(作品集46「序」より、つづき)
● 天畿楽事件! ~ Without distinction of the stone and star ! ●
輝き。
次いで、像を結ぶ景色。
やや遅れて空気の味、ざわめく森の音。
幻想の山道の、草深き薫り。
更に重ねてもう一度、輝き。
はっとするほどに、あるいは信じがたいほどに煌く、夜とも思えぬ夜の星空。
そして来る、私ならぬ者の意識、その追認。
食べた記憶の反芻。
それに伴い、遠のいていく私自身。
一時領域の占拠。
誰とも知れぬ誰かが、己語りに思い起こすような、主体を失った第三象限の口述。
舞台の第一幕。
騒ぎの正面玄関での出来事。
○ 舞台 一 ○
** 【夜中の晴天。人歩飛妖の道】
ぱぁぁーーーー・・・ん、という爽快な音が響いた。
真昼のように明るい真夜中の空に、リグル・ナイトバグが爆ぜる音だった。
粉々の幻想に砕けたその体の構成要素が夏の空気を通して輝き、色とりどりにさんざめいて、やがて何も無くなった。
彼女という妖怪の実相を現世に留めるよりしろであった肉体が、苛烈なる敵の攻撃に耐えられなくなった結果だった。
この程度のことで消えてなくなる儚さであり、また似たようなこの程度のことで蘇る当たり前さのあらわれ。
暫くは季節外れの蟲に脅かされることもないだろう、気の毒なことに――といって、そんな平穏は精々がところ三日も続けばいい方である。
幻想郷という囲いの中にある限り、妖怪が失われることは無い。
それに、後からすれば、リグルにとってその場で実相を失ったのは幸運であったことが判る。
“騒ぎ”に巻き込まれずに済んだ彼女は、巻き込まれたが為に全ての済んだ後暫く《鳴り》を潜めざるを得なくなった他の妖怪と比べ、晩夏を忙しく楽しく、そしてりんりんと五月蝿く過ごすことが出来たのだから。
その時その場所には、もう一人の幸運な妖怪がいた。
幸運な、という表現はつまり、リグルに同じく、その時点においては限りなく不幸であったということだ。
不日見のアズマドラゴン、深き土の友、土竜妖怪タルピー・エウロスカプターは、ただ見ていた。
リグルが立ち現れて、立ち向かい、たちどころに消し去られるまでの顛末、及び、彼女を屠った加害者を。
(あー・・・負けちゃったか。そりゃ、相手が悪いよねぇ)
その名を挙げることは、微かながらリグルやタルピーへの同情の念を呼び起こさせることに繋がる。
薄茶色のサングラスをかけたポンチョ姿の少女妖怪は、そう思いながら密かに合掌した。
それは仕方ないと。
あれは最強なのだからと。
(勝てっこないのに歯向かったのは、あれか。飛んで火に入る何とやら)
性質の悪い謙虚さなど持ち合わせず極めて激しく自己主張するのが妖怪の信条というものだが、そんな彼女たちにもおいそれと最強を自称できない理由が、この幻想郷にはあった。
一つに、基本的には真顔でそんなことを言えるのは馬鹿だけだと思う程度の知性が備わっていること。
一つに、本当に強い妖怪はそんな態度をおくびにも出さないのだという知識を既得していること。
最後に、最大にして、それこそ最強の理由が一つ。
そう自称していることが知れたら、彼女が真っ先に潰しに来ること。
だから、幻想郷でおおっぴらに最強を自称するのはおよそ二名しか数えられない。
先の全ての理由を全く気にせず、また三つ目の理由の根拠によって何度と無く潰されようとも全く懲りない、ある意味で最強と言って言えなくもない、湖上の氷精チルノと。
正しく先の三つ目の理由の根拠そのものであるところの眠れる恐怖、四季のフラワーマスター。
最強の妖怪、風見幽香。
妖怪の無敵、八雲紫と並び称される万年の花妖である彼女は、中空にいる自分を見上げて怯える土の妖怪に一瞥してすぐ、その仕草を真似るように、最早そちらには全く気を払わず空を仰いだ。
夜蟲の怪リグル・ナイトバグを圧倒的な火力、絶対的な花力で押し潰し、スペルカード一枚振るわずに勝利したその顔は、いつも人里に降りる時に見せる穏やかな微笑みと何ら変わるところなく落ち着き払っている。
(何してるのかしら? ・・・なーんて、聞きにいったら、問答無用っぽいしなぁ。こわいこわい。っていうか、強すぎ)
その様子がまた、一介の土怪でしかないタルピーに否応無い恐怖を与えており、そうした恐れ、畏怖心が、彼女にも備わる妖怪本来の闘争心をさえ押さえつけ、彼女の側から幽香に仕掛けるような無謀の選択肢を消し去っていた。
少しでも動けば、リグルの二の舞となる。
彼女はそうした確信を根拠に、いつでも土中に逃げられるよう肩から下を地に潜らせた格好のまま威圧感に身を震わせていた。
その有様を妖怪について無知である人間が見たとしたら、さても臆病な化け物がいたものだと思うことだろう。
さにあらず。
タルピーは人間のように、肉体的なダメージによる苦痛、そこから至る死への無意識に対して恐怖しているのではない。
何故なら、基本的に妖怪は死ぬことが無いからだ。
妖怪の根源は精神なのである。
であるからこそ、彼女は必要以上の恐怖を風見幽香から受け取っているのだった。
世に長じた巨怪を除けば、彼らの殆どは純粋な精神の持ち主であり、人間と比べてはるかに真っ当な性根で生きている。
言い換えれば、素直ということだ。
(うー、怖い。はやくどっか行ってくれないかなぁ)
はなとゆめを操る程度の能力を持つ大恐慌の権化を前に負けん気を保つには、タルピーの経年では荷が勝ちすぎるのだった。
微笑んで空を、明るすぎる夜空を眺め見る幽香は、普段着と同じく紅白チェックの、けれど普段より飾った感の強いドレスを身に纏い、そのスカートを風に靡かせて、正しくその名の通りの風見をしている。
視線は空のある一点を捉えて離さない。
(ああ、もう、目がしぱしぱする・・・首痛い・・・頭がボーっとしてきた・・・)
地面と中空という決定的な距離、及び大本が土竜であるという化生としての特性から、タルピーの細い瞳が幽香の見るものを正確に把握することはできなかったが、しかし花妖の醸す雰囲気からある程度のことは察せられた。
機を測っている・・・何かを待っているらしく、超然と空に佇んでいる。
何かとは何であるかについて、タルピーは多くの考えを持つには至らない。
それ以前に、幽香ほどの妖怪が機を読む必要のある事態の可能性など、今の彼女には考えたくもなかった。
(あの空が・・・あいつを・・・呼んでる、のかな? だとしたら、なんて余計なことをしてくれるんだろう!)
そんな風に悪態をつくのが精一杯である。
そうして、タルピーから幽香、幽香から空の一点という一方通行のにらめっこは、関係性の真ん中にある幽香がポジションを変化させない限りいつまでも続くかのように思われた。
だが。
空の明るさがどうにかなるのでも、幽香がとうとう機を制し動き出すのでも、タルピーの頭が極度の緊張でとうとうどうにかなるのでもなく、全く別の応力によってその場は崩される。
それに最も早く気付いたのは、これまた幽香でもタルピーでも、はたまた現在絶賛再生中のリグルでもなく、偏った形に対峙するタルピーと幽香とを遠くから固唾を呑んで見守っていた近隣の小さな燐火、灯りの妖怪フレア・ホーミングレイだった。
もっとも、フレアがその変化に気付いた時にはもう手遅れで、何だろう、何かが変だな、と思えたのは、全くの一瞬だったのだ。
その変化の正体を彼女が知るのは、リグルよりもやや遅れて十数日を経た後に再生し終えるまで待つことになる。
彼女もまた、幸運で不幸な妖怪だったわけである。
かくして訪れる、閃光と爆発。
一瞬の間を置いて、何かが爆散する破砕音。
轟音は森を揺らし、不自然な炎の残りかすが辺り一面に舞い散った。
見咎めた者が一人としていなかった為に、その残りかすがちりちりと燻って広がるフレアの元五体であったということも知られざるまま、その妖怪は跡形も無く焼失、物語の舞台から姿を消した。
爆音にはただ振り返るばかりだったタルピーは、そこにともすれば山火事へと発展しかねない中空の大火災を目にして初めて幽香から意識を外し、はた迷惑な新手が何者なのかを探るべく穴から少し身を乗り出す。
そうして彼女はいよいよ眩く輝く星空の只中に、その輝きをゆらめかせる不吉な炎が立ち上っている事を察すると、多少弱視気味な瞳をより凝らして、宙に浮かぶ炎の正体を見極めんとした。
が、その瞳はすぐに見開かれる。
(な、なななな、何あれ!)
驚愕であった。
炎の正体は――炎を纏う何者かではなく、炎そのものだったのである。
しかもそれは、発熱するヒトダマが空に浮かんでいるのとは全く様子が異なり、弥増して不吉な雰囲気を誇示していた。
それでいて、空気中の発火物質が自然発火したのでもない。
タルピーは己の驚愕が脅威に、そして恐怖に転じるのを感じ、
(ううう・・・もー勘弁してよぉ!)
すばやく、肩口まで乗り出していた身を、また穴ぐらへと引っ込めた。
その炎のよりしろ、火種となっているモノは、紛れも無く生きた人間であったのだ。
熱力学の原法則を乱す、無限に燃え続ける種火。
最凶の不燃物。月へと辿り着く煙。
あってはならない呪い。
蓬莱の人の形、藤原妹紅の登壇であった。
** 【芸楽の符。永遠亭】
時は一旦、同日の夕方、ようよう日も沈もうかという頃合に遡る。
迷いの竹林に住まいを置き、隠者のように暮らす藤原妹紅。
彼女は、住み暮らす庵にて寝転がり、天井を見詰めていた。
先の出来事【・・・東方永夜抄。永夜異変と呼ばれる夏の夜の異変、及びその原因となった欠けた月の異変を総称した謂い・・・】より人知れず時を刻み始めた永遠亭の住人達と呼応するかの如く、人里にも姿を現すようになった彼女だったが、隠棲生活をやめたわけでは勿論無かった。
竹林の隠者という立場は何といっても気楽である。
特に、彼女のような生き物にとっては。
妹紅は鈍感でもなければ痴愚でもない。
例えば彼女は自分の容姿について、一般的な観点からすればかなり優れた位置にあるという自覚があった。
それは決して自意識の過ぎたるものではなく、先述した人々との触れ合いにおいて里の男子諸君が妹紅を見るに、その視線にいたく篭った熱があるのは確かである。
過たず、自他相認める美人なのだが、しかし佳人というには余りに図太い性根が人にそう称することを許さない。
何故と問うまでもあるまい。彼女は齢千を越す人生の熟達者なのだ。
痴れたることなき彼女は、そうした男子諸君の眼差しに対し、例外なく無愛想の仏頂面を向ける。私はお前に興味が無いぞ、と予め前もって知らしめるためだった。
それで妹紅の意思表示は終わる。そのすげない態度が良いのだという馬鹿は一生馬鹿でいれば良い。
人との係わり合いは、用法・容量を守って正しく。
人間関係というものはいかにも面倒くさく、まるでこじれることを前提に係わり合いが成り立っているかのようだ。
己がそうしたこじれきった関係の最中にあって世に生じたということもあってか、彼女はつまり、孤高の女だった。
単なる孤独であった大本が、かの不死の薬によって昇華した生き様である。
不死の薬は人の生を作り変える。
独りでありながら他者と関わらざるを得ない孤独の生は、そのがたがたな有り様で他者の生を乱す、濁流のようなものだ。
その流れが禁薬により、己の内に閉じる輪っかとなる。
輪が和を為し、人格に均衡を齎す。
またその輪は死者の頭の上に浮かぶ光輪と同じく、他者の人生よりも高みにあって他を望む。
高みにあることで地のくびきを離れ、自在に世を、他者全ての人生の上を行き来できる。
人生の関わりを図にし上面から俯瞰すれば彼女が他人と重なる、関わることはある。
しかしそれはうわべのものだ。
もう一つの次元を導入して図面を空間的に捉えれば、他者の上に浮かんでいる彼女は決して他者と混ざり合うことは無い。
一般人が蓬莱人と関わるというのは、このように表面的なものなのである。
深い闇に包まれた彼女の来歴を思えば、その暮らしぶりが彼女にとっての妥協点に他ならないということは自明だった。
というような講釈とは何ら関わることもなく。
妹紅はよしと勢いをつけ、身を正してすっくと立ち上がる。
そもそもただ漫然と寝転がっていたわけではない。
うやうやと巡らせていた考え事に決着が付くまでの間、無沙汰になった身を寝所に置いていただけの話である。
それが片付いたので、口より手が先な性質の彼女はさっさと動き出す。
軽い身支度を済ませ、取られて困る物も無いからと、戸締りに気を配るようなこともなしにふらっと庵を発った。
無論、要事の為と、スペルカードを見繕ってポケットに仕舞いこむのは忘れていない。
出先で何があるか判らないのが幻想郷というものであるから、これは殆どマナーと言っても差し支えの無い備えだった。
庵から出て暫く、竹を避け避け空を走りゆく。
その向かう先も、向ける視線の先も揺らがないまま。
彼女は迷いの竹林にあって迷うことの無い類稀な人物だった。
それは妹紅の身にかかる呪いが竹林にかかるそれを遥かに上回るためなのか、単純に歩き慣れているということなのか、今となっては判然としないところである。
兎に角、妹紅は一直線に目的地を目指し――やがて、彼女の目の前に粛々とした雰囲気の、しかし暗鬱とはしていない荘厳な屋敷が開けて見え始めた。
永遠亭である。
その時点で、既に妹紅はその心中に悟りを宿していた。
古色蒼然たる永遠亭の佇まいに、記憶にあるものとの微妙な差を感じ取っていたのだ。
また、屋敷の纏う空気感の違いが何に由来するものなのかについても、彼女には何となくではあったが当たりが付いていた。
といって、これは何も藤原妹紅であったから付いた見当ではない。
常人であっても、幾度かこの屋敷を訪れたことがあれば、誰もが同じように感じ取れるだろう。
違和感に、住むものの居なくなった家屋を見たときを思い起こすことで。
果たして、永遠亭は無人と化した訳ではなかった。
迎えを待つはずも無く中に踏み入った妹紅は小一時間ほど広い広い屋敷を探し回ったが、亭の住民の多くを占める兎たち、小さな獣の形か大きな人の形か、いずれ妖怪の類である者どもはいつもの如く至る所に居り侍り、不法侵入者である妹紅に気付いても、「あれれ。いらっさいませー」と気の抜けたことを言う様子で、雰囲気の違いほどに内情の差は出ていないように見えた。
妹紅はしかし、兎たちの様子に特段の疑問を持つこともなく、歩いては襖を開け閉め、黙々淡々と屋敷を探索し続け。
そしてとうとう、遊拠の間と呼ばれる広間に、
「あら? いらっしゃい。何か用?」
旧知でもある妖怪兎の長、因幡てゐがいるのを見つけた。
妹紅は用意していた問いの言葉を差し置き、呆れたように言う。
「何やってんの、あんた?」
呆れ顔を隠しもせず、心底呆れ返っての言葉だった。
呆れられた当の本人はといえば、妹紅のそんな態度もどこ吹く風、顔も合わせず茫洋と応える。
「何にもしてないわー。見れば判るでしょ?」
「あー、確かに何もしては居ないみたいだけど」
何の身も無い返事に対し、これまた蓋も無く妹紅が言う。
実際、てゐはだだっ広い部屋の真っ只中で寝転がり、大判の薄い本を無造作に開いて、時折ぺらぺらと頁をめくりめくりしつつぼうっとそれを眺めており、取り立てて何をするという感じでもなくぼうっとしていた。
どこから手に入れたものか、本は外の世界の雑誌【・・・成人向け週刊誌。有閑なる者の友。日日より目を背ける為の橋頭堡・・・】である。
健康第一を旨とする彼女らしく、頁をめくる手は最新の流行健康法を載せた記事が目に留まるたびに静止しているが、いずれにせよ本身を入れて読むような代物でもない。
そんな様子のてゐだから、改めて訊ねられることは無いだろうと考えた妹紅は、
「でも、つまり、そういうことよね?」
極めて曖昧に、全く直接的でない物言いで以って来意を伝える。
「まぁそうね。お留守番って退屈。こうして来客でもないことには」
事ほどに、対するてゐも心得たものである。
最後にぱらららっと読み流してから雑誌を閉じると、起き上がってあぐらをかき、
「さてと。今、ここ永遠亭は私たち妖怪兎のパライソよ。ご用があっても、取り次がないわ。取り次ぐ先がいないもの」
頤を引いて、上目遣いに妹紅を見て言った。
頭から伸びる二本の兎耳をふかふかと揺らし、邪気無い感じで笑っている。
余裕綽々にする妖怪の態度を受け、何をこの兎風情がと血相を変えるのは凡人の習いである。
天才ならずとも非凡なる妹紅においては、若干の苛立ちこそ表情に浮かべても、真に怒るようなことは無い。
年輪より外れた蓬莱人であっても、今のところ年長者であることが明らかな神代の妖怪兎には敬意を払うのだった。
「ふん。あんたじゃ、話になりすぎてややこしくなりそうだわ。月のがいるでしょ? 呼びな」
太古よりくさぐさの神々をも騙し抜いてきた手練手管を面倒がり、妹紅は受付時点で問合せ先を変えようと試みた。
が、妹紅には気の毒なことに、その訴えは容易く棄却される。
「ざんねんでした。鈴仙も漏れなくお出かけ中よ」
「へぇ? それは珍しい・・・ような気がしたけど、そうでもないのかな?」
「どっちかって言えば、珍しいかも。ま、姫たちとは別口だし、屋敷にいるにはいるわけだけど」
「口が滑ってない? 意図的に」
「おっと、ばれたわー」
大げさに、しまったと両手を広げるてゐの仕草を見て、取り敢えずはこいつと話すしかないらしい、と妹紅は一つ諦めた。
「まぁ、それは今度聞かせてもらうとして。私が来るのを待ってたんなら、お互いとっとと用事を済ませるとしようか」
仕切り直すように腕を前に組んで、慌てた表情を作る兎たちの主に向けて本意を問う。
「あんたに留守番を任せた奴は、全体どこに逐電したのかしら」
てゐも、妹紅の気色が少々引き締まったのを感じ取り、両手は広げたままで作り笑いを止めた。
替わりに浮かぶ表情は、やはり笑みである。
それまでよりも自然でいて、どこか含みのある不敵な笑み。
悪戯っぽさや妖怪らしさに満ちた微笑が、逆に嫌味なく因幡てゐという怪異を縁取っていた。
正しく悪戯っ子の顔でてゐが言う。
「招待状。読んだね?」
妹紅は頷かず、ポケットから取り出したくしゃくしゃの紙を、無造作にてゐに投げて寄こす。
ややコントロールが外れ気味だったが、てゐは胡坐をかいたままの姿勢で難なく受け取った。
「あーあーあー。乱暴だなぁ。上質な紙が台無し」
ぼやくように言って紙を広げ、てゐはそこに目を通す。
「『藤原妹紅様、平素よりご愛顧ありがとうございます』、そうそうこれこれ。うちにも、四通ばかし来たのよ、こんな感じのが」
「でしょうね。輝夜の趣向とは、毛並みが違う。なら、あの暇人は一足先に行ったってことか」
「ご明察」
「あんたが留守番してるのは、兎どもを抑え付ける為? それとも、月の兎のお守りでもしてるのかしら?」
「その両方が半分かなぁ。もう半分は、普通にお留守番よ。あんたみたいなの用に」
「本当は?」
「私の幸運は薄利多売はしない主義なの。大勢の人間が集まる場所は、あんまり行きたくないわ」
「で、本当は?」
「こう見えて色々忙しいのよ? ほいほい外出て遊んでられるほど暇じゃないの」
「で?」
「降参降参。ま、どれも別に嘘じゃないけど、本当は面倒だからよ」
「あのさぁ。私を煙に巻く意味、無いんじゃないの?」
暫く続いた応酬を断ち切って妹紅が言い。
「それとも」
一度言葉を切った後、たかってきた蝿を払うように手で空を斬った。
「――ここで私に煙にされたいのかしら?」
その手が轟、と唸り声を上げると、妹紅の掌はたちまちのうちに業火を宿して歪に猛る。
掌に端を発した不尽の火は瞬く間に妹紅の身体を外や内やと駆け巡り、一息と待つことなく妹紅は炎の化身となった。
首なし不死鳥を後光に据えた蓬莱人の姿。
それは死せる生という不吉の体現に他ならず、生きるもの全てにとっての恐怖の象徴である。
にも関わらず。
てゐは、妹紅のことなどまるで気にしない風に、さっきまでと変わらぬ笑みをたたえて言う。
「おやおやね。留守を狙ってこそ泥かと思えば、押し込み強盗だったなんて」
「水を差さない。それに、引っ込み思案よりはマシだわ。で、やる気はあるのか、ないのか」
「ないわー」
「って。ないの? 折角挑発してあげてるんだから、ノってくればいいのに」
「ないない。でも、このままじゃお屋敷ごと燃されちゃうかな?」
「放火魔よりは引っ込み思案の方がマシね。炭になるのがあんただけになるよう、努力してみるわ」
「怖いねぇ。怖いから本当のことを言っちゃうけど、実は既に本当のことを言ってるのよ」
「どれも少しずつホントなのは判ってるわよ」
「判ってるなら話は早いわ」
「どれよ」
「判ってないわねぇ」
ますます燃え盛る妹紅の炎を受け止めてなお涼しい顔で、うっすらと苦笑するてゐ。
「まぁそこらへんが人間の人間たる由縁かなぁ。私みたいなのには、そういうのが良いんだわ」
そう言うと、彼女は組んでいた足を解き、ゆっくりと立ち上がって妹紅に目を合わせる。
「なら、親切に教えてあげるとしますか・・・」
妹紅が怪訝そうに、警戒を強めててゐを見る。
てゐは不敵な笑みをそのままに、妹紅の視線を受け止めていた瞳を閉じ、胸の前で勢い良く両の手の平を合わせ、ぱしーーーん、と軽快な音を鳴らしたかと思うと、口篭るように口元をむにゃむにゃと動かし始めた。
直後、てゐの動きに開戦を予感して覇気を放つ妹紅に先んじて。
てゐは言った。
「藤原妹紅、貴方の感じたとおり。
今、この屋敷に、永遠亭の住人はいない!」
ぼん。
一言の後、気の抜けた爆音と共にてゐの姿が黒煙と化す。
妹紅も少し面食らって、その内心が一瞬驚きに凍てつく。
てゐの行動を過たず攻撃の合図であったのだと看做し、躊躇無く振るうはずだった片腕を止め、蟠る煙を暫し眺める。
そして妹紅が、
(こんなことも出来たのか、この兎・・・)
と、素直な気持ちで目前の出来事を評価した、正にその時。
今度こそ、妹紅は驚愕すべき物を見る。
(ああ、流れ星だ)
はじめ、妹紅はそう感じた。
どこからともなく現れた、眩い輝きを放つ小さな“何か”を、流れ星だ、と思えること。
それは正しく、彼女が人間であること――少なくとも人間であったことを証明する、懐郷という病に侵される生き物特有の感性、その発露だった。
《流れ星》は、てゐの居た場所に蹲る黒煙に向かって、妹紅の感覚を肯定するかの如く、流星のように飛来した。
閉じた屋敷の閉じた部屋、夜空など見えるはずも無い場所で、平常見られる情景でないことは妹紅にも判っている。
そして今自分の居る場所が、平常見られないことを毎日起こしうる幻想の郷であることもまた、彼女の意識の範疇にある。
しかしだからこそ、目を凝らして再びその《流れ星》を見た妹紅は、そこから今、この郷で、《何かが起きている》ことを察することが出来た。
瞬き輝く星のごときそれは――『芸』と書かれた一枚の黄色い御札だったのだ。
【・・・芸符(大)。東方天畿楽の得点システムに関わるアイテム、芸符のうち、一つにつきEnterポイントを一千点加算するもの。幻想的曲芸 ~ Acrobatic Fantasyのうち、グレイズや敵ボスへの撃ち込み等の伝統芸能によって得られることはまず無く、特定ザコ撃破やスペルカード取得等によって出現する場合が殆ど。単一の得点量では芸符(小)の百倍だが、既述の通り得る手段が限られ確定的であるため、プレイ全体の振る舞いによりクリアまでの取得量が大幅に異なってくる芸符(小)と比べ稼ぎの研究対象となることは少ない。Extraステージでは芸符(小)が全く出現せず、しばしばEnterポイントとスコアがインフレを起こす・・・】
御札は煙の周りで一度円を描くと、次第にその中心へと吸い寄せられ、一本の渦巻きを軌跡として、ちゃり、と軽い音を最後に煙の中へと消えた。
《流れ星》の登場によりすっかり呆気に取られ、いつの間にやら不尽の炎も引っ込めてしまっていた妹紅も、そこに至ってはっとなり辺りを見回した。
言うに及ばず、流星の御札の出所を探してのことだったが、遊拠の間は広くこそあれ何かが隠れるには向かない開けた空間であるので、いくら引っ掻き回そうとも無意味である事は二度三度首を回すだけで明らかになる。
妹紅は部屋の中の捜索を素早く切り上げ(諦め)ると、部屋の中心で未だ蟠る黒煙への対処について暫時思いを巡らせた。
一分。
それだけ待っても黒煙が一切の動きを見せなかったことで、妹紅はこう察して永遠亭を退去する意思を纏める。
(六十秒は長い。その半分でも普通厭きる。《演出としては待たせすぎ》だ。つまり。ここはまだ《舞台の上》じゃない)
纏まった意思に従って身を翻し、妹紅はすたすたと、黒煙に背を向けて部屋を辞する。
去り際に一度振り返り、黒煙を一瞥してそこに少し心を残す様子を見せたが、我が思いを振り切るようにぴしゃりと襖を閉じ、妹紅は広間から消えた。
視点は未だ、誰もいなくなった遊拠の間に残る。
妹紅の立ち去った後も、無人の部屋に常なるはずの静けさは遊拠の間に訪れなかった。
なおも居続ける黒煙が、ぐむぐむと暗雲立ち込める幻想の音を響かせていた為だった。
四半刻が過ぎた。
外では、迷いの竹林を抜け出た妹紅が、今宵起こっている異変の最も判りやすい形、明るすぎる夜空を見て、そこに輝く全ての星が実は星ではなく、先程見たばかりの芸と書かれた符の瞬く様であるということに気付き、その中心へと高速で飛び立った頃。
遊拠の間の襖を開ける者がいた。
「あー、疲れたわー」
ずずー、とかったるそうに勢い無く襖を滑らせて入ってきたのは、つい先刻まで遊拠の間で自堕落な姿を晒していた因幡てゐその人である。
てゐは部屋に蹲るように立ち上った黒煙を見ると、
「ありゃ? はわぁ、ふぇ。ふむ。ふー。えーっと、まだいたの、あんた」
欠伸をしながら言った。
余裕たっぷりに緊張の欠片も無く発せられた言葉は、この妖怪の素の姿のように素く、邪気無く響く。
途端、広間を一陣の風が舞った。
風に吹かれ、黒煙は見る間に洗い流される。
そして黒煙に取って代わり、そこには人の形が姿勢良く座っていた。
「ふー。私も疲れた。ようやく術が解けるわ」
大儀そうに息をついて言う口調と声質は明らかに少女のもので、その姿は一目見て妖怪であることが判るほど奇異な格好であり、まるきり妖怪=少女という図式の中に収まっている。
橙と赤を基調に所々黄と黒の縞が入った派手派手しい衣服には袖が無く、刺青に大陸風の意匠が施された両腕はその背丈に比すると少々長い。
襟に巻いた黄巾をネクタイのように前に長く垂らし、金属らしい光沢に輝くピンで衣服に留めている。
短めの頭髪は乱れているが、手入れされていない感じではなく、清潔感を伴った金色の癖っ毛である。
特筆すべきは、厚塗りの化粧によると見られる不自然に白い顔面と、そこに二つ置かれた丸い頬紅。
そして、同色の髪に隠れてもその存在を強く主張する、金属製の頭飾り。
てゐは奇態な白面の人物の表れにも全く動じず、
「まぁまぁ、お疲れさんだわ。お互いに。秘蔵のがあるのよ。どう、一杯?」
気さくに持っていた酒瓶を振り上げて言った。
白面の人物は一瞬その表情を喜びに輝かせたが、すぐに首を振ると、掌を前に突き出して言う。
「だめだめ! あんたがやるだけやって飲み食いするのは結構だけど、こちとらまだお仕事中なの。思うに多分、今幻想郷で一番忙しいのって、私よ。あっちこっち大変なんだから、団長のせいで!」
もう、と白面の人物が息巻く。
てゐはにやにやと嫌らしく、実に楽しげな表情を浮かべる。
白面の人物に対面する形で座り込み、酒蓋を妖獣本来の怪力をもって素手で開け、「手酌で失礼するわー」と言い置いて杯に注ぎながら話し始めた。
「大変だとか何とか言ってぇ。物凄く生き生きしてるじゃないの」
「そりゃあもちろん! 何十年、いや何百年? とにかく、待ちに待った大規模公演なんだもの。血湧き肉踊るわー!」
「うーん。そんなに楽しそうにされると、私も見に行きたくなってきたかも」
「って、優待券はもうあげないわよ。ウサギ皆で見に来るからって何百枚も持っていっておいて、堂々とテント前でダフ屋なんて始められるとは思ってなかったもの。おかげで当日券受付で常連の宇宙塵さんたちが大行列作っちゃって、これもだから大変なんだってばもー! もー!!」
「落ち着きなさいってば。もーもーって、牛じゃあるまいし」
「まぁ落ち着くけど。あんたの留守を替わったお陰で、団長の言ってた人にも直接会えたし」
「あ、やっぱり来たの? へぇ。あいつも、あんたの所の劇団に興味を持ったってこと?」
「別に社交性が無い風でもないしね。むしろサーカスが来て見に来ないほうが不自然よ」
「それは言いすぎね」
「まぁそのくらいの気概でこっちはやってるってことよ。それにしても何なのあの人?」
「何って、大体千年くらい生きてる変な人間だけど」
「それはいいのよ。注意深すぎだってこと。お屋敷出てからもずっと気配探られて凄い緊張しちゃったわ。背中一つかけやしない。黒風変化なんてあんまり使わないから、あと半刻粘られたらやばかったわよ」
「他の芸でも何でも使えばよかったじゃない」
「定期的に使わないと忘れるのよ。人の芸だからあんまりおおっぴらには出来ないし」
「パクリは良くないわねぇ」
「猿真似と言って欲しいわ。それに、騙しはいいの?」
「忙しいんじゃないの?」
「ああそうだった。こんなところで鳥獣談義してる場合じゃないわ」
「ま、終わったらまた来るといいわよ。面白い新顔がいるから会わせたいし、姫や永琳さまも多分喜ぶ」
「はいはい。そんじゃ、また今度」
今度、と言い残した瞬間、再び一陣の風が部屋に舞い、それに巻かれるように白面の少女の姿はかき消えた。
取り残されたてゐはといえば、ひたすら大儀そうな顔をしてその場に寝そべり、
「ただの留守番とはいえ。待つ身は辛いわねぇ」
何にも動じない様子でそう呟く。
自分に留守を任せて暢気に出かけていった、この屋敷の主たちへの親しみ深い悪態だった。
かくして、遊拠の間の景色は妹紅が来る前と全く同じ形となった。
そこにある、外の騒ぎとは隔絶された静けさは、永遠亭のあるべき形の一面である。
永遠亭は出来上がってからその有様を変えた事はない。
静けさが時折かき乱され、また元に戻るのも永遠性だからだ。
さて。
ここで、視点は暗転する。
藤原妹紅が得た見地について考察しよう。
永遠亭は騒ぎの舞台の上にはなく、あくまで舞台裏であり、蚊帳の外であるという認識だ。
それは確かに正しい。
本来この場面は、物語の中で進行形をとって語られるべきではなく、後に一行の回想を以って振り返られる程度の重みしかないポイントである。
単純な話、あってもなくても大差はない筈だ。
が、実際は既述の通りである。
舞台の外は、こうして俎上に上った。
その理由は、もうある程度察することが出来るだろう。
白面の妖怪少女。
彼女の存在と、その意味する役どころ。
“騒ぎ”の元凶、全ての事の裏で暗躍する彼女がそこを去り、因幡てゐと後の再会を約したこと。
それは取りも直さず、永遠亭及び因幡てゐ、付け加えるなら面白い新顔【・・・鈴仙・優曇華院・イナバ。東方天畿楽の事件当夜は自室で布団に包まり、数百年後の未来、人間の作った計画都市でのホームステイ、即ち自己調律による時空旅行中・・・】が、以後この物語に登場しないことを約するのと同じ意味を持つ。
その為すところは、因幡てゐの代理人であり、その成すところは、主役格の登壇である。
藤原妹紅を舞台に引きずり出すこと。
始まりの一つを演出すること。
これらはつまりプロローグであり、バックストーリーである。
物語の内に取り込まれることはなく、別途の手段で伝えられる前提の情報なのだ。
では、それが語られたのは、何故か。
この物語自体が、本来の形とは異なった形で伝えられようとしているからだ。
実際の事件【・・・東方天畿楽・・・】における沿革から外れ、全てを三人称による追体験として行う。
ならば、バックストーリーはメインストリームの内側に入り込むことになる。
スピンオフとして。
ノヴェライズとして。
アナザーケースとして。
ショートストーリーとして。
語られるべく語られるのではなく、省かれたものを、省かれたそのこと自体を所以にして今一度蘇らせる。
そこにおいて。
実際の事件における主役、博麗霊夢、藤原妹紅、風見幽香の三名以外に、主たる視点を置かれるべき者があったが為に。
このシーンは物語に組み入れられた。
白面の彼女の動向は、省くわけにはいかなかったのだ。
名を、星金剛花果。
ほしこんごう、はなか。
不老長寿の桃を食い万年の生を得、あらゆる妖術と仙術を極めた仙猿。
道教を踏み外し仏法に帰依し、やがては小悟した、金星由来の隕鉄人。
“騒ぎ”を彩る大サーカス団の、押しも押されぬ千両役者。
彼女の退場に合わせ、時と場所は、前章へと引き戻される。
芸楽の符が空に渦を巻く、明るすぎる一夜。
人歩飛妖の道へ。
** 【前哨。花と火の弾】
取り交わしも無く、暗黙のうちに二人の攻守は決まっていた。
弾幕戦において攻守を定める場合、両者は《挑戦者=オフェンス》と《対応者=ディフェンス》とに分かれる。
挑戦者は対応者の弾幕を回避しながら攻撃し、スペルカードの生み出す“場”、“舞台”を破壊する。
対応者は挑戦者の攻撃をかわしてはならないが、挑戦者に一発でも有効な打撃を加えればその“場”は勝利となる。
このルール自体、暗黙的なところがあり、これといって取り決めも無く用いられているのだが、今や人妖たちの間ではデファクトスタンダードである。
攻守の概念によって駆け引きの幅は広がり、妖怪のワンサイドゲームとならない程度の戦略性が生まれる。
つまり、人間が妖怪退治をしやすく、ひいて幻想郷の活性化に繋がる環境設定なのだ。
余りにも戦力差がはっきりしている場合を除けば、であるが。
ところで。
弾幕戦は知恵比べであり、力比べである。
知恵も力のうちと捉えれば単純な力比べとも言えるが、しかし使い方を誤った力に意味は無い。
無意味は弾幕戦における無力を意味する。
力を振るうだけで勝てるほど簡単な決闘ではないのだ。
術数の限りを尽くし、計算の果てに生み出された有意な弾幕こそが美しく咲き誇る。
鬼気迫るそれら弾幕たちの吹き荒ぶ中を、負けじと美しく舞って身をかわし続ける。
攻め手も受け手も、その立ち居振る舞いで己の有り様を相手に見せ、勝利への強固な意思を表現、演出すること。
屈服させ従わせるのではなく、意気を通じて認め合うこと。
それがこの決闘方法の本質だった。
全くの無意味なスペルカードはその存在が許されることは無く、賢者の協定により取り潰しとさえなるとも言われる。
それ以前に製作者自身、意味の無いスペルカードを使う事は自分の意思に意味が無いこと、突き詰めて言えばおばかさんであると証明することに他ならないと判っているから、皆素直に熟考し、面白いスペルの構築に励む。
人間と妖怪、いずれの精神性もそうやって高められる。
これぞ良循環、インフレスパイラルの幕開けであった。
そして。
インフレの極みにあって、とっくの昔に精神も肉体も高まり尽くしてしまった所謂最強クラスの妖怪にとっての弾幕戦は、最早そうした求道の精神をかなり遠くの地平にさて置いて、より一層娯楽の要素、エンターテイメント性を強める方面に発展している。
驚きすぎて開いた口が塞がらない。
面白すぎて笑いが止まらない。
美しすぎて涙が止まらない。
楽しすぎて――もう、やめられない。
そうやってエスカレートしてゆく弾幕表現は、それが確かに使用者の個性を最大限に顕示しているが故に、いくつかの例外を許容していくことになる。
例えば、全くの視界外から唐突に弾の壁を押し寄せさせるスペル。
例えば、ばら撒かれた弾を相手の意識さえ揺るがす振動と共に軌道変化させるスペル。
例えば、時空を思いのままに操って不可避とさえ思える弾道を構成するスペル。
反則ギリギリ、否、反則上等の、面白さ重視。
そう。
例えば。
全くの出し抜けに光渦巻く夜空を灼き貫いた、光の洪水。
「 花符「閃光華火」 」
光と音の速度差。
一条の巨大な光芒が天を二つに分断する光景に、遅れてスペル宣言がやってくる。
更に一歩遅れ、ぶぅううううううううううううううううううううううぅん、と光の筋が夜を割いて唸り声を上げる。
山道に響き渡る轟音は木々をざわめかせ、耳にする全ての生き物に対し圧倒的な存在感を放った。
あまりにも強すぎる力を一切恥じることなく、高く空に向かって誇示するという意思の発露。
暴力的なまでの質量と、無駄遣い極まりない魔力の奔流。
その場において最も気高く君臨する王者の花。
複雑な弾道構成の何するものぞ。
私の道に敵う者なし。
挑戦者、風見幽香から、対応者、藤原妹紅への、有無を言わせぬボム・アタック。
支配者の閃光(マスタースパーク)。
それが彼女に許された、既に弾でもなければ幕でもない、そのものずばりの反則。
反則の光は暫しの間夜空に居座り、ふぃいいいいいいいぃん、と残響を伴って山々を戦慄かせ続けた。
もしこの時、閃光の向く先を、空にある幽香が気紛れについと地面へ滑らせたなら、いかに肥沃で頑丈な倭の原風景たる大地であってもその表面を激しくめくり上げられ、当然と森の木々は見る影も無くずたずたに引き裂かれていただろうが、これもまた当然と、彼女はそれをしなかった。
花を操る能力がさせる自覚、ではない。
それは弾幕戦という決闘方法に宿る精神であると同時に、世に長じた妖怪である幽香の心得る美意識の現れでもあった。
無抵抗なる者は戦うに値しない。
と、いうよりも、抵抗するだけの気概さえ持っていないのなら、嬲るには値しない。
他の克己を好み、尚且つその克己心を根底から叩き潰す己の行為を好む。
そういった意味で幽香は、万人の恐怖でありながら、万夫への優しさに満ちた妖怪だった。
弾幕戦を通じて最強という言葉を量れば、自ずと知れるところである。
常日頃太陽のように咲かせる微笑は偽らざる彼女の本心であって、人を謀る浅はかさには全くといって染まっていないのだ。
うぅぅぅぅぅぅ・・・、と空気の震えが萎んでゆくのにつれ、夜空を支配していた迸りも細っていく。
強烈な光が消え、その場は再び、瞬く謎の星空による恒常的な明るさに包まれた。
そしてその凪いだ、静かな幻想郷の空。
風見幽香は一人、手前に日傘を構えた優雅な姿勢で、朗らかに笑んでいた。
一人。
一人である。
藤原妹紅の姿は、日傘の切っ先が向かう空のどこにも見当たらない。
無人の空。
その光景は、見るものに厳然と一つの事柄を示す文字通りの空虚だった。
日傘は、その先端から膨大な魔力を放出していた余韻か、軽く添えた幽香の手の内でひとりでにくるくると回っている。
そうした日傘の遊びを、幽香は暫く慈しむように眺め見てから、添えた手の握りを強めることで止めた。
手元に落とした視線を上げ、右に一度、左に一度、交互に首を振ってあたりを見回し。
幽香は小首を傾げ、困ったような表情で言った。
「あぁ・・・もしかして、直撃? それは、あんまり考えてなかったかもだわ」
その頬を、幻の汗が一滴垂れて流れていた。
さっきまで居た奴が、攻撃の後、見当たらなくなったのなら。
虚ろの空が、危惧を肯定するかのような夏の夜の涼風を吹かせ、幽香の頬の一筋に冷気を齎す。
寒いな、と幽香は自分の頭が冷えていくことに気付き、冷える程度に元々温まっていたのだということに同時に気付いた。
(かなりの使い手っぽいから、手加減無しでやったのに、なんて。耄碌したかな)
冷めた空気に、今しも言い訳めいた言葉が口をついて出そうになるのを押し留め、幽香は空を振り仰ぐ。
力量を見誤ることこそ無力の証――などと殊勝な悔いに浸る幽香ではない。
彼女の心中に通っていたのは確かに己の行為を悔いる想いだったが、最も強く根ざしているのは「勿体無いことをしたものだ」という気持ちだった。
ひゅっ、と手首だけで日傘を振り、その力でぱたむ、と傘を閉じる。
端から深い理由もなく切り出された弾幕戦であったので、幽香に強い悔恨が生じることもなく、ただ何となく、得られるはずだった楽しみを自分から手折ってしまったことへの拍子の抜けた感覚が残っていた。
幽香は天空の渦を見る自分の目を、傘を持たない一方の手で覆い、あちゃあ、という仕草で今しばらく空に佇んだ。
その彼女の暗黒を、天に響いた高らかな宣言が暴く。
「 「リザレクション」 ―― 呪符「ムラサメパレスの謎」 」
キン、と拍子木を鳴らすように軽く涼やかな音が鳴って、夏の空に一息で広がる。
立て続けに夜を渡った、カン、カカン、カカカカン、カカカカカカカ、という軽妙な清音で、幽香はそれらの起因たる弾幕の戦意を明敏に察した。
妖怪の闘争本能はその身をためすがめる者の気配を正しく伝え、理性に知らせる。
幽香の悔恨はあっという間も無く消えていた。
戦闘を続けることが出来る喜びと、確かに消滅したように思えた敵対者が再び現れたことそれ自体への期待の前に、灯された悔悟の火は弱々しすぎたのだった。
幽香は口だけで楽しそうに笑うと、感じ取った敵の居場所に加え、カカカカと心地よく鳴る音色を補助情報として、形作られてゆく弾幕細工の精緻なる完成形の確固たるイメージを一見もしないうちに思い描いた。
全周囲を覆うように展開された、紫と赤の楔が織り成す弾幕。
それがささいな切欠で綻びを生じ、崩れゆく弾たちが塊となって、断続的に幽香の元へ雪崩れ込む。
一秒と待たずにそこまでの想像に辿り着き、幽香は閉じていた両目を薄く開ける。
そしてその細い視界に、幾重にも張り巡らされた弾の連なりと、その向こうの禍々しき不死鳥、ただ無傷であるような藤原妹紅の姿を認めた途端、彼女は動いた。
決して急がず、ただ緩やかに。
風に舞う花のように。
縦横に格子を描く紫と赤の線、その構成要素である楔弾の密な列が、敵の直近を初めとして四方八方に少し揺れた後、一列ずつ一斉に敵へと集う。
呪符「ムラサメパレスの謎」。
密度、速度、不規則性等の面から見て申し分ないスペルであり、予想される被弾率は極めて高い。
最強の妖怪に相対してこれを振るう術者――藤原妹紅の技量と意味力の高さが窺い知れる強勢の業である。
が、幽香は巧みに己の身体(ヒットカーソル)を攻撃から外し、時にはわざと近寄って、頬や首筋を掠めんばかりに迫る楔の群れと戯れるように、紙一重でかわしてゆく。
その身のこなしに応えた日傘がまたひとりでに花開き、くるくると回ると、幽香の周囲に湧き出て数多輝く小さな光【・・・芸符(小)。高速移動時にグレイズすることで大量に発生する、稼ぎを主としたプレイにおいて欠かすことの出来ないアイテム。同時に、Enterポイントを芸能審査の成否のみ、即ち表面と裏面の選択時にのみ意識するクリア目的のプレイでは然程重要とはならない・・・】を巻き上げては、尖端に集めて吸い込む。
小気味良くちゃりちゃりと鳴る燐光を身に纏い弾幕と踊りながら、幽香は同時に攻勢に転じてもいた。
細かな身振り手振り、優雅な仕草の一つ一つが種々雑多な妖花を中空に幾千と咲かせ、時折混ざる大振りな動きに合わせてそれらを前方広範囲に撃ち放ってゆく。
大雑把にばら撒かれた破壊力を持つ花たちは、紫の縦列、赤の横列と交錯して風に乗り、より広く散ばる。
敵の生み出す弾幕の“場”を、確実に切り崩すべく。
放たれた、雨のように降る花々の、その一つ一つが電動のこぎりのように回転して、結界をこそぎ落してゆく。
背の鳳凰が翼を羽ばたかせて生み続ける弾幕はまるで通じず、完全にその意を汲まれて避けられる。
彼女の弾幕が、スペルカードが破られるのは時間の問題である。
そんな劣勢を前にして、妹紅は笑っていた。
幽香と同じく、ただしこちらは眉を落とし、若干苦笑気味ではあったが。
様々な感情を孕んだその顔には、意外さと呆れ、落ち着き、そして取り分け大きく驚きが表れていた。
(別に楽しいからいいけど・・・、うーん、びっくりしたなぁ)
驚きを疑念へと転じ、妹紅はその正体に思いを巡らせる。
何が彼女を驚かせたのか。
言うに及ばず――語るに如かず。
それは、対面する妖怪、風見幽香が、正しく“最強の妖怪”であるということだった。
その異名を耳にしたことが無くとも、幽香の弾幕力が一般のそれとは一線を画すレベルにあることは、弾幕戦のプレイヤであれば誰の目にも瞭然である。
ましてや、既に妹紅は幽香によって《殺されている》のだった。
今宵の異変の累から逃れられはしないらしいと感じ、起きるであろう戦いへの覚悟を済ませていた妹紅を、掟破りとはいえただの一撃で葬り去ったという事実は、幽香の存在が、妹紅の培ってきた人生の経験則を大幅に上回っていたことを証明していた。
ただし、この時。
彼女の想像を上回っていたのは、風見幽香の圧倒的なまでの戦力自体よりも。
(こういう大物は、もっと先々になってから、満を持して出てくるもんじゃないのかしら?)
強すぎる敵の早すぎる登場という、《異変の舞台構成》そのものだった。
妹紅と逆転した立場にある幽香も、状況に対して一定の驚きを感じてはいた。
妹紅と同じく、相手の実力の予想外の高さに、である。
(こいつは、思った以上にできる)
幽香は、藤原妹紅という人物のことを知らない。
先ごろから人の噂に上ることも多くなった妹紅ではあるが、世捨て人のように生きる彼女はまだまだ無名の人であり、生活圏において重ならない幽香と見える機会はこれまで全くといって無かったのだ。【・・・と、この物語では定義される・・・】
仮に人里でその噂を聞いていたとしても、そこで伝え聞こえるのは竹林に住む変な佳人という程度の内容で、そうした特徴で収まる人物ならば幻想郷に所狭しと蔓延っているものだから、到底幽香の興味を引くものではない。
だから、そうしたどこか浮ついた与太混じりと、最強の妖怪を前にして一歩も引かず弾幕を展開する目の前の人物が、彼女の心中で結び付くような事も無く。
禍々しい炎を背に負う少女は、幽香にとって全くの未知の敵だった。
が、しかし。
(――良いわね。幸先がいい!)
その心に、妹紅の抱いたような疑念が本格的に結することはなかった。
まるきり純粋のように、幽香は妹紅の繰り出す赤紫の弾幕に踊りかかり、溌剌と舞う。
渦を巻いて襲い掛かる楔の流れに半ば巻き込まれるように、くるくると回転し、その実、彼女を軸にして弾幕は横に逸れてゆく。
当たらない、かすりさえしないそれらを見て、またにっこりと笑う。
翳り無き、太陽のような満面の喜色が幽香を彩っていた。
(敵は、強いほど潰し甲斐がある!)
《お約束》を無視するかのような強敵の登場を、ストレートに受け止める。
《予想外の演出》に穿った目を向けず、ただ純粋に楽しむ。
驚きは驚き、疑いは疑いとしてさて置き、場に興じる。
興を殺ぐような懸念など、退屈あって娯楽なし!
それが、風見幽香の妖怪としての本分であり。
長く生きようとも、あくまで人間である妹紅との、根本的な差だった。
光満ちた夜の空、強くなりすぎた妖怪と、力を付けすぎた人間が戦う。
錐揉みに飛んで避け、辺り構わずばら撒いて、狙い澄ませて叩き込む幽香。
瞬時にため眇め、正確無比な構成を編み、逃げ道の先でとどめを刺す妹紅。
正のベクトル、生のベクトルにインフレを起こした過激極まる弾幕勝負は、互いに一歩も譲らぬまま、双方のスペルカードを目減りさせてゆく。
その戦いは、除幕間もない舞台袖にあって、番外【・・・Extra・・・】に値するスケールを誇っていた。
雨花「しとど藤棚」、
香符「フィフスシーズン」、
花符「秘密の園の秘密」は妹紅を三度殺して余りあり。
死刑「烈火の蹶起」、
不動「フランケンシュタインのこめかみ」、
生死「落ちる幼鳳、逝く潜龍」は幽香を絶え間なく楽しませた。
この“死なない人間対最強の妖怪”において、妹紅が対応者となり、幽香が挑戦者となったのは、その場の流れや一瞬の雰囲気によるものであって、もし双方の立場が反転していたとしても、状況は変わらなかっただろう。
どちらであっても変わらないこと。
それは因果が既に引き結ばれている事の証拠であると共に、その光景が仔細を問わない“再生”である事を示す大きな特徴でもあったが、演者にそれをそれとして意識することは叶わない。
惑い無く戦いを楽しむ妖怪と、
惑いつつ疑いを楽しむ人間の、
楽しければそれで良いという短絡とは似て非なる、何事も楽しもうという心構え。
その為に、二人は《最初に対面する相手としては、強すぎる敵との戦い》を、あくまで正規の舞台の上にあるものと思い続け、結果的にそれ以後の舞台に残しておくつもりだった余力【・・・スペルカード。残機数・・・】の大半を消費してしまうのだった。
そしてこの出来事は、
終幕目前の時点に至って二人を壇上から降板させる伏線となり。
展開した可能性の一部を収束させ、
この時点でまだ不定だった重大な要素のうちの一つを確定させる。
要素とは、即ち。
――そのことに先に気付いたのは、幽香だった。
妖怪の身体能力は人間のそれとは比較にならないほど高く、この場合はその感覚、主に聴覚と視覚が働いての“悟り”だった。
それに遅れること数秒して、妹紅もまた同じことに気付いた。
どれだけ長く生きようと、人の形という枷に嵌って生きることを許容する妹紅に、妖怪の超感覚が宿ることは無い。
故に、その順番は必然によるものだった。
が。
矢張り、どちらが先に気付こうとも、あるいは誰も気付かなかったとしても、大筋を曲げるようなことにはならなかっただろう。
その場から誰が逃げ遅れるのかは、この時、既に決まっていたのだから。
** 【導き手 対 導き手。一巻の終わり】
彼女は暢気だった。
何か妙なことが身の回りで起きていることは判っていても、取り立てて騒いだりはしなかった。
いつものことなのだ。
その暢気さのせいで、いつの間にか、彼女はひとりぼっちになっていた。
だから――。
(・・・上空、異常なーし・・・?)
だから彼女は、地上に飛び出てきたのだ。
数十年ぶりだった。
空から降る光を、直接その体に浴びるのが、である。
彼女――タルピー・エウロスカプターは、土竜の変じた妖怪なので、晴天のもとにその姿を晒すことが殆ど無い。
畜生より化生と成ってその習性を改めることは可能だったが、他の多くの妖怪と同じく、姿のみ化け物らしく・・・ここ幻想郷におけるスタンダードに倣って人間の少女の姿をとり、己の素地は大きく残したままにしていた。
様々な妖怪やら何やらが跋扈する地上と比べると、幻想郷の地下はまだしも平和である。
地底の妖怪たちは揃って気長でおおらかであり、好戦的なものは殆ど居らず、無闇に騒ぎ立てる妖精が絡んできたりもしない。
天狗と河童の文明社会とはまた異なった体系を持ち、幻想郷の地盤を支える彼女らの世界は、日陰にあって磐石な、さながらの千年王国だった。
(周囲の人影・・・多分、なし)
タルピーが今いるのは、先程一度は飛び出た地下である。
地下といっても本来彼女の住み暮らす場所よりも遥かに地上に近く、精々地表から五メートル程度の深さだったが、それでもそこは十二分に暗い。
一寸先は土。
光届かぬ地の底で、しかし彼女は見ていた。
《外の景色》を。
(両方、いない、かな。決着がついたのか・・・)
土中社会のなかで、タルピー・エウロスカプターは地下迷宮の交通整理の役目を負っていた。
経緯として見れば、彼女の土の怪にしては少々几帳面な性格が災いして周囲から押し付けられた形だったが、それは実際のところ、彼女の持つ能力からすれば適任なのだった。
暗黒に満ちて、形の決まった道のない地下迷宮では、しばしば妖怪の衝突事故が起こる。
視覚を完全に閉ざした分にある動物であれば起こり得ないことが、なまじ新たな知覚を得てしまったが為に起き得てしまう。
妖怪と妖怪がごっつんこ、というのなら可愛い話で済むが、妖怪と動物が、となると事は重大である。
何しろスピードが違う。
土の怪は動物であった頃と比べ飛躍的に速く潜行できるのだ。
その速さは動物にとってすれば魚雷のようなもので、その接近を予測できても回避はできず、ぶつかられたら怪我どころか命に関わる。
“轢いて”しまった妖怪もただでは済まない。
悪いときは轢かれた動物を起源にする妖怪が激怒して地下裁判に訴えを出し、後は地上、外の世界と変わらない流れに至る。
基本的にあっさりとした性格の妖怪たちであるから泥沼の体を成すことは極めて稀だが、有罪になって地下を追放され、挙句すっかり地上に適応してしまった不幸な(?)蚯蚓妖怪もいた。
そんな事故が年がら年中続くのではとても平和な社会とは言えないし、かといって妖怪は無闇に速度を出さないようにとお触れを出すのも何か筋が違う。空の上には風の速さで飛ぶ妖怪が居るのだ。
そうした事態を収拾するため、事故を未然に防ぐために、タルピーの能力は紛れも無く役立っていた。
(どっちが勝ったんだろう? って、別にそれはいいや)
簡単に言えば、それは光を導く程度の能力、ということになる。
地中の三次元空間に微弱な光の道を作り、本能によりそこを避ける動物達と、僅かながら光を感じ取れる妖怪達とを進路レベルで区別することが、彼女の交通整理だった。
その能力の応用が、今彼女の見ている《上空の景色》である。
みっちりと詰まった土の中であっても、彼女はそこに幽かな光を導き寄せることが出来た。
とは言え、土の怪としては几帳面ながら一般的に見れば大雑把なタルピーであるから、その性格上能力の精度は低く、視界は潜望鏡を覗くようであり、ピントも度々ぼける。
暗闇の中でうすぼんやりとした風景が時折強く瞬いたりする様は中々に刺激的で、タルピー自身の娯楽にもなり、また他の妖怪にも好評である。
普段の彼女ならいっこう気にしないわけだが、今のタルピーには外の情報が必要だった。
もっと早く、より確かな情報が。
幻想郷に何が起こっているのか、ということが。
何せ――今、幻想郷の地下に潜っているのは、タルピーただ一人となっていたのだから。
(やっぱ、よくわからん)
意を決したタルピーは、地表まで数メートルの光の導きを作り、そこを辿って一気に地中を駆け上った。
ずん、と地面を破る瞬間、目を凝らして夜の光を捻じ曲げ、導いて、自分に丁度良い光量に調整し、そのまま勢いで地上へ、空中へと躍り出る。
そこに待っていた景色は、タルピーの予想を裏切らず、星たちが眩く光りすぎる奇妙な夜空であり、先ほど一度飛び出したときと何ら変わることの無い様子を保っていた。
そしてそこには、風見幽香も、藤原妹紅もいない。
軽く遠くを見渡してみても、彼女らが繰り広げた壮烈な弾幕戦の爪痕が木っ端妖怪の残骸という形で残るのみで、空の異常さを除けば、いつもと同じ、静かな幻想郷の空そのものであった。
そこでようやく、タルピーは確信する。
あの二名の超人妖のとばっちりを避け、大騒ぎを首尾よくやり過ごすことができたのだ、と。
(あー・・・助かったー)
タルピーは深く息をついたが、そのことを知っても安心は出来なかった。
情報源とするつもりだったリグル・ナイトバグはタルピーが声をかける前に最強の妖怪に消し飛ばされてしまったので、彼女はこれから自力で幻想郷を駆け、異変についての情報を収集しなければならないのだ。
気の重い話だった。
タルピーには常日頃面倒を避ける土の怪のものぐさが祟ったのだとも思えた。
土の友である虫の怪の代表、リグルだけでなく、もっと色々な輩と知り合っていれば、とも考えていた。
その考えは確かに真っ当なものだった。
妖怪が知遇を増やすことは諍いの種を撒くのと同義ではあるが、永遠に冬眠して何の怪異も齎さないのであれば妖怪としての存在理由が揺らぎ、いつしか消えてしまう。
撒く種が生む諍いを楽しんでこそ妖怪というものである。
無闇に暴れるのも芸が無いが、何もしないよりはマシだ――。
しかし。
タルピーはまだ知らない。
幻想郷の地下に起こっていた異変は、即ち地上にも起こっている異変であったということを。
(それにしても、皆、どこに行ったんだろう)
事前に知り合いを増やしていたとしても、事態は全く変わっていなかっただろうことを。
(やっぱり、あの空の、渦巻きの中心かな)
地上の住人もまた、殆ど全員がその場所に集いつつあるということを。
(暗いのに、明るくて・・・月が、一つだけまあるい)
風見幽香と藤原妹紅が、交戦中に“何”に気付いたのかということを。
(何ていったっけ・・・そうそう、あれ)
彼女のすぐ後ろの中空に、“その人物”がふわふわと浮いていることを。
(まるで、ダンスホールだわ)
逃げ遅れたのは、自分だということを。
「そうねぇ。まるで、怪しい社交場みたい」
タルピー・エウロスカプターは妖怪である。
長く生きて力を得、妖怪に変じた土竜である。
長寿ではあるが、大きな戦闘力は持たず、弾幕戦も得意とは言えない。
言い換えれば、弱い。
そう。
つまりは《最初の相手に相応しい敵》だ。
誰にとってか?
「っっっ!?」
突然に聞こえた声に驚き、振り返ったタルピーの視界に、中央から凄まじい勢いで広がってゆく暗闇。
その正体を見極めるよりも早く、それはタルピーの頭部を直撃した。
ぐしゃっ、と激しくも鈍い音が鳴って、彼女の頭は球状の硬質な何かに押し潰される。
「・・・ぐ・・・」
球状の硬質な何かは、それがタルピーの新たな頭なのだとでも言うように、極めて自然な形ですげ替わっていた。
幾ら妖怪といっても、頭部を一息に潰されて平気でいられるのはほんの一握りの大妖怪だけである。
「・・・ぐ・・・べー・・・」
妖怪としては極めて力の弱いタルピーにそれを耐えられるはずも無く、結局彼女は激痛を感じる前に、情けない声一つ残して意識を閉ざした。
やがて彼女の体が力を失い、夏の夜の光として細々と分解されてゆくと、後には大きな頭――紅白に彩られ、陰陽を象った巨大な珠だけが残った。
それは中空でくるくると高速回転しながら収縮し、持ち主の元に戻ることなく虚空へと消える。
紅白の珠を放った者は、その様を見て呟いた。
「今のも避けられないなんて・・・うーん。
顔色も悪かったし、ひょっとして運動不足だったのかしら?」
――タルピー・エウロスカプターが自分を襲った何者かの素性を知るのは、秋も過ぎて幻想郷の住人が皆この異変のことを思い出す頃まで待つことになる。
温和なタルピーもその時は怒り心頭に発し、一体私を襲ったのは誰だといきり立つのだが、それが表立った行動と結することは後々まで無かった。
理由は簡単。やるだけ無駄だからである。
彼女を襲ったのは、誰あろう、幻想郷の中心。
風見幽香と藤原妹紅が、三つ巴による今以上の損耗を予期して休戦した元凶。
全ての異変をわやくちゃにするジョーカー・キャラ。
最強にして無敵の人間。
空を飛ぶ不思議な巫女。
幽香と妹紅の小競り合いによって決まった最大の要素。
ハートオブエタニティ。
楽園の素敵な巫女さん、博麗霊夢。
東方天畿楽の《主人公》の登壇であった。
<つづく>
● 天畿楽事件! ~ Without distinction of the stone and star ! ●
輝き。
次いで、像を結ぶ景色。
やや遅れて空気の味、ざわめく森の音。
幻想の山道の、草深き薫り。
更に重ねてもう一度、輝き。
はっとするほどに、あるいは信じがたいほどに煌く、夜とも思えぬ夜の星空。
そして来る、私ならぬ者の意識、その追認。
食べた記憶の反芻。
それに伴い、遠のいていく私自身。
一時領域の占拠。
誰とも知れぬ誰かが、己語りに思い起こすような、主体を失った第三象限の口述。
舞台の第一幕。
騒ぎの正面玄関での出来事。
○ 舞台 一 ○
** 【夜中の晴天。人歩飛妖の道】
ぱぁぁーーーー・・・ん、という爽快な音が響いた。
真昼のように明るい真夜中の空に、リグル・ナイトバグが爆ぜる音だった。
粉々の幻想に砕けたその体の構成要素が夏の空気を通して輝き、色とりどりにさんざめいて、やがて何も無くなった。
彼女という妖怪の実相を現世に留めるよりしろであった肉体が、苛烈なる敵の攻撃に耐えられなくなった結果だった。
この程度のことで消えてなくなる儚さであり、また似たようなこの程度のことで蘇る当たり前さのあらわれ。
暫くは季節外れの蟲に脅かされることもないだろう、気の毒なことに――といって、そんな平穏は精々がところ三日も続けばいい方である。
幻想郷という囲いの中にある限り、妖怪が失われることは無い。
それに、後からすれば、リグルにとってその場で実相を失ったのは幸運であったことが判る。
“騒ぎ”に巻き込まれずに済んだ彼女は、巻き込まれたが為に全ての済んだ後暫く《鳴り》を潜めざるを得なくなった他の妖怪と比べ、晩夏を忙しく楽しく、そしてりんりんと五月蝿く過ごすことが出来たのだから。
その時その場所には、もう一人の幸運な妖怪がいた。
幸運な、という表現はつまり、リグルに同じく、その時点においては限りなく不幸であったということだ。
不日見のアズマドラゴン、深き土の友、土竜妖怪タルピー・エウロスカプターは、ただ見ていた。
リグルが立ち現れて、立ち向かい、たちどころに消し去られるまでの顛末、及び、彼女を屠った加害者を。
(あー・・・負けちゃったか。そりゃ、相手が悪いよねぇ)
その名を挙げることは、微かながらリグルやタルピーへの同情の念を呼び起こさせることに繋がる。
薄茶色のサングラスをかけたポンチョ姿の少女妖怪は、そう思いながら密かに合掌した。
それは仕方ないと。
あれは最強なのだからと。
(勝てっこないのに歯向かったのは、あれか。飛んで火に入る何とやら)
性質の悪い謙虚さなど持ち合わせず極めて激しく自己主張するのが妖怪の信条というものだが、そんな彼女たちにもおいそれと最強を自称できない理由が、この幻想郷にはあった。
一つに、基本的には真顔でそんなことを言えるのは馬鹿だけだと思う程度の知性が備わっていること。
一つに、本当に強い妖怪はそんな態度をおくびにも出さないのだという知識を既得していること。
最後に、最大にして、それこそ最強の理由が一つ。
そう自称していることが知れたら、彼女が真っ先に潰しに来ること。
だから、幻想郷でおおっぴらに最強を自称するのはおよそ二名しか数えられない。
先の全ての理由を全く気にせず、また三つ目の理由の根拠によって何度と無く潰されようとも全く懲りない、ある意味で最強と言って言えなくもない、湖上の氷精チルノと。
正しく先の三つ目の理由の根拠そのものであるところの眠れる恐怖、四季のフラワーマスター。
最強の妖怪、風見幽香。
妖怪の無敵、八雲紫と並び称される万年の花妖である彼女は、中空にいる自分を見上げて怯える土の妖怪に一瞥してすぐ、その仕草を真似るように、最早そちらには全く気を払わず空を仰いだ。
夜蟲の怪リグル・ナイトバグを圧倒的な火力、絶対的な花力で押し潰し、スペルカード一枚振るわずに勝利したその顔は、いつも人里に降りる時に見せる穏やかな微笑みと何ら変わるところなく落ち着き払っている。
(何してるのかしら? ・・・なーんて、聞きにいったら、問答無用っぽいしなぁ。こわいこわい。っていうか、強すぎ)
その様子がまた、一介の土怪でしかないタルピーに否応無い恐怖を与えており、そうした恐れ、畏怖心が、彼女にも備わる妖怪本来の闘争心をさえ押さえつけ、彼女の側から幽香に仕掛けるような無謀の選択肢を消し去っていた。
少しでも動けば、リグルの二の舞となる。
彼女はそうした確信を根拠に、いつでも土中に逃げられるよう肩から下を地に潜らせた格好のまま威圧感に身を震わせていた。
その有様を妖怪について無知である人間が見たとしたら、さても臆病な化け物がいたものだと思うことだろう。
さにあらず。
タルピーは人間のように、肉体的なダメージによる苦痛、そこから至る死への無意識に対して恐怖しているのではない。
何故なら、基本的に妖怪は死ぬことが無いからだ。
妖怪の根源は精神なのである。
であるからこそ、彼女は必要以上の恐怖を風見幽香から受け取っているのだった。
世に長じた巨怪を除けば、彼らの殆どは純粋な精神の持ち主であり、人間と比べてはるかに真っ当な性根で生きている。
言い換えれば、素直ということだ。
(うー、怖い。はやくどっか行ってくれないかなぁ)
はなとゆめを操る程度の能力を持つ大恐慌の権化を前に負けん気を保つには、タルピーの経年では荷が勝ちすぎるのだった。
微笑んで空を、明るすぎる夜空を眺め見る幽香は、普段着と同じく紅白チェックの、けれど普段より飾った感の強いドレスを身に纏い、そのスカートを風に靡かせて、正しくその名の通りの風見をしている。
視線は空のある一点を捉えて離さない。
(ああ、もう、目がしぱしぱする・・・首痛い・・・頭がボーっとしてきた・・・)
地面と中空という決定的な距離、及び大本が土竜であるという化生としての特性から、タルピーの細い瞳が幽香の見るものを正確に把握することはできなかったが、しかし花妖の醸す雰囲気からある程度のことは察せられた。
機を測っている・・・何かを待っているらしく、超然と空に佇んでいる。
何かとは何であるかについて、タルピーは多くの考えを持つには至らない。
それ以前に、幽香ほどの妖怪が機を読む必要のある事態の可能性など、今の彼女には考えたくもなかった。
(あの空が・・・あいつを・・・呼んでる、のかな? だとしたら、なんて余計なことをしてくれるんだろう!)
そんな風に悪態をつくのが精一杯である。
そうして、タルピーから幽香、幽香から空の一点という一方通行のにらめっこは、関係性の真ん中にある幽香がポジションを変化させない限りいつまでも続くかのように思われた。
だが。
空の明るさがどうにかなるのでも、幽香がとうとう機を制し動き出すのでも、タルピーの頭が極度の緊張でとうとうどうにかなるのでもなく、全く別の応力によってその場は崩される。
それに最も早く気付いたのは、これまた幽香でもタルピーでも、はたまた現在絶賛再生中のリグルでもなく、偏った形に対峙するタルピーと幽香とを遠くから固唾を呑んで見守っていた近隣の小さな燐火、灯りの妖怪フレア・ホーミングレイだった。
もっとも、フレアがその変化に気付いた時にはもう手遅れで、何だろう、何かが変だな、と思えたのは、全くの一瞬だったのだ。
その変化の正体を彼女が知るのは、リグルよりもやや遅れて十数日を経た後に再生し終えるまで待つことになる。
彼女もまた、幸運で不幸な妖怪だったわけである。
かくして訪れる、閃光と爆発。
一瞬の間を置いて、何かが爆散する破砕音。
轟音は森を揺らし、不自然な炎の残りかすが辺り一面に舞い散った。
見咎めた者が一人としていなかった為に、その残りかすがちりちりと燻って広がるフレアの元五体であったということも知られざるまま、その妖怪は跡形も無く焼失、物語の舞台から姿を消した。
爆音にはただ振り返るばかりだったタルピーは、そこにともすれば山火事へと発展しかねない中空の大火災を目にして初めて幽香から意識を外し、はた迷惑な新手が何者なのかを探るべく穴から少し身を乗り出す。
そうして彼女はいよいよ眩く輝く星空の只中に、その輝きをゆらめかせる不吉な炎が立ち上っている事を察すると、多少弱視気味な瞳をより凝らして、宙に浮かぶ炎の正体を見極めんとした。
が、その瞳はすぐに見開かれる。
(な、なななな、何あれ!)
驚愕であった。
炎の正体は――炎を纏う何者かではなく、炎そのものだったのである。
しかもそれは、発熱するヒトダマが空に浮かんでいるのとは全く様子が異なり、弥増して不吉な雰囲気を誇示していた。
それでいて、空気中の発火物質が自然発火したのでもない。
タルピーは己の驚愕が脅威に、そして恐怖に転じるのを感じ、
(ううう・・・もー勘弁してよぉ!)
すばやく、肩口まで乗り出していた身を、また穴ぐらへと引っ込めた。
その炎のよりしろ、火種となっているモノは、紛れも無く生きた人間であったのだ。
熱力学の原法則を乱す、無限に燃え続ける種火。
最凶の不燃物。月へと辿り着く煙。
あってはならない呪い。
蓬莱の人の形、藤原妹紅の登壇であった。
** 【芸楽の符。永遠亭】
時は一旦、同日の夕方、ようよう日も沈もうかという頃合に遡る。
迷いの竹林に住まいを置き、隠者のように暮らす藤原妹紅。
彼女は、住み暮らす庵にて寝転がり、天井を見詰めていた。
先の出来事【・・・東方永夜抄。永夜異変と呼ばれる夏の夜の異変、及びその原因となった欠けた月の異変を総称した謂い・・・】より人知れず時を刻み始めた永遠亭の住人達と呼応するかの如く、人里にも姿を現すようになった彼女だったが、隠棲生活をやめたわけでは勿論無かった。
竹林の隠者という立場は何といっても気楽である。
特に、彼女のような生き物にとっては。
妹紅は鈍感でもなければ痴愚でもない。
例えば彼女は自分の容姿について、一般的な観点からすればかなり優れた位置にあるという自覚があった。
それは決して自意識の過ぎたるものではなく、先述した人々との触れ合いにおいて里の男子諸君が妹紅を見るに、その視線にいたく篭った熱があるのは確かである。
過たず、自他相認める美人なのだが、しかし佳人というには余りに図太い性根が人にそう称することを許さない。
何故と問うまでもあるまい。彼女は齢千を越す人生の熟達者なのだ。
痴れたることなき彼女は、そうした男子諸君の眼差しに対し、例外なく無愛想の仏頂面を向ける。私はお前に興味が無いぞ、と予め前もって知らしめるためだった。
それで妹紅の意思表示は終わる。そのすげない態度が良いのだという馬鹿は一生馬鹿でいれば良い。
人との係わり合いは、用法・容量を守って正しく。
人間関係というものはいかにも面倒くさく、まるでこじれることを前提に係わり合いが成り立っているかのようだ。
己がそうしたこじれきった関係の最中にあって世に生じたということもあってか、彼女はつまり、孤高の女だった。
単なる孤独であった大本が、かの不死の薬によって昇華した生き様である。
不死の薬は人の生を作り変える。
独りでありながら他者と関わらざるを得ない孤独の生は、そのがたがたな有り様で他者の生を乱す、濁流のようなものだ。
その流れが禁薬により、己の内に閉じる輪っかとなる。
輪が和を為し、人格に均衡を齎す。
またその輪は死者の頭の上に浮かぶ光輪と同じく、他者の人生よりも高みにあって他を望む。
高みにあることで地のくびきを離れ、自在に世を、他者全ての人生の上を行き来できる。
人生の関わりを図にし上面から俯瞰すれば彼女が他人と重なる、関わることはある。
しかしそれはうわべのものだ。
もう一つの次元を導入して図面を空間的に捉えれば、他者の上に浮かんでいる彼女は決して他者と混ざり合うことは無い。
一般人が蓬莱人と関わるというのは、このように表面的なものなのである。
深い闇に包まれた彼女の来歴を思えば、その暮らしぶりが彼女にとっての妥協点に他ならないということは自明だった。
というような講釈とは何ら関わることもなく。
妹紅はよしと勢いをつけ、身を正してすっくと立ち上がる。
そもそもただ漫然と寝転がっていたわけではない。
うやうやと巡らせていた考え事に決着が付くまでの間、無沙汰になった身を寝所に置いていただけの話である。
それが片付いたので、口より手が先な性質の彼女はさっさと動き出す。
軽い身支度を済ませ、取られて困る物も無いからと、戸締りに気を配るようなこともなしにふらっと庵を発った。
無論、要事の為と、スペルカードを見繕ってポケットに仕舞いこむのは忘れていない。
出先で何があるか判らないのが幻想郷というものであるから、これは殆どマナーと言っても差し支えの無い備えだった。
庵から出て暫く、竹を避け避け空を走りゆく。
その向かう先も、向ける視線の先も揺らがないまま。
彼女は迷いの竹林にあって迷うことの無い類稀な人物だった。
それは妹紅の身にかかる呪いが竹林にかかるそれを遥かに上回るためなのか、単純に歩き慣れているということなのか、今となっては判然としないところである。
兎に角、妹紅は一直線に目的地を目指し――やがて、彼女の目の前に粛々とした雰囲気の、しかし暗鬱とはしていない荘厳な屋敷が開けて見え始めた。
永遠亭である。
その時点で、既に妹紅はその心中に悟りを宿していた。
古色蒼然たる永遠亭の佇まいに、記憶にあるものとの微妙な差を感じ取っていたのだ。
また、屋敷の纏う空気感の違いが何に由来するものなのかについても、彼女には何となくではあったが当たりが付いていた。
といって、これは何も藤原妹紅であったから付いた見当ではない。
常人であっても、幾度かこの屋敷を訪れたことがあれば、誰もが同じように感じ取れるだろう。
違和感に、住むものの居なくなった家屋を見たときを思い起こすことで。
果たして、永遠亭は無人と化した訳ではなかった。
迎えを待つはずも無く中に踏み入った妹紅は小一時間ほど広い広い屋敷を探し回ったが、亭の住民の多くを占める兎たち、小さな獣の形か大きな人の形か、いずれ妖怪の類である者どもはいつもの如く至る所に居り侍り、不法侵入者である妹紅に気付いても、「あれれ。いらっさいませー」と気の抜けたことを言う様子で、雰囲気の違いほどに内情の差は出ていないように見えた。
妹紅はしかし、兎たちの様子に特段の疑問を持つこともなく、歩いては襖を開け閉め、黙々淡々と屋敷を探索し続け。
そしてとうとう、遊拠の間と呼ばれる広間に、
「あら? いらっしゃい。何か用?」
旧知でもある妖怪兎の長、因幡てゐがいるのを見つけた。
妹紅は用意していた問いの言葉を差し置き、呆れたように言う。
「何やってんの、あんた?」
呆れ顔を隠しもせず、心底呆れ返っての言葉だった。
呆れられた当の本人はといえば、妹紅のそんな態度もどこ吹く風、顔も合わせず茫洋と応える。
「何にもしてないわー。見れば判るでしょ?」
「あー、確かに何もしては居ないみたいだけど」
何の身も無い返事に対し、これまた蓋も無く妹紅が言う。
実際、てゐはだだっ広い部屋の真っ只中で寝転がり、大判の薄い本を無造作に開いて、時折ぺらぺらと頁をめくりめくりしつつぼうっとそれを眺めており、取り立てて何をするという感じでもなくぼうっとしていた。
どこから手に入れたものか、本は外の世界の雑誌【・・・成人向け週刊誌。有閑なる者の友。日日より目を背ける為の橋頭堡・・・】である。
健康第一を旨とする彼女らしく、頁をめくる手は最新の流行健康法を載せた記事が目に留まるたびに静止しているが、いずれにせよ本身を入れて読むような代物でもない。
そんな様子のてゐだから、改めて訊ねられることは無いだろうと考えた妹紅は、
「でも、つまり、そういうことよね?」
極めて曖昧に、全く直接的でない物言いで以って来意を伝える。
「まぁそうね。お留守番って退屈。こうして来客でもないことには」
事ほどに、対するてゐも心得たものである。
最後にぱらららっと読み流してから雑誌を閉じると、起き上がってあぐらをかき、
「さてと。今、ここ永遠亭は私たち妖怪兎のパライソよ。ご用があっても、取り次がないわ。取り次ぐ先がいないもの」
頤を引いて、上目遣いに妹紅を見て言った。
頭から伸びる二本の兎耳をふかふかと揺らし、邪気無い感じで笑っている。
余裕綽々にする妖怪の態度を受け、何をこの兎風情がと血相を変えるのは凡人の習いである。
天才ならずとも非凡なる妹紅においては、若干の苛立ちこそ表情に浮かべても、真に怒るようなことは無い。
年輪より外れた蓬莱人であっても、今のところ年長者であることが明らかな神代の妖怪兎には敬意を払うのだった。
「ふん。あんたじゃ、話になりすぎてややこしくなりそうだわ。月のがいるでしょ? 呼びな」
太古よりくさぐさの神々をも騙し抜いてきた手練手管を面倒がり、妹紅は受付時点で問合せ先を変えようと試みた。
が、妹紅には気の毒なことに、その訴えは容易く棄却される。
「ざんねんでした。鈴仙も漏れなくお出かけ中よ」
「へぇ? それは珍しい・・・ような気がしたけど、そうでもないのかな?」
「どっちかって言えば、珍しいかも。ま、姫たちとは別口だし、屋敷にいるにはいるわけだけど」
「口が滑ってない? 意図的に」
「おっと、ばれたわー」
大げさに、しまったと両手を広げるてゐの仕草を見て、取り敢えずはこいつと話すしかないらしい、と妹紅は一つ諦めた。
「まぁ、それは今度聞かせてもらうとして。私が来るのを待ってたんなら、お互いとっとと用事を済ませるとしようか」
仕切り直すように腕を前に組んで、慌てた表情を作る兎たちの主に向けて本意を問う。
「あんたに留守番を任せた奴は、全体どこに逐電したのかしら」
てゐも、妹紅の気色が少々引き締まったのを感じ取り、両手は広げたままで作り笑いを止めた。
替わりに浮かぶ表情は、やはり笑みである。
それまでよりも自然でいて、どこか含みのある不敵な笑み。
悪戯っぽさや妖怪らしさに満ちた微笑が、逆に嫌味なく因幡てゐという怪異を縁取っていた。
正しく悪戯っ子の顔でてゐが言う。
「招待状。読んだね?」
妹紅は頷かず、ポケットから取り出したくしゃくしゃの紙を、無造作にてゐに投げて寄こす。
ややコントロールが外れ気味だったが、てゐは胡坐をかいたままの姿勢で難なく受け取った。
「あーあーあー。乱暴だなぁ。上質な紙が台無し」
ぼやくように言って紙を広げ、てゐはそこに目を通す。
「『藤原妹紅様、平素よりご愛顧ありがとうございます』、そうそうこれこれ。うちにも、四通ばかし来たのよ、こんな感じのが」
「でしょうね。輝夜の趣向とは、毛並みが違う。なら、あの暇人は一足先に行ったってことか」
「ご明察」
「あんたが留守番してるのは、兎どもを抑え付ける為? それとも、月の兎のお守りでもしてるのかしら?」
「その両方が半分かなぁ。もう半分は、普通にお留守番よ。あんたみたいなの用に」
「本当は?」
「私の幸運は薄利多売はしない主義なの。大勢の人間が集まる場所は、あんまり行きたくないわ」
「で、本当は?」
「こう見えて色々忙しいのよ? ほいほい外出て遊んでられるほど暇じゃないの」
「で?」
「降参降参。ま、どれも別に嘘じゃないけど、本当は面倒だからよ」
「あのさぁ。私を煙に巻く意味、無いんじゃないの?」
暫く続いた応酬を断ち切って妹紅が言い。
「それとも」
一度言葉を切った後、たかってきた蝿を払うように手で空を斬った。
「――ここで私に煙にされたいのかしら?」
その手が轟、と唸り声を上げると、妹紅の掌はたちまちのうちに業火を宿して歪に猛る。
掌に端を発した不尽の火は瞬く間に妹紅の身体を外や内やと駆け巡り、一息と待つことなく妹紅は炎の化身となった。
首なし不死鳥を後光に据えた蓬莱人の姿。
それは死せる生という不吉の体現に他ならず、生きるもの全てにとっての恐怖の象徴である。
にも関わらず。
てゐは、妹紅のことなどまるで気にしない風に、さっきまでと変わらぬ笑みをたたえて言う。
「おやおやね。留守を狙ってこそ泥かと思えば、押し込み強盗だったなんて」
「水を差さない。それに、引っ込み思案よりはマシだわ。で、やる気はあるのか、ないのか」
「ないわー」
「って。ないの? 折角挑発してあげてるんだから、ノってくればいいのに」
「ないない。でも、このままじゃお屋敷ごと燃されちゃうかな?」
「放火魔よりは引っ込み思案の方がマシね。炭になるのがあんただけになるよう、努力してみるわ」
「怖いねぇ。怖いから本当のことを言っちゃうけど、実は既に本当のことを言ってるのよ」
「どれも少しずつホントなのは判ってるわよ」
「判ってるなら話は早いわ」
「どれよ」
「判ってないわねぇ」
ますます燃え盛る妹紅の炎を受け止めてなお涼しい顔で、うっすらと苦笑するてゐ。
「まぁそこらへんが人間の人間たる由縁かなぁ。私みたいなのには、そういうのが良いんだわ」
そう言うと、彼女は組んでいた足を解き、ゆっくりと立ち上がって妹紅に目を合わせる。
「なら、親切に教えてあげるとしますか・・・」
妹紅が怪訝そうに、警戒を強めててゐを見る。
てゐは不敵な笑みをそのままに、妹紅の視線を受け止めていた瞳を閉じ、胸の前で勢い良く両の手の平を合わせ、ぱしーーーん、と軽快な音を鳴らしたかと思うと、口篭るように口元をむにゃむにゃと動かし始めた。
直後、てゐの動きに開戦を予感して覇気を放つ妹紅に先んじて。
てゐは言った。
「藤原妹紅、貴方の感じたとおり。
今、この屋敷に、永遠亭の住人はいない!」
ぼん。
一言の後、気の抜けた爆音と共にてゐの姿が黒煙と化す。
妹紅も少し面食らって、その内心が一瞬驚きに凍てつく。
てゐの行動を過たず攻撃の合図であったのだと看做し、躊躇無く振るうはずだった片腕を止め、蟠る煙を暫し眺める。
そして妹紅が、
(こんなことも出来たのか、この兎・・・)
と、素直な気持ちで目前の出来事を評価した、正にその時。
今度こそ、妹紅は驚愕すべき物を見る。
(ああ、流れ星だ)
はじめ、妹紅はそう感じた。
どこからともなく現れた、眩い輝きを放つ小さな“何か”を、流れ星だ、と思えること。
それは正しく、彼女が人間であること――少なくとも人間であったことを証明する、懐郷という病に侵される生き物特有の感性、その発露だった。
《流れ星》は、てゐの居た場所に蹲る黒煙に向かって、妹紅の感覚を肯定するかの如く、流星のように飛来した。
閉じた屋敷の閉じた部屋、夜空など見えるはずも無い場所で、平常見られる情景でないことは妹紅にも判っている。
そして今自分の居る場所が、平常見られないことを毎日起こしうる幻想の郷であることもまた、彼女の意識の範疇にある。
しかしだからこそ、目を凝らして再びその《流れ星》を見た妹紅は、そこから今、この郷で、《何かが起きている》ことを察することが出来た。
瞬き輝く星のごときそれは――『芸』と書かれた一枚の黄色い御札だったのだ。
【・・・芸符(大)。東方天畿楽の得点システムに関わるアイテム、芸符のうち、一つにつきEnterポイントを一千点加算するもの。幻想的曲芸 ~ Acrobatic Fantasyのうち、グレイズや敵ボスへの撃ち込み等の伝統芸能によって得られることはまず無く、特定ザコ撃破やスペルカード取得等によって出現する場合が殆ど。単一の得点量では芸符(小)の百倍だが、既述の通り得る手段が限られ確定的であるため、プレイ全体の振る舞いによりクリアまでの取得量が大幅に異なってくる芸符(小)と比べ稼ぎの研究対象となることは少ない。Extraステージでは芸符(小)が全く出現せず、しばしばEnterポイントとスコアがインフレを起こす・・・】
御札は煙の周りで一度円を描くと、次第にその中心へと吸い寄せられ、一本の渦巻きを軌跡として、ちゃり、と軽い音を最後に煙の中へと消えた。
《流れ星》の登場によりすっかり呆気に取られ、いつの間にやら不尽の炎も引っ込めてしまっていた妹紅も、そこに至ってはっとなり辺りを見回した。
言うに及ばず、流星の御札の出所を探してのことだったが、遊拠の間は広くこそあれ何かが隠れるには向かない開けた空間であるので、いくら引っ掻き回そうとも無意味である事は二度三度首を回すだけで明らかになる。
妹紅は部屋の中の捜索を素早く切り上げ(諦め)ると、部屋の中心で未だ蟠る黒煙への対処について暫時思いを巡らせた。
一分。
それだけ待っても黒煙が一切の動きを見せなかったことで、妹紅はこう察して永遠亭を退去する意思を纏める。
(六十秒は長い。その半分でも普通厭きる。《演出としては待たせすぎ》だ。つまり。ここはまだ《舞台の上》じゃない)
纏まった意思に従って身を翻し、妹紅はすたすたと、黒煙に背を向けて部屋を辞する。
去り際に一度振り返り、黒煙を一瞥してそこに少し心を残す様子を見せたが、我が思いを振り切るようにぴしゃりと襖を閉じ、妹紅は広間から消えた。
視点は未だ、誰もいなくなった遊拠の間に残る。
妹紅の立ち去った後も、無人の部屋に常なるはずの静けさは遊拠の間に訪れなかった。
なおも居続ける黒煙が、ぐむぐむと暗雲立ち込める幻想の音を響かせていた為だった。
四半刻が過ぎた。
外では、迷いの竹林を抜け出た妹紅が、今宵起こっている異変の最も判りやすい形、明るすぎる夜空を見て、そこに輝く全ての星が実は星ではなく、先程見たばかりの芸と書かれた符の瞬く様であるということに気付き、その中心へと高速で飛び立った頃。
遊拠の間の襖を開ける者がいた。
「あー、疲れたわー」
ずずー、とかったるそうに勢い無く襖を滑らせて入ってきたのは、つい先刻まで遊拠の間で自堕落な姿を晒していた因幡てゐその人である。
てゐは部屋に蹲るように立ち上った黒煙を見ると、
「ありゃ? はわぁ、ふぇ。ふむ。ふー。えーっと、まだいたの、あんた」
欠伸をしながら言った。
余裕たっぷりに緊張の欠片も無く発せられた言葉は、この妖怪の素の姿のように素く、邪気無く響く。
途端、広間を一陣の風が舞った。
風に吹かれ、黒煙は見る間に洗い流される。
そして黒煙に取って代わり、そこには人の形が姿勢良く座っていた。
「ふー。私も疲れた。ようやく術が解けるわ」
大儀そうに息をついて言う口調と声質は明らかに少女のもので、その姿は一目見て妖怪であることが判るほど奇異な格好であり、まるきり妖怪=少女という図式の中に収まっている。
橙と赤を基調に所々黄と黒の縞が入った派手派手しい衣服には袖が無く、刺青に大陸風の意匠が施された両腕はその背丈に比すると少々長い。
襟に巻いた黄巾をネクタイのように前に長く垂らし、金属らしい光沢に輝くピンで衣服に留めている。
短めの頭髪は乱れているが、手入れされていない感じではなく、清潔感を伴った金色の癖っ毛である。
特筆すべきは、厚塗りの化粧によると見られる不自然に白い顔面と、そこに二つ置かれた丸い頬紅。
そして、同色の髪に隠れてもその存在を強く主張する、金属製の頭飾り。
てゐは奇態な白面の人物の表れにも全く動じず、
「まぁまぁ、お疲れさんだわ。お互いに。秘蔵のがあるのよ。どう、一杯?」
気さくに持っていた酒瓶を振り上げて言った。
白面の人物は一瞬その表情を喜びに輝かせたが、すぐに首を振ると、掌を前に突き出して言う。
「だめだめ! あんたがやるだけやって飲み食いするのは結構だけど、こちとらまだお仕事中なの。思うに多分、今幻想郷で一番忙しいのって、私よ。あっちこっち大変なんだから、団長のせいで!」
もう、と白面の人物が息巻く。
てゐはにやにやと嫌らしく、実に楽しげな表情を浮かべる。
白面の人物に対面する形で座り込み、酒蓋を妖獣本来の怪力をもって素手で開け、「手酌で失礼するわー」と言い置いて杯に注ぎながら話し始めた。
「大変だとか何とか言ってぇ。物凄く生き生きしてるじゃないの」
「そりゃあもちろん! 何十年、いや何百年? とにかく、待ちに待った大規模公演なんだもの。血湧き肉踊るわー!」
「うーん。そんなに楽しそうにされると、私も見に行きたくなってきたかも」
「って、優待券はもうあげないわよ。ウサギ皆で見に来るからって何百枚も持っていっておいて、堂々とテント前でダフ屋なんて始められるとは思ってなかったもの。おかげで当日券受付で常連の宇宙塵さんたちが大行列作っちゃって、これもだから大変なんだってばもー! もー!!」
「落ち着きなさいってば。もーもーって、牛じゃあるまいし」
「まぁ落ち着くけど。あんたの留守を替わったお陰で、団長の言ってた人にも直接会えたし」
「あ、やっぱり来たの? へぇ。あいつも、あんたの所の劇団に興味を持ったってこと?」
「別に社交性が無い風でもないしね。むしろサーカスが来て見に来ないほうが不自然よ」
「それは言いすぎね」
「まぁそのくらいの気概でこっちはやってるってことよ。それにしても何なのあの人?」
「何って、大体千年くらい生きてる変な人間だけど」
「それはいいのよ。注意深すぎだってこと。お屋敷出てからもずっと気配探られて凄い緊張しちゃったわ。背中一つかけやしない。黒風変化なんてあんまり使わないから、あと半刻粘られたらやばかったわよ」
「他の芸でも何でも使えばよかったじゃない」
「定期的に使わないと忘れるのよ。人の芸だからあんまりおおっぴらには出来ないし」
「パクリは良くないわねぇ」
「猿真似と言って欲しいわ。それに、騙しはいいの?」
「忙しいんじゃないの?」
「ああそうだった。こんなところで鳥獣談義してる場合じゃないわ」
「ま、終わったらまた来るといいわよ。面白い新顔がいるから会わせたいし、姫や永琳さまも多分喜ぶ」
「はいはい。そんじゃ、また今度」
今度、と言い残した瞬間、再び一陣の風が部屋に舞い、それに巻かれるように白面の少女の姿はかき消えた。
取り残されたてゐはといえば、ひたすら大儀そうな顔をしてその場に寝そべり、
「ただの留守番とはいえ。待つ身は辛いわねぇ」
何にも動じない様子でそう呟く。
自分に留守を任せて暢気に出かけていった、この屋敷の主たちへの親しみ深い悪態だった。
かくして、遊拠の間の景色は妹紅が来る前と全く同じ形となった。
そこにある、外の騒ぎとは隔絶された静けさは、永遠亭のあるべき形の一面である。
永遠亭は出来上がってからその有様を変えた事はない。
静けさが時折かき乱され、また元に戻るのも永遠性だからだ。
さて。
ここで、視点は暗転する。
藤原妹紅が得た見地について考察しよう。
永遠亭は騒ぎの舞台の上にはなく、あくまで舞台裏であり、蚊帳の外であるという認識だ。
それは確かに正しい。
本来この場面は、物語の中で進行形をとって語られるべきではなく、後に一行の回想を以って振り返られる程度の重みしかないポイントである。
単純な話、あってもなくても大差はない筈だ。
が、実際は既述の通りである。
舞台の外は、こうして俎上に上った。
その理由は、もうある程度察することが出来るだろう。
白面の妖怪少女。
彼女の存在と、その意味する役どころ。
“騒ぎ”の元凶、全ての事の裏で暗躍する彼女がそこを去り、因幡てゐと後の再会を約したこと。
それは取りも直さず、永遠亭及び因幡てゐ、付け加えるなら面白い新顔【・・・鈴仙・優曇華院・イナバ。東方天畿楽の事件当夜は自室で布団に包まり、数百年後の未来、人間の作った計画都市でのホームステイ、即ち自己調律による時空旅行中・・・】が、以後この物語に登場しないことを約するのと同じ意味を持つ。
その為すところは、因幡てゐの代理人であり、その成すところは、主役格の登壇である。
藤原妹紅を舞台に引きずり出すこと。
始まりの一つを演出すること。
これらはつまりプロローグであり、バックストーリーである。
物語の内に取り込まれることはなく、別途の手段で伝えられる前提の情報なのだ。
では、それが語られたのは、何故か。
この物語自体が、本来の形とは異なった形で伝えられようとしているからだ。
実際の事件【・・・東方天畿楽・・・】における沿革から外れ、全てを三人称による追体験として行う。
ならば、バックストーリーはメインストリームの内側に入り込むことになる。
スピンオフとして。
ノヴェライズとして。
アナザーケースとして。
ショートストーリーとして。
語られるべく語られるのではなく、省かれたものを、省かれたそのこと自体を所以にして今一度蘇らせる。
そこにおいて。
実際の事件における主役、博麗霊夢、藤原妹紅、風見幽香の三名以外に、主たる視点を置かれるべき者があったが為に。
このシーンは物語に組み入れられた。
白面の彼女の動向は、省くわけにはいかなかったのだ。
名を、星金剛花果。
ほしこんごう、はなか。
不老長寿の桃を食い万年の生を得、あらゆる妖術と仙術を極めた仙猿。
道教を踏み外し仏法に帰依し、やがては小悟した、金星由来の隕鉄人。
“騒ぎ”を彩る大サーカス団の、押しも押されぬ千両役者。
彼女の退場に合わせ、時と場所は、前章へと引き戻される。
芸楽の符が空に渦を巻く、明るすぎる一夜。
人歩飛妖の道へ。
** 【前哨。花と火の弾】
取り交わしも無く、暗黙のうちに二人の攻守は決まっていた。
弾幕戦において攻守を定める場合、両者は《挑戦者=オフェンス》と《対応者=ディフェンス》とに分かれる。
挑戦者は対応者の弾幕を回避しながら攻撃し、スペルカードの生み出す“場”、“舞台”を破壊する。
対応者は挑戦者の攻撃をかわしてはならないが、挑戦者に一発でも有効な打撃を加えればその“場”は勝利となる。
このルール自体、暗黙的なところがあり、これといって取り決めも無く用いられているのだが、今や人妖たちの間ではデファクトスタンダードである。
攻守の概念によって駆け引きの幅は広がり、妖怪のワンサイドゲームとならない程度の戦略性が生まれる。
つまり、人間が妖怪退治をしやすく、ひいて幻想郷の活性化に繋がる環境設定なのだ。
余りにも戦力差がはっきりしている場合を除けば、であるが。
ところで。
弾幕戦は知恵比べであり、力比べである。
知恵も力のうちと捉えれば単純な力比べとも言えるが、しかし使い方を誤った力に意味は無い。
無意味は弾幕戦における無力を意味する。
力を振るうだけで勝てるほど簡単な決闘ではないのだ。
術数の限りを尽くし、計算の果てに生み出された有意な弾幕こそが美しく咲き誇る。
鬼気迫るそれら弾幕たちの吹き荒ぶ中を、負けじと美しく舞って身をかわし続ける。
攻め手も受け手も、その立ち居振る舞いで己の有り様を相手に見せ、勝利への強固な意思を表現、演出すること。
屈服させ従わせるのではなく、意気を通じて認め合うこと。
それがこの決闘方法の本質だった。
全くの無意味なスペルカードはその存在が許されることは無く、賢者の協定により取り潰しとさえなるとも言われる。
それ以前に製作者自身、意味の無いスペルカードを使う事は自分の意思に意味が無いこと、突き詰めて言えばおばかさんであると証明することに他ならないと判っているから、皆素直に熟考し、面白いスペルの構築に励む。
人間と妖怪、いずれの精神性もそうやって高められる。
これぞ良循環、インフレスパイラルの幕開けであった。
そして。
インフレの極みにあって、とっくの昔に精神も肉体も高まり尽くしてしまった所謂最強クラスの妖怪にとっての弾幕戦は、最早そうした求道の精神をかなり遠くの地平にさて置いて、より一層娯楽の要素、エンターテイメント性を強める方面に発展している。
驚きすぎて開いた口が塞がらない。
面白すぎて笑いが止まらない。
美しすぎて涙が止まらない。
楽しすぎて――もう、やめられない。
そうやってエスカレートしてゆく弾幕表現は、それが確かに使用者の個性を最大限に顕示しているが故に、いくつかの例外を許容していくことになる。
例えば、全くの視界外から唐突に弾の壁を押し寄せさせるスペル。
例えば、ばら撒かれた弾を相手の意識さえ揺るがす振動と共に軌道変化させるスペル。
例えば、時空を思いのままに操って不可避とさえ思える弾道を構成するスペル。
反則ギリギリ、否、反則上等の、面白さ重視。
そう。
例えば。
全くの出し抜けに光渦巻く夜空を灼き貫いた、光の洪水。
「 花符「閃光華火」 」
光と音の速度差。
一条の巨大な光芒が天を二つに分断する光景に、遅れてスペル宣言がやってくる。
更に一歩遅れ、ぶぅううううううううううううううううううううううぅん、と光の筋が夜を割いて唸り声を上げる。
山道に響き渡る轟音は木々をざわめかせ、耳にする全ての生き物に対し圧倒的な存在感を放った。
あまりにも強すぎる力を一切恥じることなく、高く空に向かって誇示するという意思の発露。
暴力的なまでの質量と、無駄遣い極まりない魔力の奔流。
その場において最も気高く君臨する王者の花。
複雑な弾道構成の何するものぞ。
私の道に敵う者なし。
挑戦者、風見幽香から、対応者、藤原妹紅への、有無を言わせぬボム・アタック。
支配者の閃光(マスタースパーク)。
それが彼女に許された、既に弾でもなければ幕でもない、そのものずばりの反則。
反則の光は暫しの間夜空に居座り、ふぃいいいいいいいぃん、と残響を伴って山々を戦慄かせ続けた。
もしこの時、閃光の向く先を、空にある幽香が気紛れについと地面へ滑らせたなら、いかに肥沃で頑丈な倭の原風景たる大地であってもその表面を激しくめくり上げられ、当然と森の木々は見る影も無くずたずたに引き裂かれていただろうが、これもまた当然と、彼女はそれをしなかった。
花を操る能力がさせる自覚、ではない。
それは弾幕戦という決闘方法に宿る精神であると同時に、世に長じた妖怪である幽香の心得る美意識の現れでもあった。
無抵抗なる者は戦うに値しない。
と、いうよりも、抵抗するだけの気概さえ持っていないのなら、嬲るには値しない。
他の克己を好み、尚且つその克己心を根底から叩き潰す己の行為を好む。
そういった意味で幽香は、万人の恐怖でありながら、万夫への優しさに満ちた妖怪だった。
弾幕戦を通じて最強という言葉を量れば、自ずと知れるところである。
常日頃太陽のように咲かせる微笑は偽らざる彼女の本心であって、人を謀る浅はかさには全くといって染まっていないのだ。
うぅぅぅぅぅぅ・・・、と空気の震えが萎んでゆくのにつれ、夜空を支配していた迸りも細っていく。
強烈な光が消え、その場は再び、瞬く謎の星空による恒常的な明るさに包まれた。
そしてその凪いだ、静かな幻想郷の空。
風見幽香は一人、手前に日傘を構えた優雅な姿勢で、朗らかに笑んでいた。
一人。
一人である。
藤原妹紅の姿は、日傘の切っ先が向かう空のどこにも見当たらない。
無人の空。
その光景は、見るものに厳然と一つの事柄を示す文字通りの空虚だった。
日傘は、その先端から膨大な魔力を放出していた余韻か、軽く添えた幽香の手の内でひとりでにくるくると回っている。
そうした日傘の遊びを、幽香は暫く慈しむように眺め見てから、添えた手の握りを強めることで止めた。
手元に落とした視線を上げ、右に一度、左に一度、交互に首を振ってあたりを見回し。
幽香は小首を傾げ、困ったような表情で言った。
「あぁ・・・もしかして、直撃? それは、あんまり考えてなかったかもだわ」
その頬を、幻の汗が一滴垂れて流れていた。
さっきまで居た奴が、攻撃の後、見当たらなくなったのなら。
虚ろの空が、危惧を肯定するかのような夏の夜の涼風を吹かせ、幽香の頬の一筋に冷気を齎す。
寒いな、と幽香は自分の頭が冷えていくことに気付き、冷える程度に元々温まっていたのだということに同時に気付いた。
(かなりの使い手っぽいから、手加減無しでやったのに、なんて。耄碌したかな)
冷めた空気に、今しも言い訳めいた言葉が口をついて出そうになるのを押し留め、幽香は空を振り仰ぐ。
力量を見誤ることこそ無力の証――などと殊勝な悔いに浸る幽香ではない。
彼女の心中に通っていたのは確かに己の行為を悔いる想いだったが、最も強く根ざしているのは「勿体無いことをしたものだ」という気持ちだった。
ひゅっ、と手首だけで日傘を振り、その力でぱたむ、と傘を閉じる。
端から深い理由もなく切り出された弾幕戦であったので、幽香に強い悔恨が生じることもなく、ただ何となく、得られるはずだった楽しみを自分から手折ってしまったことへの拍子の抜けた感覚が残っていた。
幽香は天空の渦を見る自分の目を、傘を持たない一方の手で覆い、あちゃあ、という仕草で今しばらく空に佇んだ。
その彼女の暗黒を、天に響いた高らかな宣言が暴く。
「 「リザレクション」 ―― 呪符「ムラサメパレスの謎」 」
キン、と拍子木を鳴らすように軽く涼やかな音が鳴って、夏の空に一息で広がる。
立て続けに夜を渡った、カン、カカン、カカカカン、カカカカカカカ、という軽妙な清音で、幽香はそれらの起因たる弾幕の戦意を明敏に察した。
妖怪の闘争本能はその身をためすがめる者の気配を正しく伝え、理性に知らせる。
幽香の悔恨はあっという間も無く消えていた。
戦闘を続けることが出来る喜びと、確かに消滅したように思えた敵対者が再び現れたことそれ自体への期待の前に、灯された悔悟の火は弱々しすぎたのだった。
幽香は口だけで楽しそうに笑うと、感じ取った敵の居場所に加え、カカカカと心地よく鳴る音色を補助情報として、形作られてゆく弾幕細工の精緻なる完成形の確固たるイメージを一見もしないうちに思い描いた。
全周囲を覆うように展開された、紫と赤の楔が織り成す弾幕。
それがささいな切欠で綻びを生じ、崩れゆく弾たちが塊となって、断続的に幽香の元へ雪崩れ込む。
一秒と待たずにそこまでの想像に辿り着き、幽香は閉じていた両目を薄く開ける。
そしてその細い視界に、幾重にも張り巡らされた弾の連なりと、その向こうの禍々しき不死鳥、ただ無傷であるような藤原妹紅の姿を認めた途端、彼女は動いた。
決して急がず、ただ緩やかに。
風に舞う花のように。
縦横に格子を描く紫と赤の線、その構成要素である楔弾の密な列が、敵の直近を初めとして四方八方に少し揺れた後、一列ずつ一斉に敵へと集う。
呪符「ムラサメパレスの謎」。
密度、速度、不規則性等の面から見て申し分ないスペルであり、予想される被弾率は極めて高い。
最強の妖怪に相対してこれを振るう術者――藤原妹紅の技量と意味力の高さが窺い知れる強勢の業である。
が、幽香は巧みに己の身体(ヒットカーソル)を攻撃から外し、時にはわざと近寄って、頬や首筋を掠めんばかりに迫る楔の群れと戯れるように、紙一重でかわしてゆく。
その身のこなしに応えた日傘がまたひとりでに花開き、くるくると回ると、幽香の周囲に湧き出て数多輝く小さな光【・・・芸符(小)。高速移動時にグレイズすることで大量に発生する、稼ぎを主としたプレイにおいて欠かすことの出来ないアイテム。同時に、Enterポイントを芸能審査の成否のみ、即ち表面と裏面の選択時にのみ意識するクリア目的のプレイでは然程重要とはならない・・・】を巻き上げては、尖端に集めて吸い込む。
小気味良くちゃりちゃりと鳴る燐光を身に纏い弾幕と踊りながら、幽香は同時に攻勢に転じてもいた。
細かな身振り手振り、優雅な仕草の一つ一つが種々雑多な妖花を中空に幾千と咲かせ、時折混ざる大振りな動きに合わせてそれらを前方広範囲に撃ち放ってゆく。
大雑把にばら撒かれた破壊力を持つ花たちは、紫の縦列、赤の横列と交錯して風に乗り、より広く散ばる。
敵の生み出す弾幕の“場”を、確実に切り崩すべく。
放たれた、雨のように降る花々の、その一つ一つが電動のこぎりのように回転して、結界をこそぎ落してゆく。
背の鳳凰が翼を羽ばたかせて生み続ける弾幕はまるで通じず、完全にその意を汲まれて避けられる。
彼女の弾幕が、スペルカードが破られるのは時間の問題である。
そんな劣勢を前にして、妹紅は笑っていた。
幽香と同じく、ただしこちらは眉を落とし、若干苦笑気味ではあったが。
様々な感情を孕んだその顔には、意外さと呆れ、落ち着き、そして取り分け大きく驚きが表れていた。
(別に楽しいからいいけど・・・、うーん、びっくりしたなぁ)
驚きを疑念へと転じ、妹紅はその正体に思いを巡らせる。
何が彼女を驚かせたのか。
言うに及ばず――語るに如かず。
それは、対面する妖怪、風見幽香が、正しく“最強の妖怪”であるということだった。
その異名を耳にしたことが無くとも、幽香の弾幕力が一般のそれとは一線を画すレベルにあることは、弾幕戦のプレイヤであれば誰の目にも瞭然である。
ましてや、既に妹紅は幽香によって《殺されている》のだった。
今宵の異変の累から逃れられはしないらしいと感じ、起きるであろう戦いへの覚悟を済ませていた妹紅を、掟破りとはいえただの一撃で葬り去ったという事実は、幽香の存在が、妹紅の培ってきた人生の経験則を大幅に上回っていたことを証明していた。
ただし、この時。
彼女の想像を上回っていたのは、風見幽香の圧倒的なまでの戦力自体よりも。
(こういう大物は、もっと先々になってから、満を持して出てくるもんじゃないのかしら?)
強すぎる敵の早すぎる登場という、《異変の舞台構成》そのものだった。
妹紅と逆転した立場にある幽香も、状況に対して一定の驚きを感じてはいた。
妹紅と同じく、相手の実力の予想外の高さに、である。
(こいつは、思った以上にできる)
幽香は、藤原妹紅という人物のことを知らない。
先ごろから人の噂に上ることも多くなった妹紅ではあるが、世捨て人のように生きる彼女はまだまだ無名の人であり、生活圏において重ならない幽香と見える機会はこれまで全くといって無かったのだ。【・・・と、この物語では定義される・・・】
仮に人里でその噂を聞いていたとしても、そこで伝え聞こえるのは竹林に住む変な佳人という程度の内容で、そうした特徴で収まる人物ならば幻想郷に所狭しと蔓延っているものだから、到底幽香の興味を引くものではない。
だから、そうしたどこか浮ついた与太混じりと、最強の妖怪を前にして一歩も引かず弾幕を展開する目の前の人物が、彼女の心中で結び付くような事も無く。
禍々しい炎を背に負う少女は、幽香にとって全くの未知の敵だった。
が、しかし。
(――良いわね。幸先がいい!)
その心に、妹紅の抱いたような疑念が本格的に結することはなかった。
まるきり純粋のように、幽香は妹紅の繰り出す赤紫の弾幕に踊りかかり、溌剌と舞う。
渦を巻いて襲い掛かる楔の流れに半ば巻き込まれるように、くるくると回転し、その実、彼女を軸にして弾幕は横に逸れてゆく。
当たらない、かすりさえしないそれらを見て、またにっこりと笑う。
翳り無き、太陽のような満面の喜色が幽香を彩っていた。
(敵は、強いほど潰し甲斐がある!)
《お約束》を無視するかのような強敵の登場を、ストレートに受け止める。
《予想外の演出》に穿った目を向けず、ただ純粋に楽しむ。
驚きは驚き、疑いは疑いとしてさて置き、場に興じる。
興を殺ぐような懸念など、退屈あって娯楽なし!
それが、風見幽香の妖怪としての本分であり。
長く生きようとも、あくまで人間である妹紅との、根本的な差だった。
光満ちた夜の空、強くなりすぎた妖怪と、力を付けすぎた人間が戦う。
錐揉みに飛んで避け、辺り構わずばら撒いて、狙い澄ませて叩き込む幽香。
瞬時にため眇め、正確無比な構成を編み、逃げ道の先でとどめを刺す妹紅。
正のベクトル、生のベクトルにインフレを起こした過激極まる弾幕勝負は、互いに一歩も譲らぬまま、双方のスペルカードを目減りさせてゆく。
その戦いは、除幕間もない舞台袖にあって、番外【・・・Extra・・・】に値するスケールを誇っていた。
雨花「しとど藤棚」、
香符「フィフスシーズン」、
花符「秘密の園の秘密」は妹紅を三度殺して余りあり。
死刑「烈火の蹶起」、
不動「フランケンシュタインのこめかみ」、
生死「落ちる幼鳳、逝く潜龍」は幽香を絶え間なく楽しませた。
この“死なない人間対最強の妖怪”において、妹紅が対応者となり、幽香が挑戦者となったのは、その場の流れや一瞬の雰囲気によるものであって、もし双方の立場が反転していたとしても、状況は変わらなかっただろう。
どちらであっても変わらないこと。
それは因果が既に引き結ばれている事の証拠であると共に、その光景が仔細を問わない“再生”である事を示す大きな特徴でもあったが、演者にそれをそれとして意識することは叶わない。
惑い無く戦いを楽しむ妖怪と、
惑いつつ疑いを楽しむ人間の、
楽しければそれで良いという短絡とは似て非なる、何事も楽しもうという心構え。
その為に、二人は《最初に対面する相手としては、強すぎる敵との戦い》を、あくまで正規の舞台の上にあるものと思い続け、結果的にそれ以後の舞台に残しておくつもりだった余力【・・・スペルカード。残機数・・・】の大半を消費してしまうのだった。
そしてこの出来事は、
終幕目前の時点に至って二人を壇上から降板させる伏線となり。
展開した可能性の一部を収束させ、
この時点でまだ不定だった重大な要素のうちの一つを確定させる。
要素とは、即ち。
――そのことに先に気付いたのは、幽香だった。
妖怪の身体能力は人間のそれとは比較にならないほど高く、この場合はその感覚、主に聴覚と視覚が働いての“悟り”だった。
それに遅れること数秒して、妹紅もまた同じことに気付いた。
どれだけ長く生きようと、人の形という枷に嵌って生きることを許容する妹紅に、妖怪の超感覚が宿ることは無い。
故に、その順番は必然によるものだった。
が。
矢張り、どちらが先に気付こうとも、あるいは誰も気付かなかったとしても、大筋を曲げるようなことにはならなかっただろう。
その場から誰が逃げ遅れるのかは、この時、既に決まっていたのだから。
** 【導き手 対 導き手。一巻の終わり】
彼女は暢気だった。
何か妙なことが身の回りで起きていることは判っていても、取り立てて騒いだりはしなかった。
いつものことなのだ。
その暢気さのせいで、いつの間にか、彼女はひとりぼっちになっていた。
だから――。
(・・・上空、異常なーし・・・?)
だから彼女は、地上に飛び出てきたのだ。
数十年ぶりだった。
空から降る光を、直接その体に浴びるのが、である。
彼女――タルピー・エウロスカプターは、土竜の変じた妖怪なので、晴天のもとにその姿を晒すことが殆ど無い。
畜生より化生と成ってその習性を改めることは可能だったが、他の多くの妖怪と同じく、姿のみ化け物らしく・・・ここ幻想郷におけるスタンダードに倣って人間の少女の姿をとり、己の素地は大きく残したままにしていた。
様々な妖怪やら何やらが跋扈する地上と比べると、幻想郷の地下はまだしも平和である。
地底の妖怪たちは揃って気長でおおらかであり、好戦的なものは殆ど居らず、無闇に騒ぎ立てる妖精が絡んできたりもしない。
天狗と河童の文明社会とはまた異なった体系を持ち、幻想郷の地盤を支える彼女らの世界は、日陰にあって磐石な、さながらの千年王国だった。
(周囲の人影・・・多分、なし)
タルピーが今いるのは、先程一度は飛び出た地下である。
地下といっても本来彼女の住み暮らす場所よりも遥かに地上に近く、精々地表から五メートル程度の深さだったが、それでもそこは十二分に暗い。
一寸先は土。
光届かぬ地の底で、しかし彼女は見ていた。
《外の景色》を。
(両方、いない、かな。決着がついたのか・・・)
土中社会のなかで、タルピー・エウロスカプターは地下迷宮の交通整理の役目を負っていた。
経緯として見れば、彼女の土の怪にしては少々几帳面な性格が災いして周囲から押し付けられた形だったが、それは実際のところ、彼女の持つ能力からすれば適任なのだった。
暗黒に満ちて、形の決まった道のない地下迷宮では、しばしば妖怪の衝突事故が起こる。
視覚を完全に閉ざした分にある動物であれば起こり得ないことが、なまじ新たな知覚を得てしまったが為に起き得てしまう。
妖怪と妖怪がごっつんこ、というのなら可愛い話で済むが、妖怪と動物が、となると事は重大である。
何しろスピードが違う。
土の怪は動物であった頃と比べ飛躍的に速く潜行できるのだ。
その速さは動物にとってすれば魚雷のようなもので、その接近を予測できても回避はできず、ぶつかられたら怪我どころか命に関わる。
“轢いて”しまった妖怪もただでは済まない。
悪いときは轢かれた動物を起源にする妖怪が激怒して地下裁判に訴えを出し、後は地上、外の世界と変わらない流れに至る。
基本的にあっさりとした性格の妖怪たちであるから泥沼の体を成すことは極めて稀だが、有罪になって地下を追放され、挙句すっかり地上に適応してしまった不幸な(?)蚯蚓妖怪もいた。
そんな事故が年がら年中続くのではとても平和な社会とは言えないし、かといって妖怪は無闇に速度を出さないようにとお触れを出すのも何か筋が違う。空の上には風の速さで飛ぶ妖怪が居るのだ。
そうした事態を収拾するため、事故を未然に防ぐために、タルピーの能力は紛れも無く役立っていた。
(どっちが勝ったんだろう? って、別にそれはいいや)
簡単に言えば、それは光を導く程度の能力、ということになる。
地中の三次元空間に微弱な光の道を作り、本能によりそこを避ける動物達と、僅かながら光を感じ取れる妖怪達とを進路レベルで区別することが、彼女の交通整理だった。
その能力の応用が、今彼女の見ている《上空の景色》である。
みっちりと詰まった土の中であっても、彼女はそこに幽かな光を導き寄せることが出来た。
とは言え、土の怪としては几帳面ながら一般的に見れば大雑把なタルピーであるから、その性格上能力の精度は低く、視界は潜望鏡を覗くようであり、ピントも度々ぼける。
暗闇の中でうすぼんやりとした風景が時折強く瞬いたりする様は中々に刺激的で、タルピー自身の娯楽にもなり、また他の妖怪にも好評である。
普段の彼女ならいっこう気にしないわけだが、今のタルピーには外の情報が必要だった。
もっと早く、より確かな情報が。
幻想郷に何が起こっているのか、ということが。
何せ――今、幻想郷の地下に潜っているのは、タルピーただ一人となっていたのだから。
(やっぱ、よくわからん)
意を決したタルピーは、地表まで数メートルの光の導きを作り、そこを辿って一気に地中を駆け上った。
ずん、と地面を破る瞬間、目を凝らして夜の光を捻じ曲げ、導いて、自分に丁度良い光量に調整し、そのまま勢いで地上へ、空中へと躍り出る。
そこに待っていた景色は、タルピーの予想を裏切らず、星たちが眩く光りすぎる奇妙な夜空であり、先ほど一度飛び出したときと何ら変わることの無い様子を保っていた。
そしてそこには、風見幽香も、藤原妹紅もいない。
軽く遠くを見渡してみても、彼女らが繰り広げた壮烈な弾幕戦の爪痕が木っ端妖怪の残骸という形で残るのみで、空の異常さを除けば、いつもと同じ、静かな幻想郷の空そのものであった。
そこでようやく、タルピーは確信する。
あの二名の超人妖のとばっちりを避け、大騒ぎを首尾よくやり過ごすことができたのだ、と。
(あー・・・助かったー)
タルピーは深く息をついたが、そのことを知っても安心は出来なかった。
情報源とするつもりだったリグル・ナイトバグはタルピーが声をかける前に最強の妖怪に消し飛ばされてしまったので、彼女はこれから自力で幻想郷を駆け、異変についての情報を収集しなければならないのだ。
気の重い話だった。
タルピーには常日頃面倒を避ける土の怪のものぐさが祟ったのだとも思えた。
土の友である虫の怪の代表、リグルだけでなく、もっと色々な輩と知り合っていれば、とも考えていた。
その考えは確かに真っ当なものだった。
妖怪が知遇を増やすことは諍いの種を撒くのと同義ではあるが、永遠に冬眠して何の怪異も齎さないのであれば妖怪としての存在理由が揺らぎ、いつしか消えてしまう。
撒く種が生む諍いを楽しんでこそ妖怪というものである。
無闇に暴れるのも芸が無いが、何もしないよりはマシだ――。
しかし。
タルピーはまだ知らない。
幻想郷の地下に起こっていた異変は、即ち地上にも起こっている異変であったということを。
(それにしても、皆、どこに行ったんだろう)
事前に知り合いを増やしていたとしても、事態は全く変わっていなかっただろうことを。
(やっぱり、あの空の、渦巻きの中心かな)
地上の住人もまた、殆ど全員がその場所に集いつつあるということを。
(暗いのに、明るくて・・・月が、一つだけまあるい)
風見幽香と藤原妹紅が、交戦中に“何”に気付いたのかということを。
(何ていったっけ・・・そうそう、あれ)
彼女のすぐ後ろの中空に、“その人物”がふわふわと浮いていることを。
(まるで、ダンスホールだわ)
逃げ遅れたのは、自分だということを。
「そうねぇ。まるで、怪しい社交場みたい」
タルピー・エウロスカプターは妖怪である。
長く生きて力を得、妖怪に変じた土竜である。
長寿ではあるが、大きな戦闘力は持たず、弾幕戦も得意とは言えない。
言い換えれば、弱い。
そう。
つまりは《最初の相手に相応しい敵》だ。
誰にとってか?
「っっっ!?」
突然に聞こえた声に驚き、振り返ったタルピーの視界に、中央から凄まじい勢いで広がってゆく暗闇。
その正体を見極めるよりも早く、それはタルピーの頭部を直撃した。
ぐしゃっ、と激しくも鈍い音が鳴って、彼女の頭は球状の硬質な何かに押し潰される。
「・・・ぐ・・・」
球状の硬質な何かは、それがタルピーの新たな頭なのだとでも言うように、極めて自然な形ですげ替わっていた。
幾ら妖怪といっても、頭部を一息に潰されて平気でいられるのはほんの一握りの大妖怪だけである。
「・・・ぐ・・・べー・・・」
妖怪としては極めて力の弱いタルピーにそれを耐えられるはずも無く、結局彼女は激痛を感じる前に、情けない声一つ残して意識を閉ざした。
やがて彼女の体が力を失い、夏の夜の光として細々と分解されてゆくと、後には大きな頭――紅白に彩られ、陰陽を象った巨大な珠だけが残った。
それは中空でくるくると高速回転しながら収縮し、持ち主の元に戻ることなく虚空へと消える。
紅白の珠を放った者は、その様を見て呟いた。
「今のも避けられないなんて・・・うーん。
顔色も悪かったし、ひょっとして運動不足だったのかしら?」
――タルピー・エウロスカプターが自分を襲った何者かの素性を知るのは、秋も過ぎて幻想郷の住人が皆この異変のことを思い出す頃まで待つことになる。
温和なタルピーもその時は怒り心頭に発し、一体私を襲ったのは誰だといきり立つのだが、それが表立った行動と結することは後々まで無かった。
理由は簡単。やるだけ無駄だからである。
彼女を襲ったのは、誰あろう、幻想郷の中心。
風見幽香と藤原妹紅が、三つ巴による今以上の損耗を予期して休戦した元凶。
全ての異変をわやくちゃにするジョーカー・キャラ。
最強にして無敵の人間。
空を飛ぶ不思議な巫女。
幽香と妹紅の小競り合いによって決まった最大の要素。
ハートオブエタニティ。
楽園の素敵な巫女さん、博麗霊夢。
東方天畿楽の《主人公》の登壇であった。
<つづく>
こんなもん睡眠時間削ってでも読むしかないじゃないか!
幻惑されるような言の葉は、いつものshinsokkuさんとしか言いようがないのですが、オリジナル要素過多ということもあっていつもより解りやすさを優先してくれてるのかな? オリキャラも含め、設定や状況がイメージ的に掴みやすく、いつも以上に物語を楽しめました。
宇宙を巡る芸夢団と、幻想郷の住人たちが織り成す絢爛舞踏。
眩しすぎて目が眩み、華々しすぎて忘れるしかなかった物語。
続きを、早く続きを――
鈴仙について、『あの星には会いたい人がいるのさ。』とリンクしてるのが地味に嬉しかったり。
あと、作品集その46に序章があるということを記しておいたほうがいいんじゃないかと思います。
風呂敷の大きい話は好きなので続きに期待。
門板のオリキャラスレで「これ本編じゃね」とか思いながら見ていたあれですね。
てゐと彼女との会話でなんとなくどこかで見たような覚えがあったのですが、なるほどそういうことで。
あまりに「らしい」出来映えは、きっと幻想郷的な何かかな。
1面の時点で見つけてしまったのは、次が待ち遠しくて心乱されるのか、あとでまとめて読んだほうがよかったと後悔するか。はて。
あとは個人的に妹紅と幽香はお気に入りなので補正値+10点でw
続きに期待!
団長ちょうたのしみです!
てゐも、もこもオリキャラもいい味出してるし…ええぃ、次はまだか!
あと霊夢鬼畜だよ霊夢
言葉にリズムがありますね、続編が待ち遠しい
いいなぁ、このゆるゆると話が始まっていく感じ。
少々説明すぎる部分もあるように感じますが、やっぱり一話目たるものこうでないといけませぬ。
あの刻符インフレは一度味を覚えると癖になる中毒性が。
でも高速でカスるところは妖々夢のイメージかな。
ともあれ、ゲーム化が楽しみです。
ものっそい楽しめましたが、次への期待を込めてこの点数で。