Horoscope
風が吹いてた。
神社に隙間風は吹きこまないようにはなっているが、音だけを聞いているだけでも寒くなる。
台所で早苗が料理でもしているのだろう。包丁とまな板が奏でる子気味良い旋律を背に八坂神奈子は窓の外を見た。
「一雨来そうだね」
雲は低く、空は暗く、いつ雨が降り出しても可笑しくない。
雨が降ったらふったで友人の洩矢諏訪子は喜びそうだ、蛙だし、と神奈子は微笑する。
「なにか良いことでもありましたか」
見れば早苗が、神奈子と彼女とここに居ないもう一人の分を合わせた三人分のご飯を、彼女の膝ぐらいの高さの机に用意しながら神奈子の方を見ている。
最近は良い事と言えるほど良いことは何も無いさ、そう言って机の傍らにどかっと座った。
もう一人分の食事が余ったが、別に二人は気にする風も無く食べ始める。
「あー、早苗ったらご飯できたら呼んでよ」
ドタドタ、と二人が食事を始めた居間に走りこんでくる人影。
元気そうに二人の前に現れた少女は、早速自分を呼ばなかった早苗に食って掛かった。
「できる直前に三回ほどお呼びしましたが、記憶にありませんか」
早苗は少し苦笑し、少女――洩矢諏訪子に問いかける。
「無いよ」
即答する諏訪子に早苗の笑顔が崩れたように神奈子には見えた。
「冬も近いんだ。
いつも寝てばかりいる諏訪子が寝ぼけていたんじゃ、覚えてなくても仕方ない」
早苗が少しだけ諦め顔でため息をつくのを見て神奈子は内心胸を撫で下ろした。
最近の彼女はどうもどこか張り詰めている気がしてならない。
伊達に彼女が物心つく頃より前から付き合ってはいないのだが、それでも相手のことを十分に推し量るには如何せん短すぎる。
そもそも人の一生では生まれてから死ぬまで共に居たとしても相手を十分に知ることなど不可能なのだが。
「諏訪子、早苗の為に言っておくけど、ちゃんと早苗は貴方を呼んだ。
それでも起きなかったのは誰?」
神奈子は一口にまくしたて諏訪子に反論の余地を与えない。
「……起きなかったのは私だしね。早苗、起き抜けに噛み付いたりして悪かったわ」
諏訪子は幼い外見をしているが、それでも神だ。
多少の理不尽ではあっても、ちゃんと論理を組み、自分の非を認めるだけの度量はある。
謝られた早苗が力なく微笑む。
「蛙はもう冬眠する季節だし、貴方もいっそ冬眠するかい?」
「冬眠なんか……しないわよ」
否定する諏訪子だが、どこか誘惑を断ち切れてない。
「貴方が冬眠したら、その時はちゃんと寝たまま諏訪湖に沈めてあげるから、もちろん石くくりつけて置くから心配なしよ」
「死ぬー。それは死ぬってー。冬の湖はいいけど、石を括り付けるのだけはいやー」
薄ら笑いを浮かべて神奈子が「諏訪子専用冬眠コース」のサービス内容と銘打って言うと、諏訪子は全身でその待遇案を拒否した。
冬の湖はいいのかよ、と神奈子には内心そっちの方が信じられなかったが。
「神奈子様、それは余りにも酷すぎます」
控えめな声に神奈子が目をやれば、早苗が片手を口元に当てて笑っている。
想像でもしたのだろうか。
それ以降、大した問題も起こらず、洩矢一家の団欒は終わった。
---------―――――――――――――――-----------―――――――――――――――――――――--――――――――
数時間前、東風谷早苗は麓の神社へ行く準備をしていた。
空は後に雨が降るなど夢にも思えないぐらい晴れ渡っている。
大切に荷物をまとめる早苗の顔はとても楽しそうだ。
「なにか良いことでもあったのかい」
神社の境内を散歩していたのだろうか、ひょっこりと顔を出した神奈子が早苗に声をかける。
「これからあるんですよ」
からかおうと思っていた神奈子は、そう言って笑う早苗の表情に毒気を抜かれた。
成程、目の前でこうも幸せそうにされたら邪魔する気も失せるもの。
世にバカップルなどという存在が野放しにされるのもさもありなん。
神奈子が一人納得している間も早苗は荷物の準備を淡々と済ませていく。
「何を持っていく気」
見れば風呂敷には色々と詰まっている。
そのほとんどが下着であることが神奈子の邪推を禁じ得ない。
むしろ、この場合だと「何する気だ」と神奈子が聴いていてもおかしくは無かった。
「これまでに麓の神社に何度も泊まっていて、その度に下着やら何やらと借りてきていので、返しに行くんです」
言われて、昨晩遅くに早苗が慣れない洗濯板と格闘していたのはこの借りていた服の洗濯の為だったのか、とまたも神奈子は一人納得する。
「早苗はできた子だねぇ。これならどこに出しても恥ずかしく無い」
神奈子の賛美にはにかんで応える早苗の頭を、神奈子は撫でてやる。
くすぐったそうにしながらもそれを許す早苗。
人と神の差はあれども、そこには同じ時間を共有してきた家族の団欒と形容できる空気があった。
――あの娘は早苗にとって導にはなるかもしれない。
――だけど……
静寂。
小声だったせいか、早苗には神奈子が何を言ったのか聞き取れなかった。だが、聴きなおす気にも何故かなれなかった。
「神奈子様……?」
不安げな早苗の視線に、神奈子は「どうかしたの」と問い返してくるだけ。
さっき何と言ったのですか?
それとも私の空耳ですか?
喉から出かかった質問を早苗はぐっと飲み込んだ。
ここで早苗が何も聴かなければ空耳だったことにできる。
そう、さっきの神奈子様の言葉は絶対に空耳だ。
決め付けて思い込み、早苗は鉄の仮面を被る
「なんでもありません。ただの空耳ですから」
早苗は鉄の笑顔で笑い、神社の外へ歩いていく。
いつの間にか錆が付いてほころびたそれを神奈子は笑って見過ごした。
「そう、いってらっしゃい。
それだけを言う。
「はい、行ってきますね、神奈子様」
振り向いて遠ざかって行く早苗の背中に。
「そうだ、早苗。今日は雨が降るだろうから、麓の神社で泊まって明日帰ってきなさい」
神奈子は最後にそう声をかけ、神社の中へと姿を消した。
早苗は足早に麓の神社までの道のりを行く。
実は今日も霊夢の神社で一晩泊まるつもりだった。
それだけに神奈子が最後に言っていた言葉に引っかかりを覚える。
いつも早苗が朝帰りどころか昼帰りしても何とも言わなかった神奈子が何故あのようなことを口にしたのだろうか、と。
どちらにせよ泊まることに変わりは無いのだと気を取り直して早苗は麓まで文字通り飛んで行った。
いつもどおりに麓の神社へと向かう早苗の顔がいつも以上に明るいのには訳がある。
星座盤。
外で小学生の頃に教材として使われて以来、ずっと倉庫に仕舞われていたのを早苗は昨晩に発見したのだ。
季節ごとに見える星空が変わる事。地上だけでなく、空にも四季があることを知った事。
幼心に受けたそれらの感銘を、まるで昨日のことのように思い出した早苗は、早速これをつかって霊夢との話の話題にしようと思っていた。
もうすぐ冬だからオリオン座、おおいぬ座、こいぬ座の冬の大三角形あたりがそろそろ見れるようになるのだろうか。とにかく、女の子の話題としては持って来い、だろう。
もっと霊夢と仲良くなりたいと心から思う早苗には本当に渡りに船だった。
更にポケットには星座占いの分厚い本まで用意している。
そう、万事に置いて抜かりは無かった。
時刻は昼過ぎ。
麓の神社には珍しい顔と良く見る顔が二つ並んでいた。
「もうすぐ秋も終わりだな」
黒白の普通の魔法使いこと霧雨魔理沙が、縁側の板の間で――この季節の移り変わりの按配から今年最後になるだろうと思われる――うろこ雲が出ている空を見上げている。
「そうね、雪が降ると外に出るのが億劫になりそうだわ」
横で分厚い本を抱えた少女もそれに同意する。
神社を蟲が襲った事件以来、しばらくぶりに顔を出した人形遣いにして七色の魔法使い、アリス・マーガトロイド。
「アリスの場合は年中ずっと億劫なんじゃないのか」
失礼ね、とアリスは魔理沙に食って掛かる。
実際のところは魔法の研究や人形作りに明け暮れているだけで外に出る機会がただ単に少ないだけ、というのが引き篭り疑惑をかけられた当人の弁。
その言い訳は、季節に関係無く幻想郷中を飛び回っている魔理沙に、ものは言い様、語り様、と笑われて、言い返せば「はいはい」と流されて、またアリスは剣幕を立てる。
「あんた達、喧嘩するなら余所でしなさいよ」
見るに見かねたのか、湯のみ片手に霊夢が境内から出てきた。
片手には煎餅が山ほど盛られた皿があるのだが、表情は少しばかりご立腹で二人の不躾な来訪者に今にも賽銭を要求しそうだ。
「ふぅ、魔理沙の言い方はとにかく、それよりも秋の済んだ空が冬霞にとって変わられるのが少し不満ね。これじゃまた秋まで名月は見られないわ」
霊夢の剣幕に飲まれたアリスはさっきまでの怒気を孕んだ剣幕もどこへやら、昼の空を見上げてそんなことを言った。
「月見酒も飲み収めだな」
釣られて魔理沙もアリスと同じように空を見上げる。
その後、二人してお互いを見ては顔を「ふん」と逸らすあたり、仲が良いのか悪いのか。
とにかくそれはそれとして、まだ月も出ていないのに既に酒の瓶が開けられているのは放っておくべきだろう。
「今日はパーっと私が星空の話でもしてやるさ」
魔理沙が開けられた瓶と霊夢の手が持っている煎餅の皿に手を伸ばす。
「私としては星の話は正直うんざりよ」
しかし、霊夢によって煎餅の盛られている皿はさっと下げられてしまい、魔理沙の手が二兎を得ることは無かった。
「なんだよ。せんべいぐらい食べさせてくれたっていいじゃないか」
毒づいた魔理沙には目もくれず、霊夢は持ち出してきた皿をすぐに奥へと仕舞ってしまう。
「これはあんたの為に用意したものじゃないのよ」
そう言って境内の中へと戻っていく霊夢の背中にアリスの冷ややかな視線が向けられる。
「最近、山の神社の巫女が良くここに来てるそうね」
霊夢の肩がピクリと動いた。
立ち止まり、背を向けたまま霊夢が動かないのをいいことに、アリスは言葉を続ける。
「ずいぶんと仲が良いみたいじゃない。魔理沙や私としては少し妬けちゃうかしら」
口調の割りに、アリスの言葉は淡々としていた。
「おい、何で私が入るんだ」
魔理沙が少しムッとしながら、アリスに異議の声をあげるが、「さぁ、どうかしら」とアリスは軽く流してしまう。
「別に、ここに来るその他の妖怪達となんらく変わらないわよ。
人だろうと妖怪だろうと同じ巫女だろうと、全然仲良くも何もしてないわ……よ」
ガサッ
アリスも魔理沙も気には止めなかった小さな物音。
それに霊夢だけが振り向き、振り向いた途端に顔から感情が消え、青ざめていく。
青い顔をする霊夢の視線の先には申し訳なさそうに顔をひょっこりと出した早苗の姿があった。
「あはは、あ……は、は……。立ち聞きしててごめんね。霊夢」
とぼとぼ、と霊夢の傍らに歩いてきて、消え入りそうな声で早苗は霊夢にそう謝罪する。
「あ、早苗……」
霊夢は、顔をあげれば向き合えるほど近くにあるはずの早苗の顔を見ようとしなかった。
「これ、霊夢から借りてた服。返しに来たんです」
力なく、荷物を霊夢に手渡す早苗。
その腕は、寒さとはまた違ったものに震えている。
バツの悪そうな顔をして霊夢は早苗から視線を背けたまま。
不自然に閉じられた口元は何も言おうとはしない。
そんな霊夢の態度を見た早苗の心に、何故、という疑問の火が灯る。
ポツリポツリと地面に滴が落ちた。
まだ雨は降っていないのに、目の前が水浸しで良く見えない。
灯された疑問の火は現実に直面し――
「そっか。私……だけなんだ」
――現実に打ちひしがれる心を以って、瞬く間に激情として燃え上がる。
立ち聞きするつもりは無かった。
できればすぐに出て行きたかった。
でも、いきなり自分の話題が出てしまっては、真面目な早苗が出て行くのは、彼女の真面目さゆえに憚られて当然である。
立ち聞きしていたことがばれたことは早苗にとって別にどうでもよかった。
期待していたのだ。
赤いカチューシャを付けた少女が、自分の存在に気づき、その上で霊夢に問うた質問の答えに。
仲の良い友人だ、と。
仲間だ、と。友達だ、と。
そんな答えを期待していただけに、期待に裏切られたことが、それほどに期待していた自分が、悔しくてならなかった。
――私だけなんだ、仲良しになれたと思っていたのは。
――そう、友達だと思っていたのは私だけ。
――仲間だと勘違いしていたのは私だけ。
――つまり、私独りだけで一人芝居。
早苗の心の内側で激情がはねる。どす黒い感情が音を立ててもおかしくないぐらい激しく蠢く。
目も当てられない程、心が捻じ曲がっていく。
なのに、早苗の顔は笑顔を取り繕っていた。
神奈子が見過ごしたほころびだらけの笑顔ではない。
非の打ち所など決して無い完璧で完全な笑顔。
心から独り歩きした道化が早苗の表情から鎮座したまま動こうとしない。
滲んだ視界の中で霊夢が何かを、言おうと、して、いる。
自分の勘違いを悟った者の狼狽した態度ほど見ていてみすぼらしく悲惨なものはない。
否定、だろうか、肯定、だろうか。
霊夢の口から出てくる言葉がどちらであるにせよ、……早苗に聞き届ける理由はなかった。
いつの間にか暗くなった空が慟哭を鳴らしだす。
まるで早苗の心に同調するかのように。
――あの娘は早苗にとって導にはなるかもしれない。だけど……多分、救いにはなってくれないよ。
あぶりだした文字が浮き出てくるように、頭に蘇ってくる神奈子の言葉。
それは聞いていない、はずだった。
空耳だと、決めつけて、いたのに。
「……霊夢は私にとって導にはなっても、救いにはならないのですね」
空を切り、天をかける少女の呟きはついぞ、誰にも聞き届けられることは無かった。
霊夢は余所者の早苗を分けへだて無く受け入れてくれる知る辺とはなるが、
その早苗を誰よりも特別に扱ってくれるような、そんな早苗の寄る辺にはなってくれない……。
元来、霊夢と言う巫女はそうゆう少女だった。
そして、そうゆう少女だからこそ、早苗を受け入れてくれたのだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――-----------
そうこうして早苗が振り返っている間に、食事の用意は終わり、洩矢一家のひときわ重い団欒のひと時は終わった。
早苗は神奈子にも諏訪子にも心配されたくなかった。
自分のことで心配を欠けたくはなかったのだ。
だが、どうも気落ちしていたせいか諏訪子を食事に呼ぶのを忘れてしまい、諏訪子に呼ばれてないと言われたときは動揺を隠せなかった。
幸い神奈子が上手く合いの手を入れてくれたお陰で諏訪子には気づかれなかったが、神奈子のことだ。
恐らく、早苗の気持ちに気づいた上で、早苗への心配を自分の内側に留めているに違いない。
早苗のささやかなりにもしっかりとしたプライドを傷つけない為に。
後片付けを終えた早苗は居間で一人、人心地をついていた。
窓から見上げる空は暗い。
あれから一体何時間経ったのだろうか。
とにかく何も考えたくなくて今日の晩御飯は力を入れすぎてしまった。
おかげで諏訪子は大喜びをしていたが、早苗としては複雑だった。
そんな折、穏やかに時が移るのに早苗が呆けてたときだ。諏訪子が早苗に来訪者の存在を伝えたのは。
「あ、貴方は……」
靴を履いて外に出ると待っていたのは黒白の服を着た魔法使いだった。
「久しぶりだな、山の巫女。といっても用があるのは私じゃないんだが」
そう言って魔理沙が目を早苗の視界の隅へと向けたので、早苗も視線を移す。
「さっきぶり、それとも始めましての方がいいかしら」
麓の神社で、立ち聞きをしていた早苗が出て行くよりも先に彼女の存在に気づいた唯一人の少女が居た。
「……はじめまして」
表情を繕って早苗は少女に挨拶する。
「改めて、はじまして。私はアリス。アリス・マーガトロイドよ」
アリスは取り繕う早苗の表情を一瞥だけして微笑んだ。
「わ、私は東風谷早苗です……。あの、何の用でしょうか」
どうしても語尾が沈んでしまうが、早苗としては今は誰とも話したくは無かった。
早く帰って欲しいと内心思っていた。
「少し届け物をね。それともこんな見てくれの私が貴方の神社に入信するとか思ったかしら」
早苗は目の前のアリスと名乗る少女が部屋の片隅に分社を置いたりしているのを想像しようとしたが、無理だった。
「アリスは届け物って言っているが、実はお前さんの忘れ物だぜ」
魔理沙が横でへらへらと笑っている。その笑顔は早苗に眩しく見えた。
「魔理沙、少し二人っきりで話をするから下がってくれないかしら」
「へいへい」
アリスが魔理沙に一言だけ断ると、黒白の魔法使いはアリスと早苗から離れ、二人から少し離れた所で立ち止まった。
よほど大声で話をしない限り彼女に話が聞こえることは無いだろう。
早苗は見た目の割りにそうゆう気遣いだけはきっちりやる人だと思った。
「なんて言ったものかしらね」
手には昼間見かけた時と同じように分厚い本がある。
ただ、何かが挟まっていた。
「傷ついたかしら?」
早苗は内心ドキッとした。
いきなり核心を突いてくることが少女の見た目からは少し意外だったせいもある。
だが、何よりアリスは目の前の早苗から目を逸らさなかったことが大きい。
「霊夢にとって自分が……ただの他人でしか無くて悔しいかしら」
嘘を、ついてはいけないと、早苗はアリスの目を見て直感した。
「……はい。悔しいです。とても」
少しだけ、アリスの表情が優しくなる。
「霊夢も案外ね、素直じゃないのかもしれないわ。アナタと同じね」
早苗にはアリスが何を言っているかが分らなかった。
「何を言って……いるんですか。私は……」
しどろもどろの早苗の言葉が切れた瞬間だった。
思い切りアリスは早苗の頬をぶつ。
咄嗟にぶたれた頬に手を当てて早苗はアリスを睨みつける。
「何をするんですか!」
魔理沙がぎょっとしているのが視界の端に見えたが、今はそんなことはどうでも良かった。
「……のよ」
目の前で頭を垂れて何かを呟いているアリスという少女が何故、自分をぶったかが理解できなかった。
そして、理解できない理不尽さに早苗の堪えていた怒り全てが決壊する。
「貴方に何が理解できるんですか!」
気が付いたら早苗の手は大きく振りかぶり、アリスの頬を叩いていた。
甲高い音があたりに響く。
やり過ぎた、と早苗は後悔したが、時既に遅く、アリスの形の良い唇の端から血が滴る。
ぶたれてまま背けられていたアリスの顔が正面を向く。
目の前にある早苗の目を睨みつける。
「理解できるはずがないじゃない。
そうやって隠し続けてるアナタの気持ちなんて。
理解できないようにしているクセに理解してくれなんて縋っている姿が、私には気に食わないのよ」
アリスは淡々と喋る。
感情なんて何も無い。あったもんじゃない。
なのに、その言葉は早苗の仮面をボロボロにしていく。
早苗の仮面だけを綺麗に壊していく。
「言いたいことがあるなら言えばいいのよ。ただ笑って『事なかれ』なんて気取ってるんじゃないわ」
一度沸騰した感情が仮面を内側から剥がしていく。
何年もかけて接着された接着面がぐちゃぐちゃになったせいで至る所に隙間ができていた。
ああ、この人は――。
早苗は笑う。
「なに、笑ってるのよ。女の子の顔ぶって楽しいの」
アリスという少女が何を言いたいのかを知った早苗は笑う。
「……よ」
聞き取れないほど小さい声ではあったが、しっかりとした口調だったのでアリスは聞きなおす。
「なに」
早苗は笑う。
「謝りせんよ。先にぶったのは貴方ですから」
しばし早苗の笑顔をいぶかしんでいたアリスの苦虫を噛み潰した顔は、ふっと微笑に変わる。
「少しは見れる顔になったじゃない。その腫れっぷり」
どう見ても口の内側が切れているアリスの方が酷く腫れていた。
「アリスさんのお陰ですよ」
どんな形でもいいから感情を吐き出させてくれた。そして、それだけでこんなにも心が軽くなっている。
礼は言わないし、謝罪はしない。既に早苗は全てを込めてアリスの頬を打ったから。
アリスが早苗の頬を全力で打ったが為に。
二人して頬を腫らしてへらへらと笑っているのは横で見ていた魔理沙にはどう映っただろうか。
「やることはやったから。もう、行くわ」
アリスは魔理沙に向き直り歩いていく。
「言っておくことがあったわ」
歩くのを止めてアリスは振り返る。
「私達には出がらしのお茶しか出さない霊夢が、あなたにはちゃんとしたお茶を出している。
これが特別扱い以外の何だと言うのかしら?」
雨が降り始める、アリスは空を一度見たが、すぐに早苗に視線を戻した。
そして、早苗にずっと本に挟んでいたものを手渡す。
「この子をちゃんと、大事にしてあげなさい。これからも……」
それは早苗が霊夢との話題にしようとしていた星座盤だった。
荷物ごと置いてきた星座盤が、早苗の手元に帰って来る。
――ざー
早苗の手元でしっかり存在を示す星座盤は、まだ自分は役目を終えていないと言っているかのようだ。
アリスの「この子」と星座盤を呼んだせいだろうか、そんな声が星座盤から聞こえたような気が早苗にはした。
――ざーざー
涙が出てくる。
「うぅ……あぁああ」
嗚咽が漏れる。
いつの間にか早苗は声を上げて泣いていた。
――ざーざーざー
雨が早苗の涙を流れ出してすぐに洗っていく。
早苗は星座盤を胸にかき抱き、正座して、地に伏す。
まるで何かに頭を下げるかのように。
奇跡を起こそうと祈りをささげるかのように。
吐き出しきれなかった、まだこらえていた感情を搾り出して泣いた。
――ざーざーざーざー
顔を濡らす雨に負けじと、涙を流して目を濡らした。
アリスは泣き出した早苗を一瞥すると横でずっと箒のまたがって準備していた魔理沙に歩み寄る。
「魔理沙、ごめんなさいね。雨が降るまでに片付けたかったんだけど……」
頬をおさえるアリスに魔理沙はニカッと笑ってみせ、
「気にするなって、これも私とお前の仲だ。後でちゃんと貸しに利子つけて返してくれるならな問題ない」
降りしきる雨をどうともせずにそううそぶいた
「はいはい、分ったわよ」
ため息を切ってアリスは返事をする。
借りは一生返さないクセに、と。
――ざーざーざーざーざー
魔理沙の箒に腰掛けたアリスは一度だけ泣きじゃくる早苗を見た後、魔理沙に出発の号令をかけた。
「行って」
短い言葉だった。
「任せろ、ぶっとばすぜ」
魔理沙が応えるや、否や、二人を乗せた箒は高速で麓まで飛んで行く。
それはすぐに点おように小さくなった。
――ざーざーざーざーざーざー
「……後は、あの子次第ね」
後部座席から聞こえてくる呟きを魔理沙は黙って聞き流した。
――ざーざーざーざーざーざーざー
どれだけ泣いていたのだろうか、気が付くと、早苗の体を打っていた雨が止んでいる。
雨の音はするのに、まるで早苗の周りだけが空間ごと切り抜かれたように雨を弾いている。
「……ごめんね、早苗。傘無かったから、……葉っぱで許して」
振り向くと諏訪子が両手で一枚の葉っぱを器用かざして早苗を雨から遮っていた。
大きな大きな葉っぱが揺れる。
その葉っぱによって早苗に降るのを拒まれた雨は、ひたすらに早苗を雨から庇っている諏訪子を濡らし続ける。
「ね、中に戻ろ。風邪、引いちゃうよ」
諏訪子に自分が濡れ続けるのを厭う様子は無い。
びしょびしょに濡れて諏訪子の自慢の髪はべったりとしてしまっていて酷い有様だ。
それに時折雫が顔をつたって目に届いた滴に目を開けられなくなっても、かぶりを振ろうとは、顔を背けたりはしなかった。
傘としている葉っぱを支える両手を引っ込めたりもしなかった。
ただ、雨から早苗を庇い、早苗を見続けていた。
――ざーざーざーざーざーざーざーざー
泣きつかれた早苗は神奈子が敷いておいた布団に入ると、すぐに寝息を立て始めた。
障子一枚隔てて二人の神は酒と肴に舌鼓を打っていた。
「早苗は強い子よ、だから必ず立ち直るわ」
諏訪子は酒のなみなみ注がれた盃を一気にあおる。
「そうかい。それならいいんだけどねぇ……」
傘を捜している間に諏訪子に出し抜かれてしまった神奈子としては複雑な気持ちだった。
本当は自分が傘をさっと出して慰めるつもりだったのに。
あろうことか二人の神は神社の境内の中で必死になって探し物をしていたのだ。
結果としては諏訪子に軍配が上がったが、神奈子も早苗の身を案じていた。
神奈子としてはまたも麓の神社に泊まってくるものだと思っていた早苗が早々と帰ってきただけで何かあったとは気づいていた。
でも、早苗の顔が外で見ていたように貼り付けたような、能面そのものと言える笑顔に摩り替わっていた。
これまでのボロだらけの笑顔とは打って変わった様ゆえに、詳細を聴くのを躊躇ってしまった。
「それにしても、なんだかんだ、で諏訪子も早苗のことを良く見てるじゃないか」
自分は、あの子ではなく、自分自身を甘やかしてきた気がしてならない。
これまでの力の弱い先代までの人間と違い、早苗と自分はお互いに触れることができるのに。
何故、心を触れ合わせようとはしなかったのか。
完璧を求められて、何事もソツなくこなしてきたあの子を、本当は褒めるよりも厳しく叱った方が良かったのだろうか。あのアリスと名乗った少女が感情を乗せて早苗をぶったように。
諏訪子は物思いにふける神奈子の横でまたなみなみと盃に注いだ酒をあおり飲みしている。
「当ったり前でしょ。だって、家族だもん」
ぐい、と一気に飲んだ後に諏訪子は笑う。
「あー、一人してこんなに酒とつまみを飲んで食べて……早苗の分は残してるのかい」
神奈子が見やれば諏訪子一人で酒の瓶を空にしてるし、つまみはあらかた食べつくされていた。
「あーうー、忘れてた」
諏訪子のついうっかりと言わんばかりの声。
障子の向こうでクスっと誰かが笑う声が神奈子には聞こえたが、聞かなかったことにしておいた。
―――――――――――――――――――――――――----------------------――――――――――――――――――――
冬の朝。
つとめて朝一番に起きた早苗の朝支度は多い。
「今日は早いねぇ、早苗」
いつも以上に力を入れて朝ごはんを作る早苗に起きてきたばかりの神奈子が声をかける。
「はい、今日は朝ごはんが出来たら、少し麓の神社に行ってきますね」
そう言って微笑む早苗の顔にはどこか張り詰めたものがある。
昨日の今日だと言うのに強い子だ、と神奈子は感心する。
「胸は貸してあげるから心置きなく行っておいで」
頭を撫でてやると、くすぐったそうに早苗は目を閉じる。
「それだとまた私は泣くことになるんですか」
抗議の声が上がるがそれは言葉のあやだと言って神奈子は流した。
今度は自分がおいしい役回りになろうという神奈子の魂胆を早苗が知ることは、多分無いだろう。
「神奈子様、諏訪子様、いってきまぁーす」
返事を待たずして早苗は飛んでいく。
背中にあわただしい二人の声が聞こえた気がするが、それは今はどうでもいいことだ。
私は東風谷早苗。
奇跡を起こす程度の能力を持っている。
だったら起こして見せましょう。
誰にも平坦な付き合いしかしない霊夢。
そんな貴方が私を友人として特別扱いしてくれるという奇跡を。
――星はあくまで道標に過ぎない。
――そして、自分の道を歩み、己を助けるのは自分自身。
めとめで ものがいえるんだ
こまったときは ちからをかそう
えんりょはいらない
いつでもどこでも きみをみてるよ
あいをこころに きみとあるこう
幻想郷にひろげよう友だちの輪ッ!
霊夢と仲良くなった早苗の後日談が凄く見たい気分になります
>子気味良い旋律
小気味では?
>返してくれるならな問題ない
くれるなら または くれるなら何も では?
>それはすぐに点おように
点のようにでは?