白玉楼の隅にある妖夢の私室。部屋の真ん中に置かれた机とその上に載った台帳。それを凝視して妖夢は唸っていた。
台帳には数字が並んでおり、ページの末の数字は必ず赤くなっていた。前のページもその前のページもずっと赤い数字が並んでいる。
表紙には家計簿と書かれている。そう、白玉楼の家計はまさに火の車だったのだ。
原因は幽々子の遊蕩にある。食費だけではない。友人である八雲紫と遊べば賭け事になるし、訪ねる時は高級そうな手土産だって持っていく。
それで貯蓄が湯水のように減っているのだ。
当の本人は山ほどある宝物の類を売ればいいと楽観しているが、現実は非情である。
昨日も妖夢が里の質屋へ骨董品を売りに行ったのだが、店主に買取を拒否されてしまったのだ。
店主曰く、常連である白玉楼さんの物でもあるし価値あるものなので是非買い取りたい、しかし数日おきにしょっちゅう売りにくるのでこちらに現金の手持ちがないのだという。骨董品は趣味嗜好の物品なので定期的に売れるわけではない。今、店頭に並べているものが売れない限りはこれ以上買い取ることはできない。
平身低頭して謝罪を述べる店主を見ると妖夢はそれ以上言えなくなってしまった。里の質屋はこの店舗のみ。紅魔館や永遠亭でも買い取ってくれなくはないかもしれないが、なにかと文句をつけられ買い叩かれるのは目に見えている。妖夢とて白玉楼はそこまで困窮しているという恥を晒したくはない。
で、こうやって家計簿を睨み続けているのである。
資産はあっても現金はない。資産を変換する方法が無い以上、現金を稼ぐしか方法はない。
「とはいえ、どうやってお金を稼げばいいのかしら……」
白玉楼に霊は山ほどいるが九割方霊体である。主人である幽々子を働かさせるのはもってのほか。となると働けるのは妖夢本人しかいない。
では、自分に何が出来るかを考える。一応の家事全般と料理は作れる。それを生かした職業となると店員や小間使いということになるが、主人の世話もある以上拘束時間が長い仕事を請けるわけにはいかない。
「やっぱりこれしかないのね……はぁ」
脇に置いてある刀をみて溜息をつく。結局自分にできるのは刀を振るうことだけだとわかると少し切なくなる。
だが、背に腹は変えられないと、意を決して立ち上がる。
時刻は昼を少し過ぎたところ。里への往復時間等で帰りが遅くなるので、今日の夕餉は鍋にしようと決めると妖夢は人里へと向かうのだった。
幻想郷の人里は現在繁栄の只中にある。
妖怪の賢者によって保護を受けた事で、人間の、自分達の命の危険が減り、その分のエネルギーが里の発展へと向かったからだ。それに加え、河童をはじめとした一部の友好的な妖怪の協力により、大きめの農村といった程度であった里は、数十年で街という規模にまでに発展した。人口も倍増し、人々の生活にも余裕ができ、花屋などの嗜好品を扱う店も現れるほどに発展した。
里の中央を走る大通りには昼を過ぎても人が溢れ、客を呼び込む声がひっきりなしに響いている。
そんな中、妖夢は大通りに面した橋の側に掲げられた高札を憂鬱げに見上げていた。
高札とは本来法令などを掲げるものであったが、外の世界から隔離されて以降、求人や注意事項といった多種多様な連絡事項に使われている。
今日の高札の数は七枚。店番一日四百文、畑の護衛一日七百文、倉庫内軽作業六百文、夜間里の外への出入り禁止、河童に石を投げるな、妖精はキャッチアンドリリース。
幾つかの注意事項と幾つかの仕事の募集。だがどれも一日仕事な上に報酬が安かった。
溜息と同時に肩を落とす。いざ働こうと思えばこんな仕事しかない。
今日はダメでも明日はあるかもしれない。そう思う事にして白玉楼へ帰ることにする。
途中鍋の蓋が割れていた事を思い出して、憂鬱の度合いに拍車がかかる。場所はすでに里の外。今から戻るにしても手間がかかる。そこで近くに店があることを思い出す。
「香霖堂かぁ……」
妖夢は香霖堂が苦手であった。雪に埋もれたりとろくな思い出がない。だが、里へ戻るよりは距離は近い。落ち込んだ肩をさらに下げて妖夢は香霖堂へ向かうのだった。
香霖堂は里と博麗神社のちょうど中間地点にある店である。そこで売られているのは日用品の他に、店主がどこからか拾ってくる怪しい物や妖怪や人間が持ち込む曰く付きの一品ばかりである。ふわりと妖夢が降り立った店の前には、今日も何に使うのか見当もつかないガラクタが山と積まれていた。戸を開ければ、店主の森近霖之助がいつも通り本を読んでいる。
「おや、いらっしゃい」
一拍遅れてこちらに気づいた霖之助がそう言った。相変わらず商売っ気のない店主だ。
「ちょっと鍋の蓋が割れてしまったので……」
「ああ、そこにあるから好きなのを取るといい。値段は全部一緒だよ」
店主の指差す先には鍋の蓋だけが十数枚も無造作に積み上げられていた。鍋の部分はどこにも見当たらない。それを疑問に思いつつも口には出すことなく、妖夢は蓋を物色し始める。なるべく色と大きさを元の物と合うものを探す。その間も店主は黙々と手元の本を読んでいた。
三枚ほど手ごろなのを見繕って清算する。蓋だけのせいか思ったより安かった。
風呂敷で蓋を包んでいると店主から声をかけられる。
「そういえば、随分と憂鬱そうだったけど何かあったのかい?」
「え? い、いや……その、別に何も……」
興味なさそうなフリをしつつも、見ているところは見ていたらしい。図星を突かれて慌てる妖夢。手元の風呂敷に包まれた蓋が音を立てる。
「そうかい? まぁ君は結構常連でもあるし、困った事があるなら相談に乗るよ?」
「き、気持ちだけ頂いておきます……」
蓋を包むのもほどほどに妖夢は店を出る。なんだか店主が気持ち悪かったのだ。普段、というか以前まではああいう物言いをする人ではなかったのだが。
店の外に出ればすでに空が紅く染まっている。急いで帰らなければ主になにを言われるか分かったものではない。店主の事は頭の隅においやって、妖夢は帰路を急ぐのだった。
翌日も妖夢は里へと足を向けていた。だが、高札には昨日と変わらない程度の依頼しかない。里が平和なのは良いことであるが、今の妖夢は不謹慎ながらも一騒動起こらないものかとすら考えていた。――争い事を収めれば報酬くらいはせしめれそうなんだけどなぁ。
そんな妖夢にかかる声がひとつ。
「あら妖夢じゃない。こんなところでどうかしたの?」
「永琳さんじゃないですか。珍しいですねこんなところで」
「私が里に居るのはそんなに不自然かしら?」
紺と朱の医療服に身を包んだ銀髪の女性、永遠亭の薬師の八意永琳。彼女も妖怪の類ではあるが妖夢と同じく人と変わらぬ人相の為、里に居ても違和感はない。だが、その二色に染め上げられた奇抜な服装ゆえに目立つのだ。妖夢とは一時期、医者と患者の関係であったことがある。
「それにしても随分浮かない顔ね。何か悩み事?」
「いえ、そんな大層なものでもないので……」
先日の香霖堂の店主といい、どうしてこちらの考えている事が筒抜けなのだろうか。
「その顔は何か悩んでる顔よ。元主治医を舐めてもらっちゃ困るわねー」
ふふんと鼻を鳴らす永琳。妖夢は顔に出ていたとは思っていなかったので、表情を取り繕うとして余計におかしい顔になっていた。
「まぁ往来で話し込むのもあれよね。こっちにいい茶屋があるのよ。そこで話しましょ」
「ちょ、ちょっと永琳さん!?」
妖夢の返事も待たずに永琳は近くの茶屋まで妖夢を引っ張り込んだ。
永琳はすでに常連なのだろう。茶屋の女房は永琳の姿を見ると愛想良く腰かけをすすめ、団子に渋茶まで添えてくれた。
茶菓子の甘みが疲れた妖夢の心を癒す。
「で、何を悩んでいるの?」
事ここに来ては誤魔化すわけにもいかず、妖夢は事のあらましを説明した。
「なるほどね。ずいぶんと健気なものねぇ。うちの鈴仙も見習ってほしいものだわ」
「そ、そんなからかわないでください。従者として当然の事をしているだけです」
照れ隠しに渋茶をすする妖夢。
「その当然の事をするのが中々難しいのよ。それはともかく――仕事なら永遠亭を手伝わない? 報酬は弾むわよ?」
「永遠亭の……い、いえ、気持ちだけありがたく頂いておきます、はは……」
永琳の悪い噂、薬の実験台を探しているだのといった事は妖夢でも知っている。むしろ主治医だった頃に実験台にされそうになったこともある。さすがにその話を受けるわけにはいかなかった。
「あら残念。そうね……でもあなたができそうな仕事なら仲介してくれるところなら知っているわ」
「え? でも高札には何も……」
「あれはあくまで表の仕事。人前にはいえないような仕事はちゃーんとそれ用の口入れ屋がいるのよ」
妖夢には初耳だった。むしろそういった世界とは縁が無かったとも言える。
仲介屋を紹介してもらうということはその世界に足を踏み入れるということだが、妖夢に躊躇いはなかった。そもそも現状がかなり切迫したものであるし、人間同士の裏の事情など妖怪である自分自身には関係ないと考えていたからだ。
「そんなものが……。ぜひその口入れ屋とやらを紹介していただけませんか?」
「ええ構わないわよ。といっても別に特別な条件とかは要らないの。その口入れ屋の人がやっているお店へ行って仕事をくれと言うだけだから」
その店とやらの場所を教えてくれる永琳。驚く妖夢。それは妖夢もよく知る店だった。
「場所は神社と里の中間くらいかしら。店主は変わり者だけど害はないから安心して」
永琳はまさか妖夢がその店を何度も訪ねているとは想像の外だったのだろう。丁寧に道筋を地図に書いてまで教えてくれた。だが、妖夢の方は驚きで永琳の話はろくすっぽ頭に入っていなかった。
何故ならば永琳の言う店とは、香霖堂であったからだ。
「ほら、僕の言ったとおりじゃないか。君の相談に乗れるって」
店に入るなり、にやにやと笑いながら話しかけてくる。
「里の質屋とはそれなりに懇意でね。白玉楼の状況は少なからず理解しているつもりさ」
まさかそんなところから漏れていようとは。質屋の店主に口止めしておこうと誓う。
「それにしても霖之助さんが口入れ屋なんてやっているとは思いませんでした」
「そうかい? 僕はまぁ人間と妖怪の中間のようなものだしね。それにこの店には人妖問わずやってくるから適任なんだよ」
言われてみれば確かにその通りである。里の中でおおっぴらにやるわけにもいかないし、博麗霊夢と言った実力者とも知り合いである霖之助にはうってつけの仕事といえよう。
「ああそうそう。この事は魔理沙や霊夢には秘密にしておいてくれよ? あの子達にはまだ早いと思うし」
霊夢や魔理沙はまだ子供ということなのだろうか。だが、一応妖夢も見た目は同年代のはずなのだが、そこは突っ込まないでおく。
「で、仕事を紹介してほしいのですけども……」
「っとそうだったね。――今あるのはこれくらいかな」
番台の上に並べられる札紙が二枚。
『息子を殺した妖怪を退治してほしい』
『街道沿いに出る人食いの妖怪の退治』
里の事情に詳しくない妖夢でもそれらの依頼が非合法スレスレのものだとわかる。なるほど、永琳が此処を薦めた理由も頷ける。
「ま、人には言えない依頼が主でね。その分報酬も表の仕事とは一線を画しているのさ」
確かに報酬は文字通り桁が違う。相手が妖怪である分危険度も高いからであろう。
「そうだねぇ。君の腕前は霊夢や魔理沙のお墨付きだし、性格も真面目だからね。大抵の依頼はこなせると思うよ」
妖夢は二つの依頼をじっくり吟味する。
「この敵討ちというのはどういった内容で?」
敵討ちを言うからには尋常ではない理由があるのだろう。逆恨みの可能性もあればこそ、事情は知っておかねばならない。
「ああ、街の商家の息子さんが妖怪に食い殺されてね。夜中に里の外に出た息子さんが悪いんだが、遺族はそれでは納得しないということでね」
里では人を襲わないという不文律が妖怪と結ばれて以降、妖怪はお約束の中でしか人を襲わなくなった。お約束とは、妖怪の出やすい時間に里の外をうろつかない。妖怪の出没しそうな場所には近づかない、といった自衛手段の他に、妖怪に出会えば、その妖怪に対する特殊な対応を取るなどといった事。たとえば見上げ入道と遭遇すれば、「見上げ入道見こした」と唱えて前方へ打ち伏すという対処を行えば襲われないというようなものだ。
それができなければ人間は殺されても文句は言えない。別に敵討ちが認められていないわけではないが、自業自得であるので、暗黙の了解として殺された側の遺族は泣き寝入りするのが慣わしであった。
「うーん……」
妖夢自身は人間にも妖怪にも中立でいるつもりだが、自身が半妖であるがゆえに、殺された息子とやらは自業自得だと感じた。
「殺した妖怪はどんなものかは聞いていないんでしょうか」
「残念ながら、僕も依頼人もそこまで妖怪に詳しくなくてね」
さすがにこれでは話にならない。おそらく探す段階からの手間賃も含んでいるのだろう。破格の値段だが手間を考えると難しい額とも取れる。
「……こっちの妖怪退治というのは?」
「ふむ、見ての通り街道に出没する妖怪の退治だよ。聞いた限りどうにも知能の低いタイプらしくてね。あまりに見境ないのでこちらに依頼がまわって来たのさ」
「しかし、それこそ表の仕事ではないのですか? 博麗の巫女あたりなら喜んでやりそうですが……」
街道というなら多数の人が利用する。ならばこんな風にこそこそとやる必要性はどこにもない。
妖夢の疑問に霖之助は肩をすくめて見せる。
「ところが、この街道というのが曲者でね。そこらの道じゃなく、妖怪の山への街道なんだ」
「そんな街道があるだなんて聞いた事がありませんが」
白玉楼へ住む妖夢は妖怪の山に詳しくはない。が、妖怪の山に人間は立ち入り禁止であることくらいは知っている。だからこそ街道の存在を疑問に思う。
「人間と妖怪が相互不可侵なのは表向きの話。天狗や河童といった一部の種族なんかとは結構交流がある。河童なんかはかなり表立っているけどね。最近は、山の上に神社ができたらしくそこの住人が里との行き来に使ったりしているらしい」
「……」
「――実際は妖怪の持つ特異な異物の輸入ルートさ。河童なんかは僕らには理解できない道具を使用しているというしね。河童の一部と人間の一部の利害が一致して取引していたりするのさ。互いの上には内緒でね」
俗物なのは人間だけではないということだろう。なんだか妖夢は幻滅した気分になった。
「そんなわけで表には出せないのさ。報酬は三両――どうする? この依頼引き受けるかい?」
妖怪退治。妖夢自身自分の腕前には少なからず自信を持っている。霊夢や魔理沙には遅れを取ったが、永遠亭の面子や死神、果ては閻魔とまで切り結んだ経験は確実に妖夢の糧となっている。
相手の妖怪の詳細はわからないが、まず遅れを取る事はないだろうと思う。報酬もかなり魅力的な金額である。
「わかりました。この依頼――引き受けます」
「了解。依頼主は里の氷室屋という商店だよ。この札を持って尋ねればわかってくれるだろう」
手渡された札を懐にしまい込み、氷室屋の場所を細かに聞いた後、店を出ようとすると戸が向こうから開いた。
咄嗟に脇に避ける。入ってきたのは紅い羽織に陣笠を被った武家だった。身長は妖夢より頭一つ分ほど高く、背中には身長に見合うだけの長刀を背負っている。陣笠から漏れる髪もまた長く、全身に針のような雰囲気をまとっていた。
武家は妖夢など眼中にないようで、店主につかつかと近寄ると、仕事は無いかと聞いていた。
「……」
あまり人の仕事の内容を聞くのも憚られるので、妖夢はそのまま店を出た。それに残っているのは自分が引き受けなかった敵討ちの依頼だけである。あまり聞いてもいいような話でもないだろうと思い、妖夢はそのまま店を辞した。
紙や墨、筆、硯など筆記の為の道具を商う氷室屋はそう大きくはないがはやっている店だった。
主人の忠兵衛の話によると、妖怪の山、天狗に収める墨や紙を運んでいる最中に襲われたという事らしい。不幸にも全員が殺されており、便が来ない天狗が様子を見に来て発覚したのだった。二度目は用心して腕の立つのも護衛につけたのに、再び襲われ全滅の憂き目にあっている。
「うーん」
幻想郷で腕が立つといえば、夜雀くらいなら追い払えるくらいの実力をいう。それすらも殺されたとなると相手はかなり手強いのだろう。
とはいえ、引き受けた以上断るわけにもいかない。
「で、その妖怪とやらを狩ってくればいいんですね?」
「ええ、そうです。ですが何の目的もなく歩いていてもそうそう上手いこと見つかるとも思えません。そこで少々一計がございまして……」
「一計?」
「ええ。演技でよろしいので天狗様のところまで商品を届けてほしいのでございます。荷物を持っているとなれば妖怪からすれば襲いやすいと思うかもしれませんし……。勿論、いざとなったら荷は棄ててもらって結構です」
忠兵衛のいう事にも一理ある。それに荷物を棄てていいと言うのであれば、いざという時にも邪魔にはなるまい。
「わかりました。ではそのようにお願いします」
「ありがとうございます。ではこちらにも準備がございますので、明日ということで」
「わかりました」
翌日。日も高くなろうかという時分に、妖夢は自らの背丈ほどの荷物を背負って街道を歩いていた。荷物の中身は筆や鉛筆の類なのでそう重くはない。荷物は大きいがそのほとんどは空気を入れただけで空っぽである。
朝に氷室屋でこれを見せられた時はその大きさにどうかと思わないでもなかったが、いざ背負ってみればなんのことはない。中身が空洞ならば咄嗟の盾にも使えるだろう、そんな事すら思えるくらいには軽いのであった。
氷室屋の主人に見送られて、妖夢は街道を歩く。妖怪が出ていると噂があるせいか、あまり人には出会わなかった。
里を出て一時間ほど歩いたところでだだっ広い草原に出た。懐から地図を取り出して照らし合わせる。
「ええと……ここか」
街道を外れて、二メートルはあろうかという葦の中を掻き分ければ目の前に新しい道が現れた。道の周囲は先ほどの葦で囲まれているため、地上からでは気づくことは難しいだろう。
よく隠せているものだ、と感心しつつ、警戒しながら道を歩く。
妖怪の山が見えてきたあたりで、地面に残った血痕と荷馬車の残骸があった。血痕の様子から襲われた際の様子がありありと浮かび、妖夢は思わず口をふさいだ。
葦の間を吹きすさぶ風の音が、被害者の今わの叫びに聞こえた気がして妖夢は足早にそこを立ち去った。それでも、鼻にかすかに匂う死臭はしばらく離れる事はなかった。
一時間ほど歩いたところで、滝の流れる音と沢を流れる心地よい風を感じた。いつのまには妖怪の山まで来ていたようだ。この滝の上流が天狗の住処であるはずだ。
荷物を降ろし、沢で顔を洗って気を引き締める。冷たい水が心地よい。手ぬぐいで顔を拭き、荷物を再度背負ったところでこちらを覗く視線に気がつく。
例の妖怪かと思ったが、どうにも様子が違う。こちらを狙うというよりは品定めをしているような視線。だが周囲に人影はない。術か能力か、なんにせよこのまま監視されたままというのも気持ちが悪い。どこの誰かは知らないが正体をはっきりさせておかねばならない。
すばやく妖夢は監視する視線をさえぎるように荷物を影に隠れると、スペルカードを発動。半霊が人型へと変化し、妖夢が二人になる。妖夢の姿をした半霊は荷物の影から飛び出してそのまま森へと駆け出していく。
――幽明の苦輪。半霊に妖夢の姿をとらせることで行う実質的な分身。視線が半霊を追いかけて自分から外れたことを確認すると、妖夢は全速で視線の送られてきた方向へ走る。
沢を曲がれば大きな滝が見え、その前に浮かぶ人影が一つ。曲刀と小盾をもった山伏姿の少女。頭には耳が生えていた。
少女はいまだ半霊に注意を向けているのかこちらには気づいていない。
好機と思い、妖夢は現世斬の要領で一気に間合いを詰める。少女がこちらに気づくが遅い。妖夢の拳が腹にめり込み、少女はそのままがくりと気を失った。
少女を抱えると、滝の側の河原に横たえる。どこの誰かは知らないが無駄な殺生は好むところではない。少女の息を確認して立ち上がったところで聞き覚えのある声に呼び止められた。
「あーー! ちょっと妖夢さん! うちのペットに何してるんですかー!?」
振り向いた先にいたのは、いつものように片手にカメラを片手に空を飛ぶ射命丸文だった。
「はーなるほど。氷室屋さんの使いでですか。それはうちの椛が失礼しました」
「いえ、私もまさか天狗の方とは思わなかったので……ごめんなさい」
文の背後では椛が布団に寝かされている。
あの後、事情を聞いた文がとりあえずにと自分の庵へと案内したのだった。
「なんにせよ助かりました。もう数日遅れていれば新聞が発行できなかったところです」
持ってきた量は微々たるものだが、それでも天狗にとっては重要だったらしい。
「いえね、筆とか文具くらいは私達だって作れるんですけどね。なかなか面倒くさがって誰もやらないんですよ。昔は若い天狗の仕事だったんですけど、めっきり若天狗の数が減ってしまって……。椛はそういった細かい仕事は苦手ですからねぇ」
「……」
渋い顔で茶をすする文を見ていると、天狗社会も大変なのだと思う。
「それで仕方なく人間を頼ったんですよ。けど大天狗様はあまり人間と関わるなって仰いますからねぇ。有志でこうやってこっそり仕入れてるわけでして……。」
射命丸に対し、急に老け込んだなという印象を妖夢は持ったが命が惜しいので黙っておく。苦労話や愚痴を聞いていると外見に関わらず過ごしてきた年月というのものがひょっこり顔を出してしまう時がある。もしそれを突っ込んでしまうとどうなるかは、八雲藍やルナサ・プリズムリバーで妖夢は身に染みて知っていた。
「それはまあ置いておいて――妖夢さんがこんな用心棒な仕事を始めたなんて初めて聞きましたよ。一体全体どういうわけで?」
「それがまぁ話せば長いことながら……」
幽々子の放蕩ぶりを訥々と話す妖夢の顔にもまた苦労してきた年月が刻み込まれている事に本人は気づいていない。
「なるほど。こちらも事情は知っていたのですが、裏でこっそりやっているのであまり表立って対処できなかったんですよねぇ。いやー、妖夢さんが何とかしてくれるなら心強い」
「ええ。そういうわけでしてもし暴れている妖怪とやらに心当たりがあるなら教えていただきたいのですが……」
「と言われましても私も見たことはありませんし、見た可能性のある椛は……」
ちらりと背後を見やる。妖夢には何も言い返す言葉が無い。
「でも妖夢さんが出張ったからには数日中には見つかって退治されるでしょう」
いつもの新聞での語り口とは違い、想像以上に信頼されていて戸惑う妖夢。そこらへんの妖怪よりは強いという自負はるが、射命丸文という実力者にも認められているという事実が少し嬉しかった。
「あまり長いこと引き止めてもいけませんしね。椛には言っておくのでこれからは今日のようなことは無いと思います」
「何から何までありがとうございます」
「いえいえ、私達にもかかわりのあることですしね。合間を見て訪ねてくださればお茶の一杯くらいは出しますので遠慮なく」
妙に親切な射命丸に後ろ髪を引かれつつ庵を退去する。
氷室屋だけではない。天狗からも期待されているとなれば手を抜くわけにはいかない。
俄然やる気を出して、妖夢は里への帰路に着いた。
だが、妖夢のやる気とは裏腹に一週間経っても件の妖怪とは遭遇することができないでいた。
依頼の報酬とは別に、荷物を運んでもらっているのだからと一日に二分の金を氷室屋は出してくれている。妖夢にとっては有難い話ではあるが、本来の依頼を果たせていないことに焦りが出る。射命丸文の方でもそれなりに警戒してくれてはいるようであったが、成果はでていない。
「まぁこういうのは焦っても仕方ありません。釣りは餌に獲物がかかるまでが勝負ですよ」
文などはそういって嘯くが、妖夢は餌として獲物を引っ掛けなければならないのだ。
そしてさらに一週間が経とうとしたある日。天狗の里を出て、例の葦の隙間道で妖夢は自身に向けられた殺気に足を止める。
それは椛の千里眼とも違う、獲物を見つめる獰猛な獣の如き気配。空はすでに朱色の染まり、夕方の冷たい風が葦を薙いで音を立てる。妖夢は全神経を集中させて気配を感じ取る。
徐々に近づいてくる獣の気配。
妖夢が後ろへ飛ぶと同時に横合いから黒い影が飛び出してきた。
牛ほどもある巨大な蜘蛛の体に鬼の顔。涎を垂らしながら息も荒くこちらをねぶる視線に理性の色はない。
「あれは……牛鬼、だったか」
白玉楼の文献で、そして鬼である伊吹萃香から聞いた事がある。鬼とはつくがまったく違う類の妖怪。水辺に現れては人を襲うと文献にあった。あんなのに鬼とつけるとは鬼に対して失礼だ、とは伊吹萃香の弁である。
左手の白楼剣を逆手に持ち、右手の楼観剣に添えるようにして構える。霊体相手でないなら威力に勝る白楼剣を使った方がいい。
一瞬の相対の後、先に動いたのは牛鬼。のしかかるように振り下ろされた爪を楼観剣で受ける。予想以上の膂力に妖夢は押された。半歩下がる。さらに半歩。間近でみる鬼の顔は想像以上に奇怪で不気味な迫力があった。
渾身の力を込めて押し返す。互いの力が均衡したところで機を見て後ろへ下がる。
――化け物め。
里の術者が敵わないのも無理はない。見た目以上の力と素早さ。初手で仕留められなければ並の腕前では返り討ちにあうだけだろう。
だが、妖夢は並の腕前ではない。
白楼剣を鞘にしまい、楼観剣を両手で下段に構える。飛び込んできた牛鬼の前脚を紙一重で見切って踏みこんで切り抜ける。妖夢は楼観剣が相手の首元から腹を薙いでいくのを感じた。牛鬼の巨躯はそのまま地面を転がり動かなくなった。
ゆっくりと長く息を吐いて、刀を鞘に収める。勝負は一瞬だったが決して楽に勝てたわけではない。まだまだ自分は修行不足だと痛感する。
「さて、倒した証拠は持って帰らないと……」
首を切り落として持って帰るというのは気が進まないが、そうしなければ報酬は貰えない。白楼剣とは違う、別の短刀を抜いて死体に近づく。すると牛鬼の死体を挟んで反対側。道の先に人影が見える。
紅と白の羽織に陣笠。背中に長刀を背負った武家。香霖堂で依頼を受けた際にすれ違った人物だった。
――あの武家、妖怪いや怨霊か。
とはいえ、たまたま通りがかっただけだろうと思う。何の因縁もないはずだ。
だが、一歩進むたびに妖夢の中の剣士としての部分が警戒を強めていく。剣を抜いているわけでもなくただそこに立っているだけなのにだ。数歩進んだところで妖夢のすぐそばから声がかけられた。
「すまないが、その妖怪の首を譲ってはもらえないだろうか」
いったいいつ踏み込んできたというのか。楼観剣の間合いのぎりぎり外側半歩の地点にその武家はいた。香霖堂ですれ違った際に感じた剣気は伊達ではなかったということか。
背中に嫌な汗が流れるのを感じながら応える。
「譲ってくれとはどういうことです? 妖怪の首が必要とは思えませんが?」
言葉尻がきつくなってしまったのは致し方ないところだろう。
「とある方に頼まれたんだよ。息子が殺されたのでその仇を討ってほしいと。で、そこの妖怪が仇だったのだが……」
どこかで聞いたような話だと思い、考えを巡らせれば、香霖堂で示された依頼の内、引き受けなかった方の依頼ではないかと思いいたる。
あの武家が香霖堂に仕事を貰いに来たと言うのなら、残っているのはその仕事しかない。
「ならもういいでしょう。仇の妖怪は死んだとお伝えください」
「その母親というのがまた堅物でな。首でもみせんと納得しそうにない」
やれやれといった風情で肩をすくめる。
「それにこれは私が仕留めたものです。それを手伝いもせずに横から出てきて首だけよこせと言うのは筋が通らないと思いますが」
「それもそうだな。ではこれでどうかな?」
言うが早いか、背中から引き抜かれた刀が牛鬼の腹部を両断する。
「一体なにを――!?」
裂かれた牛鬼の腹部。傷口から見えるのは白い卵。
「やはり気づいていなかったか。そのまま放置すれば数ヵ月後にはまた被害が出ていたところだな」
「くっ……」
確かに卵の存在に気づかなかったのは妖夢の落ち度といえるかもしれない。だが、それを理由に首を渡すなどありえない選択肢だ。こちらには生活がかかっている。
となれば解決方法は一つしかない。
「…………」
「最初からこうしておけばよかったか」
無言で二刀を抜き払った妖夢を見て、相手も刀を正眼に構える。
それだけでただの正眼の構えが磐石なものに見えてくる。相手の実力に舌を巻きながら、妖夢も白楼剣中段、楼観剣を上段に構える。
「――魂魄妖夢」
「明羅、だ」
どちらともなく名乗りあう。それは互いが剣士であるがゆえの礼儀と知ってのことだ。
中段に構えた白楼剣の剣先をわずかにあげ、爪先でじりっと間合いを詰める。相手の手の内がわからない以上は先手で仕留めるしかない。
じりっじりっと間合いを詰めていく。妖夢が踏み出すたびに明羅は腕を引き絞り、体を研ぎすまさせていく。
――来る。
妖夢が踏み出すより早く殺到してきた上段の剣を跳ね上げながら、胴へと切り込む。一瞬で二人の位置は入れ替わる。だが、明羅の剣は妖夢の肩をかすめていた。右肩に赤い染みが広がる。
明羅は依然として正眼の構えだが、羽織の右半分が切れている。妖夢の刀もまた明羅に届いていたのだ。
夕闇が濃さを増していく。明羅がかすかに動き、構えが正眼から八双へ変わる。やや腰を落とし、右足が前へ出る。明羅が勝負を仕掛けるつもりなのだと妖夢は感じた。
白楼剣を捨て、楼観剣一本に絞る。必殺の一撃を片手で受けとめられようはずもない。地面に切っ先をかすらせるように下段に構える。
次の瞬間、二人は引き寄せられるかのように斬り合った。明羅の一刀を体を捻ってかわし、すれ違いざまに妖夢の剣は明羅の腹部を捉えたが、袈裟斬りに振り下ろされた明羅の剣は下段で反転し、逆袈裟に妖夢を切り裂いていた。
体を縦一文字に走る熱と衝撃に足がもつれ、妖夢はそのまま地面へ倒れ伏した。気を失う直前の視界には同じく地面に倒れる明羅の姿が写っていた。
次に気がついたとき、妖夢は布団に寝かされていた。目をあければそこには心配そうな顔でこちらを覗き込む幽々子がいた。
「ゆ、ゆゆこさ……っつぅ!」
慌てて起き上がろうとして、全身に痛みが走る。生きているということは致命傷ではなかったということだが、決して軽い傷でもないようだ。
「ほらほら、傷は深いんだからゆっくり寝ていなさいな、妖夢」
布団に寝かされて、額に濡れた布を乗せられる。
「えっ……と、あの……私はどうやってここに?」
明羅と相打ちになったところまでは覚えている。その後どうやって白玉楼まで運ばれたのかわからない。牛鬼もどうなったのかさっぱりだし、なにより明羅はどうなったのか気になった。
あの時はああするしかないと思っていたが、今こうやって冷静になればなんとまぁ馬鹿らしいことか。そして、そんな馬鹿なことで相手が命を落としているとするなら、これほど滑稽なことは無い。
「あなたをここまで運んできたのは天狗よ。犬みたいな尻尾と耳の生えた可愛い天狗。『事後処理はすべてこちらで済ませておきましたので、後日お訪ねください』だって」
「そうですか……」
最後まで世話になりっぱなしではあったが、あのまま放置されているよりはマシといえよう。
里を訪ねる時は何か手土産でも持っていこうと決める。
「それから、妖夢の他に人はいなかった、ですって。どういうことかしらねぇ」
「……」
自分がこうして生きているのだ。明羅も生きていても不思議ではない。今回は不本意な形での不本意な決着であったが、次があるならばもっとちゃんとした形で戦いたいと思う。
「さて、妖夢?」
「――はい、なんでしょう?」
「どうしてこんな事になったのか詳しく説明してもらえるわよね?」
笑顔だが決して笑っていない幽々子を前にして、妖夢に隠し事などできようはずもない。結局一から十まで説明する羽目になった。
「妖夢は妖夢で頑張ってくれていたのね。ごめんなさいね気付かなくって……」
妖夢の話を聞き終え、大元の原因が自分だとわかるとしょんぼりとうな垂れる幽々子。
主である幽々子を心配させてしまったのは申し訳ないが、これで幽々子の放蕩が少しでもマシになるなら苦労した甲斐はあったというものだ。
「それはそれとしてー、はい妖夢」
幽々子から差し出された一通の手紙。表には果たし状と書かれていた。
「へっ……。幽々子様これはいったい……」
「妖夢。仮にも魂魄の剣を修得した者が相打ちしたなんて恥を晒したままでいいと思っているの? 妖忌がいたらとっくに破門よ、破門」
「い、いや……しかし……」
「しかしもお菓子もないの。香霖堂で知り合ったなら店主にでも渡しておけば向こうに届くでしょう。私は優しいから相手の命まで取って来いなんて言わないけど、白黒はちゃんと着けて来るのよ?」
思いがけず早く来た再戦の機会。怪我が治ってからなんて悠長な事は言っていられない。動けるようになればすぐにでも修行を始めなければならない。無意識のうちに右手は布団を強く握り締めていた。
「それじゃもう寝なさい。今日くらいはゆっくりしても誰も文句は言わないし、言わせないわ」
そういって幽々子は部屋を出て行った。
独りになった部屋の中で妖夢は天井を見上げていた。妖夢の頭の中はどうやって明羅に勝つか、それだけで埋められていた。
後日、決闘の事を知った文が勝負の結果を方々に聞きまわったが誰一人として知らなかった。
結果を知っているであろう幽々子にはのらりくらりとはぐらかされ、当人らも黙して語らずであった。
ただ香霖堂の店主だけがいい金看板が二枚も手に入ったと上機嫌であったということだけ付け加えておく。
旧作はやってないので詳しくないのですが、実に格好いいなぁ。
時代小説のような雰囲気で、剣戟そのものも実にらしいものでした。
うん、面白かったw
決闘の結果が気になります。
それにしても、二人の決着はやっぱり気になるところですね。
「幻想郷」を損なわないままここまで時代小説ができるのか! お見事でした。
するすると読めて、清清しい読後感を楽しめました。
次回作もぜひ読みたいでです。一年後などと言わずに。
いいなぁ、かっちょいいなぁ。
妖怪と里との関係や里の様子など、いろいろと想像力をかきたてられて面白かったです。
クソ、やってないのが残念だぜ
それでも面白かった。ただ、質屋に断られるぐらい頻繁に売りに行くとかどんだけwww