Coolier - 新生・東方創想話

信仰は美しき幻想の地に

2007/12/16 21:27:03
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 澄み渡る蒼穹の下、早苗は嘔吐していた。一度吐いてしまうと酔いが覚めかけ、寒気まで出てしまう。
 青空には対照的な朱い鳥居が、灰色の石畳にはさらに黒がかった鳥居が、天と地を画すべく映っていた。早苗にとって見慣れたはずの朱色は古ぼけて、灰色は新鮮に見え、何とも感慨深くさせる。秋の神も身を忍ばせ始めたのか、石畳には落ち葉の儚くも風に吹かれる姿が見受けられた。そんな様子を眺めていると自然と早苗の気は落ち着きを取り戻した。ここは博霊の神社である。
 親睦のために早苗は博霊神社で催される宴会にたびたび参加している。だが、来るたび来るたび慣れない酒を飲まされ、今日も彼女は隅の方で吐いてしまっていた。博霊の巫女が集めた落ち葉の集積場。そこに吐き出された自らの嘔吐物を早苗は直視出来ず、目を背ける。後で焼却するとは言っていたものの、毎度片付けてもらうのも気が引けていた。
「うぅ、気持ち悪い……。頭痛い、寒い……」
 ある程度吐き終えた早苗は、覚束ない足取りのまま、人妖入り乱れる宴の輪の中に戻ることにした。吹き抜ける風の冷たさがいっそう早苗の悪寒を煽る。早苗は恨めしく思い、いっそ奇跡を起こしてやろうかと考えた。早苗にとって風をやませることなど容易い。
「大丈夫か?」
 もと座っていた場所に戻ると、黒衣の少女、霧雨魔理沙が早苗に声を掛ける。早苗は嘔吐感を押さえ込み、声を絞り出した。
「ええ、何とか……」
「大丈夫って、あんたが飲ませたんでしょうが」
 一応早苗を心配しているような口ぶりでそう言って、博霊神社の巫女、博麗霊夢は猪口に口を付けた。
「悪かったよ。それにしても、酒が飲めないってのは難儀だな。こんなに美味いのに」
 魔理沙は言って、杯を一気に飲み干す。そんな同年代であろう彼女らに、早苗は溜め息を漏らした。
「あのですね。外の世界じゃ、二十歳未満の人間はお酒飲んじゃいけないんですよ」
 魔理沙と霊夢だけではない。早苗が見渡すと“外見だけ”は該当するであろう者ばかりだった。外の世界ではまずありえない宴の場だ。
「じゃあ宴会で何飲むんだよ?」
「まず子供だけで宴会という発想がありませんから。いきなりお酒持ち寄って開いたりはしませんよ。お酒なんてのは、たまにみんなで集まったときに、隠れて飲んだりしたから楽しかったんです」
 郷愁に浸る早苗に、魔理沙はわかっちゃいないと言いたげに溜め息を一つ吐いた。
「全く、外の人間もえらく偏屈になったんだな。酒が堂々と飲めないなんて、私には考えられないぜ」
 会話の途中、早苗はあることを思い出し、魔女装束の少女と巫女服の少女を下から上へとなぞるように見る。彼女達は早苗と同じくらいの年齢だが、早苗よりも発育が良くない。悪いと思いながらも、早苗はそんなことを思い浮かべ、口を開いた。
「二人って、いつくらいからお酒飲んでいます?」
「いつだったかなぁ……。物心ついたころから飲んでた気もするぜ」
「どうして?」
 霊夢は不思議そうに訊ねる。
「お酒に入ってるアルコールっていうのは、実は脳や身体の発育に影響を与えたりするんです」
 霊夢と魔理沙はお互いの身体を眺め合い、続いて早苗の身体を霊夢は悔恨に染まる目で、魔理沙は焦燥に駆られる目で凝視した。
「じょ、冗談だろ? こんなに美味しいものが、私を裏切るはず無いさ」
「……私、少しお酒控えようかしら」
 見る見るうちに青ざめていく二人と相対的に頬を桃色に染めた少女が、一体の人形を引き連れて近付いてきた。
「どうしたの、二人共? 顔青いわよ。お酒足りてないんじゃない?」
「お前はどうしてすぐに誘惑するんだ!? せっかく、私が酒の誘惑を断ち切ろうとしたのに!」
 少女、アリス・マーガトロイドに魔理沙が剣幕で迫ると、迫力のあまりかアリスは一歩たじろいだ。
「その言い方はやめなさい。すっごく人聞きが悪いわ。……でもまあ、少なくとも、あんたには関係あることよ」
 霊夢が付け加え、早苗が補足をするべく、アルコールの危険性について話した。アリスは納得して腰を下ろし、自身で操る人形、上海人形を傍らに置いた。
「そういうことね」
「そういうことね、ってえらく冷静じゃない。背はあるからって余裕なわけ?」
 アリスの冷めた口調に、霊夢が突っかかっていく。霊夢の言う通り、アリスは霊夢、魔理沙、そして早苗よりも背が高かった。霊夢と魔理沙を見てアリスは溜め息を一つ。
「でもほら、妖怪って脳が無いわけだから関係ないんじゃないかしら?」
「そうですね、一概にお酒のせいというわけでもありませんし。遺伝というのもあります」
 早苗は、脳が無ければアルコールはどこに作用しているのだろうと考えたが、何となくそれは無粋なことだと思った。酒は酔うもの。これが幻想郷の常識なのだ。酒が無いと生きていけないであろうほど常時酒を入れている少女だっている。外の世界では確実に駄目な人間の典型として即刻病院行きだろうが、それは外の世界の常識だ。常識の壁で隔てられた幻想郷に通じる道理がない。
「遺伝こそなまじ信憑性がある分、性質が悪いわよね」
 霊夢が肩を落とす様子から、将来に期待が持てないのだろうと早苗は察した。そして、彼女以上にアリスは肩をがっくりと落としていた。
「どうしたんだ、アリス? いきなり肩が外れたのか?」
「そんな周りがドン引きするような一発芸持ってないわよ」
「じゃあ何だよ?」
「遺伝って言葉で思い出すの……。魔理沙、もしも朝起きて逞しいアホ毛が生えていたら嫌でしょう? つまりそういうことよ」
 魔理沙は一間置いて、アリスの顔を神妙な面持ちで覗く。
「アリスってときどき壊れるよな」
「常時可笑しなことばっかり言ってるあんたに言われたくないわ」
 霊夢は魔理沙とアリスの会話を傍観し、次いで手の内にある猪口に注がれた酒を見る。そして何かを思い出したのだろう、急に顔を上げて猪口から魔理沙に視線を移した。
「そういえば、胸が大きくなる茸ってなかった?」
「ああ、あるぜ。でもオススメはできない」
「何でよ?」
「持続性がない。そして、胸ってのは脂肪の塊なわけだ。つまりあの茸にはそれだけのエネルギーもあるんだぜ。突如として出来上がり、そして萎んでいく脂肪組織の塊は一体どこへ行ったか……? 考えるだけで恐ろしいだろ? 体重計に乗ると――」
「ちょっと待ちなさい! そんなもの私に食べさせたの!?」
 アリスが魔理沙を遮って怒鳴る。魔理沙はとてもわざとらしく舌を出して、自分の頭を小突いてみせた。アリスは魔理沙に掴みかかり、怒りに任せて魔理沙の頭を振る。魔理沙はけらけらと笑っている。
 早苗が何とも仲の良さそうな二人の様子を見ていると、不意に後ろから抱き締められた。あまりに唐突な重みに早苗は前に倒れかけた。
「何のお話をしているの?」
「少なくとも、あんたには関係ない話よ」
 霊夢は早苗を後ろから抱き締め、彼女にもたれかかっている人物に冷淡な表情を向けた。早苗は自らの背に当たる柔らかいものの大きさ、そしてその声で人物を理解する。
「重いですよ、紫さん」
「あら、ごめんなさい。少し脂肪組織が多いから」
「しっかり聞いてたんじゃない!」
 嫌味をたっぷり含んだ八雲紫の笑みに、霊夢は語気を荒げる。
「まあまあ、私はともかく。早苗も結構なもの持ってるわよねぇ……」
 早苗は背筋を走った悪寒から、紫の腕を退けて、咄嗟に彼女から離れて霊夢の影に隠れる。
「私、早苗と遊びたくなっちゃったわ」
「えっと、出来れば遠慮したいんですが……」
 早苗は一応自己の気持ちを訴えるが、紫が有無を聞いてくるはずなどない。紫が邪気を存分に詰め込んだ笑みを浮かべる。早苗は思った。あの笑みは、早苗“と”でなく、早苗“で”遊びたいという意思の表れだ、と。
 笑みを保ち切れなかった早苗は涙目で霊夢の裾を引っ張る。だが、妖怪退治で有名な博霊の巫女は首を横に振る。魔理沙とアリスに視線を向けても、返ってくるのは苦みに染まった笑みだけ。
「ねえ、早苗。スキマツアーなんて楽しそうじゃない?」
 紫が告げた瞬間、早苗の背後の空間が裂けた。慄然と強張った表情のまま、早苗はゆっくりと振り向く。世界の裂傷から覗くのは、漆黒と無数の目。スキマ妖怪だけが作り出すことが出来る亀裂、世界と世界の狭間、“スキマ”だ。
 ……落ち着くのよ、早苗。素数を数えるんです。2、3、5、7、⑨……。って9は素数じゃないっ!
「ていうか、〇ってなんですかー!?」
「あーあ、ついに壊れちまったぜ」
 魔理沙はただ唖然として、懇願の視線を向ける早苗を傍観していた。霊夢はいつの間にか早苗から離れており、逃げる間もなく背後のスキマから何本かの腕が伸び、早苗の四肢を捕らえる。
「一つ言い忘れてたけど、スキマの中で死ぬことはないから安心なさい」
 紫の言葉に早苗は少し落ち着きを取り戻した。いくら紫だろうと流石に命の保障はしてくれるようだ。実状は変わっていないのだが、生の確定だけで幾分焦りは減少する。
だが、少しばかりの信用をおくもつかの間、
「生き地獄ってやつね」
 紫は満面の笑顔を咲かせ、悪辣な現実を叩きつけた。
「ちょっと、ええ!? そんな清々しく期待を裏切らないでくださいよ! 嫌ですよ、そんな顕界でも冥界でもある世界(ネクロファンタジア)っ!」
「十分後には出口開けてあげるから」
「何で微妙に無責任なんですか!? ちゃんと出してください!」
「早苗、覚悟は出来て?」
 紫は早苗を真っ直ぐ見据える。彼女の目は真摯そのもの、故に迷いが無かった。
「紫さん、その目は大変素晴らしいんですが、話の脈略が不可解です」
「もう面倒だから、さっさと送り込もうかと思ったの」
 建前の瞳を消した紫の本音に早苗はにこやかに答える。
「紫さんってば、台無しですね。覚悟はまだ出来ていませんので」
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
 紫が手を振って早苗を送り出したと同時、スキマから伸びた腕が彼女を狂乱の狭間に引きずり込み始めた。
「ちょっと、ホントに待って! 紫さん、ストップストップストップ!!」
 だが早苗の悲願も空しく、無数の腕は早苗を狂気の世界へと誘う。
「ここは幻想郷よ。日本語で話しなさいな」
「助けて、ヘルプ、ヘルプミー、ゆかりぃぃぃーっんっ!!」
 スキマは口腔のように早苗を飲み下し、後に残るのは叫喚だけだった。
「日本語を話しなさいって言ったのに」
 いつの間にか宴会に集まっていた皆が、スキマに消えていく早苗の姿を見送っていた。

 約束の十分後。紫は扇子で空間をなぞり、痕に倣ってスキマが切り開かれる。そして、開いたスキマから、必死の形相の早苗が風を纏い飛び出してきた。スキマから早苗まで追うようにして、風の流れが広がる。砂塵を巻き上げ、蒼天と重なる早苗は奇跡の風を鎮めた。静穏となった風は早苗を包む緩やかなつむじ風となり、つむじ風、早苗と順にゆっくりと石畳へ降り立つ。息を切らしながら降り立った早苗の足下に描かれるつむじ風の円は、波紋のように広がり、消え去った。次いで早苗は肩で息を整える。
「うわ、外した……」
 霊夢が残念そうに、
「つまんないわ。咲夜、チーズ頂戴」
 次いで日傘を差した吸血鬼の嬢、レミリア・スカーレットはワイングラス片手に少し不機嫌な様子で、メイドの十六夜咲夜に申しつける。
「ゴーダチーズで宜しいですか?」
「ポン・レヴェックがいいわ。もちろんパンも一緒にね」
 彼女らの傍らでは亡霊の女性、西行寺幽々子が嬉々とした声で、
「妖夢、妖夢、当たったわ!」
 対して妖夢は、良かったですねと愛想笑いをし、早苗と目が合うと申し訳なさそうに頭を下げた。
「さすが奇跡の力を持つ早苗ちゃんね。九死に一生の奇跡的な脱出劇。すごいすごぉい!」
 紫は手を叩いて、笑顔で早苗に近付いてくる。
「馬鹿にしてるでしょう? まあ、そんなことはいいです。一体全体、何やっていたんですか」
 紫はまたも空間を切り開き、亀裂へとおもむろに手を突っ込んで何かを取り出す。紫が持つのはイラストと字で彩られた透明なパックだった。パックに詰められたものを、早苗は確認して訊ねる。
「その『チーズかまぼこ』は何です?」
「いやね、たまには外の世界のおつまみでも持ってこようと思って。でも、これ数が限られてるじゃない。だから、賭けをしたのよ」
「人の生死で何賭けてるんですか!? ていうか、私の命はチーかま程度なの!?」
「だから生死じゃなくて、出てこられるか出てこれないかよ?」
「どっちでもいいですよ! 争点はそこじゃないです! 大体、ちーカマくらい私の神社にまだストックしてあります!!」
 守矢神社の祭神である神奈子もチーズかまぼこが好きで、幻想郷に来る前に買い溜めておいたのだ。自らが仕える祭神のことを思い浮かべ、早苗は自身でも逸脱させていることに気が付き、咳払いを一つ。
「とにかく、チーズかまぼこはもういいです。もう、あんなゆかりんファンタジアは勘弁してくださいね……」
「ゆかりんファンタジアなんて、ファンシーとメルヘンの世界みたいね」
 紫は悪戯っぽく笑み、ウィンクしてみせる。そんな紫を早苗は直視できず、目を逸らして彼女には聞こえぬほど小さな声で呟く。
「……狂気と変態の世界でした」
「何か言ったかしら?」
「いいえ、何も言ってませんよ」
 凝視といえるほど、疑りの眼差しを向ける紫に、早苗は笑顔を務めてやり過ごす。紫とのやり取りをしていると、早苗を呼んでいるであろう声が聞こえた。幼さが残る高い少女の声は、レミリアのものだった。
「そこの青巫女。あんたよ、あんた。霊夢の2Pカラーみたいなあんたよ」
「人が気にしていることをさらっと……。何ですか?」
「暇なの。私の相手しなさい」
「嫌です。疲れてますから」
 疲弊している早苗は即座に断った。だが、レミリアは屹然とした態度で早苗を卑下にするような双眸を向ける。
「あら、私が怖いのかしら? いいえ、怖いのね。あなたは恐怖に駆られ、誇りすらも振るえず、ただ震え、慄くだけの“普通の人間”。別に悪いといっているわけでないわ。人間の運命などその程度のものだもの」
 レミリアの見下すような鋭く赤い瞳は、明確な挑発だ。だが、早苗はこれほどまでの挑発を流せるほど低いプライドを持っていない。
「怖い? 馬鹿にしないでください、吸血鬼さん。私は風祝の早苗。人がただ慄くだけの運命というならば、奇跡はそれを捻じ曲げることが出来ます」
 早苗の相対の意思に、レミリアは口元を歪める。妖怪と形容するに相応しい、悪意に歪曲した笑みで、そっと早苗を突き刺した。
「風祝だか片栗粉だか知らないけど。あなたの奇跡、とくと楽しませて頂戴」
「……お嬢様、風祝と片栗粉では全然掠ってないかと」
 咲夜の指摘に水を差されたレミリアは露骨に眉を詰める。
「いいのよ、咲夜。あんなのは片栗粉で十分なの。だって、チーズかまぼこ取り逃したの、あいつのせいだし」
「何て自分勝手な。ていうか、ちょっとは自分のセンスの無さを認めたらどうですか? 私も片栗粉は酷いと思いますよ」
 あまりの言い分に早苗は憤りを覚え、レミリアの誇示を逆撫でするように口走っていた。
「……言ったわね? ナンセンス? この私が? いいわ、このレミリア・スカーレットに喧嘩を売るというなら、私の全てを象った、優雅で、美麗な、スペルカードで……! 真っ紅に散らせてあげる……。光栄に思いなさい! 紅く染まれることを!」
 真紅の日傘を差したままレミリアは、羽を広げる。日を防ぎ切れなかった羽の先が燃え、灰となるが、レミリアは構わずに一度大きく羽ばたいた。砂埃と紅くほのめく灰燼を纏い、夜の王は紅い羽で青空に向かって飛翔した。早苗もレミリアの姿を見届け、周りに風を呼び込む。早苗の飛翔、いや浮遊というべきそれは静寂そのものだった。早苗を中心に風は流れを作り、整然とした風の規律が彼女を上空へと持ち上げる。
 空で対峙した二人の手には、それぞれ一枚の札があった。
早苗の札は青い光を放ち、真っ直ぐとその青い輝きを伸ばしていた。レミリアの札は真紅の光となり、形を崩して、彼女の掌の上に浮かぶ球となる。
 そして、二人は動く。
 早苗は腕を前に向けて水平にし、札が放つ光をレミリアへ向ける。
 同時、レミリアの紅球は槍の形に化けた。
「開海ッ!!」
「神槍ッ!!」
 二人は闘争の開幕を叫び、空に紅と青の閃光が咲いた。

 そして、七分後。
「さあ、どうしたの? まだスペルカードが“五枚やぶれた”だけよ。かかってらっしゃい。お楽しみはこれからよ! 掠れ(グレイズ)! 掠れ掠れ掠れッ!! もっともっと楽しませて頂戴!!」
 笑みを浮かべるレミリアは叫び放ち、さらに紅い杭の形をした弾が放たれる。
 たった数分という時間の中、すでに両者の損傷の差は明確だった。スペルカードルールに則っているため外傷こそ少ないが、早苗の纏う風祝の装束は無残に破れ、緑の長髪は乱れて、まさに満身創痍だ。さらに霊力も限界に達しようとしており、身体が重くて仕方がない。万事休す、早苗は自身を飛ばしているだけで精一杯だった。
 対してレミリアは服の損傷も少なく、得意の饒舌も威を落としていない。
 早苗はレミリアとの歴然の差を解していた。相手は小説や映画で恐れられていた、あの“吸血鬼”なのだ、と。
 ……勝てっこないよね。だって相手は……。
 吸血鬼だ。早苗は自意識に共感し、納得してしまう。思考に飲み込まれながらも早苗はレミリアの弾を避けるべく、身体を逸らした。
だが、被弾する。
 鈍化した早苗の身体では回避もままならなかった。それでも容赦は皆無なほど、追ってレミリアの紅弾が早苗を狙う。追撃を確認すると早苗は、枯渇寸前の霊力に鞭を打って、風の防壁を築いた。風に軌道を変えられたレミリアの弾は早苗の身体を逸れ、彼女の背後へと流れていく。
「それが限界かしら? 苦肉の霊撃、辛そうね。まあ、思ってたよりは全然やったと思うわよ。あなた、決して弱くはない。……でも、“そこ”までね。もう結構よ、正直飽いてきたわ」
 レミリアは新たなスペルカードを取り出す。
「最後のスペルよ――」
そして、真紅の札の名を彼女は口にした。
「――紅魔「スカーレットデビル」――」
 日傘を差したレミリアの背後に、日傘の紅を焦がすようなさらに紅い光が現れた。十字を切るその真紅の光は、絶望感を与え、魅せる美しさがある。紅で造られた巨大な十字を背に、レミリアは笑う。刹那で紅い十字架から弾幕が放たれた。瞬間、無数の弾が早苗を襲う。弾が通った跡には残光が存在していた。青い空を紅に染め上げるほどの軌跡だ。
 疲弊しきった早苗は避ける術を持たず、吸血鬼が与えた磔刑を否応無く受けていく。レミリアはそれでも追撃を止めず、早苗との距離を詰め、息がかかるほど早苗に接近した。早苗の目に映る全景は十字を背負った吸血鬼と紅い空だけだ。
次いで紅い少女がにっこりと笑うのを、鈍麻する感覚の中で見届ける。年相応の少女のそれとは違う、悪辣で、艶美な笑みだった。
「さよなら、早苗」
 告げると同時、彼女が背負う紅い十字架は爆ぜ、真紅を世界にばら撒く。広漠な空を埋める光の爆発になす術などあるはずなく、早苗は吹き飛ばされていた。風を纏うことも出来ず、早苗はただの少女のように地へと直下していく。
「咲夜!」
 咲夜は主の言葉に動き、文字通り瞬く間に落下していた早苗の傍らに移動していた。咲夜は早苗を横抱きにして、ゆっくりと着地する。
「意外と軽いわね」
 先ほどの吸血鬼に仕えるものには似つかわしい人間味のある微笑みを浮かべ、咲夜は早苗をそのまま石畳に寝かせた。
 すでに風祝の装束は、衣服としての役目を果たしていなかった。あらゆる箇所を切り裂かれ、肌と下着を露出させてしまっている。だが、早苗は隠すこともせずにただ仰向けのまま、空を眺めていた。羞恥よりも、圧倒的に疲弊の方が勝っていたからだ。紅色は失せ、青を取り戻した空には、いまだレミリアと彼女が持つ紅い日傘が重なって映っている。
「……負けたんだ」
 負けた、早苗の頭には他に何も無かった。ただ負けたという認識が酷く頭の中を飛び回る。
 上空にいたレミリアは徐々に高度を落とし、早苗の傍らに降り立った。レミリアは早苗に勝者の余裕を象った微笑を向け、続いて妖夢を指差す。
「そこの半人半霊! しっかりと見ておきなさい! これがカリスマよっ!」
 半人半霊と呼ばれた妖夢は少し驚きながらもレミリアを見た。妖夢の視線を確認すると、レミリアはいつの間にか手の内にあった一輪の薔薇を早苗の腹の上に落とした。
「その薔薇はせめてもの手向けよ。いずれ果てる薔薇のように真っ紅に散った、あなたへの手向け。そして、――」
 レミリアが告げると、早苗の上に乗せた薔薇の花びらが散った。まるで早苗を揶揄するかのように。
「――覚えておきなさい。“奇跡”も、“運命の一部”だということを」
 レミリアはそっと目を伏せ、早苗に背を向けた。振り向いて早苗に背を向けた彼女は、決まったと言わんばかりにほくそ笑む。
「幽々子様、見ましたか? 悔しいですが、あれぞカリスマですよ!」
 レミリアの一連を見ていた妖夢は少し揚がった声を上げて、幽々子の方へ視線を移した。
「はひぃ、ほうふ?」
 もちろんレミリアの話など聞いておらず、何かを頬張っていた幽々子は首を傾げる。
「やっぱり、聞いちゃいないんですね。あと、口いっぱいに物入れて喋らないでください。行儀が悪いですよ」
 やれやれとした口調で主を説いて、妖夢は溜め息を一つ付いた。
漠然と妖夢と幽々子のやり取りを聞いていた早苗は、妖夢に少しだけ親近感を感じていた。そんな早苗に、レミリアがもう一度振り返り、見下ろす視線を向ける。
「エスカルゴだったかしら?」
 早苗は思わず、はい? と訊ね返していた。
「風祝です、お嬢様。それならばカタツムリの方がまだ近いですよ」
 咲夜はすかさず助け舟を出す。今の脈略のないエスカルゴ発言でわかるとは、流石完全で瀟洒なメイドであると、早苗は感心してしまった。
「……咲夜、そういう突っ込みは無しになさい。せっかくのカリスマが失せるわ」
「心配しなくても、今の一言でだだ漏れ中です」
 残念そうに告げる咲夜に、レミリアは舌打ちを一つ。矛先を早苗に向けるように、視線を鋭利にした。早苗は痛覚に響く視線に耐えられず、レミリアから目を背けた。
「……まあ、いいわ。とにかく、あなたは力の使い方が乱雑すぎる。だからすぐに力を枯渇させてしまうの。おわかり? えっと、何だったかしら。そう、風祝。あなた、その修行が全く足りてないわ。ついでに巫女もね。まあ、修行したからといって、この私に敵う道理など存在しないんだけど」
 嘲りを含んだレミリアの言葉が深く胸に刺さり、早苗は彼女に視線を戻す。レミリアの視線は今さっきのものとは違い、早苗の身体をなぞるような鈍利なものとなっていた。
「同じ風の扱い方なら、さっきからあそこの陰でこっちの方を盗撮してる、変態鴉の方がよっぽど上手ね」
 早苗はレミリアの指差す方を見る。差された木陰には、カメラを構えた射命丸文がいた。レンズを早苗に向け、瞬間フラッシュが焚かれる。ほのめくようなフラッシュの残光を視界から消せずまま、早苗の意識は遠退き始めていた。どうやら疲弊が限界に来たようだ。失せゆく彼女の感覚が最後に感じていたのは、再度焚かれたフラッシュの光だった。

「目、覚めた?」
 早苗が目を覚ますと、気を失う前に仰いでいた青空ではなく、木目の映える天井が映っていた。そして何より石畳の固さと冷たさは、柔らかな心地よい暖気に変わっている。早苗は、自分を部屋の中まで運び、布団に寝かせてくれたであろう傍らの二人の少女を見た。
「ありがとうございます、霊夢、魔理沙」
「特別サービスだぜ。他のやつならあのままあそこに寝かせておくとこだった」
「そりゃ馬鹿と妖怪は風邪ひかないもの。放っておいてもいいでしょ?」
 さも当然のことのように言う霊夢に、早苗は弱く苦笑をする。
「おいおい、じゃあ何で馬鹿でも妖怪でもない私がこの間放っておかれたんだ? おかげで風邪拗らせたことがあったんだが」
 霊夢は少し考え、
「じゃあ訂正。馬鹿と妖怪と魔理沙はどうでもいいから放っておいてもいいでしょ?」
 またもや普段と変わらぬ口調で、辛辣なことを言った。
「ああ、バッチリだぜ。霊夢らしい血も涙も無い、実にいい答えだ」
 魔理沙は親指を立てて、笑顔で承知する。二人の会話を聞いていた早苗は、突っ込む場面だろうかと沈潜してしまっていた。
 ……何かここに来てから、ペース乱されっぱなしだなぁ……。
 外の世界でも他人のペースに乗せられ易かった早苗だが、幻想郷に住まう者は度が違った。妖怪はボケたらボケっぱなしの自由奔放な者ばかりで、人間も人間で規格外な冗談を言う者ばかりだ。
 早苗は辟易とした気持ちを引きずりながら、長居するのも悪いと思い、起き上がる。身体の節々が痛むが、レミリアとの弾幕戦の後だ。仕方がないと割り切った。
 そこで早苗はあることに気が付く。掛け布団を捲った上半身が、妙な寒気を感じ取ったのだ。早苗は違和感に釣られて、自らの上半身に目をやり、理解する。寒いのは当たり前だった。早苗の装束はすでに衣服としての役割を果たしていないほどに切り裂かれていた。特に胸の部分は大きく開き、水色のブラを完全に露出させている。顔から火を吹かせた早苗は慌てて、両腕で肩を抱くようにし、晒されていた胸を隠す。
「今の今まで見られてたくせに、今さら隠したって遅いわよ。それにしても可愛いわよね、その下着。外の世界の下着?」
 霊夢が尋ねると、顔を赤くしたまま早苗は俯いて、ええまあと相づちを打つ。つい先日、人里に下りて買い物をした早苗だったが、下着に関してはどうも購買意欲をそそるものが無かったことを思い出す。霊夢の言う通り、外の文明から乖離してしまっている幻想郷の下着にはどこか一昔前を感じさせる古臭さがあり、華がなかったのだ。
「霊夢、今度香霖堂行って見てこようぜ。あったらあったですごく嫌だけど、香霖殴り倒して持ってこれば問題ない」
「それはちょっと霖之助さん見る目変わっちゃうかも知れないから嫌だわ。これ以上周りに変なの増えても困るし。紫あたりが持ってるんじゃない? まあ、どうせ私はサラシだからいいんだけどね」
 魔理沙は突然、早苗が自身で隠している胸を見る。ただでさえ恥辱に感じているのに、例え同性の魔理沙だろうと凝視されるのは恥ずかしかった。耐え切れず早苗は、怪訝な表情で何ですかと訊く。
「そういや、早苗は巫女なのにサラシじゃないんだなと思って」
「もう外の世界じゃサラシしてる人なんてのはいないと思いますよ。ついでに言っときますが、私は巫女ではなく、風祝です」
「そりゃそうか。幻想郷でも減ってきてるくらいだもんな」
 魔理沙がどこか感慨に浸る表情を浮かべる。
魔理沙を眺めていた早苗は、雑然と沸いていた宴の騒音が消えていることに気が付いた。
「他の皆さんは?」
「帰らせたわ。たまには私もゆっくりしたしね。あいつら止めないと朝までやってるから」
 そうですかと早苗は意味もなく溜め息を一つ。
「それじゃあ、私もお暇させていただきますね」
 早苗は力なく笑みを浮かべる。
「あんたその格好で帰るつもり? それ着なさい。サイズはちょっと小さいかもしれないけどね」
 霊夢が指で示した先には彼女着ているものと同じ巫女服が綺麗に畳まれて置いてあった。
「ありがとうございます。それと、……まだ根に持ってます?」
「別に嫌味のつもりで言ったんじゃないわ。無い物ねだりしても仕方ないもの。事実サイズは小さいでしょ?」
 早苗は苦笑いして、霊夢の巫女服に着替えた。当然、緋袴の丈はあっておらず、何より胸の辺りがきつく、強調するかのように張り出ていた。そして、腋から上腕にかけては相変わらずの肌寒さだ。
 ではまたと早苗は、明朗さを失くした声で別れを告げる。霊夢は吐息を一つ、魔理沙はやれやれと早苗を見据えた。
「早苗、あんま落ち込んでると、ここじゃやっていけないと思うわよ?」
「全くだ。初めて会ったときの威勢はどうした」
 問われるが、早苗はただ苦笑をするだけだった。



 早苗が目を覚ましたのは、日が完全に昇ってからだった。上体を起こし、窓から差す陽光をおぼろげに見る。いつもならばまだ日の入った暗がりの空のころ起床し、闇夜に電灯代わりの奇跡の客星を浮かべて境内の掃除をしている。そして、暁光が染めゆく空と冷たく肌を刺す朝風に覚醒を任せるのだ。だが、昨日の疲労から身体に鉄塊を詰められたように沈んでしまい、早苗は早朝に目覚めることが出来なかったのである。試しに身体を伸ばしてみるが、やはり筋肉から節々まで痛みが鈍く響いた。
 早苗はベッドから出て立ち上がり、もう一度身体を伸ばして、朝の冷ややかな空気を吸い込んだ。肺に満たされる冷気が、早苗の覚醒を促す。続いて着替えようと、箪笥から小袖と青い袴を取り出す。
 だが風祝の装束を抱えたまま、早苗の手は止まった。昨日のぼろ雑巾のように切り裂かれてしまった同型の装束を思い出したのだ。情けなさが早苗の胸に染み入り、幻想郷の来る前の希望に満ち溢れていた自分の愚かさに腹が立った。
 霊夢、魔理沙に負けたあの日、自らの非力さを早苗は知った。さらに妖怪達の膂力は早苗の想像を遥かに凌駕していた。神の徳の力を持ってしても太刀打ち出来ず、徳を広めるどころか、妖怪の相手もままならない。
 そして何より、幻想郷には確立した相互関係が存在していた。妖怪は人を襲い、人は妖怪を退治する。それはある種の信頼関係である。外界から断絶されたコミュニティが滞りなく機能しているのだ。だから、早苗のような外来の力が接触しようと、幻想郷の者達は揺らぐことがない。
それでも早苗の祭神、神奈子は体良く天狗や河童達から信仰を得て、徳を与え、友好な関係を築いている。自分は本当に必要なのかと、早苗は自らの存在意義に疑念さえ覚えていた。
 早苗は溜め息を大きく一つ。パジャマを脱いで、無理にでも気持ちを移し替えるべく、抱えた装束に袖を通すことにする。

「早苗おっはよー! 今日は遅かったわね?」
 着替え終わった早苗が一階に降り、洗顔と歯磨きを済ませると神奈子が妙に揚がった声色で現れた。
「ええ、昨日の疲れがちょっと……。どうしたんですか? やけにハイテンションですね」
「そうなのよー。最高にハイってやつなのよね。この記事なんだけど……」
 神奈子の手には新聞が握られている。神奈子は早苗に含み笑いをあてつけ、一面の記事が早苗に見えるよう新聞を広げた。
「もう、思わず私のオンバシラがエクスパンデットするところだったわよ」
「また何を意味のわからないこと言ってるんです……か?」
 早苗は神奈子が広げた新聞、『文々。新聞』に掲載された写真を見て、愕然とした。華々しくも一面を飾っているのは、昨日の負けを晒した、あられもない早苗の姿だったのだ。
「あ、あああ、あやややや、文さぁぁぁっんッ!!」
 早苗は怒号し、神社を飛び出した。



 息を切らしながらも、早苗は博麗神社に降り立った。竹箒を持っていた霊夢は溜め息、傍らで霊夢と話していた魔理沙は何事だという相好で早苗を見る。肩で息をしながら、早苗は荒い息を交えて訊ねる。
「はぁ、はぁ、お、おはようございます、霊夢。昨日はありがとう、ございました。いきなりですが、あ、文さんを知りませんか?」
「文? 文ならあそこに……」
 霊夢が指差す先、賽銭箱を背もたれにして本殿に座る黒髪の少女が一人。首にカメラを掛け、肩に一羽の鴉をとまらせている彼女は間違いなく文々。新聞の発行者、射命丸文だった。のん気に空を眺めている姿が、早苗の怒りを余計に煽った。早苗は怒涛の勢いに任せ、文に詰め寄る。
「あら早苗さん、こんにちは」
 文は立ち上がり、にこやかに挨拶をした。早苗は挨拶を返すこともなく、握っていた文々。新聞を広げ、記事の件を追求する。
「これはどういうことですか!?」
「ああ、それですか。ネタが無かったんでついやっちゃいました。てへ」
「てへ、じゃないですよ! どこの太田さんですか!?」
 早苗は怒鳴るが、対する文は一向に動じることなく、笑みを加えた対応を続ける。
「でもすごいんですよ。この記事を掲載したらなんと購読者数が二倍に増えたんですよ! 人里でも読まれるようになりまして。他の方のもたまに掲載するんですけど、どうも伸びないんですよね」
 早苗に一瞬嬉々とした念が芽生えたが、
「やっぱりあれでしょうか。皆さん化け物じみてますからねぇ。普通っぽさというか、地味さが受けたんでしょうね」
 文の次いだ言葉で振り払う。早苗は例え瞬間でも喜んでしまった自分が腹立たしく思えた。
「普通とか地味って言わないでください! 何なんですか!? 幻想郷の皆さんは人の傷を抉り返すのが大好きなんですね!?」
「まあまあ、ここは一つ落ち着きましょう、ね?」
「……あなたが言えた台詞ではないですが、そうですね。落ち着きましょう」
 張本人である文に指摘されたことが癇に障りつつも、早苗は平静さを取り戻そうと激昂した感情を落ち着ける。
「それにしても早苗さん、もしかして胸の辺りの生地を補強してないんですか?」
「え、ええ。補強するものなんですか……?」
「破れたら大変ですもの、弾幕に関わる女の子はみんな補強していますよ。ほら、ちょっと引っ張ってみてくださいな」
 言われるがまま早苗は手を伸ばして、文の胸の辺りの布地を掴み、引っ張る。彼女の言う通り確かに生地が重ねられて厚くなっており、強度が増していた。
「ね? このくらい強ければ破れることは滅多にないです。早苗さんもちゃんと補強しておくといいですよ。では」
「あ、はい。それじゃあ」
 笑顔を崩さない文は早苗の脇を通り、疾風の爆発と共に飛び去っていった。風神少女の姿は瞬く間に遠ざかり、後に残るは彼女が巻き起こした冷えた空気の乱流のみだ。
「って逃げられた!」
「あんたって意外にアホな子?」
 早苗と文のやり取りの最中に傍まで近付いていた霊夢は呆れ口調だった。

「はぁ……、何だか最近災難続きです」
「ここでなんて毎日こんなもんだぜ」
 早苗が溜め息交じりに深刻な表情をしていても、魔理沙は変わりなくのん気に告げる。
「昨日のはちょっとやりすぎだけどね。でもまあ、吸血鬼にあそこまでやらせたんだから、まあまあだったんじゃないの?」
 相変わらずの霊夢は茶をすすりながら、冷血とも温和ともとれない中立的な物言いをする。
 そんな会話の途中、ふと吹いた木枯らしに早苗は身を震わせた。肌寒い風が頬を撫ぜるここは博霊神社、つまり霊夢の家の縁側である。霊夢に家中へと招かれた早苗は、魔理沙と共に茶と会話を楽しんでいた。三人は庭に向かって右から魔理沙、霊夢、早苗の順で縁側に腰掛けている。
「文さんも文さんですよ。ちょっと気に入られてるからって……。いいですもん! 私だって次回あたり異変をパァッーと解決に向かって、『ミラクル早苗ちゃんスター』ってな感じのオプション付けてもらっちゃいますもんね!」
「おいおい、落ち着けって。とりあえず人のをパクるのはダメだぜ」
 昂ぶる早苗を魔理沙は宥める。魔理沙の言葉に早苗は、落ち着くのを通り越して消沈してしまった。伴って、またも溜め息を一つ吐いた。
「……少し愚痴っていいですか?」
 霊夢は茶をすすりながら、どうぞと頷く。
「幻想郷ってもっと殺伐としているところだと思ってたんですよ。妖怪が跋扈し、人間は支配されてるような世紀末救世主伝説さながらの力がものを言う世界」
 早苗は湯のみに一口付け、続ける。
「でもいざ来てみれば、本来敵同士の妖怪と巫女は連日ドンチャン騒ぎ。人間も人間で特別困っている様子もないですし。ある意味、外の世界の方がよっぽど殺伐としてます」
「勝手にイメージ押し付けられてもねぇ」
「そして何より神社がここのみでしたから、人々の神に対する意識が希薄なんです。これじゃ妖怪どころか人間からも信仰を得ることが出来ません。ところで私はなぜ先ほどから胸を揉まれているのでしょうか?」
「それはあんたの後ろにスキマ変態がいるからよ」
 霊夢は特別慌てる様子もなく、指摘する。
「失礼ね、霊夢。私は変態じゃないわ。仮にそうだとしても変態という名の淑女よ」
 早苗の背後に現れ、彼女の胸を揉んでいた紫はその手指を引いた。そして、庭の中心辺りに突如開眼した亀裂を潜って、紫は早苗達の前へと再び姿を現す。
「何しに来たの?」
「何って、巷で噂の美乳を揉みに」
 紫は優雅な笑顔を早苗に向ける。霊夢と早苗は同時に溜め息、魔理沙は苦笑である。
「あら、残念そうね。霊夢も揉んで欲しかったの?」
「ええ、そうね。とっても残念だわ。何故か私の溜め息の意味を曲解しているあんたの頭が」
「そうだったの? てっきり揉んで欲しいのかと。意思疎通って難しいわね。でも霊夢、胸大きくしたいんでしょ? それなら私が時間をかけてたっぷりと大きくしてあげるわよ」
 口から出る言葉とは裏腹に、紫はまるで邪気の無い微笑みを崩さない。早苗は意思疎通の難しさを改めて思い知った。
「紫さんって変わってますよね。主に態度が」
 早苗は引きつった笑みを浮かべる。
「聞いた霊夢、魔理沙。こんなに婉曲に変態って言われたの初めてよ。これが外来人の優しさね」
「否定の意思ってのはちゃんと受けとおくもんだと思うぜ。ついでに言っとくが、今のは優しさじゃなくてこっちでも通じる処世術だ」
「ナイスフォローです、魔理沙」
 そうなの、ともう一度くすりと口元を綻ばせ、紫は早苗の隣に腰掛けた。そして目を細め、早苗を射抜くような鋭利な両眼で彼女の瞳を見る。
「それにしても、幻想郷(ここ)を随分と偏った見方をしていたのね」
 紫の唐突な口調の変化に思わず、ええまあと早苗は煮え切らない返事をしてしまった。改まった紫の声は厳かな雰囲気を忍ばせたもので、先ほどのまでの冗談の口調とは正反対の声質だった。
「あなたが何を考えてここに来たのかは知らないけれども、ここが今の幻想郷よ」
「私はただ、八坂様の徳を広めようと……」
「でも上手くいっていないのでしょう?」
 紫が視線を早苗から、前方へと移した。前方、拓かれた庭の奥に広がるのは初冬を感じさせる木々である。散りゆく葉は風に揺られ、空にはうろこ雲。だが紫の視線はそこにはなく、さらに奥を見透かしているようだった。
「ここは幻想郷。あなた達の非常識が集まる世界ですわ。あなた達が妖怪の淘汰を選んだように、私達が選んだのは人妖の共存であり、妖怪の確立よ。“あなた達”に忘れられた“私達”はここでひっそりと生きているの。この理想郷でね」
 紫は悪性の笑みを浮かべる。不気味で、綺麗で、心を惹き付け、握りつぶすような嬌笑を、景色のずっと彼方、そして、早苗へと向けた。
「あなたが外から持ち寄った常識、思想、理念、その他諸々で振舞うとするなら、あなたはここに在ってはならないものになるわ。言うなれば“非常識”。この幻想の世界においては淘汰されるべきよね?」
 早苗の胸の鼓動は、彼女自身でも壊れてしまうのではないかと思うほど早くなっていた。紫と出会ってから初めて感じるであろう彼女の“妖怪”の部分を目の当たりにし、早苗の心を漆黒の戦慄が病のように巣食っていく。嫌悪を具現したような脂汗が額を流れ、息をするのさえ煩わしく感じた。視界の色もぼやけ、吐き気も催してくる。
 早苗の本能と潜在的な力、そして覚えのないはずの記憶の一片が、彼女の緩慢になりゆく脳に訴える。この感覚を知っているだろう、と。奇妙な既視感は答えを与えた。
 ――恐怖だ。純粋な恐怖。
 しかし、早苗の思考が解答を導き出したと同時だ。酷悪なほど精密巧緻に圧をかける紫の雰囲気は失せて一転する。
「…………やあねぇ。ちょっとした冗談よ。そんな怖い顔しなくてもいいじゃない」
 急転した紫は邪悪を象った笑みを崩し、柔和な口調と少しだけ困ったような微笑を見せた。早苗は紫の変化に安堵し、笑みと吐息を漏らした。
「お前の冗談は笑えないから困るんだよ」
 魔理沙はやれやれと告げた。
「まあ、考えてみることよ。もちろん霊夢も。良案も無いまま分社を建てたところで、結果が返ってくるとは思えないしね。答えは、すぐ傍にあるかもしれないわ。信仰は信じること、なのでしょう?」
 紫の悠然とした言葉に早苗は頷きながらも、内心で疑問に悩まされていた。
 ……“信仰は信じること”って、紫さんに言いましたっけ?
 “信仰は信じること”、早苗が仕える祭神から譲り受けた彼女の確固たる信念である。
だが、紫にそのことを話した記憶が無かったのだ。もしかしたら宴会の席で酔った勢いで語ってしまっていたのかもしれない。
「あんた前もそんなようなこと言ってたわね」
 霊夢の言葉がますます早苗の疑念を煽る。口ぶりから推測するに、霊夢は早苗ではなく、紫から聞いたようだ。また、霊夢は早苗の言葉だとは知らないというのも不可解である。怪訝の念に耐え切れず、早苗は紫に訊ねた。
「私、そのこと紫さんに話しました?」
 だが、返ってきた答えは意味深長な笑みと、
「ちょっと小耳に挟んだのかも」
 という言葉だけだった。うやむやにされた早苗はもちろんのこと、霊夢も表情を曇らせている。
「何にせよ、頑張りなさいな」
 紫は眉尻を下げ、暖かな目を霊夢、次いで早苗に向けた。そのあまりに美麗な表情に早苗は見惚れてしまう。早苗から疑心が完全に消失したわけではないが、彼女の美貌は疑いを緩和させるだけの圧倒的な魅力を備えていた。
「紫があんな目で人を応援してるぜ。私は騙されないぞ。絶対裏があるに決まってるぜ」
「え、ええ。気持ち悪いったらありゃしないわ。うわっ、鳥肌立ってきた」
「ふふ……、私が言うのもなんだけど、あなた達ったらきっとロクな死に方しないわよ」
 三人のやり取りに早苗は出来る限りの笑顔を作って、訊ねた。
「あの……、私はどちらの言葉を信じれば?」
「基本、妖怪の言葉なんて信じちゃダメよ」
 紫は微笑を崩さず答える。
「自分で言うのはどうなんでしょう」
「今のも妖怪の言葉よね。妖怪の言葉なんて嘘っぱち。どれが本当なのかしらねぇ?」
「うぅ……、私はどうすればいいんですかぁ」
 早苗が情けなく漏らすと、紫は笑みを濃くした。
「ホント、早苗ってばからかい甲斐あるわね」
 傍らの霊夢は茶を飲み、魔理沙は面白そうに笑っている。早苗は釈然としない半面で、外の世界でもよくからかわれていたと懐かしさを感じていた。いつも冗談を真に受けてしまう自分が恥ずかしく、早苗は内心で苦笑する。
 ……今頃、外の皆はどうしてるんだろう?
 不意に早苗へと寂寥感が流れ込む。だがすぐさま早苗は頭から寂しさを振り払った。外界との決別が、永別だと決まったわけではない。霊夢や紫の話では完全に行き来ができないわけではないのだ。早苗は風祝の修行はもちろんのこと、“巫女”としての修行も積み、いずれは博霊の霊力も、八雲のスキマも借りずに、大結界を越えるつもりでいた。気をしっかり持てと、早苗は自分自身を叱咤する。
 しかし、同時に虚しさを覚えるのも嘘ではなかった。本当に幻想郷に徳を広めることが出来るのか。失われた信仰を取り戻すことが出来るのか。皆と再会することが出来るのだろうか。早苗を襲うのは幾多の重圧と疑念だ。
 野を越え山を越え、地平へと続く茫漠な空は、はたして外の世界へと続いているのだろうかと思いながら、早苗はぼんやり空を眺めた。
見上げた空には人型の影が重なって映る。外界では空飛ぶ人や巫女がいれば大ニュースだが、幻想郷では日常茶飯事だ。フライングヒューノイドだ、UMAだなどと騒がれることもない。
 影は早苗達の方へと少しずつ近付いてくる。接近するにつれて人の形がはっきりとし、気流に靡く赤と青の衣装、揺れる銀色の長髪、女性特有の丸みを帯びた身体のラインが順を追って確認できた。そして、早苗達の眼前、博霊神社の庭に降り立つ。女性は翔破の安息を得るように、吐息を一つ吐き、間もなく霊夢を見た。
「あら、久しぶりね」
 先に口を開いたのは霊夢だ。銀髪の女性は頷き、
「まあね。ここのところずっと忙しかったから、宴会に顔を出すことが出来なかったのよ」
 早苗に目を移した。
「あなたが東風谷早苗さんね。初めまして、八意永琳よ。永琳でいいわ」
 落ち着いた笑みを浮かべる八意永琳の自己紹介に、早苗は慌てて返す。
「えっと、はい。東風谷早苗です。私も早苗でいいです。永琳さんって、あの永遠亭のお医者さんですよね?」
「ええそうよ。もう聞いているのなら、大雑把な自己紹介で構わないわね」
「はい。永琳さん、里で有名でしたから」
 早苗は肯定を答える。早苗は表情に出さずとも、心中で安堵していた。それは永琳がもの凄くまともな人間に見えるからだ。
早苗が永琳を知ったのは里の者からの話である。その聞いた噂でも、医者としての腕は確かで、薬の効目も抜群、何よりも良心的な値段で薬を売ってくれるという。なんと慈悲深く、聖人君子のような方だろうと早苗は永琳に尊敬の念を抱いていた。
「あなたも里の有名人よ。ファンクラブも発足するみたいで、近々あなたの神社への参拝ツアーを開催する予定だとか」
 永琳の苦笑交じりの言葉に、早苗は困惑していた。参拝客が増えるのは嬉しいし、ファンクラブというのも悪い気はしない。しかし、あの掲載された写真によって火が点いたという事実が彼女の頭に引っ掛かった。
「素直に喜べないですね。というか、もう里へお買い物にいけないような……」
「ちょっと恥ずかしいかもしれないけど、それほど里の人間は気にしてないと思うわよ」
「そうですか? でも参拝ツアーってのは神社に来るまでが危険ですし、止めていただいた方がいいんじゃ」
 早苗の住まう神社、守矢の神社があるのは妖怪の山だ。妖怪の山の主ともいえる風の妖怪、天狗達は自分達の領域を侵されるのを嫌う。普通の人間が妖怪の山に踏み入って、神社に辿り着くことはまず不可能だろう。
 参拝は非常にありがたい話だが、それは無謀であり、現実的ではないと早苗は考えた。そこに割って入ってきたのは紫だ。
「大丈夫よ、私が主催したから。私のスキマで送り届けるわ。ぬかりは――」
「即刻中止してください」
 早苗は紫の言葉を遮り、語気を強めて中止を促した。紫が主催するツアーなど恐れ多くて、賛成できるはずがない。
「で、何しにきたんだ。早苗に何か用があるのか?」
 魔理沙が尋ねると、永琳はええと置いて本題に入った。
「実はね、姫が暇だからあなたと手合わせしたいと言い出したのよ。ほら、例の新聞を見てね」
「ああ、そういうことですか……。別に構いませんよ。いずれは永遠亭にご挨拶に伺おうと思っていましたから」
 早苗は笑顔で了承する。永遠亭の姫、蓬莱山輝夜は謎の多い人だと聞いているが、決して悪評が立っているわけではない。話も上手く、楽しい方だというのが、早苗の聞いた里の人々の見解だった。
 ……相手といっても、昨日みたいに完膚無きまでやられることはないよね。
 思って、早苗は自身の思考に情けなくなった。自ずと自分が負けることを前提にして考えていたのだ。どうも気持ちを引きずってしまっている己に、早苗の口から思わず嘆息が漏れる。
「それと、外来人の身体ってのも気になるし。もしかしたら、ここに無いウィルスの抗体を持っているかもしれないでしょう?」
 ……あれ、今私変なこと聞きませんでした?
「ちょっと薬の効果も試してみたいのよ」
「永琳さん、あの何言ってるんですか? あなたはそんな方じゃないですよね?」
 頬の筋肉を引きつらせ、早苗はぎこちなく笑う。彼女の問いに答えるのは永琳ではなく、霊夢と魔理沙だった。
「そんな奴よね?」
「そんな奴だぜ」
 早苗の聖人君子像が崩れた瞬間だった。
「嫌ですよ、そんなモルモットみたいになるのはっ!」
「あらあら、嫌ねぇ。私は試験投薬にげっ歯目を使ったりしないわ」
 永琳はそう言って、にっこりと笑んだ。早苗はふと里の人々の話を思い出す。
 ……確か永遠亭にはたくさんの可愛らしい…………。
「重歯目ですね……?」
 早苗は慄き、背筋を凍らせながら訊ねた。
「よくわかったわね。特に私の弟子の子が可愛くってね。薬を打ったあとの息を荒げて悶える姿なんてゾクゾクするわよ? でね、うわ言を言ってるから、どうしたのかって聞いたら私が四人に見えるんですって。そのときの表情なんてもう……」
「重歯目にも霊長目にもそんないかにもな薬打っちゃダメ、ゼッタイ!! ていうか、明後日の方向向いてうっとりとしないでくださいよっ! 幻想郷は変態が集まる魔窟ですか!?」
 早苗は左の霊夢に悲願の視線を向けるが、私をあんたらと一緒の変態にしないでとあしらわれ、彼女はただ落ち着いて茶を飲む。そして、永琳はゆっくりと恍惚の表情を早苗に移した。
「早苗、あなたは一体どんな声で鳴いてくれるのかしらねぇ?」
 永琳の艶笑に、早苗の身体を戦慄が迸る。早苗は左隣の霊夢にもう一度視線で助けを求めるが、首を横に振った。デジャヴである。次いだ動作で彼女は右隣の女性にも懇願の視線を向けるが、
「何ならスキマに――」
「結構です」
 問題外だった。残る頼みの綱は自称麓のヒーロー、魔理沙だけだ。早苗は霊夢を越えて、魔理沙に視線を向ける。
「早苗、こういう場合はな、全力で逃げるのがいいんだ。そりゃもう、脱兎の如く。結局頼れるのは自分だけなんだぜ」
 魔理沙は親指を立てて、ウィンクをしてみせる。早苗とって、最近では見慣れているはずの明朗な彼女の笑顔がとても輝いて見えた。ジャメヴである。
「流石は麓のヒーローさん。ヒーローらしからぬいいことを言いますね」
 切迫した表情の早苗は急な動作で立ち上がり、風を纏って飛翔し、風を爆発させて推進とした。圧を持った空気が、博麗の庭全体に広がり、落ち葉と砂塵が巻き上がる。早苗は高度を上げて、自身の出せる最高速で上空を飛び去った。



「本当に脱兎みたいだったわねぇ。あの薬師、兎を捕まえるのは得意でしょうに」
「あんま言うと早苗が不憫だぜ」
 早苗が飛び去り、追って永琳が翔けていった後も、相変わらず三人は縁側に座っていた。
「でもまあ、あの子ももう少し自身持ってもいいと思うんだけどね」
 霊夢はそっと告げた。
「早苗はまだ幻想郷のパワーバランスを完全に理解していないわ。“吸血鬼”に“弱くない”と言わしめた意味も解していないのでしょうね」
「霊夢と違って真面目だし、いずれは化けるじゃないか?」
「幻想郷は博霊に代わって守矢が治めることになりました、ってのは近々あったりしてね」
 紫と魔理沙は愉快そうに笑う。対して、霊夢は興味無しといった具合に湯飲みの茶を飲み干した。
「それにしても紫。結構早苗に肩入れするな。どうしたんだ?」
「どうもこうも、ただ面白そうだからよ。ただの道楽、それ以上でも、それ以下でも無いわ。私が多趣味で、悪趣味で、巫女好きなのは知っているでしょう?」
 紫は静かに頬を緩ませる。
「でも、あんたの道楽は“私達”の為、なんでしょう? 結果はどうであれね」
 霊夢は湯飲みを置き、頬杖を付いて紫を見た。
「道楽は道楽よぉ。私利の為、自己欲求を満たすもの。あなた、本気でそんなこと思っているなら相当のお馬鹿さんで、お気楽さんですわ」
 紫はくすりと笑む。
「お気楽なのは今に始まったことじゃないぜ」
 魔理沙が可笑しそうに付け足す。霊夢も自分の前言を振り返り、漏らした。
「紫が他人の為になんて、今私寒いこと言ったなぁ……」
「まあ理解してくれてて嬉しいわ。いつも私は幻想郷の為、そして私利私欲の為に、とびっきりのより良いハプニングを」
 寒気も訪れる空の下、霊夢達は談笑を続けていた。



 早苗はやっとの思いで守矢の神社に逃げ帰った。そのまま鳥居を潜って石畳に着地し、風を消す。勢いのあまり止まれず、早苗は着地点から一メートルほど滑った場所へと、砂埃を巻いて落ち着いた。そして彼女は肩で呼吸を整えて、湧き上がる汗を拭う。
 だが、安息もつかの間、背後から迫る影に早苗は地を蹴り、距離を取る。彼女を追ってきた影、永琳も石畳の上にゆっくりと着地をした。早苗とは対照的に、息も切らすことなく至って落ち着いた様子の永琳は微笑という名の威圧を彼女に向ける。
 そんな彼女と対峙する早苗は、驚愕していた。早苗は妖怪の山を通って神社に辿り着いたのだが、もちろん永琳もその早苗の後を追ってきたのである。途中、天狗達が早苗の危機に気付き、永琳の追撃を妨げようとしたのだが、彼女は天狗の弾幕を巧みにかわし、それでいて早苗との距離を離そうとしなかった。永琳の底知れぬ実力に、早苗は愕然としながらも諦めずに神社へと逃げ込んできたのだ。
「どうしたの早苗? ここは駆け込み寺じゃないのよ」
「そもそも寺じゃないわよ、神奈子」
 早苗の両隣に姿を現した二柱の神、神奈子と諏訪子はそれぞれ別の意味で辟易している。二柱の姿を確認すると、早苗は向かい合う永琳に決死の覚悟で叫び放った。
「それ以上近付くなぁー! さもなくば、神奈子様のエクスパンデットがオンバシラしますよッ!!」
 唖然とした様子の神奈子は一間置いて。
「早苗が壊れたー!?」
「あんたのがうつったんでしょう?」
 慌てふためく神奈子に対し、諏訪子は冷静な口調で続ける。
「でもまあ、早苗がピンチみたいだし? 放ってはおけないわよね」
 諏訪子はどこからともなく取り出した一枚の札を永琳に見せ付けるようにかざした。札から白い霞のような蛇が現れ、スペルカードを持つ諏訪子の左手から腕、肩にかけて巻きついた。白蛇の眼光は永琳を射るように研ぎ澄まされ、執拗な威嚇を絶えず与える。
「そうね。私達の可愛い早苗に、みすみす手を出されるわけにはいかない」
 神奈子も力の具現たるスペルカードを掲げる。瞬間、上空から二本の御柱が存在を露わにした。轟音と共に地を揺らし、石畳を砕き、抉って、神奈子の背後に突き刺さる。視界を覆うほど砂塵が巻き上がるが、一人と二柱を苦しめることはなく、塵は神奈子達を意思があるように避けていった。
 しばらくして視界を埋めていた砂煙が晴れ、早苗は永琳の表情を確認する。二柱の脅威を目の当たりしても、永琳はまだ涼しげな表情で微笑していた。
「神様を相手にするほど私も馬鹿じゃないわ。どこかの巫女じゃあるまいし。今日のところは引きましょう」
そしてしっとりとした笑みの色を強くし、続ける。
「でも、暇があったのならば是非来てね。姫の暇つぶしに付き合ってあげて」
「あっ、永琳さ――」
 麗らかな透き通った笑みを一つ浮かべた永琳は早苗に背を向け、声を掛ける間もなく飛び去っていった。
 そして、ややあって諏訪子が口を開く。
「それにしても、神奈子。やり過ぎよ……」
 諏訪子は呆れ返った面持ちで、彼女の背後に刺さった二本の御柱を見上げた。

 境内の真ん中で早苗はただ呆然と空を見上げていた。この空は世界全土の空のなのか、はたまた幻想郷だけの空なのか、空漠の思いに早苗の胸は詰まる。
「元気無いわね、早苗」
「最近、何だかこんなことばっかりで。正直、疲れました……」
 傍らにずっとついてくれていた神奈子の心配そうな声が、早苗の胸に染み入った。同様に傍にいてくれた諏訪子とも目が合い、諏訪子は優しく笑む。思わず早苗の目頭が熱くなるが、彼女は慌てて飲み込んだ。
 神奈子はふっと小さく息を漏らし、口元を綻ばせる。
「じゃあそろそろ、答え合わせをしましょうか」
 早苗は唐突なことに余計に呆けてしまった。だがそんな早苗に構うことなく、神奈子は話を進める。
「まず、早苗が信じるものは何?」
 早苗は戸惑いながらも、ゆっくりと答えた。
「八坂様と、洩矢様。二柱の神様です」
「それだけ?」
 首を傾げる神奈子に、早苗の頭は余計に困惑した。だが、早苗はそれではダメだとまず思考を落ち着けることに務める。平静さを取り戻しつつも、早苗は自身の信心を客観的に見た。そこで早苗の頭に思い浮かんだのは、紫の言葉である。答えはすぐ傍にあるかもしれない、と。さらにもう一つ、彼女が告げた言葉、
 ――信仰は信じること。
 思い、早苗は首を横に振る。
「違います。私が信じるものそれは、“八坂様と洩矢様、二柱の神様”。そして、“神奈子様、諏訪子様のお二人”です」
 早苗が信じるのは神様であり、大事な家族である神奈子と諏訪子だった。小さい頃から、愛を持って接してくれた大切な家族。神と風祝の関係以上にその絆は深く、強固なものだった。
「お二人だけではありません。もっといっぱい、信じるに値する人達がいます」
 それは母であり、父であり、そして再会を信じ合う親友であり、今までに自分を信じてくれた幾多の人間達だ。この幻想郷でもそのように信じ合える者達が築けつつあることを、早苗は感じていた。
 そして、早苗は気付く。
 紫の言った通り、消えた信仰の答えはすぐ傍にあったのだ。
 幻想郷にはさまざまな信頼関係、信用関係が存在していた。真紅の吸血鬼と人間のメイド、冥界の管理者と半人半霊の庭師、永遠の名を持つ屋敷の姫と薬を売るその従者、――巫女と妖怪。
 堅強な絆がここにはいくつもあった。外の人間が羨ましがるような、多種多様であり、崩れることのない絆がありふれているのだ。
「季節の神様、食物の神、八百万のものに宿る八百万の神々も、私は信じています」
 幻想郷では新しい自然の訪れと共に妖精が舞い、人々もその様子を見届け、自然に倣って暮らしていた。ありのままの自然が脈々と活きているのだ。それは幻想郷の者達の自然に対する感謝の形だろう。現代人が忘れた世界。早苗が知らない“幻想”がここにはあった。
「そして、私は……、私は私を信じます」
 神奈子、諏訪子の目を見て、早苗は強く言い切る。
 早苗が知る幻想郷の者達は、揺るぎない自信を持っていた。自分を信じ抜き、迷いを捨てることは残酷で困難を要すことだ。幻想郷の妖怪や人間はそれを苦ともせず、確固たる自分を持っていた。
「答えは見つかった?」
 諏訪子は笑みを加えて訊いた。早苗は彼女の問いに頷く。
「はいっ! ……私は、焦りすぎていたみたいです」
 言う通り、早苗は性急だった。余裕を無くし、自分で自らの首を絞めていたのである。気付いた瞬間、自然と自嘲の笑みがこぼれていた。何と馬鹿だったのだろう、と。
守矢神社から一望できる幻想郷を眺め、早苗は改めて映えるその壮麗さに感嘆を漏らした。
「綺麗……」
 忘れられたものが作り上げた理想の世界、幻想郷。
 どうして外の人々はこんな綺麗なものを捨ててしまったのだろう。だがそれは、今まで焦燥に駆られていた早苗自身を思い浮かべれば、すぐに導き出せた。いや、捨てたのではないと早苗は自問に答える。
 ……失くしてしまったんだ……。
 見失って、気付いたときには遅く、もう幻想の世界へと誘われていた。ときには気付かないことだってあるのだろう。人間の儚さが故に招いた結果なのだ。信仰も、他のものも、もう流れ込んでしまっていた。
「素敵な場所ですね、ここは」
 神奈子と諏訪子は早苗の頭を撫でる。愛でられている心地良さに早苗の頬が自然と緩んだ。
 
 果てしない蒼茫の空はきっと、外の世界に続いている。
 早苗はそう信じた。


 
 風こそないものの寒気も強まる冬空の下、霊夢は石畳の散らばる落ち葉を掃いていた。落ち葉を溜めた後の焼き芋などを楽しみに、彼女は掃除をしている。だが、掃いても掃いても次の日にはまた辟易することになる落ち葉達を見て恨めしく感じ、溜め息を一つ吐いた。
 そこへ、遠方から誰かが神社に飛んできていることを霊夢は確認する。早苗だ。早苗は風を操って神社に舞い降りた。それに伴って、せっかく集めた落ち葉が早苗の風に当てられ、またも散らばってしまう。
「あっ! ちょっと、せっかく集めたのに!」
 霊夢が怒声を早苗に浴びせる。早苗は気付いていなかったようで、散った落ち葉の方を見て、慌てて霊夢に謝った。
「ごめんなさいっ! すぐに集めます!」
 早苗は言って、前方に手をかざした。すると風が起こり、落ち葉を巻き上げていく。早苗の奇跡の風は博麗神社の境内を巡りまわり、隅から隅までの枯葉を広い集め、やがて球形に集まる落ち葉の塊を宙に作り上げた。一頻り集め終わると落ち葉の塊は神社の隅に、散らばぬようゆっくり置かれた。神社を再び凪が包み込む。
「あんた、便利な能力持ってたのね」
「忙しいときにしか使いませんよ? 普段は私もちゃんと掃いています」
 真面目ねぇ、と霊夢が漏らし、早苗は苦笑する。
 博麗神社にはもう一人来客が現れた。箒に乗ってきた魔法使いは降り立つなり、周りを見渡して感心したような表情をする。
「よう。今日はやけに綺麗じゃないか。落ち葉が一つも落ちてないぜ」
「すごいでしょ? 早苗がやってくれたんだけど」
「どうりで。霊夢がここまでやるはずないもんな」
 魔理沙は納得した様子で、霊夢を見た。
「そうそう。誰かさん達が来るたびにゴミ増やしてくしね」
「ホント、酷い奴もいるもんだよな」
 わかっているのか、それとも本当にわからないのか。きっと前者だろうと霊夢は思うが、魔理沙は悪びれる様子もなく嘆いていた。霊夢も深くは追求せずに、ただ冷めた眼光を魔理沙に向けていた。
「しかし早苗、吹っ切れたみたいだな」
 魔理沙は霧が晴らし活気を取り戻した早苗の面持ちに目を弓にする。
「昨日の今日なのにね? 何があったのやら」
 霊夢は不思議に思いながらも、内心では安息を吐いていた。霊夢の周りには底抜けて、明るい者ばかりだ。辛気臭い雰囲気は、少なからずではあるが、どうも彼女の調子を狂わせてしまう。
「霊夢、魔理沙、信じているものはありますか?」
 早苗は頷き、訊ねる。霊夢と魔理沙はお互いの顔を見合わせた。
「ああ、たくさんあるぜ」
 魔理沙は快活にはっきり答えて、
「そこそこはあるかしらね」
 霊夢は少し考え、返答する。
 ……信仰は信じること……。
 紫、そして霊夢の前で優しい笑顔を向ける少女の言葉。たまには考えてみるのも悪くないかもしれないと、霊夢は静かに思っていた。
「お二人にお願いがあるのですが。幻想郷を案内してくださいませんか?」
「ああ、いいぜ。どこか行きたい場所でもあるのか?」
 迷うことなく、即座に承諾し、問うた魔理沙に早苗は首を横に振る。
「いえ、それはお任せします。……少し、信仰を探しに行きたいんです」
「そう、信仰ね……。暇だし、たまにはあんたのいう巫女らしいことしようかしらね」
「よし、私がとびっきりの場所を案内してやるぜ」
 帰ってきたら焼き芋と焼き栗をしようと浮かべ、霊夢は早苗と魔理沙を急かした。
「さあ、善は急げっていうし、行きましょうか」
 どうやら自分の中の幻想郷は八割が変態で構成されてるようです。

 さて今作は前々作、「信仰は古き神の下に」続きだったりします。微妙に繋がっていますが、前作を読んでいなくても読めるものにはしたつもりですので、楽しんでもらえたら幸いです。
 早苗さんは打たれ弱いだろうなぁ、というイメージです。現代人ですから。というか、幻想郷の皆様が強すぎるのでしょう。霊夢や魔理沙に負けてしまったときも塞ぎ込んでいたのです。だから、従者なのに六面の道中で出てこれなかったのだと思います。いや、思いたい……。信仰心不足じゃないですよ?

 では、このあたりで。ご笑覧くださった皆様に、ありがとうございました!


 読んで頂いてありがとうございます。
 早苗さんは弄られキャラ全開ですね。自分で書いてて可愛そうになってきた。幻想郷では実直は損しそうです。
 >この作品でも色々いじられてますけど……この設定はデフォなんでしょうかね?
 個々人のイメージだと思います。どうしても、キャラごとにぶれが出てきてしまうのは仕方ないかと。特に風キャラはキャラがまだ固まってないですからね…。
 >神主と呼ばれる男もいるww
 あのお方は大丈夫なのでしょうか?w 本当に妖か(ry
  >でもひねくれた見方で~
 中々興味深い話ですね。ちょっと調べてみようかな……。
 お酒については、霊夢たちにはつきものですからね。人妖入り混じる宴はやっぱり無ければ。ちなみに霊夢達がお酒好きなのは公式設定ですよ。お酒大好きなZUNさんの影響でしょうねw
 
 最後に、続きを希望してくださる方、本当に嬉しい限りです。でも自分はあまり筆が早い方ではない上、いろいろと書いてみたいものが頭の中に溜まっているので、少し時間がかかるかもしれません。まったりと書いていきますので、また見かけたら読んでやってください。
 ではではもう一度、ありがとうございました!
彼岸花
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コメント



0.1040簡易評価
3.70名前が無い程度の能力削除
紅白、黒白、青白のだべってる様子が凄くいいわあw
4.100名前が無い程度の能力削除
>アルコールっていうのは、実は脳や身体の発育に影響を与えたりするんです
私もずっと気になっていました。
未成年の飲酒が禁止されたのには、「国の礎になるべき青少年には健康に育ってもらわないと困る」という、当時の政治家の思惑があったみたいですね。
まぁ他にも、当時の先進国では既に禁止されていたので、それに習ったというのもあるそうですが。

それはともかく、永遠亭メンバーと守矢一家の絡みは見たことが無いので、是非その後の話もお願いします。
鈴仙と早苗の会話とかどんなんなんだろwww
6.80名前が無い程度の能力削除
まあ、日本(外の世界)の法律が関係ない幻想郷じゃあ、二十歳未満は飲酒禁止といっても「はっ?何で??」でしょうな。
時代や国によって酒を飲める年齢は違うしっていうか、決まって無い時代もあったし
そもそも『成年』の年齢自体違うし
なんとなく、魔理沙や霊夢に酒飲むなって言うのは、妖怪に人襲うなって言ってるみたい
7.100名前が無い程度の能力削除
紫に弄られ、永琳に弄られ、なんかもう弄られキャラが板についてきてる早苗さん。
話の中で輝夜の話題が出ていたので、次は輝夜と絡むのかな?
次も楽しみにしてます。
9.70三文字削除
早苗さんはいじられている姿が似合うなぁ・・・・・
そして、えーりんのお薬でヤバイ感じになっているところも見てみたかったり
10.90名前が無い程度の能力削除
霊夢たちがお酒を飲むのは公式設定なのでしょうか。
いつも違和感を持ちます。
早苗さんいいよ!!!
11.100名前が無い程度の能力削除
>アルコールっていうのは、実は脳や身体の発育に影響を与えたりするんです。
でもひねくれた見方で「二十歳ごろから定期的に酒を飲むと大体65位で死ぬ」って聞いたことがあるんですよね。
定年あたりで死ぬように政府が定めた。いやさすがに考えすぎだろとか思いましたが。

ま、ともかくがんばれ早苗ちゃん、巫女自身が信仰の対象になることもあるかもよ!
13.80名前が無い程度の能力削除
アルコールを取ると影響……だが、世の中にはそんなのは関係ない
神主と呼ばれる男もいるww
早苗さん…かわいいよ
14.70削除
私の中の早苗さんは四季様のような感じの苦労人というイメージでした。
この作品でも色々いじられてますけど……この設定はデフォなんでしょうかね?

>さて今作は前々作、「信仰は古き神の下に」続きだったりします。
いやー!それを早く言ってくださいなー!先に読んじゃったよぅ~……シクシク
26.100名前が無い程度の能力削除
紳士はともかく、変体という名の淑女か・・・ナイスだゆかりん