STAGE 1 魔女VS吸血鬼 ~ World is mine.
安い挑発。
最初はそう考えて割り切ろうと思っていた。
「吸血鬼と魔法使いは、どちらが種族として優れているのかしら」
レミリアが唐突にそんな発言をするとは思ってもみなかったので、アリスは自分の耳を疑った。とはいえ、ここでむきになって抗議するのも大人げないと考え、彼女は気にしていないフリをして自分のカップをすする。
現在、アリスは紅魔館の主レミリア=スカーレットのお茶会に参加している。
彼女がこの館を訪れた当初の目的は、地下にある図書館で本を借りることだった。いつものようにそこに籠っていたパチュリーと挨拶を交わし、魔法のことやお互いの研究内容のことで談笑していた折に、パチュリー宛てに茶会の知らせがきた。それでは客人もご一緒に、ということで館の主人であるレミリアに午後の紅茶に誘われたのだ。
茶会の誘い自体は礼式に則ったごく普通のものだったのだが――
「お姉さまったら意地悪ですこと。悪魔と契約しなければ一人では箒も飛ばせないような種族、夜の王たる高貴な吸血鬼と比べるなんて、いくらなんでも可哀想じゃないかしら」
小憎らしい笑みを浮かべ、わざとらしくしなを作りつつ、妹吸血鬼がそう言い放った。皮肉のスパイスがたっぷりまぶされた言葉を聞かされて、さすがのアリスもいらつき、眉がゆがむ。
それにしても、かわいそうと申したか。
別段悪魔と契約しなくたって、魔法使いは魔法を使えるし箒も飛ばせるのだが、もちろん問題はそんなことにあるのではない。問題は、アリスを招待したホスト側であるレミリア達が、客を名指しで侮辱するような言動をはいているところにあった。
たまに誘いを受けてみればこの扱い――まったく無礼極まりない。アリスはそう考える。
彼女にとっては、茶会の席でこんな話題が始まるというのは噴飯ものだった。
いやみったらしい言いまわしは単なる貴族ごっこのつもりかもしれないが、あまりにも子供っぽすぎる。この二人は本当に幼稚だ。自分の隣に座っているパチュリーも、このような子供だましの挑発にはあきれているに違いない。そう思って、彼女は自分の右隣に座っている紫ネグリジェに目を向けてみるのだった。
パチュリーのこめかみには青筋が浮き出てていた。
……わかりやすい怒り方だ。
眉毛がぴくぴく動いて痙攣している。手に持ったティーカップががたがたと小刻みに震え、置き皿の近くでかちゃかちゃと音を立てた。振動で中身の紅茶が今にもこぼれそうだ。相当怒りを溜めこんでいるらしい。アリスはそれを見て目を細めた。
「さあ、どっちかしらね。どちらもそれなりに得手不得手があると思うけど」
気を取り直し、紅茶の入ったカップを皿の上に置きながら、アリスは場に向けてそう呟く。静かな落ち着いた声だった。大人気ない姉妹に比べて、自分の対応のなんと紳士的なことか。これこそ心の貴族。ノビレス・オブリッジ(高貴なるものの義務)というものだろう。
こういった煽り文句を言う連中には冷静に応対して、智慧に溢れる魔女としての余裕と貫禄を見せ付けるのが得策だ。言わずもがな、パチュリーもきっとそうするに違いない。アリスは薄目を開けて小さくうなずきながら、そう満足げに考えた。
「そうね、吸血鬼は夜の王を名乗っている割には苦手なことが多いわね。いにしえの昔より魔女は悪魔の弱点を見抜き、隷属させて自らの走狗としてきた。吸血鬼も例外ではない」
火に油を注ぐような発言がパチュリーから飛び出した。「隷属」というところに強いアクセントが置かれていた。それを聞いた吸血鬼二人の顔色が同時に変わっていき、口元からうすら笑いが消え、すぐに二人とも真顔になった。
アリスはその様子を見、必死にばしばしと目をしばたいてウィンクをし、目配せを繰り返してパチュリーに合図した。これ以上挑発するな、と。
「あら、アリス。どうしたの? 目にニードルでも入ったのかしら」
パチュリーはそう言った。
わざとやっているのだろうか、予想外の鈍さを見せつけられてアリスは愕然とする。近くに針巫女なんているわけないし、目にニードルが入ったらこんなに悠長にしていられないだろうに……いや、問題はそういうことではなくて
「聞き捨てならないわね」
と言ってレミリアが半立ちになって、テーブルにどんと片手を突く。
「目に針が入ったぐらいで大げさに騒ぐような軟弱な種族が、どうやって悪魔を隷属させることができるのかしらあ?」
くすくすと笑ってみせ、口元に手の甲を運びながらレミリアはそう言った。そういう小馬鹿にしたような口調と態度に、アリスも本気で腹が立ってきた。それに、目に針が入ったら妖怪だって騒ぐに決まっている。無茶を言うな。
「そうよね、どこをどうやったら魔女の力が悪魔に勝るのか証明して欲しいわ」
フランも椅子を下げて立ち上がり、腕を組む。
この妹様も今日は情緒不安定な日なのだろうか。いつもそうだと言う噂もあるが。
吸血鬼姉妹の射すくめるような視線が魔女二人を捉える。
言いたいことがあるなら言ってみろ、それを口実に喧嘩をふっかけてやるから。そのような構えだ。実力行使をちらつかせてみれば、ひ弱な魔女二人は弱腰になるだろうと見越しての、ブラフでもあるのだろう。
レミリアの隣に座っていた咲夜は、一触即発のきな臭い雰囲気でも平静な顔をしている。
主人の暴走を止める秘策でも考えているのか……と思いきやリリアンを編んでいた。
主と客の眼前でなにをしているのだ、この女は。そういう手芸っぽい趣味はむしろ自分の専売特許だろう、とアリスは心の中で憤慨するが、無論声には出さない。
「それでしたら、魔女も吸血鬼もちょうど二人ずついらっしゃることですし、ダブルスで弾幕勝負でもしてみたらいかがですか? 外で。(そうすればその間に落ち着いて掃除ができますし)今日は曇り空で太陽も出ていませんから、丁度いいですよ」
相手の視線を見ずに手元に集中したまま、興味のなさそうな態度と声で咲夜はそう発言した。
この薄パイが、なに煽るようなことを言っているのかとアリスは心の中で悪態を吐く。それに今小声で本音が聞こえた気がした。咲夜は体良く全員を追い出そうとしているだけのようだ。
もうだめだ。
愛想笑いで文字通りお茶を濁すアリスの作戦ははかなく散り去った。
「面白いわね。最近侵入者が来なくて退屈していたところだし」
「魔理沙の代理にちょうどいいわ。少し教育してあげようかしら」
ノリノリの吸血鬼二人は、絶好の好機とばかりにその提案に飛びつく。
二人の顔には実に嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
どこからともなくフランは一枚のタロットカードを取り出し、投げ放つ。それは机の上に突き刺さった。アリスが首を少しのばして表側を覗いてみたところ、タロットカードの絵柄は魔術師。
レミリアがぱちんと指を弾くと、そのカードの端にぼっと火が付いて、除々に燃え広がっていく。これがお前たち魔法使いの将来の運命だ、そう言っているのだろう。
カードが半分まで燃えた程度で、パチュリーがその火の上に自分の手をかざした。
すぐに手を取り除く。
…………。
一瞬でカードが元に戻った!
しかも魔術師のカードの下に、いつのまにか悪魔のカードが現れて、テーブルに串刺しにされている。
「……!!」
机の上を凝視したまま、フランとレミリアが絶句する。
わずかであるとはいえ、吸血鬼二人の顔が驚愕にゆがんだ。
アリスも同様に驚いている。一体どうやったのか、全く見えなかった。
パチュリーはうつむきながら、ゆっくりとした動作で席を立ち、その場でまた緩慢な仕種で顔を上げたのち、レミリア達を見据えた。
「種族の名誉にかけて売られた喧嘩、このパチュリー=ノーレッジとその友、アリス=マーガトロイドが利息付きで買ってあげるわ、レミリア=スカーレット! そしてその妹、フランドール=スカーレット!」
パチュリーは毅然とした口調でそう言い放った。相手を名指し自分の姓名を添え、言葉で決闘の手袋を投げつけるその態度は、さながら中世の騎士と言えようか。アリスは勝手に自分の名前を入れたことに対しては撤回を要求したかったが、一同の勢いに付いていけずあたふたするばかり。
「……上等。手品と弾幕はモノが違うってこと、教えてあげるわ!」
レミリアの口元が嬉びの色にゆがむ。
まるで獲物を見つけた肉食動物のように残酷な笑みだった。
パチュリー、レミリア、フランの三人は仁王立ちになって相手をにらみつけたまま、あらかじめ示し合わせていたかのごとく、ぴったりと同時に叫んだ。
「「「デュエル!!」」」
何がデュエルか、なぜ皆そんなに熱血なのか、アリスの抗議の声が空しく食堂に響いた。
そういったわけで、現在アリス=マーガトロイドは紅魔館上空に来ている。
彼女の眼前には、悪魔の羽をまとった、形を成した最悪が二匹。ひさかたの弾幕勝負にうずうずしているのか、口元に不敵な笑みを浮かべ、嬉しそうに羽根をばたつかせて意気揚々と浮いている。
結局アリスは吸血鬼姉妹と弾幕勝負をする羽目に陥ってしまった。
相手は幻想郷最強クラスの力を持った吸血鬼、それも二人だ。性格も残忍で極悪、救いようが無い。おまけに姉妹だから、二人でタッグを組んだらきっと相性も良くてコンビネーションも華麗であったりするのだろう。
かたや自分のパートナーはといえば、魔力は高いのだが、とても胡散臭く見える魔女。何度か図書館を訪れてそれなりに長い付き合いではあるが、どうにもつかめない性格をしていて、意図がわからない時が多々ある。おまけに持病もちで、本来の力を十分に発揮できないと来ている。
それにアリスは戦闘向きの魔法使いではない。何と言ってももともとの生業は人形師だ。荒事は本業ではない。何だってこんな勝負をしなくちゃいけなくなったのか、心の中で今までの成り行きを反芻し、自分に全く否がなかったことを再確認して、アリスは一人で腐った。
あまり将来に良い想像は持てなかった。むざむざとやられる気は毛頭ないが、冷静に彼我の能力を比べれば、純粋な力の対決で自分があの吸血鬼達に及ばないのはわかっている。相方のパチュリーの実力の程をアリスは詳しく把握していなかったが、聞いている噂を元に判断した限りでは、戦闘上の総合力は断然敵側の方が上、勝ち目は薄いだろう。
負けるにしても形が問題だ。アリスはそう考える。
よくて半殺しの目だろうか。最悪の場合、お気に入りの服がぼろぼろにされたり、上海や蓬莱等の大事に扱ってきた人形を壊されたりするかもしれない。それは嫌だ。なるべく被害を最小限に抑えたい。そのように、彼女は戦いが始まる前から後ろ向きな気持ちだった。
――そうこう考えているうちに、レミリアが動いた。
速い! 魔術師チームはまだ作戦も立てていないと言うのに。
アリスはレミリアの動きを目で追おうとするが、既にフランが下方に移動してきていて、細かい弾幕をばらまき圧迫を掛けてくるので、注意が削がれてしまう。その間にレミリアは空を縦横無尽に駆け巡り、敵を翻弄する不規則な経路で高速機動を繰り返し、やがてアリス達の斜め上、射撃に絶好の角度、いわゆる相手の死角へと到達する。
ちょうどアリス達の下に控えているフランの位置と併せて、挟み撃ちになる格好だ。
「あーはっはっはっ、力ある者よ、我を恐れよ! 力なき者よ、我を求めよ!」
絶好調の紅色吸血鬼が高らかに叫ぶ。甲高い声が空に満ちると共に、凝縮された魔力、暴力的な紅の圧迫が彼女の両腕の先から散弾の形になってばらまかれる。
紅い鮮烈――まさにそのような印象だった。
雲が立ち込めるほの暗い空が、一瞬の間、彼女の色一色に染め上げられる。
アリスは刹那の色彩を目に映しながら、そんなセリフはカリスマ不足のおまえには似合わない、そう大声で言ってやりたいと考えた。
「きゃあ!」
そんなアリスの至近を、高速の赤色弾頭が掠める。悲鳴を上げながらも彼女は少女の肢体をよじり、すんでのところでその弾をかわし、やり過ごす。
至近で爆発が起こり、浮かせていたオルレアン人形が吹っ飛ばされた。
ちらりと横目でパチュリーの位置を確認したところ、彼女は現在アリスの後方に控えていた。
そのパチュリーがアリスとの距離を詰め、やがて後ろから彼女の背中に自分の手を乗せた。
そして言う。
「ここで相談しあって二人三脚していたら負けるわ。アリス=マーガトロイド。今夜限りでいい、私を師事して、私の指示に従いなさい」
「……はあ、あんたなにいってんの? こんなときに。状況がわかってんの?」
「いいから黙って年長者には従いなさい。前を向いて」
「ちょっと何……」
パチュリーはアリスの背中から彼女を抱きかかえるように腕を回した。
そんなことをやっている間にも敵の弾幕が雨あられと二人の居る場所付近に降り注ぐ。
二人は多重に結界を張ってその弾を弾くが、強い衝撃でそれもすぐに歪んでいく。
そのままでは、アリスの張る結界程度では長くもたないだろう。パチュリーの結界も準備に時間が取れていないために、アリスのものと同様にそれほど強い代物ではない。しかし、パチュリーがアリスの背中に張り付いているので、このままだと結界が破れた時に最初に被弾してしまうのはアリスということになる。
「ま、まさか私を楯にする作戦!? わわわ、わたしはフォースじゃないから弾は吸収しないわよっ!」
その状態に気づいてアリスはあわてて叫ぶ。なんてひどい、パートナーと偽って肉のカーテンに使うなんて、まるで悪魔ではないか。アリスは絶望した。こんな胡散臭い奴と組むんじゃなかった。
「違うわよ! 安心なさい、今から伝えるから」
そう言った後、パチュリーはアリスの背中に自分の額を押し付けた。
「え?」
『聞こえる?』
突然、アリスの頭の中に声が響いた。
『え、あなたパチュリーなの? これは何?』
アリスも頭の中でそう思考し、聞こえてきた声に返答する。
『今、あなたの精神に直接語りかけているのよ。こうすると実際に口頭で話すのよりも何倍もの速度で意思の疎通ができるの』
驚くアリス。そんな術があるとは知らなかった。
『まず、二人の戦力を確認しましょう。私はスペルが唱えられないけれど、魔力は高い。あなたはスペルを唱えられるけれど、魔力の絶対量は低い。二人のすべきことがわかる?』
『え? ええーと……わかった。役割分担ね』
パチュリーの考えを斟酌して返答する。
『オーケー、頭の回転は速いようね。アリス、Aプラスを上げるわ。このヒヒイロカネで出来た炉が二人の魔法力を媒介してくれる。私が炉に注ぎ込んだ魔力を、あなたが制御するの』
パチュリーはいつの間にか取り出したアイテムをアリスの手に握らせていた。
ごつごつとした金属製の感触。指先でさぐれば、多角形の表面には紋様が描かれているのが分かった。
『これは八卦炉?』
確かに造作が八卦炉に似ていた。探ったアリスの指がパチュリーの指と触れる。
『私が作ったレプリカよ。八卦と異なる点は、精霊魔術を基準としていること。<七曜炉>とでも名づけようかしら。魔法のアーティファクト、コストゼロ。タップすると場に出ている自軍のマナの全てを、任意の色のマナに変換する』
『????』
『とにかく魔力を増幅し収斂し、指向性を持たせて放つ作用を持った道具よ』
『でも、魔力を制御するにはスペルが必要なのよ。どんなスペルを唱えればいいかわからないわ』
『それを今から私が伝えるわ――最初は――――――』
数十メートル離れた先で牽制の弾幕を放ちながら、レミリアは敵の様子を見ていた。
「あの二人、なにをやっている? ……まあ何でもいいわ、フラン。あなたから撃ってみなさい!」
「わかったわ。まかせて、お姉様!」
合図をもらってフランが嬉しそうに攻撃の準備を行う。金色の彼女の中心に、悪魔の炎が移動し、凝縮されていく。
枯れた枝のようにいびつな形をしているフランの羽根、そこにぶら下げられた七色の結晶のひとつひとつが、蝶の燐粉のような不思議な光を放ち始める。妹吸血鬼の行使している術に感応しているのだ。
「カタディオプトリック!」
フランの小さな唇が激しく動き、スペルカードの行使宣言がなされた。
禁弾「カタディオプトリック」は、フランドールの持つスペルカードの中でも、レーヴァティンに次ぐ正面破壊力を持つ弾幕である。フランドールが真上に打ち上げた魔弾は、ある高度まで達するといくつかの群塊に分かれる。分かれた弾幕は、そのまま散弾状になって相手へ向かうが、途中の空間上で不規則な屈折と反射が行われ、相手を包囲するように進むのだ。
そのため、この弾幕を仕向けられた相手は、時間差で全方位から魔弾の攻撃にさらされている印象を受ける。いわば単独オールレンジ攻撃と言ったところだろうか。
「いっけー、きゅーっとしてどかーん!」
フランが叫んだ。表現はかわいらしいが、その言葉によって魔弾に全てを破壊する忌まわしい呪いの力が加わった。生身で受ければ四散し跡かたも残らないだろう破砕力。その力が、空気を震わせ、うなりを上げ、逃げ道を塞ぐように四方八方、上下左右から魔法使い組にせまる。
『斥けろ!』
パチュリーの叫ぶ声がアリスの精神内に轟いた。
瞬間、膨大な魔力が<七曜炉>にみなぎる。
アリスは即座に反応し、その魔力を炉によって錬成し、結界を増幅する力へと変換する。強化された結界は、丁度周囲に到達していたカタディオプトリックの圧力を一瞬でかき消した。
その一連の成り行きが、情報として魔弾の射手の目にも飛びこんでくる。
「うそ!? 私の術がこんな簡単に破られるなんて!?」
予想外の展開にフランが目を見張って驚愕する。
「なんですって? やるわね……でも、これならどうかしら!」
次いで先ほどから魔力を凝縮して控えていたレミリアが、身をよじり溜めを目いっぱい作った後、右手に持っていた魔力の槍を渾身の力で投擲した。轟音と共に放たれたそれは、紅の吸血鬼・必殺必中の秘術「スピア・ザ・グングニル」だ。
「身の程を知りなさい、豚共!」
カリスマにあふれた台詞をともなって、紅蓮の刃が魔術師組を襲う。これも強大なスペルであり、幻想郷内でも屈指の破壊力を持つ攻撃術である。
しかしまだ、二人が先ほど行使した結界の効果は持続している。
すぐにグングニルの衝撃波が結界表面に到達し、お互いの力場が干渉し合う。
アリス達のすぐ側で、紅の蛇が一瞬動きを止めた。
その直後、のたうちまわって結界面と何度も衝突し、きしみを上げる。力の余波が壁の向こう側から空気を通じて伝わり、アリスの肌もびりびりと震えた。
「うぅっ……」
しばらくの拮抗の後、グングニルのエネルギー流は結界壁面で二分されて左右に分かれた。
魔法使い組の結界は、レミリアのグングニルでさえ凌ぐことに成功したのだ。
「この角度からのグングニルまではじくなんて!」
「なんて厚い結界なの!」
その様子を遠目で観察していたレミリアとフランが同様にうめく。
回避するのではなく、はじくとは。
二人の攻撃がここまで完全に防御されたことは、今まで一度もなかった。
これはすごい。アリスは心の底から驚き、同時に溢れてくる陶酔に似た感情の波を感じる。
自分にこんなことができるなんて思いもしなかった。二人羽織のような状態であるため、動きは鈍重であるが、パチュリーの魔力で作られた厚い多重結界でどんな攻撃も通さない。
いわば動く要塞だろうか。防御は攻撃に勝るとどこぞの戦略家(確か、クラウゼヴィッツという人物)も言っていたことだし、これはかなり強いかもしれない。
相手の攻撃手段の全てを無効にして、なおかつ持久戦に持ち込むことができたなら。
あとは相手が疲れてくるのを待てばよい。そうすればいつかは勝てるのだ。
そしてレミリアとフランドールの、ほぼ最強に近い手札を両方とも無効化できた自分たちなら。
勝利をもぎ取る可能性は十分にある。
『思ったとおり。あなたがパートナーでよかったわ。魔理沙だったら、こうは行かなかったもの』
パチュリーがまたアリスの精神に直接語りかけてきた。
『どういうこと?』
『私と魔理沙だとタイプが被っているから、きっと上手くいかなかったわ。チームを組むときは、正反対の性格の持ち主の方が意外とうまくいくのよ』
『あなたと魔理沙が似ている? そうは思えないわ』
『外見はね。こう見えても、私は結構がさつで向こう見ずなのよ』
『それは興味深いお話ね』
『さっきのお茶の席での二人の態度、いくら温厚な私でも頭に来たわ。完全に私達魔女をなめきっていた。二人で協力して、生意気な吸血鬼達に目にもの見せてやりましょう!』
『ふふふ。あなたって意外に負けず嫌いだったのね。魔理沙に似てるって、そういうところ?』
『これが素の私なのよ。じゃあ、次のスペルに行くわよ。今度は私たちから攻撃するの。聞いたとおり、復唱して』
このまま防御に回っていても、おそらく勝利は堅いだろうに、攻勢に打って出ようとは。随分アクティブだ。<七曜炉>で練成した膨大な魔力、それがあれば今の自分たちにはどれほどのことができるだろうか? 圧倒的な力で、相手を蹂躙し屈服させるという空想。それはアリスにとっても魅力的だった。
『わかったわ!』
アリスは勢いよく返事した。
『初めに神が天と地を創造した』
すかさず、パチュリーが一文をつぶやく。きっとそれが魔法の呪文なのだろう。
「ええっと、初めに、神が天と地を創造した」
先ほど結界を増幅したときと同じで、パチュリーが精神に呼びかけたとおりにスペルをつぶやく。
『地は形がなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた』
「地は形がなく……って」
アリスは疑問に思い、また再びパチュリーに精神で語りかけた。
『ちょっと、これって聖書の文句じゃない! こんなのがスペルになるの?』
パチュリーがアリスに伝えた一節、それは旧約聖書の冒頭部だった。
『いいのよ、集中して。文句はどうだっていいの。要は精神を収束させるための効果があればよいのだから』
『そ、そういうものなの? 高度な攻撃魔法ってわからないわ……』
「地は形がなく、何もなかった……」
アリスが聖書の文句を復唱している間にも、パチュリーは自分の持つ魔法力を炉に注ぎ込んでいた。
(なんて量……)
想像もしなかった莫大な量の魔力が注ぎ込まれて行くのに気づき、アリスは驚く。
(これが、齢百を重ねた魔女の本気の魔力)
それにしても、聖書なんて詠唱していて本当に大丈夫なのだろうか?
魔女が聖書の朗読に弱いというのは迷信だったが、戦闘の場で唱える呪文としては割と場違いに思える。確か聖書の冒頭部、創世記は七日間かかったという主の天地創造の御業を歌っていたはずだ。
(七日……そうか)
そのとき七曜も同時に生まれたのだ。創世の七日間と、七曜の魔女たるパチュリーの行使する魔術。その関連性を考えると、あながち呪文に意味がないとも言えないのかもしれない。
「……こうして夕があり、朝があった。第一日」
アリスが文句を唱えている間にも、吸血鬼達の攻撃は間断なく続いている。
「……第二日」
――二日目には海と大気が分割され、空が生まれた。
パチュリー達も結界への負荷を軽減するために、最小限の動きで敵の弾幕をそらす。
気のせいか、吸血鬼二人の動きが鈍いように見受けられる。そういえば、悪魔も聖書の朗読をされると弱るという伝承があったが、そっちの方は本当だったのだろうか? もしかしたら、悪魔祓い(エクソシスト)が唱える祈りと同じ効果を、このスペルはあの二人に与えているのかもしれない。
「……第三日!」
――第三日目には既に創造されていた大地の上に、植物が生まれた。種子と果実が生まれ、人間たちを養う下地ができた。
第四日目、神は天に太陽と星を作り、太陽に昼を、星に夜を治めさせることにした。
第五日目、海洋の生き物、鳥類が創造された。
第六日目、獣や家畜などの大地の生き物を創造し、その後で自分に似せて人間を作った。
続けざまに、アリスは六日間の創世神のなした仕事の記録を読み上げた。
そして一週間の最後の日、すなわち、第七日目になさっていたすべてのわざを休まれ、その日を安息日とした。それが七曜の始まりであると創世記は語る。そこで、アリスの呪文が完結する。
アリスとパチュリーは共に世界でもっとも古ぼけた、反面もっとも多くの目にふれたであろう祝詞を読みあげた。
その瞬間だった。
確実に何かが変わった。
祈り――詠唱――黙祷――そして生まれる――創造の時。
解き放て!
叫びが聞こえた。
一緒に居た少女の叫びだ。
なにかが突き抜けた感じがした。
溢れ来る魔力。これほど純粋で、強大な魔力は体験したことがなかった。
アリスはその全てを、前に向けて、自分の前方上空で移動中だったフランドールへ意識を集中し、放った。
光があった。
大きな光が、ゆるやかに大らかに大空に満ちて行く。
音が途絶え、現実感のない光景がスローモーションのようにゆっくりと流れた。
アリスとパチュリーの放った魔力の塊は、<七曜炉>を出た瞬間にまばゆい光の球体へと変化した。
大量の魔力を込めた、全天を覆わんばかりに輝く光の砲弾。
「う……」
その光球はやがて猛烈な勢いを得て、フランドールの方角へと吸い込まれていく。
「うわあああああああああ!!」
自分を包みこもうとする光の波動を目にし、天を轟かさんがばかりの大音量でフランが叫ぶ。
最初、周囲の三人は、フランのそれは気合を入れるための怒号かと思っていた。
だが、フランドールが光を回避しようともせず、自分の魔力を攻撃の形でめくら鉄砲に放出し始めた時に、ようやくわかった。
これは彼女の悲鳴だったのだ。
彼女は光球を見た瞬間に、動きを止めていた。
驚くべきことに、フランドールは、この破壊を司る悪魔は、魔法使い組の放った魔法の光に威圧されて、すくんでしまっていたのだ。
「なんですって!? あの二人がこんな大きな……」
少し離れた空中にいたレミリアが顔面を蒼白にしながらうめく。
判断を誤り回避する時間を失ったフランは、持てる魔力を全て振り絞ってアリス達の放った光球を相殺しようと試みていた。何本もの禍々しい力を持ったフランの魔力束が光に向って放たれた。
フランの放った魔力は、光と何らかの干渉を起こして反応しているようだ。
その結果、だんだんと光のスピードそのものは弱まっていくように見える、そして。
「と、とまった!?」
確かに一瞬だけ止まったように見えた。
――しかし。
「う、と、とまってない!?」
光はフランの放出したエネルギーをすべて飲み込むと、また彼女目がけて動き出した。
技を放出した後の硬直で、フランドールは動けなくなっていた。
その様子を見ていたレミリアが叫んだ。
「いけない! フラン!」
レミリアはフランの真横から割って入り、止まっていたフランを突き飛ばした。
そのまま自分も一気に加速して、すんでのところで光球を回避する。
「…………!!!」
そこでレミリアは光球のもたらす波動を肌で感じ、今までに体験したことのない感覚を覚えた。
それは、異質に対する恐怖だった。
魔法使い組が放ったこの魔法は、レミリアでさえ知らない新しい力だったのだ。
魔法弾はかつてフランがいた場所を高速で通りすぎると、そのままもの凄い勢いで薄暗い雲の中へ吸い込まれていった。
しばらく時が経つ。
少し時間が経って、遠くの空で瞬きがあったような気がした。
刹那、稲光に似た爆音が轟く。
切れ間のない雲の下に、雷光がいくつか煌いた。
大地が揺れる。
「ちいっ、戦術的勝利なんかいくらでもくれてやるッ!」
光球の炸裂がもたらしたと思われる爆音を耳にしながら、レミリアは口惜しそうにそう叫んでいた。
弾幕勝負には戦術的勝利しかないと思うが。自分の放った魔法の、予想外の効果に仰天しながらも、アリスはそう考えた。
音が止み、空気の震えが鎮まった。
一同は先ほどの魔法がもたらした轟音の余韻に、しばらく中空に浮いたまま茫然としていたが、やがて冷静さを取り戻した。
レミリアが少し疲れた顔でパチュリーの方を見て、彼女に話しかけた。
「あきれたわ。あんなものをぶっ放すなんて」
それを聞いたパチュリーは軽くほほ笑んだ。
「……びびった」
フランがぐったりとした様子でそう言う。
「もういいわ、おひらきにしましょう。フランももういいでしょ?」
「……うん」
「どう? 魔女の力もまんざらじゃないでしょ?」
パチュリーがにやりと笑い、両手を腰に当ててセクシーなポーズをとり、得意そうに言った。
「……正直に言うわ、驚いた。まさかあんな隠し玉を持ってたなんて。二人が組んだらこんなに強いとは思わなかったわ」
内心、冷や汗をかいていたレミリアだったが、表面上は冷静を装っていた。
……二人ともなんとかあきらめてくれたらしい。
負けず嫌いのフランやレミリアがあっさり引き下がったのは、意外だった。フランなどは珍しくしおらしくしてしまっている。よっぽどあの光弾の威力が恐ろしかったのだろう。
フランにとっては、他者を消滅させることはあっても、自分が消滅させられる恐怖を味わうことなど、今まで体験したことがなかったのだろう。
吸血鬼二人はすごすごと館の中に引き返していった。
アリスはそれを見送りながら、パチュリーに話しかける。
「それにしてもびっくりしたわ。あの魔法はなんだったの?」
「七曜の魔力を全て収斂させてみたの。月火水木金土日、全部。週符とでも名づけようかしら。パチュリー足すアリスだから<パチュリス砲>? もしくは聖書をもじって、週符『ネオンジェネシス』なんて名前も考えていたんだけど、どうかしら。完成を見ることはないと思っていたんだけどね」
「えがたい経験ができたわ。もうこりごりだけれど」
アリスは魔法の名前については何も言わず、手を広げるジェスチャーを取った。
「そうね、あなたには攻撃魔法を習熟する必要なんてないかもしれないわね。この人形」
いつの間にかパチュリーの手にアリスの人形があった。
先ほど爆風で飛ばされたオルレアン人形だ。
「私には良し悪しはわからないけれど。手が込んでいることはわかるわ。編みこまれている術式もとても丁寧。作った人は繊細で几帳面な性格の持ち主ね」
「面と向かって言われると」
そう言ってアリスは後頭を掻く。
「照れるぜ?」
「?」
「私は普通にシャイだからな」
「なにそれ、魔理沙のまねのつもり?」
「魔理沙、魔理沙って結局私がいないと何もできないのかよ~」
「あははは、似てるわ」
アリスは面白くて笑った。
魔法使い二人はしばらく空中にいたが、雲行きが怪しくなってきて雨が降りそうになったので一緒に図書館の中へ帰ることにした。館に入る頃にはもうぽつぽつと雨が降りだしてきていた。
薄暗い室内に戻って座席に着く。そこでパチュリーから、彼女の目下のところの研究テーマである創世の魔法について聞かされることになった。
驚いたことに、彼女は新しい世界そのものを丸ごと一個作り出そうとしているらしいのだ。以前に彼女が行っていた賢者の石の醸成も、その研究過程であるらしい。そしてその魔法は、例の<七曜炉>の完成によって、手の届くところまで来ているのだと言う。
彼女は自分の研究内容について、アリスが聞いてもいないのに事細かに講義してくれた。
「魔法力学における根源子は、五つの状態子を軌道上に伴い、中心に一つの核を持っている。周囲の状態子は火水木金土、中心はオン・オフで日月に、いわゆる五行陰陽に対応している。つまり東洋の五行思想と西洋の精霊魔術は根本の所で合致するの」
意味がさっぱりわからなかったが、アリスは必死でメモを取った。
多分、魔法に興味のない者が聞いたら途中で寝てしまっただろう。
「そういえば、さっき放った魔法って当たったらどうなるの?」
途中でアリスはそう質問した。
自分で魔力を制御していたものの、実際の効果はさっぱり分からなかったのだ。
「ああ、実を言えば、さして攻撃力はないのよ。あれは創造魔法だから、新しいものを作り出す魔法」
「新しいものって?」
「そうねえ、あの時私はフランの動きを止めることを優先して考えていたから……たぶん接触時に作用して、フランの動きを封じる何かが出てくるんじゃないかしら」
「なんだ、半分ははったりだったのか。ところで動きを封じる何かって何?」
「うーん……例えば巨大なプリンが現れて、体にまとわりつくとか?」
「何よそれ、意味わかんない。なんでプリンなのよ。例えば、って曖昧ねえ。もしかして自分でも何が出てくるかわからないの?」
「そういうものなのよ。この魔法はイメージが大事。だから私たちの深層心理で本当に欲しがっているものが出てきたはずよ」
「ふーん。変わってるわねえ」
深層心理、と言われても困ってしまう。アリスは特段自分が欲しがっていたものを想像できなかった。
「まあね。ところでこれ、触ってみて何か不思議に感じなかった?」
パチュリーは机の上に置いてあった例の炉を、小さな手で指し示した。
「え? あ……これ、もしかして正七角形?」
手にとって触ってみて驚く。<七曜炉>は完璧な正七角形の形をしていた。
通常、金属で物を作ろうとした場合、どうしても製造の過程でゆがみが出てしまって、完璧な形にはならない。魔理沙の八卦炉でさえ、完璧な正八角形ではなく、ごくわずかに歪んでいる。
だが、この<七曜炉>は違う。注意して見てみれば、その完璧さに気づいた。
「そう。物差しで測ってみても同じよ。どの辺もみんな同じ長さに削り出してある」
「すごいわ……一体どうやって……」
おそらく、パチュリーの言うとおりなのだろうとアリスは直観的に悟った。
1ミリや1ミクロンといった単位ではない。たぶん、どれほど精度の高い計測器具で測ったところで、このアイテムから歪みやずれは観測できないだろう。
完全なものというものは、その完全さだけでもう既に価値がある。
<七曜炉>は一片の長さが完璧に均等だ。
完璧な形の物体を作り出すことは、錬金術の目指す究極の目的の一つと言えた。
「苦労したのよ、まずね、殺生石で磨いたブレードを……」
それからまた延々と講義が始まった。アリスはできる限り熱心に聞いてあげた。
パチュリーの実力は本物だ。今日、弾幕バトルでタッグを組んでみてアリスは実感した。
帰ったら、日記に今日のことを書かなくては。アリスはそう思った。
齢百を重ねる七曜の魔女。動かない大図書館、パチュリー=ノーレッジ。どうやらあの図書館で学べることはまだまだたくさんありそうだ。
STAGE 2 災厄の始まり ~ Add little to little and there will be a big disaster.
自然に異変があれば、自然の化粧である妖精達にまず影響がある。
今回の災厄の兆候に一番最初に気づいたのも、やはりそんな妖精たちだった。
霧の湖から少し離れた森の中。小さな泉があり、そこはチルノや大妖精たちの遊び場だ。
二日間続いたどしゃ降りの雨もやみ、大蝦蟇も妖怪の山の中腹にある自分の池から降りてきていた。今のところ空はどんよりとした曇り空ではあるが、天気は上向いてきているようだ。大妖精は泉の脇に添え物みたいに置いてある岩の上に座りながら、隣に座っている大蝦蟇に話しかけた。
「はあー」
ため息を吐く大妖精。何か悩みがあるのだろうか。
「チルノちゃん、どうやったら大人しくなってくれるんだろう。ねえ、ガマさんはどう思う?」
「ゲロゲロ」
隣の大蝦蟇が答える。無論、蝦蟇であるので人語を発するはずもない。
「そうなんだよなあ、性格はなかなか治らないよねえ」
「ゲロゲロ」
「でも、根は優しい子なんだよ。ちょっといたずら好きなだけで」
「ゲロゲロ」
「もー! ゲロゲロだけじゃわかんないよー!!」
両手を上げてぷんすか怒る大妖精。ずっとゲロゲロ言ってただろうに、今までの会話は何だったのか。
「うわっ?」
腕を振り上げたときに態勢を崩し、大妖精は岩の上から転がり落ちる。
「いててて……」
落ちた拍子に打ちつけたらしく、倒れながら体をさすっている。
そんな大妖精の前に、むにょー、と大蝦蟇の舌が伸びてきた。
どうやらそれに掴まって立ち上がるように促しているらしい。
「あ、ありがとう……」
黙って舌を差し出す、そのなんとなく優しい大人なイメージに大妖精の頬が赤らむ。大蝦蟇さんってちょっと素敵にジェントルマンだわ。そんな妄想すら浮かんでいるのだろうか。
「ああーっ!!」
そこへチルノがやってきた。仁王立ちになり、口をわなわなとさせ、眉をひんまげて大蝦蟇を指さす。
「チルノちゃん!?」
「このガマ公めー、ふざけやがってー! 私の大ちゃんをかどわかすつもりかー!」
なるほど傍から見れば、倒れこんだ大妖精を蝦蟇が舌でからめ取ろうとしているようにも見える。
「まってよ、チルノちゃん、誤解だから! 大蝦蟇さんはただ私の相談に乗ってくれただけで……むしろ紳士で」
「うるさい、しねー!」
チルノは話を聞かず、大蝦蟇にむかっていきなり氷の塊をはなった。
……が、大蝦蟇は舌をはらって、その氷を簡単に弾いてしまった。そのまま伸びてきた舌に捕まり、あっさりと蝦蟇に飲み込まれるチルノ。
「な、なにー!?」
「あ、弱い」
大蝦蟇にばっくりと噛まれたチルノ。もう腰のところまで飲み込まれ、両手も使えないので結構ピンチだ。
「ぐわー、し、しかしあたいを倒しても第二第三のあたいが……」
そんな声など無視して、蝦蟇が口をもごもごと動かす。どんどんと飲み込まれていくチルノ。ついに外に出ているのは顔だけになってしまった。
「う……あ、あたいが死んでも代わりはいるもの……」
「チルノちゃんに代わりはいないよ……」
大妖精が悲しそうにその光景を見つめる。自分には何もしてあげられない、何もしてあげられない自分がもどかしい。
ぺっ、と言った感じで大蝦蟇がチルノを吐き出す。案外まずかったのかもしれない。
そのままチルノは風を切って空を飛び、きりもみ状態で湖の近くの泥地に着地し、深く埋没する。
泥地の真中にチルノ大の穴が開いた。
しばらくすると、もぞもぞと泥が動いてチルノの頭が出てくる。
「……ふへー」
顔も服も泥まみれだ。
「チルノちゃーん、大丈夫?」
大妖精がそこへ駆けつける。
「あれ?」
「……なんだ、これ?」
見覚えのない場所、だけどどこか身に覚えがある。
「あー!! あたいたちの遊び場が!」
最初は思い出せなかったが、やがて気付いた。
そこはチルノ達が普段遊びに使っていた草原だったのだ。
今では水浸しになって所々泥地になってしまっていたのだ。
「スパーク一発チキンボム♪ みんなの明日を焼きつくそうぉ~♪ お?」
能天気な歌声を出しながら空を飛んでいたのは魔理沙。
地上にいるチルノ達を発見して、興味を示す。
「あのシルエットはチルノじゃないか。相変わらずいっぱいいっぱいな顔してるなあ、何騒いでんだ?」
大妖精も一緒で、何かをわめいているように見える。
箒の方向を変え、チルノ達がいる沼地に下りる。
「おーい、どうしたんだ? 何か楽しいことでもあったか?」
「あ、魔理沙! 見てよこれ!」
チルノが魔理沙に呼びかける。そう言ったチルノは顔も服も髪も泥まみれだった。
その横には大妖精、大蝦蟇も見つけた。下は泥地だ。
「泥沼だな。修羅場か?」
「意味分かんないよ。いつもはここは草原だったんだよ、それなのに?」
大妖精が訴えた。せっかくの遊び場所が今では水浸しだ。魔理沙も付近の地形には見覚えがあったので、確かにおかしいと思った。
「うん? 湖が増水でもしているのか? ちょっと見てくる」
そう言って魔理沙は箒で空へ飛び立った。
「さてと……ん?」
高空から湖の周囲をもう一度観察してみる。
「こいつは……」
いつもと違う光景を発見した。
……そこら中に。
湖のほとりを見回してみると、うねって蛇行するような黒い筋が森のあちこちから這い出して来ていた。
どこからともなく溢れ出てきた水が、幾本もの小さな流れとなって湖へ注いでいたのだ。
「……洪水?」
目線を下に向けると、チルノや大妖精がおそらくは遊び道具と思われるいくつかの品物を、必死で沼地から運び出しているのが見えた。サッカーボールやバット、どこから取ってきたのかわからない、白い服を着て杖を持った白髪の老人人形などといったものがせわしなく運ばれていく。
チルノと大妖精は、以前は草原であったその場所に穴を掘って、遊び道具の保管場所を作っていた。
水が流れ込んできたせいで、泥になった土がその穴に流れ込んできてしまい、埋まっていたのだ。
忙しそうにしている二人の様子と、周囲の風景をぐるりと眺めてみて、魔理沙はほうとため息を一つつく。
「これは結構、一大事かもなあ……」
チルノや大妖精の遊び道具程度の被害で済めばいいが。
そうもいかないだろう、魔理沙はそう考えた。
*
永遠亭の西側に面した屋根裏部屋、輝夜はそこに椅子を置いて、窓のそばに座っていた。
彼女の脇にはいくつかの器具が置かれている。角度を測る羅針盤や天球儀、それに望遠鏡に分度器がくっついた等身大ほどもある大きな道具。
これは象分儀と呼ばれる天体の高度を測るための測量機器だ。
彼女は先ほどからこの器具をのぞき、熱心に空を観察していた。
傍らに置いた小机には束ねた藁半紙を広げ、そこに何かをメモしている。
遠くの廊下を歩く足音がして、やがて永琳が部屋に入ってきた。
彼女は輝夜を見とめると声をかけた。
「姫、何を観察しておられるのですか? その記録は?」
「見て」
輝夜は望遠鏡をのぞいたまま、手を伸ばし、藁半紙の束を永琳に渡した。
「何ですか、これ?」
紙には何かを模した図と、数字の羅列が並んでいた。 図をよく見てみる。
幻想郷の断面図のようだ。方位が書いてあり、西の端に一本の線が引いてあって、それが空のずっと上まで伸びた形になっている。
何だろうかと永琳は考える。
幻想郷に一本の高い塔を建てて、その断面図を書いたなら、この図形のようになるかもしれない。しかし、この図を見る限り、建築物にしては高すぎる。
「東に三度ほど傾いているわ。地球の転向力の影響を受けているのでしょう。あれほどの高さであれば落下するまでに、数十秒はかかるでしょうから」
「いったい何を? 落下ってどういうことですか?」
「あれよ、あれ」
輝夜が窓の外を指さしたので、永琳は顔を出してみる。
空は曇っているが、今のところ雨は降っていない。
輝夜が示した方角は、幻想郷の西。その方向の空を見てみる。
……。
……。
「…………これは!? なんてこと!」
空の一角を見、永琳は雲の切れ間に<それ>を発見して仰天する。
「あなたにしては音速が遅いのね」
隣で輝夜が言った。
「最近、新薬の開発のために、研究室にこもりきりでしたから……一体いつから?」
「わからないわ。私が気付いたのは今朝。それまでは、ずっと曇っていたから気付かなかったのかもしれないわね」
「一体……どうしてあんなものが……」
「……里の様子を見に行く必要があるわね。きっと困っているだろうから」
「……はい」
そう言うと、永琳はあわただしく屋根裏部屋を出て行った。
これほど慌てるのは彼女にしては大変珍しいことだった。
その姿を見送った後、輝夜はぽりぽりと頭を掻いた。
「それにしても……おかしなことが起こる郷だとは、前々から思っていたけど……今回のはまったくもってとんちきな異変ね」
*
霧の湖のほとりにある紅魔館の住人もその異変に気づいていた。
館の門の内側にある詰め所で午後の休憩をしていた美鈴の元に、庭整備のメイドが慌ててやって来る。
「門番長、ちょっと気になることがあるんですが」
「なに?」
「湖の水位が上がっているんです」
美鈴は門番の妖精から霧の泉のほとりまで案内される。
そこには水位を測るための板が備え付けられていて、紅魔館の住人は定期的にこの板を見て湖の様子を観察していた。
「ほら、見てください。普段はここまでしかこないんですけど。今では」
そう言われて美鈴が水位標を見てみると、いつもの印が付けてある場所より30センチ以上も水面が上に来ていた。
「本当だ。かなり上昇しているわね」
「今までは、こんなことなかったんです。それに、買出しにでかけたメイドが妙なことを言っていました。あちこちに、今までなかった川ができていたって」
「うーん、おかしな話ね。……とにかく、少し様子を見ましょう。私の方でも情報を集めてみるわ」
美鈴はメイドの妖精にそう言い聞かせて下がらせる。
その翌日。
水位はどんどん増すばかりで、一向に下がる気配を見せなかった。
既に幻想郷の低地の大部分に水がたまり、洪水と言ってよいレベルに達していた。
湖の水もはちきれんばかりに増水している。
「パチュリー様、御来客です」
小悪魔が図書館に居たパチュリーのもとへやって来て報告する。
「ああ、そうか。約束してたものね。通して」
「ねえ、外がすごいわね。いったいどうなっているのかしら」
図書館へやってきたのはアリスだった。
「アリス、あなた自分の家は大丈夫なの?」
「魔法の森はもともと高地にあるし、私の家はその中でも高台にあるから。それにしても、湖が氾濫するなんて……」
「私たちも驚いているわ。幻想郷に越してきてからこの方、あの湖の水量は毎年一定だったのよ」
「私、今日はお暇した方がいいかしら?」
例の弾幕戦以来、アリスは毎日パチュリーに魔法の講義をしてもらっていた。今日もそのはずだったのだが、外の惨事を見る限りでは、紅魔館の人間はこれから忙しくなりそうだ。自分がいては邪魔かもしれない。アリスはそう考えたのだ。
「うん、そうねえ……せっかく来てもらったなり悪いんだけど、これからレミリアとも打ち合わせて、洪水の対策を練るの。申し訳ないけど……」
「うん、わかったわ。また来る」
「悪いわね。事が落ち着いたら、また研究の続きをしましょう? こちらから使いを出してあなたを呼ぶわ」
「わかったわ。待ってる」
そう言ってアリスは帰った。
「一体どういうことなの? 雨なんて一滴も降っていないのに洪水だなんて」
レミリアは応接間にいて、咲夜と現在の状況について話し合っていた。事態の推移については既に美鈴から聞いている。
「どこかから流れてきているんでしょう」
「西の方角から流れてきているらしいわ。外から帰ってきたメイド達が街で噂を聞いたって」
洪水の原因を探っていたパチュリーが応接間に入ってきてそう言った。
「確かにあの方角には雲がかかっているけど……」
レミリアは窓の側まで歩いていき、外を眺める。
「雲以外にも何か見えませんか?」
隣に立った咲夜がそう言う。
「見えるわ。白っぽい色の、柱か塔のようなものが」
「あれは何でしょうか? 今まではあんなものは無かったはずです」
「わからないわ。あの辺は無人地帯のはずよ」
「レミィ、聞いて欲しいことがあるの。水位は一日に三百ミリのペースで上昇している。このままだと、二日後に床上浸水してしまうわ」
パチュリーが後からレミリアに話しかけた。
「もしもの時にそなえて、堤防を作っておいたほうがいいですね」
「館の景観が損なわれるのは嫌なのだけれど」
そう言ってから、レミリアは再び視線を窓の外に運び、もうかなり氾濫している湖の様子を眺め見る。
「そんなことも言ってられないか……」
レミリアの命令を受け、美鈴と咲夜は門番隊を動員し、突貫工事で紅魔館の周りに仮設の堤防を作り上げた。土嚢を積み上げた堤防は二メートル程度の高さがある。湖の水位が上がり続けたとしても、これでしばらくは持つはずだ。
*
開けて翌日。
「お嬢様、水位は増えっぱなしで、一向に減る気配がありません。それどころか、勢いがより一層増しています」
「低地にあった里もいくつかが水没したそうです。ほとんどの住民が高地への避難を行っています」
メイドが幾人かレミリアのもとへ報告に来る。
水位の上昇するペースはさらに上がり、一日に五百ミリを超えていた。
「信じられない……ここまで水位があがるなんて」
「もう堤防の三分の一程度まで水がきています。今の所、まだ余裕がありますが……このまま増え続けると」
咲夜がそう言う。
「仕方ないわ……館を捨てるしかないわね」
「お嬢様!」
「もうどうしようもないわ。堤防が決壊する前に対策を打たないと、手遅れになる。地下室からフランを出して。ほうっておくと溺れ死ぬ……かどうかはわからないけど、地下室に水が流れ込んで来て、大変なことになるしね」
「……はい、残念です」
口惜しそうに咲夜はうなずいた。
「……水が引いたらまた戻ってくればいいわ」
レミリアも長年住み慣れた館を捨てるのはつらかった。
咲夜はメイドを一人呼び、フランへ外に出るように伝言させると、自分も準備のために部屋の外へ出て行った。
紅魔館の一同は館を捨てることを決断した。
とはいえ紅魔館は大所帯である。号令一下、避難の準備があわただしく進められることになった。
レミリアはホールに出てきて、自らメイド達の陣頭指揮を行うことにした。
メイド達が梱包が終わった家具や荷物をホールに運び出している。
いったんホールで中継し、そのあと中庭に準備した荷車に乗せ、その後湖に繋いである船で対岸まで輸送する予定だ。
レミリアは積み上げた荷物の上に立ち、メガホンでメイド達に呼びかける。
「値打ち品や水に濡れたらだめになるものから優先的に運び出して。船には限りがあるから、効率よくやらないと間に合わないわよ。……咲夜はどこへ行ったの?」
そう言ってレミリアは、荷物を運んでいたメイドを一人呼びとめる。
「先ほどパチュリー様に呼ばれて図書館へ向かわれました」
「図書館? ……あ! しまった! 本のことを忘れていたわ」
「どうします? 今からじゃとても間に合いません」
「どうするったって」
そのとき丁度パチュリーが広間へやってきた。
「ああ、パチュリー。あのね、言いにくいんだけどね……」
レミリアはもじもじしながらそう切り出す。
「どうしたの?」
「図書館の本を全て運び出している余裕がないの……」
それを聞いたパチュリーは、無言でレミリアの肩に手を置く。
そしてにっこりと爽やかに笑った。
「心配しなくていいわ。図書館には結界をはったから。これで図書館は外界から隔離される。本は安全よ」
「…………はあ?」
「咲夜の協力も得て、昨日から準備していたの。こういった長持ちする結界は西洋魔術では不得手だから、東洋の八卦結界術を使ってうんたらかんたら」
「ちょっ、そんな術があるならなんで早く言わないのよ! それを館全体に掛ければよかったじゃない!」
結界についてうんちくを語りだしたパチュリーを制して、レミリアが叫んだ。
「そんなに広範囲にはかけられないわ」
「それにしたってあんたね!」
レミリアはパチュリーの首を締め上げる。自分は館全体のことを考えてきりきり舞いしていたのに、こいつは自分の本を守ることだけを考えていたのか。そう思うと、怒りが込み上げてきた。
喉元を締めつけられて呼吸のできないパチュリーの顔が、どんどんと青くなっていった。
「む、むきゅ! わかったわ、あなたの部屋と咲夜の部屋にはこれから大急ぎで結界を施すからっ!」
「当たり前でしょ、終わりしだい他の部屋にも掛けなさい! 早くやりなさい!」
「は、はい!」
解放してやると、パチュリーはあわてて駆けて行った。
「まったく、友達がいのない……みんな、家具を運び出すのは中止よ! 大事なものは全て図書館に運びなさい! 小物関係は私の部屋で預かるわ」
屋敷の前庭に運び出されていた荷物が図書館へと行く先を変えることになった。
メイド達は命令変更にあわただしく対応する。
荷物を図書館へ運び込む仕事も一段落して、レミリアはホールの階段に腰掛けて小休止していた。
そのままそこで午後のティータイムも済ませる。
カップで紅茶を進んでいた時に、メイドが一人レミリアの側にやってきて耳打ちする。先ほどフランドールへ部屋を出るよう伝えに行ったメイドだ。
「レミリア様、フランドール様がお部屋を出たくないとおっしゃっています」
「ええ? なんでよ!?」
「それが…今日は忌期なのだとおっしゃっています」
「なんですって!? こんなときに! なんて間の悪い……」
レミリアはすっくと立ち上がり、自分からフランドールのこもる地下室に赴くことにした。
紅魔館の最深部、魔法の封印結界が幾重にも張り巡らされた場所に、その部屋はある。
どす黒いオーラを放つ目の前の扉を、レミリアはこんこんとノックした。
「フラン? 何とか抑えられないの? もう私達は館を捨てることに決めたのよ。あなたも早く脱出しないと」
レミリアがそう言うと、しばらくして返答があった。
「ああ、お姉様。やってるんだけど……あははははは!! 無理ね。今出たら目に付くもの全て破壊しつくすわよ」
「……チッ。わかったわ。こっちで何とか対策を考えてみるから。調子がよくなってきたら、その辺のメイドに伝えて」
「せいぜいがんばってねー」
フランドールの返答は少し棘が含まれていた。
レミリアはまたずかずかと廊下を歩いて元の中央ホールの方へ向かう。
「まったく、いくら破壊衝動が抑えられない時期だからって、口まで悪くなることはないじゃない。本当に皮肉好きっていやあね」
歩いている途中でそうぶつぶつと呟く。
またホールに出てきた。
「誰か、誰かいない?」
そう言ってレミリアはぱんぱんと手をたたく。
「お嬢様、ここに控えております」
忍者のようにどこからともなく咲夜が現れた。
「咲夜。ちょっと神社まで行って巫女を呼んできて。フランを表に出したいの」
「巫女に助力を頼むのですか? この状況ではあちらも忙しいと思いますが」
「そうはいっても、フランの力を抑える手立てを知っているのは博麗ぐらいしかいないわ」
「よろしければ、お手伝いしましょうか?」
急に館では聞きなれない声がした。
そして壁の一部がぬめっと開いて、中から女性が出てくる。
「……八雲紫……。見てたの?」
レミリアは壁に空いた穴から出てきた、見覚えのある女性をにらんだ。
レミリアと紫は、レミリアが幻想郷入りする際に随分と争った間柄だった。
だからあまり、お互いに仲が良いとは言えない。その紫がレミリアに協力を申し出ると言うのは、一体どういう風の吹きまわしだろうか。
「……いいわ。手伝ってくれる? あなたに借りを作るのはしゃくだけど」
「素直なのはいいことよ、お嬢さん」
紫がそう言うと、レミリアは嫌そうな顔をした。
とはいえ、背に腹は代えられない。幻想の始まりから生きているというこの妖怪の賢者なら、フランドールの暴走を食い止める手立てを何か知っているかもしれない。
レミリアはまた取って返して、紫をフランの籠る地下室に通すことにした。
地下室の扉を開ける。
ベッドの上で震えているフランがいた。その体には、御札で作られた包帯のようなものが何重にも巻かれていた。彼女は自分から呪符で作られた拘束具を身にまとって、自らの動きを封じているのだ。時折、うめきに似た甲高い奇声があがり、フランが身をよじらせる。
「まるで悪魔憑きね。まあ悪魔そのものだけど。もしかして、あなたの妹が閉じこもっているのって、自分から?」
「それ以外に理由が考えられる? フランがその気になればこの館の全員を殺して外へ出ることなんてたやすいわ。妹は破壊の力で全てを滅ぼしてしまわないように、破壊衝動が抑えられない時は、自分で自分を封印しているのよ」
レミリアが説明したところによれば、フランドールは生まれつき、定期的に目につくものを破壊したくなるような発作にかられる性質があるという。それは一種持病のようなもので、彼女たちの祖先にかけられた忌まわしい呪いから端を発しているとのことだった。
「それが忌期ってわけ。難儀なものね。さて――」
紫は手に御札を取り出し、それを放った。空間上に御札が固定され、同時にフランの周りに多重結界が形成される。ぎゃっ、というフランの悲鳴が一瞬入り、彼女の動きが止まった。
「動きを封じたまではいいけど、これからどうするの?」
レミリアがそう聞いたが、紫は答えずに懐から出した小瓶を床に置いた。
「あなた、外に出ていた方がいいわよ。消滅したくなかったら」
「それは?」
「これには仏舎利が入っているの。本物の聖人の骨が入った、神聖なお香よ。これを使って、彼女の邪気を抜く」
仏舎利とは仏教の開祖であるブッダの遺灰のことだ。
「なるほどね。過去の聖者の力を借りて、フランの呪いの力を抜くわけか。だけどあんたはどうするのよ?」
「私?」
「術を行使している間は、そのお香がこの部屋に充満するんでしょ? だいたいあんた、妖怪のくせに神聖な術なんて使ってなんともないの?」
「大妖怪だからかしら」
「納得いかないわ……。ところで、今思いついたんだけど、あんたの家は避難しなくてもいいの?」
「知らなかったの? マヨイガは全体がスキマの中にあって、いつでも好きな場所に移動できるのよ」
「……納得いかないわ」
結局、紫はその術を一人で行使した。
レミリアがはらはらしてドアの外で待っていると、一回だけ爆発音がして、中でフランの絶叫が響いた。
「まさか、殺してないでしょうね……」
しばらくすると紫が出てきた。
右腕にはフランの身体を抱えている。
「終わったわ」
「フラン!」
「気絶しているだけよ。これでしばらくは外で活動しても大丈夫」
レミリアは紫からフランの身体を受け取った。彼女の額には脂汗が浮き出ていたが、確かに生きていた。禍々しいオーラも収まっている。
「あんた、その傷?」
レミリアが見てみると、紫の胸元の服が破れており、爪で切り裂かれたような大きな傷が数本あった。
「引っかかれたわ。大丈夫よ。半日もすれば治るから」
大妖怪である紫とはいえ、フランの攻撃をまともに受けて、痛みを感じないはずがない。
いつもは胡散臭くて他人をからかって遊んでいるだけに見えるすきま妖怪が、身を呈して紅魔館のために尽力してくれた。
にわかには信じがたい事実だった。
「本当に、どういう風の吹きまわしなのかしらね……とにかく、借りができたわね。いつか返すわ」
「うふふ。期待しないで待っているわ。それじゃあ、一足先に神社に行っているわね」
「神社?」
「あなたたちも、異変解決に乗り出すんでしょ? その時は、一度神社に来て情報を集めた方がいいわよ」
それだけ言うと、紫はすきまを開いてその中に入っていった。
「……」
しばらくレミリアはすきまがあった場所を眺めていた。
「いったい、何を考えているのか……」
紫の助力により、フランが暴走することはなかった。
「ふしゅー……」
視点が合わない瞳をぐるぐるさせながら、フランは低空を飛んでいた。
なんだか元気がなくなっているが、破壊衝動は抑えられたようだ。
文字通り血の気が少なくなったのかもしれない。
「大丈夫? フラン。かなり抜かれちゃったみたいだけど」
「……うん、なんとか……ちょっとものいぐらいかな……」
紅魔館は全ての荷物を纏め上げ、北方にある尾根へ避難した。
翌日、美鈴たちが作った堤防は決壊し、館全体に水が流れこんだ。
*
妖夢は主の幽々子と共に幻想郷の被災者支援に赴いていた。
幽々子が自ら言いだしたことである。
本来、冥界の住人は現界の人々の生活にあまり干渉してはいけないのだが、今回だけは事情が違っていた。何しろ幻想郷全体を襲った未曾有の大災害だ。三途の川にも水が流れ込み、中有の道の外れにまで水があふれてきているという。
冥界に備蓄してある物資も支援の為にいくらか供出すべきだとは思うのだが、なにぶん輸送の手段が難しかった。空から落とすわけにもいくまいし。
被災地を横目に見ながら博麗神社へと赴く。途中、被災した郷の情景が目に入る。水没した田畑、濁流に押し流される家々。牛馬や荷駄を従え住み慣れた土地から避難する人々。
人々や妖怪達が何年もかけて作り上げた理想郷が、穏やかな濁流に飲み込まれていった。
金銭的被害は計り知れない。建造物、植物、農作物、文化的資料。ここにしかないものが山ほどあった。
「ひどい有様ですね」
「そうねえ。こんな大規模な災害は私も始めて見るわ。天明の大飢饉の時だって、これよりは幾分かましだったわよ」
「……幽々子さまって、そんな大昔から生きていらしたんですね。いったいお幾つになられるのやら……」
「妖夢、そこはポイントじゃないのよ?」
博麗神社の付近には、最も近い里から被災者が大勢避難してきていると言う。神社の一帯は本来は無人地帯であるが、幻想郷でも高地にあたるので当分の間水が押し寄せる危険性がないからだ。
水かさが増える速度が緩やかであったのと避難の指示が迅速であったため、今のところ奇跡的に死者は一人も出ていない。慧音も中心となって携わった里の連合による里長会が住民たちを指揮し、あらかじめ定められた経路と手順に従って避難が行われたのだ。
また、永遠亭の面々が先々日より里で支援活動を行っていたことも、大きな助けになった。現在彼女らは避難民につきそって彼らを誘導し、神社の裏山の峰のひとつを預かってそこにキャンプを作っているという。永琳をはじめとして、主に医療関係の仕事に従事し被災者の世話をしているとのことだった。
問題が全くないわけではなかった。穀物庫の貯蔵物はいかだに載せてあらかた運び出すことができたが、それでも、農作物の収穫に与える被害は甚大だった。水没した田畑は、例え水が引いたとしてもしばらくは使えない。
考えたくないことだが、こうなってくると犠牲者が少なかったということが逆に裏目に出てくる。
もしこのまま水が引かなかったらどうなるか。食物の生産手段をまるきり失った幻想郷の人間たちは。
飢餓……
恐ろしい想像が妖夢の頭に浮かぶ。自分の主の幽々子が人の五倍食べるとか、霊夢が赤貧にあえいでいるとかいったそんな些細な問題ではないのだ。
人妖かかわらず、幻想郷の住民のほとんど全てが非難生活を余儀なくされている。妖怪の山には自給自足用の設備があると聞いている。人間と同じものを常食としていた妖怪の中には、数年は飲まず食わずで生活していけるものもいるだろう。
だけど人間はそうはいかない。
神社の裏山に運び込まれた食料は一体何ヶ月持つのだろうか。中には保存のきかないものもある。
目的地に着いた後に、自分は不安な表情をちゃんと隠せるだろうか。
そうするように努力しなければと妖夢は考えた。
やがて幽々子と妖夢は博麗神社に着いた。
境内には既に魔理沙とアリスが居たが、霊夢の姿が見えない。
本殿の方を見ると、入口に履物がいくつも置かれていた。
「今、会議中だってさ」
「大分長引いているみたいね」
魔理沙とアリスが教えてくれた。
本殿を使って会議を行っているらしい。霊夢は里長や長老、それに慧音を加えた代表者会議に出席しているのだ。今のところ、会議の雰囲気は落ち着いていると言う。だが、それも長くは続かないかもしれない。物資が残り少なくなってくれば、自然民衆も恐慌してくるだろう。災害が延々と続くようであれば、秩序が崩壊するのは時間の問題と言える。
しばらくして会議が終わり、霊夢が本殿から出てきた。
「どうだった?」
鳥居の近くに立っていた魔理沙が声をかける。
「まあ、とりあえず神社でも避難民を受け入れることになったわ。裏山に空き地があるから……そこに仮設住宅を建てる予定。異変の対策に関しては……今のところ何も決まってないのと同じね」
霊夢は少し疲れたような様子だった。彼女は境内に集まっていた皆を自分の住居に案内した。
里の代表者たちは一旦、自分たちの率いてきた避難民のところに戻ることになった。
「こんにちは」
境内にすきまが開き、紫が現れた。縁側に座ってお茶を飲んでいた霊夢に挨拶する。
「紫……」
「なんだかあなた、疲れているわね」
「里の人たちからね、つっつかれたの。早く異変を解決してくれって」
「それも虫の良い話ね。普段はあなた、忘れられてるのに」
「うーん。普段だったら報酬をごね取るところなんだけど。さすがに郷の人たちも着のみ着のままで逃げ出してきているみたいだしねえ。強く言えなかったわ」
「それにしてもひどいことになったもんだなあ」
魔理沙が部屋の中から歩いてきてそう言った。
「水浸しになって、幻想郷は本当に大丈夫なのか?」
「ある程度は大丈夫。幻想郷の自然は回復力が高いから。以前、誰かさんが郷中を五月まで真冬にしてしまったことがあったけど、それでも大丈夫だったでしょ?」
グサリ。言葉の棘が丁度その場に近づいてきていた幽々子達に刺さる。紫は後ろに幽々子がいることに気づいていたのだ。
「ゆ、紫? もしかして怒っているの……かしら?」
「春が真冬だったら、農家の人たちは大変よねえ。あの時もし霊夢が出ていかなかったら、私が出て行ってたところだったわ」
「ゆ、紫! ほら、おまんじゅうあげるから! ねえ、機嫌直して」
どこに持っていたのか、幽々子がまんじゅうを手の平にのせて紫の方へ突き出す。
「そんなに気にしていたのか。幽々子が食べ物を人に譲るなんて、天変地位の前触れだ……ああ、だから洪水が起こったのか」
霊夢も魔理沙もあり得ないことが起こったという心持ちで顔を見合わせる。
「幽々子が食べ物を譲るなんて、ってそれうちのお饅頭じゃない! 返せコラ!」
「うふふ、幽々子をいじめるのは楽しい」
「もう、紫ったら」
「まあ、あの時は桜に取りつかれてみんなおかしくなってたしねえ。そう言えば、そこのみょんも随分ときつい目つきになっていたわね」
霊夢はそう言って幽々子の隣に立っていた妖夢を見る。
「わ、私は幽々子様の命令だから……仕方なく」
「ちょっと妖夢、ひどいじゃない。主従は一蓮托生じゃないの? 私を裏切るの?」
「そうだったか? 春はいねーがー、春はいねーがー、って。鬼の形相で春を奪いまくっていたじゃないか」
「私はなまはげか!」
「ったく、おかげで大変だったわ。こっちは寒い巫女服しょって冥界くんだりまで遠出しなきゃならなかったし」
「まったくだ。あの時は里もひどい目にあった。私の家の田畑も被害にあってな」
会議から解放された慧音も加わってきた。
「そういえば、その時はどうやって冷害を防いだの?」
「豊穣の神様にお願いして、稲や野菜を早生にしてもらって難をしのいだんだ」
「ああ、あの子ね……」
霊夢は去年の秋に異変で知り合った秋姉妹を思い出した。
「そうすると、今回もその方法を使えば何とか原状回復はできるわけか」
「ふむ……ということは水を止めることができさえすれば、飢餓の心配はないわけですね」
妖夢がそう言った。神社に来る途中に考えたようなことは、意外と取り越し苦労だったのかもしれない。
「まあそれにしたって水が引かないことには……まさかこのままずっと溜まりっ放しっていうことはないと思うが……」
しかしながら水が引く様子は今のところ見られていなかった。
そもそも、どこから水が来ているのか分からないのだ。
事件の真相を探ろうとするものも何人かいた。周りの妖怪や妖精に聞き込みをしてみるが、彼女たちにたずねても有益な情報は得られなかった。みんな口をそろえて、今回の異変がなぜおこったのかわからない、何の予兆もなかったと頭をひねるだけだった。
通常、洪水と言うのは大雨が降り、地表の水の保有力が限界に達した時に地下水が川に溢れだしてくるという形で起こる。なんにしろ、最初に引き金となる多量の降水がなくてはならない。
ところが、前代未聞の大洪水であるというのに、見上げた空は雲ひとつない五月晴れだった。
降水といえば週のはじめに二日間のどしゃ降りがあったが、これほどの洪水をもたらすほどの量ではない。
「大ニュースだけど、大ニュースだけど!」
いつのまにか、天狗の新聞記者がやって来てぴょんぴょん跳ねて騒いでいた。
彼女も妖怪の山から取材を兼ねた支援活動に来たらしい。
「なあ、天狗は何か今回の件について、情報をつかんでいないのか?」
文の隣に立っていた魔理沙が聞いた。
「たぶん、あれだと思うわ」
文が指を差した方角、一同は空の彼方に視線を運ぶ。地平線に注ぐ一本の白い柱が見えた。
良く見るとその白い筋のまわりには何かがまとわり着くようにして少しずつ動いているのがわかる。
晴れ渡った空に、西の方角だけがその柱を中心として雲につつまれている。
「ああ、やっぱりそうなのか……あんなものは今までなかったし、洪水が起こったのと同時期に現れたからな。いかにも怪しい。しかし、あれは一体なんだろう?」
「結界の西の外れね」
霊夢もその方向を見る。
無人の山野が広がっているあたりだ。
近くに里も無いので、実際そのあたりに何が起こっているのかは誰も知らなかった。
魔理沙は境内の端に立っている文の方へ向かう。
景色を見渡すと、霧の湖が氾濫していて、神社のある高台よりも少し下の窪地まで水があふれてきているのが見えた。
「あんな所まで水が来ているなんて」
「妖怪の山でも先日から調査を始めているそうです。あの柱の周辺も調べていますから、まもなく結果がわかるでしょう」
「ちょっと動きが遅くないか?」
「まあ、妖怪の山には水は流れ込みませんし。人間の里に被害があったところで、大部分の妖怪は気にしないのが現状です」
「そんなものかなあ。まあ冬の異変の時も、妖怪は傍観していたしなあ。人間側としては一刻も早く異変の原因をつきとめる必要があるんだけど」
「ええ。それに本当は人間達だけの問題ではないのです。仲間は皆のんきですが、様子を見た限り今回の災害は尋常ではありません。もしこのまま水が引かないで溜まるばっかりだったら、幻想郷は滅亡してしまいます。既に幻想郷の平野のうち、六分の一が水没したそうですし」
「ひどいことになったもんだぜ。こんなんじゃ、水が引いてもしばらくは農作はできないな」
「しばらく? 本当にそうだといいんですけど……」
「なんのことだ?」
その時、一羽のカラスが空から降り立ち、文の右腕にとまった。
「伝達ガラスか?」
「……なんですって?」
文が伝達ガラスから内容を聞き取ったようだ。
「どうした? 何か分かったのか?」
「……とても信じられないことですが」
「何だ?」
「あの白い柱を調査に行った仲間から連絡がきました。西の方角に見える柱は、巨大な滝だそうです」
「……?」
「おそらく洪水の原因はその滝で間違いないでしょう。天空から水が降ってきているのです」
これは素晴らしいマナフィルターですね
どのエキスパンションに収録されてるんですか?ぜひ入手したいです
だがアリスの方が(作品的には)年長者な罠
曇ってて見えなかったとか。天狗が調べに行っているとは書いてありますが
アリスとパチェのコンビはいいものだ
反逆のレミリア・・・
やべえええええええええええええ!!! 鳥肌立ってきた!!
この大事件の真相とは?
一体なにが起こっている?
わくわくぞくぞくとしますね(笑)
後編が楽しみだあ。