ずきり、とソレに呼応する痛みで目を覚ました。
ほの暗いどんよりとした中世の西欧的な個室。
その主は目覚めた体に鞭を打って深紅に染まる瞳の焦点(ピント)を合わせてベッドから身を起こした。長い呼吸を一つ。
白を基調とする洋服装に身を包み、口からはみ出るようにしてその伸長した犬歯を覗かせているのはルックスは幼けれど、高貴な雰囲気を漂わせ歳にして五世紀を渡ってきた紛れもない高等種――吸血鬼。
その吸血鬼は幼い顔を少し歪ませる。不快な、彼女が感じることを嫌う先天的な障害だった。
「……何度となく調整してきたというのに、どうしても微かなものは断絶できないものね」
ため息と感想を入り混じった独り言の後、人差し指を天井に向けて暗紅色の霧を噴出させた。
血のように毒々しいその色合いで形成された霧は部屋を纏うようにしてへばりつき、同化した。彼女(吸血鬼)の天敵からの支障を取り除くためだ。
赤い霧が完全に同化すると同時に軽いノック音がしてドアが音もなく開いた。
「おはようございますお嬢さま」
ぺこりと律儀に一礼をするメイド姿の侍女。彼女の名前を十六夜咲夜という。
この館の主である吸血鬼に仕えるメイド長だ。
「おはよう、咲夜。本当に“おはよう”。こんなに機嫌の悪い目覚めも久しいわ。いつもならばまだ眠っている時間帯に痛みで起こされるなんて情趣の欠片もないわね。しかも天敵にやられたなんて何年振りかしら」
「きっと濃度が落ちているのではないでしょうか? どうします? 先にひと仕事終えてからお茶をお持ちした方がよろしいですよね?」
「全くね。そうしなさい。濃度を調整するのも面倒なのよ。だから咲夜」
「なんです?」
「とびきりのをごちそうしなさい」
「はからずともそのつもりですよ」
■■■■■■■
いつからか、レミリア・スカーレットと十六夜咲夜は主従を結ぶことになっていた。過去に固執しない二人は“いつ”“どこで”“なぜ”ということなどからっきしで、過去のことは忘却の淵に置いてある。
吸血鬼と人間。
どうあがいても同じ立場で存在を許されぬ、絶対的な迷妄の存在比類。
吸血鬼にとって人間とは“餌”そのもので、共存などそれ以外の理由を持たない。
人間にとって吸血鬼とは“恐怖”そのもので、共存など考える意味合いを持たぬ不毛な事柄。
その二つが交わること事態が奇跡に近い。情が移るわけもなく、観念的に頓的であり夢幻的であり、その二つが相即不離な関係に発展するはずがない。
しかし二人はそれに近い。互いに互いを必要とし画一的な関係を作ってしまっている。
なぜかは二人とも知らない。知ろうともしないしそれ以前に興味がない。
そんな過去に執着しない二人でも忘れられない過去(記憶)がある。
いや、もう忘れているかもしれないが、思い出さないだけの過去(記憶)がある。
レミリアにとっては一昔(最近)のことで、咲夜にとっては最近(一昔)のことである、間をとって少し昔。その時、すなわち二人がまだ因果を結ぶ前の話だ。
□□□□□□□
その日(夜)は底冷えのする容赦のない冷涼さで、暗黒の夜空が光というものを完全に遮断していた。星も月も姿を隠すほどの黒の世界。
心も体も寒さと夜の無情感できしりと軋む夜もすがら。
レミリア・スカーレットはいつものように夜の孤独な世界を堪能するために空中散歩をしていた。
彼女の速度と風の流れが反発しあい彼女は身を切り裂くような凍てつく風に全身を絡まれる。
常人なら一瞬で触覚がオシャカになるのだがレミリアにとってはそれが心地よかった。
凍りついた夜空を滑走するのは彼女の数少ない楽しみの一つだ。
「ふ。パチェは心底嫌うでしょうね」
気持ちいい風のせいか、つまらない所感が自ずとわき上がってくる。
我こそは夜の王とでも言わんばかりに悠然と夜を駆け抜けていると――――
「…………!」
突然、レミリアの視界が赤に染まった。鼻につく血の臭い。耳にははっきりと聞こえる我以外の殺人者の鼓動。圧倒的な夜が後押す身体機能の向上により衝動的に引き起こされる知覚活動。
にやりと唇の両端がつり上がる。この世界は私の物だと主張するかのような攻撃的な笑み。二翼の翼がはためく。自身が感じた場所へと導く。視覚に入るのは人里から離れた古城跡。瞳(視力)をこじ開けて上空から人影を観察する。
ひとつふたつみっつ。
照らす光が何一つない劇場で餌同士の抗争がクライマックスに入ろうとしていた。
地に伏せて冷え切っている人影を合わせれば全部で九つ。どういうことかはわからないが、二対一の戦闘。
レミリアは最初また愚かしい人間が愚かしく争い死ぬつまらない劇だと思ったが、よく感じれば血の臭いを最も放つのは死んだ人間ではなく、一人で戦う――――
「は、――――」
返り血を浴びすぎた一人の少女だった。
少女は怪我一つ、傷一つ負っていない。吸血鬼の王の全身が、知らず粟立つ。
少女の眼。真実も虚偽も透き通すような偽りのない瞳。
少女の表情。何も隠すつもりもなく、何もかも隠され冷暖がかき消された虚無の顔。
少女の心。ここからでは確認を許されない探求心を激しく揺さぶる一つの至高。
レミリアはなんとしても知りたい。その気持ちとは裏腹にその気持ちを抑制する自我があった。
人間如きが馬鹿騒ぎに興味を抱くわけもない、と。まるで、アレを相手にすれば自身の気高さが失われるような錯覚。人間を相手なしてたまるか、と。所詮は無意味で興の乗らぬ三流劇。アレを見るくらいならこの美しい夜を堪能する方が何倍もマシだ、と。
そして――――その錯覚は、真の意味で錯覚となる。
「は、はは、は――――!」
――――なんだいまのは?
レミリアは己の機能を確かめるようにばりばりばりと腕を引っ掻き回して痛みを呼んだ。
たまらないのだ。
――――自分が知覚出来ない瞬間的な運動量か、はたまた異次元から呼び寄せた狂気の産物か、果てはそれ以上の脅威であり驚異。
刹那もアレから目を離してはいなかった。それにもよらず、アレの行動を知覚出来なかったのは自身の機能の低下ではない。これ以上ないというくらいに身体機能はこの世界が繕ってくれている。ならば、やはり原因はアレだ。今の我がこの両眼で補足した対象物の行動を瞬きすら数え損なうはずもない。やはり原因はアイツだ。一呼吸も置かずに数十の刃物の塊を投げられるわけがない。この世に摂理があるならば、それを許す道理がない――――!
レミリアの思考は埋め尽くされていた。神秘への接触、それへの好奇心と追求心。そして一掴みのわだかまりを持って、一直線に観客のいない舞台に降り立った。
振り返る人間。
降り立つ吸血鬼。
視線と存在が交錯し、
数えられない時間だけそこに縫い付けられ、
やがてその時を共有した。
“運命”の、その瞬間。
◇◇◇◇◇◇◇
「ごきげんよう。いきなり一方的で悪いけれど、少しだけ遊びません? 一方的に」
虚無のような何もない目をした少女に向けてレミリアは口を開けた。
「…………」
驚きもしない。恐がりもしない。きょとんともしない。喜びもしない。表情には何も変化はない。だがレミリアには理解された。この少女が何を考えているのか。何を望んでいるのか。
返り血を浴び過ぎた少女の体はカタカタと震えていた。
恐怖感からじゃなくて浴びた血液の温度が外気によって急激に冷やされたからだろう。カタカタカタと止まる様子はない。
このままここに立ちすくんだままだと体温が下がって死ぬだろう。死体たちの血液はすでに固まり始めていた。
対峙した両者に動く気配はなく、カタカタカタと奥歯を鳴らす音だけが聞こえる。
少女にとって、目の前の存在は自分の罪を贖うために降り立った天使のような悪魔だった。
それは恐怖の対象ではなくて必然的なモノだった。どうせこのまま死ぬことはわかっていたが、“どうせ”ならば少しは、死ぬ前くらい少しは、少しくらいは――――と。
「……………」
きしりと奥歯を噛みしめる。血で濡れたナイフを構え直す。
死ぬ前に思い出を思い出そうとしたが、脳に映る映像は白黒で何も映し出されなかった。映るのは、目の前の悪魔だけだった。
ちっぽけでなにもないわたしよ、これが最後の幻想よ――――と、祈るように思考した。
対してレミリアは悦楽と狂喜の表情を浮かべ、厳粛に腕を組んでふわりと数センチ程度浮上した。
ただひたすらに、相手を見ている。
視線を入り乱らせ殺意と愉悦を込めて相手を見ている。哄笑したさをぐっと抑えて狂喜の感情は一瞬一瞬の時を我慢出来ずに逓加していく。
じわりじわりと。感情の域を超えた高ぶりを抑えられずに漏れ続けているのを少女は感じていた。
感じずを得なかった。
この悪魔は何にせよ悪魔。
恐らくは、この寸劇の序幕を上げるのは自分ではないと少女は確信していた。
――――!!
風が走る。刹那。硬質物同士がぶつかる高い音が古城跡に響いた。
ぎちり。と。鍔迫り合いならぬ人間と吸血鬼のナイフと爪の迫り合いで拮抗状態を作っていた。
少女の全身から生ぬるい汗が吹き出した。浅はかだったのは少女だった。
――――相手から勝負をしかける? まさか。それは愚考だった。コイツは自分から端緒を開くような、“自分から”開く者ではなかったのだ。コイツは悪魔じゃあない。もっと高貴で英邁なナニかだった。
だから。だからコイツは動かなかった。“わたしを動かせる”ことで自分のプライドを押し通した。わたしの覚悟を噛み砕いて。
わずかに、殺気を込めて睨まれただけだというのに、それだけでこの身体は逃れがたい死を予見してしまった。
故に自発性(衝動)に駆られたのだ。
つまり、この寸劇の幕を肉体的(主体的)に上げてしまったのは他でもなく“少女”であり、精神的(間接的)に上げさせたのは他でもなくこの“吸血鬼”だった。
狂喜と狂気が成した圧倒的な死のリズム。少女の汗の意味はまさしく其処にあったのだった。
硬直から八秒弱。ガギンと、レミリアは残る右腕で相手のナイフを薙ぎ払い、自分からその硬直を解いた。すかさず距離を取る少女。
そして、堪えられなくなったレミリアが大声で笑い出した。
――――ははははははははははははは!
夜にこだまする大音声。一本調子の轟音が地面を伝って地鳴りする。
「貴女、全く人間ね、“人間”。呆れ返るくらい人間のくせにわたしに恐怖しなかったことが許せなかっただけよ。いまのはちょっとしたわたしの意地ときっかけの急造。お気に召しました?」
スカートの両端を摘んで礼儀正しく空中で挨拶代わりと言わんばかりの挨拶をした。
「――――」
そして、少女は挨拶をする代わりに――――ナイフを二本、六メートル先のレミリアに向かって投げつけた。
当たるはずもない攻撃。その攻撃にレミリアは思い(対処)を巡らせた。
――――チンケな攻撃ね。避けることは容易いけれど、このまま弾き返すのはどうかしら? それとも手で掴み取って投げ返してやるのはどうかしら? そうね、そうすることにするか。
くすりと笑う吸血鬼。
レミリアはここで大きなミスを二つした。
一つは目の前のナイフ“だけ”の対処をしてしまったということであり、もう一つは―――――
少女が人間ではなく、それを超越した殺人鬼だった、という見解の誤りだった。
不意に、レミリアの背中に悪寒が走った。じわりと上ってくる先程の狂喜の感情とは対照的な不可解な電流(ちぐはぐ)。
それは物理的に向かってくる殺傷道具の成れではなく、その背後で起きた突飛な現象。
敵対象体の消失。
「なに……!? まさか……!」
レミリアの体に緊張が駆け抜ける。そして、それと同時に、
「…………ぐ、ぎ、、!」
何十ものナイフが、
「…………は。ぐ、」
手に、足に、腕に、腰に、胸に、背中に、首に、顔に、頭に、身体に……
「が、は、。……」
飛び散る鮮血。紅く染まる視界。電導する肉体的苦痛。誘い出される吐き気。
打ち臥せられる自尊心。その上それに伴い激高し、煮え立ち、色を成す憤激。
「ぎ、ギギ、、!」
どこから沸き起こる焦燥感か。人間にこうも簡単に出し抜かれたことによるものからか。それともこのおびただしい傷のせいか。
いや、それは自分に対する焦燥感。自らの無配慮と自分自身を買い被り往きすぎた自負心。
許すことは、出来ない。
彼女はそこまで器用じゃあない。
人間にしてやられた、などという失態を “カタチ”までをも残してこのまま無残にも引き返すわけにもいかない。
シャワーのように噴出するその水を少女は表情を変えずに浴びていた。まるで、本当に温もりを得ようとしているかのようでいて、余りにも凄惨な光景だった。先刻前と同じように血液のシャワーを浴びる少女。
ぴたり、と。血の流動が止まる。
吸血鬼は死んだはずの体を宙にして、翼をはためかせて再度笑った。
今度は乾いた笑い声。
「…………ッ!」
初めて少女の表情が目に見えて変わる。
初めて経験した未曾有の恐怖。
初めて感じる『捕食者』と『捕食される者』の立場。
その眼を見た。ひとえに紅く狂った眼。もうそれだけで、血汗が引いて脳髄がぐらりと揺れる。
そうか。あの悪魔は血で血を洗うのか――――
刺さったままのナイフがするりと水面下から抜かれたように全部零れ落ちた。
白い吸血鬼の服装が真っ赤に染め上げられていた。
ふらりと倒れこむように動き出した彼女は二三歩歩くと立ち止まり、垂れた頭を起こして少女ではなく頭上の夜を見た。その間、少女は何もしない。
いや、出来なかった。
手足がピクリとも動かない。不思議と見惚れていた。吸血鬼にではなくこの世界に。
この一夜の素晴らしさを少女はいまようやく知ったのだった。
……ぎちぎち。
吸血鬼が動き出す。
奥歯がまた、カタカタカタと鳴り出した。
◇◇◇◇◇◇◇
その夜の出来事を知っているのは彼女たちだけだった。小休止が終わり再び始まるその寸劇を観する者は誰一人として存在しなかったが、やはり寸劇は“寸”劇。閉幕はすぐに来るのだ。
レミリアは理解していた。
少女の能力が“時間を司る”モノだということを。さもなければ、レミリアの知覚が及ばぬはずがなく、造作もなく少女は肉塊へと変貌を遂げていたことだろう。
背後から群れを作って襲い掛かるナイフの固まりを左手だけで掃い除ける。
人間にはスペルも使わないし、“運命操作”の能力も使わない。
種も仕掛けも見えたのならば、所存はそこにあった。ただの暴力でこの人間を一蹴する。これがレミリアの報いであり方法であった。
少女は止まった時の中を駆け抜けて、ナイフを投げ続けた。
もう勝負は自明の理。それでも一身一心にそのいたちごっこを続けた。
最早愚行。
投げれば投げる分のナイフを刈り取られる。結果は必然。少女の持つナイフの底が尽き、両手に握った二つのナイフが最後の二つとなった。
時を止めて、レミリアに襲い掛かる少女。時が動き出し、レミリアの目の前で突然現れ右手で握ったナイフを突き立てようとする。無論、そのような工夫も技巧も凝らしていない一撃がレミリアに当たるとは考えづらい。
が。わざとレミリアは手のひらでそれを受け止めた。
ドクドクと流れる血液。思い出したように風が止む。静寂が夜に降り立った。
数秒の沈黙の後で、少女の目から涙がこぼれた。
レミリアにはその意味が解らなかったが人間が死ぬ前に流す掛け替えのある涙とは決定的に違う、ということだけはわかったが、結局のところ何を意味するのか解らなかった。ただ、その涙をみているだけで心が熱かった。
「どうして、泣くの?」
それだけ言葉にして、しまった、と思った。しかし、
「わかりません。ただ、わたしはもう、たくさん頑張った気がします」
そう、声にしたのだ。
馬鹿なことをいう人間だとレミリアは思った。“もう、たくさん”って、まるで人生に何の未練もないように聞こえたのだ。
嘘をつけ、と。人間はもっと醜悪で欲を望む掛け替えのあるつまらない存在だ、と。口にしようと思ったが、だめだった。
彼女には嘘がなかったのだ。その声には嘘がなかったのだ。その涙には嘘がなかったのだ。
吸血鬼にでもわかってしまう掛け替えのない表情。それはなんと気持ちのいいものだっただろうか。込み上げてくるものは彼女が知らない大事なもの。
赤い血と同じように流れる大粒の涙。
ナイフ越しに伝わる手の振るえ。
目には包んであげたくなるような一人のか弱い少女。
なんだというのか。まるで何かを待っているかのようにナイフから手を離して目を閉じた。“ソレ”を覚悟するかのように涙が引いた。
「貴女は……」
違う。これまで殺してきたどんな人間とも違う。
気高く、気丈で、それなのに、どうしてこんなにも儚いのだろうか。
わたしなんか、足元にも及ばない。わたしのプライドなんて、人間に対する反抗心という飾り立てのつけ上がりだったというのに。
「く、そ……!」
負けた。完全に負けた。プライドがボロボロになって崩れていく音が聞こえた。
思えば、この人間の目を見た時にさっさと殺しておくべきだった。
「くそお……!」
あの目は恐怖を拭い捨てるモノなんかんじゃなくて、この世との訣別を決した覚悟の表れだったのだ。
わたしがしたことはそれに対する憤りとそれを打ち砕く愚鈍な行為。
わたしが殺気を込めたことによって彼女の固い決意を解かせ、あまつさえ恐怖なんていう低俗な感情で彼女をこの世界に踏みとどまらせた。
ずきずきと胸の内が痛みを訴える。
何もかも捨てて彼女が鬼になる必要は、この世との未練を断ち切るためだったのだ。それを思い起こしたのは、死ぬ覚悟を紙くず同然に引き裂いたのは、
「ああ、ほんとうに、」
人間って、生意気ね。
「ねえ、貴女名前はなんていうの?」
目を閉じた少女がきょとんとして目を見開いて吸血鬼を見た。
何がしたいんだろうこの吸血鬼は、なんて顔に書いてあるようだった。
「十六夜、咲夜」
「へえ。いい名前じゃない。わたしはレミリア。レミリア・スカーレットよ。……ところで咲夜」
「?」
「最近(今)いい侍女を探しているのだけれど、当てが全くなくて困っているのよ」
「??」
「それで、貴女を見込んで一つ。わたしの侍女になりなさい」
「あ、え……!?」
「断って置くけれど、貴女に拒否権なんてないわ。だって、わたしが貴女の命を握っているんだもの」
「…………む、う」
「決定ね。まあ、しがないけれどこれでわたしのケジメとさせてもらうわ」
ここにきて気高く振舞っているあたり、やはりレミリアは大物である。寸分のにがりもない誇らしげな態度と笑みがその象徴といえるだろう。
少女はそんな吸血鬼を見て、悪魔のような天使に見えた。
「…………くす」
咲夜が今までのことを全て捨てるようにして、これからの生を生きるために笑った。
「なにがおかしいのよ?」
「いえ、わたしたち、見事に血だらけなのにこうして関係を築いてしまっているということに」
「?? 本当に、人間ってわからないわね」
くすくすとまたも笑う少女。
訝しげに首を傾げる吸血鬼。
幕はそこで下ろされたが、舞台では劇はまだ進行中だった。
◇◇◇◇◇◇◇
「ねえ、咲夜」
「なんでしょう?」
八つの徒花が咲く荒城。全身を赤く染めた二人の少女は向かい合って話をしている。取るに足らない話だ。
「貴女の願いはなに?」
「なんですか、唐突に」
「いいから答えなさい」
「……そうですね。太陽の下を嫌と言うほどこの世界を散歩したい、というところでしょうか」
「…………? それだけ?」
がっくしと首を垂れるレミリア。全く持って人間のことなど理解できないといった面持ちだ。
「いいえ、」
しかし咲夜はこう付け足した。
「お嬢さまとご一緒に」
忘れていたように風が吹き始めた――――
レミリアと咲夜は一晩掛け、歩いて館にたどり着いた。
その間は二人は一言も話さず、レミリアは凍死しそうな咲夜にも気に掛けなかった。
会話などなくとも通じ合っていた二人がいた。長い長い道のりが先ほどの一毫たる戦いよりも短く感じられた。
たんたんと先を歩く主人と、震えながら着々と歩を進める従者。光がない静かな幻想の楽園に二人はいた。
二人の間が開くことはない。遠からず、近からず。その距離を保って館を目指していた。
途中、咲夜が息を詰まらせて歩を止めると、自然と主人の歩も止まった。
二人は顔も合わせない。
堪えやすい沈黙。
何も聞こえないその沈黙の中で、奥歯の音はたてまいと歯を食いしばる従者の努力があったことは二人にとって語るに及ばず、気にも及ばず。
なにかと、わけもなく二人はこの静寂を気に入っていたのだから。
◆◆◆◆◆◆◆
「ふう……」
一仕事終えて自室に舞い戻ったレミリアはいつの間にかたどることがない記憶をたどっていた。
「お嬢さま、どうぞ。とびきりのを淹れてきました」
「ごくろうさま」一口だけ口に含む。「ところで、最近“アイツ”が騒がしいようだけど、不機嫌そうね。様子の報告をお願いしたいんだけど」
「ああ、それでしたらパチュリーさまに聞いてください。わたしはお嬢さまの様子しか知り得ていませんので」
「ふうん。まあそれもそうね」こくりともう一口。
「…………」
お互い伝えることを切らせてしまったのか、しーんと静まり返ってしまった。
咲夜は扉の前に立ったまま動こうともせずに目を閉じて小さく笑っている。
レミリアもティーカップを持ったまま不敵に笑みを従えて紅い瞳を隠していた。
――――ずっと。永遠にこの時が続けばいいのに、と。誰かが囁いた気がした。
でもそんなことはどうでもいいし、頭の隅にも置けないし第一頭には入れない。
二人はこの時を二人だけのために楽しんでいるのだから。
静寂を断ち切ったのは珍しくレミリアだった。
いつもは咲夜がお茶を飲み終えたレミリアの食器を持って退室するのだが、今日はいつもとは違っていた。
だから咲夜も少しばかり驚いたのだろう。
……いや、厳密には本当に驚くのはこれからなのだが。
「咲夜、太陽を隠すことにするわ」
齢五百歳になる吸血鬼はそう、発音していた。
<終劇>
ほの暗いどんよりとした中世の西欧的な個室。
その主は目覚めた体に鞭を打って深紅に染まる瞳の焦点(ピント)を合わせてベッドから身を起こした。長い呼吸を一つ。
白を基調とする洋服装に身を包み、口からはみ出るようにしてその伸長した犬歯を覗かせているのはルックスは幼けれど、高貴な雰囲気を漂わせ歳にして五世紀を渡ってきた紛れもない高等種――吸血鬼。
その吸血鬼は幼い顔を少し歪ませる。不快な、彼女が感じることを嫌う先天的な障害だった。
「……何度となく調整してきたというのに、どうしても微かなものは断絶できないものね」
ため息と感想を入り混じった独り言の後、人差し指を天井に向けて暗紅色の霧を噴出させた。
血のように毒々しいその色合いで形成された霧は部屋を纏うようにしてへばりつき、同化した。彼女(吸血鬼)の天敵からの支障を取り除くためだ。
赤い霧が完全に同化すると同時に軽いノック音がしてドアが音もなく開いた。
「おはようございますお嬢さま」
ぺこりと律儀に一礼をするメイド姿の侍女。彼女の名前を十六夜咲夜という。
この館の主である吸血鬼に仕えるメイド長だ。
「おはよう、咲夜。本当に“おはよう”。こんなに機嫌の悪い目覚めも久しいわ。いつもならばまだ眠っている時間帯に痛みで起こされるなんて情趣の欠片もないわね。しかも天敵にやられたなんて何年振りかしら」
「きっと濃度が落ちているのではないでしょうか? どうします? 先にひと仕事終えてからお茶をお持ちした方がよろしいですよね?」
「全くね。そうしなさい。濃度を調整するのも面倒なのよ。だから咲夜」
「なんです?」
「とびきりのをごちそうしなさい」
「はからずともそのつもりですよ」
■■■■■■■
いつからか、レミリア・スカーレットと十六夜咲夜は主従を結ぶことになっていた。過去に固執しない二人は“いつ”“どこで”“なぜ”ということなどからっきしで、過去のことは忘却の淵に置いてある。
吸血鬼と人間。
どうあがいても同じ立場で存在を許されぬ、絶対的な迷妄の存在比類。
吸血鬼にとって人間とは“餌”そのもので、共存などそれ以外の理由を持たない。
人間にとって吸血鬼とは“恐怖”そのもので、共存など考える意味合いを持たぬ不毛な事柄。
その二つが交わること事態が奇跡に近い。情が移るわけもなく、観念的に頓的であり夢幻的であり、その二つが相即不離な関係に発展するはずがない。
しかし二人はそれに近い。互いに互いを必要とし画一的な関係を作ってしまっている。
なぜかは二人とも知らない。知ろうともしないしそれ以前に興味がない。
そんな過去に執着しない二人でも忘れられない過去(記憶)がある。
いや、もう忘れているかもしれないが、思い出さないだけの過去(記憶)がある。
レミリアにとっては一昔(最近)のことで、咲夜にとっては最近(一昔)のことである、間をとって少し昔。その時、すなわち二人がまだ因果を結ぶ前の話だ。
□□□□□□□
その日(夜)は底冷えのする容赦のない冷涼さで、暗黒の夜空が光というものを完全に遮断していた。星も月も姿を隠すほどの黒の世界。
心も体も寒さと夜の無情感できしりと軋む夜もすがら。
レミリア・スカーレットはいつものように夜の孤独な世界を堪能するために空中散歩をしていた。
彼女の速度と風の流れが反発しあい彼女は身を切り裂くような凍てつく風に全身を絡まれる。
常人なら一瞬で触覚がオシャカになるのだがレミリアにとってはそれが心地よかった。
凍りついた夜空を滑走するのは彼女の数少ない楽しみの一つだ。
「ふ。パチェは心底嫌うでしょうね」
気持ちいい風のせいか、つまらない所感が自ずとわき上がってくる。
我こそは夜の王とでも言わんばかりに悠然と夜を駆け抜けていると――――
「…………!」
突然、レミリアの視界が赤に染まった。鼻につく血の臭い。耳にははっきりと聞こえる我以外の殺人者の鼓動。圧倒的な夜が後押す身体機能の向上により衝動的に引き起こされる知覚活動。
にやりと唇の両端がつり上がる。この世界は私の物だと主張するかのような攻撃的な笑み。二翼の翼がはためく。自身が感じた場所へと導く。視覚に入るのは人里から離れた古城跡。瞳(視力)をこじ開けて上空から人影を観察する。
ひとつふたつみっつ。
照らす光が何一つない劇場で餌同士の抗争がクライマックスに入ろうとしていた。
地に伏せて冷え切っている人影を合わせれば全部で九つ。どういうことかはわからないが、二対一の戦闘。
レミリアは最初また愚かしい人間が愚かしく争い死ぬつまらない劇だと思ったが、よく感じれば血の臭いを最も放つのは死んだ人間ではなく、一人で戦う――――
「は、――――」
返り血を浴びすぎた一人の少女だった。
少女は怪我一つ、傷一つ負っていない。吸血鬼の王の全身が、知らず粟立つ。
少女の眼。真実も虚偽も透き通すような偽りのない瞳。
少女の表情。何も隠すつもりもなく、何もかも隠され冷暖がかき消された虚無の顔。
少女の心。ここからでは確認を許されない探求心を激しく揺さぶる一つの至高。
レミリアはなんとしても知りたい。その気持ちとは裏腹にその気持ちを抑制する自我があった。
人間如きが馬鹿騒ぎに興味を抱くわけもない、と。まるで、アレを相手にすれば自身の気高さが失われるような錯覚。人間を相手なしてたまるか、と。所詮は無意味で興の乗らぬ三流劇。アレを見るくらいならこの美しい夜を堪能する方が何倍もマシだ、と。
そして――――その錯覚は、真の意味で錯覚となる。
「は、はは、は――――!」
――――なんだいまのは?
レミリアは己の機能を確かめるようにばりばりばりと腕を引っ掻き回して痛みを呼んだ。
たまらないのだ。
――――自分が知覚出来ない瞬間的な運動量か、はたまた異次元から呼び寄せた狂気の産物か、果てはそれ以上の脅威であり驚異。
刹那もアレから目を離してはいなかった。それにもよらず、アレの行動を知覚出来なかったのは自身の機能の低下ではない。これ以上ないというくらいに身体機能はこの世界が繕ってくれている。ならば、やはり原因はアレだ。今の我がこの両眼で補足した対象物の行動を瞬きすら数え損なうはずもない。やはり原因はアイツだ。一呼吸も置かずに数十の刃物の塊を投げられるわけがない。この世に摂理があるならば、それを許す道理がない――――!
レミリアの思考は埋め尽くされていた。神秘への接触、それへの好奇心と追求心。そして一掴みのわだかまりを持って、一直線に観客のいない舞台に降り立った。
振り返る人間。
降り立つ吸血鬼。
視線と存在が交錯し、
数えられない時間だけそこに縫い付けられ、
やがてその時を共有した。
“運命”の、その瞬間。
◇◇◇◇◇◇◇
「ごきげんよう。いきなり一方的で悪いけれど、少しだけ遊びません? 一方的に」
虚無のような何もない目をした少女に向けてレミリアは口を開けた。
「…………」
驚きもしない。恐がりもしない。きょとんともしない。喜びもしない。表情には何も変化はない。だがレミリアには理解された。この少女が何を考えているのか。何を望んでいるのか。
返り血を浴び過ぎた少女の体はカタカタと震えていた。
恐怖感からじゃなくて浴びた血液の温度が外気によって急激に冷やされたからだろう。カタカタカタと止まる様子はない。
このままここに立ちすくんだままだと体温が下がって死ぬだろう。死体たちの血液はすでに固まり始めていた。
対峙した両者に動く気配はなく、カタカタカタと奥歯を鳴らす音だけが聞こえる。
少女にとって、目の前の存在は自分の罪を贖うために降り立った天使のような悪魔だった。
それは恐怖の対象ではなくて必然的なモノだった。どうせこのまま死ぬことはわかっていたが、“どうせ”ならば少しは、死ぬ前くらい少しは、少しくらいは――――と。
「……………」
きしりと奥歯を噛みしめる。血で濡れたナイフを構え直す。
死ぬ前に思い出を思い出そうとしたが、脳に映る映像は白黒で何も映し出されなかった。映るのは、目の前の悪魔だけだった。
ちっぽけでなにもないわたしよ、これが最後の幻想よ――――と、祈るように思考した。
対してレミリアは悦楽と狂喜の表情を浮かべ、厳粛に腕を組んでふわりと数センチ程度浮上した。
ただひたすらに、相手を見ている。
視線を入り乱らせ殺意と愉悦を込めて相手を見ている。哄笑したさをぐっと抑えて狂喜の感情は一瞬一瞬の時を我慢出来ずに逓加していく。
じわりじわりと。感情の域を超えた高ぶりを抑えられずに漏れ続けているのを少女は感じていた。
感じずを得なかった。
この悪魔は何にせよ悪魔。
恐らくは、この寸劇の序幕を上げるのは自分ではないと少女は確信していた。
――――!!
風が走る。刹那。硬質物同士がぶつかる高い音が古城跡に響いた。
ぎちり。と。鍔迫り合いならぬ人間と吸血鬼のナイフと爪の迫り合いで拮抗状態を作っていた。
少女の全身から生ぬるい汗が吹き出した。浅はかだったのは少女だった。
――――相手から勝負をしかける? まさか。それは愚考だった。コイツは自分から端緒を開くような、“自分から”開く者ではなかったのだ。コイツは悪魔じゃあない。もっと高貴で英邁なナニかだった。
だから。だからコイツは動かなかった。“わたしを動かせる”ことで自分のプライドを押し通した。わたしの覚悟を噛み砕いて。
わずかに、殺気を込めて睨まれただけだというのに、それだけでこの身体は逃れがたい死を予見してしまった。
故に自発性(衝動)に駆られたのだ。
つまり、この寸劇の幕を肉体的(主体的)に上げてしまったのは他でもなく“少女”であり、精神的(間接的)に上げさせたのは他でもなくこの“吸血鬼”だった。
狂喜と狂気が成した圧倒的な死のリズム。少女の汗の意味はまさしく其処にあったのだった。
硬直から八秒弱。ガギンと、レミリアは残る右腕で相手のナイフを薙ぎ払い、自分からその硬直を解いた。すかさず距離を取る少女。
そして、堪えられなくなったレミリアが大声で笑い出した。
――――ははははははははははははは!
夜にこだまする大音声。一本調子の轟音が地面を伝って地鳴りする。
「貴女、全く人間ね、“人間”。呆れ返るくらい人間のくせにわたしに恐怖しなかったことが許せなかっただけよ。いまのはちょっとしたわたしの意地ときっかけの急造。お気に召しました?」
スカートの両端を摘んで礼儀正しく空中で挨拶代わりと言わんばかりの挨拶をした。
「――――」
そして、少女は挨拶をする代わりに――――ナイフを二本、六メートル先のレミリアに向かって投げつけた。
当たるはずもない攻撃。その攻撃にレミリアは思い(対処)を巡らせた。
――――チンケな攻撃ね。避けることは容易いけれど、このまま弾き返すのはどうかしら? それとも手で掴み取って投げ返してやるのはどうかしら? そうね、そうすることにするか。
くすりと笑う吸血鬼。
レミリアはここで大きなミスを二つした。
一つは目の前のナイフ“だけ”の対処をしてしまったということであり、もう一つは―――――
少女が人間ではなく、それを超越した殺人鬼だった、という見解の誤りだった。
不意に、レミリアの背中に悪寒が走った。じわりと上ってくる先程の狂喜の感情とは対照的な不可解な電流(ちぐはぐ)。
それは物理的に向かってくる殺傷道具の成れではなく、その背後で起きた突飛な現象。
敵対象体の消失。
「なに……!? まさか……!」
レミリアの体に緊張が駆け抜ける。そして、それと同時に、
「…………ぐ、ぎ、、!」
何十ものナイフが、
「…………は。ぐ、」
手に、足に、腕に、腰に、胸に、背中に、首に、顔に、頭に、身体に……
「が、は、。……」
飛び散る鮮血。紅く染まる視界。電導する肉体的苦痛。誘い出される吐き気。
打ち臥せられる自尊心。その上それに伴い激高し、煮え立ち、色を成す憤激。
「ぎ、ギギ、、!」
どこから沸き起こる焦燥感か。人間にこうも簡単に出し抜かれたことによるものからか。それともこのおびただしい傷のせいか。
いや、それは自分に対する焦燥感。自らの無配慮と自分自身を買い被り往きすぎた自負心。
許すことは、出来ない。
彼女はそこまで器用じゃあない。
人間にしてやられた、などという失態を “カタチ”までをも残してこのまま無残にも引き返すわけにもいかない。
シャワーのように噴出するその水を少女は表情を変えずに浴びていた。まるで、本当に温もりを得ようとしているかのようでいて、余りにも凄惨な光景だった。先刻前と同じように血液のシャワーを浴びる少女。
ぴたり、と。血の流動が止まる。
吸血鬼は死んだはずの体を宙にして、翼をはためかせて再度笑った。
今度は乾いた笑い声。
「…………ッ!」
初めて少女の表情が目に見えて変わる。
初めて経験した未曾有の恐怖。
初めて感じる『捕食者』と『捕食される者』の立場。
その眼を見た。ひとえに紅く狂った眼。もうそれだけで、血汗が引いて脳髄がぐらりと揺れる。
そうか。あの悪魔は血で血を洗うのか――――
刺さったままのナイフがするりと水面下から抜かれたように全部零れ落ちた。
白い吸血鬼の服装が真っ赤に染め上げられていた。
ふらりと倒れこむように動き出した彼女は二三歩歩くと立ち止まり、垂れた頭を起こして少女ではなく頭上の夜を見た。その間、少女は何もしない。
いや、出来なかった。
手足がピクリとも動かない。不思議と見惚れていた。吸血鬼にではなくこの世界に。
この一夜の素晴らしさを少女はいまようやく知ったのだった。
……ぎちぎち。
吸血鬼が動き出す。
奥歯がまた、カタカタカタと鳴り出した。
◇◇◇◇◇◇◇
その夜の出来事を知っているのは彼女たちだけだった。小休止が終わり再び始まるその寸劇を観する者は誰一人として存在しなかったが、やはり寸劇は“寸”劇。閉幕はすぐに来るのだ。
レミリアは理解していた。
少女の能力が“時間を司る”モノだということを。さもなければ、レミリアの知覚が及ばぬはずがなく、造作もなく少女は肉塊へと変貌を遂げていたことだろう。
背後から群れを作って襲い掛かるナイフの固まりを左手だけで掃い除ける。
人間にはスペルも使わないし、“運命操作”の能力も使わない。
種も仕掛けも見えたのならば、所存はそこにあった。ただの暴力でこの人間を一蹴する。これがレミリアの報いであり方法であった。
少女は止まった時の中を駆け抜けて、ナイフを投げ続けた。
もう勝負は自明の理。それでも一身一心にそのいたちごっこを続けた。
最早愚行。
投げれば投げる分のナイフを刈り取られる。結果は必然。少女の持つナイフの底が尽き、両手に握った二つのナイフが最後の二つとなった。
時を止めて、レミリアに襲い掛かる少女。時が動き出し、レミリアの目の前で突然現れ右手で握ったナイフを突き立てようとする。無論、そのような工夫も技巧も凝らしていない一撃がレミリアに当たるとは考えづらい。
が。わざとレミリアは手のひらでそれを受け止めた。
ドクドクと流れる血液。思い出したように風が止む。静寂が夜に降り立った。
数秒の沈黙の後で、少女の目から涙がこぼれた。
レミリアにはその意味が解らなかったが人間が死ぬ前に流す掛け替えのある涙とは決定的に違う、ということだけはわかったが、結局のところ何を意味するのか解らなかった。ただ、その涙をみているだけで心が熱かった。
「どうして、泣くの?」
それだけ言葉にして、しまった、と思った。しかし、
「わかりません。ただ、わたしはもう、たくさん頑張った気がします」
そう、声にしたのだ。
馬鹿なことをいう人間だとレミリアは思った。“もう、たくさん”って、まるで人生に何の未練もないように聞こえたのだ。
嘘をつけ、と。人間はもっと醜悪で欲を望む掛け替えのあるつまらない存在だ、と。口にしようと思ったが、だめだった。
彼女には嘘がなかったのだ。その声には嘘がなかったのだ。その涙には嘘がなかったのだ。
吸血鬼にでもわかってしまう掛け替えのない表情。それはなんと気持ちのいいものだっただろうか。込み上げてくるものは彼女が知らない大事なもの。
赤い血と同じように流れる大粒の涙。
ナイフ越しに伝わる手の振るえ。
目には包んであげたくなるような一人のか弱い少女。
なんだというのか。まるで何かを待っているかのようにナイフから手を離して目を閉じた。“ソレ”を覚悟するかのように涙が引いた。
「貴女は……」
違う。これまで殺してきたどんな人間とも違う。
気高く、気丈で、それなのに、どうしてこんなにも儚いのだろうか。
わたしなんか、足元にも及ばない。わたしのプライドなんて、人間に対する反抗心という飾り立てのつけ上がりだったというのに。
「く、そ……!」
負けた。完全に負けた。プライドがボロボロになって崩れていく音が聞こえた。
思えば、この人間の目を見た時にさっさと殺しておくべきだった。
「くそお……!」
あの目は恐怖を拭い捨てるモノなんかんじゃなくて、この世との訣別を決した覚悟の表れだったのだ。
わたしがしたことはそれに対する憤りとそれを打ち砕く愚鈍な行為。
わたしが殺気を込めたことによって彼女の固い決意を解かせ、あまつさえ恐怖なんていう低俗な感情で彼女をこの世界に踏みとどまらせた。
ずきずきと胸の内が痛みを訴える。
何もかも捨てて彼女が鬼になる必要は、この世との未練を断ち切るためだったのだ。それを思い起こしたのは、死ぬ覚悟を紙くず同然に引き裂いたのは、
「ああ、ほんとうに、」
人間って、生意気ね。
「ねえ、貴女名前はなんていうの?」
目を閉じた少女がきょとんとして目を見開いて吸血鬼を見た。
何がしたいんだろうこの吸血鬼は、なんて顔に書いてあるようだった。
「十六夜、咲夜」
「へえ。いい名前じゃない。わたしはレミリア。レミリア・スカーレットよ。……ところで咲夜」
「?」
「最近(今)いい侍女を探しているのだけれど、当てが全くなくて困っているのよ」
「??」
「それで、貴女を見込んで一つ。わたしの侍女になりなさい」
「あ、え……!?」
「断って置くけれど、貴女に拒否権なんてないわ。だって、わたしが貴女の命を握っているんだもの」
「…………む、う」
「決定ね。まあ、しがないけれどこれでわたしのケジメとさせてもらうわ」
ここにきて気高く振舞っているあたり、やはりレミリアは大物である。寸分のにがりもない誇らしげな態度と笑みがその象徴といえるだろう。
少女はそんな吸血鬼を見て、悪魔のような天使に見えた。
「…………くす」
咲夜が今までのことを全て捨てるようにして、これからの生を生きるために笑った。
「なにがおかしいのよ?」
「いえ、わたしたち、見事に血だらけなのにこうして関係を築いてしまっているということに」
「?? 本当に、人間ってわからないわね」
くすくすとまたも笑う少女。
訝しげに首を傾げる吸血鬼。
幕はそこで下ろされたが、舞台では劇はまだ進行中だった。
◇◇◇◇◇◇◇
「ねえ、咲夜」
「なんでしょう?」
八つの徒花が咲く荒城。全身を赤く染めた二人の少女は向かい合って話をしている。取るに足らない話だ。
「貴女の願いはなに?」
「なんですか、唐突に」
「いいから答えなさい」
「……そうですね。太陽の下を嫌と言うほどこの世界を散歩したい、というところでしょうか」
「…………? それだけ?」
がっくしと首を垂れるレミリア。全く持って人間のことなど理解できないといった面持ちだ。
「いいえ、」
しかし咲夜はこう付け足した。
「お嬢さまとご一緒に」
忘れていたように風が吹き始めた――――
レミリアと咲夜は一晩掛け、歩いて館にたどり着いた。
その間は二人は一言も話さず、レミリアは凍死しそうな咲夜にも気に掛けなかった。
会話などなくとも通じ合っていた二人がいた。長い長い道のりが先ほどの一毫たる戦いよりも短く感じられた。
たんたんと先を歩く主人と、震えながら着々と歩を進める従者。光がない静かな幻想の楽園に二人はいた。
二人の間が開くことはない。遠からず、近からず。その距離を保って館を目指していた。
途中、咲夜が息を詰まらせて歩を止めると、自然と主人の歩も止まった。
二人は顔も合わせない。
堪えやすい沈黙。
何も聞こえないその沈黙の中で、奥歯の音はたてまいと歯を食いしばる従者の努力があったことは二人にとって語るに及ばず、気にも及ばず。
なにかと、わけもなく二人はこの静寂を気に入っていたのだから。
◆◆◆◆◆◆◆
「ふう……」
一仕事終えて自室に舞い戻ったレミリアはいつの間にかたどることがない記憶をたどっていた。
「お嬢さま、どうぞ。とびきりのを淹れてきました」
「ごくろうさま」一口だけ口に含む。「ところで、最近“アイツ”が騒がしいようだけど、不機嫌そうね。様子の報告をお願いしたいんだけど」
「ああ、それでしたらパチュリーさまに聞いてください。わたしはお嬢さまの様子しか知り得ていませんので」
「ふうん。まあそれもそうね」こくりともう一口。
「…………」
お互い伝えることを切らせてしまったのか、しーんと静まり返ってしまった。
咲夜は扉の前に立ったまま動こうともせずに目を閉じて小さく笑っている。
レミリアもティーカップを持ったまま不敵に笑みを従えて紅い瞳を隠していた。
――――ずっと。永遠にこの時が続けばいいのに、と。誰かが囁いた気がした。
でもそんなことはどうでもいいし、頭の隅にも置けないし第一頭には入れない。
二人はこの時を二人だけのために楽しんでいるのだから。
静寂を断ち切ったのは珍しくレミリアだった。
いつもは咲夜がお茶を飲み終えたレミリアの食器を持って退室するのだが、今日はいつもとは違っていた。
だから咲夜も少しばかり驚いたのだろう。
……いや、厳密には本当に驚くのはこれからなのだが。
「咲夜、太陽を隠すことにするわ」
齢五百歳になる吸血鬼はそう、発音していた。
<終劇>