こだわりとは、つまるところ選択肢を狭める行為である。
こだわる当人にとっては何かしらの意味があるのだが、傍からは愚かしく見えることも少なくない。
なぜわざわざそのように己を縛るのか。その理由は様々だ。
庭師の少女の例を見てみよう。
花が散って裸となった桜の木を前にして、しかつめらしく眉を寄せ、腕を組んで唸る彼女。どの枝を切るべきか悩んでいるのだが、知らぬ者からすれば右を切ろうが左を切ろうが大差無い。実のところ彼女自身もそう思っているのだが、それでは庭師としては情けないと考えて、わからなくても、師からの教えや経験を総動員して自分なりに答えを出そうとしているのである。
結局は適当に切ってしまうことになるのだが、そのこだわりは、庭師を名乗る者としての矜持と言える。
森に住む魔法使いの少女はどうか。
彼女は、真夏だろうが大雨だろうが、外出する時は常に同じ装いである。白のブラウス、黒のベストに黒のスカート、白のエプロンに黒い幅広帽子。半袖だったり長袖だったり、マフラーを巻いたりコートを羽織ったりと、ある程度の幅はあるものの、その基本は変わらない。
先の夏は近年稀に見る猛暑で、当然ながら彼女の服装は見るにも着るにも暑苦しく、彼女は滝のように汗を流し、犬のように舌を出して喘いだ。だが、それでも頑なにスタイルを崩そうとはしなかった。
なぜか。そこには、彼女なりに考える「魔法使いとはかくあるべし」というこだわりがあるからである。彼女にとって、魔法使いとはこういう格好で箒で空を飛ぶものなのだ。
そのこだわりは信念であり美学である。一本気な彼女らしいこだわりと言えよう。
さて、こだわりを持つ幻想郷の面々の中でも、一風変わったこだわりをもつ者といえば、プリズムリバー姉妹の次女、メルラン・プリズムリバーだろう。
何かといえば、ぐるぐるである。
渦巻き、螺旋、呼び名は何でもかまわないが、要するに彼女のこだわりはそういった形である。
とにかく、好きなのだ。ぐるぐるが。
彼女が得意とする金管楽器は言うに及ばず、ケーキといえばロールケーキ、パンならコロネがお気に入り、ソフトクリームも大好きで、棒付きキャンディは渦巻き模様しか認めない。かたつむりの渦巻きも可愛いが、アンモナイトの渦巻きも捨てがたい。つむじ風を見れば顔が綻び、川が増水して水が逆巻く様はいつまでも見飽きない。
メルランにとっては、ぐるぐるであるかどうかが大変に重要なことで、味であったり色であったり性能であったりといったことは二の次なのだった。当然ながら、彼女の基準はたいていの者にとっては理解し難く、その奇矯な振る舞いばかりがとかく目に付く。
メルランの自室は、彼女のこだわりの結実である。
古今東西、彼女は目に付いたぐるぐるを蒐集しており、いまや彼女の部屋は足の踏み場も無い有様だった。
プリズムリバー姉妹が住む屋敷は、かつての権勢をしのばせる格調高い家具、調度品が今なお多く残る。
例えば、リリカの部屋にあるチェストは、当時名のある職人が手がけた特注品で、プリズムリバー家の徴が前面に精緻に彫り込まれている。その職人はとうの昔にこの世を去ったが、かの作品は今なお外の世界では愛され続けて止まない。ゆえに、その価値、伝説級の家具である。
また、ルナサの部屋に架かる素描は、さる高名な画家がプリズムリバー家に滞在したおり、宿賃代わりに残していったものだ。世界に二つとない、いまや外の世界では幻の品として語り継がれる好事家垂涎の一幅である。
他にも、やれこの絨毯はどこそこの国から購ったものだ、やれこの旗はいついつ国王より賜りしものだ、など枚挙にいとまがないのだが、メルランの自室だけは、元伯爵家令嬢の住まいとしてはいささか混沌に過ぎた。無論、彼女の部屋にも仰々しい由来の品は多くあるのだが、それ以上に彼女がかき集めたガラクタがあふれかえる。知る者が見れば、森に住む魔法使い、霧雨魔理沙の家との類似が見出せるだろう。
ある日のことである。
メルランは森の外れにある道具屋で一つの楽器を手に入れた。それは、たいそう古びたチューバで、ところどころには傷が目立ち、バルブが壊れてまともに音が鳴らない品だった。
この閉じられた世界、幻想郷では、こうした楽器は貴重である。というのも、この手の楽器は人里で作るには技術も材料も足りず、外の世界から漂着するのを待つ他に入手するすべがないからだった。まともな物なら大変に高価となるはずで、本来ならメルランに手が出せるものではない。
しかし、今回の楽器はあまりにも状態が悪く、音が出ないともなればただのガラクタである。道具屋の主人がこれでは売れぬと悩んでいたところにメルランが居合わせて、安値で買えたのだった。
それまでメルランはチューバを持っていなかったので、彼女は大変にこれが気に入った。
なんといっても、大きい。姉妹の中ではもっとも上背のある彼女だが、それでも抱えるのがしんどいほどに大きい。その上に、ぐるぐる度も高いのだから申し分ない。多少の重さすらも嬉しいメルランである。
普段、メルランはトランペットを愛用するが、そもそも彼女は楽器によらず多種多様な管楽器の音が出せる能力を有した。楽器は彼女の力の触媒に過ぎない。それでもトランペットを持ち歩くのは、その手ごろな大きさと、高らかな音域が性に合っているからである。
しかし、そこはやはり気分の問題だ。大きい楽器はそれだけで人目を惹く。加えてぐるぐる度も高ければ良い音だって出るに違いない。
そして、チューバは低音の楽器である。プリズムリバー楽団では、これまで低音が映える曲はレパートリーに無かった。だが、このチューバがその流れを変えるきっかけとなるかもしれない。
さて、そのためにはこれを直さなければならないのだが、メルランはそれについては自信があった。
メルランとて演奏家である以上、一応、楽器の構造については把握している。簡単な修理や調整ならこれまでもやってきたのだ。チューバを触ったことは無いが、どうせ元から壊れている楽器である。自ら修理を試しても悪くはなるまい。
そういったわけで、重さに難儀しながらも、メルランはチューバを屋敷に持ち帰った。
どっこいせ、と部屋の床に下ろし、早速工具箱を開けて修理に取り掛かる。
そのチューバは、おそらくは相当に長く使われてきたものなのだろう。メルランが見る限り、何回も手を入れた跡がある。かなり愛されていたに違いなかった。
しかし、こういった壊れ方をするということは、多分、このチューバとその使い手自身に何事か起こったのだろう。事故か、あるいは更なる災難か。
いずれにしろ、このチューバは外の世界で忘れ去られて幻想となった。一人の音楽家に添い遂げて、そして殉じた。だから、楽器としてはとっくに生を終えている。
だが、今、この楽器はメルランの前にある。これほどまでに愛された楽器ならば、はたしてどれほどの良い音が出るのか。メルランはそれが聞きたくて堪らない。
なるほど、あなたは確かに外の世界では命を終えた。でも、あなたはこうして私に巡り会った。ならば、これは運命。私があなたの新しい主となる運命なのだ。だから、あなたに新しい命を吹き込んであげましょう!
俄然、盛り上がるメルランである。修理にも熱が入るというものだった。
その甲斐あってか、あちらこちらを直してみて、とりあえずなんとか音が出るようになった。
しかし、早速試しで吹いてみたものの、音がこもっていてよろしくなかった。音程もおかしい。吹き方が悪いのかと何回かやってみるが、音はいっかな改善しなかった。
やはり、楽器としては少々傷みすぎているのか。なんとかこの楽器に蘇って欲しいメルランだったが、本職でない彼女にとっては、これ以上は難しかった。
どうしたものかと思案することしばし。よし、とメルランは頷いた。
これはもう、徹底的に改造してしまおう。
もっとぐるぐる度が高くなったら、音が良くなるに違いない。
チューバそのものとしては、これ以上手を加えても音が良くなりそうもないが、ぐるぐる度を高めて新しい楽器として生まれ変われば、きっと素晴らしい音が出る。メルランは、そう信じた。
そして、彼女の自室には選りすぐりのぐるぐるが山とあるのだ。改造の材料には事欠かない。これだけお膳立てが揃っていて、何もしないということがあるだろうか? 否。あるわけがない!
普段は移り気なメルランだが、こういう時は類稀な集中力を発揮する。元々ノリやすい性質(たち)なのである。そして、一度弾みがつけば、あとはどこまでもいつまでも突っ走れるパワフルさが、彼女の売りでもある。
こうして、彼女はひたすら作業に没頭した。あれも良いなぁ、これも面白そう、と思いつくまま気の向くまま、手を動かし続けて早半日。
暮れなずむ夕日が彼女の満面の笑みを朱に染めた頃、彼女の妹、リリカ・プリズムリバーが扉を開けた。夕食が出来たことを知らせに来たのである。
「メル姉ー、メルラン姉さーん。ルナ姉がご飯できたって……」
そこで、リリカは見た。
扉の向こう側で、いかにも一仕事を終えた風の汗を拭う彼女の姉。
そして、その前に鎮座する『それ』。
リリカは即座に扉を閉めてくるりと回れ右をした。以降、足早にその場を離れ、そのまま屋敷を出て己に出せる全力で飛び立つ。その間、一切後ろは振り返らなかった。
機を見るに敏なリリカである。姉の性格も、これから何が起こるのかもよく承知している。今夜の一食を失うも止むなし。そういう判断だった。
さて、メルランはといえば、そんなリリカには目もくれなかった。一度走り出したら止まらない彼女である。まして、今まさに完成した己の努力の成果を見ずして、呑気に夕食なぞ摂れるわけもない。
一度だけ、一度だけ試してみよう。
そう思いつつ、メルランは頬は赤らめ、期待に目を輝かせて『それ』に手を伸ばした。
見よ。この精緻なぜんまい。雄々しく突き出すスプリング。くねり曲がるチューブ。無造作かつ大胆に打ち込まれた螺子の砲列。脇から伸びるのは自慢の法螺貝。斜めに力強く飛び出す工作用ドリル。上に貼り付いたアンモナイトの化石は太古の風格。天辺の蚊取り線香は小粋なアクセント。外界から流れ着いたコイルと碍子はぴかぴかに磨き上げられて誇らしげに並び、夏の縁日で買った吹流し十数本が孔雀の羽のごとく広がっていて、壮観にして華麗と言わざるを得ない。
メルラン渾身の力作である。
楽器としては禍々しすぎるフォルムを持った元・チューバのマウスピースに、メルランはその桜色の唇を近づける。すう、と腹式呼吸一回。厳かに、吹いた。
どるるるるん。
楽器らしからぬ排気音が鳴った。
む、とメルランは眉を寄せた。さすがの彼女も予想外である。マウスピースから口を離さぬままに、目の前でびびびびと揺れるスプリングを見る。
失敗かしら、とは考えない。ポジティブな彼女にとって、これは些細な障害である。彼女が心血注いだぐるぐるの集大成。さすれば良い音が出るのは自明である。すなわち、今のは自分の力が及ばなかったのだろう。そう考えた。
にやりと不敵に笑うメルラン。さすがは我が楽器。道具でありながら主人を選ぶと言うのね。良いでしょう。ならば受けて立つ。名乗るがよい。そう、まだ名が無いのね。では、私が名付けよう。偉大なる渦の王者、サイクロン。サイクロンよ。やあやあ、いざ参るぞサイクロン。
ノリやすいのである。
放っておくとどんどんテンションが高くなるメルランである。その彼女が、そのノリのままに、今度は全力で思い切り、吹いた。
ところで、メルランはプリズムリバー姉妹の中で最も強大なパワーの持ち主である。その彼女の全力が、彼女が名付けたところのサイクロンに吹き込まれた時、そこには劇的な変化が生じた。
力強く、高らかに鳴るエキゾーストノート。震えるスプリング。蠕動するチューブ。法螺貝から蒸気が噴き出し、勇ましくドリルが回る。コイルからは青白い電光が走り抜け、メルランのパワーで圧縮された空気が出口を求めて真鍮の管を暴れ回り、ずらりと広がった吹流しが、くるくると伸びながらぴゅーと気の抜ける音を鳴らしたその時。
ずどん。
喇叭の開口部から、大砲の音がした。
比喩ではない。それは大砲そのものだった。幾重ものぐるぐるによって十二分に練られたメルランのエネルギーが、まさに大砲のごとき弾速で射ち出されたのであった。
威力は大砲以上だった。
二階の彼女の部屋の壁は、紙同然に容易くちぎれ吹き飛んだ。彼女の蒐集物も、プリズムリバー家の逸品奇品も、等しく秋の空へ踊った。螺旋のエネルギーはそのままぎゅるぎゅると空を暴れ、即席の竜巻となって周囲を巻き込んだ。
折悪しく、その瞬間に長姉ルナサ・プリズムリバーが扉を開けた。なかなか階下に下りてこない妹達に、ついにしびれを切らして呼びにきたのである。
この時のメルランの部屋は、密閉していたところを強圧で壁を吹っ飛ばした状態だった。部屋の中は一時的に、だが急激な減圧が起こり、普段から気圧の低いルナサはあっさりとこれに飲み込まれた。彼女は、扉を開けた時の姿勢のままに扉もろとも吸い込まれ、そのまま部屋の穴を抜けて秋の空に放り出され、荒れ狂う暴風の中を木の葉のようにくるくると舞った。
この荒れ狂う風の旋律こそが、まさしく蘇ったチューバの音だった。
重々しく響きつつ、それでいて流麗で、艶のある音だった。
それは、誰が聞いても魅了されるに違いない。それほどに美しい響きだった。これこそは、メルランが望んだ音である。
しかし、メルランにその音は届かなかった。
サイクロン発射の衝撃で弾き飛ばされ、後頭部を打ち付けて昏倒していたからである。
それから三時間後のことである。
日が沈み、星が瞬く下、ルナサは言った。
「……確かに、良い音色だったね……」
長く旋風に翻弄されたため、ルナサの服は散々に乱れ、たいそう野趣にあふれたファッションとなった。白い肌を大胆に曝すその様は、彼女のファンクラブ会員が見れば歓びに打たれて三途を渡るに違いない。
「……うん、本当に良い音だった。私は管楽器は専門じゃないけど、あれは珠玉だね。きっとあの楽器の元の持ち主は、それは素晴らしい演奏をしたんだろうな……」
淡々と、抑揚の無いその声は、普段のルナサよりもずっと低く、地獄に通じていた。
「……まったく、あんまり良い音だったから、今でも奮えが止まらないよ……!」
そう言いながら震える彼女の拳。こめかみにはくっきりと青筋が浮かんでいた。薄く口の端を持ち上げたその顔は、なまじ整っているだけに凄絶である。
一方、昏倒から醒めたメルランは、ルナサの言葉に対して何も返せなかった。返したくても返せない事情がある。
遥か上空、雲の上である。がんじがらめに縛られて幽明結界の柱に吊るされているのだった。猿轡をかませられて、喋ることもままならない。今のメルランは、激昂したルナサを前にして、ただ慄くのみである。
ルナサは、視線が泳ぐ妹へ、にっこりと微笑みかけた。
「……猛省」
その夜、幻想郷の人々は、空から流れるもの悲しいトランペットの調べを幽かに聞いた。
このことがあって少しは懲りたメルランだったが、それでも彼女のぐるぐるへの情熱が萎むことはなかった。
そんな彼女が、熱望しつつも手に入らないぐるぐるがある。
自分の姿である。
彼女はぐるぐるが好きだったが、彼女の容姿にはそのぐるぐるを付けることができないのだった。
メルランは騒霊である。その姿は、遠い昔に一人の少女が願った夢の具現だ。それゆえに、彼女は幾星霜を経ても変わることなく娘の姿を保っていたが、それはまた同時に、その姿以外には成れぬということでもあった。
以前のことだ。メルランは西行寺幽々子の亡霊頭巾が欲しくてたまらない時があった。
その頭巾の赤いぐるぐる模様は、たいそうメルランの心を乱し、それを思って演奏にも熱が入らず、ついには矢も盾もたまらず幽々子へ譲ってくれないかと頼み込んだ。
彼女の願いに対して、幽々子は困惑した顔で首を小さく傾けた。
「ごめんなさい。それはできないわ」
メルランとしても、簡単に譲ってもらえるとは思っていない。どれだけの対価が必要なのか。自分に購えるものなら多少高くてもなんとかするつもりだった。だが、幽々子はゆるゆると首を振って言った。
「お金の問題じゃないの。貴女は貴女自身をこれのために賭けられるかしら。貴女はそこまでして、これを身に着けたいのかしら」
そして、幽々子は諄々(じゅんじゅん)とメルランに説いた。
この頭巾は亡霊の証であること。その証を身に着けることは、すなわち亡者の列に並ぶに等しいこと。ましてや、騒霊である彼女がその身を変えんとすれば、騒霊の意味を失い、メルランはこの世界から欠片一つ残さず消えてしまうであろうということ。
根っからポジティブで、物事が失敗することを全く考えないメルランだったが、その彼女をして思いとどまらせるのは流石幽々子といえた。メルランは渋々ながら頭巾を諦め、成り行きを見守っていた妖夢は、そっと無言でメルランの茶を足した。
メルランはそれからもどうにかできぬかと、ぐるぐるを身に着けようと試したことがある。
しかし、そもそも姿を固定されている身では、髪型一つ飾り一つすら自由にならなかった。髪はどれだけ固めても半日すら保たず、飾りを着ければその部分が酷く痛んで耐えられるものではない。
彼女が身に着けられる物は、彼女と起源を同じくする幻想のみだった。プリズムリバーの館にあるものなら問題はない。だが、彼女が新しく買い求めた物や拾い集めた物は駄目だった。無論、それはメルランだけのことではなく、ルナサやリリカも同じである。
長い年月を経て、彼女ら姉妹が経験的に学んだことがある。
すなわち、彼女らはプリズムリバー家そのものの幻想なのだ、ということ。
彼女らが暮らす洋館も、その中にある調度品の数々も、全ては彼女ら姉妹と同じなのだ。
先日、メルランが部屋に開けた大穴も、数日も経てば何事もなかったかのように塞がった。つまり、彼女達が騒霊として生身を持たぬことと同様に、館すらもまたこの世に確として存在しえぬ物であり、また同じ姿を保とうとするということなのだろう。
館の穴を塞ぐほどに、その力は強い。それでもなお無理に姿を変えようとすれば、なるほど幽々子の言のとおり、大事が起こることは明らかだった。
だが、できぬとわかってこそ、なお焦がれるものがある。
こうして、彼女は晴らせぬ懊悩を秘めて、日々を過ごしてきたのだった。
そんな彼女が、トランペットを片手に一人出掛けた。
玲瓏な月も眩しい夜のことである。
こういった月の綺麗な夜、メルランは時折出掛けてソロコンサートを開いた。月にあてられてか、彼女の裡の昂ぶりがどうにも抑えきれぬ時があるのだった。要するにガス抜きである。
コンサートの場は、陰鬱な墓場が主である。メルランが奏でる音色は、基本底抜けに明るく、聞いた者をことごとく陽気にするが、時に行き過ぎて聴衆が狂乱に呑まれる危険があった。だが、元から陰鬱な墓場では、彼女の陽気と差し引いて盛り上がりが良い按配となるのだ。また、彼女のメジャーコードぶっちぎりのメロディは、普段無聊をかこつ幽霊達には受けが良かった。そういう理由である。
この日も、メルランはいつもの墓場を目指して森を歩いた。
既に紅葉の盛りは過ぎて、多くの葉が落ちる頃である。メルランが歩く道にも枯れ葉が厚く積もり、踏む靴裏はがさがさと騒がしくも快い。隙間が開いた木々の枝を月光が縫い、そこかしこに濃い影を作った。メルランは天の月を仰いで、その鋭利な円い淵に指をつるりと滑らせる。もちろん、月に触れることは叶わないが、その戯れは湧き立つメルランの心をいくらか宥めた。
だが、それも束の間。彼女の渇望はふとした拍子に浮かび上がる。
指で月に大きなぐるぐるを描きながら、彼女は普段抑え込んでいる願いを思い出すのだ。
自ら手にすることのできない夢。
ただそれだけを、純粋に求めて焦がれた。
ああ、もし自分ではぐるぐるに近づけないというならば、せめてぐるぐるを身に着けた者に会いたい。そう。飾りなんかじゃなくて、自然に、優美にぐるぐると一になった理想のぐるぐるに――――。
いた。
メルランは、出会ったのだ。
それは、精緻な金細工を思わせた。
あるいは、月の光を融かして梳き上げれば、このような色になるだろうか。
この煌々とした月夜において、なお輝く金色(こんじき)の糸。それが、整然と乱れなく自然な螺旋を描いて揺れる。
その優美な曲線こそが、まさしくメルランが求めた理想だった。
月の光の妖精、ルナチャイルド。メルランは知らなかったが、それが彼女が出会った理想の名前である。
ルナチャイルドもまた、月にいざなわれるようにして外へ出た。月光を存在の基とするルナは、こうした晴れ夜には一人散策を楽しむのである。
そんな彼女がメルランに出会ったのは、まったくの偶然だった。
互いに初対面であったが、抱く感情は完全にすれ違った。
メルランは、最初のうちは息をすることすら忘れた。
これは夢か幻か。俄かには信じがたい理想との邂逅は、数拍の間、メルランの動きを縛った。
一方、ルナチャイルドは別の理由で固まった。
ルナはもともと臆病で人見知りの気があった。普段話をする相手は妖精仲間のサニーやスターだけで、人間や妖怪達と面と向かうのは苦手なのだ。
ましてや、こういった夜に一人で誰かと出会うという事態は、ルナのとっては第一級の警戒警報だった。危険に突然出くわした子猫と同じで、思考すらできない状態である。
こうして、互いに無言のまま時が過ぎる。
先に硬直が解けたのはメルランだった。
衝撃から醒めた後に続くのは、全身に満ちて溢れる歓喜。その喜びを表す言葉を、メルランはかつて知らない。ただ、その黄金色の螺旋が揺れる様を見るだけで、彼女の裡には熱く高まるうねりが波頭を散らし、そのしぶきが彼女の顔(かんばせ)に花を咲かせた。
また、そのうねりは彼女の所以を強く揺り動かした。そう、メルラン・プリズムリバーは騒霊であり音楽家。その喜び、言葉で伝えられずとも、代わる音ならば!
パラパパー!
夜のしじまをトランペットが貫く。
彼女の歓びをこれでもかと込めたその音色は、まさしくメルランそのものだった。
驚いたのはルナチャイルドである。
初対面の相手が、自分を見ながらだらしなく頬を緩め、やおらトランペットを取り出して吹き鳴らすのである。それは、びびらない方がおかしい。
図らずも、その音がルナの呪縛を解いた。ルナはメルランに背をむけて、しゃにむに走り出す。その様は、さながら弾かれたビリヤードの玉に似て、受動的に足を動かした結果に過ぎない。己が走っていることにルナが気付くのは、その数秒後のことである。
メルランはといえば、ひとしきり歓喜が衝き動かすままに即興で吹きまくり、息を継いだところで、ようやくルナがいないことに気付いた。
ああ、なんてこと!
メルランの顔に影が差したが、それは一瞬のこと。ただでさえアッパーテンションの彼女は、理想のぐるぐるを見たがために、もはや止まるところを知らない。すぐさま、待って待ってと追いかけ始めた。
無論、騒霊たるもの、このような状況で普通に声をかけるなどするはずもない。大きく息を吸い込み、右手指はぴたりとピストンに、左手はしっかと楽器を支え、月にも届けと吹き叫ぶ。
パララパパラパーッ!
メルラン・プリズムリバー、ソロライブの開演であった。
冬近づき、冷たさを増す夜気を、トランペットが震わせる。
始めにその音を聞きつけたのは、森に住む妖怪達だった。普段は闇に潜んで静かに過ごす彼らだが、その生活を騒々しい音楽がぶち壊した。当初は面食らい、次には怒りをあらわにして、こんな夜中にどこのどいつだと息を巻く妖怪達。しかし、そのあまりにも楽しげな音色を聞くうちに知らず頬が緩んで、やがては続きを聞きたさにぞろぞろと集まり始めた。
森を根城とする妖精達も気付いた。この時間、たいていの妖精は眠りについていたのだが、目覚まし時計もかくやという響きが彼女らを叩き起こした。
当然、妖精達も怒りに頬を膨らませて、誰よ何よ喧しいわねと音楽の鳴る方向を睨んでいたのだが、そもそも陽気で騒々しい彼女らがこの能天気なまでに賑やかな音楽を嫌いになるはずもない。寝起きで文句をぶちぶちと垂れながらも、一匹二匹と音に惹かれて歩き出す。
幽霊達もまた、その音を聞いて身を奮わせた。彼らの中にはメルランのファンも多い。彼岸を過ぎてやや元気の無い彼らだったが、メルランのライブとあらば冷たき身すらも熱くなる。メルランの音を求めて、ふらふらそろそろと宙を泳いだ。
こうして、夜更けにもかかわらず、多くの聴衆がメルランの音楽を求めた。
ところが、通常のライブと違って、演奏者のメルランが移動している。自然、聴く側もそれを追うこととなった。
逃げるルナチャイルド。追うメルラン。さらにそれを追う聴衆達。
奇妙な追いかけっことなった。
無論、先頭を切るルナは必死である。
走りながらちらりと後ろを振り返れば、トランペット女一人だったはずが、いつの間にやら大集団になっているのである。
トランペット女は相変わらず恍惚とした表情でトランペットを吹きまくり、潤んだ目でルナを見ながら走ってくる。更にその後ろは、妖怪やら妖精やら幽霊やらの有象無象がこれまた楽しげな表情で追っかけてくるのだ。
立ち止まれるわけがなかった。
だから、ルナは走る。走るしかない。恐怖と緊張で顔を強張らせ、大きな瞳からはぼろぼろと大粒の涙をこぼしながらも、前へ進むしかなかった。
メルランはといえば、その視線はルナの髪にしか向いていなかった。
なにしろ、その美しい完璧な螺旋がルナが走る度にふわふわと動くのだ。どれほどに激しく揺れても、その形は寸毫も綻びなかった。これほどにかそけき姿でありながら、なんと強くしなやかであることか!
ただそれに近づきたくて、ただそれに触れたくて、ただそれだけの思いで彼女は走っているに過ぎなかった。彼女の後ろから大勢が追いかけていることには、気付きもしなかった。
それだけでなく、そもそもメルランは目の前の理想の螺旋が何故自分から逃げているのかすらわかっていなかった。
待って待ってという彼女の思いと、ぐるぐるを求める至上の愛は、高まるままにその全てが音楽に変わった。
メルランの後ろに続く彼らは、その音楽を聴くためだけに走った。
ただでさえ心浮き立つ躁気味の音色は、今宵絶好調で最高にハイだった。
元来妖怪も妖精も幽霊でさえもお祭り好きの幻想郷である。この音楽を聴いて落ち着いてなどいられるか、と俄然湧き立ち足踏み鳴らす。ここでノらずしてなんとする。各所で起こる手拍子に皆の心は一つ。走る足はスキップを踏み、宙を飛ぶものはアクロバットを披露する。たまたま呑んでいて音楽を聴いた連中は手に酒と肴を持って加わり、まずは一献と銚子を傾ければ、酔いが回る頭にメルランのハイビートが大変によく効いた。
騒ぎが大きくなれば、便乗する輩も現れる。
どこから出てきたか、桃色のワンピースを着た妖怪兎が箱を持って飛び回り、聴衆達からライブ料を徴収した。もちろん兎の出任せなのだがこの弁舌が実に巧みで、お客さんツイてるね今ならこのS席チケット買うと気になるあの娘の生写真が付いてくるよ、などと囁かれれば、ただでさえ躁状態の彼らは鼻息荒く銭を投じた。時には銭ではなくそこらの幽霊やら妖精やらが箱に突っ込まれたりしたが、そこは祭ゆえの無礼講である。
天狗の娘は、スクープだスクープだとそこかしこでストロボを焚いた。明敏な彼女はことの起こりが先頭の妖精にあることを察していたが、そこはジャーナリズム不干渉の鉄則。美味しいネタにごっつぁんですと心の内で手を合わせ、必死の形相で走るルナチャイルドを何枚も撮った。
また、この騒ぎに何事かと神社の巫女も現れた。喧騒が神社にまで届いて、すわ異変かと起き出してきたのである。しかし、実際目の前にあるのはただの馬鹿騒ぎで、近くを飛ぶ妖精を捕まえて話を聞いても、この妖精自身が事態をよくわかっていない有様。なんだかなぁ、とやる気のない声を洩らしたところに、屋台が走っているのが見えた。
暖簾をくぐってみれば、そこには黒白の魔法使いと七色の魔法使い。手を上げて挨拶し、店主の夜雀を見ると、音楽に合わせて歌うのに懸命である。
はて、するとこの屋台は誰が引っ張ってるのかしらと前を見ると、酔いどれ小鬼が串を片手に阿呆笑いをしていた。
「どういうことよ」
「知らん」
巫女の問いに、霧雨魔理沙は短く応えた。隣のアリスも首を横に振る。
魔理沙が酒盃を勧めた。霊夢は、なるほど、と息を吐いて彼女の隣に座る。
そこで、はて、この椅子はどうして動いてるのかしら、と足元を見ると、酔いどれ小鬼のさらに小さい分身達が馬鹿笑いをしていた。
こうして、騒ぎは誰も収めるもの無く、拡大する一方だった。
ルナチャイルドには限界が近づいていた。元々足の遅い彼女がこれまで逃げ切れたのは、ひとつにはメルランの足も遅かったこと。それに加えて、メルランが演奏しながらだったためだった。しかし、そもそも走ることに慣れないルナが、長く走れるはずもない。
ぜいぜいと肩で息をして、もう駄目、と天を仰いだところに、円い月を見た。
そこで、ルナに天啓が下る。
飛べばいいじゃない。
今までそのことに気付かなかった自分をルナは恥じた。それほどに動転していたということだろう。妖精たる身、本来、走るよりも飛ぶ方が軽い。
これで逃げ切ってみせる!
ルナに気力が戻った。大きく羽を広げて勇躍空へ飛ぶ。
メルランは、宙を飛ぶルナを見て、走る足とトランペットを止めた。
絶句したのだ。
視線はもちろんその優美な螺旋へ向いている。
その螺旋が、月を背にした時の、
なんと美しいことか。
そもそも、月の光の妖精であるルナチャイルドである。その姿が月下で最も映えるのは当然のこと。しかし、メルランはいまだ目の前の螺旋の持ち主の素性を知らない。
だから、それは素直な感動だった。
体の隅々までを、凍るほどの清水で洗い清めたかのような。
あるいは、花咲き乱れる草原を吹き抜ける風に乗って、どこまでも高く高く舞い上がるに似て。
そして、感動は、それまでを越えた更なる歓喜に変わる。
とても言葉にはできない。音楽にすらできない。ああ、ならばこの裡に高まるものをどうすればよいのか!
その歓びで、メルランは、
炸裂する。
一度途切れていた音楽が復活した時、そこには膨大なエネルギーの奔流が生じた。
その奔流は、幻想郷では弾幕と称される。
ルナを追いかけて空を飛ぶメルランは、大輪の花火となった。
遠くから見れば、その華麗さに息を呑むだろう。しかし、間近にいた者はたまらなかった。まともに弾幕に晒されて、わぁだのぎゃぁだのと悲鳴が上がり、痛みにのたうち回る者が続出。たちまち阿鼻叫喚の坩堝となる。
ハイビートアップテンポで冗談のように変調する音楽が更に襲う。それは被弾した者すらも狂騒的に掻き立てて、彼ら彼女らは痛い痛いと涙を流しながらもげらげらと笑った。
辛うじて、初撃をかわした者もいる。しかし、そんな幸運も第二波の前には脆かった。
それは、俗にへにょりレーザーと呼ばれる。
メルランの持つエネルギーが収束すると、メルラン本人ですら予期しない動きを持つのだ。ぐねぐねと曲がりくねるその弾道は、熟練した者ですらかわすこと至難である。
これが、四方八方へ撃ち出された。しかも、その軌跡ゆえにかなり遠くまで飛ぶ。
出鱈目に着弾した先では、よーしぱーふぇくとふりきゃーちるのちゃーんそーなのかーとこれまた多くが笑顔で吹っ飛んだ。
被害は、ライブの外縁部に位置する屋台の傍にまで及んだ。グレイズを嗜む者にとっては大した脅威でなかったが、いちいちかわすのも面倒だとばかりに屋台の客は揃ってスペルカードを切った。
巻き起こる閃光、爆発、衝撃。巻き添えを食った妖精達がきゃーと気の抜ける悲鳴を上げて花を咲かせ、これが連鎖に連鎖を重ねて季節外れの開花宣言となった。
ルナチャイルドは、上空からそれらを見た。
見てしまった。
目を覆う惨状である。
幻想郷の住人はたいがい頑丈なのでこの程度で死ぬものはいないだろうが、それでもやはり当たれば痛いだろう。
ルナの間近も、流れ弾が掠めて飛んだ。ほんの鼻先である。そして、次が当たらない保証は無い。
その上、犯人であるトランペット女はなおもにたにたと笑いながらルナを追って来るのだ。
私が何したっていうのよぅ、と唇を歪めて泣いた。しかし、泣くだけではルナに明日は訪れない。もはや明らかとなった危難から逃れるべく、彼女は涙で朧な視界の中を飛ぶ以外になかった。
ただ逃げるだけなら、ルナはこれまで何度だって経験がある。
普段ならサニーやスターが共にいるのだ。彼女らが力を合わせれば、逃げることにかけては人後に落ちない。
だが、今はルナ一人。その心細さから、絶えず後ろが気にかかるルナは、それがために前方がおろそかだった。
ぼすん、と柔らかい何かに当たって気付いた。
目の前には漆黒の布の感触。慌てて見上げれば、整った顔立ちの娘がルナを見下ろしていた。
黒いベストに黒いスカート。頭の上には三日月の飾りがついた黒帽子。
見慣れぬ格好を見て、ルナは反射的に逃れようともがいた。
だが、その黒ずくめの少女、ルナサがルナチャイルドを柔らかく抱きとめて、その耳元へ唇を寄せる。
大丈夫。
その囁きはあまりにも小さくて、ルナにも本当に聞こえたのか不安だった。訝るルナがルナサの顔を見る。ルナサは、その視線を受け止めて柔らかく微笑んだ。
後は任せて。
そう唇が動いて、ルナの頭を優しく撫でた。
ただそれだけで、ルナチャイルドの恐怖も緊張もゆるゆると融けた。もがくのを止めたルナを、ルナサは隠すように自らの後ろへと押す。ルナはそれに素直に従い、ルナサのベストの裾をぎゅっと握った。
その手に、ルナサは自らの手を重ねた。子どもの扱いに慣れた自然な仕草だった。
彼女の手の柔らかさと温もりが心地よくて、ルナは全てを委ねてその腰に顔をうずめる。
ルナサは、もう一度だけ軽くルナの頭を撫でて、手を離した。
宙に浮いていたバイオリンが、吸い付くように手に収まる。彼女が構えると、それだけで周囲の空気がぴんと張り詰めた。
目を閉じて、何かを探るように、そのままで数拍を待つ。
そして、静かに、
弓を引いた。
それは、あまりにも静か過ぎて、自然すぎて、最初のうちは誰もわからなかった。
激しく宙を駆けるトランペットの旋律の中、違和感なく融けていたがために。
聴くものが聴けば、それが並大抵の技量でないことがわかったろう。
まさしく音の暴力とも言えるトランペットに、そのバイオリンは寸分の狂いもなく合わせてきたのだ。
だから、気が付いた時には聞こえていたというべきか。トランペットに重なり、溶け合い、染み入るその音に。
その場に集う多くが知る由もなかったが、それは外の世界ではほとんど幻想となりつつある名器が奏でる音色だった。
世界に数えるほどしか存在せず、その多くは博物館の中で眠っている楽器だ。ルナサが使うのは、そのうちの幻想となった一つ。
ただ、由来は知らずとも、音色の美しさは皆に伝わった。
荒ぶるトランペットを、宥め、あやし、解していく。
力でねじ伏せるのではなく、
ゆっくりと、ゆっくりと、
その緊張を和らげつつ、その興奮を鎮めつつ、痛みすらも忘れさせて、
熱く滾る狂乱は、やがて温かい幸福感へと転化し、大気へ薄く薄く広がっていく。
聞き惚れていた誰もが、自らの頬を涙が伝っていることに気付いた。
何故なのかは誰も知らない。だが、理屈ではなしに心が震えて訴えた。
だから、彼らは足を止めて、空から降るその音楽が癒すに任せる。
だから、彼らは騒ぐのを止めて、傷ついた隣の仲間に肩を貸す。
屋台の足も止まっていた。
店主の歌は、切ないバラードへと変わっていた。その歌詞は指示詞と代名詞と動詞しかない薄っぺらなものだったが、珍しく静かな歌声に近くの妖精達が鼻をすすった。
頃合と見て、屋台の客達は揃って腰を上げた。
屋台から出て、霊夢はやれやれと月を見上げる。魔理沙もアリスもそれに倣った。萃香は地面に大の字になって寝ていた。その寝顔はいとけなく無邪気で、何か楽しい夢でも見ているのか、にへにへと口元が緩かった。
「もっと盛り上がるかと思ってたんだが、こんなものか」
魔理沙が帽子をかぶりながら言う。
「こんなものじゃないかしら。これ以上長いとダレちゃうわよ。ライブは緊張感が大事なんだから」
そう言いながら、アリスは夜風で髪を梳いた。赤らんだ頬を晒して、心地よさそうに瞼を閉じる。
「いいんじゃないの。その方が疲れないし」
投げやりに言って、霊夢は大きく伸びをする。そのまま、むにゃむにゃと生欠伸。
「じゃ」「まあ」「そういうことで」
そして、三人は言葉少なくその場で別れた。
それに呼応するかのように、そこかしこで皆々が互いに別れを告げて、三々五々に散っていく。
それが、ライブの終わりだった。
いつしか、トランペットの音色もバイオリンに合わせて優しく変化している。
主旋律はバイオリンに譲り、まろやかに、揺り篭に似てゆるやかな調べが続く。
混じりあうそれらは、さざなみ、うねり、
やがて、潮を引くように小さくなって、消えた。
静まりかえった森の上空に、三つの影だけが残っている。
バイオリンを下ろし、毅然として前を見るルナサ。その後ろから、不安そうに顔を出すルナチャイルド。
そして、彼女らから若干の距離をおいて、萎れた表情でうなだれるメルラン。
無論、メルランは気付いたのだ。
自分の行動で何が起こったのか。どうしてルナチャイルドに避けられていたのか。
教えてくれたのは、彼女の姉だ。
長い付き合いだ。姉の表情も言葉も、音を聴けばわかる。
メルランは、姉のバイオリンによって厳しく叱られていたのだった。
もちろん、メルランとて悪意は無かった。彼女はただ純粋にその喜びを表しただけだったのだ。
それを知るルナサは、だからそれ以上のことは言わない。その代わり、後ろに隠れたルナチャイルドの背に手を回し、ぽんとその背を叩く。
その意を汲んだルナは、おずおずとルナサの前に現れた。
うなだれていたメルランが顔を上げる。
そこでメルランは、ようやく、まともにルナチャイルドと顔を合わせた。
「ごめんなさいっ!」
メルランが勢いよく頭を下げた。それが、今の彼女にできる精一杯だ。
どうなじられても仕方が無いと、彼女は思う。殴られるならそれでもいいと思う。
後悔と申し訳なさが、自然と涙となって溢れた。本心を言えば、メルランは彼女に嫌われたくない。仲良くしたい。だが、メルランは自らその和を壊した。せっかく出会えた理想のぐるぐるだったのに、自分はなんてことをしてしまったんだろう。
だから、メルランは決意する。
これから先、ぐるぐるに執着するのは止めよう、と。
それは、彼女にとっては身を切るほどに辛い決断。だがそれでも、メルランはけじめをつける。
それだけの想いを込めた一言だった。それ以上は、言葉にならない。唇を強く噛んで、嗚咽を洩らす。
ルナチャイルドは戸惑った。
確かに、ルナはそれはもう怖い目にあった。もう駄目かと何度思ったかわからない。
しかし、今目の前で泣く彼女は、ルナが戸惑うほどにか弱く、小さく見えた。
そもそも、何故追いかけられたのか。それすらよくわかっていないのだった。それこそ汗みずくになるほどに逃げ回ったが、こうして面と向かって謝られると、ルナとしてはどう返していいのかわからない。
困惑して、ルナは背後のルナサを見る。
ルナサは無言だった。
ただ、彼女はルナへ微笑んで、促す素振りをした。
それで、ルナは何をすべきかがわかった。
こくりと頷いて、今度はメルランの方へと近づいていく。
そして、メルランの耳元へそっと唇を寄せて、告げる。一言だけ。
メルランがぱっと顔を上げた。潤んで赤くなった目でルナを見る。その怯えるように揺れる視線を受けて、ルナはぎこちなく笑った。
それだけで良かった。
メルランは、おずおずとルナへその手を伸ばし、しかし優しく抱きしめて、彼女が切なく焦がれたその髪に顔をうずめるようにして、またも泣き出す。
ルナは抗わなかった。彼女から零れ落ちる温かい涙がくすぐったくて、やっと久しぶりに、心から笑う。
森の中に建つプリズムリバーの幽霊屋敷。
そのダイニングのテーブルに、リリカ・プリズムリバーが一人席についている。
リリカの前には、紅茶とガナッシュのショートケーキ。彼女が姉らに内緒で手に入れて隠していた品である。
悪くなる前に早く食べようと思っていた矢先、メルランがライブに出かけ、しばらくしてルナサも出かけた。
機を見るに敏なリリカである。姉達の性格も、何が起きたのかもよく承知している。二人がしばらく帰らぬことを見越して、密やかなティータイムと洒落込んだのだった。
小さく切って口に運ぶと、芳醇な生クリームが舌の上で融けた。たまらず、頬が緩むリリカ。姉達をさしおいて一人味わう贅沢は、他の何にも代え難い。
そこで、リリカはふと気付く。
目線の先は、今はもうほとんど使われてない大理石のマントルピースの更に上。
そこには、一枚の絵が立派な額に収まって飾られている。
リリカの視線が、その絵の中の『彼女』と合った。
「ヒミツにしといてね」
人差し指を唇に当てて、悪戯っぽくウインク。
それに対して、『彼女』は遠い昔から変わらぬ微笑みを返すのみ。
その『彼女』の髪は、それはそれは見事な巻き毛で――――
読後、何だか不思議な暖かさが。
そしてルナサ好きな私としては本筋と外れた所で大変良いものを頂きました。ありがとうございます。
おもしろかった気がする!
という感想に。
いえ実際おもしろかったですが。
☆誤字
しかめつらしい→しかつめらしい
テンポの良い文章と速い展開の小気味よさと、突き抜けたノリは、筒井康隆を連想させます。
惜しむらくは、ルナとの和解シーンでそのテンポが足踏みしたことでしょうか。
せっかくの秀逸なリリカの幕引き、感動成分はそこに凝縮しても良かったのでは、と愚考します。
というか、厄神様の登場を期待したのは、俺だけではないはずだ!
もとい、いい鬼
淡々とした描写の中で空気がしっかり描かれていてさっくり読めました。
上がり、下がり、波に乗り、あるいは波から落ち。
テンポもブレーキのかけ所も、最後のちょっとした落ちも文句なしでした。
面白かったです。
『ジャズ大名』のノリを幻想郷に持ち込んでみたら、こんな形になるのかなあ、と。
しかしただひたすらテンションを上げるばかりではなく、しっとりとした余韻の残るオチに全ての流れを収束させて見せたあたりに、センスと技量を感じます。
いい話でした!
地の文だけでここまでできるとわ……じわじわと笑いがこみ上げて来ました。
ルナサ姉さんファン倶楽部の一人です。
そしてオチも素敵。
いいなぁこんな乱痴気さわぎ。
テンポの良い文章、展開のころころと転がる面白さ、読んでる内に何故か笑ってしまいました。本当にメルランたちの演奏が聞こえてきそうだ。
それと走る屋台がシュールだ・・・・・・いっぺん飲んでみたい!!
セリフなんか殆ど無いのに会話が見える。プリバの使い方も見事。
面白かったです。
音により語りハーモーニーで分かち合う・・・
プリズムリバー家ならではですかね。
楽しませてもらいました。
文句なし。堪能しました。
これはガチで面白い。
読んでるうちにメルランの勢いに巻き込まれてたような気がするぜ
そしてオチが暖かすぎる!
序盤のサイクロンに爆笑し、
中盤の狂騒劇にワクワクし、
最後の締めにホロリとしました。
…厄神様で第二幕が起きそうな気がw
そういうまとめだとは思いもよらず。
テンポ良い中盤とゆったりとした締め。
惚れるね。
100点以上をつけたい…!
既出になりますが、私も筒井康隆を思い出しました。
少ない台詞描写に重みが増して感じられました。
ルナサの威厳が半ばから後半にかけて作用してる辺りが、グッときましたね。
この辺りはファンとして嬉しくもあり。
締めも文句なしです。あぁ、そう来たか、と。
ごちそうさまです。
お読み下さった方々、どうもありがとうございます。
一度は書いてみたかった虹川もの。ちょっと良い話を目指しました。
中盤については、ご明察のとおり筒井康隆を意識してます。やっぱりわかるものなんだなぁ。ちょっと嬉しかったり。
ちなみに、この話は文花帖(書籍)が出た頃に思いついたものです。
ですので、風神録より前ということで風キャラは出しませんでした。
さて、次に投稿できるのはいつになるかわかりませんが、今度は直球を目指したいと思います。超スローボールで。
でも―――彼女が「最高だ」と言ったから
だから今日は、ぐるぐる記念日
素晴らしい文章をありがとうございました。
軽妙な言葉回しも素晴らしく、言いようの無い満足感が気持ちよいです。
読後、思わずため息が出ました。ありがとうございました。
読んでると何ともハッピーな気分になります。
お見事!
ただ、ぐるぐる物蒐集の下りで、伊藤潤二の漫画みたいな展開を想像しちまったぜ…
それでいて、しっとりとした終盤の展開。さらには誰もが納得できるオチの素晴らしさ。
短編とはかくあるべし、ですね。
なんとも心地良い言葉の選びかた。お見事でした。
彼女のぐるぐるへの愛が、未来永劫続きますように。
楽しくてバカっぽくてちょっぴり切なくて。
まるで良質の演奏を聴いたような気分です。
メルランとルナサはほんとうまく調和してますね。
綺麗な言葉が一つ一つとても丁寧に書かれていて、素晴らしかったです
おもしろかった!
涙目で逃げるルナは可愛いし面白かった、ルナを助けるルナサは優しいお姉さんっぽくて良かったです。
いい話にまとまってオチも綺麗で文句なしです。