※この作品は作品集14『八雲一家の風呂事情:三色(前)』の続きです
しばし言い辛そうにしていたメイドは、おずおずと口を開いた。
「……ん。『咲夜と一緒だったら入っても良いわよ』って……お嬢様は良くおっしゃられる、から」
おおぅ。
なるほど、確かにあの吸血鬼ならばそういう事を平然と言いそうだ。
「まあ確かに気後れするのもわからんでもないが……。でも、従者として随分と信頼されているじゃないか。喜ばしい事じゃない」
「……そりゃあまあ。ただ色々と問題もあるのよ」
メイドは私の言葉を肯定はしたものの、妙に歯切れが悪い。
「なんだなんだ、随分と煮え切らない返事だな。別に従者と主人の一線を越えるような事をしてる訳じゃないんだろう?」
それは何気ない、冗談半分の質問だったのだが。次の瞬間、メイドの表情が彫像のように固まった。
うぉおい!? まさか二人っきりなのを良い事に……? 流石にそれは色々な意味で宜しく無いだろ。
そんな事を考えていた私だったが、唐突に殺気を感じて反射的に一歩後ずさる。
すると次の瞬間、メイドのナイフが私の頬を掠めて通り過ぎた。
「何するのよ、もう少し避けるのが遅れたらぐっさりじゃない」
「碌でもない事を考えないで欲しいわね。ある訳無いでしょ、そんな事。ただ……うちのお嬢様は普段からお戯れが好きなだけで」
「へぇ。良かったら参考になるかもしれんし、ぜひ聞きたいもんだ」
我ながら興味本位丸出しだが、ダメで元々でとりあえず聞いてみる。
「笑ったら刺すわ。それでも良いなら聞かせても良いけど」
「分かった分かった、笑わないから聞かせてくれ」
と言いつつ、つい顔がにやけてしまうが……この程度は諦めてもらおう。
憮然とした表情を浮かべつつも、メイドは話を始める。
「最初の内はただご一緒に入るだけだったんだけど、数ヶ月くらい前だったかしら。お嬢様がね……」
■■■
石鹸の泡が目に入らないよう注意しながら、私はお嬢様の頭を洗い、一気に流す。
目を閉じて小刻みに体を揺らす様が、愛らしくも可愛らしい。
「うー。終わったかしら、咲夜……」
「ええ、これで終わりですわお嬢様。後はお体の方も良く洗ってくださいね」
そしてとりあえずお嬢様の側を離れ、私も頭を洗ってしまおうと思ったとき、お嬢様の声が浴場に響いた。
「ねー咲夜。咲夜が洗ってよ」
…………。
「……はい?」
咄嗟に時間を止めたからお嬢様は分からなかっただろうけれど、お嬢様の言葉を理解するまで私はかなりの間、思考停止を余儀なくされた。
いやいや落ち着きなさい十六夜咲夜。
私が洗う、までは分かる。主語が私で動詞が洗う。
で、私は一体何を洗えば良いのだろうか。まさかお嬢様のお肌を……いや、それは色々な意味でありえないとして。
汚れた服などだろうか。だとしたら私にはお手の物。
……なるほどつまりお嬢様は、風呂の残り湯が勿体無いから、これを使って洗濯をしろ……と、そう仰りたいのか。それなら納得だ。
「分かりましたお嬢様、風呂上りにでも早速済ませたいと思いますわ」
「何の話をしてるんだ? 私は咲夜に『私の体を洗ってよ』って言ってるんだけど」
……………………。
「ほ……本気で、仰って……ますか? と言いますか、何故急に。これまではお嬢様がご自分でなさっていたと思うのですが……」
出来るだけ平静を装ったつもりだったが、つい声が震えてしまった。しかし……お嬢様、流石にそれは色々と宜しくない気がするのですが。
「まあね。でもさ、昨日パチェと話をしてたら言われたんだけど」
けれどお嬢様は全く気にせず、事もなげに私を見る。
「なんでも中世の王侯貴族は自分で体を洗ったりはしなかったみたい。下々の者に対して堂々とした振る舞いを全ての場所で見せる事で威厳を示したらしいな。ってわけで、今後は体を洗うのも咲夜がやって」
ああもうパチュリー様ったら、また変な事をお嬢様に吹き込んで……。
眩暈にも似た感覚が私に襲い掛かる。お嬢様の無理難題には慣れてるつもりだったけれど、今回のは格別だった。
けれど私はお嬢様の忠実なる従者。臆するな十六夜咲夜、どのような事であれ希望を最大限かなえて差し上げるのが私の務めだ。
「分かりました、では僭越ですが……。力を入れすぎない様に注意いたしますけれど痛かったら必ず仰ってくださいね」
「大丈夫、そんなやわじゃないさ。あ……でも羽には気をつけてよ。あんまり強くされたらそこは結構……痛いし」
照れられたのか、お嬢様はくるっと後ろを向いた。……お嬢様、可愛すぎです。
陶磁器のように白いお嬢様の背中を、私はタオルで優しくゆっくりと擦る。黒い濡れ羽から水滴が光って滴り落ちる様はとても幻想的だった。
高鳴る心臓を落ち着け、私は背中を洗い流す。羽の裏にお湯を当てた時、お嬢様が何とも言えないくすぐったそうな表情をしたのは、見なかった事にしておこう。
「……で、ではお嬢様、私も体を洗ってしまいますわ」
頭の中に一瞬広がったおかしな妄想を吹き飛ばし、私がそそくさとお嬢様から離れようとしたその時。
「あれ。さくやー、前は?」
私がどうにか保っていた冷静さは、そのお嬢様の一言で今度こそ崩壊した。
床のタイルに足を滑らせ、したたかに頭を打ちつける。
「お、おお、お嬢様!?」
目の前をチカチカと星が駆け抜けるが、そんなもの気にしてる場合じゃない。が、そんな私を前に、お嬢様は破顔した。
「あははははは! 冗談に決まってるじゃない、流石に前くらい自分でするわよ。だけど慌てる咲夜の顔を久しぶりに見たわ。ね、ね、咲夜。今のもっかいやってっ」
「~~っ! お断りします!!」
憮然として私はその場から立ち上がる。すいませんお嬢様、一瞬だけ殺意が沸きました……申し訳ありません。
色々な意味で頭を冷やすべく、私は冷水で頭を洗う。
「……くしゅん!」
その結果。翌朝、私は見事に風邪を引く羽目になった。
■■■
「という訳で、精神的にはかなり疲れるわ……。ちなみに、これが妹様の場合は風呂場が色々と壊れて肉体的に疲れる。そっちは別に良いんだけど」
自嘲気味にメイドは軽く肩をすくめる。
なるほど……紫様の場合は緊張以前の問題な位だらしなさ全開だから私はそんな事を気にした事は無いが。
「苦労してるんだなぁ……」
「幻想郷随一の困ったご主人を持ってる相手に言われたくないわ」
「む。随一とは失礼な、せめて屈指と言ってくれ」
困った、って部分は否定しないのねとメイドが苦笑した。まあ……流石にそこは……否定しようが無いし。
ただ、一緒に入りたいと頼むのはありかもしれんなぁ。
考えてみれば紫様に対しては怒鳴ってばかりだからな。案外、紫様も真面目に聞いてくれるかもしれない。
「それなりに参考になったような気もする。感謝するわ」
「あ、そう。……思ったより長話になったわね、じゃあそろそろ私は行くわよ」
荷物を抱え直したと思った次の瞬間、メイドは私の視界から消えていた。大方時間を止めて移動したのだろう。
しかし、それにしても。
「何で前を洗う位でそんなに慌てるかね?」
尋ねるタイミングを逃したから聞けなかったが、橙や紫様にいつもそうしてる私には、それが非常に不思議だった。
「さてと。後は聞く相手は……と」
魔法の森の中に入り、黒くて速い人間の家を探す。喋りからして女なんだか男なんだか分からないような奴に思えるが、それでも一応は女だろうし。
草木の生い茂る日陰の場所って聞いてたんだが……と見て回っていると、程なくそれっぽい家を見つけた。霧雨という表札もかかっているから間違いないだろう。
「すまん、ちょっと邪魔するぞ……おおぅ!?」
扉を開いていきなり、本の山が私に向かって倒れてきて私はいきなり度肝を抜かれた。
これはひょっとして侵入者用の罠か? それにしては随分とお粗末だが……っておい、ちょっと待て。
「お? なんだ随分と珍しい客だな。丁度ついさっき、今日はきつねうどんでも食いたいと思って食い終わった所だぜ」
トレードマークの黒帽子に金髪を靡かせて顔を見せたのは霧雨魔理沙本人だった。……が、そんな事はどうでもいい。
「一体何なんだ、この絶望的なまでに散らかってる部屋は……」
散らかってるという表現は控えめに過ぎたかもしれない。
山と積み上げられた本、本、本。
そして見たままを正確に表現するならば……『ぐちゃぐちゃ』という言葉が一番適当と思われる程に部屋のあちこちに存在する、怪しい魔力を放っている物品の山。
だが魔理沙から出た言葉は、私の予想の遥か斜め上を行った。
「そっか? これでも昨日片したから、多少は綺麗になったんだぜ」
「片……!?」
一体これのどこに片付けた後があるのだろうか。果てしなく謎だ。
というか、この部屋を綺麗になったなどと表現するのは、綺麗という単語の冒涜だと思うのは私だけか?
「まあそんな事はいいや。んで、一体何しに来たんだ? ……む。さては、ついに紫の奴が嫌になって家をおん出たとかかっ?」
「そんな訳あるか。紫様を何だと思ってるのよ」
「幻想郷で一番、自堕落で胡散臭くて出鱈目な奴だと思ってるが」
ぐ……当たり過ぎてて何も言い返せん……。
宜しく無い話題を、私は無理矢理変える。
「実はちょっとお前さんに聞きたい事があって来たんだよ。魔理沙は風呂って……」
と、会話の中途で私は思わず押し黙った。
この部屋を見れば聞くまでも無いような気がする。正直……まともに風呂に入ってるようには、とても思えん。
「何だよ、途中で黙るなよ。何を言いたいのか分からんだろ」
「あーいや……魔理沙は風呂って、週に何回入ってるのかと思って」
それでも聞いてしまった以上はしょうがないか。仕方が無いから、これだけ聞いてさっさと帰ろう。
「風呂か? これでも立派な年頃の乙女だからな、毎日入ってるに決まってるだろ」
「おおおおお、本当か!?」
完全に予想外の言葉に、思わず驚きをそのままストレートに出してしまった。
「……まごう事無き事実だが、何でそんなに驚くのかぜひ理由を聞きたいぜ」
案の定ジト目で睨まれる。
「おほん。でも毎日って事は当然この家には風呂があるんだよなぁ。しかし、この部屋の中に本当に……あるの?」
仮にあったとしても、浴槽にまで本がびっしり詰め込まれてるような気しかしないんだが。
が、魔理沙は腕を組んでふっふっふと意味深な笑いを浮かべる。
「良くぞ聞いてくれた。昔は家の中に風呂場があったんだが、何故か荷物置き場になっちゃってな。そんな訳で、この私が地下の温泉脈を召還して外に作ったのが……これだぜ!」
魔理沙は勢い良く窓を横に引っ張る。
すると、そこには湯気の立ち上る立派な岩風呂があった。
……ほお、こりゃ凄いなぁ……。
「しかも窓を開けたら真下が風呂だから、服を放り捨てたら飛び込んですぐ入れる優れもんだぜ。どうだ参ったか」
……それは……違う意味で参ったが、まあ何も言うまい。
しかし、これならば相談相手としては最適かもしれん。
「実は……真面目に相談したい事があるんだよ。うちの橙は知ってるよな」
「ああ無論知ってるぜ。噂じゃ毎日お前と同じ布団で寝てるとか聞くけど」
どこから聞いたんだ、そんな話……確かに事実だけど。
「橙は元々が生粋の猫だから、大の風呂嫌いでな。何とかして直す方法が無いかと思ってるんだが……良い方法は無いだろうか」
スルーかよ、と魔理沙が笑っている。やかましい。
親指で顎を支えるようにして魔理沙はしばし考え込むが、ポンと手を打った。
「なあ。お前もしかしなくても猫を無理矢理、風呂に放り込んでんじゃないのか?」
「放り込むとは人聞き悪いわね。でもしょうがないだろ、そうでもしないと自分から入ろうとしないんだもの……」
私だって、しないで済むならこんな事したくない。変な技術ばっかり身につくし。
が、それで合点が言ったとばかりに、にやにやしながら魔理沙が私を見ていた。
「なるほど、そりゃ入るわきゃ無いわな。考えてもみろよ、風呂好きな奴だって、さっさと入れと催促されるのはやなもんだぞ。ましてや元から風呂嫌いな猫にそんな事やってたら……なぁ?」
う……。こいつにしては珍しく正論だ。
「そ、それはまぁ。でもだからと言って、入らせない訳にもいかないだろう?」
「まだまだ分かっちゃいないな。猫ってのは構われると逃げるが、放置されると寄ってくるもんだぜ。試しに五月蝿く言うのを少し辞めてみたらどうだ?」
「いや、しかし……」
言われないのをこれ幸いとばかりに全く入らなくなったら流石にまずくないか、と反論しようとした時。私の脳裏に、不意にとある童話が浮かんだ。
旅人のコートどっちが先に脱がせられるか。結局コートを脱がせたのは北風では無く太陽の暖かさだったとか言う話だったか。
「……うーむ。流石に紅魔館で泥棒猫と呼ばれてるだけあるな、含蓄深い意見だ」
「泥棒猫だけ余計だぜ、借りてるだけだよ私が死ぬまでな。んー、でも風呂の話をしてたら入りたくなったし、いつもの時間にゃちょい早いが今から入るか」
どうやら思いついたら即実行なのだろう。魔理沙は椅子から立ち上がるとポイポイと服や下着を脱ぎ適当にその辺へと放り投げ、窓から岩風呂へと飛び込んだ。
ドボーン、と大きな水音が響く。
岩風呂や 魔理沙飛び込む お湯の音 ……風流でも何でもなかった。
しかし、私は確かに女だが……だからと言って……。
「どうでも良いが人前で堂々と脱ぐんじゃない。少しは恥じらいという物をだな」
「正確には狐前だけどな。折角だしお前さんも入ってくか? 珍しく無償で提供してやるぜ」
「だから……」
私の視界の先には、手を振る魔理沙と立ち上る湯気。
沈思黙考すること十数秒後、私は導師服を脱ぎ捨て飛び込んだ。
「結局私とやるこた同じか。落ち着いてるように見えて、意外に子供っぽいんだな」
「……うるさいな、自分の事を棚に上げて子供っぽいとか言うな」
湯の温度は良い具合にこいつの魔法で調整してあるのか、天然温泉の割りに熱過ぎる事も無かった。
手足を一杯に伸ばしてもまだ遥かに余裕がある。……あー、やっぱりいいなぁ。
と、魔理沙が私の方をじっと見ていた。
「……何よ」
「いやあ、本当にでかいと思ってな。なあなあ、何を食ったらそんなでかくなるんだ?」
視線の行き先に気がついて、私は反射的に横を向く。
「どこを見てるんだ、全くもう……」
「背の話だぜ?」
狼狽する私を見て心底楽しそうに笑う。
ったく、人をからかって遊ぶのもいい加減にしろ。
それからしばらくの間、私はこいつとの馬鹿話に付き合う。そして上がる間際にこんな事を言われた。
『やっぱ風呂は楽しいのが一番だな』と。
自分で言った事だが、分からなかったら人に聞くと言うのも。
確かに捨てたもんじゃないかもしれない。
***
「ごちそうさまーっ!」
「はい、お粗末様でした。……ほら橙、ほっぺにご飯粒ついてるぞ」
それから私は家に帰り、起き出して来た紫様に猫の会合から戻ってきた橙と、三人でちゃぶ台を囲んで夕餉を終える。
普段通りの和やかな雰囲気の中、私は橙にも手伝って貰いながら洗い物を終える。
「よし片付け終わり。さてと、じゃあそろそろお湯でも入れるかな」
「にゃっ!?」
が、私の言葉と共に、橙が大きく体を震わせた。
二本の尻尾を落ち着き無く揺らしながら、私との距離を少しづつ取っていく。
普段ならば、いつものようにここから橙と追いかけっこが始まる事になるんだが、今日はいつもと同じ轍は踏まない。
「こらこら、そんなに警戒するな橙。私も考えたんだがな、嫌がるのを無理に連れて行くのも可哀想だし無理して入らなくても良いぞ」
「え? ……藍さま、ほんとう?」
不安げにこちらを橙がちらちらと見る。油断した所を不意打ちで捕まえるんじゃないかとでも思ってるのだろうか。
全く。私はそんな事は……たまにしかない。
「ああ。でも私は、本当は橙と一緒に入りたいんだぞ? だから、気が向いたらちゃんとおいで」
軽くポンと橙の頭に手を載せ、私は笑いかける。
しゅんとした顔で、橙は小さく頷くとパタパタと自分の部屋へと走って行った。
……うーん、これで効果があれば良いんだが。
「さてと。じゃあ夕飯も終わったし、私は食後の睡眠でもしようかしら」
そんな私を尻目に、そそくさと寝室に引っ込もうとする紫様。
「ああもうダメですよ紫様! 食べてすぐ寝たら牛に……あー、おほん」
ついいつもの調子で叫ぼうとしたが、何とか途中で止める。紫様も意外だったのか歩を止めこちらに振り返った。
「あら珍しい、藍からお小言が最後まで来ないなんてどういう風の吹き回し?」
「……えーと。その。あの。……実は一つお願いが……」
これから紫様に言うべき言葉を頭の中で私は反芻する。……が、どうにも気恥ずかしくて、つい紫様から目を逸らしてしまう。
ちらっと紫様の方を見やると、紫様がやって来て私の額を手で抑えた。
「熱は無いわね」
「いえ、そういう事ではなくてですね。……出来れば今後は、私と一緒に湯浴みに付き合って頂きたいと思いまして。……えーと、私の子供の頃のように……」
私の言葉に紫様が数度瞬きを繰り返す。
そんなにじっと見ないで下さい紫様、物凄く恥ずかしいんですから。
ふと昔の光景が脳裏に蘇る。
『ゆかりさま、ゆかりさまーっ』
『ん? どうしたの?』
『あのね、遊んでたらいっぱいあせかいちゃった。おふろはいろっ』
『あらあら。藍は本当やんちゃさんなんだから。ちょっと待ってなさいね』
……。
そのまま放っておくと、延々と恥ずかしい記憶が流れそうだったので首を振って吹き飛ばす。
自分で言うのも何だが……式になる前は、少々……というレベルでは済まない程、物凄く紫様にべったり甘えていたからな……。
顔を真っ赤にしているだろう私を見て、紫様はおかしそうにクスクスと笑い出す。紫様が今、何を想像されてるのは考えない方が私の精神衛生上良いのは間違いない。
すると紫様はあっさり頷かれた。
「良いわよ、そうしましょうか藍……くく……」
「そ、そんなに笑わなくても良いじゃないですか……」
「だって。橙から言われるならともかく、今の藍からそんなこと言われるとは流石の私も想像しなかったもの」
放っといてください。
恥ずかしさから逃げるように、私は脱衣所まで向かう。
するとそこには。
「……えっと」
照れくさそうにした橙が、タオルを手に立っていた。
「た、たまにだったらだけど……私も藍さまとお風呂、したいもん」
俯く橙の頭を、私は優しく撫でてやる。
「本当、橙は素直で良い子だな。紫様もいらっしゃるから、じゃあ皆で入ろうか」
「うんっ」
微笑む橙の表情は、太陽のように明るかった。
***
そして、我が家の全員が風呂場に揃う。
……橙を追い掛け回す事も、紫様を叩き起こす事も無くゆったりと風呂に入れる日が来ようとは。他所の連中が聞いたら絶対笑うと思うが、それでも私は感動を禁じえなかった。
「ねー藍さま。紫さまと藍さまと私、みんなでお風呂したことって……これが初めてなのかな?」
橙に言われて、私もはっと気がつく。
なるほど、意識して併せた事が無かったからだと思うが橙の言う通り確かに、初めてだ。
「そうだなぁ。でもこれからは、増えると良いな」
いつもはかなり広い浴槽も、皆で入ると結構狭い。
けれど私には、この狭さが決して嫌では無い。風呂は体だけではなく、心も暖める物だという事を私は今日初めて知った。
「さてっと。じゃあ藍、背中洗ってあげるわよ後ろ向きなさい」
「え、あ、いえ紫様にそこまでして頂く訳には」
「藍が自分で言ったんでしょ、昔みたいにって。ほらほら」
ここに来てようやく、自分が早まった事を言ったような気がしてきた。
「紫さまー。藍さまって、子供のころはどうだったんですか?」
ひょこっと顔だけ出して、橙が紫さまにとんでもない事を尋ねる。
「ちょ、こら橙なにを聞いて……!」
「そうね。橙の数十倍は甘えん坊だったわよ、夜中に一人じゃ寝られない位」
興味深々で紫様の話に橙は耳を傾ける。
うわやめて下さい、お願いですから!
「紫様、橙の前で昔話は……」
「藍の逸話は本当、色々とあるわよー。それこそ全部三日三晩徹夜で話した位じゃ終わらないぐらい。じゃあ橙、今後お風呂に入った時はその話を聞かせてあげましょうか」
「はーいっ紫さま。楽しみにしてます~」
私は本格的に頭を抱える。今度は私が風呂嫌いになりそうだった。
……紫さまが一日も早く昔話に飽きるのを祈るしかないな、これは……。
「じゃあ藍、今度は前。あら、ちょっと見ない間に随分大きくなったわねぇ」
「ちょっと紫様、以前も言いましたが、揉んでるだけ……やめ……! 橙が見てますってば!」
「……私もおっきくなるかなぁ?」
「大丈夫よ、橙も藍に揉まれればきっと大きくなるわ」
間違った事を橙に堂々と吹き込む紫様。しかも、どうやら思いっきり本気にしたのか、橙は力いっぱい頷く。
こら橙、待て。そんな迷信を信じるんじゃない!
……結局、普段の倍の時間をかけて私は風呂から上がる。色々と疲れはしたが。
でもやはり。
黒白の言葉じゃないが風呂は楽しく入るのが一番だと、私は思った。
***
さて。多少は別の問題も出た気はするが、これで我が家の風呂事情は無事に改善した……と思ったのだが。残念ながら世の中、そんなに甘くは無かったりする。
「こら橙、待てと言ってるだろ!」
「やだったらやー!! 藍さま、勝手に私の服脱がすのやめてよぉ!」
あれから一月後、私はやっぱり以前と同じように橙を追いかけ回していた。
「しょうがないだろ、放っておいたら一度しか入らないじゃないか!」
「一回入るだけでも頑張ってる方だもん!」
そう。確かに無理強いをしなくても、純粋に橙は風呂に入るようにはなった。それはとても良い事だし、評価してあげるべきなのだが……。
問題なのはそれが一週間に一度だけだと言う事だ。
前進したのは認めるが、根本的な問題解決には全くなってない。
「毎日入れとはもう言わない、せめて週に三回は入ってくれ頼むから……」
「そんな何回もなんて、ぜっっったい、いやっ!」
廊下をバタバタと駆け足で逃げ出す橙。
「ああもう全く……あ。おい橙、前を見ろ前を」
「え? きゃあ!」
余所見でもしてたのか、避け遅れて橙は紫様の部屋の襖を思いっきり突き破った。
「いったた……わっ」
涙目で鼻の頭を抑えている橙を、私はひょいと抱き上げる。
ポカポカと泣き喚きながら私の胸を叩く橙を抱えたままで、私は紫様の布団へと近づく。
「紫様……もう夕刻ですから起きて下さいっ。もう3日は寝っぱなしですし」
「……むにゃむにゃ。しゅんみんあかつきをおぼえず、しょしょとりしめころし……ゆゆこ、それはやきとりよ~」
どんな夢を見てるんですか、一体……そもそも今は春じゃないですし。
「啼鳥を聞くですよ、焼き鳥にしてどうするんですか。って! 本当いい加減に起きて下さいよ!」
「おきてるわよ~。おきてるおきてる……ぐー」
……で、紫様の方はと言うと……。起きてる時に頼めばそりゃ入ってくれる可能性は飛躍的に高まりはした。
『そういえば藍は子供の頃、甘えん坊だったものねぇ』などと昔話をされるのも橙が横にいる時でなければだが……嫌いじゃないし。
だが考えてみたら紫様の場合、そもそも風呂をどうこう言う以前に寝起きが壊滅的に悪い現実からどうにかしなければいけなかった訳で。
しかし、そんな事は私どころか幻想郷の誰を連れてきても無理だろうな……。
『ただねー、猫の方はさておくとしても紫の不精は絶対にどうにもならないわよ。永遠亭の薬師呼んだって無駄だと思うけど』
いつぞやの紅白巫女の言葉が嫌にはっきり思い出されて、私は頭が痛くなった。
そしてやっぱり。
私は今日も今日とて風呂で苦労する日々を送っている。
(八雲一家の風呂事情) 完っ
でも間が空きすぎ。
アットホームな八雲家がいいですね。 橙、週に三回は入ろうぜ臭うから、ね。
続き物を出したなら、間を空け過ぎないように的意味で50点
脳内にこの八雲一家の光景を想像するとニヤニヤが止まらん。
とりあえず完結させたことに拍手。
八雲一家はすばらしい……今は無き一家団欒という幻想だね
空白の時間の長さより完結したことの喜びが大きいです。感謝
風呂は好きだけど面倒だからいつもシャワーで済ませてしまうこの頃
今度ちゃんと湯船につかろうかなぁ……
物語を書けず読む専門の私は、読む側が読む物を選び自由に評価するのと同じように、書く側が書くかどうかや書く題材を選ぶのは作者の都合、作者の自由だと考えているので、シリーズものが完結しなくても「残念だけどしかたない、作者の自由だ」と思っています。ここに投稿するのはプロの方ではない(多分)のでなおさらです。自然の都合で雨が降るのと、人間が降雨をどう評価するかが関係ないのと同じようなものだと考えています。作者様は空と違って評価を機になさるかもしれませんが。
そういうわけで続きが書かれることは全く期待していませんでしたが、その分書かれたときの感動は大きかったです。間が空くのは読む側には良いことではありませんが。
とにかく、最後まで書いてくださったことは嬉しかったです。内容も楽しかったです。
誤字報告:温泉脈を「召還」→「召喚」
よかった生きてて
咲夜さん代わってくださ(ryu
ラスト辺りの一家で風呂に入っているシーンの会話はまさにそんな感じですね。
あと風呂嫌いのペットを洗うのは、確かに一苦労ですw
なにはともあれ、完結ご苦労様でした。