結局、長い間を生きることとは一体どんなことなのだろうか。アリス・マーガトロイドは時折、そんなことを考える。
例えば、蓬莱人。彼女たちは永遠に死ぬことは無いというが、それは果たして本当だろうか。誰かに殺められても生き返るというし、一度だけその場を目にした事がある。もう二度とあんな光景は目にしたくない。
長く生きる人間といえば、仙人などが上げられる。しかし、仙人の域まで達するとすでに人ではなく、精神的で抽象な存在、あるいは神として捉えられることが多い。であれば、同じく長く生きる蓬莱人もそうではないのかと、考える。もっとも、人との交流を深めていればの話ではあるが、長い間隠遁生活を送っていたとはいえ、最近永遠亭の蓬莱人たちは人との交流を深めていると聞く。であれば、彼女たちが仙人の様な存在に昇華するのもそう遠くないのではないかと思う。もし、その日が来たとき、彼女たちはどう思うのだろうか。死ぬことは無いと奢っていた日々は確実に終わりを告げ、ぼんやりとした死のレッテルが目の前に叩き付けられる事になるのだ。待てど暮らせどそれが消えることは無く、むしろはっきりと見えることになる。その時どう思うのだろうか。
永遠を生きる蓬莱人でなくとも、幻想郷に生きるものたちの寿命は長く、しかしそれでも魔女は短い部類に入る。種族が魔女である自分はともかく、魔女を自称する霧雨 魔理沙はどうなのであろうか。人間としての魔女を捨て、自分と同じ道に入るのだろうか。もっとも、そのときにはよぼよぼの老婆になっているのだろうが、それは仕方の無いことだと諦めるべきなのだろう。彼女は人間で、自分は魔女なのだ、その違いを比べるのは、天と地の違いを比べるようなものだ。その違いは全く違う、と述べるものもあれば、本質は同じとのたまうものもいるに違いない。人の、生き物の考えなど、千差万別で同じものなどあるわけが無いのだから当然だ。そして、きっと自分と同じ意見を持ってくれるものは、自分が創りあげた物にしか、ないのだろう。
取り留めのない思考を無理矢理にまとめて、そっと手に力を込める。それはゆっくりと繰り糸を伝い、小さな自分の分身へと流入する。分身の四肢にそれは満ち、そして彼女の深奥へと、力を満たす。かたかたと彼女は身震いをし、そして。
「……――」
その瞳を開いた。唇が薄く開かれるが、肺から息は出されない。そもそも、空気を入れる肺が無いのだから、当たり前のことだ。彼女の胸の中には、複雑に編んだ魔術式が組み込まれている。自分がもっと上手く、コンパクトに術式を編めれば、そこに何を入れただろうか。きっと、そんなことができるようになる日は、まだまだ遠いはずだ。そのとき何が出来るようになるかなんて考えることは、後回しにしよう。どうせ、その時が来たら同じことを考えているだろう。変化なんて早々訪れるものではない。果たして、これは諦観なのだろうか。
「――――」
彼女の四肢に力が満ち満ちる。端にまで完全にいきわたった力はその身体をたつように命を飛ばす。そして、彼女はそれに従って、足を踏ん張り両手を持って身体を支えようとする。小さな体の彼女を、これもまた小さな両足が支える。それでも屹立するその姿は、凛凛しく感じるものがあった。彼女は自分の分身であるが、自分はこんなにかっこよく生きているだろうか? それすら分からない自分はきっと、間違いなく修行が足りないのだろう。そんな自分すら慕ってくれる、彼女は、その両の足で机を踏み付けて。
ゴトンと。音を立てて、床に落ちた。
「上海……」
アリスの目に、上海人形はその骸を晒した。
◇◆◇
「アリス?」
昼間から明かりのさすことの少ない魔法の森は、しかしてその上空は星空に満たされていた。ゆらゆらと、宴会帰りの上機嫌と風に任せ、気の向くまま風の向くまま酔い醒ましをかねて、魔理沙は空をとんでいた。煌煌と森を照らす月は陽気に笑っているような気がする、それにつられて星が踊っているように見えた。乾杯だと、持ってもいない猪口を月にかかげる。たぷんと、猪口の中に清酒が波打ったように見えた。
これはいけない、酔いを醒まさなくてはと頭を振った先である。木が開けた、小さな広場にしゃがみ込むアリス・マーガトロイドの姿を見つけた。胸の中に何か、大事そうに抱え込んでいる。酔いの勢いに任せ、急降下する。
「おう、アリス。こんな所で何をやってるんだ?」
「…魔理沙……?」
ゆらりと魔理沙のほうへ顔を向ける彼女は、彼女の眼は兎のように赤かった。一晩中泣きはらしでもしたのか、パンパンに腫れた目じりをしている。それでもその美貌が薄れることがないのは、何故だろうか。魔理沙は的外れにそんなことを考えた。
不謹慎にも、魔理沙は何故彼女がそんな表情をしているのかがよく分からなかった。普段からアリスは気難しい表情をしていたし、その表情の通りに口を開けば難しいことばかり喋っていた。それは学習を力へと代えるべき魔女であるなら、腰を据えて互いが心行くまで語り明かすべきことなのだろうが、あいにくと酔っ払った魔理沙には、そんなことを考える気はまったく無かった。アリスがその腕に抱くものはなんなのか、魔女としてより、蒐集家としての血が騒いだ。
だから、魔理沙はアリスに訊ねた。その腕に持ってるのは何なんだと、興味をそそられるままに訊ねた。アリスは不躾なその質問に眉をひそめながらも、そっと腕を開いた。魔理沙が嬉々として覗き込めばそこに横たわるのは見慣れた人形であった。
上海人形。長い間、それこそ魔理沙がアリスと知り合ってからずっと彼女の傍にあり続けた人形。終わりを見せない冬のときも、永遠に続くかに見えたあの夜のときも、いつも傍にいた、上海。時には主人の楯となり、またある時にはその矛となって戦っていた。魔理沙自身、終わらない冬の時、鬼が起こした異変、永夜異変の時と、3度その勇姿を目の当たりにしてきた。直接上海人形と戦ったときなど、その機動力と芸の細かさに手を焼いたものだ。その上海が、今は瞳を爛爛と輝かせること無く、手足は力が抜けてだらりと垂れている。彼女の主人であるアリスがこの場にいるのに、上海がこんな状態は何故なのか。
その答えは魔理沙が問いかけるまでもなく、アリス自身が語りだした。かすれ気味の声で、涙を堪えしゃくり上げながら喋るその姿にいつものアリスの姿は無かった。小さな子どものように、喋りたい事を整理もせず、浮かぶままに羅列する。
しかし、ただただ、その言葉は意味を成さない。いや、理解することは出来る。ただその事実が、その現実を理解することを、本能が拒否しているかのように、魔理沙は感じた。頭では理解できる、しかし、“分からない”。
「どういうことだ? 上海はアリスが魔力を供給し続ける限り、動くんじゃなかったのか?」
「…分からない。私だって、…分かってたらどうにかしたわよ! 私も分からないのに私に訊かないで…お願い、何がなんだか分からないの……」
「ガタが着たんじゃないのか? ほら、いつも上海はお前のそばに居ただろ? 動かしっぱなしにしてたからじゃ――」
静かな森に乾いた音が一つ響いた。
急に視界が左を向いた魔理沙は、それを不思議に思いながら頬に手をやる。途端、刺すような痛みが走る。口の中に、鉄のような味がした。口の中で出血しているらしく、思わず魔理沙は顔をしかめてアリスを睨んだ。しかし、魔理沙は口をつぐむ。本来ならここでアリスに怒鳴りかけて、自分の頬をぶったことを謝らせる所なのだが、アリスの表情がそれを許さない。
アリスは、泣いていた。はたはたと、大粒の涙をこぼしていた。
「人聞きの悪い事言わないで! 魔理沙、貴方私が上海のためにどれだけ時間をかけてきたか分かる? ねえ、分かる!? 私がどんなにこの術式を編むために時間と手間をかけたか分かる?」
「ア…アリス……? お前、」
「放っといて! 貴女なんかにわかりゃしないのよ、私の苦労なんてっ……! いつもいつも人の邪魔ばっかりして! 私を否定しかしない、認めてくれないっ!」
「ア――……」
激昂するアリスは、弱々しく腕を振り回すばかりで、大粒の涙を落とすばかりであった。次第に腕を振ることもやめ、上海のように腕をたらして、泣き続けた。こぼれた涙は地面に染み込み、明日また木々が吸い上げるのか、すうと地下へと消えていった。
魔理沙は自身の体にすがり付くアリスをどうすることも出来ず、その頭に手を回した。くぐもる声で、アリスがぽつりと語る。
今朝、急に上海が動かなくなったこと。自分にできうる限りの手を尽くして、治そうと尽力したこと。それでも動き出さなくて、組成式から編みなおしたこと。
「―でも、でもダメだったの…。何をしても、上海は動いてくれないの。魔理沙、貴女…、貴女ならどうにかできない? ねえ、治してあげる方法知らない?」
創生の魔法など、魔理沙が知るわけも無い、よしんば知っていたとしても管轄外だ。すがり付く友人に、魔理沙は首を振ることしか出来なかった。ただ首を振って、優しくその金髪を撫でて、落ち着かせるようにだけ心を配った。
「それにしても」と、魔理沙は思う。何故上海は動かなくなってしまったのだろうか。アリスの言うとおり、彼女は上海のために多く時間と手間と力をかけ、そして上海を、愛していた。
そう、愛していた。その愛は上海に届かなかったのだろうか。
「なんで…? 私のせいなの…? 私が未熟だから?」
「それは違うぜ、アリス。お前はよくやってるよ、きっと、上海も感謝してる」
「…うん……うん、うん…………」
魔理沙の胸で、ほろほろと涙をこぼし続けるアリスの肩を押して、視線を合わせる。金色の瞳を真正面から見つめて、諭すように言う。アリスが泣いていては、上海だってうかばれない。それに、このこと踏み台にして、次に活かすべきだ、そうでなければ、上海の死は一体何の意味があるのかと。
「そうね…」
涙を拭いて、自分の足で立って、アリスは言う。魔理沙の言うことは間違いでなく、また本当の事でもないと。上海が壊れてしまったのはきっと、運命なのだろうと。永遠に輝いているように見えるこの月でさえも、いつかは壊れてなくなるに違いない。ただそこに至るまでが長すぎて、人の目には永遠に見えるだけに違いないのだろう。
「きっとそう。だから、上海が死んでしまったのは、私のせいでなく、誰のせいでもない」
「じゃあ、どうする? また上海を作るか」
「ううん、きっと私は、上海を作るわ。今よりもずっと、素晴らしいものにしてみせる。でも――――」
「でも?」
くるりと、アリスはターンする。生前上海がそうしていたように、くるくると月光のカーテンを身にまとう。そうして、ひとしきり魔理沙の前で悲しく踊った。上海を弔うように、彼女が生きていた証を残すように。
アリスはふっと、瞳を伏せる。ほんの一瞬そうしたあと、魔理沙の瞳を見つめて、はっきりといった。
「今はもう、上海を作ることは出来ない」
「それで。それでお前はいいのか」
「いいの」
胸元でギュウと、両手を握って、アリスは微笑んだ。それはとても優しくて、何か悟ったような表情だった。少しだけ、アリスが前に進んだような気がする。愛するものを踏みつけにしてでも、人は前に進まないといけないのだろうか。それはちょっと酷すぎやしないかと、魔理沙はふと思った。
だが。それでも、生きているものは立ち止まることを許されないと、アリスが応える。どんなに悲しく辛くとも、立ち止まることは出来ない。人が歩みを止めること、それは即ち生きることを放棄することなのだから。
「それでも、そんなことは分かってる」
でも今は、少しだけ歩みを止めてもいいだろう。すでに歩みを止めてしまった、上海の想い出に浸るにはそうするしか方法は無いのだから、仕方ない。そう割り切って。
(了)
例えば、蓬莱人。彼女たちは永遠に死ぬことは無いというが、それは果たして本当だろうか。誰かに殺められても生き返るというし、一度だけその場を目にした事がある。もう二度とあんな光景は目にしたくない。
長く生きる人間といえば、仙人などが上げられる。しかし、仙人の域まで達するとすでに人ではなく、精神的で抽象な存在、あるいは神として捉えられることが多い。であれば、同じく長く生きる蓬莱人もそうではないのかと、考える。もっとも、人との交流を深めていればの話ではあるが、長い間隠遁生活を送っていたとはいえ、最近永遠亭の蓬莱人たちは人との交流を深めていると聞く。であれば、彼女たちが仙人の様な存在に昇華するのもそう遠くないのではないかと思う。もし、その日が来たとき、彼女たちはどう思うのだろうか。死ぬことは無いと奢っていた日々は確実に終わりを告げ、ぼんやりとした死のレッテルが目の前に叩き付けられる事になるのだ。待てど暮らせどそれが消えることは無く、むしろはっきりと見えることになる。その時どう思うのだろうか。
永遠を生きる蓬莱人でなくとも、幻想郷に生きるものたちの寿命は長く、しかしそれでも魔女は短い部類に入る。種族が魔女である自分はともかく、魔女を自称する霧雨 魔理沙はどうなのであろうか。人間としての魔女を捨て、自分と同じ道に入るのだろうか。もっとも、そのときにはよぼよぼの老婆になっているのだろうが、それは仕方の無いことだと諦めるべきなのだろう。彼女は人間で、自分は魔女なのだ、その違いを比べるのは、天と地の違いを比べるようなものだ。その違いは全く違う、と述べるものもあれば、本質は同じとのたまうものもいるに違いない。人の、生き物の考えなど、千差万別で同じものなどあるわけが無いのだから当然だ。そして、きっと自分と同じ意見を持ってくれるものは、自分が創りあげた物にしか、ないのだろう。
取り留めのない思考を無理矢理にまとめて、そっと手に力を込める。それはゆっくりと繰り糸を伝い、小さな自分の分身へと流入する。分身の四肢にそれは満ち、そして彼女の深奥へと、力を満たす。かたかたと彼女は身震いをし、そして。
「……――」
その瞳を開いた。唇が薄く開かれるが、肺から息は出されない。そもそも、空気を入れる肺が無いのだから、当たり前のことだ。彼女の胸の中には、複雑に編んだ魔術式が組み込まれている。自分がもっと上手く、コンパクトに術式を編めれば、そこに何を入れただろうか。きっと、そんなことができるようになる日は、まだまだ遠いはずだ。そのとき何が出来るようになるかなんて考えることは、後回しにしよう。どうせ、その時が来たら同じことを考えているだろう。変化なんて早々訪れるものではない。果たして、これは諦観なのだろうか。
「――――」
彼女の四肢に力が満ち満ちる。端にまで完全にいきわたった力はその身体をたつように命を飛ばす。そして、彼女はそれに従って、足を踏ん張り両手を持って身体を支えようとする。小さな体の彼女を、これもまた小さな両足が支える。それでも屹立するその姿は、凛凛しく感じるものがあった。彼女は自分の分身であるが、自分はこんなにかっこよく生きているだろうか? それすら分からない自分はきっと、間違いなく修行が足りないのだろう。そんな自分すら慕ってくれる、彼女は、その両の足で机を踏み付けて。
ゴトンと。音を立てて、床に落ちた。
「上海……」
アリスの目に、上海人形はその骸を晒した。
◇◆◇
「アリス?」
昼間から明かりのさすことの少ない魔法の森は、しかしてその上空は星空に満たされていた。ゆらゆらと、宴会帰りの上機嫌と風に任せ、気の向くまま風の向くまま酔い醒ましをかねて、魔理沙は空をとんでいた。煌煌と森を照らす月は陽気に笑っているような気がする、それにつられて星が踊っているように見えた。乾杯だと、持ってもいない猪口を月にかかげる。たぷんと、猪口の中に清酒が波打ったように見えた。
これはいけない、酔いを醒まさなくてはと頭を振った先である。木が開けた、小さな広場にしゃがみ込むアリス・マーガトロイドの姿を見つけた。胸の中に何か、大事そうに抱え込んでいる。酔いの勢いに任せ、急降下する。
「おう、アリス。こんな所で何をやってるんだ?」
「…魔理沙……?」
ゆらりと魔理沙のほうへ顔を向ける彼女は、彼女の眼は兎のように赤かった。一晩中泣きはらしでもしたのか、パンパンに腫れた目じりをしている。それでもその美貌が薄れることがないのは、何故だろうか。魔理沙は的外れにそんなことを考えた。
不謹慎にも、魔理沙は何故彼女がそんな表情をしているのかがよく分からなかった。普段からアリスは気難しい表情をしていたし、その表情の通りに口を開けば難しいことばかり喋っていた。それは学習を力へと代えるべき魔女であるなら、腰を据えて互いが心行くまで語り明かすべきことなのだろうが、あいにくと酔っ払った魔理沙には、そんなことを考える気はまったく無かった。アリスがその腕に抱くものはなんなのか、魔女としてより、蒐集家としての血が騒いだ。
だから、魔理沙はアリスに訊ねた。その腕に持ってるのは何なんだと、興味をそそられるままに訊ねた。アリスは不躾なその質問に眉をひそめながらも、そっと腕を開いた。魔理沙が嬉々として覗き込めばそこに横たわるのは見慣れた人形であった。
上海人形。長い間、それこそ魔理沙がアリスと知り合ってからずっと彼女の傍にあり続けた人形。終わりを見せない冬のときも、永遠に続くかに見えたあの夜のときも、いつも傍にいた、上海。時には主人の楯となり、またある時にはその矛となって戦っていた。魔理沙自身、終わらない冬の時、鬼が起こした異変、永夜異変の時と、3度その勇姿を目の当たりにしてきた。直接上海人形と戦ったときなど、その機動力と芸の細かさに手を焼いたものだ。その上海が、今は瞳を爛爛と輝かせること無く、手足は力が抜けてだらりと垂れている。彼女の主人であるアリスがこの場にいるのに、上海がこんな状態は何故なのか。
その答えは魔理沙が問いかけるまでもなく、アリス自身が語りだした。かすれ気味の声で、涙を堪えしゃくり上げながら喋るその姿にいつものアリスの姿は無かった。小さな子どものように、喋りたい事を整理もせず、浮かぶままに羅列する。
しかし、ただただ、その言葉は意味を成さない。いや、理解することは出来る。ただその事実が、その現実を理解することを、本能が拒否しているかのように、魔理沙は感じた。頭では理解できる、しかし、“分からない”。
「どういうことだ? 上海はアリスが魔力を供給し続ける限り、動くんじゃなかったのか?」
「…分からない。私だって、…分かってたらどうにかしたわよ! 私も分からないのに私に訊かないで…お願い、何がなんだか分からないの……」
「ガタが着たんじゃないのか? ほら、いつも上海はお前のそばに居ただろ? 動かしっぱなしにしてたからじゃ――」
静かな森に乾いた音が一つ響いた。
急に視界が左を向いた魔理沙は、それを不思議に思いながら頬に手をやる。途端、刺すような痛みが走る。口の中に、鉄のような味がした。口の中で出血しているらしく、思わず魔理沙は顔をしかめてアリスを睨んだ。しかし、魔理沙は口をつぐむ。本来ならここでアリスに怒鳴りかけて、自分の頬をぶったことを謝らせる所なのだが、アリスの表情がそれを許さない。
アリスは、泣いていた。はたはたと、大粒の涙をこぼしていた。
「人聞きの悪い事言わないで! 魔理沙、貴方私が上海のためにどれだけ時間をかけてきたか分かる? ねえ、分かる!? 私がどんなにこの術式を編むために時間と手間をかけたか分かる?」
「ア…アリス……? お前、」
「放っといて! 貴女なんかにわかりゃしないのよ、私の苦労なんてっ……! いつもいつも人の邪魔ばっかりして! 私を否定しかしない、認めてくれないっ!」
「ア――……」
激昂するアリスは、弱々しく腕を振り回すばかりで、大粒の涙を落とすばかりであった。次第に腕を振ることもやめ、上海のように腕をたらして、泣き続けた。こぼれた涙は地面に染み込み、明日また木々が吸い上げるのか、すうと地下へと消えていった。
魔理沙は自身の体にすがり付くアリスをどうすることも出来ず、その頭に手を回した。くぐもる声で、アリスがぽつりと語る。
今朝、急に上海が動かなくなったこと。自分にできうる限りの手を尽くして、治そうと尽力したこと。それでも動き出さなくて、組成式から編みなおしたこと。
「―でも、でもダメだったの…。何をしても、上海は動いてくれないの。魔理沙、貴女…、貴女ならどうにかできない? ねえ、治してあげる方法知らない?」
創生の魔法など、魔理沙が知るわけも無い、よしんば知っていたとしても管轄外だ。すがり付く友人に、魔理沙は首を振ることしか出来なかった。ただ首を振って、優しくその金髪を撫でて、落ち着かせるようにだけ心を配った。
「それにしても」と、魔理沙は思う。何故上海は動かなくなってしまったのだろうか。アリスの言うとおり、彼女は上海のために多く時間と手間と力をかけ、そして上海を、愛していた。
そう、愛していた。その愛は上海に届かなかったのだろうか。
「なんで…? 私のせいなの…? 私が未熟だから?」
「それは違うぜ、アリス。お前はよくやってるよ、きっと、上海も感謝してる」
「…うん……うん、うん…………」
魔理沙の胸で、ほろほろと涙をこぼし続けるアリスの肩を押して、視線を合わせる。金色の瞳を真正面から見つめて、諭すように言う。アリスが泣いていては、上海だってうかばれない。それに、このこと踏み台にして、次に活かすべきだ、そうでなければ、上海の死は一体何の意味があるのかと。
「そうね…」
涙を拭いて、自分の足で立って、アリスは言う。魔理沙の言うことは間違いでなく、また本当の事でもないと。上海が壊れてしまったのはきっと、運命なのだろうと。永遠に輝いているように見えるこの月でさえも、いつかは壊れてなくなるに違いない。ただそこに至るまでが長すぎて、人の目には永遠に見えるだけに違いないのだろう。
「きっとそう。だから、上海が死んでしまったのは、私のせいでなく、誰のせいでもない」
「じゃあ、どうする? また上海を作るか」
「ううん、きっと私は、上海を作るわ。今よりもずっと、素晴らしいものにしてみせる。でも――――」
「でも?」
くるりと、アリスはターンする。生前上海がそうしていたように、くるくると月光のカーテンを身にまとう。そうして、ひとしきり魔理沙の前で悲しく踊った。上海を弔うように、彼女が生きていた証を残すように。
アリスはふっと、瞳を伏せる。ほんの一瞬そうしたあと、魔理沙の瞳を見つめて、はっきりといった。
「今はもう、上海を作ることは出来ない」
「それで。それでお前はいいのか」
「いいの」
胸元でギュウと、両手を握って、アリスは微笑んだ。それはとても優しくて、何か悟ったような表情だった。少しだけ、アリスが前に進んだような気がする。愛するものを踏みつけにしてでも、人は前に進まないといけないのだろうか。それはちょっと酷すぎやしないかと、魔理沙はふと思った。
だが。それでも、生きているものは立ち止まることを許されないと、アリスが応える。どんなに悲しく辛くとも、立ち止まることは出来ない。人が歩みを止めること、それは即ち生きることを放棄することなのだから。
「それでも、そんなことは分かってる」
でも今は、少しだけ歩みを止めてもいいだろう。すでに歩みを止めてしまった、上海の想い出に浸るにはそうするしか方法は無いのだから、仕方ない。そう割り切って。
(了)
前だけを向いて生き続けるのは容易くありません。
自分の気持ちを整理するためにも、一度立ち止まって、
休息をとるのも必要だと思います。
きっとそれは辛さや苦しさからの逃避ではなく、
次に進むための一つのステップなんだと思います。
きっとこのアリスも、いつか再び上海を完成させることができるのでしょう。
長文失礼しました。
上海人形はその身を以ってアリスに足りない部分を教えようとしたんだ