ニノタチイラズ
- 2007/11/18 13:03:39
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見上げた空は灰色の気配を漂わせて、重く心苦しく、人々の意識を縛り付ける。鬱蒼とした深山の秘境にありながらそこに悽愴さはなく、ゆるやかに精力を減じさせて、荒涼と寒々しい辻風が木々の合間をひょうひょうと啼きながらすぎさっていく獣道を、少年は軽やかな足取りで進んでいく。
奇妙な光景であった。衰えを見せ色彩を欠いた幽谷に、少年は溶け込み、また水面に落ちた油のように浮いていた。土を踏む下駄に泥まみれの書生風の上下と、黒檀の杖、刀は腰に差した二振りと背負った一振り、短躯にほつれた首巻きを後ろになびかせながら、すいすいと雲を渡るように進んでいく。
白髪が舞風に煽られた。
少年ではあるが、ただの少年ではない。
山風に混じって、少年の口ずさむ唄が渓谷に響く。杖を遊ぶように草むらに突きながら、猛禽の気配も無い地を進む姿を、唯の少年であると断じることは、たいがい出来ない。
濃霧がどこからともなく立ち込めてきた。
あっという間に少年にまとわりつき、乳のように濃密に煙る霧はひんやりと甘く感じさせ、しかし少年は気にした風もなく杖突き唄を諳んじながら歩を進める。
三昼夜ほどそのまま歩き続けた。視界の効かない山で足を取られもせず迷う素振りも見せない。最初から迷っているのかもしれない。
迷うためには目的地がなければならず、たどり着けないから迷うというわけで、しかし少年は実のところ迷うこと自体を目的としていた。確かな足取りはそのせいである。
やがて濃霧は濃度を減じていく。霧に阻まれて感じることのなかったものが押し寄せてくる。それは木々のざわめきであり、草花のささやきであり、風の笑い声、降り注ぐ陽の穏やかな微笑みであった。
唐突に視界が開ける。
木々が急に割れ、忽然と村落が現れる。廃村と言っても過言ではないほどのあばら屋が数棟、奥に庵のようでしかし存在感のある館がひとつ、煮炊きの煙をあげていた。
少年は唄を止め、一つため息を吐いて、心持ち浮ついた足取りで館へと向かっていった。
ひどく痛む腰を庇いながらため息と共に店先の椅子に腰を下ろした。両肘をつけて顎を支え、海月のように砕けそうになる身体をなんとか支える。あまりのしんどさに自分の迂闊さを後悔することもできず、ま、それはそれで良い思いをしたのだからいいではないかと、勝手に自分自身を納得させて、森近霖之助はいつもの定位置に落ち着いた。
やれやれ。
女の人とはかくも風のようなものなり。
しばらく呆然としてから、机の端に転がっていたがらくたに手を伸ばして、さて今日こそはどのような絡繰が仕掛けられているものか判明させてやろうと、日課の品物弄りを始める。
「たのもう」
「は」
始められなかった。さげた頭をもう一度上げると、敷居をまたいで少年が一人入ってくるところだった。白髪に書生風の上下と、三本の刀。杖で肩を叩きながら、頭を巡らせて一息吐き、こちらを向いて、久しく、と声をかけてくる。
「相変わらず寂れているなぁ、香霖堂よ」
「相変わらずはともかく、寂れているのではありませんよ。客が来ないだけです」
「そういうのを寂れていると言わんか」
「なにを馬鹿な」
「なんだとぉ」
「いいですか、店とは需要と供給を満たすための場所なんです。僕の店に置いてあるものを必要とする人達はそれを認識した上でちゃんと店に来てくれます。そしてその人達は確実に満足して店を後にする。まったくこれは需要と供給が一致しているからに他なりません。つまり僕の店は流行っている」
「客いねぇじゃん」
「でも流行ってるんですよ」
「いねえじゃん客」
「まぁそうですけど」
「なんだなぁ、つまり需要と供給はあるんだが、回転率が悪いわけだな」
「そう、そういうわけです。それだけの理由ですようまいこと言いますね」
「店がぼろっちいからだよ。廃屋とまではいかんが、まあせいぜいガラクタ廃屋だな。店主までぼろっちい。今にも溶けそうだ」
「溶けそうなんですよ。ちょっと、遅くまでお客さんが来てて、まぁ寝てないんです」
「一徹?」
「一晩」
「女か」
「言いませんよ」
「言えよ」
「言いませんったら」
「わかった。でもこれだけ答えろ……美人?」
「それはもうすっげえ」
「おまえほんと死んだ方がいいな……」
「なんでそこでシリアスになるんですかそんなに駄目ですか!? さては羨ましいんでしょうやーいやーいこの非モテ」
「非モテとか言うな切り潰すぞ」
「止してくださいよもう首の皮一枚切れてますよ冗談も通じねぇ……」
苦笑がお互いの口元から漏れ、永いときを隔てて細くつながっていたものが急速に戻ってくる。歳月に延びた記憶は視線の交差によってお互いを縮めた。
「しかしまぁ、大将、なんです、その格好」
「よかろう。勉学の真似事をしてみた」
「似合いませんね」
「似合わん?」
「あんまり」
「一張羅はあったんだけど、襤褸で着られたもんじゃなくなってな」
「……外に出ていたんですか?」
おうよ、と椅子に腰掛け、少年は霖之助の記憶にあるとおりの笑みでもう一度店を見回した。その動きは外観に似合わず、いかにも精神に歳月を重ねたように、しかし若々しい。
顎を撫でる動作が、細いおとがいに似つかわしくない。髭は無いのだ。
「この前来たのが、ええと、何年前でしたか」
「覚えとらんなぁ」
「それからずっと外に」
「出てた。というか、俺はあっちから来たんだから、帰った言うのが正しいような気もするがな」
「悲しいこというものじゃありませんよ」
「フムン」
「どうでしたか」
「どうもせん」
「時代、かわってたでしょう」
「エレキがとんでもなく幅を利かせてはいたな。海を渡るのも、空を翔るのもお手の物だ」
「エレキで?」
「エレキで。月の向こうにも届くほどの眼を造り、天上人の地に足を踏み入れてた。俺も、行ってきた」
「月に。どこまで行ってるんですかいったい」
「しかたないだろそう頼まれたんだから。しかし、まぁ、ちょいと行き過ぎた感はあったな。結局、何処にいても、おてんと様が見ていてくださるほうがいいって感じだ」
「でしょうね。大将、意外とさびしがりですし」
「なんか言ったか」
「お久しぶりです」
「おう、久しぶり」
椅子から飛び降りるとほっほっとかけ声を出して少年が奥へ入り込み、薬缶と急須と湯飲みを持ってまた戻ってきた。
自分で茶を淹れる。
霖之助が自分の湯飲みを差し出すと、乱暴な動作で注いだ。
「まっすぐここに?」
「いんや。八雲の隙間様のところに」
「紫さんのところへ?」
「……香霖堂、何時の間に隙間様の事を御名前で呼んだり……いや、おい、てめぇまさか」
「か、関係ないでしょう」
「無いのは確かだがなんだか許せん。さっき言ってた相手、隙間様とか抜かすんじゃねぇだろうな」
「いや違う人」
「潰す」
「痛っいや刺さってる刺さってる痛っ! 痛いって!」
「抉る」
「洒落になってない! なってないよ大将! な、なんで紫さんのところに!?」
「だってよ、行き方わっかんねぇんだもん。隙間様の住んでるとこなら、適当に迷ってれば着くだろ思って、三月ぐらい奥州あたりの山を」
「普通死にます」
「まーな。つか、なんだ、変なまじないがかかってないかこのへん」
「博麗大結界と言うものが。大分昔の話ですけど」
「お前の大分昔ってのは、俺と同じぐらいの感覚だからなぁ。これが隙間様んとこの狐なら突拍子もなくなる」
「なかなか快適ですよ。幻想郷と呼ばれています」
「そうかい。ま、俺としちゃあ、上がどこにあるのかわかっただけで十分だ」
「穴が空いてる、らしいですよ。たまに降りてきます」
「そうかい」
「元気ですよ」
「お前な、そういうのはお前なんかに言われても嬉しくねぇんだよ」
「これは失礼。で、なんでうちに? 紫さんならそのまま連れて行ってくれるでしょう」
「ああ、なんか勿体なくって。お前がこっち居るからついでに顔見ておこうかと」
「はぁ。そんなに僕の顔が見たかったんですか。そんな格好にまでなって。寄るな」
「ぶつぞ。なっちまったもんはしょうがねぇ」
「でも、それは大将、畏れ多い事ですよ。閻魔様がお許しになるはずが無い」
「だから、しょうがねぇんだ。侭ならんものさ、なんだってな。――そんじゃ、そろそろ行く」
「そうですか」
「達者でな、香霖堂」
「ええ、また、大将」
少年は湯飲みを置いて腰を上げ、杖突きながらゆるゆると出ていった。足取りは軽く、刀の鞘が後ろ姿を奇妙にいびつな形に象っている。歩き去るうちにふと風に巻かれて消えてしまいそうな少年であり、確かにその通り、ふっと気を逸らした瞬間に少年の姿は視界の中から消えた。店の奥から見える景色はここ十年変わらぬ日差しを受けて不自然に区切られて、その額縁から消えた少年は、まさしく幾ばくかの歳月の過去、自分が見送った姿とついぞ変わらぬ印象であった。
「ああ」
と気が付いた。
かつてと変わり果てた少年の形象の意味。
「紫さんも、なんというか」
空の湯飲みをみやって、長いため息を吐いた。それから自分の湯飲みの中身を一口飲んで、さっき脇に置いたがらくたをまた手に取る。
かつて少年は老人であった。老人の前は青年であり、そのころ初めて会ったので、霖之助はその前、見たことも想像したこともない子供の頃の彼の姿を見たことになる。見たことがないのに知っているというのは既視感ではなく、例えば八雲紫がその容姿を自在に変えるのと同じように、なにかその本人だと判る判断基準のような物が自然と霖之助にああこの人はあの人だ、とか、これこれはあれと似ている、とか、そういう曖昧な輪郭を曖昧な記憶に一致させる訳で、これは既視感ではなく本質を見極めているだけ、対象の雰囲気を読む、と言える。それであるから霖之助は少年に対して久しぶりという言葉が出てきた。で、なぜ少年の姿をいまさら形作っているかと言うのは、つまり少年の姿が幻想であるからだろう。逆に言うと、老人の姿が幻想ではない、現実的な姿であるというわけで、彼が霖之助の前に表れる、つまり幻想郷にやって来るためには少年の姿を取るしかなかったのだ。
それほどまでして姿を変える。
それは、と霖之助は思う、自分に会うためにではないだろう。彼はおそらく自らがもっとも関連ぶかい人に会うためにあの姿を取ったのであり、自分はついででしかない、前座、前置き、話の始め、である。それはそうであろう。自分はあらゆる意味で端役でしかない。人生はそれぞれが主役だ、という他、霖之助が舞台に上がり脚光を浴びることはない。それであるが故にこうして彼は寂れた古道具屋の店主であり続け、八雲紫や八意永琳と言った人物に構われているのだろう。
あの二人に限って言うなら、おそらく二人は水と油で、自分は卵白だ。混じり合う。自分を仲介して。それですら永き撫寥の慰みでしかないのではないかと天狗は言い、確かにそうだろう、と霖之助は天狗に言われずとも確信している。言うまでもないことだ。波風立たせずそこに居るだけの自分は背景であり、縦横に躍動する彼らの、いわば舞台装置に過ぎない。それでいい。それは無死人の過ごす無為な時間のように寂しく、鬼の居ない宴会のように空疎だが、しかし、それでも、人は現れる。舞台装置である霖之助と言葉を交わし、戯れ、生き、そして、死ぬ。その一連の物語を強く意識したことは無い。そうするには霖之助は真面目すぎた。つまり、他人と過ごす時間というのを、真面目に生きた。達観するということが霖之助にはできない。ただだらだらと日常を過ごすことこそが霖之助が無意識のうちに自分で選び取ったことで、そのなかの主役達を彼は想っている。伝承を語ることは出来ず、真理を悟ることは出来ず、ただやって来る波をその時その時の新鮮な気持ちと共に乗り越えて、ああ今のはとても印象深い出来事だった、と記憶に留めていく。過ぎ去った記憶を留めて、現在を生きている。それはまさに幻想的な生き方であり、現実的な生き方ではなかった。もう世界は彼のような舞台装置を必要とはして居ない。
世界とは、と霖之助は考えたことがある、つまり現実を盲信する気持ちの塊だ。それが地球の表面を覆っていて、それを造り出したのは人間だろう。では人間の盲信する現実とは何なのだろうか。現実を信じて世界を創る、常識という概念を創造して、その中に籠っている。世界結界、薄明と黄昏の輪。しかし常識とは移り変わる物だ。その移り変わるときに排出されたものが幻想と呼ばれ、そんなものは有りはしない、偽物だ、と認識され、幻想は人間に拒否される。では、と霖之助は思う、幻想郷というのは幻想が創りだしたものなのだろうか。博麗大結界は人の創りし境界だが、その人々は幻想に動かされていたのではないだろうか。幻想とは人々の忘れ去った現実であり、かつて現実であったならそのくらいの力を持っているに違いない。幻想郷は幻想が創りだした、幻想自身の、なんだろう、殻、逃げ場、という訳ではない、容れ物、場、というのだろうか、境界、というのが最も正しい気がする。現実と幻想を区切ったのだ。それは、なんだか酷いことのように思える。区切ると言うことは混ざることをさせないためであり、この幻想郷に入ったものはもはやここにしか居場所が無い。
果たしてそうだろうか。考えてみると、世界というのはそれ自身が独立していて、自ら現実と幻想に分かれたと考えられないだろうか。常識というのは大雑把な区切りを別とすれば、多少の違いがどうしてもある。個人であれ、血族であれ、友人であれ、国であれ、種族であれ。そのなかではそりの合わない常識という物があるだろう。その、種種様々な中に、あらためて、幻想、という区切り、常識を割り込ませるのは、なんだかとても不思議なことだ。わざわざ幻想と呼ばせることなんの意味があるのか。だったら、世界のほうから現実と幻想に別れさせたと考えるのはどうだろう。しかしそれは世界が何の意図を持って自分を分割させたのかという話になり、それはもう霖之助の考えることの出来る範囲を超えていた。彼はただ気が付いたら幻想郷に居た。そこでさまざまな人と出会い、別れ、その中の一人が彼の人であった。少年。陽炎のように不確かな、刀使いの男。その姿は幻想ですら無くなっていく。
もう会うことはないだろうと、霖之助は幻想的に確信した。
* * * *
降り立つ場所は気流渦巻く高空の地、白雲の波の上で、目の前に開く無限階段、幽世の停滞した気配が流れ落ち鮮やかな空と境に分かつ、博麗大結界の綻び。少年は後ろの隙間が閉じきるのと同時に、足を石階段にかけた。
幽冥界――死の郷。亡霊の悲しみを慰む愉悦の白玉楼。
一歩一歩を確かめるように、ゆるりゆるりと段を昇る少年の、その上に架かる幽木の枝はやがて吹く春一番を待ち望んでいるようで、しかし今はじっと裸の枝で少年をくぐらせる。石段を杖突く音の律に合わせて諳んじる唄の音程はあるいは高くあるいは低く、不思議な余韻をもって石段に響いた。懐かしくも古い民謡。山村で遊ぶ子供の間で唄われる唄。
昇りきるまでには時間がかかる。その間、少年は息を切らすこともなく唄い続けた。石階段の両端は見えない。しかし並んだ木々は確かに枝を伸ばし、いかにも其処にあるような気にさせる。白玉楼に続く階段に、幅というのは無いのだ。禁城のように幅広くもあれば小径のようでもある。霧が波のようにその大きさを決める。そしてその登り行く先に、遙か遠くだが、しかし確実に終点はあり、それが無限階段ではないことを示している。少年が昇る階段は、幅よりも短い。階段の段数などというのは、そう、昇る人によって変わる。石段を踏み昇るという行為の間に人は昇る先への気持ちを決める。心逸れば空とぶように、重く沈鬱であれば苦行のように。だから、昇る人によっては無限に続くこともあるし、一足で辿り着くこともある。昇るという行為は本来厳しい物だ。それを厳しくないこともある程度にした階段というのは、人が斜面に段数を刻むことで自らにも歩を刻んでいることを思い知らされる。
諳んじる唄は切れ目無く、少年はゆるゆると軽やかに昇っていく。終わりはまだ遠い。それは少年が深い情念の中にあるからなのかというとそうではなく、ただ淡々と移り変わる景色が面白いからに他ならない。歩を刻むのは、山伏、生者の役目だ。少年はそれほど律儀ではない。
吹き下ろしの風が白髪を舞わせる。
景色だけでは無いなぁ、と少年は思い直す。階段の終わりには庭がある。二百由順の、愉快の園。そこには一人の御庭番が居る。かつても居たし、いまも、居る。いま、少年が石段を登るときにも。歴代の御庭番は二人しかいない。一人は爺で、一人は小娘。爺は死んだ。小娘は半分死んだ。半霊半人である。半分死んだ、というのか、半分生きている、と言うのか、難しいところだ。どうでもいいことではあるが。
フムン。
少年は唄を止めてため息を吐いた。
「ゆるりゆるりと行くのも、急いでいくのも、まぁ、変わりはしないんだが、しかし焦ることもない。
と、言うのは、やっぱり腰が引けているからかね……」
つぶやきは口の中だけで、誰も居ない静寂の石段の途中、少年は無言で登る。杖を突く音は規則正しく、時折鞘同士が触れ合ってかすかな音を立てるほか、風の響きしか聞こえない。
永く続くと思われていた階段は、唐突に終わりを告げた。
「……」
開いた景色が一歩毎に姿を現し、最後の一段を登りきって、そうして少年は全貌を納める。
広く、狭く、幽玄の風光明媚が現すのは、すべて、死したるもののすべて、世界の縮図。
張り出した木々が属する曖昧な小世界の奥に霞んで見える屋敷。
冷ややかな死の息吹があまねく全てに宿り、大地から沸き上がるように薄煙る、手を伸ばせば綿菓子のように溶けてしまいそう。
屋敷に続く道は玉砂利に白く埋めつくされ、飛石は黒く島のように霧と砂利に姿を埋める。
その上にうっすらと垣間見える人影は、まさに幽けし姿なれど、しかし曖昧なこの死地で白光にも似た確かさを併せ持つ。そこだけ熱心な猫が引っ掻いた爪痕のようにはっきりと存するひとすじ。
「なにか」
と矛盾した人影は口を開き、
「なにか御用向きは。こちら悠々自適の亡霊幽嬢がおわす魂遊びし白玉楼にございますれば、一見仕ったところそちら様は人魂亡霊でございますわけでもなし。
御用向きはなんでございましょう。私めはこの御庭の剪定を任されておりますれば魂魄とお呼び下さいまし」
木訥にそう言い、再び口を閉じた。霞む姿は薄ぼんやりとした輪郭だけを影に映し、少年はその影を曖昧な目でみやる。
「三回」
と呟いた。
「は?」
「三回」
ふと意地悪そうに笑う。
「馬鹿面晒してる間に、三回、俺はお前を斬れた」
影はその言葉を耳に入れるあいだ黙り込み、そして口調を変える。
輪郭を蠢めかして、影が構えを取った。
「未熟を誇ることはない。だが誹りを受けて黙するは、我が往く流では非ず」
「馬鹿にされた、と思ったか? いいや、そんなんじゃないぜ、小童よ」
「なんだと」
「笑えよ。冗談を受け流すこともできないなら、そうするしかないだろ」
「つまり」
「馬鹿にしてんだよ頭わりぃな」
この場に不釣り合いなほどはっきりとした音を立てて鯉口が切られ、影、御庭番の少女、魂魄妖夢が刀を抜いた。刀身は霧の切れ間に豆腐を断つが如く天へ突き立ち、構える妖夢は剣呑な顔つきで少年を睨む。
は、と少年は笑う。
「そう、初めからそうすればいいんだ。似合いもしねぇ前口上並べやがって気色悪い」
すっと足を開き、右手をゆるゆると腰元においた。
かたや大上段、かたや抜き打ちの構えで相対する。双方の白と銀の髪が剣気に震え、間の霞が押し開かれるように散った。魂魄妖夢の毅然とした姿がはっきりと現れ、見通しの良くなった二人の間で息を合わせるように一瞬が過ぎる。
「名を聞こう」
「俺ぁ、お前の名が聞きたい」
妖夢の剣がかすかに揺らめいた。
それにあわせて少年は身を落とし、
「魂魄二刀妖夢!」
「魂魄六刀改め四刀妖忌!」
右手で腰元の二刀、左手で仕込み杖の一刀と背の一刀を抜き、しかし居合いではない。
「そうっ」
と蹴り上げた右足の下駄を妖夢へ、顔面へ飛ぶそれを妖夢は反射的にたたき落とそうとして、
「へ……?」
相手の名を認識して固まった。
そのまま下駄は妖夢の鼻面に当たる。
衝撃で仰け反った妖夢はもう一度、
「へ……?」
と間抜けに呟いて、後頭部を砂利にぶつけて昏倒した。
下駄を囮に斬りかかろうとした少年、妖忌は、あっけなく失神した妖夢に勢いを殺され踏鞴を踏んでつんのめる。
ぎょっとした。
「……あれ?」
と、両腕の刀を所在なく置いて、
「せ、せっかく抜いたのに……」
目を覚ますと石の中にいた。
ではなく。
目を覚ますと乳の中にいた。
でもなく。
目を覚ますと胸の中にいた。
「ぬ」
「あ、起きた」
「……幽々子様?」
妖夢は目を瞬かせ、身を起こそうと右手を突いた。
「あ」
「え?」
縁側の端に寝かされていたため、突こうとした右手は空を切り、そのまま身体ごとくるりと回りながら引きずり込まれるように、落ちる。
「ぎゃ」
という暇もあらばこそ、顔面を踏石にぶつけて悶絶する。奇しくも下駄の当たったところと同じ場所を打ったので、並みの悲鳴ではきかない。ぎええと恐竜のような悲鳴を上げて転げ回った。
「何しとるんだこいつ」
「あ、妖忌」
「妖忌でござい。どうぞ」
「んー」
手渡された湯飲みを取って、抱え持つ。妖忌は地面でのたうつ妖夢の首を掴んで頭をひっぱたき、廊下の上にぺっと放り出した。
「あいた」
「唾付けときゃ直るよ」
「そ、そうは言いますが、同じ所を打つのは、こう、精神的に」
ひりひりと痛む鼻面をさすって妖夢は立ち上がり、
「いや、ちょっと待った。師匠?」
「おう」
「なんで居るの」
「どうでしょう御嬢、あいつあんなこと言ってますけど」
「妖夢、あなたって馬鹿よね」
なんでだよと言い返すのを堪えて、なんでですか、と敬語で言う。
「居ちゃ悪いか、おい」
「悪かないですけど、なんというか、どこから突っ込んでいいのやら」
「居ちゃ悪い? 俺……」
「しな作んな気色悪い」
「言葉に遠慮がねぇな。殺伐としてやがる」
「あはは」
と幽々子は朗らかに笑い、
「あーおもろ。ひーおかし。ねぇ、今の妖夢の顔、みた?」
ばんばんと膝を叩く。
「エチゼンクラゲみたい」
妖忌はそうですかそうですねわはははひゃっひゃっひゃ、と心底愉快そうに、妖夢は曖昧ながらも表情を引きつらせて、さいですか、と答えた。
「久しぶりに帰ってきたんだから、今日は宴会ね」
さも名案とばかりに幽々子は掌を打つ。
「宴会ですか」
「宴会ですか」
「そう、宴会」
フムン。唐突なのは西行寺幽々子の十八番であるが、今回は魂魄妖忌の祝い、というお題目があるので、さほど驚きはしない。
妖夢は「御意に」と答えてから、台所事情を思い浮かべ、なんとかなるだろうとあたりをつけた。
「人を呼びましょうか」
「そうねぇ。にぎやかなほうがいいかしら、妖忌?」
「御嬢がよろしいのであればそのように」
「と言うわけで、妖夢」
「はい」
――息吹や酔いの廻り良い、宵のさかいめ好い者萃め、酒盛り始めぞ呼んでやこいこい
と虚空に呼びかけると、
――誰そ彼黄昏伊吹鬼なれ、四神天地で騒々宴、無霧酔萃が転じて発句あいやその役仕らん
と応えがあり、ふっとそこにあった気配がひとつ風のように消えた。
「鬼かい」
と妖忌は感心したように顎を撫でる。
「初めて見た」
さてと妖夢は膝を立ち、ではこれより宴の用意をいたします。
「おう、では俺も」
「いえ、師匠は駄目ですよ。師匠のための宴会なんですから」
「そうそう。出しゃばる物じゃないわよ、よーき」
「ふむ。妖夢はともかく、御嬢にそう言われると、なにもできませんね」
「そりゃどういう訳ですか」
「深読みするなよ。どうせサッパリ判らないんだから」
「積もる話もあるし、妖夢に任せておきなさいな」
「では、そのように」
「では、そのように」
滑るように妖夢は台所へと消えていった。
妖忌は妖夢が消えると、こっそり隠しておいた酒瓶を取り出し、
「どうぞ」
「妖忌も、よ」
「頂戴いたします」
注いだ。
月。叢雲。花に風。
大広間はしょうもない熱気に包まれている。酒瓶や食器皿のぶつかる音を圧してぎゃんぎゃんと喚き騒ぐ声が雑然と混じりあい、酒気帯びの雰囲気が刻一刻と膨張していく。一人が大杯を一気呑めばやんややんやと喝采があがり我も我もと続いていく。さーけ! さーけ! つまみーにくー吐くなきたねぇぎゃははは。
「ふうー」
と妖夢は一息吐き、大広間とは違う種類の熱気に包まれた、炊事場の板間に腰掛けた。メイドと兎と人魂が幾人も鍋加減を見たりできあがった料理を大皿に盛ったり空の酒瓶と中身の詰まった酒瓶とを入れ替えたり、立ち上る蒸気のなか忙しそうに動き回っている。妖夢は彼らに増して動き回っていた。白玉楼の台所は彼女の仕事場であり、その支配者が手伝いの連中よりも動かないというのは風評が悪かろうという気持ちがあったからで、それにしても疲れる物は疲れる。休むのは、だから躊躇われる。月兎が大皿を曲芸のように両手と耳で支えて、ごめんよぉ、と一声かけて飛び越えていく。
「はいこれ」
「んあ」
頬に冷えた猪口があたる。振り返ると、十六夜咲夜がもう一方の手に小皿を持って立っていた。横に座る。
「ああ、いや、酒は」
「中身はみかん水。こっちはササミ」
「うぬ」
「このくらい良いわよ。みんなローテーション組んでるのに、貴女だけずーっとこっちなのは、アレよ、卑怯よ。いまから入っても、酔っぱらうタイミング逃して後始末に追われるんだから。息抜きなさい」
「ああ、だからみんなだんだん動きがおおざっぱになってたのか……」
ササミをひとつつまんで口に入れる。
「……なあ、これ何の肉だ?」
「鳥に決まってるでしょ」
「じゃあ何の鳥だ」
無視された。
「……フムン」
もう一切れをつまんで口に入れて、妖夢は嘆息する。
「どうかした?」
「いや」
みかん水で流し込んだ。
「いや……」
「あの、食い倒れの横に居た奴のこと?」
「うぶっ」
逆流してきたみかん水をのど元でせきとめ、元通り嚥下する。
「よくわかったなぁ!?」
「カマかけただけっつーか激しいなぁ反応」
「ぐ」
「みょん」
「げ」
「人の台詞とるなうんこメイド!」
「とんでもねぇあたしゃ庭師だよ!」
「ヒャー半人前半人前!」
「あのひと、どんなかんじだった?」
「ふっつーに酒飲んでたわよ。酔ってんだか素なんだか、よくわからない飲み方してたけど」
「うん、師匠はいっつもそんな感じなんだ。だから幽々子さまや紫さまに付き合えるんだろうけど」
「師匠? なんの」
「全部。剣も、剪定も、死に方も、ぜんぶあの人に」
「小さいのに、役得ね」
「私の知ってる師匠は、もっと大きかった」
鼻の下をごしごしとこすり、蒸気で溶け出した鼻水をすすりあげる。
「魂魄六刀の奥義に転生法がある。六道を一巡して、姿形を自在に操るんだが」
「たいそうなことをしてる割にはちゃちいわね」
「私もそう思う。でも、そうやってああいう外観にならないと、これなかったんだ」
「あんでよ」
「よくわかんない。幽々子様は涅槃を消さずに菩提を外に置くとかどうのこうの言ってたけど」
ちらりと楼観剣を収める鞘を飾る秋桜に眼をやり、
「あれでも、師匠なんだ。師匠にもあんな頃があって、その上で私がいるんだ。そう思うとなんというか、くすぐったいと言うか……なんだろうな。幽々子様と師匠をみてると、こそばゆい」
感慨深げに妖夢は剣を撫ぜた。ふと二人を思い浮かべて目を閉じる。咲夜は興味のあるような無いような判別つけがたい、要領のいい表情で聞いていなかった。いや、聞いてはいたが、息抜き程度にしか聞いていなかった。別に妖夢も真剣に聞いてほしいわけではないだろう。
雑談と言うやつだ……
とはいっても、動くのが仕事で、生き様な、主観的奉仕階級の二人なので、いいところできりあげる。その辺りはぐずぐずだらだらと何事も時間区分の曖昧な連中とははるかに一線を画していた。神の領域と言っても過言ではない。
「じゃ……あんた、茶坊主頑張ってね」
「ああ、いいんだけどなぁ、あの中に入りたくない」
「文句ゆーな」
「はーい」
ひらひらと手を振り交わして、妖夢はつまみと酒瓶とともに幽々子のもとに急いだ。
「あれ」
大広間のぐずぐずな状況のなかでも妖夢はぴたりと主人の居場所を探し当てることができるが、その敏感な感覚をもってして彼女の姿を捕まえることが出来なかった。同じように妖忌の姿も無い。あれれと首をかしげているとタチの悪い酔っ払いに捕まった。
「わはははみんな見ろ! 妖夢だ!」
「「妖夢だ!」」
「踊れ!」
「「踊れ!」」
「妖夢のよのじは!」
「よしお!」
「よしくるよ!」
「エコエコエコエコエコエコ」
「ドラドラドラドラドラドラドラ」
「ひゃっひゃっひゃ!」
「ウヒョー! フヒー! ランバダー!」
「あ」
「吐きそう」
「漏れそう」
「実が……」
「えらえらえらえら」
「うわぁやりやがった!?」
「う……」
「つ、つられげろげろ」
「あー! あー! もーだめー! もれー!」
「ぎぼぢわる……」
「うぇっ……」
「う……」
「……」
「……」
* * * *
――土の下 思考は途絶え はかなくも白骨
桜の下 意識は途切れ みにくくも屍骸
されど 魂魄は帰せず
なにゆえ私をおいてゆく
なにゆえ私をおいてゆく
哭き声だけが 桜を鳴かす
いみじくもひとり
* * * *
じゃん、じゃあん……と、遠く大広間から、宴会の音が聞こえる。
宴の流れがわずかに注がれてくるのを、妖忌は心地よいと感じる。目の前でゆったりと猪口を傾ける西行寺幽々子は亡霊のくせに頬をうす紅に染めていて、夜桜がちらちらと舞うような艶やかさが妖忌の目を潤した。
「お嬢と飲むのも懐かしゅうございますなぁ」
と土器を置けば、つ、と注いでくれる。
「そうねぇ……桜が、幾度咲き誇り、また散っていったかしらん」
「もう覚えていますまい」
「ええ、それはもう! 全部覚えているけど、全部きれいだったから、全部一緒な気がして!」
「左様でございますか……この妖忌もそうでございます」
妖忌の手はかつてのように皴の浮かんだ枯れ木ではなく、瑞々しい張りの肌をもった童子のそれだった。爪は桃色に、押せば弾き返す肌は、西行寺幽々子の細い手指と同じようで、しかし男と女の違いを如実に見せる。
だが、違っていた。それは男と女と言うだけでなく、もっと根本的なところで違っていた。いな、それは一緒であったがゆえに、同じと言うことはあってはならなかった。
西行寺幽々子は何も聞かず、ときに笑い、ときにうつむきながら、時間を隔てていた妖忌との会話を楽しんでいた。妖忌もそれに合わせて、別れてからいままでのことを話して聞かせている。二人が身を離しただけの時間を、酒とともに埋めるように、宴会と言う場で行われるそれは儀式めいていた。
「なぜ」
と幽々子は唐突に話を振る。
「はい?」
「居なくなったの?」
それに饒舌だった妖忌の口はひととき閉じる。しかしすぐにとぼけた顔になって、
「さあ――」
とごまかすだけだ。
くすくすと、幽々子はおかしそうに微笑んだ。つられて、妖忌ものどを鳴らす。
その昔、西行寺という名家があった。その一人娘はやっかいな呪いを身に受けて生まれ、命から疎まれていた。
だが、それでも人々は彼女をいつくしみ、なんとか呪いを解こうとし、そして彼女に命をさらわれた。命と、人は、べつべつだった。人がいくら彼女を受け入れようとも、死をもたらすものを命は忌み嫌う。それを受け入れるのは命を自らの下に置いたものだけだ。
ふらりと西行寺屋敷を訪れた少年は、そういう手合いだった。
闇が、深さを極めていく。大広間の騒ぎは勢いを衰えさせず、二人の会話はとつとつと止まることは無い。
死の満ち満ちた冥界で、生気あふれる人々が宴を開く。あってはならないことだが、妖忌はそれを不安に思わない。そういったところに気を回すような性質ではないし、にぎやかでいいことだ、とすら思っていた。そう、初めて会ったときの、泣き出しそうな表情を和らげてくれているのなら、どんなことでも喜ばしいことだった。彼女を置いていった自分が言えた義理ではないが。
薄闇の記憶に隠されたもの、色を失った手と消え去った力は、もう二度と取り戻すことの出来ないもので、しかしそれでも消えないものはある。光と闇の境界にとりのこされた姿なき実像に明確な手段でたどり着くことは出来ず、巡り往く道は同じところを描いている。二つに分断された領域の、それはいたちごっこであった。
断ち切る必要はなく、ただあるがままに否定されようとするのを拒否しただけであるが、それがもたらした責任は大きい。
死に、招く。
生からの離反。
どうでもいいことだ……そんな思考は、どうでもいいのだ。
西行寺幽々子には笑顔がある。それだけで妖忌は十分だった。
「こ、こちらにいらっしゃいましたか」
どたどたと騒がしい足音をつれて、ところどころにほつれのできた妖夢が酒瓶と大皿を持って現れる。よい沈黙にいた二人は苦笑して妖夢を迎え、妖夢は二人の細かい機微に気づかず、酒とつまみ置いて、また宴会場に戻ろうとする。
「あー、おい妖夢」
と、妖忌がひきとめた。なにごとかと振り向く妖夢は、呼び止めた妖忌が、どこか亡霊にあるまじき、しっかりとした感じを受け、多少なりとも怪訝に思った。
「ちと剣かせ」
「え……」
「明日の朝には返すよ。ほれいいから」
「はぁ……」
楼観剣と白楼剣をあずけ、なんだか心持ち落ち着かないと思いながらも、妖夢は再び宴会場へと去っていく。
幽々子は主から引き離された二振りを不思議そうに眺め、妖忌はまたにやにやと笑いながら酌をした。そうして、また二人は深い記憶の中に潜っていく。
闇の帳が冥界におりて、桜をその身に孕み、夜を生んだ。
* * * *
――桜の舞う季節であっただろうか。
駆ける足は疾風に比して、しかし気のほうが、もっと速く、と叫びを上げる。昨日までは緑豊かだった山々をがむしゃらに走りぬけた。息は乱れ、刀を邪魔に感じながら、それでも妖忌は死に絶えた茶褐色の世界を行く。
桜が、舞っていた……散り往く運命に従うはかなくも美しい姿を、一緒に見ようと、そう伝えていた。だがもうすべては色を失い、生気を亡くして死に至っている。土は崩れ木は砕け草は潰れ花は塵に、もはや現界にあるまじき光景となった姿は短いながらも慣れ親しんできた景色の成れの果てで、しかし妖忌はその姿に気を配る余裕はなかった。
死が、妖忌を誘っている。誘蛾灯に引かれる蟲に似た愚直さで妖忌は風になる。
一陣の山風はひたすら山頂を目指し、ついにはたどり着いた。西行寺家の山に伝わるひときわ巨大な一本の老桜は、妖忌がはじめてそれを目にしたのと同じように、ついぞかわらぬ枯れ枝をさらしている。
その根元に、西行寺幽々子はいた。
渦巻く紫の蝶が幻想的に彼女を巡るのを見て、妖忌は己にも判別の付かぬ絶叫を上げて駆け寄る。少女の雪のように透き通った、青白くもある肌を思い描きながら、死に絶えたふもとの人々のことも忘れ、少年は主のもとへ行く。
だが、それを一匹の妖狐が阻む。獣臭さと神々しさを同居させた一匹は憐れみを妖忌に向け、彼を弾く。
咆哮が怒りとなり、かれ自身の刀を取らせ、六つの刃が妖狐を襲う。式神である獣は狐火とともにそれを迎え撃ち、枯れた空の下、人外の争いを強制させた。
手遅れなのだと、少年はわかっていた。
日に日に強くなる紫色の誘いは少女を追い詰め、それを少年はただみているだけしか出来なかった。むろんその誘いが決定的な手遅れを防ぐための手段であったとしても、少年がなんの役にも立たなかったのは事実であり、そういう少年を気遣う少女の心が、なによりも辛かった。みずからの役目と決めた老桜の伐採も、間に合うことはなかった。
だが、死を誘う力など、西行妖など、そんなことはどうでもよかったのだ。生まれ着いてより放浪であった少年はただ生きるだけで全力であったのに、いまや彼には自分の生死よりも重要なことが存在していた。生きるよりも大切なものがあると気付かせてくれた人を視界に収めながら、そこに至るためにいっそうの技で少年は六刀を操る。熱風と紫電を纏い槍と化した狐火を斬り、万華鏡のように移り変わり繰り出される幻術を弾きながら、しかし前に進めない。少女との距離が海を隔てたように遠い。彼岸と言う名の、境界だった。
だが。
踏み越えては成らぬ線など。
それをためらわせるものなど、少年には無い。
ふたたび少年は風と化し、妖狐の不意を突いて境界を越える。目をむく狐を四振りが縫いとめ、少年は少女へ手を伸ばした。
そして見た。
少女は自らを死に誘い、夢幻にほの光る紫色の蝶のなか、ゆっくりと老桜へその身を沈めていく。伸ばした指先はわずかに届かず、かそけし薄紫の向こう側へと旅立った少女は少年と立つ場を決定的にして、もはや二度と、彼らは生を分かつことなく、老桜はわずかにその身を震わせて、不死見の少女へ弔いの泣き声をあげた。
――のばした手のその先で、微笑んでいた少女は、
呆然と老桜の幹に手を這わせる少年は表情を凍らせて、背後で妖狐がおとがいをあげて瞑目するその周りに、四振りの刀が突き刺さる。からんと少年の両手から太刀と小太刀が流れ落ち、無機質に大地へとその身を晒す、陸に上がった鰯のように、その刃紋は枯れている。
――そっと、蜻蛉のような声で名前を呼び、
もはやそこには何も無かった。忌むべき力を封じられた老桜はただの巨大な枯れ木になり、死の誘蛾灯であった大地はただ朽ちただけとなり、ただふたり、式神の妖狐と、役目を喪失した刀使いの少年が、時が止まったように立ち尽くすだけだった。
* * * *
考えたことはないかい?
死んだもの達の思いは死んだ跡も現世にとどまり、だれか、他の誰かの思いに溶け合って、その存在を保ち続けるのだと。
死後に、思いを持っていくことはできるのだろうか?
亡霊は心残りの残骸が現世を離れることが出来ず、かといって転生も出来ず、冥界にとどまり続けている存在だ。
逆に言えば心残りがなければ亡霊ではなくなり、魂として、彼岸へと死神とともに渡って、閻魔の裁きを受け、転生する。その過程に例外はない。
思いを……思いを持って、転生することはできない。
ならば、どうすればよかったのだろう。
思いに焦がれて、夢も現も放り投げて。
妄想に身を転じ、郷愁に縋った自らを、いまさらどうするというのだろう。
「……ふん」
くいと濁酒を仰ぎ飲んだ。
喉の内側を焼きながら、酒気は五臓六腑に行き渡り、っか、とほてりをいっそう強める。
巨大な老桜を前に、ござも敷かず、魂魄妖忌はひとり黙々と酒を飲んでいる。
「なつかしいじゃあないか、西行妖」
幽々と枝を広げる老桜は冥界に在ってなお死に等しく、悲しみとも嘆きともつかぬ気配が語りかけるように妖忌を撫でる。寂しさと諦念を幾年も積み重ねたその根は二度とこの地を離れることなく、咲くことを許されぬ芽は無化有の永劫にその居場所を定め、かつて妖忌が対峙した強大な死念は眠り続けて居るのだろう。
あの少女とともに。
西行寺優々子を胸に抱いて。
何度も夢想した。もういちどあの時に、今度こそは、もう一度、と、しかしそれは無意味だ。過ぎ去った永劫を再び求めることは出来ず、決定されてきた事柄が積み重なってそこに手を出す余地は無い。魂魄を燃やしても輪廻を断ち切っても無駄だ。硝子を隔てて決して届かない過去に狂おしく囚われて、妖忌は今まで過ごしてきた。
彼女の顔。
彼女の肌。
彼女の熱さ。
全てを投げ出してもかまわないと、そう少年を変えた少女はもういない。二度と居ない。過去を封じた少女は命を捨て、過去に囚われた少年は形を捨て、それでも交わることは二度とない。
解りきっていたことだ。
納得するのに、これだけの時間がかかった。
「思えば――」
濁酒の酒精は残り少ない。
「夢のような一時だった。お前が居なけりゃ、なんも始まらなかったし、その始まりは楽しかったよ。きっと、あの子もそうだったろう。どうだい、西行妖……おれの一番だった人が、お前のために眠っているんだ。きっと、いい気分だろうな……」
風は桜と少年をつなぐように、土は桜と少年を橋渡すように、空は桜と少年を響かせるように……いいや、それは違う、と妖忌は嫌う。
こんな気持ちに、老桜をつき合わせる必要も無い。
少年の脇には刀が在る。大小様々、六振りは忘れ去られることも良しとするかのように意味を隠し、それを有り難く思いながら少年は呑む。
最後の一滴が酒瓶から舌へ落ち、一泊おいて、妖忌は立ち上がった。
刀たちが主に従い収まる。
「……うん、これでいいんだ。じゃあな、西行妖。今度は、お前にもとびっきりのを――」
ふと。
老桜の枝に眼が止まる。
紫色の蝶が、じっと少年を見ている。
ひらりと翅をうって舞い上がった紫蝶は把握を拒む瞬時に消え、
――おーん……
老桜が震えた。
魂魄妖忌はその一部始終に眼を奪われ、そして無意識のうちに楼観剣の柄に手を置いた。
それに気がつくと、少年は一瞬泣き笑いのような表情を浮かべ、
「……は」
ぐっと力強い笑みに変えた。
刀が妖忌に語りかける。
桜が妖忌を望んでいる。
「なんだ……おいおい、たかが妄想ごときのつまらん念に応えるなんて、いらんことを……」
笑みは崩れない。仮面のような獰猛さが刹那の動きを繰り返し、まるで生者の様に生々しい。
抜けと魔剣が囁く。
六刀が主の背を押している。
抜けと楼桜が誘う。
死念の残骸が妄想と対峙しようとしている。
「……いらねぇ気遣いを、よお!」
少年は、抜いた。
まるでかつての少年のように、しかし笑顔を浮かべて。
「魂魄六刀、妖忌! ――ちょいと馬鹿の恥さらしに、付き合ってくれよ刀に桜!」
老いた桜がその身を震わせ、雄大な弾幕が一面に広がる。
弾幕だ、と弟子に譲った二振りが妖忌をけしかけ、それに乗って、四刀を放つ。
どこか計り知れない彼方に在る鮮やかな光景が、静止した冥界の片隅に広がっている。
たまらんね、と少年は刀を操る。
楽しいだろう、と老桜が胸をうつ弾幕を撒く。
こうでなくては、と刀たちが風を切って唄う。
かつてどこかの誰かが唄っていた、幻にしか顕れない精霊の舞踏は愉しみだけをそれぞれに齎し、震える胸の熱さが生死すらも霞ませて、風と土と空と白玉楼はそれに混ざって歓声を上げた。
誰も、何であろうと、愉悦を拒むものはない。
誰か、何かが、踊りだすならそれに思わず続いてしまう。
かつて誰かが足を踏み出し、それに続いて世界が進むように、誰もが誰も止めようとしない。
永劫の愉悦は、たとえ妄想で在っても終わらない。
少女たちが騒ぐ宴とともに、少年と刀と桜の愉悦も続いていた。
* * * *
「 あんただっかどっこさ ひごさ
ひごどこさ くまもとさ くまもとってどこさ …… あっ」
てんつく、てんつく……掌と地面からこぼれた鞠がころころと明後日の方向に転がっていって、一心に唄っていた猫又は少し猫眼を見開き、
「お、っと、っとおー」
てんつく、てんつく……転がっていく紅い鞠を小走りで追った。ころころとマヨイガの庭を転がる鞠は行くあてでも在るかのように跳ねながら転がり、それをむうと睨み付けて、
「こいつっ」
思わず猫又は飛びかかった。
だが、
「――ほいっと」
「にゃ」
吸い込まれるように鞠が見知らぬ足の甲で跳ね、その足の持ち主の意思に従って、赤い鞠は一際たかく飛び上がる。
飛びかかっている猫又は頭を思い切り上にそらし、視線が伸び上がるようにそれを追った。
だが体は地面に引き寄せられ、
「あいたっ」
転んだ。
ふわふわと浮き上がった鞠はやがて同じように地面に引かれ、それを少年の掌が受け止める。
魂魄妖忌は愉快そうに方眼を閉じ、右手で鞠をもてあそびながら、
「元気なこって」
からからと笑う。
「珍しいな、橙すけ、鞠とは。女の子みたいだぞ」
「もう! いいじゃない、そんなの、今日はマヨイガにいろって紫様が――あ、よーきだ」
「妖忌でござい。隙間様は午睡中かね」
「ううん。藍さまと囲碁してる」
ぱっと猫又は鞠を奪い取って身を翻し、屋敷に駆け込んでいった。苦笑で口元を持ち上げてゆるゆると少年は後を追う。
「待った」
「通算30回目ですね、紫様。晩御飯のおかずありがとうございます」
「え? なにそのルールわたし聞いてない」
「紫様が言い出しました。録音もしていますが」
「そんなばかな」
八雲紫は縁側で愕然としていた。まるで覚えの無いことを平然と持ち出し、あまつにもその証拠だと言ってレコーダーの再生ボタンを押す自らの式にうそ寒さを覚え、
『今日の私はテンション高いわ! 負けたら庭掃除、待った使ったらおかず一品相手にあげる! これでいきましょう! 名づけてサド囲碁!』
まごうこと無き自分の声だった。半眼で盤面を圧倒している黒側の九尾はレコーダーを止めて裾にしまいこみ、
「どうぞ」
無慈悲に告げる。
サド囲碁に突っ込みすらない。
「……」
じっとりといやな汗が紫の背筋をつたう。
まいった……
わかんねぇ……
囲碁は、言ってしまえばパターンだ。無量大数に近い手を把握したものが勝者となる。藍と紫はお互いその域にやすやすと達しているものだから、あとはどちらかの読み合いになるのだが、冬眠妖怪よりも傾国妖怪のほうがそのあたりは強かった。
まずい……
このままでは……
庭掃除……
腰が……!
起死回生の一手……めまぐるしく展開する紫の無限深度を誇る頭脳がマクロに広がり、シルクロードを往く聖者のように厳しくそしてじっとりとした一瞬が流れ、
かっと眼を見開いた紫の指が動いた。
「……こ、これでどう!?」
「いや、隙間様、ここをこうでしょう。ほい」
「参りました」
「へ!?」
驚愕とともに振り向けば、魂魄妖忌と橙が申し訳なさそうな表情で居る。
「い、いつのまに」
「さっきからいましたよう。紫様、ずっと呼んでるのに、ぜんぜん気付かないんだもん」
「そ、そうだったの……あいや、うん、でもナイスよ妖忌。ナイスアシスト」
「いやっはっは、それほどでも」
「まったく、いらんことをしおって。絶対に紫様なら指さない手なのに」
「そういうタチ悪い指し方するんじゃねぇよ狐が。よっぽど性根がひん曲がってらぁ」
「なんだと小僧……」
「あんだよ狐が……」
「まぁそのぐらいに」
良い笑顔の隙間妖怪がぽんと手を叩いて場を収め、ガン飛ばしあっていた少年と式はしぶしぶと視線を外す。
へらへらと猫又が笑っているのが眼に入り、妖忌と式は、なんだかなぁ、とため息をついた。
「で? どうだったの」
「ヌ」
「白玉楼」
隙間の妖怪は傍らの湯飲みに手を伸ばし、
「気は済んだ?」
「ええ」
少年は身ひとつの体をおかしそうにゆすって、
「まったく……いらぬ気まで使わせてしまいましたよ。だが、まぁ、落着でしょう」
「それはよかった」
そして一口。まだ湯気を上げる湯飲みはわずかに紫の表情を隠し、ちょっとした静寂が流れた。
「それで」
切り出した調子は変わることなく、
「刀は?」
「おいてきました。あいつももう、子供じゃありません。魂魄流なんて戯言に付き合うこともありませんでしょう」
「どうかしらね。たぶん、ずっと言い続けるわよ、あの子。貴方が、居なくなってしまった彼女にそうしたように」
「そんなことはあいつの勝手でしょう。でも、そういう言い方をするなら、魂魄はあいつにそっくり引き渡してきた。
隙間様、俺はもう、良い頃合だと思います。そろそろ閻魔様の厄介になってもいい。六道を踏み越えてきただのなんだの、あんまり実感がわきませんや。駄目でも、閻魔様ならどうとでもしてくれましょう。どうにかなって、そのあとなんぞ、どうでもいい」
猫又は突然訪れた静かな話に眼を丸くし、九尾の式はその頭を撫でながら、庭のほうに眼を向けていた。
「そう」
隙間の妖怪は、深い笑みで少年から眼をそらさない。
「楽しかったわ、妖忌。――その姿、素敵よ」
「滅相も無い」
すっと紫の手が線を描き、庭先に境界が引かれた。人一人通る分だけの隙間から、彼岸花の道が見え、その向こうにうっすらと広大な三途が流れている。
無言で立って、少年が庭先に降りた。
「小僧」
「あんだ、狐」
「せいせいする」
「こっちもだ」
かつて老人であり、あるとき青年であり、いま少年の姿をした妄想は隙間の向こうに消え、境界は閉じる。感慨は深く、しかしそれを空白に流して、少年は行った。
九尾の式はかつての思い出をわずかに振り返り、瞑目して、
「……じゃあな」
もはや届かぬ別れを告げる。
* * * *
少年が彼岸花の道を歩いている。
あいた両手をぶらぶらと、足取り軽やか、すいすいと。
もはや唄は唄わずに。
少女が好いた唄は唄わずに。
やがてその姿は霞に薄れ、どこにでもある人魂がひとつ、死神の午睡する船着場へと向かっていった。
簡易評価
好い漢だな…、妖忌。
紫様・・・やはりお年k
読みやすい文章に軽妙な会話のやりとり、切なさを感じさせる終わり方など、
良いものを読ませてもらいました。
ただ、つられゲロとか宴会内容がひどすぎるw
そういった事を思い出させてくれる貴方の文章は、いつ見ても素敵、いつ読んでも顔がほころぶ。
哀愁漂う空気をよくもまあ文章でここまで表現できるとは……お見事!
切ないなぁ…
これはよいものだ……
そしてあれか、こーりんころs
静かに、それでも熱い、漢の最後だったと思います。
欲を言わせてもらえば、少年妖忌と妖夢の絡みをもっと見たかったです。
人生悔い無し、これが男の生きる道。
まあ、貴方と同じSS書きだ!と名乗るのが恥ずかしい程ってことです。
とこどころ入る唄というか詩も素晴らしかった。
こういう引き込まれる文章を書ける人はホントに尊敬します。
素晴らしい漢の最期をありがとうございました。
チョイ悪カッコイイ妖忌は新鮮ですねえ。こりゃいいわ。
そして周りを彩るいつもの面々、それ故の寂寥な読後感、
何より問答無用の筆力。いや本当に素晴らしいです。
お見事でした。文章が長いと思って尻込みしかけた自分が恥ずかしい・・・。
SSを書いたことも無い私が言うのは少々憚られるのですが、何だか惜しいなと。
会話の部分で誰がしゃべっているのかが分かりにくいところと
お話全体の雰囲気を考えれば宴会のところで
あそこまで汚い描写をする必要はあったのかな?……と思いました。
しかし、下に同じく誰が喋ってるか判らなく、引っかかる事が多々。
喋り方を統一する事は雰囲気が崩れるので無理でしょうけど
描写だけでなく、せめてその表現を書いて欲しかったなぁと。
文章を読むことが快感になる文体は、さすがでございます。
あと香霖がBKしてるところもww
刃のように鋭く、刃のように涼しげな文章でした。
天晴ですなあ。
個人的には江戸っ子小町と妖忌の旦那との掛け合いも見たかったとです
今まで見たこと無い情景が脳裏に浮かびました。
この妖忌のような花道歩いて死にたいもんです。
あれ、おかしいな目の前がぼやけて……
が、読んでいくと中身は面白い。会話、各キャラのさっぱりした話し方が良い。