百合は駄目。生理的に駄目。……というほどでなければ大丈夫な程度に、ほんのり百合です。
多くの方には害がないものと思われますが、異常を感じられた方は、ただちに使用を中止してください。
山の冬の朝は、寒い寒い朝で、静かな静かな朝です。雪兎の走った足跡の上にも、それを追った狐の足跡の上にも、静けさがしんと降り積もっております。空は鈍く灰色に輝き、今にも晴れそうで、でもやっぱり晴れないのでありました。
白い雪の外套をぶ厚く着込み、山を覆って佇む冬枯れの木々は、獲り入れが終わった田んぼという田んぼから、わんさとかかしが集まったようです。そうして、立派な仕事をなし終えた満足にひたり、みな一様に黙りこくっているようにも見えるのでありました。
お山の天狗の娘が1人、夜闇のように黒い翼をはためかせ、静かに佇む木々の上を、山の頂に向かって飛んでゆきます。けれども、あっちへふらふら、こっちへふらふら、なんとも気ままな飛び方です。それは、仲良しの天狗を探しているからなのでありました。
天狗の娘は、名前を文(あや)と言いました。文は天狗の優等生です。お山の入ってはいけないところに入り込んだ人間を追い出したり、月夜の晩に酒盛りをしたり、他の山の天狗と腕比べをしたり、そうした天狗の仕事では、いつも大活躍するのです。
そうしてそのほかに、新聞記者もやっているのでありました。黒い翼でどこにでも飛んで出かけ、いろいろなところを訪ね回り、気になったことや気に入ったことを書き付けて、新聞に刷り、人里まで降りてきて、配って飛ぶのでありました。
そんなだから文はとても忙しいのですが、今日は仕事はみんなおやすみにしました。この頃は新聞に書くような面白いことがなかなか見つからないので、仲良しの椛のところに、久しぶりに遊びに行こうと思ったのです。
椛は同じ天狗仲間ですが、文のような翼を背負った烏天狗ではなく、真っ白な毛並みの白狼天狗でありました。そうして、もっぱらお山を守る仕事をしているのでありました。
さて、文は一生懸命探しているのですが、椛はなかなか見つかりません。
お山を守る、といっても、お山の一大事はそうそういつも起こったりはしません。なので大抵、椛は誰かを誘って将棋を指しています。だから文は、仲間たちや知り合いの妖怪に聞けばすぐに見つかるだろうと思っていたのですが、今日に限って、誰も椛がどこにいるのか知らないのでありました。
けれども一人だけ、椛とよく将棋を指している河童がこう言いました。
「椛はいつも、お山が本当に真っ白になると、土鍋を背負って山に登って、一晩帰って来ないんですよ」
それで文は、お山の天辺に向かって、椛を探しているのです。
真っ白い、蛋白石の盆のようなお日様は、灰色の空の向うをえっちらおっちらと歩いて、もう随分高くまで昇りました。けれども文はまだ、うろうろとお山の空を飛び回っているのでありました。
こんなに探しているのに、椛はちっとも見つかりません。たとえ真っ白な毛並みの椛が真っ白に積もった雪の上を走っていても、文にはきっと見つけられるのに。なんだか変な、泣きたいような気持ちになって、文は無闇に、わぁっ、と啼いて、通りかかった四十雀を追い払ってみたりするのでした。
* *
もう、帰ってしまって、仲間の天狗と酒盛りでもした方がよっぽど楽しいだろうか。でも、椛がいなかったらちっとも楽しくないだろうか。文がそんな風に、何度も何度も考えた頃。とうとう、きしきし、きしきし、と、雪を踏んで駆ける音が、山肌から聞こえてきたのでありました。
文にはすぐわかりました。椛が狼の姿で雪の上を走る跫音です。椛も狼とは言え天狗なのですから、空も飛べます。急ぐのなら、飛んだ方がきっと早いでしょう。だのになぜ、急いで走っているのでしょう。文は気になって、影を落としてしまわないよう気をつけながら、そっと跫音に近寄ってみました。羽ばたきを控え、冬の柔らかな日差しに静まり返る風を包み込むように、翼を伸ばします。
小さな雪煙すら蹴立てながら、椛は山肌を駆けてゆきます。佇む木々の間を縫い、うずくまる岩々を飛び渡り、凍りついたせせらぎをまたぎ越し、夢中になって駆けてゆきます。いつもなら、敏い椛はすぐに文に気が付くというのに、今日はちっとも気が付きません。なにか大変なことでも起こったのかしら、と、文はちょっと心配になりましたが、椛の足取りはなんだかひどく嬉しげで、今にも踊りだしてしまいそうにも見えるのでありました。
* *
走って走って走った椛は、ようやく森の開けたところで脚を止めました。そして首に括った土鍋を、狼の姿のまま器用に降ろすと、今度は今まで以上にものすごい勢いで、後足を使って雪を蹴立て始めたのです。
椛はいったい、どうしようというのでしょう。文は少し離れた樹の天辺の近くの枝から雪を払い、そこに腰掛けて見守る事にしたのでありました。
すぐに、真ん中にこんもりと雪の小山ができました。そうしたら、椛は休むまもなく、その小山の上をぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、もっともっとすごい勢いで走り回り始めました。それはもう、目に霞むほどの勢いで、あんまりぐるぐる回りすぎたせいで、雪と一緒に融けてひと塊のカマンベールチーズになってしまうのではないかしら、と、文が心配になってしまうほどでありました。
ひとしきりそれが終わると、雪の小山はあんまり踏まれたせいで、半分ほど雪の中に沈みこんでしまっていました。小山から降りた椛は、息を整えながら満足そうにそれを眺めています。
文はとうとう我慢できなくなって、樹の上から大声で呼びかけました。
「もーみーじ! なにやってるのー?」
冬の日のカキリとした空気がそ知らぬ顔でその声を響かせると、なんとまあ、椛はびっくり慌てふためき、返事もできずにその場で三遍ほど回りながら、我知らず人の姿になってしまったのでありました。
返事をしてもらえなくてむくれた文は、ちょっとばかりほっぺたを膨らませながら、椛の傍に舞い降りました。
「わたしに言えない事?」
そうして椛の目をじっと覗き込むと、椛は真っ白な毛並みをもうしばらくしたら咲くはずの梅の花みたいな薄紅色にしながら、ようやっと、小さな声で言いました。耳は寝かせてしまい、尻尾もすっかり丸めこんでしまっています。
「あの……見てました?」
「うん。三ツ児杉を回った辺りから」
「ぁゃゃゃゃ……」
椛はもう、紅梅のように真っ赤になりながら、なんだかもじもじしています。
「……すいません、お恥ずかしいところを……」
「ん、もう。わたしは、なにをしていたの? って聞いているのよ?」
「その、かまくらを……」
それでようやく、謎は解けたのでありました。
「なるほどね……でも椛、恥ずかしがることなんてないじゃない?」
「いえ、あの、その……」
椛の声はどんどん小さくなっていきます。
「あっそう」
文は、いつも持っている写真機を出して見せました。新聞記者たるもの、お休みであっても特ダネならばしっかり捕まえないといけませんからね。持っているのは当たり前なのです。
「やっ! やめてくださいっ!」
新聞に載せられてしまったりしたら一大事、とばかりに、椛は大声を出しました。
「なにがそんなに、恥ずかしいのよ」
写真機をちらちらさせられて、とうとう椛は蚊の啼くような声で言いました。
「……あんなに駆け回ったりして、子供っぽいじゃないですか」
「駆け回らないで作ったら?」
「…………その、それは、つまり、それが楽しいからでして……」
「やっぱり?」
そのくらい、文は最初から察しが付いていたのでした。椛が恥ずかしがっているのが可愛らしくて、ついつい意地悪してしまったのです。
「わ……わかってたんならいいじゃないですかっ!」
椛はきゃんきゃん、食ってかかります。
「ごめんごめん。お詫びに手伝うから」
「い……いえ、それは、大丈夫です。あと少しですから」
「そんなこと言わずに。手伝わせてよ。ね?」
そう言われて、椛は断ったら悪いだろうか、と思ったのですが、文がにやにや笑いを隠し切れなかったので、やっぱり意地悪をしているのだ、と気が付いてしまいました。
「……文さん、わかってるんでしょう」
「なーにが?」
「いいですっ! もうっ! そうですよっ! 最後の仕上げに中を掘るのが一番楽しみなんですっ!」
とうとう椛は、ぷいっ、と文に背を向けてしまいました。文は慌てて写真機をしまいます。
「ごめんごめん、もうからかわないから」
「知りません!」
人の姿のまま、椛はかまくらのそばにうずくまりました。さぁ、大変です。椛はきっと、すごい勢いで雪を掘り出し、文をあっという間に埋めてしまうに違いありません。
「悪かったってば。謝るから」
「…………ダメです!」
「写真に撮ったりしないから」
「……新聞に書いてもダメですよ?」
「書かない書かない」
「ホントですね?」
「ホントホント」
それでようやく、椛は文を許してくれたのでありました。
文の思ったとおり、最後の仕上げは今までにもまして、大変な勢いでした。掘り出された雪は空高く舞い上がり、灰色の冬の雲の下に、太鼓橋をかけました。椛は本当に夢中になってしまって、ぶんぶん振り回される尻尾がかまくらの中に入っていくのを文が写真に収めても、さっぱり気が付かないのでした。
ひょっとしたら気が付くかな? と思って文は写真を撮ってみたのですが、椛がそんななので、なんだかつまらなくなってしまいました。
それで、ぼんやりと掘り出された雪が積もっていくのを眺めていたのですが、それもなんだか退屈なのでありました。
* *
そうしてようやく、椛は満足のいくように、かまくらを掘り終えました。壁も天井も充分な厚さが残っているはずです。入り口は、大きすぎず小さすぎず。これならきっと、多少吹雪いたってへいちゃらです。仕上げはちょっと雑で、爪の跡がところどころ残ってしまっていたりもしますが、文をあんまり待たせてしまってはいけません。
「文さーん! お待たせしましたー!」
振り返ってそう呼びかけたところ……
「えっ? ……あっ!」
文は、大きな雪玉の上にもう1つ、少し小さな雪玉を乗せようとしているところでした。急に椛に呼びかけられて、びっくりして手が滑ったのか、上の雪玉が転げ落ちて、文の頭にすっぽりかぶさってしまいました。
「大丈夫ですか!?」
椛があわてて駆け寄って、雪を払い落とします。すると、文のぶすっとした顔が現れました。なんだかさっきの椛みたいに、ほんのり薄紅色です。
「……まぁ、たまには童心に返ってみるのもいいかなぁ、って思ったのよ。ちょっとね」 椛がにっこり笑ってそうですね、と言うと、文はどうしてだか、そっぽを向いてしまうのでした。
* *
そろそろ夜です。冬の空は灰色のまま暗くなり、蛋白石の盆のようなお日様は、いつのまにやらどこかに行ってしまいました。今日は十日夜くらいのはずですが、お月様もどこかにいるようで、いないようで、よくわからないのでした。
文と椛のかまくらの中は、暖かな火明かりにゆらいでいます。椛が背負ってきた土鍋の中に入っていたのは、お餅、お味噌、いろいろな山菜、お玉、それからよく焼かれた炭と大きな蝋燭、そして毛布。椛はどこからかみつけてきた石を上手につかってかまどを作りました。そろそろ、お餅の入った山菜鍋が食べごろです。
「そういえば、お椀は?」
「ないんです。お鍋から直にどうぞ。さぁ、開けますよ」
椛が土鍋の蓋を取ると、ふわぁっ、と美味しそうな香りが広がります。ふくよかなお味噌の香り、さっぱりした山菜の香り。二人のお腹が、ぎゅうっと一緒に鳴りました。お箸は手ごろな大きさに折って雪で洗った木の枝。
「いただきます」
声も揃ったと思ったら、同じお餅をつまんでいました。両方から引っ張って、仲良く半分こ。少し掘り返した下の雪を沸かした煮汁は、お玉ですすると干し椎茸の出汁がよく効いていて、ぽかぽかと体を温めてくれるのでした。
* *
お喋りしながらつついているうちに、そんなに大きくない土鍋の中身は、いつのまにか尽きてしまい、お腹も一段落。お鍋を下ろして炭火に手をかざします。黒い炭は明々と輝き、雪のような白さで縁取られています。蝋燭はそろそろ半分。お喋りもぽつりぽつり。
「椛は毎年こうやってるの?」
「えぇ。雪が本格的に積もったあたりで」
「一人で?」
「……だって……恥ずかしいじゃないですか……」
「…………そうよねぇ…………」
「……うぅっ……そんな思いっきり認めないでくださいよぅ……」
尻尾をまるめてしょぼくれてしまった椛を横目で盗み見ながら、文はかまくらの外を見やります。斜めに掘り下げた入り口の雪が蝋燭の灯かりを受けて影を躍らせ、その上のほうに、闇が見えています。星も月も風もない冬の夜は、ただただ、キシキシと暗いのでした。
「……ねぇ、椛」
言いながら振り返った文は、椛が耳を、ぴくり、とそばだてたのに気づきました。椛はじっと、外の闇に耳を傾けています。
「椛」
「ぁ、あぁ、すいません」
文のちょっとすねた声に、椛は目をしばたたきました。
「何か聞こえるの?」
「えーっと、聞こえたような気がして」
「何が?」
「あ、聞こえました。そろそろ来ますよ」
椛が何を聞いているのか判らず、ちょっとばかり腹が立ってしまった文が、怒った声を出そうとしたその時。蝋燭の炎が消えそうなくらい揺らぎました。突然、真正面から冷たい冷たい、凍るような風が、どどうと吹いて来たのです。炭が一瞬、まばゆいばかりに輝きました。
「こんばんは。今年は二人なのね」
そうしてそこには、冬の妖怪、レティが現れたのでした。帽子は積もる雪のよう。靴は積もった雪のよう。そうして、着ているチョッキやスカートは、深い深い、淵の水が芯まで凍ってしまったような、きぃんとした碧色をしているのでした。
「いらっしゃい。どうぞ」
椛はにっこり笑って、即席の火鉢の傍に誘います。
「大丈夫? 融けちゃったりしない?」
文はちょっぴり、意地悪そうな声音でたずねます。
「そうね。今年は融けちゃうかもね」
そうしたらレティもまた、ちょっぴり意地悪そうに笑いながら、そう答えたのでした。椛はなんだか取り残されて、きょとんとしています。
「あなた、毎年来てるの?」
「何年前だったかしら。あんまり楽しそうにしてたから、寄ってみたのよ。それからね」
ね? とレティに問われ、椛はえぇ、と頷きました。
「ふぅん……あんなに恥ずかしがってたのに、レティには恥ずかしくなかったんだ?」
文が目を細めて椛を見やると、椛はまた薄紅色になりました。
「だって……しょうがないじゃないですか。見つかっちゃったら……」
「ふぅぅぅん」
そんな文と椛を眺めて、レティは肩をすくめながらくすくす笑いました。
「そうね。今年は別のところに行ってみるわ。ごゆっくり」
「あ、そ、そうですか?」
椛はなんだかちょっと、残念そうです。
「そうよねぇ。ここは三人にはちょーっと狭いものね」
文はなんだか嬉しそう。
「えぇ、だから、来年はもうちょっと大きく作ってね?」
「そうですね。そうします」
困ったように笑う椛を、文はこっそり、睨んでしまうのでした。
そんな文に、レティはいつの間にか近寄っていました。
「そうそう、お土産忘れるところだったわ。はいこれ」
そうしてなんと、文の襟首をひょいと引っ張ると、自分できんきんに凍らせた冷凍みかんをごろごろごろごろ、いくつも流しこんだのです。
「──────────────!?!?」
ごろごろごろごろ転げてしまったら、炭火も椛も蹴倒してしまいます。文は必死に我慢しました。
「だっ、大丈夫ですか!」
椛はとっさに助けようと、身を乗り出しました。そうしてレティは、それじゃぁね。と一言残して、けらけら笑いながら、再びどどうと冬の風を巻き、去っていったのでした。
* *
「あいつめ~……こんど会ったら太ましいって連呼してやる……」
「……まぁまぁ」
椛に慰められながら恨み言をぶつぶつ言いつつ、それでも文は、冷凍みかんをもぐもぐ食べたのでした。鍋でちょっと温まりすぎたところだったので、程よく甘酸っぱい冷凍みかんはちょうど良かったのです。
椛も一つ二つ食べました。そうして残った分は、雪で洗ったお鍋の中に入れて、明日持って帰ることにしました。
炭火はまだ明々としていますが、蝋燭はもうだいぶ短くなっています。そろそろ休みましょうか、と文が言おうとした時には、椛はすでに毛布を広げていました。
「ごめんなさい。二人にはちょっと小さくて」
「レティの分は?」
「あの人はほら、平気ですから」
「あぁ……それもそうね」
そうして文は蝋燭を吹き消し、二人は身を寄せ合って毛布にくるまりました。炭火の赤い輝きが残る中、まだしばらくはぽそぽそと、おしゃべりがつづいたのでありました。
どっとはらい。
多くの方には害がないものと思われますが、異常を感じられた方は、ただちに使用を中止してください。
山の冬の朝は、寒い寒い朝で、静かな静かな朝です。雪兎の走った足跡の上にも、それを追った狐の足跡の上にも、静けさがしんと降り積もっております。空は鈍く灰色に輝き、今にも晴れそうで、でもやっぱり晴れないのでありました。
白い雪の外套をぶ厚く着込み、山を覆って佇む冬枯れの木々は、獲り入れが終わった田んぼという田んぼから、わんさとかかしが集まったようです。そうして、立派な仕事をなし終えた満足にひたり、みな一様に黙りこくっているようにも見えるのでありました。
お山の天狗の娘が1人、夜闇のように黒い翼をはためかせ、静かに佇む木々の上を、山の頂に向かって飛んでゆきます。けれども、あっちへふらふら、こっちへふらふら、なんとも気ままな飛び方です。それは、仲良しの天狗を探しているからなのでありました。
天狗の娘は、名前を文(あや)と言いました。文は天狗の優等生です。お山の入ってはいけないところに入り込んだ人間を追い出したり、月夜の晩に酒盛りをしたり、他の山の天狗と腕比べをしたり、そうした天狗の仕事では、いつも大活躍するのです。
そうしてそのほかに、新聞記者もやっているのでありました。黒い翼でどこにでも飛んで出かけ、いろいろなところを訪ね回り、気になったことや気に入ったことを書き付けて、新聞に刷り、人里まで降りてきて、配って飛ぶのでありました。
そんなだから文はとても忙しいのですが、今日は仕事はみんなおやすみにしました。この頃は新聞に書くような面白いことがなかなか見つからないので、仲良しの椛のところに、久しぶりに遊びに行こうと思ったのです。
椛は同じ天狗仲間ですが、文のような翼を背負った烏天狗ではなく、真っ白な毛並みの白狼天狗でありました。そうして、もっぱらお山を守る仕事をしているのでありました。
さて、文は一生懸命探しているのですが、椛はなかなか見つかりません。
お山を守る、といっても、お山の一大事はそうそういつも起こったりはしません。なので大抵、椛は誰かを誘って将棋を指しています。だから文は、仲間たちや知り合いの妖怪に聞けばすぐに見つかるだろうと思っていたのですが、今日に限って、誰も椛がどこにいるのか知らないのでありました。
けれども一人だけ、椛とよく将棋を指している河童がこう言いました。
「椛はいつも、お山が本当に真っ白になると、土鍋を背負って山に登って、一晩帰って来ないんですよ」
それで文は、お山の天辺に向かって、椛を探しているのです。
真っ白い、蛋白石の盆のようなお日様は、灰色の空の向うをえっちらおっちらと歩いて、もう随分高くまで昇りました。けれども文はまだ、うろうろとお山の空を飛び回っているのでありました。
こんなに探しているのに、椛はちっとも見つかりません。たとえ真っ白な毛並みの椛が真っ白に積もった雪の上を走っていても、文にはきっと見つけられるのに。なんだか変な、泣きたいような気持ちになって、文は無闇に、わぁっ、と啼いて、通りかかった四十雀を追い払ってみたりするのでした。
* *
もう、帰ってしまって、仲間の天狗と酒盛りでもした方がよっぽど楽しいだろうか。でも、椛がいなかったらちっとも楽しくないだろうか。文がそんな風に、何度も何度も考えた頃。とうとう、きしきし、きしきし、と、雪を踏んで駆ける音が、山肌から聞こえてきたのでありました。
文にはすぐわかりました。椛が狼の姿で雪の上を走る跫音です。椛も狼とは言え天狗なのですから、空も飛べます。急ぐのなら、飛んだ方がきっと早いでしょう。だのになぜ、急いで走っているのでしょう。文は気になって、影を落としてしまわないよう気をつけながら、そっと跫音に近寄ってみました。羽ばたきを控え、冬の柔らかな日差しに静まり返る風を包み込むように、翼を伸ばします。
小さな雪煙すら蹴立てながら、椛は山肌を駆けてゆきます。佇む木々の間を縫い、うずくまる岩々を飛び渡り、凍りついたせせらぎをまたぎ越し、夢中になって駆けてゆきます。いつもなら、敏い椛はすぐに文に気が付くというのに、今日はちっとも気が付きません。なにか大変なことでも起こったのかしら、と、文はちょっと心配になりましたが、椛の足取りはなんだかひどく嬉しげで、今にも踊りだしてしまいそうにも見えるのでありました。
* *
走って走って走った椛は、ようやく森の開けたところで脚を止めました。そして首に括った土鍋を、狼の姿のまま器用に降ろすと、今度は今まで以上にものすごい勢いで、後足を使って雪を蹴立て始めたのです。
椛はいったい、どうしようというのでしょう。文は少し離れた樹の天辺の近くの枝から雪を払い、そこに腰掛けて見守る事にしたのでありました。
すぐに、真ん中にこんもりと雪の小山ができました。そうしたら、椛は休むまもなく、その小山の上をぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、もっともっとすごい勢いで走り回り始めました。それはもう、目に霞むほどの勢いで、あんまりぐるぐる回りすぎたせいで、雪と一緒に融けてひと塊のカマンベールチーズになってしまうのではないかしら、と、文が心配になってしまうほどでありました。
ひとしきりそれが終わると、雪の小山はあんまり踏まれたせいで、半分ほど雪の中に沈みこんでしまっていました。小山から降りた椛は、息を整えながら満足そうにそれを眺めています。
文はとうとう我慢できなくなって、樹の上から大声で呼びかけました。
「もーみーじ! なにやってるのー?」
冬の日のカキリとした空気がそ知らぬ顔でその声を響かせると、なんとまあ、椛はびっくり慌てふためき、返事もできずにその場で三遍ほど回りながら、我知らず人の姿になってしまったのでありました。
返事をしてもらえなくてむくれた文は、ちょっとばかりほっぺたを膨らませながら、椛の傍に舞い降りました。
「わたしに言えない事?」
そうして椛の目をじっと覗き込むと、椛は真っ白な毛並みをもうしばらくしたら咲くはずの梅の花みたいな薄紅色にしながら、ようやっと、小さな声で言いました。耳は寝かせてしまい、尻尾もすっかり丸めこんでしまっています。
「あの……見てました?」
「うん。三ツ児杉を回った辺りから」
「ぁゃゃゃゃ……」
椛はもう、紅梅のように真っ赤になりながら、なんだかもじもじしています。
「……すいません、お恥ずかしいところを……」
「ん、もう。わたしは、なにをしていたの? って聞いているのよ?」
「その、かまくらを……」
それでようやく、謎は解けたのでありました。
「なるほどね……でも椛、恥ずかしがることなんてないじゃない?」
「いえ、あの、その……」
椛の声はどんどん小さくなっていきます。
「あっそう」
文は、いつも持っている写真機を出して見せました。新聞記者たるもの、お休みであっても特ダネならばしっかり捕まえないといけませんからね。持っているのは当たり前なのです。
「やっ! やめてくださいっ!」
新聞に載せられてしまったりしたら一大事、とばかりに、椛は大声を出しました。
「なにがそんなに、恥ずかしいのよ」
写真機をちらちらさせられて、とうとう椛は蚊の啼くような声で言いました。
「……あんなに駆け回ったりして、子供っぽいじゃないですか」
「駆け回らないで作ったら?」
「…………その、それは、つまり、それが楽しいからでして……」
「やっぱり?」
そのくらい、文は最初から察しが付いていたのでした。椛が恥ずかしがっているのが可愛らしくて、ついつい意地悪してしまったのです。
「わ……わかってたんならいいじゃないですかっ!」
椛はきゃんきゃん、食ってかかります。
「ごめんごめん。お詫びに手伝うから」
「い……いえ、それは、大丈夫です。あと少しですから」
「そんなこと言わずに。手伝わせてよ。ね?」
そう言われて、椛は断ったら悪いだろうか、と思ったのですが、文がにやにや笑いを隠し切れなかったので、やっぱり意地悪をしているのだ、と気が付いてしまいました。
「……文さん、わかってるんでしょう」
「なーにが?」
「いいですっ! もうっ! そうですよっ! 最後の仕上げに中を掘るのが一番楽しみなんですっ!」
とうとう椛は、ぷいっ、と文に背を向けてしまいました。文は慌てて写真機をしまいます。
「ごめんごめん、もうからかわないから」
「知りません!」
人の姿のまま、椛はかまくらのそばにうずくまりました。さぁ、大変です。椛はきっと、すごい勢いで雪を掘り出し、文をあっという間に埋めてしまうに違いありません。
「悪かったってば。謝るから」
「…………ダメです!」
「写真に撮ったりしないから」
「……新聞に書いてもダメですよ?」
「書かない書かない」
「ホントですね?」
「ホントホント」
それでようやく、椛は文を許してくれたのでありました。
文の思ったとおり、最後の仕上げは今までにもまして、大変な勢いでした。掘り出された雪は空高く舞い上がり、灰色の冬の雲の下に、太鼓橋をかけました。椛は本当に夢中になってしまって、ぶんぶん振り回される尻尾がかまくらの中に入っていくのを文が写真に収めても、さっぱり気が付かないのでした。
ひょっとしたら気が付くかな? と思って文は写真を撮ってみたのですが、椛がそんななので、なんだかつまらなくなってしまいました。
それで、ぼんやりと掘り出された雪が積もっていくのを眺めていたのですが、それもなんだか退屈なのでありました。
* *
そうしてようやく、椛は満足のいくように、かまくらを掘り終えました。壁も天井も充分な厚さが残っているはずです。入り口は、大きすぎず小さすぎず。これならきっと、多少吹雪いたってへいちゃらです。仕上げはちょっと雑で、爪の跡がところどころ残ってしまっていたりもしますが、文をあんまり待たせてしまってはいけません。
「文さーん! お待たせしましたー!」
振り返ってそう呼びかけたところ……
「えっ? ……あっ!」
文は、大きな雪玉の上にもう1つ、少し小さな雪玉を乗せようとしているところでした。急に椛に呼びかけられて、びっくりして手が滑ったのか、上の雪玉が転げ落ちて、文の頭にすっぽりかぶさってしまいました。
「大丈夫ですか!?」
椛があわてて駆け寄って、雪を払い落とします。すると、文のぶすっとした顔が現れました。なんだかさっきの椛みたいに、ほんのり薄紅色です。
「……まぁ、たまには童心に返ってみるのもいいかなぁ、って思ったのよ。ちょっとね」 椛がにっこり笑ってそうですね、と言うと、文はどうしてだか、そっぽを向いてしまうのでした。
* *
そろそろ夜です。冬の空は灰色のまま暗くなり、蛋白石の盆のようなお日様は、いつのまにやらどこかに行ってしまいました。今日は十日夜くらいのはずですが、お月様もどこかにいるようで、いないようで、よくわからないのでした。
文と椛のかまくらの中は、暖かな火明かりにゆらいでいます。椛が背負ってきた土鍋の中に入っていたのは、お餅、お味噌、いろいろな山菜、お玉、それからよく焼かれた炭と大きな蝋燭、そして毛布。椛はどこからかみつけてきた石を上手につかってかまどを作りました。そろそろ、お餅の入った山菜鍋が食べごろです。
「そういえば、お椀は?」
「ないんです。お鍋から直にどうぞ。さぁ、開けますよ」
椛が土鍋の蓋を取ると、ふわぁっ、と美味しそうな香りが広がります。ふくよかなお味噌の香り、さっぱりした山菜の香り。二人のお腹が、ぎゅうっと一緒に鳴りました。お箸は手ごろな大きさに折って雪で洗った木の枝。
「いただきます」
声も揃ったと思ったら、同じお餅をつまんでいました。両方から引っ張って、仲良く半分こ。少し掘り返した下の雪を沸かした煮汁は、お玉ですすると干し椎茸の出汁がよく効いていて、ぽかぽかと体を温めてくれるのでした。
* *
お喋りしながらつついているうちに、そんなに大きくない土鍋の中身は、いつのまにか尽きてしまい、お腹も一段落。お鍋を下ろして炭火に手をかざします。黒い炭は明々と輝き、雪のような白さで縁取られています。蝋燭はそろそろ半分。お喋りもぽつりぽつり。
「椛は毎年こうやってるの?」
「えぇ。雪が本格的に積もったあたりで」
「一人で?」
「……だって……恥ずかしいじゃないですか……」
「…………そうよねぇ…………」
「……うぅっ……そんな思いっきり認めないでくださいよぅ……」
尻尾をまるめてしょぼくれてしまった椛を横目で盗み見ながら、文はかまくらの外を見やります。斜めに掘り下げた入り口の雪が蝋燭の灯かりを受けて影を躍らせ、その上のほうに、闇が見えています。星も月も風もない冬の夜は、ただただ、キシキシと暗いのでした。
「……ねぇ、椛」
言いながら振り返った文は、椛が耳を、ぴくり、とそばだてたのに気づきました。椛はじっと、外の闇に耳を傾けています。
「椛」
「ぁ、あぁ、すいません」
文のちょっとすねた声に、椛は目をしばたたきました。
「何か聞こえるの?」
「えーっと、聞こえたような気がして」
「何が?」
「あ、聞こえました。そろそろ来ますよ」
椛が何を聞いているのか判らず、ちょっとばかり腹が立ってしまった文が、怒った声を出そうとしたその時。蝋燭の炎が消えそうなくらい揺らぎました。突然、真正面から冷たい冷たい、凍るような風が、どどうと吹いて来たのです。炭が一瞬、まばゆいばかりに輝きました。
「こんばんは。今年は二人なのね」
そうしてそこには、冬の妖怪、レティが現れたのでした。帽子は積もる雪のよう。靴は積もった雪のよう。そうして、着ているチョッキやスカートは、深い深い、淵の水が芯まで凍ってしまったような、きぃんとした碧色をしているのでした。
「いらっしゃい。どうぞ」
椛はにっこり笑って、即席の火鉢の傍に誘います。
「大丈夫? 融けちゃったりしない?」
文はちょっぴり、意地悪そうな声音でたずねます。
「そうね。今年は融けちゃうかもね」
そうしたらレティもまた、ちょっぴり意地悪そうに笑いながら、そう答えたのでした。椛はなんだか取り残されて、きょとんとしています。
「あなた、毎年来てるの?」
「何年前だったかしら。あんまり楽しそうにしてたから、寄ってみたのよ。それからね」
ね? とレティに問われ、椛はえぇ、と頷きました。
「ふぅん……あんなに恥ずかしがってたのに、レティには恥ずかしくなかったんだ?」
文が目を細めて椛を見やると、椛はまた薄紅色になりました。
「だって……しょうがないじゃないですか。見つかっちゃったら……」
「ふぅぅぅん」
そんな文と椛を眺めて、レティは肩をすくめながらくすくす笑いました。
「そうね。今年は別のところに行ってみるわ。ごゆっくり」
「あ、そ、そうですか?」
椛はなんだかちょっと、残念そうです。
「そうよねぇ。ここは三人にはちょーっと狭いものね」
文はなんだか嬉しそう。
「えぇ、だから、来年はもうちょっと大きく作ってね?」
「そうですね。そうします」
困ったように笑う椛を、文はこっそり、睨んでしまうのでした。
そんな文に、レティはいつの間にか近寄っていました。
「そうそう、お土産忘れるところだったわ。はいこれ」
そうしてなんと、文の襟首をひょいと引っ張ると、自分できんきんに凍らせた冷凍みかんをごろごろごろごろ、いくつも流しこんだのです。
「──────────────!?!?」
ごろごろごろごろ転げてしまったら、炭火も椛も蹴倒してしまいます。文は必死に我慢しました。
「だっ、大丈夫ですか!」
椛はとっさに助けようと、身を乗り出しました。そうしてレティは、それじゃぁね。と一言残して、けらけら笑いながら、再びどどうと冬の風を巻き、去っていったのでした。
* *
「あいつめ~……こんど会ったら太ましいって連呼してやる……」
「……まぁまぁ」
椛に慰められながら恨み言をぶつぶつ言いつつ、それでも文は、冷凍みかんをもぐもぐ食べたのでした。鍋でちょっと温まりすぎたところだったので、程よく甘酸っぱい冷凍みかんはちょうど良かったのです。
椛も一つ二つ食べました。そうして残った分は、雪で洗ったお鍋の中に入れて、明日持って帰ることにしました。
炭火はまだ明々としていますが、蝋燭はもうだいぶ短くなっています。そろそろ休みましょうか、と文が言おうとした時には、椛はすでに毛布を広げていました。
「ごめんなさい。二人にはちょっと小さくて」
「レティの分は?」
「あの人はほら、平気ですから」
「あぁ……それもそうね」
そうして文は蝋燭を吹き消し、二人は身を寄せ合って毛布にくるまりました。炭火の赤い輝きが残る中、まだしばらくはぽそぽそと、おしゃべりがつづいたのでありました。
どっとはらい。
かまくらのようなほっこりとした暖かさのあるSSでした。ラヴい。
椛可愛いよ椛