夕暮れの幻想郷。
澄んだ秋の空気を、夕暮れが真っ赤に染め上げている。
仕事を終えて我が家へと帰る人間達の中に混じり、里の周囲を散歩していた女性と少女が居た。
少女は、里からいくらか離れた草むらに珍しいものを見つけ、歓声を上げる。
「あそこに妖怪がいる!」
「ああ、あれはね……」
目立つ九つの尾を揺らして、八雲藍が町の周辺を測量していた。
測量をしては手帳に何か書き記し、満足げに頷いている。
「退治しなくて良いの?」
少女が手を繋いだ女性の顔を覗き込む。
女性は少女を見下ろし、穏やかな微笑を向け、告げた。
「大丈夫、心配は要らない。あれは、結界にほころびが無いかを点検しているのよ」
「結界?」
「うん、私達を守る結界……あの九尾狐は、賢いし、良い妖怪なのよ」
「良い妖怪なんだ!」
少女が嬉しそうに微笑み、測量を終えて飛び立とうとしている藍に向かって叫んだ。
「がんばってね!」
藍はその声に気付いて大きな耳をピクリと動かすと、振り返って少女に手を振る。
その表情は、優しい笑顔に溢れていた。
霊夢がなにやら長い巻物を床に広げ、とてとてと歩きながらその内容を確認していた。
「うーん……」
物置を漁っていたら出てきた家系図。
面白そうだと思って内容を検めてみたら、たくさんの名前の中に、全く同じ名前が一組だけ存在していた。
その他は全員、漢字はおろか読み方さえも違うと言うのに、その一組だけが完全に一致している。
もう死んでいる先祖達だし、今更確かめてどうなるものでもないのだが、一度気になるとなかなか頭から離れてくれない。
そしてもう一つ、その名が気になる理由があった。
「確か、こっちの代で大結界を作ったとか聞かされた気がするんだけど……」
横に広げた巻物の傍らにあぐらをかき、腕組みをして、必死に思い出そうとした。
博麗大結界を引いた巫女は、大偉業を達成した者としてその名を伝えられている。
しかし何故、三代目があの巫女と同じ名前なのか、霊夢にはその理由がわからなかった。
「そろそろ名前のネタが切れたのがこの頃だったのかな?」
そんな安直な考えで、霊夢は無理矢理自分を納得させてしまった。
「痛っ!?」
何者かにげんこつをされて思わず声を出してしまった。
こんなことができるのは紫ぐらいだろう。振り向くと案の定、そこには隙間から伸びた紫の拳があった。
「何すんのよ!」
「ご先祖様に失礼な事言わないの、人間の特権なんだから」
「何がよ?」
「私達妖怪は寿命が長すぎて、ご先祖様とか、そういう観念があんまり無いのよ」
「……どうでもいいけど、首だけ出して喋るのやめてよね。気味悪いから」
「はいはい」
紫が全身出てくるのを、睨みながら待ちつつ霊夢は不機嫌そうに尋ねる。
「で、何の用よ」
「特に。面白そうなことをしていたから見に来ただけよ」
導師服のしわを不愉快そうに伸ばしながら話す紫に、霊夢は釈然としない。
こんなものにそこまでの興味を示したのかと、床に広げていた家計図を丸め、ちゃぶ台の上に置いた。
「それ、家系図なんでしょ」
「あんたなら、別にこんなの見なくても知ってるんじゃないの?」
「私にも見せて」
「まぁ別に見てもいいけど、自分で片付けなさいよそれ。物置に」
「物置から出した覚えはないわよ」
「あんたが広げなおすと、私が物置に戻す気力が失せるわ。だから責任取りなさいよ」
「なんて酷いのかしら」
紫にとっては、まぁ丸めて隙間に放り投げるだけ、その先を物置につなげれば良いだけのこと。
そこまで霊夢に対してムキになることでもないと思い。今度はちゃぶ台の上に家計図を広げた。
霊夢は、特に面白いものでもないので茶でも入れてこようと、席を立った。
「いろんなことがあったわね」
霊夢が居なくなった事にも気付かず、紫は感慨に耽けり、呟いた。
――それは。
紫の願いが現実味を帯びたあの頃。
強力な式、強力な人間、そして強力な敵との出会い。
楽園を守るための要素が……運命の歯車が噛み合った日。
――夢の実現のために駆けた、はるか昔の記憶。
~妖怪の楽園~
いくつの冬を一人で越えただろう。
私には強力な結界の力が備わっているから、それを使って安全は確保しているけれど。
――そろそろ、一人身と言うのも……。
そんなことを考え始めた。
海の見える、小高い岬で一人……目を開くと、そこには優しい空の蒼があった。
「せっかく、式が打てるのにねぇ」
腰を下ろして……岬に埋もれていた岩に寄りかかる。
春の陽光はこのような大岩を熱するには弱すぎるようだ。背中にじわじわと、冷たい感触が伝わってくる。
日の光はあまり得意ではないけれど……ときどき早起きをして、日傘も差さずに浴びてみたくなる。
春の柔らかな光は、背にしている岩を温めるには不十分だったけれど、私の体を温めるには十分だった。
そのまま岩にもたれかかり、春の陽気の中でうとうととまどろんでいった。
■酒呑童子
異変に最初に気付いたのは、山に住む天狗達だった。
鬱蒼と生い茂る森の中で少女が一人、筆と紙の束を手に、慌しく駆け回っている。
「なんと……腕自慢の白狼天狗がひいふうみい……七人束になって、この有様なの?」
少女は眉をひそめ「むむむ……」と一つ唸ると、手にした紙の束に状況を書き記し始めた。
足元では血まみれの白狼天狗が苦しそうに悶えている。そして救いを求めるように、少女に手を伸ばした。
「あ、文……良いから手当てを……」
「良くないですよ、他の者達にも的確な警戒指示を出せるように、ちゃんとまとめなきゃいけないんですから」
「い、痛ぇんだってば……」
「痛いって言える内は命に関わらないから大丈夫ですよ。あ、救護班は呼んであるので、安心してね」
しかし腑に落ちない。文は筆の柄で頭をかきながら、眉をひそめた。
足元で自分に哀願の眼差しを向ける白狼天狗達の傷……見事に急所だけを外している。
唸る余裕の無い奴も数人いるようだが、それでも即座に死に至る状態ではない。
「誰にやられたんですか? 相手は一人?」
別の白狼天狗へと視線を向ける。
一番気になるのはそこ……そこが判れば、指名手配書の作成もできるだろうし。
とにかく、守るも攻めるも敵が判別してこそだ……しかし、白狼天狗達の返答はどうもはっきりしない。
「わからん……消えたり、現れたり、外見が変わったり……相当に高度な妖術を使う……」
「それぞれの姿に共通した特徴は?」
「最初は人間の姿だったんだ、人間が迷い込んで来たのかと思って、追い払おうと……」
「引っかき傷ですねぇ、噛まれた傷もある……妖獣の類かしら?」
しかし妖獣がこの界隈に侵入するとも考えにくい。
よほど頭が良いのか、それとも反対に頭が悪いのか……妖獣こそ、本能や嗅覚で山の天狗達を回避するものなのだが。
「で、それぞれの姿に共通した特徴は?」
会話を無理矢理引き戻す。
文はまだ新米の方だが、報道に対する情熱は誰にも譲らない。
同族をやられた怒りももちろんあるが、それよりも報道部隊としての魂が先に立つ。
これはきっと面白いネタだろう。まとめあげれば、仲間内での株が一気に上がると言うものだ。
「聞き慣れない言葉を話した……それぐらいしか覚えてない……」
「ん? 酷い訛りでしたか?」
「いや……」
そこまで言ったところで、文は救護に来た鼻高天狗に押しのけられ、地面に尻餅をついた。
「ちょっと……」と言いかけたが、下っ端の自分など眼中に無い鼻高天狗を見て、それ以上の言及は控えた。
(いずれにせよ……)
不愉快そうに鼻高天狗にガンを飛ばしながら、立ち上がって服の土を払う。
鼻高天狗達は仲間をやられたことを心底口惜しそうに、硬い表情で白狼天狗達に応急処置を施している。
(私達に喧嘩を売るとは、穏やかでないわね)
この場は鼻高天狗に任せると、文は風をまとって飛び上がり、霧のかかる山に視線を流した。
白狼天狗だけでなんとかできる問題なら良いが……七人束になって、あまつさえ手加減されているようでは話にならない。
大天狗辺りまではすぐに話が通るだろうが、天魔まで行ったら事だ。
(まぁ……最悪なのは……)
――あの方にまでこの話が聞こえ届いてしまったら……――
顎を上げ、山頂へと視線を向けるが、分厚い雲をかぶってしまっていてまったく視認することができない。
それはあたかも、そこに住む者の計り知れない力を象徴しているように感じた。
「ぁふ……」
珍しく夜更かし……いや、朝更かし? してしまったせいか、普段の起床時間に起きられない。
あの岬からの眺めは美しかったな、と思いつつも、頭の中に綿でも詰まっているようなこの感触はいただけない。
紫は緩慢な動作で布団に横たわり、しばらくはあの岬に行かないことを胸に誓った。朝更かしは辛い。
眠気は頭に詰まった綿へと、瞬く間に染み込んでいった。
気だるい心地よさが全身に蔓延し、取り留めのないことが頭の中で無限に広がっていく。
そんな混濁した意識の中で、今朝見た爽やかな青空を想った、その時……。
チリッ
脳に電気がはしるような感覚。
何者かが家の周りに引いた結界を穿ち、突破してきた感覚があった。
(やだ……またあの子? いっつも私が寝ているところに来るのよね)
長きに渡って人間を見てきたが、ついに強大な力を持つ者が現れた。
今が何代目だったか忘れたが……。
(今回の巫女も凶暴ねぇ)
なんとなく、喜ばしいような。
でも安眠妨害は勘弁してほしい。
(まぁ、来るまで寝ていようかしら)
秘めたる潜在能力は確かなようだが、いかんせんまだ若い。
あと数年、長く生きる紫にとってはあっという間だが、あと数年経てば……。
若く荒々しい霊気も落ち着いたものになって、精神的にも大人になる、退魔技術も研ぎ澄まされる。
(初代は人里に密着していたわね)
と言っても、山奥の田舎、寂れた神社の巫女。守るべき人里の規模も大したことはなかった。
里の規模に対して大きすぎる力だった。古今東西、様々な妖怪がちょっかいを出しては返り討ちに遭っていた。
里の外にまで積極的に出る方ではなかったが、里の守護には徹底していた。
里を愛する巫女だった、同時に、里の者からも慕われていた。
そんなことを考えているとき、頭の中に、チリ、と再びこそばゆい感触。結界がもう一枚破られたらしい。
以前よりも結界を破るのが大分早くなった。人間の成長の早さを感じる。
「ふぁぁぁ……」
引き直すのも面倒だ。
紫はごろり、と布団に包まった。あたかも、布団こそが最後の重要な結界であるかのように。
(二代目は乱暴な奴だったわね)
里の外にも積極的に出向く巫女だった。
まだ初代が健在だったからということもあるだろうが、里にはあまり密着していなかっただろう。
そう、初代と比べなくても、あまり里の中に閉じこもっている巫女ではなかった。
人間から見た正義感の強さなんて、妖怪から見れば迷惑な要素でしかない。
紫が『乱暴な奴』と呼ぶのも、その辺の視点の相違に起因する。
人間に言わせれば、正義感が強い巫女だった。もう少し里に腰を落ち着けて欲しいとも思われていただろうが。
(三代目は……ああ、今が三代目だっけ)
初代は少し前に死んだはず。
そっと最期を見に行った紫に、柔らかく、微笑みかけてくれた。何故かはよくわからなかった。
――私の血を受け継ぐ者達が困っていたら――
力を貸してやって欲しい、ということだった。
何故そんなことを妖怪である自分に頼むのか不思議で仕方なかった。
意外と、人間と言うよりも妖怪に近い存在だったのかもしれない。
彼女は一匹の妖怪も殺すことなく里を守り続けた。一度戦った妖怪に、何故か慕われる性質があった。
もちろん、人も里の中に居る限り一人も殺されなかった。彼女の周りには一切の血生臭さが存在しなかった。
――そんなところに立ってないで、一緒にお茶でもしましょうよ――
そう言われたときはおかしくて笑ってしまったっけ。
あれは、初めて彼女と戦った次の日のことだったと思う。
八雲紫! 出てきなさい!
「あーもう……お転婆ねぇ」
まどろむのもここまでか、紫は眉間にしわを寄せながらゆっくりと上体を起こした。
だがそれ以上は動こうとしない、放っておいてもあの巫女はここに来るだろう。
家の位置を知られたのは失敗だった、引越しも考慮しなければいけない。
重いまぶたを必死に持ち上げながら、混濁した意識の中でそんなことを思った。
そして、すぐさま。
乱暴に開けられたふすまの向こうに、お払い棒を握り締めた怒りの形相の巫女が立っていた。
肩を怒らせ、がに股で立っている。実に威圧的な態度だった。
「……何よ?」
しかし、寝起きの紫が彼女にかける言葉なんて、それぐらいしか思い浮かばなかった。
「良いこと? 結界って言うのはね」
「うー……」
寝ぼけていたので上手く加減ができなかった。
巫女は体に合わない大きさの導師服を身に付け、涙目でこちらを睨んでいる。
紫の手元にはぼろぼろになった巫女服、それをチクチクと弄ぶように修繕していた。
「あんたは、なんでそんなに結界を扱うのが上手なのよ……」
巫女は勝手に沸かした茶を啜りつつ、頬を膨らませて不機嫌そうに紫を睨み付ける。
彼女は「退治しに来た」と言うが、紫にはそうは思えなかった。
「生まれたときから使えるから知らないわよ、そんなの」
「ずるい……」
それ以上の言葉を失った巫女は、黙って湯飲みの底を眺め始めた。
そして、その視線のさらに先にある……自分が着ている導師服の膝元を見て、ふと疑問を口にした。
「これ、あんたが着てるのと違うわよね」
長すぎる袖を掴み、眼前に掲げてそう言う。
紫は手を止め、目をしばたたきながら答えた。
「なんで? 私だって着るかもしれないじゃない」
「それにしてはかび臭いじゃない、これ……それにあんた、何種類か決まった服を着まわしてるように思ったんだけど」
巫女は少しに不愉快そうに自分の腋辺りの臭いをかぐ。かび臭いということを言いたいのだろう。
そして首を傾げながら屈託無く紫を問い詰めた。
「誰か一緒に住んでたの?」
「……これから一緒に住む予定よ」
「何と?」
「式神」
「準備早すぎじゃないの? こんなにかび臭くなってる」
「別に良いじゃない、暇なのよ」
紫は巫女服に手をかざし、即座に修復して返した。
そして、縁側へと歩いて空を眺める。今朝に引き続き良い天気、変わることのない蒼がそこにあった。
「わざわざ針で直そうとしてたのも暇つぶし?」
「ええ……でもそろそろ眠いし、飽きたわ。帰って」
それから巫女は無言でお茶を二杯飲んで、神社へと帰っていった。
どうせまたそう遠くない日に襲撃に来るのだろう。
薄暗い森の中で一人、呻く女がいた。
よろよろと数歩歩いては腹部を抱えてしゃがみ込む。
外傷があるようには見えない、内臓に病でも患っているのだろうか。
その顔は紅潮し、額には汗が珠となって張り付いている。
女は気付いていないだろうが、周囲にはおびただしい数の白狼天狗が潜んでいる。
女を完全に包囲している。
ここは天狗達の縄張り。
そこに入るか、入らないかの境界を女は歩いている。
入り込んだり、出て行ったり……天狗達は目に見えない境界を視界の中に描き、そこを侵す女の軌跡を辿っている。
――これ以上入ったら、多少乱暴もしなければいけない――
わざとやっているのではないか……そう思うほどに、出たり、入ったり。
人間ならば脅かして追い払えば良いが、見たところ体調が優れないらしい。
ほうっておいて死ぬようならばそれで良い。わざわざ人里に連れ帰ってやる義理など無い。
天狗達が気にするのはただ一つ、彼女が敵か否か。それに尽きる。
ふら、ふら、と数歩、天狗達の縄張りに入り込んだのを最後に、女は倒れこんだ。
そしてそのまま、腹を抱えて震え始める。
――おい、いっそトドメを刺してしまわないか?――
一人の白狼天狗がそう提案する。
普段ならこの人間の健康状態に関わらず、すぐに飛び出して追い払う。
むやみやたらに殺す必要はない、追い払えば良い、縄張りであると知らしめられれば良いのだ。
むしろ、
「あそこは天狗の縄張りだから踏み込まない方が良い」
と、他の人間達に伝えてくれた方が都合が良い。余計な血が流れずに済む。
それができないのは……。
「おい娘、悪く思うなよ。どうせその様子では長くもつまい。楽にしてやる」
「ぅ~……ぁ~……」
――おいっ――
気の早い白狼天狗が一人、女に歩み寄って話しかけた。
女はそれに答えない。ただ小さく呻くのみである。
「それにしても、よくもそんなナリでここまでこれたものだな。とても山に入る装備には見えないが」
そうだ、おかしい。
おかしいから、様子を見ていたのに。
「そいつから離れろ!」
数匹の白狼天狗が飛び出し、女に襲い掛かった。
しかし女はまるでその瞬間を待っていたかのように、大地を蹴り押して高く跳ねる。
その瞬間、鈍い音が響いた。飛び掛った白狼天狗達、ある者は腕が捩れ曲がり、ある者は膝関節が逆方向に曲がる。
飛び掛った白狼天狗達は皆、手傷を負わされ、跳ね飛ばされた。
「思った通りか……かかれ! やつだ!」
「面妖な!」
「おのれ! どこへ行った!?」
刹那、その周囲は恐ろしい濃度の妖気に包まれる。
それは源を辿ることすら難しいほどに濃厚で禍々しい。白狼天狗達は瞬時に混乱に陥った。
随所から、潜んでいた白狼天狗達の悲鳴が上がり……次々に樹から落とされていく。
だが、誰も致命傷を負っていない。
「他の仲間達も、こうしてやられたか……」
「喋っている場合か! 上空に上がるぞ!」
肉体に恃むこの手口、妖獣だろう。
しかしあそこまで完璧に人に化け、天狗達を騙すとは……知能も桁外れらしい。
「ふぅ、ふぅ……」
上空へ上がった数匹の天狗は、背中を合わせて四方八方に意識を飛ばした。
森の中からは未だに悲鳴が上がり続けている。逃げ遅れた者達は皆、生殺しにされて土を噛んでいるだろう。
「おのれ! おちょくりやがって!」
「やめろ、行くな! 森の中で勝ち目は無いぞ!」
「ならば黙って見ていろというのか!?」
「聞け! 俺には、奴の正体がわかったかもしれん」
「……?」
いきり立って森の中へ戻ろうとする仲間の腕を掴み、一人の白狼天狗が語り始める。
しかし話し始めるや否や、森の中の悲鳴が途絶え……宙に浮く白狼天狗達に向かって、無数の光線と光の弾が飛んできた。
油断しきっていた彼らにそれを避ける術は無かった。
「ふむ……私も聞いたことがありますね」
今回の被害は、負傷者五十三名、死亡者零名。
もはや手加減されているのは明白、おちょくられている、と憤る者がいるのも無理はなかろう。
射命丸文は新しい騒動に怒りを覚えつつ、それよりも話の行く末が気になって仕方がない。
相変わらず、筆と紙の束を抱えて負傷者の周りをちょろちょろと駆け回っていた。
敵の姿を見たという者はやはりいない、しかし、面白い話が聞けた。
この手口、ある動物の狩猟法に酷似している。という者がいたのだ。
そしてそれは文自身にも聞き覚えのある話だった。
「狐」
白狼天狗はそう呟く。
逃げ足の速い小動物が狐の入り込めない穴倉に潜り込むことがある。
そこで狐が行う狩猟法は、その穴倉から離れたところでもがき苦しむフリをするというものだ。
興味を持った獲物がそれに気を奪われているところへ、徐々に距離を詰め、捕獲する。
(目的は何なのかしら)
五十三名でも話にならなかったようだ。
前回、七名なんて……赤子の手をひねるようなものだっただろう。
手加減、わざとらしい狩猟行動。弄ぶことで己の力を誇示し、天狗達を猛烈に威嚇しているのだろうか。
「……そんな、四面楚歌の状況で」
こうなってしまっては、上に話が届くのも時間の問題。
危険だが少し縄張りを離れて行動してみよう、と、文は一人で頷いた。
――妖狐――
話には聞いたことがあるが、実物を目にするのは初めてだ。
こんなことをしていてはいつか火傷をするかも知れないとは思うが、好奇心を抑えられない。
取材に協力してくれた白狼天狗達に深々とお辞儀をし、文は大地を疾走してから風に乗って大空へと舞い上がった。
しかしそれから数日後。
文の好奇心さえも上回る戦慄が、妖怪の山を駆け巡った。
「天魔様が……?」
今度は正面を切って侵入してきた例の「狐」が、山の奥地まで一気に踏み入って天魔に傷を負わせたらしい。
文は震えが止まらなかった、まさかそこまでとは。
「ああ、だが天魔様も黙ってはいなかった」
「……周りに、大天狗も何人か居たんですよね?」
「居た。三名居たらしい。彼らは真っ先にやられたそうだよ」
筆と紙束を落とす。
これは事件なんて生易しいものではない、天狗達の文明の危機だ。
文が外出中、他の鴉天狗達が情報をまとめたらしい。
淡々と語るその鴉天狗は、文の落とした筆と紙束を拾い、埃を払ってから突き返した。
それから、自分の集めた情報をまとめた紙を文に手渡す。
「やっぱり、狐だったんですね」
「天魔様の見たところ、尻尾が九つもあったそうだ……最強の妖狐だよ」
「九尾ですか」
海を越えた遠い大陸に、かつて、妖怪の最高峰として君臨していた、と聞いたことがある。
一匹なのか、それとも複数存在するのかは知らないが……。
「あ、そういえば」
「どうした?」
「最初襲われた白狼天狗が『聞き慣れない言葉を話した』って言ってたから……」
本当に海を渡ってやってきた妖怪の恐れがある。
そうであれば、突然現れて暴れ始めたのも納得が行く。
「しかし、何のつもりだ。この国の妖怪を排除するつもりか?」
「私もそこまではわかりませんけど……」
流石に、天魔と大天狗数名にかかっては敵わなかったらしく、その九尾は手傷を負って逃げ去ったらしい。
そして。
「天魔様は、この話を鬼神様に通すことを決定した」
「大事件ですね」
「我々も精鋭部隊を編成して排除に当たることになった、山を出ることになるだろう」
「……」
山の頂上に住む鬼。
文字通り山の妖怪の頂点に、神と同列に崇められ、君臨している。
それだけでなく、天狗の精鋭部隊も出動するとなれば、生きてこの国を出ることはできまい。
(でも本当に、なんで私達を襲ったんだろう?)
そう、手加減したのは何故なのか。
本当に天狗達を脅かしたいのであれば、目に付いた者を皆殺しにするぐらいで良いはずだ。
縄張りをかすめるように移動していたというのも気にかかる。
何か他に伝えようとしていることがあったのではなかろうか?
自分は新米だから、直接的にこの戦いに参加することはないだろう。
しかし、やはり文はじっとしているのが嫌だった。
(私だって、鴉天狗のはしくれですから)
紙束を強く抱きしめた。
恐怖の感情の方がやや勝っているが、それでも探究心、好奇心は抑えられない。
是非とも、事の顛末をこの目で確かめたい。
翌日から文の情報収集が始まった。
諜報を主な任務とする鴉天狗の中には、グループで行動する者とそうでない者がいる。
文は後者に属する、そしてこれらの分類には、鴉天狗の性格の違いがよく現れていた。
集団での情報収集を主とする鴉天狗達は、保守的な性質を持つ。
危険を極力減らし、確実に、組織的に情報収集を行い……それを上司、大天狗や天魔に報告する。
仲間への貢献度が高いことから信用厚く、うけが良い。
対して文の属する一匹狼の天狗は自由奔放で、危険な事件や、誰も目に留めないような事件を好む。
それらの情報は必ずしも天狗達の社会に役立つとは限らないので、こちらはあまり仲間内でも相手にされない。
似たような天狗の間で集めてきた情報を自慢しあったりするのだが、周囲からは冷めた目で見られることもあった。
単体での戦闘能力が高いのは言うまでも無く後者である。
どんな災難に襲われようともそれを自力で退けなければいけないため、必然的に高い能力を備えていく。
「すっかり、姿を消してしまったようね」
山の周囲を飛び回り、道行く妖怪に話を聞いてみたりしたが、妖狐の新しい情報は全く無かった。
天魔を襲う前の情報はいくらか集まったが、直接戦った白狼天狗達の情報に比べると、あまり参考にはならない。
だがそれは、逆に考えればあれ以来山から姿を消した、という事実を浮き彫りにする。
高度な妖術を扱うようだし、その気になれば隠れ続けることも可能なのかもしれないが……。
――この界隈から姿を消して……他の所を襲っているのかな?――
件の妖狐が、本当にこの国の妖怪の排除を目的としているならそう考えるのが妥当な線だ。
しかし文の心の中には、そう思いつつもどこか納得の行かないものが残る。
どうも、あの妖狐の目的は違うところにあるような気がしてならない。
文の知らないところで、同じように他の天狗達も、姿を消した妖狐の情報を掴めずにやきもきとしていた。
(少し、遠くへも足を伸ばしてみよう)
山の側から徐々に行動範囲を広げて行けばいつか情報に辿り着くだろう。
山を中心に、円を描くように……少しずつ、妖狐の行方を絞り込む。
足の速さには自信がある。
――この事件は私のものですよ――
悔しがる仲間達の顔が頭に浮かんだ。
どれだけ危険なことかなんて、わかっている。
いつの間にか文の恐怖心はすっかり消え去っていた。
しかし、文のみならず他の天狗達の努力は、その後三年間報われることは無かった。
閉鎖的な天狗達がいくら足を伸ばしたとして、完全な死角となっていた箇所があったからだ。
日の落ちた神社の境内に二人。紫は縁側に腰掛け、巫女は紫に背を向けて境内に立っている。
まだ山際にはかすかに日の光が、強い赤みを帯びて粘り付いている。
「里の人から聞いたんだけどね」
「ええ……」
紫が背後から眺める巫女の背、成長期を経て大分高くなった。
あれから三年、幼く、腕白だった巫女もいくらか落ち着いた。
そんな巫女を見て、初代に似てきたように思う。紫と目を合わさず、空を眺めながら語る所など本当にそっくりだ。
だからこそ、不意に目を合わせて話しかけてくるとき……えも言われぬ威圧感に、思わず身構えてしまう。
それはまさしく巫女らしく、神託でも語るように、厳かな様子だった。
「なんでも……京に、ものすごい美女が現れたらしいわよ」
「そうなの、どれぐらいなのかしらね」
「さぁ? 私はあんたほどじゃないと思ってるんだけど」
「まぁ、お世辞がお上手」
「お世辞じゃないわよ。そういうこと言わない性格だって、わかってるでしょ?」
「本当に正直者ね」
「あんたの分まで、正直に生きようって思ってるのよ」
皇子に見初められて宮仕えしているから、その噂が本当かどうかは不明らしい。
とはいえ、宮仕えを始めた経緯を考えれば不美人であるはずはないだろう。
「妖怪は、時に人間を魅了しなければいけないの。だから大体の妖怪は美しいのよ……残りは完全に逆、異形なの」
「ふーん。けど美しさの基準なんて、時代によりけりじゃない?」
「そういうときは、顔を変えます」
「ずるい」
紫の中に良い予感があった。
そして巫女は振り返り、紫の目を見て次の言葉を呟く。
「人を魅了するために美しいのね。なら、その美女とやら……妖怪じゃないかしら?」
「貴女もそう思うの?」
紫に向けられる……神々しい、巫女の視線。
予感は確信へと変わる。
天狗達が妖狐の行方を掴めないのは……京、皇子の元へと、人に化けて隠れたから。
あれだけ天狗達に対して挑発的な行動を取ったというのに、そこまで徹底して隠れた理由は不明だが。
「でも、京にも陰陽師か何かいるでしょ。相当な手だれでしょうし、見落とすとは思えないけどね」
巫女も縁側に腰掛けて、そこに置いてあった冷めた茶を啜りながら笑う。
その目つきは、既に普段の少女の目に戻っていた。
けれど紫にとって疑うべきは、もう一つ裏である。
「相当な手だれが見落とすほど、人に化けるのが上手だったらどうかしら?」
それについて巫女は何も言わなかった。
表情一つ変えない……本心では紫と同じ考えなのだろう。
もしくは勘かもしれない。
その可能性が高い、と、不確かな感覚がそう告げているのかもしれない。
「こんな田舎の巫女に負けてるようなら、京の神職者も大したことないわね」
「まったくね、そうでないことを祈るわ」
そう言ってクスッと笑い、紫は縁側から飛び降りて服の埃を払った。
「今日はもう帰るわ、早起きしたから少し眠いの」
「早起きって……ま、良いけど」
山際に張り付いていた赤い光も、既に地平線の彼方へ滑り落ちている。
巫女は裂いた空間へともぐり込む紫に『おやすみなさい』と一言告げ、神社の中へと戻っていった。
同時刻、天狗達の住む山の頂上。
「ふーん」
少女は大きなひょうたんをしきりに傾けながら、跪く天狗達を面白く無さそうに見下ろしていた。
単に少女と言っても、その頭には二本の巨大な角が生えている。それは山の主、鬼だった。
「もうほぼ全国見回ったのですが、未だに見つかりません」
「ほんとに?」
「ええ……嘘ではありません」
不愉快そうに目を細め、少女は天狗を睨みつけて……。
「人里は見たのかな?」
強い語気で、そう問い詰めた。
それを見て天狗達は萎縮し、額に脂汗を浮かべる。
「いえ、人里は見てませんが……」
「全国見てないじゃん。うそつき」
「すいません!」
「ま、いいよ。それがあんた達にとっての『全国』だったんでしょ?」
少女は怯える天狗達を見て、赤ら顔でからからと笑った。
天狗達……と言っても、中には大天狗も混ざっている。
大天狗ですらこの扱い、それこそが鬼神と天狗の地位の違いを表していた。
そして不意に笑い止むと、少女は据わった目で天狗達を見回し、小さく呟いた。
「人間のところに居るよ。それも、京にいる」
「え……」
「わかってはいたんだけどさ、あんた達が頑張ってるからなかなか言えなくて」
「それは……」
「言ったとしても、あんた達じゃ人里に降りないだろうし」
「人間との接触はできるだけ避けたいので……」
「だろうね。正直で良いと思うよ」
「はぁ……」
少女は最後にひょうたんの中の酒をぶっきらぼうに呷ると、ふらふらと立ち上がった。
天狗達はその一挙手一投足に目を見張っている。
「よーし、京に降りるかー」
「えぇっ!?」
「どんな奴か、見てみたくなった」
「危険です! 我々が行きますから!」
「良いよー、無理しなくて。それに……」
少女はひょうたんを肩に担ぎ、天狗達に視線を向ける。
あまりにも鋭いその目つきは、本当に泥酔しているのか疑わしく、天狗達は揃って震え上がった。
「面白そうだしね」
京に降りるとは行っても、今すぐに出かけると言うものでもない。
少女は、大きなひょうたんを担いだまま千鳥足で、進むでもなく、戻るでもなく。
天狗達はそんな少女の動きに目を見張っているが、少女自身は特に何をするでもなく……
立ち上がったは良いものの、どうするべきか思案している様子だった。
「知ってる?」
「はあ?」
言いかけて、首ががっくん、と大きく揺れた。
天狗達は何を言いたいのかわからない少女の行動に慌て、怯えることしかできなかった。
いずれ少女は寝そべって居眠りを始めた。
一見すれば単なる酔っ払い少女に過ぎないが……鬼まで出動するとあっては剣呑。
天狗達も本腰を入れてこの事件に臨まなければならない。
妖怪の山、そして、京。
人間を巻き込まずに済ませることは不可能だろう。
普段、天狗の領地に踏み込んでは手痛いしっぺ返しを受け続けていた人間は、
逆に天狗が自分達の領地に踏み込んだとき、どんな反応をするのか。
きっと、穏やかには済むまい。
そこに……さらに、鬼まで加わると言う。
ただの一人とはいえ、鬼の持つ力はその姿形から想定される次元を遥かに超越しているだろう。
あれほどの大きな妖力を持つ鬼が動けばすぐにわかる。しかし山から出た気配も無いのに妖狐の位置を探り当てていた。
天狗達には、少女が使ったからくりがまったくわからない。知慧一つとっても並の天狗とは桁が違う。
(少数精鋭で行こう。人間と、ことを構えたくはない)
(ああ、やつらの絶対数と繁殖力は馬鹿にできん)
(だが、鬼神様が混ざるとあれば……)
天狗達の心中も穏やかではない、自分達よりも高位の存在とされている鬼……。
その鬼がこの騒動に加わってしまっては、完全に主導権を握られてしまうだろう。
邪魔をすれば、その場で破砕されてしまうこともありうる。
(鬼神様の出方を見てから方針を決めるか……)
よりにもよって、人間最大の城、京に陣取るとは。
あえてそこを選んだ妖狐の知恵、嗅覚……やはり末端の白狼天狗ごときではどうしようもなかっただろう。
手を打つのがあまりにも遅すぎた、と後悔するほか無かった。
京に降りるとは言ったものの、少女はそれ以来もしばらくは山の頂上で飲んだくれていた。
いや、飲んだくれているように見えた。
再び天狗達の幹部が集まり、対策会議が繰り返されることになるだろう。
少女は妖狐の様子を山の頂上から探りつつ、天狗達の戦いを見て楽しむつもりなのかもしれない。
そして天狗達が敗北すると予測しているのかもしれない。
その後、絶好の頃合に横槍を入れようと目論んでいるのか。
山の頂上、雲さえもそうたやすくは昇れない高み。
「百鬼夜行も久しい」
まさに高見の見物、鬼の少女……伊吹萃香は岩に腰掛け、ひょうたんを傾けながらぼつぼつと呟く。
勢力を増し知能をつけた人間は、妖怪を恐れなくなり、神を疎んじる。
そんな気配を感じるたび、萃香は危惧を覚えた。
かつての人間は極端に弱い者か、極端に強い者の二通りだった。
弱い者は攫って食ったりもしたものだが、その後、恐ろしく強い人間が復讐に来る。
今住むのとは別の山を拠点とし、京に幾度も襲撃をかけたこともあった。
強い人間、まさに超人とも言える人間と死闘を繰り広げることは最高の楽しみだった。
そういう人間は、勝利しても殺さずにおいたが……皆、寿命で死んでしまう。
たくさんの人間に知恵だけを授け、伝説となってしまう。
授けられた『知恵』は凡人に誤解され、再び現れた鬼に降りかかる。
萃香は、面白くもない『弱点』などという物で、人間が自分を退治しようとしているのを見たとき、
まともにやり合う事に虚しさを感じた。
(豆やら鰯の頭やら、そんなもので本当に鬼の首が獲れると思っている。相手にするのもバカバカしい)
確かにいくらか苦手とするものはあるが、けして致命的な弱点ではない。
麓へと視線を落とすと、遥か遠くで天狗達が慌しく飛び回っている。
鬼である自分が大騒ぎを起こす前にこの問題をなんとかしようと、七転八倒しているのだろう。
妖怪としては強力な種族である天狗も、強烈に殴りつけ、このように従わせてしまった。
――楽しみね――
口の端を歪め、思い切り酒を呷る。
大陸から渡ってきた最強の妖狐、九尾狐。
その噂は聞き及んでいる。かつて大陸の皇帝を骨抜きにし、国を滅茶苦茶に荒らしたと。
今回の狐がそれと同一の個体か否かは現時点では不明だが、いずれにせよ面白い勝負ができそうだ。
(天狗に負けないでよ?)
萃香はひょうたんを脇に抱え、岩を背に寝息を立て始める。
九尾との戦いを期待するその寝顔は、子供のように無邪気だった。
~~~~~~~~~~~
木々が鬱蒼と生い茂る山の中腹、ひときわ大きな樹の下に鴉天狗達が集められていた。
その巨木が日光をさえぎり、ただでさえ霧がかった山の中腹はまるで夜のような闇に包まれていた。
そして大天狗が乱雑に並ぶ鴉天狗達を指差し、これからの動きを指示している。
「京の周囲を哨戒し、狐に動きがあったらすぐに報告しろ」
射命丸文も当然そこにいる。自由に動くことが多いとはいえ、本当に無所属というわけではない。
それでも、まだ下っ端だから勝手に動いてもあまり気に掛けられなかった。
だからこそ自由に動き回れたのだが、今回はむしろ、他の鴉天狗からの情報を得るためにこの場に参加している。
「京に居るっていうのは確実な情報なの?」
「さぁ、誰も見た者はいないみたいよ」
「へ? 何よそれ」
文と似たような格好の鴉天狗の少女、髪は文よりいくらか長い。
その少女に質問を投げかけた文は、的を射ない返答に耳を疑った。
「じゃあなんでこんな集会をしているの?」
「鬼神様からの情報らしいわ」
「……なるほど」
普段は酒飲み仲間のようなものだが、天狗と鬼、両者の心の奥底には大きな隔たりがある。
超えてはいけない一線、とは言えもとより陽気な性格の鬼だから、酒の席での多少の狼藉は気にしない。
だがこういった厄介事が起き、組織として動く場合は鬼の意見は絶対である。
そして「件の狐は京に居る」という伊吹萃香の情報は、間違いなく事実だろう。鬼は嘘を嫌う種族だ。
「おい、そこ、聞いているか?」
「はい?」
「……これだから新米は」
「す、すいません」
文は少し前ようやく山から出ることを許されたばかり、大天狗は呆れた様に眉をしかめる。
「お前のような新米は変に勇気があるからよく注意しろ。京に近づいても人間には見つかるな」
「……はい」
(京に近づかずにどうやって見張るのよ……狐が京を出てから報告に戻ったって、
その足で山に向かわれたらどうしようもないじゃない。天狗と比べてどうかはわからないけど……)
それだけの力を持つのならば、移動力もそれ相応の水準を誇るだろう。
鴉天狗は特に飛行速度に優れるが、それを凌駕していたとしたら奇襲を受けることになるのだ。
(まぁ、今更攻めてくるとは思えないんだけどね)
不自然な手口が目立つ今までの襲撃、そしてよりにもよって難攻不落の京に身を置いたこと。
それらが導き出す答えは、天狗との戦闘回避以外に考えられない。
つまり天狗が今やるべきは、迎撃ではなく報復。
狐を京から引きずり出し、痛い目を見せるのが目的。
「一応お前達にも伝えておく」
大天狗の口調が変わる。それは伝令を終え、少し余談でも語るような素振りである。
鴉天狗達も引き締まっていた表情をかすかに緩め、その言葉を傾聴した。
「鬼神様が京に降りる前に我々で決着をつけたい。それゆえ京の包囲を余儀なくされた。
白狼、鴉、鼻高……種族問わず精鋭が選ばれ、然るべき日に京へ襲撃をかける予定だ」
(なによ、別に面白くもない。わかってるわそんなこと)
文は目を細め、つまらなそうに鼻からため息をついた。
以前から出ていた話だ、何を今更蒸し返す必要があるのか。諜報部隊である自分にはあまり関係ないし。
「だが、最後の襲撃で天魔様や数名の大天狗とやり合った事を考えると、大天狗でも並の者では歯がたたん」
文は思う。
天狗の社会において、権力と腕力は必ずしも正比例しない。
もちろん、天魔や大天狗の地位に就くにあたっては腕力もそれ相応でなくてはならないが。
実情は、役職こそ無くとも知力に特化している者や腕力に特化している者、様々である。
一つの技能に関して天魔や大天狗などの役職者を上回る者は、少なからず存在した。
「今回精鋭部隊を指揮する者として、かつて大江山で鬼神様と共に戦った……」
文はその名前を聞いて鳥肌が立った。洒落ではない。
それは軍事に秀でる者。
一応は大天狗の役職を与えられているが、ある事情から天狗の中でも評判はあまり良くなかった。
かつて京と外界の境、大江山を拠点とし、伊吹萃香の片腕として妖怪達の指揮を執った。
武力で言えば間違いなく天狗達の最高位に位置する大天狗だった。
久しく戦も無く、今は妖怪の山を離れているそうだが……それは真実、隔離に近い処遇であった。
(本気で……戦う気なのね)
確かに、天魔にまで手を出されたのだから仕方ないと言えば仕方ないが……。
そこまで大騒動にして余計な問題が勃発しないかと、心に不安がよぎる。
「絶対に彼らの邪魔をしないように。巻き込まれて死んでも、誰も骨は拾ってやれんぞ」
諜報部隊、鴉天狗。
飽くまで諜報に徹さなければ、味方にやられてしまうこともあり得るのだろうか。
(殺伐としてるわね)
新米が背負うには重過ぎる問題だが……。
(もう少し、勝手に動かせてもらいます)
そのとき、短い剣と小さな盾を手にした、幼い白狼天狗が上空を飛び抜けていった。
まさに総動員、事態は天狗達の威信を掛けた総力戦へと膨らんでいく。
■崇徳の大天狗
三年前。
華やかな京の都に……全身は傷だらけ、高熱を出し、話すことすらままならない少女が現れた。
朝方右京で発見されたとき、少女は虫の息で路地に倒れこんでいたという。
そしてそのまま医者に拾われ、目を覚ますのを待つこととなった。
しかし目が覚めた後も少女は黙して語らなかった。
体力は取り戻したようだったが、余程衝撃的な出来事にでも見舞われたのか。
三日間ほど、ただただ書を読み……患者が居るときは、医者との会話を興味深そうに聞いていたという。
そして、少女はその後突然言葉を取り戻し、
「山菜を採りに行った所、天狗に襲われて母を失った」
と語った。
名を尋ねると「藻(もくず)」と名乗った。
「はぁ~っ、あっついわねー」
季節は夏へと移り始めていた。
神社の境内で、心底憂鬱そうに掃除をしている巫女の額には珠の汗、それは強い日差しを受けて輝いている。
そして恨めしそうに縁側を振り向くと、そこには冷水を満たした桶に足を浸す、紫の姿があった。
「ちょっと! 入り浸るんなら掃除ぐらい手伝いなさいよ!」
「それも修行だと思いなさいな。全ては集中力が物を言うの」
ちゃぷ、と水面を蹴り上げ、紫が太陽のように笑う。
それを言われて、巫女は一層不愉快そうに眉をひそめた。
(それにしても)
最近紫が頻繁に姿を見せる。態度こそいつも変わらないが、何か不吉に感じた。
夜のみならず、今日のような昼間に姿を現すようになったことにも、何か理由があるのではないだろうか。
紫は物事を遠回しに訴えるきらいがある。
そういえばこうも姿を現すようになったのは、少し前、京に現れた美女の話をしたとき以来ではないか。
そして、紫は巫女の心を見透かしたように呟く。
「貴女、修行しておいた方が良いわよ」
「……なによ?」
その薄ら笑いを見て背筋に悪寒がはしった。
態度も馴れ馴れしいし、忘れかけていたが……あれは妖怪、巫女にとっては確実に仇となる存在だった。
祖母とも母とも一戦交えているという。
祖母も母も、もうこの世には居ないから確かめようが無い。
だが自分と戦ったときの紫は、明らかに本気ではなかった。
「何を企んでいるの?」
「さぁ、企んでいるのは私ではないわ」
「はぁ? はっきり言え」
「山と空、騒がしいと思わない?」
「……はぁ~っ」
無垢な笑顔にごまかされるわけにはいかない。
(あんたも感じてるのね)
遥か彼方の地……そう、それは京の辺りかもしれない。
ある一点を取り囲むように、無数の妖気が蠢いているような感覚がここ最近続いている。
思い過ごしであると思いたかったが、どうやらこれから一騒動起きるらしい。
(ここから感じるほどなんて……)
紫にしたってそうだが、大物妖怪であろうと普段から居場所がわかるほど妖気を垂れ流すものではない。
そんなに垂れ流されたら、それを感知できてしまう巫女にとってはたまったものではない。
普段は近辺に感じる妖気を追跡し、小物をいじめ……もとい、懲らしめる程度だが。
こうも無遠慮に存在を主張しているというのは、まるで威嚇や挑発である。
「玉藻前って言うらしいわ、すごく美人らしいわよ?」
「だから……いきなり話を変えないでよ。何のこと?」
「京に居る妖狐」
「もうそこまで言ってしまうわけ?」
「頭脳も明晰……瞬く間に官職まで上り詰めたらしいわ」
「そんな話、こんな田舎巫女に話して何になるっていうのよ」
「出張してみたら? ここのところ暇でしょう?」
「知らないわよそんなの。京の偉い陰陽師様が退治してくれるでしょうよ」
「正義の心は無いの? 貴女の母親なら喜んで退治に行ったと思うわよ? 多分殺されるけど」
「……そんなに弱かったの? お母さんて」
「歴代最弱ね、と言ってもまだ貴女で三代目だけど……あ、喧嘩腰だけはやたらに立派でしたわ。先代」
「あーもう、また話がそれてるわ」
巫女は箒を縁側に立てかけると、乱暴に紫を突き飛ばし、履物を脱いで桶に足を浸した。
「ちょっと、何するの?」
「これはうちの桶、この水はうちの井戸水。良いわね?」
「やあねぇ、私と貴女の仲じゃない」
「しっしっ、気色悪い」
すがり付いて桶に足を入れようとする紫を押しのける。
紫はヘラヘラと愉快そうに笑っている。案外、こういうじゃれ合いが好きなのだろうか。
「で、どうなの?」
「何が?」
「京のことよ。わかっている範囲で良い、教えて」
「へぇ……」
巫女が興味を示すと……あどけなく笑っていた紫の笑顔が、不気味なそれへと変化した。
その笑顔を巫女が見逃したのを良いことに、紫は濡れたままの足を縁側から垂らし、続ける。
「天狗の縄張りに侵入して、三度の交戦。結果は狐の圧勝」
「うん」
「けれど天狗は……そうね、それこそ天狗っ鼻をへし折られてご立腹」
「うまいこと言わなくて良いから」
「狐は、どういう目的かはわからないけれど京へ逃げ延び、人間に混ざることで天狗の追撃を逃れた」
「……それを今どう料理しようかと、天狗達が思考錯誤している?」
「その通り」
「ふーん」
巫女は大して興味無さそうに鼻をかいた。
なるほどそういう話か、こればかりは嘘つきの紫も嘘を言っていない。それも肌で感じた。
しかし腑に落ちないことが一つ。
「問題は、何故あんたがそれにそこまで興味を示してるかってことなんだけど」
「独り暮らしは寂しいものよ。ましてやこんな美女……」
「いっぺん死ね」
「まぁ、別に殿方は要らないけれど」
「うん」
「そろそろ、何か飼おうかと思って」
「……飼うって……」
「大陸産の狐、きっと愛らしいわよ? 京の男達を魅了しまくってるぐらいですし」
「ああ、今まででこれほどあんたを怖いと思ったこと、無いわ」
大げさに怖がる素振りを見せ、最後にもう一つ。
「どこからそんな情報持ってきたのよ? 前私から話したときは全然知らなかったくせに」
「情報なんて漏洩してこそじゃない」
「そういうもんなの……?」
京でのいさかいをどうにかするよりも先に、目先のこいつを懲らしめるべきではなかろうか。
……と思う巫女だったが、きっと紫は懲らしめても懲りないだろう。
巫女は心底辟易とし、そっと桶を返した。
天狗達がどれほど威嚇しようとも『藻』改め『玉藻前』が京から出てくることはない。
宮中で、その美貌と頭脳を存分に発揮し……官職まで上り詰め、そこを牙城としている。
玉藻はわかっている。
天狗達が京に入ることはけして無いと。
それがどれほどの大事件であるか……京に、いや、京だけではない。
全国に居る士、神職者、人間全てを一挙に敵に回す行動であることを知っている。
数で迫る人間と戦う羽目になっては流石の天狗も敵わない。
どちらかが滅ぶ前に争いは終結するだろうが、きっと両者共相当な痛手を負うであろうことは明白。
天狗の敵は飽くまで妖狐・玉藻。
だというのに余計なちょっかいを出して人間を敵に回したくはないのだ。
だが伊吹萃香は言う。
「良いじゃない、今の人間は妖怪……我ら鬼を畏れなさすぎる。ここらで一発殴っておいた方が良いわ」
天狗達はそれを聞き、皆表情を歪める。
最終的に従わねばならない立場ではあるが、萃香は人間を目の仇にしすぎではあるまいか。
玉藻と戦いたい素振りもないわけではないのだが、人間の話になるとことさらに目の色が変わる。
その目には復讐心が宿っている、そして同時に、哀しげでもあった。
萃香は天狗達が動いているのを歯痒そうに眺め、出陣の機を伺っている。
鬼は飲兵衛で粗暴なものと思われがちだが、それは大間違い。萃香は決して浅慮の方ではない。
天狗達の意向も汲み、その面子を立ててやろうとしていた。誇りを重んじる種族だった。
だから天狗達は、何としても萃香が山を降りる前に玉藻を京から引きずり出し、決着をつけなければならない。
萃香の自制心が働いているうちに。
玉藻が京を出る様子は無いと聞いて、警備につく白狼天狗も退屈そうだった。
京攻めは、例の精鋭部隊によってのみ行われるため、このような下っ端の白狼天狗は現地へは赴かない。
いざと言う時のために守りを固め、襲撃があった際には体を張って時間を稼がなければいけない。
そんなに強いという妖狐、別に戦いたいとは思わないし警備も退屈。苦労に見合った功績も上がらない。
白狼の少女は短い剣と小さな盾をそれっぽく構えながらも、誰も見ていないのを良いことに大あくびをした。
眠そうな目で大滝の方を見やると、轟々と白いしぶきが上がっている。
あの裏側では先輩達が、暇つぶしに将棋を指していることだろう。
この緊急時、許せないような、羨ましいような気持ちはありつつも、それを密告するわけにもいかない。
そもそも、彼女が滝の外側に出されているのは……敵ではなく、上司が来ないかを見張るためだった。
それは配属されたばかりの下っ端の宿命だった。単独行動の多い鴉天狗が少し羨ましい。
「はぁ……ん?」
少女は不意に真顔になり、小さな鼻腔を目一杯膨らませて風の匂いを確かめる。
(獣臭……?)
剣を強く握り、盾を持ち直して辺りを見回した。
三年前の襲撃の際、玉藻は一切の臭いを残していかなかった。だから比べようもない。
しかし、これは嗅ぎ慣れない臭い。
木の葉と木の葉の小さな隙間すらも見逃さぬよう、彼女は目を見張った。
少しずつ後退し、滝の裏の仲間達をすぐ呼ぶ準備をしながら。
そして木々の間を何者かが横切った。それはまさしく刹那の出来事だったが、彼女は見逃さなかった。
「敵ッ……!」
下っ端ながらも目と鼻の利く方だったから、彼女はこのような損な役回りを与えられていた。
不謹慎にも侵入者の第一発見者となったことを喜びながら、滝の裏の仲間を呼ぼうと……叫んだつもりだった。
「んぐっ?」
剣を握る右腕、そして、首を強烈に締め上げられた。
自分を締め上げる敵は、豊かな茶髪の持ち主らしい。
吊り上げられている格好のため確認は難しいが、わずかに頭部と、そこに生える獣の耳を見ることができた。
気道を押しつぶされてとても声など出せない。
無理矢理気道をくぐった呼気が、こもった呻きとなって微かに漏れる程度だった。
しかも仲間が滝の裏に待機していたのが不運だった。
小さな音でも聞き逃すことのない白狼とはいえ、この声量では滝の轟音にかき消されてしまう。
さらには視界が全て滝に遮られる。敵は妖気も完全に消している。
絶対に敵わぬ敵だと思ったが、自由に動く左腕の盾で殴りつけ、同時に脚で蹴りつけた。
だがやはりビクともしない、かえって締め付ける力が強くなっただけだった。
(え?)
敵が自分に何かを話しかけているようだが、それはまるで聞いたことの無い言葉。
声の調子はさほど乱暴ではなく、何かを確認しているように感じた。
「う、うん。うん……」
よくわからないが必死に声を絞り出し、首を縦に振った。
力では敵わない、だが死にたくはないし、とにかく一時しのぎをしなければ……。
意識を失ったら死んでしまうような気がして、涙を流し、震えながら……ただただ、頷いた。
敵はまた何かを呟いてから、予想外に優しく少女を地面に降ろした。
「ゲホ! ゲホッ!」
そしてむせる少女の背を優しく撫でた。
見ると先ほど確認できた茶髪は肩口ほどの長さ、その両眼は申し訳無さそうに少女を見つめていた。
「はぁ、はぁ……」
ぼんやりとした視界で敵を見ると、見慣れない衣装に身を包む者がそこに立っていた。
髪の毛こそ茶色だが臀部からは金色の尾が二尾、ゆらゆらと左右に揺れている。
「へ……?」
どういうことだ。報告では敵の尾は九つと聞いていたが。
それに、絶対に姿を見せないとも聞いた……目の前の敵は、幼い、澄んだ瞳で自分を見つめている。
まるで自分といくつも違わないほどに幼くて、その佇まいもあまりに無防備だった。
そのまま敵は屈託無く微笑んで、少女の頭を撫でてから飛び去った。
「……な、なんだったんだろ……?」
状況が飲み込めず、少女はしばらくそこに座り込んでいた。
白狼の少女がこのことを報告すると、大江山に陣を取っていた精鋭部隊が引き返してきた。
そして大天狗達の会議の末、その敵を新たな妖狐と判断した。
もちろんそう考えるのにはいくつかの理由がある。
まず、玉藻と同一とするには知能が低すぎる。
化けている可能性を完全に否定できるわけではないが、おそらく少女に見せたのは本来の姿だろう。
適当に頷いただけで警戒を解いたことも、判断力が欠如しているとしか思えない。
そしてもう一つ。聞き慣れない言葉、おそらくは大陸の言葉を話したということも、別の個体と判断される理由となる。
宮中で官職にまで就いている玉藻がこの国の言葉を話せないはずがない。
それも、天狗の態度を知っているからこそ京に篭城しているというのに、今更何の考えも無しに山に潜り込むこともあるまい。
完全に敵対している今、再戦を望むならもっと大きな傷跡を残すのが普通だろう。
もっとも、これを天狗達に対する威嚇、撹乱と見る意見も多少は浮かび上がった。
だが京の周りに厳重な警備を引いていた鴉天狗達も、玉藻が京を出るところは見ていないと言う。
「一度戻ってもらったが、お前はどう思う」
精鋭部隊を率いる、例の大天狗だけが天魔に呼び出され、今後の方針について話し合っていた。
山の頂上近くに聳える巨木のうろの中、豪華に装飾されたそこは、天魔の拠点だった。
「おそらく現時点では敵ではないだろう、それは九尾についても同様だが」
「……」
九尾も、二尾も、天狗と敵対する意思が感じられない。
天狗にとっては頭の痛いところであった、京から出てきてくれなければ困る。このままでは萃香が……。
「だが、新米とはいえ木っ端がそこまで簡単にやられたとなると、結び付いた時厄介ではあるな」
「そうだな」
状況から判断するに大陸から渡ってきた九尾の仲間だろう。
九尾には及ぶまいが、手を組まれると面倒なことになる。少なくとも下っ端の白狼天狗では相手になるまい。
それよりも気になるのはこの大天狗の態度。
相手は天魔だと言うのに、まったく敬意を払う様子が無かった。
元々山を離れて孤立しているほどだから、社会性に問題があるのだろう。
それでも指揮官として選ばれたのは、その兵法にのみ、揺ぎ無い信頼を寄せられていることを意味していた。
「そんなことよりも、ここしばらく大江山から京を見張っていて思ったんだが」
「うん?」
「ヤツはこちらの考えを読んでいる、恐ろしく頭が切れる」
「何を以ってそう判断するか」
「そんなの、いちいち言わんでも良いだろう。ばかな奴ならとっくに京から出てきて死んでいるわ」
「……」
「戦場に立たぬ者を殺すのは容易ではないぞ。ましてや、人間を盾にしている」
「ならば受け入れろというのか、人間との戦を」
「おれはそれでも構わんがな」
「我々はお前や鬼神様とは違う」
本当のところ、敵意が無いなら九尾など放っておいても良いのだ。
確かに、顔に泥を塗るような真似はされたが、仲間は誰一人として死んでいない。
天魔……いや、天狗は、高度に発展した社会構造を持つと同時に「権力」という見えない力に支配された。
それは、上手く扱うことのできる者が手にすれば全体に幸福をもたらす。
逆に、上手く扱うことのできない者が手にすれば全体に不幸をもたらす。
そして、持て余してしまう者が握ると……第三者に操作される、時には、権力や社会そのものに操作される。
この大天狗はそれをわかっていた。
だからこそ呆れたような視線を天魔に向け、ため息混じりに呟く。
「わかっていないな」
「……何をだ」
「嫌でも人間と戦う破目になるんだよ。萃香様がああなってしまってる以上は」
「ならどうしろと言う……」
「このままだと京に攻め込むしかなくなる。それをわかってておれを呼んだんだろうに」
それについて天魔は何も言えなかった。
なんとかして人間と争うことは避けたかった、愛する家族達、山全体の妖怪を守るために。
そのために誇りを捨てることがなんだと言う。九尾が攻めてこないなら誰も傷つかない、それでいいのだ。
だというのに……存在そのものが災厄とも言える、この大天狗を精鋭部隊の指揮官として据えたのには、わけがあった。
目の前のこの大天狗は元人間。それも、現在玉藻の居る宮中に王として君臨していた者だ。
京の中心部でその政治を司っていたが……はめられ、京を追われ、恨みのあまり妖怪と化した者だ。
かつて萃香と共に京を攻めたというのは、その私怨に由来するところが大きかった。
だから本当に京を攻めることになったとき、これほど頼もしい者も居なかったのだ。
京に攻め入れば確実に血が流れるだろうが、何も知らぬ者を指揮官とするよりは的確に動くだろう。
言うなればこの大天狗は、天魔がかけた保険だった。
少しでも円滑に京攻めを済ませ、家族達を無駄死にさせぬための。
天魔は汚物でも見るような目を大天狗に向け、うんざりしたように呟いた。
「もういい……行け」
「しばらくは京を捨て置き、山の防衛にあたるぞ」
「好きにしろ」
「そう冷たくするなよ、思うところがあるんだ」
「なんだ?」
「上手く行けば九尾だけを京からおびき出せる」
「なんだと!?」
この大天狗とて今や天狗の一員。一応は協力しているのだから、天魔の意見をないがしろにするつもりは無いらしい。
態度こそ悪いが、表立って逆らえば天狗全体から粛清を受けることがわかっているのだろう。
「だがこいつに失敗したら、萃香様を止める手段はもう無いぞ」
「説明を……」
「まだ絵に描いた餅だ。あと、あんたは勘違いしてるようだが、人間への恨みはもうそこまで抱えていない。
おれだって、人間との戦いに気の乗らない奴を無理矢理巻き込むつもりはない」
「……」
「嫌われてるのはわかってるが。それでも人間より気の良い奴が多いからな」
「そうか……」
そう言って踵を返す大天狗の笑顔は不敵で、自信に満ちていた。
(……頼むぞ……)
完全に信用を置くことはできない。だが、あの大天狗も九尾同様、頭が切れる。
人間のことも妖怪のこともよく知っている……天魔はまるで祈るように目を閉じた。
うろの外で爆音が鳴った。
空気の壁を乱暴に突き破り、仲間の元へと戻る大天狗の羽ばたく音だった。
天狗を取りまとめる天魔も、今は彼に恃むしかない。
もしかすると、長い間戦から離れ、気持ちも丸くなったのかもしれない。
その羽音は心強くもあり、同時に、言いようの無い不安も呼んだ。
~~~~~~~~~~~
――夏は夜。
宮中にある庭園で女が満月を見上げていた。
大気は湿り、空には朧月。
明日は雨かもしれない、と女が小さく呟いた。
その瞳は月に劣らぬほど金色に、妖艶に輝いていた。
身につける上品な衣服は、その女の身にまとわれたことによって本来以上の美しさを見せていた。
どこをとっても文句一つつける事すら許されぬ……澄んだ目、幼い少女よりも潤った、長い、長い、黒髪。
そして厚い、幾重もの布に覆い隠されているというのに、その身は女性特有のふくよかさを主張している。
「玉藻様」
「……はい」
女が侍女に名を呼ばれ、小さく応えた。
その声量はけして大きくはないのに、耳自体が喜んで受け入れるかのように良く届く。
「夏とはいえ夜は冷える。お体を冷やされてはなりません。それにお疲れでしょう、もうおやすみになってくださいませ」
「私のことなら心配要りません。もう少し月を見ていたいの、すぐ戻りますから」
「……わかりました」
我が身を案じる侍女を宮中へと帰し、玉藻は再び夜空を見上げた。
そしてまぶたを閉じ、
『出ておいで』
大陸の言葉でそう呟いた。
■玉藻前
『お前もこっちに来てしまったのか? 何があるかわからないから、向こうにいろと言ったじゃないの』
『いえ、向こうも危険なんです……私達が隠れていた山にも導師が入ってきて』
彼女達の周囲は異様な雰囲気に包まれていた。
玉藻が不思議な術を使い、人間の目をくらませているのだ。
祖国からわざわざ自分を訪ねてきた、かつての子分との邂逅を邪魔させぬために。
『皆やられたのか?』
『そういうわけではないです。死んでしまったやつもいるけど……』
『そうか……辛かったろう』
身を預ける少女……二尾、そう、天狗達の滝で白狼を絞め殺そうとしたもう一匹の妖狐だった。
玉藻は彼女の肩を抱き、その小さな頭にそっと頬を寄せる。
『でもほとんどの仲間は逃げ延びました、西に逃げたやつもいましたし』
『散り散りになってしまったか』
『ええ、向こうの人間は私達妖怪を狩ろうと躍起になっています。一時的にでも離れないと』
『でも、この国も危険よ……私は大丈夫だが、宮中にも鼻の良い神職者が居る。お前ではすぐに正体がばれてしまう』
『山とかに隠れていれば良いんじゃないですか?』
『いいや、駄目だ。今は何故か大人しくしているようだが、天狗という妖怪と敵対してしまった。
ここしばらく、この街の周りを飛び回って私を誘っていた。予想以上に執念深い連中のようだ。
お前は見つからないうちに、大陸へ戻って新しい住処を探すの。良いわね?』
大陸から逃げてきた玉藻は土地がわからず、誤って天狗達の縄張りに入ってしまった、というのが事の真相だった。
何があるかわからないから化けていたのだが、それは正解だっただろう。
どのような妖怪か調べるために二度目はわざと挑発してみたのだが、それが良くなかった。
見つかりこそしないものの、常に嗅ぎ回られるのは天狗自体の能力の高さも相まって、存外に鬱陶しかった。
『天狗って、山に住んでいる?』
『ああそうだ、だが最近は山の外にも出てくるようになった。見つかる前に帰りなさい』
『……』
少女は少し驚いたような顔をし、口をつぐむ。
それもそのはず、少女と天狗はもう既に遭遇してしまっているのだ。玉藻はそれを知らないようだが。
少女は玉藻の胸元にそっと顔をうずめるふりをして、その表情から思考を悟られぬようにした。
『どうして敵になってしまったんですか?』
『ああ……最初は失敗だった。敵対してしまったから、いっそ大将を打ち負かして、私がその位置に就こうとしたんだが』
山の上へ上へと登っていき……天魔や大天狗は確かに強かったが、なんとかできない相手ではなかった。
だというのに山を諦めたのは、多少の手傷を負わされて決着を焦り始めたときのことだった。
頂上付近から、恐ろしく威圧的で挑戦的な妖気を感じた。
戦ってみなければ結果はわからなかったが、上手く勝利できたとしても無事には済まない相手だと即座に悟った。
それも、一対一で勝てるかどうか。同時に天狗も相手にしてはひとたまりもないと判断し、遁走した。
『私への警戒を解いている今しか逃げる隙は無いわ。一刻も早く、今夜にでも帰りなさい』
『でも……寂しくないですか?』
『私のことは心配いらないよ。ほとぼりが冷めたら祖国にも帰るつもりだ、それまで待っていなさい』
口ではそう言いながらも、少女の肩を強く抱く玉藻の腕は、今しばらくこうしていたい、と痛切に物語っている。
(不安だったんですね……)
少女は玉藻の子分という役割ながら、玉藻が頭領を務められる性格でないことを感じていた。
大陸に居た頃から、情にほだされて致命的な失敗を犯すことがあった。
自分のような頭の悪い子分を側に置くこともそうだろう。もっと有用な奴などいくらでもいたというのに。
だが少女は、そのような温かさを心の奥底に持っているからこそ、玉藻を敬愛していた。
彼女が暴走しそうなときには、自分が助けになってやらなければなるまい、と常々思っている。
今の少女にできることは、こうして身を預けて玉藻の慰みとなってやること。
大陸に居る頃からそうだった。
しかし少女は勘違いしている、玉藻が少女を側に置いた理由はそこにある。
玉藻は常に自分の側に、味方となって立ってくれる存在……損得も大勢も捨て、理不尽なまでに自分を愛してくれる存在を求めた。
それはかけがえのないものであって、それを守ろうと思うからこそ冷静にもなれたし、限界以上の能力を発揮できた。
玉藻と少女はそのまま、空が白むまで語り続けた。
少女が「大陸で待っています」と言って閃光と共に姿を消したとき、玉藻は心底辛そうだった。
本心では、側に置きたい。自分を支えてほしいと願っていた。
慣れぬ土地、執念深い敵、身の周りは皆人間……不安を捨てろ、という方が難しかった。
翌日から、誰も知らぬところで京の住民が一人増えたが、宮中に篭る玉藻には知る由も無かった。
天狗も玉藻も戦いを避けようとしていたが……そうさせまいとするのは、意地汚い人間への復讐心を燃やす、伊吹萃香。
その萃香とても、まだ潔く大胆不敵で豪快な、気持ちの良い人間がいると、どこかその希望を捨てられない。
そのためならばいくらでも人間の敵になろうと、祈るような感情を胸のうちに秘めている。勇者を心待ちにしている。
天狗、もしくは自分に……玉藻もろともに京を滅ぼされるなら、人間など所詮その程度だったということだ。
萃香の心に焦燥感が募る。
天狗達は慎重すぎやしないか、内弁慶……臆病な種族だとは思っていたが、この状況下でまだのんびり構えている。
このところ酒の量を減らしているのは、気分が高揚して勢いで京に行ってしまわぬようにと思う萃香の配慮だった。
未だ勇者が居ると信じたい反面、それが居なかったときのことを思うと恐ろしかった。
(鬼は、恐れられてこそ……)
人間は、病魔や邪な心やら、疎ましいものを総じて『鬼』と呼ぶ。
その具現とも言えるのが人間にとっての害悪である『鬼』だった。時には、その強大さから神と崇められることもあった。
萃香はそのどちらもが正解だと思っている。時には妖怪、時には神、両方の側面を持つものだと思っている。
増長した人間を懲らしめ、神への畏怖を捨てさせないこと、そして時にはそれに立ち向かう勇気を促す。
無意識にひょうたんに手が伸びる。
萃香はハッとしてその手を止め、もう片方の手でひょうたんに伸びた腕を握り、制した。
(人間は、真正面から私を受け止めてくれるかな)
姑息な手段で追い詰め、嬲るように退治されるのは本懐ではない。
敵ながら天晴れとしか言いようの無い見事な作戦も無いではないのだが、近年ではそれもすっかり無くなってしまった。
山の頂上の岩に腰掛け、眼下に広がる雲をぼんやりと眺める。
ここに住むようになったのはいつからだったか。
大江山を拠点として、仲間の鬼と、大天狗を一名従えて人間と争ったとき以来か。
当時共に戦った仲間の鬼は、その多数が人間の罠にかかり死んでしまった。
生き残ったわずかな仲間は萃香と同様、各地に隠れるようにひっそりと暮らしている。
大天狗は今一度大江山からの京入りを目論んでいるようだ。
「……童子」
そっと呼んだ名前、前半部分は不明瞭で聞き取れない。
胸を支配する、苛立ち、寂しさ、復讐心。
どうせ天狗達は京には入るまい、さりとて、上手く玉藻だけを引きずり出せるとも思えない。
ならば天狗達の失敗を見届け、進退窮まったところで京を強襲し……華々しく散ってやろう。
天狗達は騒動の発端を萃香のせいにすれば良い。そうすれば人間も引き下がるだろう。
付け加えて玉藻と刺し違えておけば、人間と天狗はそれぞれの下で争いに巻き込まれたという立場になるだろう。
鬼は人間の敵。
人間にとって都合の悪いものが皆『鬼』と呼ばれるのだから。
京の周囲に配置された鴉天狗達も、山を守る下っ端の白狼天狗と同様に退屈だった。
情報収集をしたくても京に近寄るわけにもいかない。視認されるのすら厳禁とあっては、一体何をしていれば良いのか。
玉藻が京を出たら報告せよ、というのが上からの命令だが……。
(出てくるわけないじゃない)
射命丸文は天狗の精鋭部隊に取材をしようと訪れた大江山から、京の方角を見下ろす。
仲間から聞いた話では、もう一匹の妖狐の存在がほのめかされている。
精鋭部隊の邪魔をするなと言われていたが、争いも起こっていないのに邪魔も何も無かろう。
そもそも本気で戦う気があるのかどうか。いや、天狗にはそのつもりは無い。わかりきっている。
そこで、指揮官がどういう作戦を考えているのかを確かめたかった。
ところが大江山ももぬけの空。
大方、新たな妖狐の出現に伴って一時的に防衛に戻ったのだろう。
そこまでの情報はまだ聞こえ届いていないが、大体察しはつく。
「何してるんでしょうねぇ、私達」
巨木の枝に腰掛けて、思い切り背筋を伸ばし、呟いた。
なんて馬鹿馬鹿しい争いなのだろう。
そんな考え方の自分は、少し冷めすぎているとも思うのだが、それが正直な気持ちだ。
最初は面白い話かと思ったのだが。
(嫌なら戦わなければいいのに)
これは玉藻か、最近新しく出現した妖狐でも取材した方が面白い話が聞けそうだ。
大陸の妖怪、大陸の食べ物、大陸の酒……そういった身近な情報でも集めた方が、よほど有意義。
今のところ天狗の側で一番興味深いのは、最前線で戦う予定の精鋭部隊か、もしくは山の頂上で出撃に備える鬼神・伊吹萃香。
萃香に近づくのは少々難しいが、精鋭部隊の後を尾けることぐらいならば可能だ。
(なんとかやめさせられないかしら、この争い)
玉藻の動きを見ていて、すっかり毒気も抜けてしまった。どう見たって玉藻にやり合う気は無い。
玉藻に目を付ける理由も、やれ腕を折られたとか足を折られたとか、くだらない。
天魔だって大差ない、誤って木から転げ落ちたとでも思っておけばいいことだ。
この事件、一見大事だがまるで中身が無くて、不毛としか言いようがない。
いっそ玉藻を許してやり、山にでも招いた方が面白いだろうに。
文はそのまま木の幹に寄りかかり、居眠りを始めた。
夢ぐらい面白いものを見たいものだが……。
それから二週ほど過ぎた。
玉藻も天狗も動かず、萃香にのみ苛立ちが募っていく。
だが数名、動いているものも居た。
一人は紫、一人は巫女、一人は文……そして最後の一人はあの二尾である。
「玉藻様」
「……?」
寝所で一人……既にまどろみ始めていた玉藻の元に、あの二尾が再び現れた。
二尾は嬉しそうに玉藻を見つめているが、玉藻の表情は険しい。
『帰れと言っただろう』
「玉藻様、お側に置いてください。ほらこのように、この国の言葉も覚えてきたんですよ?」
「そういえば……」
見れば、人間にも上手に化けている。
妖気の消し方もこれまた達者で、見た目には人間の少女としか形容ができない。
京、宮中、すぐ側に居ながら玉藻でさえその存在を感知できなかったあたり、
二尾の実力は、玉藻や二尾自身が思うほど粗末なものでもなさそうだった。
「発音が悪いわよ、それでは怪しまれる」
「あと一月もあれば完全になりますよ」
「完全にしてどうなる? この国は危険よ……早く帰れ」
玉藻は三日で、庶民的な水準までこの国の語学を習得した。
その後一週ほどで、貴族として違和感の無い水準まで極めた。
「帰りたくないです」
「む」
二尾は頬を膨らませ、眉をひそめて玉藻を上目気味に睨み付ける。
根が優しいからか、甘さがあるからか……玉藻は二尾に気圧されて強く言い返せない。
「玉藻様、こうしていても何も進展しませんよ。いくら玉藻様だって、いずれ人にばれてしまう」
「数年は平気よ……」
「昔、大陸で貴女が起こした惨劇、忘れていないでしょう?」
胸に突き刺さるような二尾の言葉に、玉藻は耳を疑った。
しかし疑いようもなく、二尾は厳しい視線を玉藻に向けている。
今と同じように、皇帝の元へと仕え……玉藻に魅了された皇帝は、その妖気を浴びて狂人と化した。
そして繰り返される暴政、略奪、殺戮。
玉藻自身には、そんなつもりなどまるで無かったというのに。
『妲己様』
「やめろ……その名を呼ぶな」
玉藻は耳を塞ぎ、小さくなって震え始める。
まさか、この二尾がそんなことを言うなんて……忠実な子分が自分の心の傷をえぐるなんて、思いもしなかった。
目を閉じて、涙をこぼす……思い出したくない辛い過去。愛したのが人間だった、というだけのことなのに。
「玉藻様」
「……」
「玉藻様、こちらを見てください」
「……?」
二尾は背を向ける玉藻に向かって跪いていた。
そして精一杯表情を引き締め、その両眼で玉藻を見据えている。
しかし二尾が何を言わんとしているのか、玉藻には予想もつかなかった。
「幸せになりましょう、玉藻様」
「幸せ?」
「天狗達と和解し、あの山に住まわせてもらうのです」
「無理よ、私は彼らを傷つけてしまった」
「あの山には天狗達の厳重な警備網が敷かれており、周囲の人間が近づくことはありません」
「それは知っているが……」
「玉藻様の知恵をもってすれば、今度はあそこで役職を得ることも可能でしょう。
そしていずれはその権力をして、大陸で路頭に迷う仲間達を受け入れてもらうのです」
玉藻は力強く語る二尾を見て驚きを隠せない。
まだまだ子供だとばかり思っていたが、そこまで強い使命感を抱いて動いていたのか。
仲間を愛する気持ち、平和を愛する気持ち……それは自己中心的だった玉藻にはにわかに受け入れ難く、
同時に、その表情に言いようのない愛おしさを感じた。
「けれど無理、無理よ……私にそれほどの勇気や気概は無い」
「貴女が『妲己』と呼ばれた当時、まだ私は生まれていませんでしたが……話だけは聞いています。
争いに巻き込まれ、討たれそうになっている仲間のために、身を挺して神々と戦ったと」
「そうね。でもあれは、私が原因だったのだし……」
その頃の自分は、今のこの二尾のような目をしていたのだろうか。
自信は持てなかった。
「妲己は、人間と妖怪の仲を取り持とうと積極的に動いた、気高き妖狐でした」
「私はそんなに高尚ではない」
「今度こそ、楽園を作りましょう。形はどうあれ、人間との共存を目指して」
「……口で言うのは簡単だわ」
「そうかもしれません。ですが、何もしないで諦めるのは嫌です。どうか胸を張ってください」
そう言って二尾は姿勢を正し、玉藻に頭を垂れる。
「貴女には私がいます」
「……」
玉藻は何も言えず……ただ、澄んだ瞳で自分を見つめる二尾を抱き寄せた。
口では格好良いことを言っているが、この子はまだ未熟すぎる。
ここまで言われて尚、玉藻が願うのは二尾の大陸への帰還だった。
「わかった。わかったから……後のことは私に任せて。お前は大陸へ帰りなさい、絶対によ」
「……玉藻様。まだ信じてはいただけないのですか?」
「信じる信じないの問題ではない。私はお前まで失ったらもう……」
「わかりました」
二尾は玉藻の腕を押しのけて閃光を放ち、元の姿へと戻った。
そして振り返りもせず、二尾をゆらゆらと揺らしながら廊下へ出て、そのまま夜空へと舞い上がった。
嫌に素直に従った二尾の様子を不安に思う玉藻は、その日、寝付くことができなかった。
初夏の境内、巫女は落ち着かない様子だった。
八の字を描くように鳥居の周りをぐるぐると回ったり、突如虚空を凝視したり。
「うーん、うーん」
あまり葉も落ちないので掃除が楽で良い季節なのに、どうも気持ちが昂ぶる。
鳥居の周りを何周しただろうか、巫女の額には小粒の汗が大量に滲み出していた。
(早く夜にならないかしら……)
紫が来るかはわからないが、昼よりは来る確率が高いだろう。
そろそろ情報を『漏洩』してくれないと困るのだが……でないと心の中に暗雲が立ち込めるばかりで、
その暗雲の奥にどんな異変が潜んでいるのか、探る術が無い。
こういうときばかりは紫の情報収集能力が役に立つのだが。
「肝心なときに居ないんだからー! もおーっ!」
お払い棒を振り回し、地団太を踏む。
要らない時だけ来て、からかうだけからかって帰っていく。
住む場所を変えたらしく、先祖代々伝えられてきたあの場所にもう紫は居ない。
紫どころか、家ごと消え去っていた。地面に大きな窪を作って……一体どんな乱暴な手段で引越したのだろうか。
トクントクンと、ずっと胸が鳴っている。嫌な胸騒ぎが収まらない。
紫の話では、玉藻は京に引きこもって出てこない。
天狗も玉藻が京に居る限り、攻めることができない。
だが巫女の心の中には、他に数点……硝子に染み付いた汚れのように、曇った何かがあるような気がしてならない。
そしてその一つが紫であろうことは明らかだった。
何も狙っていないようで、何かを狙っている。でなければ紫があそこまで活発に動くとは思えない。
大陸の狐を飼いたいだなんて、そんなちゃちな理由だけではあるまい。
だが、あといくつかがどうしてもわからない。
一体どこのどいつが何を企んでいるのだろう、と考えてもそこは人間、誰かに聞くか自分で見てくるしかなかった。
結論から言えば、巫女はそれら「曇った何か」が、この騒動を人間と妖怪の大戦争に発展させる気がしてならない。
(京に行こうかな……)
しかしそんな気持ちは、賽銭箱の中身と財布の中身を合わせてみて、脆くも崩れ去った。
(旅費が……)
飛んで行ったって、腹は減る。
人間の社会は残酷である。
巫女の勘は当たっていた。
その日の夜、鴉天狗達は京から大きな妖気を持った者が飛び去った、と天狗全体へ報告した。
そしてそれが真っ直ぐ山の方へ向かっているということも、追加情報として報告した。
玉藻が京を出たならば、それはむしろ天狗と人間にとってはありがたいことである。
ここで決着がついてくれれば、飽くまで玉藻と天狗の戦いのみに留まるからだ。
だが『巫女の勘は当たって』いた。
玉藻は京を出ていない。京を出たのは二尾の方。
巫女の心に染み付いた汚れ、その一つ目は二尾。
そもそも、玉藻ならば偵察の鴉天狗の目をごまかすことなど、わけないと考えるのが自然。
二尾は天狗達に対して姿を隠す必要はもう無いと思っている。
下手な小細工は天狗達の警戒心を強めてしまうからだ、本来の姿をさらす必要がある。
何一つ包み隠さず天狗の前に現れ、頭を下げて和解を申し出る。
それが二尾の狙い……二尾は玉藻の命令を守らなかった。
玉藻を思うがゆえに盲目となっている。それがどれほど危険なことかが理解できていない。
玉藻は、二尾が交渉に行ったらどうなるかなどわかりきっている。
だからあれほどしつこく、みっともなく、警鐘を鳴らし続けていたのだ。
たまに巫女が遊びに来て、本気で自分を倒そうとしているのも可愛いが……。
安眠妨害は敵、紫は家もろとも空間を切り取り、新たな住処が見つからないよう厳重に結界を引いた。
それは物理的な境界ではなく、論理的な境界。境界の中と外には一点において決定的な違いが存在する。
その条件を満たさなければ境界を越えることはできない、逆に、条件を満たしていればそれは結界としての意味を為さない。
わかりやすい例を出せば生と死、生きているものは通常、死の世界へ踏み込むことはできない。
たまに平気で突破して息をしている、とんでもない例外も居るが。
(……いけない)
まだ外は夕方、紫が起きるには早い時刻だった。
しかし、はっきりと目が覚めてしまった……不測の事態、二尾による天狗への和平交渉。
それは紫が頭の中で描いていた筋書きとは違う。
夏掛けを乱暴に押しのけ、上体を起こす。
目を閉じて山の様子を窺うと、あの二尾は白狼天狗の追撃を必死で振り切りながら山を駆け登っている。
紫の望みは天狗達と玉藻の決戦……その舞台は京のはずだった。
おそらく玉藻は敗退する。人間に正体もばれ、行き場を失う……そこに横槍を入れ、玉藻を拾うつもりだった。
あの二尾は生き残ったら玉藻と共に式神にしても良いが、今の能力を見る分にあまり魅力は感じない。
面倒を見るのも嫌だし、玉藻にも式の打ち方を教えて、式の式とすれば良い。
玉藻ならば数日で式の打ち方を覚えるだろう。彼女の能力はそれほどに魅力的だ。
「あの天狗……」
確か、崇徳とか言ったか。
(あいつが……あの二尾を利用しないわけがない)
かつては天皇を務めていたというのに、人の世を追われ妖怪と化した哀しき存在。
鬼の首領格である酒呑童子、茨木童子と結託し、京を襲っていた大妖怪だった。
当時の紫は外から眺めているだけだったが、その残虐性は鬼に勝るとも劣らなかった。
おそらくあの二尾を、玉藻を釣るための餌として利用する。
思えばあの頃から嫌な雰囲気があった、人間と妖怪の関係が徐々に殺伐としてきていると感じた。
昔から取って食ったり、退治されたりはしていても、どこか暢気で間の抜けたところがあったのだが。
知恵をつけ残酷に、強力になっていく人間。それに憤怒し、本性をむき出しにする妖怪。
(鬼は……)
酒呑童子だか茨木童子だか、それともそれ以外が生き残ったのかよくわからない。
大多数の鬼は大江山で毒入りの酒を飲まされ、寝入ってから首をはねられて死んだという。
一人はその最中に京を襲っていたおかげで助かったと聞く。
その鬼はその後も仲間の仇を名目とし、崇徳天狗と共に幾度も幾度も京を攻めた。
その後、今天狗達が住む山に鬼神として君臨した。
「え、ええっと、どっちの童子だったかしら」
予想外の出来事は起きるし、寝ぼけているしで思い出せない。
紫は寝起きで乱れている髪の毛をさらにかきむしった。
「まぁとにかく、崇徳天狗、なんたら童子と他多数」
対するは、玉藻、二尾、人間多数。おそらく玉藻が身にまとう『人間』という鎧はこれで剥がされる。
そして第三勢力として紫と、一応、巫女。
(そうね……)
いっそやり合わせてしまおう、多少危険な手段に訴えなければいけなくなるが。
その間に巫女を何とかする……まだ少し若すぎるが、その力は初代に比肩する。
(私には目的がある)
そのために今回は何としても玉藻を獲得したかった。
いくつもの条件を満たさなければ目的は叶わない、まだ時期尚早だが。
(新たな筋書きを考えなくてはいけないわ)
とは言うものの、既にいくつかの未来が見えていた。
「ふー……」
とりあえず、急いで二尾を救出しなければならない、というようなことではなくなった。
紫は湯飲みに、枕もとの水差しから一杯水を汲んでそれを飲み干す。
再び目を閉じると、二尾は白狼天狗の猛攻を受けて傷だらけになりながら頂上を目指している。
大きく開かれた口は、敵意など無いことを必死に主張していた。
「京で大人しくしていれば良かったのに」
寝巻きの襟元を正して立ち上がった。
二尾には可哀想だが、それよりも紫は巫女のところへ行かなければならない。
「話を……! 頼む! 話を聞いてぇっ!」
二尾は血まみれになりながら……山頂を目指すのではなく、山頂に追い詰められていった。
山頂付近には精鋭部隊が待ち構えている。末端の白狼天狗の命は、二尾をそこへ追い込むこと。
「ぐぅっ!」
白狼天狗の威嚇射撃が二尾の左膝に直撃した。
二尾はそのまま倒れ、泥まみれになりながら山の斜面を転げ落ち、樹にぶつかってようやく静止する。
しかし樹にぶつかった衝撃も大きく、口から苦しげな呻き声が漏れた。
「お願い……私達……いや、玉藻様だけでも……」
目に涙が滲み、周囲にいる白狼天狗の数すら把握できない。
こんな役立たずな自分を愛し、重用してくれた偉大なる主、玉藻。出会った頃は妲己と名乗っていた。
彼女自身は争いを望まないのに、その大きすぎる力が常に争いを呼んだ。
望まぬ戦いであったにも関わらず、彼女は常に先頭に立って仲間を守った。
どれほどの苦痛だったか、想像に難くない。
きっと穏やかな生活を望んでいたに違いない……人を愛したばかりに起こってしまった大陸での戦争も。
何もかもが、彼女の足を戦場、争いへと向けた。
『妲己様を、これ以上傷つけないでくれ……』
二尾はその瞬発力を失った左足を引きずり、尚も頂上へと。
天狗達への反撃は一切しない。玉藻の無駄な殺生を嫌う精神は、この二尾の心にもしっかりと根付いていた。
あの時白狼の少女を絞め殺さなかったのも、そんな二尾の性格から来る行動だった。
『これから妲己様と、お前達と、楽しく暮らすんだ……』
気が動転してしまって、つい、慣れ親しんだ大陸の言葉が口からこぼれる。
それを聞いた白狼天狗達はさらに身構え、威嚇射撃を繰り出し、二尾を頂上へと追い詰めていく。
「ぐぁっ!」
続いて白狼天狗から放たれた光の弾が二尾の背に直撃する。
胸の中で何かが裂けたような鋭い痛みがあって、二尾は倒れ込み、口から血を吐いた。
「たのむ……」
そう言いかけた二尾の口から、ごぼ、と、水の漏れるような音がして、泡の混じった黒い血があふれ出す。
(いけない、肺が)
まだ死には至らない……だがすぐに手当てを受けなければこのまま衰弱し、死ぬだろう。
声帯を震わせるための空気を送り出す肺がこれでは、もう哀願も叶わない。足をやられて、逃げることも叶わない。
(妲己様、助けて)
涙がとめどなく溢れてきた。何故天狗達はこうも頑なに自分の要求を拒むのだろう。
争って良い事など何も無いはずなのに。
血の泡を吐き、吸い……身動きも叶わず、二尾はまさしく虫の息でしばらく寝転んでいた。
「酷い……何もここまでしなくても」
そんな声が聞こえた。
目がかすれてよくわからない。
「こんなことをしたら……本当に九尾と全面戦争をしなければならなくなりますよ!?」
誰かが、自分を擁護してくれている。
もしかすると、自分の命と引き換えに玉藻に安住の地を提供できるかもしれない。
倒れ、うつろな目のまま、動けない二尾の表情がほんの少し緩んだ。
「九尾が本気を出したら、どれだけ犠牲が出ると思っているんですか……」
「人間共と、終わりの見えない戦いをするよりはよほどましだ」
重く冷たい声が、自分を擁護する少女のものと思しき声を絶った。
その声を聞いた二尾は、自分の意識が頭から離れていくのを感じた。
天狗との和解は成らないと諦めたとき、その絶望が意識を、ぶちぶちと引き剥がしていく。
「九尾が来たら真っ先に萃香様に当たってもらう。流石の九尾とてひとたまりもないだろうよ」
「……」
「そんなことより、お前……名前はなんだ」
「……」
「さっさと言え」
「射命丸文です」
「鴉なら足も速いだろう。入京を許可する、こいつを玉藻の前に連れて行け。しばらく死にはしない」
「……飽くまで、そういう姿勢を維持するんですか」
「何度も言わせるなよ。この作戦の方が天狗が死なない、それだけだ」
「何か言伝は?」
「『この子の勇気には恐れ入った。いつでも山に来てください』と伝えておけ」
「……!?」
最後の言葉が、離れ行く二尾の意識を引き止めた。
不運にも、その言葉だけがしっかりと意識の内に滑り込んだ。
二尾は誤解する。
ついに気持ちが通じたのだろうか? と。
しかし二尾の口からは礼ではなく、肺から逆流してきた血の泡が溢れるのみだった。
そして二尾は文に抱き起こされ、背負われる。
少し動かされるだけで胸が痛くて気を失いそうだった。思ったより傷が深い。
だが今意識を失うわけには行かない、ようやく叶った和平締結、ようやく手に入れた安住の地。
絶対に自分の口から玉藻に伝えたい。
文は夜空を突っ切って京へ向かう。
別にこの二尾には何の思い入れも無いが、いくらなんでもこのやり方はむごすぎる。
九尾の前に立った瞬間、首をはね飛ばされるのではなかろうか。
きっと、反抗的な文に対して崇徳天狗が罰を与えたのだろう。
損な役割と言う他なかった。
「ありがとう……」
「良かったわね。きっと九尾のところへ行けば、傷も治してもらえるよ」
「う、ん……」
せめて死ぬ前に一度でも、九尾に会わせてやろう。
文だって死にたくはないから、九尾の元にこの子を置いたらすぐに逃げるつもりだが。
「山へ来たら、大陸での話を取材させてね。興味あるわ」
「いい……よ」
二尾の意識が途切れないよう、文は必死で話しかけた。
もうまともに動かない体で文に必死にしがみつく二尾は、あまりにも哀れだった。
だが、意識を失ってもらうわけにはいかない。九尾が文の話を聞いてくれない恐れもある。
しっかりと二尾の口から説明してもらわなければいけない。
「九尾……玉藻っていうんだっけ、どんな人なの?」
「やさし……」
「そうなんだ」
崇徳天狗からの言伝は何でも良かったのだろう。
これだけむごたらしく嬲られ……瀕死の部下を突きつけられて、九尾が冷静でいられるとは思えない。
たとえ和平締結が事実だとして、九尾の方から破棄する可能性すらある。
「いつも、皆のことを守ってた人……」
首筋に二尾が吐いた生暖かい血がかかり、文は表情を歪める。
「だから、今度は……私がまも……て」
「そう……」
京が見えてきた。
この二尾を見せれば、どうあっても九尾は山へとやってくるだろう。
それが本当に和平締結を信じてか、はたまた仲間の仇討ちか、いずれにせよ……九尾も萃香に討たれ、こうなる。
(こんな後味の悪い終わり方……)
冷静に構えていた文も、崇徳天狗の残酷さに嫌悪を感じずにはいられなかった。
正々堂々、とまで言わないが……。
九尾に近づくにつれ脂汗が滲む、手がぬめる。二尾を落としそうになり、必死に体勢を維持する。
真夜中だから警備は薄い、人間の目は妖術でなんとかごまかせそうだ。
だが、九尾に辿り着けたときこそが、文の生死の境。
そして九尾の寝所へ辿り着いたとき、既に彼女は文と、瀕死の部下の存在に気付いていた。
「はぁ、はぁ……っ」
玉藻から発せられる凄まじい威圧感。
豊かな金髪と、恐ろしく長い九つの尾。真夜中だというのに全身が仄白く発光し、とりわけその尾は、自ら眩く輝いている。
大陸の導師服を身に纏い、瀕死の部下を見ても動じることも無く……金色の瞳で文を睨みつけた。
『妲己様……』
「え、うそ?」
二尾はもう歩けるような状態ではないはずなのに、文の背から降りて玉藻へとまっしぐらに向かっていった。
途中、ドッと倒れて血を吐いてからは、這いつくばって玉藻に接近し、その腰を抱く。
「天狗は、わたしたちをうけいれて……」
「そうか」
途中まで言いかけて二尾は血を吐いたが、玉藻に意思が通じた事を確認し、弱々しく微笑んだ。
そして玉藻は悲しそうに微笑んで、そっと二尾を抱いた。
もはや二尾は玉藻の妖術をもってしても手遅れなのだろう。瀕死の状態、高速で長距離運ばれたのだから無理もない。
むしろ、未だに生きて喋っていることが奇跡だった。
「よくやってくれたね。お前は私の自慢の部下だ」
「玉藻さ……」
「だが本当に言うことを聞かないねお前は。大陸に帰れと言ったのに」
そう言われて二尾は玉藻からうつろな視線をそらした。
だが玉藻は怒る風でもなく、優しく二尾の頭を撫で、頬を寄せる。
「だから、最後ぐらいは私の命令を聞きなさい」
「はい……」
二尾は玉藻の声を傾聴する。
自分に与えられる最後の命令は一体なんだろうか。
「私の腕の中でお眠り……良いね?」
それは今の二尾に唯一可能な、あまりにも悲しい『命令』。
その言葉に安心したのか、二尾はそのまま目を閉じ、動かなくなった。
本当に眠るように、血を吐くこともなく……静かに息を引き取った。
「……おやすみ」
その様子を眺めていた文。
本心では逃げたくて仕方がないのだが、周囲に立ち込める玉藻の妖気がそれを許さない。
初めの頃は二尾を優しく包み込むような気配だったが、それが徐々に禍々しいものへと変わる。
同族を殺めた天狗を恨む、怒りの妖気へと変貌していく。
愛しい部下の亡骸を抱く玉藻の全身の毛が、天を衝くように逆立つ。
「……おい、お前」
話しかけられたが、金縛りにあってしまい声すら出せない。
あふれ出した妖気で宮中の人間が発狂し、あちこちで奇声を上げている。
とんでもない相手を怒らせてしまった、と文は今更後悔した。
「何の真似だ。この子をこんな無残な姿にして、私の前に連れてくるとは……どういう了見だぁッ!」
怒号と共に玉藻の体から放射された妖気が文を庭園まで吹き飛ばした。
玉藻から離れたことで多少は体の自由が利くようになり、文は急いで酸素を吸い込む。
そして玉藻は二尾の亡骸を自分の布団へと寝かせ、ゆっくりとした歩調で文を追い詰める。
「あの子が、私が……一体お前達にどれほどのことをした!? 何故ここまでされなければならない!」
「うぐっ!?」
玉藻は文の胸ぐらを掴み、鬼のような形相で睨み付ける。
だが文は必死に声を絞り出す。今更弁明の余地など無いとわかっていながらも、必死に。
「天狗はあなた達を受け入れてなんていない! だからお願い! 山には来ないで!」
「ふざけるなよ……? あの子は私の宝だった、この国で唯一の宝だった!」
「貴女でも敵わないような妖怪がいるのよ! 大陸にもいたって聞いたわ……鬼よ!」
「鬼……そうか、あれは鬼か。だが関係ない」
「あの子は最後まで貴女の身を案じていたの!」
「いけしゃあしゃあと、よくもそんな、なめた台詞を吐く……! その舌、引っこ抜いてやる!」
文の顔を掴もうとして手を伸ばした瞬間、その表情が目に入った。
涙を流している、その涙は恐れによるものではない。
「私達だって自分の身を守ろうとして必死なのよ!」
「なんだと?」
「鬼に言われるまま京に攻め込んで人間との戦いになったら仲間がたくさん死ぬから……
だから、私達の仲間はあんただけを殺そうとして……あんたを京からおびき出すためにこんなことをした!
人間よりはあんたと戦う方が被害が少ないから!」
「……」
「だから来るなって言ってるのよ! まんまと罠にかかって、あの子と同じになりたいの!?
なんであの子はあそこまでして私達と和解しようとしたの!? わかってあげなさいよ!」
天狗達も争いは望んでいない。その証拠とばかりに、文は二尾に情けをかけている。
ろくに体も動かせない文のその涙声と強い視線を受けて、玉藻は我に返り、その場に膝をつく。
「私を……守るためか……」
「言ってたわよ。いつも仲間を守ろうとして傷つく玉藻様を、今度は私が守るんだって」
文を掴んでいた腕の力が緩み、玉藻はそのままうなだれる。
「……あいつ……」
「大人しく大陸にでも帰りなさい。あんたは頭が良いから、いくらでも生きる道を見出せるでしょう」
そうだ、一緒に大陸に帰ってやれば良かった……京に潜んでいるよりは面倒事は多かっただろうが。
向こうには向こうで、人間に追われて苦しむ仲間達が居る、その面倒も見なくてはなるまい。
しかし、それでも……大陸に帰っていれば、二尾が死ぬことはなかった。常に側に置いて守ってやることができた。
「ああ……上司になんて報告すれば良いのよ」
文はすぐに涙を拭い、緩んだ玉藻の妖気の中で、ようやく立ち上がる。
それは二尾のために流した涙ではなかった、あまりにも悲しい現実に流した涙だった。
自分の立場もあるが玉藻の気持ちもわからなくもない、だから真実を伝えた。
玉藻はもはや文のことは相手にせず、ふらふらと二尾のところへ戻って、その亡骸を抱いていた。
宮中の随所から人間の悲鳴が聞こえる……文は気分が悪くなってきて、玉藻の背をちらと見てから夜空へ飛び上がった。
あれでは、玉藻ももう宮中には居られまい。
いずれにせよ、山に来るか、大陸に帰るかしか選択肢は無いはず。
玉藻がどう出るのか……この場はなんとか凌いだが、まだ予断は許されなかった。
そして文が京から大分離れたとき……京で一度妖気が大きく膨らみ、すぐに萎んだ。
何が起こったのか文にはわからなかったが、玉藻が何かをしたことは間違いない。
胸の奥底から背筋にかけて、ゾクゾクと、嫌な予感がはしった。
翌日、一晩の内に起きた異変が京で広まった。
そしてその原因は玉藻の寝所にあった、九尾狐の死体が原因であるとされた。
玉藻は死んだ。
何が起こったのかは、現時点では誰も把握していなかった。
紫や萃香でさえも。
澄んだ秋の空気を、夕暮れが真っ赤に染め上げている。
仕事を終えて我が家へと帰る人間達の中に混じり、里の周囲を散歩していた女性と少女が居た。
少女は、里からいくらか離れた草むらに珍しいものを見つけ、歓声を上げる。
「あそこに妖怪がいる!」
「ああ、あれはね……」
目立つ九つの尾を揺らして、八雲藍が町の周辺を測量していた。
測量をしては手帳に何か書き記し、満足げに頷いている。
「退治しなくて良いの?」
少女が手を繋いだ女性の顔を覗き込む。
女性は少女を見下ろし、穏やかな微笑を向け、告げた。
「大丈夫、心配は要らない。あれは、結界にほころびが無いかを点検しているのよ」
「結界?」
「うん、私達を守る結界……あの九尾狐は、賢いし、良い妖怪なのよ」
「良い妖怪なんだ!」
少女が嬉しそうに微笑み、測量を終えて飛び立とうとしている藍に向かって叫んだ。
「がんばってね!」
藍はその声に気付いて大きな耳をピクリと動かすと、振り返って少女に手を振る。
その表情は、優しい笑顔に溢れていた。
霊夢がなにやら長い巻物を床に広げ、とてとてと歩きながらその内容を確認していた。
「うーん……」
物置を漁っていたら出てきた家系図。
面白そうだと思って内容を検めてみたら、たくさんの名前の中に、全く同じ名前が一組だけ存在していた。
その他は全員、漢字はおろか読み方さえも違うと言うのに、その一組だけが完全に一致している。
もう死んでいる先祖達だし、今更確かめてどうなるものでもないのだが、一度気になるとなかなか頭から離れてくれない。
そしてもう一つ、その名が気になる理由があった。
「確か、こっちの代で大結界を作ったとか聞かされた気がするんだけど……」
横に広げた巻物の傍らにあぐらをかき、腕組みをして、必死に思い出そうとした。
博麗大結界を引いた巫女は、大偉業を達成した者としてその名を伝えられている。
しかし何故、三代目があの巫女と同じ名前なのか、霊夢にはその理由がわからなかった。
「そろそろ名前のネタが切れたのがこの頃だったのかな?」
そんな安直な考えで、霊夢は無理矢理自分を納得させてしまった。
「痛っ!?」
何者かにげんこつをされて思わず声を出してしまった。
こんなことができるのは紫ぐらいだろう。振り向くと案の定、そこには隙間から伸びた紫の拳があった。
「何すんのよ!」
「ご先祖様に失礼な事言わないの、人間の特権なんだから」
「何がよ?」
「私達妖怪は寿命が長すぎて、ご先祖様とか、そういう観念があんまり無いのよ」
「……どうでもいいけど、首だけ出して喋るのやめてよね。気味悪いから」
「はいはい」
紫が全身出てくるのを、睨みながら待ちつつ霊夢は不機嫌そうに尋ねる。
「で、何の用よ」
「特に。面白そうなことをしていたから見に来ただけよ」
導師服のしわを不愉快そうに伸ばしながら話す紫に、霊夢は釈然としない。
こんなものにそこまでの興味を示したのかと、床に広げていた家計図を丸め、ちゃぶ台の上に置いた。
「それ、家系図なんでしょ」
「あんたなら、別にこんなの見なくても知ってるんじゃないの?」
「私にも見せて」
「まぁ別に見てもいいけど、自分で片付けなさいよそれ。物置に」
「物置から出した覚えはないわよ」
「あんたが広げなおすと、私が物置に戻す気力が失せるわ。だから責任取りなさいよ」
「なんて酷いのかしら」
紫にとっては、まぁ丸めて隙間に放り投げるだけ、その先を物置につなげれば良いだけのこと。
そこまで霊夢に対してムキになることでもないと思い。今度はちゃぶ台の上に家計図を広げた。
霊夢は、特に面白いものでもないので茶でも入れてこようと、席を立った。
「いろんなことがあったわね」
霊夢が居なくなった事にも気付かず、紫は感慨に耽けり、呟いた。
――それは。
紫の願いが現実味を帯びたあの頃。
強力な式、強力な人間、そして強力な敵との出会い。
楽園を守るための要素が……運命の歯車が噛み合った日。
――夢の実現のために駆けた、はるか昔の記憶。
~妖怪の楽園~
いくつの冬を一人で越えただろう。
私には強力な結界の力が備わっているから、それを使って安全は確保しているけれど。
――そろそろ、一人身と言うのも……。
そんなことを考え始めた。
海の見える、小高い岬で一人……目を開くと、そこには優しい空の蒼があった。
「せっかく、式が打てるのにねぇ」
腰を下ろして……岬に埋もれていた岩に寄りかかる。
春の陽光はこのような大岩を熱するには弱すぎるようだ。背中にじわじわと、冷たい感触が伝わってくる。
日の光はあまり得意ではないけれど……ときどき早起きをして、日傘も差さずに浴びてみたくなる。
春の柔らかな光は、背にしている岩を温めるには不十分だったけれど、私の体を温めるには十分だった。
そのまま岩にもたれかかり、春の陽気の中でうとうととまどろんでいった。
■酒呑童子
異変に最初に気付いたのは、山に住む天狗達だった。
鬱蒼と生い茂る森の中で少女が一人、筆と紙の束を手に、慌しく駆け回っている。
「なんと……腕自慢の白狼天狗がひいふうみい……七人束になって、この有様なの?」
少女は眉をひそめ「むむむ……」と一つ唸ると、手にした紙の束に状況を書き記し始めた。
足元では血まみれの白狼天狗が苦しそうに悶えている。そして救いを求めるように、少女に手を伸ばした。
「あ、文……良いから手当てを……」
「良くないですよ、他の者達にも的確な警戒指示を出せるように、ちゃんとまとめなきゃいけないんですから」
「い、痛ぇんだってば……」
「痛いって言える内は命に関わらないから大丈夫ですよ。あ、救護班は呼んであるので、安心してね」
しかし腑に落ちない。文は筆の柄で頭をかきながら、眉をひそめた。
足元で自分に哀願の眼差しを向ける白狼天狗達の傷……見事に急所だけを外している。
唸る余裕の無い奴も数人いるようだが、それでも即座に死に至る状態ではない。
「誰にやられたんですか? 相手は一人?」
別の白狼天狗へと視線を向ける。
一番気になるのはそこ……そこが判れば、指名手配書の作成もできるだろうし。
とにかく、守るも攻めるも敵が判別してこそだ……しかし、白狼天狗達の返答はどうもはっきりしない。
「わからん……消えたり、現れたり、外見が変わったり……相当に高度な妖術を使う……」
「それぞれの姿に共通した特徴は?」
「最初は人間の姿だったんだ、人間が迷い込んで来たのかと思って、追い払おうと……」
「引っかき傷ですねぇ、噛まれた傷もある……妖獣の類かしら?」
しかし妖獣がこの界隈に侵入するとも考えにくい。
よほど頭が良いのか、それとも反対に頭が悪いのか……妖獣こそ、本能や嗅覚で山の天狗達を回避するものなのだが。
「で、それぞれの姿に共通した特徴は?」
会話を無理矢理引き戻す。
文はまだ新米の方だが、報道に対する情熱は誰にも譲らない。
同族をやられた怒りももちろんあるが、それよりも報道部隊としての魂が先に立つ。
これはきっと面白いネタだろう。まとめあげれば、仲間内での株が一気に上がると言うものだ。
「聞き慣れない言葉を話した……それぐらいしか覚えてない……」
「ん? 酷い訛りでしたか?」
「いや……」
そこまで言ったところで、文は救護に来た鼻高天狗に押しのけられ、地面に尻餅をついた。
「ちょっと……」と言いかけたが、下っ端の自分など眼中に無い鼻高天狗を見て、それ以上の言及は控えた。
(いずれにせよ……)
不愉快そうに鼻高天狗にガンを飛ばしながら、立ち上がって服の土を払う。
鼻高天狗達は仲間をやられたことを心底口惜しそうに、硬い表情で白狼天狗達に応急処置を施している。
(私達に喧嘩を売るとは、穏やかでないわね)
この場は鼻高天狗に任せると、文は風をまとって飛び上がり、霧のかかる山に視線を流した。
白狼天狗だけでなんとかできる問題なら良いが……七人束になって、あまつさえ手加減されているようでは話にならない。
大天狗辺りまではすぐに話が通るだろうが、天魔まで行ったら事だ。
(まぁ……最悪なのは……)
――あの方にまでこの話が聞こえ届いてしまったら……――
顎を上げ、山頂へと視線を向けるが、分厚い雲をかぶってしまっていてまったく視認することができない。
それはあたかも、そこに住む者の計り知れない力を象徴しているように感じた。
「ぁふ……」
珍しく夜更かし……いや、朝更かし? してしまったせいか、普段の起床時間に起きられない。
あの岬からの眺めは美しかったな、と思いつつも、頭の中に綿でも詰まっているようなこの感触はいただけない。
紫は緩慢な動作で布団に横たわり、しばらくはあの岬に行かないことを胸に誓った。朝更かしは辛い。
眠気は頭に詰まった綿へと、瞬く間に染み込んでいった。
気だるい心地よさが全身に蔓延し、取り留めのないことが頭の中で無限に広がっていく。
そんな混濁した意識の中で、今朝見た爽やかな青空を想った、その時……。
チリッ
脳に電気がはしるような感覚。
何者かが家の周りに引いた結界を穿ち、突破してきた感覚があった。
(やだ……またあの子? いっつも私が寝ているところに来るのよね)
長きに渡って人間を見てきたが、ついに強大な力を持つ者が現れた。
今が何代目だったか忘れたが……。
(今回の巫女も凶暴ねぇ)
なんとなく、喜ばしいような。
でも安眠妨害は勘弁してほしい。
(まぁ、来るまで寝ていようかしら)
秘めたる潜在能力は確かなようだが、いかんせんまだ若い。
あと数年、長く生きる紫にとってはあっという間だが、あと数年経てば……。
若く荒々しい霊気も落ち着いたものになって、精神的にも大人になる、退魔技術も研ぎ澄まされる。
(初代は人里に密着していたわね)
と言っても、山奥の田舎、寂れた神社の巫女。守るべき人里の規模も大したことはなかった。
里の規模に対して大きすぎる力だった。古今東西、様々な妖怪がちょっかいを出しては返り討ちに遭っていた。
里の外にまで積極的に出る方ではなかったが、里の守護には徹底していた。
里を愛する巫女だった、同時に、里の者からも慕われていた。
そんなことを考えているとき、頭の中に、チリ、と再びこそばゆい感触。結界がもう一枚破られたらしい。
以前よりも結界を破るのが大分早くなった。人間の成長の早さを感じる。
「ふぁぁぁ……」
引き直すのも面倒だ。
紫はごろり、と布団に包まった。あたかも、布団こそが最後の重要な結界であるかのように。
(二代目は乱暴な奴だったわね)
里の外にも積極的に出向く巫女だった。
まだ初代が健在だったからということもあるだろうが、里にはあまり密着していなかっただろう。
そう、初代と比べなくても、あまり里の中に閉じこもっている巫女ではなかった。
人間から見た正義感の強さなんて、妖怪から見れば迷惑な要素でしかない。
紫が『乱暴な奴』と呼ぶのも、その辺の視点の相違に起因する。
人間に言わせれば、正義感が強い巫女だった。もう少し里に腰を落ち着けて欲しいとも思われていただろうが。
(三代目は……ああ、今が三代目だっけ)
初代は少し前に死んだはず。
そっと最期を見に行った紫に、柔らかく、微笑みかけてくれた。何故かはよくわからなかった。
――私の血を受け継ぐ者達が困っていたら――
力を貸してやって欲しい、ということだった。
何故そんなことを妖怪である自分に頼むのか不思議で仕方なかった。
意外と、人間と言うよりも妖怪に近い存在だったのかもしれない。
彼女は一匹の妖怪も殺すことなく里を守り続けた。一度戦った妖怪に、何故か慕われる性質があった。
もちろん、人も里の中に居る限り一人も殺されなかった。彼女の周りには一切の血生臭さが存在しなかった。
――そんなところに立ってないで、一緒にお茶でもしましょうよ――
そう言われたときはおかしくて笑ってしまったっけ。
あれは、初めて彼女と戦った次の日のことだったと思う。
八雲紫! 出てきなさい!
「あーもう……お転婆ねぇ」
まどろむのもここまでか、紫は眉間にしわを寄せながらゆっくりと上体を起こした。
だがそれ以上は動こうとしない、放っておいてもあの巫女はここに来るだろう。
家の位置を知られたのは失敗だった、引越しも考慮しなければいけない。
重いまぶたを必死に持ち上げながら、混濁した意識の中でそんなことを思った。
そして、すぐさま。
乱暴に開けられたふすまの向こうに、お払い棒を握り締めた怒りの形相の巫女が立っていた。
肩を怒らせ、がに股で立っている。実に威圧的な態度だった。
「……何よ?」
しかし、寝起きの紫が彼女にかける言葉なんて、それぐらいしか思い浮かばなかった。
「良いこと? 結界って言うのはね」
「うー……」
寝ぼけていたので上手く加減ができなかった。
巫女は体に合わない大きさの導師服を身に付け、涙目でこちらを睨んでいる。
紫の手元にはぼろぼろになった巫女服、それをチクチクと弄ぶように修繕していた。
「あんたは、なんでそんなに結界を扱うのが上手なのよ……」
巫女は勝手に沸かした茶を啜りつつ、頬を膨らませて不機嫌そうに紫を睨み付ける。
彼女は「退治しに来た」と言うが、紫にはそうは思えなかった。
「生まれたときから使えるから知らないわよ、そんなの」
「ずるい……」
それ以上の言葉を失った巫女は、黙って湯飲みの底を眺め始めた。
そして、その視線のさらに先にある……自分が着ている導師服の膝元を見て、ふと疑問を口にした。
「これ、あんたが着てるのと違うわよね」
長すぎる袖を掴み、眼前に掲げてそう言う。
紫は手を止め、目をしばたたきながら答えた。
「なんで? 私だって着るかもしれないじゃない」
「それにしてはかび臭いじゃない、これ……それにあんた、何種類か決まった服を着まわしてるように思ったんだけど」
巫女は少しに不愉快そうに自分の腋辺りの臭いをかぐ。かび臭いということを言いたいのだろう。
そして首を傾げながら屈託無く紫を問い詰めた。
「誰か一緒に住んでたの?」
「……これから一緒に住む予定よ」
「何と?」
「式神」
「準備早すぎじゃないの? こんなにかび臭くなってる」
「別に良いじゃない、暇なのよ」
紫は巫女服に手をかざし、即座に修復して返した。
そして、縁側へと歩いて空を眺める。今朝に引き続き良い天気、変わることのない蒼がそこにあった。
「わざわざ針で直そうとしてたのも暇つぶし?」
「ええ……でもそろそろ眠いし、飽きたわ。帰って」
それから巫女は無言でお茶を二杯飲んで、神社へと帰っていった。
どうせまたそう遠くない日に襲撃に来るのだろう。
薄暗い森の中で一人、呻く女がいた。
よろよろと数歩歩いては腹部を抱えてしゃがみ込む。
外傷があるようには見えない、内臓に病でも患っているのだろうか。
その顔は紅潮し、額には汗が珠となって張り付いている。
女は気付いていないだろうが、周囲にはおびただしい数の白狼天狗が潜んでいる。
女を完全に包囲している。
ここは天狗達の縄張り。
そこに入るか、入らないかの境界を女は歩いている。
入り込んだり、出て行ったり……天狗達は目に見えない境界を視界の中に描き、そこを侵す女の軌跡を辿っている。
――これ以上入ったら、多少乱暴もしなければいけない――
わざとやっているのではないか……そう思うほどに、出たり、入ったり。
人間ならば脅かして追い払えば良いが、見たところ体調が優れないらしい。
ほうっておいて死ぬようならばそれで良い。わざわざ人里に連れ帰ってやる義理など無い。
天狗達が気にするのはただ一つ、彼女が敵か否か。それに尽きる。
ふら、ふら、と数歩、天狗達の縄張りに入り込んだのを最後に、女は倒れこんだ。
そしてそのまま、腹を抱えて震え始める。
――おい、いっそトドメを刺してしまわないか?――
一人の白狼天狗がそう提案する。
普段ならこの人間の健康状態に関わらず、すぐに飛び出して追い払う。
むやみやたらに殺す必要はない、追い払えば良い、縄張りであると知らしめられれば良いのだ。
むしろ、
「あそこは天狗の縄張りだから踏み込まない方が良い」
と、他の人間達に伝えてくれた方が都合が良い。余計な血が流れずに済む。
それができないのは……。
「おい娘、悪く思うなよ。どうせその様子では長くもつまい。楽にしてやる」
「ぅ~……ぁ~……」
――おいっ――
気の早い白狼天狗が一人、女に歩み寄って話しかけた。
女はそれに答えない。ただ小さく呻くのみである。
「それにしても、よくもそんなナリでここまでこれたものだな。とても山に入る装備には見えないが」
そうだ、おかしい。
おかしいから、様子を見ていたのに。
「そいつから離れろ!」
数匹の白狼天狗が飛び出し、女に襲い掛かった。
しかし女はまるでその瞬間を待っていたかのように、大地を蹴り押して高く跳ねる。
その瞬間、鈍い音が響いた。飛び掛った白狼天狗達、ある者は腕が捩れ曲がり、ある者は膝関節が逆方向に曲がる。
飛び掛った白狼天狗達は皆、手傷を負わされ、跳ね飛ばされた。
「思った通りか……かかれ! やつだ!」
「面妖な!」
「おのれ! どこへ行った!?」
刹那、その周囲は恐ろしい濃度の妖気に包まれる。
それは源を辿ることすら難しいほどに濃厚で禍々しい。白狼天狗達は瞬時に混乱に陥った。
随所から、潜んでいた白狼天狗達の悲鳴が上がり……次々に樹から落とされていく。
だが、誰も致命傷を負っていない。
「他の仲間達も、こうしてやられたか……」
「喋っている場合か! 上空に上がるぞ!」
肉体に恃むこの手口、妖獣だろう。
しかしあそこまで完璧に人に化け、天狗達を騙すとは……知能も桁外れらしい。
「ふぅ、ふぅ……」
上空へ上がった数匹の天狗は、背中を合わせて四方八方に意識を飛ばした。
森の中からは未だに悲鳴が上がり続けている。逃げ遅れた者達は皆、生殺しにされて土を噛んでいるだろう。
「おのれ! おちょくりやがって!」
「やめろ、行くな! 森の中で勝ち目は無いぞ!」
「ならば黙って見ていろというのか!?」
「聞け! 俺には、奴の正体がわかったかもしれん」
「……?」
いきり立って森の中へ戻ろうとする仲間の腕を掴み、一人の白狼天狗が語り始める。
しかし話し始めるや否や、森の中の悲鳴が途絶え……宙に浮く白狼天狗達に向かって、無数の光線と光の弾が飛んできた。
油断しきっていた彼らにそれを避ける術は無かった。
「ふむ……私も聞いたことがありますね」
今回の被害は、負傷者五十三名、死亡者零名。
もはや手加減されているのは明白、おちょくられている、と憤る者がいるのも無理はなかろう。
射命丸文は新しい騒動に怒りを覚えつつ、それよりも話の行く末が気になって仕方がない。
相変わらず、筆と紙の束を抱えて負傷者の周りをちょろちょろと駆け回っていた。
敵の姿を見たという者はやはりいない、しかし、面白い話が聞けた。
この手口、ある動物の狩猟法に酷似している。という者がいたのだ。
そしてそれは文自身にも聞き覚えのある話だった。
「狐」
白狼天狗はそう呟く。
逃げ足の速い小動物が狐の入り込めない穴倉に潜り込むことがある。
そこで狐が行う狩猟法は、その穴倉から離れたところでもがき苦しむフリをするというものだ。
興味を持った獲物がそれに気を奪われているところへ、徐々に距離を詰め、捕獲する。
(目的は何なのかしら)
五十三名でも話にならなかったようだ。
前回、七名なんて……赤子の手をひねるようなものだっただろう。
手加減、わざとらしい狩猟行動。弄ぶことで己の力を誇示し、天狗達を猛烈に威嚇しているのだろうか。
「……そんな、四面楚歌の状況で」
こうなってしまっては、上に話が届くのも時間の問題。
危険だが少し縄張りを離れて行動してみよう、と、文は一人で頷いた。
――妖狐――
話には聞いたことがあるが、実物を目にするのは初めてだ。
こんなことをしていてはいつか火傷をするかも知れないとは思うが、好奇心を抑えられない。
取材に協力してくれた白狼天狗達に深々とお辞儀をし、文は大地を疾走してから風に乗って大空へと舞い上がった。
しかしそれから数日後。
文の好奇心さえも上回る戦慄が、妖怪の山を駆け巡った。
「天魔様が……?」
今度は正面を切って侵入してきた例の「狐」が、山の奥地まで一気に踏み入って天魔に傷を負わせたらしい。
文は震えが止まらなかった、まさかそこまでとは。
「ああ、だが天魔様も黙ってはいなかった」
「……周りに、大天狗も何人か居たんですよね?」
「居た。三名居たらしい。彼らは真っ先にやられたそうだよ」
筆と紙束を落とす。
これは事件なんて生易しいものではない、天狗達の文明の危機だ。
文が外出中、他の鴉天狗達が情報をまとめたらしい。
淡々と語るその鴉天狗は、文の落とした筆と紙束を拾い、埃を払ってから突き返した。
それから、自分の集めた情報をまとめた紙を文に手渡す。
「やっぱり、狐だったんですね」
「天魔様の見たところ、尻尾が九つもあったそうだ……最強の妖狐だよ」
「九尾ですか」
海を越えた遠い大陸に、かつて、妖怪の最高峰として君臨していた、と聞いたことがある。
一匹なのか、それとも複数存在するのかは知らないが……。
「あ、そういえば」
「どうした?」
「最初襲われた白狼天狗が『聞き慣れない言葉を話した』って言ってたから……」
本当に海を渡ってやってきた妖怪の恐れがある。
そうであれば、突然現れて暴れ始めたのも納得が行く。
「しかし、何のつもりだ。この国の妖怪を排除するつもりか?」
「私もそこまではわかりませんけど……」
流石に、天魔と大天狗数名にかかっては敵わなかったらしく、その九尾は手傷を負って逃げ去ったらしい。
そして。
「天魔様は、この話を鬼神様に通すことを決定した」
「大事件ですね」
「我々も精鋭部隊を編成して排除に当たることになった、山を出ることになるだろう」
「……」
山の頂上に住む鬼。
文字通り山の妖怪の頂点に、神と同列に崇められ、君臨している。
それだけでなく、天狗の精鋭部隊も出動するとなれば、生きてこの国を出ることはできまい。
(でも本当に、なんで私達を襲ったんだろう?)
そう、手加減したのは何故なのか。
本当に天狗達を脅かしたいのであれば、目に付いた者を皆殺しにするぐらいで良いはずだ。
縄張りをかすめるように移動していたというのも気にかかる。
何か他に伝えようとしていることがあったのではなかろうか?
自分は新米だから、直接的にこの戦いに参加することはないだろう。
しかし、やはり文はじっとしているのが嫌だった。
(私だって、鴉天狗のはしくれですから)
紙束を強く抱きしめた。
恐怖の感情の方がやや勝っているが、それでも探究心、好奇心は抑えられない。
是非とも、事の顛末をこの目で確かめたい。
翌日から文の情報収集が始まった。
諜報を主な任務とする鴉天狗の中には、グループで行動する者とそうでない者がいる。
文は後者に属する、そしてこれらの分類には、鴉天狗の性格の違いがよく現れていた。
集団での情報収集を主とする鴉天狗達は、保守的な性質を持つ。
危険を極力減らし、確実に、組織的に情報収集を行い……それを上司、大天狗や天魔に報告する。
仲間への貢献度が高いことから信用厚く、うけが良い。
対して文の属する一匹狼の天狗は自由奔放で、危険な事件や、誰も目に留めないような事件を好む。
それらの情報は必ずしも天狗達の社会に役立つとは限らないので、こちらはあまり仲間内でも相手にされない。
似たような天狗の間で集めてきた情報を自慢しあったりするのだが、周囲からは冷めた目で見られることもあった。
単体での戦闘能力が高いのは言うまでも無く後者である。
どんな災難に襲われようともそれを自力で退けなければいけないため、必然的に高い能力を備えていく。
「すっかり、姿を消してしまったようね」
山の周囲を飛び回り、道行く妖怪に話を聞いてみたりしたが、妖狐の新しい情報は全く無かった。
天魔を襲う前の情報はいくらか集まったが、直接戦った白狼天狗達の情報に比べると、あまり参考にはならない。
だがそれは、逆に考えればあれ以来山から姿を消した、という事実を浮き彫りにする。
高度な妖術を扱うようだし、その気になれば隠れ続けることも可能なのかもしれないが……。
――この界隈から姿を消して……他の所を襲っているのかな?――
件の妖狐が、本当にこの国の妖怪の排除を目的としているならそう考えるのが妥当な線だ。
しかし文の心の中には、そう思いつつもどこか納得の行かないものが残る。
どうも、あの妖狐の目的は違うところにあるような気がしてならない。
文の知らないところで、同じように他の天狗達も、姿を消した妖狐の情報を掴めずにやきもきとしていた。
(少し、遠くへも足を伸ばしてみよう)
山の側から徐々に行動範囲を広げて行けばいつか情報に辿り着くだろう。
山を中心に、円を描くように……少しずつ、妖狐の行方を絞り込む。
足の速さには自信がある。
――この事件は私のものですよ――
悔しがる仲間達の顔が頭に浮かんだ。
どれだけ危険なことかなんて、わかっている。
いつの間にか文の恐怖心はすっかり消え去っていた。
しかし、文のみならず他の天狗達の努力は、その後三年間報われることは無かった。
閉鎖的な天狗達がいくら足を伸ばしたとして、完全な死角となっていた箇所があったからだ。
日の落ちた神社の境内に二人。紫は縁側に腰掛け、巫女は紫に背を向けて境内に立っている。
まだ山際にはかすかに日の光が、強い赤みを帯びて粘り付いている。
「里の人から聞いたんだけどね」
「ええ……」
紫が背後から眺める巫女の背、成長期を経て大分高くなった。
あれから三年、幼く、腕白だった巫女もいくらか落ち着いた。
そんな巫女を見て、初代に似てきたように思う。紫と目を合わさず、空を眺めながら語る所など本当にそっくりだ。
だからこそ、不意に目を合わせて話しかけてくるとき……えも言われぬ威圧感に、思わず身構えてしまう。
それはまさしく巫女らしく、神託でも語るように、厳かな様子だった。
「なんでも……京に、ものすごい美女が現れたらしいわよ」
「そうなの、どれぐらいなのかしらね」
「さぁ? 私はあんたほどじゃないと思ってるんだけど」
「まぁ、お世辞がお上手」
「お世辞じゃないわよ。そういうこと言わない性格だって、わかってるでしょ?」
「本当に正直者ね」
「あんたの分まで、正直に生きようって思ってるのよ」
皇子に見初められて宮仕えしているから、その噂が本当かどうかは不明らしい。
とはいえ、宮仕えを始めた経緯を考えれば不美人であるはずはないだろう。
「妖怪は、時に人間を魅了しなければいけないの。だから大体の妖怪は美しいのよ……残りは完全に逆、異形なの」
「ふーん。けど美しさの基準なんて、時代によりけりじゃない?」
「そういうときは、顔を変えます」
「ずるい」
紫の中に良い予感があった。
そして巫女は振り返り、紫の目を見て次の言葉を呟く。
「人を魅了するために美しいのね。なら、その美女とやら……妖怪じゃないかしら?」
「貴女もそう思うの?」
紫に向けられる……神々しい、巫女の視線。
予感は確信へと変わる。
天狗達が妖狐の行方を掴めないのは……京、皇子の元へと、人に化けて隠れたから。
あれだけ天狗達に対して挑発的な行動を取ったというのに、そこまで徹底して隠れた理由は不明だが。
「でも、京にも陰陽師か何かいるでしょ。相当な手だれでしょうし、見落とすとは思えないけどね」
巫女も縁側に腰掛けて、そこに置いてあった冷めた茶を啜りながら笑う。
その目つきは、既に普段の少女の目に戻っていた。
けれど紫にとって疑うべきは、もう一つ裏である。
「相当な手だれが見落とすほど、人に化けるのが上手だったらどうかしら?」
それについて巫女は何も言わなかった。
表情一つ変えない……本心では紫と同じ考えなのだろう。
もしくは勘かもしれない。
その可能性が高い、と、不確かな感覚がそう告げているのかもしれない。
「こんな田舎の巫女に負けてるようなら、京の神職者も大したことないわね」
「まったくね、そうでないことを祈るわ」
そう言ってクスッと笑い、紫は縁側から飛び降りて服の埃を払った。
「今日はもう帰るわ、早起きしたから少し眠いの」
「早起きって……ま、良いけど」
山際に張り付いていた赤い光も、既に地平線の彼方へ滑り落ちている。
巫女は裂いた空間へともぐり込む紫に『おやすみなさい』と一言告げ、神社の中へと戻っていった。
同時刻、天狗達の住む山の頂上。
「ふーん」
少女は大きなひょうたんをしきりに傾けながら、跪く天狗達を面白く無さそうに見下ろしていた。
単に少女と言っても、その頭には二本の巨大な角が生えている。それは山の主、鬼だった。
「もうほぼ全国見回ったのですが、未だに見つかりません」
「ほんとに?」
「ええ……嘘ではありません」
不愉快そうに目を細め、少女は天狗を睨みつけて……。
「人里は見たのかな?」
強い語気で、そう問い詰めた。
それを見て天狗達は萎縮し、額に脂汗を浮かべる。
「いえ、人里は見てませんが……」
「全国見てないじゃん。うそつき」
「すいません!」
「ま、いいよ。それがあんた達にとっての『全国』だったんでしょ?」
少女は怯える天狗達を見て、赤ら顔でからからと笑った。
天狗達……と言っても、中には大天狗も混ざっている。
大天狗ですらこの扱い、それこそが鬼神と天狗の地位の違いを表していた。
そして不意に笑い止むと、少女は据わった目で天狗達を見回し、小さく呟いた。
「人間のところに居るよ。それも、京にいる」
「え……」
「わかってはいたんだけどさ、あんた達が頑張ってるからなかなか言えなくて」
「それは……」
「言ったとしても、あんた達じゃ人里に降りないだろうし」
「人間との接触はできるだけ避けたいので……」
「だろうね。正直で良いと思うよ」
「はぁ……」
少女は最後にひょうたんの中の酒をぶっきらぼうに呷ると、ふらふらと立ち上がった。
天狗達はその一挙手一投足に目を見張っている。
「よーし、京に降りるかー」
「えぇっ!?」
「どんな奴か、見てみたくなった」
「危険です! 我々が行きますから!」
「良いよー、無理しなくて。それに……」
少女はひょうたんを肩に担ぎ、天狗達に視線を向ける。
あまりにも鋭いその目つきは、本当に泥酔しているのか疑わしく、天狗達は揃って震え上がった。
「面白そうだしね」
京に降りるとは行っても、今すぐに出かけると言うものでもない。
少女は、大きなひょうたんを担いだまま千鳥足で、進むでもなく、戻るでもなく。
天狗達はそんな少女の動きに目を見張っているが、少女自身は特に何をするでもなく……
立ち上がったは良いものの、どうするべきか思案している様子だった。
「知ってる?」
「はあ?」
言いかけて、首ががっくん、と大きく揺れた。
天狗達は何を言いたいのかわからない少女の行動に慌て、怯えることしかできなかった。
いずれ少女は寝そべって居眠りを始めた。
一見すれば単なる酔っ払い少女に過ぎないが……鬼まで出動するとあっては剣呑。
天狗達も本腰を入れてこの事件に臨まなければならない。
妖怪の山、そして、京。
人間を巻き込まずに済ませることは不可能だろう。
普段、天狗の領地に踏み込んでは手痛いしっぺ返しを受け続けていた人間は、
逆に天狗が自分達の領地に踏み込んだとき、どんな反応をするのか。
きっと、穏やかには済むまい。
そこに……さらに、鬼まで加わると言う。
ただの一人とはいえ、鬼の持つ力はその姿形から想定される次元を遥かに超越しているだろう。
あれほどの大きな妖力を持つ鬼が動けばすぐにわかる。しかし山から出た気配も無いのに妖狐の位置を探り当てていた。
天狗達には、少女が使ったからくりがまったくわからない。知慧一つとっても並の天狗とは桁が違う。
(少数精鋭で行こう。人間と、ことを構えたくはない)
(ああ、やつらの絶対数と繁殖力は馬鹿にできん)
(だが、鬼神様が混ざるとあれば……)
天狗達の心中も穏やかではない、自分達よりも高位の存在とされている鬼……。
その鬼がこの騒動に加わってしまっては、完全に主導権を握られてしまうだろう。
邪魔をすれば、その場で破砕されてしまうこともありうる。
(鬼神様の出方を見てから方針を決めるか……)
よりにもよって、人間最大の城、京に陣取るとは。
あえてそこを選んだ妖狐の知恵、嗅覚……やはり末端の白狼天狗ごときではどうしようもなかっただろう。
手を打つのがあまりにも遅すぎた、と後悔するほか無かった。
京に降りるとは言ったものの、少女はそれ以来もしばらくは山の頂上で飲んだくれていた。
いや、飲んだくれているように見えた。
再び天狗達の幹部が集まり、対策会議が繰り返されることになるだろう。
少女は妖狐の様子を山の頂上から探りつつ、天狗達の戦いを見て楽しむつもりなのかもしれない。
そして天狗達が敗北すると予測しているのかもしれない。
その後、絶好の頃合に横槍を入れようと目論んでいるのか。
山の頂上、雲さえもそうたやすくは昇れない高み。
「百鬼夜行も久しい」
まさに高見の見物、鬼の少女……伊吹萃香は岩に腰掛け、ひょうたんを傾けながらぼつぼつと呟く。
勢力を増し知能をつけた人間は、妖怪を恐れなくなり、神を疎んじる。
そんな気配を感じるたび、萃香は危惧を覚えた。
かつての人間は極端に弱い者か、極端に強い者の二通りだった。
弱い者は攫って食ったりもしたものだが、その後、恐ろしく強い人間が復讐に来る。
今住むのとは別の山を拠点とし、京に幾度も襲撃をかけたこともあった。
強い人間、まさに超人とも言える人間と死闘を繰り広げることは最高の楽しみだった。
そういう人間は、勝利しても殺さずにおいたが……皆、寿命で死んでしまう。
たくさんの人間に知恵だけを授け、伝説となってしまう。
授けられた『知恵』は凡人に誤解され、再び現れた鬼に降りかかる。
萃香は、面白くもない『弱点』などという物で、人間が自分を退治しようとしているのを見たとき、
まともにやり合う事に虚しさを感じた。
(豆やら鰯の頭やら、そんなもので本当に鬼の首が獲れると思っている。相手にするのもバカバカしい)
確かにいくらか苦手とするものはあるが、けして致命的な弱点ではない。
麓へと視線を落とすと、遥か遠くで天狗達が慌しく飛び回っている。
鬼である自分が大騒ぎを起こす前にこの問題をなんとかしようと、七転八倒しているのだろう。
妖怪としては強力な種族である天狗も、強烈に殴りつけ、このように従わせてしまった。
――楽しみね――
口の端を歪め、思い切り酒を呷る。
大陸から渡ってきた最強の妖狐、九尾狐。
その噂は聞き及んでいる。かつて大陸の皇帝を骨抜きにし、国を滅茶苦茶に荒らしたと。
今回の狐がそれと同一の個体か否かは現時点では不明だが、いずれにせよ面白い勝負ができそうだ。
(天狗に負けないでよ?)
萃香はひょうたんを脇に抱え、岩を背に寝息を立て始める。
九尾との戦いを期待するその寝顔は、子供のように無邪気だった。
~~~~~~~~~~~
木々が鬱蒼と生い茂る山の中腹、ひときわ大きな樹の下に鴉天狗達が集められていた。
その巨木が日光をさえぎり、ただでさえ霧がかった山の中腹はまるで夜のような闇に包まれていた。
そして大天狗が乱雑に並ぶ鴉天狗達を指差し、これからの動きを指示している。
「京の周囲を哨戒し、狐に動きがあったらすぐに報告しろ」
射命丸文も当然そこにいる。自由に動くことが多いとはいえ、本当に無所属というわけではない。
それでも、まだ下っ端だから勝手に動いてもあまり気に掛けられなかった。
だからこそ自由に動き回れたのだが、今回はむしろ、他の鴉天狗からの情報を得るためにこの場に参加している。
「京に居るっていうのは確実な情報なの?」
「さぁ、誰も見た者はいないみたいよ」
「へ? 何よそれ」
文と似たような格好の鴉天狗の少女、髪は文よりいくらか長い。
その少女に質問を投げかけた文は、的を射ない返答に耳を疑った。
「じゃあなんでこんな集会をしているの?」
「鬼神様からの情報らしいわ」
「……なるほど」
普段は酒飲み仲間のようなものだが、天狗と鬼、両者の心の奥底には大きな隔たりがある。
超えてはいけない一線、とは言えもとより陽気な性格の鬼だから、酒の席での多少の狼藉は気にしない。
だがこういった厄介事が起き、組織として動く場合は鬼の意見は絶対である。
そして「件の狐は京に居る」という伊吹萃香の情報は、間違いなく事実だろう。鬼は嘘を嫌う種族だ。
「おい、そこ、聞いているか?」
「はい?」
「……これだから新米は」
「す、すいません」
文は少し前ようやく山から出ることを許されたばかり、大天狗は呆れた様に眉をしかめる。
「お前のような新米は変に勇気があるからよく注意しろ。京に近づいても人間には見つかるな」
「……はい」
(京に近づかずにどうやって見張るのよ……狐が京を出てから報告に戻ったって、
その足で山に向かわれたらどうしようもないじゃない。天狗と比べてどうかはわからないけど……)
それだけの力を持つのならば、移動力もそれ相応の水準を誇るだろう。
鴉天狗は特に飛行速度に優れるが、それを凌駕していたとしたら奇襲を受けることになるのだ。
(まぁ、今更攻めてくるとは思えないんだけどね)
不自然な手口が目立つ今までの襲撃、そしてよりにもよって難攻不落の京に身を置いたこと。
それらが導き出す答えは、天狗との戦闘回避以外に考えられない。
つまり天狗が今やるべきは、迎撃ではなく報復。
狐を京から引きずり出し、痛い目を見せるのが目的。
「一応お前達にも伝えておく」
大天狗の口調が変わる。それは伝令を終え、少し余談でも語るような素振りである。
鴉天狗達も引き締まっていた表情をかすかに緩め、その言葉を傾聴した。
「鬼神様が京に降りる前に我々で決着をつけたい。それゆえ京の包囲を余儀なくされた。
白狼、鴉、鼻高……種族問わず精鋭が選ばれ、然るべき日に京へ襲撃をかける予定だ」
(なによ、別に面白くもない。わかってるわそんなこと)
文は目を細め、つまらなそうに鼻からため息をついた。
以前から出ていた話だ、何を今更蒸し返す必要があるのか。諜報部隊である自分にはあまり関係ないし。
「だが、最後の襲撃で天魔様や数名の大天狗とやり合った事を考えると、大天狗でも並の者では歯がたたん」
文は思う。
天狗の社会において、権力と腕力は必ずしも正比例しない。
もちろん、天魔や大天狗の地位に就くにあたっては腕力もそれ相応でなくてはならないが。
実情は、役職こそ無くとも知力に特化している者や腕力に特化している者、様々である。
一つの技能に関して天魔や大天狗などの役職者を上回る者は、少なからず存在した。
「今回精鋭部隊を指揮する者として、かつて大江山で鬼神様と共に戦った……」
文はその名前を聞いて鳥肌が立った。洒落ではない。
それは軍事に秀でる者。
一応は大天狗の役職を与えられているが、ある事情から天狗の中でも評判はあまり良くなかった。
かつて京と外界の境、大江山を拠点とし、伊吹萃香の片腕として妖怪達の指揮を執った。
武力で言えば間違いなく天狗達の最高位に位置する大天狗だった。
久しく戦も無く、今は妖怪の山を離れているそうだが……それは真実、隔離に近い処遇であった。
(本気で……戦う気なのね)
確かに、天魔にまで手を出されたのだから仕方ないと言えば仕方ないが……。
そこまで大騒動にして余計な問題が勃発しないかと、心に不安がよぎる。
「絶対に彼らの邪魔をしないように。巻き込まれて死んでも、誰も骨は拾ってやれんぞ」
諜報部隊、鴉天狗。
飽くまで諜報に徹さなければ、味方にやられてしまうこともあり得るのだろうか。
(殺伐としてるわね)
新米が背負うには重過ぎる問題だが……。
(もう少し、勝手に動かせてもらいます)
そのとき、短い剣と小さな盾を手にした、幼い白狼天狗が上空を飛び抜けていった。
まさに総動員、事態は天狗達の威信を掛けた総力戦へと膨らんでいく。
■崇徳の大天狗
三年前。
華やかな京の都に……全身は傷だらけ、高熱を出し、話すことすらままならない少女が現れた。
朝方右京で発見されたとき、少女は虫の息で路地に倒れこんでいたという。
そしてそのまま医者に拾われ、目を覚ますのを待つこととなった。
しかし目が覚めた後も少女は黙して語らなかった。
体力は取り戻したようだったが、余程衝撃的な出来事にでも見舞われたのか。
三日間ほど、ただただ書を読み……患者が居るときは、医者との会話を興味深そうに聞いていたという。
そして、少女はその後突然言葉を取り戻し、
「山菜を採りに行った所、天狗に襲われて母を失った」
と語った。
名を尋ねると「藻(もくず)」と名乗った。
「はぁ~っ、あっついわねー」
季節は夏へと移り始めていた。
神社の境内で、心底憂鬱そうに掃除をしている巫女の額には珠の汗、それは強い日差しを受けて輝いている。
そして恨めしそうに縁側を振り向くと、そこには冷水を満たした桶に足を浸す、紫の姿があった。
「ちょっと! 入り浸るんなら掃除ぐらい手伝いなさいよ!」
「それも修行だと思いなさいな。全ては集中力が物を言うの」
ちゃぷ、と水面を蹴り上げ、紫が太陽のように笑う。
それを言われて、巫女は一層不愉快そうに眉をひそめた。
(それにしても)
最近紫が頻繁に姿を見せる。態度こそいつも変わらないが、何か不吉に感じた。
夜のみならず、今日のような昼間に姿を現すようになったことにも、何か理由があるのではないだろうか。
紫は物事を遠回しに訴えるきらいがある。
そういえばこうも姿を現すようになったのは、少し前、京に現れた美女の話をしたとき以来ではないか。
そして、紫は巫女の心を見透かしたように呟く。
「貴女、修行しておいた方が良いわよ」
「……なによ?」
その薄ら笑いを見て背筋に悪寒がはしった。
態度も馴れ馴れしいし、忘れかけていたが……あれは妖怪、巫女にとっては確実に仇となる存在だった。
祖母とも母とも一戦交えているという。
祖母も母も、もうこの世には居ないから確かめようが無い。
だが自分と戦ったときの紫は、明らかに本気ではなかった。
「何を企んでいるの?」
「さぁ、企んでいるのは私ではないわ」
「はぁ? はっきり言え」
「山と空、騒がしいと思わない?」
「……はぁ~っ」
無垢な笑顔にごまかされるわけにはいかない。
(あんたも感じてるのね)
遥か彼方の地……そう、それは京の辺りかもしれない。
ある一点を取り囲むように、無数の妖気が蠢いているような感覚がここ最近続いている。
思い過ごしであると思いたかったが、どうやらこれから一騒動起きるらしい。
(ここから感じるほどなんて……)
紫にしたってそうだが、大物妖怪であろうと普段から居場所がわかるほど妖気を垂れ流すものではない。
そんなに垂れ流されたら、それを感知できてしまう巫女にとってはたまったものではない。
普段は近辺に感じる妖気を追跡し、小物をいじめ……もとい、懲らしめる程度だが。
こうも無遠慮に存在を主張しているというのは、まるで威嚇や挑発である。
「玉藻前って言うらしいわ、すごく美人らしいわよ?」
「だから……いきなり話を変えないでよ。何のこと?」
「京に居る妖狐」
「もうそこまで言ってしまうわけ?」
「頭脳も明晰……瞬く間に官職まで上り詰めたらしいわ」
「そんな話、こんな田舎巫女に話して何になるっていうのよ」
「出張してみたら? ここのところ暇でしょう?」
「知らないわよそんなの。京の偉い陰陽師様が退治してくれるでしょうよ」
「正義の心は無いの? 貴女の母親なら喜んで退治に行ったと思うわよ? 多分殺されるけど」
「……そんなに弱かったの? お母さんて」
「歴代最弱ね、と言ってもまだ貴女で三代目だけど……あ、喧嘩腰だけはやたらに立派でしたわ。先代」
「あーもう、また話がそれてるわ」
巫女は箒を縁側に立てかけると、乱暴に紫を突き飛ばし、履物を脱いで桶に足を浸した。
「ちょっと、何するの?」
「これはうちの桶、この水はうちの井戸水。良いわね?」
「やあねぇ、私と貴女の仲じゃない」
「しっしっ、気色悪い」
すがり付いて桶に足を入れようとする紫を押しのける。
紫はヘラヘラと愉快そうに笑っている。案外、こういうじゃれ合いが好きなのだろうか。
「で、どうなの?」
「何が?」
「京のことよ。わかっている範囲で良い、教えて」
「へぇ……」
巫女が興味を示すと……あどけなく笑っていた紫の笑顔が、不気味なそれへと変化した。
その笑顔を巫女が見逃したのを良いことに、紫は濡れたままの足を縁側から垂らし、続ける。
「天狗の縄張りに侵入して、三度の交戦。結果は狐の圧勝」
「うん」
「けれど天狗は……そうね、それこそ天狗っ鼻をへし折られてご立腹」
「うまいこと言わなくて良いから」
「狐は、どういう目的かはわからないけれど京へ逃げ延び、人間に混ざることで天狗の追撃を逃れた」
「……それを今どう料理しようかと、天狗達が思考錯誤している?」
「その通り」
「ふーん」
巫女は大して興味無さそうに鼻をかいた。
なるほどそういう話か、こればかりは嘘つきの紫も嘘を言っていない。それも肌で感じた。
しかし腑に落ちないことが一つ。
「問題は、何故あんたがそれにそこまで興味を示してるかってことなんだけど」
「独り暮らしは寂しいものよ。ましてやこんな美女……」
「いっぺん死ね」
「まぁ、別に殿方は要らないけれど」
「うん」
「そろそろ、何か飼おうかと思って」
「……飼うって……」
「大陸産の狐、きっと愛らしいわよ? 京の男達を魅了しまくってるぐらいですし」
「ああ、今まででこれほどあんたを怖いと思ったこと、無いわ」
大げさに怖がる素振りを見せ、最後にもう一つ。
「どこからそんな情報持ってきたのよ? 前私から話したときは全然知らなかったくせに」
「情報なんて漏洩してこそじゃない」
「そういうもんなの……?」
京でのいさかいをどうにかするよりも先に、目先のこいつを懲らしめるべきではなかろうか。
……と思う巫女だったが、きっと紫は懲らしめても懲りないだろう。
巫女は心底辟易とし、そっと桶を返した。
天狗達がどれほど威嚇しようとも『藻』改め『玉藻前』が京から出てくることはない。
宮中で、その美貌と頭脳を存分に発揮し……官職まで上り詰め、そこを牙城としている。
玉藻はわかっている。
天狗達が京に入ることはけして無いと。
それがどれほどの大事件であるか……京に、いや、京だけではない。
全国に居る士、神職者、人間全てを一挙に敵に回す行動であることを知っている。
数で迫る人間と戦う羽目になっては流石の天狗も敵わない。
どちらかが滅ぶ前に争いは終結するだろうが、きっと両者共相当な痛手を負うであろうことは明白。
天狗の敵は飽くまで妖狐・玉藻。
だというのに余計なちょっかいを出して人間を敵に回したくはないのだ。
だが伊吹萃香は言う。
「良いじゃない、今の人間は妖怪……我ら鬼を畏れなさすぎる。ここらで一発殴っておいた方が良いわ」
天狗達はそれを聞き、皆表情を歪める。
最終的に従わねばならない立場ではあるが、萃香は人間を目の仇にしすぎではあるまいか。
玉藻と戦いたい素振りもないわけではないのだが、人間の話になるとことさらに目の色が変わる。
その目には復讐心が宿っている、そして同時に、哀しげでもあった。
萃香は天狗達が動いているのを歯痒そうに眺め、出陣の機を伺っている。
鬼は飲兵衛で粗暴なものと思われがちだが、それは大間違い。萃香は決して浅慮の方ではない。
天狗達の意向も汲み、その面子を立ててやろうとしていた。誇りを重んじる種族だった。
だから天狗達は、何としても萃香が山を降りる前に玉藻を京から引きずり出し、決着をつけなければならない。
萃香の自制心が働いているうちに。
玉藻が京を出る様子は無いと聞いて、警備につく白狼天狗も退屈そうだった。
京攻めは、例の精鋭部隊によってのみ行われるため、このような下っ端の白狼天狗は現地へは赴かない。
いざと言う時のために守りを固め、襲撃があった際には体を張って時間を稼がなければいけない。
そんなに強いという妖狐、別に戦いたいとは思わないし警備も退屈。苦労に見合った功績も上がらない。
白狼の少女は短い剣と小さな盾をそれっぽく構えながらも、誰も見ていないのを良いことに大あくびをした。
眠そうな目で大滝の方を見やると、轟々と白いしぶきが上がっている。
あの裏側では先輩達が、暇つぶしに将棋を指していることだろう。
この緊急時、許せないような、羨ましいような気持ちはありつつも、それを密告するわけにもいかない。
そもそも、彼女が滝の外側に出されているのは……敵ではなく、上司が来ないかを見張るためだった。
それは配属されたばかりの下っ端の宿命だった。単独行動の多い鴉天狗が少し羨ましい。
「はぁ……ん?」
少女は不意に真顔になり、小さな鼻腔を目一杯膨らませて風の匂いを確かめる。
(獣臭……?)
剣を強く握り、盾を持ち直して辺りを見回した。
三年前の襲撃の際、玉藻は一切の臭いを残していかなかった。だから比べようもない。
しかし、これは嗅ぎ慣れない臭い。
木の葉と木の葉の小さな隙間すらも見逃さぬよう、彼女は目を見張った。
少しずつ後退し、滝の裏の仲間達をすぐ呼ぶ準備をしながら。
そして木々の間を何者かが横切った。それはまさしく刹那の出来事だったが、彼女は見逃さなかった。
「敵ッ……!」
下っ端ながらも目と鼻の利く方だったから、彼女はこのような損な役回りを与えられていた。
不謹慎にも侵入者の第一発見者となったことを喜びながら、滝の裏の仲間を呼ぼうと……叫んだつもりだった。
「んぐっ?」
剣を握る右腕、そして、首を強烈に締め上げられた。
自分を締め上げる敵は、豊かな茶髪の持ち主らしい。
吊り上げられている格好のため確認は難しいが、わずかに頭部と、そこに生える獣の耳を見ることができた。
気道を押しつぶされてとても声など出せない。
無理矢理気道をくぐった呼気が、こもった呻きとなって微かに漏れる程度だった。
しかも仲間が滝の裏に待機していたのが不運だった。
小さな音でも聞き逃すことのない白狼とはいえ、この声量では滝の轟音にかき消されてしまう。
さらには視界が全て滝に遮られる。敵は妖気も完全に消している。
絶対に敵わぬ敵だと思ったが、自由に動く左腕の盾で殴りつけ、同時に脚で蹴りつけた。
だがやはりビクともしない、かえって締め付ける力が強くなっただけだった。
(え?)
敵が自分に何かを話しかけているようだが、それはまるで聞いたことの無い言葉。
声の調子はさほど乱暴ではなく、何かを確認しているように感じた。
「う、うん。うん……」
よくわからないが必死に声を絞り出し、首を縦に振った。
力では敵わない、だが死にたくはないし、とにかく一時しのぎをしなければ……。
意識を失ったら死んでしまうような気がして、涙を流し、震えながら……ただただ、頷いた。
敵はまた何かを呟いてから、予想外に優しく少女を地面に降ろした。
「ゲホ! ゲホッ!」
そしてむせる少女の背を優しく撫でた。
見ると先ほど確認できた茶髪は肩口ほどの長さ、その両眼は申し訳無さそうに少女を見つめていた。
「はぁ、はぁ……」
ぼんやりとした視界で敵を見ると、見慣れない衣装に身を包む者がそこに立っていた。
髪の毛こそ茶色だが臀部からは金色の尾が二尾、ゆらゆらと左右に揺れている。
「へ……?」
どういうことだ。報告では敵の尾は九つと聞いていたが。
それに、絶対に姿を見せないとも聞いた……目の前の敵は、幼い、澄んだ瞳で自分を見つめている。
まるで自分といくつも違わないほどに幼くて、その佇まいもあまりに無防備だった。
そのまま敵は屈託無く微笑んで、少女の頭を撫でてから飛び去った。
「……な、なんだったんだろ……?」
状況が飲み込めず、少女はしばらくそこに座り込んでいた。
白狼の少女がこのことを報告すると、大江山に陣を取っていた精鋭部隊が引き返してきた。
そして大天狗達の会議の末、その敵を新たな妖狐と判断した。
もちろんそう考えるのにはいくつかの理由がある。
まず、玉藻と同一とするには知能が低すぎる。
化けている可能性を完全に否定できるわけではないが、おそらく少女に見せたのは本来の姿だろう。
適当に頷いただけで警戒を解いたことも、判断力が欠如しているとしか思えない。
そしてもう一つ。聞き慣れない言葉、おそらくは大陸の言葉を話したということも、別の個体と判断される理由となる。
宮中で官職にまで就いている玉藻がこの国の言葉を話せないはずがない。
それも、天狗の態度を知っているからこそ京に篭城しているというのに、今更何の考えも無しに山に潜り込むこともあるまい。
完全に敵対している今、再戦を望むならもっと大きな傷跡を残すのが普通だろう。
もっとも、これを天狗達に対する威嚇、撹乱と見る意見も多少は浮かび上がった。
だが京の周りに厳重な警備を引いていた鴉天狗達も、玉藻が京を出るところは見ていないと言う。
「一度戻ってもらったが、お前はどう思う」
精鋭部隊を率いる、例の大天狗だけが天魔に呼び出され、今後の方針について話し合っていた。
山の頂上近くに聳える巨木のうろの中、豪華に装飾されたそこは、天魔の拠点だった。
「おそらく現時点では敵ではないだろう、それは九尾についても同様だが」
「……」
九尾も、二尾も、天狗と敵対する意思が感じられない。
天狗にとっては頭の痛いところであった、京から出てきてくれなければ困る。このままでは萃香が……。
「だが、新米とはいえ木っ端がそこまで簡単にやられたとなると、結び付いた時厄介ではあるな」
「そうだな」
状況から判断するに大陸から渡ってきた九尾の仲間だろう。
九尾には及ぶまいが、手を組まれると面倒なことになる。少なくとも下っ端の白狼天狗では相手になるまい。
それよりも気になるのはこの大天狗の態度。
相手は天魔だと言うのに、まったく敬意を払う様子が無かった。
元々山を離れて孤立しているほどだから、社会性に問題があるのだろう。
それでも指揮官として選ばれたのは、その兵法にのみ、揺ぎ無い信頼を寄せられていることを意味していた。
「そんなことよりも、ここしばらく大江山から京を見張っていて思ったんだが」
「うん?」
「ヤツはこちらの考えを読んでいる、恐ろしく頭が切れる」
「何を以ってそう判断するか」
「そんなの、いちいち言わんでも良いだろう。ばかな奴ならとっくに京から出てきて死んでいるわ」
「……」
「戦場に立たぬ者を殺すのは容易ではないぞ。ましてや、人間を盾にしている」
「ならば受け入れろというのか、人間との戦を」
「おれはそれでも構わんがな」
「我々はお前や鬼神様とは違う」
本当のところ、敵意が無いなら九尾など放っておいても良いのだ。
確かに、顔に泥を塗るような真似はされたが、仲間は誰一人として死んでいない。
天魔……いや、天狗は、高度に発展した社会構造を持つと同時に「権力」という見えない力に支配された。
それは、上手く扱うことのできる者が手にすれば全体に幸福をもたらす。
逆に、上手く扱うことのできない者が手にすれば全体に不幸をもたらす。
そして、持て余してしまう者が握ると……第三者に操作される、時には、権力や社会そのものに操作される。
この大天狗はそれをわかっていた。
だからこそ呆れたような視線を天魔に向け、ため息混じりに呟く。
「わかっていないな」
「……何をだ」
「嫌でも人間と戦う破目になるんだよ。萃香様がああなってしまってる以上は」
「ならどうしろと言う……」
「このままだと京に攻め込むしかなくなる。それをわかってておれを呼んだんだろうに」
それについて天魔は何も言えなかった。
なんとかして人間と争うことは避けたかった、愛する家族達、山全体の妖怪を守るために。
そのために誇りを捨てることがなんだと言う。九尾が攻めてこないなら誰も傷つかない、それでいいのだ。
だというのに……存在そのものが災厄とも言える、この大天狗を精鋭部隊の指揮官として据えたのには、わけがあった。
目の前のこの大天狗は元人間。それも、現在玉藻の居る宮中に王として君臨していた者だ。
京の中心部でその政治を司っていたが……はめられ、京を追われ、恨みのあまり妖怪と化した者だ。
かつて萃香と共に京を攻めたというのは、その私怨に由来するところが大きかった。
だから本当に京を攻めることになったとき、これほど頼もしい者も居なかったのだ。
京に攻め入れば確実に血が流れるだろうが、何も知らぬ者を指揮官とするよりは的確に動くだろう。
言うなればこの大天狗は、天魔がかけた保険だった。
少しでも円滑に京攻めを済ませ、家族達を無駄死にさせぬための。
天魔は汚物でも見るような目を大天狗に向け、うんざりしたように呟いた。
「もういい……行け」
「しばらくは京を捨て置き、山の防衛にあたるぞ」
「好きにしろ」
「そう冷たくするなよ、思うところがあるんだ」
「なんだ?」
「上手く行けば九尾だけを京からおびき出せる」
「なんだと!?」
この大天狗とて今や天狗の一員。一応は協力しているのだから、天魔の意見をないがしろにするつもりは無いらしい。
態度こそ悪いが、表立って逆らえば天狗全体から粛清を受けることがわかっているのだろう。
「だがこいつに失敗したら、萃香様を止める手段はもう無いぞ」
「説明を……」
「まだ絵に描いた餅だ。あと、あんたは勘違いしてるようだが、人間への恨みはもうそこまで抱えていない。
おれだって、人間との戦いに気の乗らない奴を無理矢理巻き込むつもりはない」
「……」
「嫌われてるのはわかってるが。それでも人間より気の良い奴が多いからな」
「そうか……」
そう言って踵を返す大天狗の笑顔は不敵で、自信に満ちていた。
(……頼むぞ……)
完全に信用を置くことはできない。だが、あの大天狗も九尾同様、頭が切れる。
人間のことも妖怪のこともよく知っている……天魔はまるで祈るように目を閉じた。
うろの外で爆音が鳴った。
空気の壁を乱暴に突き破り、仲間の元へと戻る大天狗の羽ばたく音だった。
天狗を取りまとめる天魔も、今は彼に恃むしかない。
もしかすると、長い間戦から離れ、気持ちも丸くなったのかもしれない。
その羽音は心強くもあり、同時に、言いようの無い不安も呼んだ。
~~~~~~~~~~~
――夏は夜。
宮中にある庭園で女が満月を見上げていた。
大気は湿り、空には朧月。
明日は雨かもしれない、と女が小さく呟いた。
その瞳は月に劣らぬほど金色に、妖艶に輝いていた。
身につける上品な衣服は、その女の身にまとわれたことによって本来以上の美しさを見せていた。
どこをとっても文句一つつける事すら許されぬ……澄んだ目、幼い少女よりも潤った、長い、長い、黒髪。
そして厚い、幾重もの布に覆い隠されているというのに、その身は女性特有のふくよかさを主張している。
「玉藻様」
「……はい」
女が侍女に名を呼ばれ、小さく応えた。
その声量はけして大きくはないのに、耳自体が喜んで受け入れるかのように良く届く。
「夏とはいえ夜は冷える。お体を冷やされてはなりません。それにお疲れでしょう、もうおやすみになってくださいませ」
「私のことなら心配要りません。もう少し月を見ていたいの、すぐ戻りますから」
「……わかりました」
我が身を案じる侍女を宮中へと帰し、玉藻は再び夜空を見上げた。
そしてまぶたを閉じ、
『出ておいで』
大陸の言葉でそう呟いた。
■玉藻前
『お前もこっちに来てしまったのか? 何があるかわからないから、向こうにいろと言ったじゃないの』
『いえ、向こうも危険なんです……私達が隠れていた山にも導師が入ってきて』
彼女達の周囲は異様な雰囲気に包まれていた。
玉藻が不思議な術を使い、人間の目をくらませているのだ。
祖国からわざわざ自分を訪ねてきた、かつての子分との邂逅を邪魔させぬために。
『皆やられたのか?』
『そういうわけではないです。死んでしまったやつもいるけど……』
『そうか……辛かったろう』
身を預ける少女……二尾、そう、天狗達の滝で白狼を絞め殺そうとしたもう一匹の妖狐だった。
玉藻は彼女の肩を抱き、その小さな頭にそっと頬を寄せる。
『でもほとんどの仲間は逃げ延びました、西に逃げたやつもいましたし』
『散り散りになってしまったか』
『ええ、向こうの人間は私達妖怪を狩ろうと躍起になっています。一時的にでも離れないと』
『でも、この国も危険よ……私は大丈夫だが、宮中にも鼻の良い神職者が居る。お前ではすぐに正体がばれてしまう』
『山とかに隠れていれば良いんじゃないですか?』
『いいや、駄目だ。今は何故か大人しくしているようだが、天狗という妖怪と敵対してしまった。
ここしばらく、この街の周りを飛び回って私を誘っていた。予想以上に執念深い連中のようだ。
お前は見つからないうちに、大陸へ戻って新しい住処を探すの。良いわね?』
大陸から逃げてきた玉藻は土地がわからず、誤って天狗達の縄張りに入ってしまった、というのが事の真相だった。
何があるかわからないから化けていたのだが、それは正解だっただろう。
どのような妖怪か調べるために二度目はわざと挑発してみたのだが、それが良くなかった。
見つかりこそしないものの、常に嗅ぎ回られるのは天狗自体の能力の高さも相まって、存外に鬱陶しかった。
『天狗って、山に住んでいる?』
『ああそうだ、だが最近は山の外にも出てくるようになった。見つかる前に帰りなさい』
『……』
少女は少し驚いたような顔をし、口をつぐむ。
それもそのはず、少女と天狗はもう既に遭遇してしまっているのだ。玉藻はそれを知らないようだが。
少女は玉藻の胸元にそっと顔をうずめるふりをして、その表情から思考を悟られぬようにした。
『どうして敵になってしまったんですか?』
『ああ……最初は失敗だった。敵対してしまったから、いっそ大将を打ち負かして、私がその位置に就こうとしたんだが』
山の上へ上へと登っていき……天魔や大天狗は確かに強かったが、なんとかできない相手ではなかった。
だというのに山を諦めたのは、多少の手傷を負わされて決着を焦り始めたときのことだった。
頂上付近から、恐ろしく威圧的で挑戦的な妖気を感じた。
戦ってみなければ結果はわからなかったが、上手く勝利できたとしても無事には済まない相手だと即座に悟った。
それも、一対一で勝てるかどうか。同時に天狗も相手にしてはひとたまりもないと判断し、遁走した。
『私への警戒を解いている今しか逃げる隙は無いわ。一刻も早く、今夜にでも帰りなさい』
『でも……寂しくないですか?』
『私のことは心配いらないよ。ほとぼりが冷めたら祖国にも帰るつもりだ、それまで待っていなさい』
口ではそう言いながらも、少女の肩を強く抱く玉藻の腕は、今しばらくこうしていたい、と痛切に物語っている。
(不安だったんですね……)
少女は玉藻の子分という役割ながら、玉藻が頭領を務められる性格でないことを感じていた。
大陸に居た頃から、情にほだされて致命的な失敗を犯すことがあった。
自分のような頭の悪い子分を側に置くこともそうだろう。もっと有用な奴などいくらでもいたというのに。
だが少女は、そのような温かさを心の奥底に持っているからこそ、玉藻を敬愛していた。
彼女が暴走しそうなときには、自分が助けになってやらなければなるまい、と常々思っている。
今の少女にできることは、こうして身を預けて玉藻の慰みとなってやること。
大陸に居る頃からそうだった。
しかし少女は勘違いしている、玉藻が少女を側に置いた理由はそこにある。
玉藻は常に自分の側に、味方となって立ってくれる存在……損得も大勢も捨て、理不尽なまでに自分を愛してくれる存在を求めた。
それはかけがえのないものであって、それを守ろうと思うからこそ冷静にもなれたし、限界以上の能力を発揮できた。
玉藻と少女はそのまま、空が白むまで語り続けた。
少女が「大陸で待っています」と言って閃光と共に姿を消したとき、玉藻は心底辛そうだった。
本心では、側に置きたい。自分を支えてほしいと願っていた。
慣れぬ土地、執念深い敵、身の周りは皆人間……不安を捨てろ、という方が難しかった。
翌日から、誰も知らぬところで京の住民が一人増えたが、宮中に篭る玉藻には知る由も無かった。
天狗も玉藻も戦いを避けようとしていたが……そうさせまいとするのは、意地汚い人間への復讐心を燃やす、伊吹萃香。
その萃香とても、まだ潔く大胆不敵で豪快な、気持ちの良い人間がいると、どこかその希望を捨てられない。
そのためならばいくらでも人間の敵になろうと、祈るような感情を胸のうちに秘めている。勇者を心待ちにしている。
天狗、もしくは自分に……玉藻もろともに京を滅ぼされるなら、人間など所詮その程度だったということだ。
萃香の心に焦燥感が募る。
天狗達は慎重すぎやしないか、内弁慶……臆病な種族だとは思っていたが、この状況下でまだのんびり構えている。
このところ酒の量を減らしているのは、気分が高揚して勢いで京に行ってしまわぬようにと思う萃香の配慮だった。
未だ勇者が居ると信じたい反面、それが居なかったときのことを思うと恐ろしかった。
(鬼は、恐れられてこそ……)
人間は、病魔や邪な心やら、疎ましいものを総じて『鬼』と呼ぶ。
その具現とも言えるのが人間にとっての害悪である『鬼』だった。時には、その強大さから神と崇められることもあった。
萃香はそのどちらもが正解だと思っている。時には妖怪、時には神、両方の側面を持つものだと思っている。
増長した人間を懲らしめ、神への畏怖を捨てさせないこと、そして時にはそれに立ち向かう勇気を促す。
無意識にひょうたんに手が伸びる。
萃香はハッとしてその手を止め、もう片方の手でひょうたんに伸びた腕を握り、制した。
(人間は、真正面から私を受け止めてくれるかな)
姑息な手段で追い詰め、嬲るように退治されるのは本懐ではない。
敵ながら天晴れとしか言いようの無い見事な作戦も無いではないのだが、近年ではそれもすっかり無くなってしまった。
山の頂上の岩に腰掛け、眼下に広がる雲をぼんやりと眺める。
ここに住むようになったのはいつからだったか。
大江山を拠点として、仲間の鬼と、大天狗を一名従えて人間と争ったとき以来か。
当時共に戦った仲間の鬼は、その多数が人間の罠にかかり死んでしまった。
生き残ったわずかな仲間は萃香と同様、各地に隠れるようにひっそりと暮らしている。
大天狗は今一度大江山からの京入りを目論んでいるようだ。
「……童子」
そっと呼んだ名前、前半部分は不明瞭で聞き取れない。
胸を支配する、苛立ち、寂しさ、復讐心。
どうせ天狗達は京には入るまい、さりとて、上手く玉藻だけを引きずり出せるとも思えない。
ならば天狗達の失敗を見届け、進退窮まったところで京を強襲し……華々しく散ってやろう。
天狗達は騒動の発端を萃香のせいにすれば良い。そうすれば人間も引き下がるだろう。
付け加えて玉藻と刺し違えておけば、人間と天狗はそれぞれの下で争いに巻き込まれたという立場になるだろう。
鬼は人間の敵。
人間にとって都合の悪いものが皆『鬼』と呼ばれるのだから。
京の周囲に配置された鴉天狗達も、山を守る下っ端の白狼天狗と同様に退屈だった。
情報収集をしたくても京に近寄るわけにもいかない。視認されるのすら厳禁とあっては、一体何をしていれば良いのか。
玉藻が京を出たら報告せよ、というのが上からの命令だが……。
(出てくるわけないじゃない)
射命丸文は天狗の精鋭部隊に取材をしようと訪れた大江山から、京の方角を見下ろす。
仲間から聞いた話では、もう一匹の妖狐の存在がほのめかされている。
精鋭部隊の邪魔をするなと言われていたが、争いも起こっていないのに邪魔も何も無かろう。
そもそも本気で戦う気があるのかどうか。いや、天狗にはそのつもりは無い。わかりきっている。
そこで、指揮官がどういう作戦を考えているのかを確かめたかった。
ところが大江山ももぬけの空。
大方、新たな妖狐の出現に伴って一時的に防衛に戻ったのだろう。
そこまでの情報はまだ聞こえ届いていないが、大体察しはつく。
「何してるんでしょうねぇ、私達」
巨木の枝に腰掛けて、思い切り背筋を伸ばし、呟いた。
なんて馬鹿馬鹿しい争いなのだろう。
そんな考え方の自分は、少し冷めすぎているとも思うのだが、それが正直な気持ちだ。
最初は面白い話かと思ったのだが。
(嫌なら戦わなければいいのに)
これは玉藻か、最近新しく出現した妖狐でも取材した方が面白い話が聞けそうだ。
大陸の妖怪、大陸の食べ物、大陸の酒……そういった身近な情報でも集めた方が、よほど有意義。
今のところ天狗の側で一番興味深いのは、最前線で戦う予定の精鋭部隊か、もしくは山の頂上で出撃に備える鬼神・伊吹萃香。
萃香に近づくのは少々難しいが、精鋭部隊の後を尾けることぐらいならば可能だ。
(なんとかやめさせられないかしら、この争い)
玉藻の動きを見ていて、すっかり毒気も抜けてしまった。どう見たって玉藻にやり合う気は無い。
玉藻に目を付ける理由も、やれ腕を折られたとか足を折られたとか、くだらない。
天魔だって大差ない、誤って木から転げ落ちたとでも思っておけばいいことだ。
この事件、一見大事だがまるで中身が無くて、不毛としか言いようがない。
いっそ玉藻を許してやり、山にでも招いた方が面白いだろうに。
文はそのまま木の幹に寄りかかり、居眠りを始めた。
夢ぐらい面白いものを見たいものだが……。
それから二週ほど過ぎた。
玉藻も天狗も動かず、萃香にのみ苛立ちが募っていく。
だが数名、動いているものも居た。
一人は紫、一人は巫女、一人は文……そして最後の一人はあの二尾である。
「玉藻様」
「……?」
寝所で一人……既にまどろみ始めていた玉藻の元に、あの二尾が再び現れた。
二尾は嬉しそうに玉藻を見つめているが、玉藻の表情は険しい。
『帰れと言っただろう』
「玉藻様、お側に置いてください。ほらこのように、この国の言葉も覚えてきたんですよ?」
「そういえば……」
見れば、人間にも上手に化けている。
妖気の消し方もこれまた達者で、見た目には人間の少女としか形容ができない。
京、宮中、すぐ側に居ながら玉藻でさえその存在を感知できなかったあたり、
二尾の実力は、玉藻や二尾自身が思うほど粗末なものでもなさそうだった。
「発音が悪いわよ、それでは怪しまれる」
「あと一月もあれば完全になりますよ」
「完全にしてどうなる? この国は危険よ……早く帰れ」
玉藻は三日で、庶民的な水準までこの国の語学を習得した。
その後一週ほどで、貴族として違和感の無い水準まで極めた。
「帰りたくないです」
「む」
二尾は頬を膨らませ、眉をひそめて玉藻を上目気味に睨み付ける。
根が優しいからか、甘さがあるからか……玉藻は二尾に気圧されて強く言い返せない。
「玉藻様、こうしていても何も進展しませんよ。いくら玉藻様だって、いずれ人にばれてしまう」
「数年は平気よ……」
「昔、大陸で貴女が起こした惨劇、忘れていないでしょう?」
胸に突き刺さるような二尾の言葉に、玉藻は耳を疑った。
しかし疑いようもなく、二尾は厳しい視線を玉藻に向けている。
今と同じように、皇帝の元へと仕え……玉藻に魅了された皇帝は、その妖気を浴びて狂人と化した。
そして繰り返される暴政、略奪、殺戮。
玉藻自身には、そんなつもりなどまるで無かったというのに。
『妲己様』
「やめろ……その名を呼ぶな」
玉藻は耳を塞ぎ、小さくなって震え始める。
まさか、この二尾がそんなことを言うなんて……忠実な子分が自分の心の傷をえぐるなんて、思いもしなかった。
目を閉じて、涙をこぼす……思い出したくない辛い過去。愛したのが人間だった、というだけのことなのに。
「玉藻様」
「……」
「玉藻様、こちらを見てください」
「……?」
二尾は背を向ける玉藻に向かって跪いていた。
そして精一杯表情を引き締め、その両眼で玉藻を見据えている。
しかし二尾が何を言わんとしているのか、玉藻には予想もつかなかった。
「幸せになりましょう、玉藻様」
「幸せ?」
「天狗達と和解し、あの山に住まわせてもらうのです」
「無理よ、私は彼らを傷つけてしまった」
「あの山には天狗達の厳重な警備網が敷かれており、周囲の人間が近づくことはありません」
「それは知っているが……」
「玉藻様の知恵をもってすれば、今度はあそこで役職を得ることも可能でしょう。
そしていずれはその権力をして、大陸で路頭に迷う仲間達を受け入れてもらうのです」
玉藻は力強く語る二尾を見て驚きを隠せない。
まだまだ子供だとばかり思っていたが、そこまで強い使命感を抱いて動いていたのか。
仲間を愛する気持ち、平和を愛する気持ち……それは自己中心的だった玉藻にはにわかに受け入れ難く、
同時に、その表情に言いようのない愛おしさを感じた。
「けれど無理、無理よ……私にそれほどの勇気や気概は無い」
「貴女が『妲己』と呼ばれた当時、まだ私は生まれていませんでしたが……話だけは聞いています。
争いに巻き込まれ、討たれそうになっている仲間のために、身を挺して神々と戦ったと」
「そうね。でもあれは、私が原因だったのだし……」
その頃の自分は、今のこの二尾のような目をしていたのだろうか。
自信は持てなかった。
「妲己は、人間と妖怪の仲を取り持とうと積極的に動いた、気高き妖狐でした」
「私はそんなに高尚ではない」
「今度こそ、楽園を作りましょう。形はどうあれ、人間との共存を目指して」
「……口で言うのは簡単だわ」
「そうかもしれません。ですが、何もしないで諦めるのは嫌です。どうか胸を張ってください」
そう言って二尾は姿勢を正し、玉藻に頭を垂れる。
「貴女には私がいます」
「……」
玉藻は何も言えず……ただ、澄んだ瞳で自分を見つめる二尾を抱き寄せた。
口では格好良いことを言っているが、この子はまだ未熟すぎる。
ここまで言われて尚、玉藻が願うのは二尾の大陸への帰還だった。
「わかった。わかったから……後のことは私に任せて。お前は大陸へ帰りなさい、絶対によ」
「……玉藻様。まだ信じてはいただけないのですか?」
「信じる信じないの問題ではない。私はお前まで失ったらもう……」
「わかりました」
二尾は玉藻の腕を押しのけて閃光を放ち、元の姿へと戻った。
そして振り返りもせず、二尾をゆらゆらと揺らしながら廊下へ出て、そのまま夜空へと舞い上がった。
嫌に素直に従った二尾の様子を不安に思う玉藻は、その日、寝付くことができなかった。
初夏の境内、巫女は落ち着かない様子だった。
八の字を描くように鳥居の周りをぐるぐると回ったり、突如虚空を凝視したり。
「うーん、うーん」
あまり葉も落ちないので掃除が楽で良い季節なのに、どうも気持ちが昂ぶる。
鳥居の周りを何周しただろうか、巫女の額には小粒の汗が大量に滲み出していた。
(早く夜にならないかしら……)
紫が来るかはわからないが、昼よりは来る確率が高いだろう。
そろそろ情報を『漏洩』してくれないと困るのだが……でないと心の中に暗雲が立ち込めるばかりで、
その暗雲の奥にどんな異変が潜んでいるのか、探る術が無い。
こういうときばかりは紫の情報収集能力が役に立つのだが。
「肝心なときに居ないんだからー! もおーっ!」
お払い棒を振り回し、地団太を踏む。
要らない時だけ来て、からかうだけからかって帰っていく。
住む場所を変えたらしく、先祖代々伝えられてきたあの場所にもう紫は居ない。
紫どころか、家ごと消え去っていた。地面に大きな窪を作って……一体どんな乱暴な手段で引越したのだろうか。
トクントクンと、ずっと胸が鳴っている。嫌な胸騒ぎが収まらない。
紫の話では、玉藻は京に引きこもって出てこない。
天狗も玉藻が京に居る限り、攻めることができない。
だが巫女の心の中には、他に数点……硝子に染み付いた汚れのように、曇った何かがあるような気がしてならない。
そしてその一つが紫であろうことは明らかだった。
何も狙っていないようで、何かを狙っている。でなければ紫があそこまで活発に動くとは思えない。
大陸の狐を飼いたいだなんて、そんなちゃちな理由だけではあるまい。
だが、あといくつかがどうしてもわからない。
一体どこのどいつが何を企んでいるのだろう、と考えてもそこは人間、誰かに聞くか自分で見てくるしかなかった。
結論から言えば、巫女はそれら「曇った何か」が、この騒動を人間と妖怪の大戦争に発展させる気がしてならない。
(京に行こうかな……)
しかしそんな気持ちは、賽銭箱の中身と財布の中身を合わせてみて、脆くも崩れ去った。
(旅費が……)
飛んで行ったって、腹は減る。
人間の社会は残酷である。
巫女の勘は当たっていた。
その日の夜、鴉天狗達は京から大きな妖気を持った者が飛び去った、と天狗全体へ報告した。
そしてそれが真っ直ぐ山の方へ向かっているということも、追加情報として報告した。
玉藻が京を出たならば、それはむしろ天狗と人間にとってはありがたいことである。
ここで決着がついてくれれば、飽くまで玉藻と天狗の戦いのみに留まるからだ。
だが『巫女の勘は当たって』いた。
玉藻は京を出ていない。京を出たのは二尾の方。
巫女の心に染み付いた汚れ、その一つ目は二尾。
そもそも、玉藻ならば偵察の鴉天狗の目をごまかすことなど、わけないと考えるのが自然。
二尾は天狗達に対して姿を隠す必要はもう無いと思っている。
下手な小細工は天狗達の警戒心を強めてしまうからだ、本来の姿をさらす必要がある。
何一つ包み隠さず天狗の前に現れ、頭を下げて和解を申し出る。
それが二尾の狙い……二尾は玉藻の命令を守らなかった。
玉藻を思うがゆえに盲目となっている。それがどれほど危険なことかが理解できていない。
玉藻は、二尾が交渉に行ったらどうなるかなどわかりきっている。
だからあれほどしつこく、みっともなく、警鐘を鳴らし続けていたのだ。
たまに巫女が遊びに来て、本気で自分を倒そうとしているのも可愛いが……。
安眠妨害は敵、紫は家もろとも空間を切り取り、新たな住処が見つからないよう厳重に結界を引いた。
それは物理的な境界ではなく、論理的な境界。境界の中と外には一点において決定的な違いが存在する。
その条件を満たさなければ境界を越えることはできない、逆に、条件を満たしていればそれは結界としての意味を為さない。
わかりやすい例を出せば生と死、生きているものは通常、死の世界へ踏み込むことはできない。
たまに平気で突破して息をしている、とんでもない例外も居るが。
(……いけない)
まだ外は夕方、紫が起きるには早い時刻だった。
しかし、はっきりと目が覚めてしまった……不測の事態、二尾による天狗への和平交渉。
それは紫が頭の中で描いていた筋書きとは違う。
夏掛けを乱暴に押しのけ、上体を起こす。
目を閉じて山の様子を窺うと、あの二尾は白狼天狗の追撃を必死で振り切りながら山を駆け登っている。
紫の望みは天狗達と玉藻の決戦……その舞台は京のはずだった。
おそらく玉藻は敗退する。人間に正体もばれ、行き場を失う……そこに横槍を入れ、玉藻を拾うつもりだった。
あの二尾は生き残ったら玉藻と共に式神にしても良いが、今の能力を見る分にあまり魅力は感じない。
面倒を見るのも嫌だし、玉藻にも式の打ち方を教えて、式の式とすれば良い。
玉藻ならば数日で式の打ち方を覚えるだろう。彼女の能力はそれほどに魅力的だ。
「あの天狗……」
確か、崇徳とか言ったか。
(あいつが……あの二尾を利用しないわけがない)
かつては天皇を務めていたというのに、人の世を追われ妖怪と化した哀しき存在。
鬼の首領格である酒呑童子、茨木童子と結託し、京を襲っていた大妖怪だった。
当時の紫は外から眺めているだけだったが、その残虐性は鬼に勝るとも劣らなかった。
おそらくあの二尾を、玉藻を釣るための餌として利用する。
思えばあの頃から嫌な雰囲気があった、人間と妖怪の関係が徐々に殺伐としてきていると感じた。
昔から取って食ったり、退治されたりはしていても、どこか暢気で間の抜けたところがあったのだが。
知恵をつけ残酷に、強力になっていく人間。それに憤怒し、本性をむき出しにする妖怪。
(鬼は……)
酒呑童子だか茨木童子だか、それともそれ以外が生き残ったのかよくわからない。
大多数の鬼は大江山で毒入りの酒を飲まされ、寝入ってから首をはねられて死んだという。
一人はその最中に京を襲っていたおかげで助かったと聞く。
その鬼はその後も仲間の仇を名目とし、崇徳天狗と共に幾度も幾度も京を攻めた。
その後、今天狗達が住む山に鬼神として君臨した。
「え、ええっと、どっちの童子だったかしら」
予想外の出来事は起きるし、寝ぼけているしで思い出せない。
紫は寝起きで乱れている髪の毛をさらにかきむしった。
「まぁとにかく、崇徳天狗、なんたら童子と他多数」
対するは、玉藻、二尾、人間多数。おそらく玉藻が身にまとう『人間』という鎧はこれで剥がされる。
そして第三勢力として紫と、一応、巫女。
(そうね……)
いっそやり合わせてしまおう、多少危険な手段に訴えなければいけなくなるが。
その間に巫女を何とかする……まだ少し若すぎるが、その力は初代に比肩する。
(私には目的がある)
そのために今回は何としても玉藻を獲得したかった。
いくつもの条件を満たさなければ目的は叶わない、まだ時期尚早だが。
(新たな筋書きを考えなくてはいけないわ)
とは言うものの、既にいくつかの未来が見えていた。
「ふー……」
とりあえず、急いで二尾を救出しなければならない、というようなことではなくなった。
紫は湯飲みに、枕もとの水差しから一杯水を汲んでそれを飲み干す。
再び目を閉じると、二尾は白狼天狗の猛攻を受けて傷だらけになりながら頂上を目指している。
大きく開かれた口は、敵意など無いことを必死に主張していた。
「京で大人しくしていれば良かったのに」
寝巻きの襟元を正して立ち上がった。
二尾には可哀想だが、それよりも紫は巫女のところへ行かなければならない。
「話を……! 頼む! 話を聞いてぇっ!」
二尾は血まみれになりながら……山頂を目指すのではなく、山頂に追い詰められていった。
山頂付近には精鋭部隊が待ち構えている。末端の白狼天狗の命は、二尾をそこへ追い込むこと。
「ぐぅっ!」
白狼天狗の威嚇射撃が二尾の左膝に直撃した。
二尾はそのまま倒れ、泥まみれになりながら山の斜面を転げ落ち、樹にぶつかってようやく静止する。
しかし樹にぶつかった衝撃も大きく、口から苦しげな呻き声が漏れた。
「お願い……私達……いや、玉藻様だけでも……」
目に涙が滲み、周囲にいる白狼天狗の数すら把握できない。
こんな役立たずな自分を愛し、重用してくれた偉大なる主、玉藻。出会った頃は妲己と名乗っていた。
彼女自身は争いを望まないのに、その大きすぎる力が常に争いを呼んだ。
望まぬ戦いであったにも関わらず、彼女は常に先頭に立って仲間を守った。
どれほどの苦痛だったか、想像に難くない。
きっと穏やかな生活を望んでいたに違いない……人を愛したばかりに起こってしまった大陸での戦争も。
何もかもが、彼女の足を戦場、争いへと向けた。
『妲己様を、これ以上傷つけないでくれ……』
二尾はその瞬発力を失った左足を引きずり、尚も頂上へと。
天狗達への反撃は一切しない。玉藻の無駄な殺生を嫌う精神は、この二尾の心にもしっかりと根付いていた。
あの時白狼の少女を絞め殺さなかったのも、そんな二尾の性格から来る行動だった。
『これから妲己様と、お前達と、楽しく暮らすんだ……』
気が動転してしまって、つい、慣れ親しんだ大陸の言葉が口からこぼれる。
それを聞いた白狼天狗達はさらに身構え、威嚇射撃を繰り出し、二尾を頂上へと追い詰めていく。
「ぐぁっ!」
続いて白狼天狗から放たれた光の弾が二尾の背に直撃する。
胸の中で何かが裂けたような鋭い痛みがあって、二尾は倒れ込み、口から血を吐いた。
「たのむ……」
そう言いかけた二尾の口から、ごぼ、と、水の漏れるような音がして、泡の混じった黒い血があふれ出す。
(いけない、肺が)
まだ死には至らない……だがすぐに手当てを受けなければこのまま衰弱し、死ぬだろう。
声帯を震わせるための空気を送り出す肺がこれでは、もう哀願も叶わない。足をやられて、逃げることも叶わない。
(妲己様、助けて)
涙がとめどなく溢れてきた。何故天狗達はこうも頑なに自分の要求を拒むのだろう。
争って良い事など何も無いはずなのに。
血の泡を吐き、吸い……身動きも叶わず、二尾はまさしく虫の息でしばらく寝転んでいた。
「酷い……何もここまでしなくても」
そんな声が聞こえた。
目がかすれてよくわからない。
「こんなことをしたら……本当に九尾と全面戦争をしなければならなくなりますよ!?」
誰かが、自分を擁護してくれている。
もしかすると、自分の命と引き換えに玉藻に安住の地を提供できるかもしれない。
倒れ、うつろな目のまま、動けない二尾の表情がほんの少し緩んだ。
「九尾が本気を出したら、どれだけ犠牲が出ると思っているんですか……」
「人間共と、終わりの見えない戦いをするよりはよほどましだ」
重く冷たい声が、自分を擁護する少女のものと思しき声を絶った。
その声を聞いた二尾は、自分の意識が頭から離れていくのを感じた。
天狗との和解は成らないと諦めたとき、その絶望が意識を、ぶちぶちと引き剥がしていく。
「九尾が来たら真っ先に萃香様に当たってもらう。流石の九尾とてひとたまりもないだろうよ」
「……」
「そんなことより、お前……名前はなんだ」
「……」
「さっさと言え」
「射命丸文です」
「鴉なら足も速いだろう。入京を許可する、こいつを玉藻の前に連れて行け。しばらく死にはしない」
「……飽くまで、そういう姿勢を維持するんですか」
「何度も言わせるなよ。この作戦の方が天狗が死なない、それだけだ」
「何か言伝は?」
「『この子の勇気には恐れ入った。いつでも山に来てください』と伝えておけ」
「……!?」
最後の言葉が、離れ行く二尾の意識を引き止めた。
不運にも、その言葉だけがしっかりと意識の内に滑り込んだ。
二尾は誤解する。
ついに気持ちが通じたのだろうか? と。
しかし二尾の口からは礼ではなく、肺から逆流してきた血の泡が溢れるのみだった。
そして二尾は文に抱き起こされ、背負われる。
少し動かされるだけで胸が痛くて気を失いそうだった。思ったより傷が深い。
だが今意識を失うわけには行かない、ようやく叶った和平締結、ようやく手に入れた安住の地。
絶対に自分の口から玉藻に伝えたい。
文は夜空を突っ切って京へ向かう。
別にこの二尾には何の思い入れも無いが、いくらなんでもこのやり方はむごすぎる。
九尾の前に立った瞬間、首をはね飛ばされるのではなかろうか。
きっと、反抗的な文に対して崇徳天狗が罰を与えたのだろう。
損な役割と言う他なかった。
「ありがとう……」
「良かったわね。きっと九尾のところへ行けば、傷も治してもらえるよ」
「う、ん……」
せめて死ぬ前に一度でも、九尾に会わせてやろう。
文だって死にたくはないから、九尾の元にこの子を置いたらすぐに逃げるつもりだが。
「山へ来たら、大陸での話を取材させてね。興味あるわ」
「いい……よ」
二尾の意識が途切れないよう、文は必死で話しかけた。
もうまともに動かない体で文に必死にしがみつく二尾は、あまりにも哀れだった。
だが、意識を失ってもらうわけにはいかない。九尾が文の話を聞いてくれない恐れもある。
しっかりと二尾の口から説明してもらわなければいけない。
「九尾……玉藻っていうんだっけ、どんな人なの?」
「やさし……」
「そうなんだ」
崇徳天狗からの言伝は何でも良かったのだろう。
これだけむごたらしく嬲られ……瀕死の部下を突きつけられて、九尾が冷静でいられるとは思えない。
たとえ和平締結が事実だとして、九尾の方から破棄する可能性すらある。
「いつも、皆のことを守ってた人……」
首筋に二尾が吐いた生暖かい血がかかり、文は表情を歪める。
「だから、今度は……私がまも……て」
「そう……」
京が見えてきた。
この二尾を見せれば、どうあっても九尾は山へとやってくるだろう。
それが本当に和平締結を信じてか、はたまた仲間の仇討ちか、いずれにせよ……九尾も萃香に討たれ、こうなる。
(こんな後味の悪い終わり方……)
冷静に構えていた文も、崇徳天狗の残酷さに嫌悪を感じずにはいられなかった。
正々堂々、とまで言わないが……。
九尾に近づくにつれ脂汗が滲む、手がぬめる。二尾を落としそうになり、必死に体勢を維持する。
真夜中だから警備は薄い、人間の目は妖術でなんとかごまかせそうだ。
だが、九尾に辿り着けたときこそが、文の生死の境。
そして九尾の寝所へ辿り着いたとき、既に彼女は文と、瀕死の部下の存在に気付いていた。
「はぁ、はぁ……っ」
玉藻から発せられる凄まじい威圧感。
豊かな金髪と、恐ろしく長い九つの尾。真夜中だというのに全身が仄白く発光し、とりわけその尾は、自ら眩く輝いている。
大陸の導師服を身に纏い、瀕死の部下を見ても動じることも無く……金色の瞳で文を睨みつけた。
『妲己様……』
「え、うそ?」
二尾はもう歩けるような状態ではないはずなのに、文の背から降りて玉藻へとまっしぐらに向かっていった。
途中、ドッと倒れて血を吐いてからは、這いつくばって玉藻に接近し、その腰を抱く。
「天狗は、わたしたちをうけいれて……」
「そうか」
途中まで言いかけて二尾は血を吐いたが、玉藻に意思が通じた事を確認し、弱々しく微笑んだ。
そして玉藻は悲しそうに微笑んで、そっと二尾を抱いた。
もはや二尾は玉藻の妖術をもってしても手遅れなのだろう。瀕死の状態、高速で長距離運ばれたのだから無理もない。
むしろ、未だに生きて喋っていることが奇跡だった。
「よくやってくれたね。お前は私の自慢の部下だ」
「玉藻さ……」
「だが本当に言うことを聞かないねお前は。大陸に帰れと言ったのに」
そう言われて二尾は玉藻からうつろな視線をそらした。
だが玉藻は怒る風でもなく、優しく二尾の頭を撫で、頬を寄せる。
「だから、最後ぐらいは私の命令を聞きなさい」
「はい……」
二尾は玉藻の声を傾聴する。
自分に与えられる最後の命令は一体なんだろうか。
「私の腕の中でお眠り……良いね?」
それは今の二尾に唯一可能な、あまりにも悲しい『命令』。
その言葉に安心したのか、二尾はそのまま目を閉じ、動かなくなった。
本当に眠るように、血を吐くこともなく……静かに息を引き取った。
「……おやすみ」
その様子を眺めていた文。
本心では逃げたくて仕方がないのだが、周囲に立ち込める玉藻の妖気がそれを許さない。
初めの頃は二尾を優しく包み込むような気配だったが、それが徐々に禍々しいものへと変わる。
同族を殺めた天狗を恨む、怒りの妖気へと変貌していく。
愛しい部下の亡骸を抱く玉藻の全身の毛が、天を衝くように逆立つ。
「……おい、お前」
話しかけられたが、金縛りにあってしまい声すら出せない。
あふれ出した妖気で宮中の人間が発狂し、あちこちで奇声を上げている。
とんでもない相手を怒らせてしまった、と文は今更後悔した。
「何の真似だ。この子をこんな無残な姿にして、私の前に連れてくるとは……どういう了見だぁッ!」
怒号と共に玉藻の体から放射された妖気が文を庭園まで吹き飛ばした。
玉藻から離れたことで多少は体の自由が利くようになり、文は急いで酸素を吸い込む。
そして玉藻は二尾の亡骸を自分の布団へと寝かせ、ゆっくりとした歩調で文を追い詰める。
「あの子が、私が……一体お前達にどれほどのことをした!? 何故ここまでされなければならない!」
「うぐっ!?」
玉藻は文の胸ぐらを掴み、鬼のような形相で睨み付ける。
だが文は必死に声を絞り出す。今更弁明の余地など無いとわかっていながらも、必死に。
「天狗はあなた達を受け入れてなんていない! だからお願い! 山には来ないで!」
「ふざけるなよ……? あの子は私の宝だった、この国で唯一の宝だった!」
「貴女でも敵わないような妖怪がいるのよ! 大陸にもいたって聞いたわ……鬼よ!」
「鬼……そうか、あれは鬼か。だが関係ない」
「あの子は最後まで貴女の身を案じていたの!」
「いけしゃあしゃあと、よくもそんな、なめた台詞を吐く……! その舌、引っこ抜いてやる!」
文の顔を掴もうとして手を伸ばした瞬間、その表情が目に入った。
涙を流している、その涙は恐れによるものではない。
「私達だって自分の身を守ろうとして必死なのよ!」
「なんだと?」
「鬼に言われるまま京に攻め込んで人間との戦いになったら仲間がたくさん死ぬから……
だから、私達の仲間はあんただけを殺そうとして……あんたを京からおびき出すためにこんなことをした!
人間よりはあんたと戦う方が被害が少ないから!」
「……」
「だから来るなって言ってるのよ! まんまと罠にかかって、あの子と同じになりたいの!?
なんであの子はあそこまでして私達と和解しようとしたの!? わかってあげなさいよ!」
天狗達も争いは望んでいない。その証拠とばかりに、文は二尾に情けをかけている。
ろくに体も動かせない文のその涙声と強い視線を受けて、玉藻は我に返り、その場に膝をつく。
「私を……守るためか……」
「言ってたわよ。いつも仲間を守ろうとして傷つく玉藻様を、今度は私が守るんだって」
文を掴んでいた腕の力が緩み、玉藻はそのままうなだれる。
「……あいつ……」
「大人しく大陸にでも帰りなさい。あんたは頭が良いから、いくらでも生きる道を見出せるでしょう」
そうだ、一緒に大陸に帰ってやれば良かった……京に潜んでいるよりは面倒事は多かっただろうが。
向こうには向こうで、人間に追われて苦しむ仲間達が居る、その面倒も見なくてはなるまい。
しかし、それでも……大陸に帰っていれば、二尾が死ぬことはなかった。常に側に置いて守ってやることができた。
「ああ……上司になんて報告すれば良いのよ」
文はすぐに涙を拭い、緩んだ玉藻の妖気の中で、ようやく立ち上がる。
それは二尾のために流した涙ではなかった、あまりにも悲しい現実に流した涙だった。
自分の立場もあるが玉藻の気持ちもわからなくもない、だから真実を伝えた。
玉藻はもはや文のことは相手にせず、ふらふらと二尾のところへ戻って、その亡骸を抱いていた。
宮中の随所から人間の悲鳴が聞こえる……文は気分が悪くなってきて、玉藻の背をちらと見てから夜空へ飛び上がった。
あれでは、玉藻ももう宮中には居られまい。
いずれにせよ、山に来るか、大陸に帰るかしか選択肢は無いはず。
玉藻がどう出るのか……この場はなんとか凌いだが、まだ予断は許されなかった。
そして文が京から大分離れたとき……京で一度妖気が大きく膨らみ、すぐに萎んだ。
何が起こったのか文にはわからなかったが、玉藻が何かをしたことは間違いない。
胸の奥底から背筋にかけて、ゾクゾクと、嫌な予感がはしった。
翌日、一晩の内に起きた異変が京で広まった。
そしてその原因は玉藻の寝所にあった、九尾狐の死体が原因であるとされた。
玉藻は死んだ。
何が起こったのかは、現時点では誰も把握していなかった。
紫や萃香でさえも。
まだ前編なのにちょっと泣きそうになっちまった(・ω・`)
コーヒー飲みながら続き読んできまー
あさって留年かかったテストあるけどそんなの気にしない~
と言う訳で続きを
ダッシュ!((( 三( -_-)
二尾の死ぬ所がベタではありますが、涙腺にきました。
さて、早速続きを
何がおこった!?
と冗談はここまでにして「流石」の一言
面白い題材が琴線に触れまくりです。
大きな流れにもかかわらず、引き込まれるような展開がたまりません。
つっ、続きに行って来ます!
現時点では、オリキャラよりも文に違和感があったかも知れません。取材魂は相変わらずですが、玉藻と対峙してる場面のあたりでちと引っかかりました。
まあ、まだ若いから、とも考えられますが。
ソレもまたよきかな・・・
一つ言うなら、続きが気になりすぎるくらいだ