諏訪子がそいつと出会ったのは、全くの偶然だった。
神奈子に誘われて山の麓をぶらついていたところ、そいつが蛙を凍らせている現場に出くわしたのだ。
何してるのよあなた、私の眷属を虐待するなんて絶対許せない。
うるさいお前こそ何者だ、あたいの趣味に口出しするなんて百年早い、どうしてもやめさせたいと言うのなら……
勝負ね?
勝負よ!
とまあ、そんなこんなで。
「うおー、またやられちゃった! ケロちゃん強いわ! ちっちゃい癖にやたら強いっ!」
冷気を武器としながらも、性格の方はいたって暑苦しい妖精が興奮気味に叫ぶ。
「あははは、一寸の蛙にも五分の魂ってやつよ」
まんざらでもなさそうに、諏訪子は笑った。
霧の包む湖の上、宙に浮かぶ二者は互いに熱っぽい視線を送りあっている。
初対面時の険悪な空気はどこへやら、なんとも早い意気投合である。
弾幕をぶつけあっている間は、余計なことを考えている余裕がない。
自分の立場も、相手の素性も、何もかも忘れて、ただひたすらに弾を避け、弾を避ける。
ただそれだけの無為な行為を、純粋に愛することのできる者同士だからこそ…・・・
「まあ、あなたも一介のスダマとは思えないほどのパワーを持ってるけどね」
こうして種族の垣根を越え、互いを素直に賞賛しあうことも出来るのだ。
ふたりの心の琴線は、今、激しく共鳴しあっている。
「そうそう、あたいはただのスダマじゃないの……って、ちょっとケロちゃん!」
「はい?」
「あたいはスダマじゃなくて妖精だって、さっきから言ってるでしょ!」
「っとと。そうそう、ここではそういう呼び方をしなくちゃいけないんだっけ?」
「ケロちゃんは世間知らずで困るなぁ」
「あーうー……ごめんね、ここ最近ずっと引きこもってたから」
「その割にはイカす弾幕を使うじゃん! 最近の引きこもりはあなどれないわ! なのにあたいったら、うっかりあなどりすぎて5連敗もしちゃったよ……」
「え? 私、まだ4回しか勝ってないけど」
「違うよー! あたい、試合の回数を数えるのは得意なんだから」
「いや、だから、今のが4回目で」
「えっ? いち、にー、さん、ごー……3試合目の次は、5試合目でしょ?」
「……うーん…………ま、いっか。そういうことでも」
「よーし、それじゃ第7回戦いっくぞー!」
「頭の出来はとにかく……根性あるねぇ、あなた」
「おう! あたいは今、最高に燃えてるのさ!」
「燃えてる? 氷の化身のくせに?」
「細かいことは気にしない! さあさあやるぞ! 今すぐやるぞ!」
「ほんっと元気ね。ま、おかげで今日も退屈せずに済みそうだけど」
額に滲んだ一滴の汗を拭い、ふと、諏訪子は天を仰いだ。
うわあ。
いい天気。
二千年以上も昔の空の色が、ここではまだ活きている。
こうしていると、今は亡き王国の黄金時代を思い出すなあ。
あの頃、山の中に住む者たちは、人も妖も神も問わずみんな私と仲良くしてくれた。
毎日がお祭り騒ぎの連続で、とにかく愉しかった。
そう。
人間たちが「ミシャグジさま」と呼ぶ災厄どもが山に忍び寄ってくるまで、私は本当に幸せだった。
みんなを守るため、みんなの笑顔のため、私はそいつらと一生懸命に戦った。
なのに。
全ての「ミシャグジさま」を平らげ、揚々と凱旋した私を待っていたのは……
「おーい、なにボーッとしてるのさ」
「……ん?」
「あれあれ、もしかしてケロちゃん疲れちゃったのかな?」
「あっはは、ご冗談! 神たる私が、この程度で音を上げるとでも?」
「へへへ、それでこそカミサマよね! いい、次のスペルカードは取っておきよ? 甘く見てるとシモヤケになるぞっ!」
「それは楽しみだわ! さ、どこからでもかかってきなさいっ!」
神と妖精が仲睦まじく激突する様を、もう一柱の神は湖のほとりからぼんやりと眺めていた。
「バカみたい。と言うか、バカそのもの。バカ相手の遊びに、何を夢中になっているんだか」
揶揄に満ちた独り言とは裏腹に、神奈子の表情は実に穏やかだ。
当初の予定とは少し違った道筋をたどってはいるものの、『信仰』を回復するための計画は順調に進んでいる。
山の妖怪たちが幻想郷のいたるところに分社を建ててくれたおかげで、こうして新たなカモ……もとい信者を探しに山を降りることも、気軽にできるようになった。
かつてあれほど身を苛んでいた滅びへの焦燥は、今や神奈子の心中からはすっかり抜け落ちている。
加えて、諏訪子の笑顔を取り戻せたこともまた、大きな喜びのひとつである。
紅白巫女と黒白魔女の無作法コンビによって本殿の秘密が公然化された以上、彼女を陽光の届かぬ場所に隔離し続けておく意味は失われた。
(幻想の彼方への移住計画。文字通り、乾坤一擲の大博打だったけど)
神奈子は、勝った。
最近の人間の言葉を借りるなら、「結果オーライ」という奴だ。
(それでも)
ひとつだけ、懸念事項が残っている。
(神と妖精が同じ目線に立って戯れる、この光景。もし早苗が見たら……なんて言うかしら)
古い友人の心配を知ってか知らずか、諏訪子は優雅に宙を舞い続ける。
「うぎゃぎゃ!」
ピチューン。
爽快感あふれる撃墜音と共に、妖精は湖中に墜落していった。
「あ……モロに直撃させちゃった」
諏訪子は恐々と水面を覗き込む。
「ねえ、だいじょ……」
「ぬがーっ! これで⑨連敗だあああああああっ!」
諏訪子が心配するまでもなく、ざばん!
大量の飛沫を舞い上げながら、ものすごい勢いで妖精が水上へ飛び出してきた。
華奢な見た目に反し、なかなか頑丈にできている体である。
「うわっぷ! ……ひどいなぁ、私までビショ濡れだよ」
「あ、ごめん。冷たかった?」
「ん、ちょっと。でも大丈夫だよ、私は蛙の神だし」
「そっか。そうだったね。水、平気か」
「うん、ぜんぜん平気。て言うか、どっちかって言えば得意?」
「じゃあさ、弾幕ごっこはケロちゃんの大勝利ってことで……次は泳ぎで勝負しない? あたい、こう見えてもクロール得意なんだよ」
「ほほー。私の平泳ぎもちょっとしたものよ?」
「よし、ならば……」
「やりますか!」
言うが早いや、諏訪子は身を躍らせて水に飛び込……もうとして、何者かに襟首を掴まれた。
「ぐ?」
「はいはい、今日はこの辺でお開きよ」
神奈子だ。
いつのまに忍び寄っていたのか。
「えー、もうおしまいなのー?」
「そ。定例宴会の始まる時間よ」
「ちぇっ」
諏訪子は不服そうに口を尖らせた。
「何よ、ケロちゃん帰っちゃうの?」
「ごめんね、これから山でお酒の付き合いがあるんだ」
「そっかー、カミサマは大変だなー」
「そうよ、神は多忙なの。でも、またそのうち会いに来るから」
湖のほとりにある分社を指差し、神奈子は妖精に秋波を送った。
「あそこに小さな祠があるのが見えるでしょ?」
「ホコラ? ああ、あの粗末な木造建築物ね。凍らせて殴ったら一発で砕け散りそうなの」
「く、砕いちゃダメよ! あれが私たちの出入り口なんだから」
「ふえ?」
「私も諏訪子も、普段は山奥に住んでいる。麓に降りるときはあそこを通って来るのよ」
「どうして普通に山道を降りて来ないわけ?」
「だって、私たちは神だし」
「ん、ん、んんん? んー……」
妖精の頭上から、かき氷が溶けるような煙が立ち昇り始めた。
どうもこの妖精は、弾幕の展開は得意でも物事を深く考えることは苦手らしい。
あわてて何事かフォローの言葉をかけようとする諏訪子を、神奈子が目配せで制する。
「えと……えっと……」
「難しく考えないで。神とは、大概にしてそういうモノなんだから」
「カミ?」
「そう、神。簡単な話でしょ?」
「そ、そっかー! カミサマだからな! それじゃ、しょーがないよね!」
「うんうん。あなたは賢い子ね。それで、あなたにひとつお願いがあるんだけど」
諏訪子は苦笑する。
こいつのこういう所は、まほろばの時代から全く変わっていない。
「なぁに?」
「狭い道より、広い道の方が通りやすい。だから……」
「分かった、皆まで言うな! もっと大きくて立派なヤツに造り替えろっていうんでしょ?」
「正解! なんて頭のいい妖精なのかしら」
「えっへん! あたいったら天才ね!」
「じゃあ天才さん、あなたに改築を任せてもいいかしら?」
「うん! あたいの友だちを総動員して、すごいホラコをブッ建ててあげるわ」
「お友だちだけじゃなくて、お供え物もいっぱい集めてくれると嬉しいなぁ」
「おう! やってやろうじゃないの!」
腰に手を当て、胸を反らす妖精。
ニヤリと笑う神奈子。
肩をすくめる諏訪子。
三者の頬を、幻想郷の夕陽が等しく紅に染める。
真夜中の境内には、すさまじい量の瓶と甕とグラスと皿、さらに料理の食べ残しが散乱している。
酔い潰れて無体な寝姿をさらす妖怪も、そこかしこ。
この惨状の後始末をしなければならない掃除当番は、恐らく世界で最も不運な存在だろう。
ただしそれは、当番が『神通力』を持たぬ平凡な人間であれば、の話だ。
「毎晩毎晩、よくやるものねぇ」
消えかかっている篝火が微かに照らし出す巫女の表情は険しいが、その目にはまだ余裕の輝きが宿っている。
「さて、お仕事しなきゃ」
神奈子たちの誘いをいつものように断って社の中にこもり、精神を研ぎ澄ませていたのはこの時の為だ。
早苗は愛用の玉串を振るい、目の前の空間に清明紋を描き始めた。
「谷川を、時に及んで奔る風」
慣れた筆遣いが図案を完成させた途端、周囲の大気が早苗を中心に急速な勢いで渦巻き始める。
「その清げなる音をば聞け」
境内を突風が吹き抜けていく。
早苗が数度まばたきをする内に、一切はすっかり片付いていた。
風の向かう先は、山の中腹に建てられた河童のゴミ処理場だ。
不要になった道具は、そこでリサイクルされ、再び山の生活に役立てられることになる。
では、一緒に放り込まれた妖怪たちはどうなるのか?
早苗はその答えを知らない。
と言うか、あんまり想像したくない。
願わくば、酒癖の良い妖怪に生まれかわってくれることを。
「相変わらず美事ねえ!」
ぱちぱちぱち。
上空から拍手の音が降ってきた。
見上げれば、半月を背負った諏訪子がゆっくりとこちらに向かってくるのが見える。
彼女は酒宴の最中、弾幕の腕を盛んに自慢していた天狗に勝負をもちかけ、勝手に場を離れていた。
試合の結果は……まぁ、聞かなくても明らかだ。
ただ、これほど遅い時間まで諏訪子の興味を繋ぎとめていたのだから、大口を叩くほどのことはあったのだろう。
「荒々しいけど、同時に繊細でもある。好きだなあ、こういう吹かせ方は」
「風祝なれば当然の芸当でございます」
地上に足を付けた諏訪子に、早苗は深々と頭を下げる。
「早苗ほど上手に風を操れる巫女は、連綿たる東風谷の家系においても稀よ」
「……恐れ入ります」
「こいつがあなたに甘えたくなる気持ちも、分かるわ」
そう言って諏訪子は、銀杏の大木にもたれかかって寝息をたてている神奈子を横目で睨んだ。
「あちら側には」
やけに無感情な声で、早苗は訥々と語る。
「八坂様の御心を曇らせることばかりが満ち満ちておりました。それが、今ではこうして大いに安らいでいらっしゃる。神のしもべとして、これほど嬉しいことがありましょうか。そして八坂様のみならず、洩矢様もまた大変なご苦労を積まれた御方。この早苗、不肖の身ながら今後も尊き神々の御為に粉骨砕身の覚悟でお仕え申し上げる所存」
長口舌ではあるが、一片の迷いも含まれては居ない。
「あ、う……あはは、早苗は良い子だね! 文句のつけようがないぐらい!」
「風祝、なれば」
「ね、こいつに何か不満があるなら、ぶっちゃけちゃっていいんだよ?」
「そんな、滅相も」
「いいじゃんいいじゃん! どうせ寝てるんだし、今なら何を言っても聞こえないって!」
「八坂様に逆らう理由など、あろうはずが」
「ほんとに?」
「風祝……なれば……」
「ふーん」
諏訪子の口の中に、苦い唾液が湧く。
「いつも、どんな時でも……二言目にはそう言うよね」
「え?」
「カゼハフリナレバ」
早苗の真面目くさった口調を真似てみたらしいが、あまり似ていない。
黙りこんでしまった早苗に背を向け、諏訪子は銀杏に近づいていく。
「この酒乱女は私が寝所に放り込んでおくから、あなたはもう休みなさい」
「いえ……洩矢様のお手を煩わせるわけには」
「いーの、いーの」
よっ!と小さく気合を入れて、諏訪子は神奈川の腕を己の肩にまわした。
そのまま、真っ直ぐ本殿を目指して飛ぼうとするが。
「あーうー? なんか昔より重くなってない? おいしいもの食いすぎだっての、少しダイエットしろっての、こんにゃろめ」
身長と体重の差が災いしてか、地面すれすれを超低空飛行したまま、右へふらふら、左へよれよれ……
当然、そのピンチ(?)を見過ごせる早苗ではない。
「漏矢様! 只今加勢いたしま……」
「いいってば、もう」
「しかし!」
「……あのね、早苗」
常に陽気な神様にしては、珍しく凛と響く声。
真剣な顔で振り返られて、早苗は思わず背筋を伸ばした。
「あなた、さっき、『外の世界』で私と神奈子がいっぱい苦労したって言ってたよね?」
「は、はい」
「私たちだけじゃないでしょ? 苦しんでたのは、さ」
「……何と」
「もうひとり、自分の心を殺して、必死にもがき続けてきた人間がいる。さあて、いちばん可哀想なのは誰なのかしら?」
「……」
「私は、自分だけが幸せになったってちっとも嬉しくない。笑う時は、みんな一緒じゃないと意味がないの」
「申し訳ありません。おっしゃる意味が……よく、分かりません……」
「神の意思が分からない? 風祝のくせに?」
再び、無言。
「ごめん。なんか、さっきから意地悪ばっかり言ってるよね、私」
「……どうかお気になさらず。確かに私は不肖の身、まだまだ修行の足りぬことは自覚しておりますれば」
「はぁーあ」
深い溜め息と共に、諏訪子はゆっくりと頭を振る。
「ま、いいわ。こういうのって、言葉で押し付けても真の解決にはならないのよね。耳ではなく、皮膚を通して感得すべきものだわ」
「洩矢様、私はこの社の巫女として育ったことに何ら不満は……」
「うん、知ってるよ。早苗は本当に良い子。だから、口やかましく説教するような真似はしない。でも」
泣いているような、笑っているような……不思議な表情で、諏訪子は力強く言葉を紡いでいく。
「ふたつだけ、覚えておいてね。まずひとつ。私たちは、今の暮らしにとても満足している」
「そう……ですか……」
「ふたつ。あなたが私たちを愛してくれているように、私たちもあなたが大好き。それは、何があっても絶対に変わらない」
風が吹いた。
早苗が起こしたものではない。
二柱の神とひとりの人間のために幻想郷の果てから吹いてきた、秋のものとしては異例に湿潤な風だ。
「な……なんちゃってー!」
肩からずり落ちそうになっていた神奈子を再び担ぎなおし、諏訪子は慌てて早苗から目線を逸らす。
「やだな、まだ酒が残ってるのかな、私ちょっとヘンだ、何を血迷ってキャラにそぐわないこと言ってるのかしらああやだやだ恥ずかしいキャ-!」
神奈子の重量など有って無きがごとし!という勢いで、諏訪子は本殿へと飛び去っていった。
その暴走に激しく上体を揺られながらも全く起きる気配のない主人を見送りながら、早苗は掌の中の玉串を強く握り締めた。
そして、ふと、こんなことを思った。
神も、人と同じように夢を見るのだろうか?
憂き世を忘れる最後の手段である、夢を。
(続く)
神奈子に誘われて山の麓をぶらついていたところ、そいつが蛙を凍らせている現場に出くわしたのだ。
何してるのよあなた、私の眷属を虐待するなんて絶対許せない。
うるさいお前こそ何者だ、あたいの趣味に口出しするなんて百年早い、どうしてもやめさせたいと言うのなら……
勝負ね?
勝負よ!
とまあ、そんなこんなで。
「うおー、またやられちゃった! ケロちゃん強いわ! ちっちゃい癖にやたら強いっ!」
冷気を武器としながらも、性格の方はいたって暑苦しい妖精が興奮気味に叫ぶ。
「あははは、一寸の蛙にも五分の魂ってやつよ」
まんざらでもなさそうに、諏訪子は笑った。
霧の包む湖の上、宙に浮かぶ二者は互いに熱っぽい視線を送りあっている。
初対面時の険悪な空気はどこへやら、なんとも早い意気投合である。
弾幕をぶつけあっている間は、余計なことを考えている余裕がない。
自分の立場も、相手の素性も、何もかも忘れて、ただひたすらに弾を避け、弾を避ける。
ただそれだけの無為な行為を、純粋に愛することのできる者同士だからこそ…・・・
「まあ、あなたも一介のスダマとは思えないほどのパワーを持ってるけどね」
こうして種族の垣根を越え、互いを素直に賞賛しあうことも出来るのだ。
ふたりの心の琴線は、今、激しく共鳴しあっている。
「そうそう、あたいはただのスダマじゃないの……って、ちょっとケロちゃん!」
「はい?」
「あたいはスダマじゃなくて妖精だって、さっきから言ってるでしょ!」
「っとと。そうそう、ここではそういう呼び方をしなくちゃいけないんだっけ?」
「ケロちゃんは世間知らずで困るなぁ」
「あーうー……ごめんね、ここ最近ずっと引きこもってたから」
「その割にはイカす弾幕を使うじゃん! 最近の引きこもりはあなどれないわ! なのにあたいったら、うっかりあなどりすぎて5連敗もしちゃったよ……」
「え? 私、まだ4回しか勝ってないけど」
「違うよー! あたい、試合の回数を数えるのは得意なんだから」
「いや、だから、今のが4回目で」
「えっ? いち、にー、さん、ごー……3試合目の次は、5試合目でしょ?」
「……うーん…………ま、いっか。そういうことでも」
「よーし、それじゃ第7回戦いっくぞー!」
「頭の出来はとにかく……根性あるねぇ、あなた」
「おう! あたいは今、最高に燃えてるのさ!」
「燃えてる? 氷の化身のくせに?」
「細かいことは気にしない! さあさあやるぞ! 今すぐやるぞ!」
「ほんっと元気ね。ま、おかげで今日も退屈せずに済みそうだけど」
額に滲んだ一滴の汗を拭い、ふと、諏訪子は天を仰いだ。
うわあ。
いい天気。
二千年以上も昔の空の色が、ここではまだ活きている。
こうしていると、今は亡き王国の黄金時代を思い出すなあ。
あの頃、山の中に住む者たちは、人も妖も神も問わずみんな私と仲良くしてくれた。
毎日がお祭り騒ぎの連続で、とにかく愉しかった。
そう。
人間たちが「ミシャグジさま」と呼ぶ災厄どもが山に忍び寄ってくるまで、私は本当に幸せだった。
みんなを守るため、みんなの笑顔のため、私はそいつらと一生懸命に戦った。
なのに。
全ての「ミシャグジさま」を平らげ、揚々と凱旋した私を待っていたのは……
「おーい、なにボーッとしてるのさ」
「……ん?」
「あれあれ、もしかしてケロちゃん疲れちゃったのかな?」
「あっはは、ご冗談! 神たる私が、この程度で音を上げるとでも?」
「へへへ、それでこそカミサマよね! いい、次のスペルカードは取っておきよ? 甘く見てるとシモヤケになるぞっ!」
「それは楽しみだわ! さ、どこからでもかかってきなさいっ!」
神と妖精が仲睦まじく激突する様を、もう一柱の神は湖のほとりからぼんやりと眺めていた。
「バカみたい。と言うか、バカそのもの。バカ相手の遊びに、何を夢中になっているんだか」
揶揄に満ちた独り言とは裏腹に、神奈子の表情は実に穏やかだ。
当初の予定とは少し違った道筋をたどってはいるものの、『信仰』を回復するための計画は順調に進んでいる。
山の妖怪たちが幻想郷のいたるところに分社を建ててくれたおかげで、こうして新たなカモ……もとい信者を探しに山を降りることも、気軽にできるようになった。
かつてあれほど身を苛んでいた滅びへの焦燥は、今や神奈子の心中からはすっかり抜け落ちている。
加えて、諏訪子の笑顔を取り戻せたこともまた、大きな喜びのひとつである。
紅白巫女と黒白魔女の無作法コンビによって本殿の秘密が公然化された以上、彼女を陽光の届かぬ場所に隔離し続けておく意味は失われた。
(幻想の彼方への移住計画。文字通り、乾坤一擲の大博打だったけど)
神奈子は、勝った。
最近の人間の言葉を借りるなら、「結果オーライ」という奴だ。
(それでも)
ひとつだけ、懸念事項が残っている。
(神と妖精が同じ目線に立って戯れる、この光景。もし早苗が見たら……なんて言うかしら)
古い友人の心配を知ってか知らずか、諏訪子は優雅に宙を舞い続ける。
「うぎゃぎゃ!」
ピチューン。
爽快感あふれる撃墜音と共に、妖精は湖中に墜落していった。
「あ……モロに直撃させちゃった」
諏訪子は恐々と水面を覗き込む。
「ねえ、だいじょ……」
「ぬがーっ! これで⑨連敗だあああああああっ!」
諏訪子が心配するまでもなく、ざばん!
大量の飛沫を舞い上げながら、ものすごい勢いで妖精が水上へ飛び出してきた。
華奢な見た目に反し、なかなか頑丈にできている体である。
「うわっぷ! ……ひどいなぁ、私までビショ濡れだよ」
「あ、ごめん。冷たかった?」
「ん、ちょっと。でも大丈夫だよ、私は蛙の神だし」
「そっか。そうだったね。水、平気か」
「うん、ぜんぜん平気。て言うか、どっちかって言えば得意?」
「じゃあさ、弾幕ごっこはケロちゃんの大勝利ってことで……次は泳ぎで勝負しない? あたい、こう見えてもクロール得意なんだよ」
「ほほー。私の平泳ぎもちょっとしたものよ?」
「よし、ならば……」
「やりますか!」
言うが早いや、諏訪子は身を躍らせて水に飛び込……もうとして、何者かに襟首を掴まれた。
「ぐ?」
「はいはい、今日はこの辺でお開きよ」
神奈子だ。
いつのまに忍び寄っていたのか。
「えー、もうおしまいなのー?」
「そ。定例宴会の始まる時間よ」
「ちぇっ」
諏訪子は不服そうに口を尖らせた。
「何よ、ケロちゃん帰っちゃうの?」
「ごめんね、これから山でお酒の付き合いがあるんだ」
「そっかー、カミサマは大変だなー」
「そうよ、神は多忙なの。でも、またそのうち会いに来るから」
湖のほとりにある分社を指差し、神奈子は妖精に秋波を送った。
「あそこに小さな祠があるのが見えるでしょ?」
「ホコラ? ああ、あの粗末な木造建築物ね。凍らせて殴ったら一発で砕け散りそうなの」
「く、砕いちゃダメよ! あれが私たちの出入り口なんだから」
「ふえ?」
「私も諏訪子も、普段は山奥に住んでいる。麓に降りるときはあそこを通って来るのよ」
「どうして普通に山道を降りて来ないわけ?」
「だって、私たちは神だし」
「ん、ん、んんん? んー……」
妖精の頭上から、かき氷が溶けるような煙が立ち昇り始めた。
どうもこの妖精は、弾幕の展開は得意でも物事を深く考えることは苦手らしい。
あわてて何事かフォローの言葉をかけようとする諏訪子を、神奈子が目配せで制する。
「えと……えっと……」
「難しく考えないで。神とは、大概にしてそういうモノなんだから」
「カミ?」
「そう、神。簡単な話でしょ?」
「そ、そっかー! カミサマだからな! それじゃ、しょーがないよね!」
「うんうん。あなたは賢い子ね。それで、あなたにひとつお願いがあるんだけど」
諏訪子は苦笑する。
こいつのこういう所は、まほろばの時代から全く変わっていない。
「なぁに?」
「狭い道より、広い道の方が通りやすい。だから……」
「分かった、皆まで言うな! もっと大きくて立派なヤツに造り替えろっていうんでしょ?」
「正解! なんて頭のいい妖精なのかしら」
「えっへん! あたいったら天才ね!」
「じゃあ天才さん、あなたに改築を任せてもいいかしら?」
「うん! あたいの友だちを総動員して、すごいホラコをブッ建ててあげるわ」
「お友だちだけじゃなくて、お供え物もいっぱい集めてくれると嬉しいなぁ」
「おう! やってやろうじゃないの!」
腰に手を当て、胸を反らす妖精。
ニヤリと笑う神奈子。
肩をすくめる諏訪子。
三者の頬を、幻想郷の夕陽が等しく紅に染める。
真夜中の境内には、すさまじい量の瓶と甕とグラスと皿、さらに料理の食べ残しが散乱している。
酔い潰れて無体な寝姿をさらす妖怪も、そこかしこ。
この惨状の後始末をしなければならない掃除当番は、恐らく世界で最も不運な存在だろう。
ただしそれは、当番が『神通力』を持たぬ平凡な人間であれば、の話だ。
「毎晩毎晩、よくやるものねぇ」
消えかかっている篝火が微かに照らし出す巫女の表情は険しいが、その目にはまだ余裕の輝きが宿っている。
「さて、お仕事しなきゃ」
神奈子たちの誘いをいつものように断って社の中にこもり、精神を研ぎ澄ませていたのはこの時の為だ。
早苗は愛用の玉串を振るい、目の前の空間に清明紋を描き始めた。
「谷川を、時に及んで奔る風」
慣れた筆遣いが図案を完成させた途端、周囲の大気が早苗を中心に急速な勢いで渦巻き始める。
「その清げなる音をば聞け」
境内を突風が吹き抜けていく。
早苗が数度まばたきをする内に、一切はすっかり片付いていた。
風の向かう先は、山の中腹に建てられた河童のゴミ処理場だ。
不要になった道具は、そこでリサイクルされ、再び山の生活に役立てられることになる。
では、一緒に放り込まれた妖怪たちはどうなるのか?
早苗はその答えを知らない。
と言うか、あんまり想像したくない。
願わくば、酒癖の良い妖怪に生まれかわってくれることを。
「相変わらず美事ねえ!」
ぱちぱちぱち。
上空から拍手の音が降ってきた。
見上げれば、半月を背負った諏訪子がゆっくりとこちらに向かってくるのが見える。
彼女は酒宴の最中、弾幕の腕を盛んに自慢していた天狗に勝負をもちかけ、勝手に場を離れていた。
試合の結果は……まぁ、聞かなくても明らかだ。
ただ、これほど遅い時間まで諏訪子の興味を繋ぎとめていたのだから、大口を叩くほどのことはあったのだろう。
「荒々しいけど、同時に繊細でもある。好きだなあ、こういう吹かせ方は」
「風祝なれば当然の芸当でございます」
地上に足を付けた諏訪子に、早苗は深々と頭を下げる。
「早苗ほど上手に風を操れる巫女は、連綿たる東風谷の家系においても稀よ」
「……恐れ入ります」
「こいつがあなたに甘えたくなる気持ちも、分かるわ」
そう言って諏訪子は、銀杏の大木にもたれかかって寝息をたてている神奈子を横目で睨んだ。
「あちら側には」
やけに無感情な声で、早苗は訥々と語る。
「八坂様の御心を曇らせることばかりが満ち満ちておりました。それが、今ではこうして大いに安らいでいらっしゃる。神のしもべとして、これほど嬉しいことがありましょうか。そして八坂様のみならず、洩矢様もまた大変なご苦労を積まれた御方。この早苗、不肖の身ながら今後も尊き神々の御為に粉骨砕身の覚悟でお仕え申し上げる所存」
長口舌ではあるが、一片の迷いも含まれては居ない。
「あ、う……あはは、早苗は良い子だね! 文句のつけようがないぐらい!」
「風祝、なれば」
「ね、こいつに何か不満があるなら、ぶっちゃけちゃっていいんだよ?」
「そんな、滅相も」
「いいじゃんいいじゃん! どうせ寝てるんだし、今なら何を言っても聞こえないって!」
「八坂様に逆らう理由など、あろうはずが」
「ほんとに?」
「風祝……なれば……」
「ふーん」
諏訪子の口の中に、苦い唾液が湧く。
「いつも、どんな時でも……二言目にはそう言うよね」
「え?」
「カゼハフリナレバ」
早苗の真面目くさった口調を真似てみたらしいが、あまり似ていない。
黙りこんでしまった早苗に背を向け、諏訪子は銀杏に近づいていく。
「この酒乱女は私が寝所に放り込んでおくから、あなたはもう休みなさい」
「いえ……洩矢様のお手を煩わせるわけには」
「いーの、いーの」
よっ!と小さく気合を入れて、諏訪子は神奈川の腕を己の肩にまわした。
そのまま、真っ直ぐ本殿を目指して飛ぼうとするが。
「あーうー? なんか昔より重くなってない? おいしいもの食いすぎだっての、少しダイエットしろっての、こんにゃろめ」
身長と体重の差が災いしてか、地面すれすれを超低空飛行したまま、右へふらふら、左へよれよれ……
当然、そのピンチ(?)を見過ごせる早苗ではない。
「漏矢様! 只今加勢いたしま……」
「いいってば、もう」
「しかし!」
「……あのね、早苗」
常に陽気な神様にしては、珍しく凛と響く声。
真剣な顔で振り返られて、早苗は思わず背筋を伸ばした。
「あなた、さっき、『外の世界』で私と神奈子がいっぱい苦労したって言ってたよね?」
「は、はい」
「私たちだけじゃないでしょ? 苦しんでたのは、さ」
「……何と」
「もうひとり、自分の心を殺して、必死にもがき続けてきた人間がいる。さあて、いちばん可哀想なのは誰なのかしら?」
「……」
「私は、自分だけが幸せになったってちっとも嬉しくない。笑う時は、みんな一緒じゃないと意味がないの」
「申し訳ありません。おっしゃる意味が……よく、分かりません……」
「神の意思が分からない? 風祝のくせに?」
再び、無言。
「ごめん。なんか、さっきから意地悪ばっかり言ってるよね、私」
「……どうかお気になさらず。確かに私は不肖の身、まだまだ修行の足りぬことは自覚しておりますれば」
「はぁーあ」
深い溜め息と共に、諏訪子はゆっくりと頭を振る。
「ま、いいわ。こういうのって、言葉で押し付けても真の解決にはならないのよね。耳ではなく、皮膚を通して感得すべきものだわ」
「洩矢様、私はこの社の巫女として育ったことに何ら不満は……」
「うん、知ってるよ。早苗は本当に良い子。だから、口やかましく説教するような真似はしない。でも」
泣いているような、笑っているような……不思議な表情で、諏訪子は力強く言葉を紡いでいく。
「ふたつだけ、覚えておいてね。まずひとつ。私たちは、今の暮らしにとても満足している」
「そう……ですか……」
「ふたつ。あなたが私たちを愛してくれているように、私たちもあなたが大好き。それは、何があっても絶対に変わらない」
風が吹いた。
早苗が起こしたものではない。
二柱の神とひとりの人間のために幻想郷の果てから吹いてきた、秋のものとしては異例に湿潤な風だ。
「な……なんちゃってー!」
肩からずり落ちそうになっていた神奈子を再び担ぎなおし、諏訪子は慌てて早苗から目線を逸らす。
「やだな、まだ酒が残ってるのかな、私ちょっとヘンだ、何を血迷ってキャラにそぐわないこと言ってるのかしらああやだやだ恥ずかしいキャ-!」
神奈子の重量など有って無きがごとし!という勢いで、諏訪子は本殿へと飛び去っていった。
その暴走に激しく上体を揺られながらも全く起きる気配のない主人を見送りながら、早苗は掌の中の玉串を強く握り締めた。
そして、ふと、こんなことを思った。
神も、人と同じように夢を見るのだろうか?
憂き世を忘れる最後の手段である、夢を。
(続く)
ケロちゃんかわいいよケロちゃん
×幻想卿→幻想郷だと思われます
誤字。最後のほうの、神が加になってます。
誤字、直しました。
推敲中に全然気づかなかったなんて、あたいったら⑨ね!
頑なな早苗の心を溶かすのはいつになるのだろう。
って、あと三回? ここまで一回一回が短いだけに、それだけで果たして終わるのかとちょっと心配。
勿論続きも読みます。