「見てみろ、妹紅。月が綺麗だ」
「ああ、見てるよ、慧音」
訪なう者とてない竹林の、片隅に編まれた庵が一つ。
あるのは裸形二つ。
窓際で情交の汗も引かぬその肌を月光に晒すのは、一対の角と尾を持つ、ここ幻想郷ではさして珍しくも無い異形の少女。
褥に身を横たえるのは、銀髪の少女。その長い髪には、彼女を守るように、あるいは呪うように、数枚の呪符。
天に妖しく浮かぶのは満月。月光が艶めく肌を舐めていく。
「……月を見てると、あの憎ッたらしいツラが目に浮かぶよ」
「はは……喧嘩するほどとは言うが、お前たちは特別、加減を知らないからな」
「言うなよ……」
言いつつ、銀髪の少女が身を起こす。
窓際の少女のまろやかな曲線を描く体躯に比べ、窓から差し込む月光に暴かれたその裸形はひどく白く、微風にさえ吹き散らされそうなほどにか細い。
櫛を通さずとも常に絹の手触りを失わない髪が、褥の上にしゃらと流れる。その髪に無造作に指先を突っ込んでかき回す。
「ああ……そうやって自分の髪をぞんざいに扱うな。痛んでしまうだろう。せっかく綺麗なのに」
「相変わらず世話焼きだなあ」
「なにを言う。お前ががさつ過ぎるんだ。大体お前は……」
「慧音」
「何だ、まだ話は……」
「もっかい」
ぐい、と手を引き寄せる。あ、と声をあげて倒れ込む窓際の少女。
「けーねは、いい匂いがするなあ」
「……ばか。お前はいつもそうやってごまかす」
慣れた手つきで相手の少女の肌に指を這わせながら、銀髪の少女は熱を帯びた肌とはまったく別の、いつからか頭の中に居座っている冷たく冴えた部分で一人ごちる。
――ごまかすと言ったけれど、慧音。あんたもごまかしてるよね。ほんとは自分で気付いてるんだよね。
幾度目かの嬌声を漏らす自分たちを、モノでも見るような気分でその部分は見下ろしている。
――見た目が変わらないから気にならない? 本当は違うよね、慧音。頭のいいあんたが見た目なんかで騙されるはず、ないもんね。
上気した肌が桜色の染まるのを、紛い物を見る目でその部分は見下ろしている。
――慧音、あんたは、
組み敷かれた相手の少女が悲鳴に近い声を上げるのを、何も感じずにその部分は見下ろしている。
――死体に、抱かれているんだよ。
もうどのくらい前のことだったのか思い出せない。記憶が曖昧という意味ではなく、時間の感覚が希薄。
ちょっと昔? 少し昔? けっこう昔? それとも……。
どうでもいい。意味がない。
蓬莱の薬。
それがなんなのか、どういうものかなんて知らなかった。重要なのは、それを奪うことだったから。
なぜそんなものを口にしたかと聞かれたら、正直困る。私にも良くわからない。
……で、晴れて貴族の一人娘は不死身の怪物と成り果てた。
斬っても突かれても、焼かれても毒を盛られても死なない体に心が慣れたのはどのくらいたった頃かは覚えていないが、食事や睡眠の欠落も、私を死に至らしめることはないと知ったときのあの感じ……肩の力がすぅっと抜けていくようなあの感じは今でも覚えている。
食事も睡眠も……通常人が必要とするあらゆる全てを必要としない、いいや、それらから決定的に切り離されたと理解した瞬間、私ははじめて「死んだ」。
後ろを振り返ってみると、そこにあるはずの今まで歩いてきた道はどこにもなく、何も見えない暗闇がそこを支配していた。
前に向き直ってみると、そこにあるはずのこれから進むべき道はどこにもなく、何も見えない暗闇がそこを支配していた。
腹の中から臓物がごっそり抜け落ちたかのような欠落感とともに、私は理解した。
自分はもう、死人なんだと。
私は自分のことを死なない人間だと思い込んでいた……思い込んでいたかっただけで、その実人の形を保って人の言葉をしゃべるだけの死肉の塊なのだと、そう理解した。
落胆とか、怒りとか、嘆きとか……そういう人間的な感情はもうその時にはどこにもなく、ただ乾いた認識で「ああ、そうか」と理解した。
そのときからだった。どれだけ他人と接していても、笑っていても、怒っていても、自分の周りに膜が張っているように現実を遠くに感じ始めたのは。
だからこうして、誰かと肌を重ねていても、行為に没頭することがない。
全て分かっているのだ。この行為もただの真似事だということは。こうすることでわずかなりとも自分を偽ることができるから、こうしている。それ以外は何もなく、それ以上も何もない。
私は慧音のことが好きだ。だけれど、それすら真似事だということを私は知っている。
死体が一生懸命生者を演じる、滑稽で哀れな人形劇。
だから慧音、あんたが綺麗だといってくれるこの髪も、優しく触れてくれる身体も、みんな、みんな……
「……妹紅?」
はっとする。
乱れた吐息の中から自分の名を呼ぶ声に意識を引き戻される。
「なんでそんな顔、してるんだ……」
妹紅の頬に手を添えて、慧音は問う。
「顔……?」
慧音の言葉の意味するところを掴みかねて、妹紅は鸚鵡返しに慧音の言葉を繰り返す。
慧音は言いにくそうにややためらってから口を開いた。
「その……気を悪くしないでくれ」
「なに?」
「……死人、みたいな顔を、していた」
半瞬だけ自分が動揺することを期待したが、何も感じなかった。
その代わりに、意識せずに口をついて出てきた言葉があったことに暗い安心を覚える。
「じゃあ私は死んでるんだよ」
「も、妹紅……」
「死体が生きてるフリをしてるだけ。自分は死なない人間だから、どんなことがあっても生きていられると思い込みたがっているだけ。こうやってあんたを抱いてるのも、まともに生きてる人間の真似事をしてるだけ」
「急にどうしたんだ、何を言って……」
「死体なんだよ、私は。人間の真似をしてるだけの死体。たまたま生きてる人間に見えるだけの死体」
「や、止め……」
組み敷いた少女の悲痛げな表情の中に、わずかな怯えを感じ取る。なぜか浮かぶ嘲笑。誰に、何に対して?
構わず続ける。言葉が止まらない。このままだと何か致命的な一言を漏らしそうだと感じる気持ちを放置。
「気付いてるんだろ? 本当は。あんたは私のことが好きだから、気付いていないフリをしてるだけだ。私は人間じゃないんだよ、もう。人間が持ってる感情だとかそういう『たいせつなもの』ってヤツはもうとっくに擦り切れてなくなってるんだ。だから慧音……」
自らに刃を突き立てるように、笑む。「自傷行為」という言葉が脳裏に浮かんで消えた。
「例えあんたが死んでも、私は涙を流さないだろうね」
「……っ!
夜気に響く乾いた音。頬を張られても、さほど動揺はなかった。平坦に凪いだ気持ちで、涙を零しながら親の敵みたいに自分を睨み付ける瞳を見下ろしていた。
「……泣かせてやる」
食いしばった歯の隙間から、呻き声同然の言葉。次いで、今まで耳にした事のない怒号がその口から迸った。
「絶対に泣かせてやる! そんなことなんて二度と言えなくしてやる! 私が死ぬとき子供みたいに泣きじゃくるくらい、どうしようもなく楽しい思い出でお前を埋め尽くしてやる! 覚悟しておけ、ばかあっ!!」
子供みたいに泣きじゃくってるのはあんただろ……そう憎まれ口の一つも口にしたかったが、止めておいた。
――駄目じゃないか、慧音。真面目なあんたが、そんな嘘をつくなんて。
――でも慧音、騙されてあげるよ。あんたは優しいから、騙されてあげる。
――死体が涙を流すなんて、万に一つもありえないけれど、騙されてあげる。
――せめて、あんたが逝くまでは。
ちらり、と窓に目をやる。夜空には月。10年前も、100年前も、同じ済まし顔をしてそこにいる。
くすり、と笑みがこぼれて、妹紅は、あ、今のはちょっと自然だったかも、と思った。
訪なう者とてない竹林の、片隅に編まれた庵が一つ。
その庵が燃えている。
夜空に遠慮なしに炎を吹き上げ、竹林を照らしている。
燃える庵のそばに、一人の少女。
炎の照り返しを受けるそのおもては静かに凪いで、無言。
「死んだの?」
少女の背後から、声。
姿を現すのは、自らの影を引きずるような、長い長い黒髪を伸ばした少女。
「ああ、死んだ」
顔も向けずに返事を放り投げる。
「混じり物にしては、保った方かしらね」
鈴を転がすような卑しからぬその声はしかし、隠しようもない、否、隠すつもりもない倦んだ響きを含んでいる。
まるであらゆる豪奢を極め尽くし、この世にそれ以上を見出せなくなった者のような、何か決定的なものが磨耗した……死人のような響き。
「で、どう? お別れの感想は」
「さあ、ね」
肩をすくめて見せる。実感が湧かない、という訳ではない。慣れてしまっている、という訳でもない。
「それ」を、感じ取れない。感じ取るための手段がない。眼で音を聞けというようなもの。
そんなことは分かっていた。分かりきっていた。
「でも……」
「でも、なに?」
次に相手がどんな言葉を吐くのか楽しみで仕方がない、といった黒髪の少女の声音。
「もしかしたら、何かの拍子に泣いちゃうかも? なにせ断言されちまったからねえ。絶対泣かせてやるーっ、なんて」
「それはまた……」
くすくすくす、と笑みを零す黒髪の少女。
「珍しいものが見られるといいのだけれど。ここ最近、退屈でいけないわ。大抵のものは見てしまったし」
「お前には見せてやるもんかよ。もったいない」
背後の気配が含み笑いを残して消えるのを待ってから、少女は燃える庵に向かって呟く。
「けーねのばーか。うそつき」
呟きはごうごうと燃え盛る炎の熱気にあっさり溶けて、どこにも届かずに消えていく。
「……でもま、仕方ないからもう少しだけ騙されておいてあげるよ。あんたのへたくそな嘘の賞味期限が切れるまで、ね」
どこにも届かない呟きを溶かし込んだ熱気が、天へと昇っていく。
ぼんやりとそれを見送る。
「もしかしたら」
もしかしたら、なんて、絶対にないから、その続きは口には出さなかった。
――もしかしたら、あんた、うそつきじゃなくなるかも知れないから……ね。
しかし。しかし、それでもこの胸に残る感動は本物なわけで。
最後の一文で、不覚にも涙腺が緩みそうになりました。
あうあう!!
それとも、白沢が死ぬほどとなると妖の名のつくものですら軒並み、でしょうか
残る者の悲しみ、きついです。胸がぎりぎりします。拳を叩き潰すほどに。
それすらも薄くなる、蓬莱の長さとはどれほどのものなのでしょうか。