雨の日は音が通らない。弦も湿気るし。鬱だわ。
――とある妖怪の言葉――
■●■
「それで部屋で塞ぎこんでるの? 永琳も、案外可愛い所があるじゃない」
「ですが姫さま、あの幽々子はちょっと……」
躊躇いがちに答えた鈴仙がうつむくと、その髪から花の香りが漂った。
撤収作業を終え、各班への指示や事後処理を済ませて疲れ果てた鈴仙を待っていたのは、てゐによる強制洗浄だった。
予告通りに風呂へ担ぎ込まれた鈴仙は、報告待ちの輝夜に謁見するからという理由で、隅々まで洗われた。
抵抗する間もなく泡だらけされ、文字通り全身を洗われたのである。
ちなみに、この時間は他の妖兎たちは風呂場に決して近付かない。
兎の特性(即ち繁殖力の高さ)は誰よりも自分達が知っているし、妖怪になったからといってそれがどこかへ消え去る事もない。
たとえ相手が居なくても衝動はあるのだ。
「てゐが鈴仙を担いで風呂に入った時は用心せい」
これは鈴仙と親密になりたいが為に、不用意に風呂場へと踏み込んだ妖兎の言葉である。
すっかり清潔にされた鈴仙は、報告と云う名の「おはなしタイム」を要求され、食事も休憩も取らせてもらえぬままに輝夜の部屋に放り込まれたのだった。
身振り手振りを交えて報告する鈴仙に、輝夜は紙芝居を見る童のように聞き入った。
「そんな事になるのだったら、私も見物したかったわ」
ひとしきり報告を受けた輝夜は、満足したように大きく息をついた。
あまり面白くなくても笑顔でいる事の多い輝夜は、満足度の判定が意外と難しい。
幸い、今回の騒動はそれなりに面白かったらしい。元兵器の記憶能力はこういう時に役に立つものかと鈴仙は思う。
永過ぎる時間に擦り切れた輝夜の精神は、不感期と過敏期を行ったり来たりしている。
あらゆる事柄に飽きてしまった後に訪れる不感期は、輝夜を生ける屍のように無感動無反応にするが、そこを越えた後にやってくる過敏期は、輝夜をまるで子猫のような好奇心の塊へと変貌させる。
誰彼構わずついてまわり、目に映った物について片っ端から尋ねるのだ。
テンションがピークの期間こそ短いが、娯楽に貪欲になっている期間の輝夜の質問責めは、纏わり付かれた者にとっては苦行とすら言える。
屋敷にひしめく多すぎるイナバ達と、同じ時間を生きる蓬莱人は、輝夜の躁鬱の波と上手い具合に付き合ってきていたが、ある時月兎が迷い込んだ時から事情は変わった。
永夜異変を経た永遠亭は、少しだけオープンになり、輝夜は退屈しのぎの手段が増えた事を喜んだ。
鈴仙はその退屈しのぎの筆頭である。
報告し終えた鈴仙は、いつの間にか用意されていた人参饅頭を頬張っていた。
輝夜は仕事を果たした者には寛容を示す。
鈴仙は饅頭をもぐもくぐ頬張りながらも、永遠亭が戦術的には敗北したという報告内容に輝夜がどう反応するか、気が気ではなかった。
勝てと命令されたわけではなかったが、戦場に出る者として、部隊を指揮する者として、敗戦報告同然の内容は如何なものかと思っていた。
だが、輝夜にとって永遠亭の勝利は大した問題ではない。
もちろん秋の味覚には興味があるが、別に今年の秋の晩御飯に季節感が無かろうとあまり関係ないのだ。
むしろ、いつもと違うわね、と変化を喜んだかもしれない。
「まあ、喰われたらそれまでのお前たちが怖れるのも無理はないか。でも、その恐怖とやら、私も味わってみたかったわ」
三日月のような薄い笑みを浮かべ、輝夜は笑う。
死を操る亡霊が、ちょっとトチ狂っただけの事。
客観的に、そして簡潔に物事を表すのならその程度だ。
「何か言いたそうな目ね?」
「い、いえ、そのような事は……」
退屈しのぎに死を交換するような存在には、あの騒動もその程度なのだろう。
それこそ、自分の命が掛かっていても構わないという身だからこそ、なのかもしれないが。
己の死すら娯楽へと変わる。
興味、感動。肉体が死なない蓬莱人が怖れるのは、心の死に他ならない。
よく不死の存在をUNDEADと称するが、輝夜たちは自嘲を込めて、不生者(UNLIVED)を名乗る事がある。
死ななくても、生きていなければ意味が無いのだそうだ。
鈴仙は神社での騒動を思い出す。
小鉢が飛び、鍋が舞ったあの光景は、おおよそ「その程度」で片付くようなものではなかった。
神社で弾幕戦になることは珍しくないが、あんな狭い場所で大人数、しかも、ほぼ全員が見境いなく暴れたのだ。
巨大萃香が紅蓮どころか、白い炎を噴いた時はもうダメだと思った。あれは絶対にプラズマだった。
しかし、神社ごと吹き飛んでもおかしくなかったバカ騒ぎにも関わらず、死者は一人も居なかった。怪我人は山ほど出たが。
恒常的に事故の危険が付きまとう弾幕戦にしては冗談のような結果だったが、今にして思えば師匠や八雲紫が居たのだから、何かしらの防御策が執られていたのかもしれない。
もしそうでなかったらと思うと、背筋が寒くなってきた。
さっさと逃げたてゐを問い詰めたかったが、家に帰ったときに出してくれた人参ジュースがすごく美味しかったので、チャラにしてやろうと思い直す。
「ときにイナバ。何故お前は神社に残らなかったの?」
意外な問いだった。仕事をサボって遊ばなかった理由を問われ、鈴仙は返答に窮した。
「そ、それは……」
「別にイナバたちだって帰り道が判らないわけでなし。放っておいてもよかったでしょうに」
好奇の瞳で覗き込まれ、鈴仙は目を伏せる。
自分の操る狂気程度ではこの姫は狂わないと知っているが、紅い眼の奥の思考まで覗かれそうな気がしたのだ。
輝夜の言う事はもっともだ。
永遠亭から殆ど出ない兎達とはいえ、妖怪は妖怪。夜になろうと大した問題はない。
卑屈な言い方をすれば、自分なんかいなくても兎達は家に帰り着くはずだ。
それが判っている鈴仙は、目を逸らしたまま答える。
「あ、あの時は……師匠もあんな状態でしたし、怪我をした子も結構いました。て、てゐも居なかったし、あんまり大勢で神社にいると霊夢にも迷惑がかかると思いましたし……それに」
「他の連中なんかどうだっていいのよ。お、ま、え、は、どうしたかったの? 鈴仙」
「っ!」
「お前の考えている事くらい、見なくても判るわ。どうせ誰かに引き止められても仕事を理由に断ったんでしょう」
はっとして、思わず顔を上げる。名前を呼ばれた事よりも、心の内を見透かされた事に驚いた。
「まったく……不器用というか……永琳も放任が過ぎるのよねぇ」
呆れた、と居住まいを崩す輝夜に鈴仙は項垂れる。
確かにそうだ。撤収作業の最中、何人かの妖怪は紫に声をかけられて、二次会に誘われたのだ。
しかし鈴仙は輝夜の言葉通り、仕事を理由に辞退して帰ってきた。
残りたくなかったと言えば嘘になる。普段は滅多に会わないけど、話の合いそうな美鈴や藍が残るのを聞き、自分も残ろうかと思ったのだ。
「馴染めるか、なんて考えてるから出損なうのよ。そんなものは勢いよ、勢い」
輝夜の言葉は正確に鈴仙の思考をなぞる。
師匠であり学者である永琳はともかく、屋敷の奥深くで過ごしている輝夜に、ここまで見抜かれているとは思わなかった。
人生経験の差があるとしたら、それは億と一ほどにも差が有るのかも知れない。
自分はそんなに判りやすいのか、とみじめな気分になってきた鈴仙は、項垂れたまま泣きたくなってきた。
「お前は」
息を吐くような言葉。
衣擦れの音に顔を上げれば、輝夜は上座から降りていた。
目の前に闇のような瞳がある。詰問者ではなくなった輝夜の瞳には、もう好奇の色は無かった。
差し伸べられた月のように白い手が鈴仙のおとがいを撫でる。
そのまま首を撫で、後頭部へと移った手は、鈴仙を静かに引き寄せた。
「あ……」
抱き寄せられた。そう気付いても鈴仙は動けなかった。輝夜の薄い胸が鈴仙の頬に当たる。
「お前は、もう少し楽に生きる方法を学びなさい」
言葉とともに、頭から、髪、背中と撫でられた。
何度も撫でられるうちに、身体の力が抜けていく。
輝夜のゆったりとした呼吸に合わせるように、鈴仙のささくれ立っていた心が均されていく。
「さしあたっては」
すっ、と輝夜が体を入れ替える。
座っていた鈴仙をくるりと回すと、引き倒す。
「今は少し息抜きしなさいな」
ころりと転がされた鈴仙は、輝夜に膝枕されていた。
天井を見上げる目を巡らせれば、輝夜の笑みとも言えぬ微妙な表情があった。
「ひ、姫さ」
「黙らっしゃい」
何を言う前から発言権を奪われた。口を噤む鈴仙に輝夜は続ける。
「お前は私のペット。ペットは主に甘えるのも仕事の内なのよ」
沈黙を命じられた鈴仙は黙って聞いている。
「だから今は、私の膝枕でリラックスするといいのよ、永琳にだって滅多にしないんだから光栄に思いなさい」
見つめられて恥ずかしいのか、輝夜は早口でそれだけ言うと、ぷいとそっぽを向いた。
主の唐突過ぎる変化に呆気にとられていた鈴仙だったが、どこか怒ったように顔を赤らめている輝夜の顔を見ていたら、なんだか肩の力が抜けてきた。
ここは。
ここには自分の居場所がある。
師匠が助けに来てくれた事や、てゐが隣に立って戦ってくれた事。
薬学の講義、ちっとも言うことを聞いてくれない兎達。
てゐのいたずらや、姫の気紛れ。
仰向けの視界が滲む。
ああ。
ここは、この家はこんなにも温かい。
かつては望む事すら知らなかった温もりが、自分を包んでくれている。
仲間を見捨てた事を悔いない日は無い。遠く、帰る事の許されない故郷を想い、涙した事もある。
だけど。
今は、このぬるま湯のような静けさに、浸かっていたい。
身体の緊張を抜き、頭を膝枕に預ける。そして、不敬かもと思いつつ、肩に置かれていた手を握った。
「ぁ……」
小さく声を漏らした輝夜だったが、すぐに手を開き、指を絡めて鈴仙の手を握り返す。
掌から伝わってくるのは、体温だけではない。
この、ちょっと長生きしすぎちゃって軽く狂っている姫君の、不器用な優しさが伝わってくる気がした。
姫は兎たちをイナバと呼ぶ。個として認識しない事で情が移るのを避けているらしい。
では、名を呼ばれ、膝枕をされている自分はどうなのだろう?
永遠を生きられない自分は、いずれ姫や師匠の前から姿を消す。
その時。
果たして、姫は悲しんでくれるだろうか?
「姫様」
「なぁに、イナバ」
「今宵は……お添い寝の役目はありますでしょうか」
「どうかしらね」
姫は少しだけ考える様子を見せたが、
「でも最近は涼しくなってきたかしら」
そう言って、微笑む。
■●■
輝夜が鈴仙を甘やかしている頃。
永遠亭に侵入者が現れた。
永遠亭の感知、索敵機構に一切かからず、突如として邸内に出現した侵入者は、まるで遊びに来た客のような気楽さで侵入し、妖兎の防衛線を引き裂きつつ目標を探した。
自室に篭った八意永琳は、別にフテ寝を決め込んでいたわけではない。
亡霊の内にあると思われる結界、無限の食欲【アンリミテッド・ストマック・ワークス】に対抗するため、無限に近い膨張・増殖をする携帯糧食の開発に着手していたのである。
永琳が着目したのは高速で増殖する特性をもつ癌細胞だった。
アポトーシスを持たず、分裂を無制限に繰り返す、ある意味での不死細胞。
まっとうな生き物に用いれば、それこそ瞬時に全身を侵食されて死に至るという、おぞましくも恐ろしいバイオウェポンを、しかし永琳は対幽々子の切り札として、既に基礎設計までを済ませていたのである。
神社から引き上げて僅か数時間。天才には造作も無い事なのかもしれないが、或いは過去に似たような物を作った経験があるのかもしれない。
「ふぅ……あとは何味にするかね……」
半球状に展開された幾多の図面や数式、術式を見回し、永琳は肩を叩く。
今の仕草は少し年寄り臭かったかしらと反省しつつ時計を見れば、結構な時間を没頭していた事が判った。
「持ち時間が無制限でも、こればっかりは仕方ないわね」
茶でも飲もうかと腰を上げた所で、書斎のドアがノックされる。
「……?」
書斎に来る人物は極めて限られている。
まず普通の兎たちは、余程の事がなければ永琳の仕事部屋には近付かない。
しかし、ウドンゲは輝夜のところにいるはずだし、てゐがノックするとは思えない。
微妙な違和感を覚えた永琳は、邸内の保安状況を確認しようと思った。
数式を表示していた窓の一つが切り替わり、屋敷内の状況を知らせる。
「な!? これは……!?」
状況は赤。何者かの侵入を許したらしく、守備隊の約半数が沈黙していた。
ウィンドウを切り替え、邸内各所の状況をチェックする。どの画面も兎が倒れ、あるいは介抱されていた。
「……?」
それにしては静かだ。画面内のどの区画も戦闘の形跡はない。
かなりの範囲で戦闘が行われたはずなのに、非常警報も鳴らない。
永琳の胎の中で違和感がどろりと蠢いた。
画面から得られる情報を高速で分析する。
またノック。
先程と同じく、強くもなく弱くもなく。中に居る人間の注意を喚起するような叩き方だ。
「……」
永琳は愛用の弓を構える。
扉の向こうに居るのはおそらくは謎の襲撃者だろう。しかし、その意図が読めない。
永遠亭を破壊するわけでもない。宝物庫に侵入者はない。姫達の居る区画からほど近い場所にも襲われた兎がいるが、姫もウドンゲもまだその部屋にいる。つまり月の使者とも考えにくい。
信じ難いが、どうやら相手の目標は自分と見て間違い無さそうだ。
キリ……と霊気で出来た弦を引く。
(……舐めた真似を……)
コマンドを飛ばし、ドアのロックを解除する。
「どうぞ」
開けてみろ。姿を見せた瞬間、神速の矢が貴様を捉えるだろう。
人の家を土足で歩き回る様な輩には、お灸を据えてやる必要がある。
しかし、ドアは開かれなかった。
「お邪魔するわね」
「!!?」
背後。
弓を構えた永琳の背中、そのすぐ近くに誰か居る。
ドアは開かなかった。開いていない。
視線の先には寸分も開いていない扉がある。
「さすが永琳ね。結界が張ってあって直接は入れなかったの。でも、許可をくれたから入れるようになったわ」
「れ……霊夢……?」
そう。背後に居る何者かは、博麗霊夢の声色で話している。
感じられる波動パターンは、以前戦った時と一致している。
驚きと緊張のあまり矢を番えたままの永琳だったが、とりあえず知り合いらしいので、構えを解き振り向こうとした。
だが侵入者は霊夢なのか?
それより僅かに早く、霊夢は永琳の背中に寄り添った。
そのまま腕を前に回し、永琳の身体を掻き抱く。
「ちょ、ちょっと霊夢、なんのつもりかしら」
霊夢の右手は永琳の腹の辺り、左手は喉元へ。弦と矢を消した永琳は、困惑の表情を浮かべて振り返ろうとする。
霊夢の趣味は知らないが、なにか変だ。
霊夢の右手が上へ、左手は下へと移動した。
「こら、なんの冗談?」
あくまで余裕を崩さない永琳だが、霊夢の手が止まらない事に奇妙な危機感を抱いた。何かがおかしい。
霊夢の手は永琳の豊かな膨らみを、僅かに持ち上げるようにする。
形を確かめるように、稜線をなぞられ、永琳は密かに息を飲んだ。
「永琳……」
それまで無言だった霊夢が口を開いた。
霊夢より頭半分ほど背が高い永琳は、肩の後ろから聞こえてくる声に、急に不安になってきた。
だが、死から最も遠い所に居るはずの自分が、果たして何に危険を感じているかが判らず、答えを探すように展開したままだった館内ウィンドウに目を向けた。
倒れている妖兎たち。見た目に怪我は無く、弾幕でやられたようにも見えない。
弾幕ではない……? 何かが閃き、モニターを、いや、そこに映し出されている数多くの兎達を観察する。
そうだ、兎達は皆、胸を押さえているではないか!
永琳がその事実に気付いた瞬間。
巫女はまるでそれを待っていたかのように優しく囁いた。
「さようなら」
防弾効果を持つはずの服が容易く引き裂かれ、まろび出た双丘に、巫女の、執行人の手が触れた。
永琳の意識は、そこで途切れた。
■●■
神社の宴会を辞して帰還する美鈴は、夜の空気を味わいつつ、一人飛んでいた。
久々に得た外出の機会だったが、こんなにも疲れる事になるとは思わなかった。
永遠亭との戦いから始まって、境内の宴会、そして茶の間の変。
「あー、もう少し頑張らないとなぁー」
永遠亭はともかく、幽々子や霊夢を前にして、ほとんど何も出来なかった。
他の連中も似たようなものだったが、やはりショックである事には変わりが無い。
心身ともに疲れきった美鈴が帰路に着くと、湖の上あたりで異常に気が付いた。
静か過ぎる。
月を映す湖面は僅かに揺らぎ、夜風が木々を渡る。しかし、夜の生き物達、鳥や虫、妖精、妖怪。そういったモノの気配が感じられない。
いや、居るには居るが、まるで何かに怯えるかのように、どこかに隠れてしまっているらしい。
「……?」
美鈴は悪い予感を抱えつつ、湖を渡った。
深夜営業上等の紅魔館だが、今日は何時にも増して賑やかだ。外に居ても慌しい気配が洩れてくる。
先に帰した子達がきちんと仕事をしてくれたらしい。
悪魔の館の晩餐が炊き込みご飯とか、だいぶ締りが無い気もするが、東の国の果てにある時点で何を今更の話か。お嬢様も普段は日本語だし。
益体もない事を考えつつ、館の敷地へと舞い降りる。仕事に戻る前に、軽く何か食べておきたかった。なんだかんだ言って、さっきは大騒ぎになって碌に食べられなかったし。
美鈴は正面玄関ではなく勝手口に直行する。こちらの方が食堂に近いのだ。
別にやましい事は無いのだが、人目を避けるような行動をしている自分に少し笑ってしまう。
「はて……?」
警備が手薄な気がする。が、まあ、夜の紅魔館に喧嘩を売る馬鹿は、むしろ歓待されるのが常だから気にする事もないのか。
勝手に納得して、お勝手のドアを開ける。
「随分とお早いお帰りじゃない」
「お、お嬢様!?」
絶大な気配に振り向くと、小さな姿があった。
お嬢様自らお出迎えとは。畏れ多さに思わず跪く。
「紅美鈴、只今帰着しました」
「まあいいわ、今日はご苦労だったわね」
お嬢様はご機嫌なのか、私が門に就いていなかった事も咎めずに、にっこりと笑う。
その笑みは艶やか、かつ可憐。絶世の美少女のオーラを間近で浴び、それだけで私は溶けてしまいそうになる。
ああ癒される。この笑顔だけで明日からも頑張れる。
「今日の出来事、聞かせてもらえる?」
後ろに手を組み、跪いた私の顔を覗き込むお嬢様。ルビーのような瞳が好奇心でキラキラしている。
やべぇ、すんげぇ可愛い……ッッ!
背中に変な汗が浮いてくるのが分かった。
「ですが、仕事が……」
「今日はいいわよ、私も起きてるし」
邪念を押さえつけて仕事に戻ろうとする私に、お嬢様は寛容をお示しになられる。
嗚呼ッ、その薔薇のような唇から零れる甘やかな吐息が私を狂わせるッ……!
「そ、そうですか……?」
職務に忠実というよりは、お嬢様の無自覚の魅了(チャーム)でどうにかなりそうだったので、私は後ろ髪を引かれる思いで立ち上がる。
これ以上その笑顔を浴びていたら、良からぬ行為に及びそうだ。咲夜さんは毎日こんなのに耐えているのか……スゴイな。
ぐきゅい~~
「あ」
「ほら、貴方のお腹もそう言ってるわ」
くすくすと笑うお嬢様。ああ、これでなびかないってんだから、霊夢の感性を疑うわ。
「お、お恥ずかしい限りで……」
「いいわ。食堂に行きましょう、貴方の戦果はきちんと届いたのだし」
「畏れ入ります」
食堂へ向かう道すがら、私は遅れた言い訳をしていた。
「あ、ははは、申し訳ありません、ちょっと神社で……」
本心としては言い訳などしたくなかったが、あの巫女の暴走はもはや天災クラスの事故だ、正直に話せば酌量の余地が有るかも知れない。
「ああ、霊夢でしょう? うちにも来たわ」
「え」
ばかな……早すぎる……!
永遠亭狙いだろうという魔理沙達の予測が違ったのか、いや待て、既に永遠亭や向日葵畑を襲撃済みだとしたらどうだ?
八意や風見が化け物じみているとはいえ、あんな規格外の握撃モンスターを相手にしたら、何秒もつか怪しいものだ。
あのハイパー巫女っぷりを見せられたら、地面を殴って地震を止めるくらいの芸当をやってのけたとしても誰も驚かないだろう。
脳裏に茶の間の惨劇が甦る。
「でも残念だったわ、あんな霊夢見た事なかったのに、私達には目もくれないんだもの」
きゃらきゃらと笑うレミリアお嬢様は、楽しげながらもどこか残念そうだ……ん? わたし、達?
「じ、神社から出てそんなに経ってないはずなんですけど……っていうかフランドールお嬢様は」
「そうなの? 突然現れたと思ったら、暴れるだけ暴れて消え失せたから、よく分からないわ」
メイド連中までもが襲われたとなれば……相当の被害が出ているはず。そう思い廊下を歩いていると、予想を裏付けるように、次第に館内が野戦病院の様相を呈してきた。
怪我に強い連中が多い紅魔館には、医務室とかいう気の効いた施設はない。
なので、怪我人が出たとしても自室での療養が基本なのだが、今回はそうではないらしい。
廊下に毛布を敷いて、とりあえず安静に、という処置を施されているメイドが幾人も転がっている。被害者は胸郭部にタオルがかけられているのが共通だが、その表情は泣いていたり頬を紅く染めていたりと、人それぞれであった。
チルノがどうとか聞こえてくるのは、氷嚢作り要員として狩り出されたのだろうか。
山狩りだけでも大騒動だったのに、こんなザプライズ追い討ちがあろうとは。紅魔館にも労災を導入すべきかも知れない。
「ああ、下は行かない方がいいわよ」
地下階への階段前にさしかかった。
最大の被害を被ったのはパチュリー様と司書の娘だろう。
どんな目に遭ったかなど、厭と云うほど判っている。わざわざ確かめるまでも無い。
まあ確かに、女所帯のこの館でもあの二人は色々と目立つか。
私も人の事は言えないのだが、外勤であるこの身は中の娘たちとあまり会わないから、羨望の眼差しを浴びる機会は多くない。それ以前に、私は実際に被害に遭ったのだから、とやかく言われる筋合いはない。
「あの……」
「フランは部屋よ。ちょーっとあの霊夢は刺激が強かったみたいね」
「う……あははは……」
西行寺も酷かったが、あの時の霊夢も相当なものだった。あんな緊張、ここ百年は無かったと思う。
私は妙な笑いを上げる事しか出来ない。
「あんなの天災とおんなじですって……、被害に遭わないに越した事ないですよ……」
返す返すあの巫女は異常だった。異変解決を生業にしている癖に、あれでは自分が異変そのものではないか。
思い出したら胸が痛み出した。うう、まだヒリヒリする……
それにしても、咲夜さんが居ないのが気になる。
あと、変に饒舌なお嬢様も。さっきから私の服の端を掴んだままだ。
並んで歩くなどという畏れ多い事態が既に驚きだが、私の歩幅にあわせるようにして、ちょこちょこと歩いている。飛べば歩く必要も無いのに、わざわざ隣を歩いていらっしゃる。
「……」
横目で見るお嬢様は、変わった様子は見られない。まあ、見せてないんだろうけど。
私は目に見えない物を視ることが出来るのだ。
「お嬢様?」
「……なあに?」
「ちょっと失礼します」
お嬢様の返事を聞くまでも無く、私は素早くしゃがみこむと掬い上げる。
右腕を腰の下に回して前腕にお嬢様を乗せ、左手を軽く沿えてそのまま立ち上がる。
「あ……」
思わず私の肩に手を置いて居住まいを直したお嬢様は、ちょっとだけ驚いた様子を見せたが、次の瞬間には先ほどと変わらぬ様子になられた。
「……なんのつもりかしら?」
口調に咎める響きはない。僅かに呆れが含まれるだけ。
「いいじゃないですか、咲夜さんも居ないようだし。それに、前はよくこうしてたじゃないですか」
それにしても、こうして持ち上げるとなんと軽い事か。
かつての記憶よりも軽く感じるのは、この身がそれなりに功を積んだからだろうか。
この永遠の少女は、これからもこのままなのだろう。
そして私が仕えていく事も、変わらずこのまま続くのだろう。
「なんなのかしらね、咲夜が居ないだけでみんな昔話を始めたがる」
柔らかく苦笑するお嬢様は、もう一度座る位置を正す。曲げた肘の辺りに座り、私の肩に寄りかかる。
「ああ。咲夜とは高さが違うわ」
あはは、と先ほどより幾分リラックスした感じの声が近くから聞こえる。
行方不明の咲夜さんは少し気になるが、まさか霊夢に狩られる事はあるまい。
今は、この懐かしさを堪能させてもらおう。
「じゃあ、食堂に向け。しゅっぱーつ」
■●■
高い空。
雲の合間から、月の銀光が降り注ぐ。
優しくもあり、どこか寂しさを感じさせる光を受け、仄かに輝いて見えるのは魂魄妖夢の銀の髪。
妖夢は大小二刀を半霊に預け、水色の大荷物を背負って飛んでいた。
「妖夢」
「っ! お目覚めですか!」
荷物が喋った。
荷物は幽々子であり、起こさぬようにゆっくりと飛んでいた妖夢は、慌てて停止した。
「だぁ~め」
下ろそうとする妖夢に先んじて、言葉と共に、おんぶお化けのようにしがみつく幽々子。
「今日はなんだか疲れちゃったわ……妖夢、このまま飛んでちょうだい」
しがみついたまま妖夢の左肩に細い顎を乗せ、気だるそうに萎れる幽々子。
「は、はい……」
自らの所業によって主を気絶せしめた妖夢としては、不調を訴える主をまさか振り落とすわけにもいかず、ゆるゆると移動を再開した。
亡霊である幽々子にも質量はあるが、本人が意識しないところで常時浮力が働いているようなものなので、妖夢の重荷になることはない。風船でもつけているかの如き手応えしかない。
しかし、背負っている妖夢にとってはそうもいかない。
生を失った身である主の、肌の冷たさや柔らかさ。
耳元をくすぐる髪の香りや、胸元に回された腕が妖夢の心をじわりと乱す。
月光は、わずかに紅く染まっている妖夢の頬を冷ますかのように、静かに照らしている。
戦足で翔ければ一刻とかからぬ距離だが、妖夢は急ぐ事無く高度を上げていった。
「妖夢」
「なんでしょうか」
「今日は、どうだった?」
「は。有意義な一日だったかと」
「そう……」
それだけ聞くと、幽々子は妖夢の背中で目を閉じる。
頼りない、小さな背中。
抱きしめるその身体は、疲れの気配を纏わり付かせているが、その体躯の芯には漲る活力が感じ取れた。
夏の間、何かと忙しくて、最近は疲れ気味だった妖夢。
息抜きになればと、仕事を奪い休暇を与えたが、どうやら騒動に巻き込まれるのはこの子の才能らしい。
それでも気分転換くらいにはなっただろうか。
昼頃から記憶が曖昧で、自分が何をしていたか今ひとつ思い出せないが、思い出せないのならそれは些細な事なのだろう。
今は、妖夢が元気ならそれでいい。
それにしても……、と休みを上手く使えない不器用な従者に、亡霊姫は内心で嘆息する。
かつて、休暇を命じても何か仕事を探してしまう妖夢に、一日何もするなと命じた事があった事を思い出す。
「どうなさいました? 幽々子様」
「うふふ、いえね。前に妖夢にお休みをあげた時の事を思い出したのよ」
「あ、あれは……」
「妖夢ってば、だったら精神修行だー、とか言って一日瞑想していて、知恵熱を出して寝込んじゃったのよね~」
「もう、随分前の事じゃないですかぁ」
「でも、今日もお休みでよかったのよ?」
「私は身体を動かしている方が性に合います」
「でしょうね。でも、もう少し落ち着きがあれば、お茶やお花でも一緒にと思うんだけどねぇ」
「みょん……」
くすくすと笑う幽々子。
妖夢とて剣術一辺倒ではない。
武人の嗜みとして、妖忌から茶道の手解きは受けていた。
しかし日常に忙殺され、そこまでの余裕が取れないのも事実であった。
暇を上手く消費する為の茶の湯を、わざわざ仕事を詰めなければ出来ないとあれば、本末転倒だ。
一度、無理に時間を作って茶会に参じた事があったが、余裕が無いと紫や幽々子に窘められた事もある。
「侘寂は……私にはよくわかりません」
「いいの、いいのよ妖夢。でも、次のお休みは私と遊んで頂戴」
言葉と共に身を離す幽々子。
妖夢が振り向けば、そこには主の笑顔があった。
「ね?」
己の未熟さを噛み締めると同時。
妖夢は笑い出したくなるような、泣き出したくなるような、そんな気持ちになった。
「はいっ」
雲海が月光を受けて僅かに白む中を、妖夢は静かに飛んでゆく。
暫く言葉も無く飛んでいたが、そろそろ門が見えようかという頃になって、幽々子が口を開いた。
「……妖夢、やっぱり降ろして」
「は、はあ……」
囁く言葉に首を傾げつつ、妖夢は静止する。
ここまで来て自分で飛ぶというのはどういう事か。
満月ではないものの、この風景に何か思うところでもあったのだろうか。
見回せば夜の空に、雲海が横たわっている。
狭い幻想郷において、果ての無さを感じられる数少ない光景だ。
月は天頂から降りてきており、月明かりが雲を透かして見えている。黒と白で描かれた世界は静かで、妖夢の心に言いようの無い不安を抱かせた。
妖夢の背中から離れた幽々子は、ふよふよと滞空するばかりで帰る素振りを見せなかった。
「幽々子様?」
「妖夢、なんだかお腹が空いちゃったの、ちょっと屋台で串焼きを買ってきて頂戴な」
「それでしたら、お屋敷はすぐですが……」
「手羽先もつけてね?」
「はぁ……」
要領を得ない幽々子の言葉に押されるように、妖夢は来た路を引き返していく。
夜雀の屋台は里寄りの森の中、ここからだと余り近いとは言えなかった。
さりとて主命とあらば行かぬ訳にもいかない。
主の気紛れは今日に始まった事ではないか、と妖夢は雑考を捨てて任に集中した。
幽々子は疑問符の形をしている半霊と妖夢の後姿を見送っていたが、その姿が見えなくなると、おもむろに扇子を開く。
「さて、お待たせしたわね」
振り向く先には、ひとつの影。
風になびく、紅のリボンと黒の髪。
■●■
ペンが奔る。
久々の快晴に浮かれた幻想郷は、全土に亘ってお祭ムードが漂っていた。
昨夜に家を出た文であったが、一日中飛び回り、撮りまくり、気がつけば日付が変わっていたのである。
事件と言うほどの大きな出来事は無かったにせよ、紅魔館と永遠亭の武力衝突と博麗神社での突発の大宴会、そしてその後に起きたーー
「……」
文は原稿の脇に寄せられた写真の山に目を向ける。
写真はいずれも心滅霊夢の襲撃を受けた人妖の姿である。
宴会に混ざりたいのを我慢して張り込んでいた文は、神社で最初のハザードを目撃した。
事件発生の瞬間に嬉々としてカメラを向けた文だったが、結界の向こう側は、まるで鶏小屋に飢えた野犬が入り込んだような有様だった。
手帖を見る。文字は形を崩しており、手が震えていたのが分かる。
その後はランキング表に従って追った結果である。
霊夢はその摩訶不思議な力を発揮し、標的の居る場所をそれこそ瞬時に移動したらしく、最速を誇る文をして現場を押さえる事が出来たのは僅か一件であった。
永遠亭を襲った霊夢は、その後も様々な場所に出現し、災厄を撒き散らして消え去ったという。
勘で目標を探し出し、神技による瞬間移動、圧倒的な攻撃力による強襲、そして殲滅。
まさに見敵必殺だ。
犯行は一瞬で済まされるので、誰がどの順番で襲われたか、それすらも文には把握出来なかった。
文が現場を押さえる事が出来たのは、ひとえに強運と、攻撃対象を特定した事に起因する。
次の現場へと移動中だった文は、帰宅の途上であった西行寺幽々子を発見、網を張っていたのである。
「幽々子さん……」
思い出し、目を伏せる。
妖夢を逃がして屹然と挑んだ幽々子であったが、大扇を展開した時には勝敗が決していた。
「和服は合わせから手が入るから危険、と」
メモ書きを整理しながら、文は思う。
自分が被害に遭わなかったのは、やはりそういう事なのか、と。
暴走状態に陥り、見境を無くしたかに見えた霊夢であったが、IFF(敵味方識別信号)はしっかりと認識していたらしい。
その証拠に、スカーレット姉妹や屋台に居たミスティア、妖夢、リグルなど、霊夢に遭遇しても被害に遭わなかった者もいるのだ。
そして自分も。
霊夢よりはあると思っていたし、実際の数値でも上回っている。僅差だが。
文はおもむろに自分の胸に触れた。
ぷゆん、という柔らかい感触に指が埋まるが、抵抗はすぐに終了する。
寂しい事この上ない。
被害を受けたおよそ全ての人妖の姿を見た文としては、あんな目に遭うのはまっぴら御免だったが、被害に遭わないという事は霊夢に敵視されない程度でしかない、と看破された事に他ならない。
この一件で、着痩せなどにより見た目よりもサイズの大きい事が知れた者も数名おり、つまりは、博麗の力の前にはそういった偽装は無意味であるという事になる。パッドとか。
騒霊三姉妹の長女が、被害に遭ったにもかかわらず、何故か「ありがとう」と泣いていた事を思い出した。
不意に気がつく。
今、自分の手元にある情報は、幻想郷を真っ二つにする可能性のある情報である、と。
幻想郷の要石たる博麗の巫女によって引かれた線、いや、境界と言うべきか。
この情報は、この事件は、果たして記事にしてよいものだろうか。
ネタがある。
ネタがあれば記事にする。
記事を纏めたら皆に読ませる。
これは文が欠かさず行ってきた事であり、自身のアイデンティティでもある。
いや、建前を抜きにすれば、あまりにも凄惨な事故事件などは記事として書けなかった事も過去に何度かある。
この事件は果たして凄惨か。
否。
ならば書かない道理はない。
しかし、文の目の前には白紙の原稿があり、周囲には書き潰した原稿が広がっている。
かれこれ二時間は、このまま状態だった。
閻魔の説教を怖がっているわけではないが、自分の持っている情報の余りの大きさに、特ダネだとか、そういう事が吹き飛ぶ程に文の心は葛藤に揺れていた。
博麗の巫女による線引き。
これは皆が認める「事実」だ。
しかし、事実が必ずしも白日の下に曝け出されてよいものではない、という事に文は思い至った。
どうかしている。
こんな事を悩むような自分だったか。
だが、この問題はいささかデリケートすぎる。
この情報は扱いを間違えば、幻想郷の妖怪や妖精、その他諸々を二分する一大抗争に発展しかねない、異変の火種といっていい。
なにを大袈裟な事をと思うなかれ。
人間と異なり、ひとたび形態を確定してしまった妖怪は、その容姿と付き合っていく時間の長さが人間の比ではないのだ。
一部の妖怪は姿を変える事が出来るかも知れないが、そうでない方が圧倒的多数だ。
つまり、今文の手にあるこの情報は、向こう何年、何十年。いや下手をすれば何百年と有効な情報かもしれないのだ。
そんなものが、今、自分の手元にある。
迂闊な扱いは自分の記者生命に終止符を打ちかねない。
厄介な事に、この事態を収束させるほどの力を持つと思われる人物が、ことごとく霊夢に襲われており、残らず役に立たない状態になっているという事もある。
八雲、八意、上白沢、といった概念的に世界に干渉する力を持った者が、軒並み捻り潰されて(物理的にも)いるのだ。
付け加えるなら賢者ノーレッジもか。
こうして見ると、胸の大きさとの因果関係が見えてくる気もするが、今はそんな事を調べる気にはなれない。
「あーーーー」
わしわしと髪を掻く。
「うーーーー」
がしがしと掻き乱す。
癖の強い髪が乱れ、文の顔は髪に隠れた。
「……はぁ。お風呂はいろ……」
覇気なく椅子を立った文は、乱暴に服を脱ぎ捨てると、ぺたぺたと浴室へ姿を消した。
■●■
そこは、人の眠る時間でありながら賑わっていた。
行灯の灯りに揺れる影は十ほどか。
ゆらゆらと揺れる影は、人ならざる者の影。
笑う声が、嗤う声が、この深い夜が妖のものであると謳っている。
人の身でその輪に入れば、たちどころに喰われてしまうだろう。
その妖しい声に、その妖しい貌に魅了され、己も気付かぬ間に喰われてしまうかも知れない。
その肉を、その髄を、その魂さえも。
その一切を残さず、その一片も残せず。
夜の闇に溶けてしまうように。
夜の明かりに消えてしまうように。
喰われてしまう。呑まれてしまう。消えてしまう。
人は。
人間は。
こんな所に来ちゃいけない。
こんな時間に起きてちゃいけない。
ほうら、ゆらゆら揺れる影たちが、一人の人間に気がついた。
こんな時間に起きている、こんな時間に出歩いている、一人の人間にきがついた。
にやりとその目を細らせて。
にたりとその口を歪めて。
貴方は主催?
宴の主菜?
さあさあ。
こちらへ。
どうぞ。
「霊夢―! おかえりぃーっ!!」
何の事はない、真夜中の博麗神社である。
「うはははは、かんぱーい!」
『かんぱーい!!』
もう何度目か分からない乾杯にも、皆が応じる。
霊夢が出かけてから続いている宴会は、紫がどこからか用意した樽酒によって、数時間に渡って続いていた。
正直、人間の魔理沙が付いて行けているのが、不思議な状況とも言える。
「おぅら幽香ぁ、わらしの酒が呑めないってぇのぉ!?」
もう一人の人間である霊夢は既に出来上がり、幽香に絡んでいた。
膝を崩して座る幽香に強引に肩を組み、杯を突きつける。
酔って手元の怪しくなった霊夢がぐいぐいと押すものだから、酒は零れて幽香のブラウスを濡らして仕方が無い。
ちなみに幽香のチェックのベストは、そのボタンを全て失っていて、座敷の隅に畳まれている。
戻ってきた霊夢は、正気に戻っていた。
しかし、激闘を繰り広げた後に相応しく、全身汗だくで疲労困憊の体であった。
風呂も食事も酒も完備で待ち構えていた被害者一同は、フルマラソンを終えたような霊夢を抱え、そのまま風呂→マッサージ+術による賦活、そして宴会へと持ち込んだのだった。
有無を云わせぬ連携であり、見事なチームワークであった。
霊夢が気がついた時には、宴会開始10秒前の座敷の上座に座っていたのである。
ちなみに、誰が風呂に入れるかでひと悶着あり、満場一致で紫の立候補が棄却され、消去法で選出された魔理沙と萃香が担当している。
「でも霊夢ったらひどいわぁ、あんなに力一杯掴むんですもの」
よよよ、としなをつくる幽香。
濡れたブラウスが肌に張り付き、その稜線が肌色と共に透けるが、幽香はそれを隠す様子はない。
むしろ、見せ付ける意思が感じられる、他者への挑発とも取れる行動だった。
最強を自負するこの妖怪は、このジャンルにおいても頂点に立つべく、列強が居並ぶ神社へと姿を現したのである。
宴会に誘っても滅多に応じることの無い気難し屋の幽香だが、被害者という同族意識からか、平時から比較すれば格段に大人しかった。
「そうそう、もげるかと思ったわ……」
頷く紫に、同意する被害者一同。
被害者は霊夢に苦情を申し立てたが、肝心の霊夢に暴走時の記憶が残っていなかった。
「んー……何とかしなくちゃ、って気になってたのは……覚えてるんだけどねぇ」
釈然としない様子の霊夢。本人が一番当惑している様子だった。
「というか、何でそんな事になったんだか、私が聞きたいくらいよ」
霊夢が気が付いた時、足元の草原には力なく横たわる幽香の姿があったのだ。
全身血まみれで、服もボロボロになった幽香を見て、霊夢は大層驚いた。
かなり強い部類に入る幽香が、滅多打ちにされているのだから無理も無い。
自意識が無い間に自分が退治したのかとも思った(夢想天生を使うと、僅かにだが何も判らなくなる時間がある。そして幽香はそのスペルを使わせるだけの実力者だ)が、幽香の身体には刃物による傷が目立った。
妖怪の治癒力を考えれば放置しておいてもよかったのだが、どうにも見捨てていくには心苦しかったので、霊夢は幽香を担いで帰ってきたのだった。
「ほんと、なにがあったんだろう?」
周りからすれば、あれだけの仕打ちを受けて当人が覚えていないのは納得がいかなかったが、首を傾げる霊夢に一同は目を逸らした。下手に刺激して思い出されても困るからだ。
真夜中の宴会ではあるが、妖怪たちからすればこの時間こそが、心地よい。
酒が進み、食が進む。
卓の上には紫が追加した素材は山の幸だけでなく、秋刀魚などの海産物もあった。
台所には藍が立っているが、それ以外にも、紫の隙間からはどこから引っ張ってくるのか、料理の載った皿が出てくる。
しかしその料理、明らかに幻想郷産のものでは無いものが並んでいた。
紫が時折、隙間の中に首を突っ込んで何やら注文している所を見るに、外の世界の居酒屋あたりと繋がっているのかも知れない。
身体を半分ほど隙間に突っ込み、あちら側から料理を受け取っている紫。
楽しそうに揺れる尻を眺めつつ、つくづく無茶苦茶な能力だと幽香は呆れ返る。
魔理沙は隅でひっそりと飲んでいる閻魔に近付いた。映姫は重そうな冠を脱ぎ、堅苦しい儀礼服も脱いでいて地味な白のブラウスだけになっていた。
その姿だけを見れば、普段の厳格なイメージは無い。悪く言えば、誰だか判りにくいとさえ言える。
背丈が近い所為もあるが、一同の頭には妖蛍の顔が浮かんでいた。
「そういや、お前も霊夢にやられてたな」
「な、何の事ですか」
「おぉ? 閻魔様がシラを切ろうってのか?」
「……別に騙したわけではありません。私だってもう少し大きい方がいいと思っていますし……」
同盟に隠し事をしていた負い目があるのだろう、映姫はまるで戦争で家族を失った少女の様な表情を浮かべる。
「四季様。民間療法でよろしければ、不肖、小野塚小町、尽力致す所存ですが」
「ちょ、小町、なんですその手つきは! あ!? 霧雨魔理沙! 放しなさい! 放しなさい!」
「閻魔様はさっきのでブラを失ってるんだったなぁ? へっへっへ……カモン小町!」
「合点承知!!」
助けを求める閻魔に、しかし救いの手はない。
小野塚式豊胸マッサージを眺めつつ、アリスは溜息をつく。あんなので大きくなれば苦労しないのに。
「慧音はこんな時間まで起きてて大丈夫なの? 明日は寺子屋でしょう?」
「このくらいの時間なら、妹紅たちの戯れに付き合う事に比べたら問題ないよ」
同じく溜息をついていた慧音に酌をする。
銀の髪を揺らし、目を伏せる憂い顔が実に絵になる。
行灯の明かりを受ける髪は流水のように美しく、なるほど、上海が絡まりたがるのも分からなくない、とアリスは納得した。
失礼と知りながら、その貌に見とれる。
「しかし、今日はなんだったんだろうな」
「まったくね」
長い一日に疲れた笑顔の二人は、コップをカチンと打ち合わせる。
紫は秋刀魚をつついている幽々子をつついた。
「ねぇ幽々子、妖夢はいいの?」
「大丈夫よ、先に帰らせたわ」
「そうじゃなくって。あの子、今日は働き尽くめだったでしょうに」
「いいのよ。明日もお休みだから」
精妙な箸捌きで小骨を取り除いていく幽々子に、紫は納得しつつも溜息が漏れるのを止められない。
「……はぁ。藍~?」
「はい、特に予定はありません。明日くらいならば問題ないでしょう」
「あらあら、ありがとう、藍ちゃん~」
台所からの返答に、幽々子は驚いたような笑顔を浮かべる。
「まったく白々しい。今頃妖夢は明日の支度をしてるのかも知れないんだぞ?」
キノコのドリアや五目チャーハンをお膳に並べつつ、藍が憮然とする。
この宴会が始まって既に三時間くらい経過しているが、未だにご飯もののオーダーが途切れない。コイツか、やたらと飯モノを食ってるのは。
「藍ちゃんも妖夢が心配だものねぇ~」
「ええい、気安く尻尾に埋まるな、薄ら寒いわ」
「幽々子、貴方いい性格してるわ……」
ちゃぶ台に片肘をついた紫は、焼き上がった秋刀魚の尻尾を摘まみ上げると、頭からバリバリと齧りだした。
骨もハラワタもあったものではない。
だいぶ自棄だった。
「そういやさ」
三尺ほどの大きさもある杯で呑んでいた萃香が、何の気なしに言う。
それほど大きな声でもなく、また誰かに向けた言葉でもなかったが、それ故にその場にいた全員の意識が、僅かにそして確実に萃香に向いた。
拡散する事で霊夢を追跡し、あらゆる現場を見てきた鬼が、隠されていた問題を口にする。
「アリスって、無事だよね?」
その一言で、茶の間から音が消えた。
「え」
その一言で、アリスは一気に酔いが醒めた。
「そう云えばそうね」
秋刀魚を丸齧りしていた紫が、残った尾だけを皿に置いた。
「でも、規定値以下じゃないのぅ?」
幽香はアリスの胸元に不躾な視線を送ってきた。
「あのね、結構痛いわよ?」
逆さまになった幽々子がふわりと覗き込む。
「灯台下暗し、とは言ったモノだな」
隣にいたはずの慧音が、いつの間にか包囲の一角に加わっている。
好き勝手に言うギャラリーに、アリスは危険を察知する。
「え、いや、でも、霊夢ってさっきの事を覚えてないんでしょ?」
先程の六連殺の現場を思い出し、顔面が蒼白になる。
何となく帰るきっかけが無くてそのまま居残っていたアリスは、霊夢が正気を取り戻していた事で危機から脱したと思っていたのだ。
そして、その判断が甘かった事に今更ながら気がついた。
「ギルティ? オア、ノットギルティ?」
死神が上司に尋ねる。
「ここは私に出る幕はありませんよ」
職務放棄とも取れる発言だが、それは結論が出ている事をとやかく言わないというだけで、判決は既に下っていた。
常に実力をセーブして振舞うアリスは、相手の力量を見抜くことに慣れているわけだが、今いる連中が敵に回ったら、自分一人ではどうにもならない事位は、考えなくても分かった。
既に、全員がファイナルベントのカードをセットしているに等しい状況なのだ。
「ちょ、ちょっと! なんでそうなるのよ!」
「まあまあ、諦めなって」
後ろから萃香に肩を掴まれた。小柄な少女の腕力は、今この場にいる誰よりも強い。
「あー、アリス」
「ま、魔理沙? お願い何とか言ってよ!」
迫り来る絶体絶命の予感に、アリスは藁にも縋る思いで助けを求める。
「大丈夫だ」
その言葉に、その力強い頷きに、アリスの表情に希望が灯る。
……ああっ、魔理沙!
ガサツで、デリカシーが無くって、いつもはあんなに喧嘩したりしているのに、それでも私がピンチの時には駆けつけてくれる。私のスター。恋の綺羅星……!
その笑顔がとてもまぶしく見える、嬉しさの余り、視界が潤んだ。
「上海と蓬莱の事は任せろ、立派に育てて見せるから」
「ぎゃあああああ!!?」
「大丈夫よアリス。痛いのは最初だけだからぁ」
どこかうっとりと告げる幽香。
「アッという間、よ?」
クスクスと笑う紫。
「ひょっとしたらクセになるかもな」
にぃやり、と厭らしく笑う小町。
「何事も経験だ。百見は一触にしかずと云うだろう」
わざとらしい慧音。
気が付くとアリスの身体には、畳から生えた蔦が絡みつき、手足はスキマに挟み込まれている。
上海人形は慧音の膝の上におり、ならばとグリモワを探すが、すぐ隣に置いたはずの魔導書は、何故だか小町の手の中にあった。
こんなにも分かりやすい絶体絶命は生まれて初めてだった。
「アリス=マーガトロイド。貴方も霊夢の裁きを受けなさい、それが貴方に出来る善行よ」
立ち上がっていた映姫が、悔悟の棒でアリスを指し示す。
「さあ、博麗の巫女、出番ですよ」
人垣が割れると、その向こうには。
「れ、霊夢……!」
とす、とす、と畳の上をゆっくりと歩いてくる。
歩みにリボンや黒髪が揺れる。
もはや首から上にしか自由の無いアリスは、意を決して霊夢の目を見た。
「ねぇアリス」
霊夢の瞳にはまだ理性の光があった。さっきの殺気に満ちた目をしていない。
ならば説得を、とアリスが口を開いた時。
「前に一緒にお風呂に入ったのって、いつだったかしら?」
「……!」
霊夢の顔は笑顔だ。どう見ても笑顔だった。
しかし、アリスには分かる。何故だか分かる。今の霊夢は心が笑っていない。
とす、とす、と巫女が近付いてくる。
とす、とす、と執行人が歩いてくる。
「や……いや……こないで……」
誰かが言っていた。獲物を前にした獣は穏やかで、決して唸る事はないと。
穏やかな目のまま歩み来る霊夢が、アリスにはたまらなく恐ろしく見えた。
震える身体を萃香が、幽香が、紫が優しく押さえつける。
うふふ、くすくす、とアリスを囲む誰かが、誰しもが笑っている。
行灯の灯りが夜風に揺れる、囲みの影もゆらゆらと揺れている。
とす……
足が止まった。
間合いである。
もはや首から上にしか自由の無いアリスには、悲鳴を上げる事と涙を流す事くらいしか、出来る事が残されていなかった。
九人、十八の好奇の瞳が見つめる中、
巫女の白手は、
ゆっくり、
静かに伸び。
■●■
絶叫と共に、日付が変わった。
■●■
文文。新聞 ○月××日号
「久々の快晴 秋の本格到来」
秋の長雨には少し早かった雨もようやく上がった昨日。
幻想郷各地では、久々の好天に浮かれた人妖達が騒動を起こした。
妖精の悪戯などは枚挙に暇がないが、この日に起きた騒動で最も規模が大きかったのは紅魔館と永遠亭の衝突であろう。
(写真1)
××日午後。両者とも秋の山の幸を求めて山岳部に入り、そこで遭遇。
両陣営ともに譲らず、そのまま交戦状態に突入。その後双方に援軍が到着し戦闘は激化した。(写真2)
この一帯は妖怪の影響力の薄い人里寄りの地域で、それ故、山の妖怪は関知せず、結果、麓の妖怪の二大勢力による大乱戦になった物と推察される。
現場には里の守護を行っている上白沢慧音氏(半獣)の姿があり、この騒動の仲裁を買って出た物と思われるが、紅魔館、永遠亭ともに仲裁を受け入れず、最終的には乱入した八雲紫氏(妖怪)によって騒動は収束した。
この後、博麗神社にて和解、調停の宴会が行われ、この件に幕が引かれた。(写真3)
調停役を引き受けた博麗の巫女は、
「あまり一度に暴れると成敗しに行く側としても疲れるから、ほどほどにして欲しい」
とのコメントを残している。
里では、十月の初旬に収穫祭が行われる予定になっている。
豊穣神への感謝祭でもあるこの催しは、毎年盛大に行われ、来年の豊作祈願もついでに行われる。
無用に暴れなければ妖怪の参加も拒まないという告知がされていたが、今回の件を受けて巫女に警備の依頼をしたとの発表もされている。
妖怪諸氏は、軽率な行動を避け、威厳と節度ある行動を心掛けて頂きたい所存である。
■●■
たまにはこんな日があってもいいんじゃないのか?
長い事人間やってると、ちょっとくらい変なことが無いと退屈でね。
え? あいつも似たような事を言ってた?
ちぇ、似た者同士とか思わないで貰いたいもんだね。
――とある人間の言葉――
――了――
量が多いので少しだけ敬遠していたのですが、読んでよかったです。
どたばたとなりながらも、どこか陽気さを失わない幻想郷の面々。
それと、霊夢の残虐非道ぶりww
どのキャラ達も可愛かったです。
ほのぼのしている所はホントに和めました。
特に姫様とウドンゲのところとか
そう言えば、咲夜さんはどこに行ったんだろ?
でも面白かったですー皆元気だ。
平和だった者達と災禍に見舞われた者達…
果たして幸福なのはどちらなのでしょう?
あと出てきてませんでしたが、風神キャラ達はどっち側なのか、とても気になります。
映姫様とこまっちゃんが最高でした。
相変わらず鼠氏は加減を知らぬ漢よ。
SS作家としては褒められるべきではないかも知れないが、今はその性が愛おしい。
活字を、もっと活字を。たいへんおいしゅうございました。
お疲れさまでした。いやもうホントに。
実に要約した感想で、こちらに書くことがありません(苦笑
求聞史紀にある「人を襲わなくなった妖怪」の弾遊びなどを感じ取って頂ければ幸いです。
>名前が無い程度の能力さん
咲夜さんはこの後の話で(まだ読ませるか
読了、お疲れさまでした。
>名前が無い程度の能力さん
ホラー、というか災害というか。
退屈しがちな長生きどもは、この程度ではへこたれません。
風神録のキャラは……まあ、機会があったら。
>Admiralさん
咲夜さんはこのあとすぐ!
実は小町は映姫さまが間に合わないように、わざと移動を手伝っていません。
>名前が さん
SSの定義をどうするのか。そこですね。
平均的な分量で切り刻んで、小分けにして投稿というのも考えましたが、たとえば30kbで切ると、10話。50で切っても6話。
……なんでこんな事に。
なにはともあれお疲れさまでした。
もし風神録組が参戦していたら穣子、雛、早苗、神奈子あたりは餌食になりそうですねw
ありがとうございました。