早苗の脳裡に、熟読玩味するあまりほとんど丸暗記してしまった『幻想郷縁起』の記述が浮かぶ。
『神出鬼没で性格も人情に欠け、行動原理が人間とまるで異なっている事等、まず相手にしたくない妖怪である。』
結界を厳重に張り巡らせていたはずのプライベートスペースに易々と侵入する能力といい、『縁起』の挿絵そのままの風体といい……間違いない。
「境界の妖怪、八雲紫!」
袖から霊符の束を取り出し、即時、早苗は臨戦態勢に入る。
が、紫の方はやたらと落ち着き払った態度で、ちゃぶ台の前に座ったまま、湯飲みの中の茶を啜るだけである。
「あらあら。新参の子にいきなり呼び捨てにされるなんて、私も有名になったものだわ」
「ここで何をしている!」
「ボランティア」
「は?」
「あなたの手料理が無駄にならないようにしてあげたのよー」
早苗はちゃぶ台の上を見る。
汁の一滴すら残らず空になった鍋と、飯粒ひとつ残さず綺麗に平らげられた炊飯器(河童特許13825号。驚異の高熱・高圧力で、どんな米でもふっくら艶々に炊き上げる)が目に飛び込んでくる。
……頭の血管が切れそうになった。
「あさましい! 野良犬も同然よ!」
「近頃の若い子は、勿体無いって言葉を知らないのかしらねえ」
「な、何よそれ……」
「神様ふたりは朝帰り確定。そしてあなたは今、とてもじゃないけど食事が喉を通るような精神状態ではない」
図星。
歯軋り。
「料理は作りたてが一番。その食べ頃を逃すのは、食材に対して失礼というものじゃない?」
「余計な……お世話です」
「あらあらーん? つぶらなお目々が真っ赤っ赤よ? 可っ哀想に……清純な乙女に涙を流させるなんて、ひどい神様もいたものだわ」
「あっ、あなたなんかに……!」
「そんなことを言われる義理はない、とでも? そう言うあなたこそ、実は不平不満で心がはち切れそうなんじゃないの?」
とん。
紫は湯飲みをちゃぶ台の上に置き、立ち上がった。
そして不自然なまでに慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、茶の間の入り口の前で立ち尽くしている早苗の方へ、一歩、二歩……近づいて行く。
「だから、私が来てあげたの。慰めてくれる相手が、欲しかったんでしょ?」
「寄るなっ!」
早苗は手にした霊符を全て、力任せに紫へと投げつけた……が、それらは全て、紫の前に音も無く開いた僅かなスキマに吸い込まれ、本来の役目を果たせぬまま消滅した。
スキマを閉じた後も、紫は依然として表情を変えていない。
凶悪なまでに……優しく、美しい笑顔。
物理的にも精神的にも、これ以上こいつを近づけてはならない。
そう、早苗の直感が警告する。
「っ!」
「お待ちなさいな」
第二の束を用意しようと再び左袖の中に突っ込んだ右手を、紫の手が掴む。
華奢な見た目からは創造も出来ないほど抗いがたい力で、そのまま袖の外まで引きずり出される。
せっかく手にした霊符は、ことごとく座敷の上へと舞い落ちた。
早苗は恐慌に駆られて身をよじり、外へ駆け出そうとする。
だが、体がぴくりとも動かない。
叫ぼうとしても喉の筋肉が痺れ、ひゅうひゅうと空しい呼気が漏れるだけだ。
もがこうとしても、もがくことすらできない。
早苗は、生きた彫像と化した。
「あなたの体は今、四重の結界にすっぽりと包み込まれている。打ち破ることは無理よ」
何を言う。
守矢の風祝に……この世で誰よりも神に近い存在に、不可能なことなど!
「へえ、この状態でも眼球を動かすことぐらいはできるんだ。すごぉい……って、褒めてあげてるのよ? そんなにおっかない顔で睨まなくてもいいじゃない」
不覚。
ああ八坂様……この際、洩矢様でもいい!
どうか、どうか……
「困った時の神頼み、ってわけかしら? でも、無駄。私の結界は強固な思念すら完全にシャットアウトする。いくら祈っても届かないわよ」
八坂様!
洩矢様!
かしこき美山の化身よ!
御身を疾風と変え、とくとく参られよ!
「だから無駄なんだって……うっふふふふ……まあ、もし結界がなかったとしても、どうせ聞いてはもらえなかったでしょうね。ふたりとも今ごろ、楽しい楽しい神遊びに夢中になっちゃってるでしょうから」
言うな。
お前なんかに、指摘されたくない。
「怖い? 不安? 大ピンチになっても助けてくれない神様が……憎い?」
うるさい。
「本当、人間の考えることは分からないわぁ。神などというアヤフヤで無力な存在を、どうしてそこまで信じられるのかしら」
「……うる、さい……」
早苗の気迫が、意地が、膨れ上がる。
それを抑えきれず、一枚目の結界が割れた。
「お? こりゃビックリね。まさか喋れるなんて」
「……『神』は無力、など、では……」
二枚目が壊れる。
早苗はキッと顔をあげ、大きく口を開く。
「『神』に勝る力など、ない! たかが妖怪の分際で奢るな! お前なんか、ぐぐぐ、その気に、なれば……」
「なるほど。これが『信仰』のパワーってわけ。巫女ですらこれほどの霊気を蓄えているとなると……」
ほんの一瞬だけ、紫は頬を引きつらせた。
三枚目が砕ける。
「気に入ったわよ東風谷早苗。あなたは、私が見込んだ通りの子だわ」
「はぁ、はぁ、はぁ……ふふふ、その余裕をどこまで保っていられるかしら? 非礼を詫びるのなら今のうちよ」
「そうねぇ、謝るにやぶさかではないんだけど……その前にひとつだけ質問してもいい?」
四枚目は最後の壁だけあって、なかなか崩せない。
「そもさん。汝にとって、神とは何ぞや?」
「知れたこと。『神』とは何者も逆らえぬ力なり。いと高き御座より世を広く照覧し、生けとし生けるもの全ての上に君臨する貴き御方」
「……んー。早い話が、すっごく強い奴!ということ?」
「そうよ」
「弱き者、すべからく強き者の前に膝を折るべし!って言いたいわけ?」
「それが……真理でしょう」
「あははははは! 同感よ!」
手足に力が戻ってきた。
もう少しで、全ての結界を破れる。
そう、早苗が確信した時に。
「でもね早苗ちゃん。その理屈で言うなら、あなたたち人間が神を忘れるのもまた……歴史の必然ってことになるわよねぇ?」
四枚目に走っていた亀裂が、瞬く間に修繕されていく。
どっと、早苗のこめかみに冷汗が吹き出る。
「なまじ大きな力と智慧を生まれながらにして持つがゆえに、神は己を高める努力をサボり続けてきた。人間たちに無条件で祀り上げられ、お社の奥でふんぞり返っているうちに、自分たちの力の源がどこにあるのか忘れてしまったのよ」
「あ、ぐ……ちがう……!」
「けれど人間の方は、少しでも神の領域へ近づきたくて……永年に渡り、死に物狂いの努力を続けてきた。無知の知、無力の力ってやつね」
「ひと、は……つねに、かみの、もとで……」
「黙って聞きなさいな。これからすっごくいい事を言うんだから」
新たに生成された三枚の結界が、重なる。
先ほど以上の重量にのしかかられ、早苗は今度こそ完全に身動きを封じられた。
「まだ『日本』というクニの枠組みが出来上がったばかりの頃、神々は空にイワフネという乗り物を浮かべて旅行していたと言うわ。でも今じゃ、どこを見上げたってそんなオンボロ飛行物体を見かけることはない。現在の天を支配しているのは、二枚の翼を持った鋼鉄の流線型……つまり、飛行機よ。人間の叡智の結晶だわ」
「…………」
「神の宿る場所と言われる山々を悠々と見下ろし、雲の上に雷様なんていないことを知った人間は、興味のおもむくまま、さらに高いところを目指すようになった。それはとてもとても難しいことだったけど、血の滲むような努力の結果……大気圏を、突破した」
戦慄に冷え切った早苗の頬を、白く滑らかな掌がそっと撫でる。
その感触は背筋が震えるほど温かくて、吐き気がするほど心地よかった。
「月面に刻んだ足跡は、人間こそが世界で最強の存在だという証なのよ……ふふ、うふふふふ」
結界の有無に関わらず、早苗はすでに何かを喋る気力を失っていた。
沈黙し、紫のなすがまま身を任せる。
なぜなら……抵抗するより、その方がずっと、楽だから。
自分を救う言葉を『賢者』授けてくれるという淡い期待が、心の奥底に生まれたから。
「ああ、人間って素敵! せいぜい100年も生きられぬ脆弱な生き物のくせに、その知的好奇心と欲望は留まるところを知らない! あと数十年もすれば、自然界を支配する四つの力すら物理式の上で統一してしまうに違いないわ! そうなればタイムマシンだろうとフリーエネルギーだろうと、どんな夢だって叶え放題……魔法とか、奇跡とか、そんな幻想に頼らなくても! 他の誰かに頼らなくても! 人間は万物を支配できる! 立派に生きていける!」
早苗の顎の下を人差し指でくすぐりながら、紫はその耳元に唇を寄せる。
「ならば……辛い思いをしてまで神様に仕える必要なんて、どこにもないんじゃないかなぁ?」
早苗は恍惚とした表情で、荒い息を吐いた。
そして、そのまま結界の圧力に心を潰され、意識を失った。
白地に蝶柄の水着に身を包んだ幽々子は、湯に浸かるや否や、
「くはぁ、生き返るぅ!」
有り得ないことを口走った。
「がははははは! あんた、亡霊のくせに冗談がうまいねぇ」
同じく湯の中にいた神奈子が、爆笑しながら幽々子の傍に泳ぎ寄る。
「はて? 私、何か変なことを申しましたかしら?」
「ひひひ、ボケにボケを重ねるってか? 流石は白玉楼のお嬢様だぁ、神である私ですら笑い殺されちまいそうだよぐふふふふ!」
「あらやだ。いくら私でも、神様をブチ殺すなんて乱暴な真似はしませんわよ」
「そうかいそうかい、そいつぁお優しいこった! これからもせいぜい、末永いお付き合いをお願いするよ!」
かつて神奈子たちが必死になって全国に広めた『中央神話』の価値観に照らし合わせれば、『死』とは純然たるケガレに他ならず、こうして神と冥界の住人とが湯船を同じにするなど以てのほかのはずなのだが、すでに酔いがまわっている神奈子にとって、そんな苔むした常識など最早どうでもいい。
頭の固い風祝が一方的に通信を打ち切ってしまったことへの不安だって、すでにアルコールがさっぱりと洗い流してくれた。
とにかく、神奈子は浮かれているのだ。
「ところで……」
神奈子が水面下に沈めている柔らかな塊を見て、幽々子は嘆息する。
「ん?」
「神様だけあって、立派なものをお持ちですのねぇ」
読んで字のごとく自然体である神は、自慢の箇所を布切れで隠すなどという野暮はしないのである。
ちなみに彼女以外の者たち(特に水辺に控えているメイドと剣士)も同様の感慨を抱いており、時折り神奈子の胸元にチラチラと視線を送っては、色んな意味で赤面している。
(デカいッ!)
(なんたる存在感ッ!)
(こ、これが神徳の成せる業かッ!)
そんな心の声が聞こえてきそうだ。
チャリチャリと音をたて、やや本来の意味からずれた信仰ポイントが神奈子の体内に積算されて行く。
それが神奈子には、もう、心地良くてたまらない。
(ふっふーん。格の違いを思い知ってもらえたかしら?)
神奈子は、愉快の絶頂にいた。
すでに太陽は沈む寸前。
山は夕闇に染まりつつあるが、先ほどから弾幕の華がひっきりなしに空を照らしているため、湖の辺りだけは少しも暗くならない。
現在諏訪子の挑戦を受けている相手は、永琳だ。
最初は「神のお相手など、とてもとても……」と面倒くさそうに断っていたものの、諏訪子に「やだーやだー蓬莱人の実力を見せてくれなきゃやだー!」としつこく駄々をこねられ、さらに輝夜にまで「面白そうじゃないの。ひとつ、余興代わりに闘ってみてよ」と命じられ、渋々ながら服を着替えたのだった。
肌がむき出しの水着姿だと、うっかり被弾した時にかなり痛い。
手っ取り早く勝負をつけるつもりではあるが、常に万一の場合を想定しているのが八意一族なのである。
(おや? 諏訪子のやつ、やけに苦戦してるじゃないか。)
最初の一本を速攻で獲ったはいいが、その後は善戦しつつも結局苦杯をなめた魔理沙が、咲夜のサンドウィッチを頬張りながら空を見上げる。
切り札を気前よく撃ちまくった挙句の惜敗、悔しくないと言えば嘘になるが、それでも過ぎたことをいつまでもクヨクヨしていてもしょうがない。
そんな暇があったら、今現在に繰り広げられているトップクラスの戦いを目に焼きつけ、今後の参考にした方がずっと良い。
魔理沙は、澄んだ瞳で勝負の行方を追う。
(おーおー。狭い隙間をピョコピョコと……よく避けるねぇ! でも守ってばかりじゃ勝てないんだぜ)
諏訪子がんばれー。
そう叫んで上空に手を振る。
あいよー。
焦燥に上擦る声が返ってきた。
勝ったところで得られるものなど何もないが、姫と弟子の目の前で情けない姿を晒すつもりもない。
密かに負けず嫌いの永琳が持ち出してきたカードは、神という存在に対し抜群の相性を発揮していた。
おかげで諏訪子は、
(やっぱり、やめておけば良かったかもしれない……)
などと、珍しく弱気になりつつあった。
強力な弾幕ほど攻略のし甲斐があるはずなのに、相手が強ければ強いほど燃えるのが諏訪子であるはずなのに、今回だけはいまひとつ興が乗らない。
弾幕ごっこに面白味を感じられないなんて、初めての経験だ。
自然と、勝負にかける意気込みも減退していく。
「どうしました洩矢神。だんだん動きが鈍くなっているようですが」
「むぐぐ、どうしたことだろうねぇ。なぁんか本調子じゃないんだなー」
「魔理沙戦で負ったダメージが、今になって響いているのでは? それなら勝負は中断して、まず診察を……」
「心配いらないよ。私ゃ、こう見えても体は頑丈なんだ」
そう。
まだ、たった3回スペルカードを切っただけ。
体力気力、共にまだまだ余裕がある。
しかし異様に体が重い。
「では……湯冷めしないうちにケリをつけさせてもらいます」
豪快に渦巻きながら迫ってくる、見渡す限りの弾の雨。
地上から見上げる月が見せる顔色と同様に、蒼白あるいは紅に染まった思念。
直視していると、耳の奥で不協和音が響く。
これはあくまで弾幕「ごっこ」であるはずだ。
なのに、こちらに向かってくる弾のひとつひとつ……本気であるはずがない偽りの殺意に、まるで己の全てを否定されているような不快感を覚えるのは、何故か?
避けていて、ちっとも爽快感がない。
「うー! やっぱり、なんかおかしいよ!」
「どうぞご無理はなされませんよう。私としても、神を傷付けるという罰当たりな真似はなるべく避けたいので」
「ふん!」
忌々しげに、諏訪子は鼻を鳴らした。
「あんたがオモイカネの家系だってこと、忘れていたよ。もしかして、何がしかの術策にハメやがった……とか?」
永琳のポーカーフェイスは揺るがない。
「さて、どうでしょうか」
「……ところで、このスペカの名前をまだ聞いてなかったね」
「これは失礼。私としたことが言い忘れておりましたわ」
「白々しい! ケチケチせずに教えてちょうだいよ」
「では、余すところなく開陳いたしましょう。これなるは、無謀にも月へ至る道を開こうとした地上人の蛮勇に対し、大いなる憎悪……そして幾ばくかの敬意を表したスペル」
弾幕の密度をハードからルナティックのレベルに高め、それを一斉に放つ寸前。
天に顔を出したばかりの半月を背負い、永琳は高らかに宣言した。
「名付けて、天呪……」
『外の世界』でも、この幻想郷においても、夜明けの到来を告げるのは雀の役目である。
ちゅんちゅん、ちゅんちゅん。
「はっ!?」
その清々しい鳴き声を聞いて、早苗は反射的に体を起こす。
いつのまにか身を覆っていた掛け布団が、勢いよく捲れ上がった。
(これは、一体?)
まず、辺りを見渡す。
見慣れた茶の間の風景が、あった。
次に、己の姿を見る。
巫女服を着たまま。
(あ、あいつは……どこに?)
八雲紫の姿は、すでに消え去っている。
(夢。悪い夢)
そうであることを願う。
しかし、ちゃぶ台の上に依然として居座っている空の鍋と炊飯器、そして枕元に置いてある手紙が、昨晩の出来事は現実であったことを雄弁に物語っていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
早苗ちゃん江
これを読んでいる頃、私はもうあなたの傍にはいないでしょう……
なんて、ついシリアスぶってみたいお年頃のゆかりんです。
昨日は驚かせちゃって、ごめんね。
でも、あなたの辛そうな顔が、どうしても見るに忍びなくてね。
どう?
私のちょっとしたお茶目で、少しは心を和ませてもらえたかしら?
さて。
唐突ですが。
『外』から来た人間が、再び『外』へ出て行くのはそれほど難しいことではありません。
博麗神社の巫女に頼めば、一発です。
でも彼女にライバル意識を抱いていて、なるべく借りを作りたくないという意地っ張りにはお勧めできないわね。
誰のこととは言わないけど(はぁと)!
そこで今回は、特別大サービスで裏ワザを教えちゃいます。
次の満月の晩の、子の刻……つまり午前零時に、私は結界を越えて外へ遊びに行くつもりです。
でも独りでお出かけするのは寂しいので、お供を大募集したいと思います。
応募条件は特になし。
連れて行けるのは先着一名様のみ。
つまり、そういうことです。
『幻想』を信じられなくなった人がここに居たって、苦しいだけですものね。
魔法の森を抜けた先に、彼岸花で真っ赤に染まる『再思の道』という場所があります。
そこでお待ちしています。
八雲紫 拝
追伸
あなたの手料理は絶品だって、私の友人が褒めちぎっていました。
小料理屋の若女将として第二の人生を歩むのも、乙なものじゃないかしら?
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
読み終えた後すぐ、早苗はそれを力任せに破り捨てた。
文字のひとつすら判別できないほど細かく、念入りに分割して、全ての欠片を屑籠の中に叩き込んだ。
そして……
「目に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず。耳に諸々の不浄を聞きて、心に諸々の不浄を聞かず……」
早鐘を打つ心臓を胸の上から押さえ、ミソギの言葉を早口に唱える。
自分が、神を捨てる?
馬鹿な。
そんなの、考えたことすら。
(不平不満で心がはち切れそうなんじゃないの?)
妖しくも美しい笑顔が、記憶のスクリーンを掠める。
生まれて初めて神を呪い、感情の乱れるまま不様に泣き喚いたことも、同時に思い出した。
「鼻に諸々の不浄を嗅ぎて、心に諸々の不浄を嗅がず。口に諸々の不浄を言いて、心に諸々の不浄を言わず……くっ……」
下唇を噛み締める。
自分は未熟だ。
この程度の逆境に耐えられず、取り乱すなんて。
風祝失格だ。
こんな弱い心をしているから、薄汚い妖怪なぞに目をつけられ誘惑されるのだ。
『神』が昔ほど自分を大切にしてくれなくなったのも、当然のことだ。
悔しい。
自分が憎い。
頭が痛い。
涙が滲む。
胸が苦しい。
呼吸が詰まる。
新鮮な空気が欲しい。
立ち上がる。
よたよたと社務所の外へ歩み出た。
そうしたら、いきなり。
「おいっ、そこの人間!」
きらきらと鬱陶しい旭光と共に、何者かが早苗の前に立ち塞がった。
「ブツブツブツ……ええと、ここで獅子を動かして、玉を逃がして、いや違うな、先に猛牛を突撃させた方が、いやいや待てよ……」
「おはようさん椛。朝っぱらから精が出るね」
「何の皮肉ですか、そりゃ。相変わらずヒマでヒマでしょーがないですよ私ゃ」
「いやいや。こうして孤独に詰め大将棋を楽しんでいるあなたの背中を見てると、何かさ、こう、物悲しさで胸が熱く……」
「外回りの鴉一族は気楽でいいもんですねぇ。じゃ、私は孤独で根暗な遊びに忙しいんで、さようなら」
「やぁね冗談よ拗ねないで。私がここに来たのは、他でもない……」
「私の千里眼に用があるってんでしょ? 他でもない、って言うか、それ以外の用事で文さんが来た例がない」
「分かってるなら話は早い。どうよ最近、何か面白い事件を見かけなかった?」
「全然。平和そのもの」
「なぁんだ、来るだけカロリーの無駄だったわ」
「まったくですね。願わくば、私の沈思黙考タイムを二度と邪魔しないで……あっ!」
「おっ?」
「そういや、さっき……見るからに頭の中身がヌルそうな氷精が、神社の方に飛んでいきました」
「氷精? もしかして、なんか青っぽいの?」
「ええ、青っぽいの」
「なによそれ一大事じゃないの! 侵入者よ侵入者! 白狼のあなたが、こんなところで油を売っていていいの?」
「いや、フリーパス蛙がお供にいるのが見えたもんですから」
「ああ……諏訪子様が沼から仕入れてくる、アレね。少しでも気に入った相手を見つけるとバカスカ発行しちゃうという」
「身の回りが寂しくなる一方だって、大蝦蟇が嘆いているそうですね。噂によると」
「そうそうそう! その噂を拾い上げた唯一のメディアこそ、我が文々。新聞!」
「相変わらず瑣末なネタばかり拾ってるんですねぇ。そんなんでいい気になってるから、いつまで経っても報道コンペで勝てないんですよ」
「ぐ」
「とまれ、あんな妖精を遊び友達にするたぁ……諏訪子様も趣味が悪いですね。ま、たかが⑨一匹、放っておいてもどうってこたぁないか。すいません、やっぱ売れそうなネタじゃなかったですわ」
「ふふふふふ、そんなことはありませんよ椛さん」
「いきなりブン屋口調にならないでくださいよ、気持ち悪い」
「私の第六勘・オブ・ジャーナリストが、大いなる波乱の幕開けを告げています。あそこの巫女には以前ひどい目に遭わされましたからね。いつか特ダネのひとつでもスッパぬいて報いてやろうと思っていたところなんですよ!」
「文さんの場合、痛い目を見るのはたいてい自業自得のような気がするんですが……」
「まさに願ったり叶ったり! いざさらば!」
「って、あーあ、行っちゃったよ……はぁーあ、何が勘だ特ダネだ、いっつも火のないところに煙を立ててばっかりいるくせに、まったく鴉は落ち着きがなくて困るよブツブツブツ……」
(続く)
『神出鬼没で性格も人情に欠け、行動原理が人間とまるで異なっている事等、まず相手にしたくない妖怪である。』
結界を厳重に張り巡らせていたはずのプライベートスペースに易々と侵入する能力といい、『縁起』の挿絵そのままの風体といい……間違いない。
「境界の妖怪、八雲紫!」
袖から霊符の束を取り出し、即時、早苗は臨戦態勢に入る。
が、紫の方はやたらと落ち着き払った態度で、ちゃぶ台の前に座ったまま、湯飲みの中の茶を啜るだけである。
「あらあら。新参の子にいきなり呼び捨てにされるなんて、私も有名になったものだわ」
「ここで何をしている!」
「ボランティア」
「は?」
「あなたの手料理が無駄にならないようにしてあげたのよー」
早苗はちゃぶ台の上を見る。
汁の一滴すら残らず空になった鍋と、飯粒ひとつ残さず綺麗に平らげられた炊飯器(河童特許13825号。驚異の高熱・高圧力で、どんな米でもふっくら艶々に炊き上げる)が目に飛び込んでくる。
……頭の血管が切れそうになった。
「あさましい! 野良犬も同然よ!」
「近頃の若い子は、勿体無いって言葉を知らないのかしらねえ」
「な、何よそれ……」
「神様ふたりは朝帰り確定。そしてあなたは今、とてもじゃないけど食事が喉を通るような精神状態ではない」
図星。
歯軋り。
「料理は作りたてが一番。その食べ頃を逃すのは、食材に対して失礼というものじゃない?」
「余計な……お世話です」
「あらあらーん? つぶらなお目々が真っ赤っ赤よ? 可っ哀想に……清純な乙女に涙を流させるなんて、ひどい神様もいたものだわ」
「あっ、あなたなんかに……!」
「そんなことを言われる義理はない、とでも? そう言うあなたこそ、実は不平不満で心がはち切れそうなんじゃないの?」
とん。
紫は湯飲みをちゃぶ台の上に置き、立ち上がった。
そして不自然なまでに慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、茶の間の入り口の前で立ち尽くしている早苗の方へ、一歩、二歩……近づいて行く。
「だから、私が来てあげたの。慰めてくれる相手が、欲しかったんでしょ?」
「寄るなっ!」
早苗は手にした霊符を全て、力任せに紫へと投げつけた……が、それらは全て、紫の前に音も無く開いた僅かなスキマに吸い込まれ、本来の役目を果たせぬまま消滅した。
スキマを閉じた後も、紫は依然として表情を変えていない。
凶悪なまでに……優しく、美しい笑顔。
物理的にも精神的にも、これ以上こいつを近づけてはならない。
そう、早苗の直感が警告する。
「っ!」
「お待ちなさいな」
第二の束を用意しようと再び左袖の中に突っ込んだ右手を、紫の手が掴む。
華奢な見た目からは創造も出来ないほど抗いがたい力で、そのまま袖の外まで引きずり出される。
せっかく手にした霊符は、ことごとく座敷の上へと舞い落ちた。
早苗は恐慌に駆られて身をよじり、外へ駆け出そうとする。
だが、体がぴくりとも動かない。
叫ぼうとしても喉の筋肉が痺れ、ひゅうひゅうと空しい呼気が漏れるだけだ。
もがこうとしても、もがくことすらできない。
早苗は、生きた彫像と化した。
「あなたの体は今、四重の結界にすっぽりと包み込まれている。打ち破ることは無理よ」
何を言う。
守矢の風祝に……この世で誰よりも神に近い存在に、不可能なことなど!
「へえ、この状態でも眼球を動かすことぐらいはできるんだ。すごぉい……って、褒めてあげてるのよ? そんなにおっかない顔で睨まなくてもいいじゃない」
不覚。
ああ八坂様……この際、洩矢様でもいい!
どうか、どうか……
「困った時の神頼み、ってわけかしら? でも、無駄。私の結界は強固な思念すら完全にシャットアウトする。いくら祈っても届かないわよ」
八坂様!
洩矢様!
かしこき美山の化身よ!
御身を疾風と変え、とくとく参られよ!
「だから無駄なんだって……うっふふふふ……まあ、もし結界がなかったとしても、どうせ聞いてはもらえなかったでしょうね。ふたりとも今ごろ、楽しい楽しい神遊びに夢中になっちゃってるでしょうから」
言うな。
お前なんかに、指摘されたくない。
「怖い? 不安? 大ピンチになっても助けてくれない神様が……憎い?」
うるさい。
「本当、人間の考えることは分からないわぁ。神などというアヤフヤで無力な存在を、どうしてそこまで信じられるのかしら」
「……うる、さい……」
早苗の気迫が、意地が、膨れ上がる。
それを抑えきれず、一枚目の結界が割れた。
「お? こりゃビックリね。まさか喋れるなんて」
「……『神』は無力、など、では……」
二枚目が壊れる。
早苗はキッと顔をあげ、大きく口を開く。
「『神』に勝る力など、ない! たかが妖怪の分際で奢るな! お前なんか、ぐぐぐ、その気に、なれば……」
「なるほど。これが『信仰』のパワーってわけ。巫女ですらこれほどの霊気を蓄えているとなると……」
ほんの一瞬だけ、紫は頬を引きつらせた。
三枚目が砕ける。
「気に入ったわよ東風谷早苗。あなたは、私が見込んだ通りの子だわ」
「はぁ、はぁ、はぁ……ふふふ、その余裕をどこまで保っていられるかしら? 非礼を詫びるのなら今のうちよ」
「そうねぇ、謝るにやぶさかではないんだけど……その前にひとつだけ質問してもいい?」
四枚目は最後の壁だけあって、なかなか崩せない。
「そもさん。汝にとって、神とは何ぞや?」
「知れたこと。『神』とは何者も逆らえぬ力なり。いと高き御座より世を広く照覧し、生けとし生けるもの全ての上に君臨する貴き御方」
「……んー。早い話が、すっごく強い奴!ということ?」
「そうよ」
「弱き者、すべからく強き者の前に膝を折るべし!って言いたいわけ?」
「それが……真理でしょう」
「あははははは! 同感よ!」
手足に力が戻ってきた。
もう少しで、全ての結界を破れる。
そう、早苗が確信した時に。
「でもね早苗ちゃん。その理屈で言うなら、あなたたち人間が神を忘れるのもまた……歴史の必然ってことになるわよねぇ?」
四枚目に走っていた亀裂が、瞬く間に修繕されていく。
どっと、早苗のこめかみに冷汗が吹き出る。
「なまじ大きな力と智慧を生まれながらにして持つがゆえに、神は己を高める努力をサボり続けてきた。人間たちに無条件で祀り上げられ、お社の奥でふんぞり返っているうちに、自分たちの力の源がどこにあるのか忘れてしまったのよ」
「あ、ぐ……ちがう……!」
「けれど人間の方は、少しでも神の領域へ近づきたくて……永年に渡り、死に物狂いの努力を続けてきた。無知の知、無力の力ってやつね」
「ひと、は……つねに、かみの、もとで……」
「黙って聞きなさいな。これからすっごくいい事を言うんだから」
新たに生成された三枚の結界が、重なる。
先ほど以上の重量にのしかかられ、早苗は今度こそ完全に身動きを封じられた。
「まだ『日本』というクニの枠組みが出来上がったばかりの頃、神々は空にイワフネという乗り物を浮かべて旅行していたと言うわ。でも今じゃ、どこを見上げたってそんなオンボロ飛行物体を見かけることはない。現在の天を支配しているのは、二枚の翼を持った鋼鉄の流線型……つまり、飛行機よ。人間の叡智の結晶だわ」
「…………」
「神の宿る場所と言われる山々を悠々と見下ろし、雲の上に雷様なんていないことを知った人間は、興味のおもむくまま、さらに高いところを目指すようになった。それはとてもとても難しいことだったけど、血の滲むような努力の結果……大気圏を、突破した」
戦慄に冷え切った早苗の頬を、白く滑らかな掌がそっと撫でる。
その感触は背筋が震えるほど温かくて、吐き気がするほど心地よかった。
「月面に刻んだ足跡は、人間こそが世界で最強の存在だという証なのよ……ふふ、うふふふふ」
結界の有無に関わらず、早苗はすでに何かを喋る気力を失っていた。
沈黙し、紫のなすがまま身を任せる。
なぜなら……抵抗するより、その方がずっと、楽だから。
自分を救う言葉を『賢者』授けてくれるという淡い期待が、心の奥底に生まれたから。
「ああ、人間って素敵! せいぜい100年も生きられぬ脆弱な生き物のくせに、その知的好奇心と欲望は留まるところを知らない! あと数十年もすれば、自然界を支配する四つの力すら物理式の上で統一してしまうに違いないわ! そうなればタイムマシンだろうとフリーエネルギーだろうと、どんな夢だって叶え放題……魔法とか、奇跡とか、そんな幻想に頼らなくても! 他の誰かに頼らなくても! 人間は万物を支配できる! 立派に生きていける!」
早苗の顎の下を人差し指でくすぐりながら、紫はその耳元に唇を寄せる。
「ならば……辛い思いをしてまで神様に仕える必要なんて、どこにもないんじゃないかなぁ?」
早苗は恍惚とした表情で、荒い息を吐いた。
そして、そのまま結界の圧力に心を潰され、意識を失った。
白地に蝶柄の水着に身を包んだ幽々子は、湯に浸かるや否や、
「くはぁ、生き返るぅ!」
有り得ないことを口走った。
「がははははは! あんた、亡霊のくせに冗談がうまいねぇ」
同じく湯の中にいた神奈子が、爆笑しながら幽々子の傍に泳ぎ寄る。
「はて? 私、何か変なことを申しましたかしら?」
「ひひひ、ボケにボケを重ねるってか? 流石は白玉楼のお嬢様だぁ、神である私ですら笑い殺されちまいそうだよぐふふふふ!」
「あらやだ。いくら私でも、神様をブチ殺すなんて乱暴な真似はしませんわよ」
「そうかいそうかい、そいつぁお優しいこった! これからもせいぜい、末永いお付き合いをお願いするよ!」
かつて神奈子たちが必死になって全国に広めた『中央神話』の価値観に照らし合わせれば、『死』とは純然たるケガレに他ならず、こうして神と冥界の住人とが湯船を同じにするなど以てのほかのはずなのだが、すでに酔いがまわっている神奈子にとって、そんな苔むした常識など最早どうでもいい。
頭の固い風祝が一方的に通信を打ち切ってしまったことへの不安だって、すでにアルコールがさっぱりと洗い流してくれた。
とにかく、神奈子は浮かれているのだ。
「ところで……」
神奈子が水面下に沈めている柔らかな塊を見て、幽々子は嘆息する。
「ん?」
「神様だけあって、立派なものをお持ちですのねぇ」
読んで字のごとく自然体である神は、自慢の箇所を布切れで隠すなどという野暮はしないのである。
ちなみに彼女以外の者たち(特に水辺に控えているメイドと剣士)も同様の感慨を抱いており、時折り神奈子の胸元にチラチラと視線を送っては、色んな意味で赤面している。
(デカいッ!)
(なんたる存在感ッ!)
(こ、これが神徳の成せる業かッ!)
そんな心の声が聞こえてきそうだ。
チャリチャリと音をたて、やや本来の意味からずれた信仰ポイントが神奈子の体内に積算されて行く。
それが神奈子には、もう、心地良くてたまらない。
(ふっふーん。格の違いを思い知ってもらえたかしら?)
神奈子は、愉快の絶頂にいた。
すでに太陽は沈む寸前。
山は夕闇に染まりつつあるが、先ほどから弾幕の華がひっきりなしに空を照らしているため、湖の辺りだけは少しも暗くならない。
現在諏訪子の挑戦を受けている相手は、永琳だ。
最初は「神のお相手など、とてもとても……」と面倒くさそうに断っていたものの、諏訪子に「やだーやだー蓬莱人の実力を見せてくれなきゃやだー!」としつこく駄々をこねられ、さらに輝夜にまで「面白そうじゃないの。ひとつ、余興代わりに闘ってみてよ」と命じられ、渋々ながら服を着替えたのだった。
肌がむき出しの水着姿だと、うっかり被弾した時にかなり痛い。
手っ取り早く勝負をつけるつもりではあるが、常に万一の場合を想定しているのが八意一族なのである。
(おや? 諏訪子のやつ、やけに苦戦してるじゃないか。)
最初の一本を速攻で獲ったはいいが、その後は善戦しつつも結局苦杯をなめた魔理沙が、咲夜のサンドウィッチを頬張りながら空を見上げる。
切り札を気前よく撃ちまくった挙句の惜敗、悔しくないと言えば嘘になるが、それでも過ぎたことをいつまでもクヨクヨしていてもしょうがない。
そんな暇があったら、今現在に繰り広げられているトップクラスの戦いを目に焼きつけ、今後の参考にした方がずっと良い。
魔理沙は、澄んだ瞳で勝負の行方を追う。
(おーおー。狭い隙間をピョコピョコと……よく避けるねぇ! でも守ってばかりじゃ勝てないんだぜ)
諏訪子がんばれー。
そう叫んで上空に手を振る。
あいよー。
焦燥に上擦る声が返ってきた。
勝ったところで得られるものなど何もないが、姫と弟子の目の前で情けない姿を晒すつもりもない。
密かに負けず嫌いの永琳が持ち出してきたカードは、神という存在に対し抜群の相性を発揮していた。
おかげで諏訪子は、
(やっぱり、やめておけば良かったかもしれない……)
などと、珍しく弱気になりつつあった。
強力な弾幕ほど攻略のし甲斐があるはずなのに、相手が強ければ強いほど燃えるのが諏訪子であるはずなのに、今回だけはいまひとつ興が乗らない。
弾幕ごっこに面白味を感じられないなんて、初めての経験だ。
自然と、勝負にかける意気込みも減退していく。
「どうしました洩矢神。だんだん動きが鈍くなっているようですが」
「むぐぐ、どうしたことだろうねぇ。なぁんか本調子じゃないんだなー」
「魔理沙戦で負ったダメージが、今になって響いているのでは? それなら勝負は中断して、まず診察を……」
「心配いらないよ。私ゃ、こう見えても体は頑丈なんだ」
そう。
まだ、たった3回スペルカードを切っただけ。
体力気力、共にまだまだ余裕がある。
しかし異様に体が重い。
「では……湯冷めしないうちにケリをつけさせてもらいます」
豪快に渦巻きながら迫ってくる、見渡す限りの弾の雨。
地上から見上げる月が見せる顔色と同様に、蒼白あるいは紅に染まった思念。
直視していると、耳の奥で不協和音が響く。
これはあくまで弾幕「ごっこ」であるはずだ。
なのに、こちらに向かってくる弾のひとつひとつ……本気であるはずがない偽りの殺意に、まるで己の全てを否定されているような不快感を覚えるのは、何故か?
避けていて、ちっとも爽快感がない。
「うー! やっぱり、なんかおかしいよ!」
「どうぞご無理はなされませんよう。私としても、神を傷付けるという罰当たりな真似はなるべく避けたいので」
「ふん!」
忌々しげに、諏訪子は鼻を鳴らした。
「あんたがオモイカネの家系だってこと、忘れていたよ。もしかして、何がしかの術策にハメやがった……とか?」
永琳のポーカーフェイスは揺るがない。
「さて、どうでしょうか」
「……ところで、このスペカの名前をまだ聞いてなかったね」
「これは失礼。私としたことが言い忘れておりましたわ」
「白々しい! ケチケチせずに教えてちょうだいよ」
「では、余すところなく開陳いたしましょう。これなるは、無謀にも月へ至る道を開こうとした地上人の蛮勇に対し、大いなる憎悪……そして幾ばくかの敬意を表したスペル」
弾幕の密度をハードからルナティックのレベルに高め、それを一斉に放つ寸前。
天に顔を出したばかりの半月を背負い、永琳は高らかに宣言した。
「名付けて、天呪……」
『外の世界』でも、この幻想郷においても、夜明けの到来を告げるのは雀の役目である。
ちゅんちゅん、ちゅんちゅん。
「はっ!?」
その清々しい鳴き声を聞いて、早苗は反射的に体を起こす。
いつのまにか身を覆っていた掛け布団が、勢いよく捲れ上がった。
(これは、一体?)
まず、辺りを見渡す。
見慣れた茶の間の風景が、あった。
次に、己の姿を見る。
巫女服を着たまま。
(あ、あいつは……どこに?)
八雲紫の姿は、すでに消え去っている。
(夢。悪い夢)
そうであることを願う。
しかし、ちゃぶ台の上に依然として居座っている空の鍋と炊飯器、そして枕元に置いてある手紙が、昨晩の出来事は現実であったことを雄弁に物語っていた。
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早苗ちゃん江
これを読んでいる頃、私はもうあなたの傍にはいないでしょう……
なんて、ついシリアスぶってみたいお年頃のゆかりんです。
昨日は驚かせちゃって、ごめんね。
でも、あなたの辛そうな顔が、どうしても見るに忍びなくてね。
どう?
私のちょっとしたお茶目で、少しは心を和ませてもらえたかしら?
さて。
唐突ですが。
『外』から来た人間が、再び『外』へ出て行くのはそれほど難しいことではありません。
博麗神社の巫女に頼めば、一発です。
でも彼女にライバル意識を抱いていて、なるべく借りを作りたくないという意地っ張りにはお勧めできないわね。
誰のこととは言わないけど(はぁと)!
そこで今回は、特別大サービスで裏ワザを教えちゃいます。
次の満月の晩の、子の刻……つまり午前零時に、私は結界を越えて外へ遊びに行くつもりです。
でも独りでお出かけするのは寂しいので、お供を大募集したいと思います。
応募条件は特になし。
連れて行けるのは先着一名様のみ。
つまり、そういうことです。
『幻想』を信じられなくなった人がここに居たって、苦しいだけですものね。
魔法の森を抜けた先に、彼岸花で真っ赤に染まる『再思の道』という場所があります。
そこでお待ちしています。
八雲紫 拝
追伸
あなたの手料理は絶品だって、私の友人が褒めちぎっていました。
小料理屋の若女将として第二の人生を歩むのも、乙なものじゃないかしら?
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読み終えた後すぐ、早苗はそれを力任せに破り捨てた。
文字のひとつすら判別できないほど細かく、念入りに分割して、全ての欠片を屑籠の中に叩き込んだ。
そして……
「目に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず。耳に諸々の不浄を聞きて、心に諸々の不浄を聞かず……」
早鐘を打つ心臓を胸の上から押さえ、ミソギの言葉を早口に唱える。
自分が、神を捨てる?
馬鹿な。
そんなの、考えたことすら。
(不平不満で心がはち切れそうなんじゃないの?)
妖しくも美しい笑顔が、記憶のスクリーンを掠める。
生まれて初めて神を呪い、感情の乱れるまま不様に泣き喚いたことも、同時に思い出した。
「鼻に諸々の不浄を嗅ぎて、心に諸々の不浄を嗅がず。口に諸々の不浄を言いて、心に諸々の不浄を言わず……くっ……」
下唇を噛み締める。
自分は未熟だ。
この程度の逆境に耐えられず、取り乱すなんて。
風祝失格だ。
こんな弱い心をしているから、薄汚い妖怪なぞに目をつけられ誘惑されるのだ。
『神』が昔ほど自分を大切にしてくれなくなったのも、当然のことだ。
悔しい。
自分が憎い。
頭が痛い。
涙が滲む。
胸が苦しい。
呼吸が詰まる。
新鮮な空気が欲しい。
立ち上がる。
よたよたと社務所の外へ歩み出た。
そうしたら、いきなり。
「おいっ、そこの人間!」
きらきらと鬱陶しい旭光と共に、何者かが早苗の前に立ち塞がった。
「ブツブツブツ……ええと、ここで獅子を動かして、玉を逃がして、いや違うな、先に猛牛を突撃させた方が、いやいや待てよ……」
「おはようさん椛。朝っぱらから精が出るね」
「何の皮肉ですか、そりゃ。相変わらずヒマでヒマでしょーがないですよ私ゃ」
「いやいや。こうして孤独に詰め大将棋を楽しんでいるあなたの背中を見てると、何かさ、こう、物悲しさで胸が熱く……」
「外回りの鴉一族は気楽でいいもんですねぇ。じゃ、私は孤独で根暗な遊びに忙しいんで、さようなら」
「やぁね冗談よ拗ねないで。私がここに来たのは、他でもない……」
「私の千里眼に用があるってんでしょ? 他でもない、って言うか、それ以外の用事で文さんが来た例がない」
「分かってるなら話は早い。どうよ最近、何か面白い事件を見かけなかった?」
「全然。平和そのもの」
「なぁんだ、来るだけカロリーの無駄だったわ」
「まったくですね。願わくば、私の沈思黙考タイムを二度と邪魔しないで……あっ!」
「おっ?」
「そういや、さっき……見るからに頭の中身がヌルそうな氷精が、神社の方に飛んでいきました」
「氷精? もしかして、なんか青っぽいの?」
「ええ、青っぽいの」
「なによそれ一大事じゃないの! 侵入者よ侵入者! 白狼のあなたが、こんなところで油を売っていていいの?」
「いや、フリーパス蛙がお供にいるのが見えたもんですから」
「ああ……諏訪子様が沼から仕入れてくる、アレね。少しでも気に入った相手を見つけるとバカスカ発行しちゃうという」
「身の回りが寂しくなる一方だって、大蝦蟇が嘆いているそうですね。噂によると」
「そうそうそう! その噂を拾い上げた唯一のメディアこそ、我が文々。新聞!」
「相変わらず瑣末なネタばかり拾ってるんですねぇ。そんなんでいい気になってるから、いつまで経っても報道コンペで勝てないんですよ」
「ぐ」
「とまれ、あんな妖精を遊び友達にするたぁ……諏訪子様も趣味が悪いですね。ま、たかが⑨一匹、放っておいてもどうってこたぁないか。すいません、やっぱ売れそうなネタじゃなかったですわ」
「ふふふふふ、そんなことはありませんよ椛さん」
「いきなりブン屋口調にならないでくださいよ、気持ち悪い」
「私の第六勘・オブ・ジャーナリストが、大いなる波乱の幕開けを告げています。あそこの巫女には以前ひどい目に遭わされましたからね。いつか特ダネのひとつでもスッパぬいて報いてやろうと思っていたところなんですよ!」
「文さんの場合、痛い目を見るのはたいてい自業自得のような気がするんですが……」
「まさに願ったり叶ったり! いざさらば!」
「って、あーあ、行っちゃったよ……はぁーあ、何が勘だ特ダネだ、いっつも火のないところに煙を立ててばっかりいるくせに、まったく鴉は落ち着きがなくて困るよブツブツブツ……」
(続く)
続きに期待~。