******
人生が死ぬまでの退屈しのぎなら、退屈した時人は死ぬ…わかるかい?
わからないだろうね…
ピウス五世
******
揺らめいた大気の先に、踊る影が見えた。
天には雲も無く、ただ中秋の満月が孤影悄然として佇む。
その月に翳るようにして、二つの人の形が浮かび上がる。
ゆらゆらと揺れる天蓋が、尋常ではない出来事が起きているのだと示していた。
其れは、有り得ぬ光景であった。
熱に拠って歪んだ大気が、月の姿を溶けたバターの様に変えていた。
その様な大規模な現象を引き起こす熱源など、秋の中空に本来存在する筈もない。
自然には起こりえぬ現象、ならば其れを引き起こすは人外の異形であろうか。
轟音が響く。
踊る影はその苛烈さを増して、輝きを散らす。
それは恐るべき化生の者達の舞踏である。
だと言うのに。
秋の夜空で爆ぜる紅い炎は、喩えようも無く、ただ美しかった。
******
大気が灼けている。
断末魔の叫びが聞こえると共に、辺りを紅く染めていた炎が消えた。
妹紅は息を一つ吐き、炭化した其れを見下ろす。
人肉を食らう、下級の妖怪の死体である。顔すら判別できぬほどに焦げた其れは、ヒトとはかけ離れた体格をしていた。
幻想郷の夜は暗い。加えて、この様な妖怪が闇の中に数多と蠢いている。
ただの人間ならば一夜と生きられまい。
ならば矢張り、彼女はただの人間では無かった。
-不死
妹紅の持つ属性である。
吸血鬼や鬼などよりも遥かに高いレベルの不死力は、多神教の下位神と同じ域に達している。
変化する事なく流れ続ける永い時間は、ただの人間として生まれた身には過ぎた呪いとなっていた。
「羨ましいヤツ…」
恐らく苦悶、もしくは恐怖の表情をしているであろう炭化した其れの顔を見つめ、呟く。
殺される瞬間、殺された後。
この妖怪は何を思い、何を見たのか。
背を向け、歩き出す。ふと思い立った様に妹紅が振り向くと、死体から炎が噴出し、完全な塵となった。
風に乗って塵が往く。その様を興味が無さそうに一瞥すると、妹紅はより深い闇の中へ消えた。
******
十月の西には、郷愁を誘う夕焼けが広がっていた。
晩秋の夕暮れは人間、人外を問わず心を惑わせる。
胸を締め付ける様な侘しさ、届かない過去への羨望。
慧音は甘く落ちる様な鬱を感じ、夕焼けから目を反らした。
夕焼けの僅かな時間が過ぎれば、明日の満月に向けていよいよ美しさを増す月が現れるだろう。
月が中天に差し掛かる頃には友人との約束がある。
それまで少しだけ眠ろうと、慧音は読みかけの本を閉じ、静かに目蓋を下ろした。
この感傷を抱いたまま眠れば、きっといい夢が見られる筈だ。
そうして静かな寝息が聞こえ始めた頃、一筋の涙が頬を伝う。
矢張りと言うべきか、その涙は、とても幸せな色をしていた。
******
ただ月が昇ってくるのを眺めている。
今の彼女には目的などない。知りうる限りの娯楽も尽きた。
只々流れる時間に身を任せ、麻痺した心を更にすり減らし。
いつ来るとも知れぬ終わりを待つのだ。
-終わってくれれば、良い。
終わりを求めるほど強く想っているわけではない。
この考えは彼女の絶望の現れである。
求めても得られる物ではない。ならばせめて。
終わってくれるのを待つ。
それまでは在らねばならない。
夜半を過ぎれば、この擦り切れた心を揺り動かしてくれる者が来る。
それまで、彼女は何かに縋るかの様に。
ただ、月が昇ってくるのを眺めていた。
******
それは古く美しい幻想。
この世界が出来てまだ間もない頃の話。
遥か海を隔てた大陸の、どこまでも広がる平原でただ一匹の獣が静かに眠る。
獣の名は白沢。総てを知り、総てについて語りうる全知の魔獣。
偉大な獣たちでも最古の者。彼らの始祖である。
彼は世界についての総てを知っていた。彼は世界について深く絶望していた。
-今のこの世界からはこれ以上何も知りえぬ。
知識を求め、ヒトを捨て、何時しか知識を求めた理由すら捨て、力の全てを知識を得る為だけに費やした。
そうして総てを知り尽くしてしまった後、彼には何も残らなかった。
今や彼に残された時間は僅かであり、遥か後の世に生まれてくる新たな事象について知り、語る時間は残されていない。
獣の咆哮が響く。人間から酷く外れてしまったその声が、はっきりとした悲しみを帯びていた。
やがて掠れた声で偉大なる獣は語り始める。
今まで知り得た全ての事を。
近くには偉大なる獣の死臭を感じたか、死肉を食らう卑しき獣が数体集まっていた。
獣は語り続ける。
彼らの為に。
世界の為に。
否、誰の為でもなく、何の為でもなく、ただ衝動に突き動かされる様に。
二万と十八日後の夕暮れ、偉大なる獣は語りの途中で息絶えた。
近くには数体の獣の姿があった。だが彼らは既に卑しい獣ではない。
彼らは既に白沢の一族であった。白沢の語りによって、彼らの心には知性と誇りが芽生えていた。
-始祖が語った知識は、彼の知識の億分の一にも満たぬ。
-始祖に近づく為に。始祖の悲願を果たす為に。
更なる知識を求め、偉大なる獣たちは中秋の満月の下で別れた。
これが、白沢の一族の始まりである。
******
月が翳った。
直後、妹紅の体は左肩から腰にかけて袈裟に斬られ、地に伏す。
-何が起きた?
不死の身ではあるが、傷はそれこそ死ぬほど痛い。
妹紅は何とか起き上がろうと試みるが、既に下半身と上半身は完全に断絶していた。
一撃で、何の迷いもなく、気配すら悟らせず。
ここまで綺麗に殺されたのは長い人生の中でも初めてだ。
右腕だけで顔を上げる。その拍子に綺麗な色をした内臓が地面に零れた。
そして、
其れを目にしても、妹紅は其れが何なのか理解する事ができなかった。
月の明るい夜である。
暫し以前、いや、遥か昔より夜闇を友として生きてきた妹紅には明るすぎるほどだ。
だと言うのに、多寡が数歩先に居る其れが。
月に照らされ、返り血を浴びた其れが。
よく見知った顔をしている其れが。
一体誰なのか、判別できない。
「閉じよ、【村正】。…ほう、まだ生きているか」
面白い、と詰まらなそうに呟き、其れはハンマーの様な物を空中に出現させた。
柄が短く、形は定形を為さずに絶えず轟と共に変化を続けている。
轟の正体は雷鳴だ。紫電の光が全体を覆い、尋常ならざる力を周囲に放出している。
「偽式【ミョルニル】。打ち砕け」
ハンマーが妹紅の頭蓋に振り下ろされる。
為す術などある筈もない。その頭蓋は雷鳴と共に微塵の欠片に打ち砕かれた。
「閉じよ。…偽物とは言え神代の武器、人間程度では跡形も残らぬか」
人間は大して変わっておらぬな、そう呟くと、其れは空高く飛翔した。
「調子は上々である。却説…」
「お前、誰だ?」
すぐ後ろから聞こえた声に其れが振り向く。
其処には、たった今上半身と下半身を切断され、頭蓋を微塵に砕かれた人間が五体満足で浮いていた。
「幻術か、否」
-手応えはあった。確かに殺した筈である。
「その体は慧音の物だな…慧音はどうした?」
「もう一度殺せば判る事か。偽式【アンサラー】」
言葉を唱え終わると同時に、其れの手には剣が握られていた。
刀身はこの世に存在するあらゆる物よりも遥かに薄かった。
いや、言ってしまえば刃は通常の次元には存在していなかった。
刃には厚みが存在しなかった。概念上でしか存在出来ない厚み零の刀剣が、概念と現実の壁を切り裂いて顕現したのだ。
紛れもなく神域の魔術である。一度発動すれば、人の身で防ぐ事は不可能に近い。
妹紅が先に攻撃を仕掛けようとした瞬間。
厚みの無い剣劇、一筋の閃光が妹紅の胴体と首を切断していた。
-絶対先制。
攻撃の為の行動を起こそうとした瞬間には、既に致命的に遅れている。
「閉じよ…ふむ、首を落としても死なぬか。永遠が何処かに入っておるな。旧い式。必滅を免れる代償が限りなく不滅。月の術式。カドを増やす事による限りない存在強化」
蓬莱の者か、と今までずっと変わらなかった表情が微かに歓喜を表す。
落ちていく首が炎となり、爆ぜるようにして拡散した後には五体満足な妹紅の姿があった。
「あんなヤツらと一緒にするな。質問に答えろ」
「如何な偽物の神器であるとは言え、傷が完全に再生している。果たして、殺しきれるものか」
そう言って其れは歓喜の表情を浮かべながら何も無い空間から槍を取り出す。
その体が、ぐらりと傾いだ。
「ぐ…ぅ…。未だ…支配ならずか…明日こそは…」
「慧音!」
妹紅は落下していく其れを受け止める。
既に気配は消え、感じ取れる気配は慧音の物となっていた。
静かに寝息を立てている。
衰弱はしているが、常日頃の慧音と比べ、変わったところは見受けられなかった。
「………」
妹紅は地面に降り立つと、ゆっくりと慧音の体を下ろした。
何が起きたのかは、目が覚めてから訊けば良い。
何故か明日の月が昇るまでは安全だと言う確信があった。
隣に寝転ぶと、妹紅はすぐに眠りに落ちた。
******
白沢だ、そう慧音は言った。
体の中に居た者の正体を尋ねた妹紅に対しての答えである。
既に日は高く昇っている。時刻は昼を越えようと言うところか。
「始祖の死を見て、或る白沢は巨大な術式を編んだ」
元より白沢も死すべき存在である。だが白沢が知り得る事に対して、後世に語り継ぐと言う手段では到底追いつく事ができない。
たとえ生涯を全て費やしたとして、語る事ができる量は知り得る事の万分の一にも満たぬ。
それでは始祖に追いつく事など出来ぬのだ。
ならば、
自己を永遠に保存したまま、知識を集めれば良い。
そして彼はある術式を完成させた。
「まず彼は始祖が歩んだ道、始祖が【成った】手段を簡易化し、術式化して世界に広める事で、人間から白沢に【成りやすく】した。私のような白沢の始まりだ」
妹紅は正体だけ分かれば良いと言うのに、慧音はその歴史まで語り始める。
「そしてその術式の中に自分の精神を憑依させる術式を仕組んだ。ある条件が満たされるとその術式が発動し…」
-限りなく始祖に近い、原初の白沢が現れる。
「彼の目的は只々知識を得る事だけ。だがその為ならばどんな事でもする」
「…それで、憑依を解除する方法はあるのか?」
「この術式は数日の間だけしかもたない筈だ。…いや、それだけあれば彼にとっては十分なんだろう」
昨夜出合った力が、他の者に向けられる。その意味を妹紅は考えた。
-生き残れる者など僅かであろう。
否、生き残れる者など果たして居るのか。不死である自分に対してさえ彼は殺しきる気で居たのだ。
一度殺されれば死ぬ人間たちが、あの太古の魔獣を相手に生き残れるのか。
「いや、私には関係ない事か」
そもそも全ての者に対し攻撃的とも限らないのだ。
話を聞く限りではあくまで知識を得るのが目的であって、無意味な殺生などはしない筈である。
「妹紅…」
「悪いが私は逃げさせてもらう。あんなのを相手にしてたら命がいくつあっても足りないからな」
元より、
他人の事などどうでも良い。
ただ慧音が無事ならば、それで良いのだ。
無力な者がどうなろうと知った事ではない。そんな事の為に使う、安い命は持ち合わせていない。
「…妹紅、頼みがある」
それでも。
妹紅は、もう一度あの獣と戦うだろうと言う確信があった。
「白沢を止めてくれ、妹紅」
慧音は、人を守る為に知識を得たのだ。その事を妹紅は知っている。
無力を嘆く大人の為に。涙を流す子らの為に。
全ての理不尽の悪から、人々を守る為に。
ならば、続く言葉は分かりきっていた。
そして、自分が慧音の頼みを決して断らない事も。
「もし誰かに累が及ぶ事になるのなら…私を殺してくれ、妹紅」
******
十月の西、その先に日は落ち、世界は闇に覆われる。
彼女はいつもそうする様に、ただ月が昇ってくるのを眺めていた。
擦り切れた心が微かに震えるのは、恐怖故か。
いや、その何とも形容出来ぬ感情は微かな熱を伴い、彼女の精神を奮い立たせていた。
これより開幕するは、人外などと言う枠を超えた本物の魔獣との闘争である。
だと言うのに、彼女の心に恐れはない。
ただ在るだけだった彼女は今この時、確かに生きていた。
-人生が死ぬまでの退屈しのぎならば、退屈した時人は死ぬ。
そう言ったのは誰だったか。
気付けば彼女は笑みを浮かべていた。
間もなく訪れる親しい友人を待つような、穏やかな笑みを。
焔の羽を広げ、月まで届くように高く飛び上がる。
月を遮った影は、何度でも蘇る不死鳥の様に見えた。
******
「人間、殺される準備は出来たか」
月が中天に差し掛かる頃、白沢は現れた。
聞き慣れた声の筈なのに、冷たく厳かな印象を受ける。
謂わばそれは傾聴すべき知者の声なのだ。
「答えぬか。否、我すら未だ知り得ぬ貴様の死、語りえぬのは当然か」
いつの間にか白沢の手には槍が握られていた。
見た限りではただの槍である。昨夜見た神代の武器の様な威圧感も感じられない。
だが油断は出来ない。あの獣がただの槍などを持ち出す筈がないのは重々承知している。
「一つ答えろ、語る者よ」
「…なんだ、人間」
彼は知識を得る者であり、語る者である。この様な手順を踏めば質問には答える。
妹紅はそう慧音から聞いていた。
「私を殺した後、お前は何をする?」
「…ふむ、手始めに村落の住民を採取するとしよう。人間とは時代に拠って随分変わるモノだ。…惰弱な部分は変わらぬがな」
白沢はそう笑って言い捨てると、槍を宙に固定した。
穂先は真っ直ぐに妹紅を向いている。
「…そうか。ならやる事は決まった」
炎が巻き上がる。
周りの空気が歪み、陽炎が立ち昇り始める。
赤く、紅く。夕焼けの様に空を染めるその色は、妹紅の心の中で燃え盛る決意の色だ。
「私がお前を止める。来い、白沢」
******
「偽宝【莫野の宝剣】」
槍を空中に固定したまま、白沢はそう宣言した。
現れたのは刀身が光で出来た剣である。柄の部分には貴金属・宝石が惜しげもなくあしらわれている。
これが只の剣であるならば、避ける必要などない。己の不死性を頼りに反撃すればいいのだ。
しかし妹紅は回避を選択した。相手の力が強大である以上、なるべく危険を侵すべきではないと判断した為だ。
飛来した宝剣をかわす、その直前。
光で出来た刀身が微かに伸び、その結果妹紅の腕にかすり傷をつける。
同時に首にぷつりと切れ筋が入る。
首に出来た切れ目が広がり始める。
それを認識した妹紅は、脳と体が断絶される寸前に意識を集中、自己再生を起こす。
-触れただけで、首が飛ぶ。
成る程、只の人間であれば恐るべき威力を発揮するであろう。
だが妹紅は只の人間ではない。この程度の威力であれば、幾らでも捌ききれる。
「不死【火の鳥 -鳳翼天翔-】」
広げた掌の上で生成された、小鳥ほどの大きさをした炎の鳥は、放たれると共に大きな焔の鳥へと変貌して白沢へと襲い掛かった。
「偽宝【荒風旄】」
鳳凰を模した巨大な焔の鳥は、しかし出現した旗の前に掻き消えた。
旗から放たれたのは冷気である。瞬時にして凍りついた大気中の水分が、きらきらとした光を放っていた。
ダイアモンド・ダストだ。冷却された大気が悲鳴の様な甲高い軋みを上げた。
その光が、またも一瞬にして燃えさかる紅にとって変わる。
掻き消えた筈の焔の鳥が空気を戦慄かせ蘇る。
今や冷気すら焼き尽くし、鳥は一直線に白沢へと向かう。
「ほう…閉じよ、【莫野の宝剣】、【荒風旄】。偽宝【太極図】」
焔の鳥が白沢に接近し、命中するかと思われた瞬間、
焔の鳥は妹紅の目の前に現れた。
「なっ…」
スペルを解除する。
途端、焔の鳥は声も上げずに消滅した。
「…空間操作か」
まるでどこぞの隙間妖怪の能力である。
「閉じよ。ふむ、この程度ではまだまだ死なぬか。矢張り…」
槍を使うか、そう言って白沢は槍を手に取った。
「偽釘【エレナの聖釘】」
白沢が宣言した瞬間に、既に妹紅の手足には釘が打ち込まれていた。
「拘束術式、磔刑【聖者は磔にされました】」
痛みを感じながらも、それでも釘を抜こうとした瞬間。
妹紅は微塵も動けない事に気付く。
いつの間にか腕は広げられ、体全体で十字を示すような体勢で空中に固定されていた。
「ふむ、より効果が強くなっておる様だな。ならば」
この槍の効果も強化されておろう。
そう言うと、白沢は槍を軽く放り投げる。
緩やかに上昇した槍は、頂点に達したところで勢いを変え、妹紅のわき腹に突き刺さった。
「ぐ…ぁあああああああああああああ!」
「偽式【グングニル】」
壮絶な痛みの中、妹紅の目には銀色の光を放つもう一本の槍が見えた。
銀色の槍は、ミョルニルと同様に不定形だった。だが一瞬として槍でない瞬間は無かった。
周りを紫電が覆っていたミョルニルと違い、銀色の槍はただ神気だけを放っている。
もう一つ違っている点がある。存在力である。
周りに存在するあらゆる物、白沢すらも霞んで見える存在力。世界がぼやけ、ただ銀色の槍だけが妹紅の世界の全てになった。
真っ直ぐに飛来した銀色の槍は、妹紅の左胸に突き刺さり、心臓を完全に破壊する。
世界を丸ごと飲み込んだ様な苦痛が、体内で荒れ狂う。
それでも妹紅は死なない。否、死ねないと言った方が正しいか。
発狂には十分すぎる痛みを受け、それでも発狂すら叶わず。
数秒後には完全な再生が始まる、
筈だった。
「閉じよ【グングニル】。発動せよ、神殺【ロンギヌス】」
「あ…」
胸に突き刺さっていた槍が消え、わき腹に突き刺さったままだった槍が怪しく光る。
妹紅は、初めて死が近づいてくるのを実感した。
-落ちていく。
落ちていく場所は一面の闇である。
その闇の先に、失われていく自己への悲しみと、微かな安らぎがあった。
傷の再生は、始まらない。
「其れは聖人の【死】を確認した槍だ。死んだ者が其れに刺されると、彼の者以外蘇る事など叶わぬ」
基督教圏の祈りが反転して、呪いとなってキリスト以外の復活を妨げる。
そこから蘇るには、呪いを完全に跳ね返す事が必要となる。
だが一個の存在である者にとって、その呪いを弾く事など限りなく不可能に近い。
対不死者用最終術式。
「それがこの槍だ。念を押して本物を召喚した故、これが駄目ならば」
却説、どうしたものか。
白沢は興味に燃えた瞳で妹紅を見つめる。
そして妹紅の意識は、完全な闇の中へと落ちていった。
******
このまま眠れば、ようやく死ねる。
闇の中で、ぼんやりと妹紅は月を見上げていた。
只ひたすらに永かった。
生きる事などとうに止めて、最早ただ在るだけだった。
これ以上は在りたくない。
自分が見る最後の物が、あの美しい満月ならば、それだけでも良かった。
疲れた一日の終わりに、自然に眠るようにただ妹紅の意識は暗闇へと落ちていく。
いよいよ目蓋を閉じ、眠りに身を任せようとした瞬間。
声が聞こえた。
其れは、
無力な者を助ける為に、力を求めた者の叫び。
擦り切れた自分の心を、ただ一人癒してくれた者の嘆き。
助けを求める、友の声。
妹紅の目蓋が開かれた。
不死の炎が燃え上がる。ならばまた、不死の煙は満月へ届くようにどこまでも立ち昇って往く。
暗闇を焼き尽くすように紅く輝く光は、晩秋の夕暮れの色をしていた。
「リザレクション!」
最早迷いなど無い。
一直線に、妹紅は満月へと飛び上がって行く。
そして、
ヒトの身には破れぬ筈の呪いが、破れた。
******
轟と言う音がして、妹紅の肉体が炎と化した。
拘束術式を焼き尽くし、槍を焼滅させ、炎が拡散する。
後に残ったのは塵だけである。
その塵が、炎を吹き、人の形を成し…
塵よりよみがえり、妹紅が其処に立っていた。
「…素晴らしい。これは…」
「慧音…今日だけは、お前の為に生きてやる!【フェニックス再誕】!」
数多の焔の鳥が白沢目掛けて打ち出される。
天蓋が歪む。月が溶ける。轟音が響く。
生まれ出でた歓びに甲高い鳴き声を上げて、焔の不死鳥の群れは真っ直ぐに秋の夜空を翔けて往く。
「我、遂に新たな事象に到達せり!往くぞ不死人、塵も残さん!浄炎【ソドム】・浄炎【ゴモラ】!」
対して、白沢は歓喜に顔を綻ばせながら宣言する。
断罪・浄化の属性を…否、【神性】を帯びた炎が出現した。
如何なる術式の為せる技か、現れたのは正真正銘の神の炎である。
対象に関係する全ての存在を、此岸から焼滅させる窮極の神技。
放出される神気だけで周囲の人間までもが塩の柱に成って果てる、その炎に対して。
数多の焔の鳥は融合し、一つの巨大な不死鳥となった。
両者が激突する。法則と法則が互いを喰らい尽くそうとする、紛れもなく神の領域の闘争である。
荒れ狂う空間・時間・存在。-世界-。
その中に在っても妹紅は微塵も揺らがず、白沢へと問いかけた。
「答えろ白沢!お前は何の為に力を、知識を得た!」
「始祖の悲願を果たす為也」
自分が何をしようとしているのか、妹紅は自分でも驚いていた。
らしくない事をしているのは分かり切っている。
「じゃあ始祖は何故知識を求めた!力を求めた原点は何だ!」
「…其れは…」
それでも、訊かずには居られない。
問いの答えは分かっている。確信がある。
慧音の心の中にあった物。
人間の心の中に輝く光。
今、妹紅の心の中でも燃え盛る、強い答え。
遠く、遥か昔に消えたと思っていた。だが、今確かに胸を焼くこの気持ち。
「其れは…」
「誰かを!守る為だろうがッ!」
神の炎が、不死鳥に押され始める。
白沢は更に強力な術式を…妹紅に打ち勝てる術式を、歴史から検索する。
返ってくるエラー・エラー・エラー。
勝てる術式が、見当たらない。
否、威力で勝る術式は幾らでもある筈だ。
だがそれらを用いたとて妹紅には絶対に勝てない。白沢自身が強くそう思ってしまっている、その結果なのだ。
「何故だ…」
何故この女は、これ程までに強いのだ。
ただ知識を求める為だけに在り、常にそう在った彼には、その理由が理解出来ない。
「何故…勝てない…」
遂にソドムとゴモラを喰らい尽くした不死鳥が甲高い雄叫びを上げた。
その腹を突き破って、炎を纏った妹紅が白沢の眼前に飛び出す。
「自分で考えろ!この大馬鹿野郎ッッッ!」
そして、
勢いと体重が乗った右ストレートが、白沢の顔面を捉えた。
******
「我の負け、か…」
夜は静けさを取り戻し、月は丸い形を取り戻している。
空を翔ける化生も、歪む天蓋も消え、頭上には只々美しい夜空が広がるばかりである。
「ああ、お前の負けだ。出直して…いや、やっぱり出直すな」
「新たな疑問が…見つかった…答えを…探さねば…」
「おい聞け。せめて後ちょっとだけこの世にしがみついて私の言う事をちゃんと聞けって何どっか行こうとしてんだ別にいいけど二度と来るなよ。…あークソ聞いてないな」
白沢の気配が薄れていく。何処に流れていくのかはわからない。きっと妹紅が感知できない次元を通っているのだろう。
そして残ったのは、寝息を立てて眠っているボロボロの慧音と、死なないけど色々なところが痛い妹紅だけである。
妹紅はその場で仰向けに寝転がった。
視線の先には満月がある。
いつもただ空虚な気持で見上げていた其れが、今夜だけは美しく思えた。
それだけで、今回の騒動の報酬は十分だと妹紅は思った。
しばらく月を眺め、やがて睡魔が襲ってきたところで、
「ああ、退屈だ」
そう言って、彼女は静かに眠りに就いた。
了
人生が死ぬまでの退屈しのぎなら、退屈した時人は死ぬ…わかるかい?
わからないだろうね…
ピウス五世
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揺らめいた大気の先に、踊る影が見えた。
天には雲も無く、ただ中秋の満月が孤影悄然として佇む。
その月に翳るようにして、二つの人の形が浮かび上がる。
ゆらゆらと揺れる天蓋が、尋常ではない出来事が起きているのだと示していた。
其れは、有り得ぬ光景であった。
熱に拠って歪んだ大気が、月の姿を溶けたバターの様に変えていた。
その様な大規模な現象を引き起こす熱源など、秋の中空に本来存在する筈もない。
自然には起こりえぬ現象、ならば其れを引き起こすは人外の異形であろうか。
轟音が響く。
踊る影はその苛烈さを増して、輝きを散らす。
それは恐るべき化生の者達の舞踏である。
だと言うのに。
秋の夜空で爆ぜる紅い炎は、喩えようも無く、ただ美しかった。
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大気が灼けている。
断末魔の叫びが聞こえると共に、辺りを紅く染めていた炎が消えた。
妹紅は息を一つ吐き、炭化した其れを見下ろす。
人肉を食らう、下級の妖怪の死体である。顔すら判別できぬほどに焦げた其れは、ヒトとはかけ離れた体格をしていた。
幻想郷の夜は暗い。加えて、この様な妖怪が闇の中に数多と蠢いている。
ただの人間ならば一夜と生きられまい。
ならば矢張り、彼女はただの人間では無かった。
-不死
妹紅の持つ属性である。
吸血鬼や鬼などよりも遥かに高いレベルの不死力は、多神教の下位神と同じ域に達している。
変化する事なく流れ続ける永い時間は、ただの人間として生まれた身には過ぎた呪いとなっていた。
「羨ましいヤツ…」
恐らく苦悶、もしくは恐怖の表情をしているであろう炭化した其れの顔を見つめ、呟く。
殺される瞬間、殺された後。
この妖怪は何を思い、何を見たのか。
背を向け、歩き出す。ふと思い立った様に妹紅が振り向くと、死体から炎が噴出し、完全な塵となった。
風に乗って塵が往く。その様を興味が無さそうに一瞥すると、妹紅はより深い闇の中へ消えた。
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十月の西には、郷愁を誘う夕焼けが広がっていた。
晩秋の夕暮れは人間、人外を問わず心を惑わせる。
胸を締め付ける様な侘しさ、届かない過去への羨望。
慧音は甘く落ちる様な鬱を感じ、夕焼けから目を反らした。
夕焼けの僅かな時間が過ぎれば、明日の満月に向けていよいよ美しさを増す月が現れるだろう。
月が中天に差し掛かる頃には友人との約束がある。
それまで少しだけ眠ろうと、慧音は読みかけの本を閉じ、静かに目蓋を下ろした。
この感傷を抱いたまま眠れば、きっといい夢が見られる筈だ。
そうして静かな寝息が聞こえ始めた頃、一筋の涙が頬を伝う。
矢張りと言うべきか、その涙は、とても幸せな色をしていた。
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ただ月が昇ってくるのを眺めている。
今の彼女には目的などない。知りうる限りの娯楽も尽きた。
只々流れる時間に身を任せ、麻痺した心を更にすり減らし。
いつ来るとも知れぬ終わりを待つのだ。
-終わってくれれば、良い。
終わりを求めるほど強く想っているわけではない。
この考えは彼女の絶望の現れである。
求めても得られる物ではない。ならばせめて。
終わってくれるのを待つ。
それまでは在らねばならない。
夜半を過ぎれば、この擦り切れた心を揺り動かしてくれる者が来る。
それまで、彼女は何かに縋るかの様に。
ただ、月が昇ってくるのを眺めていた。
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それは古く美しい幻想。
この世界が出来てまだ間もない頃の話。
遥か海を隔てた大陸の、どこまでも広がる平原でただ一匹の獣が静かに眠る。
獣の名は白沢。総てを知り、総てについて語りうる全知の魔獣。
偉大な獣たちでも最古の者。彼らの始祖である。
彼は世界についての総てを知っていた。彼は世界について深く絶望していた。
-今のこの世界からはこれ以上何も知りえぬ。
知識を求め、ヒトを捨て、何時しか知識を求めた理由すら捨て、力の全てを知識を得る為だけに費やした。
そうして総てを知り尽くしてしまった後、彼には何も残らなかった。
今や彼に残された時間は僅かであり、遥か後の世に生まれてくる新たな事象について知り、語る時間は残されていない。
獣の咆哮が響く。人間から酷く外れてしまったその声が、はっきりとした悲しみを帯びていた。
やがて掠れた声で偉大なる獣は語り始める。
今まで知り得た全ての事を。
近くには偉大なる獣の死臭を感じたか、死肉を食らう卑しき獣が数体集まっていた。
獣は語り続ける。
彼らの為に。
世界の為に。
否、誰の為でもなく、何の為でもなく、ただ衝動に突き動かされる様に。
二万と十八日後の夕暮れ、偉大なる獣は語りの途中で息絶えた。
近くには数体の獣の姿があった。だが彼らは既に卑しい獣ではない。
彼らは既に白沢の一族であった。白沢の語りによって、彼らの心には知性と誇りが芽生えていた。
-始祖が語った知識は、彼の知識の億分の一にも満たぬ。
-始祖に近づく為に。始祖の悲願を果たす為に。
更なる知識を求め、偉大なる獣たちは中秋の満月の下で別れた。
これが、白沢の一族の始まりである。
******
月が翳った。
直後、妹紅の体は左肩から腰にかけて袈裟に斬られ、地に伏す。
-何が起きた?
不死の身ではあるが、傷はそれこそ死ぬほど痛い。
妹紅は何とか起き上がろうと試みるが、既に下半身と上半身は完全に断絶していた。
一撃で、何の迷いもなく、気配すら悟らせず。
ここまで綺麗に殺されたのは長い人生の中でも初めてだ。
右腕だけで顔を上げる。その拍子に綺麗な色をした内臓が地面に零れた。
そして、
其れを目にしても、妹紅は其れが何なのか理解する事ができなかった。
月の明るい夜である。
暫し以前、いや、遥か昔より夜闇を友として生きてきた妹紅には明るすぎるほどだ。
だと言うのに、多寡が数歩先に居る其れが。
月に照らされ、返り血を浴びた其れが。
よく見知った顔をしている其れが。
一体誰なのか、判別できない。
「閉じよ、【村正】。…ほう、まだ生きているか」
面白い、と詰まらなそうに呟き、其れはハンマーの様な物を空中に出現させた。
柄が短く、形は定形を為さずに絶えず轟と共に変化を続けている。
轟の正体は雷鳴だ。紫電の光が全体を覆い、尋常ならざる力を周囲に放出している。
「偽式【ミョルニル】。打ち砕け」
ハンマーが妹紅の頭蓋に振り下ろされる。
為す術などある筈もない。その頭蓋は雷鳴と共に微塵の欠片に打ち砕かれた。
「閉じよ。…偽物とは言え神代の武器、人間程度では跡形も残らぬか」
人間は大して変わっておらぬな、そう呟くと、其れは空高く飛翔した。
「調子は上々である。却説…」
「お前、誰だ?」
すぐ後ろから聞こえた声に其れが振り向く。
其処には、たった今上半身と下半身を切断され、頭蓋を微塵に砕かれた人間が五体満足で浮いていた。
「幻術か、否」
-手応えはあった。確かに殺した筈である。
「その体は慧音の物だな…慧音はどうした?」
「もう一度殺せば判る事か。偽式【アンサラー】」
言葉を唱え終わると同時に、其れの手には剣が握られていた。
刀身はこの世に存在するあらゆる物よりも遥かに薄かった。
いや、言ってしまえば刃は通常の次元には存在していなかった。
刃には厚みが存在しなかった。概念上でしか存在出来ない厚み零の刀剣が、概念と現実の壁を切り裂いて顕現したのだ。
紛れもなく神域の魔術である。一度発動すれば、人の身で防ぐ事は不可能に近い。
妹紅が先に攻撃を仕掛けようとした瞬間。
厚みの無い剣劇、一筋の閃光が妹紅の胴体と首を切断していた。
-絶対先制。
攻撃の為の行動を起こそうとした瞬間には、既に致命的に遅れている。
「閉じよ…ふむ、首を落としても死なぬか。永遠が何処かに入っておるな。旧い式。必滅を免れる代償が限りなく不滅。月の術式。カドを増やす事による限りない存在強化」
蓬莱の者か、と今までずっと変わらなかった表情が微かに歓喜を表す。
落ちていく首が炎となり、爆ぜるようにして拡散した後には五体満足な妹紅の姿があった。
「あんなヤツらと一緒にするな。質問に答えろ」
「如何な偽物の神器であるとは言え、傷が完全に再生している。果たして、殺しきれるものか」
そう言って其れは歓喜の表情を浮かべながら何も無い空間から槍を取り出す。
その体が、ぐらりと傾いだ。
「ぐ…ぅ…。未だ…支配ならずか…明日こそは…」
「慧音!」
妹紅は落下していく其れを受け止める。
既に気配は消え、感じ取れる気配は慧音の物となっていた。
静かに寝息を立てている。
衰弱はしているが、常日頃の慧音と比べ、変わったところは見受けられなかった。
「………」
妹紅は地面に降り立つと、ゆっくりと慧音の体を下ろした。
何が起きたのかは、目が覚めてから訊けば良い。
何故か明日の月が昇るまでは安全だと言う確信があった。
隣に寝転ぶと、妹紅はすぐに眠りに落ちた。
******
白沢だ、そう慧音は言った。
体の中に居た者の正体を尋ねた妹紅に対しての答えである。
既に日は高く昇っている。時刻は昼を越えようと言うところか。
「始祖の死を見て、或る白沢は巨大な術式を編んだ」
元より白沢も死すべき存在である。だが白沢が知り得る事に対して、後世に語り継ぐと言う手段では到底追いつく事ができない。
たとえ生涯を全て費やしたとして、語る事ができる量は知り得る事の万分の一にも満たぬ。
それでは始祖に追いつく事など出来ぬのだ。
ならば、
自己を永遠に保存したまま、知識を集めれば良い。
そして彼はある術式を完成させた。
「まず彼は始祖が歩んだ道、始祖が【成った】手段を簡易化し、術式化して世界に広める事で、人間から白沢に【成りやすく】した。私のような白沢の始まりだ」
妹紅は正体だけ分かれば良いと言うのに、慧音はその歴史まで語り始める。
「そしてその術式の中に自分の精神を憑依させる術式を仕組んだ。ある条件が満たされるとその術式が発動し…」
-限りなく始祖に近い、原初の白沢が現れる。
「彼の目的は只々知識を得る事だけ。だがその為ならばどんな事でもする」
「…それで、憑依を解除する方法はあるのか?」
「この術式は数日の間だけしかもたない筈だ。…いや、それだけあれば彼にとっては十分なんだろう」
昨夜出合った力が、他の者に向けられる。その意味を妹紅は考えた。
-生き残れる者など僅かであろう。
否、生き残れる者など果たして居るのか。不死である自分に対してさえ彼は殺しきる気で居たのだ。
一度殺されれば死ぬ人間たちが、あの太古の魔獣を相手に生き残れるのか。
「いや、私には関係ない事か」
そもそも全ての者に対し攻撃的とも限らないのだ。
話を聞く限りではあくまで知識を得るのが目的であって、無意味な殺生などはしない筈である。
「妹紅…」
「悪いが私は逃げさせてもらう。あんなのを相手にしてたら命がいくつあっても足りないからな」
元より、
他人の事などどうでも良い。
ただ慧音が無事ならば、それで良いのだ。
無力な者がどうなろうと知った事ではない。そんな事の為に使う、安い命は持ち合わせていない。
「…妹紅、頼みがある」
それでも。
妹紅は、もう一度あの獣と戦うだろうと言う確信があった。
「白沢を止めてくれ、妹紅」
慧音は、人を守る為に知識を得たのだ。その事を妹紅は知っている。
無力を嘆く大人の為に。涙を流す子らの為に。
全ての理不尽の悪から、人々を守る為に。
ならば、続く言葉は分かりきっていた。
そして、自分が慧音の頼みを決して断らない事も。
「もし誰かに累が及ぶ事になるのなら…私を殺してくれ、妹紅」
******
十月の西、その先に日は落ち、世界は闇に覆われる。
彼女はいつもそうする様に、ただ月が昇ってくるのを眺めていた。
擦り切れた心が微かに震えるのは、恐怖故か。
いや、その何とも形容出来ぬ感情は微かな熱を伴い、彼女の精神を奮い立たせていた。
これより開幕するは、人外などと言う枠を超えた本物の魔獣との闘争である。
だと言うのに、彼女の心に恐れはない。
ただ在るだけだった彼女は今この時、確かに生きていた。
-人生が死ぬまでの退屈しのぎならば、退屈した時人は死ぬ。
そう言ったのは誰だったか。
気付けば彼女は笑みを浮かべていた。
間もなく訪れる親しい友人を待つような、穏やかな笑みを。
焔の羽を広げ、月まで届くように高く飛び上がる。
月を遮った影は、何度でも蘇る不死鳥の様に見えた。
******
「人間、殺される準備は出来たか」
月が中天に差し掛かる頃、白沢は現れた。
聞き慣れた声の筈なのに、冷たく厳かな印象を受ける。
謂わばそれは傾聴すべき知者の声なのだ。
「答えぬか。否、我すら未だ知り得ぬ貴様の死、語りえぬのは当然か」
いつの間にか白沢の手には槍が握られていた。
見た限りではただの槍である。昨夜見た神代の武器の様な威圧感も感じられない。
だが油断は出来ない。あの獣がただの槍などを持ち出す筈がないのは重々承知している。
「一つ答えろ、語る者よ」
「…なんだ、人間」
彼は知識を得る者であり、語る者である。この様な手順を踏めば質問には答える。
妹紅はそう慧音から聞いていた。
「私を殺した後、お前は何をする?」
「…ふむ、手始めに村落の住民を採取するとしよう。人間とは時代に拠って随分変わるモノだ。…惰弱な部分は変わらぬがな」
白沢はそう笑って言い捨てると、槍を宙に固定した。
穂先は真っ直ぐに妹紅を向いている。
「…そうか。ならやる事は決まった」
炎が巻き上がる。
周りの空気が歪み、陽炎が立ち昇り始める。
赤く、紅く。夕焼けの様に空を染めるその色は、妹紅の心の中で燃え盛る決意の色だ。
「私がお前を止める。来い、白沢」
******
「偽宝【莫野の宝剣】」
槍を空中に固定したまま、白沢はそう宣言した。
現れたのは刀身が光で出来た剣である。柄の部分には貴金属・宝石が惜しげもなくあしらわれている。
これが只の剣であるならば、避ける必要などない。己の不死性を頼りに反撃すればいいのだ。
しかし妹紅は回避を選択した。相手の力が強大である以上、なるべく危険を侵すべきではないと判断した為だ。
飛来した宝剣をかわす、その直前。
光で出来た刀身が微かに伸び、その結果妹紅の腕にかすり傷をつける。
同時に首にぷつりと切れ筋が入る。
首に出来た切れ目が広がり始める。
それを認識した妹紅は、脳と体が断絶される寸前に意識を集中、自己再生を起こす。
-触れただけで、首が飛ぶ。
成る程、只の人間であれば恐るべき威力を発揮するであろう。
だが妹紅は只の人間ではない。この程度の威力であれば、幾らでも捌ききれる。
「不死【火の鳥 -鳳翼天翔-】」
広げた掌の上で生成された、小鳥ほどの大きさをした炎の鳥は、放たれると共に大きな焔の鳥へと変貌して白沢へと襲い掛かった。
「偽宝【荒風旄】」
鳳凰を模した巨大な焔の鳥は、しかし出現した旗の前に掻き消えた。
旗から放たれたのは冷気である。瞬時にして凍りついた大気中の水分が、きらきらとした光を放っていた。
ダイアモンド・ダストだ。冷却された大気が悲鳴の様な甲高い軋みを上げた。
その光が、またも一瞬にして燃えさかる紅にとって変わる。
掻き消えた筈の焔の鳥が空気を戦慄かせ蘇る。
今や冷気すら焼き尽くし、鳥は一直線に白沢へと向かう。
「ほう…閉じよ、【莫野の宝剣】、【荒風旄】。偽宝【太極図】」
焔の鳥が白沢に接近し、命中するかと思われた瞬間、
焔の鳥は妹紅の目の前に現れた。
「なっ…」
スペルを解除する。
途端、焔の鳥は声も上げずに消滅した。
「…空間操作か」
まるでどこぞの隙間妖怪の能力である。
「閉じよ。ふむ、この程度ではまだまだ死なぬか。矢張り…」
槍を使うか、そう言って白沢は槍を手に取った。
「偽釘【エレナの聖釘】」
白沢が宣言した瞬間に、既に妹紅の手足には釘が打ち込まれていた。
「拘束術式、磔刑【聖者は磔にされました】」
痛みを感じながらも、それでも釘を抜こうとした瞬間。
妹紅は微塵も動けない事に気付く。
いつの間にか腕は広げられ、体全体で十字を示すような体勢で空中に固定されていた。
「ふむ、より効果が強くなっておる様だな。ならば」
この槍の効果も強化されておろう。
そう言うと、白沢は槍を軽く放り投げる。
緩やかに上昇した槍は、頂点に達したところで勢いを変え、妹紅のわき腹に突き刺さった。
「ぐ…ぁあああああああああああああ!」
「偽式【グングニル】」
壮絶な痛みの中、妹紅の目には銀色の光を放つもう一本の槍が見えた。
銀色の槍は、ミョルニルと同様に不定形だった。だが一瞬として槍でない瞬間は無かった。
周りを紫電が覆っていたミョルニルと違い、銀色の槍はただ神気だけを放っている。
もう一つ違っている点がある。存在力である。
周りに存在するあらゆる物、白沢すらも霞んで見える存在力。世界がぼやけ、ただ銀色の槍だけが妹紅の世界の全てになった。
真っ直ぐに飛来した銀色の槍は、妹紅の左胸に突き刺さり、心臓を完全に破壊する。
世界を丸ごと飲み込んだ様な苦痛が、体内で荒れ狂う。
それでも妹紅は死なない。否、死ねないと言った方が正しいか。
発狂には十分すぎる痛みを受け、それでも発狂すら叶わず。
数秒後には完全な再生が始まる、
筈だった。
「閉じよ【グングニル】。発動せよ、神殺【ロンギヌス】」
「あ…」
胸に突き刺さっていた槍が消え、わき腹に突き刺さったままだった槍が怪しく光る。
妹紅は、初めて死が近づいてくるのを実感した。
-落ちていく。
落ちていく場所は一面の闇である。
その闇の先に、失われていく自己への悲しみと、微かな安らぎがあった。
傷の再生は、始まらない。
「其れは聖人の【死】を確認した槍だ。死んだ者が其れに刺されると、彼の者以外蘇る事など叶わぬ」
基督教圏の祈りが反転して、呪いとなってキリスト以外の復活を妨げる。
そこから蘇るには、呪いを完全に跳ね返す事が必要となる。
だが一個の存在である者にとって、その呪いを弾く事など限りなく不可能に近い。
対不死者用最終術式。
「それがこの槍だ。念を押して本物を召喚した故、これが駄目ならば」
却説、どうしたものか。
白沢は興味に燃えた瞳で妹紅を見つめる。
そして妹紅の意識は、完全な闇の中へと落ちていった。
******
このまま眠れば、ようやく死ねる。
闇の中で、ぼんやりと妹紅は月を見上げていた。
只ひたすらに永かった。
生きる事などとうに止めて、最早ただ在るだけだった。
これ以上は在りたくない。
自分が見る最後の物が、あの美しい満月ならば、それだけでも良かった。
疲れた一日の終わりに、自然に眠るようにただ妹紅の意識は暗闇へと落ちていく。
いよいよ目蓋を閉じ、眠りに身を任せようとした瞬間。
声が聞こえた。
其れは、
無力な者を助ける為に、力を求めた者の叫び。
擦り切れた自分の心を、ただ一人癒してくれた者の嘆き。
助けを求める、友の声。
妹紅の目蓋が開かれた。
不死の炎が燃え上がる。ならばまた、不死の煙は満月へ届くようにどこまでも立ち昇って往く。
暗闇を焼き尽くすように紅く輝く光は、晩秋の夕暮れの色をしていた。
「リザレクション!」
最早迷いなど無い。
一直線に、妹紅は満月へと飛び上がって行く。
そして、
ヒトの身には破れぬ筈の呪いが、破れた。
******
轟と言う音がして、妹紅の肉体が炎と化した。
拘束術式を焼き尽くし、槍を焼滅させ、炎が拡散する。
後に残ったのは塵だけである。
その塵が、炎を吹き、人の形を成し…
塵よりよみがえり、妹紅が其処に立っていた。
「…素晴らしい。これは…」
「慧音…今日だけは、お前の為に生きてやる!【フェニックス再誕】!」
数多の焔の鳥が白沢目掛けて打ち出される。
天蓋が歪む。月が溶ける。轟音が響く。
生まれ出でた歓びに甲高い鳴き声を上げて、焔の不死鳥の群れは真っ直ぐに秋の夜空を翔けて往く。
「我、遂に新たな事象に到達せり!往くぞ不死人、塵も残さん!浄炎【ソドム】・浄炎【ゴモラ】!」
対して、白沢は歓喜に顔を綻ばせながら宣言する。
断罪・浄化の属性を…否、【神性】を帯びた炎が出現した。
如何なる術式の為せる技か、現れたのは正真正銘の神の炎である。
対象に関係する全ての存在を、此岸から焼滅させる窮極の神技。
放出される神気だけで周囲の人間までもが塩の柱に成って果てる、その炎に対して。
数多の焔の鳥は融合し、一つの巨大な不死鳥となった。
両者が激突する。法則と法則が互いを喰らい尽くそうとする、紛れもなく神の領域の闘争である。
荒れ狂う空間・時間・存在。-世界-。
その中に在っても妹紅は微塵も揺らがず、白沢へと問いかけた。
「答えろ白沢!お前は何の為に力を、知識を得た!」
「始祖の悲願を果たす為也」
自分が何をしようとしているのか、妹紅は自分でも驚いていた。
らしくない事をしているのは分かり切っている。
「じゃあ始祖は何故知識を求めた!力を求めた原点は何だ!」
「…其れは…」
それでも、訊かずには居られない。
問いの答えは分かっている。確信がある。
慧音の心の中にあった物。
人間の心の中に輝く光。
今、妹紅の心の中でも燃え盛る、強い答え。
遠く、遥か昔に消えたと思っていた。だが、今確かに胸を焼くこの気持ち。
「其れは…」
「誰かを!守る為だろうがッ!」
神の炎が、不死鳥に押され始める。
白沢は更に強力な術式を…妹紅に打ち勝てる術式を、歴史から検索する。
返ってくるエラー・エラー・エラー。
勝てる術式が、見当たらない。
否、威力で勝る術式は幾らでもある筈だ。
だがそれらを用いたとて妹紅には絶対に勝てない。白沢自身が強くそう思ってしまっている、その結果なのだ。
「何故だ…」
何故この女は、これ程までに強いのだ。
ただ知識を求める為だけに在り、常にそう在った彼には、その理由が理解出来ない。
「何故…勝てない…」
遂にソドムとゴモラを喰らい尽くした不死鳥が甲高い雄叫びを上げた。
その腹を突き破って、炎を纏った妹紅が白沢の眼前に飛び出す。
「自分で考えろ!この大馬鹿野郎ッッッ!」
そして、
勢いと体重が乗った右ストレートが、白沢の顔面を捉えた。
******
「我の負け、か…」
夜は静けさを取り戻し、月は丸い形を取り戻している。
空を翔ける化生も、歪む天蓋も消え、頭上には只々美しい夜空が広がるばかりである。
「ああ、お前の負けだ。出直して…いや、やっぱり出直すな」
「新たな疑問が…見つかった…答えを…探さねば…」
「おい聞け。せめて後ちょっとだけこの世にしがみついて私の言う事をちゃんと聞けって何どっか行こうとしてんだ別にいいけど二度と来るなよ。…あークソ聞いてないな」
白沢の気配が薄れていく。何処に流れていくのかはわからない。きっと妹紅が感知できない次元を通っているのだろう。
そして残ったのは、寝息を立てて眠っているボロボロの慧音と、死なないけど色々なところが痛い妹紅だけである。
妹紅はその場で仰向けに寝転がった。
視線の先には満月がある。
いつもただ空虚な気持で見上げていた其れが、今夜だけは美しく思えた。
それだけで、今回の騒動の報酬は十分だと妹紅は思った。
しばらく月を眺め、やがて睡魔が襲ってきたところで、
「ああ、退屈だ」
そう言って、彼女は静かに眠りに就いた。
了
他の作品で描くと面白く感じたかもしれません
ていうか、あとがきで大分評判を落としそうな予感
内容と後書が中和してのこの点数と言うことで。
色々と最悪です。
後書きに関しては幼稚ではっきりいって不快でしかありません。
話自体は普通のバトル物ですが、ちょくちょく自分好みの表現がありましたので次に期待。
あなたの一般常識がどこにあるのか分かりません。せめて最後まで真摯な態度でお願いします。
あと一点、改行のせいで少し読みづらい感が。
後書きもそうだけど、ネタが溢れていれば良いってものじゃないんじゃないかな?
読んで気分が悪い。
オリジナルスペルもハクタクっぽくていいと思います。
タイトルとあとがきに違和感なのが残念。