Coolier - 新生・東方創想話

秋晴れの日 ~咲夜~

2007/11/24 05:09:13
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 誰にだって秘密の一つや二つくらいあるでしょう?
 わたくしが知っているだけでも、ほら、たくさんありますし。

 ――とある妖怪の言葉――



■●■



 午前。もうじき正午になろうかという時間。
 咲夜は香霖堂に居た。

 客の抽象的なオーダーに抽象的に答える事で定評のあるこの店だが、流れ着いてくる雑貨の中には、割と実用的なものもあったりする。
 また多少寿命やら知識といった点で人間を踏み外している店主は、同じく人間の枠から外れかけている咲夜にとっては何かと便利な存在でもあった。

「今回も異常はありませんでした。部品の磨耗も殆どないし、状態もいい」
「お世話様ですわ」

 既に呪具の域に達している咲夜の時計であるが、それでも「時計である」という理からは逃れられない、機械仕掛けである部分のケアは必要になってくる。
 魔理沙の八卦炉の修理や調整を行っているという話を聞き、こうして時計の定期健診を香霖堂に頼んでいるのだ。
 もっとも、自分の象徴とも言える懐中時計を咲夜がぞんざいに扱う事は無いので、それこそ経年劣化すら感じない程の状態の良さを保っているのだが。

「ごめんくださーい」
 カラリとドアベルが鳴り、扉が開く。
「あら妖夢」
「こんにちは」
 薄暗い店内に入ってきたのは半幽霊の少女。だが、必ず付いているもう半分を見かけない。
 咲夜に軽く会釈した妖夢だったが、急ぐのかすぐに用件を切り出した。
「あの、籠を探しているのですが」
「籠。どのような?」
「あ、はい、このくらいの大きさの物で、丈夫な物ならなお良いです」
 手で大きさを示すに、背負える大きさの物であるらしい。
「少々お待ちを」
 とは言う物の、咲夜も妖夢もこの店には様々な大きさの竹篭がある事を知っている。
 なにせ製造元と面識があるのだ。
「今日は何?」
「栗拾い」
 どこか憮然とした様子で返す妖夢に、ああ、と咲夜は苦笑し、でも、と問い直す。
「確か結構な量の栗を仕入れてなかったかしら?」
「喰われたわ」
「え」
 薄暗い室内では分からないが、妖夢の瞳の光が揺らいで見えるのは気のせいではないと、咲夜は判じた。
「籠ひとつ分は集めたの。でも急に不安になってきて」
「それで籠を調達しに来たのね」
 なるほど、であるならば外には籠を背負った(?)幽霊側が居る事だろう。
 咲夜はふと気が付く。そう言えば今日は山狩りの予定だった。
 今くらいの時間ならメイド達が山に入っているだろうか。栗拾いを続行する妖夢と鉢合わせになるかも知れない。
 そう思った咲夜は店内を見回していた妖夢に声をかける。
「妖夢」
「なにかしら?」
 振り返った妖夢は、窓から差し込む光を受ける位置に立っていた。
 切りそろえられた銀の髪が、薄暗い店内で浮かび上がって見える。
 僅かに幼さを感じさせる麗貌は、普段の凛然とした雰囲気が抜け落ちており、外見年齢相応の可憐さを窺わせた。
 長い睫毛に飾られた、濡れた宝玉のような瞳が咲夜を見つめる。
「……」
 刹那の間。
「あ、うん。今日の山なんだけど……」
「山?」
「お待ちどうさま」
 その時店主が戻ってきた。
 妖夢の要望に叶う大きさの籠と、その中に皮製の篭手のようなものが入っている。
「うちにある籠ではこれが一番の大きさだね。これ以上の物となると、注文しないといけなくなる」
「あ、はい。それで大丈夫です」
 妖夢は籠を受け取り、代金を支払おうとする。
「ああ、代金というかだね、対価は栗を少し分けてもらえないかな? 僕が秋を感じられる程度でいい」
 霖之助の視線の先には、窓の外に浮いている籠つきの半霊があった。
「それでよろしいのでしたら」
 首肯した妖夢は毬栗を持ってきた。なるほど皮篭手は栗のトゲごときを通す事は無いらしい。
「この篭手、お借りしても?」
「売り物でもいいんだけどね、君の手には些か大きいだろう」
「では次に来た時にでも」
 笑顔で一礼した妖夢は、籠を背負うと風のように立ち去った。
「……」
 なんとなく居合わせた咲夜はそのまま妖夢を見送った。瀟洒なメイドは扉の閉まる音まで無言だったが、
「店主」
「……野に咲く花は奔放に咲かせるのがいいと、僕は思うがね」
「一理あるわ」
「……だがまあ、ひと時の花の盛りを楽しむのも悪くはないと思う」
 溜息混じりの霖之助は、すぐ近くの棚をごそごそやり始めた。
「ましてや人知れぬ絶界に咲く花だ。摘んでしまわないまでも、手入れくらいはしたいと思うのも無理からぬ事」
 ごとん、と閂を外すような音がしたかと思うと、壁際の棚が横にずれた。
 棚の向こうには人が一人通れそうな穴がある――隠し扉だ。
「しかし、難しいのではないのかい? 彼の花には蝶と蜘蛛が目をかけている」
「……宝は……」
 咲夜は静かに呟く。甘い毒のような囁き。
「宝は守る者がいるからこそ価値が増すという」
 言葉から零れ出る邪悪な愉悦に、霖之助は苦笑する。
「商人から言わせて貰えば、希少価値なんてものは流通の妨げなんだがね」
「あら、価格を自在にできるのでは?」
「売れなければ無いのと一緒だよ」
「この店にはガーディアンを就けるべきですわ」
「魔理沙に店ごと吹き飛ばされるのがオチだよ」
 咲夜は霖之助に続いて隠し部屋へと歩み入る。
 奥の部屋は香霖堂よりも広かった。
 間取りを無視したその空間は、この部屋がどこか別の場所に存在しているものであると窺えた。
 天井の高さこそ普通だが、広さが尋常ではない。魔法の明かりが照らす室内は、隅々まで明るいはずだがその端が見えない。
 しかし、その空間を埋めるものがある。
 棚だ。背丈ほどの棚が等間隔に並んでいる。どこまでも果てしなく。
 その為、二人にはここの広さが実感できず、倉庫程度にしか感じられない。
 時折目に入る通路、その果てが白い光りの彼方に溶け込んでいるのを目にしなければ、香霖堂の倉庫だと勘違いしてしまうだろう。
「それで、今日はどういった物を?」
「あの子の髪に映える色探し、まずはそこからいきましょう」
 棚の中に収められているのは布だった。
 布だけではない、他の棚にはレースやリボンが収納されている。
 ここは香霖堂の別の顔。服飾を趣味としているごく一部の人妖だけが知っているリボンとフリルの要塞だ。
 弾幕少女の正装とも言える華やかな衣装。
 それらはこの空間から生み出され、何処ともしれぬルートを通り、少女達の手に渡る。
 霖之助が香霖堂を開く遙か以前から存在するらしいこの空間は、ある日突然香霖堂に接続したという。
 彼自身は目にした事がないが、この部屋には主が存在し、日夜少女達の服を生産しているらしい。
 奥に潜むと云われるこの部屋の主は、大酒飲みの細身の神だとも噂されている。

「まったく、自分の服の時は布の検分にすら立合わせないのに」
「あれは純粋に自分の為だけの物だからですわ」
「今回は違うのかい」
「整えた花は誰かの目に止まる事もあるでしょう、我々だけのものでないのならば、ここで隠す理由もありませんし」
「なんだか僕にはよく分からない理屈だけどね。まあいいさ」
「では、順当に赤から」
 咲夜は霖之助を伴い、棚の狭間へと消えていった。

 棚の間を歩き回る。
 妖夢の髪は白に近い銀。咲夜や霖之助と色は似ているが、種族的な問題なのかやはり髪質は異なる。
 どこか頼りなさを感じさせる儚さを醸しつつ、抜き身の刃の様な鋭利さも感じる不思議な風合いの色。
 それに似合う色を探して色調サンプルを眺めているだけで結構な時間が過ぎた。
 どの色でもそれなりに似合うのだが、決定的に似合う色というものが無かった。
 妖夢の写真を眺め、布をかざす。
 外見に合わせた色、雰囲気に合わせた色。役職から感じられる色。
 咲夜のメイド服は制服だが、妖夢の服は私服だ。
 しかし、あまり別の姿を見ないところから推測するに、ここで作られた服かもしれない。
 ならば、セットで身に付けている黒いリボンも服とセットなのだろうか。
 黒という死を感じさせる色は、普通ならば少女に似合う色ではない。
 しかし、冥界の番人である魂魄妖夢には、そして白銀の輝きを持つあの髪ならば、黒という色が似合う。
 派手好きではない妖夢の性格との相性も良い。
 あれを選んだ人物は、いったいどこまで妖夢の事を理解していたのだろう?
 咲夜はサンプルカタログをめくり続ける。



 予想以上に時間を消費した。
 結局これといった案が出ずに、ならばいっその事全身コーディネートをという所で話が落ち着いたので、咲夜はプランの立案を霖之助に任せて退出した。
 洋装で緑や黒といった硬い色の組み合わせから逆の発想で、桜色や萌黄色といった柔らかい色調の和服にしてみたらどうかと云うのだ。
 芯の強い妖夢が時折見せる少女らしさ。そこに焦点を当ててみようという香霖堂の試みは面白いが、計画の達成には採寸という問題がある。
 最悪、咲夜が時間を止めて計る事も出来るが、当人の協力があった方が納得のいく数字をとれるのだ。

 香霖堂での作業は有意義であったが、咲夜の予定の中ではイレギュラーであった。
 時計を仕舞いつつ、咲夜は舞い上がる。
 今日は人に会う約束があるのだ。



■●■



 そこは、小さな部屋であった。
 部屋は洋風であり、カーペット敷きの床面は五メートル四方程度。
 窓の無い部屋は闇に閉ざされること無く、天井全体から降る柔らかい光に満ちていた。
 室内には、本棚や机といった簡素な調度があり、一方の壁には壁と同じ幅を持った棚がある。
 棚の中には、大小様々なぬいぐるみ。動物だけではなく幻想の生き物を模ったものもある。
 少女の部屋に相応しい柔らかい色の壁、甘い香りの満ちる秘密の箱のような部屋。
 その中に今、二つの人影があった。

 二人の少女は共に銀の髪。片方は長く、片方は短い。
 少女、と呼ぶにはいささか成熟した感を受ける二人は、共に月を主と頂く忠義の徒。
 一人は。
 悪魔の狗、ミス瀟洒、鬼のメイド長。十六夜咲夜。
 一人は。
 永遠の咎人、神代の叡智、ナースエンジェル。八意永琳。
 おおよそ周囲からは尊敬とか畏怖とか、そういった物の込められた視線で見られる事の多いこの二人だが、実は共通の悩みを抱えていた。 

 少女趣味である。

 己の事を多く語らない咲夜ではあるが、その見た目からは想像も付かないナイフ捌きや体術のキレを見れば、その過去が愛と平和に満ちた暮らしではなかった事は想像に難くない。
 生きていて永い永琳にしても、輝夜の流刑から始まるここまでの歴史は、裏切りや逃亡、潜伏といった心休まる時間が乏しかったものであり、また従者であり師であり、そして永遠亭の母でもあるその身は、蓬莱の薬でも癒せぬ心労を抱えているのだった。
 甘い物や可愛いものが好きで、リボンやフリルいっぱいの服に憧れ、身近にいる少女々々した者たちの放つ瑞々しいオーラに憧れ……
 世間の評価というものは、日々の積み重ねによって作り上げられていく。
 完全瀟洒とか、役職の長である事。
 天才と呼ばれ、薬という命に関わる物を扱う事。
 そういった評価の蓄積が一人歩きを始めた時、彼女らに見えない枷が取り付けられていくのである。
 全てを受け入れるという触れ込みの幻想郷であるならば、あるいは自分の少女趣味すらも取るに足らない事なのかも知れない。しかし、一度根付いたイメージを誰よりも気にしているのは、他ならぬ自分達なのだ。
 忙しい毎日の合間の僅かな時間。
 時折、発作的に奥底に仕舞いこんだ服に袖を通したくなる事がある。
 今日一日をこの服で過ごしたらどうだろう。
 妖精達に混ざって、一日花畑で過ごせたらどれだけ素敵だろう、と。
 しかし。
 恐ろしい。
 周囲の目も恐ろしいが、それによって自分の中の何かが決定的に変わってしまうのではないのか。
 踏み出したい、だが恐ろしい。
 葛藤は日々の激務にも忙殺されることも無く、下に死体が埋まっている桜の如くに情念を吸い上げて熟成されていく。
 次第に強まる自身が反転するような衝動に耐える自信の無くなってきた咲夜が、断腸の思いでロボトミー手術の相談をと永琳の下を訪れた時に、果たして救いは訪れた。
 涙ながらに悩みを打ち明け(永琳に弱みを握られるリスクを越えて相談しているのだ!)、己の魂の一部に決別しようと心すらも血の涙を流す咲夜の肩を、月の頭脳とまで呼ばれた女性は優しく包み込んだのだ。
「辛かったのでしょう……でも、もう一人じゃないわ」
 涙を拭うのも忘れ呆然と見上げる咲夜に、永琳は慈母の如き微笑みで頷く。
 魂の結束が生まれた瞬間でもある。

 永夜異変の際に何組かの人妖と対峙した永琳だったが、その時既に咲夜の本質と隠された懊悩を見抜き、大層驚いた。
 まさか同じ悩みを抱えて日々苦しんでいる者が、こんなぬるま湯の楽園に居るとは思っていなかったのである。
 これだけリボンやらフリルの横行している少女趣味の無法地帯のような場所であってさえ、その性(サガ)を隠さなければならない者が居る。
 その事実は、幾星霜の時を竹林と月光の世界で過ごしてきた永琳にとっても驚愕に値した。
 そして思うのだ。自分はもう一人ではないのだ、と。

 そんな彼女らの密かな、本当に密やかな趣味が、この部屋での秘密のお茶会である。
 多重に張り巡らされた世界結界の深奥。那由多の果てに創られたプライベートな空間。
 時と世界から切り離された、ただ二人だけの為のささやかな安寧の部屋。
 小さな白い丸テーブルには可憐なクロスがかけられ、その上の小さな花瓶には季節の花と、午後のお茶の用意。
 テーブルとお揃いの造りの椅子は、白く、背もたれが高い。
 誰に憚る事も無く。
 ただ、漫然と過ごす。
 骨の髄に溜まったような心の疲れが、この時だけは煮込まれた動物の脂のように溶け出してくる。

 メイド服を着ていない咲夜は、純白のワンピースを着ていた。
 膝より上までくる靴下や肘まである手袋も隙無く白。
 顔以外を白く覆い、咲夜は静かに紅茶を愉しんでいる。
 アッシュブロンドの髪との兼ね合いならば、黒や赤といった強い色の方が調和が取れているのかも知れないが、似合う似合わないの問題ではない。
 誰に見せる訳でない今は、ただ自分が着たい服を着ているのだ。
 白いドレスのような服、その複雑で精妙な縫製は、仕事の合間と情念の結晶であり、ひしめいているリボンとレースが蓄積された咲夜の心の闇を窺わせる。
 普段の三つ編みすらほどき、銀と白だけのまるで無垢の雪原のような姿の中、唯一の異なる色彩である宝石のような蒼い瞳は、今、静かに恋愛小説の上を踊っている。
 化粧こそしていないが、その印象は普段と大きく異なるその姿は、口を開かなければ咲夜だと気が付かない者が居ても不思議はなかった。

「やっぱり、咲夜の作るケーキは絶品ねぇ。心からとろけそうだわ~」
「ふふ、ありがとう」
 活字から視線をあげ、たおやかに微笑む咲夜。その瞳からは普段の冷徹さは微塵も感じられない。
 親友の為にケーキを作ってきた少女の顔でしかない。
「美味しい食べ物はそれだけで癒しになる……医食同源とはよく言ったものね」
「少し違うんじゃないかしら」
 シフォンのようにふんわりと笑み、幸せを堪能する永琳。
 少し呆れたような笑みを浮かべる咲夜も、その笑みにも厭味はない。
「もうなんでもいいのよ。これだけ美味しければ」
 そう云うと、永琳はケーキに再び取り掛かった。
 咲夜の視線の先には、同じく着飾った永琳の姿がある。
「……」
 永琳は何回りしたか数えるのすら不可能なセンスの服を着ている。
 人の事を言えた義理ではないのは百も承知だが、それでも服飾のセンスを疑いたくなる。
 紅魔館でならあまり違和感のない……かも知れないヒラヒラフリフリのドレスは、いつもの黒と紅の服と本質的には似ているロリータ服、ではあるが、レースやらフリルやらリボンで飾り立ててある。
 何枚ものパニエを重ねてまるで傘のように膨らんだスカートの裾には、何故かいつもの服と同じように八卦があしらわれており、それを更にリボンで飾り散らしている。
 咲夜は軽く眩暈を覚える。
 全体のバランスは悪くない。色調も黒をベースに緋色で整えていると考えるなら疑問も少ない。お嬢様だって似たような色のドレスをお持ちだ。
 だが、決定的に何かがおかしい。
 毒のある生き物だってもう少し慎みというモノを知っているはずだ。
 咲夜は静かに見つめる。
 フリルやリボンも永琳のパーフェクトなプロポーションを損ねるものではなく、正しく引き立てる効果を発揮している。
 以前図書館で見た本によれば、中世のドレスなどは確かにこういう形状をしていたはずだし、派手すぎない色合いは永琳の髪の色や本人の落ち着いた雰囲気ともマッチしている、はずだ。
 独創的な服は、人知れず咲く毒草を想起させる。
 今の永琳の髪型は、普段見られるような後ろで大きく束ねられた状態ではなく、丁寧に小分けにされた縦ロールであり頭の上にはヘッドドレス(メイドたちが仕事で着けるような色気の無い物ではない)を着けており、流水のような輝きの銀髪には水色やらピンクといったパステルカラーのリボンを装備(もはやアクセサリーというよりは呪具の様相だ)している。
 違和感の極めつけは永琳本人である。
 手土産のケーキを幸せ全開でケーキをぱくつくその姿は、偶の客である霊夢や魔理沙となんら変わりが無い、甘いものが好きな女の子の顔である。
 ひとつひとつの要素は正しいのだが、他の要素との兼ね合いが出来ていない気がする。というのが思考が凍結しかかっている咲夜にできた判断である。
 もう何処に突っ込んだらいいのかすら分からない。
 すべてが間違っているような気がする半面、これ以外は有りえない様な気もしてくる。
 自分など比較にならない程気の遠くなる時間を生きてしまったこの女性の、深い処にある悲しい歪みを見せられているような気がしてきた。
 自分が己を抑圧していた年月を軽んじるつもりはないが、永琳の歩んできた時間は文字通りに桁違いである。
 その反動を考えれば、あるいは当然の帰結なのかもしれない。
 そんな事を考えていると、こちらを向いた永琳が驚いた。

「ど、どうしたの!?」
「え……?」
「咲夜、あなた泣いているわよ」
 本当だ。
 自分でも気がつけない涙は、果たして何の為に流されたものなのだろうか。
 意識したら余計に溢れてきたような気がする
「大丈夫?」
 心配げな顔の永琳はピンクのハンカチを差し出してくる。
 それを受け取りつつ咲夜は思う。
 アンタもな、と。



 ケーキも片付き、他愛も無い会話で過ごす午後。
 お互い忙しい身の上であるので、この至福のひと時もあと幾ばくも残されていない。
 この二人が手を組めば、夜を停めるどころか何日でも自在に出来る時間を創り出す事が出来るだろう。
 しかし、咲夜も永琳もそんな事は考えていない。
 自分たちは歪んでおり、もはや正す事は出来ないという事を知っている。
 歪みは歪みのまま己の内に秘めておき、時折こうして息抜きをすればいい。
 むしろ衝動を溜め込んだ方が、このひと時がより甘美なものになるという事を、この二人は知っているのだ。
 僅かな刻は、黄金よりも貴重だ。

「!!」
 永琳が突然立ち上がった。
 瀟洒な白い椅子が倒れ、カップの紅茶に波紋が生まれる。
 沢山のパニエが擦れる音は、まるで鳥の群れが飛び立つような音。
 秘密のお茶会部屋に仁王立ちになった永琳は、先ほどまでとはうってかわって厳しい表情になっている。
 只ならぬ気配に、咲夜も周囲を探る……しかし何も無い。おそらくは外側の世界での変異を察知したのだろう。
 永遠亭に外敵が迫っているのか、それとも内部で危険な事故でも起こったか。
 どれだけ自分の時間を満喫していたとしても、従者として、責任者としての本分を忘れないその姿に、咲夜は純粋に尊敬の念を抱く。そして、永琳がどれだけ永遠亭の家族を愛しているのか、少し分かった気がした。
 緊張を漲らせ虚空を見据える永琳は、何かを探るかのように感覚を研ぎ澄ませているように見える。
 先ほどまでの少女然とした表情は欠片も残っておらず、まるで別人のようにも見える。いや、この怜悧な表情こそが八意永琳の平時の表情なのだ。
「あの子たち……!!」
 どこか焦りを感じさせる呟きに、咲夜が何か言おうとした。
 しかし永琳の行動の方がわずかに早く、印を切り叫ぶ。
「キャストオフ!」
 永琳の姿が閃光に溶けた。
 いや、ドレスの内側から溢れ出た光に咲夜の視界が染め上げられ、そういう風に見えただけである。
 繊維で構成されているはずの悪夢のドレスは、光が弾けると同時に微細な部品と化し、まるで爆発するような勢いで飛散した。
「な!?」

【時符 咲夜の世界】

 溜めなしの時間干渉は、完全に停止させるに至らなかった。
 咲夜は自身の時間を加速し超高速の世界へと遷移する。
 一秒を百にも千にも刻み、朱色に歪む風景の中で咲夜は向かって来ていたドレスの部品群に目を向ける。
 驚いた事に、現在の咲夜の速度をもってしても、飛来するそれらは通常の弾幕程度の速度を持っていた。
「でも、工夫が足りないですわ」
 霊夢の拡散型夢想封印にも似ているそれは、密度は低くパターンにも華がない。
 そもそも弾幕でもなんでもないのだが、つい条件反射で審査してしまった。

 超加速で回避した咲夜が体勢を立て直すと、そこには既に普段の服装に戻った永琳の姿があった。
「ちょっとどうし」
「ヘヤッ!!」
 咲夜の言葉も届いていない様子の永琳は、腕の×の字に交差させると全身のバネを使って前方へと身を躍らせる。
 【EFCC(エーリンフライングクロスチョップ)】は眼前の空間に一瞬だけ喰い込み、結界をカチ割った。
「な!?」
 硝子が砕けるような高音が折り重なる中、永琳は叫ぶ。
「ちょおっと待ったああぁぁぁ……!」
 開いた穴からクロスチョップの姿勢のままで飛び出して行った永琳は、遠くなっていく制止の叫びと共に何処かへと消え失せた。
 結界の崩壊した部屋は既に普通の世界に接続されており、何の変哲も無い畳の部屋に咲夜は一人残されていた。
「……な、なんなのよ一体……」
 滅多な事では動じない悪魔の狗も、この展開にはついて行けなかった。
「永琳~? なにか凄い音がしたけど大丈夫かしら~?」
 引き戸が開かれた。
「危ない実験もやるなとは言わないけど……」
「あ……」
「……」
 開かれた戸の向こうには、いつも通り暇を持て余していた輝夜が居た。
 油断していた咲夜は、何の動きも取る事も出来ないままで輝夜と対面する。

 見られた!
 破滅の予感に咲夜の全身が粟立つ。
 殺すか!? 殺すしか! いやこいつは殺しても死なない! なら細切れにして塩漬けにでも……! 
 などと物騒な考えを疾走させている咲夜に、小首を傾げた輝夜は問うた。
「……永琳のお客様かしら?」
 咲夜とあまり面識のない輝夜なら、あるいは気が付かないのも頷けるだろうか。
 咄嗟の判断で状況を整理した咲夜は、僅かに声色を変えて答える。
「え、ええ……なんだか急用が出来たとかで……」
「そう。お客を待たせるだなんて、永琳もダメねぇ」
「でも、急いでいるようでしたし……」
 咲夜としてはいつ正体が知れるとも限らないので一刻も早く立ち去りたかったが、時間なら掃いて捨てるほどある輝夜には急ぐ様子は見られない。
 見られた瞬間にでも時を停めて逃げれば良かったのだが、いつものクセでつい応対してしまった。
 己の迂闊さを呪いつつも、瀟洒な笑顔を崩さない。
「まあいいわ、急ぐ用事でもなかったし」
「あ、言伝でしたら私が承りますけど……」
「いいわ、帰ってきたら伝えれば済む話だし」
「はあ……」
「じゃあ、私は行くけど、ゆっくりしていってくれて構わないからね」
「畏れ入ります」
 一礼しつつ、心の中で冷や汗を拭う咲夜。どうやら逃げおおせたらしい。
「人の家まで来てそんな畏まらなくてもいいわよ。メイド長さん」
「っ!!」
 やはり殺すしか! と、顔を上げた咲夜の前には、妙に優しい顔の輝夜があった。
 てっきりからかわれるものだと焦っていた咲夜の出鼻が挫かれる。
「永琳と仲良くしてあげてね」
 輝夜は目を弓のように細めた笑みで、柔らかく言う。
「……」
 紅魔館とは性質の違う静寂の中、咲夜は小さく溜息をつく。
 自分の中で渦巻いていた焦燥やら恐慌が収まっていき、一気に何キロも走った後のような脱力感が訪れた。
 主の心、従者知らず。という訳ではないが、やはり仕える側の人間には上に立つ者の考えは分からない。
 輝夜が永琳をどう思っているのかは知れないが、
「……そういうの言ってあげたら? きっと喜ぶと思うんだけど」
「大丈夫よ、大丈夫。知っているけど忘れているだけだから」
 ころころと笑う輝夜を、咲夜はただ見つめる。
 今日の永遠亭には驚かされてばかりだ。このなよ竹の姫がこんなに感情豊かな所を見せるとは。
「かーぐやー、まだなのー?」
 廊下の先から誰かの声がする。
「あ、妹紅を待たせたままだった、行かなきゃだわ」
「!?」
 咲夜とてこの不死人達の関係を知らないではない。
「ああ、今日は違うからそんな顔しないの。でも、そんな顔を見ていると昔の永琳を思い出すわね」
 太古の昔だけど、と、くすくすと笑う輝夜だったが、そのまま廊下へと出た。
「今いくわー」
 廊下の先に答えると、部屋に振り向き、
「今日はね、栗のトゲの早抜き勝負なのよ」
 輝夜は楽しそうに言う。
 果てしなく意味の無い競技内容に呆れる咲夜を残して、輝夜はしゃなりしゃなりと歩き去っていく。
 鼻歌を歌いながら永遠の姫は去っていく。
 なし崩しに見送った咲夜は嘆息。
「……なんなのかしら、もう……」



■●■



 永琳が戻ってくる様子も無いので、咲夜は適当なところで永遠亭から引き上げることにした。

 竹林を抜けると、空は朱に染まっている。
 そろそろ山狩りに出かけた一隊が戻る頃だろう。妖夢と遭遇したかもしれないが、派遣したメイドの中には妖夢と仲の良い者も居ることを記憶している。余程の事が無い限りは戦闘になることはあるまい。
 帰ったら収穫物の処理が待っているし、夜になれば主が目覚める。
 とはいえ目覚めの時間にはまだある。それに自分ならば三秒前だとしても間に合わせる事が出来る。
 残りの猶予を計算した咲夜は、鈴蘭畑まで足をのばす事にした。
 確かキッチンからの要求に、殺鼠剤が欲しいという声があったはず。
 急ぎの用ではなかったが、外出中に思い出したのだからついでに済ませてしまおう。
 殺鼠剤程度、館の知識人に頼めば済む話なのかも知れないが、余計な効果まで含んだ薬品が出来上がる可能性が付いて回る。
 他の場所ならば大概の事は放任だが、流石に台所でバイオハザードは願い下げだ。
 鼠を殺す為にゴキブリを強化して鼠を駆逐させるとか、普通にやりかねないのだ。アレは。
 少し前に庭先に穴が開いた時も、原因はパチュリーの作った魔法薬で変異した虫が原因だったし。
「何事もほどほどが一番ですわ」
 他にも花壇の虫除けや、咲夜個人の需要もある。
 手早くリストを作成しつつ、咲夜は高度を下げ、シーズンを終えた鈴蘭畑へと降下した。

「だれ?」
「ただのメイドですわ」
 誰何の声に振り向けば、そこには小さな姿があった。
「あ、メイド長さんだ」
「ごきげんよう、メディスン」
 優雅に一礼する咲夜に、警戒を解いたメディスンがとことこと近付いてきた。
「今日は何? なにか毒のご用かしら?」
「ええそうね、今日はこの毒をお願いしますわ」
 咲夜はリストを渡す。

 永遠亭に出入りするようになったメディスンは、ある時、永琳の根回しによって紅魔館へ足を運ぶ事になった。
 鈴蘭畑しか知らなかったメディスンの見聞を広めるという目的で図書館へ行く事になり、紅魔館のメンバーと顔見知りになる機会を得たのだ。
 それ以降、メディスンは毒の卸売りに紅魔館を訪れるようになった。

 コンパロコンパロと毒を凝集する様子を、微笑ましく見つめる咲夜。
 他人に言えない少女趣味には、当然可愛い人形も含まれる。
 卸売りに来るメディスンは、門外で用事を済ませて帰ってしまうことが多い。
 図書館で本を読んでいく事や、フランドールと遊んで帰ることもあるが、基本的には案内担当のメイドが応対するので咲夜と接する機会はほとんど無いのだ。

「はい。ご注文の品で~す」
 多種の毒は液体の物だけでなく、粉末になっている物もあった。
 ネコイラズの原料は発火性の高い成分なのだが、加工の都合があるので水分を抜いてもらったのだ。この状態でも火を付ければ発火するかも知れないが、封はしておくし運搬に不備はない。
 咲夜は品物を受け取ると、ポケット代わりにしている空間へと仕舞いこむ。
「ご利用、ありがとうございましたっ」
 永琳にでも仕込まれたのだろうか、メディスンは薬瓶を差し出す時に笑顔もつけてきた。
「え、あ、ありがとう……」
 不意打ちもいい所だった。咲夜は瀟洒な対応も忘れて、思わずどもってしまった。
「んぅ?」
 メディスンは咲夜の反応を不思議そうに見ていたが、首を傾げると、どこからか鏡を取り出し笑顔の練習を始めた。
「どうかしたの?」
「あ、ううん。なんでもないよ」
 メディスンが永琳から教わった事は多岐に渡る。
 その中には自分の笑顔が他者に与える影響、という話もあった。
 メディスンは単純に、笑顔には笑顔が返ってくる程度にしか理解出来ていなかったので、先程の咲夜の反応が理解できず、自分の笑顔にはまだ不自然な所があるのでは、と考えたのだ。
 咲夜はその事を知る由も無かったが、かつて自分が言われ、そして同じ事をやった覚えがあるので、直感でメディスンの疑問を見抜いた。
「あ、さっきのはねメディスン。貴方の笑顔が素敵だったから、ちょっとびっくりしちゃったのよ」
「そう、なの?」
 咲夜の笑顔にメディスンの頬が染まる。人形と妖怪の中間に居るこの子は、決して無機質な存在ではないと咲夜は知っていた。
 びっくり、というのは語弊があるが、笑顔に魅了されたのは間違いない。
 そして思い出す。
 かつての自分が笑顔を向けたとき、お嬢様は、パチュリー様は、美鈴は、そしてメイド達はどういう反応を返したのかを。
 館の住人の驚いた顔を思い出し、そしてそれを見た自分がどうしたのか。
 ……成程、ね。
 懐かしい光景に、咲夜の肩の力が抜ける。
「メイド長さんの反応は、私にはよくわからないわ」
「すぐに慣れるわ、それとねメディスン?」
「なあに? メイド長さん」
「それよそれ。私には名前があるわ。十六夜咲夜と云う名前がね」
「でも、他のメイドさんはそう呼んでるよ?」
 使いに出しているメイドは、役職で呼び合う事に抵抗が無いのだろうが、咲夜としてはこの人形には役職名で呼ばせたくない。それでなくとも美鈴は名前で呼ばれているのだ。
「私の事は咲夜でいいわ、もっとも、あんまり会う機会はないかもしれないけどね」
 役職の都合、あまり紅魔館を出ない咲夜は、無名の丘を訪れる事も少ない。
 メディスンが紅魔館にくる事はあるが、それも大した頻度ではない。
 だがそれでも、咲夜はメディスンに名前で呼ばせる事を望んだ。
 メディスンは、さくや、さくや、と新たな呼称を口の中で転がし、感覚を確かめる。
 そして、顔を上げ咲夜を上目遣い気味に見上げると。
「さくや、さん?」
「はう……っ!」
 自分で望んだ事だが、メディスンの一言は予想以上の衝撃だった。
 咲夜は薄い胸を押さえてうずくまる。
「だ、大丈夫!? わたし、毒出しっぱなしだった!?」
 メディスンは、不必要に毒を撒く事が無いようにと永琳から釘をさされており、敵ではない者に近付く時はかなり気を使っている。
 それにも関わらず突然咲夜が倒れたので、メディスンは慌てて駆け寄る。
 覗き込んで見る咲夜の顔には、額に発汗があり傍目には苦しげに蹲っている。
「さくやさん! さくやさん! 大丈夫!?」
 咲夜は焦る。確かに傍目には毒で苦しんでいるようにも見えよう。
 咲夜が倒れこんだのは、もちろん毒によるものではない。
 咲夜を追い込んでいるのは全く別のものであった。
 それは目だ。
 曲者、捻くれ者揃いの紅魔館住まいの自分にとっては、久しくお目にかかっていない類の目だ。
 初めてとすら言っていい。
 紅魔館では鬼のメイド長として、主の期待に完璧に応える為に隙など見せられない。
 当然そんな自分に向けられる目は、大半の畏怖と若干の尊敬であり、無防備な憧憬などではない。
 可憐な人形少女の、きらきらと擬音が付きそうな視線を受け、咲夜は得体の知れない感動に打ち震えていた。
「どうしよぅ……スーさん、どうしたらいいかなぁ?」
 泣きそうな顔でおろおろと咲夜を心配する仕草こそが、咲夜を追い詰めている事にメディスンは気付いていない。



 咲夜が落ち着くまでに十分を要した。

「ほんとに大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫よ」
「私、自分の毒がどのくらい周りに影響を及ぼしているか、よく判らなくて」
「メディスンはまだ若いのでしょう? なら、これから色々と覚えていけばいいのよ」

 メディスンは自分が気に掛けられている事を自覚している。
 恩のある永琳や永遠亭の面々に心配をかけるのは心苦しいが、いつまでも永遠亭に居てもよいかと悩んでいた。
 人形解放の闘争はまだ旗挙げすらしていないし、具体的に何をしたらいいのかも全然見えてこない。
 だが、いずれは成さなければならない事であると肝に命じている。
 その為には、少しでも早い自立が必要だと思っている。
「私は、自分の足で歩かないといけないの」
 いつだったか出会った花の女王にも、いつかは独立しなさいと言われた事もある。
「自分の足で歩いて、自分の手で道を拓かないといけないの」
 それは永琳から言われた事の受け売りでしかない。
 なぜ、周囲の力を持った妖怪や人間が自分を気に掛けるのか。
 メディスンには分からない。

 咲夜はこの話を黙って聞いていた。
 メディスンが尋ねもしないのにどんどん喋るのも一因だが、捻くれ者ばかりと接していたので、素直に自分の悩みを打ち明けられるような事は、滅多に無かった。
 一応、立場上部下からの相談も無くは無かったが、それはどちらかというと事務的なもので、こういった人生相談めいたものは、人情家揃いの門番隊や妙に聞き上手の図書館の司書の守備範囲であった。
 稀有な体験に、咲夜は感動すらしているのである。

「大丈夫よ。メディスンの人生はまだまだこれからなんだから、焦る事ないわ」
 咲夜はメディスンの作り物の髪を優しく撫でる。
「あ……」
 撫でられたメディスンが顔を上げる。自分に直接触れた咲夜の手が毒で変色しているのが見えた。
「だ、ダメだよ、私に触ると毒でひどいよ」
「そうね、忘れていたわ」
 咲夜は痛みを堪えて微笑む。
 湧き上がるどうしようもない保護欲。
 自分と他者との間にある壁に怯え、未来への不安に竦んでいるこの小さな存在を守ってあげたい。
 しかし今聞いただけでも、八意を筆頭に永遠亭、人形関係でアリスとその近所の魔理沙。さらには風見幽香にまで目にかけているらしい。
 出歩くようになってまだ僅かであるこの人形の意外な交友関係の広さに、咲夜は出遅れた事を認めざるを得なかった。
「敵は多いのね……」
 咲夜は、自分の手から直接毒素を抜いているメディスンから視線を外して歯噛みをする。
「敵?」
 咲夜の言葉の意味を理解できないメディスンは、きょとんと顔を上げた。
「なんでもないわよ」
 にっこりと微笑む咲夜。
「う、うん……」
 鍛え上げられた咲夜の瀟洒な笑みを受け、メディスンはもじもじと俯いた。
 今ここに居る人形少女は、咲夜の素性など知らない。いや、基本的な事は知ってはいるだろうが、知っているだけにすぎない。
 メディスンは紅魔館に何度か出入りしているが、多忙を極める咲夜と顔を合わせる事はほとんど無い。
 咲夜に対する知識も鈴仙などから聞いた事だけで、花の名前や、鳥の名前を知っているのと同程度の認識しかないのだ。
 そんな偏った知識しか持たなかったメディスンは、目の前の気高い花のような女性に魅了されていた。

 咲夜は柔らかい笑みを浮かべ、メディスンとの談話を楽しんでいた。
 毒があるが故の人との接し方、巫女や魔法使いの対処法、紅魔館の花壇の話。
 美鈴の失敗談で盛り上がっていたが、不意に咲夜の眉の角度が変わった。
 パーフェクトメイドの瞳は、薄暮に浮かぶ彼方の日傘を見逃さない。
 迫る気配にメディスンは気付いた時には、風見幽香は二人から見える距離にまで接近していた。

「こんにちは、いえ、こんばんはかしら?」
 いかにも通りすがりましたという顔で幽香が現れた。
「今日は珍しい取り合わせ。枯れない花と毒の姫。秘密のお茶会だったのかしら?」
 にこりと笑う幽香だが、その笑みに含まれるのは友好だけではない事を咲夜は知っている。
「てっきり夜にしか咲かない花だと思っていましたのに」
「あ、風見だ」
「こんばんわ、メディスン」
 厄介な奴に見つかったと、咲夜は苦い顔をする。
「何の用かしら」
「ただの通りすがりですわ、でもそこの娘が悪い人間に誑かされそうだったので、つい」
「あら、随分とお節介焼きなのね」
「眷属と言うほどではないにせよ、その娘は花の力に縁があるのですよ、親戚縁者は大事にするのは人間だけではないの」
 白々しい。同一の種族であっても家族というわけでもない妖怪が親戚とは笑わせる。
 人の身であっても独りである自分と、悪魔であってなお血族のいる主が脳裏を掠める
「でも、まあ花と戯れるのは女の子なら自然なこと。あなたがそうだとしても誰にも文句を言う資格は無いわ」
「そう。なら放っておいてくれないかしら」
 咲夜の嗅覚は、このまま居残れば面倒な事になると嗅ぎ付けている。
 メディスンとのひと時が邪魔されたのは不快だが、そろそろ仕事に戻らないといけない時間でもある。
 引き際を見誤ればロクな事にはなるまい。
 そう判断した咲夜は立ち去ろうとする。
「だったら私とも遊んでくれないかしら……さくやおねえさん?」
 メディスンの口真似をする幽香に、立ち去ろうとしていた咲夜の動きが止まる。
 幽香からは見えない角度だが咲夜の頬が紅くなる。
「ひょっとしてアレ? 貴方って可愛い子が好みなのかしら?」
 小首を傾げ、得心したように手を打つ。
「ああ、そう言えば貴女の屋敷にも小さい子が居るわねぇ……でも、あの蝙蝠娘じゃメディみたいに甘えてはくれないかしら」
 日傘をくるくると回し、幽香は勝手に喋り続ける。
「いいわ、秘密にしてあげる。悪魔の狗の内緒の花遊び……いいわぁ、女の子には秘密の一つや二つあるべきよねぇ」
 一人喋る幽香。メディスンは二人を交互に見ているが、険悪な雰囲気にどうしたらいいか判らずにオロオロと様子を見ている。
「メディスン」
 咲夜が笑顔で振り返った。
「ごめんなさいね。私、幽香と約束があるのを忘れてたわ」
 咲夜の言葉に、幽香の美貌が笑顔で咲きほころんだ。
「ごめんねメディ、また今度遊んであげるからね」
「う……うん」
 見る者を蕩けさせる幽香の笑みにも、メディスンはぎこちなく頷く事しか出来ない。



 メディスンと別れ、二人は草原の上に居た。
「ここならいいかしら。広いし、邪魔になる妖精もあまり来ない」
 わざとらしく見回す幽香に咲夜は答えない。
 風見幽香の気配がすれば、余程の馬鹿でもなければ身を隠す。
 妖精だって無駄に痛い目には遭いたくはないのだ。
「どうしたのかしら、さくやお姉さん」
「こ……!」
 頬が熱くなるのを咲夜は感じる、反面、意識は氷の如く冷たくなっていく。
 振り返り、にこにこと笑う幽香。
「わざわざ連れ出して、一体何の用かしら? 私、あんまりヒマじゃないんだけど」
「あらそうなの? でも安心して? あんまり時間は取らせないから」
 慇懃な態度ではあるが、折れる様子を見せない。
 咲夜の能力を知っているはずなのに、時間は取らせないという幽香の言葉に咲夜は鼻白んだ。
「ちょっと花占いをしたいだけ」
「私は花じゃなくってよ」
「素敵な名前じゃない、夜に咲くなんて」
 幽香の視線が咲夜の足先から頭までをねめつける。
「花びらも千切り甲斐がありそうだし」
 捕食者の目に、咲夜は半ば諦めの溜息をついた。
「あんまりいい趣味とは言えないわね?」
 実の所、幽香としては咲夜の趣味などどうでもいい。ただ咲夜と遊んでみたいだけでちょっかいを出したのだ。
 いや、咲夜と、ではなく、咲夜で、だろうか、
「趣味なんて千差万別よ。売る気も無い商品を並べている古道具屋があったり、人を守る変わり者の妖怪がいたり」
 くすくすと笑う幽香。
「私は花で遊ぶのが趣味だし、貴女がどんな趣味をしていても別に構わな」
 幽香の言葉に刺さるように銀の線が飛んだ。
 威嚇ではなかった。ナイフは間違いなく幽香の右目を狙って飛んでいた。
 前口上を全部聞いている程、今の咲夜は忍耐強くない。時間を操るメイドは時間の浪費を極端に嫌うのだ。
「演説は短めにお願いするわ」
 咲夜も腹を決めた。どうやら戦わずにこの場を切り抜けることは出来そうに無い。
 それに、先程の主への侮辱だけでも十分に誅戮に値する。
「もういいわ、私と遊びたいというのなら、受けて立ちましょう」
 年長者に振り回されるのはもうごめんだ。
「園丁は私の仕事じゃないけど、どうやら刻まれたいみたいだし」
 溜息と共に右手を振ると、ナイフが一束現れる。
 それを見た幽香の顔に、肉食獣の笑みが浮かんだ。



 咲夜のナイフが戦いの火蓋を切って落とす。
 戦闘に突入した咲夜の意識は、昂奮で熱くなる頭と分析しようとする部分とで、温度差が生じた。
 敵は風見幽香。
 幻想郷を見回しても、これに匹敵する力を持った妖怪は数えるほどしか知らない。
 間違いなく強敵だ。
 咲夜は幽香の目を見る。
 溢れんばかりの余裕を湛え、自信に満ちた目。
 獲物をいたぶる事に喜びを見出すタイプの目。
 こいつの目は鼠を前にした猫の目だ。
「……コイツを倒せば、私の猫度も上るかしら」
「あら、貴女ネコなの?」
「こちらのことですわ」
「大丈夫よ? 私、大人しい女の子も好きだから」
 咲夜は口を噤み、ナイフで以って返答とした。
 片手に三本を持った手が目にも留まらぬ速度で振り抜かれる。
 交互に二回。
 精密な投擲は咲夜の特技であり、それは投げる数が増えても変わる事は無い。
 風を断つ音と共に、十二の刃は月光を受けて銀の線となった。
 幽香は迫る切っ先を見切ると、くるりと身を回して射線から外れる。
 様子見どころか遊ぶ気まんまんのその動きを、咲夜の冷静は瞳が見送った。
「え?」
 突然ナイフの軌道が変わった。
 ピンポイントの空間制御で飛行中のナイフの軌道を変える。咲夜の基本戦法だ。
 夜闇を奔る冷たい光は、幽香の身体を正確に狙った。
 両目、眉間、喉、心臓と腹に二発。手足へはそれぞれ、上腕と大腿部内側の動脈のある箇所へ。
 人間の急所ばかりだが、「血が流れる」作りをしている妖怪にはそれなりに効く。
 咲夜は、タフさが売りの妖怪を一撃で仕留めようなどとは思っていない。
 削って刻んで弱らせて、最後にトドメをさせばそれでいい。料理や掃除は過程こそが大事なのだ。
 狩人の意思を忠実に代行すべく、忠実な猟犬であるナイフが獲物に刺さる。
 突音。
 柔らかい音が多重に聞こえたが、十二のナイフは全て花に受け止められていた。
 正確に中心を貫いたナイフは、花と一緒にそのまま落下していく。
 しかし、
「……いったぁい……」
 幽香が小さく悲鳴を上げる。
 幽香の手の平には細身のナイフが刺さっていて、切っ先が手の甲から見えていた。
 ナイフの群を防御する隙を狙った咲夜の一投だった。
 幽香は、深々と突き刺さったスティレットと呼ばれる投擲用のナイフを抜く。
 微かな音を立ててナイフが傷口から抜かれ、小さな傷口からビックリするほど大量の血が出た。
「ナイフを手掴みだなんて、優雅さに欠けるわね」
 咲夜の挑発に微笑んだ幽香は、出血を物ともせずに手の平を握りこんだ。
 溢れる血が指の間から零れ落ちる。
「ふぅん、楽しめそうね?」
 開いた手の傷は出血が止まっていた。治癒の術ではなく、握力で血管を圧迫し強引に癒着させたのだ。
 幽香ほどの実力ならば、この程度の傷を回復するなど造作も無いが、弾幕戦を楽しむにはある程度の痛みがあった方がいいスパイスになると幽香は考えている。
 カードによる決闘ルールに従うつもりは無いが、撃ち合う端から傷を治したりしたら楽しくなくなるだけで、戦いの駆け引きを味わいたい幽香からすれば、結果的に従ったほうが楽しめるというのも事実なのだ。

 咲夜は今の攻撃が通用しなかった事に落胆していなかった。
 仮にも危険度激高に指定される妖怪、八雲紫と渡り合う戦闘力を持つと言われるこのバケモノが、ただの一回の攻撃で落とせるわけが無い。
 相手の神経を逆撫でして、嬲る事に喜びを見出すタイプだというのは知っている。
 また、弾幕勝負に嗜虐、被虐の趣味を持ち込む性癖があると聞く。
 今の被弾とて、様子見以前にわざと当たったのかも知れないのだ。こんな相手に負けたら何をされる事やら。
 油断は出来ない。いろいろと。
 咲夜は異常開花の時に一度幽香と戦っているが、圧倒的な火力を持ちながら、敵をいたぶる癖があるのを見ている。
 火力は壮絶の一言。花畑が丸ごと弾幕になったのかと思うような規模の攻撃だった。あれを相手に正面から挑むのは、余程の実力者か単なるバカだろう。
 反面、足は速くないらしい。チルノを相手にくるくると飛び回られ、にこにこと困っていた事を記憶 している。
 咲夜が勝利を勝ち取るには、自分のスピードは最大限に生かすべきだと思った。

「じゃあ、今度はこっちからいくわね?」
 血の滴る手の平をこちらに向けると、そこから眩い光が迸った。
 夜闇に目が慣れ始めていた咲夜は、一瞬視界を失った。
「くっ」
 だが、咲夜は幽香の手の向き、直前の妖気の規模から弾幕を予想、網膜に白く焼き付いた残像から横っ飛びで回避。
 靴先の僅かに向こうを、光で出来た花びらが洪水のように流れていくのが見えた。
 涙で滲む視界の中、咲夜は素早く幽香を探す。しかし先程の場所に居ない。
 咲夜は振り向く事無く、そのまま前方へと回避。背を丸めるように一回転すると、回る視界の端に幽香の姿が見えた。
 手をこちらに向けている。
 再びの閃光と豪風。
 殺意の篭った花吹雪が咲夜を襲ったが、弾群はメイド服を掠めることもなく、少し先の地面に着弾した。
 間欠泉のように土砂が吹き上がり、妖精の戯れとは比較にならない一撃が、草原を抉り地形を変える。
 爆風に髪を揺らす咲夜は、回避をしつつ素早く分析を開始した。
 足の遅い幽香は、先手を取ることでこちらに回避を強要し、有利な位置からの攻撃を続けるつもりらしい。
 実際、目視に頼る咲夜にはこの光の花吹雪は目晦ましの効果を持っている。
 散弾状に飛来する弾幕は、間にある程度の隙間があり、視認出来ていれば間を通る事も可能だろう。
 しかし咲夜はこれを罠と判断した。
 見えにくいが、決して速いわけではない。幽香はわざと抜けられるだけの緩い弾幕を用意しているのだ。
 おそらくは弾幕を抜けて回避した所への攻撃が狙いだろう。
 その策に乗るほど咲夜はお人よしではないが、拡散する攻撃を回避するならば、距離があればあるだけ大きく避けなくてはならない。
 つまり弾幕の外周を避けている間は、咲夜の移動速度の大半は幽香の攻撃範囲から逃げる事で消費されてしまい、その間に幽香は次の攻撃の準備を整えられるのだ。
 短所となる速度の遅さを、長所である火力で補う戦法らしい。
 風に流れて幽香の笑い声が聞こえる。
「メイド長さんは速く動けるのねぇ。私、足が遅いから羨ましいわ」
 光の向こう、楽しげに歪んだ幽香の口許が見えた。
 直後、光の花が咲く。



 無名の丘へと至る道を遠目から見れば、幽香の攻撃はまさしく光の花のように見える。
 草原を照らす光は危険な威力を秘めており、うっかり弾が届く所まで近付いてしまえば恐ろしい運命が待っているが、安全圏から眺めるなら、まるで打ち上げ花火のような美しい光を楽しむ事ができる。
 突然始まった弾幕勝負を、近所の妖精たちは遠巻きにして眺めていた。
 妖怪が放つ弾の嵐を、人間が避けている。
 妖怪の攻撃はすごいの一言で、今ここで観戦している妖精が全員束になっても、ひとまとめにやられそうな勢いだった。
 ぱっ、と光って、どん、と空気が震える。
 光の弾が散らばると原っぱが爆発する。時々流れ弾が飛んできて、観戦に熱中した仲間が避けそこなって当たったりもしていた。
 戦っている人間は避けるのが精一杯で、一回避けるごとに追い詰められていく感じだった。
 時々ナイフを投げているけど、妖怪はそれをスイスイと避けている。
 その妖精は、人間があと何回避けられるか仲間と賭けをしようと思った。



 迫り来る妖弾の連射を側転で回避した咲夜は、幽香の攻め手に疑問を持った。
 確かに幽香の攻撃は一射ごとに範囲が広がり、弾幕の密度も増してきている。
 弾種も増え、このまま高速で移動していても、いずれは捕まるだろう。
 しかし、それは普通に回避していればの話だ。
 咲夜には、普通ではない移動手段があり、一度手合わせしている幽香がそれを知らないはずは無い。
 ……罠? 誘っているのかしら?
 咲夜は悩むのを止めた。いずれにせよこのままでは避けられてあと数回だ。時間停止を誘っていると言うのなら、乗ってやろう。存分に味わってもらおうではないか。

 幽香が炸裂弾を放った直後に、相手の姿が見えなくなった。
 直撃して消し飛んだなどとは思わない。今宵の相手はそんじょそこらの妖怪とはワケが違うのだ。
 ようやく相手がやる気になった事で、幽香は思わず笑みを浮かべていた。
 咲夜の姿が消えたのを知覚したとほぼ同時、幽香は日傘を傾ける。
 妖怪の反応速度と筋力は、時差なしで背後から飛んで来たナイフを受け止めた。
 柔らかそうに見える傘は銀閃を阻み、刺さりもしていない。
「あら?」
 放った直後の弾幕が、幽香の前方で突然光量を増した。
 いや、そうではない。急に光が増えて見えたのは、弾幕の隙間を抜くように飛ぶナイフの刃が光を反射したからだった。
 後方からのナイフへ意識を逸らしていた幽香は、これには反応が遅れた。
 知覚は出来たが身体がついてこない。
 さきほど白状したとおり、大妖、風見幽香の弱点は足の遅さにある。もっとも速度重視の回避を迫られるような状況は殆ど無いので、幽香はこれを強者の余裕としていた。
 目の動きでナイフを数える。
 16本。刺されば痛そうな場所ばかりを狙って来ているのはすぐに判った。
 ……あの子、サドなんじゃないかしら。
 そう思った瞬間、幽香は背中に衝撃を受けた。
 気に入っているチェック柄のベストの背中に、23.5センチの靴底がめり込む。
 蹴られたと思う間もなく、前進のベクトルを受け取った幽香はナイフの群へと飛び込んだ。

 幽香の背中に蹴りを入れた咲夜は、直後に停止した時間の中へと遷移した。
 すかさず追い討ちのナイフを投擲する。
 こんなナイフの10や20刺さった所で、コイツが大人しくなるわけがない。
 ナイフを持った手が残像を描くと、刃が空間に磔になった。
 右、傘を持っている側から見えるように8本。こちらは弾道制御だけ。
 左はそこで位相固定。傘で受ければ時間差でその背後を突くはずだ。

 幽香がナイフの群へと飛び込んだ。が、咲夜の耳には刺突の音は6つしか聞こえなかった。10は受けられたらしい。
 左右に展開したナイフが、時間の流れに乗って飛行を開始する。
 挟み込むような軌道に、しかし幽香は咲夜の予想とは違う行動をとった。
 左右から迫る刃を無視して、背後に居る咲夜へと光弾を放ったのだ。
「!?」
 光の嵐が過ぎても、咲夜には怪我は無かった。
 咲夜が時間を停めたのではない。単純に当たらなかったのだ。
 外れた……いや、今のは外された。
 咲夜は奥歯を噛む。
 無敵に思える咲夜の時間停止とて万能ではない。
 時間の流れに干渉するには、ほんの僅かだが確実に隙がある事。
 また、時間停止は咲夜の意思で行われるため、咲夜が反応できない角度やタイミングで攻撃されると、時間を停めようがないのだ。
 これは咲夜が人間であるが故の限界でもある。

 風見幽香がゆっくりと振り返った。
「女の子の顔を刃物で狙うなんて……貴女、いい趣味してるわぁ」
 幽香は血塗れだった。
 先に当たった6本に加え、左右からの攻撃を無視して反撃したため、追撃の16本をまともに浴びていた。
 真っ白だったブラウスの袖は、今は真赤な花が咲いたように紅くなっている。
 幽香は胸や腕に刺さったナイフを無造作に抜いていく。
「……」
 計算通りではあった。
 プライドの高い幽香なら、顔を傷つけられる事を嫌うだろうと、16本のうち10本は顔面狙いだったのだ。
 幽香は奇麗にそれだけを打ち落とし、後は刺さるに任せたらしい。
 ……化け物め。
 咲夜は油断無く構える。
 これが弾幕勝負であるなら、ある程度のルールはあるはず。
 宣誓抜きで始めたが、幽香には幽香なりの敗北条件があるだろう。
 基本的には根性が尽きたらお終いで、どれだけカードが残っていてもそこで終了。
 どちらかがカードを使い切っても終了だが、幽香は未だスペル宣言をしていない。
 弾幕勝負、とりわけ妖怪同士の戦いはルールで縛らないといつまでも続く傾向がある。
 スタミナと妖力に恵まれた妖怪同士が戦うと、何時間でも戦いが続いてしまうのだ。
 それを防ぐ為のルールでもあるのだが(戦いが長引くと、それだけ周辺への被害も大きくなる。戦いを続けられる妖怪の大半は、破壊力の大きいカードを複数所持しているのだ)咲夜はそのルールをアテにしていた。いくらなんでも生身の人間が何時間も戦うのは無理がある。
 咲夜は風見幽香が飽きるか、なんらかの形で敗北を認めるまで、どうにかしてやり過ごさなくてはならないのだ。
「まだまだこれから、もっと遊んで頂戴」
 ナイフを抜き終えた幽香が微笑む。
 血塗れの服と美貌の組み合わせに、咲夜の背筋に汗が浮いた。
「じゃあ、いくわよ?」
 ナイフを捨てた幽香が宣言した。再び攻撃が始まる。

 二人の少女はダンスを続ける
 ナイフが花を打ち落とし、烈光が咲夜の影を貫く。
 幽香の砲撃は更に激しさを増し、地面を抉り、咲夜を追い立てる。
 追い詰められる度、あるいは攻めの起点を掴んだ時、咲夜は時を止め、刃が閃く。
 舞踏は続く。
 最初に被弾を許した幽香だが、それ以降はきちんと回避行動をとっていた。
 緑の髪を散らし、チェックのスカートから覗くレースが切られようとも、幽香本人への被弾は無かった。
 二人の少女は、絡み合う蔦のように軌道を交差し、弾幕を応酬する。

「ふっ!」
 咲夜は迫る花弾にカウンター気味のナイフを投じる。
 小首を傾げてナイフを躱した幽香の笑みに、微笑で返礼する。
 しかし内心は穏やかではない。時間停止による移動を使用する頻度が増してきているのだ。
 自身の能力とはいえ無制限に使用できるものでもない。ある程度の「溜め」は必要だし、通常の時間流に復帰する瞬間には、僅かとはいえ負荷がかかる。
 激しい戦闘運動の最中に連続で使用すれば、それだけ咲夜の消耗は早くなるのだ。
 人間と妖怪のスタミナ差の問題も、咲夜が人間である事である以上、無視出来ない問題である。
 だからと言って弱音を吐いていい道理はない。近所付き合いのある人間には、時間を停める力などなくても妖怪と弾幕遊びに興じるヤツがいる。
 自分の力を信じ、自分の力で戦い抜く少女。その笑みを思い出せば、こんな程度で音を上げるわけにはいかないのだ。
 しかし……と、咲夜は停止した時間の中で額の汗を拭う。
 ナイフも無限ではない。
 回収しようにも幽香はナイフを撃ち落す事で防御している。つまり、咲夜のナイフは投げれば投げるだけ消費されていくのだ。
 こちらの弾は有限。スタミナはあちらの方が圧倒的に有利。
 同じ攻めを続けていたら、ジリ貧で負ける事になる。のは明白だった
 幽香は守りに入った振りをしているだけで、こちらが攻めに転じるのを待っているのが判る。
 先程から、こちらの手の内を引き出すような相手の戦術に付き合わされているのが気に入らない。
 幽香は、攻撃をひとつひとつ丁寧に潰す事で相手を屈服させ、完全な勝利を手にしようと云うのか。
 ……コイツの性格なら有り得るかしら。
 判断した咲夜は、ナイフの残りを数えると行動を起こした。

 空間ごと伸張してくるナイフが迫る。
「あら?」
 嬉々として弾幕に興じていた幽香の表情が曇る。
 迎撃しようと思ったのだが、ナイフの数がこれまでよりも随分と多かった。
 ……まさか、もう最後の攻撃とか言わないわよねぇ?
 数えるのが面倒になるほど大量のナイフが向かってくる。
 これだけのナイフが刺さったら、毬栗のようになるだろうか。
 刺さりきれなくて余るナイフが出るかも知れない。
 幽香は、それはそれで面白いかもと考えつつ、この戦闘で初めて傘を攻撃に用いた。
 弾幕を防ぐ事も出来ると言う噂の、薄桃色が目に優しい瀟洒なデザインの傘。
 夏の通り雨のように激しく降る刃に向かい、閉じたそれを振るう。
 斬。
 光を纏った傘の袈裟懸けは、剣閃の鋭さをもっていた。
 柱のような光が通過した後に、折られたナイフの残骸が舞い、傘が放つ光を反射してきらめいた。
 しかし、幽香の一撃は総てのナイフを破壊したわけではなかった。
 無造作に傘を振り下ろした姿勢の幽香に、生き残ったナイフが襲い掛かる。
 軌道を変化させ、四方から襲い掛かる冷たい光を見つめ、幽香は内心で溜息をついた。
 この流れは先ほどの時と一緒だ。
 咲夜は、自分がナイフに対応して隙を見せるのを待っているはず。
 それは充分に脅威だが、予想が出来ている攻撃はさほど脅威ではない。
 と云うかつまらない。
 ……もう少し楽しめると思ったのになぁ。
 幽香は自分の中で戦いの熱が冷めていくのを感じた。
 やはり、この心を熱く満たしてくれる相手は紫や霊夢くらいなのか。
 おそらくはこの一群を薙ぎ払った瞬間に、死角から咲夜の一撃が飛んでくるだろう。
 それを撃墜したらそこで終了にしよう。
 久々の晴れ間に浮かれて出て来たにしては喰い足りないが、そこそこ楽しめたので良しとしよう。
 斬。
 返しの一太刀は一撃目を上回る速度で振り抜かれ、硬い快音と共に、金属製のナイフが木っ端微塵になった。
 豪快かつ優雅な一撃が飛来したナイフを打ち砕いく。
 2本のナイフが必滅の一打を掻い潜り、軽い音と共に幽香に刺さった。
 正面、右肩の付け根と、背中の左側、肩甲骨の少し下くらいの位置。
 幽香は素直に、痛いなと思った。
 傷の深さは三センチにも満たない。人間ならそこそこの怪我だろうが、あいにく自分は人間ではない。
 妖怪の館で頭を張ってる人間がどの程度かと思ったが、やはり人間であるという限界はどうしようもないのだろうか。
 そう思いつつ、右腕で振るった傘を逆手に持ち直し、力任せに背後に突き込んだ。
 これで、終わりだ。

 直後。
 初秋の夜風に、鮮血が散った。

「くぁ……っ!?」
 苦痛に呻いたのは幽香だった。
 傘を後ろに突き出した右腕はそのままに、空いた左手で右肩をかばう。
 先程浅く刺さっただけのナイフは、今は深々と刺さっていた。
 咲夜がナイフの柄尻を蹴り、根元まで突き刺したのだ。
「かっ!」
 幽香は正面の敵に妖弾を放つ。しかし弾が届く前に相手の姿が消えた。
「ぐ!」
 左背後から蹴られた。二撃目の気配を察し、裏拳を放つ要領で妖弾を、
 消えた。
 右斜め前から首筋狙いの横薙ぎが来た。
 後ろに向いていた意識を強引に引き戻し横目で睨めば、大振りな刃に奇妙な紋様を浮かばせたナイフを振り抜こうとしている咲夜が見えた。
 強引に右腕を振り上げる、深手を負った肩が痛むが構わずに、
 消えた。
 背後から左腋を蹴られた。肺から空気が押し出され、幽香は奇妙な音の悲鳴を上げる。
 目測と勘で蹴りを放
 消えた。
 後ろに放った左脚を掴まれた。
 可愛らしいパンプスに包まれた足首を捻られ、枯れ木を折るような音が幽香の体の中に響く。
 激痛に構わず、掴れた脚を振り回す。チェックのスカートが翻るが、回転したのは幽香だけで、
 回転の逆方向からの蹴りを顎に食らった。カウンターになった事よりも、顔を蹴られた事に幽香の意識が沸騰する。
 咲夜が蹴り足を畳もうとしている所へ妖弾を、
 左の背中に刺さったままだったナイフを握られた。そのまま押し込まれるよりも早く、全身から妖気を噴出す、
 左がナイフは抜かれた。行きがけの駄賃とばかりに背中を切りつけてだが。

 攻撃を繰り出しても、咲夜は瞬時に姿を消し、次の瞬間その死角から攻撃してくる。
 幽香は持ち前の力と反応速度で対応しているが、咲夜の攻めはそれを上回った。
 蹴られる。
 斬られる。
 突如として始まった嵐のような攻撃の中、幽香の口許が歪に微笑む。
 ……なぁんだ。やれば出来るじゃないの。
 歓喜と殺意をそのままに放つと、それは全方位への衝撃波となった。居ない。
 全方位からナイフが殺到した。
 傘を開いて前方は防いだが、背中に冗談のような数のナイフが刺さった。

 停止した時間の中。
 紅い瞳でこちらを見つめる幽香は確かに傷ついていったが、まだまだ戦意が衰えた様子はなかった。
 咲夜は時計のように正確に状況を判断する。
 幽香の反撃を時間停止で躱し、その死角へ移動して攻撃する。
 これを繰り返す。
 連続的な時間停止は咲夜にかかる負担が大きい。しかし咲夜は停止時間を最小限に抑える事でこれに対した。
 幽香から至近の位置で、ほんの少しだけ時間を停め、移動する。攻撃を繰り出し、また停止する。
 無酸素運動にも等しいこの攻撃は、相手の反撃を許さずに封殺する咲夜の奥の手の一つだ。
 咲夜は冷静に判断する。相手の弱り具合、攻撃の死角、そして自分の消耗。
 咲夜は冷静に焦っていた。
 幽香が予想通りに粘るのだ。まだこの攻撃を続けられるが、いつまでも続けられるわけではない。それまでに風見幽香がやる気を放棄するなり、気絶してくれなければ、時も停められないほどに消耗しきった状態で戦闘を続行する事になる。先程の攻撃で投射用のナイフの殆どを使ったので、それは何としても避けたかった。
 ……いい加減に降伏してくれないかしら。
 風見幽香を相手にして、我ながら虫のいい話だと思いつつ、咲夜は隕鉄製のナイフを振り下ろした。

 刃渡り30センチは有ろうかと云う厚刃のナイフは、日傘によって遮られた。
「な……!?」
 傘による逆袈裟を回避したはずなのに、傘によって受けられた。
 驚く咲夜の目に、その答えが映っている。
「ふ……ふふふ」「あは、あはははは」
 幽香が二人居た。
 幽香たちは背中合わせになり、互いの死角をカバーするように宙に立っていた。
 腫れた唇の端から含み笑いを漏らし、幽香が顔を上げる。
「すごいわぁ……こんなに痛いのって久しぶり……」
 無傷の幽香が振り返り、傷だらけの幽香の頬の血を舐める。
 どこか陶然とした眼差しの二人の幽香は、ナイフを止めたまま咲夜の紅い瞳を覗き込む。
 その目を見た咲夜は時間停止を忘れ、思わず見入ってしまった。
「あなたスゴイわぁ……ねぇ、もう少し遊んでくれるかしら……?」
 分身体である血に汚れていない方の幽香が、肩越しに話しかける。
 声と瞳だけなら童女の様ですらある。しかし、紅に塗れた美貌は熱に浮かされたような目で咲夜を見る。
 風見幽香は血の昂奮に酔っていた。
「ッ!」
 咲夜は余力を掻き集めて、停止した世界へと跳躍する。
 自分の攻撃が相手の闘争心に火を点けてしまったらしい。
 この戦闘狂がどの程度で満足するか知りたくもないが、幸か不幸か昂ぶった妖怪の相手なら経験はある。
 問題は、自分にどのくらいの余力があるか、だ。
 汗で額に髪が張り付く。しかし、既にそんな事に気を回す余裕は失っていた。
 ……さっさと眠りなさい!
 停止した世界で、咲夜は声無く叫んだ。

 二人の幽香は背中合わせで傘を振るい、周囲に現れる咲夜と切り結ぶ。
 高速で時間跳躍を繰り返す咲夜は、幽香から見ると、まるで複数の咲夜が襲い掛かってきている様に見えた。
 蹴りを止め、その反動が残っている間に背後の幽香がナイフを受ける。
 ナイフが止まった所へ、背中を向けている幽香が妖弾を背後に放つ。
 咲夜が消える。
 刃を受け止める。そのまま押す。消えた。弾幕で待ち受ける。消えた。投げナイフ。弾く。フェイントの後の咲夜の攻撃を返す。消える。
 全周360度を一人で守っていた幽香は、守備範囲が半分になる事で、徐々に咲夜の攻撃を押し返し始めた。
 二人の幽香のコンビネーションは完璧で、背後への攻撃も寸分の狂いもなく放たれる。
 背中合わせの自分に当てる事無く、幻のように出現する咲夜を狙う。
 嵐のように振り回される幽香の腕は、差し伸べられるナイフを切って落とす。
「「あはははははははははははははははは!!」」
 幽香が笑う。
 楽しそうに笑う。
 心から。
 童女のように。
 光る花びらと傘を振り回しながら。
 くるくると、くるくると。

 片手一本で振り回される日傘が必殺の斬撃を受け止め、もう片方の傘が銀髪の殺人鬼を狙う。
 突き込まれた傘が咲夜の脇腹を掠め、メイド服の布地が千切れ飛んだ。
 幽香の攻撃は次第に咲夜の体を掠めるようになってきていた。エプロンやスカートの裾も裂かれ、内側の肌色が覗いている。
 突如として倍になった幽香の攻撃に、咲夜は時間跳躍の頻度を増す事で対処するしかなかった。
 そして、それは咲夜の気力、体力を根こそぎ奪う。
 瞬間停止による移動で死角に移っても、どちらかの幽香が反応してくる。
 咲夜の攻撃が届く前に、幽香の防御或いは攻撃が間に合うようになった。
 風見幽香が分身した時、咲夜には最悪の四分身の光景が浮かんだが、どうやら今のところ二体だけのようだ。
 この妖怪の底の知れなさから判断すれば、決して楽観できない状況であり、倍化した負担に咲夜の心臓は早鐘のように打ち始めた。
 時間跳躍の反動が頭痛となって咲夜を苛む。
 あとどれだけこのペースを維持できるだろうか。珠の様な汗を散らし、咲夜は真紅の瞳で睨みつける。
 ……その傘、邪魔だ!
 刃を振り下ろす。

 それまで何をされても綻びひとつ見せなかった日傘に、ナイフの刃が食い込んだ。
 幽香が驚きに目を丸くする。
 それを声にする間もなく日傘は骨まで切断され、傷だらけの方の幽香が持っていた日傘はその上半分を切り飛ばされた。
 防御したつもりでいたので、背中合わせになっている自分からのフォローが遅れる。
「……!」
 咲夜の手首が返り、短刀が跳ね上がった。その速度は幽香の動体視力をもってしても銀光にしか見えない速度。
「きゃ!」
 幽香が咄嗟にのけ反ったため、刃は掠っただけだった。
 間髪入れずに次の攻撃が来る。
 咲夜の左手にはいつの間にか同じようなブロードナイフが握られ、それが滑るような動作で突き込まれてきた。
 刃の先端は幽香の右腋へと向き、横に寝た刃は肋骨の隙間を狙っていた。
 が、それはもう一本の日傘によって阻まれる。
 しかしその日傘も、ぶぅん、という虫の羽音のような音とともに切っ先が食い込み、そのまま断ち切られた。
「な!?」
 無言のナイフが幽香の右胸に触れた瞬間、背後からの腕が、幽香の襟首を掴んだ。
 放り投げられるようにして幽香はナイフの間合いから逃れる。
 間合いを取った幽香たちが体勢を立て直すと、傷だらけの幽香の服が開いた。
 正中線をなぞるように振り上げられた一撃は、幽香の柔肌に紅い線をつけただけに留まったが、服の合わせ目のボタンを残らず断ち切っていた。
 はらりと上着が開くと幽香の白い肌が覗き、豊満な身体が月下に晒される
 戦いで傷を負った肢体は、零れた紅い滴で奇妙な模様を描かれていたが、それでも美しさが損なわれる事はなかった。
 背後の幽香が半ばから断ち切られた傘を捨てると、咲夜に向き直った。
「ふふ。ちょっと珍しいから訊いてあげるわ。そのナイフ、どんなカラクリ?」
「教える義理なんて無いですわ」
 咲夜は二本のナイフを構えたまま答える。
 その言葉に、二人の幽香の唇が釣り上がった。

 咲夜は、静かに呼吸を整えつつ油断無く構えている。
 幽香の口調の微妙な変化を嗅ぎ取った咲夜は、僅かだが希望を見出した。
 粘つくような、人の神経を逆なでする口調ではなく、こちらを探るような言葉。
 それは初見の攻撃に僅かでも脅威を感じたからではないだろうか。
 幽香の興味を引くほどの攻撃なら、或いはこのバケモノを撃退できるかも知れない。
 無傷だが消耗の激しい自分と、全身血まみれでありながら余裕の態度を崩さない風見。
 どちらが優勢かなど考えるだけ無駄だった。
 しかし咲夜は退く事を是としない。
 手の内を引き出そうとする幽香の誘いに乗り、もうひとつの絶技を晒したのだ。
 連続停止に次ぐ咲夜の奥の手は、高速振動剣。
 ナイフの刃身を空間ごと超高速で振動させ、刃が触れた対象を熱と振動で切る技である。
 連続的な制御が必要な上に、ナイフ本体に掛かる負荷も大きい。
 しかし、その威力は折り紙つきだ。魔力付与などで強度が増してあっても、刃が立てば大概のものは切ることが出来る。
 最大出力にすれば、鉄板すらバターのように切り裂く事が可能になるという、奥の手に相応しい切れ味を誇る。
 幽香の傘の防弾防刃能力は高かったが、どうにか切断する事が出来た。
 まだいける。
 咲夜は自分に言い聞かせる。
 力の連続使用で、目の奥が燃えるように熱くなっている。
 予定外のオーバーワークに、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
 今の咲夜を突き動かしている物もまた、闘争本能と呼ばれる物なのかも知れない。
 戦いの熱で沸騰した咲夜の脳には、もはやこの戦いの意義が何であったかなど、欠片も残っていない。
 ここまで来て負けるわけには行かなかった。
 月光を鈍く反射していたナイフの刃が、その光を震わせる。

 幽香は咲夜の驚異的な戦闘能力に、感動すら覚えていた。
 珍しい奴が出歩いているのを見かけたから、軽く遊んでやろうという程度にちょっかいを出したのだ。
 幽香からすれば、人間など吹けば飛ぶような存在でしかない。
 このメイドも、花占いの花ように適当に毟ってやろうくらいにしか思っていなかった。
 しかしこの花には思いもよらぬ棘があった。指に刺さるどころではない、幽香の喉笛を食い破ろうとする牙すらあった。
 そして今、花は再び幽香に牙を剥いた。両手の刃を震わせた咲夜が、怒涛の攻撃を仕掛けてくる。
 楽しくて仕方なかった。

 二人の少女の視線がカチ合う。

「綺麗にカットして差し上げますわ! 花の女王!!」
「最後の一枚まで毟ってあげるわ! 夜に咲く花!!」

 咲夜は疲れた身体を叱咤すると、最後の勝負を挑んだ。
【傷魂 ソウルスカルプチュア!!】
 それは高速振動剣による超高速連斬。
 時間加速による高速動作と、空間制御による超振動を同時に使用する絶技。
 無数の刃は鋼すら断ち、空を斬る刃は相手に届かずともその衝撃波を以って敵を討つ。
 咲夜の切り札とも言える攻撃だ。
「「あっは♪」」
 二人の幽香は両手に光を握ると、断裂の嵐に正々堂々正面から挑んだ。
 光花が爆裂し、妖弾の連射が斬撃と激突する。
 加減を忘れつつある幽香の弾幕が荒れ狂い、辺りを昼のように明るくする。
 流れ弾が周囲の地面を捲り上げ、爆発が遠巻きに見ていた妖精たちを巻き込んでいく。
 草原の地形が急速に変わっていった。

 怒涛の応酬は唐突に途切れた。
 鮮血が舞う。
「ぐっ、あぁ……!!」
 暴風雨のような弾幕を真っ向から切り崩し、ついに咲夜の刃が幽香の胸を抉ったのだ。
 正面からの力比べは、咲夜に軍配が上がった。
 ソウルスカルプチュアの持続時間は長くないが、その分密度が高く、物量で押そうとした幽香の弾幕の一角を完全に穿孔して見せたのだ。
 凄まじい切れ味の刃で与えた傷は、真紅のおぞましい花を咲かせる。
 しかし、斬られた幽香はそのまま咲夜に抱きついてきた。
「コイツ、わざと!?」
 今斬った幽香はまだベストを着ている。つまり分身体の方だ。
 気付いた咲夜が退くよりも一瞬早く、幽香は咲夜を捕まえ、そのまま抱きしめる。
 重傷を負っているとは思えない力で締められ、咲夜が小さく悲鳴を漏らした。
「咲夜ぁ……、貴女サイコーよぉ……」
 潤んだ瞳でそれだけ告げると、血をこぼす唇で咲夜の言葉を奪った。
 幽香の傷口からはどんどん血が溢れ、咲夜のメイド服が見る間に紅黒く湿っていく。
 幽香の熱い舌を感じ、幽香の血を飲まされた。
 咲夜が鉄の味を喉の奥に意識した時、背後から声がかかった。
「じゃあぁ……私からもお返しに熱いの……あげるわね?」
 背後に白い光が生まれ、咲夜を照らす。
 見覚えのある光は、魔理沙の切り札のはず。
 咲夜は、それが幽香のオリジナルである事を知らない。
 しかし、その光がもたらす破壊がどれほどのものなのかは知っている。
 そして、そのスペルの特性なら知っている。
 【マスタースパーク】が収束し、光が獲物を焼き尽くそうと密度を上げる。
「とっても楽しかったわ、またね」
 閃光が迸り。



 直後、空が爆発した。



 突然の爆発に巻き込まれ、完全に不意を突かれた幽香はワケも判らずに吹き飛ばされた。
 度重なる着弾で荒地になった地面に落ちる。
「……な、なんなの? 今のは」
 起き上がろうとした幽香はつんのめる様にして倒れ、そこで自分の右腕が変な場所から曲がっている事に気がついた。
 気が付くと同時、痛みが駆け上ってきた。
「あああ……っ!!」
 激痛に声が漏れる。
 地面に転がったまま、幽香は――
「あははははははははははははははははははははははは!!」
 笑った。
「痛い、痛いわ咲夜! すっごく痛いわ! あははははっ!!」
 仰向けになり、けたけたと笑いながら折れた右腕を掲げる。
 肘から先にもう一つ関節が出来たかのように、前腕の中頃から折れ曲がっている。
 紅く染まったブラウスの袖は、尖った何かで内側から押されていた。
 幽香は折れ曲がった腕の先を左手で掴むと、おもむろに引っ張った。
「ン……んぅううッ」
 ごり……、ぐじゃ……、という繊維質の物を捩じるような音が小さく聞こえ、身の毛のよだつ外科手術はわずか数分で終了した。
「んー。まだ動かないけど、放っておけば治るからいいかしら」
 幽香の右腕は、向きは元通りに近い状態になった。
 自由の利かない右腕を揺らしながら幽香が立ち上がると、爆発の衝撃をまともに浴びてボロ切れになった服が落ちた。
 手酷いダメージを受けたが、まだ左腕がある。戦えなくなったではない。
 なにより咲夜の頑張りに応えなければ失礼だ。
「それにしても、今のは一体……」
 マスタースパークを撃った瞬間、周囲がいきなり発火した。
 疑問に首を傾げた幽香の鼻腔を、爆煙を含んだ空気がくすぐる。
「?」
 微かに残る香りから、幽香は咲夜が何をしたのかを理解した
「ふ……ふふふふ……!」

 咲夜は、幽香が必殺の魔砲を放つ直前に時間を停止し、持っていた毒の粉末を散布した。
 その毒とはネコイラズである。ネコイラズの原料は黄リンで、発火しやすい性質を持っているのだ。
 分身体の拘束はそのままだったので手足の自由が利かず、残り僅かな停止可能時間の中で、望む範囲と密度で拡散するかは賭けだった。
 運は咲夜に味方した。
 マスタースパークの熱で発火した粉末は一斉に燃え上がり、瞬間的に爆発にも似た現象を引き起こしたのである。

 受身も取れずに地面に転がった咲夜は、苦痛の呻きを漏らした。
「ちょっと……強火すぎたみたいね……」
 咲夜は幽香の身体を楯に爆発を凌いだが、それでも無傷とはいかなかった。
 爆発と落下の衝撃で全身がくまなく痛い。
 特に、落ちた時にぶつけたらしい右足の感覚が無いのが深刻だった。
 限界まで能力を酷使した身体は、飛ぶ事くらいなら出来そうだが、時間停止を行使するほどの余力は残っていない。
 爆発に巻き込まれた時に、二本のナイフも手放してしまっていた。
 どうにか上体は起こしたが、もはや満足に戦う事は出来そうにない。
 それでも咲夜は、今にも途切れそうな意識を繋ぎとめ、狂ったように笑う幽香を見据える。
「貴女スゴイ! 本当にスゴイわ! その発想! 決断力! 闘争心!!」
 地に倒れる咲夜は、ゆっくりと歩み寄る幽香を睨む事で諦めていない事を告げる。
「このままトドメを刺しちゃうには惜しいわァ……」
 ふらふらと酔ったような足取りで、幽香は歩いてくる。
「だからぁ、貴女は私の屋敷で、」
 目の前に立つ。
「可愛がってあげる……」
 幽香の血に濡れたメイド服も、その布地の殆どを失い辛うじて繋がっているだけで、咲夜の素肌が覗いている。
「安心して? 私……女の子も好きだから……」
 見下ろす幽香は、ねめつく視線で咲夜の肢体を観察する。
「あとでたっぷり可愛がってあげるから……」
 掌を向ける。
「今は……」
 手の平が光を帯びる。あの雷のような光が放たれれば、そこで咲夜の敗北が確定するだろう。
 だが悪魔の狗は最後まで諦めず敵を睨みつける。
「おやすみなさい」
 しかし。
「……っ!?」
 幽香が弾かれたように、いきなり横を向いた。
「?」
 釣られた咲夜も、のろのろと同じ方向を向く。しかし、夜空しか見えない。
「……?」
 視線を戻すと、何故か正面の幽香が居なかった。
「……へ?」
 自分でも間の抜けた声だと思ったが仕方ない。
 今、ほんの数秒前まで目の前に居て、しかも自分にトドメを刺そうとしていた相手が忽然と消えたのだ。
 これで不審に思わない方がどうかしている。
 咲夜は身体の痛みも忘れ、慌てて周囲を見回す。
 左右、背後、上。どこにも幽香の姿は無い。
 軋む身体で起き上がり、耳を澄ませ、気配を探る。それでも居ない。
「ど、どういう事……?」
 風見幽香の姿は、影も形も無く消え失せていた。
 いきなりの静寂に、耳鳴りがしてくる。
 戦場となった草原を夜風が渡ると、咲夜の緊張の糸が切れ、全身に激痛が走った。
 戦闘の昂奮によって遠のいていた痛みが戻ってきたのだ。
 身を絞るような痛みに息がつまり、その場に倒れこむ。
 咲夜の意識はそのまま闇に飲み込まれた。



■●■



 肌寒さを感じて咲夜は目を覚ました。
 黒い世界に、白い光がある。
 それが月だと気付くのに、少し時間を要した。
 風見と戦った後、そのまま気を失っていたらしい。

 のろのろと身を起こす。身体が軋むのは被弾の痛みだけではないかもしれない。
「さむ……」
 破けたメイド服は、夜風には少々寒い。
 空間を畳んで格納してあるクローゼットから予備のメイド服を出すと、咲夜は外であるにも関わらず、奇跡的に残っていたリボンタイを引き抜いた。
 着替え完了。
 時間を停止出来る程度には回復したようだが、どこか違和感をかんじる。やはり体調がおかしい。
 激戦の後に薄着で転がっていたのだ、風邪の一つでもひいたかもしれない。

 着替えを終えても動く気になれず、咲夜は草原に座り込んでいた。
 周囲に明かりの無い草原は月光と夜風にざわめき、まるで夜の海のようだった。
 ぼんやりと月を見上げる。
 風見幽香は本当に姿を消したらしい。
 気紛れな妖怪とはいえ、この行動は咲夜の理解を超えていた。
「なんだったのかしら……?」
 幽香が振り向いた時、一瞬だけ何かの影が見えたのが、咲夜に判った事の全てだ。
 誰かに救われたのか。情けない話だが、助けに来るような知り合いはあまり心当たりがない。
 一瞬主の顔が浮かんだが、その有り得なさに首を振る。その想像は余りにも都合が良すぎる。
 その何かの影は、白い残像を引いていたような気がする。
「まさか、ね」
 自嘲の笑みを浮かべると、咲夜はゆっくりと浮かび上がった。



■●■



 静かな夜風に水の香りが混ざってきた。
 館の前の湖に月が浮いている。

 この時間では主が目覚めているだろう。
 山狩に出かけた一団も戻ってきているはずだ。
 スケジュールは朝礼の時に伝えてあるから問題はないはずだが、やはり気になる。
 それにしても疲れた、と咲夜は気だるく高度を下げていく。

 門をくぐる。
 美鈴が居ない、また間食でもしているのだろうか。
 小言程度で改めるようなタマでもないのだが、あまり自由にされても示しが付かない。ただでさえ紅魔館の門番はいつも寝ているとか言われているのに。
 正門を越え、玄関ではなく勝手口に直行する。こちらの方が食堂に近いのだ。
 咲夜の職場からすれば、玄関から入るよりもこちらの方が近道だ。
「あら?」
 警備が手薄な気がする。が、まあ、夜の紅魔館に喧嘩を売る馬鹿は、むしろ歓待されるのが常だから気にする事もないのか。
 まだ痛みの残る右足を引きずりつつ、勝手口のドアを開ける。
「随分とお早いお帰りじゃない」
「お、お嬢様!?」
 絶大な気配に振り向くと、小さな姿があった。
 お嬢様自らお出迎えとは。畏れ多さに思わず跪く。
「十六夜咲夜、只今戻りました……!」
「はい、お帰りなさい」
 レミリアは跪く咲夜の細い顎を掴むと、至近から瞳を覗き込む。
「で、主を放って置いて、メイドである貴女はどこで遊んでいたのかしら?」
「も……申し訳ございません」
「私は、どこに行っていたかを訊いているのよ?」
 レミリアはそのまま顔を寄せる。二人の額が当たる。
 鼻先か触れ、咲夜の目では近すぎるレミリアの瞳に焦点が合わない。
 ぼやける紅い瞳に、咲夜は自分の瞳の奥、頭蓋の中まで見透かされているような気になってきた。
「お……お嬢様……」
 申し開きをしなくては。そう思う咲夜だが、頭の芯が痺れるような感覚に、喉の奥にある謝罪の言葉が出てこなくなっている。
 至近距離からの魅了(チャーム)。吸血鬼の放つ威と魅の圧に、咲夜の意識が霞み始める。
「あ……、お、じょうさま」
 レミリアは咲夜を捕まえる手はそのままに、残りの数センチを詰めた。 「あ」の音で開いていた咲夜の唇に、レミリアのそれが触れる。
「……!?」
 ほんの一瞬。
 それでレミリアは咲夜を解放した。
 顎は掴んだまま、レミリアは咲夜の耳元に口を寄せて囁く。
「おかえりなさい、遅かったから心配したのよ?」
 誰にも聴こえないような小さな声でそう告げると、咲夜から身を離した。
「……」
 まるで真面目に働く霊夢でも見たかのように惚けていた咲夜は、ゆるゆると手を口に運び、
「……ッ!」
 そこで真赤になった。
「お、おじょ、お嬢様……!?」
「落ち着きなさい。それと咲夜、貴女花の香りがひどいわ。洗ってあげるから覚悟しなさい」
 腕を組み、咲夜に命令するレミリア。
 花とは幽香の血のことだろうか。湯浴みの時の世話は全て咲夜の仕事だが、すぐ風呂に入れるありがたさに咲夜の意識が緩んだ。
「お風呂に入ったらその後で食事よ。美鈴が夕飯を用意して待ってるわ」
 楽しそうに目を細めるレミリアは、言うだけ言うとくるりと背を向けて、そのまま廊下の闇へと歩き出す。
 咲夜もその後ろに続いて歩き出す。
 二人の姿は、すぐに闇に溶けて見えなくなった。



 レミリアと咲夜が風呂から出れば、食堂では他の面子の顔もあった。
「あ、咲夜さん、お帰りなさい」
「おかえりー」
「おかえり……貴女は無事だったのね」
「ご無事でなによりです……」
 少しばかりの驚きで咲夜は、食堂の入り口で立ち止まってしまった。
 言われて気がついたのだ。
 自分は「おかえり」と言う事は多くても、言われる事がほとんど無い事に。
 所用で出かけることがあっても、それはすぐに済む用事だし、そのほとんどは仕事の一部。
 美鈴以外には、言われてせいぜいが「お疲れ様です」どまりだ。
 こんな風に迎えられる事は無かった。いや、あったのかも知れないが、咲夜の記憶にも残らないほど稀な事なのだろう。
「なにぼけっとしてるの。早く座りなさい」
 いつの間にか席についたレミリアが咲夜を促す。
「あ、でも」
 思わず仕事に就こうとした咲夜を、美鈴が止める。
「いいじゃないですか、今日はみんないろいろあったんですよ。お話しながらでいいじゃないですか」
 台所から出てきた美鈴は見慣れない服の上からエプロンを纏っていた。筑前煮の入った鍋を抱えている。
 鍋から立ち昇る香気に、咲夜の腹が瀟洒を忘れて鳴いた。
「ほらぁ、咲夜もお腹空いてるんじゃん」
「さっさと座りなさい。それとも、こんな事まで命令させるつもりかしら?」
「え、あ、はい」
 見回せば、五人の視線が咲夜に着席をうながしている。
「それっ」
 背後から伸びた手が、咲夜の頭のヘッドドレスを奪い、エプロンを取る。思わず注意を逸らせた咲夜の手を他の手が引き、肩を押して椅子に座らせてしまう。
「咲夜もたまには一緒に食べよ?」
「美鈴の料理も美味しいんだから」
「どっかの意地っぱりはあんまり言わないけどねー」
 三人のフランドールは、きゃははと笑うとぱちんと消えた。ヘッドドレスとエプロンを道連れにして。
「はいじゃあ、よそいますよー」
 洋風の食器に遠慮なく炊き込みご飯が盛られ、味噌汁が注がれる。筑前煮とナスの漬物が行き渡り、咲夜の見たことの無い細身の焼き魚が一人一匹割り当てられた。
「はい、食前の合掌~」
 食事前の作法など無いはずなのに、美鈴の言葉にパチュリーたちどころが姉妹までが従うのを見て、咲夜も慌てて手を合わせる。
「いただきます」
「「「いただきます」」」
 
 美鈴の号令で夕食が始まった。咲夜が目にしたことの無かった光景である。
「美鈴さん、これサンマじゃないですか!」
 小悪魔の驚きにパチュリーも片眉を上げている。
「なに? この魚って珍しいの?」
「お嬢様、これはサンマという魚でして、海の魚なんですよ。幻想郷ではレアもいいところです」
 レミリアの隣に立った美鈴が、目にも留まらぬ早業で骨から身を取り外していく。
「海? 美鈴って今日は海って所に行ってたの?」
「山ですよ、フランドール様」
「……あのスキマね?」
「ご明察」
 フランドールの的外れな質問に苦笑した美鈴だったが、パチュリーの指摘に親指を立てて首肯した。
 咲夜は目の前の皿に横たわる魚を見つめる。
 皮に焦げ目が付いているが、脂の焦げる匂いは実に食欲をそそる。
「ふん、こんな不条理、八雲か八意くらいしかやろうとしないじゃないの……」
「後片付けを手伝ったら、お土産にってくれたんですよ~」
 にこにこと応えながら、今度はフランドールの皿の魚に取り掛かる。パチュリーの方を向いているはずなのに、手元にはまったく狂いが無かった。
「美鈴……貴方?」
 咲夜の問いに、美鈴が苦笑で返す。
「あー、今日の山狩りでちょっと面倒があってですね」
「そうそう霊夢がね!」
「ちょっとフラン、お行儀が悪いわよ」
「あら、この魚のワタ、お酒と合うわね」
「じゃあ、日本酒をお出ししますね」
 わいわいと賑やかな食卓を前に、咲夜は奇妙な疎外感を受けていた。
 宴会の光景に似ているが、すぐに違う点に気がついた。
 美鈴だ。
 美鈴が場を仕切っている。別に何をしているわけではないのだが、話に合いの手を入れ、器を下げたりおかわりをよそったりと、細かく働いている。
 細かい気遣いに流石だと思うと共に、自分の知らない紅魔館を見せられ、なんとも言えぬ寂しさが咲夜の胸に忍び込んだ。
「さ、咲夜さん、どうしたんですか!?」
「あれ、骨でも喉に刺さりました?」
 気付けば、咲夜は涙を零していた。
「な、なんでも……」
 ありません、と続ける事は出来なかった。
 自分でもよく分からない感情が胸の中を渦巻いている。
「あーもー、さっちゃんはまだ泣き虫さっちゃんなのかい」
 急に口調を変えた美鈴が、ヘッドドレスの無い咲夜の頭を乱暴に撫でる。
 その手の懐かしい感触に、咲夜の涙腺がゆるむ。
「あー、美鈴が咲夜を泣かせてる~」
「ちょっと咲夜どうしちゃったのよ」
 うつむき答えない咲夜を、美鈴が抱きしめた。
 エプロンの胸に咲夜の顔が押し付けられ、咲夜は逃げられなくなった。
 そのまま頭を撫でられる。
「さっちゃんは、ちょっと淋しかったのかな」
 言わなくても判ってくれる美鈴に、咲夜は小さく頷いた。
「美鈴、どういう事?」
「咲夜さんが来てからって、こういう風に食事する事はほとんど無かったじゃないですか」
「お前が来る前にも無かったけど?」
 問いに答える美鈴に、レミリアが呆れたような声を出す。
「実際、宴会とも違いますからね。……こういうの、慣れてなかったんだ?」
 小さく頷く咲夜。
「へぇ~……咲夜って、もっとピシッとしてるもんだと思ってたぁ」
「何かと思えば……。咲夜? 貴方がどう思っているか知らないけどね」
 レミリアの言葉が途切れ、咲夜が顔を上げる。
 泣き濡れた顔は、普段の瀟洒な雰囲気を欠片も感じさせず、咲夜を見た目よりも幼く見せていた。
「貴方は私の従者であると同時に、紅魔館の一員。つまりは家族も同然なのよ」
 その言葉に、美鈴とフランドールが頷き、パチュリーが照れくさそうに鼻の頭をかく。小悪魔は咲夜と目が合うと笑顔で肯定した。
「他のメイド達もそう。出自はどうあれ、この館に住まう者は皆、レミリア=スカーレットの大事な家族なのよ」
 じろり、と咲夜の目を覗き込む。
「咲夜」
 咲夜は、一言放たれた言葉が自分の名前だと気付くのに数秒を要した。
「咲夜」
「は、はい」
「お前に十六夜咲夜という名を与えたのはこの私。言うならば親と子のようなもの」
「はい」
「貴方は私の家族でいるのは嫌?」
「……いいえ」
 刹那の逡巡があった事に、妙な空白が生まれる。
 親に叱られる子供とは、こういう気分なのだろうかと、咲夜の頭に場違いな考えが浮かぶ。
 咲夜自身、この館に居心地の良さを感じていたが、それは従者としての立ち位置を無意識の内に気に入っているからでもあった。
 気高くも幼い主に仕え、館を健常に保つ。そういった日常に喜びを見出していたのは自覚があったが、行く場の無い自分には、衣食住以外の望みが希薄だと気付いたのだ。
 家族。
 遠い記憶の果てに霞む光景。
 自分には縁遠い存在だと思っていたもの。
 無条件に傅いているわけではない自覚はあるし、それなりに大事に想われているという自負もある。
 だが、主と従者という対等では無い関係であったからこそ、という部分もある。
 いつの間にか主ありきの生活に馴染み、日々の忙しさに自己が磨耗している事に気がついた。
 食堂の壁にある時計の振り子の音が、やけに大きく聞こえる。
 そうだ、自分はまるで振り子のようだ。
 毎日を正確に繰り返し、同じ場所を往復している。
 それだけの存在。
 ふと、今日の永琳の振る舞いを思い出した。
 愛すべき者を守るあの姿に感銘を受けたのは、永琳の行動に家族への想いを感じたからではないのか。
 メディスンに親近感を感じたのは、人形少女の振る舞いに過去の自分を見出したからではないのか。
 幽香の挑発に乗った事だって――
 咲夜は顔を上げた。
「お嬢様」
 テーブルの向こうに座る姿を見据える。
「レミリア様」
「なあに? 咲夜」
「私はメイドです。少なくとも私はそう思っていました」
 隣に立つ美鈴が肩を竦めるのが気配で分かった。
「お嬢様のメイドである事を誇りに想い、お仕えしてまいりました」
 椅子に埋まるように座るパチュリーは、本を閉じている。
「ですが」
 あの時、自分は輝夜に何と言った。
 まったく、よくもあんな事を言えたものだ。
 先ほど主が口にした、「家族」という言葉に心が震えた。
「こんな私を家族と呼んでくださるのなら」

「これほど嬉しい事はありません」
 そう言って微笑む咲夜の頬を、温かい雫が伝った。
「まったく……」
 そういうレミリアは、僅かに視線を逸らした。燭台の揺れる明かりでは分からないが、頬が紅い気がした。

「はいはい、湿っぽい話はここまで! さあさ冷めない内に食べましょ!」
「そうね、折角の美鈴の料理だものね」
「ほら、咲夜もぼーっとしてない」
 テーブルの向こうから、レミリアが酒瓶を差し出している。
「あっ、はい」
 主の手酌とは畏れ多いが、咲夜は思わず受けてしまった。
 いつの間にか用意されていたグラスを手にすれば、なみなみと紅が注がれる。
「で? 咲夜は、今日はどんなことがあったの?」
 にへら、と相好を崩したレミリアは、すでに酔っているようだった。
「今日ですか? そうですね……」

 今日の出来事(問題の無い範囲)をダイジェストで語りつつ、咲夜は注がれたワインの紅さに遠い記憶を遡る。
 ああ。
 思い出した。
 あの時、貴方に出会ったかつてのあの日。
 どこまでも紅い月を背負うあなたは、血溜りに沈み、虫のように地に這って死を待つだけだった私を拾い上げてくれた。
 私を見下ろす瞳と、差し出された手。そして共に来いという言葉。
 そのすべてが奇跡のように美しかった。
 そして思ったのだ。
 守りたいと。共にありたいと。
 先程、レミリアは自分の事を家族だと言った。しかし、自分の胸の内は違う。
 レミリア=スカーレットは、自分にとって主であり、家族であり、そして想い人でもあるのだ。
 知ってはいたが忘れていた。

 ああ、紅魔館こそ我が家なり。
 これまでも、そして、これからもだ。

 喉を通る紅の熱さと、心の中の熱さが混じりあい、咲夜は吐息を漏らした。





――了――



お疲れさまでした。今度こそ終わりです、いやホントに。

えー、実は。
こっちの話が先に作られて、平行して書いていた向こうの話の骨子(美鈴とうどんの対決)と絡むんじゃなかろうか、という思いつきでこのような形式になりました。
東方ジャズ05の3トラック目のような、陽気で賑やかな紅魔館を書こうと思っただけなのに……

旧作をやった事が無いので、ゆうかりんの攻撃がイマイチ地味です。
視覚的に表現するなら、花映塚のチャージ3(LV16)をバカスカ撃ちまくる感じ。
鈍足キャラに特有の圧倒的火力を表現できなかったのが心残りです。

では、また次の話でお会いしましょう。
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コメント



0.3110簡易評価
4.90三文字削除
こんぱろこんぱろ~
あなたのおかげでメディの可愛さに目覚めることができました。
あろがおうございます。

それはそうといい紅魔館でした。
美鈴のお姉さんぶりと、お嬢様の懐の大きさ・・・うん、いいなぁ
泣き虫さっちゃんは良い子なのです!!

それはそうと咲夜さんとえーりんの少女趣味か・・・・・・
ていうかえーりんすげえ!
7.100名前が無い程度の能力削除
ツンのないメディが素敵でした。そして猟奇的な幽香りんはもっと好きです。
8.100名前が無い程度の能力削除
まったりな幻想郷的ネタや、ギャグ・コメディの類も良いですが、
たまにジャンプ的ノリのガチバトルが恋しくなる時もあります。

一連の作品でバトル分、きっちり補充させていただきました!
9.100名前が無い程度の能力削除
非常に感動的なお話です。
裏側であった事件と同時進行とは思えないくらいにw

>香霖堂の隠し部屋
まさか…!こんなところに居らしたとは…!!
20.80名前が無い程度の能力削除
大作、お疲れ様です。
とても充実した時間を過ごさせて頂きました。

ただ、レミリアが咲夜を放置しすぎじゃないかなと。
おぜう様の気性なら、いてもたってもいられず飛び出していくと思います。
せっかくのシリアスな戦闘も、突然ぶつ切りで終わっていますし……
きっちり決着をつけるか、ご都合主義だとしても誰か助けに来てくれたほうが、紅魔館の結束をより強調できたのではないでしょうか。
22.100名前が無い程度の能力削除
戦闘場面が熱くて良かったですね~
最後のお嬢様の優しさにもホロリときて後味の良い話でした。
23.100まだこ削除
お見事でした。
見ていて先が気になる展開の読ませ方とか、奥まで考えられているような構成など、読んでいてとても楽しかったです。
紅魔館の皆様の暖かさといとおしさに思わず惚れた。

そして幽香さん最高です。
鬼畜な感じがほんとによく似合うお人で。
それをすごく表現できていて驚きました。

エンターテイメント的な小説をどうもありがとうございましたです。
24.無評価名前が無い程度の能力削除
>多少寿命やら知識といった点で人間を踏み外している店主は、同じく人間の枠から外れかけている咲夜にとっては
そもそも、彼は半妖でして
30.100名前が無い程度の能力削除
幽香ってこの時に霊夢にやられたのかw
32.100らくがん屋削除
バトル分とギャグ分(言葉遊び分)を十二分に補充させてもらいました。前話の貧乳射命丸は認めがたいけれども。
集団戦と個人戦、組織が動く前話までと咲夜さん一人で戦うこの話。やはりバトル分補充完了の割合がでかいです。
変態描写を褒めるべきか戦闘描写を褒めるべきか悩みますが、「両方褒め称えればいいじゃない」という啓示を受けました。素晴らしい作品をありがとう。
34.無評価削除
>三文字さん
この話は、地味にメディスンの可愛さを布教する目的で書かれています。
この紅魔館は、お嬢様から末端のメイドまでが割と硬い結束で結ばれています。
あと、永琳はもうなんでもアリの方向でw

>名前が無い程度の能力さん
このメディスンは、紅魔館とも友好関係なので咲夜に懐いています。
あと、メディスンは咲夜を人間だと信じていませんw
ゆうかりんには血化粧が似合うと思います。

>名前が無い程度の能力さん
あっちと違う理由のひとつとして、咲夜さんが人間だからというのが。

隠し部屋の主>どことも知れぬところで、酒を呑みつつ、みたいな。

>名前が無い程度の能力さん
読了、お疲れさまでした。
お楽しみいただけたようでなによりです。
お嬢様は咲夜さんを信用しているのと、外で何が起きているか分からなかった(時間的に霊夢が襲撃した後なので)という理由で動きませんでした。

>名前が無い程度の能力さん
戦闘、意外と成立しなくて困りました。咲夜さんもゆうかりんも強すぎて……
紅魔館のつながりを読み取って頂ければ幸いです。
お疲れさまでした。

>まだこさま
4勢力分の話を書いているので、作者でもこんがらがってきます。
幽香は認めた相手には牙を剥くと思います。それ以外は眼中無いような感じで。
たぶん、構って欲しいんですよ!

>名前が無い程度の能力さん
あー。
そのまま額面通りで「踏み外して」いるから半妖、というつもりで書いたのですが……
次はもっと分かりやすく書きます。

>らくがん屋さん
文は貧乳、というわけではありません。
博麗審判は霊夢を基準にしていますが、「霊夢より大きいからギルティ」というわけでもないのです。
正確には「霊夢より××センチ大きいとNG」で、これはカップサイズなども判定に含まれます。
文は貧乳と普通の境界くらいですが、霊夢よりは大きいのです。
アリスは平均値なのですがギリギリでNG。
62.90名前が無い程度の能力削除
勘違いだったら申し訳ないですが、黄リンは空気に触れると自然発火したような気がするのですが。