※作品集47にて投稿させていただいた、『その1~その4』の続きであります。
それでは以下本文。
『外の世界』に在るもので例えるなら25メートルプールほどの面積が、エメラルドの原石を思わせる色合いに輝いている。
湖全体のうち、湯気を立てているのはその部分だけだ。
目にこそ見えないが、そこには確かに温泉を周囲から隔てるための『境界』が存在していた。
「摂氏四十四度……ふむ」
差し入れた温度計の目盛りを見て、永琳は小さく頷く。
「我が万能入浴剤が、最も効果を発揮する温度ね」
「そうか。んじゃ、引き上げ作業に移るぜ……おらよっ、と!」
魔理沙の号令と共に、箒は地面に対し垂直に立ったまま高速回転をはじめた。
その身がリール代わりとなり、壮絶な勢いで糸を巻き取っていく。
「出来上がり? なら、早速浸からせてもらおうかしら」
他の者たちに先んじて水着姿となっていたレミリアが、一歩、湯の中に足を踏み入れようとして……風のざわめきが不意に肌を冷やしたことに気付き、立ち止まった。
「ちょっとちょっと。入浴するんだったら、まずは湯船のオーナーに断りを入れるのが礼儀ってものじゃないの?」
声の響いてきた方向を、一同は見やる。
湖の縁に沿って、山の化身がこちらへと近づいてきているのが見える。
尊大にもあぐらをかいたまま浮く彼女の両脇には、もちろん諏訪子と早苗の姿もある。
「あなたたち! 八坂様がおいでになったからにはこれ以上の好き勝手は……」
「待って早苗、まずは挨拶ぐらいさせてよ」
いきり立つ早苗を制し、神奈子が厳かに口を開く。
「はじめまして、幻想郷の先輩方。私がこの地の主神一号である八坂神奈子よ。わざわざお越しいただけて嬉しいわ」
言葉は慇懃だが趺坐の姿勢は崩れていないし、頭を下げるようなこともしない。
事務的な微笑をたたえながら、神奈子は登山者たちの顔をひとりひとり、ゆっくりと眺め回す。
いささかの威圧感を覚え、それぞれの客もとりあえず自己紹介を行おうと、身構えながらも唇を動かしかけたが、
「ふふ、あなたたちの高名は聞き及んでいるわよ」
神奈子が己の情報掌握力を披露する方が早い。
「その禍々しい翼……ははぁ、あなたが紅き悪魔ことレミリア嬢ね。で、そっちのメイドさんが十六夜咲夜。あと、永遠亭のお姫様である蓬莱山輝夜と、その知恵袋である八意永琳。隣の可愛いお耳は……優曇華院・イナバ・鈴仙、竹林の兎たちを統括する者」
そこまで淀みなく喋ってから、神奈子は十五度ほど首を傾けた。
「ん? 優曇華院・鈴仙・イナバだっけ?」
「鈴仙・優曇華院・イナバです」
微かに眉を吊り上げて、鈴仙が訂正する。
「あれ、それが正しい順番?」
「はい。どうかお間違えなきよう」
「あーそう! そりゃ失礼しちゃったわね! ごめんごめん!」
神奈子の醸す雰囲気が、唐突に一変した。
地に足をつけて、ポンポンと気安く、鈴仙の肩を叩き始めたのだ。
良く言えば「気さく」。
悪く言えば「馴れ馴れしい」。
鼻の長い天狗にすら拝まれるのであれば、さぞかし高飛車な神なのだろう……と、勝手な予測を立てていた鈴仙は、当てが外れて対応に迷い、主と師匠の方に困りきった横目を泳がせた。
「いえいえ、無駄に長くて覚え辛い名を名乗るこやつめが悪いのです」
くすりと永琳が笑えば、輝夜も続く。
「そうそう。こいつのことはたった三文字、イナバとだけお呼び下されば結構ですわ」
「んなっ?」
加速し始めた軽いノリに、ただひとり置いてきぼりにされ、根が真面目な鈴仙はますますもって困惑する。
「姫、適当な紹介はお止め下さいっ!」
「え? だってイナバはイナバでしょ?」
「それでは私と他の兎との区別がつきません! 呼ばせるなら、ちゃんと本名を……」
「じゃ、これからあなたのことはレイセンって呼ばせてもらうわ。それでいい?」
神奈子が、鈴仙の眼を覗き込んでくる。
常に「狂気」を発散続けている真っ赤な眼を、しっかりきっちり真っ直ぐと。
しばし、兎と神は見つめ合う。
神は、視線を逸らさない。
一方兎は、相手の瞳の奥に広がる波形を観測しようとして……その長さと幅の絶えず千変万化なるに、理解の限界を易々と凌駕され……思考回路を一時的に停止せざるを得なかった。
「こら。ちゃんと返事しないと失礼でしょうが」
永琳に小突かれ、鈴仙は地面に視線を落としたまま忘我し続けていた自分にようやく気付いた。
鈴仙が日常的に見ているのは、物理の法則に乗っ取った「線形」の世界だ。
だがそれは、あくまでも自然界の持つ一面的な姿に過ぎない。
人や兎が計算できる範囲は、全体の中の一部分でしかない。
自然の中で起こる現象とは、本来「非線形」のもの……つまり、完全なる法則化など一介の兎には到底無理なものである。
まして、思い通りに操作するなど……
『外の世界』の科学力をもってしても、人が持ちうるありとあらゆる叡智を結集しても、天気予報の的中率は八割を超えることができないという。
ならば残り二割を決定する要因は、何か?
もしかしたら……我々が神と呼ぶのは……その暗幕の向こうにある可能性を、如意のままに弄ぶ力のこと……なのか?
だとしたら。
眼に見えるものしか操ることのできない私の能力では。
勝てない。
絶対に……!
「……は、はい。どうぞお好きなようにお呼び下さい」
「そ。これから色々とよろしくね、レイセン」
「……恐縮、です」
余計な言葉も弾幕も交わすことなく、鈴仙は神の器を理解して頭を垂れた。
鈴仙の青ざめた顔を見て、輝夜と永琳もまた、直感的に神奈子の力を理解する。
『不滅』という神の領域に半ば踏みこんでいる二人である。
相手の蓄えている神秘の度合いを測るに、敏い。
「顔色が悪いわよ。しっかりしなさい、うどんげ」
「く……申し訳ない……」
「まあまあ永琳。得意技を真っ向から否定されたイナバの気持ち、解るでしょ?」
「作用で……ふむ、ただのお寝坊さんというわけではなかったようですね」
「うん、認識を改めねばならないわ」
「そういうことよ、月の姫君」
鈴仙を沈黙させた眼光が、輝夜に向く。
自然界とは、『変化』が渦巻く場。
それは輝夜が紡ぐ『人工の永遠』とは、真っ向から対立するものだ。
どれほど荒ぶる力であっても、静止した時の流れの中に閉じ込めてしまえば、一切の活動を封じられてしまう。
とは言え……山を興し川を流し、遥か古代から延々と四季を巡らせ続けてきた巨大な存在を『永遠』ですっぽりと覆い尽くすのは、いかに蓬莱人とて流石に骨が折れすぎる。
富者争わず。
君子危うきに近寄らず。
ふと、そんな諺が輝夜の頭をよぎった。
「まこと失礼をば。いと高き霊山の頂にます神よ、御足下が百戸のひとつ、永遠亭の主としてご光臨を心より言祝ぎます」
輝夜は恭しく頭を垂れた。
その様を見て、「やった、勝った!」と、早苗は心の中でガッツポーズを作る。
なぜか威厳ある振る舞いを嫌う諏訪子と違って、神奈子ならここ一番でビシッとキメてくれると信じていた。
それでこそ、自分の求める『神』だ。
「嬉しいこと言ってくれるわねぇ。流石、長生きしてる子は口が上手だわ」
「天孫が御自らマツリゴトを執られていた時代を知るからこそ、神に礼を尽くす必要性も理解できるのですよ」
にっこり、輝夜は笑う。
……どことなく真実味に欠けた、うさんくさい笑顔であるが、早苗はそれを相手が神威に屈した証拠として、真正直に受け止めた。
さて、ひとつめの勢力は潰した。
なら、次は。
「私の出身地じゃ、『GOD』って言葉はおいそれと発音できるものじゃなかったんだが」
いかにも発言の機会を待ち詫びていたかのように薄い胸を張って、レミリアが輝夜の前に歩み出る。
「この国では、誰でも気軽に神と仲良しになれるみたいだね。驚いたわ」
「そうよ、私は誰の信仰でも受ける。例え相手が吸血鬼でも」
「信仰だけじゃなくて……挑戦も、受けてくれるのかしら」
神と吸血鬼、顔と顔が近い。
両者とも、笑っている。
相手を険しく威嚇しているようにも、相手を見下しているようにも、どちらともとれる曖昧な笑顔が、周囲の気温をじわじわと上昇させる。
「我が館を見下ろす場所に住む権利があるかどうか、ちょっとばかり確かめてみたいんだけど」
「そんなの、考えるまでもないことでしょう? ま、わざわざ確かめなければ理解できないというなら……ん?」
「ほら、神奈子」
諏訪子にわき腹を突かれ、神奈子は真顔に戻る。
「そういう芸風は、何百年も前に止めたんじゃなかったっけ?」
「っと……そうだったわね」
「自分の言ったことを自分で忘れるなんて、やっぱりアル中なんじゃないの?」
「んもう! うるさいわよチビ蛙!」
くすくす笑う諏訪子の頭を、渋面の神奈子がパシリと叩いた。
いきなり始まったどつき漫才に面食らっているレミリアの耳元で、咲夜がそっと囁く。
「お嬢様」
「あん?」
「当方に敗北の可能性がある、などとは決して申しません。ただ……お気に逸るあまり、つまらぬお怪我などなさりませんよう」
この世に生きる者は皆、運命と名づけられたサイコロを振って日々を過ごしている。
今日はどんな幸運を手にするか、それとも不運に見舞われるか、全てはサイコロの出目次第。
運命とは、つまり因果である。
全ての結果には、まず原因がある。
最初に振ったサイコロの数字が、後の流れを決定する。
その数字を一だろうと二だろうと三だろうと四だろうと五だろうと六だろうと、とにかく気の向くままに塗り替えてしまうのがレミリアの能力だ。
自前のサイコロはもちろん、他の誰かが握っているものであろうと。
問答無用。
今日の外出を決意した瞬間、レミリアは道中で『雨に降られる確率』が限りなくゼロに近づくよう、己の運命を改変した。
考えられる全ての要因、目に映った全てのサイコロに細工を施し、蒼穹のキャンバスから灰色を追い出してやった。
だから、今もなお天は一滴の雫すら零してはいない。
しごく当然のことだ。
だが、もしそこに、外部から予期せぬサイコロが紛れ込んだなら……どうだろう?
例えば何者かが、目立たぬ場所で誰にも気付かれることなく、蝶の羽ばたき程度のそよ風を起こしていたとしたら?
……その僅かなゆらぎが大気の流れに干渉したせいで、積み上げた緻密な計算は全て崩れ、幻想郷の全土が暴風雨に巻き込まれるという可能性も、あった。
自然界には、意外なアクシデントが満ち溢れている。
完全掌握は困難だ。
レミリアが仕組み咲夜が仕掛けた『早苗は湖に辿り着けない』という運命が、事実として打ち破られた以上、そのことは深く胸に刻んでおく必要がある。
「分かってるよ、咲夜」
レミリアは頬の筋肉から力を抜いた。
絶対の忠誠を誓う従者が、あえて身の程知らずにも進言してくれたのだ。
それを苛立ち紛れに一蹴するほど、紅魔館の主は幼稚ではない。
「神の因果は複雑怪奇だ。いくら私でも、無傷で楽勝!ってわけにはいかないだろうさ」
「失礼いたしました」
咲夜が静かに身を引く。
今、レミリアが押し返さなければならない視線は合計三本だ。
敵意に満ちた早苗の目、貫禄あふれる神奈子の目、余裕を感じるほど無邪気な諏訪子の目。
「私、腹芸ってやつが苦手なんだよ。この性悪女と違って」
立てた親指で、すぐ背後の輝夜を指す。
しかし指された側は、どこ吹く風。
当たり障りのない微笑みにひびが入ることはない。
「だから、単刀直入に結論から言わせてもらうよ。あんたのご機嫌を取るつもりなんて、これっぽっちもない。だって、お互い立場が違いすぎるだろう? こっちは人に恐れられる魔王で、そっちは人に有り難がられる神だ。殺るか殺られるか……それこそが本来あるべき関係だったんじゃないかって思うんだけどねぇ」
早苗の放つ敵意が、一層とげとげしくなる。
「化けコウモリの分際で、なんと不遜な……」
「おっと間抜けな風使いちゃん、話は最後まで聞いてほしいねぇ」
「なっ……!」
「そんな粗忽者だから、うちのメイドに遅れをとるんだよ。体内時計の調子はだいじょうぶなのかい?」
肉体年齢がひとまわり下回る相手から蔑意を浴びせられ、怒りのあまり一瞬言葉を失ってしまった早苗に代わり、
「なんとか、ね」
諏訪子がケロッとした顔で答える。
「ねえレミリアちゃん。うちの早苗は見た目どおりの可憐で繊細で純真な子なんだからさあ、あんまりからかわないでやっておくれよ」
そっちこそ。
あどけない顔の裏に、凶悪な実力を隠してやがるんじゃないのか?
「くくくくっ、吸血鬼の性格は陰湿なものだって相場が決まっているのだもの。しょうがないでしょ」
「やれやれ」
神奈子の右手が、レミリアの前に差し出される。
「しょうがない……と言うか、どうしようもない悪魔ね」
「お褒めに預かり光栄だわ」
「ベタベタした馴れ合いをするつもりはない。けれど敵対もしない。お互いのテリトリーを尊重しあい、必要以上の示威や干渉は行わない……そういうことで、いい?」
「すっごく、いいわ! 話が分かるね!」
この神には居丈高な面があるが、決して独善的ではない。
レミリアは顔を輝かせて目の前の手を握り、勢いよく振った。
神奈子もまた、意が通じた嬉しさを表情に滲ませた。
成ったのは、力のある者同士の、対等な「友誼」である。
だが早苗の目には…・・・あろうことか、神が悪魔に対して「譲歩」したようにしか見えなかった。
「ちょっと驚いたよ。西洋式の挨拶を知ってるなんて、最近の古代神はハイカラよねぇ」
「今は何でもありの時代なのよ。日光の下を半裸でぶらつく吸血鬼だっているぐらいだもの」
「くっくく、違いないね! くっくっく……」
いかにも吸血鬼らしい毒々しい笑い方、そして鋭い八重歯の不吉な輝きに、早苗は胃のむかつきを抑えられない。
「八坂様!」
あなたの巫女は……この者たちに怪しげな術をかけられ、辱められたのですよ?
それなのに!
「よろしいのですか、これで!」
「おう、全然オッケーだぜ!」
横から勝手に魔理沙が割り込んできて、やたら自信満々にそう答えた。
早苗は額に手を当て、溜め息をつく。
「だよな神奈子? お前だって温泉好きだろ? つーか温泉が嫌いなやつなんてこの世にいるわけがない!」
今の今まで珍しく魔理沙が沈黙してたのは、地面にうずくまり、ミニ八卦炉に絡まった糸を外す作業に熱中していたからだった。
だが全ての結び目が解けた以上、いつも通り空気を読まない(読めない?)口出しをせずにはいられない。
「どういうつもりなの、あなた……さっきから勝手なことばかり口走って!」
「おう早苗。20分ぐらいぶりか? いや、咲夜のイカサマにハマってたんだから、お前の中ではもう10年ぐらい時間が経っていたのかもしれんな。なんだか、心持ち顔面にシワが増えたような気がするぜ」
「……構えなさい」
「んあ?」
「その捻じ曲がった根性、叩き直す必要があります」
本気の殺気。
魔理沙は首をかしげる。
「おいおい、さっきから何をカリカリしてるんだ? 私、なんか気に障ることでも言ったか?」
「あなたの存在自体が不愉快なの」
「感じ悪いなぁ。お前の望み通り両方の神様にお伺いを立てて、どっちからも許可をもらえたってのにさぁ」
「八坂様は、まだ何も……」
「別にいいわよ」
あっさり、神奈子はうなづいた。
早苗の顔から一気に血の気が引く。
「や、やさかさまぁ!?」
「わーい!」
レミリアが弾けるように湖に飛び込んだ。
早苗は予想外の展開にすっかり放心してしまい、もはや静止の言葉をかけることすらできない。
「あっはははは! あったかくて気っ持ちいーい!」
「お嬢様、こちらをどうぞ」
「ん、サンキュー!」
どこに隠し持っていたのか、咲夜は浮き輪を水面に投げた。
水泳の経験に乏しいレミリアにとって、それは必需品である。
どこまでも抜け目のない従者の完璧な心配りに、レミリアの機嫌は上昇する一方だ。
「なんだか、体の芯がポカポカするよ! ロテンブロ最高!」
見た目相応に子どもっぽく手足をバタつかせ、思う存分水しぶきを跳ね上げている主を見て、咲夜はにっこりと笑った。
その後ろでは、鈴仙と永琳もまた爽やかスマイルを向け合っている。
「良かったですね師匠! 新開発の入浴剤は、吸血鬼にも好評みたいですよ?」
「……『人外の者にもハッピーバスタイムをプレゼント』……そのコンセプトのもと、二百年も心血を注ぎまくって完成させたクサーツベップ・ノボリベトゥルス……どうやら苦労は報われたみたいね」
いつまにかお揃いの竹色ビキニに着替えていた永遠亭組も、そろそろと上品に身を沈めていく。
「うん、確かに良質なお湯だわ。お肌を柔らかく包み込む感触が格別よ。やっぱり永琳の薬は最高ね」
「ふふふ、そうでしょうともそうでしょうとも」
「ただ、このカビっぽくてキモい色だけは何とかしてほしかったけど」
「ぐ。せめて翡翠っぽくて典雅な色と言って下さいよ姫ぇ!」
「ファイトです師匠! バージョン2.0でリベンジです!」
「うう、次は色覚的な印象も考慮に入れなければならないわね。険しきかな薬学の道……」
そして、登山者たちの姿は湯気の向こうに消えて行った。
「さて」
「さて」
陸地に残された魔理沙と咲夜の声が、重なる。
「私も入らせてもらうとするぜ」
「お食事の用意をしないとね」
「待って」
「待って」
魔理沙は懐に八卦炉をしまいかけて、諏訪子に。
咲夜は、やはりどこから取り出したのか謎の大きなバスケットを開けようとして、神奈子に。
それぞれ、呼び止められた。
「なんだよ」
「なんでしょう」
「その、手に持っているカッコいいアイテム……」
「その、瀟洒な雰囲気の藤籠……」
「この八卦炉が、どうかしたのか?」
「こちらのバスケットが、何か?」
「強力な弾幕の匂いがする!」
「最高級貴腐ワインの香りがするわ!」
「おお? さっすが神様、お目がエッフェル塔より高いぜ!」
「あら、ご名答ですわ。普段はワインセラーの奥に保管している貴重なものなのですが、本日は特別な宴とのことでしたので」
二柱の目が、爛々と輝きだした。
「やろう! 一汗流してから浸かるお湯は、きっと格別だよ!」
「飲もう! ほろ酔い加減で入れば、一段と体が温まるってもんだわ」
対する二人もまた、ニヤリと笑う。
「そういや、お前相手にゃまだこいつを使ったことがなかったっけ……いいだろう、三本勝負な!」
「もちろん、こちらは貴女に召し上がってもらうために持ってきたものです。場合によっては、逆に貴女の血をレミリア様が味わうことにもなりかねなかったのですが」
「あーうー! 土着ケロVSハッケロ……どっちが真のケロか、白黒はっきりさせてやるわ!」
「ぬふふふ、結果オーライよ。ところで籠の大きさから察するに、ワインの他にも色々と美味しいモノが隠れていそうねぇ。どれ、ちょいと蓋を開けてみてごらん」
「言っている意味は理解不能だが、とにかく弾幕はパワーだってことを思い知らせてやるぜ!」
「ローストビーフとレタスのロイヤルクラブサンド、鰻のパイ、山羊乳チーズとトマトのカナッペ……その他もろもろ、思いっきり腕を振るわせていただきましたわ」
諏訪子と神奈子は互いに手を高く掲げ、ハイタッチの音を高らかに響かせた。
「イェイ! 今日は死ぬほど!」
「楽しみましょ!」
諏訪子がカエル飛びで高度20メートルまで飛び上がり、その後に意気揚々と魔理沙が続く。
咲夜が絹製シートの上に次々と並べていく、軽食だのおつまみだのと呼ぶにはあまりにも豪華すぎる料理の数々に、神奈子はもはや神の威厳もへったくれもなくダラダラと涎の滝を流している。
「きゃー! これ、全部あなたが作ったの?」
「はい」
「すごーい! 見て見て早苗、ご馳走よご馳走! 洋風よ洋風! こんなの、『外の世界』でもお目にかかったことがないわ! さあ食べましょ! お腹いっぱい頂きましょ!」
「できれば、私の主と他の客人たちの分も残しておいていただきたいのですが……って、聞いてます?」
「ほらどうしたの、遠慮しないで早苗も……あれ?」
返事がない。
辺りを見渡す。
姿も見えない。
「どこ行っちゃったのかしら?」
『八坂様』
神奈子の顔をそっと撫でる微風が、神奈子だけに聞こえる声で、早苗の代わりに応えた。
『私は先に戻り、社の留守を預かっております。八坂様におかれましては、どうぞごゆるりとお楽しみあれ。ただし飲みすぎにだけはご注意下さいますよう、かしこみかしこみ申す』
近くに海などないはずなのに、その風はやけに湿っていて、そして塩辛かった。
「おんやぁ?」
高き中空から湖を見下ろしてみて、諏訪子は初めて気づいた。
温泉と化している領域は、さほど広くない。
しかも、まるで定規を当てて描いたかのように正確な長方形として固定されており、それ以上に広がる気配をまるで見せない。
「ははぁん、なるほど」
『温と冷の境界』と、ついでに『聖と俗の境界』という二重の線が、魔理沙特製の温泉を神湖から分離させているのだ。
こういう器用な真似のできる存在は、諏訪子の聞き及ぶ限り……いや、幻想郷の誰が想像しようと、ただひとり。
(私たちに匹敵するほどの力を、こんな瑣末な遊びに用いるなんて。牛刀をもって鶏を裂く、どころの話じゃないわ)
草薙の剣をもって蚊を潰す。
そのぐらい大袈裟で、馬鹿馬鹿しくて……それゆえに、粋(いき)だ。
大愚と神智の境界は、まさに紙一重。
彼女が遥か昔より『賢者』と噂され続けている理由は、きっとそういうところにあるのだろう。
「ここは本当に面白いところだね、魔理……」
「よそ見イコール命取りだぜっ!」
諏訪子の視界いっぱいに、真っ白な閃光が広がる。
「お……おおおぅ!」
直撃した。
「どうだっ! これが私の超必殺技、名づけてマスタース……」
元気な声が急速に遠ざかっていく。
ああそうだ、勝負はもう始まっていったんだっけ。
いやー参った……参った!
人間ですら……驚愕の強さを発揮できる……弾幕ごっこ……
楽しいなあ……とっても……
一直線に湖へ落下して行く諏訪子の耳に、早苗が風に託したメッセージは聞こえなかった。
ゆえに、あれほど大事な早苗の存在をついつい忘れ、遊び呆けてしまっているという事実にも、気づかなかった。
目の奥が熱くて熱くてしかたがない。
その熱が零れ落ちないよう必死にこらえながら、早苗は社務所への帰り道を急ぐ。
『早苗』
神奈子からの返信が、不意に鼓膜を揺らした。
『あなたの訴えは、ちゃんと聞こえていたわ。私がだらしなく寝ている間、たったひとりでも湖を守ろうとしてくれたのよね? 偉いわ』
その努力は、全て無駄になってしまった。
今さら労ってもらったところで、ちっとも嬉しくない。
それに、先ほど神奈子は確かに「格の違いを見せてやる」と宣言したはずだ。
なのに、どうして不心得者を討とうとせず、媚びを売ってばかりいるのか?
そんな回りくどいことをせず、さっさと敵対するものを全て滅ぼしてしまえばいいものを。
『気持ちは分かる。けれど……ここでは、ここなりのやり方ってものがあるの。あっち側でやっていたような強引な布教は控えましょうって、この前もお話したばかりよね?』
何を今さら。
こちら側に跳ぶためには、純粋な『信仰』が大量に必要だと仰ったのは八坂様ではありませんか。
だから私は……八坂様から授かった力をフルに使い、八坂様に代わって目に見える『奇跡』を次々と顕現させたのです。
つまり、信じる者には恵みを。
信じぬ者には……祟りを!
『神』を忘れた下等な者どもに『信仰』を植え付けるには、そうすることが一番手っ取り早かったから。
そして私は『現人神』という称号を得て。
人の世から、孤立した。
『いつも気苦労ばかりかけて、本当に申し訳ないと思ってるわ』
いいえ。
『神』が『人』に配慮する必要など、ありません。
風祝の家系は、代々『神』に身命を捧げるためにのみ続いているのです。
『あなたはこんな私を見て、堕落したと思うかしら? くくく、かつて本朝でも有数の軍神と称えられた私が、今じゃ終日呑んだくれ……真面目なあなたが呆れるのも、無理ないわね』
とんでもありません。
それが『神』の御意思なら、逆らえるはずなど。
八坂様のみならず洩矢様もそれを是とされているなら、なおさら。
……私はただ、付いて行くのみです……
『でもね、これだけは誤解しないで。私は蓬莱人やら吸血鬼やらが怖くて、手が出せないわけじゃないの。本当よ?』
もちろん存じております。
この世に『神』が恐れるべきものなど何もありません。
『こいつらはね、私の度量を見極めに来たんだよ。だから、政治的に応える必要があった。蛇の神らしく、飲み込んでやったのさ。もしヒステリックに追い返していたなら、後でどんな評判を立てられるか……ああっと! こんなこと、頭のいい早苗ならくどくど説明しなくても解るよね?』
はい。
いつものように、私が「物解りの良い娘」であることをお望みなのですね?
従いますよ。
風祝なれば、従いますとも……
ええ、ええ、あくまでこれは『政治』です八坂様のお得意な分野です。
逆に『宴会好き』という弱点を突かれ、懐柔された……などと思ってしまうのは、『神』の深い思慮を計れぬ人の身の愚かさなのでございましょうね!
『とにかく、勝ち負けの問題じゃないんだってば。もちろん、あいつらが手勢を引き連れて攻めてくるようなことがあったら、その時は……いや、そんな話はやめておきましょう。酒がまずくなる』
それはそれは、申し訳ございませんでした。
八坂様のお楽しみを邪魔してばかりの不調法、まこと恥じ入るばかりでございます。
『……よければこっちに戻って、一緒に楽しまない? どうせ、うちに泥棒に入るような奴なんていないだろうし。それに、紅魔館の料理ってすごく美味しいのよ! こんな美味しいもの、私ひとりで楽しんだら勿体無いもの』
せっかくお気に入りあそばした捧げものを……横取りするなど……はしたない、こと、です……
それに、あ、あ、あんな怪しげな者の作ったものを口に入れるなど……
あんな……あんなものっ!
わ、私だって、いっしょうけんめい、おりょうり、つくった、のに……!
『安心して、あなたの分は残してあるから……って、っと、こら! 諏訪子! それは早苗のカマボコ……え? カマボコじゃなくて、てりーぬ? どっちでもいいわよそんなの。とにかくダメったらダメ。あんたは魔理沙とあっちで遊んでらっしゃい、しっしっしっ……ふぅ、まったく油断も隙もありゃしない』
いりませんっ!
頼まれたって食べるもんか!
ああ、それにしてもどうして八坂様ばかり喋っていて、洩矢様はお返事をして下さらないのだろう?
そんなに楽しいですか、弾幕ごっこなんてガキっぽい遊びが?
『とまあ、そんな感じでこっちは盛り上がっているわけよ。ああそうそう、温泉の湯加減もまた絶妙でさ、もう極楽気分よー! あ、いいこと考えた! この温泉をもっと広々と拡張して、レジャー地にするってのはどう? そうしたら、きっと麓からもたくさんの人が来てくれるようになるわ! そのあたりの計画もじっくり話し合いたいし、ねぇ早苗、こっちに来てよ。いつぞやみたいに無理矢理呑ませたりはしないからさ、あなたも私の傍に……』
……私がどれだけ頑張っているかも知らずに。
あなたたちはいつもいつも!
そうやって能天気に!
なおも残酷な勧誘を乗せて付きまとおうとする風を強引に振り払い、早苗はひたすらに宙を奔った。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
泣いた。
ここが閑静をもって良しと成す境内であることも忘れて、思い切り。
あのメイドが得意気に開け放ったバスケットの中身を思い出す。
……ほんの少し覗き見しただけだが、そこには「洗練」という言葉が具体的な形を伴って凝縮されていた。
対して、自分が先ほど煮込んだ鍋の中身は……あまりにも泥臭くて……
(帰りましょう。お膳の支度なら、すでに整っておりますゆえ)
たったそれだけの一言が、どうしても言えなかった。
久しぶりの休肝日、酒付き合いを自粛する日、団欒のひととき。
三人だけの、狭いけど温かい食卓……前々からの約束だったじゃないの!
どうしてコロッと忘れちゃうの?
私の存在なんて、あなたたちにとってそのぐらいでしかないわけ?
あなたたちが本当に神様なら……願いを叶えてくれても、いいじゃない!
「あうっ、ぐすっ……ひどいよ、かなこさま……すわこさまも! あうぅぅぅぅ……」
気がつけば、もう本殿が近い。
早苗は近くに立っていた御柱に取りすがって、とめどなく涙を流し続けた。
(ここじゃ、私以外の誰だって神様が見える。喋れる。触れ合える)
(だから)
(だから私なんて、もう……)
「むっ!」
「もぐもぐ、どうしたの妖夢?」
「いえ、どこからか女人の鳴き声が聞こえたような気がしたものですから」
「気のせいでしょくちゃくちゃ。ほら、この辺りってしょっちゅう……はぐはぐ……うら寂しい風が吹いているからごっくん!」
「風の音……ふむ。それならば良いのですが」
「あー、食べた食べた! ごちそーさま!」
「喜んでもらえたかしら?」
「うん。紫のおかげで、すごく助かっちゃった」
「お味の方は如何?」
「素朴だけど、作り手の真心が篭っていたわ。心と胃袋に染み渡る美味でした」
「そう。そうでしょうねぇ……うふふふ、良かったわねぇ」
「時に、紫殿」
「ん?」
「いきなり連れてこられた、この六畳一間……いったい、どなたのお宅なのでしょう?」
「腹ペコ亡霊のためにご飯をふるまってくれる、親切な人のお宅よ」
「はぐらかさないでいただきたい。いくら紫殿のお言葉とは言え……人様のものを勝手に頂戴するのは、やはり罪悪感が……」
「何を言っても覆水はなんとやら、よ。それに、どうせ無駄になるぐらいなら、幽々子に食べてもらった方がお料理にとっても幸せってものでしょ?」
「無駄? はて、それはどういう……」
「難しく考えなくてもいいのよ、妖夢。どうせ紫の言うことなんて、デタラメに決まってるんだから」
「……それもそうですね」
「だいたい、紫とあなたがよってたかってダメ!って言っても、たぶん食欲には逆らえなかったわよ、私」
「……それも……そう……ですねぇ。はぁ……」
「さ、湖に通じるスキマを開いてあげたわ。ここに飛び込めば、宴の会場まで一瞬で行けるわよ」
「うわぁ、助かるわぁ」
「道に迷っていたところを見つけていただいた上、このような心遣いまで……まことにかたじけない」
「いいのよ。私と幽々子の仲だし」
「そんじゃ、行きましょうか」
「お、お待ちください! 席を立つ前に、この料理を作った方に一言でも謝辞を申し上げておくのが礼儀……」
「ねぇ紫。西行寺幽々子が心の底から感謝してたって、伝えておいてくれる?」
「了解」
「そ、そんな。ああ、我が主ながら軽すぎる……」
「霊が軽いのは当たり前! ああそうそう、もうひとついいかな紫」
「ん?」
「今度は何を企んでるの?」
一瞬、沈黙。
「何にも。単に、行き倒れ寸前だった幽々子を助けてあげたくなっただけ……って言ったら、信じる?」
「信じない。幻想郷うさんくさいランキング堂々のナンバーワンだもの、あなたは」
「ニコニコしながらそういうこと言わないでくれる? 傷つくわねぇ」
「ごめんねぇ、私ってば正直者だから……で、どうなの?」
「聞かれたところで、デタラメしか言わないわよ。そういう奴なんでしょ、私って」
「あははははは。ま、デタラメはデタラメでも、結果として幻想郷のためになることなんでしょ?」
「ええ。それだけは誓ってイエス、よ」
「冥界の住人が増えるような荒事も、できるだけ避けてね?」
「オッケー」
「その答えが聞ければ充分ね。さあ妖夢、行くわよ」
「あの、このギンナンの包みはどうしましょう」
「あらまあ、ずいぶん大量に拾ったものねぇ」
「もちろん全部かついで行くのよ。他でもない、あなたが」
「……これを、全部ですか? すごく重いんですけど」
「修行だと思って、がんばれー!」
「あの、この家の人に、お礼として半分ぐらい置いていった方が……」
「修行よ修行! ファイトよ妖夢! 白玉楼に帰ったら、輝ける茶碗蒸し三昧の日々が待っているわ!」
「心得ました……」
「それじゃ紫、また後でねー!」
幽々子が扇を振り、妖夢が一礼する。
するとスキマは大きく口をあけ、冥界の住人たちを飲み込んだ。
六畳半の茶の間に残されたのは、紫のみ。
「本来、神に捧げる食事ってのは神饌殿で調理して、それから本殿ないし拝殿に運ぶものなんだけど」
ひたひた、ひたひた。
外から、打ちひしがれた足音が近づいてくる。
「作り立てが冷めないうちに、みんなで肩を寄せ合って……そんなところかしらね。なんとも微笑ましい限りよねぇ。この千年余りで、神様もずいぶんとざっくばらんになったものだわ」
足音が、社務所の入り口の前で止まる。
内部に何者かの気配が在ることを察し、戸を開けることを躊躇しているらしい。
しかし、それはほんの一瞬のことだった。
「でも、どれほどの仲良し家族であろうと。たった一筋の亀裂から、あっけなく瓦解することもある」
がらがらがら。
どたどた、どたどた。
乱暴な物音と共に、尋常ならざる霊力が紫の方へと向かってくる。
「おかえりなさい、『現人神』さん」
「なっ! あなたは……!」
「ずいぶんとお疲れのご様子ですこと。あなただけの神様を、ロクでもない連中に取られちゃって……悔しいのかな?」
紫を見つめる二つの眼は、まず驚きで丸くなり……それからすぐ、燃え立つような怒りで、反った弓の形に姿を変えた。
(続く)
それでは以下本文。
『外の世界』に在るもので例えるなら25メートルプールほどの面積が、エメラルドの原石を思わせる色合いに輝いている。
湖全体のうち、湯気を立てているのはその部分だけだ。
目にこそ見えないが、そこには確かに温泉を周囲から隔てるための『境界』が存在していた。
「摂氏四十四度……ふむ」
差し入れた温度計の目盛りを見て、永琳は小さく頷く。
「我が万能入浴剤が、最も効果を発揮する温度ね」
「そうか。んじゃ、引き上げ作業に移るぜ……おらよっ、と!」
魔理沙の号令と共に、箒は地面に対し垂直に立ったまま高速回転をはじめた。
その身がリール代わりとなり、壮絶な勢いで糸を巻き取っていく。
「出来上がり? なら、早速浸からせてもらおうかしら」
他の者たちに先んじて水着姿となっていたレミリアが、一歩、湯の中に足を踏み入れようとして……風のざわめきが不意に肌を冷やしたことに気付き、立ち止まった。
「ちょっとちょっと。入浴するんだったら、まずは湯船のオーナーに断りを入れるのが礼儀ってものじゃないの?」
声の響いてきた方向を、一同は見やる。
湖の縁に沿って、山の化身がこちらへと近づいてきているのが見える。
尊大にもあぐらをかいたまま浮く彼女の両脇には、もちろん諏訪子と早苗の姿もある。
「あなたたち! 八坂様がおいでになったからにはこれ以上の好き勝手は……」
「待って早苗、まずは挨拶ぐらいさせてよ」
いきり立つ早苗を制し、神奈子が厳かに口を開く。
「はじめまして、幻想郷の先輩方。私がこの地の主神一号である八坂神奈子よ。わざわざお越しいただけて嬉しいわ」
言葉は慇懃だが趺坐の姿勢は崩れていないし、頭を下げるようなこともしない。
事務的な微笑をたたえながら、神奈子は登山者たちの顔をひとりひとり、ゆっくりと眺め回す。
いささかの威圧感を覚え、それぞれの客もとりあえず自己紹介を行おうと、身構えながらも唇を動かしかけたが、
「ふふ、あなたたちの高名は聞き及んでいるわよ」
神奈子が己の情報掌握力を披露する方が早い。
「その禍々しい翼……ははぁ、あなたが紅き悪魔ことレミリア嬢ね。で、そっちのメイドさんが十六夜咲夜。あと、永遠亭のお姫様である蓬莱山輝夜と、その知恵袋である八意永琳。隣の可愛いお耳は……優曇華院・イナバ・鈴仙、竹林の兎たちを統括する者」
そこまで淀みなく喋ってから、神奈子は十五度ほど首を傾けた。
「ん? 優曇華院・鈴仙・イナバだっけ?」
「鈴仙・優曇華院・イナバです」
微かに眉を吊り上げて、鈴仙が訂正する。
「あれ、それが正しい順番?」
「はい。どうかお間違えなきよう」
「あーそう! そりゃ失礼しちゃったわね! ごめんごめん!」
神奈子の醸す雰囲気が、唐突に一変した。
地に足をつけて、ポンポンと気安く、鈴仙の肩を叩き始めたのだ。
良く言えば「気さく」。
悪く言えば「馴れ馴れしい」。
鼻の長い天狗にすら拝まれるのであれば、さぞかし高飛車な神なのだろう……と、勝手な予測を立てていた鈴仙は、当てが外れて対応に迷い、主と師匠の方に困りきった横目を泳がせた。
「いえいえ、無駄に長くて覚え辛い名を名乗るこやつめが悪いのです」
くすりと永琳が笑えば、輝夜も続く。
「そうそう。こいつのことはたった三文字、イナバとだけお呼び下されば結構ですわ」
「んなっ?」
加速し始めた軽いノリに、ただひとり置いてきぼりにされ、根が真面目な鈴仙はますますもって困惑する。
「姫、適当な紹介はお止め下さいっ!」
「え? だってイナバはイナバでしょ?」
「それでは私と他の兎との区別がつきません! 呼ばせるなら、ちゃんと本名を……」
「じゃ、これからあなたのことはレイセンって呼ばせてもらうわ。それでいい?」
神奈子が、鈴仙の眼を覗き込んでくる。
常に「狂気」を発散続けている真っ赤な眼を、しっかりきっちり真っ直ぐと。
しばし、兎と神は見つめ合う。
神は、視線を逸らさない。
一方兎は、相手の瞳の奥に広がる波形を観測しようとして……その長さと幅の絶えず千変万化なるに、理解の限界を易々と凌駕され……思考回路を一時的に停止せざるを得なかった。
「こら。ちゃんと返事しないと失礼でしょうが」
永琳に小突かれ、鈴仙は地面に視線を落としたまま忘我し続けていた自分にようやく気付いた。
鈴仙が日常的に見ているのは、物理の法則に乗っ取った「線形」の世界だ。
だがそれは、あくまでも自然界の持つ一面的な姿に過ぎない。
人や兎が計算できる範囲は、全体の中の一部分でしかない。
自然の中で起こる現象とは、本来「非線形」のもの……つまり、完全なる法則化など一介の兎には到底無理なものである。
まして、思い通りに操作するなど……
『外の世界』の科学力をもってしても、人が持ちうるありとあらゆる叡智を結集しても、天気予報の的中率は八割を超えることができないという。
ならば残り二割を決定する要因は、何か?
もしかしたら……我々が神と呼ぶのは……その暗幕の向こうにある可能性を、如意のままに弄ぶ力のこと……なのか?
だとしたら。
眼に見えるものしか操ることのできない私の能力では。
勝てない。
絶対に……!
「……は、はい。どうぞお好きなようにお呼び下さい」
「そ。これから色々とよろしくね、レイセン」
「……恐縮、です」
余計な言葉も弾幕も交わすことなく、鈴仙は神の器を理解して頭を垂れた。
鈴仙の青ざめた顔を見て、輝夜と永琳もまた、直感的に神奈子の力を理解する。
『不滅』という神の領域に半ば踏みこんでいる二人である。
相手の蓄えている神秘の度合いを測るに、敏い。
「顔色が悪いわよ。しっかりしなさい、うどんげ」
「く……申し訳ない……」
「まあまあ永琳。得意技を真っ向から否定されたイナバの気持ち、解るでしょ?」
「作用で……ふむ、ただのお寝坊さんというわけではなかったようですね」
「うん、認識を改めねばならないわ」
「そういうことよ、月の姫君」
鈴仙を沈黙させた眼光が、輝夜に向く。
自然界とは、『変化』が渦巻く場。
それは輝夜が紡ぐ『人工の永遠』とは、真っ向から対立するものだ。
どれほど荒ぶる力であっても、静止した時の流れの中に閉じ込めてしまえば、一切の活動を封じられてしまう。
とは言え……山を興し川を流し、遥か古代から延々と四季を巡らせ続けてきた巨大な存在を『永遠』ですっぽりと覆い尽くすのは、いかに蓬莱人とて流石に骨が折れすぎる。
富者争わず。
君子危うきに近寄らず。
ふと、そんな諺が輝夜の頭をよぎった。
「まこと失礼をば。いと高き霊山の頂にます神よ、御足下が百戸のひとつ、永遠亭の主としてご光臨を心より言祝ぎます」
輝夜は恭しく頭を垂れた。
その様を見て、「やった、勝った!」と、早苗は心の中でガッツポーズを作る。
なぜか威厳ある振る舞いを嫌う諏訪子と違って、神奈子ならここ一番でビシッとキメてくれると信じていた。
それでこそ、自分の求める『神』だ。
「嬉しいこと言ってくれるわねぇ。流石、長生きしてる子は口が上手だわ」
「天孫が御自らマツリゴトを執られていた時代を知るからこそ、神に礼を尽くす必要性も理解できるのですよ」
にっこり、輝夜は笑う。
……どことなく真実味に欠けた、うさんくさい笑顔であるが、早苗はそれを相手が神威に屈した証拠として、真正直に受け止めた。
さて、ひとつめの勢力は潰した。
なら、次は。
「私の出身地じゃ、『GOD』って言葉はおいそれと発音できるものじゃなかったんだが」
いかにも発言の機会を待ち詫びていたかのように薄い胸を張って、レミリアが輝夜の前に歩み出る。
「この国では、誰でも気軽に神と仲良しになれるみたいだね。驚いたわ」
「そうよ、私は誰の信仰でも受ける。例え相手が吸血鬼でも」
「信仰だけじゃなくて……挑戦も、受けてくれるのかしら」
神と吸血鬼、顔と顔が近い。
両者とも、笑っている。
相手を険しく威嚇しているようにも、相手を見下しているようにも、どちらともとれる曖昧な笑顔が、周囲の気温をじわじわと上昇させる。
「我が館を見下ろす場所に住む権利があるかどうか、ちょっとばかり確かめてみたいんだけど」
「そんなの、考えるまでもないことでしょう? ま、わざわざ確かめなければ理解できないというなら……ん?」
「ほら、神奈子」
諏訪子にわき腹を突かれ、神奈子は真顔に戻る。
「そういう芸風は、何百年も前に止めたんじゃなかったっけ?」
「っと……そうだったわね」
「自分の言ったことを自分で忘れるなんて、やっぱりアル中なんじゃないの?」
「んもう! うるさいわよチビ蛙!」
くすくす笑う諏訪子の頭を、渋面の神奈子がパシリと叩いた。
いきなり始まったどつき漫才に面食らっているレミリアの耳元で、咲夜がそっと囁く。
「お嬢様」
「あん?」
「当方に敗北の可能性がある、などとは決して申しません。ただ……お気に逸るあまり、つまらぬお怪我などなさりませんよう」
この世に生きる者は皆、運命と名づけられたサイコロを振って日々を過ごしている。
今日はどんな幸運を手にするか、それとも不運に見舞われるか、全てはサイコロの出目次第。
運命とは、つまり因果である。
全ての結果には、まず原因がある。
最初に振ったサイコロの数字が、後の流れを決定する。
その数字を一だろうと二だろうと三だろうと四だろうと五だろうと六だろうと、とにかく気の向くままに塗り替えてしまうのがレミリアの能力だ。
自前のサイコロはもちろん、他の誰かが握っているものであろうと。
問答無用。
今日の外出を決意した瞬間、レミリアは道中で『雨に降られる確率』が限りなくゼロに近づくよう、己の運命を改変した。
考えられる全ての要因、目に映った全てのサイコロに細工を施し、蒼穹のキャンバスから灰色を追い出してやった。
だから、今もなお天は一滴の雫すら零してはいない。
しごく当然のことだ。
だが、もしそこに、外部から予期せぬサイコロが紛れ込んだなら……どうだろう?
例えば何者かが、目立たぬ場所で誰にも気付かれることなく、蝶の羽ばたき程度のそよ風を起こしていたとしたら?
……その僅かなゆらぎが大気の流れに干渉したせいで、積み上げた緻密な計算は全て崩れ、幻想郷の全土が暴風雨に巻き込まれるという可能性も、あった。
自然界には、意外なアクシデントが満ち溢れている。
完全掌握は困難だ。
レミリアが仕組み咲夜が仕掛けた『早苗は湖に辿り着けない』という運命が、事実として打ち破られた以上、そのことは深く胸に刻んでおく必要がある。
「分かってるよ、咲夜」
レミリアは頬の筋肉から力を抜いた。
絶対の忠誠を誓う従者が、あえて身の程知らずにも進言してくれたのだ。
それを苛立ち紛れに一蹴するほど、紅魔館の主は幼稚ではない。
「神の因果は複雑怪奇だ。いくら私でも、無傷で楽勝!ってわけにはいかないだろうさ」
「失礼いたしました」
咲夜が静かに身を引く。
今、レミリアが押し返さなければならない視線は合計三本だ。
敵意に満ちた早苗の目、貫禄あふれる神奈子の目、余裕を感じるほど無邪気な諏訪子の目。
「私、腹芸ってやつが苦手なんだよ。この性悪女と違って」
立てた親指で、すぐ背後の輝夜を指す。
しかし指された側は、どこ吹く風。
当たり障りのない微笑みにひびが入ることはない。
「だから、単刀直入に結論から言わせてもらうよ。あんたのご機嫌を取るつもりなんて、これっぽっちもない。だって、お互い立場が違いすぎるだろう? こっちは人に恐れられる魔王で、そっちは人に有り難がられる神だ。殺るか殺られるか……それこそが本来あるべき関係だったんじゃないかって思うんだけどねぇ」
早苗の放つ敵意が、一層とげとげしくなる。
「化けコウモリの分際で、なんと不遜な……」
「おっと間抜けな風使いちゃん、話は最後まで聞いてほしいねぇ」
「なっ……!」
「そんな粗忽者だから、うちのメイドに遅れをとるんだよ。体内時計の調子はだいじょうぶなのかい?」
肉体年齢がひとまわり下回る相手から蔑意を浴びせられ、怒りのあまり一瞬言葉を失ってしまった早苗に代わり、
「なんとか、ね」
諏訪子がケロッとした顔で答える。
「ねえレミリアちゃん。うちの早苗は見た目どおりの可憐で繊細で純真な子なんだからさあ、あんまりからかわないでやっておくれよ」
そっちこそ。
あどけない顔の裏に、凶悪な実力を隠してやがるんじゃないのか?
「くくくくっ、吸血鬼の性格は陰湿なものだって相場が決まっているのだもの。しょうがないでしょ」
「やれやれ」
神奈子の右手が、レミリアの前に差し出される。
「しょうがない……と言うか、どうしようもない悪魔ね」
「お褒めに預かり光栄だわ」
「ベタベタした馴れ合いをするつもりはない。けれど敵対もしない。お互いのテリトリーを尊重しあい、必要以上の示威や干渉は行わない……そういうことで、いい?」
「すっごく、いいわ! 話が分かるね!」
この神には居丈高な面があるが、決して独善的ではない。
レミリアは顔を輝かせて目の前の手を握り、勢いよく振った。
神奈子もまた、意が通じた嬉しさを表情に滲ませた。
成ったのは、力のある者同士の、対等な「友誼」である。
だが早苗の目には…・・・あろうことか、神が悪魔に対して「譲歩」したようにしか見えなかった。
「ちょっと驚いたよ。西洋式の挨拶を知ってるなんて、最近の古代神はハイカラよねぇ」
「今は何でもありの時代なのよ。日光の下を半裸でぶらつく吸血鬼だっているぐらいだもの」
「くっくく、違いないね! くっくっく……」
いかにも吸血鬼らしい毒々しい笑い方、そして鋭い八重歯の不吉な輝きに、早苗は胃のむかつきを抑えられない。
「八坂様!」
あなたの巫女は……この者たちに怪しげな術をかけられ、辱められたのですよ?
それなのに!
「よろしいのですか、これで!」
「おう、全然オッケーだぜ!」
横から勝手に魔理沙が割り込んできて、やたら自信満々にそう答えた。
早苗は額に手を当て、溜め息をつく。
「だよな神奈子? お前だって温泉好きだろ? つーか温泉が嫌いなやつなんてこの世にいるわけがない!」
今の今まで珍しく魔理沙が沈黙してたのは、地面にうずくまり、ミニ八卦炉に絡まった糸を外す作業に熱中していたからだった。
だが全ての結び目が解けた以上、いつも通り空気を読まない(読めない?)口出しをせずにはいられない。
「どういうつもりなの、あなた……さっきから勝手なことばかり口走って!」
「おう早苗。20分ぐらいぶりか? いや、咲夜のイカサマにハマってたんだから、お前の中ではもう10年ぐらい時間が経っていたのかもしれんな。なんだか、心持ち顔面にシワが増えたような気がするぜ」
「……構えなさい」
「んあ?」
「その捻じ曲がった根性、叩き直す必要があります」
本気の殺気。
魔理沙は首をかしげる。
「おいおい、さっきから何をカリカリしてるんだ? 私、なんか気に障ることでも言ったか?」
「あなたの存在自体が不愉快なの」
「感じ悪いなぁ。お前の望み通り両方の神様にお伺いを立てて、どっちからも許可をもらえたってのにさぁ」
「八坂様は、まだ何も……」
「別にいいわよ」
あっさり、神奈子はうなづいた。
早苗の顔から一気に血の気が引く。
「や、やさかさまぁ!?」
「わーい!」
レミリアが弾けるように湖に飛び込んだ。
早苗は予想外の展開にすっかり放心してしまい、もはや静止の言葉をかけることすらできない。
「あっはははは! あったかくて気っ持ちいーい!」
「お嬢様、こちらをどうぞ」
「ん、サンキュー!」
どこに隠し持っていたのか、咲夜は浮き輪を水面に投げた。
水泳の経験に乏しいレミリアにとって、それは必需品である。
どこまでも抜け目のない従者の完璧な心配りに、レミリアの機嫌は上昇する一方だ。
「なんだか、体の芯がポカポカするよ! ロテンブロ最高!」
見た目相応に子どもっぽく手足をバタつかせ、思う存分水しぶきを跳ね上げている主を見て、咲夜はにっこりと笑った。
その後ろでは、鈴仙と永琳もまた爽やかスマイルを向け合っている。
「良かったですね師匠! 新開発の入浴剤は、吸血鬼にも好評みたいですよ?」
「……『人外の者にもハッピーバスタイムをプレゼント』……そのコンセプトのもと、二百年も心血を注ぎまくって完成させたクサーツベップ・ノボリベトゥルス……どうやら苦労は報われたみたいね」
いつまにかお揃いの竹色ビキニに着替えていた永遠亭組も、そろそろと上品に身を沈めていく。
「うん、確かに良質なお湯だわ。お肌を柔らかく包み込む感触が格別よ。やっぱり永琳の薬は最高ね」
「ふふふ、そうでしょうともそうでしょうとも」
「ただ、このカビっぽくてキモい色だけは何とかしてほしかったけど」
「ぐ。せめて翡翠っぽくて典雅な色と言って下さいよ姫ぇ!」
「ファイトです師匠! バージョン2.0でリベンジです!」
「うう、次は色覚的な印象も考慮に入れなければならないわね。険しきかな薬学の道……」
そして、登山者たちの姿は湯気の向こうに消えて行った。
「さて」
「さて」
陸地に残された魔理沙と咲夜の声が、重なる。
「私も入らせてもらうとするぜ」
「お食事の用意をしないとね」
「待って」
「待って」
魔理沙は懐に八卦炉をしまいかけて、諏訪子に。
咲夜は、やはりどこから取り出したのか謎の大きなバスケットを開けようとして、神奈子に。
それぞれ、呼び止められた。
「なんだよ」
「なんでしょう」
「その、手に持っているカッコいいアイテム……」
「その、瀟洒な雰囲気の藤籠……」
「この八卦炉が、どうかしたのか?」
「こちらのバスケットが、何か?」
「強力な弾幕の匂いがする!」
「最高級貴腐ワインの香りがするわ!」
「おお? さっすが神様、お目がエッフェル塔より高いぜ!」
「あら、ご名答ですわ。普段はワインセラーの奥に保管している貴重なものなのですが、本日は特別な宴とのことでしたので」
二柱の目が、爛々と輝きだした。
「やろう! 一汗流してから浸かるお湯は、きっと格別だよ!」
「飲もう! ほろ酔い加減で入れば、一段と体が温まるってもんだわ」
対する二人もまた、ニヤリと笑う。
「そういや、お前相手にゃまだこいつを使ったことがなかったっけ……いいだろう、三本勝負な!」
「もちろん、こちらは貴女に召し上がってもらうために持ってきたものです。場合によっては、逆に貴女の血をレミリア様が味わうことにもなりかねなかったのですが」
「あーうー! 土着ケロVSハッケロ……どっちが真のケロか、白黒はっきりさせてやるわ!」
「ぬふふふ、結果オーライよ。ところで籠の大きさから察するに、ワインの他にも色々と美味しいモノが隠れていそうねぇ。どれ、ちょいと蓋を開けてみてごらん」
「言っている意味は理解不能だが、とにかく弾幕はパワーだってことを思い知らせてやるぜ!」
「ローストビーフとレタスのロイヤルクラブサンド、鰻のパイ、山羊乳チーズとトマトのカナッペ……その他もろもろ、思いっきり腕を振るわせていただきましたわ」
諏訪子と神奈子は互いに手を高く掲げ、ハイタッチの音を高らかに響かせた。
「イェイ! 今日は死ぬほど!」
「楽しみましょ!」
諏訪子がカエル飛びで高度20メートルまで飛び上がり、その後に意気揚々と魔理沙が続く。
咲夜が絹製シートの上に次々と並べていく、軽食だのおつまみだのと呼ぶにはあまりにも豪華すぎる料理の数々に、神奈子はもはや神の威厳もへったくれもなくダラダラと涎の滝を流している。
「きゃー! これ、全部あなたが作ったの?」
「はい」
「すごーい! 見て見て早苗、ご馳走よご馳走! 洋風よ洋風! こんなの、『外の世界』でもお目にかかったことがないわ! さあ食べましょ! お腹いっぱい頂きましょ!」
「できれば、私の主と他の客人たちの分も残しておいていただきたいのですが……って、聞いてます?」
「ほらどうしたの、遠慮しないで早苗も……あれ?」
返事がない。
辺りを見渡す。
姿も見えない。
「どこ行っちゃったのかしら?」
『八坂様』
神奈子の顔をそっと撫でる微風が、神奈子だけに聞こえる声で、早苗の代わりに応えた。
『私は先に戻り、社の留守を預かっております。八坂様におかれましては、どうぞごゆるりとお楽しみあれ。ただし飲みすぎにだけはご注意下さいますよう、かしこみかしこみ申す』
近くに海などないはずなのに、その風はやけに湿っていて、そして塩辛かった。
「おんやぁ?」
高き中空から湖を見下ろしてみて、諏訪子は初めて気づいた。
温泉と化している領域は、さほど広くない。
しかも、まるで定規を当てて描いたかのように正確な長方形として固定されており、それ以上に広がる気配をまるで見せない。
「ははぁん、なるほど」
『温と冷の境界』と、ついでに『聖と俗の境界』という二重の線が、魔理沙特製の温泉を神湖から分離させているのだ。
こういう器用な真似のできる存在は、諏訪子の聞き及ぶ限り……いや、幻想郷の誰が想像しようと、ただひとり。
(私たちに匹敵するほどの力を、こんな瑣末な遊びに用いるなんて。牛刀をもって鶏を裂く、どころの話じゃないわ)
草薙の剣をもって蚊を潰す。
そのぐらい大袈裟で、馬鹿馬鹿しくて……それゆえに、粋(いき)だ。
大愚と神智の境界は、まさに紙一重。
彼女が遥か昔より『賢者』と噂され続けている理由は、きっとそういうところにあるのだろう。
「ここは本当に面白いところだね、魔理……」
「よそ見イコール命取りだぜっ!」
諏訪子の視界いっぱいに、真っ白な閃光が広がる。
「お……おおおぅ!」
直撃した。
「どうだっ! これが私の超必殺技、名づけてマスタース……」
元気な声が急速に遠ざかっていく。
ああそうだ、勝負はもう始まっていったんだっけ。
いやー参った……参った!
人間ですら……驚愕の強さを発揮できる……弾幕ごっこ……
楽しいなあ……とっても……
一直線に湖へ落下して行く諏訪子の耳に、早苗が風に託したメッセージは聞こえなかった。
ゆえに、あれほど大事な早苗の存在をついつい忘れ、遊び呆けてしまっているという事実にも、気づかなかった。
目の奥が熱くて熱くてしかたがない。
その熱が零れ落ちないよう必死にこらえながら、早苗は社務所への帰り道を急ぐ。
『早苗』
神奈子からの返信が、不意に鼓膜を揺らした。
『あなたの訴えは、ちゃんと聞こえていたわ。私がだらしなく寝ている間、たったひとりでも湖を守ろうとしてくれたのよね? 偉いわ』
その努力は、全て無駄になってしまった。
今さら労ってもらったところで、ちっとも嬉しくない。
それに、先ほど神奈子は確かに「格の違いを見せてやる」と宣言したはずだ。
なのに、どうして不心得者を討とうとせず、媚びを売ってばかりいるのか?
そんな回りくどいことをせず、さっさと敵対するものを全て滅ぼしてしまえばいいものを。
『気持ちは分かる。けれど……ここでは、ここなりのやり方ってものがあるの。あっち側でやっていたような強引な布教は控えましょうって、この前もお話したばかりよね?』
何を今さら。
こちら側に跳ぶためには、純粋な『信仰』が大量に必要だと仰ったのは八坂様ではありませんか。
だから私は……八坂様から授かった力をフルに使い、八坂様に代わって目に見える『奇跡』を次々と顕現させたのです。
つまり、信じる者には恵みを。
信じぬ者には……祟りを!
『神』を忘れた下等な者どもに『信仰』を植え付けるには、そうすることが一番手っ取り早かったから。
そして私は『現人神』という称号を得て。
人の世から、孤立した。
『いつも気苦労ばかりかけて、本当に申し訳ないと思ってるわ』
いいえ。
『神』が『人』に配慮する必要など、ありません。
風祝の家系は、代々『神』に身命を捧げるためにのみ続いているのです。
『あなたはこんな私を見て、堕落したと思うかしら? くくく、かつて本朝でも有数の軍神と称えられた私が、今じゃ終日呑んだくれ……真面目なあなたが呆れるのも、無理ないわね』
とんでもありません。
それが『神』の御意思なら、逆らえるはずなど。
八坂様のみならず洩矢様もそれを是とされているなら、なおさら。
……私はただ、付いて行くのみです……
『でもね、これだけは誤解しないで。私は蓬莱人やら吸血鬼やらが怖くて、手が出せないわけじゃないの。本当よ?』
もちろん存じております。
この世に『神』が恐れるべきものなど何もありません。
『こいつらはね、私の度量を見極めに来たんだよ。だから、政治的に応える必要があった。蛇の神らしく、飲み込んでやったのさ。もしヒステリックに追い返していたなら、後でどんな評判を立てられるか……ああっと! こんなこと、頭のいい早苗ならくどくど説明しなくても解るよね?』
はい。
いつものように、私が「物解りの良い娘」であることをお望みなのですね?
従いますよ。
風祝なれば、従いますとも……
ええ、ええ、あくまでこれは『政治』です八坂様のお得意な分野です。
逆に『宴会好き』という弱点を突かれ、懐柔された……などと思ってしまうのは、『神』の深い思慮を計れぬ人の身の愚かさなのでございましょうね!
『とにかく、勝ち負けの問題じゃないんだってば。もちろん、あいつらが手勢を引き連れて攻めてくるようなことがあったら、その時は……いや、そんな話はやめておきましょう。酒がまずくなる』
それはそれは、申し訳ございませんでした。
八坂様のお楽しみを邪魔してばかりの不調法、まこと恥じ入るばかりでございます。
『……よければこっちに戻って、一緒に楽しまない? どうせ、うちに泥棒に入るような奴なんていないだろうし。それに、紅魔館の料理ってすごく美味しいのよ! こんな美味しいもの、私ひとりで楽しんだら勿体無いもの』
せっかくお気に入りあそばした捧げものを……横取りするなど……はしたない、こと、です……
それに、あ、あ、あんな怪しげな者の作ったものを口に入れるなど……
あんな……あんなものっ!
わ、私だって、いっしょうけんめい、おりょうり、つくった、のに……!
『安心して、あなたの分は残してあるから……って、っと、こら! 諏訪子! それは早苗のカマボコ……え? カマボコじゃなくて、てりーぬ? どっちでもいいわよそんなの。とにかくダメったらダメ。あんたは魔理沙とあっちで遊んでらっしゃい、しっしっしっ……ふぅ、まったく油断も隙もありゃしない』
いりませんっ!
頼まれたって食べるもんか!
ああ、それにしてもどうして八坂様ばかり喋っていて、洩矢様はお返事をして下さらないのだろう?
そんなに楽しいですか、弾幕ごっこなんてガキっぽい遊びが?
『とまあ、そんな感じでこっちは盛り上がっているわけよ。ああそうそう、温泉の湯加減もまた絶妙でさ、もう極楽気分よー! あ、いいこと考えた! この温泉をもっと広々と拡張して、レジャー地にするってのはどう? そうしたら、きっと麓からもたくさんの人が来てくれるようになるわ! そのあたりの計画もじっくり話し合いたいし、ねぇ早苗、こっちに来てよ。いつぞやみたいに無理矢理呑ませたりはしないからさ、あなたも私の傍に……』
……私がどれだけ頑張っているかも知らずに。
あなたたちはいつもいつも!
そうやって能天気に!
なおも残酷な勧誘を乗せて付きまとおうとする風を強引に振り払い、早苗はひたすらに宙を奔った。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
泣いた。
ここが閑静をもって良しと成す境内であることも忘れて、思い切り。
あのメイドが得意気に開け放ったバスケットの中身を思い出す。
……ほんの少し覗き見しただけだが、そこには「洗練」という言葉が具体的な形を伴って凝縮されていた。
対して、自分が先ほど煮込んだ鍋の中身は……あまりにも泥臭くて……
(帰りましょう。お膳の支度なら、すでに整っておりますゆえ)
たったそれだけの一言が、どうしても言えなかった。
久しぶりの休肝日、酒付き合いを自粛する日、団欒のひととき。
三人だけの、狭いけど温かい食卓……前々からの約束だったじゃないの!
どうしてコロッと忘れちゃうの?
私の存在なんて、あなたたちにとってそのぐらいでしかないわけ?
あなたたちが本当に神様なら……願いを叶えてくれても、いいじゃない!
「あうっ、ぐすっ……ひどいよ、かなこさま……すわこさまも! あうぅぅぅぅ……」
気がつけば、もう本殿が近い。
早苗は近くに立っていた御柱に取りすがって、とめどなく涙を流し続けた。
(ここじゃ、私以外の誰だって神様が見える。喋れる。触れ合える)
(だから)
(だから私なんて、もう……)
「むっ!」
「もぐもぐ、どうしたの妖夢?」
「いえ、どこからか女人の鳴き声が聞こえたような気がしたものですから」
「気のせいでしょくちゃくちゃ。ほら、この辺りってしょっちゅう……はぐはぐ……うら寂しい風が吹いているからごっくん!」
「風の音……ふむ。それならば良いのですが」
「あー、食べた食べた! ごちそーさま!」
「喜んでもらえたかしら?」
「うん。紫のおかげで、すごく助かっちゃった」
「お味の方は如何?」
「素朴だけど、作り手の真心が篭っていたわ。心と胃袋に染み渡る美味でした」
「そう。そうでしょうねぇ……うふふふ、良かったわねぇ」
「時に、紫殿」
「ん?」
「いきなり連れてこられた、この六畳一間……いったい、どなたのお宅なのでしょう?」
「腹ペコ亡霊のためにご飯をふるまってくれる、親切な人のお宅よ」
「はぐらかさないでいただきたい。いくら紫殿のお言葉とは言え……人様のものを勝手に頂戴するのは、やはり罪悪感が……」
「何を言っても覆水はなんとやら、よ。それに、どうせ無駄になるぐらいなら、幽々子に食べてもらった方がお料理にとっても幸せってものでしょ?」
「無駄? はて、それはどういう……」
「難しく考えなくてもいいのよ、妖夢。どうせ紫の言うことなんて、デタラメに決まってるんだから」
「……それもそうですね」
「だいたい、紫とあなたがよってたかってダメ!って言っても、たぶん食欲には逆らえなかったわよ、私」
「……それも……そう……ですねぇ。はぁ……」
「さ、湖に通じるスキマを開いてあげたわ。ここに飛び込めば、宴の会場まで一瞬で行けるわよ」
「うわぁ、助かるわぁ」
「道に迷っていたところを見つけていただいた上、このような心遣いまで……まことにかたじけない」
「いいのよ。私と幽々子の仲だし」
「そんじゃ、行きましょうか」
「お、お待ちください! 席を立つ前に、この料理を作った方に一言でも謝辞を申し上げておくのが礼儀……」
「ねぇ紫。西行寺幽々子が心の底から感謝してたって、伝えておいてくれる?」
「了解」
「そ、そんな。ああ、我が主ながら軽すぎる……」
「霊が軽いのは当たり前! ああそうそう、もうひとついいかな紫」
「ん?」
「今度は何を企んでるの?」
一瞬、沈黙。
「何にも。単に、行き倒れ寸前だった幽々子を助けてあげたくなっただけ……って言ったら、信じる?」
「信じない。幻想郷うさんくさいランキング堂々のナンバーワンだもの、あなたは」
「ニコニコしながらそういうこと言わないでくれる? 傷つくわねぇ」
「ごめんねぇ、私ってば正直者だから……で、どうなの?」
「聞かれたところで、デタラメしか言わないわよ。そういう奴なんでしょ、私って」
「あははははは。ま、デタラメはデタラメでも、結果として幻想郷のためになることなんでしょ?」
「ええ。それだけは誓ってイエス、よ」
「冥界の住人が増えるような荒事も、できるだけ避けてね?」
「オッケー」
「その答えが聞ければ充分ね。さあ妖夢、行くわよ」
「あの、このギンナンの包みはどうしましょう」
「あらまあ、ずいぶん大量に拾ったものねぇ」
「もちろん全部かついで行くのよ。他でもない、あなたが」
「……これを、全部ですか? すごく重いんですけど」
「修行だと思って、がんばれー!」
「あの、この家の人に、お礼として半分ぐらい置いていった方が……」
「修行よ修行! ファイトよ妖夢! 白玉楼に帰ったら、輝ける茶碗蒸し三昧の日々が待っているわ!」
「心得ました……」
「それじゃ紫、また後でねー!」
幽々子が扇を振り、妖夢が一礼する。
するとスキマは大きく口をあけ、冥界の住人たちを飲み込んだ。
六畳半の茶の間に残されたのは、紫のみ。
「本来、神に捧げる食事ってのは神饌殿で調理して、それから本殿ないし拝殿に運ぶものなんだけど」
ひたひた、ひたひた。
外から、打ちひしがれた足音が近づいてくる。
「作り立てが冷めないうちに、みんなで肩を寄せ合って……そんなところかしらね。なんとも微笑ましい限りよねぇ。この千年余りで、神様もずいぶんとざっくばらんになったものだわ」
足音が、社務所の入り口の前で止まる。
内部に何者かの気配が在ることを察し、戸を開けることを躊躇しているらしい。
しかし、それはほんの一瞬のことだった。
「でも、どれほどの仲良し家族であろうと。たった一筋の亀裂から、あっけなく瓦解することもある」
がらがらがら。
どたどた、どたどた。
乱暴な物音と共に、尋常ならざる霊力が紫の方へと向かってくる。
「おかえりなさい、『現人神』さん」
「なっ! あなたは……!」
「ずいぶんとお疲れのご様子ですこと。あなただけの神様を、ロクでもない連中に取られちゃって……悔しいのかな?」
紫を見つめる二つの眼は、まず驚きで丸くなり……それからすぐ、燃え立つような怒りで、反った弓の形に姿を変えた。
(続く)
こんなにも自分の思い通りにならないなんてね、そりゃ泣きますわ。
感想を毎回見ますと、作者のケロちゃんへの愛がひしひしと感じられますw
そしてケロちゃんは可愛い可愛い可愛すぎる!
褌と角がケロちゃんを追いかけ回す様子が頭にうかんでしょうがないw
>諏訪子はもはや神の威厳もへったくれもなくダラダラと
神奈子では?
ですが地の文による説明調が少し目に付きました。
会話や心情描写の兼ね合いは上手くいってると思いますが
能力とかキャラの位置付けの説明が少し冗長だったかな、と。
全体のテンポを考えて説明をもう少しコンパクトにすると
読みやすくなると思います。
真面目さ故に空回りする早苗ちゃんはかわいすぎる!!
ぐうう、早く続きが読みたいぜ。
うん、面白い。
神奈子様かっけえなぁ。
こりゃ続きがたのしみだ。
文章の方も、不必要に滑りすぎないよう今後精進を続けて参ります。
皆様のご意見ご指摘、毎度ながらありがたい限り!
ケロちゃんのみならずオンバシラ様と早苗さんも愛しくて愛しくてしょうがないですって言うか守矢一家というキャラを創造した神主マジ天才←結論
紫と亡霊姫の掛け合いが個人的には良かった
なんか良いじゃん。悪友って感じで
レミリアたちと交渉しながらも早苗を気遣う神奈子様はとてもいい女だと思います。
続き待ってます。