幻想郷とは異なる次元に、異なる法則を戴く異世界がある。その名は魔界。支配者たる神を中心とした、彼女の被造物が暮らす楽土である。
魔界の最深部に位置する万魔宮。魔界神たる神綺と、特に近しい娘達が住まう宮殿。今日も今日とて、壮麗な宮殿は神綺の愛娘が一……メイド兼補佐官である、夢子が発した怒号を響かせる。
「神綺様! 神綺様は何処へおわす!?」
ウェーブの掛かった見事な金髪を揺らしながら、壮麗な廊下を早足に歩く夢子。美しい顔立ちの娘だが、それ故に怒ったときの迫力は凄まじいものがある。すれ違う部下達は皆、そんな夢子に恐れをなして壁に張り付くように道を空ける。まるで神話にある海割りを再現したかのような魔神の娘は、しかし目の前に立ちふさがった見慣れた顔に足を止めた。
「なんて顔してるのかな?」
「……ルイズさん」
夢子がルイズと呼んだ娘。常に旅行鞄を持ち歩き、つば広の旅人帽を被った落ち着いた雰囲気の魔界人。典型的な旅行スタイルは、外回りの活動が多いルイズにとっては仕事着のような物だった。
「そんなに酷い顔をしてましたか?」
「あー……うん。マイちゃんに砂糖と塩をすりかえられた時だって此処まで酷くなかったよ」
ルイズの答えに息を吐き、額に落ちかかる前髪をかき上げる夢子。その時になり、ようやくホワイトブリムが乱れるほどに激昂していたことに気がついた。
「落ち着いた?」
「……いいえ」
微笑と共に吐き出された妹の短い返答に、ルイズは苦笑をかみ殺す。事実夢子の瞳に宿る剣呑な光は、僅かの衰えも見せていなかった。
「そういえばルイズさん。貴女はご存知ありません?」
「知らない」
「……まだ何も言ってないんですが?」
即答で切り捨てては見たものの、ルイズは既に夢子の探し物にも、その行き先にも見当がついている。先の怒声はルイズの耳にも届いていたし、夢子がその名を呼ぶときに、怒りを込める理由など一つしかない。
「……神綺様がどちらにいらっしゃるかご存知ありませんか? とっくに出勤時間を過ぎています」
「お母様なら今しがた、自室の窓から抜け出したよ。シーツとかカーテンとか縫い合わせて、即席でロープにしてたから」
「知っているんじゃないですか!」
からかわれている自覚を胸に、夢子は声を荒げる。そんな夢子の怒りを何処吹く風と、ルイズは悪びれぬ態度で切り替えした。
「ごめんね。取りあえず、誰に何を聞かれたときも知らないということに決めてるの」
ふてぶてしい姉の態度に、夢子は爪を噛みたい衝動に駆られる。
万魔宮は神の定めたルールにより、敷地内の飛行は禁止されている。そして神綺の部屋は宮殿の最上階に位置するため、合法的な脱出は困難と予想されていたのである。
「……つまり、我らが母上様は、今頃魔界の空で自由の歌を謳歌しているということですね」
「うん。そういうことになるのかなぁ」
あっけらかんとのたまう姉に、夢子は眩暈を感じて額を抑える。足元が多少ふらついたが、気力で耐えて身体を支えた。そして聡明な夢子は、ルイズの発言に込められた意味も聞き逃しはしなかった。
右手を額に添えたまま、夢子はルイズを睨みつける。常ならば見るものの背筋を凍らせるほど鋭い眼光だが、目尻に涙を浮かべた今の彼女では、その威力も半減していた。
「……つまり、貴女は神綺様と共にいたんですね?」
「うん。一緒にお裁縫してたから」
お裁縫とは、シーツとカーテンの縫い合わせだろう。要は神綺逃亡の共犯者。夢子は殆ど無意識の内に、スカート裏に仕込んだスローイングダガーに手を伸ばす。
そのことに気づいたのか、ルイズはやんわりと夢子を制した。
「まぁ、落ち着いて夢子ちゃん」
「ちゃん付けするな」
「では愛しいマイシスター。私の話を聞いておくれ」
「ええ聞きましょう。私の愛する姉さまの、最後の肉声かもしれませんし」
ルイズの頬に一筋、冷たい汗が伝う。
夢子の抜き打ちは非常に早い。二人の間合いは互いの手が届くギリギリの位置であり、夢子がナイフを使い出したら、無傷の脱出は難しい。
「私もね、年末の忙しい時期に神様不在は、ちょっと不味いと思うのよ」
「全くです。私達の見解が一致するのは、大変珍しい事でございますね。しかし、貴女の行動は伴っていないようでございますが?」
夢子の右手には、いつの間にか研ぎたてのナイフが握られている。順手ではなく、逆手に。扱いづらく、ルイズにとっては回避が容易になったはずだが、嫌な予感はむしろ増した。その構えは振り下ろし、刺し殺すのに適した構えであり、順手持ちより明確な殺意を感じたから。
余裕の無い夢子の姿に、ルイズはいっそのこと哀れみすら感じられる。改めて見直した妹の瞳に、うっすらと隈を見つけて苦笑するルイズ。アイシャドウで隠してあるが、それ以外にもそこかしこに疲労の影が見て取れる。
「……なにしてるんです?」
「ん。なんとなく……」
無意識に、ルイズは夢子の頭を撫でていた。夢子がきょとんとしているのは、ルイズに他意を見出せなかったからだろう。
極々自然に、純粋に。ルイズはこの時、夢子の身体を案ずることが出来ていた。
「気にしないで。それでね夢子ちゃん」
「ちゃんを付けるな」
「だけど、お母様が心を入れ替えない限り、結局いたちごっこでしょう?」
「聞いていないんですか人の話? それと頭から手を除けてくださいブリムが乱れますから」
夢子は両手でルイズの手首を掴み頭から除けようとするが、姉の手のひらはピクリとも動かずに夢子の頭に居座っている。
日ごろ神綺の主命を受け、魔界を始め幻想郷にまで足を運ぶことが多いルイズ。母たる神から受け継がれ、更に自ら重たい旅行鞄で鍛え上げた右腕は、魔界人最強と謳われる夢子でも手に余る代物らしい。
「だから今回、ゲートキーパーを抱きこんでおいたの。少し痛い目を見れば懲りるかなと思ったから」
「だからその手を……痛い目?」
ルイズの瞳に形容しがたい光を見つけた夢子は、内心で嫌な緊張を強いられる。夢子は常識人であり、型破りなルイズの発想と思考が読めないことが多々あった。いったい神綺がどのような目に遭うのか想像がつかない。どれほど欠点の多い神であれ、夢子にとっては大切な母親なのである。
「別に心配しなくてもいいよ。お母様の行く先なんて、幻想郷以外ないでしょう?」
「そうですね」
大方、あちらにいる末娘に会いに行ったのだろうとは、二人が共通して予測するところである。
末娘の名はアリスといい、歳の離れた姉妹である二人は、それこそ蝶よ花よと可愛がった。幸せだった昔の記憶。それはアリスが禁忌の研究に手を染め、魔界追放に処された苦い記憶に繋がったが。
舌打ちと共に息を吐き、夢子は一つ首を振る。ルイズを見たとき、其処にあるのは曖昧な微笑のみだった。
「だからね、本来魔法の森に繋がっているゲートの出口を、ちょっと別の場所につないでもらったんだよ」
「別の場所?」
外勤の要たるルイズと違い、内勤の要たる夢子は基本万魔宮から出ることがない。そのため幻想郷の地理には乏しく、神綺が何処に飛ばされたのか全く予想がつかなかった。
「別に次元の狭間とか氷結地獄にぶち込んだりはしてないよ? ちゃんと幻想郷に送ったんだから」
ひたすらに嫌な予感を覚えた夢子は、視線で先を話せと促す。
ルイズは子どものような笑顔を浮かべ、それによって夢子の不安の炎に強風を吹き込みながら、無邪気に言った。
「妖怪山。幻想郷で一番、排他的で血に飢えた魍魎悪鬼がたむろす無法地帯」
再び目眩が夢子を襲い……今度こそ、夢子は傾ぐ身体を保てなかった。
* * *
「侵入者に死……」
「っつこいわよ!」
又一人、木の陰から襲い掛かってきた妖怪を、神綺の拳が打ち抜いた。娘達に受け継がれた必殺の右の原点は、その猛威を遺憾なく発揮して屍の山を築いてゆく。
見覚えのない森に流れ着いた魔界神。彼女は五分と間を置かず襲撃を受ける現状に、そろそろ本気で参っていた。既に打ち倒した雑魚は百に届こうかという数である。
「ジーザス! 此処何処!? ユー誰! I am SINKI!」
そんな逆境の中にあり、神綺は頭を抱えて叫んでいた。ルイズの手を借り、夢子の監視する万魔宮から見事脱出した神綺は、二人の予想したとおりに末娘たるアリスの下へ飛んだのだ。背中には巨大なリュックサックを背負い、手にはルイズから借りた大き目のバッグ。それは小柄な神綺の体と相まって、遠目からは荷物が勝手に動いているように見える。
「はぅ……おーもーいー!」
リュックにはアリスへ届ける越冬用の生活必需品が詰っており、バッグにはルイズが用意してくれた旅行グッズ入っている。
リュックの内容は保存の利く食料品や、医薬品。さらに固形燃料を中心に、暖を取るための冬着や火酒と言った一般的なものから、グリモワール作成に用いる、弱い魔力を宿した専用紙と羽ペン等の執筆用品まで詰め込まれている。これらは魔界の特産であり、幻想郷では少々入手が難しいものばかりであった。
「うう……こんなことならルイズちゃんごと拉致れば良かった?」
頼りなく呟くその姿に、神としてのプライドはない。
ルイズを同行させなかったのは、自分が抜けた仕事を埋めるであろう夢子を気遣ってのこと。自分とルイズが同時に抜ければ、雑務の処理は全て夢子が負う事になる。
その判断に間違いがあるとは思えなかったが、事此処にいたっては娘と同時に自分の心配もしなくてはならない。魔法の森のつもりで全く違う森を歩いた神綺は、既にもと来たゲートに戻ることすら出来なくなっていた。
「サバイバルっきゃないのかなぁ」
げんなりと呟いた神綺は、リュックを下ろして座り込む。夢子がいれば服が汚れると怒られるところだが、生憎と神綺自身は地面に座り込むことに何の抵抗も感じ無い。
腰を落ち着けたところで、神綺はハンドバッグを開けてみる。なにせ準備を娘任せにしていたため、バッグの中身は知らなかったから。
「さて……」
状況が煮詰まった時は、現状把握が何よりも優先される。自分の能力、装備、持ち物……その他諸々の総合力を自覚することが、サバイバルの生存率を上げるのだ。
「何これ、手紙?」
それはバッグの一番上に、これ見よがしに置かれた封筒だった。其処にはルイズ直筆のサインと共に、『いとしいお母様へ』と添え書きがしてあった。嫌な予感と共にしばし封筒を眺めていた神綺。やがて封を切ろうと糊付けされた箇所に指を添えたとき、神綺の聴覚を優しいせせらぎが擽った。
水が流れる音。
神綺の頬が無意識に緩む。水は命の源であり、全ての生き物に必要不可欠な存在である。付近には人か、妖怪などの集落があるかもしれない。
水源に合流して、流れに沿って進むことにした神綺。巨大なリュックを背負い直し、音に向って進んでゆく。
再び歩き出した神綺は、今度こそルイズの置手紙を読み始める。通り一遍の親愛表現からなる前文を読み飛ばそうとし、しかし気になって熟読しては娘の言葉に一喜一憂を繰り返す。傍で見るものがあれば相当に不気味であるだろう光景がしばらく続き、ようやく神綺は本文にたどり着いた。
「……このようなことになり、お母様はさぞ驚き、ご不自由な思いをされているものと存じます。しかし、妹の身を案ずる姉の心情をぜひとも知っていただきたく思い、かくのごとく手に訴えさせていただきました。お母様勝手すぎるからさ……」
頬を引き攣らせ、最近の夢子の疲れた様を思い返す。年頃の娘らしいことを何一つ望まず、ひたすら自分に仕えてくれる愛娘に、ついつい頼っていた部分が神綺にはある。他方には、神綺のそばを離れられない夢子の弱さを理解した故の行動でもあったが。
「……それでね、お母様の放浪癖を少し考えていただきたくも思い、ゲートキーパーを買収させていただきました。こちらはお母様の冬のボーナスを当てております。魔界の同胞の血税には手をつけておりませんのでご安心を……っ!」
神綺の額に青筋が浮かび、一瞬手紙を破き捨てそうになった。しかし廃棄寸前で正気に返ると、やや血走った瞳と震える手を宥めつつ、続きを読み進める。
「……お母様が森にたどり着いたとしたら、其処は魔法の森ではありません。妖怪山中腹に位置する、不帰の森と呼ばれる無法地帯です。わたくしの調べによりますと、其処では五分に一度殺人が起こり、七分に一度強姦事件が起こるほどの犯罪スポットだということです……」
あまりと言えばあんまりな娘の所業に、神綺は頭が痛くなる。その様な危険地帯に母親を送り込むというのは、子どものすることではない。
そんな素振りを全く見せず自分に手を貸してくれた、ルイズの細い瞳の笑みを思い出す。あの笑顔と瞳の、何処にこのような反逆を企てていたのだろうか――
神綺はルイズに嫌われているとは思っていない。しかし、長女たる彼女はどちらかと言えば神綺より妹達を優先する節があった。創造主たる自分より、その被造物達たる妹を愛する娘。
そのことを泣いて懺悔するルイズの想いを理解したとき、神綺は心からの笑顔でルイズを許し、良き姉たる事を祝福したものである。
そんな美談も、今は昔。現在は発想も行動も過激化し、身の危険を覚えることすら珍しくない神綺だった。
いつか保険金を掛けられて、命を狙われる日が来るかもしれない。
「……お母様の大嫌いなお仕事は、私と夢子でこなします。安んじてお任せください。お母様は夢子への言い訳と、忙しい暮れに逃げ出そうなどという戯けた思考回路を叩き直すことだけをお考えください。後で関係各所に反省文を提出していただきますのでそのつもりで。無論其処から生きて帰ってこれたら、の話になりますが。それでは、御武運を祈ります。貴女の愛娘より……うぅ、言い返せない」
読み終えた神綺は、うな垂れながらも手紙をたたみ、再びハンドバッグにしまう。思わずくじけそうになったが、夢子がこのような事態を見過ごすはずがない。今頃はルイズを含めた関係者全ての制裁と、魔界神救出の手はずを整えているであろうことは、疑いないように思われた。
「ま、いいや!」
物事の明るい側面のみを見ることに決めた魔界神は、再び両の足で歩き出した。
歩きながら考えるのは、自然とこれから目指す娘のことになってゆく。アリスは魔界では禁止されている研究に手を染め、追放処分を受けている。よって事情を知らない者には二人が絶縁したと思われがちだが、別に関係が気まずいという事はなかった。神綺はこれまでも何度かアリスに会いに行ったことがあるし、定期的に手紙のやり取りも途絶えていない。流石にその事実を振れ回ることこそ無いものの、神綺の脱走とその行き先は、魔界人にとって暗黙の了解となっていた。
「イヤな森ねぇ」
神綺は焦れるが、此処が危ない場所だと知った以上、飛んで目立つのは論外である。事の初めからぶらぶらと歩き回ったのは、結果的に正解といえたかもしれない。神綺に深い思慮などなく、ただ歩くほうが好きと言うだけの事であったにしても。
整備などされていない天然の森。起伏が多く、木々の間隔も区々であり、獣道すら存在しないその森は、およそ人型の生物が踏み入るような場所ではありえなかった。それは魔界の神にとっても例外ではない。肩に食い込むリュックの重みに耐え、でこぼこと不規則な起伏ある大地に足を取られながら見知らぬ土地を行くその苦労に、神綺もその口数を減らして歩き続ける。
しかしどれだけ道のりが遠かろうと、其処に向って歩き続ければ距離が縮まるのは道理である。わずかな水音を頼りに道なき道を攻略していた神綺は、やがて音が大きく、そして激しいものに変わっていく事に気がついた。大きく、広い場所に向かい、巨大な水の塊が叩き付けられる轟音。
「滝……っていうんだっけ? こういうの」
歩む神綺の視界が、徐々に明るくなってゆく。それは森の木々が途切れつつある証。息を吐き、多少の気力を回復させて、魔界の神は光を目指して歩いてゆく。
この時神綺は水音と共に、湿気を含んだ微風が優しく凪いでいることに気がついた。やや汗ばんで上気した身体を、心地よい冷気が包み込む。マイナスイオンを全身で吸収し、体力回復を図る魔界神は、目の前の茂みの先に一際目映い陽光の煌きを見た。
森が切れる。
安堵の表情と共に、最後の仕事とばかりに茂みを書き分ける神綺。
「はい、お疲れ様でしたー」
茂みの向こうに見た人影に、神綺の笑みは凍りついた。
* * *
其処は森の一角にある広場であり、巨大な滝の麓であった。上方から大量の水が落下して、絶えず水飛沫が舞っている。滝壺の水は一瞬の停滞を見せた後、再び下流に向かいその歩みを再開していた。
雄大な自然の、ほんの一面。
常ならば声を上げ、子どものように感嘆を示す神綺だが、今は自分の目の前にある少女を見たまま固まっていた。
「あれ、何か言ってくれないんですか? 貴女は誰なの! とか。言ってくれないとこちらから名乗るのも、気恥ずかしいじゃないですか」
からかうような微笑を浮かべた声は、先ほどと同じ少女のもの。染み一つない真白のワイシャツに、これまた染み一つない美脚を、ミニスカートで惜しげもなく曝した天狗の少女……
「寒くないの?」
「第一声がそれですか!」
やや頬を赤らめて激しく地を蹴る天狗の少女。御自慢の高下駄の悲鳴が、滝壺に響いて水音に消える。
一方神綺の方はといえば、この森に入って初めて会話から入ってくれたこの少女に対し、ひたすら深い安堵を覚えていた。出会い頭にどうしても気になった一言を投げかけてしまったが、それでもまだ、相手が手を出してくる気配が無い。
「ああ、ごめんね天狗さん。少し気になって」
「うう、良いんですけどね。その質問は馴れてますから。因みに寒くないですよ天狗ですから」
「えっと、なんだっけ……あ、貴女は誰なの?」
「あぅ……それはもういいんです。お気持ちだけいただいておきます」
何処か寂しげに呟く天狗の少女に、首を傾げる魔界神。天然の彼女は、相手が何に落ち込んだのか、本気で分かっていなかった。天狗のほうにしてみても、一々突っ込んで修正は出来ない。
「私はこの山に住む鴉天狗……姓を射命丸、名を文と申……」
「射命丸!?」
「はい!?」
「もしかして貴女は……『あの』文々。新聞の、『あの』文さんなんですか!」
「はぁ……そうですが」
「やっぱり! いつも読ませていただいてます。もう私先生の大ファンで……」
「え!?」
思いがけないその言葉に、文の顔が喜色に染まる。文が発行する文々。新聞は、幻想郷のおいて不人気である。それは内容よりも、盗撮まがいの文の取材スタイルに対する反感の意味が強かったが、生憎と本人はその事実に気づかない。そんな事情により、文は褒められることに不慣れだった。自分の新聞に関しては、特に。
因みに、神綺が読んでいるのはルイズが出先から持ち帰ったものである
「文さんの新聞はもう……ワイドショウ顔負けのエンターテイメントに溢れて、最高の娯楽アイテムだと家でも大人気なんですよ!」
「ありがとう。エンタメ最高ですよねコンチクショウ!」
新聞記者とは事実の側面を切り取って、文字という媒体を通して読者に伝えることである。少なくともそう考える文にとって、今の発言は正直堪えた。
文は自身の感情の変化に応じ、ざわついてきた風を宥めてゆく。この程度のことで、文の忍耐は途切れない。ほんの一瞬、挽肉のお料理が食べたくなっただけである。
「……お気に召しませんでした?」
「いいえ全然! そんなことはありませんよ全く、慣れていますからねそういう評価も!」
それは非常に悲しい自虐であるが、生憎と神綺は気づかない。その無邪気さがいっそう、文を惨めにしていたが。
「……ところで文さん。非常に不躾と言いますか、わたくし物知らずで文さんにはご不快な質問になってしまうかもしれないのですが……此処、いったい何処なんですか?」
「? 極々普通の妖怪山ですけど」
「普通とおっしゃいますと、五分に一回人殺しが起き、七分に一回レイプが起こると評判の、あの妖怪山なんですか?」
「そうですよ。今から此処で……って違う!」
自分の住処を凶悪なスラム街の如く言われた文は、とりあえず抗議して首を振る。事実、妖怪の山にその様な逸話は無い。少なくとも、文も見聞きする範囲では。
「……」
息を整え、改めて相手の容姿を見直す文。非常に女性らしい体つきと、ややアンバランスな低めの身長。真紅のローブは本来なら禍々しい印象を与えるが、彼女の場合愛らしい童顔と、子どものような髪留めを使った人為的なアホ毛が雰囲気を裏切っている。
文の観察を知ってか知らずか、神綺は裏の無い笑みを浮かべ、しきりに自分を指差して文に対してアピールしていた。
「何ですか?」
「ほらほら、今度は私の番でしょう?」
「……なにが?」
「だからぁ、義理と人情というか、王道というかお約束のやり取りがまだでしょう?」
「……貴女! いったい何者です!?」
「ふふ! 知りたいのなら応えましょう!」
降下する文のテンションと反比例するかのごとく、際限なく上昇してゆく神綺のノリ。不敵な笑い声と共に真紅のローブを翻し、自身のカリスマを最大限に生かしたパフォーマンスで偉大なる真名を明かしてゆく。
「我は神! 此処ではない時空と、繋がらぬ空の向こうに住まう支配者! 我が支配するは魔。魔に住まうは人。我は彼らの創造主にして夢! その名は……」
「神綺さんですよね? アリスさんのお母さんの」
「って言わせてよぉ!」
最大の見せ場で凄まじいカウンターを喰らい、悶絶する魔界神。
珍しく本気で激怒する神綺に、文はようやく溜飲の下がる思いであった。何せ彼女は此処まで、この反撃の機会を待ち続けながら神綺のボケに耐えていたのだ。
「え! なんで……どこかでお会いしましたか? というかアリスちゃん? あの娘のこと知ってる? さては貴女は魔界の神に憧れてストーカーまで行っちゃった熱烈な信者さん?」
「違いますって」
にっこり笑った鴉天狗は、知り合いの河童謹製のミスリルスパナを振り下ろす。文はそれを懐から取り出したのだが、神綺の目には突然わいたようにしか見えず、次の瞬間まぶたの裏に散ったお星様が綺麗だった。
「っ!」
「本当に会話をしてくれないんですから……最初からこうしておけばよかったんですよねぇ」
「……暴力反対」
「これは突っ込みというものです。コミュニケーションの基本ですよ」
「そんなルイズちゃんみたいなことを言っても、神たる私を謀ることは……!」
「……続き、話してもいいですかねぇ?」
「く!?」
悔しそうに顔を歪め、にやける天狗を睨む神。文の右手には先ほどのスパナが握られており、見事な指捌きで回転している。二人の精神的な優位は、既に完璧に逆転していた。
「貴女のことを良く知る方から、お話を聞いたことがあるんです」
「……アリスちゃん?」
「いいえ。アリスさんからは、お母さんの話を聞いたことはありませんでした」
文の言葉に、いささかの落胆と安堵を、同時に覚える神綺だった。少なくとも、娘は郷愁を感じることなく新たな世界に生きている。一言もなしというのも、非常に寂しいものがあったが。
「私に貴女のことを話してくれたのは、風見幽香さんという方です。ご存知でしょう?」
「風見……ああ、風見って言うんだあの化け物。下の名前しか知らなかった……」
「彼女に聞いたことがあったんですよ。趣味の悪い真紅のローブに白髪(銀の髪)。そしてアホ毛が立派な『神』がいたと。因みにアリスさんの関係も、彼女から教えていただきました」
「……」
その発言の後半は、殆ど神綺の耳に入っていなかった。
問題は前半。今の発言には突っ込みたかった。その様な発言をした幽香は無論、本人の前で堂々と披露した文に対しても。抗議して正座させて、小一時間問い詰めた挙句に尻叩き十連コンボで神的制裁を加えたかった。それを自省したのは文の言葉に出てきた神という単語に、いささかの含みを感じたからだ。
「『神』が、どうしたの?」
「はい。今回私のような新聞記者が、警備部の連中の持ち場に引っ張り出されたのは、貴女が神だったからなのです」
「というと?」
「つい最近のことでした。この妖怪の山に別世界の神が訪れ、この世界の信仰を我が物にしようとしたのです」
「まぁ、独り占め? それは良くないことですねぇ」
「全くです。そして、事は幻想郷の異変であり、博麗の巫女が感知する所となりました。あの時も、旧知の私が狩り出され、結果少々面倒なことになってしまったのですよ」
「悪いことしちゃったの?」
「いいえ逆です。私が有能であることを、うっかりと上に知られてしまったのです」
ともすれば傲慢とも取られかねない発言を、何の気負いも無く言い放つ文に、神綺は思わず噴き出した。娘の中にも彼女のような者がいた。自身の能力を隠し、目立つ誰かの影に隠れるようにして、あまり多くは回ってこない仕事を余裕でこなす。上司の評価は決して高くならないが、それを晴れた日の傘くらいしか思わない者。
「マイちゃんタイプと見た」
「何ですか?」
「ううん、こっちのこと」
文は小首を傾げるも、特に追及はせずに咳払いし、右手を虚空に差し伸べる。
それは何かを求めるように。
神綺が眉を細めたとき、文の求めに応じてその手の中に現れた葉団扇。それは神たる神綺の目にも尋常ならざる妖気を感じ、思わず一歩しりぞいた。
「紆余曲折を経てその神は今、山の妖怪の皆に信仰される、公式の奉り神になろうとしています。そんな時に今再び、この地に異世界の神が降り立った」
「ああ……」
神綺は事此処にいたり、ようやく自分が最悪のタイミングで最悪の場所に遭難したことに気が付いた。神が起こした騒動の後処理が終わらぬうちに、正体不明の新たな神が降りてきた。神がその姿を現すなど、通常殆ど無いことを思えば、この時期に現れた神を偶然として片付けることは出来ないだろう。
此処まで考え付いたとき、神綺の脳裏に新たな疑問が横切った。
もしかするとルイズは、此処まで読んだ上で自分をこの地に送り込んだのではなかろうか?
腕を組み、一つ一つの事象を確認していった神綺。しかし、ここ最近はルイズが万魔宮から出ていなかった事を思い出し、この事態が娘の意図から外れていると読んだ。
この状況を上手く利用できれば、ルイズの計算を裏切り無事息災に帰還することが出来るかもしれない。その場合、ルイズが考えていたより危険な目に遭う可能性も半分はあったが、生憎神は物事の明るい側面のみを見ようと決めたばかりであった。
「しかも私は、その神に関する情報を持っていた。由って再び、素晴らしい美脚文ちゃんにお声掛りがあったのですよ」
思考の海に沈んでいた神綺の意識を、現実の息吹が文の声音を借りて侵食する。
どこら辺が素晴らしいのか、理解できない魔界神。しかし特に意味は無かろうと、黙って文の言葉に耳を傾ける。
「上司の指示は貴女の目的を確認すること。私の目的は知的好奇心の充実と、私怨です。覚悟してくださいね」
「私怨?」
「貴女がシバキ倒した天狗の中に、気に入りの後輩がいたのですよ。犬走椛と言う固有名詞すら、貴女には意味の無いものでしょうね? 一々覚えてはいらっしゃらないでしょうから」
「……どの子?」
「貴女が二十三番目に顔面をへこませた娘です」
「あ、あの盾持ってた女の子!」
「覚えてるの!?」
その発言は、文の予想の斜め右上を突き抜けた。文は神綺が森を徘徊していた、かなり初期からその様子を観察していた。そうしているうちに警備部の天狗が彼女を襲い、椛が倒された時点で上司に報告に行ったのだ。
文が見ていたのは其処までだが、その後も神綺は無数の下位天狗を倒してきたはずであり、しかもほぼ全てを瞬殺しているのである。その中で、文が偶々取り上げた一人を特定出来るとは、尋常な記憶力では無い。
「っていうか貴女見てたの!? 見てたんなら助けなさいよ後輩さんを!」
「いや、私もそうしたかったんですけどね?」
困ったように瞳を反らし、頭を掻き毟る文。
「私に助けられるの嫌がるんですよ。そりゃあもう、蛇蝎の如くってヤツですね」
「嫌われる様な事をしたんじゃないの?」
「……注いだ愛情の分だけ結果が返ってくる世界なら、どれほど生きやすいだろうと考えたことはありますよ」
文はいささか深刻な苦笑を、ため息と共に吐き出した。しかしすぐに自己の喪失を回復させると、本来の目的たる神綺に対し、葉団扇を突きつける。
「私の話は終わりです。それでは、八つ当たりに付き合っていただきましょうか?」
「ちょっ待ぁっ!?」
文の台詞が終わると同時に、唐突に響いた神綺の悲鳴。固い物同士がぶつかる音が高らかに響き、天狗ご自慢の高下駄の足が、神綺の顔面を一寸ばかりへこませた。
「っ……」
神綺の身体がグラリと傾ぎ、そのまま崩れて地に落ちる。巨大なリュックを背負ったまま仰向けに倒れた神綺を、文は嘲笑で包み込む。
「良い格好ですね魔神様。亀みたいでお似合いですよ。私もなんだか楽しくなってきちゃいました……ところでぇ」
掟破りの開幕先制。必殺の顔面ヤクザ蹴りを慣行した文は、足裏に響いた会心の手応えに酔いつつ、囁いた。
「悲鳴がうるさくて聞こえなかったのですよ。もう一度、今なんとおっしゃったか、教えていただけますか?」
聞きながらも返答は待たず、神綺を踏みつけた文。その本性に随分と嗜虐的な趣向を持つらしい文は、背筋が危ない快楽に泡立つのを実感した。
「……だからぁ」
「!?」
神綺は文の足首を掴み、胸に乗った足を押しのける。
文は不快気に眉を寄せ、それまでの倍の体重を掛けて押し付ける。だが、足首に掛けられる圧力は一瞬ごとに強くなり、ついに文の快感を、苦痛のそれが上回る。
「まぁ、座って」
「立ちます」
「じゃあ、私が座る」
神綺は文の足を突き飛ばし、よろめいた隙に上体を起こして座り込んだ。
バランスを回復した文は、片足立ちのまま神綺を見やる。
「貴女の話が終わりなら、次は私の番でしょう?」
「……痛くないんですか神綺さん?」
「鍛えてますから」
愛らしい細腕を掲げ、顔の横で曲げて力こぶを作る神綺。やはりというか、流石というか、瘤は全く出来ていない。
「……なんなんですか?」
相手の意図が読めずに警戒を解かぬ鴉天狗を、魔界の神が手招きする。
「いや、取引って出来ないかなって」
「取引きですか?」
「貴女の上司さんが欲しがっている情報を、私は無償で提供するわ。貴女の知的好奇心には、私の持ってるメイドイン魔界製品の一部譲渡……こんなところで」
「ふむ」
一応あからさまな戦闘姿勢を解き、それでも尚警戒したまま、文は一つ腕を組む。がむしゃらに向ってくる相手より、文はこの手の話を持ちかけてくる相手の方が好きだった。好きだが、殆どの場合好戦的な手合いより性質の悪いことが多いのも又事実。交渉に駆け引きが必要なことを熟知している文は、ふざけた笑みを見せながら手を振った。
「それだと、私の八つ当たりってどうなってしまうんですかねぇ」
無茶を言っている自覚が、文にはあった。しかしこれは探りでもあり、茶目っ気でもあり、本心でもある。
この天狗が誰かと争う時など、所詮この程度の理由しかないのである。逆に言えば、これだけは譲れない境界でもあるということ。
相手の反応を観察する文。
赤い瞳に見入られる神はその気負いを全く見せず、少なくとも表面は悪童の笑みを浮かべて囁いた。
「私、お薬も持ってるの」
「ほう」
「椛ちゃんは粘ったから、私三回もぶっちゃった。他の子は一回だったけど」
「……ええ。アレはとても痛そうでした」
頬を引き攣らす文は、その光景を思い返して背筋が寒くなるのを感じた。屈強なはずの天狗衆。有事の際は身体を張って進入者を撃退する役目を持った連中が、神綺の拳一振りで、物言わぬオブジェと化していった。
初撃で盾を砕かれ、鳩尾に抜き手を入れられ、動きの止まった椛の顔面ど真ん中に突き刺さった神の拳……おそらく椛は、その粘りゆえに一番被害をこうむった天狗であった。
「だから、多分怪我しちゃったと思うのね。其処へ文さんが薬を持って、颯爽と現れて看病してあげれば……」
「なるほど! 弱った椛は『ああん文さまぁっ』と甘い声音で……」
「いや、『余計なお世話です』で切られるだけな気がするけど」
「……覚悟はいいですか」
「待って! まだ続きがっ」
思わず本音を漏らした神綺は、文が放った尋常ならざる鬼気に恐怖した。
「例え口でどう言っても、先輩が手間と暇を割いてくれるって嬉しいものだと思うのね?」
「そうでしょうか?」
「真面目そうな娘だったもの。例え内心どれ程文さんが嫌いだったとしても、好意には礼節で応えるはず!」
「其処まで嫌われた覚えはありませんよぉ……希望的観測で」
「既に印象が固定している相手から好意を引き出そうと思ったら、焦っちゃ駄目よ。じっくりこつこつ好感度を稼ぎ、地道な意識改革によってフラグを立てていかないと」
「……随分と真に迫ったご高説ですが、もしかして経験者の方ですか?」
「……昔ちょっとね」
神綺の経験とは、アリスとの仲が一番険悪だった時のこと。今でこそ相互信頼を回復させた親子だが、アリスが背き始めた当時の二人は、居合わせた他の娘が怯えるほどにギスギスしていたものである。その時は、結局ストレスに耐え切れなくなった神綺が胃潰瘍で倒れ、最悪の決別は回避できたが。
「……」
文はこれまで神綺と対峙してきた経験から、彼女に対して深刻になりきれない雰囲気を感じていた。それが演技だとは思わないが、無意識に相手の油断を誘っているのだから始末が悪い。
文は椛の強さを良く知っている。その椛を一方的に退けた神綺に対して、文は直感的には楽に勝てると感じているところがあった。
故に、文は警戒を解けない。
不正確な情報に踊らされ、希望的観測に飛びつく事がどれ程危険で愚かしいか、文は良く知っている。だからこそ、椛と接触する場合は細心の注意を払っているのである。そんな文をして、甘い見立てを誘う神綺。文は吸気と共に瞳を閉じ、これまでのやり取りを思い出す。そして相手が弱いという保障が、何処にも無いことを再確認し、呼気と共に瞳を開く。
意識を引き締め、ある種の覚悟を決めた文が見たのは……地べたに座り、胡坐をかいて自分に微笑みかける自称神の姿だった。
相手のペースに嵌っている事を自覚しながら、文は更なるカードを切った。
「私の方としますと、良い条件であるように思われます」
「そうでしょう?」
「ですが、もっと良い提案がありますよ」
「まぁ、それは?」
童女のような笑みを浮かべ、神綺は続きを促した。
文は意識して人の悪い笑みを作ると、相手が最も嫌がる条件を突きつけた。
「簡単なことですよ。貴女を倒し、椛の敵を討ってその身柄を上司に引き渡すんです」
「ちょっと!」
「そして私は魔界神打倒の経験値とドロップアイテムを手に入れ、土産話と薬を持って椛の見舞いに行くんですよ」
「……なるほど、それだと私の人生以外は、全て丸く収まる訳だ」
「はい。如何です、この案は?」
にやけた笑みを貼り付けたまま、文は神綺を見つめていた。自分の発言の中、刻一刻と顔色を悪くする魔界神に、いささかの優越感を覚えながら。
一方、神綺はその提案が探りであることは理解していた。そして反面で、文がその選択を躊躇う理由が無いことも解っていた。やはり交渉はお互いに、何かを認め合わなければ成立しない。一方的な弱者は、交渉のテーブルに着くことすら許されないのだ。
文の要求は力の誇示。もちろんそれは文の驕りではなく、この山の妖怪が未知なる神綺を恐れているからである。
威圧や周知のために力を振るうことは、神綺に取って最も好まざるところであったが、事は神の好みで左右される次元ではなくなっているらしい。
苦い認識をオブラート無しで飲み込んだ神綺は、この際手持ちのカードを、一部曝す必要性を感じたらしい。
「……貴女は、私の事を幽香さんから聞いたんだっけ?」
それまでと全く口調は変えず、それどころか表情すら変えぬまま、神綺は文に問いかける。しかしその一言で、文が抱えた重圧は桁違いに跳ね上がった。
神綺はこれまで、何をおいても避けようとしていた選択肢……武力行使を、初めて視野に入れたのだ。
「はい」
文はようやく神綺の雰囲気に変化を感じ、内心で安堵の息を吐く。実力者特有の凄みを隠さなくなった神綺は明らかに脅威を増したはずであるが、底の見えない不気味さは、むしろ半減していたから。
「私の事、なんと言っていましたか?」
どのような意図の質問か、文は咄嗟に察せ無かった。しかし此処が一番の山場だと感じた文は、脳内に整理された各人妖のインタビューの記憶を検索する。対象は風見幽香。幻想郷最強を自負し、あながち嘘とも思えぬ実力を有する花の大妖。
「趣味の悪い真紅のローブに白髪。頑固なアホ毛を誤魔化すために、後付けで髪留めなんかしている見栄っ張り。アリスさんの創造主にして魔界の神……そして、楽しい遊び相手」
「……」
改めて、幽香と決着の必要性を感じて憤る神。しかしこの場で文に言っても意味はないと、神綺は先を続ける。
「その時さ」
「……」
「あの娘は私に、勝ったと言った?」
「……」
沈黙が、この上なく明快な答えだった。
文はこれまで、幽香と対峙したことが数度ある。その全ては取材であり、互いに全力なれど本気ではありえない。
幽香は文の攻撃を喰らっても、平然と欠損した身体を再生して戦闘を続行する。
文にはそもそも、幽香の攻撃は遅すぎてあたらない。
結果は、全て千日手。
もし本気で戦ったら、時間も場所も弁えずに互いの殲滅のみを目的として、行き着くところまで行ったとしたら……
文にその先の予想は立っていない。負けるつもりは無かったが、相手も同じ事を考えているに違いなかった。
文は神綺がブラフを使っている可能性を、もちろん考慮に入れている。
その上で計算する可能性。
神綺が匂わせた情報が事実だった場合と、嘘だった場合。それぞれの帰結を予想して……
「それで私は、何をすればいいんでしょう?」
文は折れることにした。元々どちらに転んでも、文には損の無い話である。しかし、一方の道にリスクが生じた以上、そちらに拘る頑迷さ……もしくは一途さは、文の持たざるものだった。
一方でようやく妥協点を引き出せた神綺は、安堵の表情を浮かべつつ、既に文も予想しているであろう条件を切り出した。
「一つは、私の身柄を掠り傷一つつけないで開放してくれること」
「二つ目は?」
「これで最後……私を、その神様の所へ案内すること」
「は?」
要求の最後で、間の抜けた返答をした文だった。文は神綺が当然のように、アリスの住まう魔法の森へ連れて行く事を望むと考えていたのである。
「アリスさんは良いんですか?」
「もちろん会うわ。元々そのつもりで来たんだし」
膝を立て、其処に手を着いて立ち上がる神綺。何処か年寄り臭いその仕草は、神綺の雰囲気とはアンバランスであった。
「でも、娘は何処にいるか知っているもの。歩いていけばいつか会えるわ」
「それで、どうして神になど会いに行くんです?」
「え……だって神様に会える機会なんて早々無いじゃない?」
「私はふらふらと出歩く魔神様を発見しましたよ」
「それはこっちにおいといて」
地面の置いたバッグとリュックを拾い上げ、埃を払って持ち直す神綺。
荷物から人が生えたかのようなその光景は、文の笑いを誘っていた。
「揉め事は勘弁してくださいね? その神は、今や妖怪山で信仰される程の方ですから」
「もちろん。お友達になれればなぁって思うから行くんだしね」
「いいでしょう。私もあの神社には気になることが在ります。取材の邪魔をしない限り、私達が争う理由はありません」
「話が分かる方で、本当に良かったわ」
文は出発の支度を整えた神綺の手をとる。文の手は冷たく、不慣れな旅で火照った神綺に心地よい。
風に乗って文の華奢な体が舞い上がり、つられるように神綺の身柄も空に投げ出される。
「さて、松コース竹コース梅コースとあるんですが、どれにしましょうか?」
「お勧めは?」
「もちろん、迅速にして快適なサービスをお約束できる松コースですね」
「……じゃあ、それで」
「承知しました!」
文が最後になんと言ったか、神綺の耳には届かなかった。彼女は急速に激しくなった、文の周囲に流れる気流に飲まれぬことに必死だったから。
「っちょ! 痛いって!」
「十三秒で着きますから、しっかり掴まっていてくださいね?」
「やっぱり竹! 竹で良いから!」
「それだと風の結界は自分持ちで、私の負担が減る分更に早くなりますよ? どのみち音の壁越えるんですから、張っておかないと身体がバラバラに――」
「いやぁあああああぁっ!」
その日、幻想の空に二つの流れ星が観測された。
* * *
「……着きましたよ」
場所は妖怪山の一角にある、由所正しい神社の境内。大きな鳥居の影に、天狗と神が舞い降りた。文は自身の不機嫌を隠そうともせず、腕の中で半失神した魔界神を放り出す。
「……死ぬかと思った」
地面に投げ出され、しかし腰が抜けたのか、いまだ立ち上がることが出来ない神綺。二人とも甲乙付けがたいほどにぼろぼろであり、二人の全身から立ち上る煙、空気摩擦による焦げ跡が痛ましかった。
「……余計なことをしなければ、迅速確実安全な旅をお約束しましたのに」
「だってしょうがないじゃない! 怖いものは怖いのよ!」
二人が守矢神社に到着したのは、文が飛び立ってから一分後。神綺にとっては永遠の様に長い六十秒であったろう。
文の時計が狂ったのは、パニックを起こした神綺が、文の加速に割り込んで死に物狂いの減速をかけたためである。そしてもちろん、自分の速さに自信のある文は、無視して加速をしようとして……さらに恐慌状態に陥った神綺は、三対六枚の翼まで開放してエアブレーキを掛け出した。
如何に文が早くとも、神綺が本気で掛けたブレーキを引き摺るのは容易ではない。二人は意地になって加速と減速を繰り返し、それでも決して手は離さず、結果気圧や摩擦に対する防御が疎かになってしまった。
これほどダメージを受けようと、表面いつもと変わらないところが、この二人の実力を消極的に証明していたかもしれない。
「此処が、異世界の神のお家なのね」
「ええ。妖怪山の新たな名所、守矢神社です」
「……狭いのねぇ」
「それでも博麗神社に比べれば、倍以上の広さですよ」
「ふーん……やっぱり八百万も神様がいると、お家も小さくしないといけないのね。住宅事情が厳しいわ」
神とは思えぬほど所帯じみた感想を述べる神綺に、文は首を傾げていた。
「神綺さんのお住まいは、如何ほどなんですか?」
「仕事場兼ねてるけど、この五十倍は広いわよ」
「……ひょっとして、魔界はとても裕福なところなんですか?」
「暮らしていると不便もあるけど、外からは魔法のメッカって呼ばれる程の技術はあるのよ」
「ふむ、そうなると……」
神綺の言葉に頷き、なにやら思案し始めた文。
「……さーて、どうやって入ろうかなぁ」
神綺が神の自負に相応しい登場演出に悩んでいると、文はその両手を握って真剣な目で話し出した。
「……神綺さん、いえお母様!」
「はい?」
「アリスさんを私にください」
「……おい」
早くも神綺の財産を、我が物にしようと画策する鴉天狗。その行動力はいっそ清々しいと感じるほどだが、かかっているのが娘の幸せとあれば神綺としても甘くなれない。
「そういう軟派な所が、椛ちゃんに嫌われる理由の一つなんじゃないかしら?」
「いいえ、私は真剣に魔界の財産を狙っているのです。軽い気持ちなど微塵もありません」
「それが真剣って態度?」
「そして椛は真剣に私のお気になのです。この目をご覧ください」
軽薄な内容と裏腹な文の眼力に、神綺は思わず顔をそらす。
「……怖いから顔を近づけないで」
「はい。相互理解を深めるためには、話し合いが何よりも重要ですよ。今度、貴女の取材をさせてください」
「……いやだなぁ」
笑おうとして失敗し、頬を引き攣らせた魔界神。文は神綺の小指に自分のそれを絡めて結ぶ。約束である。
「さて」
神綺は再び境内を見渡すと、其処は閑散としており誰かの姿は見えない。生き物といえば上空を飛ぶ数羽の鴉と、手水舎の前にいる蛙のみ。最も、境内に誰かいた場合は、これほど騒いでしまえば間違いなく気づかれただろうが。
「誰もいないのねぇ」
「この時間ですと、巫女殿と神様は揃って布教活動に出ていらっしゃるのかもしれません」
「え? 留守なの」
「ええ、ですがご安心を。実は天狗の噂なんですが……」
此処で文は一つ言葉を区切り、意味ありげな視線を神綺に送る。察した神綺は、文の口元に耳を寄せてその言葉の続きを待った。
「実はこの神社にはもう一人、正体不明の神が祭られているとか……」
「あー! 蛙さんこっちに来た! 可愛い~」
「って聞いてるんですか神綺さん」
「待って待って、蛙さんがいて……」
「小さい子どもですか貴女は……ともかく、この神社のご神体……八坂神奈子はこの神社には住んでいません。彼女はこの山それ自体を住処にしているのです」
「神様なのに住んでないの?」
「はい。神社の神が神社に住んでいないとは不自然です。別の場所に祭られているということもあるかもしれませんが、彼女は此処最近に神社ごと現れた神ですから。別の場所に本体があるとは考えにくい」
「……せーかい」
「つまり、八坂神奈子の他にもこの神社には祭り神があり、その神がいたせいで八坂の神は神社に住むことが出来なかったのではないか……というわけです」
「……今何か言わなかった?」
「極々普通に語りましたよ?」
文の解説を聞く中で、何か違和感を覚えた神綺である。しかしそれよりも気になることがあり、結局は深く考えず、文に対して向き直る。
「要するに、その真相を知るために私を使ってくれたのね」
「はい。貴女は神です。此処に連れてきて大事になったら咎められるかもしれませんが、いざとなったら貴女に逆らえなかった理由など、幾らでも後付出来ますから」
「聡い子ねぇ」
文の計算は、神綺にとって不快なものではなかった。ダシに使われていることに思うところも無いではないが、神綺はこの手の扱いには慣れている。」
「何処が狙い目か……」
二人は一瞬目を合わせ、次いで文はある方向を指差した。そちらに視線を向けた神綺は、本殿の脇に立てられた社務所に気が付く。
「よし、行きましょう」
「あ、ちゃんと御参りしてからね」
二人は堂々と鳥居を潜り、手水舎で穢れを洗い流して本殿の前に辿り着く。かしわでを打ち、二拝二拍手一拝の基本で礼拝をした後、二人は社務所の前に集まった。
「何を祈ったんですか?」
「家内安全。そっちは?」
「商売繁盛。これに尽きます」
それぞれの性格を良く現した願いである。
文がこっそり恋愛成就も願っていたことを、神綺は知らない。
「さて、どう行きますか……」
文が腕を組んだとき、背後から物騒な声が掛けられる。
「私に任せて。こんなあばら家、すぐにさら地にして見せるから」
「いや、私が行くわ。隠密行動は自信があるの。蛙の足は音無しよ」
「お二人とも、まずは堂々と客を装い……二人ぃ!?」
その不自然さに身震いし、咄嗟に文が振り返る。最初に掛けられた声は、本日の相棒である魔界神のもの。では、もう片方は……?
「やっほー」
『カエル!?』
それは神綺の後ろに鎮座した、立派な雨蛙の声だった。
文はそれが先ほどの蛙であると、直感的に悟る。今の季節は冬であり、本来ならば、蛙は冬眠の時期である。文はお喋りに夢中で、その不自然に気づかなかった自分を恥じた。神綺が蛙を見つけた時点で、不審を持つべきだったのだ。
「へぇー。幻想郷って蛙さんがおしゃべりするのねぇ」
「普通の蛙はしませんよ。というか、離れてください危ないですから」
文はふらふらと蛙に寄ろうとする神綺を、抱えるようにして引き離す。
もっとも、危険物扱いされた蛙の方は、そのことを全く気にもせず、二人の客に挨拶した。
「おいでませ! 我が守矢神社へ!」
威勢の良い歓待を受けながら、文と神綺は顔を見合わせる。二人はそれなりに長い時を生き、やはりそれなりの人生経験を持っているが、掌サイズの蛙に歓待されるのは初めてだった。
「貴女が、この神社のご神体でいらっしゃいますか?」
「……そう、ある時はカラスに狙われる薄幸のカエル!」
蛙の身体が燐光に包まれ、光の中から現れたのは一人の少女。
「そして又ある時は弾幕を解する可憐な少女!」
金色の髪に奇妙な目玉の帽子を乗せ、ディフォルメされた蛙をあしらった衣装に身を包む。
「更に! 帽子のミシャグジ様とは世を忍ぶ仮の姿」
それは本人の低い身長と相まって、幼げな雰囲気を強調していた。
「さあさ! 良くぞ参られた旅人よ。妾がこの、守矢神社の真なる祭り神。洩矢諏訪子なるぞ」
「えっと、頭が高い?」
「平伏したほうがいいですか?」
「その辺は適当に」
満足そうに笑いながら手を振る諏訪子に、神綺は早くも好感を持った。神にしても人にしても妖怪にしても、気さくで良く笑う者と親しくしたい神綺である。
神綺は諏訪子の元に跪き、その手を取って口付ける。
「あわ?」
「始めまして洩矢様。わたくし、魔界より参りました唯一神、名を神綺と申します。お友達の押し売りに参りました」
「うむ、苦しゅうない。面をあげい」
「はは!」
ノリノリな神様二人を、苦笑して見守る文。彼女はとりあえず、刃傷沙汰には発展しなさそうなことを喜んだ。諏訪子は随分あっさりと、取材に応じてくれそうでもあったし。
「しっかし洩矢様なんて仰々しいね。お友達なら相応の呼び方ってあるじゃない?」
「じゃあ、ケロちゃん!」
「ケロくないもん!」
急速に親交を深める神二人。諏訪子は裏手で神綺に突っ込み。神綺は諏訪子の頭を撫でようとし……謎の帽子に見つめられ、思わず一歩退いた。
「生きてる?」
「おう! もうミシャグジ様が懐くとは……流石魔界の邪神様。カリスマが違うねぇ」
「邪神じゃないもん!」
地味に気にしている事柄に触れられ、目じりに涙を浮かべて抗議する魔界神。文はそんな神綺を制し、今度は自分が問いかける。
「始めまして洩矢様……」
「諏訪子」
「……諏訪子様。私は山の鴉天狗、射命丸文と申します。しがない新聞記者をやっておりまして」
「知ってる。ウチの新聞お宅のだし」
「ご購読、ありがとうございます。それで、本日はこの神社のもう一人の神……貴女の取材に参りました。お引き受けいただけますか?」
「いいよ」
気さくな神の態度に、文は安堵の息を吐く。とりあえず今回は、強硬手段をとらずに済みそうである。それはそれで、ある種の落胆を感じもしたが。
「ねぇねぇケロちゃん」
「なぁにシンちゃん」
ケロちゃんについて突っ込むことは諦めた諏訪子。
最早訂正は不可能だった。
「貴女この寒いのに、蛙になって何してたの?」
「良くぞ聞いてくれたわ! これには聞くも涙語るも涙の愛憎劇があるんだよ……」
文は再び始まった会話を聞き、しばらく自分のメモに集中することにする。この質問は文がしたかったことでもあるし、この二人のフリートークに任せておけば、それなりの情報を自然に釣れると判断した。
「あれはつい先日のことだった……蛙の神たる私は、この世界の同胞達と親交を深めに出ていたの。蛙の姿で」
「冬眠しないの? その前に起きてる蛙が他にもいたの?」
「確かに寒かった! だが同胞達が、全裸で! 寒風吹き荒ぶ湖に生きているというのに、神たる私が、服などという! ぬるま湯に浸かっていて良いものか!? 断固否!」
「……」
神綺と文は顔を見合わせ、変身時の服の有無について、突っ込むことを諦めた。
妙に裸を強調する娘である。寒空の下で乾布摩擦でも始めそうな蛙であった。
「皆、必死に生きていた。冬将軍にめげもせず、次なる春の到来に希望を持ち、数ヶ月に及ぶ長き眠りの準備に勤しんでいるところだったわ!」
諏訪子の頬が上気し、普段あまり良くない顔色に、僅かばかりの精気が宿る。諏訪子は小さな手のひらを握り締め、
「わたしは思った。遠い故郷の仲間にその数こそは及ばぬものの、この地に住まう逞しい仲間達と共にあらば、我らは新たな理想郷に辿り着けると……!」
天に向って高々と突き上た。その拍子に神綺の顎を綺麗に捉え、足が三寸宙に浮く。
声にならない悲鳴を上げて、悶絶した神綺がのたうった。衝撃自体は神綺のハートフルボディを貫くには足らないが、アッパーのついでに舌を噛んでしまったのは不運としか言いようが無い。
文は自分の周囲を這い回り、生きた雑巾と化した神綺を踏みつけて、当面の静寂を確保した。
「だがしかし! 私は見てしまったの……幻想を統べるタナトスを……暗い水底よりも尚冷たく、異を唱えることすら許さぬ圧倒的な力を持って、我らが同胞を選定する狂気の女王を……」
その時の恐怖が、そして同胞を救えなかった怒りが、諏訪子の小さな身体を絶望という名の鎖で絡め取る。
膝を突いた諏訪子。その横で、文に踏まれていた神綺は、反撃として首を支点に倒立して足を跳ね上げた。闇雲に振った足は文の手からメモ帳を跳ね飛ばし、怒った文は神綺の足を捉えると、自慢の美脚を絡めて四の字固めに移行した。
「水面を写したような、美しくも冷たい蒼い髪……氷結させた氷柱を、まるで僕のように翼に備え、無慈悲な無垢で、私の同胞を次々と氷付けにしていった女王! その時わたっ、わたし……はっ……」
諏訪子はその双眸に涙を浮かべ、それでも零れ落ちることだけは必死にこらえる。そうすることにより、自らの罪を決して忘れぬよう、その身に焼き付けるために。
一方、神綺は足をロックされる寸前で振りほどき、逆に文の背後に回り、首筋を左腕でホールドしたまま右腕を巻いて締め上げる。これこそ魔界式チョークスリーパー……別名、神の抱擁である。一見普通の締め技だが、必殺の右で締め上げることにより、通常の五倍の速さで死神を迎える荒業である。
圧倒的な不利の中で、文は神綺の技が決まる前に首を跳ね上げ、その顔面に後頭部を叩き付ける。
「わたしは! 怖くて動けなかった! そしてその恐怖は、やがてわたしを本当に凍りつかせた。女王の微笑みに魅入られたわたしは全身が凍て付き、そして意識を失くしたわ……神たるこの身が、なんたる無様!」
自噴に身体を震わせる諏訪子。その激情は残念ながら、誰の耳にも届かずに寒空の彼方へ解け消えた。
文は神綺の腕が緩んだ隙に脱出しようとした。しかし神綺は急所を打たれた事を全く構わず、そのまま文の首を締めあげる。このとき文は完全に失念していた。今自分を捉えた女神は、天狗の脚力から繰り出されたヤクザキックをまともに受けて、平然としていた化け物だということを。
「何が起こったのか、わたしには良く解らなかった。気がついたとき……わたしは同胞達に助けられ、湖の畔に寝かされていたわ。そこでわたしはようやく、自分が助かった事を、そして、多くの同胞の命が失われた事を知ったのよ」
会心の笑みを浮かべ、神綺は文を愛という名の力技で落としにかかる。文は苦痛に遠のく意識を気力で繋ぎ、河童の技術力の粋を結集して作らせた宝具……ブンヤの魂、シャープペンシルを神綺の腕に突き刺した。
「同胞達はわたしに言った! これは儀式なのだと。女王の氷棺は絶対の死。だが! その死の先を行くことが出来る強者のみが、この地で生存を許され、新世界へと導く勇者となる事が出来るのだと!」
神綺は腕に感じた痛みに、一瞬腕の力が緩む。それでほどかれる事は無いが、文に対して希望を与える刹那であった。
―――効いている!
殴る蹴るには強くとも、嫌がらせのようなこの手の攻撃は、流石に神綺も辛いらしい。
文は既に青を通りこしてどす黒い顔になりながら、最後の力を振り絞ってシャーペンの頭を強く押す。その効果は絶大だった。まるでパイルバンカーの如く打ち込まれたシャー芯に、神綺は悲鳴を上げて文の首を開放する。
その隙に、文は今度こそ地を転がるように神綺の懐から脱出した。神綺は瞳に涙を浮かべ、黒い点のついた腕を擦りながら文を睨みつける。
「蛙の生涯は険しい。天敵の目を掻い潜り、少ない餌を奪い合い、多くの兄弟の中からふるいに掛けられ、そして生き残った強者が、冬を越す資格を得られるの。だけど、そんなツワモノ達をして、女王の選別を耐える者は三人に一人と言われているわ!」
咳き込みながらも振り向いて、文は神綺を捕食者の瞳で観察する。
一瞬の膠着。
流動する闘志。
二人は同時に地を蹴ると、互いの手が届く位置で急停止し、ノーガードの打撃戦に突入した。
「それを知ったとき……わたしが受けた感動と戦慄は、諏訪大戦を凌ぐほど強烈なものだったわ。そして思い知ったの。今まで自分がどれ程怠惰に支配され、ぬるま湯に浸かって生きてきたか! 仲間達の一部はアレほどの苦行を耐え、己を磨き立派に生きているというのに、わたしはなんて甘かったのか! 世界はこんなに広いのかと!」
文は口元に嗜虐の微笑を湛えつつ、神綺のこめかみを蹴り抜いた。神綺も拳で応戦するが、文は上体を巧みに振って、神綺の打撃を回避する。神の右腕は全てにおいて強打であり、フルスイングのモーションは、文にとって非常に楽な見切りであった。焦れた神綺が再び掴もうと踏み込んだとき、文はカウンターで前蹴りを入れ、相手の身体を突き放す。前ベクトルを強制的に止められ、反動で息を詰らせる神綺の頬に、再び文の爪先が叩き込まれた。
片足で立ち、もう一本の足のみ用い、一歩も動かずに神綺を圧倒する文。観客がいないことが、文には些か不満であった。
「わたしは第二の人生で、もう一度自分を鍛えることに決めたのよ! 手始めにまず、あの大空に舞う天敵が一……憎らしくも神社を餌場にしている大鴉共をやっつけるの! 蛙の姿でおびき寄せ、悠長に狩りに来たあんチクショウを逆に狩り、わたしはもっと強くなる! 私は女王の洗礼を生き残った、なればこそ! わたしはあの時死んだ同胞達が誇れるように、もっと……え?」
諏訪子はこの時、ようやく二人が全く話を聞かず、喧嘩など始めたことに気がついた。そして二人が自分を挟み、丁度中間に立ったことに。
「ちぇすと!」
「遅すぎます」
その場の空気を風に換えて、必殺の右が牙を剥き――そんな神綺の拳に被せる様に、文の右足が振り抜かれる。
「んぎょえ!?」
「っぐ!」
「……」
シュールな光景が展開された。頭に血が上った神綺は、文に至る前に置かれた諏訪子の顔に拳を叩き込み、その間隙に、文は余裕を持って神綺の側頭部を蹴り飛ばす。
糸が切れた人形のように崩れ落ちる土着神。
仰け反るものの、踏み堪えて持ち直す魔界神。
口の端を笑みの形に吊り上げる鴉天狗。
「無関係のお友達を巻き込むなんて、鬼畜の所業ですね邪神様♪」
「誘導したのは貴女でしょ!」
「ええ。盾になってくれればなぁとは思いました。が、殴ったのは貴女ですよ。これはもう間違いなく」
「悪気が無かったって言うのなら、ケロちゃんから足を除けなさいよ!」
「これは失礼。倒れている女の子を見ると、つい……ね?」
無意識に、倒れた諏訪子を踏んでいた文。神綺に言われ、しぶしぶと足を除けてゆく。
「さっきから頭ばっかり蹴って来て! 見えてるのよ色々と!」
「セクハラですね完璧に。訴えていいですかお母様」
「自分で見せてるんじゃない! それと、何よお母様って! アリスちゃんに手を出したら許さないから!」
「恋愛は当人の自由ですよ。お互い子どもではありませんし」
「アリスちゃんは私の子どもよ!」
「過干渉は嫌われますよ? 身に覚えってありません?」
「……ああ、一つ解ったわ」
「ほう?」
「貴女が椛ちゃんに嫌われる理由。過干渉ってのはありそうね」
「……記憶しておきましょう」
文が再び風を切り、神綺との距離を詰めてくる。待ちに徹さず、自分から圧力を掛けてくる文に、神綺は内心で舌打ちする。対応する時間を渡さない文。速度差を生かし、激しい出入りを繰り返して神綺の意識を揺さぶった。
「ちょこまかと!」
「よく言われます」
文は神綺を軸に左に回り、散発的に足を飛ばして嬲り者にする。神綺が下がれば追いかけて蹴り、意を決して踏み込めば、カウンターで蹴って突き放す。その間に空いた両の手は、神綺の姿を写真に収める程に余裕である。
その時……
「……人のぉ」
守矢神社の境内に、気圧の低い声が響く。諏訪子のおびき寄せた鴉はその異変に怯え、神社付近に住まう動物達は、不吉な予感に逃げてゆく。
立ち上がった諏訪子の様子に気付かぬまま、死闘を演じる神綺達。膝を喰らって顎を浮かされ、間髪入れずに繰り出された水面蹴りで、足を刈り取られる神綺。倒れた神を再び踏もうと、文の足が掲げられ……その瞬間、神綺が伸ばした左手が、文の軸足を掴んだ。
「あ!?」
「取ったぁ!」
文の足首を捕まえ、今度こそ離すまいと懐深く抱き込んだ神綺。
重力系の魔法で縛るか、それともシンプルにへし折るか?
神綺が脳裏に一通りの鳥肉料理のレシピを思い浮かべたとき、彼女はようやく諏訪子に気付く。蒼い闘気をその身に纏い、頭に乗せたミシャグジ様とシンクロしてゆく土着神。鬼気迫るその形相に、神綺の背筋が凍りつく。その隙に文が逃げるが、最早追っている暇はない。
「……話をぉ!」
諏訪子の小さな拳が握られ、真っ赤に燃えた炎が灯る。実際には炎のような神気が。
神綺はその背後に、猛々しく吼える蛙を幻視した。
あんまり怖くは無かったが。
「聞きなさい!」
諏訪子の拳が大地を射抜き、巨大な地震が山を揺らす。その反動で神綺の座る大地が凄まじい勢いで噴出し、魔界の神は本日二度目の空中散歩を楽しんだ。
「奥義ぃ! 天地神明拳!」
「なんで私だけぇーー!?」
吹き上がる諏訪子の神通力と境内の石畳。それらにもみくちゃにされながら、神綺は冬の空に散った。
「……私は悪いことしてませんから」
少なくとも、諏訪子の認知の中では。舞い上がった神綺を見上げる文は、空を飾った汚い花火に肩を竦めた。
* * *
暮れの寒空の中を飛ぶ、紅白模様の人影一つ。彼女の名前は、博麗霊夢。その日、霊夢が守矢神社を訪れたのは、分社についての相談を行う為であった。妖怪山に入り込み、出会った妖怪を気侭にシバキ、憎き同業者たる東風谷早苗が取り仕切る神社へ向う。
風に流されるような頼りない飛行ながら、着実に神社への距離を縮めて行く。その最中、霊夢は尋常ならざる神気を感じて足を止める。警戒したまま周囲を見渡すと、少女は足元の山が揺れていることに気がついた。
「地震?」
霊夢が呟いたとき、目的地たる守矢神社より地柱が吹き上がるのが見て取れた。
「何よあれ?」
霊夢が瞳を凝らしたとき、吹き上がる土砂の中に見覚えのある人影があった。真紅のローブを身に纏い、遠めにも解るほど個性的な翼を広げ、必死に土砂から逃げようとしているのは……
「神綺?」
かつて魔界のゲートが繋がったとき、霊夢は其処で神と対峙したことがあった。案の定弾幕合戦をやった後、紆余曲折を経て一応の和解をした二人。その時、神綺は相互不可侵を約束したはずだった。結局、魔界人は自由に世界を行き来する術を身につけ、あの時の約束はあまり意味の無いものになる。それでも、神綺は魔界側でそれなりに働きかけたのか、幻想郷で魔界人が暴れるという事は無かった。
溜息と共に懐かしい過去を振り返る霊夢。それは決して愉快な記憶ではなかったが。
「何してるのかしらあいつ」
神綺がこちらにいることに、霊夢は感慨など覚えないが、不可侵を約束した当人がこちらにいるというのはどうか?
霊夢は再び空を行く。元々そう離れていた訳ではないため、すぐに神社の境内に辿り着いた。
「うわぁ……」
諏訪子の奥義で崩壊した境内の様子は、巫女たる霊夢が眩暈を起こしそうなほど凄惨だった。以前来たときは見事な作りであった石畳は荒れ果て、早苗が毎日丁寧に手入れをしているであろう手水舎は崩れ、復旧の苦労が偲ばれる。
「神々の愛した楽園も、今は昔の物語。ただ荒れ果てたる廃墟には、過ぎし日の夢が住まうのみ。大勢が千の時を継いだ信仰の要……それとて、唯一人が一日にして無に帰す事が可能なり」
頭を掻き、自己への戒めとして、心にこの景色を焼き付ける霊夢。自分の所の神様に、住処たる神社を壊されたのでは目も当てられない。早苗は諏訪子のことをよく知らないらしく、霊夢自身も自分の神社がどんな神を祭ってあるのかは知らないが。
「あいつは神じゃないもんね」
博麗神社には自称祟り神たる悪霊がいるが、霊夢は彼女を神とは認めていないのである。
瓦礫を避け、半壊した本殿を素通りし、とりあえず無傷であった社務所の玄関に辿り着いた霊夢。
「ごめんください」
「あ、どうぞ」
霊夢の声に答えたのは早苗のものではなかったが、こちらの声にも聞き覚えがあった。
「速いブンヤ射命丸?」
「あれ、霊夢さんではないですか。最近は素晴らしい美脚文ちゃんですよ」
社務所の戸が開けられ、中から現れた鴉天狗。射命丸文は霊夢に対し、人好きのする笑みを持って出迎えた。
「すいませんねぇ霊夢さん。今ちょっと、立て込んでおりまして、家主に替わって応対させていただきました」
「嗚呼……いいわ。なんとなく分かったから。外の惨状を見れば……」
「一目瞭然ですからねぇ」
肩を竦めて苦笑する文だが、他人事とは思えない霊夢の顔色は悪かった。
「早苗か、神奈子っていない?」
「生憎お二人は布教に出ているみたいですよ」
「ふーん。相変わらずマメなのね」
「霊夢さんは見習うべき所が多いと思いますが?」
「手が届かないものだから、人はそれに魅力を覚えるのよ」
「貴女らしくて結構ですね」
苦笑した文は、霊夢を社務所に招き入れる。霊夢が履物を脱いだとき、反対に文は高下駄を手に取り履きだした。
「あんたは帰るの?」
「また来ますよ。少し野暮用を片付けてきたいのです」
そう言って文が微笑んだとき、霊夢は彼女が手にした鞄に気がついた。
「それ何?」
「ああ、報酬ですよ」
「報酬?」
「はい。神綺さんってご存知ですか?」
「顔くらいは」
「その方と少し取引しまして、報酬をいただいたのです」
「ふーん」
やはり神綺は、此処に来ているらしい。霊夢はそれだけ聞いた後、社務所の居間に向う。背後では文が外に出て、飛び立つ音が聞こえていたが、霊夢の関心は既にこれからの時間つぶしに向けられていた。
「留守か……ま、別に今日会うって約束もしてなかったけど」
同じ巫女なら、自分がヒマなら相手もヒマだろうと考えていた霊夢である。掃除以外にもやることがあったとは、軽いカルチャーショックである。もしくはジェネレーションギャップ。
そう長くも無い廊下を歩き、霊夢はとりあえず居間に向った。其処は障子張りの戸になっており、穢れ無き純白の和紙の壁。霊夢は自分の所と比べ、その財政事情の差に軽く眩暈を覚えるのだった。
「はぁ」
息を吐き、戸に手をかけたその時、霊夢は中から物音がすることに気がついた。消去法で、その相手を洩矢諏訪子だと予想した霊夢。とりあえず時間を潰すネタには困りそうも無いことを、信じてもいない神に感謝した。
「諏訪子いる?」
「おう霊夢、ひさびだねぇ」
居間には霊夢の予想通り、守矢神社の実務担当、洩矢諏訪子の姿がある。予想と少し違ったのは、寒がりな彼女が炬燵から出て、まるで身の丈もありそうな巨大なリュックサックを漁っていたことである。
「何やってるの?」
「いや、お土産の中身見とこうかなって。生物あったら困るからさ」
「へぇ。この神社に来る奴って、お賽銭の他に土産物まで持ってくるの?」
「其処までする奴は珍しいよ」
諏訪子は干し肉を取り出すと、行儀悪く食いついた。極自然な気軽さで差し出された霊夢の手に、同様に干し肉が手渡される。
「今日は特別。私と友達になりに来てくれた、異世界の神様がくれたのよ」
「異世界……やっぱり神綺?」
「知ってる?」
「来るときに見えたから」
二人は干し肉を噛みながら、リュックの中身をのぞきこんでいた。保存の利く食料品、固形燃料や火酒。多少お洒落にも気を使っているであろう、趣味の良い冬着。それは明らかに越冬用の品だった。
「流石シンちゃん。無意味に華美で高いものより、徹底した実用品――貰う人のことを良く考えてる。良いお嫁さんになれるわ」
「……ねぇ諏訪子、これ本当に貰ったの?」
疑問を感じた霊夢は、満面の笑みで友人を褒める諏訪子に問うた。霊夢の違和感は数枚の冬着。
明らかに丈の合わないその服は、本当に諏訪子に贈られたものなのか?
「まだ貰ってないけど……でもこれって、わたしへの手土産でしょ?」
「絶対の自信で断言できる根拠って何処よ?」
「私の神社に来たんだもの。わたしに奉る物に決まってるじゃん」
チーズを齧って、火酒を煽り、更なる物色を続ける諏訪子。
冬着のサイズと、神綺に縁のある者。そして彼女自身がそれを運んで来た事等から、霊夢は事の真相を粗方察す。止める理由も無いので、放っておく事にしたが。
「これだけ在れば結構値が張るわぁ。お返し考えとかないと」
「程々にしときなさいね」
リュックに上半身全てを突っ込んで、諏訪子は感嘆の息を吐く。霊夢のやる気の無い静止など、彼女は全く聞いていなかった。
「良かったら、ちょっと持っていかない? シンちゃんの好意を無為にするのもなんだしさ」
既に十分神綺の想いを蹂躙している土着神。無垢な笑顔に見入られた霊夢は、流石に一瞬考え込んだ。
霊夢はこの荷物の目的地に、おおよそ見当がついている。しかしあくまでこれは予想であり、本当に諏訪子への土産である可能性もある。霊夢の神社は此処ほどに裕福では無く、正直この申し出はありがたかった。
良心と物欲のせめぎあい。そして大方の予想通り、最終的に勝者となったのは物欲だった。
「じゃあ、お言葉に甘えて良い?」
「うん。家も結構溜め込んでるから。今風呂敷持って来る」
諏訪子の背中を見送りつつ、霊夢は目当ての品を定めてゆく。保存の利く食料品に、出来れば火酒。先ほど諏訪子が食い荒らしていたが、まだそれなりの量が手付かずである。
「アリスには悪いけど、こりゃ助かったわ」
霊夢がそう呟いたとき、遠くで廊下を走る騒がしい足音が響いてきた。諏訪子にしては早いと首を傾げた時、居間の障子が勢い良く開け放たれる。
其処にいたのはぼろぼろになったローブの裾を引きずり、涙目で息を切らせた魔界神の姿だった。
諏訪子によって吹き飛ばされた神綺は、今この時まで失神し、社務所の一室に寝かされていた。
「霊夢ちゃん?」
「よ」
「ん?」
片手を上げて挨拶する霊夢に、神綺もつられて手を上げる。
「此処……何処?」
「守矢神社。社務所の居間」
霊夢の返答は簡潔であり、非常に分かりやすいものだが、聞き手に対する配慮を一切しない声だった。それは意味のある音と変わらず、神綺は彼女との交流を諦める。
「はぁ……散々だわ」
とりあえず落ち着こうと、居間の中央にある炬燵に向う神綺。何気なく視線を巡らせると、中身の散乱した荷物。
一瞬の硬直。それが嵐の前の静けさであることを察した霊夢は、神綺が正気に戻る寸前で耳を塞ぐことに成功した。
「あぁあああああああぁあ!?」
神綺の悲鳴が守矢神社に響き渡り、塞いだ耳越しに霊夢の鼓膜を揺さぶった。
「何! 何があったの!?」
悲鳴を聞きつけた諏訪子が、風呂敷を片手に駆けてくる。
「お、シンちゃん起きた? 悪いねこんなに……」
「あぁ――」
「あ?」
奇声を発して座り込む神綺に、首を傾げて見守る諏訪子。打ち所が悪かったかと心配する中、唯一事情を察している霊夢が、神綺の肩に手を置いた。
一方神綺は落胆しても、怒っているわけではない。非常に納得のいかない事態ではあったが、手土産も持たず手ぶらで、少なくとも先ほどまでは赤の他人だった相手の家に押しかけたのは事実である。自分の非を認識し、相手によらず認めてしまえるくらいには、神綺はまともであった。
神綺は肩を落とし、食い荒らされた荷物を見つめる。
「あぁ……アリスちゃんのがぁ……」
「……呼んだ?」
「……え」
神綺は我が耳を疑い振り向いた。幻聴などでは在り得ない、しかし認めることも困難な現実。その視線の先には障子の戸を開け、事態を把握できないが為に、廊下に立ったまま小首を傾げるアリスの姿があった。
「な、何で貴女がこんなところに!?」
「いや……いきなり鴉が家に来て、お母さんが迷子だから迎えに行こうって……」
「あ、いや……そっか」
ややぎこちない親子の会話。
自分でも何を言っているのか、神綺はこの時分かっていない。
神綺はアリスに会いに来た。主目的はそれであり、荷物の運搬は二の次、ありていに言えば理由付け以上の意味は無い。
不幸な食い違いからその理由は失われたが、神綺はこれでも良いと思っていた。娘に会うために来た……そう言い切ることが出来ず、行動に建前をつけるのは自分の弱さだと知っていたから。
それでも神綺は、心理的障壁を乗り越えるのに多少の時間が欲しかった。
「紹介しますねお母様。私の良人、アリスさんです。まもなく挙式の予定ですよ」
面くらい混乱する神綺に文が止めを刺しに行く。
アリスの後ろから響いた声に、一同の視線が集中した。声の主は、射命丸文。自分を射抜く八つの視線に酔いながら、文は静々と居間に入る。
縋るような母の視線に、アリスは苦笑して訂正する。
「気にしないでお母さん。この鴉は虚言癖あるから」
文はアリスの発言を堂々と無視し、座り込む神綺の肩に手をかけ、満面の笑みでのたもうた。
「執筆用品とお薬、そしてアリスさん。確かにいただきましたから」
「ふざけんなぁ!」
「……さらに妄想癖もあり、と」
神綺必殺の右が唸るが、文は余裕で回避する。追って行っても外での喧嘩の焼きまわしになることは明らかなので、神綺は歯軋りすらかみ殺して文を睨む。
「契約不履行の癖に、アリスちゃんへのプレゼント勝手に持っていって!」
「契約違反とは穏やかではありませんね。しっかり働いたつもりですが?」
「私は無傷で解放しろって言った!」
「契約期間中は、私は貴女に傷一つ付けていませんよ? 高速飛行を邪魔したのは貴女ですし、私に踏まれたのは、貴女が其処にいたからですし」
「いただけで踏むってどういうことよ! なんて野蛮な天狗さん!」
「視界をのたうつ神綺さんが鬱陶しかったのですよ。取材の邪魔をしないことが、敵対しない条件です」
「そうじゃ無くったって、人の頭ぽんぽん蹴っ飛ばしておいて報酬だけ持って行くってどういう了見よ!」
「っふ」
文は勝ち誇った笑みを浮かべ、神綺に流し目を送る。
「世の中には、結果だけでなく其処に至るまでの努力にも、報酬が払われるべきだという決まりなのです」
文の戯言を聞きながら、神綺は既に理解した。文は既に荷物を自分のテリトリーに持ち帰っている。或いは椛の見舞いすら、済ませているのかもしれない。
神綺は助力を求めて周囲を見渡すが、霊夢はリュックの物色を再開しており、諏訪子は食べかけの干し肉の征服に忙しかった。
悔しげに肩を震わせる神綺を見かね、ため息をついたのはアリスだった。気構えが出来る前に再会をしてしまったのはアリスの方とて同じだが、彼女は神綺と文のやり取りを見ているうちに、変わらない母の姿に苦笑できる程には落ち着いていた。
「久しぶりねお母さん」
「あ……うん、久しぶり」
「来てくれて、ありがと」
「うん。アリスちゃんも、元気そうでよかった」
立ち上がり、アリスに寄ってその身体を抱きしめる神綺。娘の背は神綺を追い越し、抱き返すアリスに逆に抱きすくめられるのは母の方だった。
「諏訪子、風呂敷貸して」
「あいよ」
「ってちょっと待ちなさい貴女達」
感動的な場面の横で、神綺の荷物の配分を始めた霊夢達。アリスは一旦神綺を離し、霊夢と諏訪子に割ってはいる。
「今の話聞いてなかったの霊夢? それはお母さんから私が、この私が貰ったの。KYも程ほどにしときなさいよ貴女」
「空気は読んだわ。無視することに決めただけで」
「余計性質悪いじゃない」
「それも仕方ないじゃない? 空気読んだってお腹は膨れないの。暖だって取れないの。まだ即身仏になろうって所まで悟ってるわけじゃないし、生き残るためには鷹揚な金持ちのポケットを漁らないといけないのよ」
「……其処まで切迫していたの?」
「試しに家のエンゲル係数測って見なさいよ……色々と目も当てられない悲劇だから」
「……まぁ、其処まで追い詰められているのかと思えば、哀れではあるけど」
アリスは嘆息しつつ引き下がり、それ以上霊夢の邪魔をすることを諦める。これは本来筋違いであり、奪うものより奪われるものの方が、より哀れなのは間違いない。
神綺はその点を指摘するか一瞬迷い、結局アリスの意思を尊重する。子どもがお腹を空かせてはいけない。これは神綺の持論であった。
「冬着は寄越しなさいよ? 貴女のサイズじゃ、一部が非常にゆるいでしょうから」
「失礼な」
やがて諏訪子を含めた三人による、神綺のお土産配分が終わる。
寒さ嫌いの諏訪子は固形燃料一式。食料難の霊夢は酒と保存食。アリスには、神綺自ら見立てた防寒具が配当された。
やはりと言うべきか、一番大きな荷物になったのは霊夢の風呂敷包みだった。
「がめついねぇ」
「お黙り諏訪子。大体あんた達が来なけりゃ、家だって幻想郷唯一の神社として独占市場だったんだから」
「競争相手が来た瞬間に淘汰されるのは、それまでがぬるま湯に溶けてた証拠。弱者は搾取されるんだよ」
「別に、いいんだけどね。あんたらは自爆してくれたし」
「なんで?」
「だってあんたんち盛大にぶっ壊れたじゃない」
「は?」
事態を全く理解していない土着神に、流石の霊夢も少々心にさざ波が立つ。自分がこの神社の巫女であれば、速攻でたたき出して別の神を祭っている。
常の彼女らしからぬ剣呑な思考だが、霊夢にとって境内の破壊はそれだけで生き死にの領域に入る罪なのだ。
いまだ首を傾げて固まる諏訪子の肩に、文の手が添えられる。振り向いたとき、其処にあったゼロ円スマイルが眩しかった。
「先ほど神綺さんを吹き飛ばした時ですよ。ご自分が何をなさったか、胸に手を当てて――」
「あーぅ…やべぇええええぇえええええええ!」
彼女の顔色は冗談の如く変容した。初めは赤く、そして紫を経て青くなり、最終的には病的なまでの白さが残る。
生きたミラーボールと化した土着神は、文と見詰め合ったまま、その表情を無数の激情で染め上げる。
事此処に至り、ようやく自覚を持ってしまった諏訪子は、傍で見ていることすら哀れな程に取り乱した。脂汗と冷や汗を同時に流し、痙攣と見紛うばかりのひきつけを起こし、帽子の中に頭を埋没させて崩れ落ちる。
いつの間にか、諏訪子を囲んで円陣を組んでいる一行。
神は人の運命を弄び、苦しむ様を見て楽しむという。そんな神の中にあり、しかも土着神の頂点にいたという諏訪子の醜態は、四人の目にはこの上なく愉快な見物となっていた
「ヤバイ……神奈子が来るっ。早苗が泣くっ逃げないとぉ!」
「此処以外の何処に行こうってのよあんた?」
「あーうー!?」
諏訪子は幻想郷に来て日が浅く、しかも守矢神社に引き篭もっていた神である。当然こちらに知り合いなど無く、今ここにいる面子が全てといえた。
八方塞がった諏訪子が首を巡らせた時、視界に鮮やかな紅が咲く。其処に天恵を見た諏訪子は、その紅……友となったばかりの魔神のローブに縋りついた。
「シンちゃん助けてぇ」
「うーん……」
腕を組み、神綺は思案顔で唸る。諏訪子を救うことに異存はないが、それが本当に彼女のためか、神綺は自信が持てなかった。諏訪子の家族のことは置くとしても、彼女が今幻想郷を離れる事は、いろいろと面倒である。
「文さんの話だと、貴女は今や妖怪山の神様でしょう? 神社から離れるのはともかく、世界から離れたら不味いんじゃないかなぁ……」
「そりゃそうね」
「此処はもう……」
興味本位から即席の談合を行う五人。その中で、諏訪子を除いた面子の視線が、アリスに向けて集まった。
「な! 何見てるのよ!?」
「ごめんねアリスちゃん。ほとぼりが醒めるまで、ケロちゃんを置いてあげてくれないかな」
「はぁ!?」
「逃走先は極力足が付かない事が条件です。流石に魔界までお連れするわけにはいきませんし、魔法の森というのは妙手かもしれませんね」
「そうね。諏訪子とアリスを結んで考える奴なんてまずいないわ」
「お願いアリスちゃん。ケロちゃんはこっち来て日が浅いし、貴女と同じ移民でもあるわ。彼女と交わることは、きっと貴女にも得るものがあるから……」
複雑な表情のアリス以外で、話はまとまりを見せ始める。アリスとしても霊夢に空気を読めと言った手前、言いたいことは山とあってもごねることが出来なかった。
「ま、しょうがないか。家の掃除くらいやってよね」
「ありがとうございます!」
苦笑して肩を竦めるアリスに諏訪子が高速の土下座を極める。微笑ましい光景が繰り広げられる中、やはり最初に飽きたのは巫女だった。
「話は決まった? じゃあ、私は帰るから」
「チョイ待ち!」
背を向けた霊夢。その左右の肩を、神綺と文がそれぞれ抑える。
「何よあんたら!」
「いやぁ……今霊夢ちゃんに帰られると、不味い予感がひしひしと」
「正解ですよ神綺さん。諏訪子様がいなくなったとき、この神社の方々が真っ先に疑うのは博麗神社ですから」
「別にばらしゃしないわよ!」
「最初は皆そう言うんです。とりあえずご同行願いましょうか」
「……離してくれる?」
霊夢は右肩を掴む文の手に、何気なく左手を添える。
「嫌だとぃ――!?」
文が言いかけた瞬間、霊夢はその手首を捻り上げつつ足を払う。重心をぶらされ、円運動の軌跡に巻き込まれた文の身体は、冗談の様に錐揉み状に回転し、そのまま顔から落とされる。
乾いた空気が爆ぜる音。
あまりにも速やかな無力化だが、次の時間は驚愕ではなく即応によって報われる。
「ケロちゃん!」
文が倒れたのとほぼ同時に、諏訪子の帽子が霊夢の頭に被される。見た目に反して奥が深いミシャグジ様に、霊夢の視界は完全に塞がれた。
「んぅ!?」
「シンちゃん!」
霊夢が一瞬動きを止めたところで、神綺必殺の右ボディが炸裂し、巫女の身体は壊れた繰り人形の如く崩れ落ちた。
一連の攻防を、引き攣った微笑で見守るアリスを他所に、神様二人はハイタッチして互いの健闘を称えあう。
「やったね」
「うん!」
「……梃子摺らせてくれましたね」
「おう文っち。生きてたか」
「もちろんですよ諏訪子様。それにしても……」
文は今だに痺れの残る右腕を擦る。投げ技による墜落の寸前、右手を畳に叩きつけて衝撃を其処に集めた文。ダメージを腕一本に集中させて身体を守った判断は賞賛に値したが、文本人は不機嫌な視線でうつ伏せに倒れた霊夢を睨む。
「取材以外で私の右手を使わせるとは、不愉快なマネをさせてくれましたね」
文はつま先を引っ掛けて霊夢の身体を裏返す。そして仰向けになった所を自慢の美脚で踏みしだき、文は溜飲を下げてゆく。
「おお、文さん大胆!」
「やり過ぎじゃない?」
「これくらいの役得は良いでしょう?」
暢気な年長組みのはしゃぎ様に、一抹の不安を覚えるアリス。
「……霊夢が目覚めたらどうする気よ?」
三人は一瞬動きを止め、しかし何事もなかった様にバカ騒ぎを続行する。その一瞬で、これが現実逃避だと見切ったアリスは、物言わぬ霊夢の身体を抱え上げた。
「さぁ、行くなら早く行きましょう。置いて行くわよ」
一人さっさと歩き出したアリスは、これから霊夢にどうやって言い訳をするか頭を悩ますことになった。
* * *
諏訪子の盛大な破壊行為のために守矢神社から旅立った一行は、一路魔法の森に向かう。先頭を行くのは、霊夢を抱えたアリス。その両脇を神綺と諏訪子の神様コンビが固め、最後尾を文が行く。
夜逃げであった。
「なんでこんなことに……」
「ぼやかないのアリスちゃん。貴女が紡いだ縁は巡り、いつかきっと、貴女自身を助けてくれる。私は、そんな絆を多く持って欲しいのよ」
「そうですよアリスさん。貴女は外来組みの先輩として、後継に道を示す義務があります」
「よろしくね!」
「……なんなのかしらね、この釈然としない苛立ちは」
軽口を叩きつつも、四人は幻想の空を翔ける。霊夢はいまだ目を覚まさず、その時までに本格的な拘束をしておかないと危険である。そう結論した四人は、目的地たるアリスの家へ急ぐのだった。
逃避行という状況からか、時限爆弾を抱えたためか、先頭を行くアリスの速度が、少しずつ速くなる。
「……っ」
「文さん?」
その異変に気付いたのは早翔けの中にあって、常に全員の状態を見ていた神綺である。このメンバーの中では最も飛ぶことに慣れているはずの文が、集団から徐々に遅れだしたのだ。
神綺が声をかけたとき、文は一瞬顔を歪めてやや引き攣った笑みを見せる。
「どうなさいましたお母様?」
「第一声からそのジョーク? 本題から話を遠ざけたいのね」
肩を竦める魔界神は前を行く二人に合図を送る。アリスと諏訪子はすぐに気付き、文が抗議をする前に神綺の元に集まった。
繕うことが不可能になったとき、文の顔から笑みが消える。変わりに彼女に浮かぶのは、薄っすらと額を覆う脂汗と、血の気の薄い顔色だった。
気遣わしげな視線の中で、文は肩を竦めようとし……右肩を襲った激痛に眉をしかめた。
「上手く殺したつもりだったんですけどね」
「あの受身?」
「ええ」
霊夢の投げを受けたとき、文は宙空で身体が妙にぶれるのを感じていた。その為足から着地することも出来ず、受身のタイミングもずらされて、衝撃を間接に溜め込んでしまった。過負荷の掛かった肩は外れる事こそなかったものの、遊びのような違和感を文にもたらすことになったのだ。
文は神綺と視線を合わせ、互いに一つ頷いた。
「すいません皆さん。私は一度戻ります」
「うん。お大事に」
「御疲れ文っち!」
「諏訪子様もご壮健で」
文は住処である妖怪山方面を振り返る。
「ああそうだ、アリスさん」
「なに?」
「今度、デートしましょう?」
「ちょっと!」
憤慨する神綺を他所に、アリスは思わず噴出した。母親の前で口説かれるのは、彼女は初めてだったから。
「考えておくわ」
「色良いお返事を期待してます」
ややぎこちなく左手を振り、鴉天狗は飛び去った。漆黒の羽が舞い散り、程なくしてその姿も見えなくなる。
「さぁ、行きましょう」
「おー」
「ちょっと待ちなさいアリスちゃん! 私はこの交際だけは――」
「大丈夫よお母さん」
心配性の母に苦笑するアリス。神綺としても、ここで時間をつぶす訳にはいかない以上、娘の言葉を信じる以外にない。
再び空の帰路についたアリスの視界に、魔法の森が見えてきた。
「もうすぐよ」
アリスは若干高度を落とし、二人の神もそれに習う。
やがて森の外周まで到着した一行は、大地に降り立ち歩きだす。そしてすぐに目印たる人形の立てかけた木を見つけると、アリスは急いで人形を回収する。
ついでに落としそうになった霊夢を背負いなおし、アリスは森に踏み入った。
そんな娘の背中を見つめ、うんざりとため息を吐いた母。
「……また森」
「ぼやかないの。すぐに終わるんだから」
それだけ言うと、アリスは口の中で呪文を唱え、自宅に張った結界を解除して行く。
「不気味な森だねぇ」
「向こう側では珍しい?」
「うん。というか無い」
周囲をきょときょと見渡して、諏訪子がアリスについてゆく。先頭を歩くアリスの姿が、神綺の目には頼もしい。今アリスの視界には自分はおらず、先行く者の背中はない。そんな光景を当たり前のように受け入れ、堂々と前に進んでゆく娘の姿。
「大きくなったんだね……」
そんな神綺の呟きは、誰の耳にも届かぬまま、森の木々の中に消えていった。
やがて木々が切れ始め、木漏れ日の中からアリスの家が現れる。
「ねぇケロちゃん」
「なに?」
「本当に、逃げたりしてよかったの?」
「良いんじゃないの? 私あの神社それ自体に未練ってないし」
「そうなの?」
「うん。名義上の変更がされてないだけで、あそこはもう神奈子の社よ。私はこっちにカエルのフリーダムを創りに来たんだもん」
こっちの方が楽しそうだと、屈託なく笑う諏訪子。その笑みに影がないことが、神綺の心を軽くした。
「あいつも早苗も好きだけど、縁があれば離れていても繋がれるって。偶には離れてみるのも良い。違う形の家族に触れるのも良い。あれも戯れ、これも戯れ……なればね」
「そっか。じゃあ戯れついでに、アリスちゃんの事をよろしくね」
「任されよ」
二人は小指を絡めて切った。約束である。
「着いたわよ」
肩越しに振り向いたアリスは、涼しげな微笑で二人を招く。それなりに広い庭を横切り、飾り気はないものの、重厚な玄関扉へ足を向ける。
神綺にすればようやく目的地へ着いた訳で、その感動もひとしおだった。
「嗚呼、見知ったお家ってやっぱり良いわ」
「お疲れ様」
苦笑したアリスは、腕の中の眠り姫を神綺に預ける。
神綺が霊夢を背負ったとき、アリスは鍵を取り出しドアノブの前に立つ。その瞬間、内側から勢い良く開け放たれた木造りのドアが、したたかにアリスの顔面を打ち据え吹き飛ばした。
「んぶ!?」
「母……来た?」
アリス亭にいた先客。純白のワンピースに、揃いのリボンを青い髪にあしらった少女。背中には天使を模した翼を持ち、眠たげな視線で一同を見渡す。
「御疲れ様。マイちゃん」
「お帰りなさい。母」
マイと呼ばれた少女は神綺に駆け寄り、その胸に顔を埋める。
「おーい、生きてるかぁ?」
「……なんなのよぉ」
強打した顔面を押さえつつ、アリスは何とか立ち上がる。足元が多少ふらついているが、衝突時の凄まじい吹き飛び方を思えば、むしろ丈夫と言えたかもしれない。
「夢子ちゃんのお使い?」
「そう。迎えに来たの」
マイは神綺に絡みつき、甘えるように抱きついた。神綺はマイを抱き返したかったが、霊夢の為にそれも適わず、短いが深刻な葛藤に身悶えた。
「ちょっとマイ!」
諏訪子の手を借り、復帰したアリスは、再会した親子に割り込んだ。
「あんた人の顔面へこませといて何か言うことは無いわけ!?」
「ありす……邪魔」
「居たって何よ! 此処は私の家じゃない!」
「まぁま、喧嘩しないの二人とも」
神綺は娘の間に入り、言い合う二人を宥めてゆく。
「マイちゃん。何かいうことは?」
「……ごめんなさい」
母に促され、しぶしぶ謝るマイ。それはアリスではなく、神綺に向けられた謝罪であることは明白であり、顔を赤くしたアリスが慰められることは無かったが。
不承不承ながら謝罪を受け入れ、引き下がったアリス。彼女は一つ指を鳴らすと、玄関から無数の人形が現れる。命令を忠実にこなす繰り人形。二、三の指示を与えると、数体掛りで霊夢の身体を抱え、薄暗い廊下の奥へと消えていった。
「……霊夢ちゃんに何をする気?」
「うふふ、イイコトよ」
暗い笑みで答えた娘に、一抹の不安を覚えた母である。不安げな神綺の横顔を、落ち始めた夕日が赤く照らす。
神綺はローブの裾を引かれ、振り向いた其処にはマイの笑み。
「……帰ろ?」
「あ、ちょっと……ケロちゃん」
「え?」
神綺が右手を一振りすると、手の中に現れた旅行かばん。ルイズによって用意され、守矢神社に置き忘れた荷物である。
「これ餞別のお泊りセット。一人分しかないけれど新品だから」
「悪いねぇ」
「いいの。結局使う暇無かったし」
バッグを諏訪子に手渡し、そのままマイの手を取る神綺。
「それじゃ、二人とも仲良くね」
「ええ。元気でねお母さん」
「またねシンちゃん」
神綺はマイと共に歩き出し、魔界へと続くゲートへ向う。その二人の背中が見えなくなるまで見送ったアリスと諏訪子は、今度は顔を見合わせて笑いあった。
「よろしく諏訪子」
「おいっす先輩」
こちらも二人手を繋ぎ、仲良く家の中に消えていく。夕暮れ迫る魔法の森に、奇妙な友情が築かれた。
~エピローグ
夕闇暮れる守矢神社――
呆然と佇む影二つ。神社というのは御幣があったかもしれない。其処は神社の名を借りた、廃墟。もしくは跡地。早苗の膝は崩れ落ち、その惨状を虚ろな瞳で眺めていた。
「ケロ子おぉおおおおオォおおぉおおお!!」
神奈子の怒号は天を裂き、妖怪山に神風を巻き起こす。
宵闇迫る万魔宮――
執務室に監禁された魔界神は、デスクを埋め尽くす大量の始末書に沈んでいた。
「約束どおり、通常業務は全て上げて起きましたよ?」
「……夢子ちゃんは?」
「寝てますよ。七徹してたんですから当然でしょう?」
「うぅ」
「お母様は鍛えてますから、大丈夫ですよね」
「ううぅっ」
「終わるまで小休止以外ありませんからそのつもりで」
「嫌ぁあああぁアアアァアアアアッ!!」
魔界の神は籠の鳥。豪奢な牢獄に墜ちた神綺の悲鳴は、分厚い壁に遮られた。
闇夜に更ける魔法の森――
アリス亭のリビングで二人の喧嘩が繰り広げられる。
「何で掃除した部屋が逆に散らかったりしてるのよ! あんた本当にケロいわね!」
「ケロく無いもん!」
「会ったときからケロいなとは思ってたけど、此処までケロいなんて思わなかったわ!」
「ケロく無いっつってんだろ!」
「うるさいケロ、黙れケロ! ケロはケロらしく土に還れ!」
「ケロくねぇえええぇえええええええっ!!」
一日にして三柱の悲鳴が響き渡ったこの日より、神々の黄昏が始まった。諏訪の神は異世界の魔神と手を結び、その娘の下へ亡命。
八坂の神は天狗の協力を得て、諏訪の神の行方を突き止めるものの、諏訪の神は既に魔界へ渡った後であった。
諏訪の神に執着する八坂の神は、魔界へ諏訪子返還の要求を出したが、魔界側はこれを黙殺。
この対応を不服とした八坂の神は、己が巫女と天狗、そして魔神の娘と手を結び、諏訪子奪還のため挙兵した……
――後の世に、『第二次怪綺談』もしくは『諏訪争覇戦』と謡われる長き戦乱の、これはほんの序章であった――
END
色々詰め込まれすぎてて、ややまとまりのないお話という感じはしましたが、
ちんき様もあやややもケロちゃんたちも良いキャラで、読んでて楽しかったです
おやつさんの作品が輝くのは最愛っぽい藍さまや美鈴が格闘するから面白いのであって、
そうでないキャラが格闘技使っても陰惨になるだけだと思うのですが。
文の性格もらしいといえばらしいのですが、どちらかというと嫌悪感をおぼえました。
カオスまかせではなく、次はプロットが確たる作品を期待します。
文、お前が最大の元凶だw
でも霊夢が・・・w
格闘描写って読んだだけで把握できない場合があるからなぁ。
いや、でも面白かったです。
来年もよろしく。
神綺様に諏訪子様、その他もろもろのキャラたちが良い味を出していますね!
文章のまとまりやら詰め込み過ぎとかは、どうも自分阿呆のようで判断ができません。
格闘が繰り広げられていた場面はとても楽しめました。
面白いの一言に尽きます。ありがとうございました。
「神綺様! 神綺様は何処へおわす!?」の方がバランスがいいかな?
こういう場面、気にならない話では気にならず笑って読めるたりするんだけど、話によってはだめなんだよなあ。
この話では気になりました。まあ、個人的な事ですが。
横道に逸れているようで神綺の冒険というメインは一本筋があり、読んでいて心地よかったです。不思議な収束の仕方だったと思います。
個人的には女王様気質のあややが、あまりにも巧く逃げた所に惚れましたw
まあ、それ以外は面白かったです。それにしても、魔界神相手に良い勝負する文ちゃんすげえ
それを「架空の話」として処理できない自分が未熟なのか……
正直に言えば不快感しか残りませんでした。
しかしチルノ凄いw
神をも恐れぬその諸行w
普通にすごく面白かったです。
後半がちょっとやっつけだったのがちょっと残念。霊夢の扱いとか。
でも最期まで読んじゃいます、おやつさんの作品好きなんで。
それだけに今回は残念でした。
読んでて不快感の方が先に出てきてしまいました。
評価が2つに分かれそうですが、私は受け付けない側でした。
あと神綺が不憫すぐる……
文も椛の仇を取ろうとしたり、アリスを連れてきたりと良いやつだと思ったんだけど。
ただ、最後の五行が蛇足というか、唐突な印象は受けた。
そうか、やっぱり踏むのは趣味か。高下駄だもんなあ。
ところでミニスカで足技連打は些かはしたないと思いますよ文さん。いいぞ、もっとやれ。
しかし魔法でなくパワータイプの神綺さまとはなかなかレアですわね。そしてフツーにつええ。霊夢を一発で昏倒させる右なんて、さすが邪神ですわ。
あと「ケロくないもん!」噴いた。
文こええ。
神綺が登場する作は稀に見られますが、パワータイプの神綺は本邦初ではないでしょうか。
しかしそれもまたあり。恐るべしアリス母、もとい邪神。
そこはかとなくカリスマもかもしてる辺りさすがラスボス。
そして「ケロくないもん!」噴いた。
携帯でアクセスするものじゃないですね。
二重カキコ、申し訳ありません。
取材してないときはこんな感じ、じゃなかったか?
話は続くのか?続いちゃうのか!?
ケロの話を聞け!(バ○ラ風に)
とりあえずケロちゃんには同情票を入れておきますw
黒あややならもっと表に出さない腹黒風でよかったのでは?
頭が切れて自分の不利益にならない限りギリギリまで八方美人を振り撒いておくというのが(自分のですが)あややのイメージだったので…記者だしね
折角の東方界なんだから肉体言語じゃなくて華麗な弾幕で勝負するとか。
不満も不快もありませんでしたがせっかくなので一言。
終始独善的で受動性に欠ける文。
愚鈍な諏訪子。
どこか淡白なアリス。
あくまで無関心な霊夢。
そして身勝手から魔界を抜け出しながらも最後まで反省の見えない神綺。
出会いがあるにも関わらずお互いが手前勝手で噛み合わない。
実はこれ、本家東方での前口上の会話も一緒。お互いの主張は大抵がすれ違い、後は弾幕が物を言う。
しかしながら東方シリーズには必ずエピローグがある。弾幕中には窺うことしかできなかった相手の真意が垣間見え、それが少女達に深みを与える。
この作品が批判を受けるのは殺伐としているからでも、ましては射命丸が黒いからでもなく、人物に層を与える描写が抜けていたからではないか。
言うなれば心を必要としない肉体だけの愛、そんなお話に思えた。
この作品で一番被害を被っているのは神綺でしょう。
文や諏訪子に何度も痛めつけられ、諏訪子や霊夢には娘を気遣って持参した手土産を略奪され、最後には始末書の山に埋もれています。
確かに神綺は身勝手な人物ではあるのですが、彼女が受けた『制裁』は、私には目に余るものと感じました。
一方で、対照的なのが文です。
彼女は物質・精神の両面共に作中で最も得をしているにもかかわらず、受けた被害は取って付けたように右肩を痛めただけ(奪った神綺の薬で治療すれば済むことを考えれば、被害とすらいえないかもしれません)。
優しく包容力のある良い人(神)として描かれている神綺があれだけ酷い目に遭っているのに、自己の欲望を満たすことを第一に好き放題振る舞っている文に与えられた制裁が、たったのこれだけ。
勧善懲悪、因果応報を徹するべきとは言いませんが、どうにも罪と罰のバランスが取れていないのでは?
そして、読者が最も感情移入するであろうキャラが恐らく神綺であることを考えれば、読了後に「不快」という感想が出るのも無理からぬことと思います。
おやつさんは「彼女(文)が一番原作色が強いキャラにしたつもりでした」とおっしゃられていますけど、問題は素材ではなく調理の仕方にあったのではないでしょうか?
私も文は好きなキャラなのですが、この作品は読み終えて色々と納得できませんでした。
作者からのメッセージに「私は文が大活躍する話が書きたかっただけだ」とあったなら、いっそ清々しく感じたでしょうけど(笑)。
単に、私が青いだけかもしれません。
確かに弾幕勝負じゃなくて肉体言語なバトルだったのは改めて読むと弾幕のほうがよかったかなぁ、と思いましたが読んでいる最中はただのめりこんでいたので気になりませんでしたし。
なんだかんだでツンデレアリスが多い中原作っぽいアリスが読めて良かったです。
私は面白かったですし、こういう作品大好きですよ。
続きなどがあれば読んでみたいとも思いました。