたの気持ちを、ずっと無視していて……」
紫に見せつけたような険しさは、すでに神奈子の中から抜け落ちていた。
「そんな。わ、私は……」
「苦しかったよね、すごく……」
「……私こそ、いっぱい神奈子様を困らせてしまって……」
「いいの。もう、いいのよ……」
神も、人も、黙って涙を流しあった。
そうして、お互いを見失いかけていたことを、赦しあった。
「ぐすん……なんだか、ちょっと……寒くなってきたね。ははは」
「はい……」
両者、泣きながら笑っている。
「……そろそろ、帰りましょうか。お腹も、空いたし」
「はい」
「今日の晩御飯、まだだったよね。何を作ってくれるのかしら?」
その言葉で、早苗の全ては報われた。
「おいしいものを!」
繋いだ手は、温かい。
やや歪んだ月の前を、一柱とひとりがゆっくりと横切って行く。
その姿を、四つの……いや六つの目が、大地に開くスキマの間から見上げている。
「イレギュラーな要素も様々に介入し、一時はどうなるかと思いましたが」
「結果オーライ!」
「雨降って地固まる、と言ったところですかね」
「そりゃあ、私は蛙の神だもん。及時雨の腕前にかけては天下一よ」
「ははは、なるほど。確かに、今回の策は実に見事なものでした」
「いやいや、あんたの主人が協力してくれなきゃ、こうも上手くはいかなかったさ」
「紫様は、三度の食事よりも回りくどい悪戯を好まれる方ですから」
「ん。単なる悪戯と言うには、ちょいと仕込みが過ぎていたんじゃ……」
互いに苦笑しながら、諏訪子と藍はスキマを抜け出す。
夜風が気持ちいいや、と諏訪子は思った。
「これだけ大袈裟なドッキリを仕掛けられなきゃ、見つめあうことすらできないなんて。まったく、手の焼ける家族だよ!」
「ふむ。家族、ですか」
「ああ。家族、だね」
言い切る口調に、迷いはない。
「それだけに……ペテンにかけちまって、心が痛いけどね」
しばし、瞑目。
「ふふ……殴られる程度で済めばいいんだけど」
「……洩矢神は、ご立派です」
「おやおや、褒めても飴玉ぐらいしか出ないよ?」
「ほう、頂戴できるのですか?」
「いーや。もし持ってれば、の話さ」
「それは残念。では、菓子の代わりに別のお願いをさせていただきましょうか」
「パワーバランスが云々、って話かい?」
「如何にも」
「分かってるよ。神奈子も山の一味も調子に乗りすぎないよう、しっかり手綱を握っておくさ」
「オブザーバー役のみならず、よく働く巫女の存在も重要なのです。布教を行うなら、山の上にも下にも、妖怪にも人間にも、等しく小まめに接していただかないと」
「心配ないよ。麓の紅白と違って、早苗は真面目だからね」
「ありがたいことです」
「むしろ、過労死の心配をしなくちゃいけないかも」
「そうなったら、今度こそ本当に荷物をまとめて逃げ出してしまうでしょうな」
「あーうー! 怖い冗談はやめてよ!」
「ははははは、失礼をば。では、私はこの辺で……」
「おっと、帰る前にひとつだけ聞かせておくれよ」
「何でしょう?」
「本当に山の勢力を弱めたいんだったら、私の頼みを途中で断るべきじゃなかったのかい?」
「……そのココロは?」
「スキャンダルのせいで、幻想郷の異物たる私たちは大いに弱ってたんだ。下手に動かず、自滅を待っていても……」
『幻想郷は、全てを受け入れる』
不意に、スキマが喋り出した。
『それはとても残酷なこと……けれど、均質なケの日ばかりが続くコスモスよりも、厄介なハレの連続によって構成あれるカオスの方が、ずっと面白いですわ。ね、そうは思われませんこと?』
胡散臭い賢者、かく語りき。
人の噂も七十五日。
だが神の醜聞は、その半分以下で消え去った。
なぜなら……幻想郷の住民は、基本的に忘れっぽいからだ。
神湖の一部が、地熱を利用した本格的な温泉として作り変えられたことも大きい。
醜聞は、新しいレジャーの評判にあっさりと上書きされた。
なお。
諏訪子の告白は、殴られるどころか……神奈子のデコピン一発で済まされた。
「そんなことだろうと思ったわ! あれだけ強く呼ばれていたのに、あんただけ来てなかったんだもの」
「八雲紫の話も、後から考えれば奇妙なことだらけですし」
「私に花を持たせておいて、自分は黒幕を気取りなんざ……一億年早いのよ、全く!」
「そうですよ! 神奈子様と私だけ幸せになったって、意味がありません。三者三様に揃ってこその、守矢神社です!」
神社を去ることすら念頭に置いていた諏訪子は、この展開にまず拍子抜けし、次に涙腺を緩ませた。
こうして妖怪の山は、以前にも増して賑やかな日常を取り戻したのだった。
「出て来い、大ガマッ!」
氷精の大声が、沼に集う蛙たちの合唱を打ち消した。
「日頃の恨みを晴らしてやるっ! いざ、じんじょーに勝負!」
ケロちゃんと一緒に、ずっと厳しい(けど楽しい)トレーニングに励んできた。
それに今日のお昼には、早苗の作るおいしいご飯をたっぷりご馳走になってきた。
体力気力、共に大絶賛充実中っ!
「さあさあさあさあ! 最強への第一歩として、まずはあんたをコテンパンにしてや……」
「ゲッコォォォォォ!」
沼から巨体が飛び出し、一口必殺の構えでチルノに襲い掛かる。
「ちょ……いきなりは卑怯よまだスペルカード宣言も心の準備もできて、ない、あ、わ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ぱくっ。
最強の道、陽炎て遠し。
「久しぶりだね、宇宙人っ!」
改良を加えた温泉の素を持って再び湖を訪れた永琳を、待ってましたとばかりに諏訪子が呼び止める。
「これはこれは。お久しゅうございます、洩矢神」
「来たからには、勝負だよっ!」
「えっ?」
問答無用で永琳の手首をひっつかむと、諏訪子は猛スピードで高みへと飛び立った。
湯に浸かる者たちは、いったい何事かと顔を天に向けた。
「あの、どういうおつもりで」
「勝負だっ!」
「と、申しますと?」
「あの、ゴルゴなんとかってスペル……攻略してやるよ!」
「ほほう」
永琳は感心したように、少しだけ顎を持ち上げた。
「何か……神なりに悟るものがあったようですね」
「うちの子が教えてくれたんだよ。神と人の間にある距離は、無限遠のようでいて無限近だってね」
「ふむふむ」
「つまり……例え月と地球との間ぐらい距離が離れていたとしても、信じる心を忘れない限り、心の絆が切れることはない! ずばり、そういうことさ!」
びしり、諏訪子は人差し指をカッコよく永琳に突きつけた。
……そして、照れた。
「あーうー! つ、ついうっかりカッコよすぎること言っちゃったわ!」
「お見事です」
素直に感心する永琳。
かつて海外より火薬式の銃砲が伝わったことで有名な島に、現在は巨大な宇宙ロケット基地が建っている。
そこで宇宙に夢を飛ばす者たちは、打ち上げの前に毎回必ず、玉依姫を祀る地元の神社に参拝するのが慣わしだと聞く。
人間は普段、神の存在を忘れている。
だが、ただ「忘れている」だけで、相互の繋がりを完全に「消し去った」わけではない。
「それにも関わらず……絆を取り戻す努力を忘れ、現状を嘆くばかりの神ばかり」
「私も、同類になりかけていたってわけだね。敗因は……それさ!」
「ふふふ、タネを暴かれてしまいましたね。ならば、今日は別の技でお相手しましょう」
「え、ええええええ! なんでだよー!」
「あら、勝ち目のない試合なんて御免ですもの」
「うう……散々イメージトレーニングを積んできたのに……今さらそんな……」
「初見のスペルを見切る自信をお持ちでないのなら、やめておきますが」
「ははん! それこそ御免だっつーの! それなら私も、得意の祟符を切らせてもらうよ!」
「楽しみですわ」
視線と視線がぶつかり、激しい火花が散る。
諏訪子に目をつけられた者は皆、なんだかんだでノリが良くなってしまうのだ。
湖上に広がっては消える弾幕の華を肴に、神奈子は次から次へと杯をあおっている。
どうやら今回の呑み比べコンテストも、彼女が大いにリードしているようだ。
「あひゃひゃひゃひゃ、らんだいどいつもひょいつも! たかが十升程度で顔色変えるらんて情けないわのねぇ!」
豪語する神奈子自身、そろそろ呂律が怪しくなっている。
健康のためにもあまり呑みすぎないよう、普段から風祝にきつくたしなめられているのだが、この楽しみだけはどうしても止められそうにない。
(どうせ明日は休肝日、今日のうちにめいっぱい呑み溜めしておかないと!)
そんな本末転倒なことを考えながら、神奈子は腰に手を当てて……
一気!
やんや、やんや。
遠くから聞こえてくる歓声を聞きながら、早苗はゆっくりと竹箒を動かし、本殿の前の落ち葉を拾い集める。
片付けなければならない量は、日に日に減ってきている。
冬が近い。
(親交すなわち信仰、か)
いつか神奈子が口にしていた、掛詞だ。
その真意を、今の早苗は理解しつつある。
だからこそ、いつか再び――今度は妖怪の誘惑などではなく、あくまで自分の意思によって――『外の世界』に戻る必要があると、最近の早苗は強く思うようになっていた。
『現人神』として奉られていた頃、私は間違った『神』の姿を人々に押し付けてしまった。
間違いは、正さねばならない。
それに……あんなに愉快な神様たちに会えるのが「幻想」の中だけだなんて、すごく勿体無いことだもの!
この地での信仰が磐石となったら、早苗は旅立ちの許可を貰うつもりでいる。
空の色がくすんでいる『外』において、布教の道を歩むのは辛く険しいものだ。
それでも、胸の中に「山」が在る限り……いつでも、どこでも、笑顔で生きていけるということを、早苗は知っている。
「精が出ますねぇ」
射命丸文が、何の前触れも無く早苗の前に降り立った。
「こんにちは。そちらも、相変わらずスクープ探しに余念がないようで」
「いつぞやは……どうも済みませんでしたね」
神社は、蘇った。
その様を目の当たりにした現在、文は、自分のペンが滑り過ぎたことを悔いている。
「いえ。あれは、私にとって良い薬でした」
「あやや? なんだか……雰囲気が変わりましたね」
「そうですか? 以前と同様の、うるさいけど楽しい神社だと思いますけど」
「いいえ。変わったのは此処ではなく、あなたの方でしょうよ」
そこでインタビューなんですが、と前置きして、文は手帳を開く。
「幻想郷で最もクールかつホットな行楽地として再び注目を集めているご気分は、いかがですか?」
鴉天狗の新聞記者がそう訪ねれば、
「最高、の一言!」
にっこりと、早苗は答えた。
(了)
いやまあ悔しくないですけれどね。どうも夜中はテンションが上がってしまいます。
さて感想をば。さん。
話し全体の流れは、とても自然に進んでいたと思います。
主人公格の神様達のキャラが、なんとも人間臭くて目を細めてしまいました。あんな重い流れなのにねえ。
ぞんがい神様も心は弱いようで、なんというかその弱々しい姿を覗いていたら、抱きしめたくなったといいますか。とても好感が持てました。
ちなみに自分は阿呆なので、最後の最後まで家族仲修復作戦を画策したのが諏訪子様だと気付きませんでした。
読後感がなんとも清々しく、気持ちが良いです。次作があるならば、やあ楽しみ楽しみ。
ところでチルノはお馬鹿さんだから半殺しにされたことを忘れたのかなw
まあ、妖精の気質か。もしくは子供の無邪気さ寛容さが、その出来事を呑み込んだんですかね。
まとまりのない感想で申し訳ない限りでござる。
ケロちゃんでご飯三杯は余裕。
やっぱり可愛いんです。神様なのにね。
嫌いな結末ではないんですけど、あれだけの悲壮感が随分とあっけらかんと片づいちゃったのがちとひっかかりました。
なにより完結お疲れさまです。
チルノへの行為を広められたというのにこの結果は、ちょっと納得いかないです
所詮妖精だからって忘れさられたって事はありそうだけども、でもやはり不満。
早苗が神様と仲直りした後に、天狗との妖怪の山の居住を巡るドラマとか、チルノと早苗の関係修復とか、そんなのがあってもよかったかもしれませんね。
なくてもいいかもしれませんけど。判りませんわ。
シリーズ通してとても楽しめました。ありがとうございます。
次にも期待。
そういえば、冷蔵庫に関しては誤解して怒ってたよね。あれは妖怪たち側が謝るべきじゃないかな?
それらを含めて
チルノ関連(チルノ本人と新聞及びそれによる事態)が、「え、それで終わり!?」ていう感じでした。
でも、他の方も言われてるように、チルノと早苗の事とか、冷蔵庫の一件とかがすっぱり無いのが・・・
ちょっと尻切れトンボ気味なのが残念です。なんらかの形でフォローが欲しいかも・・・
しかしこの最終話を読んでの率直な感想は、もったいないなあ、と。
他の方も述べられていますが、
あっさり終わらせすぎていて、それまでのドロドロの展開からのカタルシスと、
ハッピーエンドたる説得力が足りないかなと思いました。
序盤~中盤の伏線めいたものも回収しきれていない気がします。
次回作にも期待させて頂きます。
とはいえ、あなたの描く幻想郷の住人は素晴らしかった。
特に洩矢一家は本当に。
次回作にも期待しております。
展開が急すぎるとか言われてますが、どろどろした関係を
延々と述べていくよりはこうした歌劇的なテンポの方が、
神を語る物語としてはふさわしいと思います。
ゆかりんかっけえ・・・ゆかりんにならこの世界支配されてもいい・・・
ケロちゃん!
かっわいい!
かわいいいいいいいいいいい!
かーわーいーすーぎーるーるーるーるー……
最低
マイナス点が無いのが残念でしょうがない
面白く読んでたのにぶち壊し
展開もちょっと急すぎて、ついていけなかった感もあります。